第伍部-和信伝-参拾

 第六十三回-和信伝-参拾弐

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
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松平定信は老中へ返り咲くことは無かったが。長子真田幸貫は天保十二年(1841年)五十一歳の時に老中に就任した。

嫡子松平定永は定信隠居後文化九年(1812年)家督を継いだ。

文政六年(1823年)桑名へ国替えされた後、借財が増え続け十万両を越したという。

定信は文政十二年五月十三日〈1829614日〉七十一歳死去。

定永は幕府要職に就いた記録はない。

内藤信親は定信の娘寿姫(婉姫)の息子。

嘉永四年(1851年)三十九歳の時老中について十一年在職した。

定永八男に板倉勝静がいて備中松山板倉家を継ぎ、文久二年(1862年)四十歳の時老中に就任した。

諏訪忠誠は定信の娘烈姫(清昌院)の息子。

元治元年(1864年)四十四歳で老中に就任、慶応四年長州征討に反対し罷免。

定信の長子と孫三人が老中を務めた事になる。

 

真田幸貫は部屋住みのまま嫡子松平定永が文化九年(1812年)に家督を相続するまで捨て置かれていた。

二十五歳になった文化十二年(1815年)、松代藩七代藩主真田幸専の養嗣子に決まった。 

幸貫は真田家へ迎えられたが、正室、側室共に世継にめぐまれなかった。

真田家の血筋の幸忠を養嗣子へ迎えたが、文政九年(1826年)十七歳で夭折。

幸貫長子である真田幸良は文化十一年生まれで、生母佐野氏(側室)と伝わるが、定信の子として届が出され、のちに信濃松代へ幸貫の養子として迎えられた。

幸良を養嗣子として迎え入れたが、天保十五年(1844年)幸良は三十一歳で死去。

幸良の側室は村上英俊の妹で於順(幼名・チエ)、真田幸教を産んでいる。

幸良長女貞子(貞姫)は天保五年生まれ(1834年)、嘉永四年(1851年)松平定猷正室となった。

幸良の長男、真田幸教は天保六年十二月(1936年)生まれ、嘉永五年(1852年)幸貫が隠居し、家督を継いだ。

松平定猷は定信の曾孫で伊勢桑名藩では三代にわたり藩主が若死にし、貞子(珠光院)は二十六歳で寡婦となった。

定永(四十八歳)、定和(三十歳)、定猷(二十六歳)

安政六年(1859年)定猷の長子定教は三歳、美濃国高須藩松平義建の八男銈之助(定敬)十四歳を三歳の初子(貞子の娘)の婿養子に迎え、定敬と名を改めた。

明治二年(1869年)五月、定敬は新政府に降伏、定教が家督を継いだ。

初子と定敬は明治五年(1872年)二月に改めて婚姻している。

 

次郎丸は元矢之倉の屋敷から築地下屋敷へ呼ばれた。

生まれは巣鴨の中屋敷だと母親が教えてくれたが、屋敷交代で覚えているのは木立の間に稲荷の祠があり親子の狐が走り回っていた事だ。

五歳の時初めて狐が稲荷のお使いと知った。

巣鴨は王子に近く稲荷の話はよく聞いた。

乳母がオサキギツネの話を女中たちとしていたが、王子稲荷の神力により江戸には入れないということくらいしか覚えていない。

「どうせ広小路でもうろついていたのをだれかご注進でもしたのさ。兄上が怒っていなけりゃそれでいいさ」

供の冴木は兄の生母の実家、伊予大洲から付いてきた男だ。 

うかつなことは言えない、友人が片肌脱いで背中の幽的を見せつけ、臥煙と喧嘩していたのを見て仲裁に入り、勢いで金太郎(鯉金)を二人投げ飛ばしている。

喧嘩の原因はお上りの爺さんを揶揄う臥煙を「よしゃがれ。江戸っ子の恥さらしめ」と間に入ったのが原因だ。

友人は町人姿だが無外流の腕っこきで、臥煙など取るに足りないがざっと七人はいた。

普段は橋を渡って広小路まではめったに来ないが、次郎丸に無心に来たという。

親は長崎奉行で赴任中、後継ぎは小納戸吟味についている、これ幸いと家を抜けだした。

次郎丸に取っては弟のような存在でこの日は借りた金でどじょうを奢ろうという。

大分と変わりもんだ、猪四郎のやらせている船宿の居候だ。

新大橋を渡り川筋を下って、深川仙台堀上ノ橋を抜ければすぐそこの今川町だ。

それを回向院へ出ていたので両国橋を渡って来たらしい、娘っ子に嘘泣き承知で騙されるのは毎度のことだ。

銭五の紹介で猪四郎は妻の弟夫婦に買わせた船宿、鉄之助が「四郎と言うので頼む」と年二十両で引き受けたという。

猪四郎は鉄之助の子だと思ったそうだ。

刺青を入れたいというのでその時詳しく身上(みじょう)を聞いて親身になって面倒を見だした。

喧嘩は仲裁の仲裁に十番組“を組のとっつあん” というのが見かねて中へ入った。

浅草阿部川町が受け持ちで「こっちゃ、ばちだが親父に免じて勘弁だ」といって仲裁に入った。

後で聞いたら米沢町に組の頭の息子だという。神田川を挟んで親子火消しだ、に組は神田川の向こう久右衛門町も持ち場だ。

手打ちに四郎の言う駒形の“どぜう”を食べに行くことになった。

小遣いに不自由するはずもないことになったが、出先で金が五両必要になったという。

たまたまというか出物の古本を買うのに一分判十両持っていたので巾着ごと渡した。

勘定も四郎が「十二人いたが二両で間に合った」と表で三両戻そうとするので“またここでおごれ”と言って受け取らずに別れた。

“を組のとっつあん”と言うがまだ四十前後のようで羽織持ちと一緒に浅草橋まで来て別れた。 

 

家臣団は大きく分けて三派にわかれている。

父が思うほど腹心の家臣は多くなく、兄が家督を継ぐと明らかに靡く様子が見えている。

それが父には不満なのか隠居後も藩政は自分が指導してくる。

定信以前の白河藩士のうち十人ほどが次郎丸付きとされている。

元矢之倉中屋敷隣で薬研堀にある百六十坪ほどの屋敷には、昼間は常時三人が交互に詰めてくれる。

普段屋敷には嫡母(定信継室隼姫はやひめ)が側室によこした“なほ”に腰元二人、女中が二人、料理番一人、中間二人がいて、屋敷の仕切りは“ とよ ”が任されいる。 

“なほ”は伊予大洲加藤家につかえる佐野善次郎の三女喜勢で、屋敷へきて三年目十八歳になって初めての子を宿している。

佐野善次郎は加藤家の上屋敷勤めでなほの母親が時々訪ねてくれる。

御徒町の上屋敷から和泉橋、もしくは新し橋で柳原土手へ出て両国広小路の大川端を下れば薬研堀の元柳橋、その先に元矢之倉の元中屋敷で堀のどんずまりが次郎丸の暮らす屋敷だ。

せいぜい二十町ほど女の足でも一刻はかからない、一応の持ち主は萩原飛騨だが三橋家との縁で借り受けている。

元柳橋は神田川にも柳橋が架かり、元が付いたが最初の橋名は難波橋。

次郎丸の派というほど人は多くないが、いずれ養子と決まれば付きそうだろうと藩政からは遠い人たちだ。

嫡子太郎丸(定永)は十一日遅く生まれたが、母親は正室(継室)のため、兄と呼ぶようにしつけられた次郎丸だ。

文化九年(1812年)三月六日定信が隠居、定永が二十三歳で家督を継いだ。

「若様のご養子先が決まりそうです。そのお話が大殿よりございます」

「兄上もご承知か」

「大殿へおまかせいたすそうで御座います」

「どこなんだい」

「信濃松代でござります」

「井伊家と姻戚じゃないか。当代は井伊様の出だろうに」

先代の真田幸弘の正室直松院は白河藩二代藩主松平定邦の妹でもある。

「実は前に甥御様に仮のご養子の口がありましたが、実家相続濃厚となって此方へ回ってきました」

「残り物かい。姫は居ないはずだぜ」

次郎丸なかなかに詳しい、道場に学問所でも養子を探している噂はすぐに広まる。

「あちらの御隠居様のお孫様が浜松の井上様におられますので」

「そこまで話が出来たんじゃ御受けの返事だけか」

「十万石の御家への御養子なぞ羨ましがられること請け合いですよ」

「三百石くらいの捨扶持で町屋敷住まいが身の程だろうさ。どこの大名家でも質素倹約の世の中だ」

「そのお気持ちで十万石を受け継げば家臣も安心できます」

「俺にはふんぞり返ってえばり腐るのは耐えられないよ」

松代藩家老恩田民親(杢)は五十年以前藩政の改革を任された、逼迫した藩財政自体は改善されるまでに至っていない。

真田家は大老の井伊直幸の九男を養子に迎え、課役から逃れようとしたが果されず財政は逼迫したままだ。

(課役・隅田川工事とウイキペディアに出ていたが。該当しそうなのは寛政元年の中洲新地を取り払い元の水面に戻したという記事しか見当たらない)

中洲新地は安永元年(1773年)竣工、三股富永町となり九十三軒の茶屋の並ぶ歓楽街と変貌した。

取壊の理由は二つ、流れが狭まり上流の洪水が頻発、寛政の改革による奢侈禁止令による。

この時の工事の土砂は隅田土手の構築に使われ、この場所は芦の茂る浅瀬に戻っている。

そこで定信の長子次郎丸へ目を付けた、真田家はこのところ男子の後継ぎに恵まれて居ない。

緑橋を渡り通油町へ入った。

江戸橋へは回らず、玄治店へ向かい銀座の脇から小網町へ向かった、話しに出た井上家の上屋敷はこの近くのはずだ、雅姫の住む下屋敷は新高橋の先深川東町だと冴木が教えてくれた。

深川には中屋敷が近くの常磐町に有るのだという。

小網町から鎧の渡しで坂本町へ入った。

上屋敷で冴木は何か託を番士へ頼んで先へ進んだ。

中ノ橋で南八丁堀へ渡り数馬橋で南小田原町、三の橋で一橋殿お屋敷、その先が下屋敷になる

将軍から拝領した下屋敷を浴恩園、蓮を植えた場所を賜もの池とそれぞれ命名し、将軍からの恩顧を強調している。

父定信は海防を献策して房総警備を拝命し、藩財政を悪化させている。

今でも自分の建白が幕閣に取り上げられるべきだと信じている。

一因はいまだに各藩の用人たちが意見を求めにやって来るからだ。

質素倹約では国防は無理だと次郎丸は思っている、産業を育成し資金を産まなければならぬと思うのだ。

定信は冴木の報告を受け次郎丸(定栄)側室“なほ”の出産が近いと知ると「生まれた子は男女を問わず吾の子とする。養子縁組が成立すれば親子は市ヶ谷屋敷に留め置くと心得よ」と通知させていた。

下屋敷で居間に通された。

父から元矢之倉の屋敷へ当分住むように指図があっただけで、あとは冴木が仕切ると云われた。

元矢之倉中屋敷は自分の住む一角を残し市ヶ谷へ移って六年がたつ、なぜ次郎丸をそのまま住まわせているのか謎だ。

出歩くのが趣味の次郎丸が羨ましいのかもしれない。

次郎丸は兄の控えとして亡き母から言われたのは“家の名を汚さぬように”という言葉だ。

元矢之倉屋敷を中屋敷とし、市ヶ谷と交換したはずが一角を借り受けたまま残したのは理由がありそうだ。

文化九年三月二十三日(181254日)次郎丸に女子が生まれた。

“政(つかさ)”と名を決めたと兄と父へ報告を上げた。

定信の娘にすると返事が来た、養嗣子へ迎える真田家への遠慮とすれば、母娘ともに連れていくことはできなくなった。

兄もまだ男子に恵まれていない、そのことが次郎丸の養子縁組が遅れる要因になっている。

正室、側室と妊娠しているので男子が生まれれば決定となるのだろうと次郎丸は思っている。

同母姉寿姫(婉姫)、同母妹の蓁姫はじめ妹は多いが男兄弟は二人だけなのも影響している。

同母姉の寿姫(婉姫)は牧野忠鎮へ嫁いだが死別、内藤信敦へ再嫁。

(文化九年十二月二十二日信親誕生)。 

異母妹の蓁姫(秦姫)は四年前十四歳で肥前平戸藩松浦熙に嫁いでいる。

(文化九年八月二十一日、側室に長子曜誕生)。

異母妹の烈姫は今十七歳、信濃高島藩諏訪忠恕(十三歳)と婚約。

(文化十二年婚姻、文政四年嫡子忠誠を産む)。

異母妹の福姫は松平定則へ嫁いだが死別。

異母妹の婉姫は上野高崎藩松平輝健へ嫁いだが昨年死別。

異母妹の茂世姫(百代)は伊予大洲藩加藤泰済へ嫁いだ。

(文化十年四月一日側室に長子泰幹誕生)。

異母妹の庸姫は松平輝延の養女。

(文化十一年四月越中富山藩前田利幹継室、文化十三年療養のため定信の元へ戻り、文政二年離縁となる)。

次郎丸は天明の飢饉のときの藩の実相は、猪四郎と新兵衛という酒田本間家ゆかりの男から聞いて驚きを隠せなかった。

飢饉の窮乏を救うのと、大きな財政を支えるのを同じ質素倹約では乗り切れないのだ。

先々代にあたる定邦は天明三年十月まで藩政を仕切り隠居している。

九月には留守居日下部武右衛が江戸藩邸へ赴き米不足を訴えた。

越後分領の米を一万俵白河へ送らせ急場をしのいでいる。

白河藩は会津藩の江戸廻米を十月上旬千俵、十月中旬二千俵、十一月千五百俵、十二月千五百俵の六千俵を順次買い入れ出来た。

世間は定信の手腕と讃えている。

 

