第伍部-和信伝-弐拾肆

 第五十五回-和信伝-弐拾肆

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

嘉慶十二年六月二十九日(180783日)

徐興延(シュシィンイェン)二十一歳と陳芽衣(チェンヤァイィ)十八歳の婚儀の日だ。

王作児胡同の陳關延(チェングゥァンイェン)の家では府第で支度をした芽衣が戻り、婚儀が執り行われた。

興延の厳つい顔は威厳があると捉える人が多い、大舅子(ダァーヂォウヅゥ・妻の兄)となる陳良策(チェンリィァンツゥ)も満足げだ。

小芳(シィァオファン)の父親陳仁成(チェンレェンチァン)も来ている。

陳健康(チェンヂィェンカァン)が一族を代表して新婚夫婦を新居迄送った。

この時の在京満州鑲黄旗(クブヘ・スワヤン・グサ)陳(チェン)家は十六家あり、非番の当主は王作児胡同へ終結していた。

鼓楼から雍和宮近くは陳姓の者が多い地域だ、邸は長い間に鑲黄旗漢軍、鑲黄旗蒙古の一族の邸と入れ替わっている。

高一族の回りは蒙古(マァングゥ)の邸が多い、陳健康や陳洪の回りも漢軍の邸地に囲まれている。

五品辺りだと拝領地が“最初から鑲黄旗内なら空いている処へ探せ”と言う大雑把な扱いだ。

参領、佐領は代々の拝領邸があるので勝手に動けない。

この時代の和国の江戸でも、下級武士(御家人)も同じような扱いが増えていた。

組屋敷で固まっているのは根来衆、黒鍬組、伊賀衆など数少ない集団だ。

小芳の実家陳仁成の綿花胡同(第二参領旗下)の家が五代続いているのを自慢するが、本心は家を洗い出したいと思うくらい草臥れて来ている。

妻を民から迎える家も多く、娘を民へ嫁に出す機会も多い。

殆どの当主は従五品員外郎、正五品郎中だ、婉貴妃の父親陳延璋と縁のある家もある。

陳關延、陳洪や陳健康らの先祖は呉三桂の元で山海関を守備していた。

後に呉三桂の元から陳円円(邢太太)の勧めで一族揃って離れ、漢人ながら満州鑲黄旗に所属した。

三藩の乱のとき、蘇州陳家は結、御秘官(イミグァン)と手を結び、豊富な資金と武器を得て、呉三桂によって奪われた長江(チァンジァン)以北の土地を取り返した。

馬車は健康が先導し、府第で一度止まり、通用門で公主娘娘とインドゥに挨拶をして東四牌楼へ出た。

崇文門(チョンウェンメン)を抜けて大街を南へ下り三里河街で西へ、小市街で前門大街を超え、南煤市街の入り口で花嫁が降りた。

干井児胡同(乾井兒衚衕)角の東誠(ドォンチァン)は営造尺間口四丈963センチ)の店が二軒連なっている。

元大汪布行と繋げて一軒仕様と考えたが、林宗圓(リンヅォンユァン)の意見で表は二軒のままで裏を繋げることにした。

南側の車輦胡同角店は大きな絹布卸問屋で、元のドォンチァン(東誠)の倍の間口で商売は繁盛している。

この煤市街の通りは大柵欄の西端まで小店が並んでいる。

干井児胡同と湿井児胡同(濕井兒衚衕)の間は間口一丈ほどの小さな布店が並んでいる。

大汪布行(ダァワンプゥシィン)は小馬神廟胡同へ移り住み、ドォンチァン(東誠)と真向かいにほぼ同じ規模の店となった。

店前では二人を迎えてお祭り騒ぎだ、府第からは蘇花琳(スーファリン)が五人選んで花を添えた。

芽衣(ヤーイー)に番頭、手代が紹介され、中で養父の林宗圓、岳父(ュエフゥー)の徐興淡が花嫁を上座に導いた。

陳健康は崇文門を抜ける門限を気にし、申の鐘のあと府第の使女達を急かして辞去した。

乾隆全図-乾隆十五年(1750年)-中城煤市街

 

「芽衣姑娘(ヤーイークーニャン)」

「お願いです。これからはヤァイィ(芽衣)と呼んでくだされなければ返事しませんよ」

「阿衣(アイィ)」

「強情者、旦那様のシャアズゥ(傻⼦・馬鹿)」

新婚の二人は互いをどう呼ぶかで口喧嘩をしている。

芽衣(ヤーイー)はフェンダァン(渾蛋)、フゥンダァン(混蛋)、ペェンダァン(笨蛋)、シァグゥア(傻瓜)、パァィチィ(白痴)、ナァオツァィ(脳残)、シャァビィ(傻逼)、チュゥタァオ(猪頭)、等々悪口を数え上げ、悪口は次々と出てきた。

