大人は香鴛(シャンユァン)と海燕(ハイイェン)と龍夫妻の四人と荷物持ちの供二人の七人で辰の刻を待てずに新館を出た。
この嘉慶十年の正月二十八日は北京太陽暦千八百零五年二月二十七日になる。
瑠璃廠付近はすでに人で込み合って商店も賑やかな声が飛び交っている。
茶食胡同(チァシィフートン)にある楊閤(イァンフゥ)の前で香鴛は立ち止まって海燕とおっかさんに教えている。
大人は「三日の日はここで海燕と香鴛を漕幇(ツァォパァ)の人に紹介するのでそのつもりでいなさい」と知らせている。
「知っている人も来ているはずだから安心できるよ」
子供たちが知らない人ばかりだと気後れしないかと気を配ったようだ。
宣武門(シュァンウーメン)を潜ると左側に象の館がある、外へ象の声が聞こえてきた。
「ずいぶん大きな声で吠えるのね」
「だって体が大きい物。今の象は昔のより小さいそうよ」
「大きな象は観たことあるの」
「ないわ、今のだって夏でないと見れる人は限られてるわ」
「夏」
「そう、表の河で水浴びさせるそうよ。来てみたいな」
単牌楼の“ 瞻云 ”額の下を潜り先へ進むと人がたくさん集まる四牌楼がある。
“ 大市街 ”と額がかかっている。
「東と西は違う額だよ」
東へ回ると“ 行儀 ”、西へ回ると“ 履仁 ”だ。
北側は南と同じ“ 大市街 ”だった。
「昨日の額は観たかい」
「大市街しか気が付かなかったわ。同じなの」
「そうなんだよ。知らずに来たら道に迷うぞ。東側と西側ではまるっきり違うからね」
西四牌楼北側、宜綿の生まれた邸の有る驢肉胡同(ルゥロゥフートン)に一家は住んでいる。
「天上龍肉地上驢肉(ティェンシァンロォンロウ・ディーシァンルゥロウ・天上には龍の肉あり、地上には驢馬の肉あり)」
大人は歌うように口ずさんでいる。
此処は大水で通りは溢れたが邸の中にはそれほど水が入ってこなかった場所だ。
訪れの声を大人がかけると門がすぐに開いた。
痩せた老人に「やぁ、元気そうでよかった」と大人が声をかけた。
「どうぞ」
言葉少なに邸の中へ手を指した。
「いらっしゃい」
雲嵐(ユンラァン)の姉は裴雲玲(ペイユンリィン)とよく似ている。
おっかさんは「二十七歳になるのよ」と言っていたが若く見える。
そういうおっかさんはまだ四十八歳だ。
伊綿(イーミェン)の継妻蘭玲(ラァンリィン)の子は福祥(フゥシァン)という嘉慶六年生れの五歳の男の子。
長男の福恩(フゥエン)は十一歳の利発そうな男の子だ。
香蘭(シァンラァン)は八歳だと自分から名前と年を告げた、おしゃまな様子とさぞかし美人に成りそうな顔立ちだ。
全員がまじまじと海燕(ハイイェン)に見とれている。
大人が「自分で」というので香鴛(シャンユァン)と海燕(ハイイェン)も自分の年齢と名前を名乗った。
おっかさんが「お土産がたくさんあるから」と告げて香蘭の手を取って家の中へ入って行った。
龍の小父さんは大男なので窮屈そうに家に大人(ダァレェン)と入っていった。
家は二百年以上は経っているようで大分古びている。
おっかさんが沢山のお土産を広げている。
天津(ティェンジン)のお菓子は幾種類もあって子供たちも目を丸くしてみている。
香鴛(シャンユァン)が「止めても聞かないのよ。次々手に取って全部っていうのですもの」と笑っている。
これだけあるという事は天津(ティェンジン)で海燕(ハイイェン)が見たのはほんの一部の様だ、後から届けられたのかもしれない。
二人の供の持ってきたのもおっかさんの荷だったようだ。
「雲嵐(ユンラァン)の事聞いたかい」
「本当なのね。しばらく行かないのでもしかしてとしか聞いていないよ」
「春鈴(ロンチュンリィン)はもう直に三人目が生まれるよ。今度は女の子が欲しいものさ」
「産婆さんはどういってるの」
「男じゃないかって」
上二人が男の子で女の子が生れるのを期待しているようで、産婆のいう事など信じたくはない様だ。
嘉慶六年、嘉慶八年そして嘉慶十年と子だくさんはいいが、娘からは男ばかりだと嘆いている。
「莞絃(ウァンシィェン)哥哥に莞幡(ウァンファン)弟弟のところは女ばかりじゃないの」
「ちっとも私やあんたたちにも似てやしない。つまんないよう」
「贅沢言っちゃだめよ。兄貴は美人に成ると親ばか言っていたわよ」
「ふん、本当に親ばかさ、わたしゃ産めるなら香蘭(シァンラァン)のような娘が欲しい」
龍のおとっさんは「いい加減にしろ」と怒鳴っている。
大人と宜綿(イーミェン)はワインの瓶を持ち出して二人で庭で飲んでいる、つまみはお土産の麻花(マーファ)をしっかりとくすねている。
おとっさんはいけない口なので誘われていない。
「龍莞鵬(ロンウァンパァン)のとっつあんこっちで伊太利菓子でもつまみなよ。茶は香蘭が入れてくれるさ」
おとっさんは誘われてのそのそと表に出て行った。
「アラ、この香り娘娘が飲ませてくださったのに似てるわ。少し香りが重いけど」
香鴛(シャンユァン)が言うと蘭玲はうなづいた。
「嘉慶五年十一番老延寿を用意すると聞いたわ。でもうちで分けてもらえたのは嘉慶八年の分からの小分けなの、でもこれが一番茶なのよ。二番と三番は飲み切ってしまったの。伊太利菓子の蜜糖(ミィタァン)の香りと似てるのでまたおねだりしなくちゃ」
宜綿(イーミェン)が庭からもう酔いが来ているような声で答えた。
「去年のはまだ手つかずであるから手控えで気に入った茶を強請(ねだ)ってこよう」
「あら、十一番老延寿はこの機会に年代順に飲ませるとおっしゃってましたよ。ね、おっかさん」
「海燕(ハイイェン)のいう通りさ。私たちが帰るころには十一番は底が見えるんじゃないかい」
宜綿(イーミェン)は泗水の亜米利加人がよくやる様にもろ手を挙げて「しまった手遅れになるのか」と騒いでいる。
おっかさんは「此処は次の子に女の子がいいねぇ」と宜綿(イーミェン)に声をかけた。
宜綿(イーミェン)は聞こえないふりだ。
蘭玲は知らん顔して茶を継ぎ足している。
香蘭(シァンラァン)が笑いながらおっかさんに答えている。
「大丈夫、爸爸(バァバ・パパ)の占いだと次は娘で長寿で出世間違いなしなんですって。でもねウーニャンにはしばらく子供が出来なくて三十五歳には妊娠出来るんですって」
「おや、娘で出世と言えば貴妃に皇貴妃かしら」
「家からですか、ちょっと難しい」
自分で占いをして信じていないのはどうしてだと大人に言われている。
「三十五歳といやぁあと八年ある。自分が占ってもどういうことだと気になると余計わからなくなりますよ」
昼は菓子で腹が膨れたからいらないと大人が言って午の鐘の後しばらくして帰ることにした。
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