第伍部-和信伝-壱拾陸

 第四十七回-和信伝-壱拾陸

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

繫絃(ファンシェン)飯店は昼も終わり昂(アン)先生が羅虎丹、徐、曽の四人で茶を飲んでいた。

「明日は申の鐘で始めるそうだな」

「もう此処へ話が来たのか」

「前で連絡を付けたそうだ」

遠回りしている間に連絡がついていた。

「本が来ましたよ。與仁(イーレン)さんが擔に入れ替えていました。二人で担ぐほど無いじゃないか、とぶつぶつ言っています」

「その手の巻物も買ったのか」

弟弟(ディーディ)ならともかく、昂(アン)先生に興味があるとは思えないが披露した。

「いい字だな。只有鐘聲到枕邊かいい出来だ」

席佩蘭の自筆だというと「大分払ったな」と見抜かれた。

王均は「銀(イン)六両でしたよ」と話してしまった。

「これを書くにどれくらい反故にしたやら。それでこの出来の絹本なら安いものだ」

王均は「私が書いたら絹本が無駄になる。無駄にしないためには献呈しないとだめだろう」と言っている。

其の與仁(イーレン)が来て王均に「予約しておきましたぜ」と告げている。

「フェイツァイ(徽菜・安徽料理)だが特に希望が有れば準備させるそうですよ」

合肥(ハーフェイ)出の料理人は、康演が気に入るほど変幻自在に、要望に沿って提供してくる。

「二人で昼酒ですか」

「船で戻ろうというので待つ間飲んだだけさ」

 

阮繁老(ルァンファンラオ)の方は與仁(イーレン)の付き合いのある商人たちだ、進士及格(ヂィグゥ)の王均(ウヮンヂィン)、童槐(トォンファゥイ)に覚えてもらうだけで将来もある。 

昂(アン)先生は呼び出しが来て「一刻もすれば戻る」と出て行った。

映鷺(インルゥ)が「哥哥は」というのに「向こうで宜綿(イーミェン)様、羅虎丹(ルオフゥダァン)の三人でこそこそ酒を飲んでるよ」と告げ口した。

丁(ディン)たちは親族で宴席が開かれているので戻ってきていない。

徐(シュ)・曽(ツォン)は綿屋が招待してくれたのでこれも留守だ。

與仁(イーレン)は豊泉も招待していた。 

合肥(ハーフェイ)料理は大きく言えばフェイツァイ(徽菜・安徽料理)で陶英亮(タオインリィァン)が料理長。

まだ日中の申(平均午後四時・午後四時30分頃)に人が集まりだすと料理が運び込まれてくる。

與仁(イーレン)から半分来たら始まりだと言われているのだ。

心配する間もなく予定の人数はそろっている。

酒は最初に香酒(シャンビンジュウ)で干杯(ガァンペェィ・乾杯)した。

あとは卓に置いたものから好みを言えば注いでくれる。

冷菜の皿に注文でジャンファン(醤方・巨大トロトロ角煮)が追加されている。

其の皿が空にならないうちに次の料理が来た。

ヂンホアフオトェイ(金華火腿)が昨日漸く手に入ったと自慢している。

氷鑑(ビンヂェン)詰めを二百本十五人で買い入れて分けたそうだ。

よく映鷺(インルゥ)がと思いきや、お仲間入りで自宅の富母さんへひと箱分けて遊びに来る人にふるまわせた。

その火腿を大胆に使う腕もある。

ホウトエトゥンチャーユイ(火腿燉甲魚・ハムとスッポンの煮込み)

湯は玉米(ュイミィー)の浮かんだあっさりしたもの。

こいつに銀(イン)がかかるとは客は知らない。

ユゥバオシィア(油爆蝦・川海老の素揚げ)

シェーファンドゥフ(蟹粉豆腐・蟹ミソ豆腐)

ソンシューグイユー(松鼠桂魚・揚げた桂魚の甘酢あんかけ)

バイフーチャオジードウミィ(百合炒鶏頭米・百合根と妖蓮の実の炒めもの)

鶏頭米-妖蓮(ィアオリィァン・オニバス)はつぼみが鶏の頭に似ている、そこから真っ白で真ん丸な実が採れる。

「安徽料理などこっちは蘇州料理で鍛えた舌だと威張っていたが、火腿燉甲魚には負けを認めますぜ」

四十代の大きな腹の男は絶賛した。

「実はもう一品、湯を用意しておりますが、ほんの舌を洗う程度でご勘弁を」

すっぽんのスープを茶杯で配った。

皆一様にほぅと声を上げる旨さだ。

「甲魚(チャーユイ)、姜(ジャン・生姜)はわかる、酒が何かわからん」

「長崎渡りの和国の物です」

楯野川と樽に名が入っている「飲みたい」その声で飲み干した茶杯が差しだされた。

「弱い酒だが飯の後にちょうどいい」

二回りするほどもなく御つもりとなってしまった。

すかさず與仁(イーレン)が「最後の干杯(ガァンペェィ・乾杯)は杭州黄酒(ハンヂョウホアンチュウ)で閉めましょう」と言って仲居に頼んだ。

壺が運び込まれて新たな酒杯につがれた。

頼まれて王均が「良きひと時を過ごした仲間に干杯(ガァンペェィ・乾杯)」と〆てくれた。

映鷺(インルゥ)ほか仲居に見送られ、三々五々阮繫老(ルァンファンラォ)を後にした。

 