「ヤァイィ(芽衣)のシィアオベエンベエン(小笨笨)。誰に教わったんだい」

「やっと言ってくださったのね」

「あっ、しまった。俺の事は何て呼ぶんだい」

「ラァオゴォン(老公)ヂァンフゥ(丈夫・夫)など如何です」

「硬すぎないかい」

ニャンツゥ(娘子)、ラァンヂュィン(郎君)と互いに呼ぶことにした。

二人は興延(シィンイェン)をラァオバァン(老板)と番頭、手代に呼ばせようと決めた。

ラォバン(老闆)と硬く呼ばせるにはまだ若いと判断した。

タァ(榻・寝台)で体を寄せ合い二人は幸せをかみ締めている。

 

府第の姐姐の使女、徐青筝(シュチィンヂィアン)の仕事が大幅に増えた。

姐姐は営繕の夢月(モンュエ)に頼んで奴婢の六人を使女並みの給付にさせた。

縫製の腕は青筝や雲麗に負けていないためだ。

姜雲麗(ジァンユンリィ)は公主娘娘使女だが来年三月婚姻する予定だ。

夢月(モンュエ)は二人より腕達者だが指導に回ることが多くて自分では完成品を仕上げていない。

インドゥは奴婢で縫製の上手が五人と思っているようだが、李(リィ)が二人いるので思い違いで、実は六人になる。

王美麗(ワンメェィリィ)李鳳蓮(リィファンリィエン)、李春苑(リィチゥンファン)の三人は外城北城生まれで小商人の娘だ。

朱慧鶯(ジュフゥイン)内城小牌坊胡同。

袁柳燕(ユエンリゥイェン)内城大牌坊胡同。

呂桃鈴(リュウタァォリィン)内城小方家胡同。

この三人、禄米庫の番人の娘たちだ。

六人は湯老媼(タンラォオウ)の紹介で勤めた。

皆が貧民の為の給付で腕を上げた、府第に勤めて初めて針を持つ娘もいる。

余姚(ユィヤオ)から来た娘にも「素質ありと思えるのが二人いる」と姐姐に報告が来ている。

舒鈴仙(シュリィンシィェン)の婚姻以来、紫蘭の元へ師匠の使いに息子が良く来るようになった。

息子と言っても三儿子(サンウーズゥ・三男)で崇文門外南城石鼓胡同(シィグゥフートン)の隠居所近くで質店を営んでいる、五十を過ぎて甲子の年一月に連れ合いをなくしたという。

店は息子と番頭がしっかりと営業していて、街の見物がてら好天気の日を選んでは、出歩いているそうだ。

荒れ邸の主と見た目も似ている。

営繕の作業場を見て戻るのが何時もの順路だ、ダァンヅゥ(凳子)にヂゥオヅゥ(卓子)の修理を楽しむように見ている。

四月のある日、縫製も多くの奴婢が担当していると聞いて興味を持ったようだ。

貧民への下着・上着の給付に使える質流れの晒棉布(ミェンプゥ)を、二百五十匹捐款(ヂュァンクゥァン)したいと五月初一日奴婢掌事女夢月(モンュエ)に申し入れが来た。

返事をする前に孜漢が調べたら質に置いた男が死去し、遺族に借金が圧し掛かり、受け出せない内に期限が来て流れた品と分かった。

丁度二か所の荘園の女たちの作業衣を支給しようと娘娘が姐姐に相談していたので一人二着支給を決めた。

足りない分は蘇州へ二百五十匹の注文を出し、楊鈴(ヤンリン)を呼んで興永からも月二十五匹を一年納めるように申し付けた。

荘園出入りの古着屋に二着一銭で寸法表を出させ、配布も取り扱わせた。

古着屋が出してきたのは大興荘九百零二人、平谷縣の荘園一千七百五十八人、合わせて二千六百六十人。

そのうち女性は赤子を含めて一千四百五十二人だった。

一回目は十月を目途に冬支度に間に合うように手配した。

大人用の大ぶりなものは二軒の布行へ三百着ずつ注文を出した。

昔から出入りしている布行で奴婢、門番のお仕着せは此処が請け負っている。

問題は子供用だが娘娘は五段階の採寸表に合わせて多めに作らせることにした。

「余れば京城(みやこ)にも貧民の子は大勢いるのよ」

六月三十日久しぶりに師匠が来たと昂(アン)先生が案内してきた。

「紫蘭の方へはまだなの」

「本日は息子の事で娘娘にお願い事が出来まして」

「何時も世話になっているから大抵のことは叶えてあげる」

言いにくそうにして居るので娘娘の方から切り出した。

「だれに惚れたの」

「お解かりでしたか」

「言いにくそうにして居るからには大抵子連れだと思ったのよ。若い娘なら師匠も悩まずに打ち明けるでしょ」

「子供も引き取りたいというのです。今の質店は息子に譲り、質店の抵当に入れてある店を買い上げて仕舞いました。家訓で分家は本家の許しが無いと絹問屋を開けませんが、本人は抵当店が布行、それも小売りの布店でルゥシィア(瑞祥)というのですがもう番頭、手代迄手なずけて仕舞いました」

