文化十一年四月二十二日(1814年6月10日)・須賀川
卯の下刻(五時十五分頃)多代女と岩平は表で馬方と話をしている。
次郎丸が出てくると「岩平は歩かせます」と言う。
「駄目だ。供の中間も乗せるので歩くのは馬と博労だけだ」
そう言って皆を和ませた。
十人の博労に兄いは豆板銀を一つずつ手渡した。
「旦那からだ。休み茶見世で休むときは俺たちと同じ扱いだ。それから馬の休み場、水場は出来るだけ休ませるように先頭は兄貴分が付いてくれ」
芹沢の瀧、影沼、大隈の瀧と回り順を確認した。
先頭に多代女、次に岩平、しんがりに生沼文平が付いた。
本町“ 太田庄三郎本陣
”から芹沢の瀧迄十六丁程。
畔にイチゴが赤い実をつけていた。
馬を降りて瀧を見たが水は勢いなく流れ落ちるだけだ。
それでも二丈以上は有る。
“ きいちごを おりてわれ まうけくさ ”
“ 覆盆子を 折て我 まうけ草 ”
「其処で見た野イチゴから等躬さんの詠んだ句を思い出しました。覆盆子(ふくぼんし)をつかっていますがわたくし“ 折て ”とあるので“ きいちご ”と読ませたいですわ、のいちごなら“ つみて ”とされたはずですわ」
須賀川の俳人にとって奥の細道、曽良日記、俳諧書留は大事な教科書だ。
自然当時の須賀川の俳人の句にも熟知している。
「この句は翁の“ 風流の 初やおくの 田植歌
”に続けて返句に読まれておりますの。田植えの時の供え物みたいですもの」
生沼文平は「いいつかみだ」と感心しているが、次郎丸は聞いているのか瀧の周りを歩き回っている。
鏡沼の大庄屋常松次郎右衛門は隠居し、義作と名乗ったが十年前に亡くなった。
常松半左衛門の家に巨野泉祐がいたが、次郎丸達は寄らずに通り過ぎた。
芹沢の瀧から影沼まで二十六丁程。
小さな池に、溜池がいくつかあるが目的の鏡沼の影沼は四間四方程度しか無かった。
陽光で池の中心がきらりと光ったが、魚が居るわけでもなさそうだ、風が出て水面が揺れている。
「和田平太胤長(たねなが)様は配流が陸奥國岩瀬郡とあり妻の天留(てる)さまはこの地にたどり着かれ、夫が亡くなっていることを知ると、悲嘆のあまり沼に身を投げたと伝わります。今池が光ったのは天留さまの鏡ではないでしょうか」
説明慣れしているようだ。
「でも芭蕉翁は池に周りの景色が映り、歩く人がまるで湖面に浮いていると聞かされていたと言います」
「その言いようだと天留様の鏡の伝承は信じていない様だね」
次郎丸は吾妻鏡を思い出している。
「曽良様の日記や翁のほそ道にも影を見たいとあるだけですもの、奇しくもお二人が須賀川へ入る途中立ち寄ったのが四月二十二日ですわ、後日芹沢の瀧へ来たのにその日は此処へは寄らずに戻ったようですわ」
言い様はまるで若い娘だ。
「胤長の妻は西谷の和泉阿闍梨が出家の指導をしたと昔の本にあるよ。年は二十七とも書いてある。悲嘆の内に亡くなったのは娘の荒鵑(こうけん)で七歳と出ている」
“ 建暦三年三月大二十一日壬戌。和田平太胤長が女子父の遠向を悲む之餘り、此の間病惱し、頗る其の恃み少し
”
多代女も話に付き合って細道の記事を詠う様に話した。
「“ かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず
” 是では鏡の伝承を知らずによっているようですわ」
「わし等の江戸の知り合いが芭蕉翁に傾倒していてね。一緒に来ていたら話が合うだろうな。わしは歌舞伎役者にも馬鹿にされるくらい下手な句ばかり捻ると有名だ」
「江戸には雨考さま、道彦さま、乙二さまのお知り合いが多いそうで。一度は江戸へ出たいものです」
岩間乙二はこの時六十歳、蝦夷箱館から仙台へ戻っている。
道彦は一茶とも親交が有ると多代女はいう。
「同もあちこち一茶殿の噂を聞くが、知り合いに会うばかりで、本人に会ったことがないのだ」
「どちらでお聞きに」
「上総富津の織本嘉右衛門、花嬌夫妻の事は」
