十八日朝に與仁(イーレン)一行が約束の春蓬楼(チュンパァンロォウ)に顔を見せた。
康演は「広州行きの船団が上海で合流して俺が乗ってゆくが。蘇州(スーヂョウ)上海(シャンハイ)は時間がかかるのか」と聞いた。
「いやどっちも連絡の確認だ。荷は無いから顔合わせだけだ」
「なら福州(フーヂョウ)まで一緒に行くか」
哥哥と宜綿に相談すると「間に合うのか」とそれでもよさそうだ。
江淹(ジァンイェン)の親子を引き合わせて明日の朝の卯の刻、朝陽が出たら出ようとなった。
遼寧の半島の先っぽ青泥窪口(チンニィワァコウ)へ向かいそこから南下する普段取らない航路だ。
「こんな海流初めて見た」
哥哥も驚いている、普段は烟台(イェンタァイ)へ海岸沿いに東へ進み、威海衛から半島を回って青島(チンダオ)へ。
それを青泥窪口から威海衛の東方へ出た、四日後日暮れ前に青島(チンダオ)の入り江に錨を降ろした。
「巧い操船だ」
宜綿も感心している。
江淹(ジァンイェン)も老大(ラァォダァ)が褒められて得意になって「これで女たらしじゃなきゃすぐにでも継がせるんだが」と言っている。
まるで女たらしも自慢の内みたいだ。
二十七日。
黄河(ファンフゥ)河口の南、盐城(塩城)の沖に停泊した。
「海賊が来たら終いだ」
「ここいらまで来る勇気はないさ。昔の倭寇じゃあるまいし」
黄河の砂で遠浅の海岸線に造られた塩田地帯を皆で眺めた。
「此処の四半分が結の塩田です。塩税はここらで二百万両を越しました」
「そいつはすごいな」
江淹は感心している。
「昔、高貴妃の哥哥は両淮の塩税の上り(あがり)を掠めたそうです」
四百万両にも上る賄賂を分け合ったという、それがもとで一族分裂がおきた。
両淮-淮水(淮河)をはさみ、北は黄河(旧流域)から南は長江(揚子江)まで。
両淮鹽运使(両淮巡監御史とも)高恆は三年で三万両を受けとり戸部侍郎へ転任。
後釜(後任)に従兄弟の高晋が赴任したが、乾隆帝の信任のある高恆へ賄賂が流れ、高晋は怒って上奏した。
調べたのは富察傅恆、高恆には四百六十七万両の不正が発覚、最初傅恒は左遷を言上したというが、乾隆三十三年(1768年)処刑された。
之には後日譚があり高恆長子高朴(高樸)は玉の不正流通疑惑で、乾隆四十三年(1778年)処刑。
家系は高恆第四子高杞が継承し陜甘総督署理を受任している。
この物語に出る高信(ガオシィン)は高晋の孫になる。
この時代不正を見逃せば同罪とされる時代、生き残るのは生半可な事ではない。
昨年嘉慶九年の「結」の塩業は黄河(ファンフゥ)以南で塩税四百万両を優に超えたという。
この当時の黄河河口は七百年近く盐城(塩城)の北で黄海に開いていた。
開封から北上したのは咸豊五年六月二十一日(千八百五十五年八月一日)咸豊黄河大改道により済水(大清河)の流域を飲み込み黄河本流となって渤海へ注いでいる。
その後も洪水はやむことなく続いた。
光緒十三年八月(千八百八十七年九月)の大洪水の時は九十万人が死亡したと伝わる。
「なぁ、今年も漕幇(ツァォパァ)で話題に出たが、結は万両の銀(イン)をくれるというのは本当かよ
「まさか、くれたりしないぜ。預かるんだ」
康演(クアンイェン)は両方へ加入しているものも居るのに、そいつに聞けと突っぱねた。
「三十年来の仲じゃねえか。こうして同じ船に乗ったんだ教えてくれ」
康演(クアンイェン)とは子供の時代からの付き合いだという。
「そこの背の高いお人が長だ」
「ずいぶんと若いじゃねえか」
