第伍部-和信伝-弐拾漆

 第五十八回-和信伝-弐拾漆

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

嘉慶十四年正月初一日1809214日)

イェンマァィ(燕麦・烏麦)の増産が将軍銜署で話題に上がっている。

将軍銜で百二十頭、定辺城に百八十頭の必要量が足りず、アルタイ(阿爾泰)、コブド(科布多・ホブド)に頼る割合が多い。

一頭一日二升で日に六石、年二千百六十石を保有したい。

藁に草の秣も確保が必要だ。

ジィンチャン(晉昌)は赴任してこれほど自給できないとはと頭を悩ませてきたのだ。

将軍銜で管理しているイェンマァィ(燕麦・烏麦)農地は百五十ムゥ(畝)しかない。

今まで百石、千七百三十五斤の収穫で遣り繰りできた方が不思議だ、畑地当たり直隷の半分の収穫と聞いた。

川筋の漢人たちの畑も自分たちの分で背一杯だ。

ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)が持つ、スゥ(粟)一万二千斤、シゥ(黍)三千三百斤の収穫も将軍銜に回せるほどもなく、農地を倍に出来ればと土地を物色した。

将軍銜で持つ土地は川向うにはもう無理がある、候補は駐屯地の北西の草原とその先の荒れ地だ。

草原は羊にとって大事な場所、馬の休養地でもある。

荒れ地は小川が有るので水の手当ては要らないが石くれが多い。

思いついたのが駐屯地の馬丁だ。

四十七人の馬丁のうち農家の経験者を募ろうと決めた、嫁の世話をすれば定着するかもしれない。

官吏に書類を探させると南北二里、東西十二里とある。

三百二十ムゥ(畝)だと官吏が計算した。

二百石収穫可能だという。

そこまで来てフゥアピンチォンヂィ(画餅充飢・画に書いた餅)だと気が付いた。

川向うの平原は転換すれば反乱がおきる。

此方は岩をどかす工夫が附かない。

代々の将軍が放置したのはそのせいだと一年悩んで結論付けたが、諦め切れていない。

二月になりジィンチャン(晉昌)は駐屯地の軍営を訪ねた。

付近の大きな地形図がヂゥオヅゥ(卓子)に置かれていた。

劉榮慶(リゥロォンチィン)に相談すると隊商の主なものを呼んでくれた。

荒れ地南の台地に昔の放牧地があるという。

「今どうして使わないのだ」

「崖が崩れて山羊くらいしか入れなくなった。道を付ければ五千は羊が養えるが将軍銜署の保有地で入れない」

官吏たちはなぜ教えないのだろうと悩んだ。

「野生のヤマァ(山羊)も居るのか」

「川の南は居ないはずだ、南のザブハン(札布噶河)からこっちは狩りの獲物になった。マヌルくらいしか見たことない」

案内を頼むと快く引き受けてくれた。

総監も付いて十人が馬で小川を横切り草原の雪を踏んで進んだ。

幸い馬も苦にならない柔らかい雪で荒れ地との境の小川に着いた。

荒れ地側は馬では無理だという、遠回りだが小川に沿って南へ行くと徐々に登りとなり、細かい小川に判れたところにけもの道があった。

馬を降りて二人残して登った。

眼下に大きな池と膨大な草地が見えた。

「これか」

「そうです。あの池の水が落ちる先が下の荒れ地に有る小さな滝です」

十年ほど前逃げた山羊を追って見つけたという。

「どうだね、道があれば住むことは可能だろうか」

「将軍銜署の物でなければ道をつければ大丈夫ですが、羊では定着できません」

「なぜ」

「浅瀬で川を越すのに遠回りで羊が嫌がりますし、荒れ地を抜けるのも一苦労です。三百や五百なら兎も角多くては行き帰りで陽が暮れます」

「穀物の畑はどうだね」

「水もあるし、水はけもいい土地ですのでイェンマァィ(燕麦・烏麦)やシゥ(黍)スゥ(粟)なら」

方向を聞くとけもの道の東が駐屯地の西の崖に続いているという。

今いる場所から南へ大回りしたことがあり、アルタイ(阿爾泰)との街道へ下りる道へ通じていたという。

駐屯地の軍営で地図に写せるように今の道を確認しながら下書きをした。

インドゥが宜箭(イィヂィェン)とテルメンから戻ってきて話を聞いた。

駱駝の繁殖所でホルモグ(駱駝乳酒)を定期的に買う相談をして来たのだ。

