第伍部-和信伝-陸拾弐

第九十三回-和信伝-拾弐

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

女街道

文化十二年四月十四日(1815522日)小満

宋太医の一行はこの日明け六つに例幣使街道栃木宿長谷川本陣を後にした。

十二日に今市宿高橋本陣から九里十八町の金崎宿の古澤本陣。

十三日に金崎からわずか二里十八町の栃木宿長谷川本陣、これは例幣使の天明(てんみょう)宿松村本陣とかち合わぬ用心だ。

十四日は犬伏(いぬぶし)と富田(とんだ)の間で行き会うであろう、護衛の山本仁之助が伝令を送り「異国の使者ゆえ、こちらで大庵寺へ道違えを致すので行き会わぬ用心を致されましょう」と伝えていた。

例幣使は犬伏の本陣で小休みし、清国の一行が脇道へ逸れてから出立と返事が来た。

此の年の例幣使は正三位修理大夫錦小路頼理卿四十九歳で、宋太医の手で京滞在中に袖の下が贈られている。

ひそかに清国からの医薬書も送られ、和国の生薬についても教えを乞うている。

本川次郎太夫が京滞在中、島原を訪ねる手はずもして呉れたほど市中に顔の広い公家である。

御蔵米三十石ながら身分は高く、大名でも中々なれるものではない、結とは百年来の友好関係にある。

典薬頭(てんやくとう)を代々世襲の名門でもある。

宋太医たちは明け六つ(三時五十五分)に長谷川本陣から出立した。

十里二十九町とこの日は普段より長丁場だ。

陽も伸びて暮れ六つは十九時二十分頃だと護衛の武士が手控えを披露した。

栃木宿から十里二十九町で太田宿橋本本陣。

遠回りしたが十七時に太田宿へ入れた、例幣使も九里七町を歩み十八時には金崎宿古澤本陣へ到着していた。

視察派遣隊は日光道中徳次郎から八里三町で小山宿。

四月十五日の卯の刻(四時頃)、視察派遣隊を見送った本川次郎太夫と矢澤千十郎監物は千住宿から来てくれた会津屋要蔵に新吉と合流した。

伊香保の弥二郎は藤岡で合流して五人で一回りすると要蔵が本川次郎太夫へ告げた。

「信州を抜けるのにあの夫婦者は」

「借宿から古宿の六里ヶ原通、沓掛の予定時刻は知らせました。沓掛の“ つるや甚右衛門 ”へ予約もさせてあります」

亀吉と曄(はな)と云って、小諸で両親と薪炭卸の“ つるや茂兵衛 ”を営んでいるという。

四人は小山から天明(てんみょう)宿へ向かった、此の日のうちに小山から八里二十町先の梁田(やなだ)宿へ入り、翌十六日八里二十八町先の柴宿、十七日に柴宿から利根川を渡り二里三十四町先の中山道本庄宿へ向かう予定だ。

中山道を一行は牛歩に近い速度で江戸へ向かっている。

「牛のほうがもっと進みます」

護衛の武士も呆れる里程だが、土地の医者との交流時間が朝一刻(百二十分)ほど取ってあるせいでもあるのだ。

四十七日目四月十五日宋太医一行は九里六町先の中山道倉賀野宿勅使河原本陣へ入っている。

四十八日目四月十六日三里三十町で本庄宿。

四十九日目四月十七日五里二十三町で熊谷宿。

五十日目四月十八日六里二十三町で上尾宿。

五十一日目四月十九日七里十五町で板橋宿。

五十二日目四月二十日は二里で日本橋へ四つに到着、此処で月番北町奉行の挨拶を受け、与力の案内で、今宵宿泊の阿蘭陀カピタンも泊まる本石町三丁目長崎屋源右衛門へ泊まる手はずだ。

