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“ 女街道 ”
文化十二年四月十四日(1815年5月22日)小満
宋太医の一行はこの日明け六つに例幣使街道栃木宿長谷川本陣を後にした。
十二日に今市宿高橋本陣から九里十八町の金崎宿の古澤本陣。
十三日に金崎からわずか二里十八町の栃木宿長谷川本陣、これは例幣使の天明(てんみょう)宿松村本陣とかち合わぬ用心だ。
十四日は犬伏(いぬぶし)と富田(とんだ)の間で行き会うであろう、護衛の山本仁之助が伝令を送り「異国の使者ゆえ、こちらで大庵寺へ道違えを致すので行き会わぬ用心を致されましょう」と伝えていた。
例幣使は犬伏の本陣で小休みし、清国の一行が脇道へ逸れてから出立と返事が来た。
此の年の例幣使は正三位修理大夫錦小路頼理卿四十九歳で、宋太医の手で京滞在中に袖の下が贈られている。
ひそかに清国からの医薬書も送られ、和国の生薬についても教えを乞うている。
本川次郎太夫が京滞在中、島原を訪ねる手はずもして呉れたほど市中に顔の広い公家である。
御蔵米三十石ながら身分は高く、大名でも中々なれるものではない、結とは百年来の友好関係にある。
典薬頭(てんやくとう)を代々世襲の名門でもある。
宋太医たちは明け六つ(三時五十五分)に長谷川本陣から出立した。
十里二十九町とこの日は普段より長丁場だ。
陽も伸びて暮れ六つは十九時二十分頃だと護衛の武士が手控えを披露した。
栃木宿から十里二十九町で太田宿橋本本陣。
遠回りしたが十七時に太田宿へ入れた、例幣使も九里七町を歩み十八時には金崎宿古澤本陣へ到着していた。
視察派遣隊は日光道中徳次郎から八里三町で小山宿。
四月十五日の卯の刻(四時頃)、視察派遣隊を見送った本川次郎太夫と矢澤千十郎監物は千住宿から来てくれた会津屋要蔵に新吉と合流した。
伊香保の弥二郎は藤岡で合流して五人で一回りすると要蔵が本川次郎太夫へ告げた。
「信州を抜けるのにあの夫婦者は」
「借宿から古宿の六里ヶ原通、沓掛の予定時刻は知らせました。沓掛の“ つるや甚右衛門 ”へ予約もさせてあります」
亀吉と曄(はな)と云って、小諸で両親と薪炭卸の“ つるや茂兵衛 ”を営んでいるという。
四人は小山から天明(てんみょう)宿へ向かった、此の日のうちに小山から八里二十町先の梁田(やなだ)宿へ入り、翌十六日八里二十八町先の柴宿、十七日に柴宿から利根川を渡り二里三十四町先の中山道本庄宿へ向かう予定だ。
中山道を一行は牛歩に近い速度で江戸へ向かっている。
「牛のほうがもっと進みます」
護衛の武士も呆れる里程だが、土地の医者との交流時間が朝一刻(百二十分)ほど取ってあるせいでもあるのだ。
四十七日目四月十五日宋太医一行は九里六町先の中山道倉賀野宿勅使河原本陣へ入っている。
四十八日目四月十六日三里三十町で本庄宿。
四十九日目四月十七日五里二十三町で熊谷宿。
五十日目四月十八日六里二十三町で上尾宿。
五十一日目四月十九日七里十五町で板橋宿。
五十二日目四月二十日は二里で日本橋へ四つに到着、此処で月番北町奉行の挨拶を受け、与力の案内で、今宵宿泊の阿蘭陀カピタンも泊まる本石町三丁目長崎屋源右衛門へ泊まる手はずだ。
里程 - 岐蘓路安見絵図 宝暦六年(1756年)採用
天保中山道宿村大概帳・中山道分間延絵図・岐蘓路安見絵図対比表は
第八十五回-和信伝-伍拾肆に有ります。
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