「この間の捐献(ヂュァンシィェン・献納)の綿布の店とは違うの」

「あの店は息子が手をまわして寡婦と息子に資金を出して再開させました」

「ちょっと待って。その人たちなら相談する迄もないわね。京城(みやこ)の綿行は苦しいところが多いのかしら」

「いえ、四軒が組んで広州(グアンヂョウ)へ一万匹の綿と一万匹の絹布を輸出ともくろんだのですが半分を海賊に奪われてしまったそうです」

「それで四軒が立ち行かなくなったのね」

「いえ、それが一軒は生き残って繁盛しています。もう一軒はまだ荷を送らない内でまだ頑張っております」

「その店は品物が有って銀(かね)がない程度ね」

「そうなんですがつぶれそうな二軒は、繁盛している布行に騙されたんじゃないかと噂を広めています」

話が飛んだが昂(アン)先生は後ろで首を捻っている。

「先生も誰か心当たりがありそうね」

「問題は莱玲様が許しませんよ」

胡蓮燕(フーリィェンイェン)はまだ七歳、母親としても娘を置いて再婚はしたがらないだろう。

昂(アン)先生がそういって花琳(ファリン)にも「どう思う」と聞いた。

「袁夢月(ユァンモンュエ)で間違いないの」

「ご推察の通りです」

「舒佳仙(シュヂィアシィェン)は今年でいくつ、三儿子は」

「私は八十二歳で、三儿子は五十六歳になりました。兄達とは年が離れた分甘やかして育て過ぎました」

「その年で新しい商売に入ろうとは相当な覚悟ね」

「私の弟弟に似て、適当に隠居でもするのかと去年までは思っておりました」

夢月に聞くより、胡蓮燕(フーリィェンイェン)の意見の方が大切だと娘娘は判断した。 

姐姐に連れられてリィェンイェンがやって来た。

七歳の娘に意見を聞く、普通の家では呆れる話だ。

「マァーマァー(媽媽)に縁談があるの。婿になりたい人が阿燕も一緒に来てほしいというのよ」

「それはマァーマァー(媽媽)の望みですか」

「まだ聞いては居ないのよ」

「それでしたらマァーマァー(媽媽)の再婚は実家の望んでいたことですので反対はしません。でも私はお邸へ上がるときマァーマァー(媽媽)から、莱玲様へ一生かけてお仕えするなら一緒に行きましょうとマァーマァー(媽媽)と約束しました。ですので、莱玲様が一緒に行きなさいと言われてもお邸を離れません」

「マァーマァー(媽媽)が置いていくなら再婚しないと言ったらどうするの」

「親子の縁を切ってあげるわ」

花琳(ファリン)はリィェンイェンを呼びに行って、そのあと夢月(モンュエ)を連れて脇から入って話を聞かせていた。

姐姐に連れられてリィェンイェンが去ると居間へ連れて入った。

「話は聞いたでしょ」

「師匠がおられるとは舒豪亮(シュハァォリィェン)様の事でしょうか」

「気持ちは聴かれたの」

「いえ、縫製も営繕の奴婢たちへ、“忙しい仕事を持ち込んでしまってすまない”とお言葉をかけて下る優しい方と思っております。わたしに特にお言葉をおかけになることもありません」

「継妻になる気持ちはあるの」

「芽衣(ヤーイー)様も抜けて来年には姜雲麗(ジァンユンリィ)様も婚姻が控えています。今私が抜けられるわけがありません」

「ヂゥコゥ(住口・おだまり)。何時からそんな口をおききだい。十二の年に私について初めて自慢口を聞いたわね。ハオダァダダンズ(好大的胆子)」

「シュゥズイ(恕罪)。私の思い上がりでした」

「謝るなら許してあげる。でもせっかくのいい話を無にする気なの。まぁ、相手がお年寄りでは師匠の手前でも強引に押し付けられないのよ」

年を言えば夢月(モンュエ)も三十五になった。

花琳(ファリン)が差し出がましいがと言いつつ口をはさんだ。

「私の見るところ。三儿子は営繕に興味をお持ちでしたが、営繕担当の夢月が縫製の指導をしているのを見てから、おいでに為るのも楽しそうに見えました」

奴婢掌事女は二人、営繕と縫製が袁夢月(ユァンモンュエ)、掃除、食堂が姚杏娘(ヤオシィンニャン)二十歳だ。

「あれ、それで初手はいやいや使いに出たのが、そのうち嬉しそうに行くので“紫蘭様の使女にでも惚れたかい”というとマァーマァー(媽媽)の使いをするだけでうれしいのです。なんて嬉しがらせ迄言い出したんですよ」

