第伍部-和信伝-肆拾玖

第八十回-和信伝-拾玖

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年四月十九日(181467日)・奥州道中

次郎丸は朝餉をのんびり食べている。

兄いたちは南湖へ日の出前から向かっている、九番町の追分から棚倉街道で向かうという。

片道二十五丁程だが往復軽尻(からじり)を頼んでいる、物好きにも忠兵衛に弥助も付いていった。

部屋の二挺天符が五時を指したので星梅鉢の羽織に着替え、雪駄を履いて やなぎや ”を出た。

葵御紋入りも忠兵衛が持って来ているがここは久松の定紋をと考えた。

早くも出仕の列が出来ている、追手へわざわざ回り込んできたものも多いように見えた。

用屋敷に着いたのは六時に為った頃だ。

若侍に「江戸元矢之倉屋敷の本川次郎太夫で御座る。目付河村様に辰に三之丸門道中用部屋へ来るように言われたがここで宜しいのか」と聞いてみた。

三之丸門道中用部屋は此処で宜しいが、本日まだ河村様は出て居られぬので塀際でお待ちあれ」

「わかり申した」

次々と身分の高そうな老人に壮年の人たちがやってきた。

待月は次郎丸を見て笑い顔で入ってゆく。

辰の太鼓が響いたので「河村様はまだ御出でではないのか」と尋ねた。

「時刻で御座る。おあがりくだされ」

老人が「ここに出立日に到着日と貴殿の名と目的、同行の士分の名を書きなされ」と白紙を寄越したので言われた通り書いて渡した。

別間へ通されると十人ほど名を告げられた。

隠居も居る様だが国元家老が五人もいる。

「月番で御座るゆえ吉村又右衛門があい訊ねる」

宣浚(翠山)この時二十九歳、三十前で家老と名門の出だがまるで取調べだ。

「墓参の他、金策と噂だがまことか」

まるでしり抜け茶番だ、隠すだけ無駄の様だ。

「殿は追加二千両と仰せで御座る」

「今の時期それはかなわぬ、暇の資金二百貫の銀(かね)を借りるのにどれだけ苦心が居るかお主知らぬのだろう」

本川次郎太夫として扱う積りの様だ。

「殿は私に借り入れでは困ると仰せです」

「國入りに付、上納金とは無理な仰せだ。のう酒井殿」

「借りるのさえやっとなのに、一揆がおきたら国入りどころではなくなる」

二千両で一揆と大袈裟の様だが、趣旨とは外れた金策に反対の様だ。

この二人が対立しているようだ、無理だという方は領民から絞ることを抑え、片方は絞取ろうとしている。

「私めも無理と申し上げたところ、実母の墓参と定栄(さだよし)様御養子先庭園管理の為、勉強に三郭御園への立入り、南湖での周遊を命ぜられ申した」

待月が皆へ大殿の書状を見せた後、月番の吉村へ手渡した。

「大殿の書状で御座る。一同被見の上案内人を付けるよう指示して御座る」

吉村は一読して「さればひと月ほど園の見回りを所望か」と誰かに早く押し付けようとした。

「許されたのは三郭御園に三日で御座る」

「三日で何が出来る」

「見立てが何を表すか。園の示す物は何かを探すことでござる」

「今朝は水練をしておる。三日と言うなら半日余分に許すので一廻り見て、感想を聴かせよ」

酒井孫八郎は「後で儂の用部屋で意見を聞こう。一同お任せ下されるかな」とうまく引っ掛かりを付けてくれた。

人物ためしと言われれば月番もそれ以上の無理押しは出来ない。

横目小頭廣田八十八が案内に立った。

用部屋から河村甚右衛門が「お戻りで御座るか」と声を掛けた。

「いや。三郭御園の見学をして参れと酒井様、吉村様よりのお言いつけでそれがし案内し申す」

大殿が待月に言いつけた筈だ門が向かいあっている。

「此処が表御門で御座る」

「さすれば先は馬場のある北小路で御座るか」

「本川次郎太夫殿、ええい面倒な」

周りを見て「定栄(さだよし)様は絵図をご覧に」とささやいた。

「面倒でも本川にしておきなさい。芝居と思えばそれもよし」

「さすれば本川殿は」

「拝観したよ。浮襷(うきたすき)、 浮沓(うきぐつ)を試したとあった。水馬千金篇では馬に用いるとあったが国友と工夫したと聞いた

国友一貫斎と共に竹筒を工夫し、体に装着、水練の助けにしていた。

「どのように廻ります」

「東の噴水が出ていればそちらから」

廣田は初手に大言壮語と心配していたが、これなら一回りで何を聞かれても答えられると安心した。

「三日必要ですか」

「毎日孫八郎殿に審問という形で面談できよう」

「取り計らいます」

味方が一人増えた、書院から脇門を抜けた。

泉亭から瀧を見て西湖橋で露台に出て水練の様子を見た、浮襷(うきたすき)がなければ浮かぶのさえ難しそうな若侍たちだ。

「上達すれば五月には南湖で遠泳を差せ申す」

「船が同行しますのか。初心者では難しかろうに」

「房総へ出す水軍の予備の訓練も兼ねて船を出させ申す」

月亭から松林へ出て蓮池を渡った。

観魚橋で対岸へ渡り、松月亭へ回った。

東園の小路は萩の細道、借月亭で一休みして「あそこが天の橋立に見立てた場所か」と小松が植えられた砂嘴を指差した。

厩から南御門前を通り表御門前をとおり、北小路御門へ入った。

用屋敷には酒井、吉村、三輪の三家老が待っていた。

「早いな。もう良いのか」

「御殿はさておき一回りで一刻(陽暦六月二時間三十分程)、本日はそこで切り上げ申した」

三人が矢継ぎ早に庭園の配置を質問してきた。

廣田が呆れるくらい的確に返答している。

「明日から通われますか」

「明日は午前、午後に墓参。明後日は先に大殿の手紙を須賀川までとどけ、戻って午後、日を置いて一日お願いしたい」

「なぜ間を」

「頭の中の整理で御座る、午前と午後の加減も知りとうござる」

解り申したが須賀川は誰ぞつける必要が有るという。

横目付の生沼文平が呼び出されていた。

「此のものが須賀川など詳しいので案内させ申す」

旅支度をして“ やなぎや ”柳下源蔵へ明晩来させることにした。

三郭御園の案内は廣田八十八が明日迎えに行くという。

完全に管理下に置きたいようだ、もしかして殿は金策を出来ない様に計らっているのかと深読みしてしまう。

午の太鼓に送られるように“ やなぎや ”柳下源蔵へ戻った。

申を大分過ぎて兄いたちが戻ったので明後日須賀川へ向かうと告げた。

源蔵は「蔵座敷はその間開けておきますからいつでもお戻りを」という。

「一人横目付が案内に付いた」

和歌山と考えることは同じだと兄いが笑い出した。

明日は昼まで三郭御園で午後から常宣寺へ墓参りと言うと皆行くという。

白河の関に この身はとめぬれと こころは君か 里にこそ行け

「兄いからこの歌を聞いてな、二人でこの歌の出どこを探したが見つけられないので、喜連川の隠居に聞いたが見つからない。白河まで和泉式部が来て硯石の地に庵を結びと寺に伝わるというのだが」

京(みやこ)白河の地と夫橘道貞が陸奥守に為り、白河の関を掛詞にした歌は有るのだという。

ゆくはるの とめまほしきに しらかわの せきをこえぬる みともなるかな

「写本によってこえぬるとたえぬるも有った」

文化十一年四月二十日(181468日)・奥州道中

廣田八十八が辰前に迎えに来た。

一刻半程三郭御園の内を見て回った。

用部屋では無く北小路の孫八郎の屋敷で面談した。

一度“ やなぎや ”へ戻り七人揃って常宣寺へ向かった。

近道の辻の木戸から西へ延びる用水掘に沿って大工町、食い違いを左へ入れば皇徳寺。

谷津田川(やんたがわ)木橋を渡ると常宣寺参道へ続く道。

前の住職逸誉白雲は定信が“ 集古十種 ”の編纂にも重用している。

寺には顔なじみの巨野泉祐がいた。

「御珍しい」

「若さんこそ」

殿様に先だって白川へ入ったという、江戸から芭蕉の跡をたどったのでひと月かけたという。

「わしの方は実母の墓参を許されてきたのだ。明日は須賀川へ向かうので今日にした」

須賀川は遊びですかと聞かれ「須賀川で良平という人へ大殿の書状を届けます」と答えた。

「私めはこの後鏡沼の常松の家へ向かいます。向こうでお会い出来そうですな」

含みのある言いように次郎丸は大殿の隠密に選ばれたなと思った。

住職と顔なじみの兄いが貞順院様供養手続きをして読経が始まった。

終わると住職が自慢の絵巻を見てくれと持ち出した。

泉祐の立ち寄りもこの確認の様だ。

常宣寺縁起絵巻 ”と“ 常宣寺縁起 一巻 は前年大殿の肝いりで完成したという。

山門の扁額は裏面に“ 文化三年六月六日書之 幕府世臣 左少将白河城主源定信 ”が有ると和尚が自慢した。

次郎丸を代参のように思って居る様だ。

このまま根田へ向かうという泉祐を横町の角で見送って別れた。

白川から六里十五丁程で須賀川。

夜に為って生沼文平が遣って来た。

須賀川は太田庄三郎本陣へ泊まるようにと連絡が来たという。

期間は二十一日から二十七日まで空いているという。

文化十一年四月二十一日(181469日)・奥州道中

卯の刻(四時頃)“ やなぎや ”柳下源蔵から須賀川へ向かった。

横町の四辻を北へむかった、前を生沼文平と甲子郎が歩いた。

左手に三之丸横町門、少し先が田町門。

木戸先を二瀬に分かれた川に橋が架かっている。

鬼一法眼の娘、皆鶴姫を祭る古社、褜(えな)姫神社。

「会津にも姫を祀る石塔が有るときいたが」

兄いが後ろから教えている。

「川添様、各地に有りますぜ、義経の後を慕って追ってきたが白河で病に倒れた。会津まで行ったが追いつけずに儚んで池に身を投げた。鬼一法眼は皆鶴姫を罰して船で海に流したところ、船に乗った遺骨が気仙沼にたどり着いた。義経が聞きつけて観音寺と云う寺へ葬ったそうで、全く違う話ばかりでした」

女石の追分までが幕府の管理する奥州道中。

左へ会津街道が伸びている、右は仙台松前道への奥州街道。

大清水に庭渡(にわたり)太神宮道十八丁の道しるべ。

「こりゃ元の字が間違えたか」

「どう見ても廷じゃない王に為っているぜ」

甲子郎と次郎丸は首を捻っている。

兄いは「愛嬌、あいきょう」と笑っている。

生沼文平も「出来た物は仕方ないと置いたか。最初から字を作ったかですな」と言う。

川沿いに根田(ねだ)宿。

兄いは「安珍清姫の安珍は此処の生まれだそうですぜ」と甲子郎に話している。

「ありゃ道成寺の説法や歌舞伎だろうに」

「でもね奥州白河の僧だとは言われていますんでね」

大元は“ 大日本国法華験記 紀伊国牟婁郡悪女 ”、時代が下がり“ 今昔物語集 紀伊ノ国道成寺ノ僧写法華救蛇語 ”で骨組みが出来た。

「この村では二月に安珍念仏踊りをして供養するのですがね」

「何かあるのか」

「念仏踊りは他の村で違う人を供養していますのでね」

「念仏踊りが先なのかもしれんな。天道念仏がこの付近は多い」

生沼もこういう話は好きなようだ。

「酒田のおやっさんもその説でしたぜ」

四十七番目一里塚は橋の先に有った。

根田村と新小萱村(にこがや)の二つで根田宿、四丁もない小さな宿場だ。

東海道なら立場くらいの規模だ、街道沿いは小さな石仏が多い。

「道中記はこの付近の宿間の距離がさまざま出てきます」

念の為だと十年前藩の作った里程を甲子郎に渡した。

生沼の持っていた道中記は白川より根田まで一里三丁、藩調べ一里。

根田宿から小田川十三丁、藩調べ二十七丁。

小田川から太田川は共に十三丁。

太田川から踏瀬まで道中記十八丁、藩調べ二十丁。

踏瀬宿から大和久まで道中記十八丁、藩調べ二十三丁。

大和久から中畑新田までは供に十一丁。

中畑新田から矢吹までは道中記八丁、藩調べ十一丁。

矢吹から久来石までは道中記二十五丁、藩調べ二十三丁。

久来石から笠石までは十六丁、藩調べ十三丁。

笠石から須賀川までは供に一里十八丁。

余談

白川から須賀川まで道中記で五里三十五丁、藩調べで六里十五丁。

(伊能測量隊-白川から須賀川は六里十二丁・誤差不足三丁)

日本橋から白川四十九里二十六丁三十七間。

(伊能測量隊千住までを同じとして日本橋から白川誤差不足十四丁四十八間余

日本橋から須賀川・五十六里五丁三十七間。

(伊能測量隊不足十七丁四十八間余)

