第伍部-和信伝-参拾陸

 第六十七回-和信伝-参拾陸

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  


余談・一里塚

此処では何里目の一里塚をほぼウィキペディア(Wikipedia)にしたがっているが、改めて整理してみた。

ウィキペディア(Wikipedia)では此処に有ったらしいもの、なしを含め、一里目は芝、金杉橋から京都の御陵(みささぎ)までで百二十四里としてある。

(逆を言えば御陵(三条大橋)から芝、金杉橋(日本橋)までの間)

一里塚間の距離はまちまちなのでほぼ一里(3927m)から一里十丁(町)以上のところも出てくる。

ただし一里塚が築かれた当時(慶長年間)の尺度はほぼ一間1969mm、一里5254m。

宿村大概帳 ”の頃(天保年間)は一間=1818mm・一町=六十間・一里=三十六町。

ほぼ切り捨てで計算をする単位は一丁(町)=109m・一里3.92kmが多い。

一里塚を追う方では御陵(みささぎ)を百十九番とされる方が多い。

ウィキペディア(Wikipedia)のなかったらしいとなしの一里塚。

一里・芝、金杉橋

二里・品川、八ツ山

二十五里・なし

三十六里・なし

五十四里・なし

五十五里・なし

八十一里・なし(岡崎宿内?

九十里~九十六里・なし(海上七里)

七里の渡しは必ず一里塚、宿場間に計算される。

いろいろと宿場の事を調べる方は“ 宿村大概帳 ”による江戸日本橋から京三条大橋の距離を百二十六里六町(丁)一間・495.5kmと計算されている。

別の調べでは百二十五里二十六町(丁)・493.8kmと載せられている。

ウィキペディア(Wikipedia)の五十三次の一覧では日本橋から三条大橋まで、百二十四里八丁(町)・487.8 kmとしてある。

宝暦二年(1752年)桑楊の東海道分間絵図の積算は百二十四里十八丁488.04km

元禄三年(1690年)の菱川師宣作画の東海道分間之図を積算すると百二十二里三十三町になった。

一里3.92kmに切り捨てで計算すると481.83kmとなる。

東海道は何度か宿場間の距離が変動していて記録された時代で違いは出る。

宿村大概帳 ”は文化三年の東海道分間絵図の記録を基に作成されたとされている。

文化十一年二月十一日(181441日)・十六日目

尾張藩の藩主は藩祖義直男系の血は絶え、この時は一橋家から養子が迎えられた。

徳川斉朝は寛政十一年七歳で家督を相続し、二十二歳の若き権中納言だ。

尾張藩の参勤は参府-子寅辰午申戌三月, -丑卯巳未酉亥三月なのでもう直に江戸へ下ることに成る。

三月参府に暇は大藩の藩主で、この年は尾張と薩摩が参府、紀州に加賀は暇となる。

二千人以上とも言われる移動で、道中奉行を務める藩士は大仕事になる。

脇本陣格の旅籠“ いせ久 ”では吾郎が十四日までは逗留すると主人の久左衛門に伝えたので俳諧好きな主人は大喜びだ。

待ち人は桑名から長崎奉行、鳴海から酒田の本間本家の娘婿と打ち明けられ「気が高ぶっておちおち寝られませんでした」と朝餉の終わった部屋へやってきた。

熱田は芭蕉をはじめ多くの俳諧師が通り抜けていて、宿(しゅく)にも名の知れた人は多い。

四郎は途中で見た碑の事を話して主人の気を引きつけた。

「野ざらし紀行に“ この海に 草鞋捨てん 笠時雨 ”というのがある」

「我が家へも来てほしいですが時代が違いましたし、私など我流に近いですから」

鳴海から熱田も芭蕉の弟子友人は数が多くいた、この句を残したのは林桐葉(林七左衛門)のところへ逗留した時の物。

辰の鐘(七時二十分ころ)が聞こえてきた、船着きがざわめきだした。

上げ潮時で船から直に降りてくる。

乗り込む人たちに比べ降りてきた人の声は安堵に満ちている、主人は「この声で七里の海上の様子が知れます」と言う。

船番所で一人四十五文の追い込み土間か、むしろ半枚分の指定の席を二百十二文で買い切れば並んで船の順を待つばかりだ。

「私の祖父がよく言いましたが、五十年ほど前はむしろ一枚分が二百七十八文で乗れたそうです。親子三人で乗るにはちょうど良い具合だそうです」

「今のが一番船かね」

「さようで、桑名を七つ(三時二十分頃)に船出して来ますから、二刻丁度でしたね」

暮れ六つ前にもう一度上げ潮になるようで、この時期は時計で昼一刻二時間十五分に近い。

吾郎が船から降りてきた小商人に二階から手を振った。

「ごろさぁ、あちらのお人は辰の船でお渡りじゃぁ」

「吉の所へも教えておいてくれ」

「承知じやぁ」

鳥居のほうへ行く人に混ざっていった。

「景晋様は午の刻頃の船でおつきの様ですな」

桑名からの順風に乗れば二刻と言われていた。

「今のも吾郎さんの所の人ですか」

「今のは違いますよ。ただの知り合い。桑名に茶店を開かせているのでそこの常連客です」

「れこですか」

四郎め小指を立てた。

「弟夫婦ですよ」

「なんだ、色模様でも聞けると思ったのに、吾郎さん江戸の人じゃ無いのですか」

「江戸は女房の実家の家作でね。女房と娘がはきれと手ぬぐいを商っていますよ」

端切れをはきれと濁らずに言うところは、浅草に長く住んでいる証拠だ。

四郎がそれを言うと十三の時から三十年近くいれば桑名の言葉も忘れますという。

「旅回りは年に一度上方との往復で今回は長くなりそうですぜ」

普段は三十五日で往復するのだという、京に大坂の小物などの取次が仕事で、俳諧は付き合いを広げるのに役立っているという。

旅の名物に鰻の話で盛り上がった、宮は鰻飯も美味いと主人は自慢する。

「とみだの焼きはまにしじみ汁が何時になったら口に入るやら」

「こちらでも蛤、蜆は良いもの大きいものが取れるにゃぁが、名前で負けてしまいますにゃ」

景晋様の着く頃は潮が引くので、保田で小舟に乗り換えるようだと主人が吾郎と話している。

「白本陣へ入られても挨拶にいろいろ手間取るだろうぜ」

「夕刻に時間が空くか問い合わせればいいさ」

親子ご対面は大げさだが前にあったのは家出の前、三年ぶりになる。

普段の長崎奉行は一年で休みが取れて江戸へ戻るのだが、この時は長崎へ残ることに成った。

「ずいぶん長く家出したように思ったが二年足らずくらいか」

「そんなものですね、兄貴とあったのは船宿の居候になった二月の中ごろだ」

「政が生まれるひと月前かな」

「なほ様が大きな腹抱えて羊羹が食べたいと駄々をこねましたね」

鈴木やうかん”を産れたら好きなだけ食べてよいと次郎丸は請け合った。

それを言うと追分ようかん ”と同じ蒸し羊羹ですと主人に吾郎が告げた。

道中記などには美味いと書いてあるが食べたことは無いという。

「四郎最後の一本此処で食べるか」

四郎は楊枝を四本竹筒から取出し、まず半分に切り主人へ差し出した。

「大きすぎますよ」

「こっちは何度も食べている。なぁ吾郎さん」

「いつも女房へ土産に買って戻ります」

残りを三等分した。

「良いころあいになってますね」

「出来立てより甘くなった」

「どのくらいたってます」

「十日目だ。見世ではひと月持つと言っていたぜ」

主人は呼ばれて出て行った。

笊屋が前を通って吾郎を認めると、先へ進んで橋の畔の小さな鳥居の前で荷を下ろしている。

吾郎は「連絡でも来たようだ」と出るとすぐに戻ってきた。

「新兵衛さんたちは昨晩岡崎で泊まったそうです。夕刻に着くかどこかでもう一泊でしょう。鳴海でうまく見つけられれば連絡が来ます」

「鳴海へ申までに入れば遅くも夕暮れ時には源太夫社あたりへ来るだろうさ」

「岡崎から夜旅でもして先行したのかい」

四郎は午の前に連絡が来て驚いている。

「いえ、早の飛脚ですよ。そうは健脚ぞろいばかりいませんよ。連絡して岡部の家に戻ったはずです」

新兵衛の顔を見知るものは相当の数が居るように思った。

「仕事は二の次にして、江戸見物に代わる代わる出しています。私は新兵衛さんに直接会ったことがありません」

前の岸壁の潮が引き始めた、保田と言われる小島が顔をはっきりと見せ、小舟が棒杭に集まりだした。

澪標(みおつくし)も海面から五尺ほど出ている。

十一時四十五分頃、吾郎が保田で乗り換える武家の一行を見て四郎に告げた。

次郎丸と前に出て小舟の着く先へ出て迎えた。

景晋はちらと二人を見て先へ進んでいく。

用人の河合新伍郎が残った、先ほど庄吉がいた橋畔の鳥居へ誘った。

「金四郎様お久しぶりで」

「お前老けたな」

「よしてくださいよ。五十過ぎりゃ皆老けますよ」

「後で顔を出すが、時刻の調整を頼むよ。街道を歩きながらはまずいだろ」

「一刻後にだれか連絡に寄越してください。半刻くらい空けますから」

「本陣に泊まりたがらないと聞いたよ」

「あいさつで休まる間も無いですから。小舟に熱田奉行所からの指示で船年寄りが来ていましたよ」

次郎丸を紹介した。

「兄弟のお約束をなさったとか」

「そうだこの旅は、奥州白河藩本川次郎太夫で通しているのだ」

次郎丸はそれで頼むよと念を押しておいた。

「白本陣は分かるのかよ」

「源太夫社で右へ行くと教わりました」

じゃ後でと“ いせ久 ”の前で別れた。

吾郎は次郎丸の時計で一時三十分にいせきゅうを出て伝馬町へ向かった。

戻ってきて「申の鐘が鳴ったら此処を出て二人で本陣へお越しくださいとのことです」と伝えた。

「さて一刻半もあると暇で酒でも飲む様だぞ」

それを聞いて四郎は「赤っ面で行ったら本気で殴られます」と笑っている。

三里の渡しの話題になった、吾郎は二度ほど利用したという。

川を下って桑名へは便利でも、風を頼れない日は上るのも一苦労で、桑名から七里の渡しで宮へ渡る人は絶えない。

「伊勢参りは四日市へ行く人が増えました」

その話をしていると久左衛門が里程標を持って来てくれた。

宮から岩塚まで二里、半里先の万場、神守まで四里九丁、佐屋で六里。

「海が荒れるかすればともかく、一日で桑名を目指すのは忙しいですにゃ」

三里の渡しは正徳の定めが十九文で今は二十文だという。

「桑名からも同じかい」

「二十九文になりましたにゃ」

軽尻(からしり)で佐屋まで乗り継いで百二十六文だという、海は嫌だというおなご衆ならそちらを選ぶだろう

「船頭を入れて五十人ほど乗り組んで川を下りますにゃ」

「そうだ万場ノ渡しを忘れてた」

渇水でも歩きは許されていないので船渡しだという。

「一文、五文、八文と水嵩で渡し賃が決まりますにゃ」

荷駄に軽尻、本馬、など事細かに取り決めがあるというが、良いことに夜間の運行も許されていた。

「万場に常夜燈があって安永六年建立となっていますにゃ」

久左衛門は佐屋までは何度も行ったが、桑名へ渡ったことがないのだという。

佐屋までには日光川など多くの川があるが、万場ノ渡しのほかは橋が架かっている。

次郎丸が時計を出すと興味深げに久左衛門が覗き込んだ。

「見たこと無いのかい」

「印籠型の物は自慢されましたがこの様な物は初めてです」

手に取らせると耳に当てて音を聞いている。

「櫓時計より細かい音がします」

「歯車が小さいのだ。我が国に二十台ほどしかないそうだ」

次郎丸へ戻してきたので「今はこれで四時と読むのだ。この長い針が此処(Ⅵ)の所へ来るころが申の刻になるはずだ」と教えた。

四郎が「この時計の困るのは月によって刻の鐘と時計の指す針の位置が変わることだ」と言い出した。

「一挺天符のようにだだくさにゃ」

次郎丸は刻の鐘優先に慣れたものには無用だと感じた。

暫く話し込んでいたが泊り客が増えてきて家中がにぎやかになった。

女中が声をかけると「申に成ったら降りる」と針を睨んでいる。

二十八分くらいに長針が来た時に捨て鐘が聞こえてきた。

「なるほど。おぼわりゃ便利だにゃ」

納得して降りて行ったので次郎丸は四郎と二人で白本陣へ出向いた。

色々と話は弾んで帰り際に次郎丸へ何気に伝えた。

「明日熱田社へ参るゆへ、巳の刻へ参られい」

身分は知っても軽輩として次郎丸を扱うのは周りの目も有るからだ。

夕日が浜の鳥居の向こうへ落ちてゆくが、まだ沖を此方へ来る船は多い。

いせ久へ戻ると吾郎は“ おばんこさん ”まで新兵衛を迎えに出たという。

「部屋は有るのかい」

「隣座敷を開けてありますにゃ」

吾郎は抜かりがない。

吾郎が新兵衛たちを案内してきた。

新兵衛は久しぶりの挨拶を交わし藤五郎と幸八を紹介した。

「このにやけた野郎が弟の幸八で、色男が猪四郎の弟の藤五郎です」

「どちらもしっかりしたいい男だな」

出迎えがあるとは驚いた、と茶を飲みながら新兵衛が四郎に言っている。

「名前と特徴は鉄之助様から聞いてきましたが。声をかけられてびっくりしました。どうやって今日宮へ入ると知れましたか」

吾郎が種明かしをした。

「岡崎を今朝発つと知れてね。鳴海へ新兵衛さんの顔を知る人を出しておいたのさ」

「知人にゃ会いませんでしたぜ」

「江戸で何度か会ったのですがね。宴席の端っこに居たので覚えがないのでしょう」

考えていたが思いつかない様だ。

「鯨のしんぺえの時ですよ」

「五十じゃ聞かないくらい居た筈だ」

「兄貴、有松で買いそこなった手ぬぐいを鳴海で買うとき、すれ違った人じゃ有りませんか、粋に手ぬぐいを被っていましたぜ」

「ありゃ、喧嘩かぶりというんだ。そうか、その人なら」

大分と考えている。

「だめだ出てこない」

吾郎は笑っている、どうやら見当違いの様だ。

「ところで江戸から幾日で此処までこれた」

「十一日目ですよ。若さん大分遊べたでしょ」

「遊山旅とまでは行かないが、美味いものに甘いものはたらふく食べた」

「一番はなんです」

「岡崎投(なぐり)町あわゆきだな。甘いものは追分ようかん」

あわゆき 追分ようかん ”と聞いて幸八は「俺たち腹の空いていないときばかり菓子屋の前を通った」という。

「あわゆきは豆腐の餡かけだ」

「げっ、てっきり甘いもんだと思って休み茶見世の前を通り抜けました」

新兵衛が二人は幾日かけたというので十五日で昨日付いたばかりだと教えた。

「箱根、三島、沼津と泊まったからな」

吾郎が「箱根を越えたらゆっくり行けが利きすぎですぜ」と笑い出した。

四郎が有松で買った手ぬぐいで色々なかぶり方を披露した。

喧嘩かぶりでも三種ほど有るようだ。

「大分(だいぶん)と長いですね」

「五寸長くしてもらった」

「道理で。私たちは三尺を買いましたよ」

幸八が出したのは雪の花に見える手の込んだものだ。

「尺で四分だというのを三尺豆板銀一匁に値切って三本買いました」

三人模様は違うが値は同じだという。

誰が交渉したと聞くと幸八が交渉したという。

新兵衛は口出しをしなかった様だ。

四郎が求めたのは世に言う手蜘蛛絞で白地が目立っている。

「二度か三度洗って草臥れさせたほうがいい味が出そうだ」

新兵衛は四郎にそんなことを言っている。

新兵衛は道中被りでも、街道で流行り廃りが有るようだという。

前に織り込むにも手ぬぐいの耳を出したり引っ込めたりで、顔の表情が違って見える。

新兵衛は前で織り込むより、結び目を付けるのが好みだといって頭に乗せた。

「それじゃ兄貴雲助と間違えられる」

わざと変に拵えたようだ。

「だから俺はめったに手ぬぐいをかぶらねぇ」

藤五郎は四郎からいろいろ手ほどきを受けている。

「三尺だと絞り込んで結わくのは型がわりいね」

「そう思って五寸長くしたんだ。長すぎて道中被りは似合わなくなった。喧嘩かぶりも年食って鬢(びん)が薄くなりゃ三尺で十分だ」

六人でわいわい騒ぎながら飯を食った。

吾郎は桑名で一旦お別れだという。

「後から京へ出ますんで、お泊りは書いておきますが五条橋の東、宮川筋五丁目佐野屋へ泊まってください。大坂は八軒家浜三十石船船着きの近く、やはり佐野屋と言います。二日遅れか、三日遅れて追いますんで」