「聞き及んでおりますが砂明様、花嬌様ともにお亡くなりに」
「二人の娘曽和殿に婿入りした道定殿が織本嘉右衛門を継いでいて昨年お会いした」
俳号子盛、此の年五十六歳。
「雨考さまの出す句誌はあおかげと。まるでこの池でも念頭に浮かべたようですわよ。一茶さまの句も入れるそうですわ、一茶さまはおみなえし。わたくしのはすみれ、乙二さまはきくだそうですわ」
一茶のは四年前の句だ。
“ 夏山や ひとりきけんの 女良花
”
“ なつやまや ひとりきげんの おみなえし
”
雨考は古語にならって濁りを抜いて載せるそうですと多代女が話している。
「本川様は奥の細道を読まれたことは」
「飛ばし読み程度だ」
「須賀川の前は何処へ泊まったか解りますか」
「白川ではない様だ」
「曽良様の日記は“ 矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。
今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ ”とあります」
「いいこと聞いた。江戸で知り合いに自慢してみるか。曽良日記は持っていないだろう」
「翁は“ とかくして越行まゝに あぶくま川を渡る
”と有るのは」
「読んだ。待てよ。街道を歩けば矢吹から先で阿武隈を渡ってないぞ。渡るのは白川の二瀬だけだ」
「曽良様の日記に“ 二方ノ山 今ハ二子塚村ト云 右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行
”とあるので混乱される方が多いのです」
「今右の所と言ったが」
「日記に“ 忘ず山ハ今ハ新地山ト云 但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行 阿武隈河ノハタ
”とありますわ。二人が其処を渡ったと思い違いをしてしまいそうです。川を渡ると“ 二方ノ山 ”という事でしょうね」
「矢吹の宿泊まりとその日に聞いた心覚えが、翁の“ あぶくま川を渡る ”と混同するという事だね」
情報が多すぎても混乱するようで、完全に試験を受けているようだと思った。
多代女はまるで教師のように博識だと思った。
そよ風は気持ちよいが、水面は写る景色が定まらない。
岩平が人数分の茶碗に甘酒を注いで配っている、博労へも振る舞っている。
どうやったか割合と冷えていた。
影沼から一里二十五丁ほどで大隈の瀧不動堂の対岸まで来た、瀧から二丁程下流に為る場所だ。
芭蕉の時代、石河の滝と言われたところだ。
兄いが博労に休み茶見世で一刻ほど待てと言いつけ、兄い分に豆板銀四枚渡している。
「飲みすぎて帰りは馬でなんて事の無いようにな。昼は何処か評判の蕎麦きりでもあれば案内してくれ。一緒に食べようぜ」
舟は二度に分けて渡った。
「曽良様の日記は百二十間ないし百三十間とありますが今日は百間ほどの幅ですわ」
小舟で滝近くまで寄る粋人もいて、対岸は賑わっている。
渡って見て気が付いたが渡し場の上流は切り立った岩壁、此方は緩やかな丘陵だった。
「今日は翁の渡ったところに近い場所へ来ましたが瀧の上流にも渡し場が有りますわ」
菓子屋が建てるのを手助けした碑は形が面白いと次郎丸はご機嫌だ。
「本川様大分お気に入りの様で」
正面に“ 五月雨の 瀧降りうつむ 水かさ哉
”
右面は“ 須賀川 龍崎 連 ”
左面は“ 文化十年癸酉 十一月十二日 ”
裏面に“ 東都如意庵一阿 建之 ”
「“ 五月雨の
”ですが曽良様の書留には“ さみだれは 瀧降りうづむ みかさ哉 ”でしたわ。昨日確かめましたら江戸から書き送られた通りに“
の ”“ つ ”にしましたそうです。ほかの方の写本は“
ず ”も有りましたそうです」
“ の ” “ は
” “ つ ” “
づ ” “ ず ”
多代女は空へ指で字を書いている。