和信伝-次郎丸道中記部分は日光道中分間延絵図文化三年に沿っています。

誤差のほとんどが新田、小金井間での不足十八丁差による

・伊能測量隊・寛政十二年-二十九丁。

・日光道中分間延絵図・文化三年-一里十一丁。

・宿村大概帳・天保十四年-二十九丁。

・日光道中絵図巻・天保十四年四月-二十九丁。

「大きく違うのが根田宿から小田川宿で御座る。ここだけは無口で御座るゆえ許されい」

歩数で計るようだ。

小田川(こたがわ)の入り口で計算している。

宿の入口間で二十七丁、根田宿出口から小田川宿入口で二十三丁だという。

「兄いはどう思う」

「計るのが問屋か庄屋、高札場で違ってくるのは仕方ないですよ。道中記は出す人次第で変わりますから。十三丁は完全に違いまさあね。二十三から二十七が合ってる内の筈でさあ。根田宿は四丁程の宿場で本陣も有りませんからね。十年前で白川から此処小田川まで一里三十二丁有ったそうですぜ」

「そいつが一番長いじゃねえか」

小田川(こたがわ)宿に古ぼけた社が見える。

「ここは小町伝説の地でね」

「こんなとこにもあるのか」

「出羽の故郷へ戻る途中この付近で病に為って療養したそうでね。白山寺の小野堂と言うんですぜ」

小田川(こたがわ)は今白川領だが、この付近天領が白川領と交錯していた。

四十八番目一里塚は八幡宮の先に出てきた。 

泉川で宿(しゅく)は終わり、路ばたに明和五年の“ 二十三夜塔 ”に庚申塔が並んでいた。

「そういや十九夜塔が出てこない」

「確か練貫のあたりが最後でしたね」

武光(たけみつ)地蔵は六尺を越える大きさだが首は脇に置いたままだ。

「仙台藩の武士が首を切り落としたがその時の刀の銘“ 武光 ”から付けられた」と兄いが話している。

「白川では昔怪異がおおく、飛脚が切り付けたら収まったとつたわるのだが」

案外生沼文平も打ち解けやすい男の様だ。

夫婦坂を下ると山間の道が続く、太田川宿常願寺の枝垂れ桜は樹齢四百年だという。

「此処ですよ。もう一つの念仏踊り。“ 梅若念仏踊り ”といいます」

「梅若と言えば隅田川で亡くなったはずだ」

「川添様、人買いの信夫藤太にかどわかされて江戸で亡くなったのは確かだそうですがね。信夫藤太が此処の住人だそうで三月に梅若供養の念仏踊りを行うそうです」

峠道を下ると大きな溜池が有る、この付近四つ屋というと生沼文平が話している。

踏瀬(ふませ)宿で白川から二里二十四丁程だと兄いが言う。

道中記二里十一丁、藩調べ二里二十四丁。

「兄いの足と藩の調べが有ってきてるぜ」

時計を見ると七時に為ったばかりだ。

宿(しゅく)の先に松並木「ここは大殿が苗を集めて植樹した処で御座る」と生沼文平が教えた。

四十九番目の一里塚は松並木の間に有る。

峠の道は涼しくなるほど松が育っている「二千三百本有ると聞きましたぜ」兄いは自分事のように自慢した。

「此処から富士が見えますが、こうも雲が多くては、今日は無理ですな」

生沼文平が此処は富士見峠、先が五本松だという。

矢吹の七曲りの峠を下ると休み茶見世が出てくる、その先に大和久(おおわく)宿。

「ここは天道念仏が山王社で行われます、田植えの後と聞き申した」

この付近水は張ってあるがまだ田植えをして居ない。

境界石柱が有る。

従是北白川領

「この付近土地の者でも境界がよく解らぬ土地で御座る。田一枚だけ食い込む村が御座るで」

大和久(おおわく)宿は天領、中畑新田宿は白川領。

中畑新田は常陸街道の追分があり、文化八年建立の常夜灯が有った。

矢吹宿は古い宿場だ、米沢の行列も白坂で泊まり、此処矢吹で休憩、その日は郡山に泊まっている。

十一里三十間という長丁場を移動したという、本隊を追う後始末の家臣団も大変だ。

古川屋本陣、筑前屋脇本陣と此処は宿場としての機能は揃っていた。

大根そば ”のかけ行燈の見世が有る。

「ここら付近の名物で細切り大根を蕎麦切りへ載せて出します」

「江戸へ出るとき食べましたが、小腹を宥める位の少ないので忠兵衛さんの腹の虫が怒りますぜ」

藤五郎は可笑しげに生沼と話している。

兄いは此処の宿(しゅく)の画を見たという。

「江戸で美丸さんや月麿さん達が画を描いている一九の本の下絵で見ましたが、矢吹の名物だと為っていましたぜ」

「あの二人で組んだなら出かけずに勝手に画いたんだろうぜ」

「今五巻目“ 諸国道中かねの草鞋奥州路之巻 ”に入ったそうですがね。軒並み休んでいる絵ばかりでした。おまけに須賀川は山の画でごまかすようでね」

「俺たちもそろそろ一休みしてその大根入りの蕎麦にしよう」

白川から三里三十三丁、兄いの時計は十時四十分。

歌麿好みの女が見ている。

立ち止って喋っている一行に「盛りは少ないですが辛味大根が蕎麦きりにあいますよう。小腹ふさぎにゃ丁度ですよう」と声を掛けた。

「八枚とこの男に追加四枚」

次郎丸が小座敷へ上がって注文した。

蕎麦の香りが良い。

「新蕎麦の香りだ」

「今日は夏前の収穫を挽いたばかりです。裏の湧水も冷たいので味が引き立ちます」

「蕎麦が二回採れるのか」

「夏前のは採れる量はすくないですよう。此処十年上手くいっていますのさ」

大百姓でも裏で経営しているかと思った。

鉢の蕎麦に細切り大根が乗っているが、辛味は無い、汁(つゆ)に入れる大根は大辛だった。

「こりゃ一学先生が喜びそうな味だな」

次郎丸はどうにか食べきったが忠兵衛はもう四鉢目だ。

「ひゃあ、此の辛味はくせに為りそうだ」

女は最後の一鉢を運んできた。

「江戸でもうじき出る冊子の挿絵が此処の宿(しゅく)では姉さん似の美人が画かれていたぜ。最近誰か絵描きでも来たのかい」

「もしかして三年以前に五人連れの絵描き様が松島へ行くと寄りましたが、その人達じゃないかしら」

三年前にも今と同じに色っぽかったのかと嬉しがらせて勘定を頼んだ。

十二枚で百九十二文だという。

藤五郎が銭緡(差し)二本出して四文銭二枚、釣りでもらうと、兄いが豆板銀を一つ包んで「こいつは旨かった気持ちだ」と渡した。

兄いは未雨(みゆう)に似て気前が良い、次郎丸が“ おかしら ”の指印を使える様に為り、誰に見られても良い様にして居る様だ。

藤五郎が持つ荷には銭緡(差し)がまだ五本あるという。

「煎餅が終わったら幸八の番だ」

二人替わり番子に荷に重い銭を持つ様だ。

兄いは重い荷を持ち馴れているが、二人はこの年に為るまで銭を持ち歩く苦労もすることもなく育ったという。

久来石宿まで二十二丁程だと生沼が甲子郎に話している。

「くるいし、きゅうらいし。地の者どもまで二通り申すので困り申す」

宿はずれ矢吹新田に地蔵の坐像が有った、台座共で一丈は有るようだ。

寛延二年四月銘“ 会田太郎左衛門正信 造立

為先祖代々之霊

町内安全 衆童之息災

「会田太郎左衛門正信は其処の屋敷の先代で、当代も庄屋を務めておりもうす」

五十番目矢吹の一里塚は宿の外れに有った。

久来石宿まで四十分くらい掛かった。

割合と見た目は裕福な村だ。

五十一番目の一里塚は屋敷と屋敷の間に有る。

久来石宿はずれから隣の笠石村の入口まで十丁もないと兄いは次郎丸へ話している。

笠石宿の外れ、街道左側に笠地蔵尊が有る、明暦二年の銘が有る、百六十年近く前だと生沼が云う。

板碑だが厚みが有る、笠というより屋根に近いものが乗っていた。

先は麦畑だ。

「儂の祖父が言うには天明の頃は荒れ地であったという。大殿が御養子へ来てから開墾されたと聞いた」

矢吹っ原と言われていたそうだ。

大麦、粟、稗、蕎麦が主な穀物だという台地から、松並木の下り坂の下に一里塚が有る。須賀川宿先にも一里塚が有り宿は江戸から六十里と云われているそうだ。

「六十里は大げさだ」

「誰かが切良く言いふらしたんでしょうな。白川までざっと五十里と云われておるのに」

五十二番目須賀川一里塚。

一度緩やかな上りとなり下ると南の木戸黒門が有る。

黒門は南北に有り間が十一丁程、宿往還十九丁九間あるという。

門内に入ると番屋前鉤手(曲尺手・かねんて)で本町へ入った。

石川道の追分には芭蕉ゆかりの相楽等窮の家が有った場所だという。

当代は相楽七右衛門、屋敷内に町民の学び舎郷学所の分校敷教(ふきょう)第二舎世話人をして居ると生沼が話している。

「分校なら白川に本校が」

「追手門堀外高札場脇に御座る」

裏手に可伸(かしん)庵、その奥が徳善院。

京(みやこ)修験宗聖護院の末院、境内は東西二十六間余り 南北十六間余りだと生沼が教えてくれた。

追分の道標は見事な書体で寛政十一年巳未年七月二日の銘と多くの人の名が刻まれている。

大きな字で正面“ 庚 申

左面“ が ん ふ う じ み ち

右面“ い し か わ 道

巌峯寺への道と王子平へ通じる道案内だ、白川からこっちは大きな字が多く書体も似ていた。

今日の宿(やど)太田本陣へ入る前に市原良平の屋敷へ案内してもらった。

市原一族の多くが藤井下がりから道場町に屋敷を構えているそうだ。

生沼文平によれば文化八年より須賀川町大庄屋の市原良平は、本務とともに近郊五か村(江持・堤・矢田野・保土原・柿之内)の大庄屋を兼任しているという。

大殿の手紙を渡して読んでもらった。

「付近の案内人を探せと有りますが、叔母ではいけませんか。芭蕉翁に傾倒して知り合いも多いです」

「馬に乗れれば誰でもいいさ。明日から五日(いつか)程度付き合えるだろうか」

自分は明日から会所の当番で六斎市の仕切りで出られないという。

幸八が草加名物の煎餅だと二包手渡した。

家にいるはずだと坂を上って手入れの良い庭の屋敷へ向かった。

三十を超したかと思う様子の良い婦人が出てきた。

「息子へ付近の地形を覚えさせるために荷物持ちについて来させて宜しければ」

二十歳ほどの優男が十二、三くらいの娘とやって来た、歳を見誤ったなと次郎丸は思っている。

「長男と長女ですわ」

生沼文平は「白川では息子に縮緬問屋を継がせたと噂だが」と夫人に聞いている。

「好きな俳句にのめり込んで家業もおろそかでは、死んだ亭主に申し訳ありません。息子の嫁も決まりましたので、私の方は百姓の仲間入りで御座います」

良平が「一族の水田は叔母が管理しています。昨日までに田植えも終わりました」と持ち上げている。

生沼は「自分達の水田で作る米で、本家の酒が造られる。一族で須賀川を支えており申す」とこれまたおべっかだ。

「附き添わせるのは次男の岩平で御座いますが。本日は田善(でんぜん)様の所へ行っております」

次郎丸が「亜欧堂(あおうどう)が近くに」と声を上げた。

「御存じで」

「江戸で何度かお会いした。こちらへ来ているのか」

「お代替わりで致仕いたされました」

「そいつは知らなかったな。わしが留守がちだったので会えなかったと思っていたよ」

「最近は端午の節句の旗に鍾馗の画をお描きなので、岩平が習いに行っております」

亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)この時六十七歳。

息子たちが戻ったので生沼が夫人と明日からの回る道を話し始めた。

兄いは市原本家が三家あると次郎丸に話している。

八代市原貞右衛門綱稠に妹多代女と甥の良平が一族の要だという。

市原貞右衛門綱稠本家は代々酒造りで財を成して検断、庄屋を務めることが多いという。

「一日で回ろうと思えば回れる道ですわ」

「そうなりゃ寺社詣でも含ませるさ」

次郎丸の言葉に「白の墓も行きますか」とにこやかに言う。

「御存じありません、兄の飼い犬がお伊勢参りしてきたこと」

兄いは知っていた「須賀川の白と関係が有るんですか」と驚いている。

「夜話で聞いた話でね。十年以上前の話だそうですが。須賀川の庄屋の飼い犬とは聴いたんですが、市原家とは知りませんでした。山形では一年かけて代参してきたという話があります」