後は十二日十三日と泊まって十四日に船に乗ると吾郎に言われて藤五郎は喜んだ。

「どうかしたか」

「こいつ塩田に神社を回ると言ってたんですよ。都合じゃ置いてゆくから後から来いという話でしたが。余裕ができました」

信州へ行く塩を幾分かでも買い受け、酒田へ持ち込むという。

「各地の塩を十石ずつでも集めようというのがこいつの仕事でね」

四郎は塩にゃ替わり無いだろうというと味の違いを四半刻も喋られてしまった。

二月十二日

藤五郎と幸八は朝飯が済むとそさくさと出かけて行った。

遠山父子と次郎丸は熱田社で大樹の健康と、お家の繁栄を祈念して戻った。

細かいことは言わずとも家出の訳は十分承知の父親であった。

「旅の道連れが増えたなら退屈もしまい」

親として旅の注意など簡単に済ませて分かれた。

いせ久 ”へ戻ると吾郎と新兵衛が将棋を指している。

「二人はまだ戻らないのか」

「星崎付近で塩の話と、星の石を見るんだと昨晩に言ってましたよ」

余談

寛永九年814日(1632927日)に塩田に隕石が落ちてきた。

星石として塩田の庄屋だった村瀬家が保管(舒明天皇の時代の隕石を祀る星宮社とも)し、文政十二年(1829年)頃に喚續(よびつぎ)神明社に寄進された。

南野隕石・後の計測で大きさ138mm×83mm×74mm、重さは1040g。

陽の落ちる前に二人は戻ってきた。

「塩田は話より小さくなっています。南野、荒井、牛毛、戸部、本地、笠寺. 山崎の各村を案内して貰いましたが田圃にしたところが多いそうです」

戸部・本地・笠寺が大きな塩田だという。

「二百年足らずで二割に生産が落ちたそうです、塩付街道の噂が大きいだけで信州、江戸へ送るほかは大して取引が期待できません」

「吉良のほうが大きいか」

「そのようです。出羽の田舎で聞いただけではわからなさすぎです」

この時代瀬戸内の塩に各地の塩業者は圧迫されてきている、藤五郎はそれに対抗したいという。

「星は見たのか」

「聞いていたよりやけに小さいものですぜ。手のひらに乗せて貰いやしたがやけに重くてね。三百匁くらいはありそうだ」

その晩六人は板敷の間で焼きはまに栄螺のつぼ焼き、鰻に鶏飯など料理人がついて盛大に食べた。

鶏飯には鶏飯屋と違い鶏肉が混ざっている。

ほかの泊り客も街道の宿の飯より美味いという、とみだで食った蛤より美味いと持ち上げている。

「明日は宴席だから申の前には戻れよ」

新兵衛は吾郎と相談が纏まったという。

「鳴海近辺の発句連中も含めりゃ泊りがけで二十人ほどやってくる」

「こっちにそんなに弟子がいたのか」

吾郎の言葉に次郎丸も驚いている。

「庄吉のお仲間ですよ。有名な俳諧師などいやしません」

いせ久の久左衛門も顔を出すという。

神戸節(ごうどぶし)の芸達者も約束したという、鶏飯屋からひろまり神戸(ごうど)を席巻し、江戸まで十年たたずに広まっている。

亭主が煽てられて歌いだした。

おかめ買う奴、あたまで知れる。油つけずの二つ折れ、そいつはどいつじゃ そいつはどいつじゃ

おかめは飯盛りたちを指しているという。

「江戸で流行はさ。“ 逢うてまもなく 早や東雲を、憎くやからすが告げ渡る ”なんてやらかしてるぜ」

江戸に住む吾郎に次郎丸や四郎より、新兵衛のほうが流行に敏感だ。

余談 

おかめ ”と神戸節説はいろいろある。

一・築出にある鶏飯屋という茶屋にいた仲居のお亀とお仲が唄い出した。

二・寛政十二年(1800年)に鶏飯屋という茶屋が開店。

茶屋の仲居に“ おかめ ”という愛嬌をふりまく者がいて人気を集めたために、いつしか宮宿の女郎を“ おかめ ”と呼んだ。

三・“ おかめ ”は茶屋仲居の代名詞になった。

四・“ おかめ ”のひとりだった神戸町鯛屋金右衛門の後妻お仲が歌いだした。

客の一人が新兵衛につられたか興に乗って歌いだした。

  神戸(ごうど)伝馬町(てんまちょう)に 二た瀬がござる 思い切る瀬と 切らぬ瀬と

相客たちがはやし立てた。

ソイツはドイツだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク

「こいつは楽しい、一九の弥次さん喜多さんは隣座敷の瞽女の伊勢音唄、呼んだあんまの甚句に浮かれたが、宮ではいつの間にか流行になったようだ」

新兵衛の伊勢音頭の催促の手拍子に次郎丸が唄いだした。

はなもつくろふ あだ人の うはきも恋と いはしろの むすびふくさの ときほどき

次郎丸まで浮かれている、亭主に客達がはやした。

ハリサコリヤサ よいよいよいよいとなア ツテチレツテチレ

次郎丸は良い気持ちで続けた。

とけぬおもひは ふたつ箱 みつよついつもとまり舟 それがくがいのゆきちがひ

ハリサコリヤサ

吾郎が後を続けた。

  さす手ひく手にわしやどこまでも 浪のうきねの梶まくら

宮に泊まった第四編下は文化二年(1805年)の発行だ、一九の事だ、取材はお座なりだろう、まだ神戸節とまでいえない程度だったのか。

此処のところ弥次喜多は木曾街道を歩いている。

二月十三日

六つ刻(五時五分頃)の旅立ちと聞いていたので四郎は裁断橋まで見送りに出た。

景晋は四郎を見て“ にやり ”と笑って橋を渡っていった。

供は河合新伍郎に藤堂仗助、中間三人の六人での道中だ。

先ぶれに河合伝次郎と若党の栄次郎が二日先行している。

戻った四郎と新兵衛は白鳥塚へ向かった。

本居宣長が寛政元年に此処へ来たという。

しきしまの やまとこひしみ 白とりの かけりいましし あとどころあれ

「四郎さん本居宣長という人はここが確かに日本武尊の陵墓(能褒野)と断定していませんぜ」

「俺も読んだよ候補が四か所、掘るわけにもいかないしな」

「義父もね。熱田社の事や陵墓の事が気になるので調べろとは言うのですが、水戸でも断定できる人は居ませんね」

「物見高い次郎丸の兄貴が来ないということは確実じゃないと踏んでるのかな」

「だってね。埋葬された後しらとりになって飛び立ったは良いですがね。行った先がどうして分かるんです」

「それだよ。作り話とまでは言わないが古事記に河内国の志幾、書紀に大和琴弾原、河内の旧市邑へしらとりが降り立ったは信じていいのかね」

能褒野に葬られたがしらとりが飛び立った後の棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)は無かったと書紀は伝えている。

その白鳥は記紀ともに天へ昇った(翔り)としてある。

自其幸行而到能煩野之時 思國以歌曰

夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久

阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯

能煩野(のぼの)に到着された時、国を思い、歌を詠まれました。

倭は国のまほろば たたなづく 青垣山籠れる 倭し麗し

「四日市にね」

「なんかあるのか」

「鳥出神社(とりでじんじゃ)てのがあるそうでね。しらとりがこの熱田へ向かうときに休んだと言い伝えがあるそうでね。おまけがあるんですよ」

「大分(だいぶん)ともったい付けるな」

「嘘かまことか、蛇にかまれた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を乗せて白鳥が此処まで来ると白鳥が亡くなったので、それを憐れんで墓を造ったというんですよ」

「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)でなくしらとりの墓だってぇ」

「声が大きい」

「いくら兄いでもそいつはあんまりだ」

「でしょ。俺もね、眉唾だと思うんですよ。しらとりになってやってきたという神社は数多くありますが乗って来たは無いでしょうよ」

「そんなにあるのかよ」

「遠くは伊予、讃岐、阿波にもありますぜ。関東は上総一之宮。江戸は品川ですがここは白い雉だそうでね」

「九州はさすがにないか」

「思い出しました。日向にねだいぶ後になってですがね、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の霊が白髭の老人となって現われ、名を告げ、此処へ祀れと言って白鳥と化して飛び去ったと」

新兵衛、故事来歴を調べるのが仕事のようなものだが良くスラスラ出るものだ。

「若くしてお亡くなりになったのに白髪の老人はひどい」

「死んでからも年を取るんだろうさ四郎さんへ」

二人は八剣宮(夜都留岐)へ回った。

西鳥居を背に欠町を熱田社で右に折れて塀際を進んで左へ折れた。

二十五丁橋で右手へ向かった、右手に八剣宮がある。

八剣宮は熱田社の別宮、和銅元年の創建と伝わると云う。

熱田社にすべてが順じて行われ“ 草薙大御剣神 ”を祭神として武将の厚い信仰を受けている。

熱田社は仲哀天皇元年の創建と伝えられてきた。

宮を出て市場町から神戸をとおり浜鳥居で午の鐘を聞いた。

いせ久 ”へ入ると吾郎が久左衛門と冊子を並べて議論している。

其角が芭蕉と同等か、生涯壁を越えられなかったかを半刻以上議論しているという。

「兄貴は参加しないのかい」

四郎の言葉に新兵衛が答えた。

「若さんは好きと嫌いで評価は替わるが持論ですからね」

久左衛門が「同じのが有ったので上でじっくり見てくると逃げましたよ」とすっぱ抜いた。

蛤の 焼かれて鳴くや 郭会

二人が其角のこの句について盛んに議論している。

はまぐりが主題かホトトギスを主としたのか双方の見解が違うのだ。

「芭蕉は蛤を詠んでいないのかね」

四郎は吾郎へ問いかけた。

「有るけど桑名や四日市じゃないんだ。大垣で“ はまぐりの ふたみにわけて 行く秋ぞ ”と芭蕉は詠んだし、一茶師匠は柳橋の時に“ 蛤の芥を吐かする月夜かな ”ってのを残してる」

さすが俳諧を売りにしているだけの事はある。

「知っているのと良い句を作れるのは違うのが俺の欠点だ」

吾郎は恥ずかしそうだ。

芭蕉は奥の細道の結びの句として元禄二年九月六日に、この句を詠んで水門川の船町湊から桑名へ舟で向かっていると吾郎は本をより分けた。

未雨師匠。桑名では何も詠んでないのかね」

四郎が煽った。

「ありますよ。その時も結びの後でも詠んでますがね。奥の細道の四年ほど前に出た野ざらし紀行には“ 明ぼのや しら魚しろき こと一寸 ”を乗せています。推敲前は“ 雪薄し白魚しろきこと一寸 ”だったと記録があるのですよ」

野ざらし紀行は奥の細道より五年前だが、刊行は芭蕉没後の元禄十一年、奥の細道の刊行は元禄十五年。

多度大社へ参拝の折に詠んだ“ 宮人よ 我が名を散らせ 落ち葉川 ”は明和九年に碑が建てられた。

吾郎は誰か止めなければ何時までも芭蕉の足跡を話していそうだ。

「これ本川殿という御仁がお泊りと聞いたが」

ずいと入ってきた人を見て久左衛門は仰天した。

熱田奉行より怖い与力の早田与四郎だ。

「驚くことは無い。ご相談がござってな。小山様がお会いしたいので御出で願えないかというのだ」

小山甚左衛門は昨年から二人制に移行した熱田奉行へ着任してきた。

降りてきた次郎丸が皆に「中西道場のお仲間だ」と告げて草履を履いた。

角を曲がれば船会所、西浜御殿の先が元の代官所、今の熱田奉行所だ。

「若さん、知らん顔はひどい」

相役の林八郎左衛門を前に次郎丸に苦言を言う。

「許されい。まさかに奉行に成られたとは知らなんだ。良く本川と名乗っているに、わかりもうされた」

「白河藩の方で長逗留とくれば藩でも捨て置けない。張り番がついている」

剃髪の老人が入ってきた。

「浄翁でござる」

隠居した附家老の成瀬正典だと思い出した。

「昨日遠山殿とお会いしての戻り道に定栄殿とすれ違った。四日(よっか)ほど前から東へ来ていたのだ」

本陣から出た駕籠とすれ違ったと思い出した。

最後にあったのが五年前、それもさる大名の招きの席でとおり一辺の挨拶だけだ。

その時に隠居したと聞いた、何時の間に剃髪したのだろう。

この人が藩の命運を左右するとまで言われている、隠居しても暗然たる勢力の大きな力を持っている。

結の情報では跡を継いだ正寿は、尾張藩より独立したいと藩主の許しを得たが、幕閣は認めていない。

「甚左と相談してきてもらったはな、藩は殿の事で隠密に敏感だ。疑念を晴らして頂けようか」

「隠密には違いありませんな」

前の三人に緊張が走った。

「幕府隠密などと大層な物ではなく。いま我が藩の受け持つ房総警備に役立つように摂津方面の防備について見て回れと言われて出てきました。海岸線の正確な地図はまだ完成しておらず大砲も時代遅れ、その中でどうすれば異国の船の脅威を受けずに、国土を守れるかの勉強という口実で、世間を見て回っております」

「熱田へ来て何か気が付きましたかの」

「大船が入れる湊がありませんな。せめて千石船の入れる湊が熱田に欲しいものです」

堀川は川下から、新橋(尾頭橋)、古渡橋、日置橋、納屋橋、伝馬橋、中橋、五条橋とあり帆船で遡るのは容易ではない。

御船蔵には櫂で城下へ上る関船がある。

弁財船など五百石以上は熱田では沖で荷を降ろすことに成る。

尾州廻船はこの頃小型船の常用を説く人が増えている、二百石程度の船なら大坂での競争に勝てるというのだ。

内海船の廻船仲間である戎講の納める上納金は藩にとって重要になりだした。

三十石程度の渡し船でさえ、潮が引けば波止場へ近寄れない。

「二百石、三百石の船で十分商売ができておる」

「それはそうでしょう。沿岸を日数掛けても儲けは出るでしょう。江戸が下りものに制限を掛けている今は、儲け時に違いありません。瀬戸に常滑、江戸では重宝しています。しかし政治向きはいつ風が吹き戻すかしれません」

この時代尾州廻船は上方からの米や大豆、肥料、塩を江戸湾へ。

江戸に神奈川、浦賀の干鰯などの買い付けをして戻った。

尾州廻船は内海船を芯に活動し、塩専門の野間船、酒や酢を半田に亀崎から江戸へ運んだ半田船、常滑焼を江戸に運んだ常滑船などが運用されている。

「尾張は米切手の返済はできるのですか」

「無理じゃ。残り後二年もない。三十万両などどこから掘り出すんじゃ」

酒もほとんどを江戸へ送り出してきた、酢の生産も利益を生んでいる。

尾張に入る物産は多くなり、売り物の総額を上回っている

儂が隠居したら歯車のかみ合わせが狂いだした、この若造が何を根拠に商売の機微を語るのだと興味がわいた。

「倹約を進めるのかね」

「倹約と蓄積、これは大事です。会計に入るものより出るものを少なくする」

「諸式高直じゃ」

「借り倒しますか。それじゃあんまりだ。物を売るには売り方があり、利を生まなければ誰もが敬遠します」

「よくわからんな」

「貧乏藩は藩士までが利を生む物を作ります、江戸の御家人は筆耕、傘作り、植木栽培などの副職をし、家を保ちます。お家では三千人以上の家臣が何を稼いでいます。領民を支配して取り上げるだけでは人は従いませんよ」

上方の木綿に対抗できる木綿の栽培を勧めた、すでに尾張の晒し木綿の販路は拡大している、十倍、いやそれ以上の市場は有ると結は見ている。

岐阜縞木綿はここ三十年順調だが江戸の商人が独占を狙いだした。

「木綿をそこまで生産して買い手は」

房総の干鰯を買って木綿を売る、船が大きければ奥州、蝦夷、出羽へ売り込めると伝えた。

尾張一之宮だけでも木綿問屋は二十軒を超えた、池鯉鮒の盛況に追いつくだろうか。

摂津坂上綿,常陸下館綿は高級品の扱いを受けているが尾張は対抗力がない。

確かに美濃縞の生産力は高まってはいる、しかし多くても五台程度の織屋が中心だ。

菅大臣縞、寛大寺縞、勘大寺縞と音で“ かんだいじん ”と“ かんがいじ ”とよばれ、桟留縞は縞木綿の総称だ。

江戸の伊勢晒しの主な生産地は知多だ。

知多晒が伊勢晒の名を使わずに売り込む必要もある。

結の調べでは今のままでは二十万反が限度だという。

新兵衛が房総を回った後、干鰯に〆粕は猪四郎が手がけだした。

その尾張への販路を藤五郎へ任せ、木綿生産の増えた分を扱わせれば一挙両得と言える。

定信以来、絹物の制限により木綿の需要は大幅に伸びているが、倍は必要だと猪四郎は考えている。

「桟留縞の織機は増えているのですか」

「その様なことも御知りで」

「又聞きですよ。下総結城縞と高機(たかばた)の技術が伝わったとも聞きました。織れる人を増やしていますか」

「資金があればと相談は受け申した」

「お手伝いしますよ」

「百や二百でできる話でも無いでしょうな」

「利に年一割、三十年償還なら繰綿撚糸も含めて織機十台の機屋五軒まで貸し付けさせます」

「定栄殿にそのような金が動かせますか」

「本間という酒田の商人を御知りですか」

「名は聞いておる」

「“ いせ久 ”へ後から追いついてきたのは酒田本家の娘婿、その弟に江戸本間の弟。年千両までの投資なら私の口利きで可能ですよ」

目的がはっきりし、相手を選べるなら可能だと話した。

「ひと月後には江戸へ下りますので、大津を立つ前に連絡をつけますがいかが」

小山甚左衛門へ連絡を取ると約束した。

「部屋住みで良くそこまで扱えるとは、若さん何時の間に力を付けた」

「金は無いが人は動かせる人脈ができたのだよ」

暫く雑談が続いた。

「藩では知多に防衛拠点を作られたとか」

「みましたのか」

話しだけですと安心させた。

「大野湊に廻船が多いと聞きました」

「誰からお聞きで」

「鍛冶屋ですよ」

いせ久 ”へ戻る途中、浜鳥居で片町から出てきた幸八と藤五郎に出会った。

「申までどのくらいあります」

懐から出して見せた。

「四時十五分に成ったから後十五分くらいだな」

「腹時計でも申に間があるとわかりやすね」

「昼は何か食ったのか」

「鶏飯と蜆の味噌汁で。入った茶見世は干した玉蜀黍だけで、鶏は入れてませんでした」

「それがほんとの鶏飯だぜ」

それが本物なら偽のほうの肉入りが良いと言っている。

宴席へ出る支度でせわしい中で、投資話と木綿についての意見の交換をした。

「尾張は麦の後での種まきでね、収穫が安定していませんぜ。八十八夜には種をまかないと」

たとえば今年なら遅くも三月の終わりまでに小麦を収穫できないなら、畔に種まきを始める荒業も有るという。

この年は立春が前年十二月十五日、八十八夜は三月十三日となると伊勢暦にあった。

尾張の木綿畑は木が育ちすぎだという、実綿(種入り)で売ってしまうので実入り(儲け)は少ないので一村で収穫、綿繰りを経て織機での生産まで一貫して行わなければ河内木綿のように買いたたかれるという。

