二月十三日
六つ刻(五時五分頃)の旅立ちと聞いていたので四郎は裁断橋まで見送りに出た。
景晋は四郎を見て“ にやり
”と笑って橋を渡っていった。
供は河合新伍郎に藤堂仗助、中間三人の六人での道中だ。
先ぶれに河合伝次郎と若党の栄次郎が二日先行している。
戻った四郎と新兵衛は白鳥塚へ向かった。
本居宣長が寛政元年に此処へ来たという。
“ しきしまの
やまとこひしみ 白とりの かけりいましし あとどころあれ ”
「四郎さん本居宣長という人はここが確かに日本武尊の陵墓(能褒野)と断定していませんぜ」
「俺も読んだよ候補が四か所、掘るわけにもいかないしな」
「義父もね。熱田社の事や陵墓の事が気になるので調べろとは言うのですが、水戸でも断定できる人は居ませんね」
「物見高い次郎丸の兄貴が来ないということは確実じゃないと踏んでるのかな」
「だってね。埋葬された後しらとりになって飛び立ったは良いですがね。行った先がどうして分かるんです」
「それだよ。作り話とまでは言わないが古事記に河内国の志幾、書紀に大和琴弾原、河内の旧市邑へしらとりが降り立ったは信じていいのかね」
能褒野に葬られたがしらとりが飛び立った後の棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)は無かったと書紀は伝えている。
その白鳥は記紀ともに天へ昇った(翔り)としてある。
自其幸行而到能煩野之時 思國以歌曰
夜麻登波 久爾能麻本呂婆
多多那豆久
阿袁加岐 夜麻碁母禮流
夜麻登志宇流波斯
能煩野(のぼの)に到着された時、国を思い、歌を詠まれました。
“ 倭は国のまほろば
たたなづく 青垣山籠れる 倭し麗し ”
「四日市にね」
「なんかあるのか」
「鳥出神社(とりでじんじゃ)てのがあるそうでね。しらとりがこの熱田へ向かうときに休んだと言い伝えがあるそうでね。おまけがあるんですよ」
「大分(だいぶん)ともったい付けるな」
「嘘かまことか、蛇にかまれた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を乗せて白鳥が此処まで来ると白鳥が亡くなったので、それを憐れんで墓を造ったというんですよ」
「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)でなくしらとりの墓だってぇ」
「声が大きい」
「いくら兄いでもそいつはあんまりだ」
「でしょ。俺もね、眉唾だと思うんですよ。しらとりになってやってきたという神社は数多くありますが乗って来たは無いでしょうよ」
「そんなにあるのかよ」
「遠くは伊予、讃岐、阿波にもありますぜ。関東は上総一之宮。江戸は品川ですがここは白い雉だそうでね」
「九州はさすがにないか」
「思い出しました。日向にねだいぶ後になってですがね、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の霊が白髭の老人となって現われ、名を告げ、此処へ祀れと言って白鳥と化して飛び去ったと」
新兵衛、故事来歴を調べるのが仕事のようなものだが良くスラスラ出るものだ。
「若くしてお亡くなりになったのに白髪の老人はひどい」
「死んでからも年を取るんだろうさ四郎さんへ」
二人は八剣宮(夜都留岐)へ回った。
西鳥居を背に欠町を熱田社で右に折れて塀際を進んで左へ折れた。
二十五丁橋で右手へ向かった、右手に八剣宮がある。
八剣宮は熱田社の別宮、和銅元年の創建と伝わると云う。
熱田社にすべてが順じて行われ“ 草薙大御剣神 ”を祭神として武将の厚い信仰を受けている。