與仁(イーレン)達四人も最後に出て繁絃(ファンシェン)飯店へ向かった。

食堂では瑠璃の容器に湯が注がれている。

甫映姸(フゥインイェン)と甫寶燕(フゥイパオイァン)も観ていた。

「何がはじまるんだい」

王均は興味津々だ。

芳(ファン)が小さな壺から大きな匙で三杯の茶葉を入れた。

すぐにひらひらと沈んでしまった。

「失格」

なんですと王均は哥哥に聞いた。

「偽物かどうか試しているのさ」 

碧螺春(ビールゥオチゥン・へきら)にしても粗悪品だ。

洞庭碧螺春(ドンティンビールゥオチゥン)として売り込んだ者がいる。

康演がいればすぐわかるがほとんど蘇州にいない。

見分け方は湯に沈む速さで判定できる。

「最近は南京(ナンジン)近くでも、小さな茶商がだまされるそうだ」

味を決め手にするのは相当の通でないと無理なくらい出来は良いそうだ。

値が小売りで三倍、いや五倍に跳ね上がるともいわれる洞庭碧螺春と偽る売り込みは、後を絶た無いという。

地元でこれだもの本物など見たことない遠方の者は簡単に騙されてしまう。

21世紀の解説には碧螺春は特徴的な産毛を持つ事から、産毛が気泡を持ち熱湯に沈みにくい性質を利用して、茶葉に湯を注ぐのではなく湯を入れたガラス製などの透明な茶器に後から茶葉を投入し、浮いた茶葉が徐々に沈み往く香と味の変化を楽しむ手順も好まれる。ただ、碧螺春に似せて作られた茶葉は、産毛を持たないことから、お湯に沈み易い。このことから、「碧螺春はお湯に沈み易い性質があり、お湯に茶葉を入れる手法が好まれる。」という表現が見られることもある。)