猪四郎は江戸の分家を受け継ぎ、新兵衛は本家の娘婿だという。

十年前の享和二年(1802年)部屋住みの少年次郎丸へ近づいてきたのは本間宗久という七十過ぎに見える老人だ。

少したって猪四郎と新兵衛を紹介し「お力添えをいたします」と告げた。

次に会ったのは享和三年九月、老人が亡くなったと猪四郎が伝えに来た時で、喜多村鉄之助を連れて来た。

寛政十二年(1800年)六月二十二日次郎丸(定栄)十歳の時、貞順院は三十三歳で亡くなり、白河常宣寺に葬られている。

貞順院の母親の伯母が鉄之助にも叔母にあたる遠縁で、寛政十二年(1800年)母の葬儀の後一度会っている。 

此の年は弘前藩浜町の中屋敷へ配属されたという、だいぶ剣の腕がたつ様に見えた

年中向柳原八名川町中屋敷と行き来し練塀小路中西道場にも顔を出すが、寺田先生たちと談笑してすぐ消えると評判だ。

文化元年(1804年)十四歳になった次郎丸に鉄之助が中井家のことを話した、母親(貞順院)から聞いた話と合致している。

此の年次郎丸は中西道場の免許を得て定栄(さだよし)の名を与えられている。

酒田の本間家、越後の渡邉家が分家、養子にかかわらず次郎丸の後ろ支えをするという。

鉄之助が本間宗久へ委託したのだと聞かされた、そのあとを猪四郎と新兵衛が引き受けて鉄之助が後見するという。

この時も鉄之助は喜多村家の部屋住みのまま江戸藩邸家老のお手伝いで大坂と江戸を行き来していた。

天明の飢饉の後寛政九年(1797年)四十六歳で御秘官(イミグァン)の頭へ推挙されたことも教えられていない。

父も「結」の報告を受けたはずだがあえて次郎丸へは何も言ってこない。

定信自身も白河藩に「結」の者がいたと老中になって幕府隠密から、初めて聞かされたくらいだ。

隠密は権現様黙許の金の貸し借りの元締めらしきことを報告していた。

冴木は白河の旧家臣の詳しい動向は知らないが、貞順院に連なる人脈は次郎丸の成長を心待ちにしている。

同じ久松松平の白河藩士と言えど、殿様の定永へ忠誠を誓うものたちと、貞順院に連なる家臣団では色合いも違う。

定信は継室の隼姫(はやひめ)が久松松平康元流の血を引くと様々な機会をとらえ旧家臣たちへ浸透させている。

次郎丸(定栄)の母親貞順院が定勝流と言われる松平定儀のお血筋を残していると伝わるからだ、定永が嫡母の子だけでは弱いとみているようだ。

定信にとって従順で利発な定永は理想的な後継ぎで、早くも老中への下工作が始まっている。

譜代(家門)久松松平と言え田安家から来た人たちには一段下に見えているようだ。

松平定勝(家康異父弟)の嫡男定吉は、家康に弓の腕を「無駄な殺生」といわれ十九歳で自害。

松平定勝の次男定行は伊予松山藩主家十五万石の親藩。

定勝の三男定綱は美濃国大垣藩六万石のちに伊勢国桑名藩十一万石。

松平定儀の養嗣子・定賢は水戸徳川家傍流から養子に入り寛保元年(1741年)、陸奥白河に移封され、定賢の長子定邦は田安定信を養嗣子に迎えた。

定勝の四男定実は軍令に違反と疑われ蟄居。

寛永元年(1624年)長島七千石、翌年には長島城二万石を賜うが病を理由に辞退している。

久松松平家分家旗本として子の定之と定寛は家系を残した。

定勝の五男定房は伊予国今治藩三万石。

定勝の六男定政は三河国刈谷藩主、家光の死後落髪し能登入道不伯と号した。

長子の定澄、次男の定知は旗本として家系を残した。

定勝の養子に忠勝(桜井松平家松平忠頼三男)、徳川頼宣に従い千石を受けた。

久松松平家分家旗本として家系を残した。

隼姫(はやひめ)の父親加藤泰武の先祖は松平康元(家康異父弟)、松平定行(松平定勝次男)と言われている。

享和四年(1804年)三月、次郎丸の所へ、二月に文化と改元されたと連絡が来た。

絵草紙屋の店にも新しい大小の暦が並びだした。

次郎丸は鉄之助が護衛という形で町を出歩く許可が出た、よく津軽藩が許したと次郎丸には不思議に思えた。

通っていた小野派一刀流の流れをくむ練塀小路中西子正先生の推薦もあった。

十四歳にして免許が与えられ、武士として通用する肩書がついたが浅利先生などの前では「これで免許か」と笑われても仕方ない腕だ。

この道場では門をくぐれば若殿など掃いて捨てるほどいるので身分など通用しない、それでも手加減はしてくれていたようだ。

付近の大名家、旗本の次男、三男は一刀流免許の肩書欲しさに入門してくるのだ。

広小路から新し橋へ出て向柳原から宗対馬の塀に沿って練塀小路へ向かう。

小屋敷が続く道は朝の混雑が終われば人影も一刻(いっとき)ほどまばらになる。

松永町先の四つ角を右手に折れて五軒目が道場になる。

次郎丸(定栄)を真田家へ送り込むという話は真田幸弘が賛成に回ったことで実現しそうだ。

幸弘は恩田民親(杢)を登用し、その死後は藩政を指揮した。

江戸から菊池南陽を招き松代殿町の稽古所で経書を講義させ、武術を学ぶ剣術所、柔術所、弓術所、槍術所が配置された。

真田幸弘の正室真松院は松平定賢の娘、次郎丸(定栄)の正室には浜松井上家から雅姫を真田幸専の養女に迎える。

雅姫は真田幸弘の孫になる。

松平定賢と次郎丸(定栄)には血のつながりはないが外見は十分な血縁関係になっている。

真田家側としては、譜代に準ずる扱いの帝鑑間詰であったが、定信の子を養嗣子に迎え願譜代となれば幕政への参画もできる家柄になりえる。

文化九年(1812年)五月、五十四歳の定信は隠居後楽翁と名乗ったが実際の藩政は築地下屋敷が取っていた。

時に花月翁と題した書画を表したりし、表向きは悠々自適な生活を装っている。

花月日記を付けだしたが、隠密を恐れ、当代様のご恩をたたえる文章を心がけている。

房総警備の時に藩で整えた防備のための大筒“一貫目六尺筒”には愛着が残る記事が増えて行った。

 

次郎丸(定栄)の養子話は向う様の都合でなかなか決まらない。

家臣の間では何度か行き来があり、ついてゆく近習、守役まで人選は済んだ。

二十二歳の次郎丸(定栄)の周りに将来をみたか御用商人が集まってくる。

応対は毎日出てくる冴木に任せている。

生母がなくなり嫡母の世話になっているので逆らうことも出来ない。

冴木は真田家までは自分の役目ではないと人選から外れた。

可もなく不可もない人並な者が選ばれている、軋轢を起こしそうもないと次郎丸には見えた。

定信はあれだけ賄賂(まいない)政治と田沼意次を批判しているが老中致仕以降上納金と称した献金を受けている。

房総警備に百三か村三万二千石を領地とされたのが文化七年(1810年)、白子に遠見番所、上総竹ヶ岡陣屋と竹岡台場、安房波佐間村松ヶ岡陣屋と洲崎台場。

竹岡二百人、波佐間に五百人を常駐させている。

白子番所を梅ヶ岡陣屋、百首陣屋を竹ヶ岡陣屋、波左間陣屋を松ヶ岡陣屋と変えている。

波佐間村松ヶ岡陣屋は並木に囲まれた五千三百坪のなかに、御殿一棟、長屋九棟、土蔵四か所、馬屋一棟を備えた。

 

九月(陽暦十月五日)になり鴻池屋儀兵衛という地廻りの酒問屋が、下屋敷用人の紹介状をもって次郎丸(定栄)の所へ来た。

その日冴木は下屋敷へ呼ばれている。

今朝求めてきたという亀戸天神ふなばしやのくず餅だという。

「下に小判なんてものをひいてきても俺には力がないよ」

「黄色いものは黄な粉だけで、白いのは三盆糖でございますよ。若様は黄金餅がお好きですか」

「俺は金に縁がないし、養子の話も進んでいないからな」

「実はその話もありまして、雅姫様がぐずっております」

「男嫌いかい」

「いえ、まだ十一歳の姫様です」

「そりゃすぐ婚姻とはいかんなぁ、四.五年先になるかな」

「それに若様にはお子もおられるので」

「向こうにばれているのかい」

「浜松様は姫にお優しいですから。お調べになって私のほうへ探りを入れてきました」

茶を持って来た腰元に「華代(かよ)、頂き物だ奥へもっていって皆でいただきなさい」と土産を渡した。

何か内緒のことでもと人払いしておいた。

「実は大殿の申し付けで安房波佐間村松ヶ岡陣屋へ視察をお願いします。お供は大野様それと私のほうで中間を三人と帳付けを一人用意させていただきます。冴木様には大殿様から本日付けで下屋敷勤めを言い渡される手はずです。代わりに大野様が毎日来られます」

「母上様はご承知か」

「冴木様のことは奥方様より言いだされたようでございます。実は警護人を真田藩から出します」

「だいぶ手が込んでいるな。人物試験を兼ねたか」

「そのようで。真田図書(貫恕)様の御指図で佐久間一学様が呼ばれました」

「一門のうちから藩主を選べない理由でも」

「幸弘様は図書様のことは信頼しておりませんので。最近鎌原重賢様が藩政を取りまとめております」

真田家は矢澤家に代わって恩田家、そのあとを鎌原家が台頭しているようだ。

佐久間一学は五十一歳で五両五人扶持の軽輩ながら卜伝流の道場を開いて指導に当たっているという。

この当時五両五人扶持なら六十石取りと変わらないはずだ。

儀兵衛は周りを見てにじり寄ると書付を出した。

鉄之助の字だ、内容を確認すると火鉢の中で燃やし、灰をよくかき混ぜて均しておいた。

教わった「結」の指印を見せると儀兵衛も同じものを返した。

「親の後を継いだ、駆け出しでございます」

この言葉は最低の四番目の常套句だ。

「中西先生が十四歳の時免許をくれた、剣術使いの駆け出しと認めてくれたよ」

聞かれても誰も不思議に思わぬ「結」の確認方法だ、話を合わせるやり口は新兵衛が子供の頃に教えてくれた。

享和三年(1803年)九月、鉄之助は次郎丸を「結」へ入れた。

「若様は私たち三人が結へ推薦いたします。生涯小遣いに不自由なさいませんが悪戯が激しいと繋ぎが切れます」

その時に新兵衛は甲州印伝の財布をくれた、誰に遠慮したか使い込んだ擦れ具合が目立った。

中は元文一分判四枚に南鐐二朱銀が四枚入っていた。

財布は“とよ”に管理させるように云うので呼び寄せるとうなずいて預かってくれた、どうやら元の持ち主を知っているように見えた。

それ以来たまに使うと次はもとの金高に戻っているものをよこした。

当時十三歳になったばかりで、金の使い方も知らずに育ったので、町育ちのとよにどのくらいの物を買えるか教えてもらっていた。

元文一分判四枚で一両、南鐐二朱銀二枚で一分、八枚で小判一両だと知った。

とよは道場通いのお供に出る中間に巾着を持たせていた、中は銭緡(百文)と波銭(四文銭・寛永通寳)十枚、豆板銀が三個入れてある。

次郎丸は街の物価にも強くなっていった。

それでとよは南鐐一つで四人の家族が三日飯を食ってゆけると教えてくれた。

この時代まだ一朱は金貨、銀貨ともに出ていない。

豆板銀がそれを補い南鐐二朱判は流通して間もない。

明和九年(1772年)にでた南鐐二朱判が上方でも流通しだした天明八年四月(1788年)に南鐐二朱銀(南鐐二朱判)の鋳造を中断、丁銀への改鋳を始めた。

これが幕府の財政難を招き寛政十二年(1800年)に鋳造が再開された。

十八歳の文化六年(1808年)の夏、嫡母がなほを側室によこしたとき、小さな屋敷でも奥と表に腰元、女中が必要になりとよの下に美代、直枝の二人を雇った。

なほには下屋敷から腰元が二人付いてきた。

狭い屋敷が猶更狭く感じ、外歩きが多くなると広小路の雑踏が楽しくなった。

とよは今年五十になったと嘆くが、娘が孫を連れてくると「婆がおいしいものをごちそうするよ」と台所で到来者の菓子などを与えている。

この家では“なほ”は別途に給付が出るが、会計はとよが仕切っているので出入りの者はとよに菓子や、水菓子を付け届けする。

なほに腰元、女中たちは到来物を頂くことに罪悪感は起きない様だ。

とよは腰元、女中たちの嫁入りのための裁縫、台所仕事を丁寧に、辛抱強く教えていて母親のように慕われている。

なほも裁縫は止められたが、女たちへの習字の指導を与えられ、毎日張りのある生活をしている。 

会計方が年二度帳簿を見に来るが、あまりにも安上がりな支出に呆れている。

魚屋は二軒、八百屋も二軒、呉服商は上屋敷の指定した決まり物しか入っていない。

魚屋は買ってくれるものは裏長屋と変わりゃしないと吹聴している。

鰯にわかし(鰤の子供)、運が良ければ熱海からワラサ(鰤の小型)が到来する。

蛤の吸い物は節季ごと、普段は浅利に蜆汁が出る。

次郎丸には豆腐料理さえ御馳走だ。

“豆腐百珍” “豆腐百珍続編”の本を手に入れたときは興奮したが、そんな手間のかかるものは料理屋(料亭)へ行くしかないとあきらめた。

焼き豆腐の田楽なら時々出てくるくらいだ。

“万宝料理秘密箱”は読み漁った、卵百珍は料理番がなほの頼みで食卓をにぎわせた。

五色卵は吸い物に花を添えた、花卵は煮抜きの好きななほを喜ばせた。

煮抜きを竹箸で何箇所か挟むだけで作れて、形は様々にできるので飽きない。

猪四郎が鶉と卵を料理人に待たせてきて作りあげた“鶉卵”は出汁巻きの高級品だと屋敷中が喜んだ。

豆腐屋は一丁三十八文に安定している、屋敷では毎日三丁、三日に一度納豆を買う、豆腐は値上げできないので小さくなったととよは嘆く、最近半丁の物をこれが一丁だと売る店が出たそうだ。

