第伍部-和信伝-参拾

 第六十四回-和信伝-参拾参

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

如何に裕福に見える白河藩でも房総警備は金がかかりすぎる。

上総、安房で警備のため三万二千三百石余を与えられ、伊達、信夫(十七村二万石余り)に越後岩船(七千石余り)で二万七千四百石余を幕府は収公し白河藩預かり支配地とした。

白河藩は拝領高十一万石。

実高は本領十六万九千石余、預かり支配七万七千石余で合わすと二十四万六千石を越す雄藩となる。

文化十年(1813年)老中四人。

松平信明(伊豆守・六十一歳)首座・牧野忠精(備前守・五十四歳)勝手掛・土井利厚(大炊頭・五十五歳)・青山忠裕(下野守・四十六歳)

伊豆守は享和三年(1803年)十二月二十二日に病気を理由に辞職。

文化三年(1806年)五月二十五日老中首座に復職。

文化八年(1811年)には蛮書和解御用を設置。

備前守は文化三年四月二十九日から文化十三年九月十五日の間、勝手掛老中。

定信、信明の政策は幕府の財政を悪化させている。

 

文化十年正月二十九日(181331日)

富津の織本嘉右衛門(道定・俳号子盛)の家に信一行は移っている。

次郎丸の一行が二十八日に木更津へ入ったと「結」の連絡網が伝えてきた。

次郎丸の一行は“ふじみや”を卯の下刻(七時五分頃)に旅立った。

飯野陣屋へ寄るつもりなので道を急いだ。

朝の食事時に急に新兵衛が言いだしたためだ。

「なぜよるのだ」

「結の連絡が今朝早くきました。鉄之助様が富津に来たそうで、飯野陣屋へ寄ってほしいという託です」

「爺様、どこから現れたのだ」

「正月にお会いした時は熱海で湯治だと仰っておりましたよ」

證誠寺の橋を渡り街道を行くと小糸川へ出る、上流へむかい人見山青蓮寺の門前を抜けた。

人見陣屋がある、大野がここは旗本小笠原氏の陣屋だという。

小笠原氏の陣屋は元々富津に有ったという、定信の房総警備拝命によりこの地へ陣屋を移している。

それなら大野が知っているはずだとうなずいて表を通り抜けて先を急いだ。

小糸川釜神(かまかみ)の渡し付近は繁盛していた。

街道沿い会所付近はあらゆる商売で人が集まっている。

新兵衛は船を待つ間に土地の物売りの親父から飯野陣屋への道を聞いていた。

「渡し場の向こうを真っぐぐ行って小川を渡りゃいやでも目に入るだよ」

六町ほどで行きつくという。

グネグネ曲がった道も有ったが三里も歩いていない様だ。

陣屋を訪れ大野が鑑札を出すと「織田様と鉄之助様の御一行から伺っております。

西川村の小柴家へはこちらから繋ぎの小者を出しますので、富津村の織本家へおいでくだされ」と丁寧な対応だ。

大野は織田には心当たりがないようだ。

一学は「織本家までなら道もしっているが、大乗寺が途中にあるのでよりたい」と大野に話している。

「それなら織本のほうへも知らせておきます」

小者に「二家とも同じように大乗寺へ寄ると伝えるのだ」と急がせた。

陣屋の侍は丁寧に見送った。

浜沿いの道へ出て一里ほどで大乗寺へ着いた。

「一学先生、なんとお久しゅう。今生ではお目にかかれぬかと」

織本砂明(俳号)の亡くなった寛政六年(1794年)の百か日法要以来だという。

花嬌の亡くなった文化七年(1810年)は国元詰めで、出てくることはかなわなかった。

「徳阿殿もご壮健で何より」

「お子もさずかったと」

「三歳でござる。啓之助はわんぱくでこの旅へ出る際も自宅謹慎じゃと言いつけてまいった」

「まさか三歳の子に。冗談が過ぎますぞ」

一学、五十にしてようやく授かった男子に浮かれているようだ。

二十八町ほどで織本家だ元小笠原家の富津陣屋は其の西にあり、留守居の者が管理している。

連絡を受けて寺を出るのを待ちかねたように嘉右衛門がやって来た。

「妻も首を長くして待っております」

挨拶もそこそこに家へ導いた。

蕾が開きかかる三十本ほどの枇杷の樹に、五十本ほどの収穫の済んだ蜜柑の樹の畑地を抜けて四半刻ほどで屋敷の門をくぐった。

離れを警護するように男四人がいて次郎丸の一行を迎えた。

中間三人は家の者が「一休みしなせえ」と連れて行った。

次郎丸は新兵衛に「先生に大野も一緒でいいのか」と声をかけた。

鉄之助が出てきて「ご一緒にどうぞ」と部屋へ入れた。

「さて大野様、佐久間様、ようこそお出で頂きました。某(それがし)喜多村鉄之助と申します。その若者は儂の甥で喜多村新之丞、老人くさくしているのが織田信節(のぶとき)殿、銭五殿、頭巾の者は岩井野清治郎に藤當(とうどう)英司郎でござる」

信(シィン)と庸(イォン)が頭巾を脱ぐと驚く次郎丸だ。

「和信(ヘシィン)と申す。和名を岩井野清治郎とつけてもらった。信(しん)と呼んでくれたほうがありがたい」

次郎丸はようやく落ち着いてきた。

「噂では聞いた事があります。九郎判官(ほうがん)殿のお血筋とか」

「然様です。男系、女系と七百年の間伝わる血です」

そういいながら葵御紋入り“通行勝手”の木札に家斉の許し状を来客に披露した。

「江戸で儀兵衛がよこした爺様の書状では、結の親玉に紹介するとだけだったが。私に何か御用でもあるのでしょうか」

「詳しい話は鉄之助さんが話してくれます」

これまでの話を鉄之助が説明し、嘉右衛門が「お手伝いさせて頂きます」と平伏した。

「織田殿が結の頭でよろしいのですか」

「わしと鉄之助は金と人で分けて指導している。金は新之丞が受け継ぐ、わしの後は次郎丸殿に頼みたい」

「私は只の部屋住みで、養子もままならない身の上ですよ」

「三人鉄之助が目を付けたが、あなたが一番ひと使いは上手そうだと思ったのですよ。特にを組の仁右衛門が惚れ込んでいます」

「あの頭(かしら)ですか、一度どぜうを食べただけですよ」

「気風(きっぷ)がいい。金離れがきれい。友情に熱い(厚い)。身分にとらわれない。ま、そんなとこでしょう」

結いの順位は日本の一番と告げられた。

四段階ある四番目の指印は子供の頃教えられた。

「信(シィン)様と同じで指印はそのままです。わしが死んだら使いがどの指印を使うか連絡が来ます」

不思議な組織だ頭目すなわち一番指印ではなく、実際は指導者と周りが認めるまでは見習いらしい。

そのあとは和国と清国の政治の事情と異国との交易問題を話した。

「清国では、災害、飢饉の救済はどのようにされているのでしょう」

「小さくは先ほど話した地方長官に総督の判断で行いますが、大きな災害は国が乗り出します」

十二年前に起きた京城(みやこ)近辺の洪水で、嘉慶帝は嘉慶六年分の銭糧(税金)全額免除六十四州県、半額免除三十四州県を軍機処(内閣)に命じた。

「税の全額免除ですか」  

「和国では将軍から大名に給付が出ずに独自の採算と聞きました。同じようにはできないでしょうね」

「十万石の大名が税を免除して、例年の収入を借銭に頼るとしていては立ちいかぬでしょうな」

生かさず、殺さず、百姓を苛め抜いて二百年がたった。

国防には金が必要だが、武士も百姓も一部を除いて窮乏している。

余裕のある町人、商人は少なく、奢侈禁止で金が停滞している。

信長、秀吉は楽市楽座で金を動かして人を集めた。

動かすには“貧乏人が稼げる世の中”を構築するしかないと、信(シィン)は話した。

権現様の政策と三代様が行った政策は大きく違っていた。

八代様は確かに華美を禁じたがそれでも異国の情報を集め政策に活かした。

まずは房総警備、京阪警備の金の捻出を図ることだと話し、次郎丸がその一端を担ってほしいと頼んだ。

陸(おか)の上の砲台は相手が其処へ来なければ無用の長物に過ぎない。

動く砲台、街道を移動していては船に追い付けない、船こそが動く砲台だ。

信(シィン)はダーチン(大清)も海賊と戦うため海軍を強化したと事情を説明した。

幕府祖法は海禁政策、それは口実をもうけ幕府が貿易の独占を図ったのだ。

各藩が独自に貿易を行い利を貯めこむことを恐れたのだ。

近寄る異国船の打ち払いを実行できる財力は幕府にない。

「私は和国が闇雲に異国と断絶したままで良いとは思って居りません。異国に学び、異国に備え、異国と対等に付き合う。わがダーチン(大清)でも外国使節に三跪九叩頭礼をさせよと思いあがった家臣がいます。朝貢外交は時代遅れです」

卑屈にならず、思いあがらず、対等であると思える実力をつけることだと話した。

元和九年(1623年)に至り英吉利と交易を遮断した。

切支丹の禁令は幕府が持つべき領地配分の権利を教会が持つことを恐れたからだ。

惣目付井上政重は切支丹取り締まりを指導した中心人物と言われる。

幕府要職の大名たちは阿蘭陀の口車に乗せられ、敵対していた西班牙、葡萄牙との交易まで禁じてしまった。

「船に大砲を積むには水夫、船頭、戦闘員が必要ですが、その育成のための学問所から作る必要があります」

「将軍家が後押しをしてくださると」

「簡単にはいかぬでしょうな。軍事訓練さえまとまって行う機会もないようですから。将軍家が大号令をかけるだけの独裁は和国では無理のようです」

この当時藩ごとに戦支度を行い、二百年前の軍学を得意げに自慢している。

それも千年前、二千年前の支那の地で培われてきた軍略だ。

定信でさえ砲術を自ら学んで、それをまとめ御家流と称している。

関ケ原、大坂城攻め以後の火術の進歩は微々たるものだ。

大筒が火縄銃と同程度の射程では心もとない限りだ。

城崩し、国崩しは幻影に過ぎない。

「一から始めるようでしょうか」

「和国、清国の結はお手伝いします。十年で百万両規模なら無理なく後押しいたします」

「それで足りるでしょうか」

「足りませんよ」

「では」

「そこで産業育成、農業育成が必要です。金を動かして税を集める。お父上も質素倹約だけでは国防は無理とお考えを変えたようです」

「まさか」

「実際白河藩では毎年借銭が増えています。今はいいですが幕閣が様変わりすればいつものように国替え、お手伝いなど無駄な経費を使わせるでしょう。幕閣を担うと大名を押さえつけることに喜びを感ずる人に変貌します」

若い信(シィン)がそこまで見ていることに次郎丸は驚いている。

決断力、勇気、財力それに加えた指導力だと信は力説した。

次郎丸は父の業績など調べても、わが国には大権を握って独裁は許されないと話した。

二人の会見は二刻ほどで終わった。

必要なことはすべて通じ合えたと二人は確信した。

鉄之助がついて佐貫まで行くことにし、信たちは帰りを待って熱海へ戻るという。

銭五の船は三艘で江戸表へ運んだ荷を下し、熱海で信を乗せるという。

 

幕府は海防警備を強化している、会津藩と白河藩は江戸湾警備を拝命した。

文化七年から文化八年。

富津・新井・西川村、旗本小笠原領から白河藩領へ。

川名・篠部村、飯野藩領から白河藩領へ。

小久保・岩瀬・大和田村、旗本領等から白河藩領へ。

佐貫藩領を除く天羽郡各村、白河藩領へ。

湊・数馬・岩坂・加藤・海良・売津・花輪・不入斗・横山・長崎・六野・大森・押切・田原・山脇・善庭寺・岩井作・稲子沢・志駒・梨沢・相川・百首・萩生・金谷。

館山藩領と北条藩領を除く西岬一帯、白河藩領へ。

香・坂井・塩見・浜田・早物・見物・加賀名・波左間・坂田・洲崎・川名・伊戸・坂足・小沼

文化八年十月には百首に砲台が設置され、翌文化九年五月二十二日百首村を竹ヶ岡村と改称している。

旗本小笠原信編の小笠原家は代々御船手を務めていた。

上総国周淮郡二千五百石のうち二千二百石を知行、拝領高二千六百石とされた。

文化八年の知行替えでは本郷村など八村が残され、冨津陣屋に冨津遊軍出張所が設置されている。

替え地として大堀村を与えられ、文化十年に人見村へ陣屋を移した。

小笠原家は信賢、信好、信庸と明治元年までこの地を治めた。

 