里程 - 岐蘓路安見絵図 宝暦六年(1756年)採用

天保中山道宿村大概帳・中山道分間延絵図・岐蘓路安見絵図対比表は

第八十五回-和信伝-伍拾肆に有ります。説明: http://www5f.biglobe.ne.jp/~kazuya22ai/kanon/v3_lif007%5b1%5d.gif

 

文化十二年四月十七日(1815525日)本庄宿

本川次郎太夫と矢澤千十郎監物は会津屋要蔵、角屋新吉の四人で夕七つ半(十八時二十九分頃)本庄宿へ入った。

上町左手に“ 諸井五左衛門脇本陣 ”。

宿札に“ 奥州白川藩本川次郎太夫様御一行様御宿 ”とある。

前日十六日は田村本陣に宋太医の一行が泊まって、今朝巳の刻(九時三分頃)に熊谷宿へ向かっている。

此の女街道廻りは半年前に泊まった宿が多く、今更身元が割れても支障がないと織田と打ち合わせで決めてきている。

暮れ六つ(十九時二十分)に一汁三菜の飯となった。

-つみっこ

-鮎焼き物

-里芋と鶏肉の煮物

-湯豆腐

小皿-小茄子のぬか漬け

戸谷半兵衛が来て「五人ほどお目通りを願っております」と言う。

「遠慮せずに通ってもらいなさい」

俳句仲間で商売仲間、結にも加入しているという。

「今回未雨(みゆう)さんは御供ではないので」

「実はな、日光へ出た後なのだ。織田様のお供で御成り道の現状視察、いつもの道連れがいない旅だったのだ。付き合ってくれたのは此の千十郎位なのだ」

「会津屋様とは毎年お会いさせて頂きますがもう御一方とは初でしょうかな」

「角屋新吉と申し普段は宇都宮なのだ」

五人がそれぞれの名と商売を話した。

文化十二年四月十八日(1815526日)妙義一ノ宮貫前神社

諸井五左衛門脇本陣 ”を明け六つ(四時頃)に旅立った。

本庄の宿はずれ、中山道は鉤手(曲尺手・かねんて)で右へ、下仁田街道は左へ。

七本木と言う集落に八幡が有る。

長濱町、安保町、横町と集落が続いた。

左手に小さな社、諏訪神社だ。

長濱村が街道の左手に大きな集落を見せ、休み茶見世もある。

神流川の渡しは渡船、川の両側に綱を張ってある。

綱繰り船で歩行渡船と馬渡船があり、一人五文、馬一頭十文と張り出してある。

川向こうは小林村、藤岡宿に入ると十石街道の追分に弥二郎が立っている。

「お待ちしておりました」

「ご苦労だな」

要蔵が大きな声でねぎらった。

本庄から二里十八町の藤岡宿は新町からの十石街道が交差、北には利根川水運の倉賀野河岸が近接している。

藤岡の市場は月十二回、動堂町通りの一と六、笛木町通りが四と九の六斎市。

幸太郎の兒玉屋は笛木町一丁目にある。

宿はずれの追分に道しるべ。

文化元年

右 一ノ宮五里半 妙義八里 吉井二里半 富岡五里 下仁田八里

左 平井 金井 日野道

大塚村の休み茶見世で咽喉を潤した。

鮎川には十間ほどの木橋が掛かっていた。

しばらく行くと小串村の集落、藤岡宿から二里十八町で吉井宿。

吉井藩陣屋前を通り抜けた。

弥二郎が吉井藩一万石と、街道先に有る小幡藩二万石の現状を教えてくれた。

松平信敬(まつだいらのぶよし)十八歳は、上野吉井藩の第七代藩主で鷹司松平家九代目。

江戸定府で藩財政の立て直しも巧く行って居ないという。

小幡藩主松平忠恵(まつだいらただしげ)三十二歳は文化五年から奏者番を務めている。

見栄が多く藩の借金は増え続けている。

川には土橋が掛かり先は小幡藩の長根村、吉井宿から一里十八町で福島宿。