熱田社は仲哀天皇元年の創建と伝えられてきた。
宮を出て市場町から神戸をとおり浜鳥居で午の鐘を聞いた。
“ いせ久
”へ入ると吾郎が久左衛門と冊子を並べて議論している。
其角が芭蕉と同等か、生涯壁を越えられなかったかを半刻以上議論しているという。
「兄貴は参加しないのかい」
四郎の言葉に新兵衛が答えた。
「若さんは好きと嫌いで評価は替わるが持論ですからね」
久左衛門が「同じのが有ったので上でじっくり見てくると逃げましたよ」とすっぱ抜いた。
“ 蛤の 焼かれて鳴くや 郭会 ”
二人が其角のこの句について盛んに議論している。
はまぐりが主題かホトトギスを主としたのか双方の見解が違うのだ。
「芭蕉は蛤を詠んでいないのかね」
四郎は吾郎へ問いかけた。
「有るけど桑名や四日市じゃないんだ。大垣で“ はまぐりの ふたみにわけて 行く秋ぞ ”と芭蕉は詠んだし、一茶師匠は柳橋の時に“ 蛤の芥を吐かする月夜かな ”ってのを残してる」
さすが俳諧を売りにしているだけの事はある。
「知っているのと良い句を作れるのは違うのが俺の欠点だ」
吾郎は恥ずかしそうだ。
芭蕉は奥の細道の結びの句として元禄二年九月六日に、この句を詠んで水門川の船町湊から桑名へ舟で向かっていると吾郎は本をより分けた。
「未雨師匠。桑名では何も詠んでないのかね」
四郎が煽った。
「ありますよ。その時も結びの後でも詠んでますがね。奥の細道の四年ほど前に出た野ざらし紀行には“ 明ぼのや しら魚しろき こと一寸 ”を乗せています。推敲前は“ 雪薄し白魚しろきこと一寸 ”だったと記録があるのですよ」
野ざらし紀行は奥の細道より五年前だが、刊行は芭蕉没後の元禄十一年、奥の細道の刊行は元禄十五年。
多度大社へ参拝の折に詠んだ“ 宮人よ 我が名を散らせ 落ち葉川 ”は明和九年に碑が建てられた。
吾郎は誰か止めなければ何時までも芭蕉の足跡を話していそうだ。
「これ本川殿という御仁がお泊りと聞いたが」
ずいと入ってきた人を見て久左衛門は仰天した。
熱田奉行より怖い与力の早田与四郎だ。
「驚くことは無い。ご相談がござってな。小山様がお会いしたいので御出で願えないかというのだ」
小山甚左衛門は昨年から二人制に移行した熱田奉行へ着任してきた。
降りてきた次郎丸が皆に「中西道場のお仲間だ」と告げて草履を履いた。
角を曲がれば船会所、西浜御殿の先が元の代官所、今の熱田奉行所だ。
「若さん、知らん顔はひどい」
相役の林八郎左衛門を前に次郎丸に苦言を言う。
「許されい。まさかに奉行に成られたとは知らなんだ。良く本川と名乗っているに、わかりもうされた」
「白川藩の方で長逗留とくれば藩でも捨て置けない。張り番がついている」
剃髪の老人が入ってきた。
「浄翁でござる」
隠居した附家老の成瀬正典だと思い出した。
「昨日遠山殿とお会いしての戻り道に定栄殿とすれ違った。四日(よっか)ほど前から東へ来ていたのだ」
本陣から出た駕籠とすれ違ったと思い出した。
最後にあったのが五年前、それもさる大名の招きの席でとおり一辺の挨拶だけだ。
その時に隠居したと聞いた、何時の間に剃髪したのだろう。
この人が藩の命運を左右するとまで言われている、隠居しても暗然たる勢力の大きな力を持っている。
結の情報では跡を継いだ正寿は、尾張藩より独立したいと藩主の許しを得たが、幕閣は認めていない。
「甚左と相談してきてもらったはな、藩は殿の事で隠密に敏感だ。疑念を晴らして頂けようか」
「隠密には違いありませんな」
前の三人に緊張が走った。