「燕麦ですか、肥料が良ければ二千五百石くらい行きますかね」

「将軍銜署と定辺城の分が賄えれば苦労せずに済む」

「どのくらい人に銀(かね)が掛けられますか」

「今は必要量の買い入れに銀(イン)二千両かかる。年千両、三年でもとが取れるならいいが」

ジィンチャン(晉昌)は自費でも行うつもりのようだが、京城(みやこ)では参賛大臣を入れ替えられた代わりに、将軍を入れ替える工作が進んで居た。

瓜爾佳氏(グワルギャ)は資金が豊富だが、玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)を守り切れず、閩浙總督解任後一年を経ずして烏什(ウシュ・新疆ウイグル)辦事大臣に送られている。

嘉慶十三年六月二十四日1808815日)病気で辞任後、年が明けて亡くなったと風聞が来た。

桂良という老大(ラァォダァ)は三十近いはずだが官途へ着いた噂は聞こえてこない。

章佳氏(ジャンギャ)鈕祜禄氏(ニオフル)と富察氏(フチャ)瓜爾佳氏(グワルギャ)の争いも水面下で火花を散らしている。

其の鈕祜禄氏(ニオフル)内でも富察と組むものもいるし、富察の血を曳く親王家ではインドゥの後押しに回る、家系を聞いただけではどちらを応援しているのか、判断できなくなっている。

博爾濟吉特氏(ボルジギト)の多くは静観の構えだ。

那彦成(ナヤンチェン・章佳氏満州正白旗)は両広総督も追われ嘉慶十二年(1807年)から喀喇沙爾(カラシャフル)辦事大臣、葉爾羌(ヤルカンド)辦事大臣,西寧(シィニィン)辦事大臣、喀什噶爾(カシュガル)参賛大臣と地方回りが続いている。

それでも復活の兆しが見え、陜甘総督に嘉慶十四年十二月 18101月)任じられた。

フォンシャン(皇上)には老いた慶桂くらいしか頼りに出来ない状況だ。

慶桂七十八歳、嘉慶四年から領班軍機大臣の任についている。

五十五歳とフォンシャンは父君の年を考えれば、自分はまだ先があり親政による政治に自信を持っているがたやすく操られていると観る向きもある。

三月、ジィンチャン(晉昌)愛新覚羅氏(アイシンギョロ)に交代の連絡が来た、次は伊犁將軍との通知だ、伊犁将軍は正一品、支度もそこそこに旅立った。

十九日、グゥアンミィン(觀明)瓜爾佳氏(グワルギャ)が赴任してきた。

黑龍江將軍を五年ほど勤めて来た満州鑲黄旗(クブヘ・スワヤン・グサ)の男だ。

漢人の官吏とダァルゥ(達祿)が引継ぎ事項を伝えたが、農地の拡大予算は拒否された。

「定辺城の予算でやればよい」

「任せるという事でしょうか」

「できるならやればよい」

「承りました」

壊れた羊の利権の裏を探っているようだ、相当つぎ込んだ資金が回収も出来ない。

利息なしで行った貸付金もまだ期限は来ない。

京城(みやこ)の額駙(エフ)の借銭はフォンシャンの下賜金が出たという。

蒙古(マァングゥ)領内の養羊業者、養馬業者の債権は隊商が握っていて離さない。

将軍銜署の経費は送り込んだものが調べても、ジィンチャン(晉昌)個人の負担が多く公費は決まりしか手を付けていない。

インドゥ達の駐屯している派遣の兵はわずかで、フォンシャンの特別予算で送られていて将軍銜署との関係は浅い。

命令系統からも外れている。

インドゥについてはわかっていても総監とは何ぞやが良くわからない。

これまでインドゥのかかわった組織との関係も見つけられなかった。

軍機大臣トォオヂィン(托津)から来た密使も知らないと言うばかりだ。

其の駐屯地から三人が来て、着任の祝いとして金錠五十両とスゥチョウ(絲綢)十匹を贈られた。

出どこは公主府と分かっているので賄賂と上奏も出来ない、額駙(エフ)の強みだ。

少し我が儘を言おうと「たまには異国の葡萄酒(プゥタァォヂォウ)が欲しいな」と言ってみた。

「二月に京城(みやこ)を出る隊商に託すと言ってきましたので間もなく参るはずです。真っ先にお届けします」

軽くいなされた。

ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)とダァルゥ(達祿)の協力で開墾予定地へ道が付けられた。

