第伍部-和信伝-参拾玖

 第七十回-和信伝-参拾玖

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

 

文化十一年(1814年)は清国の嘉慶十六年。

乾隆帝逝去後も側妃晋貴人はまだ寿康宮に住んでいる。

嘉慶二年(1797年)二月に上皇の後宮へ入ったと見られている。

父親は米思翰の孫に為る徳克精額(沙濟富察氏)。

系図を辿れば孝賢純皇后も米思翰の孫となる。

晋妃と尊封されるのは嘉慶二十五年八月二十三日(1820929日)。

道光帝即位後,道光帝上諭により皇祖晋太妃となる。

道光二年十二月八日(1823119日)晋太妃死去。

入宮後人生の大部分を寡婦として過ごした。

死去年齢は四十歳台らしいが特定できていない、父親は嘉慶六年(1801年)に七十四歳で記録が残る。

 

清国の正式な刻は九十六刻制(一刻は十五分)が採用されている。

一時辰を初刻と正刻の二つの小時に分けた。

午後11時台を例に取ると以下このように分けた。

初初刻(1100分・子の初刻)・初二刻(15分)・初三刻(30分)・初四刻(45分)・正初刻(1200分・子の正刻)・正二刻(1215分)・正三刻(1230分)・正四刻(1245分)

民間では不定時法の地域が有るように話を複雑にした。

 

七尾の塩屋清五郎(四代目)は塩屋宗家五郎兵衛から所口町の庄屋を引き継いだ。

一族は岩城を名乗り慶長の頃陸奥から移住したという。

先々代穆斉は皆川淇園、頼春水との交遊もあり頻繁に京(みやこ)や江戸へ出てきていたという。

その頃の俵物は大坂俵物会所を通して長崎へ送っていて、少なくも大坂へ年一度は出てきたという。

天明五年からは長崎会所の俵物役所が独占的に集荷するようになった。

頼春水の影響は幕府の朱子学偏重をよぶほど力が有ったという。

四代塩屋清五郎事塩屋義蔵は皆川淇園の門下に入っている。

長男西陀は頼春水の息子頼山陽の門下で後援者の一人だ。

五代塩屋清五郎は西陀が継ぐことに為るが、まだ十九歳の若者だ。

家業は廻船問屋で七尾の煎海鼠問屋も営んでいる。

七尾の煎海鼠加工はあとひと月ほど八十八夜(この文化十一年は三月十三日)辺りまで続く。

統制価格の低下による漁民の手取りは減り、貿易額も減少、それは幕府の財政にも影響を及ぼしてきた。

中国船だとて買い入れてくれるものが減れば、買い受けも減るのが普通だとなぜに分からぬのだと不満は大きい。

結は特定の地域からの煎海鼠取引量を生産高の百分の一までに引き下げることにした。

長崎値段が下落しても清国へ入る値段は高騰している。

多く売りたい藩は我慢がきかず、薩摩の誘いに乗って安く集める手助けを始めた。

 