「幕府隠密などと大層な物ではなく。いま我が藩の受け持つ房総警備に役立つように摂津方面の防備について見て回れと言われて出てきました。海岸線の正確な地図はまだ完成しておらず大砲も時代遅れ、その中でどうすれば異国の船の脅威を受けずに、国土を守れるかの勉強という口実で、世間を見て回っております」
「熱田へ来て何か気が付きましたかの」
「大船が入れる湊がありませんな。せめて千石船の入れる湊が熱田に欲しいものです」
堀川は川下から、新橋(尾頭橋)、古渡橋、日置橋、納屋橋、伝馬橋、中橋、五条橋とあり帆船で遡るのは容易ではない。
御船蔵には櫂で城下へ上る関船がある。
弁財船など五百石以上は熱田では沖で荷を降ろすことに成る。
尾州廻船はこの頃小型船の常用を説く人が増えている、二百石程度の船なら大坂での競争に勝てるというのだ。
内海船の廻船仲間である戎講の納める上納金は藩にとって重要になりだした。
三十石程度の渡し船でさえ、潮が引けば波止場へ近寄れない。
「二百石、三百石の船で十分商売ができておる」
「それはそうでしょう。沿岸を日数掛けても儲けは出るでしょう。江戸が下りものに制限を掛けている今は、儲け時に違いありません。瀬戸に常滑、江戸では重宝しています。しかし政治向きはいつ風が吹き戻すかしれません」
この時代尾州廻船は上方からの米や大豆、肥料、塩を江戸湾へ。
江戸に神奈川、浦賀の干鰯などの買い付けをして戻った。
尾州廻船は内海船を芯に活動し、塩専門の野間船、酒や酢を半田に亀崎から江戸へ運んだ半田船、常滑焼を江戸に運んだ常滑船などが運用されている。
「尾張は米切手の返済はできるのですか」
「無理じゃ。残り後二年もない。三十万両などどこから掘り出すんじゃ」
酒もほとんどを江戸へ送り出してきた、酢の生産も利益を生んでいる。
尾張に入る物産は多くなり、売り物の総額を上回っている
儂が隠居したら歯車のかみ合わせが狂いだした、この若造が何を根拠に商売の機微を語るのだと興味がわいた。
「倹約を進めるのかね」
「倹約と蓄積、これは大事です。会計に入るものより出るものを少なくする」
「諸式高直じゃ」
「借り倒しますか。それじゃあんまりだ。物を売るには売り方があり、利を生まなければ誰もが敬遠します」
「よくわからんな」
「貧乏藩は藩士までが利を生む物を作ります、江戸の御家人は筆耕、傘作り、植木栽培などの副職をし、家を保ちます。お家では三千人以上の家臣が何を稼いでいます。領民を支配して取り上げるだけでは人は従いませんよ」
上方の木綿に対抗できる木綿の栽培を勧めた、すでに尾張の晒し木綿の販路は拡大している、十倍、いやそれ以上の市場は有ると結は見ている。
岐阜縞木綿はここ三十年順調だが江戸の商人が独占を狙いだした。
「木綿をそこまで生産して買い手は」
房総の干鰯を買って木綿を売る、船が大きければ奥州、蝦夷、出羽へ売り込めると伝えた。
尾張一之宮だけでも木綿問屋は二十軒を超えた、池鯉鮒の盛況に追いつくだろうか。
摂津坂上綿,常陸下館綿は高級品の扱いを受けているが尾張は対抗力がない。
確かに美濃縞の生産力は高まってはいる、しかし多くても五台程度の織屋が中心だ。
菅大臣縞、寛大寺縞、勘大寺縞と音で“ かんだいじん ”と“ かんがいじ
”とよばれ、桟留縞は縞木綿の総称だ。
江戸の伊勢晒しの主な生産地は知多だ。
知多晒が伊勢晒の名を使わずに売り込む必要もある。
結の調べでは今のままでは二十万反が限度だという。
新兵衛が房総を回った後、干鰯に〆粕は猪四郎が手がけだした。
その尾張への販路を藤五郎へ任せ、木綿生産の増えた分を扱わせれば一挙両得と言える。
定信以来、絹物の制限により木綿の需要は大幅に伸びているが、倍は必要だと猪四郎は考えている。