佐貫藩は一万六千石阿部正簡四十二歳。

二十一年前十九歳で養子に入り家督を継いだ。

大坂加番に四年前に就いて二年務めた。

領地は文化八年(1811年)海岸沿いの十六村が陸奥白河藩領へ移管された。

替地は天羽郡三村(加藤・近藤・相野谷)、市原郡・安房国長狭郡・相模国大住郡の一部、実高は一万六千石に届かず貧乏藩の典型だ。

後に旧領地の中から十二村は返還され、替地の天羽郡加藤村は残された。

江戸城雁之間詰譜代大名としての格式は整えるのも大変で、重役と云えど役職を兼ねるほどで、二百家を超える家臣は苦労している。

佐貫城は一時廃城となったが阿部氏によって再興されたものだ。

佐貫の宿場入り口には大木戸があり番人が両脇に立っていた。

誰も人別改めは受けずに通過している。

醤油の香りが漂う大きな家を過ぎると三軒ほどの宿がある。

新兵衛によればここの醤油蔵は三軒有るという、酒蔵も二軒だという。

酒蔵はせいぜい五十石程度の醸造だという、新兵衛は普通に作るなら白米三十五石と良い水が必要だという。

川に挟まれた此処なら塩気は井戸にないだろうという。

「おいおい、儀兵衛の流山だっていい水だと自慢しているぞ」

大野は儀兵衛の酒は安酒だと騒ぐ。

「まだ良い杜氏が育っていないせいですよ。田舎の酒蔵も杜氏と水に恵まれれば十分良酒を造ります」

下から見上げる城は小藩ながらなかなかの物だ。

手近な宿へ新兵衛が声をかけると三部屋でいいだろうかという。

振り返ると大野が頷いている、続き部屋でそれぞれ八畳ほどある。

中間三人と新兵衛で一部屋、中の部屋へ大野と一学が入り、奥へ鉄之助と次郎丸が入ることにした。

道中記では五里二十七町だが「回り道した分久しぶりに歩き回った」と大野が言う。

「明日はまた隣町内の湊ですぜ」

「近い方が草臥れるのはなぜだ」

皆で笑ってしまった、上総竹ヶ岡陣屋でもここから三里だ。

間の湊に何があるのだろう。

夕飯刻に給仕に出た宿の女中に聞いたが、街道から一里ほどに昔は城があった位だという。

「湊浦では江戸へ薪炭を送る五大力は米も運びます。漁師は佐貫の魚を馬鹿にしますので悔しいです。同じ海なのになんででしょうね」

次郎丸は新兵衛を呼んで中間たちに廊下の障子をあけて見張らせるように頼んだ。

「任せてください、一本おごって悪玉踊りでもさせておきます」

四人で紙を広げ、もし防備を厳重にするならここだと今日通った織本家の先の海岸を見取り図に書いた。

「そこは」

「元の陣屋の先になる、確か飯野藩が火急の時に出張ると聞いたが」

「若、たしかにその通りでございます」

「今は届かぬかもしれぬが江戸へ侵入する船を浦賀、竹岡台場で抑えられねばここで食い止める。ただいまわが国に八町以上射程の有る砲は作れない」

「三倍は必要でしょうな」

「国友だけでは無理だ。オランダの助けを借りて新式砲を買う必要がある。反射炉とて一基もない現状では十年では無理だろう」

定信は国友鍛冶を絶賛している。

「今の幕閣の頭の固い者にはついてこられないでしょう」

「父上には申し訳ないが、わが国がいくら朱子学にのっとっても、相手がそんなこと通じない連中では、阿吽の呼吸など役に立たん」

「しかし姑息、有職故実に凝り固まった者が必ず邪魔をするでしょう」

「一学先生、力を貸してください。もし養子に入っても藩のためだけに生きるのは私には無理です。幕府、いや日ノ本の国の民と共に国土を守り、生活を豊かにしたい。子供のころ見た岡っ引きや同心が町娘の帯締めまで違反していると取り上げるのは見ていて悔しく悲しかった。ささやかな娯楽を許さぬ世の中は間違っている。町民たち、農民、武士が一つにならねば国は守れない」

「次郎丸殿、一学身をもってお支え致します」

「若、わしも大殿に逆らってもお支えさせていただきます」

鉄之助もこれでこそ甚助と共に選んだお方だとうれしかった。

定信も政権を離れ、ようやく自分の政策の欠点に気付いて来ていた。

しかし撒いた種は芽を出してしまっている、一度前例がないと動けぬ役人を作れば進歩は止まってしまう。

朱子学に進歩は無用の長物だ。

次郎丸はなぜ父があれほど尊敬する八代様の実学主義を捨て、朱子学を正学として復興させたのかどうしても理解できないのだ。

幾ら幕府学問所のみの事とはいえ、顔色をうかがう藩は続出している。

権現様のように、広く世界の知識を集めなければ、狭い世界を守ろうとするものに太刀打ちできないと切に思うのだった。

余談

のちに水野忠邦は時代の先を見て“上地令”を出し、幕府の権限強化を目指したが旗本、譜代大名には理解が出来ず、味方からも見放され裏切られている。

幕末にあれほど海軍に金を注ぎ、薩摩の異人切りの賠償金を払い。

異国打ち払いの武器購入援助に諸藩への貸付。

和宮下嫁、家茂上洛。

全額ではないが欧米連合軍長州攻撃の賠償金、二度にわたる長州征伐の資金はどこから出たのだろう。

あれほど討幕軍が江戸を取りたかった最大の理由が江戸城御金蔵の中身だったのか、小栗が追い詰められた真相は、横浜の利権の奪取なのか。

横浜開港による運上(関税収入)は元治元年(1864年)百七十四万両。

対英国賠償金支払い-文久三年五月九日(1863624日)。

第二次東禅寺事件-一万ポンド。

生麦事件-二万五千ポンド。

下関戦争文久365日(1863724日)-賠償金三百万ドル。

幕府は百五十万ドルを支払い、新政府は明治七年(1874年)までに残りを分割で支払った。

このうちアメリカは明治政府へ七十八万五千ドル八十七セントを返還した。

この金は横浜港の整備に使われた。

この文化十年幕府勘定帳残高。

大判-六十一枚(九年二百五十六枚・十一年二百三十八枚)。

-四十五万四百五十両。

-千00二貫余。

-六千四百五十六貫余。

 

