朝は汐の引き始めに合わせ卯の下刻(七時十分頃)に旅立った。
明鐘岬は引き潮が始まっていてもまだ砂浜は十分乾いていない。
歩く人に混ざり本馬に軽尻も行き来している。
元名の蕎麦店はもう人が出入りしている、石積みの脇から房総往還の橋を渡り浮世絵師菱川師宣が生まれた保田へ入った。
「父上が見た保田の水仙は時期がずれたな」
「もう残りも少ないでしょう」
鶴が崎の先に八幡の社がある、百年程前の社殿だと休み茶屋の娘が教えてくれた。
見た目十二.三位か目のくりっとした可愛い子だ。
明神鳥居がある。
「その鳥居はあたいの生まれた年に建立されたそうです」
“享和元年建立”とあった、大野は「お前十三歳だな」と笑った。
境内には素朴な末社に混ざり真っ赤な稲荷の鳥居が目立った。
元名川を渡った。
先ほどの娘は別願院に菱川師宣の墓があると知っていた。
馬継場で街道は馬糞の匂いであふれていた。
先ほどの娘は保田川を上へ一里で水仙の里があると教えてくれたので川沿いを歩いた。
桜の樹が咲きだしている、一反ほどもあろうか水仙の群落があった。
桜と水仙が同時に咲くとは面白い景色だと一学も喜んでいる。
「まだ咲いているのか」
「不思議ですね、父の話では十一月に咲いていたと言っていました」
定信“狗日記”
文化八年十月二十九日に江戸を船で出て船橋へ泊まった。
(桑名松平家譜にある七年としたものが多い、楽翁著述目録は八年)
船橋の梨栽培方法を見る、道中よく出てくるのは富士と草木。
三十日-姉崎。
十一月一日-木更津。
二日-百首陣屋、砲台へもあがっている。
三日にはとうろう阪を越えて保田を通り、木の根峠を越えて館山へ到着。
四日-波佐間陣屋と砲台を視察(寺へ泊まるとあるが養老寺だろうか)。
日付はないが四日の続きで野じまが崎を抜けて白子という村へ宿るとある。
六日-瀧田から海辺へ出て本田に宿るとある。
(海邊へ出て泊まった本田は保田のことか)
七日-富津の寺へ泊まっている。
八日-五井泊り。
九日-検見河泊り。
十日には逆井の渡しで江戸へ戻っている。
土手に座り煙草を吹かす老人がいるので新兵衛は「今頃まで咲くのかね」と煙草入れを開いて勧めている、脇の石へ火種をはたいて新兵衛の煙草を煙管ですくい入れた。
よく田舎の親父は手のひらへ火種を置くというが、そんな風にはせずに置いた火種へ煙管を押し付け、載せると大きく一服吸い込んだ。
「この辺り、咲き始めが遅かったでまだ咲いとるもんで」
保田湊から江戸は海上十六里、江戸に比べてだいぶ暖かいはずだが、この辺(あたり)だけ今年はひと月遅いという。
新兵衛は老人の煙草入れに自分のを全部入れ込んだ。
一学が川で洗う大根を見て「辛味大根か」と近寄って聞いている。
信州では蕎麦の薬味に使うというと「おらたちは煮物くらいだ」とそっけない返事だ。
「こいつを持って元名の蕎麦屋へ戻りたいくらいだ」
小さな大根にいつになく興奮している。
「どこだね。旦那」
「羅漢さんの分かれ道の石積湊だ」
「そんなとこまで戻って行かんでも魚店(うおだな)へ行けば蕎麦見世があるだよ。一本めっていきなんせぇ」
そういって葉をもってあらいたてを「じいさまの煙草の礼だ」と一学に渡した。
さすが一学は礼を言うだけで銭は出さなかった。
聴いて居た老人が「そこの橋さ渡って下(しも)へ下れば魚店まで一本道だ」そう教えたので橋を渡ると道を下った。
一間ほどの川に橋がありそのあたりから人家が続いた。
「こっちにも宿がありそうか」
「道中記にはありませんぜ」
漁港が近いのか干物の匂いがする。
道行く男に蕎麦見世を聞くと「突き当りを右へ行くと五軒目だ」という。
すれ違うとほのかに蕎麦の香りがした、一学も驚いたように振り向いている。
街道はここまで一里半もないがあっちこっちと寄り道して巳の下刻(十一時頃)近くになっている
見世はすぐ見つかり座敷へ通された、女中は大根を下げた一学を不思議そうに見ている。
「済まんが蕎麦を出すときにこいつをおろして薬味で食いたいので頼めないか」
「旦那に聞いてきますが。蕎麦はあじします」