「麦を春まきでなく、冬まきの品種に切り替えれば生産は倍に増えます」

新兵衛は出羽と違い知多なら可能だという。

「若さん、西陣の大火に加え、父上の方針で西陣は火が消えかかっています。ある人が美濃に伝えた技術は西陣の生き残りを図る手立ての一つです」

「どういうことだ」

「長い間に蓄積された技の自信ですよ。尾張美濃の品の高級品だぞと売り込む日を待ちかねています。いま木綿への切り替えは大名、大商人も巻き込み始めました」

西陣の大火は享保十五年(1730年)六月二十日上立売通室町西入大文字屋五兵衛方から出火。

「西陣焼け」と名がついた大火で、百三十四町、三千八百十軒が焼失、織機は約七千台あったうちの三千台が焼失したと云う。

この文化の時期、すでに仏蘭西ではジャカールにより紋織装置が作られていた。

「若さん木綿は反当り七十斤を越せば儲かりますが、六十斤以下だと干鰯に〆粕の代が出てきませんぜ。一貫して村内で出来なきゃ食えませんや」

百斤を超すには麦の収穫前に種まきを始める必要があると何度も強調した。

桟留縞に頼らず、普及し始めた結城縞へ移行しなけりゃ生き残れないという。

「結城縞なら二割は高く売れますぜ。晒し木綿だって伊勢に儲けさせる分入ってきます」

美濃縞は京の商人に儲けさせ、やるなら新田の開墾と種まきの工夫だという。

「江戸の大店も入ろうとしてるようだぜ」

「それは京の井筒屋善助の指図ですよ。猪四郎がそう言ってましたぜ」

運上金の優遇を認められれば乗り出すものも増えていくだろうと予測できた。

「なんせ木綿は金肥に金が掛かります。百斤越すのを見せれば後追いで地場の干鰯業者も資金を出しますぜ」

後は藩の財政不足に運上を増やすなど、悪策を図らなければ利は出るだろうという。

「三十年と区切って話してきたのだが」

「何時も言っていた十年貸の元金取りでがしょ。その位なら江戸だけでも可能でしょうぜ」

有松、鳴海は有名になったが、晒し木綿は伊勢木綿と江戸で定着したものを覆せるかが勝負の分かれ目だという。

愛知郡に百二十四村ありその中から候補を選ぼうという。

今日の宴会をどこでやるかと思えば築地ではなく神戸町だという。

神戸町鯛屋金右衛門と言えば女将のお仲が神戸節を広めたと噂だ。

常夜燈の角を曲がれば船会所、西浜御殿、奉行所と続いている。

宝勝院の先に赤本陣、街道を挟んだ向かいは脇本陣格の旅籠に大宿、中宿が並んでいる。

脇本陣の小出太兵衛は伝馬町の問屋場の西側だ。

赤本陣と源太夫社の間は料理屋と言ってもよい大楼が並んでいる。

小路の手前が鯛屋だ、入口上の二階では三味に乗って“ 明烏夢泡雪 ”を語る声が聞こえる。

きのふの花は今日の夢 今は我身につまされて 義理といふ字は是非もなや

「ここへきて新内とは」

「のどが自慢なのでしょうぜ」

次郎丸は腰の物を預けて式台へ上がった。

「もう十人ほど来られて居りますよ」

中年の番頭が奥の座敷へ案内してくれた。

部屋へ入ると庄吉たちが来ている。

吾郎は次々名を紹介している。

「こちらの面子はそろったら紹介しよう」

女将が忙しげに仲居に料理を運ばせている。

どうやら人が揃ったようで席は後一か所空いているだけだ。

「おい、しょうどん。あっこは誰の席だよ」

「全員揃いましたぜ」

まぁいいいさと次郎丸たち五人の名を紹介した。

結の者だけでは無いので、そちらは内内で教えてあるようだ。

俳諧連中だけあって商売貧富は差があるが、女衆が入って三味で神戸節から伊勢音頭になるころは踊りだすものも現われた。

女将に連れられ、宗匠帽の品の良い老人が入ってくると次郎丸の前に、ぴたっと型を付けて座った。

見知りの者は「帯梅(たいばい)宗匠だ」と言う声が聞こえる。

「村瀬弥四郎と申します。隠居して俳名の帯梅を使っております」

浄翁に会いに行ったとき、隣座敷に幾人かの気配がしたが、この老人のように思った。

「成瀬様に呼ばれたとき隣におられましたようで」

ギョッと体に力が入ったようだ。

「お帰りの節はゆっくりお話がしたいものです」

結の手印を見せた、合言葉も二番目のものださすれば尾張横須賀の両口屋の当主、いや隠居かと驚いたが手印は返したが話は別の事に振った。

「木綿の事ですね」

「さようです。ぜひ力をお貸しください」

「委細は戻りに」

「はい。次郎様はだいぶ剣でも学びましたか、私は俳諧に遊ぶために隠居の真似事を始めました」

「十四で免許を貰いましたが、この四郎ほど腕もない駆け出しでござる」

周りも二人の話に構わず女将を煽て、神戸節の新しい歌詞をせがんでいる。

興に乗って即興のものをいくつも披露してくれた。

かわいい十前後の娘が来て、久左衛門におだてられて歌いだした。

  ありがたいやの すずしの蚊帳で なかでするがや えいらくや

小娘にしては色気のある唄声にやんやの喝采だ。

ソイツはドイツだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク

隠居の前にぺたりと座り「また新内教えてね」と酒を注いでいる。

先ほどの二階座敷の声は隠居の様だ。

次は何処へ行くだろうとみていると、久左衛門にもお愛想を言ってから次郎丸の所へ来た。

「江戸のお人と聞きました。お戻りの節はまたここで遊んでくださいね」

「いいともよ。そんときゃ新内を聞かせてくれるかい」

「う~~ん。覚えられたらね。江戸の最近の流行を聞きたいわ」

惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里

「どうだい」

「うちらの節と似てるわ」

「こちらの流行が移ってきたようだぜ」

「もっと」

夢に見るよじゃ 惚れよが薄い 真に惚れれば 眠られぬ

ようやく次の四郎へ酒を注ぎに行った。

四郎も一つで良いと唄わされた。

この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさか素面じゃ 言いにくい

新兵衛にも強請っている。

「そちゃ強欲な」

「まるで浄瑠璃だわ。短くていいわ」

逢うてまもなく 早や東雲を、憎くやからすが告げ渡る

もっとと言われている。

潮来好くやうな浮気な主に、ナゼナゼ、惚れた儂が身の因果

船頭深話に出ていたやつだと次郎丸は気が付いた。

名題(なだい)も洒落になっている、“剪燈新話”を捩ったのだろう、京伝が “銭湯新話”を書いていて、それをまたひねったかもしれない。

客のすべてにお愛想を言って回った、中には自分と一緒に唄わせたいのか、おひねりを用意しているものまで出た。

名古屋甚句も飛び出し、そろそろお開きと女将と新兵衛が別間で金勘定を始めた。

庄吉が銘々の泊まる宿をもう一度確認して客を送り出した。

久左衛門は先に戻り、庄吉が座を改めて帯梅と指印の交換をした。

「お残り頂いたものは結と縁の者ばかりです」

吾郎はそういって指印を見せた。

「さて私も両口屋様とは初見で御座いますが、喜多見様の下で働かせて頂いております」

「噂は聞いております。また次郎様の事も連絡を受け、本日図らずもお目に掛かれて光栄です」

岐阜の縞木綿に対抗して縞でなく、白木綿での増産、綿実のある程度の売渡、綿実からの油分を取り、残り粕を大豆粕のように畑の肥料に活用するなど話は具体性を持ってきた。

「横須賀代官所の上に勘定奉行の神野様が居りますので、手続きはお任せいただけるなら村を選んで其処一村から手を付けたいのですが」

新兵衛もそれを勧めるので次郎丸は応諾した。

「藤五郎、お前さぁ塩の片手間にこの話やってくれまいか」

新兵衛に言われて「俺には千両動かせないですぜ」と自信なさげだ。

「金は若さんが手配なされば出てくるよ」

「なら俺は若さんの手駒で動きゃ良いんだろうか」

「そうさせて貰いなよ。江戸にゃ兄さも居るんだ心配いらんさ」

幸八も喜んでそうしろと勧めたので藤五郎が「帯梅様に俳諧の手ほどきでも受けましょうわい」と仕事を引き受けた。

話しが済んだよと帯梅がおちかを呼んだ。

廊下端に控えていたおちかが「お酒を出しますか」とかわいい声で訊いている。

「そうだなぁ、新しい俳諧の連が出来た固めの祝いに一杯配ってくれ」

「いっぱいね」

酒とともに、台に用意されていたようで蒲鉾に小魚の甘露煮が出てきた。

「最近は宮でもこの蒲鉾が流行でして。すり身の天ぷらより酒に合います」

相州小田原から流行りだして江戸でも人気が出ている。

それまでの蒲鉾は竹輪(ちくわ・焼き竹輪・蒸し竹輪)と名を替えたほどだ。

先ほどの宴席でも香の物の大根と間違えて大笑いだった位で、まだ浸透はしていない。

二月十四日

六人余裕が出るように、むしろ三枚分の席を新兵衛が買い入れてきた。

一枚分四百二十四文を三枚は豪儀だ、巳の刻(九時四十分頃)までに乗るように言われた。

久左衛門は名残惜しそうに船に乗り換えるまで岸で見送った。

座が決まると引潮時で外回り九里になるだろうと吾郎が説明した。

隣の席にいた女五人ほどに男一人が賑やかに騒いでいたが、それを聞きつけた男が吾郎に声をかけた。

「ええ、旦那今聞こえたんですが七里じゃないんで」

「今日の潮の加減では、朝七つの一番から六つ半頃の七番なら二刻だがこいつは三刻とまでは言わないが半刻は余分にかかる」

女の一人が通りかかった水主に食いついた。

「なんだよう。この旦那が二刻じゃ無理だというが、ほんとかえ」

「なんだなぁ、風も弱いし仕方にゃあで」

女たちは皆で悪態つくので水主が逃げ出した。

「なんだよ。重吉っあん、もっと早い船抑えりゃいいじゃねえか」

「姉さんが買ってきた席ですぜ。八当たりはご勘弁」

「四日市まで日暮れに着けるのかよ」

「道中記の通りなら申の下刻に十分だとこれも姉さんですぜ。あっしが辰前に乗りやしょと何度言っても聞いてくれねえ」

「これだから大酒のみの朝寝坊は困るんだよ。おっかさんじゃ無きや蹴り飛ばすところだ」

次郎丸たちは久左衛門が用意した白酒で良い気持ちで隣の騒ぎを訊いている。

「お隣さん。どこの銘酒を仕入れてきやした」

「こりゃ白酒だよ。まだ半分あるからお前さんたちでお食べ」

吾郎が気前よく樽を渡した。

一人が木椀を取り出して回し飲みを始めた。

大酒のみは嫌いだと言っていた女も二杯目が回ってきて吾郎に愛想を言っている。

「旦那たちゃ今晩どこまでいきなしゃる。あっちらはお伊勢さん参りで四日市にするつもりだったのさ」

「桑名で泊まる予定だ。余裕があるのでこの船にしたのさ」

「桑名でも蛤は食べられるのかね」

「とみだまで行かなくても何十と見世がある」

四日市から日永追分で松坂、伊勢へ行くのだという。

御師はついていないが旅の支度や、宿の良し悪しは教わってきたようだ。

「伊勢山田へ行けば添え状が有るので、気楽な遊山旅ですよう」

おかみ連の一人も参加してきた。

「俺は桑名で仕事、後の五人は京へ行くのだ」

桑名から伊勢までは七里の渡しから日永の追分までは東海道、日永の追分から伊勢神宮までの伊勢参宮街道となる。

伊勢参宮街道は追分から十八里と道中記に出ていて、女たちは桑名で泊まるかを喧嘩腰で話し合っている。

次郎丸が「なんで四日市へ渡る船にしなかったんだね」と男に聞いた。

「富田で焼き蛤が目当てでござんす」

「それでも食べていては四日市へは陽のあるうちは無理だぜ。食べるのはあきらめな。風がよくなっても未にゃ着かないぜ」

吾郎に言われている。

口の悪い女が間に入ってきた。

「旦那はここらをよく知ってなさるようだ。いつに桑名の湊へ落ちられますね」

降りるでなく落ちるという、新兵衛が「もしかして水戸の人かい」と聞いた。

「ありゃ出ちまった。おっかさんが水戸の生まれなんですよう。あっちゃ神田の三島町で生まれ育ちゃした」

吾郎は風を見て「巳の刻過ぎの船出で未(ひつじ)の下刻をさらに上回るな」と言って「申の刻の四半刻前」と断言した。

「どうやりゃそんな細かい刻をはかやすのさ。ここじゃ線香もたけやしない」

香時計を持っているものなどいないと思って次郎丸が間に入った。

「俺が家宝の長崎渡りの舶来ものだ」

時計を出してから懐紙に線を引いて教えた。

四時十分の所を紙に書くと驚いてはいたが、金持ちの持つ二挺天符の針で位置は分かっているようだ。

「そっちの旦那賭けをしやしょう」

「どんな」

「今教わったより早けりゃわっちの勝、遅けりゃ旦那の勝」

「何をかけるんだい」

「六人と六人だ。蛤の食い放題と今夜の宿銭と酒の代」

「なんだ、まだ桑名と決まって居ないだろ」

他の奴らも「それでいきやしょう」と大乗り気だ。

「ちょつとまて。湊に碇を降ろした時か、最初の客が船着き、迎え船に降りた時か決めなきゃ駄目だぜ」

「時計の旦那が言うんだ、あっちは最初の客が降りた時が良い」

「じゃ俺も参加して針が此処と此処の間は俺持ちにしよう」

吾郎がそこへ落ち着くなら奇跡が起きると大笑いだ。

三時五十五分なら九時五十五分に出たので三刻ほどになるが、今の時期なら二挺天符で二刻半だ。

「船頭が遠回りしてくれりゃ俺の勝だが、せっかちに近回りしたら俺の負けだ」

「午の刻は何処になるんですよ」

女は次郎丸の隣へいつの間にか入り込んでいる。

仕方なく針が此処へ二本揃った時だと教えた。

次郎丸が今年の一月十五日啓蟄に二挺天符と合わせた時、明け六つから暮れ六つまでが十二時間に成り、日中、夜間が同じ長さだった。

時計暦は十五日までが日中、夜間が同じとしてある。

その時立冬が同じようになるかと二挺天符の横へ“ 九月二十八日立冬 ”と心覚えを書いて文鎮の下へ置いた。

時計暦に拠れば十月の前半十五日が昼間と夜間が同じとしてある。

なほは「五分狂う時計で合わせられるのですの」と懐疑的だった。

江戸と大坂では日の出る時間に、陽の落ちる時間が違うというのが、どう説明してもなほには理解できないのだ。

日食という現象を、昼間見える月が太陽と重なることで起きると言っても信じていない。

十四年前に江戸でも半分以上重なって起きた時は、大人たちに天照の岩戸隠れを教えられたという。

天文方は二十五年後己亥の八月一日に江戸で見られると計算を出している。

「お武家さんは江戸ですか」

「米沢町さ。こっちが天王町でそっちが今川町。後は江戸じゃないんだ。俳諧のつながりで広がった御仲間さ」

「うちのおとっ様も俳諧が好きで年中寄合に出歩いてるよ。師匠は留守がちでうちのおとっさんがまとめ役さ」

吾郎が心当たりでもある顔だ。

「三島町なら旦吟の娘か」

「おとっさんを知ってるのかい」

いきなり様からさんへ格下げだ。

「天王町の未雨(みゆう)だ」

旦那の銀助、詰めて旦吟を俳号にしている。

大酒のみのおっかさんがにじり寄ってペコペコ頭を下げてきた。

おかみさん連四人と娘に太鼓の重吉だと改めて説明した。

「可笑しいな旦吟の神さん大酒飲みとは聞いてないぜ」

旅に出て枷が外れたと娘が睨んでいる。

「酔うと朝遅くまで寝ていて起きやしない」

何度も卯の下刻(六時から六時二十分頃)過ぎの旅立ちに成ったという。

ほかのおかみ連も取成さないとこを見ると同類の様だ、次郎丸もお中間の口だ。

両舷に陸が見える、どうやら川筋へ入ったようだ。

「お城が見えるよ」

相客の声がする。

「時計は」

「あと四半刻ならお前の勝だよ」

三時二十分だ、だが思った以上に船足は重い。

重いはずだ商い船が纏わりついている、船頭たちも同類だ。

「時雨蛤はうちのが一番だよ。ひとっつみ二十文だよ」なんて叫んでいる。

「出船での売れ残りですぜ」と吾郎は笑っている。

時計の針を何度も替わりばんこにのぞきに来る。

城を左へ見られたのは四十五分、さて泊まるにどのくらいだと吾郎も気にしだした。

「こりや若さん持ちになりそうだ」

「後二分じゃ岸へは無理なことだな。丁度おれんとこへ着やがった」

おかみさん連は大喜びだ。

「桑名じゃ薬食いもできるそうじゃねえか」

「ももんじぃが好きなのかい」

「鯨に桜肉、このじゅうは牛も煮て食べたよ」

江戸の暇人は本所、深川、浅草の“ ももんじや ”に行くし、両国広小路に最近できた見世は繁盛している。

鰻の大かば焼きと同じ値(あたい)で飽きるほど食べられる。

「いくら薬っ食いでも帰りじゃなきゃ駄目さ」

大酒のみだというおっかさんに怒られている。

「四時だ」

次郎丸がつぶやいた時には踏み板を渡る気の早い男たちがいた。

「若さん。余分なこと言うから宗匠にも負けるんだ」

娘は何時の間にやら未雨を宗匠、次郎丸を若さんと言っている。

渡し場に降りると伊勢一の鳥居がある。

安永五年から片町矢田甚右衛門と船馬町大塚与六郎が浄財を集めて建立したものだ。

余談

昭和四年の遷宮に際し宇治橋の鳥居が下げ渡され、翌五年に此処へ建てられている。

今は遷宮に際し外側の鳥居が桑名、内側の鳥居が関の東追分へ払い下げられる。

鳥居は内宮、外宮正殿の棟持柱を加工したものだという。

此の鳥居は建て替えられた後もさまざまに再利用されるという。

(資料は錯綜している。最初から式年遷宮の度、明治以降、昭和四年以降とある)