「信殿のほうも国難が来る気配があるからこそ協力するのでしょう。両国が手を携え、国を発展させる教育からはじめましょう」

鉄之助は付いてきてよかったと思った、これなら明日には富津へ戻っても大丈夫と感じた。

新兵衛に終わったと声をかけたのは火の用心の夜回りが回った後だ。

二人になると鉄之助は実はと声を潜めた。

「甚助と二人で目を付けたうち一人は水戸の三男敬之助様です」

「爺、そりゃ大物だ」

「ただ若すぎます、甚助は今の精神のままでは待てぬと言い出しました」

「いくつになられたのだ」

「今年十四才です。一番の難点は水戸学です。いつか徳川のお家に反逆されるか不安が残ります。異学を学ぶなど悪鬼の所業などすでに周りに言っております」

受け入れる柔軟な心は持たぬようだ。

「教育で治らぬかな」

「二面性があるように水戸の結いは知らせてきました。本心をは隠すことがお上手だとも。もうお一方はご存じの水野家へ御養子が決まりそうな伊織様」

「乙二郎に何か弱点でもあるのか」

「次郎丸様に比べて人が良すぎます。北条藩なら上手く扱えても結に御秘官(イミグァン)は動かせないでしょう」

鉄之助は結の連絡先を三軒次郎丸へ教えて眠りに入った。

宿を出て染川まで同行し、橋たもとで分かれて富津へ軽尻で戻っていった。

馬喰は「四十八文」だという。

「先に渡しておこう、落とすなよ。釣りで馬にも御馳走してやれ」

先付けで馬上から二匁の豆板銀を手渡したら巾着へ入れ、小躍りして喜んだ。

川の先、高みに鶴峯八幡神社がある、天羽の鎮守だと茶店の婆が教えてくれた。

一学が「確か千年以上前の創建と聞いた覚えがある」という。

婆は「元正天皇様の御代で頼朝公も寄進されたというだよ」という。

「東海道浜之郷にも同じ名の神社があると宮司が話とったで。あっちゃらより三百年はこっちゃが先だとうならかしとる」

中間はここで休ませ、四人で丘を登ると石の明神鳥居があり、見た目より広い境内に立派な社がある。

遠く相州が見え先には富士が雪を被っている。

舞子浜まで下ると富士は先ほどより近く見えている、対岸の岬が目の前にある。

次郎丸の遠眼鏡で変わり番子に覗いた。

新兵衛が「あの北側にある岬の間の入り江が浦賀番所です」と教えてくれた。

大野が「会津藩は観音崎、浦賀平根山、城ケ島に砲台を築きました」と指さして教えた。

「大野、なぜあの岬の突端でなく城ヶ島なのだい」

剣崎の影で見えないが、絵図では見たことがある城ヶ島は浦賀奉行が砲台を設置し、会津藩はその砲台を引き継ぎ、遠見番所を設置し、大砲の発射演習を行っている。

会津藩は相州横須賀と三浦を新しく領地とし鴨居に藩校養正館も開校した。

余談

会津藩は文政三年(1820年)まで鴨居と三崎に陣屋を置きその間に藩士とその家族で七十人以上の犠牲を払った。

会津藩の後は浦賀奉行の手を経て川越藩へ引き継がれている。

文政元年五月十四日(1818年)浦賀に来航したイギリス商船ブラザーズ号(オランダ訳フルテレス号)に対して会津藩の対応は船を出動させたにとどまった。

浦賀奉行所も船で取り囲んだという。

交易を拒否されたブラザーズ号は二十一日になって退去している。

ブラザーズ号は商船だが海軍将校ゴルドンが率いていた、大砲については二挺と記録されている。

長サ十二三間・幅二間余程とある、十三間なら二十三メートル四十センチ、千石の弁財船より小さい。

橋本武右衛門書状には会津の砲台では碇泊している船を発見出来なかったという。

乗員九人と記されているが少ない、民間人も乗り込んで様子を記録していた。

さらにこの船はベンガルを出て八十二日目と記録していた。

会津藩は荻野流砲術をはじめ多くの砲術家を抱えている。

「それは浦賀奉行岩本正倫殿が島に築いた砲台を、受け継いだからです」

浦賀奉行は十三年ほど前から砲術の演習を行っている。

街道は登りになり崖地が続いている、切通を抜けると集落が出て来た。

湊済寺(そうさいじ)という寺がある、天神山川の川下に番所らしき建物と柵がある。

此処からは白河藩領に入る。

湊浦だというので今晩の宿を探しに向かった。

江戸表まで薪に炭を運ぶ五大力が三艘ほどもやっていた。

江戸新川まで海上十五里とされている、宿も四軒あった、大きな酒蔵もある。

「若、ここも儀兵衛さんの売り込み先ですぜ」

「よく知っているな」

「ここの“東魁”ってのを猪四郎はよく使い物にするんですよ」

「ああ、あのこも被りここの酒か、仙台堀の船宿で見たぞ」

ここも御免関東上酒によって生まれた酒蔵のようだ、関東悪酒と悪口を言いながら安さが取りえで、関東御免酒と神田っ子は言いだした。

してみると儀兵衛は相当以前から本間家と取引があるようだ。

一番浜よりに“みさきや”と云う小体(こてい)な宿がある。

「七人だが幾部屋都合できる」

新兵衛の問いにざっと服装を見て「四部屋でも五部屋でも」という。

次郎丸が見てもそんなに大きな宿に見えない。

「五部屋四泊、七人で泊まるぜ」

竹ヶ岡陣屋で四刻過ごしても日中に戻れると道中で相談はできている。

造海(つくろうみ)城の竹岡台場でも一里と十五町だと織本家で調べて来た。

女中は大げさに喜んで「ささ、御身足をすすぎましょう」と式台へ腰かけさせた。

驚いたことに表は二部屋が見えただけだが奥が深く庭も広い。

「此れから七人分良い肴が用意できるかい」

「任せていただけますか」

「頼んだぜ。酒は一人二合で御積もりだ」

新兵衛またも大きく出て来た、酒のあては蚕豆の塩ゆでが出た。

「もう出るのか」

一学は驚いている、そら豆は江戸に出ていた時でも三月の節句の頃が出始めだ。

「お客さん、江戸かもっと北からお出でかね。陣屋の新しく来た番士の人たちも昨日驚いていたよ」

「ここまで息抜きに来るのかね」

「そろそろ巡視のお偉いさんが来ると言ってましたよ」

「なんだ、通達が来てるなら脅かしようもないですな」

「あれ、白河様のお方でしたか」

「其の巡視を言付かってやって来たのさ」

蚕豆から話がずれたが房総の地では江戸よりひと月早く収穫できる。

食事は大根と里芋の煮物に金目鯛の煮つけ。

蛸の煮物は生姜の味が効いている。

鯛の刺身はまだ身がしまっている。

「通にいわせりゃ活き造りは邪道だというがこいつは上手い。此処まで旨い鯛は初めて食べた」

吸い物は鯛のあらでしつらえたうしお汁。

大野だって普段は粗食だ、この旅で舌が肥えたら戻ってからが辛いだろうと次郎丸は可笑しかった。

大根の浅漬けは上手い、菜花を湯がいて削り節をかけてある、醤油を少しかけると踊りだした。

大野まで酒を飲み切って名残り惜しそうに盃を伏せた。

食事がすみ談笑していると女中が客だという。

「竹ヶ岡陣屋を預かる酒井義太路(よしたろう)でござる。大野様お久しう御座る。此度は巡視に供と二人と聞いておりましたが」

「これが供の次郎に用心棒に頼んだ佐久間一学殿。あとは帳付けに荷物持ちの中間じゃ」

二人とも腹芸が旨いと感心した、巡視が若殿と知れれば委縮するものも出る。

隠せるものなら隠しておこうと云うようだ、さすが酒井孫八郎の婿だと感心した。

「本川次郎太夫(ほんかわじろだゆう)でござる。大野殿について勉強してまいれと大殿より仰せつかりました」

鑑札を見てなほに大笑いされた名だ、本所に深川、次郎を入れて役者に多い大夫を付けた、兄の悪ふざけだ。

中間たちも廊下で笑いを堪えている、ここまで道中で名乗らずに済んだ名だ。

「お会いするのは初めてのようだが」

こいつも遊んでいやがると腹が揺れた。

互いに顔を合わせたことは無いはずだが、話は聞いている。

服部家もそうだが家老職の家は養子が多い。

「ただいまは元矢之倉若殿様お屋敷へ詰めておりますので、上屋敷へ参上するのは年に三度ほど、大殿様にもお庭先で挨拶させていただくのが精々の軽輩でございます」

陣屋からついてきた五人の番士へ聞かせたようだ、明日には広まって居よう。

「して大野様はいつ頃陣屋へ参られます」

「明日辰には遅くも宿を出て陣屋へ参る。明後日は砲台を見に行きたい」

「大川」

「はっ」

「聞いた通りじゃ。明日明後日と道案内(みちあない)せい」

「かしこまりました。本川殿お久しうございます」

「五年ぶりでござるか。大野様とは初めてでしょうか」

「上屋敷ですれ違ったくらいのはずでしょう」

「わしは覚えておるぞ、その厳つい顔で藩内一の美女を嫁に迎えたと評判じゃ」

十年前に江戸詰め藩士の娘、河野佐惠と婚姻し二人の男の子がいる。

「嫁と子供達には駒井殿から伝えてもらう。一部屋開いていたら泊めてもらえ」

女中が心得て「表の二階でようございますか。馬でお出でになられましたでしょうか」と気が利いたことをいう。

馬は陣代様と駒井様の分で大川は徒士だと告げた。

四人が陣屋へ引き上げたので改めて酒盛りになった。

「若様、幾ら何でも本川次郎太夫は行きすぎです」

「孝蔵もそう思うか。兄上の悪ふざけさ」

中間も旧知と知って次の間で笑っている。

「新兵衛殿の顔を見て笑いそうになって困りました」

「先生の前で困ったのはこっちですぜ。腹芸の比べっこにゃ参りました」

孝蔵、山本流居合術の達人でもあるのだ。

「昨晩は爺と酒を飲んだよ」

「鉄之助先生が上総へ来ていたのですか」

「富津の織本の家で会ったよ。こちらの佐久間先生の縁で織本の家へ寄ったのだ」

「若も俳句で」

織本家は先代、当代共に俳句の連中だ。

「いや俺には発句は無理だ。このあいだも梅我(ばいが)に笑われた」

「大和屋め人気で生意気になりましたか」

「岩井茶なんてのが年増ばかりか、娘っ子にも大流行りだ」

明日は卯の刻に起きるようだとその晩は切り上げた、三日は一緒に過ごすことになる。

中間と新兵衛は留守居で、辰(八時頃)に宿を出て湊の渡船で向こう岸へ渡った。

海沿いを一里ほど進んで山側に入った。

丘に囲まれた一帯が陣屋で、周りに長屋がある、番士たちの住まいだ。

酒井たちが出迎えるなか、孝蔵は着替えを取りに長屋へ向かった。

妻に下着など風呂敷にくるませ、自分も着替えながら次郎丸に出会っても驚かぬように藩札の名を伝えて置いた。

藩士の子供たちは手習いの御小屋で勉強中だ。

風呂敷を抱えると陣屋へ入り、視察の後を付いて回った。

陣屋の裏手、山のすそには畑が広がっている。

一貫目筒に二貫目筒が六門ずつ蔵の中に置かれていた。

御船蔵、遠見番所、陣屋裏の焔硝蔵など入念に見て回り、陣屋で一休みして酒井の要望を聞き取った。

「四畳半と三畳では子供の多くいる番士には辛いです。子供のいる番士はせめて隣の御小屋に空きがあればそちらへも住めるお手配をお願いします」

「最初はそこまで見越していなかったと。建て増しの許可は出されましたか」

「上屋敷の国元からの勤番と同じ扱いですが、すでに三年目この先もこの地での勤務が続くならぜひお考え下さい。御小屋の建て増しには四百両は掛かると勘定方が脅すのです」

番士と足軽で二百人、その家族で陣屋の周りは住む家に困っている。

江戸勤番と違い陣屋務めは交代が少ないという。

中屋敷、下屋敷の江戸詰めなら家族持ちには八畳二間と六畳に土間と庭がある、身分が上なら五間以上の住まいが与えられる。

大野も必ず報告を挙げると請け合った、勤番の軽輩は塀を兼ねていて、六畳一間に板敷が一畳半、土間に台所が付いた長屋が基本、押し入れなどないのが普通だ。

少し身分が上だと二階建てになり部屋も八畳二間になる、場合によってはそこへ三人ほどで共同生活なんて事態も起きる。

上士ともなれば国元で屋敷住まいの優雅な生活から、勤番で出てくれば自炊するか煮売りを呼び止めての買い食いになる。

定信は経費削減に非番の上屋敷台所賄まで廃止してしまったのだ。

殿様がお役に就いていなければ家来も暇だ、許可の出た日はついふらふら町へ出てゆく。

剣術道場へ入門しようと云う者もいるが、名所見物が趣味の風流人も多い。

剣術修行は口実で早々切り上げ、うろつく手合いも多い。

 

翌日も大川の案内で竹岡台場へ向かった。

対岸の白狐川河口から見る台場は峻嶮で道悪だ。

川沿いを上へ向かい陣屋の脇の百首村継立場の家並みを抜け、橋を渡り台地を目指した。

百首村は昨年五月二十二日に竹ヶ岡村に改めたばかりだ。

「よくこんな道で砲を挙げたものだ」

「大野殿、六人掛りでもっこで担ぎ上げました」

一貫目砲は弾の重さで筒は口径が二寸八分、重量も百三十貫以上になる。

六人でも良く運べたものと次郎丸は感心した。

「荷車も通れないのじゃ砲丸を揚げるのも大仕事だ」

「一人四個はこの道では無理でした。皆が二個を担いで運びました」

細道を海側へ行くと昔の城の跡だというのがよくわかる場所に出た。

「南側三門、北側も三門です。予備の筒は六門来ております」

遠見所の石垣が見えた。

三人が三交代、九人で日の出から日没まで海上を見張っている。

夜間は隊長が指名した順に交代する。

大川が「ご苦労」と声をかけると上から「お通りくだされ」と声が帰ってきた。

「陣屋から巳の下刻に交代が来ます。砲手達も一斉に交代して陣屋へ戻ります。其れに合わせて陣屋へ戻りましょう」

「いいだろう。十分見て回る時間は有るようだ」

道を北側に下ると宿舎と一段下に焔硝蔵、さらに一段下に四台の石組みがあり間に砲が三門置いてある。

小屋というには粗末な物がある、焔硝の入った箱の雨除けにはなる程度だ。

陣笠をかぶった中年の男が「笠木でござる。巡視ご苦労に存ずる」と尊大に出迎えた。

国元家老の三輪の家から笠木家に養子に入ったと大川が昨日教えてくれた男だ。

「軍学に自信を持ちすぎて年寄りを馬鹿にしますが、根は単純です」

九人がいて、夜番は三交代だという。

大野はそれを心得て「房総警備の御役目ご苦労に存じます」と上手くいないしている。

「ことあるときに陣屋からの応援に馬が使えぬのは困り申す。道を開くか砲座を海岸線へ下ろすかする方が防衛には役立つと存ずる」

まずまずの防衛論だ、次郎丸は肯いている、昔は高台の城が有用だが今は船が相手になる。

「確かに承った、殿の御試問にはそなたより相談を受けたと申し上げる」

大野は相手の手柄になるような言い方をした。

大野と次郎丸は持参の遠眼鏡で沖の船を見ている。

大川は段丘をいくつか北側へ超えて白狐川から見えた砲台へ案内した。

此処も国元から派遣された高田重次郎という若い男が責任者だという。

陣笠を粋にかぶっていたが急いで脱いで大野に挨拶をした。

此処は急場には下に見える社へ抜ける道がありますと説明した。

大川が十二天の社だという「昔はあの付近に船着きがあったそうです」そう教えてくれた。

川沿いに小道が陣屋先へつながっているのだと大川と交互に説明した。

大野が「朝夕の支度はどうなっているんだ」と聞いた。

「宿舎で煮炊きさせています。水は井戸があります。炊事番も同じ勤務で米味噌、漬物は十日分蓄えていて野菜は毎日陣屋から持ってきます」

「陣屋の周りは古くからの継立場で、水は旨い井戸が幾つもありますが自分用の飲み水は瓢箪などで持ってきます」

次郎丸は砲がむき出しでは風雨に弱いと感じた。

手入れも大変そうだ、これは屋根を付けたほうが良いと進言するべきだと心にとめた。

そうこうしていると交代の者が来て大野に名を告げた。

高田幸四郎だという「弟です」重次郎が教えてくれた、次郎丸より若い二十一歳だというではないか。

交代の準備に入り砲弾の数、箱の中の焔硝の確認をして配置を交代した。

次郎丸と大野が遠眼鏡で周囲の観察の終わるのを待って出発した。

上の宿舎まで戻ると笠木たちは先に戻ったという。

高田たちは荷を背負い大川へ「お先を歩ませていただきます」と先に発った。

足悪な道だが慣れているようでどんどん離れてゆく。

橋を渡り宿場へ入ると佐惠が二人の男の子と待つていた。

佐惠は「大野様にご挨拶を」と子供たちと礼を交わし、態と次郎丸には挨拶を控えた。

大川が「こちらが本川様、そちらが佐久間様」と子供たちに挨拶を促した。

「陣屋脇の学問所で御新造様達が餅を搗いて待っております」

佐惠がそういうと大川が先に立って案内した。

二十人ほどの女が替わり番子に臼で餅をついている。

もう幾臼も搗きあがったようで大騒ぎで丸めたり千切ったりしておろし大根と絡めている。

次郎丸達が椀を分けてもらうと、待ちかねた子供たちにも大騒ぎで分けている。

煮だした茶と合うようで辛い大根も甘(うま)さが増した。

大野は「良くもち米がこんなに有ったな」と驚いている。

「先日二斗も高井様のお家に届いたので、一斗うるち米と交換させていただきました。子供たちもお客様の御相伴で喜んでおります」

大川が「陣代の酒井様の奥様です」と紹介した。

「奥様とは面はゆいですわ大川様」

家老の娘だ奥方はともかく、御新造様とも呼びにくい。

普通なら女たちが客の接待を仕切ることは無いが、酒井義太路からの指示でもあったのだろう。

次郎丸に多くの子供たちを見せれば、住まいにも善処してもらう機会が増える。

後で大川が言うには高井は勘定方で数馬村の名主の娘を嫁に迎えたという。

家は鶴峯八幡神社の近くだという。

「佐貫のかね」

「いえ、湊川の上流に有るのですが」

なんとこの付近鶴峯を名乗る神社が多いようだ。

白河藩領になったのは一昨年十月、薪炭御用の五大力を湊浦に持つという。

「嫁に来てくれたおかげで甘藷の苗を手に入れやすくなりました」

大根に甘藷、そら豆、隠元豆は足軽に番士の家族で栽培しているという。

翌日は陣屋周辺と台場の有る台地を南北から見て回り、大川が勧めたヒカリモを見に行くことにした。

「実は海から砲台を見てほしいと荻生の湊に勝奇丸が来ております」

「呼び寄せたのか」 

「梅ヶ岡へ交代の者を送れとの連絡を兼ねた操練だそうです。艦長の添田氏(うじ)は義太路様の兄上ですのでお頼みされました」

藩の巡視ともなれば嫌とは言えないのだろう。

相当前から巡視は判っていたようだ、家臣たちの連絡網は馬鹿にできないと思った。

「この分だと梅ヶ岡まで筒抜けだろう」

「秘密ではないといえ何も隠したりせずに居てくれればいいのですが」

白子は梅ヶ岡出張陣屋と遠見番所で常駐の藩士のほか、三十人が詰めている。

松ヶ岡陣屋と竹ヶ岡陣屋からそれぞれ十五人が三月ごとに交代する。

ヒカリモを一学は知っているらしく大分興奮している。

「本では洞窟内の溜り水が如月の頃より夏にかけて黄金に光ると有ります」

黄金井戸の名で知られるという“ヒカリモ”とは不思議だという。

蛍を想像していたようだが、藻が光を放つというのが理解できないという。

新兵衛は越中では光る烏賊のようなものまでありますという。

江戸の深川でも夏に波が騒ぐと海が光る、天変地異の前触れだと騒ぐと漁師は毎年のことだと笑い飛ばす。

洞窟の前には鳥居がある、皆でのぞくと暗くて良くわからない。

参詣に来ていた老婆が「一人ずつ見るだよ、陽の光が入らぬと光りゃせんで」と親切に教えてくれた。

「後十日もたちゃ弁天様に陽が当たって奇麗に輝きますんじゃが」

それでも覗くと溜水が本当に黄金色に輝いて見えた。

物の本にある筑紫の不知火は壮大だとあるが、こちらは藻のあるわずかな部分だ。

湊から小舟を出してもらい“勝奇丸”に乗り込んだ、船端が低く乗り込むのに苦労はないが水夫が二十人ほど櫓に取りついている。

舳先側に座が決まると「漕ぎ方はじめ」と号令が響いた。

これだけ大勢の漕ぎ手の息をここまでそろえるのは大変だと次郎丸は思った。

「御船方の添田でござる」

陣羽織も鮮やかだ、見ているのに気が付いたようで「先祖が大坂城攻めの後で作らせたものでござる」と言い訳をした。

「さすれば定綱様大坂御出陣のおりご活躍の添田殿の」

「大野殿はわが祖をご存じか」

「お名前は藩中で知らぬものなど居りませぬぞ」

大野なかなか気の利いたことをいう、聞いている水夫も艦長を尊敬するだろう。

藩旗を見た砲台の守備兵が大きく手を振っている、次郎丸達も振り返した。

湊浦で舟を呼んで“勝奇丸”と別れた。

大野は「あの砲台では沖を抜ければ砲弾も届きませんな。若の言うように富津の岬へ性能の良い大砲を置くほうがよろしいでしょう」と言っている。

次郎丸は四か所の陣屋は経費が出ないと大野に話した。

「だが今の二か所のうちどちらかを移動となれば洲崎砲台だろう。見ない事には兄上に申し上げようもないぞ」

「いっそ白子も見に行かれては」

大川に言われて大野は慌てている「今回は予定に入っておらんよ」と手を振っている。

余分なことをしてお叱りを受けてもつまらぬと思っているのだろうか。

次郎丸は定信の定めた御家流火術がすでに時代遅れだと感じている、一貫目、二貫目の砲を目で見てさらに実感できた。

移動も大仕事だし設置するにも台座を構築する必要がある。

異国話で昔爺から聞いた荷車で運び射程が長い大筒が欲しいと思った。

十五年で出来るだろうか、銭五と信が話した異国の船の大きに比べ我が国の千石船は二百年の差がついている。

清国の三千石船が我が国の二千石に相当し、異国では中型船でもないのだという。

話しに聞く安宅丸(あたけまる)と同等の船をつくる技術は残っているのだろうか。

百三十年も以前に解体されたという、今残る天地丸が将軍御座船で、千石積み程度でしかない。

各藩ではこれを超える戦船は許可されていない、九十三尺(28.2m)幅二十三尺七寸(7.19m)と藩の記録に有った。

一時は五百石越える船は禁止されたこともある。

商用の千石船と同じで今は商用千五百石船が許されている。

戦船小早が関船以上にもてはやされているが最大百石程度に過ぎない。

道場でよく聞いたのは船を寄せて切り込むという話だ。

異国船が襲うことを前提にすり替えている、薪炭、水の補給、交易を長崎以外でもさせてほしいというのが現状だ。

それを夷狄などに土を踏ませてたまるかと息巻く者もいる。

蒙古襲来と間違えている。

耶蘇を恐れたのははるか昔で、長崎と同じ仕組みをいくつか設置すれば済む話だ。

爺の話すガリオンの中型船でさえ千石船三艘以上だという。

なぜ耶蘇に帰依するかといえば苛斂誅求のつらさがある。

権現様の掲げた“厭離穢土欣求浄土”さえも農民を救えていない。

長崎へ来航する阿蘭陀の船は途絶えている。

それも阿蘭陀が英吉利に阿蘭陀領東印度を占領され新しい船が来ないためだ。

替わりに甲比丹は亜米利加の船を雇船として荷を運んでいる。

信と爺は甲比丹ドゥーフの援助も銭五を通じて切らして居ないという。

此の年六月二十七日前任者の甲比丹ワルデナールはオランダ国旗を掲げたイギリス船で入港し降伏をすすめたが拒否している。

この船はフェートン号事件の再来と恐れた甲比丹ドゥーフが、亜米利加からの雇船二艘として事件を大きくすることを防いだ。

道富丈吉はドゥーフの子で、左衛門尉の後押しで庇護され、文政四年(1821年)十四歳で唐物目利役に任じられている。

 