「この川のどこかに京(みやこ)の一之坊様建立の句碑が有るはずです。五年前七月の大水で流れたのですわ。探したのですが見つからないのです」
句碑は難しい字で彫られていたという。
小枝で地面に“ 飛泉婦梨
”と書いて見せ“ たきふり
” と読ませたという。
岩平は幸八たちと気が合いだして道中の事を聞きたがっていた。
「大隈の瀧とはどこから誰が名付けたんでしょう」
兄いは「坂上田村麻呂様がこの地へ来たとき川を渡るに大熊の背に乗って渡られたと伝説が有るんだ。その川が阿武隈川で大きな熊から大隈川となり、その謂れから此処を大隈の瀧と言い出したそうだ」
「その話変ですよ」
「気が付いたか」
「だって芭蕉翁が来たとき石河の瀧だったのに、田善様たちの言う大隈に為るのは順が違います」
次郎丸は多代女に「頭の切れる少年だ」と褒めている。
「あそこの板囲いは魚の簗かね」
甲子郎は瀧の脇の水路が気に為るようだ。
「川添殿あれは舟通しで御座るよ。御用梁場はこの対岸瀧の下側に御座る」
舟通しは岩を削り板で水嵩を上げて舟を通しているという。
年貢米等の運び出しに便利なのだという、此の瀧の手前から先ほどの船着きまで馬で迂回する手間は膨大だという。
「本来もっと岩を削ればよいのだが、岩が固いのでござる。囲いは幅が八尺御座る」
生沼文平のように横目付ともなると領内くまなく目を光らせているのだろう。
郡奉行は政治向きの取り締まり、横目付は本来不正の監視だが、大殿の時代から徐々に領内の円滑化の手助けに役目が変化してきている。
白川の江戸廻米は仙台へ川下りで送り出し、大船に積み替えて江戸へ送るのだという。
余談
上流は白川から才俣河岸、その下流の黒岩までは難所が多いという。
下流は黒岩から福島を経て荒浜湊へ出る。
上流では小廻船で小型は長さ三間、幅四尺三寸、積載二十五俵程度。
大型でも長さ六間一尺、幅五尺二寸、積載四十五俵程度だった。
下流の福島河岸で小鵜飼船に積み替え、長さ七間二尺、幅五尺三寸、積載六十表程度。
さらに沼ノ上河岸で高瀬船に積み替えて荒浜湊へ出た。
此処での高瀬舟は長さ八間、幅七尺、積載八十俵程度。
米一石百五十キロ・四十貫・二.五俵。
一貫は3.75キロで換算。
御用梁場は川を遡る初漁の鮎・鱒・鮭を殿へ献上する為番所を置いている。
生沼文平はその番所へ次郎丸と甲子郎を連れて行った。
「岩平も付いて御出で」
生沼が声を掛けた。
番所は生沼の顔を知る老人と二人の若者がいた。
「月番吉村又右衛門様より江戸からおほめの御言葉が届いたと聞かされ申した。番所へのご褒美に金一封が届いたと預かってまいった。悟朗蔵(ごろぞう)が代表して受け取るように」
背の荷から袱紗を出して手渡し「袱紗ごと受け取られよ」と渡している。
「こちらは江戸藩邸の本川様と川添様である。御身分は明かせぬがお目に掛かれるのは光栄である」
「本川次郎太夫である。殿から白川、須賀川へ視察を命じられたが、監察ではないので同藩の者ゆえ喜楽にな。この少年は須賀川の市原家の者で道案内じゃ」
女子供を連れての視察なら遊行に近いと老人の顔も緩やかになった。
「大殿のご相伴で此処の汐鮭を食べたことが有る。仙台物に引けを足らぬ旨さが有った。さぞや塩えらびに達者なものが居る様だ」
老人の顔がこぼれんばかりの笑顔になった。
いまは鮎の時期、夜の漁は禁止されているが番士は昼しか詰めていないという。
番士の食事の費用は村持ちだと言うが、漁の収益は大きいし、村役、人夫が免除されていた。
「本川様は大殿様のご相伴が出来るほど偉いんだ。田善様まで名前を聞いても知らないと言った傍から様子を聞いただけで、若さんだと飛び上がって喜んでたし」
岩平は遠慮がない。
「紅葉は江戸では半月ここらより遅いそうだが藩では紅葉鮭として毎年幾人かが選ばれてご相伴できるのさ。それと姉が越後へ嫁入りしたので毎年三匹だけど選り抜きを送ってくれるのだよ」
銭五と知り合ってからは富山の鱒に鮭の麹漬けもやってくる。