康演(クアンイェン)まだ四十四歳、インドゥこと豊紳殷徳(フェンシェンインデ)は三十一歳になった。
長と言っても康演(クアンイェン)が代行しているも同じだ。
「預かった銀(イン)で何の商売に使おうと勝手だ」
「なら、むらうも同じだ」
「貰いっぱなしと思うやつ等(やつら)、入れる(はいれる)もんか。条件は有るのだ」
「やっぱりなぁ」
「余裕が出来ればな、十人に千両の提供が義務だが、余裕が無ければ待ってくれる仕組みだ」
「返すのじゃなく次の奴へ出すというのか」
「そういう事だ、利は不要だ。だがこの長になられた方はもう二十五人を超す推薦をした」
「大分ともうかるようだ」
「黙っていて年万両」
「おい康演、言い過ぎだ。手元になくていつの時も借りてばかりだ」
船端では皆で大笑いだ。
「俺の息子は入れるのか。京城(みやこ)で聞いたら遠戚でも無いのじゃ無理だろうと言われた」
「あの男なら紀経莞(ヂジングァン)の野郎が請け人なら簡単だ。船の操作は一人前だ。今幾つだ」
「今年で二十三だが。栄興(ロォンシィン)の紀経莞(ヂジングァン)となんの親戚関係はないぜ」
「藩羊肉菜館の紀経芯(ヂジンシィン)を知ってるだろ」
「江洪(ジァンフォン)の新しい女だ」
「紀の妹妹だ」
「そんなこと聞いたような気が」
「五十前でもう呆けたか」
二人のやり取りを回りは楽しんでいる。
「二人とも結の古株だ」
「馬鹿ぁ言うな。あの女どう見ても二十そこそだ」
聞いたら喜ぶだろうとインドゥは笑い出した。
「嘉慶六年の水害で丈夫(ヂァンフゥー・夫)が死んだ、寡婦で確か二十七か八だ」
インドゥもたまらず口をきいた。
「其れにしたって古株たぁ、なんですい」
紀の本家は天津でも有名な名家だが、此方は先代が放蕩者の一族だ。
紀経芯(ヂジンシィン)は二十八になる。
「そうだ俺が七歳の時に経莞哥哥と初めて出会ったんだ。ありゃ青島(チンダオ)の帰りだ。そのあと二、三年で経莞哥哥が結へ入ったと、後で聞いたぞ。妹妹は十六位で加入しはずだ」
「藩羊肉菜館は癸丑の年ですぜ。あっしの最初にお供で出た年でさぁ」
與仁(イーレン)が指折って「十三年まえでさぁ」と言った。
宜綿が大笑いで「今年は何だ」と言っている。
「乙丑ですぜ」
「指折るほどのもんかよ。一回り十二年過ぎたばかりだ」
「そうすと、十六歳でも結に入れるんで」
江淹(ジァンイェン)はお国言葉で語尾がはしょられる。
「十四位はざらにいるぜ。女の方が多いくらいだ」
「そいつはいいこと聞いた。いい女捕まえたもんだ」
「咥えこまれた方じゃないのか」
宜綿の言葉に一同で手をたたいて騒いでいる。
二十八日夜明けとともに錨を上げ長江河口を目指した。
風が幸いして一気に五百里南下して冲がかりした、二十九日岬を回って長江(チァンジァン)へ入った。
「陽が落ちるのが遅くなって幸いだ」
崇明(チョンミン)の砂州に近づきすぎないように錨を降ろした。
二月二十九日(陽暦千八百零五年三月二十九日)予定より二日は早い。
手旗で合図すると結の船がやってきた。
「大分早いですね。連絡は今朝付いたばかりですぜ」
「天津(ティェンジン)を二日早く出られたんだ。俺のほかに九人降りて蘇州で仕事を片付けて来る」
小舟を呼んで島へ降りた。
上海(シャンハイ)の陸環芯(ルーファンシィン)にはその晩のうちに連絡を付けて蘇州で会う事にさせた。
夜はそこで泊まって朝に蘇州へ出た。
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