翌日は小雨が降る中館山を目指して旅立った。

陣屋で酒井に挨拶した。

「遅くも六日後には梅ヶ岡へ送り出す。大川は大野殿の案内を続いて頼む」

いやも応もない上役の言いつけだ、大野にも拒む理由はない。

急いで家で旅支度だ。

継立場の橋を渡り、山裾の切通しを越えた。

浜沿いに進むとひなびた漁村が入り江ごとにある。

前方に山波が続いている、新兵衛は二里半ほど歩いたと朗太と話している。

金谷石(房州石)の切り出し場があるという、聖武天皇の勅願で行基が開いた寺もあるという。

此処も藩領に組入れられた村だが、大川によれば浜と岡の仲が悪いという。

浜側に金谷・芝崎・島戸倉、内陸の大沢・富貴。

合わせて高七百六十石だという。

安房との国境の日本寺へ明日出て、高みから江戸湾内を見ようとなった。

湊の宿から五里三町ほど歩いて金谷川と出あった、雨があがった。

卯の下刻(七時頃)に出て陣屋へ寄った分、刻がたって午の下刻(午後一時頃)を過ぎたようだ。

新兵衛は「午後の一時十分です」という。

大川は目を見張って覗いている。

「ずいぶん小さいな」

「異国じゃ百年以上前から作ってるそうですぜ」

「上屋敷の分銅時計は面倒だが、これは刻をどう合わせる」

「今晩ゆっくりお見せしますよ」

上屋敷の時計は一挺天符に二挺天符がある。

湊では人足がもっこで石を船へ積んでいる。

上流が街道で橋があるという、だいぶうねった道筋だ。

橋を渡ると商人宿がある。

新兵衛が聞くと三部屋しかないという。

大野は十分だという「明日日本寺へ参るが、宿はここへ戻るがいいか」念を押している。

片道一里半往復と山登りで四刻見れば十分でしょうと女中に教えられた。

「日暮れまでには道に迷わなけりゃ戻れます」

新兵衛は足を濯ぐ(すすぐ)若い女中に言われ、南鐐二朱銀一つ握らせ「旨い魚でも豪勢に支度できるか」と聞いている。

いきなり十二畳ほどの部屋へ案内された。

「おいおい、こんな広いのが三部屋かよ」

新兵衛驚いている、勝手に三部屋に分かれた、つなげりゃ三十六畳と大宴会でもできそうだ。

新兵衛は大川と一緒に次郎丸の部屋へ決まった。

鯔背な料理人がやってきて「伊勢海老に鯛くらいですが」と聞いている。

「鯵のなめろうに鰹などはまだ無理か」

「なめろうなんざいつでも出せますぜ。鰹はようやく上がりだしましたが、今出てる船次第で」

「この辺り土佐風にひとしお振ってあぶると聞いたが」

「船を待って手に入れやしょう。まだ小ぶりで油は乗っておりやせんぜ」

「下りより今のほうがあっさりとして旨いと聞いた」

最近安房でも、紀州から土佐与市によって伝わった技法で、土佐節の製造が始まった、鰹の需要は多い。

与市は房州千倉に住んでいるとうわさがある。

その晩の食卓は賑やかに飾られた皿に鉢で賑やかになった。

「こんなの昔の錦絵でしか見たことありませんな」

大川め、目を見張って驚いている。

「若のお供は泥鰌におから鮨が多かった」

「あの頃でも、もうちっといいのも食べたぞ」

「鉄之助の先生だとしゃも鍋。猪四郎に新兵衛ならももんじ。おから鮨はまいりました。早鮨が流行り出したときは妻を連れて行きましたな」

五年前だと握りずしを出す店は二軒ほど、屋台店でも五軒ほどしかなかった。

鰻やは屋台から店を構えるほどに繁盛していた。

ももんじぃは猪に鯨の鍋だ、たまには紅葉も出てきて中間たちもおなじみだ。

房州の“鯨のたれ”は知り合った“しんぺえ”という子供の母親から屋敷へ届くので、中間に詰め番たちの酒のつまみだ。

伊勢海老は殻ごと豪快に焼いたのも出た。

「刺身に焼き物で一人二匹など夢じゃないのか」

鰹の土佐作りも出て権太など驚いている。

「片身買うのに女房を売ったなんて、嘘が通じるくらいの物が頂けるとは、新兵衛様様だ」

「今これが江戸へ運んだら魚河岸はいくらつけるかな」

「こっから押送船(おしょくりぶね)で半日、夕にとって朝河岸なら十両」

「十両付けても一足(百)はまだ無理だろう。初物はまだ河岸へは入れないしな」

若い女中が「上がったのは二尺程度が十二本でしたよ。セリは四本で二分付けたら落ちたそうです」と笑っている。

「夕河岸に間に合わないとなぶらをあきらめ、あわてて戻ったそうですよ」

河岸に情報網でもあるように話した。

片づけをしている渋皮のむけた女中に中間たちは色目を使っている。

「若い娘っ子が給仕に出たがここの娘かい」

「いやだ、おかみさんですよう。よく間違って口説く人がいるんですよう」

五年前に嫁に来て子供も二人いるのだという。

介重めわざわざ次郎丸の所へ報告に来た。

女将が茶と干し芋を持ってきたので介重め逃げ出した。

一学と大野が来た。

「ものの本に岩肌に大仏があると書いてあった」

天明三年(1783年)に大野甚五郎が門弟たちと三年かけて掘り出したという。

「表参道から入ればすぐ近くにあります。呑海楼でお休みになれば楽でございます」

山の中腹なので千五百羅漢まで行かないなら楽な路だという。

案内が必要なら「一人につき銀一匁」で一人付けるというので頼んだ。

女将に南鐐二朱銀を出して「五人で行くからそれだけ渡してくれ」と大野が頼んだ。

翌日は辰前に中間三人残して六人で安房日本寺へ向かった。

案内の男は渋い中年男で、案内を商売にしているという銀十という男だ。

浜沿いに出て明鐘(みょうがね)の岬から先は安房の国、砂浜が街道になる。

汐が上げてくれば崖下の細道を通るという、見るからに歩きにくそうだ。

大川は馬が荷を運ぶときは船で本郷へ渡るのが普通のことだという、間の元名でも金谷から通船は有ると銀十は言っている。

「黄門様がこの崖路を歩いたと言い伝えがあるだね」

昔から変わっていないようだ。

元名の岩を積みだす港まで二十五町あまり、“羅漢道 日本寺”の石柱があるので川沿いを上へ向かえば五町ほどで表参道になる。

石段を上ると山門(仁王門)が見える。 

山門(仁王門)の金剛力士像は慈覚大師作と伝わるという。

「慈覚大師といゃあ千年も前の話だ」

新兵衛が見上げてつぶやいた。

「お客人はようしったられる。この寺は行基菩薩が建てられましただが、それが千百年まえだそうでなぁ」

円仁(慈覚大師)が入山して天台宗に宗旨が変わったときにこの仁王像が造られたと教えた。

「お客人は羅漢さんへは案内しなくていいと聞いただが、羅漢さんも大仏と同じ甚五郎さんの作だで、中には左甚五郎と間違えてくる人もいるだ」

「羅漢さんはな、見だしたらきりがない。ざっと見るだけでは済まなくなりそうだ」

「そんだな、中には同じ顔を見つけべえと半日飽きずにいられて往生しただ」

通天窟には「高雅愚伝禅師」「道元禅師」「瑩山禅師」と曹洞宗の禅師を祀っている。

高雅愚伝禅師とは聞かぬ名だと大野が言うと、日本寺を麓から今の地へ移し“大福山”から“乾坤山”へ替えたという。

寺伝では三代将軍様の時に日本寺が真言宗から曹洞宗に変わったのだという。

通天窟”と彫られた石板の上、天女が二人彫られている。

銀十に兎毛通懸魚(うのけどうしげぎょ)だといわれた。

珍しい様式でしばし見とれた。

稲荷の社を通り過ぎた、地主神でも祀ったのだろうか。

銀十は乾坤稲荷と言い荼吉尼天が祭られていると大野に話している。

さすれば禅宗に替わり、寺号を変えた時の物だろうか。

薬師本殿には本尊薬師瑠璃光如来が祀られている。

次郎丸は大野に一分判四枚渡して納めさせた。

心得て白河藩大野玄太夫で寺僧へ供養料で納めた。

道のわきに句碑がある。

「この刻は儂の師匠の素丸の字だよ」

一学は新兵衛に石碑を見て教えた。

余談

寛政二年(1790年)四月一日、日本寺に馬光句碑が建立された。

一茶が織本花嬌に紹介されたのはこの時ともいわれている。

一茶はこの時参列しているといわれるが確実ではない、参列者の名簿が見つからないのだ。

其日庵二世馬光は一茶の師匠竹阿の師匠になるが二六庵竹阿はこの年の三月十三日に大坂で亡くなっている。

この当時の葛飾派は山口素堂、長谷川馬光、二六庵竹阿と継いでいた。

馬光五十回忌の追福に鹿毛(金谷村名主小綿孫平次)、児石(元名村名主岩崎善右衛門)が施主で建てたという。

其日庵三世溝口素丸の筆により“引きおろす鋸山の霞かな”と刻されている

呑海楼で一休みした、石段に飽きたせいだ、女主人が勧めたはずだ、景色もいいが見透かされていると次郎丸は思った。

春分前だというのに汗ばむ陽気だ、眼前に房総の海が広がっている。

一休みしてまた石段を昇ると徐々に大仏が見えて来た大きい、銀十は九丈二尺有るという。

「人の背丈十八人分あると言います」

新兵衛が「まだ九時半ですぜ。辰の下刻を過ぎたばかりだ。どうせなら頂上まで行きましょうや」と元気だ。

大野は石段に飽きているようだ。

「一体全部で幾つあるんだ」

銀十は石段と察したようで「石段の総数は二千六百三十九段あります。もう半分以上登りました」と教えた。

「後なん刻程掛かる」

「女子供で此処から一刻で往復します。地獄覗きをされるのもご一興です」

「羅漢と地獄覗きをせねばいいだろう」

一学もそうすれば午の刻には此処へ戻れると賛成のようだ。

「行くのでしたら三百段ほどの急な路か、八百段の楽な路があります」

「楽なほうは」

「羅漢さんの間を抜けて地獄覗きへ出ます。急段は別の峰で十州一覧の台への道です」

「十州一覧と言われちゃいかずばなるまい」

次郎丸に言われて「案内してくれ」と頼んだ。

大川が指折り数えている「どうした」と聞いた。

「はて関八州に駿河の富士で九つ」

「旦那、伊豆を入れるのですよ。大島も見えますぜ」

「おおそうか」

大分脅されたがわけなく登り切った。

富士の峰が雲の間に見えたがすぐに姿を隠した。

「おや富士が恥ずかしがっていますぜ」

銀十は大野にそんなことを言っている。

登るより降りるほうが足に来る、表参道の階段まで戻ったのが二時ちょうど。

「地獄覗きしても十分でしたな」

大野はもう行こうとは言われ無いところまできて強がりを言っている。

銀十は「夕暮れまでに戻れますぜ」など余分なこと言って睨まれている。

房総往還との合流地点湊よりに立場がある。

「蕎麦かうどんでもないか」

「そば切りならこの先にありますぜ」

「この一学先生は信濃の人で蕎麦にはうるさいぞ」

「もとはうどんに蕎麦を商ってましたが、蕎麦のほうが評判で今じゃうどんは朝までの注文だけですぜ。このあいだどうしてもと云う人がいて寺参りの間に支度するとやってました」

面白そうだと店に入ると削り節を炊くいいにおいが漂っている。

「汁の追加でも始めたのか」

「夕方の分だ」

どうやらだし汁は人数分残っているというのでもりを全員分頼んだ。

軽く腹ふさぎの自摸だったが、盛りがいいので一枚で十分だ。

治郎丸は田舎の一人前は江戸の三倍はあると父から聞いたことがあるのを思い出した。

「こんなに盛りをよくしちゃ儲けにならんだろうに」

新兵衛が心配している、旅慣れていてもここのは格別多いようだ。

新兵衛は銀十に上まで行った分だと南鐐二朱銀を手渡して「勘定してくれ」と女に言いつけた。

「九十六文になります」

「ほう助かった、つい銭緡を入れてきて重くて困っていたんだ」

そういって女に一足と波銭(四文)を二枚手渡した。

「多いですよ」

「気は心の心付けだ。江戸でも通用する旨さだぜ」

崖下を抜けながら大川に「大分気前がいいが、旅で儲け仕事でもあったのか」と揶揄われている。

「儀兵衛さん、いや知らねえだろうが酒屋の主が書きつけさえあれば二十五両で済むなら全部使ってもいいと。そう言って道中の費用を寄こしたんですよ。まだ半分以上は残って居ますぜ」