質店を譲り、布行に手を染めるのも一族の血がなせる業だと師匠は応援に回ったという。

老大(ラァォダァ)に二儿子、タンディ(堂弟・従兄弟)にも布行開店の了解を取ってマァーマァー(媽媽)へ打ち明けたので商売人としてやってゆけると後押しをすることにした。

条件は老大(ラァォダァ)とタンディ(堂弟・従兄弟)の店から絹布を仕入れる、綿は買い取った店の取引先を大事にする。

姐姐が戻ってきた。

雰囲気で夢月(モンュエ)がぐずっていると思ったようだ。

「何が心残り、阿燕の事」

「いえ、娘娘には怒られましたが、奴婢掌事女は出来ても裁縫を任せるには経験不足ではないかと」

「だれの事なの」

朱慧鶯(ジュフゥイン)です」

朱慧鶯(ジュフゥイン)は壬子の生まれと聞いたわ」

「ええ、十六歳です。父親は禄米庫の番人の朱王衍(ジュゥアンイェン)です」

花琳(ファリン)が折衷案を出した。

「まず婚姻に異議はないとしてのお話でいいですか」

姐姐が「その方向で進めて」と促した。

「荘園の第一回配布迄夢月(モンュエ)が奴婢掌事女は続ける。後を朱慧鶯にまかせる。ただし後見は姐姐が担当なのですから見ていただきたいですわね。縫製は姜雲麗(ジァンユンリィ)が嫁入りまで監督する。そのあとならあの娘もそれなりに成長しているでしょう」

「婚姻して通うか、それまで婚儀を伸ばすかね」

娘娘が「香河の実家に承諾させるには十月以後がいいわね」と決めた。

 

貧民や近在の荘園への衣料の配布は資金も膨大だ。

遠くの荘園は年一度の往来がある位なので差配の胸一つだ。

連絡は公主府の御用達が担っている。

農地の小作料は三割、内半分は荘園内の経費と臨時出費に備えて蓄積、残りを納付と決まっていた。

贈与した残りの二百八十万本分の葉タバコ農地から、昨年繰越金以外に銀(かね)五百両が公主娘娘の会計に入って来た。

各地の荘園からも総計二千五百両が送られてくる。

姐姐が苦労してきた会計は最近黒字に転じている、福恩(フゥエン)はじめ娘たちも自力で生活できる貯えも出来た、インドゥは年一万両を目途に公主の貧民救済を援助している。

公主の銀(かね)を合わせれば三十年心配はない貯えもある。

平谷縣荘園の買い戻しに三万両かけたが改革が進んで想定以上の収入になった。

売主は只同然で手に入れたが、小作農家からの収入が差配を使うと年四百両しか入ってこないのでこれ幸いと売り渡しに応じた。

百万本なら三十万斤、八十万銭(文)の計算で行くと八十万四千斤、二百二十四万銭(文)その三割六十七万二千銭(文・六百七十二両)が最大はいってくる。

差配人六家で四家(娘娘、莱玲、景清、高叡)総計が五百万本分の葉タバコの農地と其れの輪作用農地を管理している。 

葉タバコ指導差配人は差配六家に手代として計二十人がいる。

一人が小作十家を指導している、小作は二百家千七百五十人。

村の農地は九千八百ムゥ(畝)あり近在でも富裕の土地となった。

娘娘への小作料は葉タバコの収入の三割で済む。

親しい皇族、郷紳の荘園も見習いだした、また教徒の反乱騒ぎでも起きた時逃散されるより年貢を控えた方が得だ。

差配六家に指導の手代で二十六人、千八百ムゥ(畝)の玉米(ュイミィー)と大豆の畑を自営している、この分も葉タバコ農家と同じで小作料を取っていない。

葉タバコの一割を二十六人で分配と決まり昨年は二百二十四両入り、十四両が手取りだった。

指導の手代は近在の葉タバコ農家の指導をも引き受けだして、懐は豊かになったという。

大興荘からの申し出で三人が指導に当たることに為った。

その三人は二年後に大興荘の娘と恋に落ちるという結果、婿入りという引き抜かれた形で決着を見た。

新娘沿地部分を急遽十家募集しそこへ新しい三家も家と農地が与えられた。

平谷縣荘園の取り決めに従い、指導の者は自分の土地での葉タバコ栽培はしない誓約者を出した。

 