「桟留縞の織機は増えているのですか」
「その様なことも御知りで」
「又聞きですよ。下総結城縞と高機(たかばた)の技術が伝わったとも聞きました。織れる人を増やしていますか」
「資金があればと相談は受け申した」
「お手伝いしますよ」
「百や二百でできる話でも無いでしょうな」
「利に年一割、三十年償還なら繰綿撚糸も含めて織機十台の機屋五軒まで貸し付けさせます」
「定栄殿にそのような金が動かせますか」
「本間という酒田の商人を御知りですか」
「名は聞いておる」
「“ いせ久
”へ後から追いついてきたのは酒田本家の娘婿、その弟に江戸本間の弟。年千両までの投資なら私の口利きで可能ですよ」
目的がはっきりし、相手を選べるなら可能だと話した。
「ひと月後には江戸へ下りますので、大津を立つ前に連絡をつけますがいかが」
小山甚左衛門へ連絡を取ると約束した。
「部屋住みで良くそこまで扱えるとは、若さん何時の間に力を付けた」
「金は無いが人は動かせる人脈ができたのだよ」
暫く雑談が続いた。
「藩では知多に防衛拠点を作られたとか」
「みましたのか」
話しだけですと安心させた。
「大野湊に廻船が多いと聞きました」
「誰からお聞きで」
「鍛冶屋ですよ」
“ いせ久
”へ戻る途中、浜鳥居で片町から出てきた幸八と藤五郎に出会った。
「申までどのくらいあります」
懐から出して見せた。
「四時十五分に成ったから後十五分くらいだな」
「腹時計でも申に間があるとわかりやすね」
「昼は何か食ったのか」
「鶏飯と蜆の味噌汁で。入った茶見世は干した玉蜀黍だけで、鶏は入れてませんでした」
「それがほんとの鶏飯だぜ」
それが本物なら偽のほうの肉入りが良いと言っている。
宴席へ出る支度でせわしい中で、投資話と木綿についての意見の交換をした。
「尾張は麦の後での種まきでね、収穫が安定していませんぜ。八十八夜には種をまかないと」
たとえば今年なら遅くも三月の終わりまでに小麦を収穫できないなら、畔に種まきを始める荒業も有るという。
この年は立春が前年十二月十五日、八十八夜は三月十三日となると伊勢暦にあった。
尾張の木綿畑は木が育ちすぎだという、実綿(種入り)で売ってしまうので実入り(儲け)は少ないので一村で収穫、綿繰りを経て織機での生産まで一貫して行わなければ河内木綿のように買いたたかれるという。
「麦を春まきでなく、冬まきの品種に切り替えれば生産は倍に増えます」
新兵衛は出羽と違い知多なら可能だという。
「若さん、西陣の大火に加え、父上の方針で西陣は火が消えかかっています。ある人が美濃に伝えた技術は西陣の生き残りを図る手立ての一つです」
「どういうことだ」
「長い間に蓄積された技の自信ですよ。尾張美濃の品の高級品だぞと売り込む日を待ちかねています。いま木綿への切り替えは大名、大商人も巻き込み始めました」
西陣の大火は享保十五年(1730年)六月二十日上立売通室町西入大文字屋五兵衛方から出火。
「西陣焼け」と名がついた大火で、百三十四町、三千八百十軒が焼失、織機は約七千台あったうちの三千台が焼失したと云う。
この文化の時期、すでに仏蘭西ではジャカールにより紋織装置が作られていた。
「若さん木綿は反当り七十斤を越せば儲かりますが、六十斤以下だと干鰯に〆粕の代が出てきませんぜ。一貫して村内で出来なきゃ食えませんや」
百斤を超すには麦の収穫前に種まきを始める必要があると何度も強調した。
桟留縞に頼らず、普及し始めた結城縞へ移行しなけりゃ生き残れないという。
「結城縞なら二割は高く売れますぜ。晒し木綿だって伊勢に儲けさせる分入ってきます」