今年は羊を入れてよいと通達が出て参領のサーラル・チョノの一族が毎日のように五百頭ほどの羊を連れて入った。

二月ほどで道は丈夫になり来年にはイェンマァィ(燕麦・烏麦)の畑地に貸し出すと噂が広まった。

「土地は将軍銜署の物だ。勝手は許さぬ」

そう憤ったが官吏が大勢いる前で任せた手前分が悪い。

考えた末自分の手柄のように報告書を送った。

 

派遣軍にコブド(科布多・ホブド)、アルタイ(阿爾泰)を巡回するように要請した。

インドゥたち派遣軍は十名と馬丁の騎馬隊二十騎で荷駄を三十頭で編成した。

将軍銜署の方では前年と同じ給付を出した。

口譯(クォイィー)はビヤンバドルジが今年も付いた。

五月一日出発をニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)に告げると十騎で同行と連絡が来た。

鹽業者が次々に連絡を取りに来ては資金を受け取り、活動を続けた。

家畜養育業者と隊商の大多数が適正な値で取引を了承した。

六月九日、四十日で一回り巡察を終え将軍銜署へ報告した。

そのころからインドゥの具合が悪くなり顔色が青白くなっていく。

薬酒の効果が体に聞かなくなったようだと紫蘭からの急報が届いたのは八月十一日。

公主は速やかに帰京命令をと上奏したが太医(顧判官)が一人送られただけだ。

十二月十日、その顧(グゥ)太医からの知らせがフォンシャンの元へ届いた。

原因不明、重病と有った。

帰京命令は派遣の全員へ下った。

 

乾隆帝の残した貴妃はまだ一人残っていた。

晋妃と呼ばれて居た富察氏(フチャ)だ。

正史に生年は残されていない。

嘉慶三年七月九日(1798820日)戊午-晋貴人

嘉慶二十五年八月二十三日(1820929日)庚辰-晋妃

道光帝即位後,道光帝上諭-皇祖晋太妃

 

寿貴人は那答応と同一人物とされる事が多い

共に正史に生年は残されていない、二月初一日誕生と記録が残る。

嘉慶十四年二月二十一日(180945日)甲戌-寿太貴人死去。

 

鄂貴人、西林覚羅氏(シリンギョロ)七十三歳。

乾隆五十九年十月二十四日(17941116日)甲寅-鄂貴人

嘉慶帝尊為鄂太貴人

嘉慶十三年四月二十五日(1808520日)戊辰-太貴人七十六歳死去。

 

嘉慶十五年正月初一日181024日)

まだウリヤスタイへの使者は来ない。

劉榮慶(リゥロォンチィン)は御秘官(イミグァン)を名乗る男から“帰京命令が発令された”との情報を得て、いつでも出られる準備を始めた。

正月二十八日、フォンシャンの急使が着いて即日将軍銜署へ帰京届を出して翌二十九日、サイル・オソ駅站経由で帰郷の途に就いた。

すでにインドゥは馬での移動は無理と顧(グゥ)太医が判断し、紫蘭たちが交代で馬車に乗り込んで看病した。

四月初二日、六十二日目に安定門(アンディンメン)外へ着いてフォンシャンへの報告は劉榮慶(リゥロォンチィン)と宜箭(イィヂィェン)、張緒燕(チョンシィイェン)、潭絃(タァンシィェン)と連絡したが神武門(シェンウーメン)門外で受けると言われインドゥの乗る馬車を橋のたもとにつけた。

