辰に出ようとしたら風が強くなった。
「渡しが出るかどうか」
「船渡が止まっていたら戻ってくるよ。一刻も掛かるまい。少し待って戻るなら昼には戻るよ」
愛想を聞きながらいせやを出て宿場を抜けた。
小さな橋の架かった川では海からの風が強くて笠を抑えるようだ。
小櫃川は船頭たちが協議している“しばらく様子見で、一刻ほどでおさまる”と大声で旅人へ告げた。
半刻もせずに強風はピタッとやんだ。
待っていた客は番を待って次々に乗りこんだ。
後二人というので大野が夫婦連れに順を譲った、急ぐ旅でもない。
冬場なので流域は一町くらいで半刻も待たずに渡ることができた。
川沿いを上へ向かって見ため三十町ほど南へまっすぐと向かった街道は、川と別れるあたりから人の行き来が多くなった。
小さな社の割に前庭の広い神社がある、八幡神社と立て看板が建っていた。
その先でいきなり街道は西へ曲がっている、その先松林の手前でまた南へ折れた。
吾妻神社がある、昨晩一学が言っていた神社だ。
江戸砂子に“君去津吾妻大明神はすなわち弟橘媛の霊社也”と出ていたという。
広い境内は参詣人が三十人ほどもいた。
弟橘媛の櫛を納めて祀ったといわれ書きがある。
鳥居へ戻ると道しるべに“江戸道”とある。
選擇寺と云う寺がある、この辺り寺町と云うそうだ。
その先海側は魚市場だ“さかんだな”というと新兵衛がききこんできた。
ここの五大力船は木更津船という名で特権をもって江戸と往来をしている。
八釼八幡神社という神社があった。
ここは八釼神こと素戔嗚尊をまつる神社に弟橘姫を祀り、さらに八幡神を祀ったという。
権現様の寄進状も残るという。
弟橘姫をまつる神社が多いが茂原にも神社があると新兵衛が教えてくれた。
橘樹(たちばな)神社は景行天皇四十一年に創建と伝わるそうだ。
延長五年(927年)の延喜式神名帳にも記載される延喜式内社だ。
「いくら何でも簡単に行ける場所ではないな」
「大野様。急げば冬でも三日、いや二日で着きますぜ」
「道を外れるわけなかろう。からかうな」
曲尺手(かねんて)に街道は湊へ向かいまた左に折れる、一の鳥居は浜辺にあるそうだ。
街道の海側に弁財天の社がある、木の鳥居は相当くたびれている。
鳥居に比べ社殿は小さいがたいそうな造りだ。
社殿の彫刻は武志伊八郎信由の物だという、掃除の若い男は彫刻が揚げられて二十年と経っていないという。
“日の出に鶴”左右には“松に山鵲”の見事さに次郎丸はしばし見とれた。
男は裏の銘文が見えるように龕灯(がんどう)で照らしてくれた。
“彫工房州長狭下打墨住人武志伊八郎信由作”
房総だけでなく、江戸、武蔵、相模でも引く手あまたの名工だ。
伊八の名は六十を越した今でも多くの弟子を引き寄せている、子供の信常(常香)の名も彫工の間で広がりを見せてきた。
「師匠に言えば見に来るだろうか」
次郎丸がつぶやいたのを新兵衛が尋ねた。
「等琳さんですか」
「そうだよ。物好きだからな。小遣いさえあればここまで出てくるさ。船なら無精者でも嫌がるまい」
「今は常盤町に移りましたよ」
「いやさ、最近深川から米沢町へ所替えしたばかりだ」
「また引っ越しですか。鐵っあんと同じで引っ越しばかりだ」
「北齋よりましさ。名前まで売りつけたりしない」
「鐵っあんのほうが本人喜びますぜ」
「そりゃお前さんの金離れがいいせいだ、俺が言えばそっぽを向くぜ」
新兵衛は猪四郎といいお客だ、おろそかにはしない、旅に出るのは門人の呼びかけもあるが金も十分に用意する必要がある。
