嘉慶十四年正月初一日(1809年2月14日)
イェンマァィ(燕麦・烏麦)の増産が将軍銜署で話題に上がっている。
将軍銜で百二十頭、定辺城に百八十頭の必要量が足りず、アルタイ(阿爾泰)、コブド(科布多・ホブド)に頼る割合が多い。
一頭一日二升で日に六石、年二千百六十石を保有したい。
藁に草の秣も確保が必要だ。
ジィンチャン(晉昌)は赴任してこれほど自給できないとはと頭を悩ませてきたのだ。
将軍銜で管理しているイェンマァィ(燕麦・烏麦)農地は百五十ムゥ(畝)しかない。
今まで百石、千七百三十五斤の収穫で遣り繰りできた方が不思議だ、畑地当たり直隷の半分の収穫と聞いた。
川筋の漢人たちの畑も自分たちの分で背一杯だ。
ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)が持つ、スゥ(粟)一万二千斤、シゥ(黍)三千三百斤の収穫も将軍銜に回せるほどもなく、農地を倍に出来ればと土地を物色した。
将軍銜で持つ土地は川向うにはもう無理がある、候補は駐屯地の北西の草原とその先の荒れ地だ。
草原は羊にとって大事な場所、馬の休養地でもある。
荒れ地は小川が有るので水の手当ては要らないが石くれが多い。
思いついたのが駐屯地の馬丁だ。
四十七人の馬丁のうち農家の経験者を募ろうと決めた、嫁の世話をすれば定着するかもしれない。
官吏に書類を探させると南北二里、東西十二里とある。
三百二十ムゥ(畝)だと官吏が計算した。
二百石収穫可能だという。
そこまで来てフゥアピンチォンヂィ(画餅充飢・画に書いた餅)だと気が付いた。
川向うの平原は転換すれば反乱がおきる。
此方は岩をどかす工夫が附かない。
代々の将軍が放置したのはそのせいだと一年悩んで結論付けたが、諦め切れていない。
二月になりジィンチャン(晉昌)は駐屯地の軍営を訪ねた。
付近の大きな地形図がヂゥオヅゥ(卓子)に置かれていた。
劉榮慶(リゥロォンチィン)に相談すると隊商の主なものを呼んでくれた。
荒れ地南の台地に昔の放牧地があるという。
「今どうして使わないのだ」
「崖が崩れて山羊くらいしか入れなくなった。道を付ければ五千は羊が養えるが将軍銜署の保有地で入れない」
官吏たちはなぜ教えないのだろうと悩んだ。
「野生のヤマァ(山羊)も居るのか」
「川の南は居ないはずだ、南のザブハン(札布噶河)からこっちは狩りの獲物になった。マヌルくらいしか見たことない」
案内を頼むと快く引き受けてくれた。
総監も付いて十人が馬で小川を横切り草原の雪を踏んで進んだ。
幸い馬も苦にならない柔らかい雪で荒れ地との境の小川に着いた。
荒れ地側は馬では無理だという、遠回りだが小川に沿って南へ行くと徐々に登りとなり、細かい小川に判れたところにけもの道があった。
馬を降りて二人残して登った。
眼下に大きな池と膨大な草地が見えた。
「これか」
「そうです。あの池の水が落ちる先が下の荒れ地に有る小さな滝です」
十年ほど前逃げた山羊を追って見つけたという。
「どうだね、道があれば住むことは可能だろうか」
「将軍銜署の物でなければ道をつければ大丈夫ですが、羊では定着できません」
「なぜ」
「浅瀬で川を越すのに遠回りで羊が嫌がりますし、荒れ地を抜けるのも一苦労です。三百や五百なら兎も角多くては行き帰りで陽が暮れます」
「穀物の畑はどうだね」
「水もあるし、水はけもいい土地ですのでイェンマァィ(燕麦・烏麦)やシゥ(黍)スゥ(粟)なら」
方向を聞くとけもの道の東が駐屯地の西の崖に続いているという。
今いる場所から南へ大回りしたことがあり、アルタイ(阿爾泰)との街道へ下りる道へ通じていたという。
駐屯地の軍営で地図に写せるように今の道を確認しながら下書きをした。
インドゥが宜箭(イィヂィェン)とテルメンから戻ってきて話を聞いた。
駱駝の繁殖所でホルモグ(駱駝乳酒)を定期的に買う相談をして来たのだ。
「燕麦ですか、肥料が良ければ二千五百石くらい行きますかね」
「将軍銜署と定辺城の分が賄えれば苦労せずに済む」
「どのくらい人に銀(かね)が掛けられますか」
「今は必要量の買い入れに銀(イン)二千両かかる。年千両、三年でもとが取れるならいいが」