夜に入り銭五から船越町“ さのやへ書状と金が届いた。

元文小判で二百両有り、使いの者は受け取りに名を書いてくれと云う。

奥州白河藩本川次郎太夫と書いて渡しておいた。

書状に江戸からの知らせで加賀前田公が東海道での暇帰国と届を出したという。

鎌倉、江の島、箱根で泊まるとある。

「それだけでも三日は余分に金が出るな」

「なにやら金に余裕が出ると踏んで豪遊でもしそうですね」

吾郎に新兵衛も不安そうだ。

「何年も不作続きで緊縮財政をしてきた家老たちの努力も藻屑ですかね」

「江戸入用も二十万両との噂だ。暇で小判五千、六千使うくらい大したことないと江戸の家老達はケチるなとでも思っているようだ」

此のところ参勤の行列が派手に為ったという、供廻りが二千七百人を越すこともしばしばある。

「齊廣(なりなが)様も取り巻きが悪い、琴姫様に去られて今じゃ公家に煽てられている」

琴姫は享保三年十九歳で齊廣へ嫁ぎ、二年後に病気療養として実家へ戻ると文化三年に離縁となり、内大臣近衛基前へ再縁し、文化五年に二十四歳で長子を産んでいる。

余談

琴姫(徳川静子)→長男近衛忠煕→四男近衛忠房→長男近衛篤麿→長男近衛文麿

琴姫の父親は高須松平勝当(かつまさ・義当。尾張宗勝五男)、尾張徳川宗睦(尾張宗勝次男)の養女。

琴姫は養父をして「男であれば家を継げるものを」と言わしめた才媛だ。

宗睦は男子(早世)に恵まれず養子にも先立たれ、ようやく寛政十年四月に一橋治国の長男斉朝を養嗣子に迎えた。

齊廣は文化四年に継室に夙姫(隆子、鷹司政熙の二女)を迎えた。

「華美と云えば将軍家にも油断が見える。結とイミグァン(御秘官)の金を無尽蔵とでも吹き込まれたかな」

「水野様ならうまく釣り合いを取れそうですが」

「沼津のお方が危なそうだとよ。善悪ほどほどに操れる力は無さそうだ。借り入れの多い大名が多いのに参府暇の参勤行列に見栄を張るものばかりだ」

「加賀は高田屋と銭五で金は都合を付けるでしょうが江戸で借り入れが増えると厄介ですぜ」

「爺も弘前も高望みで危ないと言うし。絹を増産して金を産まないとな」

「木綿だけでなく絹もですか」

「公家に将軍家、前田様が華美を好めば需要が増える。上野と信濃に梃入れする様だぜ」

「桐生は出羽松山藩の分領、前橋は武蔵川越藩の分領。どちらも借銭で苦しいですぜ」

「どちらも陣屋支配か。前橋は富津へ出した金の後の埋めでも考えるようだな。隣の足利の様子も調べるようだぜあにい。行ったのは五年くらい前だろ」

足利藩は一万千石、藩主は戸田忠喬、安永四年十二歳で家督相続、五十一歳。

「足利は小倉綿で名が売れていますからね。絹布はいまいちでさぁ」

「それなら両天秤でやれるように後押ししようぜ」

野州足利(下野足利藩)、上州桐生(出羽松山藩)、上州前橋(武蔵川越藩)の三か所を前橋の呉服屋“ 上州屋 ”へまとめさせようと吾郎たちと相談した。

足利の屑繭の太織り(ふとり)はあまり外へ出てこない。

増産が進めば屑も多くなり安く販売できると新兵衛は先読みをした。

町民は華美でなければ縞物なら着用は許され、農民はいまだ許可をされていない。

新兵衛達は祭礼時の着用を例外として頂けるように嘆願している。

秩父の商人から酒田への売り込みがあるという。

「秩父は大宮六斎市へ農家が売りに来るようです。纏まっては居ないようです」

大宮には江戸の大店へ納める絹買いが十軒ほど有るという。

「どの位取引が有るんだい」

「年五千疋程度ですね」

絹の制限が掛かり一時値下がりしたが、元に戻り絹一疋金三分迄値上がりしているという。

「目千(めせん)と云う縞織を始めたそうですぜ」

新兵衛は幸八に“手を広げられれば秩父も狙い目”だと煽っている。

秩父は忍藩の陣屋が有る。

「そういゃあ、足利の小佐野茂右衛門て人も、俳諧で訪れた小倉の織を足利へ持ち込んでいますぜ」

「宗匠その人ですぜあっしが訪れたのは真砂岐織と名が附きました」

「助けになりそうだな。ならばうまく繋ぎが附けば、後は受け持つ人探しだ」

出羽松山藩分領は五千石となっているが到底五千石は無理だ、絹と木綿に頼るのも当然だ。

幸八は「間に伊勢崎藩が有るんじゃ」と聞いてきた。

「そういやぁあそこも酒井様だ。上屋敷は愛宕下で、下屋敷は薬研掘り近くの永久橋だ」

伊勢崎藩二万石は酒井忠寧二十六歳が九年前に藩主に為った。

藩を上げて学問に秀でているものが多く出ている。

父親の忠哲公は隠居したが四十六歳で健在だ。

伊勢崎は市も盛んだという。

「幸八、お前まとめに伊勢崎へ出る気が有るかい」

伊勢崎は織元がまだ居ないようで桐生周辺の市場に押されていると新兵衛が言う。

「機屋ですかい」

「自分でやらずに元締めになるんだ。三人ほど資金を出して動かすなら年一度俺みたいに出てくればいい」