「でんぜん殿は大殿のお気に入り、たまに私の住まいへ息抜きに来ていたのだ。子供というより孫のように思うらしい」
不動堂の裏手へ回るとまだ山吹の花が咲いている、崖にはしろい小さな花が棘のある木に満開に咲いていた。
「やぁ、紅葉イチゴだこんな北の土地にもあるのか」
「どうしました」
本川様ったらさっきの“ 覆盆子 ”の話しまともに聞いていないのねと思った。
「屋敷の庭に二本あるのだ。今年はもう実が付いていた」
「食べましたの」
「蜜柑の甘いものに似ていた。妻は十粒(とつぶ)だけであとは庭に来る鳥の取り分だというのだ」
「奥様が御出でで」
「うむ。今年の末には二人目の子が産まれる。甘いものが好きだが子供の為に節制している」
戻りの船が着くと博労達が馬を並ばせて踏み石の脇へ寄せてきた。
兄いが「どの辺で昼にします」と多代女に念を押して兄い分の博労と相談した。
「新田牡丹畑の蓮を見ながら、蕎麦切がいいんじゃないの」
「わいらは入れませんので表の茶見世で休ませて頂きます」
「ダメダメ、約束しただろ。俺たちと同じ扱いをすると」
伊藤忠兵衛が牡丹畑を創めて五十年近くがたち、須賀川から半里ほど、かっこうの行楽の地に為った。
多代女は「蓮の花に加え、花菖蒲が咲きだしたそうよ。藤もまだ咲いているそうだし。残念なのは牡丹がほぼ終わっていることね」と嘆いた。
生沼文平が「俺が居るから大丈夫だ。伊藤の家は叔母が嫁に入って今はその長男が当主だ。本川様が休むと言えば叔母も喜ぶ」と博労に言って次郎丸へ指印を見せた。
「行けば“ ありがたやでございます
”と大歓迎ですよ」
是は次郎丸へ言ったので小指で親指の爪を隠す指印を見せた。
「俺と関係でも」
「私めの兄は中井孝蔵、本川様とは従兄弟で御座いますよ」
「“ 流行りものには目がない
”から蓮の花に花菖蒲でも見て蕎麦切りを食べるか。まさかここ等も大根そばじゃないだろうな」
「牡丹園は好みで辛味大根で食べる人以外は普通ですよ」
江戸にもどったら姉や妹に従兄弟に逢ったと教えようと決めた。
叔母と言う人は次郎丸と血のつながりはないという、生沼文平達の母の妹だそうだ。
「領地替えが有る度に各地に遠戚が増えるのは確実だな、調べたらいつの間にか兄いと親戚なんてことも有り得るぜ」
親類を附けて出すとは吉村又右衛門の狙いはなんだろうと次郎丸には疑問だ。
孫八郎は上納金で取るのは反対とはっきり表明している。
次郎丸は“ 待てば海路の日和有り
”を決め込むと甲子郎と兄いには白川へ入る前に言って有る。
兄いは結の方で噂が広がれば自然と出てくるというのですか、酒田や越後に言えば済みますぜという。
「とよが言っていたように銀(かね)を吸い寄せるか試してみたいのさ」
結に和国御秘官(イミグァン)の連絡網は動いているはずだ。
養子に金は出さない気の様だが“ なほ ”に“ つかさ ”これから生まれる子の養育費と思えば二千両都合しようと思っている。
雑木林を抜けると景色は開けて須賀川の代地まで見通せる。
田植えの終わった水田が午後の陽に照らされている。
一里ほどで新田牡丹畑、花畑は広い、道には三軒ほどの休み茶見世が有り、牡丹畑は入口の木戸が空けてある。
「親爺に頼んで蕎麦切り二十人分、蓮池で食べるので用意させてくれ」
生沼文平が若い男に頼んでいる。
馬は門内に有る広場で水を与えられた。
男は博労達とも顔なじみの様だ。
「どこまで行くんだい」
「影沼から大隈の滝見物の戻り道だぁ」
「一緒で良いのかい」
「気のいい人たちで同じ席で食べるように言われたのだぁ。御親戚かい」
「母の実家の人だよ」
池の右手に花菖蒲の道が有る。
「両方が一望できるが右手の丘の方は何かあるのかな」
大昔の人の遺跡が有るくらいだという。
兄いは明日は須賀川の町歩きで明後日郡山へ向かうという。
「ずいぶん近いな」
「福原との間には逢瀬川が有りますから」