「それで夕飯が豪勢なのか。帰りもあるんだぜ」

「戻りは六日も掛かりませんや。安くあげるなら木更津船という手もありますぜ。大川様の分も書付は別にもらいます、儀兵衛持ちにしやすんで」

「旅に出て懐が肥えるか」

銀十に大川と一学は向うからくる旅人をすいすいと海側に身をかわして先へ進んでいる。

大野はおっかなびっくり海側へ懸命によけて進んだ。

途中で入れ替わって最後を歩く新兵衛は、その様子にくすくす笑いを隠さない。

「若も上手くよけますね」

「相手のつま先次第さ」

新兵衛が見ていると先頭の三人は相手が左足を踏みだすとき、右足を踏み出し、身を入れ替えていた、わずかに袖先が擦れる程度だ。

「なんるほどね。あっしは気にしてなかったが、そういうことでしたか」

「新兵衛に免許でも出すか」

「だめですぜ。兄貴のような存在から、弟子になったら頭が上がらない」

「そういうことも有るな」

その晩の食事に “キアジ”だと言って塩焼きが置かれた。

同じもので“なめろう”にしたものは昨晩の物より脂乗りも良く“山葵で食いなんしょ”と態々目の前で摩り下ろしてくれた。

「お前会津かよ」

新兵衛目を見張っている。

「ありゃしだがら、お客さんわかりやした。ばっちゃが向こうの人で時々出てしまうだな」

新兵衛目を白黒している、どうやらいろいろな方言でも混ざりこんでいるようだ。

女将が「この人の言うばっちゃは母親のことですよ」と大川に言っている。

鮪のねぎま汁は旨い、葱の焦げ目は胡麻の油でいびったようだ。

大根の糠漬けはぱりぱりとしてうまい、べったら漬けと違い皮は剥いていない。

「そういえばこの旅で沢庵を出した宿はないな」

次郎丸は大根を見ながらつぶやいた。

「今年のはまだ早いですが去年と一昨年のは有りますよ」

「いい、いい、出さずにしまっておけ」

大野はしょつ辛い古漬けは大嫌いだ、とよに粥と一緒に出されて怒っていた。

物相飯ならともかく粥には青菜が一番だという、漬かりすぎた胡瓜まで食わぬ頑固者だ。

茄子と胡瓜の漬かりすぎは、細かく切って生姜と和えれば飯は幾杯でも食える次郎丸だ。

葵の御紋に似ているから“山葵に胡瓜はご法度”などは言い掛かりの様なものだと父も言っていた。

新兵衛物足りないのか「酒をもう一本附けてもいいですか」と大野に聞いて頷くと二合徳利を頼んで何かつまみを出してくれという。

「烏賊の一夜干しなどありますが」

「それで十分だ」

介重たちにもでて大喜びだ。

荷物番を変わり番子にしてひる酒でも飲んだようだ。


朝は汐の引き始めに合わせ卯の下刻(七時十分頃)に旅立った。

明鐘岬は引き潮が始まっていてもまだ砂浜は十分乾いていない。

歩く人に混ざり本馬に軽尻も行き来している。

元名の蕎麦店はもう人が出入りしている、石積みの脇から房総往還の橋を渡り浮世絵師菱川師宣が生まれた保田へ入った。

「父上が見た保田の水仙は時期がずれたな」

「もう残りも少ないでしょう」

鶴が崎の先に八幡の社がある、百年程前の社殿だと休み茶屋の娘が教えてくれた。

見た目十二.三位か目のくりっとした可愛い子だ。

明神鳥居がある。

「その鳥居はあたいの生まれた年に建立されたそうです」

享和元年建立”とあった、大野は「お前十三歳だな」と笑った。

境内には素朴な末社に混ざり真っ赤な稲荷の鳥居が目立った。

元名川を渡った。

先ほどの娘は別願院に菱川師宣の墓があると知っていた。

馬継場で街道は馬糞の匂いであふれていた。

先ほどの娘は保田川を上へ一里で水仙の里があると教えてくれたので川沿いを歩いた。

桜の樹が咲きだしている、一反ほどもあろうか水仙の群落があった。

桜と水仙が同時に咲くとは面白い景色だと一学も喜んでいる。

「まだ咲いているのか」

「不思議ですね、父の話では十一月に咲いていたと言っていました」

定信“狗日記”

文化八年十月二十九日に江戸を船で出て船橋へ泊まった。

(桑名松平家譜にある七年としたものが多い、楽翁著述目録は八年)

船橋の梨栽培方法を見る、道中よく出てくるのは富士と草木。

三十日-姉崎。

十一月一日-木更津。

二日-百首陣屋、砲台へもあがっている。

三日にはとうろう阪を越えて保田を通り、木の根峠を越えて館山へ到着。

四日-波佐間陣屋と砲台を視察(寺へ泊まるとあるが養老寺だろうか)。

日付はないが四日の続きで野じまが崎を抜けて白子という村へ宿るとある。

六日-瀧田から海辺へ出て本田に宿るとある。

(海邊へ出て泊まった本田は保田のことか)

七日-富津の寺へ泊まっている。

八日-五井泊り。

九日-検見河泊り。

十日には逆井の渡しで江戸へ戻っている。

土手に座り煙草を吹かす老人がいるので新兵衛は「今頃まで咲くのかね」と煙草入れを開いて勧めている、脇の石へ火種をはたいて新兵衛の煙草を煙管ですくい入れた。

よく田舎の親父は手のひらへ火種を置くというが、そんな風にはせずに置いた火種へ煙管を押し付け、載せると大きく一服吸い込んだ。

「この辺り、咲き始めが遅かったでまだ咲いとるもんで」

保田湊から江戸は海上十六里、江戸に比べてだいぶ暖かいはずだが、この辺(あたり)だけ今年はひと月遅いという。

新兵衛は老人の煙草入れに自分のを全部入れ込んだ。

一学が川で洗う大根を見て「辛味大根か」と近寄って聞いている。

信州では蕎麦の薬味に使うというと「おらたちは煮物くらいだ」とそっけない返事だ。

「こいつを持って元名の蕎麦屋へ戻りたいくらいだ」

小さな大根にいつになく興奮している。

「どこだね。旦那」

「羅漢さんの分かれ道の石積湊だ」

「そんなとこまで戻って行かんでも魚店(うおだな)へ行けば蕎麦見世があるだよ。一本めっていきなんせぇ」

そういって葉をもってあらいたてを「じいさまの煙草の礼だ」と一学に渡した。

さすが一学は礼を言うだけで銭は出さなかった。

聴いて居た老人が「そこの橋さ渡って下(しも)へ下れば魚店まで一本道だ」そう教えたので橋を渡ると道を下った。

一間ほどの川に橋がありそのあたりから人家が続いた。

「こっちにも宿がありそうか」

「道中記にはありませんぜ」

漁港が近いのか干物の匂いがする。

道行く男に蕎麦見世を聞くと「突き当りを右へ行くと五軒目だ」という。

すれ違うとほのかに蕎麦の香りがした、一学も驚いたように振り向いている。

街道はここまで一里半もないがあっちこっちと寄り道して巳の下刻(十一時頃)近くになっている

見世はすぐ見つかり座敷へ通された、女中は大根を下げた一学を不思議そうに見ている。 

「済まんが蕎麦を出すときにこいつをおろして薬味で食いたいので頼めないか」

「旦那に聞いてきますが。蕎麦はあじします」

「もりで人数分」

「八人さんでぇね」

入り口からさっきの男が入って来た。

大根のことを言うと「お任せください。さっきすれ違った時信州からのお出でだとピンときましたぜ」と驚くことを言い当てた。

大盛でも一人前だという太打ちの蕎麦と、大根を鬼おろしで擂ったものは汁に入れた、蕎麦と辛みがあっている。

「こいつもどうぞ」

そういって普通以上に柔らかに擦りこまれた大根おろしも出してきた。

「ややっ、こいつは辛味が柔いな。わしには丁度いい」

大野は大喜びで残りの蕎麦を食べている、江戸では山葵をつける店に頑固に七味にこだわる店もある。

「この辺り宿は有るかい」

「馬継場へ行けば三軒有りますが」

言い方に含みがある。

「どうかしたか」

「加知山村の鯨旦那を知ってらっしゃりますか」

代々醍醐新兵衛を名乗る一族だ、新兵衛は知ってるがどうしたと言った。

「今の旦那が妾に料理旅館をやらせました」

「なにぃ。あんの野郎めかけだぁ」

「新兵衛知ってるのか」

「大川様、○○のしんぺえですよ」

「あいつか、若もご存じですよね」

母親は今でもとよと文のやり取りをしている。

「国へ戻ったと聞いたがまだ十八だろう。威勢のいいことしてるな」

勝山まで一里ほどだ息ぬき用にでもやらせたか。

十かそこらで深川辺りじゃ悪ガキの総大将だった。

三年ほどでいい顔になっていた、三年前十五の時、兄に呼ばれて五十七艘の鯨組を指揮した。

新平は父親と同じ名だ、しんぺえのほうが深川で通りがいい。

父親は蝦夷地でも捕鯨を行った“鯨一頭、七浦潤う”とまで言われそれは蝦夷地でも同様だと云う。

余談

大田蜀山人も勝山を訪れ“いさなとる 安房の浜辺は魚偏に 京という字の 都なるらん”の歌を残したと云う。

文化二年(1805年)とされる記述を見たが文化二年(1805年)十月十日、長崎を立ち江戸に帰る“小春紀行”には勝山には寄っていない。

十一月十九日には江戸に戻っている。

長崎奉行所勘定役に着任したのは前年の九月。

この頃早ければ四月には漁が始まり、九月までに五十頭は仕留めたという。

数がいないのではない、仕留めても捌ききれないのだ。

「あいつ今でも船に乗るのかい」

「鯨組は人に任せて船を降りましたよ」

「じゃ、家業の方を継いだのか」

二年前兄の六代目がなくなり七代目を継いだという。

「庄屋様に“勝負”の仕事で忙しいそうです」

勝負とは買い取って油の抜き取り、皮や尾までが金になった。

鯨油は行燈の油やウンカの駆除に使われ膨大な利益を生んだ。

鯨肉は漁に参加した者で分配したという。

銛打ち五百人、出刃組などで七十人はいたという。

勝山藩は突鯨分一金を二十分の一としていた、大坂加番など金のかかる藩にとって醍醐組は大きな力になった。

加番は役高の一倍合力米が与えられたので成りては多いと噂が出たが、実際は藩の財政の改善など夢の話だ。

安房勝山藩一万二千石・実高一万四千石

酒井忠嗣・文化七年十六歳にて家督相続、従五位下、大和守、安芸守、越前守。

文化十三年(1816年)-大坂加番。

文政二年(1819年)八月-大番頭。

弘化五年(1848年)一月-奏者番。

安房国平郡の勝山陣屋(安房國平郡加知山村)。

越前国敦賀郡と上野国群馬郡に飛び領地。

「その男四代目の孫なのか」

「一学先生ご存じで」

四代目の醍醐新兵衛事乾坤庵冝明は俳句の兄弟子だという。

一茶にとっても二人は兄弟子になる。

寛政二年(1790年)三月十三日に竹阿が八十一歳でなくなり一茶は四月七日素丸に入門した。

一茶は二十五歳の時竹阿に入門している二六庵は竹阿から譲り受けたものだといわれているが使いだしたのか寛政十二年(1800年)からになる。

ひと月早く一学(二十九歳)が、それ以前には定恒(五十歳)が素丸に入門していた。

定恒は息子が三十歳になり家業を継がせて隠居し、江戸で素丸に入門したのだ。

一学は当時の名を国善、定恒は通称の小平次で付き合いがあり其の縁での入門だ。

一茶は文化三年木更津、富津と回り、五月十九日定恒の住む勝山で浄蓮寺を訪れた。

その時のいさな(鯨)漁の様子を得意げに聞かせたという。

いさな漁の様子は句にしていないが“こだらいもはちすもひとつ夕べ哉”と寺の情景を句にしている。

この時の一茶は浦賀にわたり富士の句を残した。

“涼風もけふ一日の御不二哉”

この日のことか、白髪染めなのかおかしなことを聞いたようだ。

“白毛黒クナル藥クルミヲスリツブシ毛ノ穴ニ入” 

定恒は後を継いだ息子(定昌)と孫(定好)に先立たれたが、喜寿の今は孫の定香こと新平の後見をしている。

「四代目にお目にかかれる楽しみもあるが、其のしんぺえにも会いたいものだ」

「一学せんせの俳号はあるんですかい。富津の寺でも一学先生でしたぜ」

介重は遠慮なく聞いた。

「俺わな。生家が長谷川というのだが、佐久間の家に養子で迎えられた時の条件が俳号は使わぬということだ。要は遊ぶなと云う事だな」

信じてはいないようだ。

木更津、富津から館山は渭浜庵素丸(いひんあんそまる)の弟子が多い、一茶は年一度の割合で房総の地を訪れていた。 

その間に新兵衛は店の女に料理旅館“すさき”の場所を聞き取っている。

店は昼時になって込み合っている、八人で百六十文だという。

一学が二匁豆板銀を出して「つりはいらんよ」と支払いをして七面橋へ向かった。

神社前の橋だと店の女は言っていた。

神社は七面天女が祭られいるそうだ。

境内には石の祠や手ごろな力石がいくつも積み上げてある。

神社の番人は祭神のことは知っていたがいつの時代からの神社か伝わっていないという。

「五十年前に社を立て直しているのでその前だね」

なんとも頼りない爺さんだ。

橋を渡った川下に板塀で囲まれた家があり門が開いていた。

“すさき”は思ったより質素なつくりだ、田舎の庄屋風に鄙びたたたずまいだ。

「しんぺえには似つかわしいとはいえんな」

次郎丸が新兵衛に言っていると中から怒鳴り声がする。

「何をごちゃごちゃ言ってやがんでぇ」

出てきた若い衆が次郎丸を見て「兄貴じゃねえか。どうしなさった」と大きな声で聞いている。

「お前、なんでそんな大きな声で話すんだ」

「おっ、いけねえ。耳栓してたの忘れてた」

耳から綿を引き出した。

「耳栓していて俺たちの声が聞こえるとは驚きだな」

へへへと笑ったがなぜ耳栓をしていたか話さないで店うちへ案内した。

背の高い様子の良い女が式台へ出てくると膝をついて出迎えてくれた。

「俺の兄貴にその子分だ」

まるでやくざだと大川が言うのに「だって兄貴の家来でしょうが」侍など屁でもないという風情だ。

新兵衛が「八人泊まれるか」ときいた。

「珍しい確か新兵衛さんだね」

「今気が付いたのか」

女たちが小盥へ湯を入れて水を少しさし、適度になると足を順に洗ってくれた。

「八部屋必要ですか」

娘っ子が新兵衛に聞くので大野が「中間に一人一部屋はまるでお大尽さまだ」と笑い出した。

「四部屋あれば十分だが三部屋でも構わない」

次郎丸がいうにかぶせて「奥の離れの三部屋でいいよ。中間さんたちは表の部屋へ入ってもらう」と新平が背の高い女に言っている。

「見たところ公用旅ですかい」

「おおそうだぜ。実は馬糞臭い街道の宿を避けて探していたら、ここを教えてもらった」

「公用旅なら決まりだけ頂いて後は俺もちですぜ新兵衛さん」

「怖いこと言うなよ。請取はないと後で困るんだ」

一人に四人、三人と三つは欲しいと女主人らしき女に頼んでいる。

「ごちそう攻めで怖い思い出でも作りましょうかい。まだ鯨は来ないので残念ですが」

「そうはいっても海っぷちを歩いて来たんだそう替わりもあるまい」

烏賊、蛸、鮑、栄螺、鯛、鮃、鰈、伊佐幾、鰹、鮪、鰤と新兵衛思いつくままに言っている。

「脂っこくても良いなら漁師が喜ぶ鮪の兜焼きなんてどうです」

荒っぽいいさな漁師なら喜びそうな名前だ。

「いきなり来て間に合うのか」

「朝釣りに出てさっき戻ったんですよ。しびの三十貫を釣り上げてきてさっき捌いたばかりでね」

台所先が船着きで百石程度の釣り船が泊められるという。

大きな女が此処の女将だ、神社のこともおぼろに知っていた。

近くに日蓮宗の大行寺があって、四百年近く前に勧請したが、寺内から外へ出したいきさつは解らないという。

大野に言われてひとっ風呂浴びた介重たちもこっちへやってきた。

アワビの生が出てきた。

女たちが鮪の骨から鋤とった身はあっさりとして旨い、はらすのねぎま汁は醤油に味醂を足したという、油が汁にじわっと浮いている。

そうこうしているうちに鮪が焼きあがったと大きな台で運び込んできた。

傍へ置かれ朗太なぞ思わずのけぞってしまう程大迫力の大きさだ。

「おあ兄さん方も初めてかい」

「深川で見たのは半分もなかった。外海ではこんなに大きいのがいるんだな」

鯨が打ち上がったと見に行けば大きいとの評判だが、鮪がこんな大きくなるとは知らないようだ。

「じつわね、うちの爺様は五十貫の大物を釣り上げたというんで悔しくてね。冬場は沖まで出るんだが、そこまでのはまだ釣り上げたことがないんだ。親父はエゾでは五十貫はざらにいたというのでいつかは出かけたいもんでござんす」