桑名藩は松平忠翼(ただすけ)三十五歳が藩主。

享和二年二十三歳で藩主になり十二年が過ぎた。

吾郎は何やら問屋場で二言三言言葉を交わし、大塚与六郎本陣前から見える青銅の大鳥居へ向かった。

「宿は抑えておいたからまず蛤と白魚と行こうか」

青銅の大鳥居をくぐり春日神社へ参拝し、西の門を出て休み茶見世へ入った。

「大人数に成っちまったが頼むぜ」

若い女たちがいくつもある囲炉裏へ付いてもう焼き始めている。

「大人数なのに、そんなに簡単に連絡付くのかねえ」

「六人分は宮で支度をさせておいた。追加位たやすいもんだ」

船の時刻に合わせていつでも焼く用意はしてあったと威勢の良い親父が、おかみたちへ教えた。

吾郎が弟夫婦だと次郎丸たちへ紹介した。

白魚の刺身にかき揚げも出てきた、小椀で飯も配られた。

はまぐりは幾らでも出てくる、幸八は十二くらい食べて「もういいや」と言い出した。

「おめえ、その勢いで小半時も食えば五十は行ってしまう。やめて呉れて俺もきっかけができた」

藤五郎も「もうやめだ」と言っている。

おかみ連もやめたので焼いている女たちは店先へ持って出て、通りかかる人へ「一つ六文だ。食べておいき」と呼びかけている。

「そんなに安いのかよ」

「富田より此処のほうが二文安いと言われてるぜ。向こうより一回り大ぶりのものをそろえているんだぜ」

勘定だというと「六百八十文になります」かわいい声で女房が答えた。

「細かくてもいいかい」

吾郎が大笑いだ。

「どうした兄貴高かったか」

「いやさ、若さん持ちと賭けで決まったが。その袋の銭で払いたいようだ」

指差した袋は四文銭で膨らんでいる。

五枚積んだ三十の山に四つの山を足した。

「三十四の山に五枚ずつだ」

女房は確かに六百八十になりますと素早く計算した。

おかみ連も「よくこんなに重かったでしょう」という。

吾郎の案内で片町の通り井はす向かいの“ こうだや ”という大きな旅籠へ入った。

通り井は江戸の水道の井戸と同じ共同の物だ。

桑名は江戸のように水売りも繁盛している。

女たちで二部屋、男たちは三部屋に成り、太鼓の重吉と吾郎、次郎丸と四郎に新兵衛、幸八と藤五郎と決まった。

汗を流し男たちは吾郎の部屋で飯とゆうよりは酒盛りに為った。

重吉が呼ばれて出て行った。

おっかさんが明日からの宿場の相談だと吾郎を呼びに来た。

朝、富田でまた蛤食べてかんべ(神戸)の宿へ泊まると言っている。

道中記には桑名から四日市は三里八丁。

四日市から二里で日永追分、一里二十丁でかんべ宿とある。

この二里は大げさだと揉めていたようだ。

四日市手前の三ツ谷九十九里一里塚から日永百里一里塚がどうして二里と長くなるのだと言う。

吾郎は「若さん持ちで神戸まで女衆は軽尻(からしり)にしろ」と言ってきたという。

桑名四日市は九十六文、四日市で乗り継ぎかんべ迄八十四文だという。

重吉はあっしは歩きで良いのだという。

一人百八十文で九百文、馬子に豆板銀一匁をやってくれというので四郎に聞くと豆板銀十匁は払えるという。

「みなさんとみだの焼きはまもたくさん食べると息巻いていますぜ」

吾郎は「馬子にも二つくらいは食わせましょうや」などうそぶいた。

「兄貴は勘定を新兵衛兄いに負わせて良いとなったら出銭が増えた」

是には大笑いするしかない。

翌日はしろこ、うえのをとおり抜けて安濃津へ泊まる。

安濃津から松坂へ、松坂から伊勢山田だというのだ。

四日なら順当だろう。

四日市から十七里二十九丁で伊勢だと吾郎は言っている。

「桑名から二十二里も無いのか」

「時々道中記は古いものを引き写しますから。古いと言えば尾張の天野信景という人が伊勢参宮里程を出していますぜ。こいつが一番真っ当の様ですぜ」

四日市から神戸へ三里。

神戸から上野へ三里十一丁。

上野から安濃津へ二里。

安濃津から雲出へ二里。

雲出から松坂へ二里。

松坂から新茶坊へ三里。

新茶坊から小俣へ一里。

小俣から山田へ一里十八丁。

此の里程を空で言えるとはと重吉はびっくりしている。

二月十五日は快晴、風も心地よく、歩くにはもってこいだ。

問屋場で軽尻(からしり)を頼んで女たちを乗せた。

吾郎は吉津屋町惣門を抜け、鍛冶町惣門まで来て別れを告げた。

街道は何度も鉤手(曲尺手・かねんて)に曲り 水路に掛かる橋を渡った。

人家は途切れることなく続いている。

安永という村の先で街道と橋がずれている。

川でも暴れたようだと新兵衛が言う。

町屋川を渡ると縄生(なお)九十七里一里塚がある。

余談

此処では順番はウィキペディア(Wikipedia)を採用しているが九十二番としてあるサイトでは九十一番に桑名を入れている。

七里の渡しの七番目ということの様だが絵図の上では見つけられなかった。

小向(おぶけ)立場を抜けて橋を渡って松寺立場に入った。

おぶけからちらほらと、蛤を焼く店が並びだした。

東富田の手前小川際に九十八里目の富田(とみだ)一里塚。

はまぐりを焼く匂いが漂ってきた。

十軒ではきかない見世が旅人を誘っている。

富田で次郎丸は一人当て三個だと三軒の店へ分かれて食べさせた。

一軒は馬子たち専用にして三個当て出してもらった

四郎が支払って回った、三軒で三百八十四文だという。

「若さん持ちじゃないの」

「俺が金庫番さ」

「あの袋は」

「重いから四文銭を持ってもらったのさ」

馬子が礼を言うので四郎はこれが本当の駄賃だと豆板銀を配っておいた。

三ツ谷九十九里一里塚は東阿倉川村の橋手前三ツ谷立場にある。

此処には八田藩一万三千石の陣屋がある。

定府の大番頭加納久慎の領地だが、半分近くは各地に分散されている。

家督を相続したのは五年前三十三歳の時になる。

四日市代官所(陣屋)は天領三重郡二十五村を支配している。

十三年前は大和郡山藩領だった。

四日市の問屋場で軽尻を乗り継いだ。

桑名宿から此処四日市宿の間に“ ながもち ”を商う休み茶見世が数多くあったが誰も買う気にはなれない様だ。

日永は土橋の続く立場の端に百里目の一里塚がある。

泊村を抜けると日永の追分、馬子に豆板銀をかんべまでの駄賃だと四郎が配った。

追分の道しるべが街道左手の道端にある。

右面“

正面“ 大神宮 いせおいわけ

左面 山田

次郎丸は裏を覗いた。

裏面“ 明暦二丙申三月吉日南無阿弥陀仏 専心

おかみ連と別れるのはちと寂しいと四郎は嬉しがらせている。

娘は馬上から藤五郎に手を振った。

午の刻の鐘が聞こえてきた。

杖衝坂の旧坂は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伝説の坂だ。

百一里目采女の一里塚で一息つけた。

小谷の休み茶見世で甘酒を商っていてそれを頼んだ。

時計は一時三十分に成っている。

大谷からは下りは急になる。

此処も天領、四日市から二里二十七丁で石薬師、旅籠は三十軒ほどだという。

石薬師の宿に入ると街道右手に小澤右衛門本陣、左手に問屋場。

相本陣は街道右手に二軒岡田忠右衛門、岡田庄兵衛、宿はずれに石薬師寺と続く。

宿を抜け、坂を下り、橋を渡ると上野村にある石薬師の一里塚、此処で百二里となる。

石薬師から二十五丁で庄野に入った。

桑名宿から六里二十四丁、四十五番目の宿だ。

宿の間も短いが旅籠も少ない、まだ三時にもならない。

此処は宿場の東周りが神戸藩一万五千石、藩主は本多忠升(ただたか)二十四歳だ。

質素倹約は米沢の上杉を凌ぐというほど藩の立て直しに励んでいる。

神戸城は川を越えた伊勢神戸にある。

亀山にするかと四郎と新兵衛は相談している、急がずとも日暮れ前に十分着ける距離だ。

宿の東の鉤手(曲尺手・かねんて)を曲がると右手に本陣澤田兵左衛門。

先には高札場と問屋場、脇本陣楠与兵衛が街道右手に並んでいる。

道中記には東海道で最後に開かれた宿場とある。

宿場自体は平坦でこの地にもともとは三十四戸の家しか無なかった。

鈴鹿川対岸から三十四戸を移住させ宿場を作らせた。

街道沿いは間口一間八百文を負担させた。

宿場全体の年貢は三百五十石から三百九十石を行き来している。

加茂、中、上と三町で宿場は八丁、本陣一軒に脇本陣一軒、旅籠二十四軒しかない。

高札場で話をしていたら、雲行きが怪しくなり、西から雷雨が襲ってきそうな気配がする。

本陣の門が開いていたので五人は逃げ込んだ、雷雨がやってきた。

「お泊りですかご休息ですか」

老婆が表玄関から声をかけてきた。

「亀山の積りだったが雲行きが怪しい。一晩泊めてくださるか」

「五人さまで続きの二間で宜しければ」

「頼むよ」

怪しんではいるようだが鷹揚に引き受けてくれた。

澤田本陣の間口は十四間ほどもあった。

八畳の床の間の付いた二部屋へ通され、すぐに女中が茶と茶菓子ならぬ焼き米の俵を持ってきた。

「これが名物の兵糧か」

俵焼米は休み茶見世でも商うほど人気だが、茶うけに出るとは面白いと次郎丸は喜んだ。

幸八が「腹が急に空いた気がする。朝の焼きはまの後、水だけだったのを思い出した」というので「おめえは甘酒も水の代わりか」と藤五郎に怒られている。

テヘヘ、と苦笑いしている、忘れていたようだ。

先ほどの老婆が若い男に宿帳を持たせてやってきた。

「ここは田舎料理で江戸の方にゃわびしいですが特にご希望は」

「どうして江戸の者だと。まだ宿帳もつけていない」

宿帳を出すと遠山の名が見えた。

「お奉行に十日ほど後に、五人ほど来るかもとお聞きしました。まさかとは思いましたが声をおかけしたら言葉がこの辺りと違いましたので」

この老婆相当に感が鋭い、宿札も書く用意をしている。

吾郎に聞いておけばよかったと思った、大津で待ち受けたのだろうか。

代表して次郎丸が“ 奥州白河藩本川次郎太夫供四人 ”と書いて出すと受け取った若い男が「ゲゲッ」と仰け反った。

老婆ものぞいて同じく驚いていたが指印を見せた、三番指だ。

次郎丸も驚いたが印を見せていつもの合言葉を伝えると三番の合言葉「ありがたやでございます」が帰ってきた。

新兵衛も三番の印と「出羽から出てきて本陣へ泊めていただくとはありがたやでございます」と伝え、ほかの三人はまだ印を許されておりませんがお仲間ですと伝えた。

若い男は孫で今年から四番を許されたと話してくれた。

「名前が伝わっているようだね。そこまで驚かなくてもいいのに」

「お二人の道中と伝わっております」

「なら二人の積りで、人には話してください」

「わかりました。もう頭へ会えずに一生を終えるかというのに、私は果報者でございます。風神、雷神には感謝しませんと」

「鉤手(曲尺手・かねんて)あたりで亀山まで行くかというのを風神に聞かれたようだ」

老婆につられて若い男も笑い出した。

問屋場は脇本陣楠与兵衛で、そちらへ飛び込んでも不思議ではないと縁を強調する老婆だ。

女中があわてた様子でやってきた。

「先ほどの雷が貴船さまへ落ちまして」

「さきとはるは」

「近くへ雷は落ちましたが、ご無事です。それよりおはる様の目が開きました」

あわてて出て行ったが、濡れた乱れ髪のまま親娘を連れてきた。

「こちらの本川様のおかげじゃ」

そういって女中たちも従えて礼を言っている。

老婆と母親が残り、明神のスダジイに落ちた雷とあわてて転んだ娘が「お頭がきた」と叫んだということを落ち着いて話してくれた。

娘はそのことを覚えていないと後になって母親に言ったそうだ。

目が見えないのを恥じていつも閉じていた目が開いて、周りが見えてかえって怯えていて戻るのが遅れたという。

わずかの距離をいつもより恐る恐る歩く娘の様子を、これ以上表せないほど喜んで話してくれた。

若者は春の兄で談四郎事澤田兵左衛門と名を告げ、相談があるのだと後に残った。

人足七十人,馬八十匹を常備するのだが人馬継立が困難となり脇本陣、問屋場が道中奉行に三年前に嘆願したがまだお許しがないという。

定めは人足百人、馬百疋でその半減を願っているという。

この当時宿場は子供を含めても八百人足らずの人口だった。

東海道の各宿に常備される人馬数は、人足百人・馬百匹。

中山道が五十人・五十匹、日光街道・甲州街道・奥州街道は二十五人・二十五匹。

助郷会所は問屋場の先にあるという、助郷の範囲を勝手には広げられないのだ。

出した時期が悪かったと気が付いた、美濃守様は江戸に居ない時だ。

楠与兵衛を呼んで相談の上、本川次郎太夫の名で嘆願書に添え書きし、早急に出すように話をまとめた。

あて先は大目付兼道中奉行の井上美濃守様とした。

談四郎に文箱を一つ強請って(ねだって)中へ入れた。

楠与兵衛は半信半疑のようだが、次郎丸は許されるだろうと与兵衛と談四郎にテグスを解いて中の葵御紋入り“通行勝手”の木札を見せ「大事ゆへ他言無用」と強く(きつく)言いつけた。