福嶋村追分の左手二十四町に小幡村。

鏑川を五文の舟渡しで越せば福島宿から二十二町の富岡宿。

地続きで鉤手(曲尺手・かねんて)先が七日市藩の木戸の有る七日市村。

富岡宿から三十町の一ノ宮宿には妙義一ノ宮貫前神社(ぬきさき)。

参拝客を見込んだ茶屋や飯盛り宿などが軒を連ねている。

古書には、「抜鉾(ぬきほこ)」と「貫前(ぬきさき)」と出ている。

抜鉾大明神には俗体(本地仏:弥勒菩薩)と女体(本地仏:観音菩薩)があり、俗体が経津主命、女体が姫大神(貫前神)としていた。

又、抜鉾大明神は物部氏の氏神である経津主命で、姫大神(貫前神)は渡来人が国から奉斎した織物の女神だとも云う。

妙義一ノ宮貫前神社へ参詣し、飯盛りを置かない一ノ宮の宿“ 澤屋治助 ”へ弥二郎は案内した。

七里三十四町は参詣を入れても十二時間半、申の鐘の響く十六時三十分に宿へ入った。

澤屋治助の夕飯は十八時にでた。

吸い物-昆布出汁の椎茸、茗荷

高坏-蓮根の煮物

-氷豆腐

-信濃芋の芋膾

-巻き麩、揚げ出し豆腐

茶碗蒸し-長芋とじ

文化十二年四月十九日(1815527日)下仁田宿

五人は“ 澤屋治助 ”を明け六つ(四時頃)に出た。

要蔵が今日は下仁田で用事が有り、一ノ宮から五里十八町先の本宿で泊まりになるという。

下仁田は九斎市、宿も混むはずだと言っている。

「麻に砥石を求めて遠くは仙台、西は近江辺りからも買い付けに来ています」

南蛇井(なんじゃい)村を越して盆地へ入った。

下仁田宿は十石峠を越えて信州佐久米が集まってくる。

九斎市は仲町を中心に米市、薪炭市、砥石市、麻市、絹市、太物市など多彩にわたっている。

要蔵は与一と言う若者を見つけると買い付けの相談と元金を渡した。

二人で市を半刻(六十分)程廻って「後は例の手筈で頼む」と追加の金を渡している。

下仁田宿から三里で鏑川(かぶらがわ・西牧川)左岸に本宿宿(もとじゅくしゅく)、間には西牧(さいもく)関所が有る。

番役人は近在の村役から交代で選ばれ、女改めも形式だけに為っている。

「女街道、姫街道と言うだけのことはあるな。出入りも緩やかで脇街道ながら人の通行も物資も多い」

「次郎太夫様は強く(きつく)せよと」

「いやいや。信長公、秀吉公のように楽市楽座が本来の有り方だよ。ひとが動けば金が動く。貧乏人に金が回ればその金は活きた金になる。金持ちの金銀が増えれば世の中に回らずに蔵に積まれるだけの死に金だ」

要蔵は本来対等の新之丞様が、この人を立てる気持ちが理解できた。

弥二郎が案内したのは本宿村の“ 神戸双渓堂 ”と言う庄屋の蔵座敷だ。

主は「ようこそ御出で下されました」と丁寧に案内した。

暮れ六つ前(十九時頃)に食事となった。

一汁三菜

-根深汁

-鮎焼き物

-氷豆腐煮物

-田楽芋(甘藷)

小皿-大根のはりはり漬け

時期としては遅いと思う根深だがあんに相違して甘みがある旨い葱であった。

甘藷は二期作に成功したのだという。

時期が早くまだ芋が成長過程だという、甘みが少ないのを味醂で補うのだという。

 

 

・上州十四関所

大笹関所(大笹・信州街道)

狩宿関所(沓掛道・信州街道)

大戸関所(草津・信州街道)

白井関所(十石街道)

福島関所(沼田街道)

戸倉関所(会津街道)

大渡関所(おおわたり・前橋岩神町)

真政関所(さねまさ・前橋南町)

碓氷関所(中山道)