「もりで人数分」
「八人さんでぇね」
入り口からさっきの男が入って来た。
大根のことを言うと「お任せください。さっきすれ違った時信州からのお出でだとピンときましたぜ」と驚くことを言い当てた。
大盛でも一人前だという太打ちの蕎麦と、大根を鬼おろしで擂ったものは汁に入れた、蕎麦と辛みがあっている。
「こいつもどうぞ」
そういって普通以上に柔らかに擦りこまれた大根おろしも出してきた。
「ややっ、こいつは辛味が柔いな。わしには丁度いい」
大野は大喜びで残りの蕎麦を食べている、江戸では山葵をつける店に頑固に七味にこだわる店もある。
「この辺り宿は有るかい」
「馬継場へ行けば三軒有りますが」
言い方に含みがある。
「どうかしたか」
「加知山村の鯨旦那を知ってらっしゃりますか」
代々醍醐新兵衛を名乗る一族だ、新兵衛は知ってるがどうしたと言った。
「今の旦那が妾に料理旅館をやらせました」
「なにぃ。あんの野郎めかけだぁ」
「新兵衛知ってるのか」
「大川様、○○のしんぺえですよ」
「あいつか、若もご存じですよね」
母親は今でもとよと文のやり取りをしている。
「国へ戻ったと聞いたがまだ十八だろう。威勢のいいことしてるな」
勝山まで一里ほどだ息ぬき用にでもやらせたか。
十かそこらで深川辺りじゃ悪ガキの総大将だった。
三年ほどでいい顔になっていた、三年前十五の時、兄に呼ばれて五十七艘の鯨組を指揮した。
新平は父親と同じ名だ、しんぺえのほうが深川で通りがいい。
父親は蝦夷地でも捕鯨を行った“鯨一頭、七浦潤う”とまで言われそれは蝦夷地でも同様だと云う。
余談
大田蜀山人も勝山を訪れ“いさなとる 安房の浜辺は魚偏に 京という字の 都なるらん”の歌を残したと云う。
文化二年(1805年)とされる記述を見たが文化二年(1805年)十月十日、長崎を立ち江戸に帰る“小春紀行”には勝山には寄っていない。
十一月十九日には江戸に戻っている。
長崎奉行所勘定役に着任したのは前年の九月。
この頃早ければ四月には漁が始まり、九月までに五十頭は仕留めたという。
数がいないのではない、仕留めても捌ききれないのだ。
「あいつ今でも船に乗るのかい」
「鯨組は人に任せて船を降りましたよ」
「じゃ、家業の方を継いだのか」
二年前兄の六代目がなくなり七代目を継いだという。
「庄屋様に“勝負”の仕事で忙しいそうです」
勝負とは買い取って油の抜き取り、皮や尾までが金になった。
鯨油は行燈の油やウンカの駆除に使われ膨大な利益を生んだ。
鯨肉は漁に参加した者で分配したという。
銛打ち五百人、出刃組などで七十人はいたという。
勝山藩は突鯨分一金を二十分の一としていた、大坂加番など金のかかる藩にとって醍醐組は大きな力になった。
加番は役高の一倍合力米が与えられたので成りては多いと噂が出たが、実際は藩の財政の改善など夢の話だ。
安房勝山藩一万二千石・実高一万四千石
酒井忠嗣・文化七年十六歳にて家督相続、従五位下、大和守、安芸守、越前守。
文化十三年(1816年)-大坂加番。
文政二年(1819年)八月-大番頭。
弘化五年(1848年)一月-奏者番。
安房国平郡の勝山陣屋(安房國平郡加知山村)。
越前国敦賀郡と上野国群馬郡に飛び領地。
「その男四代目の孫なのか」
「一学先生ご存じで」
四代目の醍醐新兵衛事乾坤庵冝明は俳句の兄弟子だという。
一茶にとっても二人は兄弟子になる。
寛政二年(1790年)三月十三日に竹阿が八十一歳でなくなり一茶は四月七日素丸に入門した。
一茶は二十五歳の時竹阿に入門している二六庵は竹阿から譲り受けたものだといわれているが使いだしたのか寛政十二年(1800年)からになる。
ひと月早く一学(二十九歳)が、それ以前には定恒(五十歳)が素丸に入門していた。
定恒は息子が三十歳になり家業を継がせて隠居し、江戸で素丸に入門したのだ。
一学は当時の名を国善、定恒は通称の小平次で付き合いがあり其の縁での入門だ。
一茶は文化三年木更津、富津と回り、五月十九日定恒の住む勝山で浄蓮寺を訪れた。
その時のいさな(鯨)漁の様子を得意げに聞かせたという。