「本物が飲みたいものですね」

「そういう人がいると思って間違いないのを持ってきてるんだよ」

瑠璃容器のはもったいないがと言って全部捨てさせた。

また最初は瑠璃容器に湯が注がれ、寶燕が匙で三杯入れた。

葉が解け(ほどけ)船が回るように回転が始まった。

動きが止まると沈みだした、また湯を柔らかく注ぎ淹れ小さな砂時計を出した。

五十数える間もなく砂が落ち、茶杯に注いで皆に配った。

「ウ、うまい」

王均(ウヮンヂィン)は思わず叫んだ「わが家にも碧螺春は有るがこいつはめっぽうもなくうまい」と二杯目を催促した。

「もう少し待ってください。二煎めからはこれが往復してからが、おいしいですよ」

「早く飲むのに熱い湯はだめなのかい」

「瑠璃の方が壊れてしまいますよ。磁器の方ならできるでしょうがね」

與仁(イーレン)が「湯を注ぐのでなく湯に落とした方がうまいんだと古手の茶商が教えてくれたよ」と話した。

二煎めはじっくりと口中で香りを楽しみのどへ落ちる香りを鼻で楽しんでいる。

「酒好きだと思ったが茶も好きだったか」

にへら、と王均が笑った。

仲居や料理人たちが食事をはじめ、三煎を飲ませたが一様に旨さに驚いている。

「この後は出がらしの只の茶と変わりませんよ」

寶燕は試したと笑っている。

「ところで福州(フーヂョウ)で別れたきりだが康演はどこにいるんだ」

「最近は新しく結に引き入れた昔なじみの船で、あちらこちらと回っていますよ」

ああ、あいつかと伊綿(イーミェン)もうなずいている。

仲居たちは桂花糖水鶏頭米(グイファータンシュイジードウミー)を楽しんでいる。

キンモクセイの香りがして、温かい汁には妖蓮の実が沈んでいる。

「うまそうな匂いがするな」

昂潘(アンパァン)が戻ってきた。

「酔い覚ましに食べたい」

料理人がすぐに卓へ置いた。

茶は仲居がもらって四煎を飲んでいる。

「いい香りの茶だな」

それももらった「やあ、こりゃ上等茶の出がらしだ。ここではこんな扱いをするのか」とふざけている。

「先生、今日はどこで食事をしたんですの」

「あの連中、一昨日からこそこそ何か企んでるようでしたわ、姐姐(チェチェ)」

「そんな悪だくみじゃないよ」

甫映姸と甫寶燕の姉妹に絡まれている。

「奥灶面(蘇州麺)の職人が店を持つ相談だ」

「どこへ出すんです」

「ハァンシャンスー(寒山寺)京杭大運河埠頭だ」

「まさかこの時間で往復なんて、食べる時間もありゃしない」

「店を出すのが埠頭だが、今日はこの近くの店で腕試しをしたのさ」

蘇州には上皇が昔食べたという奥灶面(蘇州麺)という美味い面があるというが昆山はいかにも遠い。

土地の者が後押しして、店を持たせるというので付き合ったと説明した。

湯は夏冬で違うが、ホワンシャン(黄鱔・田鰻)・ヤーツ(鴨子・家鴨)・イートゥオ(魚頭)で出汁をとるという。

乾隆帝、南巡の度に逸話を残している。

鎮江(ヂェンジアン)“鎮江盖鍋面”、無錫(ウーシー)“広福寺素面”、蘇州(スーヂョウ)“松鼠桂魚”、昆山(クンシャン)“奥灶面”など食べたと逸話が残る。

十年以上前には、蘇州の七里山塘に店があったが、老齢で店を閉めて久しいという。

童槐(トォンファゥイ)と王均(ウヮンヂィン)は腹も膨れてもう寝ようと部屋へ引き取った。

 

まだ戻らぬものも多い、映鷺(インルゥ)が「景延(チンイェン)はこちらにいますか」とやってきた。

まだだと聞いて芳(ファン)が淹れた茶で一休みしている。

「ごめん下さいまし」

年寄りが五人ほどの人とやってきた、

「こちらにナントン(南通)のウヮンヂィン(王均)がお泊りと聞いてきたのですが」

「はい、お泊りですよ」

後ろの人へ「奥様此処だそうです」と声をかけた。

立ち姿も麗しいヂィアレェン(佳人・美人)が入ってきた。

與仁(イーレン)も驚いている。

夜番の番頭が急いで王均を呼びに行った。

「どうした」

「貴方、どうしたではありませんよ。江都からの手紙でシュティン(徐頲)様の所へ寄って戻るというので、着替えを持たせてやってくれば宿の方にいるといわれて、夜船でやっとたどり着きました」

「すまんな、今日は巡撫他お偉いさんの役所周りでつぶれたんだよ」

芳(ファン)が「食事はどうされました。あり合わせでよければ支度させます」と声をかけた。

五人に食事をさせている間に芳(ファン)と映鷺(インルゥ)は部屋の割り振りをしている。

「王均(ウヮンヂィン)様に奥様とでは部屋が小さいので別に用意させましたので荷物を持ってきてくださいませ」

「十分広さがあるぜ」

「それだとお供さんの部屋が取れないのでお願いいたします」

それもそうかとうなずいた、お坊ちゃんの王均は人任せで気にしないようだ。

インドゥには耳打ちして「阮繁老にお二人をお泊めして後はこちらに用意しました」と告げておいた。

食事がすむと映鷺(インルゥ)と仲居が二人ついて夫妻を「裏からで申し訳ありません」とわびて案内した。

四人にも一人ずつ案内を付けて部屋へ案内した。

離れには違いないが豪勢なところへ送り込まれて二人は驚いている。

汗を流す湯も十分に用意されていた。

二人になって夫人が淹れた茶でくつろいだが、しばし呆然と言葉が出ない。

「俺たちとんでもない宿に泊まったようだ。前の部屋も旅で泊った宿とは比べられないほど行き届いていた」

「あなた」

言葉では言いつくせない苦労もあったのだろう。

「及格(ヂィグゥ)おめでとうございます」

夫の胸でようやく言えた言葉だ。

 

そのころ残った面々は「あの王均とまさか。ヂァオヂィン(昭君)なのかと思った」驚きは消えていない。

丁(ディン)夫妻も戻り豊泉も眠気に負けて部屋へ引き取ったがまだ景延(チンイェン)と二人が戻らない。

虎丹も部屋へ引き取り戌の鐘(平均八時・九時十分頃)とともにようやく帰ってきた。

大時計を見て「まだこんな時間か」と昂(アン)先生は一杯やりたくなったようだ。

 

六月十一日(陽暦千八百零五年七月七日)

朝、目覚めた王均は腕を枕に妻がいてぎょっとして正気に戻った。

ああ、昨晩来てくれたのだと、愛おしくなり胸に抱きよせた。

こんなヂォウパァパァ(皺巴巴)なら銀(イン)にもしわい、などいわれる俺に尽くしてくれる朱徳叶(ジュドゥーイェ)は十六で嫁にきて十年がたつ。

父母の亡き後、先の子が女で次が男と二人の母として、本の虫と言われるほど勉強に打ち込む俺を支えてくれた。

どの位力になってくれただろう、十八から十年の間挑戦し、漸く会試への道にたどり着いた。

百年前は資産もあったが祖父の代に半分になり、それほど余裕もないのに、京城(みやこ)へ出るとき銀票二百両を用意してくれた。

「見た目で判断などする方がおかしいのです」

晴れて進士として故郷へ錦が飾れる、その夫が遠回りしてなかなか戻らない。

普通なら怒るところを“付き合い”との簡単な文から苦労しているのかと心配で、いてもたっても居られなかったのだろう。

実家は薄荷農園で卸もしている、許嫁というので同業のわが家へ嫁に来てくれただけでも苦労しただろう。

仕事は番頭任せで勉強一筋、我ながら情けないと思う日もあった。

昨晩「徐頲(シュティン)哥哥、孫原湘(スンユァンシィァン)哥哥を含めて三十人ほど招待して、六月黄の大盤振る舞いに残った百三十両を出したら、こんなにいらんと三十両戻された」と話したら「百両持参しました、最近はやりの香槟酒(シャンビンジュウ)を買い入れて振舞いましょう」と上手を言われた。