次郎丸が朗詠した。
“ 逢瀬川 袖つくばかり 浅けれど 君許さねば えこそ渡らぬ
”
「誰の歌ですの」
「源重之という人が八百年ほど前福原あたりへ来たときに読んだと教わったよ。三十六人歌仙の一人(ひとり)だそうだ。人丸に小町まで含まれている中に入っているよ」
人丸は柿本人麻呂と説明は不要の様だ、もしかして知っていて聞いたか。
母とまでは言わぬが姉のように思える人だ。
「逢瀬川は今でも水は少ないですよ。殿中人の袖は膝下まで有ったそうですもの。溢れたのは五年前に阿武隈が増水して堰き止められた時くらいのものね」
「実は郡山で人を訪ねるんでね」
郡山は会津藩領から離れ二本松領に為って百五十年以上たっている。
今も発展し続ける商人町だ、旅籠が五十軒近くあるという。
「人間もだいぶ増えているんですぜ、五十年で倍の三千人だと聞きました」
二本松藩十万七百石、二本松霞ヶ城が居城。
丹羽長富(ながとみ)は昨年十一月に十二歳で家督を継いで初の国入りが許された。
牡丹の苗木も売るらしく、買い求める人も何人も出入りしている。
「そうですわ」
「なに」
「翁と曽良様、石河の滝から須賀川へ戻らず小山田、守山へ出て郡山へと回り道していますが、付近に八流の瀧が有るのに寄っていないようですわ。明日ご案内しますわ」
生沼文平が「明日、新兵衛殿は町回りだそうだがどうなさる」と聞いている。
兄いは三人残るのと中間二人も残そうという、何か目論んで生沼文平と離れる様だ。
「六斎市でめぼしいものが有れば買う積りです」
兄いはもう博労達に明日五人分の馬を頼んでいる。
博労は話を聞いて「小山田と瀧は五丁程、本陣から瀧まで一里十丁も無い」という。
蕎麦が出てきた。
矢吹の蕎麦に劣らず香りが良い、盛り付けも想像していたより量が多い。
鰹節をふんだんに使った汁(つゆ)と相まってひと鉢ではたりない位だ。
兄いが「これで三百二十文だぁ」と驚いている。
品の良い老婆が挨拶に来た。
生沼文平は「俺たちと親類に為る江戸の本川次郎太夫様だよ」と紹介した。
親類が少ないのか、江戸と聞いて目を輝かしたが周りの人が多く何も聞かずにいる。
兄いが気をきかした。
「本川様は江戸に姉君、兄君、妹君と兄弟姉妹は多いが白川に親戚が少ないそうだ」
祖母の伯母が津軽弘前から福原へ嫁いできたので津軽に親戚が居ると聞いて得心したようだ。
岩平が首をかしげて不思議そうだ。
「気に為るかい」
「どういう親戚かややこしいです」
「俺の曾祖母の兄に津軽の人が嫁に来たのさ」
「なんだ簡単じゃありませんか」
得心が行った様だ。
「甥の御かげじゃ。有難い事ですの。江戸に居る親類の事は聞いておりますだんよ」
「いい花畑だね。これで酒でも出たら帰るのが嫌になる」
兄いが婆さんに声を掛けた。
「ありゃすぐ仕度しますだ」
「冗談、冗談。月の出るまで居座ってしまいそうだという事さ」
二十二夜はこの地方では如意輪観音を本尊としていた。
上州、野州が特に盛んだという。
「月が出るのは子の刻近くですよ」
多代女が笑っている「私の家で月待ちでもしますか」と次郎丸を誘った。
「でんぜんさんでも呼ぶかい」
「いっそ明日の二十三夜待ちでは。有象無象も遣ってきますよ」
臍を曲げたようだ。
兄いは心の内で若さんも後家の気持ちを量り切れないのだなと笑いたくなった。
婆さんと息子に見送られて花畑を後にした。
兄いが多代女に「まだ二時四十分だ。どこかへ寄ろうか」と声を掛けた。
「家に来てお茶に饅頭などどうです」
「饅頭が有るなら寄ろうか」
「下の川を渡れば饅頭屋が有るんですよ」
橋を越えると緩やかな上り坂「十二軒坂ですよ」岩平が兄いに声を掛けた。
多代女は饅頭屋で「三十位間に合う」と聞いている。
「半刻(六十分程)くださればお届けします」
亭主の声が聞こえた。
「申の鐘に遅れたら承知しないよ」
そんなこと言いながら出てきた。
右の道は六斎市前日で賑わっていた、もう一つ先の道へ入った。