最近納豆は十八文になったという、手間の割に安いものだ。

豆腐一丁と卵中くらい二個は同じ値段が続いている、猪四郎が持ってくるのは染井の近くで特別に百二十羽飼わせている家から持ってきたという。

その家では普通に飼う鶏は五百羽以上いるのだと自慢する。

鶉も飼っていて卵は鶏卵以上の値が付くという。

出歩くようになって最初の頃は鉄之助や中間の弥助が屋台店の味を覚えさせた。

道場仲間の御家人の息子たちも次郎丸の懐をあてにし、柳原の土手の鰻に早鮨を誘った。

「今日の鯊は前洲で今朝採れたものです。穴子も手三つの上物ですぜ」

屋台店の半兵衛という親父とは友達付き合いだ。

“武家屋敷では買わない”とのうわさで寄り付かない白木の鮨箱を担いだ小肌の鮨売りも「すしやコハダのすぅ~し」と速足で塀外を抜け、米沢町へ入るとなじみの家で女中に小者が重箱を持ってくるのを待っている。

まだ売り歩くようになって間もないが、それまでの稲荷ずし売りがいなせな若衆を雇って人気になった。

鯵の早鮓はかすむほどの人気だという、値段も安い一貫八文で昼には二つも食べれば十分な大きさだ。

女中の美代と直枝はひと船二十四貫と、日によって余分を買っては、四つのお重に詰め替えてくる。

かけそば一杯十六文は五十年以上も変わらぬという。

此のところ銀一匁は百十文で安定していると猪四郎がとよと話している。

「一両六十四匁にするそうでね。ついに七千文超えました」

「一朱で四百四拾文かい。南鐐だしたらぼて振りに怒られそうだね」

「やはり面倒でも四文銭のほうがいいですね。湯島の富くじ売りじゃねえなんて言われますぜ」

など云っているが月末の勘定で朝から台所は大賑わいだ。

「出入りの水売りでも二荷二百文さ。上水の水は日によって飲めやしない」

一荷は十二桶、二樽は一荷に数えた、天秤棒で二桶でも庶民は一荷と数えた。

「家の井戸水でも売りに来ましょうか」

寺島村にも別宅がありここの井戸の水は美味い。

「水屋までやるこたぁないでしょうよ」

「深川へ銭瓶橋の神田上水吐き樋落水を売りに行くのでも一荷百文取りますぜ。安いのは一石橋でさぁ」

「だって水上納納めているんだろ。高いのはしょうがない。娘が言うには最近一荷四十八文だなんてどこからの水か判らないのを売りに来るそうだよ」

風呂の水に使う贅沢な家もあるという。

「ああ、ありゃ亀戸の百姓仕事ですよ、人が増えすぎて水が足りないので一桶四文で許可されました。まだ範囲は狭いはずですぜ」

「水で囲まれても堀の水は飲めないからねぇ。井戸はしょっぱいし」

次郎丸は“東海道中膝栗毛”で上方では烏貝の早鮓に人気が出たというのを知った。

猪四郎から噂を聞いて安宅六軒堀(あたけろっけんぼり)の松のすしへも足を運んだ。

新大橋まで下り、橋を渡って左の御船蔵の前を入れば六軒堀町の真中へ出る。

無精を決めるなら薬研堀なり浜町から船で出る手もある。

次郎丸には定信から節季ごとに衣装が届いていた、肌着はとよが暇を見ては手縫いしてくれる。

増えたのは政(つかさ)の乳母の給金くらいだ。

時たまとよは柳原土手へ女中二人連れて出ては古着を買いあさってくる。

屋敷の給付は女五人、中間二人で木綿が二十八反と金十四両に決まっている。

料理番の富代は猪四郎が全部持ちで入れてくれたので人数に入っていない。

いつの間にやら若松町に家族を呼び寄せ、小商いの日用品を売らせている。

これがまた流行っていると中間の忠兵衛が教えてくれた。

料理番の富代はとよと同年で五十歳、出戻り(死別だという話もある)の娘が一人小女を雇って商売している。

絹もの、髪飾りは貞順院が残したものと“なほ”が嫡母から頂いたもので十分間に合う。

矢絣の腰元衣装は定番で帯と共になほが面倒を見ている。

とよは半年ごとに一人一着の矢絣を出入りの商人へ二分で売る、そうすると新品を五分で売りつける。

腰元二人は常時三着以上予備が出来、お使いに出るにも恥をかくこともない。

女中はもう少し安手で七匁に引き取り、新品は二分で売りつける。

どうして古着を買うかと云えば縫い直しておけば、七匁の口で引き取るのだ。

勉強も実益を兼ねれば昼の鮓を買うのに、おお威張りで声を掛けられる。

おごって卵焼きでも乗った鮓がたまに出てくると、なほは子供のように喜ぶのだ。

父や兄は贅沢だと思うようだが一つ八文の鮨、卵焼きでも二十文、兄の一汁一菜の支度で百五十は小肌の鮨が買えてしまうのを知らない。

 

十二月数え五日(陽暦1813127日)、安房の海防の巡視に正式な日程が上屋敷から届いた。

松ヶ岡陣屋へ二月十二日到着という日程表を大野が路銀と共に鑑札を持ってきた。

話しは安房だけでなく上総竹ヶ岡陣屋(元百首村)と竹岡台場、安房波佐間村松ヶ岡陣屋と洲崎台場となっていた。

旅立ちを一月十八日としてある、宿場は館山まで十九宿三十四里二十八町、二十二日の旅程は冬でものんびりしたものになる。

旅籠代は街道でも二百文で上宿へ泊れる、この頃木綿一反が六百文になったととよと富代が嘆いていた。

一人六分二朱(銀九十匁程度)あれば茶店で休んでも往復できると踏んで、四人分六両二分の給付たという。

勘定方は全部南鐐二朱銀で寄こした、重さが百四十匁はある。

「分判ならともかく南鐐二朱銀は一人じゃ辛いな」

大野は中間に担がせるつもりだ。

「参勤でこんな旅程を組んだら叱られるぞ」

「大殿のほうでひねり出されたものでございます」

「こりゃ養子の口がまとまりそうになったようだ」

正式に養嗣子と決まればこんな気ままな旅など二度と出来ない、いつも顰めつらな父でも子は可愛いのだろう。

「まずは館山まで早めにつくことをお勧めします」

「いや、この旅程に従おう。悪天でも日限を守る旅を心がけよということだろう。戦に雨だから骨休めは通じない」

大野は「二月六日に館山宿到着、松ヶ岡陣屋と巡検の日程を合せるでよろしいですな」と手控えに書き入れている。

「違う違う。竹ヶ岡陣屋で四日は必要だ九日以前に到着は無理だぜ」

「そうでしたな。宿場の数だけ数えていました」

二人で大きめの紙に宿場を書き日付も書き入れた。

次郎丸は“これだもの父上が家来を信用しない”と思っている。

だが大野は次郎丸が思うほど間抜けではないようで、附きそう佐久間へ連絡を付けていた。

日程が出来上がるころその佐久間が屋敷へやって来た。

昔の鉄之助と同じように鍛え上げられた厳つい体つきをしている。

そういえばあの頃の鉄之助は五十を越したばかりのように猪四郎が言っていた。

座敷へ通し次郎丸は上座を避けて「師として拝を受けてください」と頼んだ。

「恐れ多いことで困ります」

「では一度だけ。この場限りといたします」

「松平次郎丸定栄(さだひさ)でございます。若輩者につき我儘を云う時は必ず意見してください」

そして上座に戻り「旅へ同道して下さると聞きました。旅慣れぬゆえ良しなに頼む」と将来の主従らしく頼んだ。

新川の儀兵衛へも連絡がついて三人の奴(中間)と新兵衛を率いてやって来た。

「新兵衛と知り合いとは知らなんだ」

「最近のことでございましてね。猪四郎さんの紹介で新兵衛さんのほうからお供に加えろとこわ談判で。中間は真田家お出入りの“ちくまや”の者でございます。右から権太、介重、朗太(ろうた)と言います」

名を呼ぶたびに顔を上げたのでうなずいて笑いかけた。

真田家では屋敷中間の多くは松代からきている、参勤で国へ戻ると口入れ屋から臨時の者を雇うくらいだ。

参府は丑、卯、巳、未、酉、亥の六月。

暇は子、寅、辰、午、申、戌の六月。

当主伊豆守幸専は江戸上屋敷(虎ノ門近く新シ橋)、隠居幸弘は下屋敷(深川富吉町福島橋)に住まっている。

下屋敷は永代橋を渡り御船手の屋敷の塀沿いにもいかれて便利な地だ、大島川にも続く堀伝いに船で大川にも出られる。

中屋敷は赤坂氷川神社の東側にある。

ちくまやは浅草平右衛門町左衛門河岸近くにある。

真田家のほか信濃上田藩松平伊賀守忠済、信濃飯田藩堀大和守親寚へもお出入りしている。

次郎丸はとよを呼んで耳打ちした。

「これは若様からの顔つなぎ。正月十七日に旅立つまでの小遣いだから」

三人の手へ、とよが乗せると重みで一人元文一分判四枚とわかったようだ、三人の顔が崩れた。

儀兵衛が毎日一度朝に顔を出すように言いつけた。

屋敷の賄を見たらどんな顔で食うのだろうと可笑しかった。

大食いだというので年明け、新兵衛が鮨売りを浜町の船宿へ呼び入れて二船買い入れた。

小肌がこの時期鮗(このしろ)になってもこいつらにはお構いないようだ。

四口で一貫を食うと次々手が出て三人でひと船二十四貫を食いつくした。

挙句にまだ腹半分だと猪四郎にほざいている。

次郎丸は“海老と卵焼きでもう十分だ”というと、新兵衛が四種十六貫取り混ぜた皿も食い尽くした。

「一学様の荷はこいつらが運びます」

七人旅には大野が預かる旅費では心もとない、新兵衛がやり繰りしてくれると決まった。

「大野様とは江戸へ戻られてから、会計方へ出す前に清算ということで」

「わしの分は別清算してくれんかの」

「一学様、図書様とは儀兵衛持ちと約束ができております。奴の一人分もあっちのほうで持ちますんで」 

儀兵衛に云われて大野は「いいのかね」と笑っている。

護衛に貸し出して費用は持たない“松代もしっかりしているわい”と大野は預かる分で四人の清算と胸算用している。

「領収は勘定方へ出すので吟味して集めてくれ」

いや念のため半分は持っていくにしても全部は持ち歩かずに済むと思った。

本陣は無理でも商人宿でも程度の良い所くらい有るだろうと思った。

次郎丸はあの父が回った場所だ、戻れば目端が届いたかどうかみっちり試験されそうだ。

定信は文化七年(1810年)十月二十九日に江戸を出立。

十一月三日館山に至り、十日に藩邸に戻っている。

十二日間で往復し視察を終えていた。

船橋では梨の栽培のこと保田では水仙が“保田といふあたりより水仙いとおほく咲きたり那古寺にやすらふ頃、日の入りて空も浪も紅にそめたるが、白く三日月のみ見ゆるに黒く富士の高嶺のそびへれるぞ、つかれしことも忘れにけり、歌よみしも亦忘れつ、鋸山に宿る。風あらき野じまが崎お海づらは月と花とのやどりなりけり”と記している。

旅日誌は必要だなと白紙の物を二冊入れようと考えた。

大野は新兵衛と儀兵衛に先ほどの旅程表を見せた。

「初日は船橋なら行徳まで船で行きましょうか」

船は日本橋から行徳船が出ているし、七人なら二丁櫓の雇でも二両で済む。

一学は「初日は足慣らしで余裕を持って歩くほうがよいでしょう」と進言した。

小岩・市川関所までは新宿(にいじゅく)から抜けるほうが良いでしょうという。

浅草寺を抜け、千住から新宿(にいじゅく)まで持っている地図では大回りだ。

 

正月四日、立春、指定された上屋敷、下屋敷での新年の挨拶も済み、旅の心得など聞かされて戻った。

なほも手伝って下着は余分に荷へ入れさせた。

「宿で心付けを弾んで火熨斗も十分に効かせるようにお頼みします」

新兵衛に何度も頼んでいる。

旅慣れている新兵衛には、それほど苦にならない事柄でもなほにとよは心配だ。

新兵衛は光道の耳目として松島、日光、香取、鹿島を巡って、昔の様子と現況を記録して酒田へ戻り報告し、江戸で古書漁りをするのが仕事だ。

亡くなった歌麿に始まり、北齋、豊国などの浮世絵を買い集めている。

商売に手を出さずとも連絡の手紙を言付かる事が多く顔は広い。

正月十八日、大野に一学も昨晩から泊まり込んで、寅の刻には旅立ちの支度も済んだ。

浅草橋御門は開くのに時があるので避け、新し橋へ向かったのは夜明け前の寅の下刻(五時三十分頃)。

下谷七間町から本願寺、広小路で浅草寺へ出て旅の無事を願った。

三社様から随身門で馬道へ出た、横町を抜け朝日を浴びて聖天の脇を抜けた。

山谷堀を越すと遠くに吉原がかすんで見えた、仕置き場と絵図に出る小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)は朝から火葬の匂いが漂っていた。