「白は病に伏せった兄の代わりに出かけて、二月後に戻ってきました。

奉納金の受取、食物代の帳面に銭も入っておりました。十五年以上も前の話ですが、戻って三年後に亡くなりました。兄は白の石像を作って十念寺の我が家の墓地に置いております」

明日卯の下刻に迎えに太田本陣へ行くので人馬継立で支度を良平に頼んでくれた。

「こちらは八人と夫人に息子で十人揃って馬にしてくれ」

中町の問屋場では、お供の中間まで馬でとはと驚いていたが、日だてで一頭四百二十文で話が付いた。

兄いが一分判二枚に南鐐二朱銀一枚、銭緡(差し)二本出すと受け取りを書いた。

四時五十分に本町の太田本陣へ入った。

兄いと幸八、藤五郎三人は草鞋を雪駄に履き替えると宿の様子を見に出て行った。

弥助と忠兵衛は次郎丸に四文銭二十枚を貰うと町へ出て行った。

「酉の鐘に戻らないと飯を食いそこなうぞ」

甲子郎に脅されると笑いながら出て行った。

「明日は一回り見学として明後日はいかがいたします」

「芭蕉翁の後追いだけではつまらぬな」

まだ生沼がどのような役目を命じられたか解らぬ今、迂闊には動けない。

茶を飲んで寛いでいると二人客が来たという。

一人は田善でもう一人は菓子屋石井久右ヱ門と紹介した。

「本川様と聞いて知らないとは言いましたが。様子を聞いて若さんが来ていると分って懐かしくて飛んできました。菓子屋はガキの時分からの友達です。発句の冊子を出す相談に多代女(たよめ)様の所へ行ったんです」

「でんぜんに冊子の扉絵を描かせることに為りましてね」

発句の冊子に大隈の瀧不動堂に建てたばかりの芭蕉の句碑を載せる相談に行ったという。

「こいつ瀧が主題か句碑が主題か決めてくれとごねるんですよ。それで多代女の所まで行くことに為りました」

どうやら多代女が金子元の様だ。

田善が持ってきた下書きには瀧が主題で脇に不動堂、句碑は松の陰にわずかに見えている。

五月雨の 滝降りうつむ 水かさ哉

芭蕉の句に曽良の日記の一部も載せるという。

「この碑は如意庵一阿という江戸の俳人の意向で建てましたが、奥の細道にも曽良日記にも句を詠んだ日に大隈の瀧へ行ったとは出てきません」

「行ったのは近くの芹沢の滝さ。芹沢の滝がこれでは石河の瀧と言われていた大隈の瀧は水が溢れているだろうというのさ。だから赤松で隠したのだ」

田善は自慢している。

「だが曽良日記は二十七日芹沢ノ滝ヘ行、二十九日石河滝見ニ行、須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。こう出ているのだから行ったことに違いはない。別の物に二十八日に雨で川が越せないだろうと須賀川で詠んだと書いている」

「なら行った後での発句ではないと承知の上か」

「鈴木道彦が間に入ったんだ。嫌とはいえんよ」

二人のやり取りは次郎丸に初耳の曽良の日記だ。

「発句師の仲間はそのような物まで共有しているのか。写本すら見たこと無いぞ」

未雨(みゆう)が来ていれば喜びそうな話が転がっていた。

どうやら元本は蔵前の井筒屋の所にあるようだ、次郎丸は江戸に有るならもっと外に出ているはずだと疑問だ。

「その芹沢の瀧はどこに有るね」

「影沼へ行く途中です。小さな瀧ですよ、周りの沼の水の落ち口に為っているのです」

菓子屋は「元禄二年は閏一月が入り奇しくも本年と芒種、夏至が重なりましたが今年は雨がすくのうございます。翁のように水が溢れる心配はないようですな」という。

五月雨、梅雨に雨がすくないと米の収穫に影響してしまう。

「飢饉に為らねば良いが、裏作の準備や、日照りに強い作物も準備が必要だ」

畔で甘蔗、玉蜀黍を植えられるように相談するという。

兄いたち三人が早々と戻ってきた。

「呉服商の八木屋と言う店でね江戸の土産品だというのを見て、酒田へ土産と思い半襟と扇子を買いました」

  當所名産鏤盤摺 ”の看板が出ていたという。

田善と兄いは顔見知りで挨拶を交わしている、菓子屋と田善は二人で話を聞いてもじもじしている。

「どうした」

「いえね、でんぜんのやつ、息子に無心されて銀(かね)に為ると江戸から持ってきた元版を売ってしまったんですよ。八木屋は売れ行きが良くて新しい図案を描けと言ってきてます

銅版画は一部の者は評価しても街での人気はいま一つだった。

見知らぬ国の少女より江戸の町の浮れ女に目が行くのだ。

写実より幻想的な方が人気は高い。

文化十一年四月二十二日(1814610日)・須賀川

卯の下刻(五時十五分頃)多代女と岩平は表で馬方と話をしている。

次郎丸が出てくると「岩平は歩かせます」と言う。

「駄目だ。供の中間も乗せるので歩くのは馬と博労だけだ」

そう言って皆を和ませた。

十人の博労に兄いは豆板銀を一つずつ手渡した。

「旦那からだ。休み茶見世で休むときは俺たちと同じ扱いだ。それから馬の休み場、水場は出来るだけ休ませるように先頭は兄貴分が付いてくれ」

芹沢の瀧、影沼、大隈の瀧と回り順を確認した。

先頭に多代女、次に岩平、しんがりに生沼文平が付いた。

本町“ 太田庄三郎本陣 ”から芹沢の瀧迄十六丁程。

畔にイチゴが赤い実をつけていた。

馬を降りて瀧を見たが水は勢いなく流れ落ちるだけだ。

それでも二丈以上は有る。

きいちごを おりてわれ まうけくさ

覆盆子を 折て我 まうけ草

「其処で見た野イチゴから等躬さんの詠んだ句を思い出しました。覆盆子(ふくぼんし)をつかっていますがわたくし“ 折て ”とあるので きいちご ”と読ませたいですわ、のいちごなら“ つみて ”とされたはずですわ」

須賀川の俳人にとって奥の細道、曽良日記、俳諧書留は大事な教科書だ。

自然当時の須賀川の俳人の句にも熟知している。

「この句は翁の“ 風流の 初やおくの 田植歌 ”に続けて返句に読まれておりますの。田植えの時の供え物みたいですもの」

生沼文平は「いいつかみだ」と感心しているが、次郎丸は聞いているのか瀧の周りを歩き回っている。

鏡沼の大庄屋常松次郎右衛門は隠居し、義作と名乗ったが十年前に亡くなった。

常松半左衛門の家に巨野泉祐がいたが、次郎丸達は寄らずに通り過ぎた。

芹沢の瀧から影沼まで二十六丁程。

小さな池に、溜池がいくつかあるが目的の鏡沼の影沼は四間四方程度しか無かった。

陽光で池の中心がきらりと光ったが、魚が居るわけでもなさそうだ、風が出て水面が揺れている。

「和田平太胤長(たねなが)様は配流が陸奥國岩瀬郡とあり妻の天留(てる)さまはこの地にたどり着かれ、夫が亡くなっていることを知ると、悲嘆のあまり沼に身を投げたと伝わります。今池が光ったのは天留さまの鏡ではないでしょうか」

説明慣れしているようだ。

「でも芭蕉翁は池に周りの景色が映り、歩く人がまるで湖面に浮いていると聞かされていたと言います」

「その言いようだと天留様の鏡の伝承は信じていない様だね」

次郎丸は吾妻鏡を思い出している。

「曽良様の日記や翁のほそ道にも影を見たいとあるだけですもの、奇しくもお二人が須賀川へ入る途中立ち寄ったのが四月二十二日ですわ、後日芹沢の瀧へ来たのにその日は此処へは寄らずに戻ったようですわ」

言い様はまるで若い娘だ。

「胤長の妻は西谷の和泉阿闍梨が出家の指導をしたと昔の本にあるよ。年は二十七とも書いてある。悲嘆の内に亡くなったのは娘の荒鵑(こうけん)で七歳と出ている」

建暦三年三月大二十一日壬戌。和田平太胤長が女子父の遠向を悲む之餘り、此の間病惱し、頗る其の恃み少し

多代女も話に付き合って細道の記事を詠う様に話した。

「“ かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず 是では鏡の伝承を知らずによっているようですわ」

「わし等の江戸の知り合いが芭蕉翁に傾倒していてね。一緒に来ていたら話が合うだろうな。わしは歌舞伎役者にも馬鹿にされるくらい下手な句ばかり捻ると有名だ」

「江戸には雨考さま、道彦さま、乙二さまのお知り合いが多いそうで。一度は江戸へ出たいものです」

岩間乙二はこの時六十歳、蝦夷箱館から仙台へ戻っている。

道彦は一茶とも親交が有ると多代女はいう。

「同もあちこち一茶殿の噂を聞くが、知り合いに会うばかりで、本人に会ったことがないのだ」

「どちらでお聞きに」

「上総富津の織本嘉右衛門、花嬌夫妻の事は」

「聞き及んでおりますが砂明様、花嬌様ともにお亡くなりに」

「二人の娘曽和殿に婿入りした道定殿が織本嘉右衛門を継いでいて昨年お会いした」

俳号子盛、此の年五十六歳。

「雨考さまの出す句誌はあおかげと。まるでこの池でも念頭に浮かべたようですわよ。一茶さまの句も入れるそうですわ、一茶さまはおみなえし。わたくしのはすみれ、乙二さまはきくだそうですわ」

一茶のは四年前の句だ。

夏山や ひとりきけんの 女良花

なつやまや ひとりきげんの おみなえし

雨考は古語にならって濁りを抜いて載せるそうですと多代女が話している。

「本川様は奥の細道を読まれたことは」

「飛ばし読み程度だ」

「須賀川の前は何処へ泊まったか解りますか」

「白川ではない様だ」

「曽良様の日記は“ 矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。 今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ ”とあります」

「いいこと聞いた。江戸で知り合いに自慢してみるか。曽良日記は持っていないだろう」

「翁は“ とかくして越行まゝに あぶくま川を渡る ”と有るのは」

「読んだ。待てよ。街道を歩けば矢吹から先で阿武隈を渡ってないぞ。渡るのは白川の二瀬だけだ」

「曽良様の日記に“ 二方ノ山 今ハ二子塚村ト云 右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行 ”とあるので混乱される方が多いのです」

「今右の所と言ったが」

「日記に“ 忘ず山ハ今ハ新地山ト云 但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行 阿武隈河ノハタ ”とありますわ。二人が其処を渡ったと思い違いをしてしまいそうです。川を渡ると“ 二方ノ山 ”という事でしょうね」

「矢吹の宿泊まりとその日に聞いた心覚えが、翁の“ あぶくま川を渡る ”と混同するという事だね」

情報が多すぎても混乱するようで、完全に試験を受けているようだと思った。

多代女はまるで教師のように博識だと思った。

そよ風は気持ちよいが、水面は写る景色が定まらない。

岩平が人数分の茶碗に甘酒を注いで配っている、博労へも振る舞っている。

どうやったか割合と冷えていた。

影沼から一里二十五丁ほどで大隈の瀧不動堂の対岸まで来た、瀧から二丁程下流に為る場所だ。

芭蕉の時代、石河の滝と言われたところだ。

兄いが博労に休み茶見世で一刻ほど待てと言いつけ、兄い分に豆板銀四枚渡している。

「飲みすぎて帰りは馬でなんて事の無いようにな。昼は何処か評判の蕎麦きりでもあれば案内してくれ。一緒に食べようぜ」

舟は二度に分けて渡った。

「曽良様の日記は百二十間ないし百三十間とありますが今日は百間ほどの幅ですわ」

小舟で滝近くまで寄る粋人もいて、対岸は賑わっている。

渡って見て気が付いたが渡し場の上流は切り立った岩壁、此方は緩やかな丘陵だった。

「今日は翁の渡ったところに近い場所へ来ましたが瀧の上流にも渡し場が有りますわ」

菓子屋が建てるのを手助けした碑は形が面白いと次郎丸はご機嫌だ。

「本川様大分お気に入りの様で」

正面に“ 五月雨の 瀧降りうつむ 水かさ哉

右面は“ 須賀川 龍崎 連

左面は“ 文化十年癸酉 十一月十二日

裏面に“ 東都如意庵一阿 建之

「“ 五月雨の ”ですが曽良様の書留には“ さみだれは 瀧降りうづむ みかさ哉 ”でしたわ。昨日確かめましたら江戸から書き送られた通りに“ ”“ ”にしましたそうです。ほかの方の写本は“ ”も有りましたそうです」

” “ ” “ ” “

多代女は空へ指で字を書いている。

「この川のどこかに京(みやこ)の一之坊様建立の句碑が有るはずです。五年前七月の大水で流れたのですわ。探したのですが見つからないのです」

句碑は難しい字で彫られていたという。

小枝で地面に“ 飛泉婦梨 ”と書いて見せ“ たきふり と読ませたという。

岩平は幸八たちと気が合いだして道中の事を聞きたがっていた。

「大隈の瀧とはどこから誰が名付けたんでしょう」

兄いは「坂上田村麻呂様がこの地へ来たとき川を渡るに大熊の背に乗って渡られたと伝説が有るんだ。その川が阿武隈川で大きな熊から大隈川となり、その謂れから此処を大隈の瀧と言い出したそうだ」