四つ辻は混雑していたが博労達は心得て二頭で遮って残りの馬を通り抜けさせた。
寺の上、北側が多代女の屋敷、兄いが明日は辰に五頭本陣へ来てくれるように念を押して「勘定をして置いてくれ」と「今日と同じなら五頭で二千百文だ。南鐐二朱銀三枚預けるから頼んだよ。釣りは今日の十人で均等に分けるんだぜ」と渡している。
屋敷には娘が帰りを待ちわびていた。
「前市へ行きたい」
六斎市は三、八の日、前日夕刻から店を出す者が多くなってきたという。
「岩平と一緒ならいいわよ。およねも連れてお行き」
兄いは幸八たちと「饅頭が来る前に一回りするか」と忠兵衛達にも声を掛けて五人で出て行った。
生沼は「どれ儂も見回りが本来の仕事だ」など言いながら甲子郎を連れ出した。
多代女は笑っている。
「どうした」
「あの人たち二十二夜待ちで私が臍を曲げたと勘違いしてる」
「それもあなたが姥桜のせいだ」
二人で笑いが止まらない、二人は姉と弟のような気持ちに為っているのを、勘違いしているようだ。
「ところで曽良日記は写しなのかね」
「もちろんですよ。父が江戸で大枚はたいて手に入れてきました。兄が私にくれたんです」
「今ここに」
「見ます」
母屋に繋がる土蔵から桐箱に入れた二十冊の冊子を取出した。
おくのほそ道とおくの細道とある。
「おくのほそ道は享保の時代の物、おくの細道は写本で何時のものかしれません」
おくのほそ道は見慣れた摺りものだった、この当時、奥の細道は出版もとが解らない物が多く出回っていた。
曽良日記は写本だが数は少ないはずだという、雨考のは大分簡略されているという。
俳諧書留と元禄二年日記は別の写本も有った。
「此の二冊、読みなれていますか」
「ええ」
「白川と須賀川の分を読み上げてください。覚えます」
「御自分で読んで控えた方が覚えやすいのでは」
「聞いて後で書きだす、そうやって覚えてきました。私の師匠は年寄りが多いですが若いあなたの声なら頭に残りやすい」
「では明神あたりから」
“ 二十一日 霧雨降ル 辰上尅止 宿ヲ出ル 町ヨリ西ノ方ニ住吉 玉嶋ヲ一所ニ祝奉宮有 古ノ関ノ明神故ニ 二所ノ関ノ名有ノ由 宿ノ主申ニ依テ参詣 ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣 行基菩薩ノ開基 聖武天皇ノ御願寺 正観音ノ由 成就山満願寺ト云 旗ノ宿ヨリ峯迄一里半 麓ヨリ峯迄十八丁 山門有 本堂有 奥ニ弘法大師 行基菩薩堂有 山門ト本堂ノ間 別当ノ寺有 真言宗也 本堂参詣ノ比 少雨降ル 暫時止 コレヨリ白河ヘ壱里半余 中町左五左衛門ヲ尋 大野半治ヘ案内シテ通ル 黒羽ヘ之小袖 羽織 状 左五左衛門方ニ預置 矢吹ヘ申ノ上尅ニ着 宿カル 白河ヨリ四里 今日昼過ヨリ快晴 宿次道程ノ帳有リ
”
「いかがです」
次郎丸は何時もの詠う様な節で復唱した。
饅頭が来たが出て行ったものが戻らない。
「二十九日までは記述は少ないのです」
“
二十九日 快晴 巳中尅 発足 石河滝見ニ行 此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡 須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有 滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ 上ヘ登ル 歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由 阿武隈川也
”
これに続く“ 宿ムサカリシ
”迄二度二人で繰り返した。
「江戸に出てくる郡山の者が嘆くのはこれが有るからですか。郡山にも写本が有るのかな」
「仕方ないのです。元禄のころは家が今の三割程度、八割方は農民と言われたころですもの。今の郡山とは比べ物になりません」