二人で朝の一番に直接行ってお頼みしましょうとも言ってくれた。

空が白んできた、夜明けが近い。

妻が目を覚ました「厠へ行く」と起きて用を足して広間へ出ると、大きな時計が四時三十分を指している、響いてきたのは卯の刻の鐘だろう。

すでに外城河の船は準備に入るはずだ、一人でも客が来れば最初の船が出る。

妻が着替えて出てきたので自分も髭を剃り外出着に着替えた。

教えられたひもを引くと早速当番の仲居が来てくれた。

用向きを話し、出ようとすると映鷺(インルゥ)が山塘河の船着きから船でお回りなさいと言って景延(チンイェン)を案内に付けてくれた。

一回り銀(イン)五銭(五百文)で話が付いた。

婁門(ロォウメン)で降りて半時ほど刻をつぶすように頼んで城内へ入った。

甫礼緒(フゥイリィシィ)の瓶莱(ピィンラァイ)酒店で来た訳を話した。

「何本あればいい。香槟酒(シャンビンジュウ)たぁ、気が利いた酒だ」

徳叶が百両分の銀票を出して「これで賄える分をおたのみ申します」と受け取らせた。

其れこそあっという間に二人が消え、礼緒の方があっけにとられている。

辰の鐘の中波止場で降り、船頭に「待たせた分」とさらに銀(イン)五銭を受け取らせた。

阮繁老へ戻ると「粥をお持ちしますか」と聞かれ、頼んで出してもらった。

「俺たち、いつの間にお大臣になったんだ」

「本当ですわ。でも明日からはいつもの生活を心がけましょうね」

やっぱり出来た嫁は、どこか違うと思って、愉快になった。

 

王昭君 李白 

漢家秦地月,

流影照明妃。

 

漢家(かんか) 秦地(しんち)の月

流影(りゅうえい) 

明妃(めいひ)を照らす(てらす) 

一上玉關道,

天涯去不歸。

一(ひと)たび玉関(ぎょっかん)の

道に上り(のぼり)

天涯(てんがい) 

去って帰らず(かえらず) 

漢月還從東海出,

明妃西嫁無來日。

漢月(かんげつ)は還た(また) 

東海(とうかい)より出づるも(いずるも)

明妃(めいひ)は西に嫁して(かして)

来たる日無し(ひなし) 

燕支長寒雪作花,

蛾眉憔悴沒胡沙。

燕支(えんし) 長(とこし)えに寒くして 

雪は花と作り(なり)

蛾眉(がび) 憔悴(しょうすい)して 

胡沙(こさ)に没す 

生乏黄金枉圖畫,

死留青冢使人嗟

生きては黄金(こがね)に乏しく(とぼしく) 

枉げて(まげて)図画かられ(えがかられ)

死しては青塚(せいちょう)を留めて(とどめて)

人をして嗟かしむ(なげかしむ)

-不詳・右-久隅守景(江戸時代元禄頃)

 00-05-wang

 

王昭君 李白

 

昭君拂玉鞍,

上馬啼紅頰。

昭君    玉鞍(ぎょくあん)を払い、

馬に上って 紅頬(こうきょう)に泣く。

今日漢宮人,

明朝胡地妾。

今日    漢宮(かんきゅう)の人、

明朝    胡地(こち)の妾(しょう)。

 

王昭君・名は嬙(しょう)。昭君は字(あざな)

 

王均は仲居に女老板(ヌゥーラオパン)と話がしたいというと映鷺(インルゥ)がやってきた。

「えっ、芳(ファン)さんではないの」

「媽媽(マァーマァー)は彼方の繁絃(ファンシェン)飯店の女主人で、ここはチィエ(妾・わたし)が仕切らせていただいております」

「ここの宿代はいくら払えば」

「十三日まですべて清算済みでお受けしております。陳鴻墀(チェンフォンチィ)先生がお立ちになるまでご滞在と承っております」

「誰に払えばよいでしょうか」

「何時も與仁(イーレン)さんが会計をされておられます。直接お尋ねくださればよろしいかと」

都合を聞いてまいりますと映鷺(インルゥ)が裏から抜けて與仁(イーレン)に話すとインドゥも付いてきた。

王均は「向うと此方の宿代を支払いたいのだが」と與仁(イーレン)に説明した。

「実は会計ですが、私たちはフォンシャン(皇上)の言いつけで福州(フーヂョウ)、潮州(チァォヂョウ)迄出た戻りです」

後をインドゥが「いわばフォンシャンの奢りということです。支払うことはないのです。どうしてもというなら内務府からフォンシャンへお返しください。明細が必要なら作らせます」と権威をかさに着た言い方をした。