“伽羅よりまさる、千住槇の杭”と言われ架けなおした真新しい千住の大橋を渡り、宿へ入ると寺が並んでいる。

五十五軒の宿があるという繁盛の地だ、ここで行列を減らして進む大名も多い。

渡し場の手前に小岩の関所がある。

鑑札は大野が見せ「館山陣屋まで参る」と「お通りくだされ」それだけだ。

橋の無い中川を新宿(にいじゅく)の渡しで対岸へ、左右に分かれた道は左が水戸へ、右が佐倉道。

向こう岸と違い番人も置いていない、茶店は船を待つ人で混雑していた。

道はたに“是よりあさくさくわん世於ん道”の道しるべがある。

山門が見え崇福寺と新兵衛が教えてくれた。

街道は“成田千葉寺道”とも成田山へ参詣に訪れる人の口へのぼるそうだ。

先へ進むと“青面金剛道標”には側面に“西市川八丁 江戸両国三り十丁”、“東八わた 十六丁 中川一里”と彫られている。

のんびりと歩いてきたので午の刻近いようだ。

「この付近は同じような道しるべが多くあります」

神社の先に高名な“不知八幡森(しらずやわたのもり)”がある。

水戸の中納言も中で怪異に出会ったと新兵衛が立ち止まって教えてくれた。

そういえば新兵衛は水戸に縁が深い。

八幡宿は本陣もある繁華な街だ、五重塔がある法華経寺、門前で礼をして茶店の餅で腹ごしらえをした、醤油のつけ焼きの餅は旨い。

船橋御殿は東照神君鷹狩に使ったという、神職の富氏に払い下げられ東照宮として残されたと云う。

成田山道”の道しるべがある、左がその道、ここで分かれて房総往還へ進む。

御菓子廣瀬”の看板の店がある、川には街道の半分ほどの幅で橋が架かっている。

此処は船橋村、最初の宿になる、父から聞いた梨園は只の枯れ木にしか見えない。

“青面金剛道標”江戸両国三里十丁とそこから旅籠の並ぶ海老川橋付近まで二里ほどで合わせて五里十町になる。

初日にしてはまずまずの歩みだ、申の鐘だろうか近くで鳴らされている。

「洋時計で三時二十五分、日暮れまで一刻ほどありますが、予定通りに宿をとります」

夜明け前の寅の下刻(五時三十分頃)にでて五刻半、洋時計で十時間だという。

「参勤道中なら昼を入れてもこの時期の四刻あまり、七時間と三十分で歩きます」

「参勤は行軍だから急ぎ旅は仕方ない」

この時期でも成田山の往来で上も下も呼び込みに忙しい。

先程の橋を渡って村の中を回った。

「八わたでは日が暮れまして藪知らずへ迷いますよ。此処へお泊りなさいませ」

「まくわりまでには陽が落ちます。道悪でございますよ」

新兵衛は下組山王社参道脇の“とうまや”という宿へ連れて行った。

「幾部屋用意できる」

「旦那様のほうで五部屋必要なら用意させます」

女はすぐに答えた、身なりで上客と見て取ったようだ。

その夜新兵衛を交えて大砲の話に興じた。

本間家が蝦夷地警備に献上した砲は、試し打ち四町から六町と性能に大きな差があったという。

「一里は無理か」

「浦賀と造海城(つくろうみ)の間が二里十八町、我が国の最新の物でも対岸へ届かぬようです」

「騒がしく外国船打払を言うものもいるそうだが、武器も性能に差があるというぞ」

「ロシアの船は射程十五町と聞きました」

「船に乗せるのは限度もあるからな。異国の船戦は二町程度に近寄っての砲戦が普通と聞いた」

「一学様、長崎での聞き書きでは英吉利と西班牙の海戦での戦法だそうです。近頃一里は砲弾が飛ばせるようになったそうです」

これは銭五たちがもたらした情報だ、射角を上げて二十五町程度を狙うのだそうだ。

「確かにへろへろ玉でも上から来りゃ勢いが付く」

房総警備に三万二千石を領地に加えたが、七百人を超す警備の者を派遣する費用は膨大だ。

今年に入り家族を呼び寄せるものが増えてきたという。

今はまだ十五門程度の防備だが定信は百を超す鋳造を命じている。

台場は五台の砲座に予備の砲身、弾薬、弾丸、砲兵の訓練も必要だ。

 

朝、辰に宿を出た。

川を越すと一対の常夜灯がある。

青面金剛庚申塔があり、浮彫の仏にしばし見とれた。

馬加は北町奉行所の支配地、大須賀家を郷代官としていた。

新兵衛は当主と知り合いだと一同を連れて門をくぐった。

茶をいただきながら干し芋を食べた。

掘り起こして二月寝かし、それから切って干すという話だ。

昆陽先生がこの地で甘藷の栽培を試験したと話してくれた。

栽培に成功し農家も飢饉を乗り越える蓄えが出来たという。

今日は検見川泊りかと聞かれ、新兵衛が「まくわりで泊まるよ。のんびりと館山までの道中ですよ」と言うのを聞いて「上宿に料理旅館があるのでそこで接待したい」と言い出した。

次郎丸(定栄)が身分を明かそうと思ったら新兵衛に先を越された。

「此方は白河藩の大野様、館山の陣屋まで参られます。次の御方はご養子先を探しておられる次郎様。さてその次に控えしは卜伝流の達人で佐久間一学様」

中間たちも芝居口調にやんやの喝采だ。

次郎丸も大野の次男とでも間違えられれば幸いと笑ってしまった。

中間と大野を残し案内の手代に導かれて村内を回った。

金毘羅に秋葉権現その先に川がありその先が検見川だという。

「先生、こりゃ明日もほとんど歩きませんよ」

「船橋から検見川、男の足なら寒川(さむが)まで、今の時期でも楽な道程です」

手代に言われて一学も「二晩余分に宿をとるのか」と新兵衛に聞いている。

「ご隠居様の御指図ですから。見ものでもあるんじゃないでしょうか」

手代は首塚くらいだという。

「千葉康胤のことかね」

「ええ、その方です。馬加康胤様とここでは言われています」

三百五十年以上も前の武将だと一学が教えた。

手代も一学の博学に驚いている。

鎌倉公方を追われ古河公方となった足利成氏を応援していたが、将軍から派遣された東常縁に討たれたという。

足利成氏は三十年にわたる乱を生き抜き、朝敵の汚名をそそいだが、鎌倉へは戻れなかった。

当主親子が開いた宴席には中間三人も次の間で歓待された。

最初は遠慮していたが素面で悪玉踊りを始めた。

「近頃両国あたりは少なくなったが、深川で何人か組んで回っていたがお前たちじゃないのか」

屋敷中間も領内からの中間奉公と口入れ屋の仲介では扱いも違う。

彼ら三人は世に言う“わたり中間”の口だ。

仕事がなければ口入れ宿でゴロゴロしている。

「若様、俺れっちじゃ銭になりませんよ。葺屋町で見てきた家(うち)のお嬢がやれやれと教え込まされやした」

葺屋町(ふきやちょう)は市村座の通称で当時人気の三津五郎の当たり役だ。

𠮷次郎という若者が「新兵衛さん、どういう縁の皆さんで」と酔いが回ったか気にかかっていたことを聞いた。

郷代官ともなれば後で必要にもなるだろう。

一学は「わしは信濃松代の藩中だが、この次郎殿を養子に望むかたに人物を見てくれと頼まれて来たんだよ」と答えた。

大野は「藩の館山陣屋の巡検の仕事を二人で言いつかったのだ。一学殿が剣の達人なので用心棒に借り出したのさ。上屋敷から道中の様子もよく見てくるように言われて泊りを刻んだのだ」上手くまとめた。

「実は部屋住みで子供もいる。それで養子の話がまとまらない。一学殿もこの旅で性根を見ようというわけだ。新兵衛殿と幸い子供のころから知り合いなので、江戸へ来たついでに旅の付き添いに来てもらったのだ」

「新兵衛さんと古いお知合いですか」

「そういや十年の上付き合っていますかね。若さんが十二か三の頃だ」

新兵衛も上手く口を合せて来た。

「母が亡くなって悔やみに鉄之助さんが来たのが知り合うきっかけだ。それで宗久さんとも知り合えた」

「宗久様というと本間家の」

「母親の親戚の名代で来てくれたのさ。猪四郎さんや新兵衛さんも十台だったように覚えている。実の兄のように世話になりっぱなしだ」

お子様連れで御養子は難しいでしょうと当主の𠮷兵衛が心配顔だ。

「一学殿もそれゆえ上役から難題を押し付けられたようだ」

子供は女だというと𠮷兵衛は「嫁に出すまでご親類で預かるのはどうですか。男の子だと揉めるでしょうが、女の子で幸いでした」と親身に心配してくれた。

一学も「養育費くらいは出せる養子の口だから、次郎殿の家だけに負担させはしまいさ」と助け船だ。

どうやらその方向で両家の重役は了承したようだ。

朗太(ろうた)のやつ「あのお屋敷ならお嬢様を育てるにゃいい場所ですぜ」などと言っている。

新兵衛は「馬鹿言いなさんな。薬研堀から表に出りゃ両国の広小路。次郎様のようにふらふら出歩かれては俺でも心配する」と真顔で叱った。

「それそれ、婿に迎える相手もうろつく次郎殿でも見て、心配でわしに様子を探れと来たのだろうさ」

「まとまりそうですか」

「𠮷兵衛さんも心配性だな。九分九厘まとまる話だよ」

「何かまだ障害でも」

「夫婦養子となるように話は進んでいるが、お相手がまだ幼いのだ」

雅姫は年が明けて十二歳父親はあと二年、いや三年は婚儀を待てという。

「御養子を決めて婚儀は後というわけにいかないのですか」

「御親類にうるさ型が多いのさ。なんせ次郎殿は二十三だからな、養子にゃ年が行っていると騒ぐのだ」

「それでも養子に欲しい人材なんでしょうね」

「いや、取柄は一刀流の免許くらいか。学者肌でもないし不思議な人だ」

「免許はお情けですよ。木刀で浅利先生の前に立つと今だに足が震えます」

「竹刀と違って木刀は当たり所が悪けりゃ大怪我の元だ。震えるのは腕が上がった証拠ですよ」

「一学先生に言われるとそれだけで腕が上がった気がします」

「道場を持つと口が旨くなるからですよ。卜伝流の極意です」

次郎丸(定栄)が通う中西道場は中西猪太郎(中西忠太子啓)から中西忠兵衛(子正)へ代替わりしている。

次郎丸は寛政三年(1791年)生まれ、八歳の寛政十年(1798年)には中西道場へ入門している。

余談

千葉周作が中西道場へ入門したのは中西忠太子啓享和元年(1801年)病死以前で周作七歳の頃と云われる。

文政三年(1820年)には周作は武者修行に信濃、上野へ向かっている。

周作は文政五年(1822年)日本橋品川町に道場を開き、文政八年(1825年)に、道場を品川町から神田お玉ガ池に移転した。

ウイキペディアをはじめ多くの人が、高柳又四郎の生年を文化五年(1808年)としているが疑問は多い、調べたが文化五年という元資料に行きつけなかった。

何より周作の同門の先輩としている文書が多い、生年を調べた人の誤記入だろうか。

文化五年では周作より十六歳も年下なのであり得ない話だ。

ウイキペディアは又四郎が中西派一刀流中西道場第三代中西忠太子啓に入門するとあるが年月の記入がない。

別の又四郎項目で、寛政八年(1796年)には二十台で師範代とあった。

此れなら中西忠太子啓享和元年(1801年)病死以前の入門になるはずだ。

中西道場の三羽烏を調べると白井亨は天明三年(1783年)生まれ、寛政九年(1797年)入門、文化十年三十一歳。

寺田宗有は延享二年(1745年)生まれ、宝暦九年(1759年)頃中西忠太子定に入門、寛政八年(1796年)忠太子啓に再入門、文化十年六十九歳で健在。

三羽烏には入らないが、浅利又七郎義信は安永七年(1778年)生まれ、文化十年三十六歳。

一刀流

中西忠太子定の生没年は不詳・小野忠一直弟子。

中西忠蔵子武の生没年は不詳・竹刀稽古導入。

中西忠太子啓-享和元年(1801年)二月四十七歳死去。

中西忠兵衛子正の生没年は不詳、一説に文政七年(1824年)死去。

中西兜七郎儀明(浅利又七郎義明)-文政五年(1822年)生まれ、子正次男。
天保八年(1837年)浅利又七郎義信の養子に入る、弟子に山岡鉄舟。
安政四年(1857年)養父の名を継ぎ又七郎と改名。


朝の食事がすむと郷代官屋敷へ出て、𠮷兵衛に別れの挨拶をした。

花見川を超えれば検見川に入る。

郷代官屋敷から二十町ほど来ると検見川神社が見えた。

茶店の親父に聞くと八坂、稲荷、熊野の三神を祀るという。

街道は山側へうねって居る。

一里ほどで道祖神社の参道に着いた、この付近に“このしろや”という宿があるはずだ。

宿場のはずれだと聞いてきた。

茶店の娘が松林を指してその向こうだと教えてくれた。

このしろやへ着いて見どころなど聞いたが“縄しばり塔”くらいだという。

よく聞くと風邪をひくと道しるべに縄を巻き付け、病気平癒を願うのだというではないか。

「地蔵様の代わりかい」

大野までが笑いだした、本所南蔵院、茗荷坂下林泉寺、ともに大岡忠相の名さばきで有名に成った。

江戸の話は白木綿を盗んだものを捕らえる話だが、こちらのほうは泥棒が絡んではいない様だ。

十町ほど先だというが誰も見に行こうとは言わない。

新兵衛が今日の歩きは二里と五町程度だという。

道中記に船橋からさむがの宿場は四里十八町だというので、だいぶ行きつ戻りつを繰り返したようだ。

 