「その話変ですよ」

「気が付いたか」

「だって芭蕉翁が来たとき石河の瀧だったのに、田善様たちの言う大隈に為るのは順が違います」

次郎丸は多代女に「頭の切れる少年だ」と褒めている。

「あそこの板囲いは魚の簗かね」

甲子郎は瀧の脇の水路が気に為るようだ。

「川添殿あれは舟通しで御座るよ。御用梁場はこの対岸瀧の下側に御座る」

舟通しは岩を削り板で水嵩を上げて舟を通しているという。

年貢米等の運び出しに便利なのだという、此の瀧の手前から先ほどの船着きまで馬で迂回する手間は膨大だという。

「本来もっと岩を削ればよいのだが、岩が固いのでござる。囲いは幅が八尺御座る」

生沼文平のように横目付ともなると領内くまなく目を光らせているのだろう。

郡奉行は政治向きの取り締まり、横目付は本来不正の監視だが、大殿の時代から徐々に領内の円滑化の手助けに役目が変化してきている。

白川の江戸米は仙台へ川下りで送り出し、大船に積み替えて江戸へ送るのだという。

余談

上流は白川から才俣河岸、その下流の黒岩までは難所が多いという。

下流は黒岩から福島を経て荒浜湊へ出る。

上流では小廻船で小型は長さ三間、幅四尺三寸、積載二十五俵程度。

大型でも長さ六間一尺、幅五尺二寸、積載四十五俵程度だった。

下流の福島河岸で小鵜飼船に積み替え、長さ七間二尺、幅五尺三寸、積載六十表程度。

さらに沼ノ上河岸で高瀬船に積み替えて荒浜湊へ出た。

此処での高瀬舟は長さ八間、幅七尺、積載八十俵程度。

米一石百五十キロ・四十貫・二.五俵。

一貫は3.75キロで換算。

御用梁場は川を遡る初漁の鮎・鱒・鮭を殿へ献上する為番所を置いている。

生沼文平はその番所へ次郎丸と甲子郎を連れて行った。

「岩平も付いて御出で」

生沼が声を掛けた。

番所は生沼の顔を知る老人と二人の若者がいた。

「月番吉村又右衛門様より江戸からおほめの御言葉が届いたと聞かされ申した。番所へのご褒美に金一封が届いたと預かってまいった。悟朗蔵(ごろぞう)が代表して受け取るように」

背の荷から袱紗を出して手渡し「袱紗ごと受け取られよ」と渡している。

「こちらは江戸藩邸の本川様と川添様である。御身分は明かせぬがお目に掛かれるのは光栄である」

「本川次郎太夫である。殿から白川、須賀川へ視察を命じられたが、監察ではないので同藩の者ゆえ喜楽にな。この少年は須賀川の市原家の者で道案内じゃ」

女子供を連れての視察なら遊行に近いと老人の顔も緩やかになった。

「大殿のご相伴で此処の汐鮭を食べたことが有る。仙台物に引けを足らぬ旨さが有った。さぞや塩えらびに達者なものが居る様だ」

老人の顔がこぼれんばかりの笑顔になった。

いまは鮎の時期、夜の漁は禁止されているが番士は昼しか詰めていないという。

番士の食事の費用は村持ちだと言うが、漁の収益は大きいし、村役、人夫が免除されていた。

「本川様は大殿様のご相伴が出来るほど偉いんだ。田善様まで名前を聞いても知らないと言った傍から様子を聞いただけで、若さんだと飛び上がって喜んでたし」

岩平は遠慮がない。

「紅葉は江戸では半月ここらより遅いそうだが藩では紅葉鮭として毎年幾人かが選ばれてご相伴できるのさ。それと姉が越後へ嫁入りしたので毎年三匹だけど選り抜きを送ってくれるのだよ」

銭五と知り合ってからは富山の鱒に鮭の麹漬けもやってくる。

「でんぜん殿は大殿のお気に入り、たまに私の住まいへ息抜きに来ていたのだ。子供というより孫のように思うらしい」

不動堂の裏手へ回るとまだ山吹の花が咲いている、崖にはしろい小さな花が棘のある木に満開に咲いていた。

「やぁ、紅葉イチゴだこんな北の土地にもあるのか」

「どうしました」

本川様ったらさっきの“ 覆盆子 ”の話しまともに聞いていないのねと思った。

「屋敷の庭に二本あるのだ。今年はもう実が付いていた」

「食べましたの」

「蜜柑の甘いものに似ていた。妻は十粒(とつぶ)だけであとは庭に来る鳥の取り分だというのだ」

「奥様が御出でで」

「うむ。今年の末には二人目の子が産まれる。甘いものが好きだが子供の為に節制している」

戻りの船が着くと博労達が馬を並ばせて踏み石の脇へ寄せてきた。

兄いが「どの辺で昼にします」と多代女に念を押して兄い分の博労と相談した。

「新田牡丹畑の蓮を見ながら、蕎麦切がいいんじゃないの」

「わいらは入れませんので表の茶見世で休ませて頂きます」

「ダメダメ、約束しただろ。俺たちと同じ扱いをすると」

伊藤忠兵衛が牡丹畑を創めて五十年近くがたち、須賀川から半里ほど、かっこうの行楽の地に為った。

多代女は「蓮の花に加え、花菖蒲が咲きだしたそうよ。藤もまだ咲いているそうだし。残念なのは牡丹がほぼ終わっていることね」と嘆いた。

生沼文平が「俺が居るから大丈夫だ。伊藤の家は叔母が嫁に入って今はその長男が当主だ。本川様が休むと言えば叔母も喜ぶ」と博労に言って次郎丸へ指印を見せた。

「行けば“ ありがたやでございます ”と大歓迎ですよ」

是は次郎丸へ言ったので小指で親指の爪を隠す指印を見せた。

「俺と関係でも」

「私めの兄は中井孝蔵、本川様とは従兄弟で御座いますよ」

「“ 流行りものには目がない ”から蓮の花に花菖蒲でも見て蕎麦切りを食べるか。まさかここ等も大根そばじゃないだろうな」

「牡丹園は好みで辛味大根で食べる人以外は普通ですよ」

江戸にもどったら姉や妹に従兄弟に逢ったと教えようと決めた。

叔母と言う人は次郎丸と血のつながりはないという、生沼文平達の母の妹だそうだ。

「領地替えが有る度に各地に遠戚が増えるのは確実だな、調べたらいつの間にか兄いと親戚なんてことも有り得るぜ」

親類を附けて出すとは吉村又右衛門の狙いはなんだろうと次郎丸には疑問だ。

孫八郎は上納金で取るのは反対とはっきり表明している。

次郎丸は“ 待てば海路の日和有り ”を決め込むと甲子郎と兄いには白川へ入る前に言って有る。

兄いは結の方で噂が広がれば自然と出てくるというのですか、酒田や越後に言えば済みますぜという。

「とよが言っていたように銀(かね)を吸い寄せるか試してみたいのさ」

結に和国御秘官(イミグァン)の連絡網は動いているはずだ。

養子に金は出さない気の様だが“ なほ ”に“ つかさ ”これから生まれる子の養育費と思えば二千両都合しようと思っている。

雑木林を抜けると景色は開けて須賀川の代地まで見通せる。

田植えの終わった水田が午後の陽に照らされている。

一里ほどで新田牡丹畑、花畑は広い、道には三軒ほどの休み茶見世が有り、牡丹畑は入口の木戸が空けてある。

「親爺に頼んで蕎麦切り二十人分、蓮池で食べるので用意させてくれ」

生沼文平が若い男に頼んでいる。

馬は門内に有る広場で水を与えられた。

男は博労達とも顔なじみの様だ。

「どこまで行くんだい」

「影沼から大隈の滝見物の戻り道だぁ」

「一緒で良いのかい」

「気のいい人たちで同じ席で食べるように言われたのだぁ。御親戚かい」

「母の実家の人だよ」

池の右手に花菖蒲の道が有る。

「両方が一望できるが右手の丘の方は何かあるのかな」

大昔の人の遺跡が有るくらいだという。

兄いは明日は須賀川の町歩きで明後日郡山へ向かうという。

「ずいぶん近いな」

「福原との間には逢瀬川が有りますから」

次郎丸が朗詠した。

逢瀬川 袖つくばかり 浅けれど 君許さねば えこそ渡らぬ

「誰の歌ですの」

「源重之という人が八百年ほど前福原あたりへ来たときに読んだと教わったよ。三十六人歌仙の一人(ひとり)だそうだ。人丸に小町まで含まれている中に入っているよ」

人丸は柿本人麻呂と説明は不要の様だ、もしかして知っていて聞いたか。

母とまでは言わぬが姉のように思える人だ。

「逢瀬川は今でも水は少ないですよ。殿中人の袖は膝下まで有ったそうですもの。溢れたのは五年前に阿武隈が増水して堰き止められた時くらいのものね」

「実は郡山で人を訪ねるんでね」

郡山は会津藩領から離れ二本松領に為って百五十年以上たっている。

今も発展し続ける商人町だ、旅籠が五十軒近くあるという。

「人間もだいぶ増えているんですぜ、五十年で倍の三千人だと聞きました」

二本松藩十万七百石、二本松霞ヶ城が居城。

丹羽長富(ながとみ)は昨年十一月に十二歳で家督を継いで初の国入りが許された。

牡丹の苗木も売るらしく、買い求める人も何人も出入りしている。

「そうですわ」

「なに」

「翁と曽良様、石河の滝から須賀川へ戻らず小山田、守山へ出て郡山へと回り道していますが、付近に八流の瀧が有るのに寄っていないようですわ。明日ご案内しますわ」

生沼文平が「明日、新兵衛殿は町回りだそうだがどうなさる」と聞いている。

兄いは三人残るのと中間二人も残そうという、何か目論んで生沼文平と離れる様だ。

「六斎市でめぼしいものが有れば買う積りです」

兄いはもう博労達に明日五人分の馬を頼んでいる。

博労は話を聞いて「小山田と瀧は五丁程、本陣から瀧まで一里十丁も無い」という。

蕎麦が出てきた。

矢吹の蕎麦に劣らず香りが良い、盛り付けも想像していたより量が多い。

鰹節をふんだんに使った汁(つゆ)と相まってひと鉢ではたりない位だ。

兄いが「これで三百二十文だぁ」と驚いている。

品の良い老婆が挨拶に来た。

生沼文平は「俺たちと親類に為る江戸の本川次郎太夫様だよ」と紹介した。

親類が少ないのか、江戸と聞いて目を輝かしたが周りの人が多く何も聞かずにいる。

兄いが気をきかした。

「本川様は江戸に姉君、兄君、妹君と兄弟姉妹は多いが白川に親戚が少ないそうだ」

祖母の伯母が津軽弘前から福原へ嫁いできたので津軽に親戚が居ると聞いて得心したようだ。

岩平が首をかしげて不思議そうだ。

「気に為るかい」

「どういう親戚かややこしいです」

「俺の曾祖母の兄に津軽の人が嫁に来たのさ」

「なんだ簡単じゃありませんか」

得心が行った様だ。

「甥の御かげじゃ。有難い事ですの。江戸に居る親類の事は聞いておりますだんよ」

「いい花畑だね。これで酒でも出たら帰るのが嫌になる」

兄いが婆さんに声を掛けた。

「ありゃすぐ仕度しますだ」

「冗談、冗談。月の出るまで居座ってしまいそうだという事さ」

二十二夜はこの地方では如意輪観音を本尊としていた。

上州、野州が特に盛んだという。

「月が出るのは子の刻近くですよ」

多代女が笑っている「私の家で月待ちでもしますか」と次郎丸を誘った。

「でんぜんさんでも呼ぶかい」

「いっそ明日の二十三夜待ちでは。有象無象も遣ってきますよ」

臍を曲げたようだ。

兄いは心の内で若さんも後家の気持ちを量り切れないのだなと笑いたくなった。

婆さんと息子に見送られて花畑を後にした。

兄いが多代女に「まだ二時四十分だ。どこかへ寄ろうか」と声を掛けた。

「家に来てお茶に饅頭などどうです」

「饅頭が有るなら寄ろうか」

「下の川を渡れば饅頭屋が有るんですよ」

橋を越えると緩やかな上り坂「十二軒坂ですよ」岩平が兄いに声を掛けた。

多代女は饅頭屋で「三十位間に合う」と聞いている。

「半刻(六十分程)くださればお届けします」

亭主の声が聞こえた。

「申の鐘に遅れたら承知しないよ」

そんなこと言いながら出てきた。

右の道は六斎市前日で賑わっていた、もう一つ先の道へ入った。

四つ辻は混雑していたが博労達は心得て二頭で遮って残りの馬を通り抜けさせた。

寺の上、北側が多代女の屋敷、兄いが明日は辰に五頭本陣へ来てくれるように念を押して「勘定をして置いてくれ」と「今日と同じなら五頭で二千百文だ。南鐐二朱銀三枚預けるから頼んだよ。釣りは今日の十人で均等に分けるんだぜ」と渡している。