いさな漁の様子は句にしていないが“こだらいもはちすもひとつ夕べ哉”と寺の情景を句にしている。
この時の一茶は浦賀にわたり富士の句を残した。
“涼風もけふ一日の御不二哉”
この日のことか、白髪染めなのかおかしなことを聞いたようだ。
“白毛黒クナル藥クルミヲスリツブシ毛ノ穴ニ入”
定恒は後を継いだ息子(定昌)と孫(定好)に先立たれたが、喜寿の今は孫の定香こと新平の後見をしている。
「四代目にお目にかかれる楽しみもあるが、其のしんぺえにも会いたいものだ」
「一学せんせの俳号はあるんですかい。富津の寺でも一学先生でしたぜ」
介重は遠慮なく聞いた。
「俺わな。生家が長谷川というのだが、佐久間の家に養子で迎えられた時の条件が俳号は使わぬということだ。要は遊ぶなと云う事だな」
信じてはいないようだ。
木更津、富津から館山は渭浜庵素丸(いひんあんそまる)の弟子が多い、一茶は年一度の割合で房総の地を訪れていた。
その間に新兵衛は店の女に料理旅館“すさき”の場所を聞き取っている。
店は昼時になって込み合っている、八人で百六十文だという。
一学が二匁豆板銀を出して「つりはいらんよ」と支払いをして七面橋へ向かった。
神社前の橋だと店の女は言っていた。
神社は七面天女が祭られいるそうだ。
境内には石の祠や手ごろな力石がいくつも積み上げてある。
神社の番人は祭神のことは知っていたがいつの時代からの神社か伝わっていないという。
「五十年前に社を立て直しているのでその前だね」
なんとも頼りない爺さんだ。
橋を渡った川下に板塀で囲まれた家があり門が開いていた。
“すさき”は思ったより質素なつくりだ、田舎の庄屋風に鄙びたたたずまいだ。
「しんぺえには似つかわしいとはいえんな」
次郎丸が新兵衛に言っていると中から怒鳴り声がする。
「何をごちゃごちゃ言ってやがんでぇ」
出てきた若い衆が次郎丸を見て「兄貴じゃねえか。どうしなさった」と大きな声で聞いている。
「お前、なんでそんな大きな声で話すんだ」
「おっ、いけねえ。耳栓してたの忘れてた」
耳から綿を引き出した。
「耳栓していて俺たちの声が聞こえるとは驚きだな」
へへへと笑ったがなぜ耳栓をしていたか話さないで店うちへ案内した。
背の高い様子の良い女が式台へ出てくると膝をついて出迎えてくれた。
「俺の兄貴にその子分だ」
まるでやくざだと大川が言うのに「だって兄貴の家来でしょうが」侍など屁でもないという風情だ。
新兵衛が「八人泊まれるか」ときいた。
「珍しい確か新兵衛さんだね」
「今気が付いたのか」
女たちが小盥へ湯を入れて水を少しさし、適度になると足を順に洗ってくれた。
「八部屋必要ですか」
娘っ子が新兵衛に聞くので大野が「中間に一人一部屋はまるでお大尽さまだ」と笑い出した。
「四部屋あれば十分だが三部屋でも構わない」
次郎丸がいうにかぶせて「奥の離れの三部屋でいいよ。中間さんたちは表の部屋へ入ってもらう」と新平が背の高い女に言っている。
「見たところ公用旅ですかい」
「おおそうだぜ。実は馬糞臭い街道の宿を避けて探していたら、ここを教えてもらった」
「公用旅なら決まりだけ頂いて後は俺もちですぜ新兵衛さん」
「怖いこと言うなよ。請取はないと後で困るんだ」
一人に四人、三人と三つは欲しいと女主人らしき女に頼んでいる。
「ごちそう攻めで怖い思い出でも作りましょうかい。まだ鯨は来ないので残念ですが」
「そうはいっても海っぷちを歩いて来たんだそう替わりもあるまい」
烏賊、蛸、鮑、栄螺、鯛、鮃、鰈、伊佐幾、鰹、鮪、鰤と新兵衛思いつくままに言っている。
「脂っこくても良いなら漁師が喜ぶ鮪の兜焼きなんてどうです」
荒っぽいいさな漁師なら喜びそうな名前だ。
「いきなり来て間に合うのか」
「朝釣りに出てさっき戻ったんですよ。しびの三十貫を釣り上げてきてさっき捌いたばかりでね」
台所先が船着きで百石程度の釣り船が泊められるという。
大きな女が此処の女将だ、神社のこともおぼろに知っていた。
近くに日蓮宗の大行寺があって、四百年近く前に勧請したが、寺内から外へ出したいきさつは解らないという。