そのあと「今のは建前で、私たちは許された範囲で接待できます。王均殿は知っているはずだ」と説明させた。

「でも」

「いいやお前に話す間もなかったが、こちらのお方は固倫公主様の額駙(エフ)だ」

いなかと言っても今の固倫公主(グルニグンジョ)はフォンシャンの妹妹はわかる。

皇后の娘ではない方が、特例をもって固倫公主(グルニグンジョ)と名乗りを許された特別な公主だ。

気が落ち着いたようなので「一緒に旅をした友人位の扱いにしてください。そうしないと今夜の宴会に出られない」と笑い顔で頼んだ。 

徳叶(ドゥーイェ)は利発な女で、インドゥたちが新しい進士を歓迎してくれたということを飲み込むと「お世話にならせていただきます」と告げた。

「宴席だと城門の閉まるのに間に合わない。今夜は陳(チェン)先生の方で手配なされたので貴重品は宿へ預けておきなさい」

映鷺(インルゥ)が供の男たちを連れてきたので「昼に為ったら船で婁門(ロォウメン)へ出るから一緒に行こう。時間まで徐頲(シュティン)の邸で茶で時間つぶしだ」と誘った。

 

その晩の宴席は盛況だった。

始まりは香槟酒(シャンビンジュウ)。

李可瓊(リィクゥチィォン)がやってきた、徐(シュ)の家へ行ってここを教えられたと話している。

黄承吉(ホァンチァンヂィ)に引き留められて五日ほど江都に滞在していた。

徐(シュ)が頼みにしていた船はインドゥたちが乗る船で上海へ出て、南京からの船に乗り換えると甫寶燕(フゥイパオイァン)が決めてくれている。

「ただねえ、遅くも十六日の船出だから哥哥の船に乗り遅れると事だよ」

あとはご本尊の到着待ちだったが間に合ってくれた、おまけに王均の宴会にも間に合った。

「運のいい男だ」

孫(スン)哥哥も珍しく褒めている。

紹興酒が一回りして白蘭地(ブランデー)が出てきた。

客も驚くぜいたくさだ、六月黄に飽きないよう、途中で鱶鰭のスープも出た。

甫礼緒(フゥイリィシィ)の腕は確かで一刻半にも及ぶ宴席は大成功だった。

 

三十三歳李可瓊(リィクゥチィォン)の南海羅村は広州(グアンヂョウ)の港から四十八里ほどという。

足の速いものなら三刻ほどで歩く。

李可瓊は結の連絡網で上海(シャンハイ)乗船が伝達されていて、あとは南京からの船にのれば広州までただ乗りのお客様だ。

上海から広州を荷下ろし、荷積みを入れても十五日で計算している。

徐頲(シュティン)は甫寶燕(フゥイパオイァン)が予定では広州七月一日到着、六日発上海(シャンハイ)直行で十六日到着だという。

普通の貨客船だと二十五日が定番だ。

それに乗れないときのために呉運宣(ンインシュアン)の雷稗行(レェイヴァィシン)あての手紙を渡すことにした。

蘇州から陸路三千三百里、歩き、馬車などだと、どんなに急いでも片道二十五日はかかる。

 

翌十二日朝、船で繁絃(ファンシェン)飯店へ戻ると、しばらくして前から康演が出てきた。

前日夕刻に戻ったという。

陳(チェン)先生に豊泉と童槐(トォンファゥイ)は午に船で帰郷した。

王均夫妻は康演が運河で南通までの荷が明日出るのでそれで送ると決まった。

というよりは甫寶燕(フゥイパオイァン)が決めていた。

王均は妻と南通から出てきてくれた四人に「家へ土産を買いなさい」と映鷺(インルゥ)に崩してもらった銀(イン)五銭、妻からも銀(イン)五銭、それぞれもらうと山塘街(シャンタンジエ)へ勇んで出て行った。

康演(クアンイェン)がくれた付近の運河地図は夫妻の興味をそそって、話が弾んだ。

今回はこの河筋と寶燕は説明もしてくれた、運河で三百八十里あるという。

通貴橋の波止場から山塘街(シャンタンジエ)を下り、外城河から娄江(ロォゥジャン)へ、河(リゥフゥ)に乗り替わり河鎮で長江(チァンジァン)へ出る。

長江を二百里上って通呂(トォンルゥ)運河で南通(ナントォン)に入り薄荷(ボーフォァ)集積の拠点王家村で降ろしてくれる。

船はその先まで行くという。

「黄海の出口まで台鐘(タァィヂォン・置き時計)に水龍(シゥイロォン)・棉布(ミェンプゥ)を運ぶんだが、荷下ろしで四回は港に入る予定だ」

そのように教えてくれた。

十三日辰に船出だという、百六十里で河鎮夜船は避けてそこで一泊という

東源興(ドォンユァンシィン)の出店が宿を持っていて、すでに今朝の船が六人の部屋は抑えてあるという至れり尽くせりのもてなしだ。

長江はおよそ二百里上るという、日程は潮位表で上げ潮が辰刻(洋時計六時五十分より)と書き込まれていた。

「これに合わせれば船頭も楽になるんですよ。海風もありますし四刻あれば楽に登れます。急げば三刻で登る船までいます」

寶燕は細かく教えてくれた。

 