五料関所(例幣使街道)

杢ヶ橋関所(三国街道)

猿ヶ京関所(三国街道)

西牧関所(藤井関所・下仁田街道)

南牧関所(砥沢・南牧村)

 

文化十二年四月二十日(1815528日)沓掛

神戸双渓堂 ”を明け六つ(四時頃)に出た。

初鳥谷(はつとや)からの発地越を選んだ。

二里で峠下の矢川村初鳥谷(はつとや)、そこから鰐坂峠を越えると馬越の地蔵が原、二里十町で発地(ほっち)村。

本宿村から中山道借宿まで六里と弥二郎が千十郎に話している。

昨年五月の伊能測量隊は追分から鰐坂峠国界(こっかい)を越へ、矢川村初鳥屋本陣問屋文蔵方、年寄忠右衛門方へ分宿し、下仁田街道沿いを本庄へ向かったと云う。

追分では本陣土屋市左衛門へ泊まったが、測量は実施していない。

亀吉と曄(はな)が休み茶見世に“ 黄檗ぬのや ”土屋作右衛門旦那と話し込んでいた。

「おしんが又狩宿の茶屋本陣“ 黒源 ”に借り出されている」と作右衛門旦那が千十郎に話している。

話しは日光から親善使の太医にも及んだ。

「清国から来ている医者の宋太医一行が今頃江戸入りしているころだ」

「噂じゃ医者の内でも身分が高いとか」

「皇帝の脈をとるそうだ。こちらの奥医師法眼と同じだそうだ」

作右衛門旦那は用事が立て込んでいると言いながらもしばらく話し込んでから家に戻った。

七人は古宿でおしんの両親の見世“ こもろ ”で蕎麦を手繰った。

借宿から六里ヶ原通の入口、古宿を通り越して沓掛宿まで二十町。

つるや甚右衛門 ”へは未の刻(十四時十一分頃)に到着した。

三菜

-山菜と鶏肉つみれ

-鮎の焼き物

-山芋の油通し

-信濃芋の芋膾

-蒟蒻と焼き豆腐味噌田楽

文化十二年四月二十一日(1815529日)狩宿関所

つるや甚右衛門 ”を明け六つ(四時頃)に出た。

亀吉と曄(はな)は古宿で五人を見送り小諸へ戻った。

女街道六里ヶ原通へ入った。

鼻田峠の分去り茶屋で一休みして狩宿宿へ峠を下った。

沓掛宿から五里で狩宿宿入口の関所。

番人は物憂そうに街道を見ている。

茶屋本陣“ 黒源 ”では沓掛からの連絡で一行を待っていた。

四つ半すぎ(十一時頃)四人を追いかけているように雲が湧きたち雨となった。

「田植え真近で雨は良い天気です」

おしんが大人びた口調で次郎丸と話した。

芒種まで九日(ここのか)、この地でもこの日に田植えを行うという。

芝居の台詞で「六歳の六月六日」と習いごと初めが有名だが、この年の芒種は四月三十日、グレゴリオ暦で六月七日。

芒種と習いごと初めに関連性は薄そうだ。

昼におしんの饂飩と蕎麦のあい盛りに山菜の天麩羅が用意された。

夕飯は日暮れ前(十八時十五分頃)に用意された。

-豆腐

-氷豆腐

-信濃芋の芋膾

-巻き麩・揚げ出し豆腐

茶碗蒸し-湯葉、長芋とじ

文化十二年四月二十二日(1815530日)大戸関所

茶屋本陣“ 黒源 ”を明け六つ(四時頃)に出た。

街道はまだ小雨が降っているが、空は明るくなってきた。