屋敷には娘が帰りを待ちわびていた。

「前市へ行きたい」

六斎市は三、八の日、前日夕刻から店を出す者が多くなってきたという。

「岩平と一緒ならいいわよ。およねも連れてお行き」

兄いは幸八たちと「饅頭が来る前に一回りするか」と忠兵衛達にも声を掛けて五人で出て行った。

生沼は「どれ儂も見回りが本来の仕事だ」など言いながら甲子郎を連れ出した。

多代女は笑っている。

「どうした」

「あの人たち二十二夜待ちで私が臍を曲げたと勘違いしてる」

「それもあなたが姥桜のせいだ」

二人で笑いが止まらない、二人は姉と弟のような気持ちに為っているのを、勘違いしているようだ。

「ところで曽良日記は写しなのかね」

「もちろんですよ。父が江戸で大枚はたいて手に入れてきました。兄が私にくれたんです」

「今ここに」

「見ます」

母屋に繋がる土蔵から桐箱に入れた二十冊の冊子を取出した。

おくのほそ道とおくの細道とある。

「おくのほそ道は享保の時代の物、おくの細道は写本で何時のものかしれません」

おくのほそ道は見慣れた摺りものだった、この当時、奥の細道は出版もとが解らない物が多く出回っていた。

曽良日記は写本だが数は少ないはずだという、雨考のは大分簡略されているという。

俳諧書留と元禄二年日記は別の写本も有った。

「此の二冊、読みなれていますか」

「ええ」

「白川と須賀川の分を読み上げてください。覚えます」

「御自分で読んで控えた方が覚えやすいのでは」

「聞いて後で書きだす、そうやって覚えてきました。私の師匠は年寄りが多いですが若いあなたの声なら頭に残りやすい」

「では明神あたりから」

二十一日 霧雨降ル 辰上尅止 宿ヲ出ル 町ヨリ西ノ方ニ住吉 玉嶋ヲ一所ニ祝奉宮有 古ノ関ノ明神故ニ 二所ノ関ノ名有ノ由 宿ノ主申ニ依テ参詣 ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣 行基菩薩ノ開基 聖武天皇ノ御願寺 正観音ノ由 成就山満願寺ト云 旗ノ宿ヨリ峯迄一里半 麓ヨリ峯迄十八丁 山門有 本堂有 奥ニ弘法大師 行基菩薩堂有 山門ト本堂ノ間 別当ノ寺有 真言宗也 本堂参詣ノ比 少雨降ル 暫時止 コレヨリ白河ヘ壱里半余 中町左五左衛門ヲ尋 大野半治ヘ案内シテ通ル 黒羽ヘ之小袖 羽織 状 左五左衛門方ニ預置 矢吹ヘ申ノ上尅ニ着 宿カル 白河ヨリ四里 今日昼過ヨリ快晴 宿次道程ノ帳有リ

「いかがです」

次郎丸は何時もの詠う様な節で復唱した。

饅頭が来たが出て行ったものが戻らない。

「二十九日までは記述は少ないのです」

  二十九日 快晴 巳中尅 発足 石河滝見ニ行 此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡 須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有 滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ 上ヘ登ル 歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由 阿武隈川也