「兄さん、資金さえありゃ江戸で知多木綿と同時に扱いたい」

「江戸じゃ古手の見世が多いぜ」

「小売りじゃないんだ場末で十分ですぜ」

吾郎が「天王町近辺にでも来るか」と誘った。

「かみさんに江戸浅草だと誘ってみますよ」

浅草寺の話は新兵衛が大分と吹き込んでいるようだ。

「じゃ見世は抑えておくよ。五人くらい雇うつもりで大きい店をな。天王町から観音様付近だぜ。神田明神付近は御家人が多いがここらは寺が多い分小商人も多いからな」

吾郎には当てが有るようだ。

秩父は離れているが、前橋、伊勢崎、桐生、足利なら手がかりは有る。

秩父は忍十万石、藩主が幼年で幕閣にお手伝いを狙われている。

藩主阿部正権(正則)は九歳、六年前に家督を継いだ。

「親父に兄貴たちじゃそこまで金は出ませんよ」

「藤五郎と一緒に結へ入って後ろ盾が若さんなら、猪四郎も二人の資金の面倒は見るさ」

新兵衛も乗り気になっている。

織機を貸し出す代わりに安く仕入れるようかと四郎が言う。

「安くすりゃつけ込まれるから、織機を貸し出しても値は下げずに買うと知れれば、やらせてくれと向こうから来てくれますぜ」

織機十台を手始めにどうだと吾郎に言われて納得した。

織機の製作も知多と同じなら量産できる計算だ。

次郎丸はこの際資金を出す相手に真っ当な取引を求めるべきだと勧めた。

「茶も一斤が曖昧だが絹に木綿も規格を揃えるようだぜ」

幸八に藤五郎もそれに賛成した。

「鯨で一反を三丈、幅九寸五分、一疋が二反で六丈。ただし短いのと換算して値を決めよう」

次郎丸は幸八と藤五郎がこの基準で綿と絹を引き取るように勧めた。

「上物から三段階で取り引き出るように此方も勉強する様だ」

「若さん、俺の前の仕事場では羽織は二丈四尺で一反だった」

「端切れ屋が喜んで買い受けるさ」

四郎と新兵衛に吾郎も「機の代を貸し付けで此方が持つんだ。基準に合わないものを売ろうとしても仲間に入れないことだ」と賛同した。

これで上等な絹物の解禁となるまでの支度は出来ると次郎丸は考えている。

伊勢崎の絹宿は“ 上州屋 ”の番頭から聞いている。

買継商のたまり場だという、此処へ中り(あたり)を付ける必要が有る。

「できれば幸八と藤五郎は猪四郎に指導してもらうか」

養蚕、撚糸、染色、織子、元機、絹宿、江戸送りの組織を繋ぐことに為る。

難しい柄織が復活した時の為にも機の改良も援助する様だ。

幸八は「江戸なら仕立てを組織だって行う人材に事欠かない」と先読みしている。

「おいらの屋敷の女中も雇ってくれ。仕事は丁寧だぜ」

「嫁入る先でもやってくれますかね」

「煽てと実入り次第だな」

四郎もだいぶ乗り気になっている。

「手習いじゃないが、裁縫で食えれば長屋で十人集めて住まわしてもいいさ」

吾郎は「旦銀にも一役買わせてやってくれ」ともう頼んでいる。

次郎丸は八代様の全国で生産を奨励した絹生産の花を咲かせるべきと考えている。

父の奢侈禁止が末端で絹物へ向かったのは輸入品制限との誤解が生じた結果だ。

身分にあった服装と云う物に囚われ、髪飾りの簡素化と一緒に絹物が高価と云う思い込みで、国内産業に迄規制を掛けた役人と藩が続出した。

余談

寛永五年(1628年)農民に対し衣服を布木綿に制限。

寛永十九年(1642年)農民は襟、帯にも絹を用いることを禁止。

寛文七年(1667年)、天明八年(1788年)にも同じような禁令が出されている。

天和三年(1683年)、呉服屋に対し小袖の表は銀二百目を上限、金紗縫(刺繍)、惣鹿子(絞り)の販売禁止。

町民は絹以下、下女・端女は布か木綿の着用を命じた。

元禄二年(1689年)、銀二百五十目以上の衣服販売禁止。

正徳三年(1713年)、贅沢品生産と新商品技術の開発厳禁が命じられる。

享保三年(1718年)、延享二年(1745年)にも禁令が出た。

  町人が絹・紬・木綿・麻布以外の物を着てはならず

寛政元年(1789年)三月、奢修禁止令。

女の着類大造之織物無用二可致旨有之候享保九辰年申渡候通・小袖代銀三百目染模様百五拾目を限り夫り高値之物弥以売買致すもしき事。

くし・こうがい・かんざし之類・金は勿論不相応・銀べっ甲も細工入組・高値之品相上候上は櫛代金百目限・こうがい・かんざし右二准・下値二仕立可申候。

進歩を止めれば職人も産業も育たない、増える人口を養うには米だけでは成り立つはずもない。

土地に合わせて、粟、稗、小麦、大麦等の穀類に芋類の増産も必要事項だ。

帝国政府が同じように贅沢は敵だと統制を強め、結果税収が伸びずに自滅したのと同じだ。

平成、令和に日銀、政府がそれを真似し、世界経済から置いてきぼりを食ったのも同じ理屈のデフレ経済だ。

 