大野に言われてひとっ風呂浴びた介重たちもこっちへやってきた。
アワビの生が出てきた。
女たちが鮪の骨から鋤とった身はあっさりとして旨い、はらすのねぎま汁は醤油に味醂を足したという、油が汁にじわっと浮いている。
そうこうしているうちに鮪が焼きあがったと大きな台で運び込んできた。
傍へ置かれ朗太なぞ思わずのけぞってしまう程大迫力の大きさだ。
「おあ兄さん方も初めてかい」
「深川で見たのは半分もなかった。外海ではこんなに大きいのがいるんだな」
鯨が打ち上がったと見に行けば大きいとの評判だが、鮪がこんな大きくなるとは知らないようだ。
「じつわね、うちの爺様は五十貫の大物を釣り上げたというんで悔しくてね。冬場は沖まで出るんだが、そこまでのはまだ釣り上げたことがないんだ。親父はエゾでは五十貫はざらにいたというのでいつかは出かけたいもんでござんす」
江戸の町では醤油につけた“ずけ”が出だしていたが、生のマグロは小型のメジ(メジカ)しか手に入らない。
このころ館山では延縄で鮪を釣り始めたというが、まだ鮪では金にならないと手を出す漁師は少ない。
女たちが頭のあちこちから肉を掻きとって配った。
ほほの肉は大野と新兵衛に目玉は一学と大川が食べた。
烏賊と里芋の煮物は味醂が効いて甘いくらいだ。
「蛸と芋は食べたが烏賊でもやるのか」
大野は芋が旨いとお代わりをした。
頭を片付けて普通の宴席になり、鰤の刺身は中間たちに大うけだ。
目の下二尺の鯛が二匹焼きあがってきた、大皿に二匹が腹を合わせている。
治郎丸が最初に箸で身をとると順に回した。
新平が両の手を使い器用に箸で骨を外し、下身を中間たちと分け合った。
「さて兄貴まだいけるなら出しますぜ」
「おやおや、何を隠してる」
「もう二口、客がいるんですがね。そこの注文で白子沖のアンコウを用意しましたが、余分に取り寄せてあるので鍋を出せますがね」
新兵衛がほかにも隠しているなと睨んでる。
「終わりにするならすっぽんの雑炊でも」
大野が少しほしいが分け合えるくらいにしてくれと頼んでいる。
ごちそう攻めで怖い思いとは此の事だ、次郎丸は大野が次々よく腹に入るものだと感心した。
屋敷での一年のご馳走を上回るんじゃないかと思った。
女将まで図に乗って「鰤大根に鯛の潮汁もご所望なら」など言っている。
そろそろ酒を止めようとしたら新兵衛が「もう酒は持ってこないでくれ」と言っている。
新平がほくそ笑んでいる。
これでももんじぃまで出されたらお手上げだ。
普通なら薄味から濃い味へ進めるのだが、行き当たりばったりのおかしな取り合わせが続いた。
べったら漬けの小鉢が置かれ、そら豆の甘煮が小皿で配られた。
「そら豆の皮が旨いな」
大川が食べきってため息をついている。
「同しやした」
「妻や子供にこの味を教えたい」
自分の割り当ての畑地はいまそら豆の花が咲きだしたという。
「醤油に同量の味醂を入れるんですよ。豆は先に下茹でしますのさ、あちしは急いで百数えてざるへ上げますよ。煮汁へ入れて沸騰させずに湯気が立ったらゆっくり百数えて火からおろしますのさ」
女主人が親切に教えてくれた。
新平が「豆の黒くなった部分は切ったほうが旨いですぜ。できるだけ熟さないうちに収穫するんですぜ」とかぶせてきた。
アンコウの鉄鍋が持ち出され皆に菜花、肝と身に皮を入れて配った。
水炊きなので酢橘と醤油に大根おろしで急いで食べた。
「一匹では無理だろう」
新平の分も入れれば九人分だ。
「気にしちゃいけやせんよ。七つ道具は揃えませんのでね」
どうやらほかの客に使ったようだ。
小さな磁器の椀へつけたすっぽんの雑炊が、これ程旨いとは次郎丸にとって驚く味だ。
「この土鍋はもう百年すっぽんの雑炊に使っています。我が家ではなくこの初代(はつよ)の家に伝わる土鍋です」
この土鍋で雑炊を作ると何層倍も旨くなると自慢した。
初代は妾というより姉さん女房に見える。
「すっぽんは鉄鍋でなく土鍋が一番ですぜ」
さんざん飲み食いして飲み疲れて寝たのは亥の刻近くだ。