帰京報告を受け、フォンシャンはインドゥのやつれた姿に「許せ」とのみ言葉をかけた。

大学士劉權之(リォウチュァンヂィ)が証書を読み上げ公爵が授与され、養生をするようにと、馬車を出させた。

府第には信(シィン)がいた、十日前から帰京を待っていたのだ。

親子三人で結、御秘官(イミグァン)の受け継ぎを行った。

和国での引継ぎの証拠は壁を壊させ、取り出して信へ預けた。

嘉慶三年に劉全(リゥチィアン)から受け取り隠しておいたものだ。

御秘官(イミグァン)の小判とは極印が違う、もっと古い時代の物だという。

“手前吹き”という職人に頼んで極印を打つ場所も後藤役所に手を回し“偽物”が作れないようにした。

小判一両に二百両の賄賂が掛ったと言い伝えられている、三枚の割符が作られている。

墨書きの小判も伝わっていたが寧波(ニンポー)集団が銭屋と交友を結んだあと、役目を終えて鋳つぶしたという。

その時平関元が動かせたのは和国の金にして百万両あったという。

あと一枚はインドゥも聴かされていない、康演も聞いて居ないという。

今、目の前に置かれた小判は英廉から劉全を経てインドゥへ受け継がれたものだ。

和国の相手には上半分が預けられているという、インドゥは公主と信へ相手の名を告げた。

浪速の街に代々住み着いているはずで、もし家系が絶えても繋ぎが着く手はずだという。

劉全(リゥチィアン)は片手を広げ「これだけあります」と伝えたのだ。

平大人(ダァレェン)はすべてで銀換算一億両だと聞いたという。

インドゥが信に託したのは和国に“結”と「御秘官」が隠匿した銀。

和国も小判の規定量目四匁七分六厘だったものが三匁五分と小さくなった。

金の割合も七割を切っている。

小判一両は銀六十匁の公定しかし、南鐐二朱銀は銀二匁七分しかなかった。

八枚で一両に通用させようという目論見だが、二十一匁六分をいくら一両と交換可能と云え混乱は起きている。

良質と言われた元文丁銀は金一両に対し五十匁で通用させていたがこれとて銀は半分も含まれていない。

贋金は後を絶たない、大きな藩が関わっているとのうわさも聞こえて來る。

長崎での取引はその差額も利用されている。

長崎奉行を三年勤めれば三代富裕と言われていた。

その和国の銀も長崎から、大清へ一両銀錠が輸出されていた、品質が良く商人には喜ばれている。

広州(グアンヂョウ)では品位は劣るがメキシコドル(八レアル銀貨)も流通している。

大清は金錠一両が銀錠十両だが本来一対十五位が世界相場だ。

金錠の流出はわずかだが、海賊騒ぎの影響で輸入超過が起こりだして居る。

一億両の銀が何か所かに分けて仕舞われている話は、信(シィン)には驚きでしかない。

公主とインドゥは笑いながら「講釈師は七億両老爺(ヘシェンのあだ名)がくすねたと言うがそれに比べれば七百年の蓄積でこんなものだよ」と全貌を話した。

すべて残されているかは確認できないという。

石見銀山は昔隠し銀山だった、その当時に大分と隠匿したらしい。

神屋寿禎によって世に知られてからは半島、大陸へ持ち込みが難しくなり、和国での隠匿としたと伝わっている。

銀山を取り戻すために尼子氏と組んだが毛利氏によって滅んでしまった。

江戸幕府の時代になっても大清の銜で六万二千四百斤(四千十三両・五百二十石)、時代が下っても二万三千斤(千四百三十八両・百九十二石)上納出来る優良な銀山だ。

和国の長い戦乱時代に御秘官(イミグァン)の方の金銀は使われたとみていい。

鉄砲の売り上げで儲けてもたかが知れている。

大久保長安によって幕府の支配を受けた金山、銀山からの隠匿は中止せざるを得なくなった。

大久保長安死後になって家康は隠匿財産を求めて親族を根絶やしにした。

隠し財産を探す隠密は津々浦々を探索したが見つけることは出来なかった。

本多と大久保の勢力争いに乗じた粛清とみられている。

「貸付金で多くへ出ているはずよ。すぐに見つかるはずもないわ」

「そんなに銀(かね)があればだれも苦労しないですむさ。ただ和国の銀は小判に替えても損をする。銀で長崎の銀錠を買って持ち込んで隠すのが一番だが其れも難しくなりそうだ」