ふふふとおかしげに笑った。
「どうしました」
「郡山は宿場とはいえ郡山村なのです。須賀川を追い越す勢いが見えても田舎の観がすると旅の人が言うのです」
冊子は其角などの物も有ったが仕舞って貰った。
「読もうとすれば雑念が湧いてとめどなく読みたくなります。本日は此処までにします」
桐箱を仕舞って戻ってくると、二人で山盛りの饅頭を見て笑い出した。
「お茶を入れますわ」
台所の者に言いつけて湯を沸かさせてきたと二人分の茶の仕度をして饅頭を見ながら茶を楽しんだ。
申の鐘が上から聞こえると次々戻ってきた。
「まるで祭りの宵宮です。夜も五つまで明かりをつけるそうです。月六度これが繰り返すなど須賀川は江戸並です」
この時期だと五つ(戌)は九時近い、町会所の周りは朝七つ(三時三十分頃)から店開きだという。
「忠兵衛夕飯に影響ない位にしておけよ」
その声に多代女が「忠兵衛さん大喰らいでしたの。蕎麦切りだけじゃ足りなかったでしょうに。ひどい旦那様に仕えたわね」と五個皿に盛って差し出した。
弥助が調子に乗って「忠さんに蕎麦を食わせたら限度が有りませんよ」など言っている。
「そういえば矢吹であの辛い大根汁で五鉢楽に食いおった」
生沼に言われて照れている。
田善と菓子屋がもう一人同年輩の男と遣ってきた。
「同でした」
「今年は雨がすくないから迫力に欠けたわ」
「えっ。降りませんでしたか」
「こっちは降ったの」
「昼ごろ遠雷が聞こえたので」
およねが愛宕山の方を通ったという。
「あれ、明日八流へ行くから向こうは水が多そうだわ」
「三千代姫の涙雨だ」
「田善様たら、そんなの聴いたことありませんよ」
「およねだってそこの三千代姫くらい知ってるだろうに」
「その位、此処で育った者は知ってますよう。涙雨は初耳だってえ」
次郎丸が間に入った。
「でんぜんさんよ。前にくれた二階堂実録の話しかよ」
「そうですよ。後で聞いたら大殿が元本の藤葉栄衰記(とうようえいすいき)が有るから若さんへ回したと言われた本ですよ」
“ 思ひきや 問はば岩間の涙橋 ながさで暇 くれやさわとは
”
“ 限りある 心の月の雲晴れて 光とともに いる西のそら
”
気持ちよく詠いあげて「須賀川落城記というのも持ち込まれたが写し間違えか意図的かちがう歌に為っていた」と又詠った。
“ 人間わば 岩間の下の涙橋 流さでいとま くれや沢とは
”
「その最後の、伯父様から教わりました。わかさんて殿さまから本を廻して貰えるんだ」
「おれのとこは貧乏だから写本をして稼ぐんだ。大殿様や殿様も精々稼げと許されてくれるのさ」
「確かに、若さんの写本は稀覯本ばかりだ」
「田善様、きこうほんてなんですか」
「めったに手に入らない本の事だよ」
岩平も身を乗り出してきた。
「でんぜん様の旗は一分だけど若さんの写本は幾らになります」
「でんぜん、そんなに高いのかよ。日に一枚くらい書くんだろ」
「若さん儲けが一分のはずないですよ。布代、顔料、手元に半分のこりゃしませんよ」
「なんだ大工の棟梁より一日の実入りが少ないじゃないか」
「そりゃ若さんのように榊原様に亀井様の若様などと付き合いありませんよ」
「ありゃ剣術仲間だ。本屋の親父とぐるで安い写本代で働かして儲けでうなぎ奢らせやがる。お前さんだってうなぎで画を描かされたろうに」
「そりゃ、自分で一皿四百文のうなぎなど滅相もない」
兄いが「須賀川に鰻屋が有りませんね。郡山に三軒有るのに何でです」不思議そうに聞いた。
鏡沼付近の釈迦堂川に阿武隈川も白川の城下迄、遡上はしても漁獲は少ないそうだ。
「見世を開くほど取れないという事ですか」
「鰻好きの、物好きな金持ちがやるしかないな。阿武隈の下流から仕入れても後が大変だ」
湧水、池、鰻の餌、川漁師、それにうなぎを割いて焼く職人、半端な資金じゃ維持できない。
「江戸は四百文も鰻がするんですか」
屋台見世ならひとくし十六文も有るが、江戸の風鈴蕎麦は十四文で食べられる。