七月に入り余姚(ユィヤオ)から康演に率いられて七人の娘が府第へやって来た。

十歳から十三歳で鹽商人、仲買、生産者、船主、商人の娘が府第へ預けられる。

最初に来たものもそれなりに重用されている。

曾藍桃(ツォンラァンタァオ)十五歳は四月で五年目に入った。

鄭蓬旛(チョンパァンファン)十三歳も四月で五年目になる。

二人は嘉慶十年九月五日公主使女に抜擢された。

曾藍夏(ツォンラァンシィア)十一歳は姐姐(チェチェ)の使女に為っている。

嘉慶九年十二人。

嘉慶十年六人。

嘉慶十一年十二人。

嘉慶十二年七人。

余姚(ユィヤオ)の関係でもこれだけの使女を受け入れてきた。

公主府と府第で分けて教育している。

藍桃は小芳(シィァオファン)も驚くほど香と茶を嗅ぎ分けられる。

焚き方、淹れ方も小芳(シィァオファン)に次いで府第では抜きんでている。

最近は娘娘を抜いたかと公主は姐姐と話している。

今、公主使女の給付は四段階、曾藍桃(ツォンラァンタァオ)は香と茶で上から二番目。

鄭蓬旛(チョンパァンファン)は裁縫で上から二番目だ。

一番は五人いるが四人はすでに婚約が成立している。

方小芳(ファンシィァオファン)十九歳

夏茄宝(シァチィエパォ)二十六歳

江麗榮(ジァンリィロォン)二十六歳

姜雲麗(ジァンユンリィ)二十六歳

武環華(ウーファンファ)二十六歳

娘娘は裁縫上手な娘から、新たに公主使女をと花琳(ファリン)と姐姐に相談していた。

朱慧鶯(ジュフゥイン)十六歳と胡夏花(フゥシェフゥ)十五歳、梁美鈴(リャンメェイリン)十五歳を候補に挙げたのは姐姐(チェチェ)だった。

夢月(モンュエ)の後任の奴婢掌事女に慧鶯をとなり、まず余姚(ユィヤオ)の二人夏花、美鈴を引き上げることにした。

料理人の方も何人か嫁に出たが余姚(ユィヤオ)の娘戴宝玉(ダイパァオユィ)白箏芳(バイヂァンファン)に宛平県拱極城(宛平城)生まれの呂明静(リュウミィンヂィン)の腕が上がり桑小鈴(サンシャオリン)と同じ月銀(イン)二十銭とした。

桑小鈴(サンシャオリン)はそのよく月から双蓮(シィァンリィエン)と共に銀(イン)二十五銭に上がっている。

その際、使女の最低給与を昨年より二銭上げて銀(イン)二十二銭にし、三年目に入れば二十五銭とした。

奴婢も最初銀(イン)十五銭、三年勤めれば銀(イン)二十銭となった。

戴宝玉、白箏芳、呂明静は使女に合わせて二十二銭とされた。

一番喜んだのは湯老媼(タンラォオウ)だ、潘玲(パァンリィン)の給付を見ればよくわかる。

月払い奴婢で銀(イン)十銭、使女で銀(イン)十三銭、衣服、食事は支給から始まった。

嘉慶九年十二歳の潘玲が月銀(イン)十三銭から、湯老媼(タンラォオウ)に百に一つを給与から出す。

嘉慶十年に月銀(イン)十五銭。

嘉慶十一年には月銀(イン)十七銭、さらに銀(イン)二十銭に給付が上がった。

そして今年十五歳にして銀(イン)二十五銭も頂ける。

湯老媼(タンラォオウ)の所では一日五十文で寝床と二回の食事が出るのは、斡旋したものからの仕送りが次の仕事を待つものを支えている。

府第、公主府へ斡旋した奴婢、使女の給付が上がればその分多くの待機の者を置いて置けることに為る、そうすればお出入りできる邸からも口は掛かり易くなる。

給付が上がるのは荘園の扱いが良くなったのに合わせて行われた。

 