江戸の町では醤油につけた“ずけ”が出だしていたが、生のマグロは小型のメジ(メジカ)しか手に入らない。

このころ館山では延縄で鮪を釣り始めたというが、まだ鮪では金にならないと手を出す漁師は少ない。

女たちが頭のあちこちから肉を掻きとって配った。

ほほの肉は大野と新兵衛に目玉は一学と大川が食べた。

烏賊と里芋の煮物は味醂が効いて甘いくらいだ。

「蛸と芋は食べたが烏賊でもやるのか」

大野は芋が旨いとお代わりをした。

頭を片付けて普通の宴席になり、鰤の刺身は中間たちに大うけだ。

目の下二尺の鯛が二匹焼きあがってきた、大皿に二匹が腹を合わせている。

治郎丸が最初に箸で身をとると順に回した。

新平が両の手を使い器用に箸で骨を外し、下身を中間たちと分け合った。

「さて兄貴まだいけるなら出しますぜ」

「おやおや、何を隠してる」

「もう二口、客がいるんですがね。そこの注文で白子沖のアンコウを用意しましたが、余分に取り寄せてあるので鍋を出せますがね」

新兵衛がほかにも隠しているなと睨んでる。

「終わりにするならすっぽんの雑炊でも」

大野が少しほしいが分け合えるくらいにしてくれと頼んでいる。

ごちそう攻めで怖い思いとは此の事だ、次郎丸は大野が次々よく腹に入るものだと感心した。

屋敷での一年のご馳走を上回るんじゃないかと思った。

女将まで図に乗って「鰤大根に鯛の潮汁もご所望なら」など言っている。

そろそろ酒を止めようとしたら新兵衛が「もう酒は持ってこないでくれ」と言っている。

新平がほくそ笑んでいる。

これでももんじぃまで出されたらお手上げだ。

普通なら薄味から濃い味へ進めるのだが、行き当たりばったりのおかしな取り合わせが続いた。

べったら漬けの小鉢が置かれ、そら豆の甘煮が小皿で配られた。

「そら豆の皮が旨いな」

大川が食べきってため息をついている。

「同しやした」

「妻や子供にこの味を教えたい」

自分の割り当ての畑地はいまそら豆の花が咲きだしたという。

「醤油に同量の味醂を入れるんですよ。豆は先に下茹でしますのさ、あちしは急いで百数えてざるへ上げますよ。煮汁へ入れて沸騰させずに湯気が立ったらゆっくり百数えて火からおろしますのさ」

女主人が親切に教えてくれた。

新平が「豆の黒くなった部分は切ったほうが旨いですぜ。できるだけ熟さないうちに収穫するんですぜ」とかぶせてきた。

アンコウの鉄鍋が持ち出され皆に菜花、肝と身に皮を入れて配った。

水炊きなので酢橘と醤油に大根おろしで急いで食べた。

「一匹では無理だろう」

新平の分も入れれば九人分だ。

「気にしちゃいけやせんよ。七つ道具は揃えませんのでね」

どうやらほかの客に使ったようだ。

小さな磁器の椀へつけたすっぽんの雑炊が、これ程旨いとは次郎丸にとって驚く味だ。

「この土鍋はもう百年すっぽんの雑炊に使っています。我が家ではなくこの初代(はつよ)の家に伝わる土鍋です」

この土鍋で雑炊を作ると何層倍も旨くなると自慢した。

初代は妾というより姉さん女房に見える。

「すっぽんは鉄鍋でなく土鍋が一番ですぜ」

さんざん飲み食いして飲み疲れて寝たのは亥の刻近くだ。

それでも陽がさしこむ前に次郎丸は起き出した。

気をきかして朝は粥が出た。

辰に出て頼朝公上陸地安房国平北郡猟島を過ぎたのは半刻ほどたったころだ。

そこから浄土宗華王山浄蓮寺へ小半刻ほど巳の刻(十時頃)には為っていない。

新平の屋敷は寺の目の前にある。

小平次は連絡を受けて隠居所から寺へ来ていた。

「一学殿」

「宗匠」

二人は手を取り合って再開を喜んでいた。

織本嘉右衛門永祥が寛政六年(1794年)二月に亡くなりその百箇日法要以来だという。

小平次、俳号は宜明この文化十年喜寿の七十七歳になる。

「孫の使いの話だと公用旅と聞いた。松代が安房に用事でも」

「いや、内緒というのはもう半分ばれているようだが、この若者が白河藩の次郎丸定栄(さだよし)様で、わが藩へ御養子に迎える準備段階なのだが」

細かく説明して「わしゃ、用心棒じゃ」というとくすくす笑い出した。

「公用旅じゃ引き止められんがせめて一晩はいいじゃろ」

次郎丸は「那古船形で追いつけるでしょう」と残ることを進めた。

「ダメダメ、兄貴や新兵衛さんに大川先生もここで一晩泊まってくれ」

大野は新兵衛と紙を開いて日程を相談している。

二月七日勝山を足して、二月八日那古船形、二月九日館山なら十二日まで陣屋と砲台を見て回れるとまとめた。

「十二日が戻る日ではなく陣屋到着と兄上はおっしゃられた。この分なら梅ヶ岡を回るのも可能だろう」

一学を置いて新平の屋敷へ移った。

中間は好きにさせて、安房の見取り図を置いて旅程の練り直しだ。

今日は三里半進むつもりがわずか十八町足らずだ。

新平がここまでの泊りを聞いて大笑いだ。

「房総の防衛の巡視だ。遊び旅じゃない」

大野に言われて首をすくめた、異国の船は安房沖を抜け、樺太から出てくるロシアの船はよく見るという。

「浮島に砲台を置くのはどうです」

「勝山藩に金があるならな、鯨組で出すかよ」

「どのくらいかかるんで」

「ざっと二万両」

大川に言われて「此処のお殿さんにゃむりだぁ」と呆れている。

「殿さんに無理でもしんぺえなら若さんも力を貸しますぜ」

「本間家で後押ししますか」

「お手伝いするさ」

「鯨を倍取れたら簡単だがね」

それで今でも年二万は儲かると知れた、藩には年千両が入るはずだ。

男衆で七百人は抱えているというのは伊達じゃ無さそうだ。

酒井家の陣代屋敷はすぐ近くにある。

岡には勝山城と言われていた城があったという。

牛頭天王へ連れだって向かった、此処からも陣代屋敷が見えた。

この地は醍醐家の日月社のあった土地へ牛頭天王を遷したという。

境内の鯨塚は豊漁の年は大きいのですぐわかるという「出刃組が毎年奉納します」と教えられた。

家に戻ると新平が「今日の泊りの受け取りですぜ」今朝のと同じ額が明日の日付で新兵衛によこした。

「お前さん、袖を払ってさよならはないと踏んだな」

「りょうてんびんでさぁね」

夕刻、一学は宜明と屋敷へ来た。

新平の母親が指揮をして宴席となった。

「田舎料理です」

野菜の炊き合わせに鮑の煮貝、鯛の刺身に伊勢海老のお造り。

「俺の屋敷じゃお目にかからない大ご馳走だ」

母親が嬉しそうに肯いている。

豆腐の田楽は甘味噌が塗ってある。

一学が誘って宜明にシビの大物を釣り上げた話をさせた。

目が爛々と輝き大坂から取寄せたテグスの話から始めた。

一度大きなのを釣り損ねた話し、針も紀州で作らせた話、サスで止めをさして血抜きまで語った。

「さすがにこの年じゃ無理になったわい」

「じい様のテグスに工夫して十貫、二十貫は簡単だが。三十貫を超すと勝負も難しい」

テグスは高額だ、五十尋も取られたら大損してしまう。

しんぺえのような物好きでなきゃ大物は狙わない。

「なぁに数をこなせば大物にぶち当たるさ。烏賊を好むやつとイワシが好きなやつ運しだいだ。五十貫を釣り上げたときは飛魚を追いかけていた群れに烏賊のえさで流したらあたったのさ」

「源次の話じゃ七丁櫓で追いかけたと聞いたぜ」

爺様の自慢話で夜も更けた。

 