朝辰(八時十五分)に宿を出て本当に縄が巻き付いた“縄しばり塔”を通り過ぎた。

「いくらのんきな旅でも辰に出るのは気恥ずかしい」

「新兵衛はそういうが、卯の刻(六時三十分頃)ではいかにも寒い」

大野が反論している、江戸生まれで国元へは一度も行っていない。

その先の庚申塔には、縄も何もないが大野がのぞくと宝永二年(1705年)と彫られていた。

大きな池を通り過ぎると後から鴨が追いかけるように頭上を越えて行った。

千葉妙見尊光院で剣の上達を願った“北斗山金剛授寺”が正式の寺号だと聞かされた。

“このしろや”から一里も歩かぬうちにさむがの宿場へ入った、まだ時計で十一時になったばかりだという。

道中記に羽衣松伝説があると書いてある。

湊の近くだというので見に行くことにした。

都川にかかる君待橋を渡ると下流には佐倉藩の蔵屋敷があった。

船頭らしき男が「これだ」という松はいかにも細いし枝も貧弱だ。

「何代目かになるそうですぜ」

平常将という千葉氏の祖先が天女を妻としたと教えてくれた。

次郎丸(定栄)は風土記の羽衣伝説と同じだと可笑しくなった。

船頭は五大力船で佐倉藩の米を江戸へ運ぶという。

「ここまでも船なのかね」

「あてこてもねえこと言うなよ。馬で七里の道を運んでくるんだ」

大野も納得したようだ、暇つぶしか煙草を新兵衛にねだった。

「じつわよぅ。若い時分佐倉の御城下へ出たときによ。同じような話を聞かされたが、向うじゃ将門様だというんだぜ」

盛んに言うところはまるで講釈師だ。

新兵衛が干鰯の匂いはしない様だと聞いている。

「干鰯に〆粕は曽我野浦から出るんだ」

「曽我野浦は近いのかね」

「一里半もないな」

これじゃまるで町内を泊まり歩いているようなものだ。

近くに神社があり神明社だという、天照大神に相州寒川神社と同じ寒川比古命、寒川比賈命をまつるという。

街道の道しるべに「右ハかつさみち 左ハちばてら道」とある。

道行く人に聞くと「成田への道じゃねえよ、近くのてらだ、十五町くらい」というので寺を訪れた。

十一面観世音菩薩は行基作と伝わると説明された。

和銅二年(709年)創建だと僧侶が言う、たしかに行基菩薩の活躍した時代だ。

宿場に戻って宿を探した。

宿に落ち着くと一学は「佐倉藩領の積み出し湊とは言いながら活気がありませんな」と大野と話している。

新兵衛に聞くと「堀田様は一昨年代替わりなさいましたが、山形以来の借財が積もり積もって二十二万両と聞きました」と驚愕の事実を教えて来た。

「堀田様は若年とか」

「十五歳になられたばかりのようでございます。お家は手伝普請で大きく傾きました。贅沢禁止が五十年も続いてすっかり寂れたそうで」

手伝普請日光東照宮修繕では富山藩も宝暦十三年(1763年)に十一万両掛かっていた。

川普請、道普請のお手伝いはともかく民のためにもなる、社寺の修繕お手伝いは言い渡された藩を借金の泥沼へ引きずり込んでいく。

この寒川宿は戸数五百戸というが、まばらに街道に散らばっていて纏まりはない。

新兵衛の知り合いだという男が訪ねて来た、酒蔵を持っていると新兵衛が言いながら迎えに出た。

「よくわかりましたね」

「船から見ていたが、下っていたのでね。気が付いたが、あっという間に行きすぎた」

酒屋忠蔵と男は名乗った、酒屋が酒屋ではあんまりだと思った。

老中堀田正亮は佐倉へ入封すると“宝暦九卯年十二月町内へ申付け候書付”なる触書を出した。

一例に“町々名主組頭の儀は、御用筋大切に相務め、身上よろしき町人ニても不相応の遊芸をならい奢りがましき儀仕らせ申すまじく候”とあり不相応の遊芸というところが富貴な者を目の敵にしている。

“衣類は妻子どもまで、木綿に限り着用仕るべく候。ただし女の帯は絹紬ニても苦しからず候事”

寛政の改革に先立つこと二十七年、まだ津軽よりましなことは木綿着用を許していることだ。 

町民の華美贅沢を戒めている、衣服にまで規制をかけては人心が委縮するばかりだ。

次郎丸は父もそうだが名君と呼ばれても、民百姓の生活から潤いをなくせば生活水準は極度に低下する。

屋敷でたまに贅沢をしても上屋敷はすぐに監査をする、賄賂(まいない)かどうかを出入り業者まで調べるのでとよは困っている。

とよへの付け届けなど煎餅か饅頭くらいだ、それも名の知れた老舗などではない。

なほも腰元が別部屋で聞き取りを受ける、監査の者もとよの金箪笥は見逃してしまう、古い船箪笥を使っているので一度開けたとき定信、嫡母からの手紙ととよへと書かれた拝領金を見てからは手を付けていない。

引き出しを抜けば奥に元文一分判、南鐐二朱銀で百両が常備してある。

なほには上屋敷から月二両と政(つかさ)へ月二両がお手元金から出ている。

なほはほとんど使わずに貯めているという。

普段の生活は上屋敷が定めた支出内で納めている。

酒屋の話だとさむが周辺で酒だけでも三百石の商いをしているという。

半分は儀兵衛が売ってくれるそうだ、儀兵衛は忠蔵から安い酒を買う代わり、下りものの銘酒を高く売りつけると不満顔で新兵衛に訴えた。

「儀兵衛の所の酒は安酒で高名だよ」

「だから鴻池でも上方の下りを買わせるんだよ」

結局仲間内の愚痴のいいあいだ。

次郎丸は儀兵衛の店を知っていた“白雪”の目の前にある。

次郎丸は後で教えられたが“関東御免上酒”なる制度も定信の政策の一つという。

“酒などというものは入荷しなければ民も消費しない”

下り酒の制限が目的の政策は、直接聞いたときは尊敬する父と云えど、消費を悪とはと暗澹たる思いに落ちた。

真意は高い買い物をせず安いものを買えなのだろう。

物を動かして上納金、冥加金を増やすという“田沼の政治”の根底をひっくり返す政策だ。

寛政二年(1790年)武蔵、上総などの豪商に酒米を貸与、上質諸白酒三万樽を醸造させた。

下り酒は天明二年には百五万四千百七十七樽。

天明五年は九十三萬九千四十六樽。

天明六年は九十二萬四千九百五十九樽。


天明七年は七十三萬七千六十四樽。

飢饉の影響で天明八年は五十七万二千三百六十三樽。

寛政元年は五十九萬七千六百三十九樽

醤油は思いのほか成功したが、酒は関東悪酒の名が広まってしまった。

このため醤油の下り物は減る一方となった。

酒に比べ流山白みりんは評判が良い。

政策の行き過ぎは何度も是正され同じことを繰り返している。

寛政六年(1794年)酒造制限を解除。

享和二年(1802年)米価高騰により酒造半減を布告。

文化元年(1804年)酒造制限解除、勝手造り許可。

元禄の頃下り酒の問屋は七十九軒、寛政二年(1790年)以降四十八軒と激減した。

文化六年(1809年)六月幕府への冥加金(献納)江戸十組問屋八千五百両、そのうち酒問屋三十八軒で千五百両を負担した。

御用金(上納)は富裕商人からから集めた強制的な借り入れ、文化年間には三回行われ百二十五万両に達したと云う。

運上は商人等にかける“分一”収入の一割、五分、三分など一定の税率があった。

 

余談 

堀田正愛正室は鈴姫(敏子)豊前小倉小笠原忠固の長女。

鈴姫は文化元年(1804年)に生まれた。

堀田正愛に嫁いだ(十四、五歳くらいか)が堀田家のあまりの質素倹約に驚いた小笠原家が引取り、摂津尼崎松平忠栄へ再嫁させたが文政二年(1819年)十六歳で亡くなった。

正愛は文政三年頃、継妻に松平治郷四女幾千姫(きちひめ・十六歳)を迎えている。 

幾千姫は文化二年(1805年)生まれ、母親は治郷正室方子(よりこ・せい姫、せい楽院・伊達宗村の九女)-せいは静もしくは青に彡だと云われている。

(幕府へ不昧と方子の子(四女)と届出、実母側室嶺氏“峰氏”。)

正愛は文政七年(1825年)二十六歳で亡くなった。

正愛(佐倉藩四代)は堀田正順(佐倉藩二代)の孫。

家督は正愛が正順の弟正時(佐倉藩三代)の次男正篤(正睦・佐倉藩五代)を指定した。 

幾千姫は謙映院を名乗り文久三年(1863年)に五十九歳で亡くなった。

名は幾千子、号に玉映、喜楽庵、閑雲、月主人、月川を使っている。

書と和歌に優れていたと云う。

 

宿を出ると稲荷が街道沿いに見えた、狛犬代わりの狐が置かれて居るほか見た目が稲荷らしくない。

茶店が開いたので案内できるものは居るか聞くとやせぎすの中年の男が「俺が案内すべ」と出て来た。

もともとは稲荷大神ではなく“豊宇気比売命”を日本武尊が東征のおり、祀ったという。

稲荷となったのは最近のことだという「寛政七年乙卯の年に伏見稲荷から正一位五社稲荷大明神の神号をいただいた」と教えてくれた。

この辺り五田保村というそうだ。

新兵衛は手早く豆板銀をくるんで手渡し、街道へ戻った。

曽我野まで半刻で着いてしまった。

道しるべに“大がん寺の道”とある。

茶店で休んで聞くと六町ほどの近くだという。

「権現様より頂いた安堵状があるそうで、末寺二十か寺、最近は修行僧も増上寺へ参るそうになり寂れていますだ」

今でも代替わりには将軍家の命で住職が決まるのだという。

鵜だろうか山から海へ二百羽ほどが群れを成してやって来た。

茶店の男は「ここはおんだらがきいても不思議が多いですだ」とさも内緒のように教えて来た。

開山道誉貞把上人は増上寺九世だという。

浄土宗知恩院の末寺で本尊は阿弥陀如来、道誉上人は当寺創建後、成田不動尊の分身を勧請して安置したと伝わるそうだと言う。

阿弥陀の慈悲、不動の霊験こりゃお参りするほうも迷ってしまう。

「おんだらぁ“開運増慧の不動尊”の縁日で潤いますだ」

二十八日縁日に不動講が開かれるのだそうだ。

生実川(おゆみかわ)を渡った、社があり天満宮の標柱が傾いていた。

浜野川に架かる塩浜橋まで来て「行きすぎましたぜ」と新兵衛が慌てている。

曽我野の宿まで半里ほど戻った。

中宿にある蘇賀比咩神社の参道わきの“そがのや”という宿へ入った。

笑いながら「江戸を出る前に父上に真意を聞くべきだったな」と次郎丸が大野へ話しかけた。

「道中の里程と実際に歩きまわった里数は大きく違いそうですな」

儀兵衛の奴め知っていたはずですよと新兵衛が怒っている。

「江戸へ出たら案内人が必要だと猪四郎がいうので引き受けたが、日程は大野様がご承知で宿屋に名所案内だといわれたんですよ。今酒田に戻るより雪解けを待つ間の片手間仕事のつもりでした」

館山陣屋なら長くても往復ひと月と踏んだという。

「どうせ新兵衛は古書に古跡歩きが仕事だろうに」

「若さん、そりゃあんまりだ。確かに商売に手を出すなと婿入り前に云われましたがね」

「遊びの相棒は猪四郎だろ」

「あいつは若旦那育ちですから気ままは苦にならぬようで。冬は雪見、春は花見と浮かれるのが好きですが、出不精で大山参りも江島見物もしませんのですぜ」

吉原の近くに本宅があるが、吉原へ一度も入ったことがないそうだ。

毎日浅草寺へ朝参りするくらい、接待の悪所通いは手代に任せている。

そのくせ染井だ、寺島だ、木場だと別宅の庭の手入れが玄人はだしで、庭師も恐れ入っている。

新兵衛が来れば絵師の画会や飲み会は面倒がらずに出かける。

買いこむというより肉筆画を売り込まれていると評判だ。

絵草子屋なんぞ二人が来れば百枚は買ってくれると奥座敷へ呼び込もうと懸命だ。

極彩色の物は取り締まりが続いていて、工夫が効いていても二十文から三十文で売られている。

二人は役者絵、美人画、風景、作者は問わない、ちらと見て気に入れば百の単位で注文する。

姉崎までさむがから一日を五日目に入れば道中馴れしていてもそうは名所旧跡などない。

旗本領が多い街道は房総警備には向かない土地柄だ。

佐倉藩とて房総警備を申し付けるには現状を聞けば救済処置と両輪が必要になる。

「若、わが藩とてこのまま房総警備が長引けば所費の出費が増えるばかりですぞ」

「俺を松代へ婿入りさせてもあちら様から出せる金はないはずだぜ」

「それはそうですね。若を婿入りさせて金を寄こせでは初手から無理があります」

一学は考えていたが「それで話が長引くのですな。正廬様をまだ仮養子のままにしているのは」とうがったことをいう。

 

生実川をもう一度渡った。

生実新田(おゆみしんでん)というらしい、昨日は気が付かなかったが塩田がある、この時期塩作りはしていない。

小さな塩田で行徳、浦安とは比べ物にならない、せいぜい三反歩ほどだ。

「ここの殿様はみやこの二条の御城へ詰めておられます」

森川俊知は一万石の大名だ。

天満宮へ入ると鳥居は朽ちている。

塩田川に架かる橋を渡ると湊には五大力が三艘ほど舫っている。

大網街道の分かれ道がある、地蔵がわびし気に見ている。

蔵屋敷から三人の番士と小者が十人ほど飛び出してきて周りを囲んだ。

大野が落ち着いて前に出た。

「何か御用か」

「こちらの科白だ。おとつい辺りから付近をうろつくという怪しい者どもめ」

「いや、すまんな。房総警備の視察を命じられてのう。館山陣屋へ参る途中だ。大殿の言いつけで街道途中の様子を見ながらの旅なのじゃ」

そういいながら鑑札を出した。

“陸奥白河藩中江戸上屋敷用人 大野玄太夫”

少し大げさなものだ。

さっと見て青ざめたが、気丈にも「道中お気をつけてお通りください。本日はいずこまで」と聞いてきた。

「それがの本日は浜野、明日は八幡、五井、姉崎と刻んで進むようじゃ。なかなか気配りも出来て兵部少輔様もお喜びであろう」

大野は官位も知っていた、此の男なかなかの食わせ物だ。

茂原街道に入れば道の先で上総、下総と別れる。

村田川を船渡しで渡れば上総に入るので本行寺まで戻った。

行ったり来たりで二里ほども歩いた。

 

前日の渡し場の下流にも蔵が二棟並んでいる、ここも生実(おゆみ)藩の蔵屋敷のようだ。

船頭に聞くと「おっさ」と答えが返って来た。

川の名は村田川だという、大野の持つ街道案内は雑なものだ。

庚申塔に“ 江戸道”“ 東金道”と彫られていた。

「ここからも九十九里の浜街道へつながると聞きました」

「本には支那の里程で九十九里とあるが」

「ほぼ今の十七里ほどだそうでございます、大野様。頼朝公が一里ごとに矢を立て九十九本に達したことから九十九里矢指ヶ浦(やさしがうら)と名が付いたとも言いますが。一里六町での計算だそうで」