談四郎は頭と気が付いた時より驚きが大きいようだ。

与兵衛は震えが止まらず、暫くしてようやく落ち着いたので、添え書きを入れた箱を懐にして辞去した。


二月十六日

本陣らしく五人で千五百文と酒が三百二十文の千八百二十文を新兵衛が支払った。

のんびりと辰近く(七時ころ)に本陣を発った。

亀山宿は伊勢亀山藩六万石の城下町だ、胡蝶城の名で知られている。

当代の石川総佐(ふさすけ)は享和三年九歳で家督を継いで二十歳の若き藩主だ。

世の習いとは違い藩主自らフランス語を習得し、蘭学をも奨励している。

亀山宿は亀山城の城下町だが、宿場は幕府道中奉行直轄になる。

庄野から亀山まで二里だが。亀山宿の江戸口門(東の惣門)前にも十三丁に及ぶ町屋が広がりを見せている。

庄野を出て川沿いを進むと汲川原に“ 従是東神戸領 ”標柱がある。

中富田の入口、曲がり角に百三里目の中冨田一里塚。

街道左手の神社の鳥居の手前に中富田町“ 従是西亀山領 ”の標柱がある。

丁子塚は能褒野御墓との話もあるが次郎丸は寄る気には為っていない。

西富田の先は椋川(むくかわ)、橋の先が和泉村。

和田道しるべは“ 従是神戸 白子若松道 ”裏に“ 元禄三 庚午年 ”とある。

百四里目は和田一里塚。

亀山宿の最も東に有るのが茶屋町、夜番のお小屋があり、その先に東海道から巡見道が右手へ分岐している。

鍋町の夜番お小屋との間はあらゆる小見世が並んでいた。

東新町には大きな商店(あきないみせ)が軒を連ねている。

亀山宿の江戸口門(東の惣門)を抜けると東町、最初の夜番のお小屋から十三丁あまり。

東町の脇本陣椿屋平左衛門、東町に問屋を若林家と交互に務める本陣樋口太郎兵衛。

正面に大手門と高札場、鉤手(曲尺手・かねんて)で左へ進み、でころば坂までが横町。

「池の側」と呼ばれる亀山城の外堀、夜番のお小屋を境に西町、今は若林家が仕切る問屋場がある。

また鉤手(曲尺手・かねんて)で青木門への道脇に夜番のお小屋がある。

外堀の先に西新町があり、門へ通じる坂道は左右に屈曲している。

龍川左岸の崖の右手前に京口門(西の惣門)、京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所がある。

大手門から六丁程だと新兵衛が四郎と話している。

「じゃ、十九丁程あるのか、庄野の倍以上だな」

惣門を出て左へ進み橋を渡れば右手観音坂の先は落針の昼寝観音。

名前の由来は三十三か所の観音霊場を決める時、此処の観音さんは会議に昼寝をしていて遅れ、選らばれなかったと言われている。

街道を先へ進めば野村の一里塚は百五里目。

亀山から一里十八丁で関に入る、まだ十一時で坂の下でも三時には入れそうだ。

「無理して土山まで急ぎ旅でもないさ」

野尻の先は道中記にだいこうじなわて(大岡寺畷)とある。

「この付近に小万の隠れ松が有るそうだが松ばかりで気がしれねえ」

「四郎は仇討ものが好きだが亀山の石井源蔵・半蔵兄弟の事は知らずにいたのか」

「そんな仇討ものは知らんぞ、いや大津の続きの仇討か」

「そうだ大津で敵の義父を長男三之丞と次男彦七が打ち取った。延宝元年だと記録されている。兄は目指す敵に返り討ち、弟はあらしで溺死と言われている」

「源蔵・半蔵は出てこないですね」

幸八も知らない様だ

「父が討たれた時、まだ五歳と二歳だったそうだ」

兄の亡くなった後二人は旅に出て、亀山藩にかくまわれていた敵を元禄十四年、二十八年目にして本懐を遂げたという。

「その後の話はどうなったんです」

幸八は興味がわいたようだ。

「史実と歌舞伎に草紙といろいろ出てどれが本当かわからないよ。“ 元禄曽我物語 ”を読みなよ」

「曽我物の一つですか。忠臣蔵と同じで針小棒大でホントのことは分かりませんね」

「兄貴可笑しいぜ」

「何がだ」

「俺は読んだが発行が元禄十五年となってる。いくら写本でもそこは間違えないだろう」

「四郎さんどこがおかしいので」

「兄貴が本懐遂げたのが元禄十四年だと言ったじゃねえか。一年で噂が広まっても事件の詳細が伝わりゃしねえよ」

それもそうだ作者が一緒について回るわけないと言う。

「それで兄貴はだんまりで城下を出たのか」

「御城下で仇を討たれたなんざ言えるわきゃなかろうぜ」

藤五郎がお万へ話を戻してくれという。

「この話も亀山がらみさ。天明三年というから三十年前だ・十年くらい前に亡くなったと聞いた」

墓が残るというと皆はそれなら本当の事だろうという。

「おいおい、兄貴が笑ってるぜ。眉唾かよ」

「新兵衛の兄いに聞きな。近松ものだぜ。馬子唄と仇討をだれかひっかけて混ぜ込んだ奴がいるんだ。いくら仇討でも小万が生まれる前に起きた事件の仇打ちは考え物だ」

「そうか、朝顔の松と同じ類か」

「大井川のですか。あれも作り話で」

「そうじゃねえよ。あっちはまるっきりの作り話。こっちは二つ、いや三つくらいだな、夜泣き石の話とも混同してるんだ。それらが一つに成ったのだ。」

次郎丸が事件の詳細をどうやって知ったか四郎にも謎だ。

木崎の坂を上った。

せきのこまんは かめやまかよい いろをふくむや ふゆこもり

小唄を歩きながら聞かせた。

「新兵衛あにい、お得意の馬子歌だ」

次郎丸にそそのかされて休み茶見世の手前で唄いだした。

関の小万が 亀山通い 月に雪駄が エー二十五足。 関の小万の 米かす音は 一里聞こえて エー二里ひびく。 馬はいんだに お主は見えぬ 関の小万が エーとめたやら。 昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の エー声がする

「軽尻(からじり)乗って、鈴鹿越えで馬子に聞かせたらどうだ」

「四郎さん、からかっちゃいけねえ。ばあさん此処の名物志ら玉をくんな」

百六里目の関の一里塚は東の追分にある。

山田道は四里二十五丁程行くと、津(安濃)の志登茂川江戸橋西詰で伊勢街道に合流する。

楠原、椋本、窪田に宿揚が有り、伊勢外宮鳥居まで関の追分から十五里と云う。

「こっからのほうが四日市より三里もはしょれるとは不思議だぜ」

「道中記に有るんだ信じないとまずいでしょうやと云いたいとこですが、あのおかみ連の道中記は日永から十八里だと騒いでましたぜ」

四郎は「俺のは四日市から日永は二里だぜ。差引十六里に成る」後で見せるよという。

「いちいち伝馬の高札場に出てやしないからな。道中記も歩いて書き上げる奴は珍しい口だ」

「道中記どころか弥次喜多を書いた一九も京へ行ったかどうか怪しいぜ」

「なぜです」

「大仏殿方広寺へ行って廬舎那仏六丈三尺と膝栗毛は書いてるがね。本は文化四年に出たが肝心の大仏は寛政四年八月朔に燃えている。本の出る八年前だ。いまの方広寺には一割程度の大きさの仏像が置かれたそうだ」

大仏殿と大仏の焼失は、一九が承知で膝栗毛を書いた可能性もあると次郎丸は幸八に話している。

「なぜでしょうね」

「行ってみたらアラ吃驚というのを狙ったは穿ちすぎかな」

いせみち鳥居脇の二基の常夜燈には“ 元文五年 ”“ 享保七年 ”と彫られている。

右手に有る波多野鶴屋脇本陣は西尾吉兵衛と道中記に出ている。

西隣の川北久左衛門本陣は宿継問屋も兼ねている。

並びの玉屋との街道の向かい側に伊藤本陣。

玉屋の虫籠(むしこ)窓の宝珠の玉に見とれる次郎丸だ。

玉屋の隣は高札場だ。

その先に“ 関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か ”と唄われた会津屋が有る。

せきのと ”の看板がある、振り返ると“ 関の戸 ”と為っていた。

「あにい。こいつも甘いものだが今は食わずとも夜の茶うけにどうだ」

新兵衛が十ケ買い入れた。

新所には名物の火縄屋が軒を連ねている。

観音院の手前が新所の坂、西の追分に向かって登り坂が続いた。

西の追分では左へ大和街道が分岐“ ひだりハいか やまとみち ”の道しるべと法華経題目塔が有る。

関から一里二十四丁で坂の下。

街道に大きな石が有る“ ころびいし ”と道中記にある。

「こいつも小夜の夜泣き石のように夜に唸っていたのを弘法大師が鎮めたそうだ」

「本当に大師は困れば現われるんだな」

四郎も呆れるくらい大師の伝説が街道に転がっている。

鈴鹿川を越えて一之瀬で道は緩やかだが上っている。

筆捨山を望む立場があった、四軒茶屋と呼ばれている。

新兵衛は軽尻が三頭前を行くのを見て、馬子歌を始めた。

坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや エー小竹屋に

手綱片手の 浮雲ぐらし 馬の鼻唄 エー通り雨

幸八は唄に割り込んで「小竹屋は大宿ですかい」と新兵衛に聞いた。

大竹が本陣で小竹は脇本陣だと教えた。

鈴鹿川手前の茶店から近在の者らしき夫婦が飛び出してきた。

「もしや本川様の御一行様でしょうか」

先頭にいた次郎丸に声をかけた。

「確かにそうだが」

女は四番の指印を見せた。

次郎丸が返して合図の言葉を交わした。

「談四郎事澤田兵左衛門は兄でございます。早の飛脚がつきまして此処なら見逃さないと連れ合いのふた親から、お迎えに出向くように言いつかりました」

申し遅れましたがと治助とよねと夫婦が告げ梅屋でお泊り下さいと先へたった。

空いている軽尻が追い越したので四郎が呼び止め、よねを乗せた。

馬子は顔見知りの様で「馬子唄でも聞かしゃしょう」良い声で唄いだした。

鈴鹿川を弁天橋で渡った。

辯天百七里目の一里塚は、坂の下一ノ瀬一里塚や沓掛一里塚などと時代で呼び名が変わる。

新兵衛は治助に、坂の下から峠越えの軽尻(からじり)は高いのだろうと聞いている。

「大分上がりましたが土山まで百四十六文です」

「普通と違って峠越えは四割増しか」

「馬もうまく乗りませんと、石段で居眠りして落ちる人もいました」

坂の下宿は人家も少ないが人家の三割が旅籠を営んでいる。

沓掛から人家は増えてきて、先の下之橋(河原谷橋)だという処からは商い店も出てきた。

沓掛は二十丁あまりの村で坂の下の助郷とされている。

百年ほど前、坂の下とともに一時は亀山藩領に組み込まれたこともある。

信楽代官の支配地で、多羅尾氏が鈴鹿郡では坂の下、石薬師、庄野、上野など広範囲にわたり支配している。

街道右手に松屋本陣、三軒おいて大竹屋本陣。

問屋場の前でよねを降ろすと四郎は馬子に四十文支払った。

梅屋は本陣だった。

治助はそこの角が小竹の脇本陣だと教えた。

梅屋の反対側には法安寺が有り、岩屋観音は境外地になる。

道中記には、五丁五十六間に本陣を含めて五十二軒の旅籠が有ると出ている。

二日続けての本陣にさすがの新兵衛も落ち着かない様だ。

梅屋では幼い子供までが挨拶に次の間に控えている。

「談四郎殿から妹の礼もままならぬ内の旅立ちになされると文が来ました」

問屋を七つに出る早飛脚を寄越したという。

この時期の七つは三時二十分頃、五里六丁を三人で引き継いで五時間で届けている。

「困った人たちだ。妹ごの目が開いたのと儂たちとは偶然の事だよ」

「それでもそうなったのも御頭様のご人徳」

訊けば結とのつながりは嫁があるだけだそうだが、結の恩恵は十分受けているという。

一渡り挨拶がすんで茶を貰うと新兵衛が“ 関の戸 ”を出して食べた。

飯を食べ終わり老夫婦に昔物語をせがんだ。

「此の宿の名物は」

「強飯(こわめし)に草餅くらいです。鈴鹿権現脇の茶店で商っております」

老婆は峠の澤の立場には休み茶見世で甘酒にぜんざい餅が名物だという。

「百六十年ほど昔は岩屋観音のあたりが中心でした、今の古町と言う付近です。鉄砲水で宿場が壊滅し此処へ移りました」

帳面を持ってくると慶安三年九月二日と記録されている。

「この後に実参和尚が巨岩に穴を穿ち、阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵を安置しました」

清滝の観音(くわんおん)または岩屋観音と言われ、あれだけ高名なためもっと昔から有るものだと新兵衛たちも思っていた。

「岩屋観音の名は各地にあるので古いものが有るのだ。それで名を聞くと昔からのものと思い込むのだ」

弘法大師、行基菩薩様々な伝説が残っている。

「孝子萬吉の事はご存知ですか」

「石川忠房殿から聞いたことがある。健在か」

「その様なことまでご存知とは」

萬吉は四十歳になるという、十二歳の時には江戸へ召され、白銀二十錠を下げ渡されている。

母親は終身一人扶持が与えられた。

四郎たちは八歳に成らぬ内から母親を助け、鈴鹿越えの手伝いでわずかな賃銭を稼ぐ孝子の話を聞いて、感心しきりだ。

二月十七日

卯の下刻(六時十五分頃)に梅屋を発った。

坂の下から二里十八丁で土山とは云っても鈴鹿越えの難所だ。

岩屋観音の先に百八里目の元坂下、荒井谷の一里塚が有る。

鈴鹿権現の鳥居脇には、享保二年建立の燈籠が二基あった。

鈴鹿大明神と鈴鹿山の盗賊立烏帽子が混同され、坂の上田村麻呂もその伝説に一役買っている。

権現の鳥居から右手に急坂が有り休み茶見世が朝から店を開いている。

八町二十七曲がり ”というくらい道は急な上りを和らげる如くに折れている。

燈籠の並ぶ階段状の上り道が続き、馬の水飲み場では馬子も一服している。

鈴鹿峠の頂上で、道もたいらになった。

西行は“ 鈴鹿山 浮き世をよそに振り捨てて いかになりゆくわが身なるらむ ”と残している。

芭蕉も鈴鹿峠について“ ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山 ”と詠んだ。

鏡岩の伝説(鬼の姿見)はあまりにも有名だ、この峠の盗賊話は五人の良い話題だ。 

八時近く、澤の立場には堺屋、松葉屋、山崎屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋と休み茶見世六軒が甘酒にぜんざい餅を売っていた、五人は井筒屋で甘酒を飲んで餅を食べた。 

この峠で伊勢から近江へ入る、万人講大石灯篭は四国金毘羅常夜燈で高さ三丈もある。

茶店の親父に拠れば建立は百年ほど前で、六代様の頃だという。

先は下り坂で猪除けが目立つている。

「あにさんよぅ」

「なんだ藤五」

「道中記にゃ山中一里塚とあるが立場はとっくに通り過ぎたが見えないぜ」

四郎が分かれ道で振り返った「見たきゃここから逆戻りだ」と道を差している。

「どういうことです」

「さっき、二つほど分かれ道が有ったろ」

「へぇ」

「先のほうあれが此処へ出てくるんだ。昔はそっちが本通りで一里塚は向こうにある。もう一方は櫟野寺(らくやじ)へ行く道だ」

「なんでわかるんです。四郎さん初旅でしょ」

「東海道絵図の元禄と、宝暦両方そう出ていたぜ。いや絵図は櫟野寺(らくやじ)が無かったな」

四郎も相当の記憶力の持ち主だ、“ こうじや ”の主が気に入るのも、もっともだと次郎丸は感心した。

らくやかんのん道しるべは木の杭に“ ゐちいのくわんおん道 ”と成っていた。

「なんで“ らくや ”が“ いちい ”なんだ」

新兵衛も不思議そうに聞いた。

「そこまでは絵図や道中記に出てないぜ、次郎丸の兄貴なら知ってるんじゃねえか」

「漢字で書けばクヌギの字で表すんだ、ところがこの字はいちいとも読むのだ」

「正一位の一位の木ですか」

「それの事だよと言いたいが種類が違う木だ。同じ漢字で書くのでややこしいのだよ」

たわいもない事を話している。

見逃した百九里目は山中一里塚。

道は下って猪鼻村立場は草餅、強飯(こわいい)が売り物だ。

その先はかにが坂の下り坂“ かにがさかあめ ”は東海道名物だ。

「兄貴此処にも由来があるのか」

「鈴鹿峠を行き来する旅人を食べる巨大な蟹がいたんだそうだ。横川僧都(よかわそうず)の源信様が退治したと出てたな」

大蟹は甲羅が八つに割れて往生したという、そのわれた甲羅に見たてた飴が名物に成った。

「新兵衛のあにいの呉れた“東海道名所図会”は違う話を乗せていたぜ」

或説に、 むかし此坂の嶮阻をたのんで山賊が出て、旅人に暴逆せしより此名をよぶ。姦賊の横行より、蟹坂というか。又蟹ヶ塔はかの山賊を亡し、こヽに埋むならん。名物とて丸き飴を売る家多し

東海道名所図会六巻は、新兵衛が十年ほど前大量に買い込んだとき分けたものだ。

「それで打ち取ったのが田村麻呂様だそうだ」

「賊より蟹のほうがおもしろいな。いったい田村麻呂様は幾人退治したら気が済むんだ」

四郎たちは大笑いだ。

源信で八百年前、田村麻呂なら千年前の話だ。

田村川に架かる田村橋を渡る時、右斜め前方に見える社がある。

此処も田村麻呂様を祀る社だと教えた。

安永四年に橋を架けた時、街道を動かして参道を横切るようになった。

橋の先で参道を鉤手(曲尺手・かねんて)に左へ折れ、少し先で右へ折れた。

百十里目の土山一里塚は宿の手前にあった。

土山は鈴鹿越えの重要拠点で助郷も多い。

一之瀬、青土、野上野、松野尾、頓宮、前野、市場、徳原、大野、今宿、上田、高野、大久保、相模、鳥居野、神保、隠岐、小佐治、伊佐野、平野、儀俄上田、岩室、田堵野、瀧、上野、油日、和田、毛牧、五反田。

江戸方入口の生里野(いくりの)は“ くしや ”が多い。

「あにい、あいの土山雨が降るは無いようだ」

「この間の雷雨を忘れたか風神様雷神様は耳ざとい」

最初の櫛屋を見つけて土産に買うか帰りにするかで煩い位燥いでいる。

吹け波ふけ 櫛を買いたり 秋乃風

上島鬼貫(おにつら)が此の宿でおろく櫛を買った時の句だ。

来見川は“ くるみはし ”が架かっている。

橋の先は旅籠が軒を連ねている。

脇本陣二階屋堤忠左衛門の隣に両替商の菱屋が有る。

二両を豆板銀百二十匁、手数料は二分としてあるので二匁と四十四文を手数料にした。

江戸府内なら一分、京、大坂なら七厘で両替できる。

「この二人に予備を六十匁ずつ持たせていますが。福島あたりで文句ばかりで往生しましたぜ。良く若さんが四文銭担いでいるもんだと二人の愚痴は消えました。どこかで百枚ほど減らしましょうかね」