 安井政章は川越藩士、東海道分間絵図拝見のとき知り合った。

五人閲覧が許され、三人は旗本で一人は堺奉行だった依田政明、後の二人は老練の目付だった。

宝蔵院流川越藩師範だという、次郎丸とは前橋の本陣松井権四郎の紹介だ。

権四郎の父親は俳人素輪として弟子千人と言われる大家だった。

呉服屋の“ 上州屋 ”は妹の婿が仕切っていて盛況だが、藩の御用達として貸し出しの多さに悲鳴を上げているという。

イミグァン(御秘官)からは“ 上州屋 ”へ十万両が貸し出し資金、保管に五万両出ていたという。

川越藩は借り入れの利子支払いや経費で年四万両を新たに借り入れると云うことで、借財が増え続いているのだという。

上州屋 ”では年四千両支払われたうち三千両を新たに貸つけている。

ここ三年同じことが繰り返されているが、川越でも大きく借り出そうとする家老が居ると聞こえてくる。

大きいのは絹物の規制により絹運上の財源に頼れなく為ったことだという。

前橋城は利根川が暴れ五十六年ほど前に取り壊し、前橋藩は武蔵川越に藩庁を移し川越藩となった。

藩主は二十歳の松平直温、弟の松平斉典は十八歳。

直温は弟の先生に安井政章を付けた。

十五万石の大名と云っても実高は半分前後を行き来している。

引っ越し大名の筆頭株でもある。

結城秀康の五男松平直基(なおもと)は領地替えが続いた。

慶長十二年結城家の家督を相続、慶長十九年に養祖父結城晴朝の隠居料五千石を相続した。

元和元年越前勝山藩(一万石)、寛永元年越前勝山藩(三万石)、寛永十二年越前大野藩(五万石)、正保元年出羽山形藩(十五万石)、慶安元年播磨姫路藩(十五万石)

その長男直矩(なおのり)は父が播磨姫路藩藩主として赴く途中で急死、五歳で家督を継いだ。

直矩は幼少のため慶安二年越後村上藩(十五万石)に国替え、十八年後寛文七年播磨姫路藩(十五万石)へ戻された。

高田藩の御家騒動(越後騒動)に巻き込まれ半地処分の上閉門、さらに天和二年豊後日田藩(七万石)に国替を命じられた。

貞享三年出羽山形藩(十万石)、元禄五年陸奥白河藩(十五万石)。

直矩の次男基知(もとちか)の代は移転が無いが、宝永二年本所浚渫、宝永七年江戸城吹上御殿の手伝い普請で借り入れが膨らんだ。

正徳二年弟の知清に一万石を分与し、白河新田藩を立藩。

正徳三年藩財政のために藩士の禄削減を図ったが土岐派の反対で挫折、早川茂左衛門派失脚。

藩財政改善のため、土岐半之丞を執政としたが、手段は年貢の取立てと云う最悪の手段であり、享保五年全藩規模の一揆がおこった。

甥で養子の明矩(あきのり・義知)は陸奥白河藩支藩の白河新田藩主から迎えられた。

白河新田藩領は白河藩に返還され廃藩。

寛保元年播磨姫路藩(十五万石)へ国替え。

長男朝矩(とものり)は寛延元年十一歳で家督を継いだが、寛延二年播磨姫路藩から上野前橋藩(十五万石)へ転封してきた。

明和四年利根川の洪水による本丸崩壊の危機を避けるため藩庁を川越城に移した。

前橋城は明和五年に取り壊しが許可され、明和六年に取り壊された。

前橋分領七万五千石は陣屋を置いて支配した。

次郎丸はこの藩財政が壊れている川越藩の分領立て直しを考えている。

その一歩を安井政章に踏ませる工作も必要だ。


 

この日吾郎は四郎と連れだって自分の商売の仕入れを付き合ってもらった。

「俺は剣術つながりで鉄之助の爺様と知り合ったが吾郎さんも仕事か、俳諧繋がりかい」

「あっしわね。女房をもらった時天王町に義理の父親の家作に入ったんですよ。もう二十年も前だ。富士見の渡しを渡ると松前さまと津軽さまのお屋敷でね、当時は横網に仕事場が有って毎日通っていたんですよ。何度も顔を合わせているうちに心安くなって仕事の合間、仕入れついでで良いと連絡係にされちまったんですよ。ま、好きな俳諧の仲間を訊ねるにも旅費小遣い付に惹かれたんですがね。それで天王町の隣が空いたのを機に繋げて店を女房に遣らせたんですよ」

「横網の方はどうしたんだい」

「あちらは代替わりで順調ですぜ。旦銀はそこで仕立て職人の纏めをしていてね。同じころに独立したんですよ。その時に俳諧の弟子にしました」

旦那の銀助は神田三島町で仕立物の元締めだという、此の神田の三島町は芝神明前の代地だ。

普通肌襦袢など夜なべに自分で縫う者は多いが、安い工賃で請け負うのだという。

「お得意さんは人入れ稼業でね、女中奉公へ出るに垢のないものを持たせるのだそうで、伊勢参りの神さん連中は旦銀の仕事仲間ですぜ」

「話は替わるが兄貴たちは京(みやこ)や東海道の名所図会の話はするが、江戸の物には無関心なのかな」

「出てないんですよ」

「無いのかよ」

「だいぶ前に出版許可は出たのですがね、親玉の神田町名主斎藤長秋様が亡くなってもう十五年だ」

「順に出せばいいのにまとめて出そうというのかな」

「そんな塩梅ですぜ。長谷川雪旦さんが画を描いているそうですぜ」

「浮世絵師も武者絵は描くが名所じゃ売れないんかな」

「北斎さんでも描いてくれりゃ売れるでしょうぜ」

浮世絵師に版元もまだ名所図会では数をこなせないと危ぶんでいる。

「鉄之助の爺様は町年寄と関係でもあるのかい」

「聞いてないですぜ。奥州には親戚関係は多いようですが、江戸にゃ若さんくらいじゃないですか」

「遠い、遠い姻戚とは聞いたよ」

江戸の町年寄は奈良屋(本町一丁目)、樽屋(本町二丁目)、喜多村(本町三丁目)の三家。

樽屋は当代吉五郎が幼年のため後見役が十一代と十二代目を受け継いだ。

 