これに続く“ 宿ムサカリシ ”迄二度二人で繰り返した。

「江戸に出てくる郡山の者が嘆くのはこれが有るからですか。郡山にも写本が有るのかな」

「仕方ないのです。元禄のころは家が今の三割程度、八割方は農民と言われたころですもの。今の郡山とは比べ物になりません」

ふふふとおかしげに笑った。

「どうしました」

「郡山は宿場とはいえ郡山村なのです。須賀川を追い越す勢いが見えても田舎の観がすると旅の人が言うのです」

冊子は其角などの物も有ったが仕舞って貰った。

「読もうとすれば雑念が湧いてとめどなく読みたくなります。本日は此処までにします」

桐箱を仕舞って戻ってくると、二人で山盛りの饅頭を見て笑い出した。

「お茶を入れますわ」

台所の者に言いつけて湯を沸かさせてきたと二人分の茶の仕度をして饅頭を見ながら茶を楽しんだ。

申の鐘が上から聞こえると次々戻ってきた。

「まるで祭りの宵宮です。夜も五つまで明かりをつけるそうです。月六度これが繰り返すなど須賀川は江戸並です」

この時期だと五つ(戌)は九時近い、町会所の周りは朝七つ(三時三十分頃)から店開きだという。

「忠兵衛夕飯に影響ない位にしておけよ」

その声に多代女が「忠兵衛さん大喰らいでしたの。蕎麦切りだけじゃ足りなかったでしょうに。ひどい旦那様に仕えたわね」と五個皿に盛って差し出した。

弥助が調子に乗って「忠さんに蕎麦を食わせたら限度が有りませんよ」など言っている。

「そういえば矢吹であの辛い大根汁で五鉢楽に食いおった」

生沼に言われて照れている。

田善と菓子屋がもう一人同年輩の男と遣ってきた。

「同でした」

「今年は雨がすくないから迫力に欠けたわ」

「えっ。降りませんでしたか」

「こっちは降ったの」

「昼ごろ遠雷が聞こえたので」

およねが愛宕山の方を通ったという。

「あれ、明日八流へ行くから向こうは水が多そうだわ」

「三千代姫の涙雨だ」

「田善様たら、そんなの聴いたことありませんよ」

「およねだってそこの三千代姫くらい知ってるだろうに」

「その位、此処で育った者は知ってますよう。涙雨は初耳だってえ」

次郎丸が間に入った。

「でんぜんさんよ。前にくれた二階堂実録の話しかよ」

「そうですよ。後で聞いたら大殿が元本の藤葉栄衰記(とうようえいすいき)が有るから若さんへ回したと言われた本ですよ」

思ひきや 問はば岩間の涙橋 ながさで暇 くれやさわとは

限りある 心の月の雲晴れて 光とともに いる西のそら

気持ちよく詠いあげて「須賀川落城記というのも持ち込まれたが写し間違えか意図的かちがう歌に為っていた」と又詠った。

人間わば 岩間の下の涙橋 流さでいとま くれや沢とは

「その最後の、伯父様から教わりました。わかさんて殿さまから本を廻して貰えるんだ」

「おれのとこは貧乏だから写本をして稼ぐんだ。大殿様や殿様も精々稼げと許されてくれるのさ」

「確かに、若さんの写本は稀覯本ばかりだ」

「田善様、きこうほんてなんですか」

「めったに手に入らない本の事だよ」

岩平も身を乗り出してきた。

「でんぜん様の旗は一分だけど若さんの写本は幾らになります」

「でんぜん、そんなに高いのかよ。日に一枚くらい書くんだろ」

「若さん儲けが一分のはずないですよ。布代、顔料、手元に半分のこりゃしませんよ」

「なんだ大工の棟梁より一日の実入りが少ないじゃないか」

「そりゃ若さんのように榊原様に亀井様の若様などと付き合いありませんよ」

「ありゃ剣術仲間だ。本屋の親父とぐるで安い写本代で働かして儲けでうなぎ奢らせやがる。お前さんだってうなぎで画を描かされたろうに」

「そりゃ、自分で一皿四百文のうなぎなど滅相もない」

兄いが「須賀川に鰻屋が有りませんね。郡山に三軒有るのに何でです」不思議そうに聞いた。

鏡沼付近の釈迦堂川に阿武隈川も白川の城下迄、遡上はしても漁獲は少ないそうだ。

「見世を開くほど取れないという事ですか」

「鰻好きの、物好きな金持ちがやるしかないな。阿武隈の下流から仕入れても後が大変だ」

湧水、池、鰻の餌、川漁師、それにうなぎを割いて焼く職人、半端な資金じゃ維持できない。

「江戸は四百文も鰻がするんですか」

屋台見世ならひとくし十六文も有るが、江戸の風鈴蕎麦は十四文で食べられる。

小肌の鮨、鯵の鮨なら大きくても八文、新子の初売りで十二文、いかに鰻が高くなったか貧乏人の嘆きが聞こえる。

江戸の需要が広がり旅鰻は遠くから船でやってくる。

岩平は儲かりませんかと田善に聞いている。

「一皿百文取っても来てくれるならいいが」

「そんな、高すぎますよ」

「びわ池に鰻が居れば安く済むが、遠くから買い付けるようじゃ安くは出来ないな」

「百文で百人前売っても十貫文、儲け半分で五千文」

「いい商売じゃ有りませんか」

「毎日百匹のうなぎが集まればだ。日に百人前も売れるかね」

「半分も無理ですか」

「下の川に鰻が押し寄せてきたら出来るな」

「もうでんぜんさまは冗談ばかり言って」

多代女に怒られている。

「鏡沼付近や龍神村でうなぎを取れれば近くて済むはずだな」

生沼まで鰻に興味が湧いたようだ、白川にも一軒しか見世がないという。

「びわ池は藤井の家の物じゃないのか」

「分家の方ですよ。俺の師匠の晋流さんの時手に入れています」

菓子屋の石井久右ヱ門は雨考。

藤井晋流は其角門下、等躬の後継者。

藤井総右衛門が娘の婿に選んだと云う。

藤井総右衛門の俳号川柳、娘久須は俳号霜楠(そうなん)。

藤井晋流事源右衛門は宝暦十一年江戸で亡くなり、遺髪が十念寺へ納められ、夫妻の墓碑が建てられた。

「弟子と言ってもこっちゃ十三、四のはなたれ小僧。当時は先輩に手ほどきうけていて弟子は烏滸がましいと自覚はあります」

亡くなったあと十年足らずで江戸の家に有った芭蕉、曽良の真筆が燃えてしまったと言う。

写本といえ曽良日記などが須賀川に多いのは等躬、晋流二人の力が大きいと言う。

「ええ、話が弾んでいますがね。宿へ戻らねえと本当に二十二夜待ちに為っちまいますぜ」

兄いがもうじき酉の鐘が鳴ると言いだした。

「いいじゃないですか。お酒に摘みは家でも用意できますよ」

次郎丸は「本陣で迷子探しが出ないうちに戻ろう」と立ち上がった。

宿ではすぐ風呂へ入れるというので兄いと次郎丸に弥助が先に入った。

三つ違いのあねさんと

兄いが浄瑠璃を唸っている。

「新兵衛兄い、三つ違いは兄さんですぜ」

「こいつ俺を皮肉ってるのさ」

「ああ、おかみさんか。どう見ても三十、七八(しっぱち)てとこですぜ」

「弥助兄い、いい勘どころだ。博労は四十に行くかどうかだと言っていたぜ」

兄いも情報を集めるのは得意だ。

背中を弥助に流してもらい髪は解いて洗った。

「今年びんつけ使ったのは幾日あったかな」

「お屋敷にいるときくらいじゃないですか。殿様に会われる用事でも無きゃ。無精して洗い髪で浪人見た様な日も有るじゃないですか」

食事に酒を二合で、良い気持ちに為っている。

田善の手紙が来たと女中が持ってきた。

二十二夜待ちと聞いて、四人ほどおさな馴染みが集まり多代女が家で昔話を始めたが、若さんを呼べと言うので手紙を書くことに為ったと有る。

「一人で来て呉れでしょうな」

生沼文平が屋敷まで送ると支度をせかした。

確かに幼馴染なのだろう七十近い連中が五人いた。

「年寄ばかりで二十二夜待ちをして起きていられるのか」

皮肉を言ったがもう酔っていてへらへら笑っている。

暫く付き合って、時計を出すと「後六十分しなきゃ月は出ないぞ」と言ったが昔話は行きつ戻りつしてばかりだ。

多代女はよく飽きずにこの年寄と付き合えると思った。

ようやく十一時五十五分に月が東の方向に出てきた。

「本家ならもう少し高みに有るから早く見えるんですよ。ここだと少し遅れて見えます」

年寄たちも半月から右が食い込んだ月を見て、ようやく酒をやめてごろ寝を始めた。

薄物を多代女が皆に掛けている。

七つ刻近くか通りを行く声が聞こえてきた。

月が南へ上がる中、アジサイの小路を抜け、裏木戸まで多代女が送ってくれた。

文化十一年四月二十三日(1814611日)・須賀川

坂を上がると七つの開門で町へ入ってきた商人や、六斎市を目当てに買い物に来た農民達、早立ちの旅人で混雑している。

本陣の裏庭で桶に水を貰うと石の上に置き、居合の型で汗をかいて酒の気を吹っ切った。

生沼文平が廊下で見ていて「殿さま剣法と思いましたが、大殿より鋭さが有りますな」と持ち上げてきた。

「そりゃ大殿だって俺の年なら鋭かっただろうさ。潜ませる年に為られたのさ」

国入りの時立ち会ったことが有るようだ。

「それより老人たちの宵っ張りには負けるぜ。月が出てようやく酒を飲むのをやめて呉れた」

卯の刻に朝飯を食べるころには表の混雑は一層ひどくなったようだ。

次郎丸が肘枕でうとうとしていたら甲子郎に起こされた。

「辰に為りますよ」

それで仕方なく水を貰ってもう一度洗顔して顔を弥助に当たってもらった。

弥助と忠兵衛は甲子郎から南鐐二朱銀一枚ずつもらって出て行った。

博労が来て多代女と岩平も来た。

庚申坂を下り、下の川を渡って崖沿いの道を東へ回り込んだ。

岩間不動のある岩間坂あたりで岩平が「三千代姫の伝説はこの付近です」と教えてくれた。

細い滝が有る、切通しを抜けると左手へ入った。

阿武隈川に舟渡しの場所が有り馬と博労が先に渡った。

「此処が翁と曽良様が阿武隈の川沿いの道をと言う道ですわ。ここを通っていて八流の瀧へ寄らぬはずがないと日記を無視して言う人が出ています」

次郎丸がそらんじた。

それより川ヲ左ニナシ 壱里計下リテ向 小作田村と云馬次有 ソレより弐里下リ 守山宿と云馬次有

小作田村と守山の間、二里としか出てなかった」

「此処からわずか五丁先の川沿いですもの、寄ってほしいと思う人がいても不思議ではありませんわ」

川沿いを上流へ向かい小倉川と出会うとその上流へ回り込んだ。

道沿いに馬頭観音が出てきた、水田が広がっている。

「この先は馬が入れません。わしが案内します」

馬と四人の博労を残して兄貴分が一同の先にたった。

水の音が騒がしく聞こえてくる。

「先の台地の上は畑でも」

「昔の遺跡や碑があるくらいで竹藪が広がっています、あしの親父がこの辺りの竹で冬場は細工物をこさえるのでガキの頃はよく来たですら。昔の館跡だという石垣がところどころに残って居ましたら」

細い道が瀧の脇へ通じて上へあがる道も有った。

「多代女さんは上がったことは」

「俳句の連が十人ほど来て上がりましたが、雪の中流れが半分凍り付いていて綺麗でしたわ」

江持石(えもちいし)を切り取って積み上げたかのように見えるのは大隈の瀧と同じだ。

八流の瀧と言うだけあって、落差二丈あまり、幅七間ほどの瀧は勢いよく幾筋も別れて流れ落ち、道まで飛沫が飛んでくる。

「はちりゅう、はちる、はちじょう。ここも時代によって違う言われ方で呼ばれていますわ」

下流から上に目をやると、西の方向に薄く昼の月が雲間に浮かんでいた。

眼に散りて 向かひかねけり 滝の月

「今上の月を見ようとしたら飛沫が眼に入って」

「昼の月を瀧の月にするなんていい出来だね。もう直に沈むんじゃないかな」

岩平が手を叩いて喜んでいる。

「わかさん。褒め上手じゃ」

生沼は岩平に甲子郎とで博労に案内され、瀧の上へ向かったが二刻(三十分程)で降りてきた。

「山間は山百合と根曲り竹ばかりで、上流は此処より堅そうな岩ばかりでした」

「てっぺんはげた」

「なんだありゃへたくそなホトトギスめ」

博労が悪口叩いた。

反対側から「ほんぞうかけた」と返ってきた。

多代女が「なんで最後まできちんと鳴かないのかしら。愛宕山のは“ てっぺんかけたか ”と聞こえるわ。本川様、翁はほととぎすの句を残していますわ」

木がくれで 茶摘ときけや ほととぎす

「知り合いが郭公と書いてほととぎすと読ませると言っていたが」

「古い時代に郭公の字をこの鳥に使かったと教わりましたわ。殺生石を見に行って乞われて読んだ句も有りました」

のをよこに うまひきむけよ ほととぎす

次々思い出している。

「きょ、きょ、きょ、きょ、きょ」

掛け合いのように両側から鳴いている。

突然静寂が訪れた。

「クァイ~、 クァイ~」

オオタカだ。

「きっ、きっ、きっ、きっ」

北へ去ると森が賑やかに為った。

「ちょっ、ちっ、ちやっ」

可笑しなウグイスの笹鳴きも聞こえる。

「さ、俺たちも退散しよう。昨日の蕎麦が食べたいな」

「ま、子供みたい」

馬の所へ戻ると岩平が荷から湯呑と甘酒を出して配った。

川の水を小桶に汲んでこまめに茶碗を濯ぐと布で拭いて仕舞っている。

阿武隈を渡り博労が言う和田道の四つ辻を牡丹畑へ向かった。

生沼が「今日は十人分だ。蕎麦切りを頼むよ」と頼んだ。

蕎麦が来るまで多代女と花畑を巡った。

奥まで行くと赤松の林が有り、そこもいずれ牡丹畑に為ると多代女が話している。

急に可笑しげに笑いだした。

「どうした」

「わたしったら。今に為ってほととぎすの句をもうひとつ思い出しました」

冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす

「もう晩春の牡丹さえ咲いていないのに」

築地塀の向こうで作業をしていた若い男が聞こえたようで「こっちに二本だけ花が沢山残ってますちゃ」と教えてくれた。

「此処も一緒だったの」

「去年ひろげたんちゃ、植え替えたらきかない樹があるまんだちゃ」

次郎丸にはよく解らない言葉だ。

「きかないきとは、強い樹とか素直じゃない樹の事ですわ」

「そういうのを一か所に集めれば長く楽しめるな」

「いいこときいたら。旦那に言って畑から選ぶら」

岩平が花菖蒲の向こうから手を振るので藤の棚の下へ戻った。

今日の蕎麦切も美味い。

「蕎麦畑が近いのかな」

生沼が婆さんに聞いている。

「矢吹の鈴木様の畑のもんだら。今年は去年の倍分けて貰えただら、あんちゃの嫁の実家だすら。今年んはばやっこせねで済んだら」

多代女が「ばやっこてわかる」と振り返った。

「母が白川生まれで使っていたよ。小さいころひまだれで姉とかるたをしていてよく言われた」

「明日はどうします」

「愛宕山は入れるのかな」

「藤井の家で聞いてみますわ」

「孝子の碑があるはずだから行って於きたい」

生沼が出るまでもないようだ。

本陣まで戻るとまだ一時十五分に為ったばかりだ。

兄いが昼寝をしていた、幸八たちは出た切だという。

岩平が来て「山は入れるそうです。木戸番に連絡してくれました」と告げた。

兄いが「どこの山です」と聞いた。

「昔の城跡の愛宕山だ」

「何かありますか」

「孝子の碑くらいだな。大殿が集めた拓本で見た」

田善が遣って来た。

「おいおい、商売の鍾馗は良いのか」

「今日のはいい出来だからもうやめ」

「変な理屈だな」

今晩二十三夜待ちが何か所かで行われるが、誘いが多くて、どこにしたらいいかまだ迷っているという。

「それで俺の所へ逃げてきたか」

太った体をゆすって照れている。

「若さんもよく多代女に付き合えますね」

「どうしてだ。付き合って貰ってるのはこっちだぜ」

「開けても暮れても芭蕉ばかり」

「良い句を作ると菓子屋の宗匠も褒めていたじゃねえか」

須賀川は芭蕉門の其角、其角門の藤井晋流、晋流門下菓子屋こと石井雨考に連なるのが市原多代女だ。

雨考は藤井晋流の門人二階堂桃祖に俳諧を学んだと話している。

桃祖は晋流の門人で修験宗徳善院の僧だ。

雨考は夜話亭と号したくらい夜話が好物だ。

「雨考は実家が菓子屋で、今は酒蔵の旦那ですぜ。多代女も実家は酒蔵でね」

市原家は塩問屋も開いているという。

町の井戸は五か所だが豊富な伏流水の湧水が有るという。

「儂の一番は多代女の屋敷に有る湧水で茶を入れることですら。雨考は実家の裏手のが一番だとかがらしなぁ」

「ざんぞ言っていると菓子屋が来るぞ」

「時分、二十三夜待ちの準備してるら」

「年寄が二晩続けて夜更しか」

若さんと新兵衛の二人へ、特別にお土産だと巻物仕立ての句集を寄越した。

焼塩の竈の前で団子を喰らう男二人の画が有る。

「なんだ田善の印章が有るぜ、一枚かんだか」

「一昨年暮れにね、こちらに戻ってすぐに頼まれたんですよ」

「此の庵(いお)の梅の金令も須賀川のものか」

「雨考の知り合いで多代女の師匠に為る鈴木道彦です。江戸に居ます」

十一人の俳句が並んでいた。

「道彦を別にして、最初が多代女で仕舞が菓子屋という事は二人が発起人だな」

一通り読んでみた。

「多代女が“ 聞なれた鶏か鳴なり朝霞 ”か今日の様子じゃ“ あさがすみ ”でなくて“ あさかすみ ”と詠ませるのかな、鶏はとりなのだろう」

ききなれた とりがなくなり あさかすみ

「“ とり ”とかなでなく“ ”と書いたのが良い」

次郎丸自分のはからっぺたと言うが付き合いで評価はできる。

「今朝帰るとき鶏の声聴きませんでしたか。紫陽花のあたりで」

「起きていたのか」

「えへへ、年寄は朝が早い」

「鶏も六斎市の準備で忙しかったんだろうよ。鳴く暇もなく起こされただろうぜ」

癸酉(きゆう)の春、みちのく須賀川連と為っているから、昨年正月の縁起物に出したのだろう。

「そうだこの士篤は此処の主の太田庄三郎です」

時めくやまつ蛤のふり胡椒

ホーホヶッキョ

さえずる季節は終わりだろうに、せっかちな鶯の声がする。

「此の辺り鶯が多いのか」

「愛宕山には多いですよ。恵比寿講の頃に買い入れて、正月に鳴かせ、二月十五日には山に放す人が多いですよ。中には雪解けまで飼う人もいますがね。野生は桜と共に遣ってきて菊の頃に暖かい方へ移動しています」

今晩ここで飯を食っていくかきくと嬉しそうにうなずいた、言葉尻にらが入らくなったと次郎丸は気が付いた。

兄いが一人分追加を頼んできた。

今日は品数が多い、兄いは食事は良いものをと頼んでいたようだ。

ぼうたら煮

打ち豆と切り昆布の煮物

凍豆腐(しみとうふ)の卵とじ

お平はハヤを焼いた物に野菜の炊き合わせが付いてきた。

胡瓜と大根の糠漬け

豆腐の汁には鶉の叩き団子が入っている。

「トヤ前の鶉は味わいが有りますの。江戸なら鰹が入る時期でしょうなぁ」

「そういゃあ、去年と違い今年はまだ入ってきていなかった。上総へ行ったときはまた鰹だというくらい食わされたが」

何やら江戸を思い出して居る様だ。

「ところで新兵衛さん朝は何時(なんどき)に発つんです」

「ひとしきり人が出払う六つ半にするつもりですぜ」

「じゃ二十三夜待ちへ誘うのはまずいですかね」

「誘うなら若さんか川添様だな。酒に食い物付で騒いでいいなら弥助どんに忠兵衛どん」

さすがに生沼文平とは言いづらい。

どうやら行かなくては為らないようで誰か仲間を増やそうとしている。

「なんだでんぜんは行く気に為ったのか」

「家に戻ると面倒でね。ここで泊まるか、何処か決めていくか。行くと飲まされるので後がつらい」

雨が近いのか風が冷えてきた。

「おいおい、月は無理に為りそうだぜ。六斎市もこれじゃ台無しだぜ」

勢いよくふりだし、雷まで鳴っている。

二刻(三十分)たらずで雨が収まると昨日会った老人が遣って来た。

「なんだね変な雨だ」

「どういうことだね」

「わしんとこの前の路地まで降ってわしんとこはひと粒も落ちてこなかった。黒門の方は先も見ないくらい降ったそうだ」

どうやら田善が此処にいると聞いてやってきたようだ。

「雨さ跳ねるように南さむじったそうな。らいさまは一里塚の先へ落ちたらしいぞ」

「にしゃ、何のようだ」

田善も気に為ったようだ。

「婆さん連中が本川様呼べと言うだら」

「どこにあつまっとる」

「はたよんちじゃ」

「婆連中のとこ送り込めと言うのか」

「にしゃにこぅのげの旦那つれとこうとさ」

「旦那も逃げとるのか」

「おらいのばっちが呼び出しにいったら」

次郎丸もこれにはお手上げだ。

生沼文平が笑いながら経緯を説明してくれた。

「こぅのげは眉毛で、ばっちは末っ子、はたよの家だけは分かり申さぬ」

田善が「多代女の本名ですよ。此の爺様多代女の叔父ですら。婆さん連中の二十三夜待ちで毎月家を替えて集まるのら」という。

「しかしなんで婆さんたちは俺に」

老人は“ ゆっくりお話がしたいものです ”と言いながら薬指で親指の爪を隠した。

次郎丸は「“ 流行りものには目がない ”なり立てのほやほやです」と指印を返した。

「ここで話しますか。向こうで話しますか」

「多代女は入っているのかね」

「今はわしだけですら」

「ではここで」

「定栄(さだよし)様御養子祝い金を領外含めて五百両、家の婆さんが預かっていますら。お頭とは知らぬでしょうが。お使いとは教えてありますら。婆さん連は江戸の人の顔が見たいだけですら」