「支那も昔と今では一里がだいぶ違うそうだな。本のほうが違ったか」

「今は一里が五町ほどだと前年お会いした方々がおっしゃっておりました。昔は六町よりわずかに短く、その後四町になり、先の皇帝が五町に統一されたとか」

「ならばあながち本の間違いだと言えんじゃないか」

一里ほどで宿の中ほどまで来た。

街道の山側飯香岡八幡宮は百年ほど前に社殿を修復したという。

ここも日本武尊の伝説が残る、六所御影神社で休息したおり村人の奉げた飯(いい)の香りを賞した故事によるという。

青面金剛庚申塔があり、左に“ 江戸乃道”右は“左 かさもりへの道 右 たかくらへのみち”で伊南房州通往還との分岐に置かれている。

「場所が移動したのか」大野は首をかしげてみている。

笠森寺へは六里、たかくらの高蔵寺へは九里あると道中記にあると新兵衛がいう。

たかくらの高蔵寺は木更津からだと二里半ですとも教えた。

先に二股に分かれる道は伊南房州通往還だという。

一里半ほど先で浜野からの道と潤井戸(うるいど)村で一緒になって茂原、一宮本郷で浜伝いに館山へ向かうという。

四町ほど先に無量寺という浄土宗の寺がある、大厳寺の末寺だそうだ

茶店の婆は荒海から出現した阿弥陀如来像をまつったという。

“かずさや”という宿へ落ち着いた、ここのところ未の刻あたりに宿へ入る日が続いている。

本行寺から三十二町、一里にも満たない近さだ。

目の前の浜辺は一面塩田が広がっている。

江戸金杉村庄左衛門と坂本村又兵衛は八幡村から君塚村の浜の開発許可をとった。

入浜式の塩田だと宿の女主人が見ている次郎丸に教えてくれた。

天明二年(1782年)に開発許可が出たという「仕事の始まったのはわたしの十の誕生日でしたよ。大勢の人が雇われて付近の宿は満杯でした」と懐かしそうに話した。

天明四年から二年かけて塩田が完成した、後援者の田沼意次は完成を待たずにお役御免となっていた。

今朝通った村田川の下流から続いていて、金杉浜新田と人が言うようになったそうだ。

相良藩江戸詰家老倉見金太夫は何度も様子を見に出張ったという。

この宿へそのたびに泊まったそうだ。

 

一里ほどで五井の大宮神社へ出た。

ここも日本武尊ゆかりの神社だ、東征の際に創建と伝わるという。

五町ほどで養老川の渡し場が見えたので街道を戻った。

天明元年(1781)年伊勢西条藩有馬家が五井に陣屋を移した。

現藩主は有馬久保三十五歳、陣屋は街道を山側へ入った場所だ。

今は参勤で江戸へ出ていると宿で教えてくれた。

各地に分領(伊勢国・上総国・下野国)があり支配も楽ではなく塩田の収益も幕府領では手が出せない。

五井に四千四百石、実高も各地合わせて一万二千石余りだ。

上屋敷は日比谷御門の松平肥前守と南部信濃守の間にある。

中屋敷は築地合引橋南松平土佐守屋敷南隣り、軽子橋北側。

下屋敷は内藤新宿中丁。

小藩と云えど格式は高く維持も大変だ。

実父は上総一宮藩加納久周、寛政の改革で定信の傍で側衆として支えた。

田沼の政治の行き詰まりは天明二年(1782年)の西国の飢饉から顕著になった。

奥羽諸藩は競って米を江戸、大坂に回送、利益を上げた。

天明二年(1782年)の米価高騰が奥羽米の移出を加速。

天明三年(1783年)救荒用の備蓄を売る藩が続出し、此の年奥羽を冷害が襲った。

奥羽諸藩で打ちこわしが頻発し、上野、信濃へも広がっている。

天明三年三月十二日(1783年)岩木山噴火。

天明三年八月五日(1783年)浅間山大噴火。

この時は四月から活動が始まり、月一度の小噴火が繰り返されていた。

危急の対策は農民、町民たちの救援ではなく関東、奥羽、信濃の村役人、農民が所持している自家用以外の米、麦、雑穀を売るように指示。

穀類の買占め禁止、米屋などに対する打ちこわしを禁止する法令が出された。

天明四年一月十六日(1784年)幕府は、米穀売買勝手令を公布し自由販売を認めた。

この法令は発布、廃止が何度も繰り返された。

天明四年(1784年)江戸、大坂、京都の米価高騰困窮者へお救い米と称し安価で販売された。

内訳は江戸三万石、大坂二万五千石、京都一万石。

この時期に大老に就任したのは井伊直幸で天明七年九月一日まで務めた。

天明六年(1786年)再び奥羽に冷害、関東に風水害が襲い掛かった。

此の年全国平均で米の収穫は例年の三分の一まで落ち込んだ。

そなさなか八月二十五日、将軍家治が死去、八月二十七日田沼は老中御役御免、二万石を没収された。

全国御用金令、印旛沼干拓などが中止されたが、蝦夷地の開発は定信失脚後に再開された。

天明七年五月十日(1787年)木津村の米屋が打ちこわしにあった。

五月十一日玉造町、天満伊勢町、安治川新地などで大坂打ちこわしが始まる。

五月十二日堺で打ちこわしが起こる。

五月十三日兵庫で江戸回米の六軒の米屋が打ちこわされた。

さらに全国各地へ広まった。

五月二十日江戸は小規模な打ちこわしが頻発し、ついに赤坂の米屋、搗米屋が打ちこわされた。

二十軒ないし三十軒が被害を被ったといわれている。

打ちこわしにも統制が取れていたと記録があり、押買は打ちこわし勢が米の安売りを強要し、拒絶すれば打ちこわしとなったという。

ところが打ちこわしの混乱に乗じて盗賊が米や金銭、衣類などを奪うことも起きだした。

江戸では逮捕者四十二名、指名手配者五名だったと記録された。

五月二十五日(1787年)勝手係老中水野忠友は困窮者支援に一人銀三匁二分の支給を始めさせた。

町内での施行も多くで行われ、後に(十一月)町奉行は報奨金を五百四十七両計上した。

六月二日米の隠匿を禁じ、市場に放出するように触書が出たが効果は出なかった。

天明七年六月十九日(1787年)定信、老中上座(首座)。勝手方取締掛就任。

(資料を漁っても定信老中上座(首座)はこの日と出てくる。大老の井伊直幸辞任は九月一日と出てくる)

これを見ても巷間に云う打ちこわしによる田沼失脚ではなく、失脚により騒動の拡大と見るべきだろう。

それでも田沼嫌いの論調は田沼派一掃の要因だと書き綴った。

天明七年八月十七日(1787年)大坂町奉行所は二万九千五百六十四人に対し約五百石の米の支給を始めた。

宿で茶請けに出てきたのはバカ貝の干物だ、江戸で青柳の名で酢の物が出るが、この付近から馬加(まくわり)で多く取れるので馬加貝、または舌を突き出すようにみえることから“ばかがい”と言われている。

女将は「川の向こうが青柳という地名でそこからバカを青柳といいます」と教えてくれた。

次郎丸が「夜は囲炉裏の傍で鍋を頼む」と頼んでおいた。

夕食の膳には小椀にあられ蕎麦が出た。

小柱の天ぷらは一学も「旨い」と絶句した、つけ汁にたっぷりと大根おろしを入れると旨味が増した。

板敷の囲炉裏の傍で次々に出る海の幸は江戸からここまでの料理で一番だと朗太(ろうた)が、シラギス(白鱚)にメゴチ(女鯒)の天ぷらを揚げる主をおだてている。

二合徳利がそれぞれに置かれた。

初めてだが「たまにはいい思いもさせねば中間は辛かろう」と一学が勧めたのだ。

“たこわさ”が小皿で平膳に置かれた。

いよいよ鍋が囲炉裏につるされ鯛の切り身がどさっと入れられた。

出汁に酒が継ぎ足される、野菜がふたをする。

匂いが部屋に広がると女主人が椀へ次々と入れてよこした。

「鯛の鍋なぞ初めてだよ。旨いもんだね」

次郎丸が一回りしたのでお替わりを頼むとうれし気によそってくれた。

 

養老川の渡し場で大野が新兵衛と笑っている。

「朝から上機嫌だな」

「若。昨晩の料理に三両も請求したかと今念押しを」

「それで」

「宿代のほかに三分二朱だそうです。お江戸の四半分で済んでしまいます」

「少しはもってやれよ。いや俺持ちのほうがいいかい」

「それを言ったら。俺の面子をなんて大きく出られました」

「それで猶更顔がほころんだのか」

一学まで笑っている。

茶店の親父に「名所、旧跡で見るところは」と聞くと「馬頭観音が十以上だんみゃくだで」とそっけない。

新兵衛と話し合っていたが「だいぶ広範囲にあると言っています」と言うのであきらめた。

五尺ほどの馬頭尊が街道の際に立っている、まだ新しい。

右面は“此方、房州木更津た可くら道”、左面に“寛政八年丙辰年 馬頭尊 十二月吉日”とあり、さらに“此方 江戸ちば寺道”とある。

姉崎の宿場の中ほどで久留里街道を越えると妙経寺がある。

妙経寺では寺の坊主が説教ならぬ土地の話で歓待してくれた。

日蓮宗妙満寺派中本山として末寺も抱えているという話だ。

奈良輪への道におふごの森があり“福王皇子”が逃れて来た館跡だという。

新兵衛も知らない話のようで熱心に聞いている。

大友皇子の子と言われていて乱に敗れて逃れて来たのだそうだ。

表の道しるべは文化四年(1807年)のもので真新しい。

中往還は“殿様街道”で右に“た加くら道・きさら津ミち・房州道”左に“具流里ミち”と出ている。

宿は“ふなばしや”、落ち着くと新兵衛は街道と上総久留里藩三万石の情報を教えてくれた。

最近の実高二万八千石と表高より収穫が少ない。

小櫃川(おびつがわ)中流にあり船運(しゅううん)で江戸と繋がるという。

本間一族と縁が出来たのは当代が養子に入ってからだという。

黒田直侯は二十一歳、昨年文化九年五月久留里藩黒田直方の養子に入ったという。大野は「若と年も近いな」という。

江戸上屋敷は下谷御成街道、酒井家(安房勝山酒井忠嗣-文化十年十八歳大和守)の隣屋敷だ。

直侯は寛政五年(1793年)出羽庄内藩酒井忠徳妾腹の三男、江戸で生まれ育った。

「力之助(荘内)と安之助(勝山)は俺の弟弟子だよ。最も顔も定かではないのだがね」

名前だけ道場に置いておく大名家、旗本家の常套手段だ、本気で剣術修行することもない。

直侯の居た左衛門尉の中屋敷は浅草橋御門外の福井町にある。

黒田家の下屋敷は目白坂から関口台町へ向かう神田川寄りにある。

九月十三日直方は隠居、家督を継ぎ、十二月に従五位下豊前守に叙位任官した。

出羽庄内藩主酒井忠器は三歳上の兄、兄弟も多くの藩が養子に迎える交渉をしている。

有望なのは次兄忠実二十二歳、安房北条藩へ決まりそうだという。

弟長富(巳三郎)も九歳、もう養子の口がいくつも出たと言われているそうだ。

「若と同じで伊織様もご苦労でござるな」

忠実の幼名乙二郎ではなく、その後に名乗る伊織を記憶しているとは大野はやはりただの中年用人ではないと次郎丸は感じた。

伊織は左衛門河岸の下屋敷から近い中西道場へ、寛政十年(1798年)わずか七歳で入門した。

年下ではあるが同じ入門日で相弟子になる。

「若年寄の水野様も娘の婿を養子にされたとか」

「毛利様の出と聞いたが」

大野も鋭い、次郎丸附きに選ばれるはずだ。

「然様で外様とはいえ大藩の出です。伊織様も正室をお迎えに成られるそうで」

「そいつは初耳だ。前のようにどじょう鍋を誘えないぞ」

「まだ十三歳なので近々とは聞いています。薩摩の重豪様の御養女だそうです。実父は重豪様ご三男ですが、銭五から聞いた話だと分家の御生まれだそうで」

大分複雑だ、竝姫(立姫・於並)は享和元年(1801年)三月生まれで、祖父重豪の養女として婚姻する。

実父忠厚は藩主斉興の後見を務めている。

裏で銭五に本間本家が動いているのは内緒ごとで新兵衛は知らされていないが、勘づいてはいるようだ。

新兵衛も此処のところ各藩の養子縁組に通じてきている。

伊織は剣の腕もだが学問にも秀でている、なまじ切れ者と思われて次郎丸と同じように養子先が決まらない。

なぜと云えば実際藩を仕切る側から見て、言いなりにならないからだ。

余分な改革を言われても実現可能ならいいが、誰が苦労するのだと出来のいい殿様を敬遠したがる。

宿を出て三丁ほどの川岸に石鳥居の稲荷の社がある、橋を渡ると瑞安寺という寺があった。

西國・坂東・秩父百番札所”の道しるべ右は“文政元 かさがみ道八丁”左は“是よりちばてら四里八丁 たかくら四り”とあった。

立場があり三軒の茶店がある、先は街道の両側が田んぼのようだ。

少しうねっているがおよそ一里くらいは同じ光景だ。

突き当りに三界万霊塔が置いてある、真新らしいのもそのはず文化元年としてある。

左きさらす道”“是より右江戸道

次の分かれ道に置いてあるのはいぼ取り地蔵だという二基の石像がある。

右うしく かさもりミち 左江戸道

右かさもり うしく道 左江戸道

大野は「なんだ同じものをどこかから持ってきたようだ」と首を傾げた。

「牛久とは大分とおうござるな」

「一学様、二十三里ほどあるようでございます。まくわりの近くまで遠回りしてゆくことになります」

おふごの森を遠めに見て先へ進むと奈良輪宿へ入る。

思いのほか問屋場付近は人の行き来が多い。

小さな橋を渡った、若宮神社がある、掃除をする老人が六百年は創建から経つというが「八幡様じゃで」と言うほか詳しいことは知らない様だ。

宿へ戻ろうと川を渡って街道の茶店で聞くと婆が笑った。

中間の茶を継ぎ足して「残った団子もかぁねぇとかっくらわすど」など威勢のいいことを言っている。

さすがに侍ではなく新兵衛に聞いてきた。

「にしら、どおんもんだ。行ったり来たりして」

「江戸からきて館山に行くのだが今日は奈良輪宿へ泊ることにした。いい宿を教えてくれ」

「飯盛りはひつようけ」

介重(すけじゅう)を見ながらそんなことを言っている。

「いや、扱いさえよければ十分だ」

「飯盛りを置いていないのはいせやだよ。料理もたのべばいいものを出すと評判だ」

介重は「飯盛りより旨い飯のほうがいい」なぞと云っている。

宿の女主人は「鯖の味噌煮か、鰤の塩焼きだね。あとは夕河岸で仕入れられたらの話だ」と新兵衛に言う。

「まとめて六分くらいで賄えるかい」

「宿代も入れてかい」

「別勘定で頼むよ、宿代も四人と三人で分けてくれ」

「おうよ、いい客だ」

本当に六分の夕食を支度させるようだ。

「新兵衛、昨日からどうした馬鹿に気前がいいな」

「次郎丸様、何ね毎度お決まりだけじゃ詰まんなくなっただけですよ。明日からまた普通のたびに戻ります」

「戻さんでくださいよ新兵衛旦那」

聞いていた三人が拝んでいる、自前で飲みに出たくとも知らない土地だ。

 