二人でせっせと買い集めては酒田へ送りつけている、猪四郎の実家も酒田に有るのだ。
北齋は七年前ここへ等琳と来たはずだが、次郎丸に新兵衛も知らない様だ、二人とも北齋、等琳とは鉄之助の紹介で知り合ってまだ六年目だ。
房総を巡った時の北齋が木更津の水野清兵衛宅に襖絵を残している。
天明三年(1783年)鉄之助は三十二歳、父親に代わり釜萢兵左衛門に従い大坂茨木屋へ再度の貸し出し再開を頼みに出ている。
その頃の北齋はまだ二十四歳で勝川でなく、勝春朗を使って洒落本に黄表紙の画を描いていた。
葛飾の家に妻と長男富之助と二人の娘を置いた儘、深川と行き来していた。
妻が亡くなり再婚し、画号も俵屋宗達ならぬ俵屋宗理を名乗った。
後妻は“こと女”だという、この後妻との間に次男・多吉郎、三女・阿栄が生まれた。
安永二年(1773年)江戸へ出た本間宗久はここでも相場で成功し、新潟米を扱い大儲けし、本家とも和解した。
勝川春朗に目を付け、出ものの多くを買い取った。
俵屋宗理の画会へ鉄之助が宗久を誘い、北齋の本名が鉄蔵と知り、付き合いが始まった。
鉄之助が寛政九年(1797年)、御秘官(イミグァン)の頭へ着いたのも宗久の後押しだ。
北齋は四年前の画号だ、今五十歳を超えて戴斗の号を使っている、いつ売り払うか版元はひやひやしている。
新作を出すたびに次郎丸は手に入れているが“おしをくりはとうつうせんのづ”はまだ十分波が描き切れていないと本人がごねていた。
文化五年(1808年)に珍しく亀沢町に新宅を構えている、一年もしないうちに米沢町に移り住んだ、新兵衛と次郎丸二人が北齋と知り合ったのもその頃になる。
間には鉄之助がいる、宗久は享和三年(1803年)に八十歳で亡くなっていた。
此のところ引っ越しの頻度は一年一度に収まっていた。
文化九年の秋からは上方へ出かけている、いつ戻るのか師匠(等琳)に聞いても判らない様だ。
橋まで進むと近くに狸伝説の證誠寺が海よりの木立の間に見える。
権現様江戸討ち入り(江戸国替え)の頃からの寺だそうだ。
手習いの帰りか、子供たちが賑やかに寺のほうからやって来た。
「子だぬきと変わりませんな」
大野は騒ぐ子たちを見て狸伝説を思い描いているようだ。
「話しじゃもっと山中の寺のように聞いたのじゃが」
木更津ではこの寺だけがお西様の寺だという、創建当時周りは竹藪だったという。
子供たちの後を歩いて湊の手前の“ふじみや”へ入った。
ここは飯盛りも芸者も置いていない宿だと聞いてきた。
この頃の木更津湊には三十人は芸者がいて、花街(かがい)は“さかんだな”と八釼八幡神社の間、弁天の裏手にあるそうだ、また新兵衛は別料理を頼んでいる。
「お客さんは金目の煮つけは御好きかね」
「江戸じゃ御目にかからないが旨いかね」
「請け合いますよ、おうよ今晩はそれで行きましょ。酒のあてにつみれ汁に脂の乗ってきた鯵でなめろうにやんべぇ」
四月の鯵は脂乗りもいいのだが、今の時期がなめろうに向いているという。
中間の権太、介重、朗太に「呑みすぎるなよ。二合一本だけだ」と念を押した。
「こちとら江戸っ子でぇ。呑めといわれりゃ断りません」
「江戸っ子なら俺だって三代続いた江戸っ子だぜ」
大野がたしかに若は祖父の代から江戸生まれだと言っている。
曾祖父の吉宗は和歌山城下で生まれている。
二階からは湊へ入る五百石ほどの船が夕景に浮かんで見えた、陽が沈むころ遠く富士の峰が黒く浮かんだ。