和国の元文小判は重さが三匁五分、強度を保つため銀などが三割五分入っている。

信に渡された慶長小判で金は八割四分、小判の重さが四匁七分六厘。

和国が行ったのは国が贋金を流通させたと同じだ、財政の悪化を防ぐため小判の出目を増やして改鋳し、取り込む以上に信用は落ちてしまう。

大清はその方向へは進まなかったので金錠の流失はわずかで済んでいる。

銀六十匁必要なものを二十一匁六分で流通させれば物価は高騰し、銭の値打ちが下がってしまう。

金貨の改鋳と銀貨の改鋳という手段で、一時的に蓄積が増えたというのは妄想に過ぎない。

物の値が上がれば苦しむのは庶民と下級武士だ、松平定信は金銀改鋳の手詰まりを、旗本、御家人の借金棒引きという荒業で糊塗した。

札差に六年以前の債権破棄、五年以内の借金利子引き下げを命じた。

 

豊紳殷徳(フェンシェンインデ)

嘉慶十五年五月二日(181063日)三十六歳死去。

諡号-「孝愍」。

鈕祜禄氏(ニオフル)

満州正紅旗(マンジュ・グル・フルギャン・グサ)

世職 三等輕車都尉

         天爵

號  潤圃・自號「天爵道人」。

世職は養嗣子豊紳宜綿の子福恩が継いだ、公爵位が継承されたか正史は伝えていない。

 

豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の名について。

乾隆四十五年五月二十日1780622日)乾隆帝が命名。

子供時代の正式な名は正史に伝わっていない。

和孝(ヘシィアォ)は諡号の孝愍から取った。

 

和信(ヘシィン)

乾隆五十九年十二月十九日(179528日)誕生

正史には豊紳殷徳と固倫和孝公主の間には女の子が産まれ夭折とある。

第二十三回-豊紳殷徳外伝-2

固倫和孝公主から難産で生まれた子は女子、産まれ落ちてすぐ亡くなったと届けがあった。

身代わりに平文炳が乞食の中で死期の迫った娘を天津で見つけ、買い取ると秘密裏に医者が手当てをしたが、直ぐ亡くなったので灰にした。

和信の誕生とともに、豊紳府では供養を念入りにした。

 

豊紳殷徳の家系(三等輕車都尉)を継いだ福恩について。

父親-豊紳宜綿(父親-和琳・母親-他他拉氏)。

母親-不詳。

・維基百科(自由的百科全書)には豐紳宜綿のページには載せていない。

家族の欄には一子二女。

一子福祥,一女鈕祜祿氏(多羅順承勤郡王春山嫡福晉)。一女道光成貴妃。

・同じ維基百科(自由的百科全書)でも丰殷德のページに出ている。

有子早夭,二女,以养子福恩嗣,承和珅父常保所三等轻车都尉世

・百度百科も丰殷德のページに福恩を乗せている。

有子早夭,二女,以养子福恩嗣,承和珅之父常保所三等轻车都尉世

家系欄にも出ている。

子女:早夭、与妾两女

养子:福恩(一女嫁宗室毓厚)

・百度百科の丰のページには詳しい子供の欄がない。

一子福祥。

・維基百科(自由的百科全書)成貴妃のページ。

兄弟:福恩,即固倫和孝公主之養子。

 

福恩と福祥を同時に乗せているのは有る。

・維基百科(自由的百科全書)の和珅のページだ。

福恩の父母についての記述はないが、豊紳殷徳と固倫和孝公主の養子を示す点線で結ばれている。

福祥については豐紳宜綿と喜塔臘氏の間に点線(養子関係か)で繋げてある。

三等輕車都尉を福恩が継いでその子銘祥に継承とされている。

・和珅、和琳の生家。

西四牌楼北側驢肉胡同、現在の西四北条。

宜綿死後一度取り上げられたが、公主逝去の後に福恩に下げ渡された。

 

二月十日、ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)ではダァルゥ(達祿)が予算を組んでイェンマァィ(燕麦・烏麦)の農民十五家を新開地へ移住させた。