それでも陽がさしこむ前に次郎丸は起き出した。
気をきかして朝は粥が出た。
辰に出て頼朝公上陸地安房国平北郡猟島を過ぎたのは半刻ほどたったころだ。
そこから浄土宗華王山浄蓮寺へ小半刻ほど巳の刻(十時頃)には為っていない。
新平の屋敷は寺の目の前にある。
小平次は連絡を受けて隠居所から寺へ来ていた。
「一学殿」
「宗匠」
二人は手を取り合って再開を喜んでいた。
織本嘉右衛門永祥が寛政六年(1794年)二月に亡くなりその百箇日法要以来だという。
小平次、俳号は宜明この文化十年喜寿の七十七歳になる。
「孫の使いの話だと公用旅と聞いた。松代が安房に用事でも」
「いや、内緒というのはもう半分ばれているようだが、この若者が白川藩の次郎丸定栄(さだよし)様で、わが藩へ御養子に迎える準備段階なのだが」
細かく説明して「わしゃ、用心棒じゃ」というとくすくす笑い出した。
「公用旅じゃ引き止められんがせめて一晩はいいじゃろ」
次郎丸は「那古船形で追いつけるでしょう」と残ることを進めた。
「ダメダメ、兄貴や新兵衛さんに大川先生もここで一晩泊まってくれ」
大野は新兵衛と紙を開いて日程を相談している。
二月七日勝山を足して、二月八日那古船形、二月九日館山なら十二日まで陣屋と砲台を見て回れるとまとめた。
「十二日が戻る日ではなく陣屋到着と兄上はおっしゃられた。この分なら梅ヶ岡を回るのも可能だろう」
一学を置いて新平の屋敷へ移った。
中間は好きにさせて、安房の見取り図を置いて旅程の練り直しだ。
今日は三里半進むつもりがわずか十八町足らずだ。
新平がここまでの泊りを聞いて大笑いだ。
「房総の防衛の巡視だ。遊び旅じゃない」
大野に言われて首をすくめた、異国の船は安房沖を抜け、樺太から出てくるロシアの船はよく見るという。
「浮島に砲台を置くのはどうです」
「勝山藩に金があるならな、鯨組で出すかよ」
「どのくらいかかるんで」
「ざっと二万両」
大川に言われて「此処のお殿さんにゃむりだぁ」と呆れている。
「殿さんに無理でもしんぺえなら若さんも力を貸しますぜ」
「本間家で後押ししますか」
「お手伝いするさ」
「鯨を倍取れたら簡単だがね」
それで今でも年二万は儲かると知れた、藩には年千両が入るはずだ。
男衆で七百人は抱えているというのは伊達じゃ無さそうだ。
酒井家の陣代屋敷はすぐ近くにある。
岡には勝山城と言われていた城があったという。
牛頭天王へ連れだって向かった、此処からも陣代屋敷が見えた。
この地は醍醐家の日月社のあった土地へ牛頭天王を遷したという。
境内の鯨塚は豊漁の年は大きいのですぐわかるという「出刃組が毎年奉納します」と教えられた。
家に戻ると新平が「今日の泊りの受け取りですぜ」今朝のと同じ額が明日の日付で新兵衛によこした。
「お前さん、袖を払ってさよならはないと踏んだな」
「りょうてんびんでさぁね」
夕刻、一学は宜明と屋敷へ来た。
新平の母親が指揮をして宴席となった。
「田舎料理です」
野菜の炊き合わせに鮑の煮貝、鯛の刺身に伊勢海老のお造り。
「俺の屋敷じゃお目にかからない大ご馳走だ」
母親が嬉しそうに肯いている。
豆腐の田楽は甘味噌が塗ってある。
一学が誘って宜明にシビの大物を釣り上げた話をさせた。
目が爛々と輝き大坂から取寄せたテグスの話から始めた。
一度大きなのを釣り損ねた話し、針も紀州で作らせた話、サスで止めをさして血抜きまで語った。
「さすがにこの年じゃ無理になったわい」
「じい様のテグスに工夫して十貫、二十貫は簡単だが。三十貫を超すと勝負も難しい」
テグスは高額だ、五十尋も取られたら大損してしまう。
しんぺえのような物好きでなきゃ大物は狙わない。
「なぁに数をこなせば大物にぶち当たるさ。烏賊を好むやつとイワシが好きなやつ運しだいだ。五十貫を釣り上げたときは飛魚を追いかけていた群れに烏賊のえさで流したらあたったのさ」
「源次の話じゃ七丁櫓で追いかけたと聞いたぜ」
爺様の自慢話で夜も更けた。
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