万騎峠ではぬかるんで歩きにくいのを我慢し、狩宿宿から二里十八町で須賀尾宿、五つの鐘が響いてきて雨も止んだ。

温(ぬる)川を越して川沿いを下った。

一里十八町で本宿に入り二十二町先の追分右手が大戸関所に為る。

大戸関所は岩鼻代官所の支配に有る。

信州街道の重要な地で、善光寺詣、草津の湯治の旅人に、信州から高崎などへの物資の通過で毎日多くの通行が有る。

寛永八年、正式な関所とされ、岩鼻代官の管理下に置かれた。

関所役人は当初大戸村四代加部安右衛門、大戸村一場五郎左衛門、本宿村堀口利右衛門、荻生村田中四郎左衛門を任命。

関所付村大戸、荻生、本宿三ヶ村は関所番人を出しあい、警備にあたらせた。

関所破りの監視などの負担を義務づけ、近隣十一ヶ村は関所普請村に充てられた。

大戸の長者で篤志家八代加部安左衛門光重は昨年亡くなり、九代目は養子で加部安を名乗ってはいない。

光重の子の兼重がこの年五十一歳で実務もこなしているので実際の九代当主と結は見ている。

温川と見城川が合流する断崖上の関所を抜けると大戸(おおど)宿、加部安の屋敷が右手に有る。

烏川沿いの権田村を抜け、大戸宿から三里で三ノ倉宿。

此の日は六斎市で賑わっていた。

まだ八つ(未の刻・十四時十分頃)の鐘は聞こえない、次郎丸の時計は午後の二時を指している。

「九つの鐘も聞いていないな」

「大戸関所ではまだ四つ半くらいでしたから、人家の少ない小川を何度か横切った辺りでしょう」

弥二郎は“ ふくや ”と云うひなびた宿へ導いた。

本陣、脇本陣は無いのだという。

久しぶりに宴会となった。

酒のあてはするめいかに大根、人参のぬか漬け。

早めの飯にしてもらった。

-豆腐に巻き湯葉。

-鶏串焼き、焼き葱添え

-三度芋と干瓢の煮物

五人の話は女街道の実際が、話しとはかけ離れ、商人の往来が盛んであることだ。

「下仁田の九斎市が盛んなのは分かるが、此処の六斎市も人が多い。高崎の市と同じくらい人が多い」

「大袈裟ですぜ」

要蔵が千十郎に割り込んだ。

要蔵、弥二郎、新吉は江戸まで同行と決まった。

文化十二年四月二十三日(1815531日)高崎

ふくや ”を六つ半(五時二十分頃)に旅立った。

烏川を渡り上里見村に入った、此処は元城下町、今は神山宿。

松平忠恒(若年寄)が、明和四年小幡へ移る二十年ほど治めていた。

下豊岡で中山道と合流し、また烏川を渡った。

京口木戸から高崎城下へ入った。

三国街道が左手から来て、その先八軒目、本町“ 金升屋庄三郎 ”で“ 金齢丹 ”を扱う宿へ未の刻(二時十分頃)に入った。

会津屋要蔵は二部屋抑えてあった。

荷を弥二郎、新吉に預けると要蔵の案内で次郎丸と千十郎は本町から九藏町へ出かけた。

その後田町へ回り湯浅屋で五人ほどに紹介された。

日暮れ前に戻るとすぐに食事となった。

-巻き湯葉吸い物

-鮎の焼き物

-大根と鶏の煮物

小鉢-飛龍頭(ひりょうず)と蕗の旨煮

小鉢-女郎花(おみなえし)田楽に胡椒醤油

小皿-大根のはりはり漬け