「じゃ草鞋銭はこれで払おうぜ」

「贅沢に日二足だ、上物十五文で五人分百五十文、三日払ってくれて百十三枚で、二文あまりますぜ」

「確か百十枚のはずだ」

「三日で空になるということですよ」

思いつきでの両替より、荷を減らしながら両替していくしか、旅の手立てはないのだ。

上手く釣り銭で賄えるとは限らない。

「酒田を出るときはまさか上方までとは思いもしませんでした」

幸八は長旅を楽しんでいるようだ、藤五郎より二歳上だというが四郎より子供っぽいところがある。

中町問屋場が有る。

街道の右手には土山喜左衛門本陣。 

鉤手(曲尺手・かねんて)に右へ折れると街道の右手に大黒屋立岡本陣、隣接して吉川町問屋場と高札場。

日野屋太郎左衛門は定飛脚問屋だ。

左手は元の陣屋の有った場所。

十四年前寛政二年(1800年)土山宿大火で類焼、信楽へ多羅尾氏は陣屋を移した。

土橋の大黒橋の先は旅籠も少なくなる。

土山宿は二十二丁五十五間あると道中記にはある。

旅籠追分屋の先に二基の道しるべが有る。

天明八年の“ たかのよつぎ かんおんみち

文化四年の“ 右 北国たが街道 ひの 八まんみち

近江の多賀社への御代参道はここから始まる。

土山茶 ”の木が街道の両脇から広がっている、もう直に茶摘みを始められそうだ。

「花は咲いてないなぁ」

「幸八、花は摘み取りが終わる六月すぎだぜ」

「そうか花の咲く前の新芽で作るのだった」

松の尾川は土橋が架かっていた。

三月からは徒歩渡しになる。

水膝六文から水脇六十文と川会所に札があった。

水口(みなくち)まであと一刻有ればのんびりでもついてしまう。

松野尾村の立場で休むことにした、高札場前後に休み茶見世が並んでいる。

甘酒で疲れを癒すことにした、「何か腹を満たす物できるかい」と新兵衛が訊いた。

「芋かけくらいじゃね」

「飯か、麦へでも掛けるのかい」

「のくとい豆腐も美味いじゃろ」

「五人分できるかい」

「ばあさんが早手に芋を摺ってるじゃ」

新兵衛笑って「豆腐にしてくれ。五人分だ」と頼んだ。

温めた豆腐に出汁の利いた山芋がたっぷりかけてあった。

「こいつは力が湧きそうだ」

「そうだべ、飯盛りの二人も乗りこなせるべな」

坂下、土山、水口、石部には飯盛りは居ないと道中記にあると四郎が言うと老婆が「イヒヒ」笑って歯をのぞかせた。

どうやらいるようだ。

「土山四百だらよう」

「ありゃ俺たち石部へ行くんだ」

「おまはんら五里ごんぎりいかさるちゃ勢いも薄れにゃあずら」

“ だら ”に“ ずら ”が入るとは相当旅人たちの影響を受けているようだ。

土山から二里二十五丁で水口(みなくち)。

水口藩は二万五千石、藩主は加藤明允(あきまさ)。

十五年前十七歳で家督を継いだ、今年は戌で六月の参府なので在城のはずだ。

俳人として名が知れ渡ってきた。

前野、頓宮と過ぎて、百十一里目は市場の一里塚。

大野、今宿の次は今在家で百十二里目の一里塚。

 小里と新城の間、野洲川に橋が有る。

この辺りは岩神と言って赤子の名を旅人に付けてもらう風習が残っている。

祠なくて岩を祭る この近村の人 生まれし子をこの岩の前に抱き出て 旅人に請うてその子の名を定むをな俗とせり

「兄貴、そりゃ何のまじないだ」

「新兵衛の兄いの呉れた伊勢参宮名所図会第二巻に乗ってたぜ、そこには“ この他 大石奇岩有り 里人に問うべし 右の方に川あり 水上は土山の奥より出て横田川へ流れ入る ”と続いてたな、この右とは京から見た右だが。岩神はこの山の中みたいだ」

「今でもそうなのかね」

「冊子は最近だが乗っているのは蝉丸だったり、西行が子供を猿の様だとけなしたら“ 犬の様なる法師 ”と貶される画もあったからな、昔話の類だろうさ」

西行法師垂水成就寺へ 参られけるに 小童傍の木に かきのぼりけるを見てさる児と みるより早く 木にのぼるといひければ 小童 犬のやうなる法師来ればと付たり 西行 不思議の思ひをなしぬ

「兄貴、旅に出たらいきなり御師見たいに成ったぜ」

富士講、伊勢講の御師(おし・おんし)は祈祷から名所見物迄、すべてこなさなければ一人前ではない。

「吾郎さんなら芭蕉の冊子を空で言うからな。おいらもついつい読んだ冊子を思い出すんだ」

十五日に桑名で別れて三日目だ。

「四郎さん、江戸のおかみ連はまだ伊勢へ入れないな」

「大分近くまで行ってるはずだ。藤五さん、あの娘にだいぶ気に入られたようだな」

「酒田と違って江戸っ子は気やすいですね」

「おきゃん、というんだ」

「どういう江戸言葉です」

「いい意味なら闊達、悪い意味なら軽率だがね。悪口にはふつうはばく連という言葉を使うぜ」

松並木から右手に昔の岡山城の在った岡が見える。

畑にはつる草がびっちり生えている。

「なんだまだ田植えの支度に鋤を入れていないぜ」

「幸八よ。ここの名物知らんのか」

「かんぴょうに煙管(きせる)は聞いたことが有るぜ兄貴」

「こいつは夕顔でそれを細く裂いて干したのがかんぴょうだ」

「まだ実もついていない様だ」

「夏至の頃が花盛りだが、見たのは野州足利だ。ここいらもその頃だろうぜ。」

今年の夏至は五月五日端午の節句に重なる。

話しが弾んで道もはかどり鉤手(曲尺手・かねんて)で水口宿の東見附に入った。

山川に向かって下りの道は“ すべりさか ”と道中記にある。

作坂町(つくりさかまち)に鵜飼傳左衛門本陣に脇本陣。

札の辻には高札場、道は真ん中に東海道、左右に分かれた三筋の道になる。

東海道を進むと人足寄場に人馬継立を差配する問屋場、伝馬は東西にあったが、西伝馬は元禄四年の火災後に廃業している。

その後、伝馬に困り助郷は二十九か村に及んだ。

右手へ入れば大岡寺(ダイコウジ)参道へ続く。

「吾郎さんがいりゃ寄るだろうな」

「なぜだい」

「芭蕉の句碑が有るそうだ。建てるに参加した江戸詰の人から聞いたよ」

大岡寺元は岡山古城の地にあったが築城の時、麓へ移された。

「諏訪大明神の甲賀三郎はここで大蛇から元の姿へ戻ったとそのとき聞いた」

寛政七年(1795年)家老加藤蜃洲らが芭蕉碑建立している。

白鳳十四年(686年)行基により創建された古刹で、十一面観世音菩薩(行基作)に阿弥陀如来立像(恵心僧都作)が有る。

碑には“ いのちふたつ 中に活きたる さくらかな 翁 ”とある。

野ざらし紀行の旅にあった芭蕉は、貞享二年三月、水口宿で二十年ぶりに服部土芳と再会した。

野ざらし紀行には旧い友人に水口であったと出ている。

水口にて、二十年を經て故人に逢ふ ”とある。

寛永五年に九歳で芭蕉の一番弟子となった、土芳(服部半左衛門)は槍の遣い手として藤堂藩に仕えた。

故人は懐かしい人の意味に使っている。

 紀行は“ 命二つの 中に生たる 櫻哉 ”と載せた。

次郎丸は宮で野ざらし紀行は読んだが、冊子と碑文の違いは知らずに通り過ぎた。

「寄らなくてもいいのか」

「ここで泊まることに成るぜ。寄らずとも申の下刻にゃ着きそうもない」

「休まず歩きゃ軽尻(からじり)よりは早くつける」

「音を上げるなよ」

水口から石部へ軽尻九十一文(荷は五貫目まで)、荷も二十貫一緒なら百四十六文になる。

未の鐘(午後二時二十分頃)が道の先から聞こえてきた。

水口石橋の東詰は三筋の道の合流点だ、

先には水口城天王口御門で街道は鉤手(曲尺手・かねんて)に右へ、左へ畝っている。

城を北から回り込むと真徳寺が右手、小坂町御門に百間長屋が左手にある。

江戸の中屋敷などでは珍しくもないが、街道に向いた与力窓から若侍たちが買い物用の笊で小商人を招いている。

江戸口から京口まで二十二丁六間、また鉤手(曲尺手・かねんて)で西へ向かう。

神明社の参道に百十三里目の林口の一里塚。

此処から三里で石部へ入る、京口を出ると右手に伸びる若宮八幡の参道の鳥居が有る。

北脇畷の両脇もかんぴょうの畑が多い。

百十四里目の一里塚は泉村の出外れにある。

横田の渡しはまだ土橋が架かっている、幅は七間ほどもある。

標柱は“ 従是東水口領 ”とある、此処までが水口藩ということに成る。

川岸の大燈籠、常夜燈は“ 安永八年建立 ”とある。

四面すべて“ 常夜燈 ”と彫られていて、基壇と二段目に、“ ”“ 東講中 ”とあった。

「橋は、帰りには取り除かれるのかな」

「今月一杯ですよ。戻れるかどうか怪しいものですね」

横田川は川幅百六十九間と道中記に有る、夜間往来も行われることが多い場所だ。

四郎は「橋は二十四間くらいだ」と渡って次郎丸へ言う。

中州から先は一跨ぎ程度の流れが幾筋か有ったが、二十間ほど下に短い橋を架けてある。

渡船料は川会所の船高札に出ていた、水主二人は三文、三人は十文、四人二十文。

「船頭四人とは相当流れは強く(きつく)なるようだ」

土橋を超えると三雲、道中記にある妙感寺への道しるべが有る。

寛政九年建立とある。

前面“ 萬里小路藤房卿古跡

右面“ 雲照山妙感寺従是十四丁

「若さん萬里小路(まりこうじ)って京(みやこ)にありそうな小路だが」

「あるかもしれんよ。だが“ までのこうじ ”だ。南朝の重臣だが恩賞方筆頭と成ったが、偏った恩賞の振り方に反発して出家している。微妙大師と後に贈られているよ」

「南朝と云えば四百年は昔だが、此の標柱は最近だ」

十七年ほど前に何かあって建てたのだろう。

百十五里目の一里塚は山夏見の立場に有った。

夏見は、山と里に分かれていた。

ところてん ”が名物とあるが四郎は先へ進んだので次郎丸たちも止まらずに進んだ。

針、平松と休み茶見世は皆“ ところてん ”の札が風に揺れていた。

駕籠を待たせて“ ところてん ”を食べる一行がいる。

「優雅なもんだぜ」

新兵衛は通り過ぎて次郎丸に「親娘ですかね。それともおめか」なんてやっかんでいる。

「駕籠かきが六人いた。夫婦に娘ってのはどうだ」

「おもしろくもねぇ。おまけにここらは蜜で食べる見世ばかりだ」

四郎に新兵衛も甘いところてんは苦手な口だ。

家棟川の橋を超すと酒蔵が有る。

「のども乾いたし一合ほど飲んで行こう」

五人で茶碗酒を飲んだ、十年前に酒造りを始めたという。

「咽喉越しの良いいい酒だ」

きたしまという酒蔵の主はまだ若い。

「この付近に“ うつくしまつ ”という旧跡があるそうだ」

「松島と比べてどうです」

「あまり詩(うた)に読まれてねえし、奇岩、奇観でもないのかな。大体話の藤原頼平ってのがよく解らんのだ」

近在の者らしい若者に聞くと五丁程街道を外れた平松大明神だという。

「若さん、どの本に出てたね」

「近江輿地志略って古本だが、東海道名所図会にも出ていた」

仁寿年中藤原頼平に神記ありて 山城 松尾人をここに勧請平松の号これより. 初る 美松と号する事は松の葉細く艶ありて四時 変せず蒼々たり 松の高さ小大あり

「療養に来たら松尾の使いの美女が来てうつくしい松に変えた。なんてのも読んだ覚えがあるがどこで読んだか思い出せない」

真新しい高木陣屋この辺り旗本高木家の知行地だ、街道に白い桜の花に、黄色の山椒の花が咲いている。

柑子袋の小さな橋を超えるとすぐそこに石部の東木戸。

石部宿は東西十五丁三間。道中奉行の管轄する本陣と膳所藩が管轄の本陣が有る。

膳所藩七万石の藩主は本多康禎、八年前の文化三年二十歳で家督を継いだ。

近江膳所に居城がある。

東見附の木戸を抜けると左手に吉姫神社。

道中記は祭神に上鹿葦津姫神、吉比女大神二柱を書いてある。

「兄貴はこの二柱の神様に心当たりは」

「薄暗く為ったから飯の後でな」

緩やかに下る坂の途中に蓮乗寺が有る。

左手に高札場、右手に問屋と本陣三大寺小右衛門が有る。

問屋場は夕暮れでそろそる仕舞らしく掃除に余念がない。

京方から来る者、水口から来たもの袖を引かれて往生するものを縫って大旅籠の“ いちや ”へ入った。

「坂の下の“ うめや ”で教えられてきたが部屋はあるだろうか」

新兵衛の言葉に「おい出なされませ。梅屋様からきゃぁはるちゅうて文が来ておます。よう此処まであしぃのばはりやした」とやわらかい応対だ。

二部屋を続きで開けてあるというので幸八と藤五郎を一部屋にした。

主が宿帳を持ってきたが“ 奥州白河藩本川次郎太夫供四人 ”とかいても驚かないので結とは関係ないようだ。

夕飯のしじみ汁の蜆は赤っぽい。

「淡海の海の紅蜆とは是か」

女中が「さようでやんす」と給仕してくれる。

世の云う佐門しじみの事だ。

名物いもつぶしというのは、米と里芋を炊いて潰したものだと道中記にあるが出なかった。

膳を下げて五人で明日は京へ入るか大津かと相談した。

草津だと京へ夕方、大津なら昼に入れる。

此処から京へというには「本気で七つだちになる」と嫌がるほうへ無精者ぞろいは気が揃う。

結局は大津で泊まると決まりをつけた。

「お半長の舞台はここの宿(しゅく)だね」

かつらがわれんりのしがらみ ”桂川連理柵は安永五年(1776年)十月の大坂北堀江市の側(いちのかわ)芝居が初演。

京都の帯屋の主、長右衛門は、伊勢参りの途中、石部宿の出刃屋に宿泊。

「新兵衛兄いが話を集めていたよな」

「いくつも同じような話が出来ましたが。もとは有るらしいですよ。京(みやこ)の桂川で心中が有ったのは本当らしいですよ」

中年になっていきづりの小娘に手を出せるかが話題に成った。

「世の中、初物好きの狒々親父というのがいるというのが三流の読み本だ」

「五人の中で誰がそうなるか楽しみが増えた」

「新兵衛兄い。お前さんが一番年上だ。先になるなら兄いの可能性が大きいぜ」

酒の追加を頼むと四郎が神社の祭神の事を思い出した。

「上鹿葦津姫神の上(うえ)は神(かむ)だ、“ かみかあしつひめのかみ ”と読ませるのだろうが書紀では“ かむあたかあしつひめ ”が本名だ。またの名を“ このはなさくやひめ ”。古事記では“ かむあたつひめ ”と言われている」

「もう一柱は、社に名を使うとはさぞかし大事な神だろう」

「それがな。あれから記憶を探ったが覚えがない」

隣座敷から声がする。

「お隣の御仁、わしは先ほど禰宜に質して(ただして)来たがお仲間に入れてくだされぬか」

「それは幸い、お入りくだされ」

五十がらみかなかなか風格のある武士がするりと襖を開けて「御免仕る」とはいってきた。

「奥州白河藩本川次郎太夫と申します。これらは道連れというよりは古くからの友人で御座る」

「拙者、淀藩渡辺甚左衛門で御座る。江戸へ下る途中でな。宿の反対側に“ 谷黒乃御前大明神 ”と申す社が有り、宇加之彦の子、吉比古、吉比女の神を黒の御前に神籠(ひもろぎ)を建てて祀り候というそうじゃな。これすなわち石部鹿塩上神社と申すげな。今に両社となして下の社を吉彦明神。上の社を吉姫明神と申す。いやはや禰宜の口調が移ったわい」

「土地神でしょうか。近江與地志略に吉御子大明神社と上田大明神社と出る社でしょうか。詳しく覚えておりませぬが」

「石部鹿塩上が吉姫神社で石部鹿塩下が吉比古だそうでな。川の上流で上社だと言っておったわ」

四郎は「宇加之彦とは伏見の宇迦之御魂大神でしょうか」と聞いている。

「禰宜は知らんようであったが。ほかに思い当たる神もないのう」

宇迦之御魂大神は書紀の倉稲魂命の事だという、二人でこの神は女神のはずだという。

「それじゃ別の神様ですか」

「五穀豊穣を司るとされておるが、記紀には男とも女とも出ていない」

次郎丸も大きく興味が湧いてきたようだ。

「吉田兼右(かねみぎ)というお方が伏見の神の事を書いているが“ 中社 ウカノミタマ命 この神は百穀を播きし神なり 一名をトヨウケヒメ命 ”と“ 二十二社註式 ”に残している」

「やはり姫ですか」

「宇加之彦の出自は不明ですな」

伏見稲荷と伊勢外宮が同じ神とはここから広がったようだ。

新兵衛は酒を勧め、話を色々な方面へ振っている。

二月十八日

七つの鐘(三時二十五分ごろ)が聞こえて宿も早立ちの者が出てゆく。

飯は炊き立てで、いもつぶしと蒟蒻は炙って味噌が塗ってある。

今朝も、しじみ汁と香の物は大根の浅漬けが出てきた。

「お先に御免」

「道中お気をつけて」

次郎丸達も今朝は寅の下刻(四時十分ごろ)に支度が済んでいる。

「上がり戸でお支払いやす」と言われていたので式台へ出たが五人が最後の様だ。

新兵衛が清算すると「酒だは渡辺様から頂いております」と言われ千百文を宿代に支払った。

町が白み始めるころに宿を発った。

「こんなに早く出たのは江戸以来だ。宿が空っぽになるころに出てばかりだ」

藤五郎はくすくす笑っている。

「お江戸日本橋七つ発は流行ませんか」

「日本橋へ七つに出るには両国の俺んとこでも寝る間も惜しんで支度をするようだぜ」

次郎丸が「卯の刻前の五時三十分に屋敷の式台を降りた。今五時に成ったばかりだ」と言う。

「じゃ、今日が一番の早立ちだ」

幸八は「飯盛りの居ない宿ばかり泊まったと聞きましたが。なぜに選ぶのです」と四郎に聞いた。

「今頃気に成ったのか。飯盛りが居る宿は七つには熱い飯で汁を急いで食わせて追い出される。あいつら片付けが終わらなきゃ眠らせて貰えないからな。急いで客を追い出すのだ」