八月に入ると出産予定日の近い妊婦で、阮永徳は頭が痛い。

自分と顔双蓮(イェンシィァンリィエン)の子が生まれるのは五日以降。

阮永凜(ルァンイォンリィン)と羅箏瓶(ルオヂァンピィン)も同じくらいと産婆が教えた。

阮永戴(ルァンイォンダァイ)と甫杏梨(フゥイシィンリィ)が十日頃。

周甫箭(チョウフージァン)と阮富富(ルァンフゥフゥ)は十日以降。

産婆によって見立てはまちまちだが、インドゥと娘娘は王李香(ゥアンリーシャン)と胥幡閔(シューファンミィン)に手を増やす準備を頼んだ。

「同じ日に産気づいたら大変ね」

「同じ家に住んでいないだけ助かったと永徳(イォンドゥ)は思っているだろうな」

陣痛が始まれば男は部屋から追い出されてしまう。

四日夕食の後始末と明日の支度を当番の奴婢と終えて戻ろうとした、昂(アン)先生が来て双蓮が産気づいたと教えられた。

裏のお小屋で待機していた産婆が明日の朝だろうと言っているそうだ。

永徳(イォンドゥ)は船着き門のお小屋で待機と決めてあるのでそこで仮眠した。

寅の太鼓が聞こえてきた、お小屋の台鐘(タァィヂォン・置き時計)は三時四十分を指している。

小鈴が出てきたので「さて、支度にかかろう」と厨房前で拳の型を門番としていると昂(アン)先生が来た。

「女の子だ。十分ほど前に産声が響いたぜ。四時十五分だった」

「いい話だ」

「なぜだい」

「なんとなくだよ先生」

四人目となると鷹揚なもんだと笑い出した。

「女の名の候補はあるのかい」

「双蓮は紫蘭様が挙げた中から燕若(イェンルゥオ)を希望していた。産婆が娘だというが念の為だと、哥哥は男なら鴻靖(ホォンジィン)だなと言ってくださった」

「何時戻れる」

「八時には片付けだけになるから、そのころには戻ると伝えてください」

昂(アン)先生使い奴そのままだ。

巳の刻ごろ甫箭が来て娘娘に報告した。

「阮永凜と羅箏瓶の所に男の子が誕生しました」

「名は」

「哥哥の候補から鴻悌(ホォンティ)を選びました」

「いつ生まれたの」

「今朝の卯の鐘の後でした」

「双蓮の方は娘よ」

永徳(イォンドゥ)に報告して赤子を見てきますと言うと「まだ報告に来ないからお小屋に居るわね。もう一度来なさい」と言われた。

その日から立て続けに永徳(イォンドゥ)に孫が産まれた。

 

十月の初二日、徐興延(シュシィンイェン)と陳芽衣(チェンヤァイィ)の夫婦の妊娠が分かった。

悪阻は軽く食事も順調だという。

娘娘の喜びは府第の奴婢、使女にも伝わり、邸は暖かい雰囲気に包まれている。

早速胥幡閔(シューファンミィン)が出向いて梁(リャン)と相談し、担当を梁(リャン)が引き受けた。

ドォンチァン(東誠)には針娘が三人いて、漢服を注文で受けて仕立てている、ヂィン(衿・大衿・つけひも)、リィン(領)、ヂィン(襟)の刺繍は外注の者に出しているので仕上がりは早い。

“交領”“短領”“直領”を注文に合わせて選ぶのはヤァイィ(芽衣)の仕事だ。

チィパオ(旗袍)の専門はまだ見つからない。

大衿だけでもヤァイィ(芽衣)に頼めばそれだけで銀(イン)二十銭が最低上乗せされる。 

ヤァイィ(芽衣)にとの特別注文は最低銀(イン)百銭と言っても十人が順待ちしている。

棉布(ミェンプゥ)、絹布(ヂュァンプゥ)を問わず縫賃だけが決まりで、刺繍は銀(イン)二十銭から二百銭までを興延の発案で見本から選んでもらう。

布は店には見本と、百匹ほどしか置いておかない。

小売りの手代は中々の商売上手で滅多に興延の手を煩わすことはない。

一日に三刻だけが興延(シィンイェン)が決めたヤァイィ(芽衣)の仕事時間だ。

スゥチョウ(絲綢)とわざわざ高級品を指定してくる者は隣の絹問屋(萊燕祥)から番頭が飛んできて、好みを聞くと、小僧と三十本ほど持ってきて選ばせる。

興延は近所をそういう時は使って、自分の東誠(ドォンチァン)が端切れ屋と謙遜する。

ヂィン(衿・大衿・つけひも)に凝る人は意外に多い、それだけで銀(イン)百銭出しても惜しくないという富貴な商人の妻の間で評判になって来た。

チィパオ(旗袍)よりもハンフゥ(漢服)の方が注文は多い、一度奴婢を仕上がるまで詰めさせた人がいたが、三刻の間に素早く形が出来、五日で刺繍までが仕上がったのを見届けた。