田善は唖然としている、そういえば結について教えていない。

「お頭、若さんが。五百両の祝い金」

市原隆右衛門(りうえもん)と言う老人と田善に生沼文平の三人を別室に呼び入れ、葵御紋入り“ 通行勝手 ”の木札に大樹様許し状を出して披露した。

「隆右衛門殿こうなれば田善の生活に支障のないよう結の後押しをお願いいたす」

「市原一同にお任せください。と言っても腕はまだ確かなので小遣いに苦労は有りませんがね」

生沼文平は「殿も御存じなので」と心配している。

「正札殿は俺が二万両動かせるなど吹き込んだようだ」

「御家老は情報網がひろう御座るゆえ」

襖を開けると兄いは吸い寄せられてきたと言いたい素振りだ。

岩平が呼び出しに遣って来た。

「五つに為りますとおかんむりです」

次郎丸は自分で礼を言うのが筋だろうと思い、岩平の先導で田善たちと藤井下がりを下った。

「岩平の家の方は降らなかったのか」

「妹と六斎市で雷は聞きましたが雨には為りませんでしたよ」

須賀川は馬の背と言うだけの事はあると笑いたくなった。

六斎市の為の軒行燈がまだ灯っていて提灯は要らないくらいだ。

「でんぜん、毎月二十三夜の六斎市はこんなふうなのか」

「今年は特別ですよ。田植えも終り浮れているのです」

「今年は大麦も豊作で六斎市も大盛況です。田植えが終わるとらいさまの御成りで稲も成長が早まるでしょう」

「稲妻ひとひかりで稲が一寸伸びるが本当なら、日照りはひと安心かな」

「備えは毎年必要です」

話し途中で屋敷に着いた。

品の良い婆さん連中が二十人ほど集まっている。

「本川様ですら」

紹介され次郎丸は「定栄(さだよし)様お屋敷へ勤める本川次郎太夫で御座る。この度御養子先庭園の管理の為白川、須賀川で学んで参る様、殿さまから言いつかってまいって御座る」と挨拶した。

一分判二十五両封金で二十が床の間に積み上げてある。

受け取りを書き、隆右衛門に渡し、白川脇本陣“ やなぎや ”柳下源蔵へ届けてもらうことにした。

田善と二人、江戸の様子をこれでもかと言うくらい話すことに為った。

文化十一年四月二十四日(1814612日)・須賀川

寅の刻を部屋の時計が告げた。

次郎丸が起きると岩平も起きた。

隆右衛門とこぅのげの旦那はいびき合戦の真っ最中だ。

田善が起きて「時雨塚いこ」とまだ寝ぼけている。

二人は岩平に送られ、茶の木で隠れた湧水の池脇の木戸から観音下がりへ出た。

昨晩、隆右衛門が本家の湧水とこの湧水は宇津峰の伏流水だと言い張っていた。

本町に比べ中町付近は井戸も多く、湧水も酒蔵が五軒も賄えるほど豊かだという。

密蔵院に有る時雨塚を見に回った。

時雨塚は芭蕉の五十回忌の寛保三年「時雨忌」を前に茱月洞(しゅげつどう)晋流が建立した。

寛保元年十月十二日の銘が有る

塚正面二列に二人の俳号が彫られていた。

風羅坊芭蕉翁 ”“ 寶晋斎其角翁

右側面“ 粟津より 松風とど久 時雨かな

「晋流さんの句ですが、粟津はあそこの事も言うので」

明るくなりだした山の端(やまのは)を手で差した、晋流の須賀川八景の一つだ。

「翁の墓のある近江粟津を晋流さんが慕ったとも言われています」

浮世絵の大きさで油彩画を一両と言っても婆さん連は頼む人も出ず、きめっこして酒を煽っていたわりに二日酔いをして居ない様だ。

「たしか後がつらいと聞いたように思うのだが。この大嘘つきめ」

田善は本陣までついてきて朝飯を強請った。

兄いは支度が済んでいて次郎丸たちの食事が済むと三人で旅発った。

「二十七日の朝までは居てくださいよ」

「そうするよ」

いつもながらあっさりしたものだ。

生沼文平と甲子郎は役目で今日も山へ付いてくるという。

「我は碑文や古社に興味があるが、生沼殿は付き合って退屈しないのかい」

「それがお役目ですから。気を使わんでくだされ」

甲子郎は須賀川八景が近江八景の見立てと聞いて、画を六斎市で買い入れてきていた。

田善は多代女と岩平が来ると「今日の飯代をかせがにゃ」と言って家へ帰った。

弥助と忠兵衛は荷物番だと言って甲子郎は一人四十文渡して替わり番子に昼を食う様に言いつけ、ふたりを宿へ残して五人で庚申坂へ向かった。

親子はいつもと同じ、菅笠、脚絆に結付草履の多代女に、岩平は股引、脚絆に足袋で草鞋、手甲かけて着物の裾を尻端折っている。

三人は道中着に山歩きだというのでいつもより身ごしらえを軽くした。

打飼袋の代わりに大刀を背負っているのは毎度のことだ。

「これが俺一人なら大刀も置いて身軽にしたいところだ」

「愛宕山だけなら強く(きつく)ありませんよ。五老山、妙見へ回るとなりゃたいへんですわ」

「見た目大したことないが」

「其々尾根続きで無いので降りたりのぼったりなんですわ」

十日山を回り込み庚申坂を下って下の川の橋を渡った。

五老山脇を川下へ向かうと左手川向こうに石垣が積まれている。

保土原舘(ほどわらたち)の跡だと生沼が甲子郎に話している。

「八景の見立てはひとによって違って伝わっています。自己主張の強い方が多いものですから。今日はわたくしの見立てでお話しいたします」

多代女は先に断りを言った。

ビワ首池は琵琶湖の見立て、瀬田夕照。

本丸跡が比良暮雪だという。

池の西がビワ首山、石山秋月の見立て。

「御隠居岳と言われるんですわ。見晴らし台に為っていますの」

「二の丸跡だそうじゃ。わしも石山秋月で良いと思う。守谷筑後守俊重の隠居屋敷と伝わる場所だ」

今日の生沼はよく喋る。

「わたくしそう思うのですが、堅田落雁と言う人もいるのです。並柳の田圃とどちらだと論争して楽しんでおられるのですわ」

その先が粟津森すなわち粟津晴嵐だという。

ビワ首池へ注ぐ下の川に橋が有る。

木戸に小屋が有り番人は居たが「昨日の話では出入りの人数を数えるためだそうです。男女二人だけは断るのが役目だと言われました」

上の池という場所は並柳の田圃と共に須賀川の西方、矢橋帰帆だろうという。

「中町十念寺の三井晩鐘は争いようも有りません。残りは密蔵院観音堂で唐崎夜雨」

此の山は愛宕山と言われているが元は岩瀬山、ビワ首舘だという。

千用寺の管理する愛宕社が建立されてからそのように呼ばれるようになったという。

藤井家の管理する道以外にも南舘、大手と二つの道で行くことが出来る。

「ここは高みで九十二丈だと記録が残るが藩の記録では栗谷沢より二十丈でしかない。宿(しゅく)自体が大分高いところにあるようだ」

愛宕社の石鳥居近く、盛り土の上、台座に乗った小ぶりの碑がある。

「よくこのようなものまで調べて拓本にとられたものだ」

台座を別にすれば高さ一尺八寸、幅一尺一寸の碑だ。

どうやらこのように読めた。

奉為 一百ヶ日 ”“ 孝 子 等

長 二 年 五 月 ”“ 敬 白

成 仏 造 立 之

「これでは誰が誰をたたえたか解らぬな。これだけ崩されては教えて貰わねば読めぬよ。特に成に種字を組んだようだが読める人がいないという。成と読んで宜しかろうでは大殿も納得されない」

「是一字の為に来られたのですか。東を崩した字にも似ていますが」

「多代女殿、定栄(さだよし)様物好きで日本武尊(ヤマトタケルノミコト)にものめり込んだ、本川様、正月には浪速迄出かけたくらいだ」

「何か不思議でも」

「各地の伝承を新兵衛兄いと探すのが好きなだけだよ。定栄(さだよし)様の分動き回るのが仕事だ」

生沼文平と甲子郎は吹き出しそうな顔だが、多代女の後ろで気づいていない。

「應長とはどのくらい前ですか本川様」

「岩平は鎌倉に幕府が有ったことを知っているかい」

「わかります。蒙古が攻めてきた時代ですね」

「二度の来襲のおよそ三十年後の執権大仏宗宣(おさらぎむねのぶ)公の時代だ。五百年ほど昔だ」

「そんなに古いんですか。本川様はなんで若さんと呼ばれるのです」

岩平は恐れもなく聞いた。

「定栄(さだよし)様の代理、若様の代理、若さんの代理、若さん。江戸っ子は詰めていうのが好きだからさ。そういやぁ川添殿と一緒に行く屋敷の管理をしてくれている矢澤監物殿も若さんだぜ」

「この間自分が若さんだと頑張っていましたよ」

「どこかの若君が屋敷の管理ですの」

聞きとがめられた。

「その若さん達と一緒に行った鮨屋の親父が、あたりかまわず若さんを増やしやがる」

「あの親爺、金四郎様は金さんですから、私には名も付けてくれません」

「大野殿もそうさ相変わらず御用人様だ」

話しを広げてうやむやにした。

「そうだでんぜんさんがみちのく須加川連新春賀摺を俺と新兵衛兄いに土産だと呉れたよ。多代女さんの句はいい出来だね。あおかげは何時ごろ出来る予定だね」

「文のやり取り、江戸表で刷るので早くて七月、私の書く序文は兎も角、田善さんの画待ちなんですのよ、雨考さまはすでに序に変えてと文章を作りました」

岩平が母親の序文を覚えたという。

小鮎汲み やまめ釣るころとも云はず 涼とる人々の 日ごろ行きもて遊びぬれば 菰のさむしろ 霧たち うつむ時しもなし

「よく覚えたな」

「でも後ろの意味が解りません。夏なのに霜なしってわざとなんですかね」

「後ろから意味を考えるのさ。切る所が二か所違うのだよ。きりたちうつむで一度、ときしもできって何かがないと言っているんだ」

「だめですよ本川様。もっと自分で考えさせないといけませぬ」

「わりぃわりぃ、つい弟に聞かれたような思いでな」

「弟さまもおられるので」

「いや妹だけだ、新兵衛兄いからいつも弟のように扱われていて弟が欲しかったのだ」

「確か酒田のお人と」

何時のまにか誰かから聞き出したようだ。

「駒井新兵衛と言うのだが。嫁さんの親が好事家でね。江戸と酒田を毎年行き来している。今年は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の古事を調べるのに付き合ってくれた。定栄(さだよし)様以上に大殿も好事家だから殿様を動かして俺たちを各地へ送るのさ」

何かボロでも出したか田善が酔いに任せて匂わせたかと思った。

生沼文平は鋭い「本川様。誰か口でも滑らしたようですな」という。

「こうなりゃ明かしてしまうか」

「此処ならほかに人もいませんから、そうしますか」

午の鐘が聞こえてきた、岩平が母親をかばうように前に出た。

「心配いらぬよ。わしが定栄(さだよし)本人で、殿様から旅は本川次郎太夫で出るようにいわれ。藩の身分は定栄(さだよし)様付という事に為ったのだ」

「若さんは若君だけど若君の家来で旅しろと言われたというのかい」

「そういうことだ。ああ、すっきりした。どこから漏れたんだろう」

男たちが隠しても婆連の口さがないのには、隠し切れませんよと笑っている。

成仏と読むしかない上の成りとした字は似た字を見たら教え合うことにした。

「読み本でも版が違うと書体も変わるので子供たちに教えるのに苦労しますわ」

版木で摺ってさえ違うのだから書写本ならなおさら崩してはならぬと思った。

漢字の元の支那(しな)の物では読み本に崩し字は見た覚えがない。

「此処を本丸とし下の川ビワ首池が内濠、釈迦堂川に阿武隈川が外堀だったか」

「水はござらぬが東に堀跡が御座って大手としたようでござる」

粟津森は年寄りが言うには沼が有ったと生沼が教えてくれた。

戻りは時宗金徳寺(こんとくじ)へ出て隣の十念寺で白の石像を見た。

「お蔭参りは感謝のおかげ参り、六十年に一度と言うがこの百年で七回は集団でお伊勢様へ人が来たと聞いた。明和八年辛卯(しんぼう)は女子供の参拝者が特別多かったと聞いた」