千四百七十ムゥ(畝)もあるという、すべて定辺城雇とした。

均等に割ると一家九十六ムゥ(畝)が得られるので八十ムゥ(畝)を割り当て残りから二百ムゥ(畝)を種籾用の新開地積み立て分とした。

さらに共有地として七十ムゥ(畝)で玉米(ュイミィー)栽培を命じた。

十五家でウヘー(牝牛)十五頭、グゥ(牝馬)十五を割り振り、共有のウフル(牡牛)五頭、牝山羊三頭にオホナ(種山羊)一頭が預けられた。

アラスガ(種馬)は定辺城が認定した優良馬が交配時に選ばれてくる。

費用はインドゥが置いて行った銀票を御秘官(イミグァン)が金錠に交換してきた。 

「農民を庇護してくれ」

別れる前インドゥから委託された。

駐屯地にいた馬丁五人、定辺城の雇から五人、家族のいないものにはそれぞれ嫁を持たせた。

コブド(科布多・ホブド)の農民五家、十五家を新開地の農夫として雇うことにした。

グゥアンミィン(觀明)は三割の小作料を請求と書面を作り、京城(みやこ)へ上奏した。

内務府会計司は前任者宗室晋昌の上奏を確認し、農民定着政策の為税一割と小作料免除の上奏があり裁可されていると送り返されてきた。

しかも烏里雅蘇臺參贊大臣満州(定辺等処地方)所管地とされるとの書面まで来た。

ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)は今までの農法でも千五百石見込めるという。

燕麦の農民は協議して最大二千石、不作で千石と申し出た。

それには肥料代に銀(イン)三百両、種籾に二百両を経費に見てほしいと言って来た。

即座に裁決しニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)は賛同の印をついた。

飼い葉の削減、年千両が目標だ、雇である以上食い扶持を五人扶持与えた。

収穫の一割の税(現物)、四割の農民取り分が決められ、五割が定辺城へ納付とされた。

五人扶持は鹽、雑穀支給で、定辺城緑営の兵士並みの給付となる。

一日一頭分の羊肉も約束された。

将軍銜署、定辺城の馬匹の穀物の半分は賄える見通しがたった。

グゥアンミィン(觀明)は小作料三割の方が、農民の取り分は大きくいい政策だと周りに言い募っている。

七月初五日、イェンマァィ(燕麦・烏麦)の育ちが順調との報告を将軍銜署へ持っていくと急使が来たというので定辺城へ戻ると、豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の死去の通知だ。

その知らせが将軍銜署にも届きグゥアンミィン(觀明)は祝杯を一人であげた。

七月二十一日、ダァルゥ(達祿)に京城(みやこ)へ戻れとの命令をもって後任のウォンチュン(溫春)默爾丹氏(メルダン)がウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へ赴任してきた。

八月初一日、グゥアンミィン(觀明)に移動命令が来た。

盛京將軍を命じられた、本来なら盛京の方が重要任地だ。

この時代まだ盛京將軍は総督ではない。

「後任は」

「すでに近くまでまいって居られるはずです」

「だれだ」

「チィンプゥ(慶溥)様です」

領班軍機大臣慶桂、章佳氏(ジャンギャ)の弟だ、廣州將軍を経てここへ来るということはこの地を巡って争奪戦が起きていると觀明には思えた。

九月二十一日、ダァルゥ(達祿)が京城(みやこ)へ戻ると吉林副都統の時代に公金流用、賄賂を着服したとの弾劾だったが、到着した時には冤罪と判明していた。

家族へ遺した銀(かね)の出どこを衝いてきたのだ。

粘竿処(チャンガンチュ)は親の遺産と報告した、城子鎮の邸に荘園の収入も十年遡って報告されていた。

スクサハ(蘇克薩哈)の名誉回復の時蘇常寿が継ぐことが許されていた財産だ。

軍機処で報告中に早馬が来た。

後任のウォンチュン(溫春)が初一日急死との知らせだ。

現地の医者は早打ち肩と見立てたという。

チィングゥイ(慶桂)はダァルゥ(達祿)の再任を求めたが、トォオヂィン(托津)はチャンリィン(長齡)薩爾圖克氏(サルトク)を科布多参賛大臣から移動させることを主張し、フォンシャンの裁可が降りた。