ヤァイィ(芽衣)はその時は、気休めの次の注文の裁断もせず、掛り切りだったので五日の間午後は少し不機嫌だった。

「ほかの仕事も忙しいと言って置けばいいのに」

そういうと「毎月一着注文を呉れるのに粗末にできますの」と反論された。

七、八、九月と子供用が毎月来て、今度は自分用だが仕上げが良いのに出来上がりが早すぎると疑ったようだ。

旦那を連れてきて最高級のスゥチョウ(絲綢)を選んだ。

店を大街に開いて打ち物を扱っている、料理店の包丁、布行の必需品の鋏などでは老舗だ。

疑り深いのは困りものだが上得意のお客様だ。

「ニャンツゥ(娘子)は俺より商売人だね」

“めっ”と睨まれた。

「それより夕方にシウマイ(焼売)を食べに行くかい」

「林宗圓(リンヅォンユァン)様が教えてくださったお店ね。シャオマァイ(焼麦)の事なのね」

「鮮魚口だからすぐそこだ」

「先のフォンシャンが一人で来たなんてお話。本当かしら」

「お茶の鉄観音と同じ類でもおいしければいいさ。悪阻でも大丈夫なの」

「意地悪、誘った後で茶化さないで」

「それでね。もう予約をしてあるんだ。前に番頭、手代を連れて出ただろ」

「カァォィア(烤鴨)だけどヤーツ(鴨子・家鴨)だと知らなかった子供の話しね」

「あの小僧たちは夏の鴨は美味しくないと聞かされていたそうだ。皮に附いた身が美味しいと不思議そうだった。産地は広渠門(グァンチィーメン)外にある池だというと尚悩んでいたよ。あの二人田舎育ちで護城河周りは家鴨で一杯とは知らないからね。今度は針娘三人と新しく雇う二人も呼ぶことにした」

「七人なの、女中に小間使いは」

「料理番の王(ゥアン)さんと三人で時間を分けてあるよ。俺たちは申の予約。三人は酉の予約さ」

「王(ゥアン)さんの事だから家でも作ろうなんて言い出すかしら」

「焼売に家鴨なら経費倒れは起きないよ。本鴨のシャオィア(焼鴨)なんて言い出さなきゃ大丈夫さ」

店を手代と小僧に任せて七人で三時に支度して家を出た。

大柵欄は混雑している、そこから大街を抜ければ鮮魚口だ。

夕飯の食材を買う女たちで混雑している、この時間になると投げ売りの店も出て賑やかだ。

店で大きな部屋へ案内された、最近人気で十人は若い娘が接客してくれる。

部屋には三人付いてくれた。

興延も久しぶりの香槟酒(シャンビンジュウ)で顔がにこやかだ。

店の娘が荷葉餅(ホーイエビン)にカァォィア(烤鴨)の皮を削いで包むと、次々に手渡してくれる。

待っている間に焼売にハーカオ(蝦餃・蝦餃子)を摘まんでお喋りに華が咲いた。

 

孜漢(ズハァン)は五十三歳にして初めて男子を授かった。

母親は妾の賽梅花(サァイメイファ)、本名周麗華(チョウリィファ)今年二十三歳になる。

継妻に為れと言ったが頷かない、娘娘へ泣きついて使者に花琳(ファリン)が来てやっと承知した。

その時生い立ちを語った、養い親に売られた時の役所への上申書の写しを出した。

安徽祁山鎮の生まれで戊申の大災害で両親が死亡したという。

その時おぼろに覚えているのは「山が崩れた」と騒ぐ声だという。

五歳の時妓女に売られたが、買主が満人の太監だったため纏足はされなかった。

その太監の後ろ盾で百順胡同(バイシュンフートン)東院妓楼(ドンユァンヂィロォゥ)で妓女に出たがいやな客は振るので有名になった。

嘉慶九年に孜漢(ズハァン)に買い取られて妾になったという。

一度も身の上を人に語ったことは無いという、後ろ盾の太監も今年の五月に亡くなり始めての告白だという。

二人の故郷は二千里以上離れている。

黄河の決壊、長江上流の災害と、場所も時も違えど同じような経験をしてきた二人は自然と惹かれる何事かがあったのだろう。

出産担当産婆の梁楓蓮(リャンファンリィェン)も感心するほど普段の生活も節制し、身体を適度に動かしてくれていたので初めての陣痛を経験した時もそれ程に苦痛を感じなかった様だ。

嘉慶十二年十月三日朝辰の鐘のすぐあとに産声が響いた。

老大(ラァォダァ)孜磊(ズレェイ)