辰に出ようとしたら風が強くなった。

「渡しが出るかどうか」

「船渡が止まっていたら戻ってくるよ。一刻も掛かるまい。少し待って戻るなら昼には戻るよ」

愛想を聞きながらいせやを出て宿場を抜けた。

小さな橋の架かった川では海からの風が強くて笠を抑えるようだ。

小櫃川は船頭たちが協議している“しばらく様子見で、一刻ほどでおさまる”と大声で旅人へ告げた。

半刻もせずに強風はピタッとやんだ。

待っていた客は番を待って次々に乗りこんだ。

後二人というので大野が夫婦連れに順を譲った、急ぐ旅でもない。

冬場なので流域は一町くらいで半刻も待たずに渡ることができた。

川沿いを上へ向かって見ため三十町ほど南へまっすぐと向かった街道は、川と別れるあたりから人の行き来が多くなった。

小さな社の割に前庭の広い神社がある、八幡神社と立て看板が建っていた。

その先でいきなり街道は西へ曲がっている、その先松林の手前でまた南へ折れた。

吾妻神社がある、昨晩一学が言っていた神社だ。

江戸砂子に“君去津吾妻大明神はすなわち弟橘媛の霊社也”と出ていたという。

広い境内は参詣人が三十人ほどもいた。

弟橘媛の櫛を納めて祀ったといわれ書きがある。

鳥居へ戻ると道しるべに“江戸道”とある。

選擇寺と云う寺がある、この辺り寺町と云うそうだ。

その先海側は魚市場だ“さかんだな”というと新兵衛がききこんできた。

ここの五大力船は木更津船という名で特権をもって江戸と往来をしている。

八釼八幡神社という神社があった。

ここは八釼神こと素戔嗚尊をまつる神社に弟橘姫を祀り、さらに八幡神を祀ったという。

権現様の寄進状も残るという。

弟橘姫をまつる神社が多いが茂原にも神社があると新兵衛が教えてくれた。

橘樹(たちばな)神社は景行天皇四十一年に創建と伝わるそうだ。

延長五年(927年)の延喜式神名帳にも記載される延喜式内社だ。

「いくら何でも簡単に行ける場所ではないな」

「大野様。急げば冬でも三日、いや二日で着きますぜ」

「道を外れるわけなかろう。からかうな」

曲尺手(かねんて)に街道は湊へ向かいまた左に折れる、一の鳥居は浜辺にあるそうだ。

街道の海側に弁財天の社がある、木の鳥居は相当くたびれている。

鳥居に比べ社殿は小さいがたいそうな造りだ。

社殿の彫刻は武志伊八郎信由の物だという、掃除の若い男は彫刻が揚げられて二十年と経っていないという。

 “日の出に鶴”左右には“松に山鵲”の見事さに次郎丸はしばし見とれた。

男は裏の銘文が見えるように龕灯(がんどう)で照らしてくれた。

彫工房州長狭下打墨住人武志伊八郎信由作

房総だけでなく、江戸、武蔵、相模でも引く手あまたの名工だ。

伊八の名は六十を越した今でも多くの弟子を引き寄せている、子供の信常(常香)の名も彫工の間で広がりを見せてきた。

「師匠に言えば見に来るだろうか」

次郎丸がつぶやいたのを新兵衛が尋ねた。

「等琳さんですか」

「そうだよ。物好きだからな。小遣いさえあればここまで出てくるさ。船なら無精者でも嫌がるまい」

「今は常盤町に移りましたよ」

「いやさ、最近深川から米沢町へ所替えしたばかりだ」

「また引っ越しですか。鐵っあんと同じで引っ越しばかりだ」

「北齋よりましさ。名前まで売りつけたりしない」

「鐵っあんのほうが本人喜びますぜ」

「そりゃお前さんの金離れがいいせいだ、俺が言えばそっぽを向くぜ」

新兵衛は猪四郎といいお客だ、おろそかにはしない、旅に出るのは門人の呼びかけもあるが金も十分に用意する必要がある。

二人でせっせと買い集めては酒田へ送りつけている、猪四郎の実家も酒田に有るのだ。

北齋は七年前ここへ等琳と来たはずだが、次郎丸に新兵衛も知らない様だ、二人とも北齋、等琳とは鉄之助の紹介で知り合ってまだ六年目だ。

房総を巡った時の北齋が木更津の水野清兵衛宅に襖絵を残している。

天明三年(1783年)鉄之助は三十二歳、父親に代わり釜萢兵左衛門に従い大坂茨木屋へ再度の貸し出し再開を頼みに出ている。

その頃の北齋はまだ二十四歳で勝川でなく、勝春朗を使って洒落本に黄表紙の画を描いていた。

葛飾の家に妻と長男富之助と二人の娘を置いた儘、深川と行き来していた。

妻が亡くなり再婚し、画号も俵屋宗達ならぬ俵屋宗理を名乗った。

後妻は“こと女”だという、この後妻との間に次男・多吉郎、三女・阿栄が生まれた。

安永二年(1773年)江戸へ出た本間宗久はここでも相場で成功し、新潟米を扱い大儲けし、本家とも和解した。

勝川春朗に目を付け、出ものの多くを買い取った。

俵屋宗理の画会へ鉄之助が宗久を誘い、北齋の本名が鉄蔵と知り、付き合いが始まった。

鉄之助が寛政九年(1797年)、御秘官(イミグァン)の頭へ着いたのも宗久の後押しだ。

北齋は四年前の画号だ、今五十歳を超えて戴斗の号を使っている、いつ売り払うか版元はひやひやしている。

新作を出すたびに次郎丸は手に入れているが“おしをくりはとうつうせんのづ”はまだ十分波が描き切れていないと本人がごねていた。

文化五年(1808年)に珍しく亀沢町に新宅を構えている、一年もしないうちに米沢町に移り住んだ、新兵衛と次郎丸二人が北齋と知り合ったのもその頃になる。

間には鉄之助がいる、宗久は享和三年(1803年)に八十歳で亡くなっていた。

此のところ引っ越しの頻度は一年一度に収まっていた。

文化九年の秋からは上方へ出かけている、いつ戻るのか師匠(等琳)に聞いても判らない様だ。

橋まで進むと近くに狸伝説の證誠寺が海よりの木立の間に見える。

権現様江戸討ち入り(江戸国替え)の頃からの寺だそうだ。

手習いの帰りか、子供たちが賑やかに寺のほうからやって来た。

「子だぬきと変わりませんな」

大野は騒ぐ子たちを見て狸伝説を思い描いているようだ。

「話しじゃもっと山中の寺のように聞いたのじゃが」

木更津ではこの寺だけがお西様の寺だという、創建当時周りは竹藪だったという。

子供たちの後を歩いて湊の手前の“ふじみや”へ入った。

ここは飯盛りも芸者も置いていない宿だと聞いてきた。

この頃の木更津湊には三十人は芸者がいて、花街(かがい)は“さかんだな”と八釼八幡神社の間、弁天の裏手にあるそうだ、また新兵衛は別料理を頼んでいる。

「お客さんは金目の煮つけは御好きかね」

「江戸じゃ御目にかからないが旨いかね」

「請け合いますよ、おうよ今晩はそれで行きましょ。酒のあてにつみれ汁に脂の乗ってきた鯵でなめろうにやんべぇ」

四月の鯵は脂乗りもいいのだが、今の時期がなめろうに向いているという。

中間の権太、介重、朗太に「呑みすぎるなよ。二合一本だけだ」と念を押した。

「こちとら江戸っ子でぇ。呑めといわれりゃ断りません」

「江戸っ子なら俺だって三代続いた江戸っ子だぜ」

大野がたしかに若は祖父の代から江戸生まれだと言っている。

曾祖父の吉宗は和歌山城下で生まれている。

二階からは湊へ入る五百石ほどの船が夕景に浮かんで見えた、陽が沈むころ遠く富士の峰が黒く浮かんだ。

引き潮なのか船から乗客が降りて浅瀬を浜へ向かって歩いてくる、浜近くまで入れるなら五大力なのだろう。

女たちには小舟が迎えに出て“さかんだな”の船着きへ下ろしてもらうと女中が大野に話している。

五大力でも二百石以下の船でないと“さかんだな”まで入れないという。

「もうじきあの辺りは浅利が育って取りごろになるで、日していっぺえ人が出るっしょ」

「そんなに人が出て取りすぎて浅蜊は居なくならないのかい」

「籠でひっかくのは許されねえだで、根こそぎ取るこたぁねえよぅ。腰より深いとこにゃてっぱつなんがゴロゴロしとるで。男衆でも五升はよいなもんじゃねぇ」

大きいものは深い所にいて男でも五升採るのは容易ではないと言うことのようだ。

大きいのは目刺しにするという、干すと旨味が増すのはバカ以上だと自慢した。

いちんち砂をはかせ、蛤のように焼いて食べるのも旨いという。

深川飯を覚えて来た船頭がぶっかけに炊き込みを教え、近頃は料理屋(料亭)でも求めに応じるそうだ。

押送船(おしょくりぶね)は舳先まで三十八尺五寸、七丁櫓、帆柱は三本が多い。

木更津を朝に出て海上九里、木更津河岸(江戸橋の上流、高間河岸の対岸)へ早いものは二刻で着くという。

これなら日本橋魚河岸の夕物河岸へ十分荷を送れる。

伊豆の漁師も負けじと海上三十六里を一晩で江戸へ新鮮な魚類を運び込んだ。

この頃江戸湾を往来する押送船(おしょくりぶね)は浦賀番所の検査無用とされていた。

今は木更津に五大力は二十九艘、押送船(おしょくりぶね)は十五艘あるという。

江戸の木更津河岸から夜船で木更津へ、船賃は二百文で変動はないという。

「金のこと日繰りのことを考えれば木更津船が一番の安上がりか」

「大野様。それを言ったら北新川河岸から高之島湊まで、江戸からの五大力に弁財船も出ています。押送船(おしょくりぶね)は三刻でつけてみせると見栄を張ります。樽廻船は新川から一日で請け負います」

北新川河岸は三ノ橋あたりを言う。

「館山藩のど真ん中へ船で乗り付けろは大殿でも言わんよ」

「ですがね。松ヶ岡陣屋へうまくいけば二里で済むのですぜ」

「係りのほとんどが儀兵衛と新兵衛持ちの旅だ。旨いもの食わせてもらうのも悪くない」

聞いていた一学はあきれて二人を見ている。

館山藩は前の藩主と前々藩主が定信に嫌われている。

昨年稲葉正盛が藩主に就いて従五位下、播磨守となった。

まだ二十三歳と次郎丸と同年で上屋敷は定信の住む築地下屋敷の一軒置いた隣だ。

その間の屋敷は館山稲葉家の本家稲葉長門守正備、山城淀藩中屋敷だ。

バカ貝(青柳)、蛤は数が少ないと教えてくれた。

遊郭はないが花街の辺りには早々と明かりが灯りだした、気の早い店は暗くなるまで待てないのだろう。

“さかんだな”の手前先っぽ金毘羅大神の常夜灯にも明かりが灯された。

新兵衛の時計は五時、長崎で三百両の値を付けたら買い手がなく、半分になった所で銭五の手代が二台買い受けたとされている。

この時の二台は本間光道と渡邊三左衛門が秘蔵している。

もうじき酉の鐘が鳴ると女中が教えてくれた。

この常夜灯昨年建てられたという、常夜灯の向こうが木更津船の溜りだという。

一学は一茶も此処木更津へ何度も来ているという。

「確か富津の織本花嬌の句会の呼びかけのはずだ。富津へも行ったと聞いた」

織本花嬌は夫の織本嘉右衛門永祥が寛政六年(1794年)二月に亡くなった後も一茶との交友は続いていた。

木更津との縁は光明山東岸寺知窓院十六世潮譽秀海和尚(俳号大椿)も俳句仲間だ。

選擇寺二十八世秀海上人となり一茶もこの選擇寺へ宿泊している。

忘れてならないのは石川雨十(石川八左衛門)との交友だ。

女将によれば雨十の家は東岸寺から二町も離れていない、此の“ふじみや”から三町ほど北になるそうだ。

享和二年(1802年)には花嬌から金同封の書状を受け取ったという。

享和三年(1803年)六月三日一茶は船で木更津へ着いた。

富津から佐貫を通り金谷へ入って六月十三日江戸へ戻っている。

十一月にも陸路で富津大乗寺、金谷を訪れている。

(一茶最初の富津入りは大島蓼太に連れられてと書く人もいるのだが)