「初旅なのに、なんで知ってなさる」

「滑稽本から仕入れたのだ」

街道右手の小島金左衛門本陣は元三島本陣。

鉤手(曲尺手・かねんて)に右へ折れている。

でんがく茶屋の先、左手に下の社吉彦明神がある。

鉤手(曲尺手・かねんて)に左へ折れると百十六里目の石部の一里塚、その先が西の見附。

石部から二里三十五丁五十四間と刻んで草津。

草津宿は十一町五十三間半に旅籠が犇めいている。

西の縄手から三角の山が見え、街道の周りは黄色の菜の花の畑地が続いた。

真近の岡を回り込むように街道が畝っている。

「凹の形に大きく周りんでるぜ」

「三倍は遠回りしたようだな」

何か障害でもあってまっつぐ進むのを避けたようだ。

この辺り山椒の木が何十本も黄色の花を咲かせていた。

円を描くように回り込むと人家が十軒ほど有る。

小川へ降りる石段付近では女たちが洗った野菜を荷車に積み込んでいる。

林村からは家並が六地蔵まで切れることなく続いている。

それにつれて人の往来も繁くなってきた。

この付近寺の数も多い。

百十七里目の一里塚は六地蔵梅ノ木にある。

梅ノ木の立場には石部へ一里、草津へ一里半と標柱が有る。

小休み本陣の道中薬和中散ぜざい(是斎)の本家和中散大角弥右衛門。

梅木の和中散は権現様が腹痛を起こした時、ここの和中散を服用して以来街道で有名になった。

「大森の和中散の本家だ」新兵衛が驚いている。

目川立場が近くなり上鈎(かみまがり)という鉤手(曲尺手・かねんて)に成っていてその先も右、左と曲がった。

百十八里目は目川(めがわ)一里塚。

京に大坂迄人気が広まったと言われる田楽茶屋が隆盛を誇っている。

三丁程の間に“ 元いせや ”隣が“ 古志まや ”一丁先に“ 京いせや ”。

元伊勢屋岡野五左衛門は与謝蕪村に師事し岡笠山(りつざん)の名で知られている。

大田蜀山人の“ 改元紀行 ”によって酒は“ 菊の水 、料理は“ 田楽豆腐 ”と名が知れ渡った。

「また名物食い損ねたようだぜ」

新兵衛は嘆いている。

「今食ったら腹が膨れて軽尻でも捕まえるようだ」

「よしてくださいよ。草津まで一里もありゃしねえ」

大路井村付近は旗本領と膳所藩領が入り組んでいる。

草津川は此処の渡しと下流の中山道の渡しがごく近間(三丁程)に有る。

享保二年(1802年)六月天井川となっていた草津川の堤防が決壊し、草津宿内では三百軒以上の家屋が流された。

溺死者四十人余、行方不明者は数百人出ている。

東海道は草津川の北側を目川付近から通っていて、大路井村で徒歩渡しとなる。

まだ増水期ではない、木橋の橋銭を三文集めている。

水嵩が上がれば尺で八文から三尺三十二文の川越賃を会所の役人が集めている。

上り坂の途中に横町の道しるべ、ぼろぼろでよく読めないが信楽への道しるべの様だ。

右 金勝寺 志がらきみち ”“ 左 東海道 いせ道 ”とあて読みした。

此処が草津宿江戸口見附。

二丁程先が草津追分、中山道のほうから段に為った坂を連なって下りてくる。

「あんな橋で三文も取りやがる。矢橋(やばせ)の渡しでも六文だ」

「日に三百三十人来れば一貫近くだ」

「三人でやる仕事かよ。わりに合わねえよ」

まるで先ほどの幸八藤五郎と同じ台詞だ。

追分にもだいぶ草臥れた道しるべが有る

山城愛宕山 十一月吉日と七ヶ年中履行月参詣願成就所。

伊勢大神宮 延宝八庚申年。

ひだりは中せんたうをた加みち 美のぢ

京みぶ村 万宝院 あしたの行者

みぎハたうかいとういせミち

高札場は何処でも代わり映えがない。

此処から山田へ出て石場までの船便もあるそうだが利用者は少ない。

左手が田中九蔵本陣、田中七左衛門本陣は右手。

田中七左衛門本陣は別名草津本陣、もう一つの別名「木屋本陣」で知られている。

享保三年(1718年)の草津大火で全焼し、膳所藩本多家は急遽瓦ヶ浜御殿を移設した。

此処だけで五十人から七十人が宿泊できた。

脇本陣は大黒屋弥助、藤屋与左衛門、仙台屋茂八とある。

その先右手に問屋場と貫目改所が有る。

余談

改所は東海道品川宿、府中宿、草津宿、中山道板橋宿、洗馬宿に正徳二年(1712年)に置かれ、本馬一駄四十貫、軽尻は二十貫、人足は五貫が定めだ。

大名、旗本の多くが、量目を多く積ませることが増え、道中奉行への苦情が多かったための設置の様だ。

後に日光道千住(寛保三年1743年)、宇都宮(寛保三年1743年)、甲州道内藤新宿(文政四年1821年)、甲府柳町(文政四年1821年)、中山道追分宿(天保九年1838年)が追加された。

「朝の内だから袖引きも居ないな」

「時計は九時にもなりゃしねえ。巳の刻までだいぶあるぜ」

草津宿は客引きが激しく決まりで客引きを一軒一人にした。

本陣、脇本陣は流石にしないが、七十軒以上の旅籠が通り抜ける旅人を引き留めるのに、大騒ぎになったのだろう。

京から石部、守山へは此処を遅くも未の下刻に抜け、京へ向かうものは昼前に通過する。

小ぶりの道しるべが有る、新兵衛が首をかしげている。

「ここが東海道だとさ。迷子にでも教えるのかね」

前面は“ 右 東海道 ”右側に“ 天明七年五月吉日

「この右ってのが不思議だ。なら左はどうした」

四郎の言葉に幸八が調子に乗った。

そいつはどいつだ どどいつどいどい

新兵衛に笠の上から頭をはたかれている。

此処から中山道守山宿まで一里半、渡し船なら矢橋まで一里八町。

草津名物“ うばが餅 ”でどうするか決めようとなった。

其処の追分から矢橋まで二十五丁と道中記にある。

酒蔵が有る、問屋役人太田又四郎が主だという。

隣は佛國山正定寺、その先が荒物屋。

四郎はさっきから一杯ひっかけるか甘い餅か悩みながら歩いている。

志津川は土橋が有る。少し先右手西側に立木社。

境内は広い、五人は初穂料に南鐐二朱銀五枚を奉納して道中安全を祈願した。

由緒は禰宜から聞いた。

常陸鹿島の神が白鹿にまたがり、大和春日の地へ向かう旅の途中で立ち寄り、柿の木の鞭を地に刺し、“ この木が生え付くならば吾永く大和国三笠の山に鎮まらん ”というやそこから柿の木が生成したという。

「春日よりあが社のほうが古きゆへ兄と申す」

多くの高位の人々の崇敬を受け、参勤の大名も名代ではなく自身で参詣されると自慢した。

巫女が一人ついて境内社を案内してくれた。

矢倉立場の“ うばが餅 ”の見世は思っていたよりはるかに大きかった。

巳の刻(九時四十分頃)の鐘の後だというのに七割り方席がうまっている。

一皿五個で五十文と二十文の二通りあると言う。

「五十文を三皿に、後で土産話になるから安いのを一皿くんな。茶も上物を出してくんな」

「うちの茶は上物しかようださへん」

あんころ餅を次郎丸は二個上製を食べ、一個下の方を食べた。

「こいつぁ良いな。おりゃ安手に出来てるぜ」

皿に上製が二個余っている、通りで羨ましそうに見ていた子供を呼んで、懐紙へ包むと「少し離れたところで食べな」と差し出した。

道しるべの先へ駆け出し、そこにいた女の子と分け合って食べている。

懐紙を畳んで懐に入れると、こっちへ二人で頭を下げると小路へ入っていった。

「ここを始めたばあさんは百を越しても元気だったと云うが本当かえ」

「あいなぁ、そうおすえ。えらい働きもんやしたと聞いておす」

八橋(やばせ)から船で大津の石場(いしば)へ五十丁で一人六文。

昔から変わらないという。

瀬田へ廻ろか 矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち

分かれ道から来た客が「午の刻まで出ないとうお」と小女に言って席に着いた。

「あれさ、風でもつよなりはりましたん」

「こっちゃそれほどでもないが、向こうがよくないのか船が来ないのだ」

「こまりましたなぁ」

「良いさ歩きゃすむんだ」

次郎丸は「瀬田周りだ」と新兵衛に言って席を立った。

「またおいでやしとおくれやす」

幸八は戻りも寄るなぞと言っている。

もののふの やばせの舟は 早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋

道しるべは寛政十年とある。

右やばせ道 これより廿五丁 ”“ 大津へ船わたし ” 

瀬田の唐橋は膳所藩が管理を任されている。

草津から三里二十四丁で大津。

矢倉村の先に百十九里目の野路一里塚がある。

あさもこむ のじのたまがわ おぎこへて いろなるなみに つきやとりけり

野路の玉川で次郎丸がつぶやいた。

「兄貴おりゃ阿仏尼の十六夜日記は、知ってるがそりゃだれのだ」

「千載和歌集に有る源俊朝が詠んだものだ、小倉百人一首にもある人だぜ。此処は萩の玉川ともいう歌人の好んだところさ。草津の宿が造られるまでここが宿駅だったのさ」

のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはらす

十六夜日記(いざよいにっき)は京から鎌倉への道中の紀行文だ。

大亀川を越えた。

百二十里目の一里塚は月輪池大萱新田一里塚。

此処は立場で休み茶見世が並んでいる。

しばらく行くと小さな道しるべ街道右手の木の下にある。

右 せた ”“ 左 やばせ

神領の川を渡ると建部大明神への参道が有る。

禰宜の長い説明を要約すると、景行天皇の四十六年、神勅により御妃布多遅比売命が、御子稲依別王と共に住まわれていた神崎郡建部の郷に尊の神霊を奉斎された。

此処でも五人で南鐐二朱銀五枚を奉納して道中安全を祈願した。

余談

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は書紀に子供について男六人女一人、古事記に倭建命とあり子供は男六人とある。

ヲウス(オウス)」、亦の名は「ヤマトヲグナ(ヤマトオグナ)。

イナヨリワケノミコについて。

書紀に母フタジノイリビメ(両道入姫皇女)。

稲依別王(イナヨリワケノミコ)は犬上君、建部君の祖。

足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)。

稚武王(ワカタケルノミコ)、景行記に母は弟橘比売とある。

布忍入姫命(ヌノシノイリビメノミコト)、古事記に記載なし。

古事記に母フタジヒメ、フタジイリビメ(布多遅比売・布多遅伊理毘売命)。

稲依別王(イナヨリワケノミコ)は犬上君、建部君の祖。

唐橋東詰の休み茶見世で新兵衛が不満そうだ。

「どうしたよ」

「ここに来れば年代の誤差がつかるかと思っていて楽しみにしていたんですよ。あれじゃ記紀の棒読みだ」

「仕方ねえさ。勝手なこと言うわきゃねえさ。だが日本武尊様死去五年度の創建と分かっただけで十分だ」

書紀に従えば稚足彦(成務天皇)四十八年三月一日に三十一歳で足仲彦(仲哀天皇)が立太子。

父親ヤマトタケルは大足彦尊(景行天皇)四十一年に三十歳で死去。

母親フタジノイリビメの父親は活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)九十九年七月一日百四十歳崩御。

大足彦尊(景行天皇)は垂仁天皇十七年の誕生で活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)崩御の翌年即位(八十三歳)。

これに従えばヤマトタケルは景行天皇十二年誕生。

「大足彦尊さま実に九十五歳だ、崩御されたのは大足彦尊様在位六十年目で百四十三歳となる」

昔の人の記憶は曖昧でも新兵衛はもう少し何とか成りませんかという。

「足仲彦様が御生まれになったのが稚足彦様の十八年として、ヤマトタケル様が亡くなった大足彦尊様四十一年の三十八年後だ」

「そんなバカな話ありゃしませんぜ、大国主様とおなじように何代か抜かしたんじゃ無いですか」

余談

大足彦尊(景行天皇)は活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)十七年の誕生。

ヤマトタケルは大足彦尊(景行天皇)十二年誕生。

ヤマトタケルは大足彦尊(景行天皇)四十一年に三十歳で死去。

足仲彦(仲哀天皇)は稚足彦(成務天皇)十八年誕生。

・歴代天皇家を西暦に当てはめようとした人たちに拠れば次の時系列となる。

景行天皇・誕生前十三年・在位七十一年~百三十年

ヤマトタケル

誕生景行天皇十二年、八十三年・死去景行天皇四十一年、百十一年。

仲哀天皇・誕生百四十九年・在位百九十二年~二百年

瀬田の唐橋は藤原秀郷(俵藤太)の大ムカデ退治で喧々囂々、やはり新兵衛が歌舞伎から古書の話を豊富に引き出せる。

「なんで龍神が大蛇に変身するんです」

「俵藤太の肝っ玉を試したのさ」

龍神は老人の話と乙姫と言う話がある。

「三上山の蜈蚣退治なのに、あっしの見た画は橋の上で蜈蚣退治してましたぜ」

「そりゃ山を描くよりゃ橋のほうが有名だからな」

「ところで三上山は近いんですかい」

「あっこの三角山だ」

「六里くらいありそうですね」

「朝出て退治して戻ってくる。忙しい話だ」

「馬位用意するでしょうぜ」

「だから手短に橋の上だ」

新兵衛に良いように扱われいる。

「文化元甲子年の銘の擬宝珠が有った」

次郎丸が見つけて新兵衛が記録した。

「十三年前ですぜ」

「こいつは寛政五癸丑年だ、おれと同じ生まれだ」

二十一年前と十三年前に架け替えか修理がされたようだ。

「こいつはもう少し前ですぜ。明和九壬辰年だ」

幸八は大喜びだ、四十二年前もあるということはわずか三十年の間に三度手が加えられている。

「有りましたぜ天明だ。明和より新しいかな」

天明五乙巳年は二十九年前だ。

「おいおい、三十年で四度(よたび)かよ。膳所藩も大変だな」

「膳所は今年参府の年だろう。兵部大輔様も暑い中大変だ」

「でも日が長いのではかどりますぜ」

良いとこが有れば悪いのもあると景色そっちのけだ。

鳥居川の集落の先が百二十一里目の粟津の一里塚“ 粟津の晴嵐 ”で有名な浜は山から吹き下ろす風で波立っていた。

橋の先に膳所の惣門が見えた、番をする五人ほどの若侍に軽く会釈して通り抜けた。

右へ折れてまた橋を渡ると若宮八幡の社が有る。

街道は何度も曲がり牛頭天王をとおり、鉤手(曲尺手・かねんて)で二度曲がって先へ進んだ。

右手は膳所城、天守の屋根が見えている。

この時代膳所焼と言われた窯は衰退している。

四郎が後継者は残らなかった様だと新兵衛と話している。

「近江上布の問屋が草津に有るけどありゃ彦根ですからここらにゃ機屋は無いみたいですね」

北の惣門を抜けてしばらく行くと義仲寺門前に休み茶見世が有る。

甘酒の木の札に惹かれて五人分を頼んだ。

小僧が道筋の掃除をしている、聞くと義仲寺の者だという。

「芭蕉翁の墓を訪ねたいが参拝できるのだろうか」

「和尚さんは芭蕉翁の此処で詠んだ句を知っていれば歓迎しますよ」

きそのじょう ゆきやはえぬく はるのくさ

「元禄五年甲、此処で詠んだと載っていた」

数を数えて「五人さん来られますか」と聞いた。

皆うなずいたので「後をついてごじゃれ」と先にたって案内した。

七十に近いかと思われる和尚は気持ちよく迎え入れて「幸六やお前が案内しなされや」と言いつけた。

新兵衛が南鐐二朱銀をくるんで「後で寺にもお布施を献じるがこいつはお前さんの役得だ」と手渡した。

「使うところがないよ」

「貯めておいて損は無いさ」

ニャツと笑ったようだ。

義仲の墓と芭蕉の墓が並んでいる。

「巴御前は木曾で亡くなったと本に出てるが」

「でも向こうに巴様の墓だというのが有りますよ」

元禄十六年に内藤丈草が供養の経塚を建てた、丈草の墓も此処に有る。

多くの芭蕉を慕う者達もここに墓を置いた。

次郎丸がそれを言うと新兵衛が驚いている。

「若さんそんなことまで調べなさったのかね」

「宮で借りた冊子に乗ってたよ」

新兵衛が供養料だと二分包んで和尚へ差し出した。

義仲寺を出るころ風は収まっていた。

湖寄りに休み茶見世には鮓の暖簾がはためいている“ 御酒肴 名物源五郎鮒 御仕度 ”と名物鮒鮓を売っていた。

松本村石場は矢橋からの便船の着く二か所のうちの一つだ。

此処の常夜燈は高燈籠で、宝浄院が設置し“ 乗客の寄進で油代を賄っている ”と書いてある。

もう一つは大津宿の北側に小船入りという地にある。

常夜燈は一丈五尺の物が有ると書いてある。

文化五年京(みやこ)常丸藤講が音頭を取って設置している。

緩やかの上り坂の街道左の南側に平野神社への参道が伸びている。

「京(みやこ)にも平野社が有るが、こちらは藤原の大織冠様が天皇の命で創建と伝わるそうだ」

「大津の京(みやこ)が有ったころですね」

「そうだよ。俺の読んだものには、大鷦鷯命仁徳帝の分霊を祀ったと有ったが、後に蹴鞠の神の精大明神を祀ったそうだ」

「精大明神ですか、聞かない神様ですね」

「公家が蹴鞠の神として祀っていたようだぜ。誰かが猿田彦だと言いだした様だ」

「京(みやこ)のほうは誰を祀ったんで」

「行ってみればわかるが驚くぜ。今木の神というそうだ」

「誰ですそりゃ」

藤五郎は首をかしげている。

「山部桓武天皇様の母君の祖先神だそうだ。いまきは元々今来るや新しく来ると書いていたそうだ。百済から来た人たちだそうだ。平氏の神とされていたがいつのまにか源氏の神様にもなったそうだ」