ジィンチャン(晉昌)は自費でも行うつもりのようだが、京城(みやこ)では参賛大臣を入れ替えられた代わりに、将軍を入れ替える工作が進んで居た。
瓜爾佳氏(グワルギャ)は資金が豊富だが、玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)を守り切れず、閩浙總督解任後一年を経ずして烏什(ウシュ・新疆ウイグル)辦事大臣に送られている。
嘉慶十三年六月二十四日(1808年8月15日)病気で辞任後、年が明けて亡くなったと風聞が来た。
桂良という老大(ラァォダァ)は三十近いはずだが官途へ着いた噂は聞こえてこない。
章佳氏(ジャンギャ)鈕祜禄氏(ニオフル)と富察氏(フチャ)瓜爾佳氏(グワルギャ)の争いも水面下で火花を散らしている。
其の鈕祜禄氏(ニオフル)内でも富察と組むものもいるし、富察の血を曳く親王家ではインドゥの後押しに回る、家系を聞いただけではどちらを応援しているのか、判断できなくなっている。
博爾濟吉特氏(ボルジギト)の多くは静観の構えだ。
那彦成(ナヤンチェン・章佳氏満州正白旗)は両広総督も追われ嘉慶十二年(1807年)から喀喇沙爾(カラシャフル)辦事大臣、葉爾羌(ヤルカンド)辦事大臣,西寧(シィニィン)辦事大臣、喀什噶爾(カシュガル)参賛大臣と地方回りが続いている。
それでも復活の兆しが見え、陜甘総督に嘉慶十四年十二月 (1810年1月)任じられた。
フォンシャン(皇上)には老いた慶桂くらいしか頼りに出来ない状況だ。
慶桂七十八歳、嘉慶四年から領班軍機大臣の任についている。
五十五歳とフォンシャンは父君の年を考えれば、自分はまだ先があり親政による政治に自信を持っているがたやすく操られていると観る向きもある。
三月、ジィンチャン(晉昌)愛新覚羅氏(アイシンギョロ)に交代の連絡が来た、次は伊犁將軍との通知だ、伊犁将軍は正一品、支度もそこそこに旅立った。
十九日、グゥアンミィン(觀明)瓜爾佳氏(グワルギャ)が赴任してきた。
黑龍江將軍を五年ほど勤めて来た満州鑲黄旗(クブヘ・スワヤン・グサ)の男だ。
漢人の官吏とダァルゥ(達祿)が引継ぎ事項を伝えたが、農地の拡大予算は拒否された。
「定辺城の予算でやればよい」
「任せるという事でしょうか」
「できるならやればよい」
「承りました」
壊れた羊の利権の裏を探っているようだ、相当つぎ込んだ資金が回収も出来ない。
利息なしで行った貸付金もまだ期限は来ない。
京城(みやこ)の額駙(エフ)の借銭はフォンシャンの下賜金が出たという。
蒙古(マァングゥ)領内の養羊業者、養馬業者の債権は隊商が握っていて離さない。
将軍銜署の経費は送り込んだものが調べても、ジィンチャン(晉昌)個人の負担が多く公費は決まりしか手を付けていない。
インドゥ達の駐屯している派遣の兵はわずかで、フォンシャンの特別予算で送られていて将軍銜署との関係は浅い。
命令系統からも外れている。
インドゥについてはわかっていても総監とは何ぞやが良くわからない。
これまでインドゥのかかわった組織との関係も見つけられなかった。
軍機大臣トォオヂィン(托津)から来た密使も知らないと言うばかりだ。
其の駐屯地から三人が来て、着任の祝いとして金錠五十両とスゥチョウ(絲綢)十匹を贈られた。
出どこは公主府と分かっているので賄賂と上奏も出来ない、額駙(エフ)の強みだ。
少し我が儘を言おうと「たまには異国の葡萄酒(プゥタァォヂォウ)が欲しいな」と言ってみた。
「二月に京城(みやこ)を出る隊商に託すと言ってきましたので間もなく参るはずです。真っ先にお届けします」
軽くいなされた。
ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)とダァルゥ(達祿)の協力で開墾予定地へ道が付けられた。
今年は羊を入れてよいと通達が出て参領のサーラル・チョノの一族が毎日のように五百頭ほどの羊を連れて入った。
二月ほどで道は丈夫になり来年にはイェンマァィ(燕麦・烏麦)の畑地に貸し出すと噂が広まった。
「土地は将軍銜署の物だ。勝手は許さぬ」
そう憤ったが官吏が大勢いる前で任せた手前分が悪い。
考えた末自分の手柄のように報告書を送った。
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