生沼が岩平と話している。

二尺くらいの石像は御札を背負って参拝している姿だ。

代参へ出たのは十五年ほど前だという。

金徳寺、十念寺門前は昨日までの喧騒と違い休み茶見世も閑散としていた。

道場下がりを上へ、多代女の屋敷へ向かった。

干し饂飩の稲庭うどんを用意させて居るという。

「茗荷が芽を出したんです。贅沢に蝦夷の昆布と土佐の鰹節で出汁も取らせました」

岩平が「帰ったよ支度を頼むね」と台所へ声を掛けた。

茗荷の入った汁(つゆ)と薬味に刻んだ物が用意された。

「若さん、忠兵衛が居たら十人分は食べてしまう」

生沼文平がお代わりを貰いながら人の事をだしにしている。

「あいつ、不思議な奴で、人と同じ一人前でも平気なくせに食わせると底なしだ」

菓子屋の雨考が銅板の原版を持ってきた。

「でんぜんが届けてきた、さっそく二百枚刷って貰おう」

陸奥國石川郡大隈瀧芭蕉翁碑之圖文化十一年甲戊五月 亜歐田善製

頁脇へ入れるのだという、原版は縦七寸に横四寸が一頁、二枚で見開き。

「何時の間に仕上げたのかしら。岩平が行ってた時は下ごしらえはしてたけど、彫は手つかずだったそうよ」

下画以上に田善特有の大袈裟な情景を入れている。

崖も細かいとこを省略しまるで城壁のようだ、よく見るとおまけに崖が崩れている。

「でんぜんさんらしいと言えば言えますけど。私たち以外の人がみれば賛否両論起きるのは目に見えていますわ」

次郎丸は愉快だ、田善は監督者が目を離せば自由気ままだ、隅田川の花火など大殿も呆れるくらい煙が充満している。

かと思えば山水人物図の絹本油彩など素晴らしいものも描くし、高橋景保の監修した新鐫総界全図は見るものすべてが驚嘆した。 

「井筒屋さまはどのくらいで摺れると」

「二百部なら五両程度と書状が来た。田善の分はこちらで手配してのことだが」

次郎丸は一冊百六十文程度での配りものなら、この二人にとって年一、いや二度くらいの楽しみで済むのだろうと思っている。

雨考は商売人らしく「若さん、ずいぶん安いと思うでしょうが江戸は遠いで御座います。書状のやりとりで費用がかさみます」と嘆いて見せた。

「いっそ江戸へ出て直(じか)に成美さまと相談したいですわ」

「綱稠さんのような年一度のお伊勢参りのように須賀川を空けるなど、俺には無理だと言ってるだろうに。しだっけお江戸は女の足では七日かかるら。同行を出来るものが居りゃあいいが」

幾ら親子ほど年が離れていても二人旅は家族が許さない。

「雨考殿だけでも戻り旅に連れて行ってもらえばいい」

生沼文平は簡単に言う。

「酒屋の親父に無理言わんとくださいよ。百姓仕事も多いのですよ。隠居でも出来りゃ行くことは簡単ですがね。同じことは多代女もしかりですよ。息子たちに店を任せても水田は十日も留守をできません」

書状のやり取りしかやりようがないのだ。

多代女のように使用人に小作は居ないのだという。

雨考は「諏訪神社行こう」と次郎丸を誘った。

「あれ云うんですの」

多代女は不安そうだ。

「写しは此処にも在るんだ。見せてあげないか」

「どうしたね」

「大分と前ですが、翁が日光で詠んだ句をお諏訪様へ奉納したと調べた方が」

「良い事じゃないか」

「成美さまからも異議が出ています。父の手に入れた曽良様の手紙の写しには翁の句ではないと出ています」

この間とは別の桐箱も一緒に蔵から取り出してきた。

ほとゝぎす へだつか瀧の 裏表

「翁のは最初にこう読まれたそうですわ」

うら見せて 涼しき瀧の 心哉

「こちらの句が曽良様の分で。これが曽良様の手紙の写しです。

翁が須賀川から江戸杉山杉風に出した書簡に曽良の書簡を添えてあり、その二句が書き入れてある。

おくのほそ道にはどちらも載せていない。

しばらくは 滝にこもるや 夏の初

「この句を翁は取り上げています。六十年ほど前に土地の人が“ うら見せて ”を翁の真筆だと言いだしました」

「藤井晋流はどう判断を」

「その当時は江戸におられて真筆と云う物は見て居られないそうですわ。須賀川に真筆が有るならそれ以前に皆さまが騒ぐはずです。おまけに真筆を見つけたと書かれた“ 宗祇戻 ”を出してすぐその方は亡くなっています。晋流様も須賀川へ戻らぬまま江戸でお亡くなりになりました」

「いや、真筆かもしれないよ、この手紙は二十六日に出している。明神へは二十八日に十念寺と諏訪明神参詣とあったはずだ。頼まれて書いたかもしれない。その頃は曽良の句と二人で残したやもあろう。桃青とあるならかしこまり過ぎているぞ、その分は後付けだろうな」

「ま、若さんお優しすぎます。翁は馬方の方に強請られたことまで書く人ですわ」

雨考は「お諏訪様と争うわけにゃいかんよ。聞いてもらうだけで満足だ。おりゃ七歳のはなたれ小僧で親父や桃祖さんが怒ってるのが不思議だった」と言っている。

お諏訪さんへ誘ったのは口実にして自分の家へ呼ぶつもりのようだ。

芭蕉が須賀川へ来てから六十五年も経てば、奉納したか、していないかは明神側にも知る人は居なかった様だ。

雨考の家はそのお諏訪様の近所だ。

藤井下がりを千用寺まで上がり、寺を回り込んでお諏訪の森の手前の家へ導いた。

一時の強かった統制も緩み、春酒を仕込めるまで回復したという。

酒蔵五軒が生き残れたのは自分の田畑を持っていたからだ。

雨考は次郎丸達に芭蕉の百年忌の句会に法要の模様を話してくれた。

寛政五年の十月多代女は十六歳で、分家へ入った兄は健在、父親や兄たちと共に参列はしていたが俳句に興味は持って居なかったという。

「今日はどうされるのですか」

「本陣で転寝でもするのさ。明日は並柳の田圃と上の池へ朝から回るつもりだ」

「本川様、馬を頼みますか」

「本陣へ戻る前に頼んでおこう」

「多代女には」

「三日案内して貰ったんだ明日は三人で良いだろう、七つに出て晨暉(しんき)を浴びて田舎道を辿ろうか」

では先に予約して於きましょうと生沼が出て行った。

「わかさん、道が分かるのですか」

「生沼殿なら知っているだろう」

本陣へ戻ると岩平が遣って来た。

「雨考様の所へ行ったら本陣へ戻られたと。明日は如何されるかお聞きしに参りました」

「三日の間ご苦労だった。明日は三人で遠出するので岩平たちは普段に戻っていいよ。お願いする時は前もって連絡するよ」

文化十一年四月二十五日(1814613日)・須賀川

前もって弥助と忠兵衛に留守を頼んでおいて、七つ前に南の黒門へ向かった。

本陣では醤油の焼き餅を十分に竹の皮で包んで用意してくれ、水も瓢へ入れて貰った。

門前には本馬、軽尻(からじり)も開門を待っている。

多くは此処で提灯の明かりを消すので、番小屋の障子が薄暗い影を投げかけている。

「朝から多いもんだな。二十頭近くいるぞ」

宿の継立は四十頭なので。近在から昨日のうちに集まったようだ。

薄暗い中、門があいて坂を下り、藤原稲荷神社で右手へ向かった。

釈迦堂川の渡しは二艘の船が忙しげに往復している。

朝夕は二艘、日中、夜半は一艘が決まりだという。

北の黒門下は元岩瀬の渡し、今は橋があるが十年と持たずに流されることが多いという。

川を渡ると夜が明けはじめ靄が出てきた。

生沼文平は上の池まで三里と云う、周りの水田が明るくなりだした。

前を行く馬の中から二頭が大柳の下で休んでいる。

降りた二人は地蔵へ供え物をして拝んでいた。

「本川様ありゃ岩平と多代女ですぞ」

五丁ほど先の二人を見極めた。

博労が馬を止めると「置いてぼりは嫌でございます。勝手に付いていくことにしました」という。

わいでん いまだいろをたず あうもうとしてしんきをともにす かすみ こしょをてんじ にしき ちょうきをいづ

次郎丸は朝の情景に思わず口へ上せた。

生沼まで不思議な顔をしている。

隋の煬帝が淮水を渡るときに読んだ詩だと教えた

淮甸未だ色をたず 泱として晨暉を共にす 霞 嶼を轉じ 錦 長圻を出づ

「晴霞晨暉(せいかしんき)の様子を読んでいる。朝の陽の光に晴天のけぶり生じるを見て思い出した」

水田を淮水に例えたが、流域は津軽から江戸までに相当する大河だと岩平にいうと親子で呆れていた。

「近江八景は瀟湘八景の見立て、須賀川八景は近江八景の見立て。水田を大河に見立てただけだ。江戸では盆石、盆景では片手で支那(しな)の瀟湘八景を持ち上げる」

足元の靄もいつしか消え去り、早苗の水田は遠くまで見渡せた。

坂を上ると台地一面が水田に為っていた。

「此の辺りは仁井田ともうす」

岩根川に土橋、渡ると一段上に寺があり、生沼は桜が見事だという。

妙養寺、越久の枝垂れ桜(おっきゅうのしだれざくら)は二百年以上経つという老木だ。

滑川に木橋が掛かっていた。

大きな池が見える、奥行きは岬の陰で見えないが正面は十丁以上も有るようだ。

「矢橋帰帆を宛てるのも尤もだ」

「はじめてきましたが広いですわ」

生沼は鰻が卵を産んでくれるなら此処へ放せば幾らでも増やせるのだがと岩平と話している。

「鰻は卵を産まないのですか」

「大人になって海へ下って産むそうだ、稚魚に為って川上りしてくる。鮭のように川では産まないそうだ。」

次郎丸は鮭が卵を無事産めるように簗を川の一部にしか許さないのも、海へ戻った鮭に毎年産卵に戻って来てもらうためだと教えた。

「河口の漁師が網を張り渡し一網打尽にすれば五年後には戻る鮭もいなくなる。産卵場所の者は採ることが禁止されるのはそのためだ」

池を一回りした。

岩吉は甘酒を取り出して振る舞い、焼き米握りの包みも配った。

並柳まで博労は一里だという。

細い街道はすれ違うのもやっとだ。

並柳の先一里で須賀川からの会津街道へ繋がるという。

「白川街道勢至堂宿から峠を越え猪苗代の西で会津若松へ出ます」

須賀川から白川街道追分勢至堂峠下まで四里半だという。

並柳の田圃と言うだけあって低い丘に囲まれ一面水田が広がっている。

農家で聞くと早い年で十月には白鳥、鴨、雁が群れを成して飛来するという。

「鏡沼付近の沼や池などへも多くの鳥が冬に為ると遣ってまいります」

女房も口をそろえた。

「泥鰌に冬眠している蛙、小海老など飛来する鳥の餌は豊富です。わいらはそのおすそ分けで時々取らせて貰います」

南へ行く鳥、この地で越冬する鳥を見て雪の量を推し量るという。

丘を越えるとまた水田が広がっていた。

「この付近は天領で御座る」

小川のある見通しの良い場所で一休みした、博労が小川で馬へ水を飲ませている。

本陣の用意した焼き餅は竹の皮に旨く包まれていて丁度良い噛みごたえだ。

博労の分に岩平親子へ別けても間に合った。

この付近から鏡沼は沼に溜池が豊富にあるという。

釈迦堂川の渡し場へ戻ったのは二時半を過ぎていた。

甲子郎は博労七人へ豆板銀を一つずつ配っている。

舟の順で次郎丸と親子が先へ渡った。

本陣前で明日の予定が決まれば連絡すると親子と別れた。

「やれやれ岩平にやられましたな」

甲子郎はどこかで博労に聞き、岩平が問屋へ来て生沼文平が予約したを聞き出し、岩平が二頭追加でその分は屋敷へ回すように頼んだと知ったという。

「八景のうち二景置いてきぼりは拙かったようですな」

二人は笑い合っていた。

本陣に戻ると五時になっていた。

郡山から新兵衛の書状が来ていた。

二十六日ないし二十七日に郡山上町“ ゑびや 横田冶右衛門 ”方へ御出でを請うとあった。

「明日出るか」

「岩平はどうしましょう」

「連れて行くか。遠出もいいだろう。明日二十六日に出て二十八日には戻れる。わし等は須賀川を通り抜けて白川まで、陽の有るうちに入れるだろう」

卯の刻に出るから旅支度で来るように、都合によっては此方へ泊めたいのでお許しをと手紙を書いて弥助に届けさせた。

親子で押しかけて来たというほうがあっている。

「観音堂に有る佐々木露秀さま、不孤社中のお建てされた蝉塚を見たいのです。郡山まで同道させてください。歩くのは為れております」

 

 第八十回-和信伝-拾玖 ・ 2024-08-07

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記