文化十一年二月二十六日(1814416日)・三十一日目

東横堀高麗橋から堺筋へ出て長堀を長堀橋で渡った。

その頃堺から馬関へ向けて銭五の千石船千日丸と大生丸が出帆している。

「信様は和国へ絹物を持ち込まないですね」

「俺が送り込んで和国の相場が狂えば困る人が多いからだよ。売るより買うほうに回るつもりだ」

「外へ出すほど生産できますかね」

「和国が高級品に規制をかけている今が儲け時かな。技術と資金を城端(じょうはな)へつぎ込んでもいいさ金沢と一日で往復可能だ」

「どこへ売ります」

「バォフェアノゥ(薄荷脳)と一緒にチーレで売るのさ。反物なら買い手は多いはずだ。」

加賀は京(みやこ)へ運んでいた絹糸が半分以下に落ち込んだままだ。

売りたい業者は多いが作っても行き場がない。

「江戸と両天秤ですか。江戸も不景気ですぜ」

「若さんと協力して綿と絹を倍に増やせば、上がりで藩も有卦うけに入る」

「ついでにわっしの船問屋も認めさせますか」

藩もチィェンウー(銭五)が金を出せば業者に優遇処置もつけやすい、損が出ても藩には影響はない。

「生糸は今石動(いまいするぎ)に梃入れして三年で倍は買い付けると花火でもあげるさ」

一回り百六十里(清国里程)位なら番頭も金沢に常駐させて問題ない、歳で船を降りても仕事を与えられる。

信の頭は富山、加賀周辺の地図が浮かんでいる。

「周辺全部を抑えずに、半分はほかの御用達に儲けさせることだ」

「間に福光に福野も機屋が多いですがね」

「そこをほかの者の儲け場に残すことさ」

「庸(イォン)さんの意見ですかい」

「軍師はだいぶ先を読んだようだぜ。五万疋位チィェンウー(銭五)さんに動かして貰う積りの様だ」

庸(イォン)は絹物の規格を新兵衛、次郎丸と話してきている。

何時の間に話し合ったかと云えば、庸(イォン)が伏見の船宿で台所の女たちに仕事を教えている合間の事だ。

それを受け入れる業者には資金提供を信に次郎丸が引き受けると決めてきた。

「一疋百五十匁から百八十匁として最大五万疋九千貫、二万疋は送り出せるかな」

二万疋で最大三千六百貫、わずか十三トン半だ、ディアオチャン(貂蝉)、ハァンウァ(姮娥)ともに千二百トン。

「新造船で三十二万貫は荷が乗る予定だ、三年先には出来るようにしたいものだ」

一艘で和国の千石船十二艘分の荷が運べる。

バォフェアノゥ(薄荷脳)は関元(グァンユアン)が年五百トン集まるという。

バォフェアノゥ(薄荷脳)だけで年一回一回りでは儲けが出ないと弱気になっていると康演(クアンイェン)が笑っていた。

茶や雑穀、砂糖で五百トン分都合がついて後をなにで売るかが親子の腕に掛かっている。

それで和国の茶と絹、綿で隙間を埋めようと銭五に任せるという相談に出てきた。

重量換算千石船-百五十トン(容積換算千石船-百トン)・四万貫

「大きいのも荷集めが大変だ」

「早く茶でも一万貫生産出来りゃいいんですがね」

「当分は半分荷で船員の訓練でもいいさ」

「信様は鷹揚でも関元が焦り出しますぜ」

嘉慶十六年(1811年)七月に噂を聞きつけ翌十七年九月にバルパライソを出るのを先付で買い取った。

レアル銀貨一艘十七万ドル、此のところ本洋対庫平両は七.三銭が相場だ。

銀十五万両の予定が十二万四千百両で済んでいる。

回送費は船員を雇う約束で向こう持ちとなった。

嘉慶十八年(1813年)四月に引き取り秘密小島と泗水(スーシュイ、スラバヤ)経由でチーレを一航海してきた。

往復二百十日だったが関元が嘆いているほど赤字でもないのだ。

康演(クアンイェン)は「バォフェアノゥ(薄荷脳)を大量に送り込んで値崩れの方が困ると言っていた。

その頃爾海燕はせり出してきたお腹を心配している。

「旦那様いつ戻るんでしょうね」

和国の暦で文化十年閏十一月八日(18131230日)に寧波を出てもう百十日近い。

出かけるまで悪阻もなく妊娠に気が付かずに送り出した。

香蝉は産婆から七月の末か八月初めだろうと聞いているという。

「と云うことだと出かけるひと月ほど前の妊娠ね」

「奥様ぁ」

「なあに香蝉」

「出かけた後の妊娠は困ります」

「はははぁだ。あたしだってその位分かるわよ」

新しく香蝉の下で働きだした娘達も笑い出した。

香蝉は海燕が甘いものを制限されているので付き合って我慢している。

三の日は馮(フェン)が家族とやってきてお茶会の日、その時は遠慮なく食べられる。

 