徐頲が李可瓊を連れてやってきた。

細かい打ち合わせと船での心得を寶燕が話してくれた。

「心づけなんてお断り」

「しかし」

「しかしも干菓子もお断り。頼まれたから引き受けた。それ以上は何もありませんのさ李可瓊様。肩身が狭いというなら船長の言うことを守って堂々としていてください」

七月二十五日江都、崙盃(ロンペェイ)大酒店との打ち合わせに戻るには行きの船の戻りに合わせる必要がある。

それでとなら陳(チェン)先生、童槐、徐(シュ)に王均とも二十日の船で邵伯での集合に間に合う。

船は彭邦疇(ペンパァンチォウ)が南京(ナンジン)で契約して三十人まで同じ金額で抑えてくると豪語していた。

「邵伯から一人二十二両見てくれ。残りが八十五両あるが飯代別だとそれを使うようになる」

豪語したわりに自分の負担を余分に出す気はないようだ、南京(ナンジン)長春港二十二日出航で間に合えば宿松(スーソン)の石葆元、安徽桐城(トンチョン)の姚元之、馬瑞辰、張聰賢と下僕四人を乗せてくるという。

石葆元は安慶から船で南京(ナンジン)迄、載せてもらう予定だという。

安徽桐城の方はまだ情報がない。

結に漕幇(ツァォパァ)の拠点の一つが安慶任店村にある。

桐城迄百五十里、宿松まで二百四十里だと云う。

徐(シュ)は二十二両で宿、飯付きは難しいとみている、甫寶燕(フゥイパオイァン)にはこんな風になっているとわざわざ聞かせた。

察してくれれば手配もしてくれる可能性もある。

徐頲(シュティン)の所へ毎日東源興から情報が入ってくる。

何、結に漕幇(ツァォパァ)の船主に“姐姐が肩入れしている”情報が飛んでいてお役に立とうと勇んでいるのだ。

 

午後に冠廉がやってきていつでも出られるという。

「千石船に玉米(ュイミィー)と小麦(シィアォマァィ)を積んできました。通州迄入って荷を下ろします」

「三百の方はどうした」

「ここから綿布を積んで戻ります。五百石船は台鐘(タァィヂォン・置き時計)に棉布(ミェンプゥ)を積んで安徽の安慶任店村まで登って、下りは綿花を南京へ運びます」

どうやら往復の仕事にありついたようだ。

「安徽の綿花は有名だが棉布(ミェンプゥ)にはしないのか」

「南京、蘇州で織るから値打ちが出ます。向こうで織ると買いたたかれてしまいます。蘇州へ来れば松江と分かっても直で松江には食い込めません」

「南京の絹は高いが、綿もなのか」

「首領(ショォリィン)様だって冬に為れば南京綿の着物を着られるでしょう」

そういえば冬物は南京棉布(ミェンプゥ)だ。

広州と京城(みやこ)へ半分以上が送られ綿問屋は受けに入っている。

英吉利はインド綿の売り込みを図っているが、輸送費で儲けが出ないと売り先を模索中という。

蘇州には“布行”と看板を上げる店が軒を連ねている、多いのは“松江標布”の看板だ。

土地の綿花だけでは需要に追い付かない。

 

「十三日の巳の上刻、今だと九時頃だな、そのあたりに出よう」

「わかりやした」

此方は千石と大きいので留園の南の波止場に泊めてある。

上塘河から寒山寺で大運河に入り南下、宝帯橋からは呉淞江(ウーソンジャン・蘇州河)に入り、抜けて上海(シャンハイ)黄浦江で長江(チァンジァン)へ出る。

普段は南京、鎮江、上海を選ぶが、水夫の修練にもなる二百里の水路だ。

十八か所帆柱を倒して進む橋がある
引船も沢山たむろしている、一艘橋一か所わずか銀(イン)三銭だが。日に三十艘は仕事にありつける

李可瓊には明日の朝、辰の上刻、食堂の時計で六時三十分に宿を出ると伝えた。

自分の懐の時計を出して食堂の時計に合わせている。

自分のとは違うなど言わない、ということは見かけと違い神経は細やかなのだろう。

予定の通り船出し、翌日未(午後二時十五分頃)に長江(チァンジァン)に出た。

 

六月十四日(陽暦千八百零五年七月十日)申の刻(午後四時三十分頃)