文化十二年四月二十四日(181561日)本庄

本町“ 金升屋庄三郎 を六つ半(五時二十分頃)に旅立った。

新田町の先左に高札場が有り江戸口木戸門がある。

南町先にもう一つの木戸が有る。

倉賀野へ一里十九町。

倉賀野一里塚を過ぎれば倉賀野京口木戸。

倉賀野から新町へ一里三十町。

温井川土橋は新町宿西口(京口)に成る、新町宿の御料傍示杭を越えた。

高崎藩領を過ぎて落合新町、笛木新町は岩鼻代官の支配地に為る。

新町から本庄へ二里、高崎から五里十三町で本庄となる。

神流川渡は三筋真ん中が十五間ほどの船渡し、次の中州へ渡り、本庄側は三十間の橋渡し。

川の両岸に昨年無かった石造りの常夜燈(見通し灯籠)が出来ている。

神流川渡から本庄宿高札場まで一里三町程。

上町右手に“ 諸井五左衛門脇本陣 ”。

宿札に“ 奥州白川藩本川次郎太夫様御一行様御宿 ”とあるのはこの前と同じだ。

「未の刻(二時十分頃)に為った。昨日と変わらぬな」と次郎丸が要蔵に告げた。

戸谷半兵衛が来て一刻(百二十分程・この時期だと百五十分程度)話していった。

夕飯は手が込んでいる。

汁椀-豆腐の吸い物

-塩鮭の焼き物

-蒟蒻と焼き豆腐味噌田楽

長皿-かしわ幽庵焼

小皿-菜の漬物

-鶉の叩き団子入り茶碗蒸し

文化十二年四月二十五日(181562日)鴻巣

上町“ 諸井五左衛門脇本陣 ”を六つ半(五時二十分頃)に旅立った。

宋太医の一行は予定のとおりなら東海道の旅へ出た筈だ。

一日目川崎(日本橋から四里十八町)

二日目藤澤(日本橋から十二里十八町)

三日目小田原(日本橋から二十里二十七町)

四日目箱根(日本橋から二十四里三十五町)

五日目沼津(日本橋から三十里九町)と聞いている。

本庄から二里二十九町で坂を登れば深谷宿西木戸。

下町唐沢川に板橋、先には深谷宿東木戸。

玉井村から新嶋村へ入ると左への道は大電八公江之道(ダイテンハクえのみち)。

先へ進むと右手に忍領石標“ 従是南忍領 ”が立っている。

深谷宿から二里三十町で熊谷宿。

京口木戸先の右に竹井本陣、左が前に泊まった元本陣“ 鯨井久右衛門 ”。

次郎丸の時計は十時三十分に為っている。

中山道鉤手(曲尺手・かねんて)角の板橋が熊谷宿江戸口。

権八地蔵が何か所もあると弥二郎に千十郎が教えている。

中井村手前に六尺近い忍領石柱“ 従是西忍領 ”安永九年と刻まれていた。

「三十五年くらい前だな」

是も千十郎。

熊谷宿から四里八町で鴻巣宿。

箕田追分茶屋富士屋で一休みした。

「お帰りなさいませ」

此処の女将は本川次郎太夫に千十郎の顔を覚えていた。

巡礼が通るたびに茶か甘酒を聞くと、四文銭五枚括りと共に二十人ほど振る舞った。

鴻巣宿京方木戸の先街道に市神、七つ時、申の刻(十六時四十五分頃)の鐘が聞える。

街道右手に 瀬山脇本陣 宿札に“ 奥州白川藩本川次郎太夫様御一行様御宿 ”とある。

夕飯が旨い。

-焼き豆腐田楽

-鮎の塩焼き

-大根と鶏の煮物

小皿-菜の湯掻き

 