長堀橋から西湊町延命地蔵尊まで四里二十丁。

さのや ”で聞いた西湊“ はつのや ”は人で溢れていた。

高石神社の近くの“ ふでや ”迄二里ほど足を延ばした。

「ここで駄目なら助松宿で探すようだ」

あちこちふらつきながらそれでも七つの鐘が聞こえるころ街外れの宿へ着いた。

次郎丸の時計で四時四十九分だった。

ふでや ”では三部屋用意してくれた。

次郎丸は新兵衛と奥の部屋へ入った。

大きな風呂場が有る「二人では勿体ない位ですぜ」新兵衛は四郎に話している。

陽が明るいうちから大きな炉が有る板敷で宴会に為った。

泊まり客以外にも食事に来ているものも大勢いる。

「おいおいだいぶと豪勢だな」

さのや でシラスがあがり出したと聞いたのでね」

生は生姜醤油、釜揚げは大根おろしを勧められた。

土鍋に蛸飯、鰆の塩焼き。

「ちっこいのはさごちとこの辺りはいいますえ」

鱧は入らなかったのかと未雨(みゆう)が笑って言うと「今日は横取りされて穴子を買い入れたそうですえ」と云う。

女将が後を受けて穴子飯か天麩羅がお勧めだという。

幸八が「天麩羅がいいな」と新兵衛の顔色を窺った。

「一人二本あるなら頼みたい」

「宜しおす。すぐ用意させますえ」

囲炉裏脇にあるに他の客にも聞いて鍋を持ってきた。

菜種油ではない様だ香りがいい。

「荏胡麻油に香り付けに紅花の油を入れておま」

次々客が「俺たちにも頼む」と注文が続いた。

薄味の付けだれが穴子を引き立てている。

「江戸よりこの汁が穴子に有っているぜ。生醤油で食えという店が多いんだ」

「江戸で流行らすのもいいな」

「こちゃらでも柚子やスダチが一番というおかたも多いですえ」

客が「試してみるが追加できるのか」と聞いて試している。

「塩加減が足りないな」

「ととさん、塩が入っていないもん。当たり前や」

娘に言われて大きな笑い声がおこった。

「若さん、帰りも此処にするかね」

「師匠の目当ては鱧の天ぷらかね」

「それもあるが穴子の天ぷらに惚れたね」

客達もそれには同意の声が上がった。

「明日の参拝もあるから酒は此処までだ」

「大鳥さんへおいでで」

「明日は羽衣の松も観てみたいな」

「大鳥五社さん一回りしたら日も暮れまっさ、で。お泊りはお決まりですのん」

「ちょっと待ってくれ。未雨(みゆう)師匠、もう一晩ここでもいいかね」

新兵衛と顔を見合わせ「良いでしょう。だが明日は鱧も食べたいな」と女将の方を見た。

「必ずご用意しまっさ」

「若さん。一回りするなら五刻半ほど、朝卯の下刻(五時五十五分頃)に出ても酉(七時十五分頃)に為りますよ」

「そりゃ大変だどこかはしょるようだな」

キョッ、キョツ、キョキョキョ

遠くにホトトギスが鳴いている。

「おいおい、もう巣作りでも始めるのかな」

「初鳴きです。ひと月早いですね」

キョン、キョン、キョッキョキョッキョ

反対の方からも聞こえてきた。

思わず次郎丸が歌った。

ほとときす よふかきこゑに ならひつつ なかぬをりさへ まちあかすかな

「若さんまだ夜更けじゃないですぜ」

あはれとも しらぬものゆゑ ほとときす まつにいくよの ねさめしつらむ

「同じ人ですか」

「祐子(ゆうし)内親王と云う人が詠んだ歌だよ。さっきまでこの人に親子で仕えた一宮紀伊(いちのみやきい)と云う人の歌を思い出そうとしていたんだ。歌ったら思い出した。百人一首七十二番だ」