美濃縞は京の商人に儲けさせ、やるなら新田の開墾と種まきの工夫だという。
「江戸の大店も入ろうとしてるようだぜ」
「それは京の井筒屋善助の指図ですよ。猪四郎がそう言ってましたぜ」
運上金の優遇を認められれば乗り出すものも増えていくだろうと予測できた。
「なんせ木綿は金肥に金が掛かります。百斤越すのを見せれば後追いで地場の干鰯業者も資金を出しますぜ」
後は藩の財政不足に運上を増やすなど、悪策を図らなければ利は出るだろうという。
「三十年と区切って話してきたのだが」
「何時も言っていた十年貸の元金取りでがしょ。その位なら江戸だけでも可能でしょうぜ」
有松、鳴海は有名になったが、晒し木綿は伊勢木綿と江戸で定着したものを覆せるかが勝負の分かれ目だという。
愛知郡に百二十四村ありその中から候補を選ぼうという。
今日の宴会をどこでやるかと思えば築地ではなく神戸町だという。
神戸町鯛屋金右衛門と言えば女将のお仲が神戸節を広めたと噂だ。
常夜燈の角を曲がれば船会所、西浜御殿、奉行所と続いている。
宝勝院の先に赤本陣、街道を挟んだ向かいは脇本陣格の旅籠に大宿、中宿が並んでいる。
脇本陣の小出太兵衛は伝馬町の問屋場の西側だ。
赤本陣と源太夫社の間は料理屋と言ってもよい大楼が並んでいる。
小路の手前が鯛屋だ、入口上の二階では三味に乗って“ 明烏夢泡雪 ”を語る声が聞こえる。
“ きのふの花は今日の夢 今は我身につまされて 義理といふ字は是非もなや
”
「ここへきて新内とは」
「のどが自慢なのでしょうぜ」
次郎丸は腰の物を預けて式台へ上がった。
「もう十人ほど来られて居りますよ」
中年の番頭が奥の座敷へ案内してくれた。
部屋へ入ると庄吉たちが来ている。
吾郎は次々名を紹介している。
「こちらの面子はそろったら紹介しよう」
女将が忙しげに仲居に料理を運ばせている。
どうやら人が揃ったようで席は後一か所空いているだけだ。
「おい、しょうどん。あっこは誰の席だよ」
「全員揃いましたぜ」
まぁいいいさと次郎丸たち五人の名を紹介した。
結の者だけでは無いので、そちらは内内で教えてあるようだ。
俳諧連中だけあって商売貧富は差があるが、女衆が入って三味で神戸節から伊勢音頭になるころは踊りだすものも現われた。
女将に連れられ、宗匠帽の品の良い老人が入ってくると次郎丸の前に、ぴたっと型を付けて座った。
見知りの者は「帯梅(たいばい)宗匠だ」と言う声が聞こえる。
「村瀬弥四郎と申します。隠居して俳名の帯梅を使っております」
浄翁に会いに行ったとき、隣座敷に幾人かの気配がしたが、この老人のように思った。
「成瀬様に呼ばれたとき隣におられましたようで」
ギョッと体に力が入ったようだ。
「お帰りの節はゆっくりお話がしたいものです」
結の手印を見せた、合言葉も二番目のものださすれば尾張横須賀の両口屋の当主、いや隠居かと驚いたが手印は返したが話は別の事に振った。
「木綿の事ですね」
「さようです。ぜひ力をお貸しください」
「委細は戻りに」
「はい。次郎様はだいぶ剣でも学びましたか、私は俳諧に遊ぶために隠居の真似事を始めました」
「十四で免許を貰いましたが、この四郎ほど腕もない駆け出しでござる」
周りも二人の話に構わず女将を煽て、神戸節の新しい歌詞をせがんでいる。
興に乗って即興のものをいくつも披露してくれた。
かわいい十前後の娘が来て、久左衛門におだてられて歌いだした。
“ ありがたいやの すずしの蚊帳で なかでするがや えいらくや
”
小娘にしては色気のある唄声にやんやの喝采だ。
“ ソイツはドイツだ
ドドイツドイドイ 浮世はサクサク ”
隠居の前にぺたりと座り「また新内教えてね」と酒を注いでいる。