崇明(チョンミン)の停泊地へ錨を下ろした。

結の小舟が来て李可瓊を宿へ案内した、インドゥの一行は船出が朝五時と早いので船から降りてこない。

ほかに三人道連れが出来たと告げられた、四十くらいの小さな男と十五くらいの娘二人だ。

其の男やたらと調子がいい。

「だんなぁ、どこまで乗るんです」

「広州迄乗せてもらう約束だ」

「あっしらもですぜ。見れば学者先生の様だが、会試を受かりなさっての帰郷ですかい」

「よくわかるな」

「えへっ、南京でも幾人か落ちた人には会いましたが。旦那は風格がある。この人は受かりなさったと思いましたんで」

どうやら宿の方から進士の帰郷と聞かされたようだが、ふれないで置いた。

自分たちは手品師と音曲師を広州で集めて河口鎮(フゥーコォゥヂェン)迄興業を打つので参加する旅だという。

十一人の寄せ集めだが、先に八人行かせての三人旅だという。

二人がよく似ているというと「双子でさ、手品の時に早変わりで衣装を次々変えて客の目を楽しませるんだ」という。

先へ出た組は百面相に竹竿のぼりで曲芸を得意とするのもいるという。

「あっしに似ないで母親似でね。あれで十八だが子供っぽく見えるので客受けが良くてね」

言われてみればそれなりの旅芸人らしいやつれが見える。

 

十五日になるとインドゥたちの船は早くに出てゆき、次々大型船が錨を下ろした。

並ぶ順があるのか間を開けて船尾に番号の旗を揚げている。

「でかいねえ」

いつの間にか娘の一人が後ろへきて声をかけてきた。

「三千石船だな。聞いた話だと先頭の船には大砲も積む許可が出ているそうだ」

「じゃ、あの窓のようなところかねぇ」

その船からガタイの良い男が下りてきた。

「あなたが李可瓊(リィクゥチィォン)さんですか」

「お世話になります。これを蘇州の甫寶燕(フゥイパオイァン)さんから渡すようにと二通預かりました」

龍莞絃(ロンウァンシィェン)は自分宛を読んで「じゃ万一の時のために雷稗行(レェイヴァィシン)へ私から渡しておきます。一人と聞いたが奥様ですか」わざと聞いた莞絃だ。