音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ

羽衣伝説とは関係あるのかと次郎丸が不思議そうに女将に聞いた。

「六十四州数々有りますがここが本家ですえ。大昔は井戸守大明神の浜神社に残る話でしたえ。松原に見とれて降りてきた天女さんの衣を漁師が隠したんですえ」

大坂でもこのおかみには都訛りが時々のぞいた。

周りの客も次郎丸に他にもこの地の羽衣の歌が有るかと催促してきた。

「兵衛内侍や定家公、古くは貫之公が松や浜辺は読んでいるのですがね」

まつとたに 人はかけてもしら浪の 髙しの濵に 袖はぬれつつ

「あと男が昼寝でもした歌なら万葉に有りましたよ」

大伴の 高師の浜の 松が根を 枕き寝れど 家し偲はゆ

改めて考えると天女について歌った歌がないと気付いた。

女将も「そういえば聞いたことあらへん」なんて仲居に言っている。

「ホトトギスはテッペンカケタカと鳴くと言いますが私は今だそうは聞こえません」

「そういやぁ。だいぶ前だが谷を越えるとき聞いたことが有る」

「新兵衛さんどこで聞いたね」

未雨(みゆう)師匠もそう鳴くのは聞いていないと言う。

「ありゃ白河へ出る山ん中だ。街道で五人ほど居た中で四人がそう聞こえたと言っていたんだ。本当にそう鳴くんだと驚いたね」

「すぐ解るとは気配りがいいね」

「いやね。ピピピッ、ピピピィと大きく鳴いた声で皆が上を見たのさ。あいつ教えてくれたんだと大笑いだ」

この付近に詳しいと云う老人が道順を教えてくれた。

「まず弟橘媛命はんの井瀬神社まで行くのが良いですな。後は戻ってくれば良い」

鍬靱(くわゆき)社の浜神社が昔から羽衣伝説の井戸が有るという。

「一日では行基さん由縁の寺は抜かした方が無難でっしゃろが、神鳳寺さんは別当寺でおます」

「近くにあるのですか」

境内の中と云うより神鳳寺の中に大鳥大明神が有るという。

東門から入ると南側に神鳳寺、正面が大明神。

西門から出て其処から南へ五丁程で美波比(みはい)神社だという。

浜へ向かえば羽衣浜神社、此処も井戸守大明神が有るという。

其処から宿まで四丁程だという、間にたかし神社。

「ここのたかしは高石と書くのでな。高師の浜の誤伝じゃろかいな」

和泉名所図会第二巻の大鳥神社は何度も見直したが神宮寺とは書き入れてあるが、鍬靱(くわゆき)社など順路は詳しく解らなかったが、これで迷わずに済みそうだ。

和泉名所図会の本文に日本紀には 白鳥更飛んて河内國古市郡(ふるいちこほり)に至る又其地ちに陵(みささぎ)を造て此三陵を時の人白鳥といふ

一宮記は“ 大鳥社は日本武尊なり と記している。

部屋へ戻ると六人で話の続きだ。

「若さん、何度も読み直したが“ むかし白鳳(はくほう)飛來ツてこゝにとゞまるこれ天照太神の所化(しよけ)なり ”と云うのは命に大神ともにここへ祀られていたのかね」

「異本に大鳥神社大日孁尊(おほひるのみこと)とあるが信じていいか解らんぞ、日本武尊が波比(にはひ)神社の祭神に為っていた。波比(にはひ)は美波比(みはい)だろう。いつの時代かに祭神が入れ替わったのかもしれねえな

 

日本書紀-日本武尊。

時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲功名定武部也。是也、天皇踐祚卌三年焉。

時に日本武尊、白鳥に化りたまひて、陵より出で、倭国を指して、飛びたまふ。群臣等、因りて、其の棺櫬を開きて視たてまつれば、明衣のみ空しく留りて、屍骨は無し。是に、使者を遺して白鳥を追ひ尋めぬ。

則ち倭の琴弾原に停れり。仍りて其の処に陵を造る。

白鳥、更飛びて河内に至りて、旧市邑に留る。

亦其の処に陵を作る。故、時人、是の三の陵を号けて、白鳥陵と曰ふ。

然して 遂に高く翔びて天に上りぬ。徒に衣冠を葬めまつる。

因りて功名を録へむとして、即ち武部を定む。

是歳、天皇踐祚四十三年(景行天皇)なり。

古事記-倭建命。

故、自其国飛翔行、留河内国之志畿。故、於其地作御陵鎮坐也。

即号其御陵、謂白鳥御陵也。

然亦自其地更翔天以飛行。

凡此倭建命、平国廻行之時、久米直之祖、名七拳脛、恒為膳夫以従仕奉也。

かれ其の国自(じ)よりとび行き、河内国の志しきにとどまりて、 故、於そこに御陵を作りしづめませり也。

即ち其の御陵をなづけ、白鳥の御陵とまをす也。

しかれどもまたそこより更にあまがけりて以ちて飛び行けり。

おほよそ此の倭建命、国をたひらげてめぐり行きしの時、 くめのあたひのおや、名はななつかはぎを、恒にかしはでとしたまひて、以ちてしたがひつかへまつる也

 