小肌の鮨、鯵の鮨なら大きくても八文、新子の初売りで十二文、いかに鰻が高くなったか貧乏人の嘆きが聞こえる。
江戸の需要が広がり旅鰻は遠くから船でやってくる。
岩平は儲かりませんかと田善に聞いている。
「一皿百文取っても来てくれるならいいが」
「そんな、高すぎますよ」
「びわ池に鰻が居れば安く済むが、遠くから買い付けるようじゃ安くは出来ないな」
「百文で百人前売っても十貫文、儲け半分で五千文」
「いい商売じゃ有りませんか」
「毎日百匹のうなぎが集まればだ。日に百人前も売れるかね」
「半分も無理ですか」
「下の川に鰻が押し寄せてきたら出来るな」
「もうでんぜんさまは冗談ばかり言って」
多代女に怒られている。
「鏡沼付近や龍神村でうなぎを取れれば近くて済むはずだな」
生沼まで鰻に興味が湧いたようだ、白川にも一軒しか見世がないという。
「びわ池は藤井の家の物じゃないのか」
「分家の方ですよ。俺の師匠の晋流さんの時手に入れています」
菓子屋の石井久右ヱ門は雨考。
藤井晋流は其角門下、等躬の後継者。
藤井総右衛門が娘の婿に選んだと云う。
藤井総右衛門の俳号川柳、娘久須は俳号霜楠(そうなん)。
藤井晋流事源右衛門は宝暦十一年江戸で亡くなり、遺髪が十念寺へ納められ、夫妻の墓碑が建てられた。
「弟子と言ってもこっちゃ十三、四のはなたれ小僧。当時は先輩に手ほどきうけていて弟子は烏滸がましいと自覚はあります」
亡くなったあと十年足らずで江戸の家に有った芭蕉、曽良の真筆が燃えてしまったと言う。
写本といえ曽良日記などが須賀川に多いのは等躬、晋流二人の力が大きいと言う。
「ええ、話が弾んでいますがね。宿へ戻らねえと本当に二十二夜待ちに為っちまいますぜ」
兄いがもうじき酉の鐘が鳴ると言いだした。
「いいじゃないですか。お酒に摘みは家でも用意できますよ」
次郎丸は「本陣で迷子探しが出ないうちに戻ろう」と立ち上がった。
宿ではすぐ風呂へ入れるというので兄いと次郎丸に弥助が先に入った。
“ 三つ違いのあねさんと
”
兄いが浄瑠璃を唸っている。
「新兵衛兄い、三つ違いは兄さんですぜ」
「こいつ俺を皮肉ってるのさ」
「ああ、おかみさんか。どう見ても三十、七八(しっぱち)てとこですぜ」
「弥助兄い、いい勘どころだ。博労は四十に行くかどうかだと言っていたぜ」
兄いも情報を集めるのは得意だ。
背中を弥助に流してもらい髪は解いて洗った。
「今年びんつけ使ったのは幾日あったかな」
「お屋敷にいるときくらいじゃないですか。殿様に会われる用事でも無きゃ。無精して洗い髪で浪人見た様な日も有るじゃないですか」
食事に酒を二合で、良い気持ちに為っている。
田善の手紙が来たと女中が持ってきた。
二十二夜待ちと聞いて、四人ほどおさな馴染みが集まり多代女が家で昔話を始めたが、若さんを呼べと言うので手紙を書くことに為ったと有る。
「一人で来て呉れでしょうな」
生沼文平が屋敷まで送ると支度をせかした。
確かに幼馴染なのだろう七十近い連中が五人いた。
「年寄ばかりで二十二夜待ちをして起きていられるのか」
皮肉を言ったがもう酔っていてへらへら笑っている。
暫く付き合って、時計を出すと「後六十分しなきゃ月は出ないぞ」と言ったが昔話は行きつ戻りつしてばかりだ。
多代女はよく飽きずにこの年寄と付き合えると思った。
ようやく十一時五十五分に月が東の方向に出てきた。
「本家ならもう少し高みに有るから早く見えるんですよ。ここだと少し遅れて見えます」
年寄たちも半月から右が食い込んだ月を見て、ようやく酒をやめてごろ寝を始めた。
薄物を多代女が皆に掛けている。
七つ刻近くか通りを行く声が聞こえてきた。
月が南へ上がる中、アジサイの小路を抜け、裏木戸まで多代女が送ってくれた。
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