「なんでです」

「源氏も平氏も先祖は山部桓武天皇様だからだよ」

「神様って深く聞きゃ聞くほどごっちゃになります」

幸八も兄の影響で徐々に昔物に興味が湧いてきている。

石場の先の鉤手(曲尺手・かねんて)を左に折れると一里塚が有る。

百二十二里目の石場の一里塚だ。

大津宿は南北一里十九町、東西十六町半、街道は和泉町から京町へ真っ直ぐと続いている。

一里塚の先鉤手(曲尺手・かねんて)で右へ折れると急に袖引きが増えた。

申の下刻(午後五時四十五分頃)を過ぎて番頭、女中たちも懸命だ。

新兵衛が「大津百町は九十六町だ」などいいながら目当ての宿を探している。

京町の餅兵(もちひょう)はこの時刻でも盛況だ。

道に出て、所在無げな風情で膳所の方を見ている五十過ぎに見えた番頭に聞くと「うちです。うちが“ おおはらや ”ですねん」というが付近にその名は無い。

次郎丸がもしやと思った。

「駿河原宿の香貫屋で聞いてきたのだが」

「わっちは何処からかしりやせんどす。お二人様と飛脚が文を持っておいでした」

「奥州白河藩本川次郎太夫だが」

「そのお方探してましてん。どこぞで道連れ増えましたん」

「宮で一緒に為ったんだ。今日来るとあてでも有ったのかね」

「うちのおかみはんが近いうちに来るから見逃したらあきまへん言われますねん。一昨日(おととい)から待ってましたん」

「特徴を聞いてあるのかね」

「若いお侍と美男のお供だと聞いてます」

四郎にやついている。

次郎丸は二人と思い込んでいるなら、宮へ入る前の情報が流れたか、庄野で二人でと談四郎にいったのを守って流したのかと思った。

札の辻で左へ折れて下八町へ入った、右へ折れれば御蔵に代官所、直進は西近江路(北国街道)、京(みやこ)へ小関越えの街道が有る。

下東八軒町百石町通手前脇本陣播磨屋市右衛門の先、金塚町通北側に大塚本陣大坂屋嘉右衛門、二軒おいて上東八間町に入ると布施屋町道通角に“ おおはらや ”が有った。

大宿の風格が有り間口七間と見えた、“ 大原屋清右衛門 ”の看板が風格を見せている。

「御着きです、お供が増えて五人さんどす」

女将が「ようこそ、おこしやす」と自ら次郎丸の草鞋を解いて脚絆も濯いでくれた。

座敷へ通ると「ちょっともおいでやさしまへん。しんぱいしましたんえ」と式台とはだいぶ違っていた。

四郎はまた後家殺しが見られるのかと考えている。

「宿帳を付けるからご主人を寄越してくれるかい」

独り者かどうか確かめたようだ。

「わてが此処の主どすがな。聞いておへんえ」

「原ではそんなこと言ってなかったぜ。それに泊まる約束もしなかった」

「いや、四郎。松風とかいてしょうふうさんだと言っていたぜ。俺たちが勝手に男だと思い込んだだけだ」

「通り抜けしりゃすかと、そおもうてなぁ。叱られたかてかめへんよって。はよぅに頼みましたん、そいで通り抜けさせへんよに人を出しましたん」

その後で「ああ、看板どすか。代々名でおます」と、“ にこっ ”と笑った。

「何ゆへこんなに日が掛かりやす」

「宮で神戸節のおさらいだ。四日ほど居たのだ」

一の鳥居こし、二のとりゐこして もはやあったも ちかくなる

「まぁ、たんとおふざけやした。良く覚えておいでで」

おもひだすのは わすれるからよ 思ひ出さずに わすれずに

四郎も驚いている、女将が即興で一度歌った歌だ。

幸八も合いの手入れていいか迷っている。

「若さん、覚えるこつでもあるのか」

「新兵衛や猪四郎と知り合って博覧強記の真似事をしてたら勝手に文字が浮かんでくることが有る。真剣に読むより雑談してる時の一言一言が文字になる」

「じゃ俺たちが何気に話す世間話が本のように頭に収まるのですかい」

「安房へ出たころから特に強くなったよ。例の岩井野清治郎殿に会った時からと云うほうが正確だな」

「あのお人、若いのに話じゃ武術の達人、学問は先生を抜くと」

「あやかりたいものさ」

女将が間に入った。

「わいにも若さんと呼ばせて頂けますか」

「構わんさ。本川のほうがこそばったい」

さっきの番頭が宿帳を持ってきたので、いつものように書き上げた。

「もう食事を出せますが、風呂を先にしますか後にしますか」

「酒を一人二合付けてほしいが風呂を先にしよう」

「十人様まで入れる大風呂と一人風呂が用意できますが」

「荷を預けられるなら大風呂で良いよ。その方が早く酒に有りつける」

かば焼きが頼めるか聞くと頼めるというので五人分を頼んだ。

「最近工夫が出来て丼の熱々が頼めますがどうされやす」

「それを頼んでくれ。そうすりゃ食事の飯は半分でも十分だ」

久しぶりの江戸の湯屋のような風呂場だ、戸棚風呂に慣れていない幸八に藤五郎も喜んでいる。

「本陣の大名風呂よりこっちが良いな」

「温泉の大風呂がなつかしいですね。箱根で入り損ねやした」

次郎丸は頭をシャボンで洗い新兵衛に結ってもらった。

「旅に出てびんつけを付けないこの方が気分は良いな」

小夜ふけて 八っか七っか明六っの 鐘がかたきの半兵衛は

小唄まで唄いだした。

「そういや、こいね半兵衛は此処が舞台だ」

「若さんこの話は本物ですかね」

「百年前に遊女と心中はどうだろうな。近松物にも多いからな」

父親の政策で心中物の浄瑠璃、歌舞伎にも制限が掛かって久しいが、少しは緩やかになってきた。

一時はめでたしめでたしに台本が書き換えられたほどだ。

飯の時も神戸節の事に話が及んだ。

「女将のお仲さんがあの時いくつくらい即興で唄ったんだね兄貴」

「五曲だったよ。江戸で聞いたのと似ているのもあった」

そめてくやしや 江戸むらさきに もとのしらぢにしてほしい

ソイツはドイツだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク

たつはかみそり たたぬはしんしゃう あるはしゃくせん ないはかね

ソイツはドイツだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク

とのごもつなら、廿四か五六、つづやはたちは、うはのそら

ソイツはドイツだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク

鰻が届いたので酒を一人二合当て追加した。

新兵衛は小娘のおちかが唄ったのを控えておいたという。

ありがたいやの すずしの蚊帳で なかでするがや えいらくや

ソイツはドイツだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク

十九日の朝は雨。

卯の下刻(六時十五分頃)に“ おおはらや ”を旅立った。

上西八間町松屋町通向かい側に本陣肥前屋九左衛門が有る、その先が逢坂越えの入口下関寺町になる。

牛車(うしぐるま)の轍石がひかれている、車石と言うそうだ。

雨上がりの道は滑るので歩きにくく、道中合羽を羽織っていても肌寒い。

十年ほど前京(みやこ)の脇坂義堂が私財を投じて大津から三条大橋へ物資を運搬する牛車専用通路を造った。

おおはらや ”の松風(しょうふう)の話では、一万両の上は掛かっているという。

幕府は百年前、牛車の禁止から運用の奨励へ舵を切った。

その手始めが大津から京(みやこ)への荷の運搬だ。

主な荷は米俵だ、九俵積むと車とで二百貫を越えていた。

木食養阿(もくじきようあ)上人をはじめこの街道の整備をしたものは多い。

この脇坂の資金提供は幕府を動かし、文化三年正月七日までに準備が整い、工事に取り掛った。

三里あまりの普請は三月二十一日までに完了した。

「すごいものだな」

「街道が全国津々浦々このように整備されれば荷運びの苦労が減ります」

「こいつは今片道ですれ違いに苦労しそうだ」

「四郎よ。女将は言わなかったが、見ろよ京へ向かう牛車ばかりだ。こいつは午の刻までに京(みやこ)へ着く者達で、午の刻からは大津へ向かう牛車(うしぐるま)とお達しが出ている」

女将は脇坂一人の費用捻出のように言うが、書き上げには近江日野中井源左衛門の名もある。

次郎丸が見た書類には脇坂と中井で七百五十両とあってそのほかの財源は明示されていなかった。

「馬方がいるなら牛方でいいのかね」

街道の右手に一段低くなった石の上を同じような歩幅で歩いていた車石の牛車(うしぐるま)を引く男に聞いたのは幸八だ。

「牛追い、牛飼い、牛方。いろいろ言われるですら」

「一日何台くらい通るんだね」

「人馬会所に届けしてるなぁ大津で八十台ありやすら。半分以上は毎日荷運びが有るら、残りは車を引かずに村々への荷を運びますらよ」

四郎は次郎丸と歩いている。

「道中記に下関寺町、中関寺町、上関寺町とあるが関寺は見当たらないぜ」

「とっくに無くなって牛の供養塔が残るそうだ」

「また牛かよ」

「地震で倒壊し、立て直す時に資材を運んだ牛の一頭が霊牛と噂が出たそうだ。いろんな人が書いているが、俺は見ていないが、牛の入滅に立ち会ったと参議源経頼が左経記に書いたそうだ」

「関寺小町の関寺なのか」

「そうらしいぜ、百歳の小町は会いたくないな」

「関寺に小町が居たのですか」

藤五郎は小町なら美人でいてほしいという。

「いくつか流儀によって違うが、関寺の僧侶が近くに住む老女に会いに出かけたら小町だったという仕立てだ」

四郎は卒都婆小町も老婆の設定だと藤五郎に教え込んでいる。

牛方が耳を澄ませていたが「旦那方、長安寺ちゅう寺に牛の塔が有るだ。そこがその関寺だちゅうてくる人が居るだすな」と残念そうに言う。

「どこにあるんだね」

「さっき出てきた旅籠に近いすな。昔逢坂の関ちゅうのもあったすな」

不思議な言葉尻だ。

「戻っても小町が出てくる分けじゃなしと」

「牛の塔に参る人は居るのかね」

「わしらは行かんですな。なんでも百年前は土に埋もれてたちゅう位のもんすな」

新兵衛も「それより蝉丸へ行く方がいいですよ」と戻る気はなさそうだ。

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

新兵衛は上手に朗吟した。

名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな

「うめえもんすな。俺も覚えようかな」

「字は読めるのかよ」

「詩はどうにか知ってるだが、そんな風に節をつからんね」

「それなもう一つ。清(せい)しょうなごんの詠んだ詩が覚えやすいぜ」

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

「わし、蝉丸様は意味が解るだが、この関はゆるさじがわなんねすら」

「この関はね。支那(しな)に有る函谷関を踏まえて詠んだんだぜ。宮中では教養が有る人たちでお互い通じるならいい歌だと評価されていたんだ」

兄貴、芭蕉は此処で詠まなかったのかと四郎が振ってきた。

「有るけどこっちじゃなくて小関越えだ。宮で借りた冊子に“ 山路来て 何やらゆかし すみれぐさ ”と出てたよ」

坂で牛の歩みが遅くなった。

峠の“ 逢坂常夜燈 ”には寛政六年の文字が彫られている。

関大明神が有る。

「ここが蝉丸」

古い石灯籠が有る。

「つくりからすりゃ三百年じゃ聞かないぜ」

関の清水は水が枯れていた。

逢坂の関の清水に影みえて 今やひくらん望月の駒

「それも蝉丸ですか」

「紀貫之」

「そりゃ古い」

「ここで関東から来る馬を出迎えたそうだ」

走井が有り、立場に“ 走り井餅 ”の休み茶見世が有る。

「すごいね水が溢れ出てるぜ」

此処で茶を頼んで餅を一人二個食べた。

休み茶見世を出た時、未だ九時に成ったばかりだ。

上り下りが続いていて、牛車(うしぐるま)が列をなしているがだいぶ辛そうな顔に見える。

近江と山城の国境の標柱の先、百二十三里目の走井の一里塚を過ぎた。

山科追分は髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)の道しるべは“ ひだりハふしミみち ”“ みぎハ京のみち  ”参勤は京へ入ることが許されず伏見へ回ることに成る。

先には小関越えをして来た道と此処で行き会う。

山科地蔵の名で知られる徳林庵は小野篁作六地蔵の一つ。

五条別れ道標は宝永四年の建立。

右ハ三条通

左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐ満きよ水道

願主 沢村道範

百二十四里目の一里塚は山科陵。

別名が鏡山という、遠目に見ると陵地は南向きのゆるやかな傾斜面にあった。

時計を見ると十時二十分「この帝が我が国最初の水時計を建てられたそうだ」と幸八に教えた。

「漏刻という、大層大がかりな物だったそうだが、今は二挺天符でもだいぶ小さくなった」

「若さんのは手のひらに乗るが、こっちで作れないのかな」

「倍くらいの物はできたが。今の夜昼の長さを変えて計る間は売るのは無理だぜ」

亀の水がある、湧水は量救水(りょうぐすい)と言われていた。

亀の形をした石の口から水が出ていることから亀の水、日ノ岡神明の境内は広い。

木食正禅養阿上人が道路整備の時、人足を休ませた場所だ。

日ノ岡峠を降りると粟田口。

粟田焼は茶人好みから此処で修業したと伝わる野々村仁清の影響が及んで絢爛豪華になってきた。

青蓮院(しょうれんいん)へ回った。

現青蓮院門主は尊真法親王一品親王という高位の方になる。

天台座主第二百十、二百十二、二百十五、二百十七世と四度選ばれている。

すでに七十一歳。

門が閉まっていたので知恩院へ向かった。

御影堂は大殿とも称され寛永十六年(1639年)徳川三代将軍家光によって再建された。

「増上寺の大本山だ」

祇園社は後日として一本橋を渡り東海道へ戻った。

三条大橋を渡り川筋を下って五条まで歩いた。

三条大橋は幅三間、長さが六十一間とある。

三条、五条の橋は管理が京都奉行所の管轄だ。

五条は幅三間四尺、長さ七十六間ある。

五条橋の東、宮川五丁目佐野屋を橋番小屋で聞くと橋向こうの二つ先を上るというので橋を渡った。

角を左手に曲ると小路の先に“ さのや ”という看板を下げているのが見えた。

「江戸から来た本川だが伊勢屋さんから話は来てるかな」

「おこしやす。未雨(みゆう)の宗匠から連絡が入っておりやしたんえ」

伊勢屋吾郎より未雨(みゆう)のほうが浸透しているようだ。

「近くに湯屋は有るかい」

「蒸し風呂に湯船につかる湯屋のどちらが宜しおす」

「湯船のほうがいいな」

「三助付けはるならいい湯屋が有るどす。ちょとお高くなりますよ」

「いいとも、そっちのおあにいさん持ちだ、一分だろうが一両だろうが人の懐だ」

「湯女でもお望みで」

「いやいや垢すりだけで十分だ」

富永町の湯屋へ小僧が一人案内に着いた、おかみは「お早うおかえり」と送り出した。

「二階でお待ちしますので必ず声をかけてください。この間忘れられて往生しましたん」

「そん時ゃどのくらい待ったんだ」

「宿へも此処にも戻れのうのうなりはりましてん。一刻後に迎えが来ました」

辛抱強いのか、おつむが弱いのか気になって荷物は番台へ預け「忘れないが、好きな菓子でも食っていろよ」四郎は豆板銀を一つ渡した。

四半刻程で幸八が二階へ揚がり茶で煎餅をかじった。

いり豆を齧ってる小僧に幸八か話しかけた。

「小僧さんよおめえ生まれ育ちはこのあたりか」

「おくるみのこんから祇園さんの氏子じゃ」

祇園社は牛頭天王社、この湯屋から三丁ほど東に有る。

「“ さのや ”は旅人宿の様だが色町のような雰囲気が有るな」

「おまはんら知らんで来はったん」

「何のことだ」

「新地の噂も知らんのん。家の辺りは遊び場から若衆がたむろする家も多いのん」

「ウフッ。宗匠にしてやられたぜ」

「未雨宗匠、芸者遊びも若衆買もせんで仕事ばかりしくさりますんや」

「これこれ言いつけ口はよくないぞ」

「ごめんやっしゃ」

帰りがけに余ったと四文銭の紙つつみを四郎に渡そうとしたので「取っとけよ」と言われて慌てて懐へ押し込んだ。

「こんだ鮓でもでも買うし」

来る時とは違う道でと言われ川筋を歩いた。

どんぐり橋は三人並んで渡れるまずまずの橋だ、子供が座れる程度の低い欄干が付いている。

松屋橋で小僧は得意げに「ここが昔は五条橋で弁慶と牛若が争ったのはここやし」と自慢した。

幸八は「ようしっとるな」と褒めている。

宿の近くに見慣れた紋の晴明社が有る。

「これは五芒星と云うんやし」

晴明塚の跡地に建てられた社だ。

次郎丸の頭は晴明が建てたという法城寺の事が思い出されていた。

みずさりて つち なる 

「なんだ兄貴。呪文なんか唱えて」

「昔な。豊太閤に嫌われて追い払われてしまった陰陽師の拠り所の法城寺と云う寺がここらに在ったのさ」

「心光寺さんとちゃいまんか。晴明はん作らはったときいてます」

「それだな」

子供でも地元には詳しいようだが、実は豊太閤が此処から排除した。

さのや ”へ戻ると女将は夜の相談へ部屋へ来た。

「どこぞ遊びに出はりますか。宿の食事で宜しければお決まりのほかは、出前をさせます」

「宿の飯で良いよ。大津で鮒鮓を食いそこなったが鯖鮨も似たような物かい」

次郎丸態と知らないふりだ。

「塩鯖を使って酢でしめる棒寿司でおます、鮒鮓とは作り方違いますねん」

「鰻と食い合わせは」

「そんなん聞いたことおへん。両方取り寄せますのんえ」

「頼むよ。酉の鐘の頃には飯にしてくれ。酒は一人に二合付けるように」

新兵衛が女将に頼んでいる。

「それと明日から三日京(みやこ)見物だ。誰ぞ詳しいものでも案内を頼めるかな」

「うちの小僧どうどす。あれで名物やおてらさん詳しいおますのや。おんなじもん食べさせてくれはるなら案内料も掛かりまへんて」

 

第六十七回-和信伝-参拾陸 ・ 23-12-02

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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