ダァルゥ(達祿)はフォンシャンからしばらく静養せよと直々に言われた。

ザクタァル(扎克塔爾)のあとツゥバァクァ(策拔克)そしてチャンリィン(長齡)と目まぐるしく変わっていたコブド(科布多・ホブド)の参賛大臣だが、在京のツゥバァクァ(策拔克)へ再任命令がその日のうちに下された。

博爾濟吉特氏(ボルジギト)のツゥバァクァ(策拔克)はこれで三度目の科布多参賛大臣となった。

ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へと権力争いの眼が引きつけられているが南方の海賊にも大きな動きが起きていた。

阮元(ルゥァンユァン)はまたもや標的となって仕舞った。

汪志伊(ゥアンヂィイー)は湖廣總督からの横滑りで福州(フーヂョウ)へ戻って来た。

 

閩浙總督

汪志伊(ゥアンヂィイー)-嘉慶十五年九月(181010月)~

浙江巡撫

阮元(ルゥァンユァン)-嘉慶十四年八月(180910月)交代。

京城(みやこ)にて会議の末解任。

後任

蔣攸銛(ヂィァンイゥシェン)-嘉慶十四年八月(180910月)~

浙江布政使

廣厚(ガォホォゥ)-嘉慶十四年五月(18096月)~

福建巡撫

張師誠(チェンシィチァン)-  嘉慶十一年十月(180612月)~

福建布政使

景敏(ヂィンミィン)-嘉慶十一年三月(18064月)~

両広総督

百齡(ベリィン)-嘉慶十四年正月(18092月)~

広東巡撫

(ハァンフェン)- 嘉慶十三年十一月二十一日(180916日)~

広東布政使

曾燠(ツァンイィ)-嘉慶十四年十二月(18101月)~

浙江提督 

李長庚(リィチァンガァン)-嘉慶十二年十二月(18081月)戦死。

李長庚後任
王得禄(南澳鎮司令官)-浙江省水軍提督
擔任浙江提督-嘉慶十三年正月(1808年)~

朱濆(ヂゥフェン)-嘉慶十三年年末(18091月)死去。

蔡牽(ツァイヂィェン)-嘉慶十四年七月(1809 8月)死去。

張保仔(チョンポーチャ)-嘉慶十五年二月(18103月)投降を申請。

百齡(ベリィン)が受け入れに合意、投降者は一万七千人を超えたという。

海上運糟は安全になった。

 

烏里雅蘇台、科布多はまだ多難だ。

八月五日から九月二十一日の任命者(ニィンバァオドルジは除く)。

ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)

・烏里雅蘇台将軍

チィンプゥ(慶溥)章佳氏(ジャンギャ)。

・烏里雅蘇台等処地方参賛大臣(蒙古)

ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)

・烏里雅蘇臺參贊大臣満州(定辺等処地方)

チャンリィン(長齡)薩爾圖克氏(サルトク)

コブド(科布多・ホブド)

・科布多参賛大臣

ツゥバァクァ(策拔克)博爾濟吉特氏(ボルジギト)。

 

武官

両侍衛内大臣・掌衛事大臣・伊犂将軍(正一品)

将軍・都統・提督(従一品)

督撫(総督従一品と巡撫従二品の総称)

護軍統領・前鋒統領・総兵・副都統(正二品)

副将・頭等侍衛・参将・参領(正三品)

下五旗参領・包衣驍騎参領(従三品)

佐領・郡司(四品)

 

ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)はこの三年で街の人口は三倍に増えた。

ホェニ(羊)、ヤマァ(山羊)、グゥ(牝馬)、モリ(去勢馬)を飼うもの達の収入は倍に増え、北への街道の先へニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)は農地を増やした。

チィアォマァィ(蕎麦・ソバの実)にシゥ(黍)は五倍の収穫をニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)は見込んでいる。

街道沿いの牛農家は肥料を生産する重要な役目を与えられ、ウヘー(雌牛)を五十頭まで増やすのに大わらわだ。

北のザブハン(札布噶河)河岸(ボグディン・ゴル河岸)の西北の草原の羊はニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)がリンポドルジ(倫布多爾濟)の協力で二万頭まで増やした。