先ほどの二階座敷の声は隠居の様だ。
次は何処へ行くだろうとみていると、久左衛門にもお愛想を言ってから次郎丸の所へ来た。
「江戸のお人と聞きました。お戻りの節はまたここで遊んでくださいね」
「いいともよ。そんときゃ新内を聞かせてくれるかい」
「う~~ん。覚えられたらね。江戸の最近の流行を聞きたいわ」
“ 惚れて通えば
千里も一里 逢えずに帰れば また千里 ”
「どうだい」
「うちらの節と似てるわ」
「こちらの流行が移ってきたようだぜ」
「もっと」
“ 夢に見るよじゃ
惚れよが薄い 真に惚れれば 眠られぬ ”
ようやく次の四郎へ酒を注ぎに行った。
四郎も一つで良いと唄わされた。
“ この酒を
止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさか素面じゃ 言いにくい ”
新兵衛にも強請っている。
「そちゃ強欲な」
「まるで浄瑠璃だわ。短くていいわ」
“ 逢うてまもなく
早や東雲を、憎くやからすが告げ渡る ”
もっとと言われている。
“ 潮来好くやうな浮気な主に、ナゼナゼ、惚れた儂が身の因果
”
船頭深話に出ていたやつだと次郎丸は気が付いた。
名題(なだい)も洒落になっている、“剪燈新話”を捩ったのだろう、京伝が
“銭湯新話”を書いていて、それをまたひねったかもしれない。
客のすべてにお愛想を言って回った、中には自分と一緒に唄わせたいのか、おひねりを用意しているものまで出た。
名古屋甚句も飛び出し、そろそろお開きと女将と新兵衛が別間で金勘定を始めた。
庄吉が銘々の泊まる宿をもう一度確認して客を送り出した。
久左衛門は先に戻り、庄吉が座を改めて帯梅と指印の交換をした。
「お残り頂いたものは結と縁の者ばかりです」
吾郎はそういって指印を見せた。
「さて私も両口屋様とは初見で御座いますが、喜多見様の下で働かせて頂いております」
「噂は聞いております。また次郎様の事も連絡を受け、本日図らずもお目に掛かれて光栄です」
岐阜の縞木綿に対抗して縞でなく、白木綿での増産、綿実のある程度の売渡、綿実からの油分を取り、残り粕を大豆粕のように畑の肥料に活用するなど話は具体性を持ってきた。
「横須賀代官所の上に勘定奉行の神野様が居りますので、手続きはお任せいただけるなら村を選んで其処一村から手を付けたいのですが」
新兵衛もそれを勧めるので次郎丸は応諾した。
「藤五郎、お前さぁ塩の片手間にこの話やってくれまいか」
新兵衛に言われて「俺には千両動かせないですぜ」と自信なさげだ。
「金は若さんが手配なされば出てくるよ」
「なら俺は若さんの手駒で動きゃ良いんだろうか」
「そうさせて貰いなよ。江戸にゃ兄さも居るんだ心配いらんさ」
幸八も喜んでそうしろと勧めたので藤五郎が「帯梅様に俳諧の手ほどきでも受けましょうわい」と仕事を引き受けた。
話しが済んだよと帯梅がおちかを呼んだ。
廊下端に控えていたおちかが「お酒を出しますか」とかわいい声で訊いている。
「そうだなぁ、新しい俳諧の連が出来た固めの祝いに一杯配ってくれ」
「いっぱいね」
酒とともに、台に用意されていたようで蒲鉾に小魚の甘露煮が出てきた。
「最近は宮でもこの蒲鉾が流行でして。すり身の天ぷらより酒に合います」
相州小田原から流行りだして江戸でも人気が出ている。
それまでの蒲鉾は竹輪(ちくわ・焼き竹輪・蒸し竹輪)と名を替えたほどだ。
先ほどの宴席でも香の物の大根と間違えて大笑いだった位で、まだ浸透はしていない。
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