インドゥが前もっていくつか候補を上げた中から二人が選んだ。

意味は姓と名で“まじめで心が広い”。

「子供にこんなに期待してるぞなんていいのか」とインドゥが心配したほどだ。

 

段淡寶(タンダァンパァオ)と舒鈴仙(シュリィンシィェン)から、子供誕生の知らせが府第へ届いた。

老大(ラァォダァ)は嘉慶十二年十月八日生まれ、段豪閃(タンハオシァン)。

紫蘭が娘娘からの祝いの品などをもって大興荘まで出かけた。

 

嘉慶十二年十月二十八日に舒豪亮(シュハァォリィェン)と袁夢月(ユァンモンュエ)の婚儀が行われた。

順天府香河(シィアンフゥ)から夢月の弟弟も婚儀へ合わせて出てきた。

夢月(モンュエ)は初めての夜、夫に断りを言った。

「私が府第、公主府、皇城内についてお話しできるのは限られています。私から話せるのは誰に聞かれても話していい話ですが、お酒の席と云えども尾鰭をつけての話しはしないでください」

「これだけは聴かせてほしい」

「なんでしょう」

「今日教えてくれた元朋輩のヤンモンリィ(楊夢麗)様、チャンモンハァ(張夢華)様、はなぜに夢月(モンュエ)と同じように夢が附いていたのか不思議なのだ。わざわざその名の人が選ばれたというのかね」

夢月(モンュエ)は可笑しかったが、当然何時かは聞かれると思っていた。

「私の子供の時の名はウゥュエ(舞月)でした。十三歳乙巳の年、二月六日に内務府選秀で公主様付宮女に上がった時の名です。公主様の岳母(ュエムゥー)になられた容妃娘娘から宮人三人に、夢がかなうようにつけて頂きましたのでモンリィ、モンハァともに幼名があります。己酉の年、十一月二十七日固倫和孝公主(グルニヘシィアォグンジョ)様が豊紳殷徳(フェンシェンインデ)様へ降嫁された時、元に戻すか聞かれましたが、三人共に其のままにしました。前に婚姻した時もそのままにしました」

終わりまで黙って聞いてくれた夫に感謝した。

「私はウゥュエよりモンュエの方が貴方らしくていいと思うよ」

新居は中城小市街の布店ルゥシィア(瑞祥)の店裏の家に手を入れて見栄えを良くした。

大冰窖胡同通称ピンヂァオチャン(冰窖廠)に面して通用門がある。

前営と後営、冰窖(氷保存の穴)が明代には有った場所だ。

店の近くには老大(ラァォダァ)舒豪和(シュハァォフゥ)の絹問屋和亨祥の店もある。

息子の質店とも適度に離れている、孫は懐いて居ないのでそれほど寂しくもない。

何より夢月(モンュエ)が、きびきびと働くので遊びに出ることもない日々が楽しくて愉快だ。

毎晩一族の成り立ちなどが話題に上がった。

「マァーマァー(媽媽)とバァ(爸)は昔なら婚姻は出来ないのだけど、先代のフォンシャンが即位後に同姓でも五代離れて居ればとお認めになったお触れが出たそうだ。それで本家から京城(みやこ)へ養子に来られたそうだ」

「家訓の話しは少しだけ聴いたことがありますわ」

「家訓は大昔に出来たことだが、姓は違っていてもタンメイ(堂妹・従姉妹)タンジエ(堂姐・従妹姉)は娶ることができないというのを決めたそうだ。貴賤を問わずは恋愛して良いよというおおらかなものだ」

子供の頃、字の勉強を兼ねて家訓を哥哥から教わったという。

「兄弟で絹問屋は開けないという事ですか。でも西小市のフゥハァンシィア(和亨祥)はどういう事でしょうか」

「あれは舅父(ヂォウフゥー)を別居させる条件で、当時の長老達がマァーマァー(媽媽)へ婿を開封から迎えると決めたそうだ」

「では、掟というほど縛りはきつく無いのですね」

「表向きは縛りが無いとグダグダになって仕舞うからだよ。たとえばな、俺が明日から絹問屋で大安売りだなんて始めたら、困るのは親戚だけじゃすまないだろ。筋道を立てて誰もが納得してからの話しだ。鈴仙の婚姻だって舅父(ヂォウフゥー)独断で無くマァーマァーへ、仲立ちは紫蘭様、娘娘」

「まぁ、今回はあなたの悪だくみでしたのね」

「いやだったの」

「それならいやと娘娘へ言いますわよ」

心と体が結ばれてゆく老年の夫に、中年の妻の夜は更けてゆく。

 

第五十五回-和信伝-弐拾肆 ・ 23-04-25

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

kanon5-25.htmlへのリンク