草原は五万頭まで養えると見られている。

アンチゥン(鵪鶉)の襲来を見てシゥ(黍)とスゥ(粟)の収穫が始まった。

六か所の農地でスゥ(粟)二万二千斤、シゥ(黍)二万三千三百斤の収穫があり、ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)の一族は大はしゃぎだ。

アンチゥン(鵪鶉)が去るまでの間、昼は町中の子供たちが刈り取った後へ群るアンチゥン(鵪鶉)を手づかみで捕まえた。

今年は四日の間、夜はそのアンチゥン(鵪鶉)を焼いて食べ、朝はたたいた肉で湯(タァン)を拵えた。

税に銀(イン)二千二百六十五銭支払ったが、半分ほど売って一万五千銭手に入った。

一族の借銭の五割がた証文を取り戻せた。

収容しきれない藁は秣として定辺城の方で銀(かね)五十両で買い取らせた。

張(チャン)の店はどれも受けに入っている。

汪(ゥアン)のヂョオロゥ(酒楼)は二軒とも大繁盛している。

妓楼は料理人を帰化城から呼び寄せた。

元の駐屯地もツェべグマァの一族が次々集まって来た。

ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)の庇護で隊商を組んで出る数も増えた。

十三歳になったビヤンバドルジは口譯(クォイィー)のビヤンバドルジに可愛がられて口譯(クォイィー)として定辺城の雇となった。

自分の隊商が組めるまでに言葉に不自由しないための勉強だ。

新開地は初年度千五百石、ムゥ(畝)あたり一石二斗五升の収穫を見た。

税に百五十石納入し、一家当たり四十石が収益となった。

定辺城(定辺等処地方)の役署は飼い葉用に七百五十石を受け取った。

税の百五十石を加えれば必要量(将軍銜・定辺城)の四割が得られる。

二年度は種籾も豊富で買い入れの必要は無くなり、大幅に肥料代も軽減できる、定辺城の負担は大分と軽くなる。

ウヘー(牝牛)はボフ(牝牛)六頭にウヘー(牝牛)九頭を産んでくれた。

牡は銀(かね)にした。

グゥ(牝馬)はオナガ(子馬)十五頭の内グゥ(牝馬)四頭を産んだ。

牡はいい銀(かね)で引取られ、その銀(かね)でウヘー(牝牛)六頭を買い入れた。

ヤマァ(山羊)は双子を含め四頭の牡の子ヤギが産まれた。

オホナ(種山羊)を含め牡はすべて売ることにし、翌年別の土地のオホナ(種山羊)を買う事にした。

雪の前に堆肥は十分漉き込んで来年の耕作に備えた。

焼成された骨粉も蓄積は十分できた。

村長(むらおさ)に選ばれた男は「二千二百石は行くでしょう」とニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)のグゥァンヂィア(管家・家宰)のバトドルジへ申し出ている。 

クーロン(庫倫)への街道を行くと二百五十里ほどでリンポドルジ(倫布多爾濟)の持つ集落がある。

使用人と云うより一族に近い。

三十ほどのゲル(パオ・包)に二十二家の家族が住んでいて集落の南に八千頭ほどの羊が飼われている。

此処と北のザブハン(札布噶河)河岸の西北が倫布の土地だ。

倫布の一族ははさらに十里ほど行ったところに三十ムゥ(畝)ほどの農地と二千ムゥ(畝)の駱駝の繁殖所を経営している。

一番の売りはホルモグ(駱駝乳酒)だ。

近辺の隊商は此処で去勢された三歳のテメィ(駱駝)を買い入れる。

さらに進むとトソンツェンゲルの集落に出る。

此処の冬は寒いとウリアスタイの者もいうくらい厳しいそうだ。

河も凍り付きヤクも小屋へ引っ込むという。

凍らない湧水が何か所もあり飲み水や家畜の飼育に不便は無いという。

困れば河の氷に穴をあける、下は凍っていない水が流れている。

そこから東へ百八十里でジャルガラントへ出る。

クーロン(庫倫)までまだ千六百里有るという。

 

第五十八回-和信伝-弐拾漆 ・ 23-05-09

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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