引き潮なのか船から乗客が降りて浅瀬を浜へ向かって歩いてくる、浜近くまで入れるなら五大力なのだろう。
女たちには小舟が迎えに出て“さかんだな”の船着きへ下ろしてもらうと女中が大野に話している。
五大力でも二百石以下の船でないと“さかんだな”まで入れないという。
「もうじきあの辺りは浅利が育って取りごろになるで、日していっぺえ人が出るっしょ」
「そんなに人が出て取りすぎて浅蜊は居なくならないのかい」
「籠でひっかくのは許されねえだで、根こそぎ取るこたぁねえよぅ。腰より深いとこにゃてっぱつなんがゴロゴロしとるで。男衆でも五升はよいなもんじゃねぇ」
大きいものは深い所にいて男でも五升採るのは容易ではないと言うことのようだ。
大きいのは目刺しにするという、干すと旨味が増すのはバカ以上だと自慢した。
いちんち砂をはかせ、蛤のように焼いて食べるのも旨いという。
深川飯を覚えて来た船頭がぶっかけに炊き込みを教え、近頃は料理屋(料亭)でも求めに応じるそうだ。
押送船(おしょくりぶね)は舳先まで三十八尺五寸、七丁櫓、帆柱は三本が多い。
木更津を朝に出て海上九里、木更津河岸(江戸橋の上流、高間河岸の対岸)へ早いものは二刻で着くという。
これなら日本橋魚河岸の夕物河岸へ十分荷を送れる。
伊豆の漁師も負けじと海上三十六里を一晩で江戸へ新鮮な魚類を運び込んだ。
この頃江戸湾を往来する押送船(おしょくりぶね)は浦賀番所の検査無用とされていた。
今は木更津に五大力は二十九艘、押送船(おしょくりぶね)は十五艘あるという。
江戸の木更津河岸から夜船で木更津へ、船賃は二百文で変動はないという。
「金のこと日繰りのことを考えれば木更津船が一番の安上がりか」
「大野様。それを言ったら北新川河岸から高之島湊まで、江戸からの五大力に弁財船も出ています。押送船(おしょくりぶね)は三刻でつけてみせると見栄を張ります。樽廻船は新川から一日で請け負います」
北新川河岸は三ノ橋あたりを言う。
「館山藩のど真ん中へ船で乗り付けろは大殿でも言わんよ」
「ですがね。松ヶ岡陣屋へうまくいけば二里で済むのですぜ」
「係りのほとんどが儀兵衛と新兵衛持ちの旅だ。旨いもの食わせてもらうのも悪くない」
聞いていた一学はあきれて二人を見ている。
館山藩は前の藩主と前々藩主が定信に嫌われている。
昨年稲葉正盛が藩主に就いて従五位下、播磨守となった。
まだ二十三歳と次郎丸と同年で上屋敷は定信の住む築地下屋敷の一軒置いた隣だ。
その間の屋敷は館山稲葉家の本家稲葉長門守正備、山城淀藩中屋敷だ。
バカ貝(青柳)、蛤は数が少ないと教えてくれた。
遊郭はないが花街の辺りには早々と明かりが灯りだした、気の早い店は暗くなるまで待てないのだろう。
“さかんだな”の手前先っぽ金毘羅大神の常夜灯にも明かりが灯された。
新兵衛の時計は五時、長崎で三百両の値を付けたら買い手がなく、半分になった所で銭五の手代が二台買い受けたとされている。
この時の二台は本間光道と渡邊三左衛門が秘蔵している。
もうじき酉の鐘が鳴ると女中が教えてくれた。
この常夜灯昨年建てられたという、常夜灯の向こうが木更津船の溜りだという。
一学は一茶も此処木更津へ何度も来ているという。
「確か富津の織本花嬌の句会の呼びかけのはずだ。富津へも行ったと聞いた」
織本花嬌は夫の織本嘉右衛門永祥が寛政六年(1794年)二月に亡くなった後も一茶との交友は続いていた。