文化元年(1804年)七月二日一茶は船で木更津へ入り、富津大乗寺に逗留した。

文化二年、文化三年、文化六年にも富津、金谷を訪れている。

文化七年(1810年)四月三日花嬌は亡くなった、七十五歳、いや七十歳とも言われている(宝暦五年生まれとも書く人もいるそれだと五十六歳)。

花嬌の元の名は小柴園、織本嘉右衛門に嫁ぎともに大島蓼太に師事している。

大島蓼太は享保三年(1718年)生まれ天明七年(1787年)七十歳死去。

この時一茶は二十五歳、葛飾派の俳諧師として頭角を現したころだ。

それ以前の消息は十年の間、定かではない。

織本嘉右衛門の生前から付き合いはあったようだが定かではない。

一茶は花嬌の訃報を聞くと富津を訪れた、七月十三日だという八月一日まで滞在。

十一日夜船に乗り十二日に木更津で降りている。

十三日は晴れていたが八ツ刻に大夕立に出会ったという。

その日のうちに花嬌の葬られた富津大乗寺へ着いている。

大乗寺には花嬌の墓がある、大乗寺二十四世譲誉義興上人は徳阿と号した俳人。

文化八年(1811年)にも富津へ六月七日から七月八日まで滞在。

この時も金谷へ立ち寄っている。

白河藩の白子村の梅ヶ岡出張陣屋には一茶の俳友井上良珉が医師として出仕している。

昨文化九年(1812年)は花嬌の三回忌、律儀にも一茶は富津を訪れた。

前年十一月に信州柏原に戻ったと一学が知っていた。

此の年文化十年一月十九日には一茶は信州にいる、仲介者の尽力で父親の遺産を弟仙六と折半した。

一学は一茶とも交流があることを明かした、永祥(俳号砂明)とも文のやり取りもあったという、当代の織本嘉右衛門(道定・俳号子盛)は長女曽和の婿だ。

どうやらこの旅もその縁のようだ。 

最初になめろうが出て来た、葱としその香りがする、生姜を擂って醤油皿へ置いた。

つみれ汁は生姜の香りで臭みを消してある。

大根と人参、里芋の煮ものには蛸も入っている。

金目を七匹煮付け、二つの大皿で持ってきて一回り見せて歩いた。

「頭の肉はうもうございますよ」

次郎丸は初めての経験だ、骨までしゃぶるのはさすがに遠慮した。

「落とし噺に鯛の煮つけが出た殿様が上身を食べて物足りずに、代わりをもてと命じたそうです。あいにく余分がないので困っていると、殿様が脇を向いたので裏を返したそうです」

「俺は殿様じゃないから自分で骨をどかすさ」

「お江戸でこんな大きな金目を出させたらいくら払えばいいやら」

「魚の値より船賃を食うようなものでございます」

女将はさもおかしそうに笑った。

お供まで同じものを出させる贅沢な一行に興味が湧いたようだ。

 

銭五は鉄之助からの連絡を受け信(シィン)と庸(イォン)をひそかに熱海まで伴って合流した。

“すがのや”という宿は奥が深い、鉄之助は勝手掛老中牧野忠精から葵御紋入り“通行勝手”の木札に家斉の許し状を預かってきていた。

内容は房総警備に佐倉藩、久留里藩、大多喜藩、飯野藩、館山藩が必要なので後押しをしてほしいというものだ。

文面は鉄之助が「見られた時のために言いつけた形ですが」とすまなそうに弁解した。

「もっともです。和国の将軍が頼むとは書けないでしょう」

「結」と「御秘官(イミグァン)」の資金三十万両を十五年で投下してくれとは書けなくて当たり前だ。

此の裏では定信へも根回しが出来ているのだという。

「一度でなくていいとは大分と結のことも調べたようですね」

「三十万となると二十人は動かすようです。私の後を任せるのはこの男です」

喜多村新之丞だという、鉄之助の甥だというが若い。

「十九歳になりました、まだまだ未熟故に周りの方から教えを受けている所です」

岩井野清治郎(平信孝)も十九歳だと告げた。

「年齢を言えば私も見習いですよ。結は皆で助け合うのが掟ですから、外さぬ限り相互に助け合うので心配いりません。生涯勉強です」

一年かけて段取りを付けたという。

文化十年正月二十五日(1813225日)。

中川忠英という温和な顔立ちに眼光の鋭い五十台の武士が紹介された。

三人いる大目付の一人だ、木っ端大名の家老など近寄る事さえできない。

蝦夷地へも出かけ、朝鮮通信使の応接も対馬での聘礼に出た。

和国一の情報通でもある。

「清俗紀聞を編纂された方ですね」

中川忠英が編纂した清国の風俗を表した書だ。

「ご存じでしたか」

六冊十三巻そろえたというと顔がにこやかになった。

上総飯野まで隠し目付一人が同行するという。

鉄之助の同門で小野派一刀流を共に学んだ。

「甚助は儂より腕がたちます。あと三十年はくたばることは無いでしょう」

「織田信節でござる」

大目付に隠れて指印を見せた。

冗談じゃない和国で鉄之助と同等の者がいると聞いたその一人だ。

定信に嫌われ二十年近く寄合席に置かれていたと中川忠英が話した。

「隠さずとも好いでしょう」

鉄之助に言われ中川が二番指印を信と庸に見せた。

信も返したが、四番指印のままで寧波(ニンポー)集団の長だ。

「ほう、噂には聞きましたが、長でも四番ですか」

「一番、二番では自由がききません。ピィンクアンイェン(平康演)が私の代わりに率いています。代々倭寇を騙る海賊と戦ってきた一族です」

「しかし若いあなたが良く恐れずに来てくださいました」

「海賊退治も一段落、異国戦船から故地を守るためのお手伝いは当然です。ただ交易もしくは水の補給地を作ることができれば幸いです」

「そこが難しい」

「それでお手伝いしながら交易の輪を広げたいとの下心です」

「下心はこちらも同じ。二百年守って来た国を荒らさせるわけにいきません」

「実はそれです。交易は無理でも中川殿が勧め、漁師、商人の難破からの帰国送還体制が整えられたことの先を目指しています」

「朝鮮以外にも同じようにということですかな。露西亜とは今のところ順調ですぞ」

「然様です。遠回りでよろしいのでご尽力を。しかしなぜ富津を選んだのですか」

「結の金を動かすものが居る、代々の名主で造り酒屋を営んで居る」

「ユァンウェンンいや元文小判を持つ一人ですか」

「関八州の相模、武蔵、上総、下総、安房、上野、下野、常陸を仕切っておる三人のうちの一人じゃ」

大吉郎が連絡を取れなかったのはその人で、東廻りで江戸経由でというのはあって繋ぎを付けるためと思いだした。

三人は別々に仕事をし、元締めとして相互に協力しているわけではないと聞いた。

和国の仕組みは系列で動くわけではなく、それぞれ独立し、共倒れが起きない仕組みだと聞かされている。

文化十年正月二十七日(1813227日)

浦賀番所によらずに済む押送船(おしょくりぶね)で富津へ向かうことにした。

新之丞を含め六人は織田の中間、荷物持ちの水夫三人と船着きへ向かった。

熱海の鉄之助の手配の押送船(おしょくりぶね)は房総の魚を運ぶものとは様子が違う。

舳先まで三十八尺五寸は同じでも胴間が十一尺有るので三尺ほどずんぐりしている。

船頭一人、水かき二人、櫓八人の十一人で運用する、熱海に四艘あり普段は網漁、地引網などでも運用し、本所下屋敷との漕運にも使うという。

三本の帆柱は普段は立てないで運用する。

左舷の艫櫓が舵取りでもあるのだが、八丁櫓は水押(みよし)の左舷にある。

生きた儘江戸まで伊勢海老に栄螺、魚を運ぶ水槽は八丁櫓の横木の下においてあり、水押(みよし)の両舷へ竹筒が突き出ている。

船に勢いが付けばそこから海水が取り込まれる工夫だ。

客を十人乗せるか水槽を二つ増やして江戸へ送ると船頭が庸(イォン)に話した。

深川猟師町は八つの町の総称で、魚介の上納が寛政四年(1792年)廃止、年貢を銭六十六貫七百匁納める事になった。

津軽藩の押送船(おしょくりぶね)は佐賀町の河岸へ着けて、藩邸御用分の外はそこの市場へ出していた。

早朝寅の刻(四時五分頃)に熱海を出て城ヶ島沖から安房浮島を目指した。

海上二十里余りで浮島を視認すると北へ舵を取り富津岬を回り、小糸川左岸の魚市場へ未の刻(午後一時四十分頃)に着けた。

「こりゃ早い。夜船で深川の朝の市に間に合わせるというのも伊達じゃない」

銭五も感心して自分の所の水夫と話している。

ここから木更津、館山への便もあるのだという。

銭五が道を確かめ飯野藩の陣屋を訪れた、織田信節が木札を差し出すと老年の武士は「承っております。御用の時はいつなとおおせ付けを」そう言って頭を下げた。

庸(イォン)と信(シィン)の頭巾を見て身分の高い方のお忍びと勘違いしたようだ。

「白河藩より竹ヶ岡陣屋へ巡察の方がこらると聞いた。西川村の小柴家へ繋ぎが欲しい。富津村の織本家かどちらかに七日ほどは滞在の予定だ。鉄之助と申してくれれば分かるはずだ」

 

小柴家では、やって来た鉄之助を迎え、大騒ぎで人を集めて宴席を開くと言っている。

「おいおい、てっちあんいい顔だな」

「甚助と違って腰が軽いせいだ」

道定が馬でやってくると八人で離れへ移って会合を開いた。

中間と水夫たちが四方の見張りに立った。

「親方様直々とはおめずらしい」

甚助は苦笑いだ。

「親方は勘弁してくれ。俺のような木っ端旗本なんざぁ足元にも及ばぬ方をお連れしたぜ」

「鉄之助様のことでなければ頭巾のお方で」

二人が頭巾を取ると「まさか」と腰が抜けたようにへたっている。

「和信(ヘシィン)と申す。和名を岩井野清治郎とつけてもらった。信(しん)と呼んでいただければありがたい」

「わしはイエイォン(叶庸)、本名は藤當英司郎と申す」

言葉が通じると分かって安心したようだ。

「大吉郎さんから聞いた通りのお二人だ。私たちへ何か申し付けでもあるのでしょうか」

鉄之助が熱海での話を掻い摘んで話した。

「どのように用立てればよろしいので」

「鉄之助殿と織田殿から改めて御指図があるでしょうが、要は結の金を持ち込むので仲介していただくことになります」

ユァンウェンン(元文小判)を出すと道定が懐から木箱を出し、銅の鞘から半分の小判を出して合わせ目を確認した。

「関八州で五萬両、大坂五萬両、出羽、越後、越中、加賀で五萬両、あとは信(シィン)様のほうから都合する」

「海防の大砲へ使うということでよろしいでしょうか」

「半分は大砲を作る反射炉の整備、研究に消えるだろう」

「反射炉とは精錬のことですか。残りで房総諸藩の救済でしょうか」

「反射炉は簡単に言えば強い鉄をつくる炉だ。それが大樹様の御意向でもあるのだ」

「どのように救済をお考えでしょうか」

「高利で貸す相手を調べて肩代わりする。その利の分だけでも、十年分で五万は違うはずだ」

鉄之助もどのようにするのか計画を話した。

「信明様に働きかけて房総に大きく殖産を広げる」

「どのように」

「地域を分けて特産品を宣伝する。甘藷の増産、醤油、塩は上手く行っているようであとは海苔の養殖地を広げ、水菓子は船橋の梨、紀州の蜜柑に負けぬだけの物を作らせる」

米だけでなく、麦、大豆の増産は味噌と醤油の増産を支えるはずだ。

「まず土地にあった作物を選ぶことから大名の家老たちを教育する必要がある。米がすべての世の中は侍も生き辛い(づらい)はずだ」

「異国船を打ち払えと言う者も出るだろう。水、食料をまかなう湊を提供しろと言う者もいるだろう。五十年は議論が喧しく出るだろうが、結は生き残って来た。これからも時代を読んで生き抜かねばならん」

「儂やてっちあんのような剣術使いの中には刀の錆にしてやるなど云うものも出るだろうが、実践を積んでいない侍と経験豊富な軍艦では勝負にならんよ」

「そうかもしれません、わがダーチン(大清)においても大砲の威力を信じないものは多いです。海賊退治だけでも莫大な損失が出ました」

ゴローニン事件は高田屋嘉兵衛たちの尽力で解決したが通商開始は拒絶した。

この時、幕府は後手後手で国境制定まで出来なかった。

「所で清国の人は全国で何人くらいいるのですか」

三億三千万人と推定されているが戸籍が無い者もいるはずだというと「日本の十倍ですか」と驚いている。

鉄之助は「関八州を清国と見れば、上総、安房を合せたくらいが我が国だ。そうだろ庸(イォン)さん」という。

「確かにそのあたりでしょう。大きく分けて十三の国分けをしています。わが国では大小取り取りの大名が置かれているので比べるのが難しいのですが」

「そうですね、総督というのが地方の一番上で、個人に出される給付は銀(イン)百八十両にすぎません。しかし名目を付けて銀(イン)一万五千両出ます」

銭五はざっと計算して銀一万五千両は銀五百六十貫になるので、今なら八千六百十五両だという。

「手取りですか」

「米一石銀五十八匁だと九千六百五十五石が取り分だ」

信は「時代に合わせて変わるので実際はもっと複雑なんですがおおよそ、その見当でいいはずです」と、口を添えた。

支配地の役人は政府の別勘定だよと言われて殿様一人が万石使えるのだと驚いている。

生活費千両の大名さえそうはいない。

経費を削減された大奥はそれでも二十万両が消えてゆく。

清国には参勤交代の無い国でだというのでなおさらだ。

「五年前の加賀様の参勤は銀三百三十三貫ほども掛かったと言います。それがそっくり懐へ入るのですか」

「任地へ赴任するのも家族と使用人で百人ほど連れてゆくものもいるが、それも家の俸禄は別にある者達だよ」

「では総督とは足高ですか」

叶庸助が「ほぼそれに近いな」と教えた。

「親王家と云えば御三家に近いが年一万両が家の格です。役が付けばその分増えます。格は代が下れば降りますが、特別な家も存在します」

「代々同じでないとは酷な話ですな」

「その代わり仕事ができれば格が上がります」

「能力次第ですか」

「お旗本のように家職というのもあり、それは継いでゆけます。我が家も三等輕車都尉というのがありまして年百五十両、これは義弟が継いでくれました」

「信様は無位無官、結の手印は四番」

銭五の言葉に部屋中に笑いが起こった、干爹(ガァンディエ)に言われて信も大口を開けて笑い出した。

待っていたかのように中間が「お支度が出来たそうです」と告げに来たのは戌の刻(午後七時四十分頃)が近いころだ。

 

第六十三回-和信伝-参拾弐 ・ 23-09-11

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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