文化十一年二月二十七日(1814417日)・三十二日目

朝は卯の刻に湯漬けで済ませた。

卯の下刻(五時五十五分頃)前に紀路(きのぢ)海道を北へ戻った。

「難波から筆屋までおよそ六里十七丁、今日は往復で四里を寄り道して神社めぐりだ」

「兄(あに)さんそりゃだいぶ考えて言いなすったな」

「ばれたか」

井瀬神社では祭神としておなじみになった弟橘媛命(おとたちばなひめ)の冥福を祈った。

街道を一度山側に向かい下れば鍬靱(くわゆき)社の浜神社。

祭神は日本武尊の妃の一人吉備穴戸武媛命(きびのあなとのたけひめ)。

大鳥大明神と云うよりは神鳳寺の五重塔を見ながら東へ回った。

十五丁程で東門。

石鳥居をくぐり五段の石段の上に東門、入ると左手南側に神宮寺の神鳳寺。

一段上の正面が大明神、拝殿では一同で礼拝し右手へ回り込んだ。

本殿はそれほど大きいものではなかった。

昨晩は勧められたが神鳳寺の中へは入らずに西門を出た。

小川の橋を渡り門前の茶店で茶と牡丹餅で無駄話をした。

「兄貴、神鳳寺は大坂攻めで燃え落ちて十三重塔が残ったというが、そんなに大きかったのかねえ。あそこに有るのはどう見ても五重塔だ」

「どこで聞いたか知らねえが名所図會には塔一基とあるが、その後の事は書いてねえってことは再建した時にでも壊したんじゃねえか。若さんはご存知ですかね」

「いや、冊子などで見た覚えはない。昨晩皆で見直した名所図會にある“ 羅山本朝地理志畧云和泉國大鳥社はむかし神化して白鳳と成來てこゝに集ゐる故に社を建てこれをまつるなづけて大鳥といふ ”の羅山本朝地理志と云うのも見た覚えがないよ」

次郎丸の見た覚えのない羅山の本朝地理志略は寛永十二年(1635年)林羅山が朝鮮国通信使に贈った日本国事跡考の一部を抜き出した物。

各地の十三重塔の多くは石塔で木造は数が少ない。

西門から出て其処から南へ五丁程で北王子村美波比(みはい)神社だ。

禰宜に聞くと祭神は両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)という、天照大神(大日孁)ではないという。

「謎が増えちまったぜ」

新兵衛も頭を抱えている。

両道入姫(ふたじのいりひめ)は日本武尊の妃の一人だ。

「何度も入れ替わっているのかな、同じ女神なら妃とでも短絡的に変えたかもしれねえ」

(現代の社は本社境内東側に鎮座・祭神天照大神)

「神社に寄る度に謎が深くなりますぜ兄さん」

「ほんとだ。若さんどう解きほぐしやすか」

「ほっとくしかねえよ。代々の別当寺の都合でも有るんだろうぜ。古事記。書紀も当てに為らねえんだ」

「まいったなぁ。酒田でまた笑われてしまう」

新兵衛、上総、安房を廻った時も、もつれた糸で困っていた。

浜へ向かえば羽衣浜神社、境内社井戸守大明神(元禄元年十一月「井戸守大明神社」)が有るという。

羽衣浜神社は海辺でも涸れない井戸に棲む水神が本来の祭神だったと次郎丸が知っていた。

禰宜は祭神両道入姫命だという。

美波比(みはい)神社と同じ祭神だ。

「文武天皇御代の慶雲三年に鎮座ましましてござります」

未だ申の鐘が聞こえてこない、神社前の茶店で明日の草鞋を一人二足買い入れておいた。

其処から宿まで四丁程だという、間にたかし神社。

“ 髙師濵なる濵寺の旧跡は海邉にて紀路(きのぢ)海道なり ”

“ 延喜式内にして髙志の祖王仁を祭る今天神と称す ”

 ふでや ”では「お早いお帰りで」とすすぎを取りながら世間話だ。

新兵衛は「お寺さんを抜かしたので大分早く済んだよ」と言っている。

「風呂ももう入れますえ」

「面倒だ六人一緒に入ってしまおう。今日は一人三合宛て酒を付けてくれ」

「食事の支度始めても宜しいので」

「酒を飲み終わる前に出てくりゃいいよ」

「では風呂上りは冷ですか」

「女将さんもいける口の様だ」

「口先だけですよ。一合で寝込んで仕舞います。お預かりの物は明日の朝で宜しいのでしょうか」

「そうしてくんな。勘定は面倒だから今晩済まそう。その分は持ち歩いている」

「御本はどうしましょう」

「持ち歩いている分で十分だ」

余分なものと重い銀(かね)は鍵付の船箪笥へ預けておいた。

小判二百両は吾郎が四人に分けて振り分けで担いでくれている。

旅慣れた新兵衛と未雨(みゆう)が居るからと、ほかの四人は気も緩むと新兵衛は用心深くなっている。

「和歌山で江戸送りの産物でも買わぬと二貫は重いぜ」

「藩札では買ものするとき困りますんでね」

銀は残り一貫四百ほどだが小判を抜いても、もろもろ持ち歩いているので二貫は軽く越えている。

第七十回-和信伝-参拾玖 ・ 2024-05-02

 
   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
 

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記