木更津との縁は光明山東岸寺知窓院十六世潮譽秀海和尚(俳号大椿)も俳句仲間だ。
選擇寺二十八世秀海上人となり一茶もこの選擇寺へ宿泊している。
忘れてならないのは石川雨十(石川八左衛門)との交友だ。
女将によれば雨十の家は東岸寺から二町も離れていない、此の“ふじみや”から三町ほど北になるそうだ。
享和二年(1802年)には花嬌から金同封の書状を受け取ったという。
享和三年(1803年)六月三日一茶は船で木更津へ着いた。
富津から佐貫を通り金谷へ入って六月十三日江戸へ戻っている。
十一月にも陸路で富津大乗寺、金谷を訪れている。
(一茶最初の富津入りは大島蓼太に連れられてと書く人もいるのだが)
文化元年(1804年)七月二日一茶は船で木更津へ入り、富津大乗寺に逗留した。
文化二年、文化三年、文化六年にも富津、金谷を訪れている。
文化七年(1810年)四月三日花嬌は亡くなった、七十五歳、いや七十歳とも言われている(宝暦五年生まれとも書く人もいるそれだと五十六歳)。
花嬌の元の名は小柴園、織本嘉右衛門に嫁ぎともに大島蓼太に師事している。
大島蓼太は享保三年(1718年)生まれ天明七年(1787年)七十歳死去。
この時一茶は二十五歳、葛飾派の俳諧師として頭角を現したころだ。
それ以前の消息は十年の間、定かではない。
織本嘉右衛門の生前から付き合いはあったようだが定かではない。
一茶は花嬌の訃報を聞くと富津を訪れた、七月十三日だという八月一日まで滞在。
十一日夜船に乗り十二日に木更津で降りている。
十三日は晴れていたが八ツ刻に大夕立に出会ったという。
その日のうちに花嬌の葬られた富津大乗寺へ着いている。
大乗寺には花嬌の墓がある、大乗寺二十四世譲誉義興上人は徳阿と号した俳人。
文化八年(1811年)にも富津へ六月七日から七月八日まで滞在。
この時も金谷へ立ち寄っている。
白川藩の白子村の梅ヶ岡出張陣屋には一茶の俳友井上良珉が医師として出仕している。
昨文化九年(1812年)は花嬌の三回忌、律儀にも一茶は富津を訪れた。
前年十一月に信州柏原に戻ったと一学が知っていた。
此の年文化十年一月十九日には一茶は信州にいる、仲介者の尽力で父親の遺産を弟仙六と折半した。
一学は一茶とも交流があることを明かした、永祥(俳号砂明)とも文のやり取りもあったという、当代の織本嘉右衛門(道定・俳号子盛)は長女曽和の婿だ。
どうやらこの旅もその縁のようだ。
最初になめろうが出て来た、葱としその香りがする、生姜を擂って醤油皿へ置いた。
つみれ汁は生姜の香りで臭みを消してある。
大根と人参、里芋の煮ものには蛸も入っている。
金目を七匹煮付け、二つの大皿で持ってきて一回り見せて歩いた。
「頭の肉はうもうございますよ」
次郎丸は初めての経験だ、骨までしゃぶるのはさすがに遠慮した。
「落とし噺に鯛の煮つけが出た殿様が上身を食べて物足りずに、代わりをもてと命じたそうです。あいにく余分がないので困っていると、殿様が脇を向いたので裏を返したそうです」
「俺は殿様じゃないから自分で骨をどかすさ」
「お江戸でこんな大きな金目を出させたらいくら払えばいいやら」
「魚の値より船賃を食うようなものでございます」
女将はさもおかしそうに笑った。
お供まで同じものを出させる贅沢な一行に興味が湧いたようだ。
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