文化十二年四月二十六日(181563日)蕨

瀬山脇本陣 ”を六つ半(五時二十分頃)に旅立った。

鴻巣宿から一里二十丁で桶川宿。

桶川宿の手前に四つ辻が有る、左に騎西道、右は川越道。

江戸から十番目の桶川一里塚は宿内横断水路石橋脇にある。

市神の先右手に高札場、脇本陣、問屋場、向かいに府川甚右衛門本陣。

桶川宿から三十町で上尾宿となる。

細井弥一郎脇本陣 ”は信濃への行(いき)に泊まった。

江戸から九番目上尾一里塚は宿内に有る。

上尾宿から二里八町で大宮宿、次郎丸の時計は十時三十分。

氷川大明神参道で遥拝して先へ進んだ。

大宮宿から一里十一町で浦和宿。

弥二郎が下町三文字喜八蒲焼店へ、鰻丼を五人前頼みに先に出た。

先右手に脇本陣、高札場、星野権兵衛本陣、問屋と並んでいる。

中町の石橋の左手は日光御成道の鳩ヶ谷へ三里とある。

本陣隣 星野三左衛門脇本陣 ”は昨年信濃の戻りに泊まっている。

坂の途中右手の蒲焼店へ九つの鐘(午の刻・十一時四十分頃)で入った。

たいして待つまでもなく焼き上がって出てきた。

「美味い。昨年も食べたが相変わらず旨い鰻丼(うなぎどんぶり)だ」

次郎丸は手放しでほめている。

浦和宿から一里十八町で蕨宿。

蕨宿には問屋を兼ねた一の本陣岡田加兵衛、東の本陣岡田五郎兵衛が有る。

今日の泊まりは“ 脇本陣岡田新蔵 ”で宿札に“ 奥州白川藩本川次郎太夫様御一行様御宿 ”とある。

部屋でこれまでの事など話して風呂を使うと申の刻(十六時四十五分頃)に為っている。

申の下刻(十八時頃)に夕飯となった。

一汁三菜も江戸に近づいた献立に為っている。

汁椀-豆腐に巻き湯葉の吸い物

-鶏と牛蒡の煮物

-鰹のなまり煮物

-蒟蒻と焼き豆腐味噌田楽

小皿-大根はりはり漬け

 

文化十二年四月二十七日(181564日)薬研掘

脇本陣岡田新蔵 を六つ半(五時二十分頃)に旅立った。

戸田川(荒川)の船渡しは混みあっている。

中水六文と張り出されている。

日本橋から三番目志村一里塚、街道先右に縁切榎が見えた

蕨宿から二里八町で板橋宿。

宿の先、左に加賀前田家下屋敷、日本橋から二番目平尾一里塚は左塚が滝野川村で右塚は板橋宿内。

加賀前田家上屋敷で左へ折れ、湯島天神へ向かった。

湯島天神で道中無事で戻れた御礼報告をし、神田明神へ向かった。

妻戀稲荷脇を抜け、明神下へ出て大回りして随神門 ずいじんもん )から入り、ここでも道中無事の報告御礼をした。

昌平橋を渡り食違い御門前を柳原へ出た。

浅草御門先広小路から右へ入り薬研掘の屋敷へ千十郎が出向き「上屋敷へ報告に参ります」と告げて来た。

横山町三丁目の突き当りへ出て左へ曲り、通塩町(とおりしおちょう)で緑橋を渡った。

本町三丁目で左へ行けば室町一丁目、日本橋川の日本橋。

橋の西側には品川町裏河岸、通称釘店(くぎだな)。

橋の向こうを左に折れた、万町、青物町先の楓川の海賊橋。

四つ角まで進み右へ行けば九鬼家上屋敷、先に細川越中守下屋敷。

白銀町代地を挟んで白川松平家上屋敷。

「ただ今日光代参と上州視察より戻りました」

「殿様御国ゆへ承った」

道中役が簡単に帳面へ報告日時を記入した。

次郎丸は八丁堀で使い奴に頼んで赤坂氷川町、長山直之へ帰着連絡を入れ、支配の八木十三郎への繋ぎを付けた。

牧野忠精(ただきよ)家の江戸家老稲垣太郎左衛門へは直接連絡はしない決まりだ。

薬研掘へ戻ると申の刻(十六時四十五分)、石町の鐘(七つ)が聞こえてきた。

三人の供を大野は承知で自らねぎらいの言葉を掛けた。

なほ ”“ つかさ ”にもこの旅で世話に為ったと伝えると、おぼつか無い口調で「父上がお世話に為り有難う存じます」と声をかけた。

要蔵、新吉、弥二郎は、小傳馬上町千代田稲荷近くの“ ますや ”へ三日泊まって千住へ行くという。

 

 第九十三回-和信伝-拾弐 ・ 2026-01-12

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記