朝何時ものように辰刻に醍醐家を旅立った。

新平はもう一つの鯨塚を教えるとついてきた。

龍島の飛び地板井ヶ谷に鯨塚はあった、がけ地に百基以上の石塔が並んでいる。

此処のも毎年一基置かれるという。

街道へ戻り大乗院の前で別れた、だいぶ先へ行くまで見送ってくれた。

大きな溜池がある、地蔵が道案内するかのように置かれていた。

峠道へ入った飯之坂というそうだ。

峠を抜け、分かれ道で大川が「山沿いの道が楽だ」というので左の路へ入った。

木ノ根峠を抜けると丹生の集落へ入る。

舟形へ入ると湊への道と那古寺への道に分かれている。

参道のはずれに浜弁天の社があり、入口に真新しい地蔵がある。

道中記には元禄の大地震で陸(おか)が隆起したと記されている。

那古寺の観音堂は五十年ほど前に建て直されたという。

此処も行基菩薩の建立と伝わるそうだ。

道中記に街道沿い八幡の八幡神社の別当寺で坂東三十三観音結願所、安房国札三十四観音霊場の一番という。

門前町を東へ進むと小さな橋がある、通りがかった野菜売りに聞くと小川沿いに下ると金毘羅があり浜への道に宿が五軒並んでいるという。

礼を言って小川沿いに下った。

こんもりと盛り上がった林がある。

金毘羅の小さな社に鳥居があり、その先に那古寺の参道の宿場があった。

「なんだ遠回りしたようだ」

新兵衛が時計を見ると十二時を指している。

勝山から那古船形は二里二十七町とあるが二刻近くかかっている。

「まだ午か」

鐘が山から響いてきた。

「はっ、時計が正確か疑ったが鐘と今日はあってるな」

「午の鐘と合わせるんで土地の鐘しだいですぜ」

「若の屋敷の二挺天符は十五日で交換だがこいつは交換しないので楽そうだ」

「あの二挺天符はいいものですぜ。さぞ腕の良い時計師の作でございましょう」

「長崎で作られたしか解らぬそうだ。大殿が定永様と定栄様の五歳の節句に合わせて誂えたそうだ」

「長崎渡りでしたか」

「知らなかったのか」

「時計の間は殆ど入りませんから」

なほが来てからは奥との仕切りの間になって、客は次郎丸の居間へ通される。

一学が「最近信州上野にいい腕の時計師がいると噂だ」と話に加わった。

金毘羅の前で立ち話をしていた。

神官が何気に近寄ってきたので次郎丸は「だいぶ新しい社のようですが」と尋ねた。

「四年前のものですぞ、わしはその後に讃岐から派遣されてきたもんやけん」

話好きのようで境内へ誘い海を指して「鏡ケ浦というげなで」とその先の四国讃州を懐かしむように眺めている。

金毘羅を出て先の路を湊へ向かった。

湊川は入り江に伍大力が二艘泊まっていた。

宜明が教えた“いさなや”という宿へ入った。

「こんなばちで」と権太に介重が言っていたが、どっしりとした造りは昔繫栄した名残だ。

「お早いお着きで勝山のご紹介のお方でしょうか」

女主人だと聞かされていたが、帳場から出てきたのは若い様子の良い女だ。

介重たちは顔を見合わせている、道々姥桜の年増を想像していたようだ。

「隠居から連絡でも」

「承っております。今おすすぎを」

部屋で女中と茶を運んできたので一学は湊のことを聞いている。

「此処が鎌倉の世に安房の湊という場所だろうか」

「然様でございます、今は那古に船形の湊が金沢、江戸へ荷と人を運びます」

「五大力が舫って居たが」

「豆州熱海や、下田への便でございます」

江戸より熱海のほうが近いという。

今でも鎌倉や遠く伊勢へ鮑や人を届けるという。

「お伊勢参りもできるということか」

「お年寄りを連れての道中より楽でございますので。金沢の近くの鎌倉は坂東札所一番の杉本寺がございます」

補陀洛山那古寺が第三十三番の結願寺で礼参りなのだろう、いや終わりと始まりで輪廻を体得するのだろうか。

新兵衛は特別な料理は頼まなかったが、紹介者が気を配ったのか伊勢海老の刺身にキンメダイの煮つけが出た。

伊勢海老は八匹、皆に見せて身を小皿で人数分に分けると頭に尾は味噌汁にすると下げていった。

ひしこの押しずしが出た、ナンキンの煮つけも出た。

イワシの酢漬けは江戸でも食べるがこれは違うようだ。

イワシを醤油とみりんでつけたという。

この辺りは地引の九十九里とは違い二艘張八手網漁だという。

「ナンキンは品川から届いたんですよ。この付近のは皮がこわくて鉈で断ち割るようです」

それでも皮を適度に削ぐには技量がいる、次郎丸は昔小鉋(こかんな)で削るのを見た。

ひしこの押しずしを伊勢海老の味噌汁で食べる、贅沢なものだ。

二月九日いよいよ今日は館山へ入る日だ、香(こうやつ)の“ふじや”を勧められた。

館山陣屋と松ヶ岡陣屋の中間の漁村だという、何方へも三十町ほどだという。

湊川の向こう岸へ“いさなや”の船で渡った。

那古船形からだと館山へ二里、両国からでは館山宿三十四里二十四町だが、だいぶ寄り道しているので大野の日記は湊川までで、およそ四十里十九町だとある。

鏡ヶ浦は館山を抱え込むように広がり、湊は何箇所も連なり繁盛している。

浜から離れ八幡神社へ寄った、宿から十五町ほど歩いて昔安西八幡宮と言われた神社の参道へ入った。

禰宜によれば享保五年に本殿を建て替えたという。

元は安房総社として国府村にあり、そののちこの地へ遷座し八幡となったという。

此処の朱印地は那古寺(なごじ)の管理(別当寺)を受けている。

参道へ戻り北条陣屋へ向かった、ほんの一跨ぎと言っていいほどで宿場に入った。

「小藩と言え侮れぬ繁華な宿場でござる」

大野は街行く者の服装が整っていると感心する。

北条藩一万五千石・安房国安房郡北条村

水野忠韶-五十三歳・壱岐守。

安永四年(1775年)十五歳家督相続。

天明四年(1784年)三月大番頭。

天明七年(1787年)三月奏者番。

文化五年(1808年)十一月若年寄(1808年~1828年)。

文政十年(1827年)八月十九日、上総鶴牧に移封となる。

上屋敷は呉服橋御門内にある。

乙二郎事伊織が養子に決まりそうだというのはここの藩だ。

陣屋の先に伊南房州通往還の分かれ道がある、浜野から大回りで房総の地を巡る街道だ。

新宿の小神明まで十四町だと聞いて寄ることにした。

街道が鉤手(鍵の手)へ曲がると此処が新宿の鎮守だという。

「小があるなら大もあるのか」

屯(たむろ)している若者に聞くと「大神明(おおじんめい)は神明町にあります」と丁寧に道筋まで教えてくれた。

北条へ七町ほど戻るようだ、大野も苦笑いで「先へ行きましょう」と言って先へ立った。

川を細い橋で渡ると鉤手に街道が曲がりその先に酒蔵がある。

角樽に“長楽”と書いてある、建物はまだ新しい。

長須賀まで七町あまり、とぎれとぎれに人家と商いの店が続いている。

「地名からすると浜までつながった村のようだ」

小間物商いの見世で聞くと汐入川の下流の新宿から隣り合わせに広がっていると教えてくれた。

此処は館山藩領だという。

少し先で右へ街道が鉤手に折れると人家が途絶え川へぶつかる。

橋が架かり渡れば館山陣屋まで五町あまりだと茶店の親父が教えてくれた。

また街道沿いは賑やかになった。

館山城があった山の下に館山陣屋がある。

いさなやから二里もない距離を二刻以上かけてふらついた。

館山藩・一万石。

稲葉正盛-二十三歳・播磨守。

文化九年(1812年)三月九日二十二歳で家督相続。

余談

文政二年(1819年)大坂加番、同年十二月六日在任中大坂で死去。

上屋敷は築地白河藩下屋敷近くにある。

一学が「此処は里見氏が居城としていた城跡です」と教えてくれた。

安房里見氏は安房国の上杉方を駆逐し白浜城・稲村城を拠点とした。

秀吉に上総を没収され安房一国となった。

関が原では徳川方へ属し十二万石を与えられた。

里見忠義の時館山城を居城としたが大久保忠隣の失脚に連座して改易。

(滝沢馬琴の南総里見八犬伝は文化十一年(1814年)刊行開始)

その城跡に沿って浜へ向かうとうなぎ屋がある。

大川も知らなかったようだ。

「昨年来たときは気が付きませんでした」

焼のにおいが漂うので次郎丸は店の暖簾を開けて「八人はいれるか」と小女に聞いた。

「はいれましよう」

なんとも頼りない言葉だが「うな重にできるか」というと「あい」と返された。

二階座敷へ通された「うな重八人でいいか」一学が「同じで」というので小女に「うな重八つと人数分の酒につまみを頼む」

「冷ですか。燗ですか」

「冷でいいよ」

女中四人がいろいろと持ってきた、うまきが出てきた。

盆を置いて徳利と菜花のお浸しを配った。

お浸しは溶きからしの小皿までついている。

新兵衛が感心している。

「別皿とは御大層なものだ。よほど客筋がいいようだ」

小女はうれし気に降りて行った。

四半刻待たずに最初の重箱が来た。

「若、冷めぬうちに頂いてくだされ」

五つはすぐできてきた大野は一学と大川、中間に先に勧めた。

たいして間を置かずに残りも出たので介重たちも安心したようだ。

午の鐘が近くで突かれている、捨て鐘三つの後九つ。

新兵衛は時計を覗き「那古と同じだ」とつぶやいた。

この当時の卯の正刻は日の出二刻半(三十六分)前、酉の正刻は日の入り二刻半(三十六分)後、この一刻は一日を百等分した十四分二十四秒。

江戸日本橋石町(本石町)の時の鐘は。宝永七年(1710年)火災消失、翌年建て直された。

勘定は二分と銀十匁だという、酒を飲んだといえ春木屋並みの値段だ。

新兵衛が気張って「こいつは女たちへ」と南鐐二朱銀一つ余分に置いた。

入ってから出るまで一刻ほど、新兵衛が「まだ十二時半、周りは寺ばかりのようですぜ」と大野と話し合っている。

だいぶ歩いてから「五井の宿で派手な宴会でも三分二朱でしたぜ」と大川と話している。

「なぜこんなところで江戸並みの値段をとれるのやら」

「まぁいい味出していた分いいのですが、暮れに入った深川屋でも大かば焼き二百二十文でしたぜ」

見世を構えていても百文から二百四十文が浅草、深川の相場だ。

この旅では南鐐二朱銀八百文で通用した、銀一匁百十文が宿場会所に張り出されている。

「酒がここらは高いのじゃないか」

江戸で下り酒一升百六十文、御免酒百二十文が高いほうだ。

「毎日安上がりの旅だったからな。最初出た小女がふにゃけた応対だったのは勘定の心配でもしたのだろうさ」

大野は人の懐だと心配もしていない、心内ではうな重一朱かなと勘定していた。

浜から左に沖ノ島、右に高之島が見え、遠く箱根だろうか奥に富士が雪をかぶっている。

高之島湊はここから北条へかけて伊豆、相模、江戸表への荷を運ぶ船が多い。

陸奥盛岡藩、陸奥仙台藩はここに穀宿、廻船役所を置いている。

小高い丘がある、北下台(ぼっけだい)だという。

柏崎浦の“でわや”は江戸の本間家とも取引があるというので寄ってみた。

五下船という九十石積、小ぶりの押送船の往来が盛んだが。千石船は寄り付かないという。

二百石の五大力は月一度寄ってくれるようになり、最近五百石を超す船の荷運びができるようになったというがまだ数は少ない。

主力の五下船でさえ高之島湊で十艘に増えたばかりだ。

香(こうやつ)へ入り、蘇鉄の大きな樹が名物だという休みどころの老婆に、見物に値するところがあるかを聞いた。

「香(こうやつ)の浅間神社くらいだ」というので尋ねてみた。

祭神は例によって木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)。

富士浅間と同じ祭神だ、浜の鳥居から参道が伸び鄙びた社殿が見えた。

丘を見ると奥宮らしき社がある。

街道へ戻り畑仕事の若者に“ふじや”を聞くとこんもりと木立に囲まれた屋敷を指した。

入口はそこの坂を下った浜のほうの道だという。

新兵衛が先だって入っていった、頑固そうな老人が式台に腰を掛けていた。

「此処の人かね」

「おいさぁ、なんがようかい」

「大人数で四泊したいが部屋はあるかね」

「そらおいねぇよ」

「だめかね」

「そうだいねぇ。二人や三にん、いや相部屋なら泊まれんこともないがの。江戸のお客人が来なさるでな」

「もしかして鯨の関係かい」

「おぅよ、今日つくはずだぁ」

「俺たちだよ。“いさなや”で此処へ泊まれと紹介されてきた」

「こらぁあてこともねぇ。客らしくえばって入って来りゃええに、じょうぼでうろつくもんだに、にっしゃらとは思えんかったで」

大野を先頭に皆で大笑いだ。

大野もだいぶ上総、房州弁が判断できるようになったが“じょうぼ”でが分からない。

大川がそれを聞いて「門前(もんまえ)の道のことです」と大野に伝えた。

 老人が「そうだいねぇ」と言って奥へ「お客人の到来だよ」と声をかけた。

その晩の食膳に夫婦鯛だと焼き鯛が大きな平皿で出た。

次郎丸は「何方が雄なのだ」と聞くと待っていましたとばかりに焼く前の物を持ってきた。

「黒いほうが雄、桜色が雌で、すなわち桜鯛でございます」

女将が自慢した。

「こちらはすぐに鯛めしに仕上げますので下げさせていただきます」

女中が次郎丸に雌雄から背の身を取り分け、次々に小皿で皆に分けた。

桜鯛のほうは身が締まり、塩味だけでも脂が乗って格別旨い。

野菜の炊き合わせには鶏肉が入っていた。

話が弾んで刻が経ったが、どこかしらかいい匂いがしてきた。

二つの土鍋で運んできた、大きな鉄なべであらの潮汁も配られた。

 

