足利の屑繭の太織り(ふとり)はあまり外へ出てこない。
増産が進めば屑も多くなり安く販売できると新兵衛は先読みをした。
町民は華美でなければ縞物なら着用は許され、農民はいまだ許可をされていない。
新兵衛達は祭礼時の着用を例外として頂けるように嘆願している。
秩父の商人から酒田への売り込みがあるという。
「秩父は大宮六斎市へ農家が売りに来るようです。纏まっては居ないようです」
大宮には江戸の大店へ納める絹買いが十軒ほど有るという。
「どの位取引が有るんだい」
「年五千疋程度ですね」
絹の制限が掛かり一時値下がりしたが、元に戻り絹一疋金三分迄値上がりしているという。
「目千(めせん)と云う縞織を始めたそうですぜ」
新兵衛は幸八に“手を広げられれば秩父も狙い目”だと煽っている。
秩父は忍藩の陣屋が有る。
「そういゃあ、足利の小佐野茂右衛門て人も、俳諧で訪れた小倉の織を足利へ持ち込んでいますぜ」
「宗匠その人ですぜあっしが訪れたのは真砂岐織と名が附きました」
「助けになりそうだな。ならばうまく繋ぎが附けば、後は受け持つ人探しだ」
出羽松山藩分領は五千石となっているが到底五千石は無理だ、絹と木綿に頼るのも当然だ。
幸八は「間に伊勢崎藩が有るんじゃ」と聞いてきた。
「そういやぁあそこも酒井様だ。上屋敷は愛宕下で、下屋敷は薬研掘り近くの永久橋だ」
伊勢崎藩二万石は酒井忠寧二十六歳が九年前に藩主に為った。
藩を上げて学問に秀でているものが多く出ている。
父親の忠哲公は隠居したが四十六歳で健在だ。
伊勢崎は市も盛んだという。
「幸八、お前まとめに伊勢崎へ出る気が有るかい」
伊勢崎は織元がまだ居ないようで桐生周辺の市場に押されていると新兵衛が言う。
「機屋ですかい」
「自分でやらずに元締めになるんだ。三人ほど資金を出して動かすなら年一度俺みたいに出てくればいい」
「兄さん、資金さえありゃ江戸で知多木綿と同時に扱いたい」
「江戸じゃ古手の見世が多いぜ」
「小売りじゃないんだ場末で十分ですぜ」
吾郎が「天王町近辺にでも来るか」と誘った。
「かみさんに江戸浅草だと誘ってみますよ」
浅草寺の話は新兵衛が大分と吹き込んでいるようだ。
「じゃ見世は抑えておくよ。五人くらい雇うつもりで大きい店をな。天王町から観音様付近だぜ。神田明神付近は御家人が多いがここらは寺が多い分小商人も多いからな」
吾郎には当てが有るようだ。
秩父は離れているが、前橋、伊勢崎、桐生、足利なら手がかりは有る。
秩父は忍十万石、藩主が幼年で幕閣にお手伝いを狙われている。
藩主阿部正権(正則)は九歳、六年前に家督を継いだ。
「親父に兄貴たちじゃそこまで金は出ませんよ」
「藤五郎と一緒に結へ入って後ろ盾が若さんなら、猪四郎も二人の資金の面倒は見るさ」
新兵衛も乗り気になっている。
織機を貸し出す代わりに安く仕入れるようかと四郎が言う。
「安くすりゃつけ込まれるから、織機を貸し出しても値は下げずに買うと知れれば、やらせてくれと向こうから来てくれますぜ」
織機十台を手始めにどうだと吾郎に言われて納得した。
織機の製作も知多と同じなら量産できる計算だ。
次郎丸はこの際資金を出す相手に真っ当な取引を求めるべきだと勧めた。
「茶も一斤が曖昧だが絹に木綿も規格を揃えるようだぜ」
幸八に藤五郎もそれに賛成した。
「一反を三丈、幅壱尺三寸、一疋が二反で六丈。ただし絹物は幅壱尺四寸、短いのと換算して値を決めよう」
次郎丸は幸八と藤五郎がこの基準で綿と絹を引き取るように勧めた。
「上物から三段階で取り引き出るように此方も勉強する様だ」
「若さん、俺の前の仕事場では羽織は二丈四尺で一反だった」
「端切れ屋が喜んで買い受けるさ」
四郎と新兵衛に吾郎も「機の代を貸し付けで此方が持つんだ。基準に合わないものを売ろうとしても仲間に入れないことだ」と賛同した。
これで上等な絹物の解禁となるまでの支度は出来ると次郎丸は考えている。
伊勢崎の絹宿は“ 上州屋 ”の番頭から聞いている。
買継商のたまり場だという、此処へ中り(あたり)を付ける必要が有る。
「できれば幸八と藤五郎は猪四郎に指導してもらうか」
養蚕、撚糸、染色、織子、元機、絹宿、江戸送りの組織を繋ぐことに為る。
難しい柄織が復活した時の為にも機の改良も援助する様だ。
幸八は「江戸なら仕立てを組織だって行う人材に事欠かない」と先読みしている。
「おいらの屋敷の女中も雇ってくれ。仕事は丁寧だぜ」
「嫁入る先でもやってくれますかね」
「煽てと実入り次第だな」
四郎もだいぶ乗り気になっている。
「手習いじゃないが、裁縫で食えれば長屋で十人集めて住まわしてもいいさ」
吾郎は「旦銀にも一役買わせてやってくれ」ともう頼んでいる。
次郎丸は八代様の全国で生産を奨励した絹生産の花を咲かせるべきと考えている。
父の奢侈禁止が末端で絹物へ向かったのは輸入品制限との誤解が生じた結果だ。
身分にあった服装と云う物に囚われ、髪飾りの簡素化と一緒に絹物が高価と云う思い込みで、国内産業に迄規制を掛けた役人と藩が続出した。
余談
寛永五年(1628年)農民に対し衣服を布木綿に制限。
寛永十九年(1642年)農民は襟、帯にも絹を用いることを禁止。
寛文七年(1667年)、天明八年(1788年)にも同じような禁令が出されている。
天和三年(1683年)、呉服屋に対し小袖の表は銀二百目を上限、金紗縫(刺繍)、惣鹿子(絞り)の販売禁止。
町民は絹以下、下女・端女は布か木綿の着用を命じた。
元禄二年(1689年)、銀二百五十目以上の衣服販売禁止。
正徳三年(1713年)、贅沢品生産と新商品技術の開発厳禁が命じられる。
享保三年(1718年)、延享二年(1745年)にも禁令が出た。
“ 町人が絹・紬・木綿・麻布以外の物を着てはならず ”
寛政元年(1789年)三月、奢修禁止令。
女の着類大造之織物無用二可致旨有之候享保九辰年申渡候通・小袖代銀三百目染模様百五拾目を限り夫り高値之物弥以売買致すもしき事。
くし・こうがい・かんざし之類・金は勿論不相応・銀べっ甲も細工入組・高値之品相上候上は櫛代金百目限・こうがい・かんざし右二准・下値二仕立可申候。
進歩を止めれば職人も産業も育たない、増える人口を養うには米だけでは成り立つはずもない。
土地に合わせて、粟、稗、小麦、大麦等の穀類に芋類の増産も必要事項だ。
帝国政府が同じように贅沢は敵だと統制を強め、結果税収が伸びずに自滅したのと同じだ。
平成、令和に日銀、政府がそれを真似し、世界経済から置いてきぼりを食ったのも同じ理屈のデフレ経済だ。
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