娘はしなをつくり「まだもらってくれる人が現れないんです」と言っている。

「二番の船が付いたら私といっしょに来てください。三人と聞いたが遅れているのかい」

「今支度して出てきたのがフゥチンと妹妹ですの」

「あんたも荷を持ってきた方が好い。今来たのが俺の船だ」

「大きい船ばかりなんですね」

「六隻全部三千石の大船さ。客用のしゃれた船室がないんだ荷物と同居で勘弁してくれ」

「無理を言って乗せてもらえただけでもありがたい」

小男も大げさにを言っている。

どうやら広州の丐頭(ガァイトウ)の行う興業のようなことを言っている。

李可瓊の部屋は弩(ヌゥ)の格納室のようで矢の入った箱が積んである。

水夫が箱を並べて上に布団を置いてくれた、これが榻(寝台)になるようだ。

翌朝、いつの間にか船が動き出している。

外へ出ると小男はこの付近の海を知っているようで「あそこが杭州(ハンヂョウ)。こちらが寧波(ニンポー)」などと教えてくれた。

温州まで南下して翌十七日申の刻(午後四時四十分頃)港に入った。

翌朝も日の出を待たず港を出て翌朝福州(フーヂョウ)へ到着。

荷下ろし荷積みの関係で二十日の船出だという。

「宿へ泊まってください」

四人は小体な酒店の二階へ落ち着いた。

「明日の夕刻申の下刻(午後五時四十五分頃)に迎えに来ます。ここは特約の家で支払いは必要ありませんが、酒代や特別な注文は自腹で願います」

案内した若い水夫は言いなれているのかよどみなく言って船へ戻った。

食事が並ぶと李可瓊は酒を注文して先払いし、小男にも酒杯を渡した。

酒は好きなようだが飲むと眠くなったようではやばやと部屋へ引き取った。

ゆっくり飲んで部屋へ戻ると姉娘が榻(寝台)にいる。

「部屋を間違えたようだ」

「ここでいいんですよ。船じゃできないことをしてくださいな」

つい手を出してしまったが「片手落ちじゃ不味いので妹妹を寄こします」と言って出てゆくと入れ替わるようにおずおずと妹妹が入ってきた。

すまなそうに服を肩から落とした。

翌日の粥の時二人の娘も小男も普段と同じように話してくる。

酔って見た夢かと思うがそうではないはずだ。

若い水夫が迎えに来て船に戻った、新しい客が二人紹介された。

どちらも小間物装飾品の売り込みに広州(グアンヂョウ)へ見本を持っていくのだという。

海上千里二十四日に汕頭(シャントウ)の港に入り明日の昼の船出という。

二十七日の午には広州(グアンヂョウ)の港に入り案内に従い停泊地に錨を下ろした。

小男は名残惜しそうに「時間がありゃわしらの芸を見てもらうんですがね」

そういって船長にも盛大に礼をして小間物屋たちと先に降りて行った。

莞絃(ウァンシィェン)は「早く着いたが荷がそろうのが来月五日なので六日出航で変わりは有りません」

若い水夫が李可瓊雷稗行(レェイヴァィシン)へ案内し甫寶燕(フゥイパオイァン)からの手紙を渡して船に戻っていった。

「今日は宿を紹介します。手紙では酒以外は払わぬようにしてくださいとあります」

珠海楼(ズーハイロォウ)へ案内し「酒以外は請求しないでくれ」と言って「明日発たれますか」と聞いてくれた。

出来るだけ早く出るつもりだというと「間に合わないと思ったら予定日を知らせてください。探しておきますので」と戻っていった。

「この宿は新築ですか」

「いえ、娘が婿を取ったので洗い出しました」

そういえば老舗のような風格さえ感じられる宿だ。

旨い飯が食え自腹でわずかな酒でいい気持ちで寝た

壮快に目が覚めると「アッラー」の声が響いてきた。

昨日合わせた懐中時計は五時二十五分だ。

粥は下の時計で六時だと聞いてあるので、髭をあたって道中記を読んで時間をつぶした。

粥を食べ、忘れ物はないか点検して珠海楼を後にした。

六時三十分に出て、四十八里の道を休み休み歩いて、陽のあるうちに村へ入った。

わが家で訪うとまろぶように父母(フゥムゥ)が出てきた。

「受かったぞ二甲だ」

其処に涙を流して喜ぶ父母(フゥムゥ)と妹たちが見えた。

長兄李可端は嘉慶元年三甲進士、弟弟李可藩は嘉慶七年二甲進士、そして李可瓊が嘉慶十年進士、三兄弟がそろって進士となった。

七月四日早朝家を出てその日のうちに雷稗行(レェイヴァィシン)へ挨拶に訪れた。

「おや、お早いお付きで。今晩例の宿へ泊りますか」

「いいのか」

「もちろんですとも。私が案内しますが直に莞絃(ウァンシィェン)さんが来るのでちょっと腰かけてお待ちください」

莞絃から明日の申までにお迎えを出すと決まって珠海楼へ案内してくれた。

六日珠江(ヂゥジァン)を下り、上海(シャンハイ)直行で十六日到着した。

「東源興(ドォンユァンシィン)への荷船が出るので少し待ってください」

荷を積みかえその船に乗って蘇州に着いたのは十七日の朝八時五分。

船から荷とともに来ていた若い水夫が東源興(ドォンユァンシィン)で「ただいま帰りました。荷受けの方はよろしく願います。李先生と前で飯にします」と話しをして「行きましょう」と前で「二人朝飯を食わせてくれ」と繁絃(ファンシェン)飯店へ入って声をかけた。

「大分日に焼けたね」

「丸ひと月船の上だから」

「粥も欲しいかい」

「あるの」

「急ごしらえでよきゃだすよ」

「頼みます」

李可瓊、口をはさむ余裕もない、厠所(ツゥースゥオ)を借り、顔を洗って戻るとすぐに料理が出た。

野菜の油鍋(ユウクオ)に饅頭、少しして粥も出てきた。

前から甫寶燕(フゥイパオイァン)が出てきたのを見て慌てて立ち上がった。

「お礼を言う前に食事など誠に面目ない」

「よろしいんですよ礼なんて。それよりうちの悪ガキがいたずらでもしませんでしたか」

「息子さんでしたか。きびきび働くいい水夫とばかり思っていました」

「それより媽媽(マァーマァー)、今年もあのちびの匡(コアン)の爺さんが乗ってきたぜ」

「また広州から回るのかい」

「それと例のお化け娘も一緒さ」

関玉(グァンユゥ)はだいぶ口も悪い。

「福州で乗ってきた小間物商いの二人に十八だなんて言っていたぜ。それもよ十五くらいの娘さんじゃ旅も大変だろうなんて言わせてからさ」

「わしにも十八だと言っていたぞ」

「おれのちっこいときから十八のまんまだぜ。何時十九にするのか楽しみにしてるんだ」

こうして話していると少年の顔が時々のぞく。

二十日の船迄ここへ泊るように言われた。

朝から風呂の支度もしてくれ、船旅の垢をすっかり流したら疲れがどっと出て昼寝をしてしまった。

関玉が来て「徐(シュ)先生へ着いた報告をしてきます」というので一緒に出掛けた。

繫絃から歩いて半刻くらいでつくはずが二人とも足がうまく地をつかめない。

二人で交互に笑いながら獅子淋の徐頲(シュティン)の邸へついた。

戻った報告をして一休みさせてもらった。

「どうした」

「船旅のせいか足が地につかない。歩くのが苦手になったようだ」

「運河の時は平気だったろうに」

「あの時は毎日のように降りたからな。船の上をぶらぶら歩くのも気が進まぬしな」

「兄のように慣れれば動き回ることも上手になりますが、まだ新米で。最初は普通に歩いていたんですが二里くらいから変に体が浮くんです」

「繁絃(ファンシェン)飯店に部屋を取ってもらったから何かあればそこへ連絡してくれ」

出る前の晩は全員繁絃に泊まれればいいかと徐頲(シュティン)の心配性が出たようだ。

 

第四十七回-和信伝-壱拾陸 ・ 23-02-22

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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