文化十年二月十日(1813312日)。

新兵衛と中間はしばらく自由にさせた。

朝、卯の下刻(七時頃)に宿を出て波佐間(波左間)村松ヶ岡陣屋へ向かった。

四半刻で陣屋へついて大川が門衛に「江戸よりの巡視の大野様を案内(あない)して参った」と告げた。

東西はともに十五町ほど先に岡が連なって、海へ向かって松林がある。

土蔵の並ぶ中を進み、馬小屋の先に大きな御殿がある。

陣代は家老服部石見が派遣されていた。

此処に五百人が居住している。

家族を入れればおよそ千五百人になるというではないか。

九棟の長屋では足りず、陣屋の周りに家を借りるものが多い。

梅ヶ岡出張陣屋まで四里二十町、十五人が半年で入れ替わる。

「三日後に出る用意が整いましたので大野殿もご一緒に。大川そちも同行してくれ」

「かしこまりました」

竹ヶ岡陣屋と話をつけたのは服部石見のようだ。

「では明日は台場を見て、明後日の一行に同行いたしましょう」

いやも応もないうまく乗せられた。

細かく陣屋内を見て回り、陣代御殿で要望を書きとった。

昼は玄米入りの握り飯に沢庵が出た。

大野は沢庵の皿を遠ざけて介重たちに押し付けた。

午後は陣屋の周りを一回りし、国元から来た家族からも要望を聞き取った。

独り者には遊び場所もなく館山へ行くにも気を遣うようだ。

父にはその苦労は理解できるのだろうかと次郎丸は不安だ。

兄へ進言し富津を芯にすれば今から街を形成し、陣屋を遷すのに五年計画をすべきだと思いついた。

金は無利子で出てくるとしても兄が乗らなければ話が進まない。

どうやら兄には御用取次、老中は無理と鉄之助爺が言っていたのでその目は無さそうだ。

その日こうやつへ戻ったのは申の刻を過ぎた三時五十分頃だった。

富士はもう直に夕陽を受けて黒くなるだろう、頂上の雪は日増しに少なくなっている。

“ふじや”で一日泊りが減ると伝えた。

「江戸へお戻りですか」

「いや、一回り白子へ行かなくてはならぬことになった。十四日には戻るので一晩泊めてくれ」

「承知いたしました。十二日に出て十四日にお帰りですね」

新兵衛には白子で泊まれる宿か知り合いがいないか相談した。

「でわやで聞いてみます。九十九里から小湊、白浜あたりは網元と付き合いがあると聞きました」

その晩は不思議な魚が出た「今日はこちらを使います」と見せてきた。

“カガミダイ”だという、安房小湊では“ハツバ”という不思議な名があると女将が話した。

「的鯛(まとだい)と湊の漁師は言っていました」

大川は食べたことがあり、たいそう旨かったという。

馬ずらで馬頭鯛(マトウダイ)とも言われる魚だ。

鯛でもハギでもなく独特の味がしたという。

刺身と、煮つけに鍋が出てきた。

この宿、どうやら一品を凝って出すようだ。

最後に肝と卵巣の煮つけが出た。

「道理で先程の煮物にはなかったわけだ。こいつは酒に合う」

大野はまだ酒が残っていたようだ。

どう見てもひとりに二匹分はありそうな肝と卵だ、本体の煮つけより昆布の味が濃い。

勝岬、元の名は早崎、洲ノ崎台場まで宿から一里十五町ほどだと大川が言う。

浜と岬が続いて現れる、崖下の道は細い。

水田には菜の花が咲いていた。

台場は竹岡台場に比べて出入りに苦労はないようだ。

下の柵入口に門があり、大川を認めると柵が開いた。

「お役目ご苦労にぞんずる。台場を預かる吉村大二朗でござる」

中年の男が丁寧に辞儀をした。

吉村外記の弟大二朗だ。

次郎丸の子供時代、付き人を三年務めたことがある。

父は馴れ合いを嫌い三年で付き人、詰め番を輪番のように入れ替えた。

「大野殿ご苦労に存ずる。本川殿もお役目ご苦労」

言い方を変えても顔は笑い出すのを懸命にこらえている。

下の柵うちには馬小屋に焔硝蔵、宿舎もある。

「此処は竹岡と違い一隊三十人、八隊に分かれて交替します。五日目に陣屋へ戻り三日休みとなり申す。ひと月勤務は二十名がおります」

八日が周期の勤務が八隊、二百四十人だという、だいぶ複雑に仕組んであるようだ。

「砲と見張りで最低百十人がここに詰めます。多い日は手入れをする関係で百四十人となります」

砲は六人で一基受け持ち、五門で三十人必要になる。

三十人三交代させればそれで九十人必要になる計算だ。

次郎丸はざっと考えたが仕組みは理解できない、一昼夜勤務、明け、休みの三部構成の竹岡のほうが単純でいいように思えた。

細かいことを言う父にしては陣屋ごとに違う仕組みを取るのはなぜだと思った。

上にあがる階段は途中で二股に分かれ柵外へ回れるようにしてあった。

小高い所に遠見所があり、表の階段と裏手へ回る道がある。

此処の砲架台はすべてに屋根がある。

土塁の前面は石組みがされて頑丈なつくりだ、それぞれに小さな焔硝蔵がついて二貫目大筒五門が海をにらんでいる。

砲身は予備がそれぞれの焔硝蔵に置かれていた。

遠見所で遠眼鏡を覗けば城ケ島は手の届く近さに見えた。

大島とその先の伊豆までが望遠できる。

富士は雲間に隠れている、相模灘は荒れている、白波が台場の下の岩場に大きく跳ねた。

此処で見る富士はことさら大きく見えますと吉村は我が事のように自慢した。

その言葉を待っていたように富士は頭の上に笠雲を載せて姿を現した。

「今の時期にはこれでつるし雲でも現れれば、春の嵐が来ると地の者に教わりました」

砲を順にみて回るうちに、引潮が始まったか、寄せる波の音が徐々に穏やかになった。

もう一度遠見所へ上がった。

「此処と城ケ島で撃ち合っても届く砲はないのかね」

「大野殿は聞いておりませんか、大殿が今二貫目砲を改良せよと号令を出されたと伺いましたが、それでも二十町は到底無理かと」

城ケ島との海上は五里と“でわや”で聞いた。

大野が遠眼鏡で見ても城ケ島の砲台は岩場で見えない、沖行く船もようやく見分けられるほど小さく見える。

「島は大きく見えても砲台まで見分けられないが」

「朝早くだと見えることもあります。遠眼鏡の性能しだいでしょう」

漁師たちは遠眼鏡がなくとも鯨の潮吹き、鰹のなぶら、鰯の群れを高みから見つけるという。

「彼らを雇おうにも小者の給与では成り手がおりません」

次郎丸は先代の岩橋善兵衛の遠眼鏡を持参している、四枚玉の装飾のない合わせ筒だ。

大名諸家が誂えるものには及ばないが延ばせば二尺を超える。

それを大野に「大野様これなら見えるでしょう」と手渡した。

三倍程度だが城ケ島の岩場の砲台が見えた「吉村殿も覗きなされ」と次々と番士の名を呼んでは渡している。

先程聞いたばかりの番士の端くれまで名を記憶していた。

“ふじや”では鰹の刺身と、土佐造りが出た。

溶きからしが添えられ、生姜醤油でもどうぞと勧められた。

薄くそいだ大蒜も別皿で置かれている。

間に挟むと鰹の風味が増すといわれ、皆で同じように挟んでから生醤油にくぐらせた。

一学はそれを生姜醤油で食べた。

「こいつはいい、国ではこんなことできない」

脂の乗った戻り鰹を同じ風にすればもっと旨いのだと女将は力説する。

鰹の煮物は煮込んではいないようだ、生姜は薄く削いである、身がほろほろと口の中でほぐれた。

「こいつは作り手の技量が必要だ」

大野はお代わりまでしている。

「六月末なら鯨のつけ焼き、戻り鰹の土佐造り両方楽しめます」

食いしん坊なら江戸から船でやってきそうな話だ。

 

二月十二日卯の刻過ぎ、香(こうやつ)の宿へ、白子へ派遣される十五名の番士が来た。

田中良介という若い番士がこの隊を率いている。

梅ヶ岡出張陣屋まで三里十七町だと田中が大野に話している。

次郎丸が父から聴いた海岸沿いの道の半分もないようだ。

伊南房州通往還の分かれ道の北条へ向かった。

長須賀を抜けて往還の分かれ道を入った。

平久里川の上流が街道に近づいてきた、大川はここが上総竹ヶ岡陣屋への道だという。

竹ヶ岡陣屋方向に粗末な橋が架かっている、道しるべは付近に見つからない。

国分に入ると廻国供養塔が置いてある。

十五年前の 寛政十年”と刻されている。

東きよすみ 南こくぶん寺道

“南一のみや 西やわた・なこ寺道

その先の分かれ道には地蔵菩薩が置いてある。

右ハちくら道

左ハきよすみ道

正面に“向ハたて山道

 元文二年五月”と記されている。

峠道が続くが道は楽に人がすれ違えた。

藩士十五人が先に立ち一列で左へ寄っている、だいぶこの道に慣れているようだ。

馬頭観音の先に茶店がある、女が三人ほど茶を飲んでいた。

その先水田の菜の花がそよ風に揺れている。

街道の左手小高い丘の上へ続く急階段があり鳥居が樹の間に見える。

また山中へ入るようだ。

峠には正面に地蔵が刻まれた道しるべがあった。

北那古

南千

と刻されている。

大野が「なんだ不親切な道しるべだ。誰の奉納だ」と後ろへ回った。

“文化六年七月二十四日南片喜右衛門”

「新しいと思ったら四年前だ、二十四日に何かあったのかな」

「大野、地蔵縁日だよ」

「おおそうか。若は祭りや縁日に詳しい」

江戸ではほぼ毎日縁日、祭り、御開帳がどこかで行われている。

峠を抜けて千倉に入り、街道左の小高い場所に白子村梅ヶ岡出張陣屋が見えた。

大川の話では海辺まで十五町ほどだという、浜辺を小湊へ向かえば二里もいかずに伊南房州通往還へ出会うという。

大川は相役が来ているというので聞くと、上総竹ヶ岡陣屋へは今朝出たという。

「足が速いな、別れ道からこっち出会わなかったぞ」

「夜明け前に出ました、早く戻りたかったのでしょう。この辺り寺ばかりで百首のようにはいきません」

継立場の百首は陣屋ができて人が多く集まるようになった。

白河から出てきた者にとって、故郷が越してきたように思えるようだ。

大野は大川に案内されて陣代渋谷弓右衛門にあいさつした。

三十人の番士と陣代、馬廻り二人、陣医、足軽三人、中間がいる。

陣医は一茶の俳友の瓢庵杉長井上良珉四十四歳だが一学は知らない。

「本日は南朝夷の渡邊久右衛門宅へ泊まる連絡が来ておりますので明日改めて陣屋に周辺を見させていただきます」

「服部石見様の手紙では殿直々の巡視命令とありましたが」

「いやいや、殿からは梅ヶ岡は回るようには言われおらんのです。服部石見様の要請で大川殿と見物と思ってくだされ」

ほっとしている、陣代以下一年交替で落ち度でもあればと不安でもあったようだ。

「網元と聞いているが誰かご存じだろうか」

「和田が親しいので案内させ申す」

「それはかたじけない」

和田とは初対面のようだ、大川が顔見知りで「すまんな。遠いのか」と聞いている。

「いや十五町もない。家は大きいぞ」

「だろうな館山で紹介してもらったが、この辺りの鰹節の元締めらしきことを聞かされた」

「そいつは与一という男が久右衛門に紀州の“熊節”の製法を伝授したせいだ」

紀州へ戻ったがまた千倉へ戻ったと噂があると和田は話している。

渡邊家に着いたのは午後一時頃になっていた。

家では“でわや”からの紹介、それも本間本家の婿も一緒とあり周りの有力者たちも集まっていた。 

和田は一行を引き渡すと「まだ勤務が残っている」と戻っていった。

二里四方に住む俳諧の仲間だという。

一学は知らん顔をしている、顔見知りの居ないところだ、ばれないだろうと平然と受け答えをした。

新兵衛が中心で話は盛り上がっている、皆江戸のことを知りたいのだ。

網元とはいえ内房と違いそう簡単に江戸へは出られない。

北は川合村の昨露庵也草、南は平磯村の摩尼窟宗拱と野松庵郁賀だという。

陣屋近くの朝夷分川戸の七浦庵三斎等坊さんも多い。

瓢庵杉長とも親しい連中と分かった。

坊さんたちが寺へ戻ると野松庵郁賀山口善右衛門は渡邊久右衛門と二人で本間家と干鰯、鰹節の直取引を持ち掛けてきた。

新兵衛は自分が商取引をしてはいけないと約束の上の婿なので江戸の猪四郎を紹介すると約束した。

本間光林殿としたためた手紙をその場で書いて渡した。

江戸でも房州の鰹節は人気が高くなっている、干鰯に〆粕は本家と雖(いえど)も直取引はできない相談だ。

猪四郎なら江戸の干鰯問屋の二軒や三軒位付き合いもあるだろう。

渡された手紙を読んで「さて新兵衛さん、あんたは本間本家の婿を鼻にかけぬしっかりしたお方だ。此れからも長くお付き合いくだされ」そう言って頭を下げた。

次郎丸が見たところ試験に干鰯直取引の利を嗅がせたようだ。

新兵衛はまっとうな男だ、自分が試験に受かったことも気づかぬようだ。

山口善右衛門は渡された状箱へしまうと供を呼んで家へ戻っていった。

離れの方で介重たちの声がする「おいおい、もう酒でもあてがいましたのか」と新兵衛が外を見ている。

女たちの笑い声が聞こえてくる。

「あいつら図に乗って悪玉踊りでも始めたようだ」

一学はあの声なら甘茶で浮かれているようだという。

その晩は珍しい鱈のちり鍋が出された。

一同は塩鱈の鍋や料理は食べても、生の鱈は初めてだ。

鉄之助爺が国元からのだと屋敷へ毎年贈ってくる、そうすると、とよと富代が大騒ぎで鍋にする。

中間たちは酒のあてに棒鱈が配られる。

「今日は鮟鱇を狙わせたのですが鱈ばかりで」

昆布をだしにして取り去ると白子と豆腐に葱が入れられた。

アツアツを醤油に酢橘のしぼり汁で食べた。

「いや、江戸っ子なんて言ってもこの白子の鍋はうまい。土地の名もここから来たのかな」

次郎丸も乗っけるのが旨い、卵の煮つけは大野がお代わりを所望している。

網元の家族も総出で接待してくれる。

鍋の豆腐は自家製だという。

鍋に芹と鱈の身が足された。

煮えるまでの口汚しと言って胡麻豆腐や芹のお浸しが出された。

翌日は陣屋と周辺を回り夕刻渡邊家へ戻った。

渋谷には大殿が通った海岸沿いの路で戻ると伝えた。

今日は鮟鱇の大漁だと人も呼ばれていて盛大に振舞われた。

大野が西で鰹が出たというと不思議そうに網元連中と協議している。

「おかしいな。こっちゃにゃまだ姿を見せません。だいぶ沖を抜けたようです」

二月十四日卯の刻前、渡邊家一同へ別れの挨拶を交わし、香(こうやつ)“ふじや”へ向かった。

道々鰹節の品定めだ、新兵衛は何といっても薩摩だろうという。

清水節(土佐)の牙城は安房の出現で揺らいでいるそうだ。

屋久島節、もしくは役島節(薩摩)は持ちがいいのだという。

江戸の街だけを考えれば土佐節の売れ行きはいいそうだが、土佐節はおらが土地が一番だと一つにまとまらないのだという。

「酒田へ売り込む乾物は清水、宇佐、福島、御崎、須崎と別れて売り込んでくるんですぜ。あいつらまとまりゃ日本一に簡単になれますぜ」

野島が崎まで二里三十町あまり、波が荒く岩場を越えるような波しぶきが立っていた。

「こっちまでは波が来ないのは不思議だ」

「まさしく、しかしこの岬は昔頼朝公の隠れ岩の言い伝えがありますが、作り話のようですな」

「勝山へ上がって此処へ隠れるとはおかしなことです」

一学と大野は岩場へ回りたかったようだが、さすがに荒れた海を見て行く気にならないようだ。

社が見えている。

風よけの石垣の或る休み茶見世で岬のことを聞いた。

「隠れ岩は雨宿りしたそうですわい。辯天は安芸の宮島からわしの子供のころ勧請したのですが、前から社はありましたわい。武田石翁という石工が若い時に七福神彫って奉納しましての」

聞かれ慣れているようだ。

「それ何時の頃の人ですか」

「まだいきとるはずじゃがの。わしの弟と同じ年のはずだ」

「年が近いのですか」

「そうだわしゃ四十一で弟は三十六だな」

中間たちに焼団子を出させた。

安房白浜から父が泊まった養老寺を目指した。

五里も行かぬうちに洲崎神社の参道が見えた、大野は「大殿が扁額を奉納しました」というので参拝によった。

参道は浜から続いている、石段は百段以上あった。

安房国一宮 洲崎大明神

拝殿の額は縦に二列に書いた父の字に間違いない。

禰宜が出てきたが特に話さずに石段を下りた。

参道から三町も離れていない観音寺を訪ねた、此処へ父が一晩泊まったという。

養老寺とも人が言うのは養老元年の創建と伝わるからだ。

開祖は役行者と伝わっている。

松ヶ岡陣屋まで一里を越したくらいだと新兵衛が大川と話している。

陣屋で服部石見に報告をし、香(こうやつ)“ふじや”へ向かった。

あちらこちら寄り道をして五刻半ほどかかった。

「まだ四時四十分ですぜ。急いで歩くほどでもなかったですね」

野島が崎の休み茶見世で中間たちに焼団子、其の後は瓢の水だけでここまで来た。

「参勤のことを思えば楽なものだ」

大野に大川は江戸詰めで苦労は知らない、一学は「一日十二里が普通だ」と新兵衛を脅している。

「松代様は六月でございますから陽も長いですから」

「その分歩かされるのだ」

参勤交代は忙しい、松代から江戸表は五十三里だという。

五泊六日が決まりの道中だ、一日九里がいいところだが一学が誇張するには訳がある。

普通は昼を含めて四回ほど休む宿場間の距離が中仙道は道中記もある。

海野(東御)、坂本(安中)、倉賀野、熊谷、浦和と泊まって六日目が江戸だ。

一里は三十六町・一町は六十間

松代から谷街道で矢代(屋代)を抜けて北国街道海野(東御)へ。

海野(東御)から坂本(安中)へ。

坂本(安中)から倉賀野へ六里二十二町七間(江戸まで三十四里十四町四十七間)

倉賀野から熊谷へ八里三十四町(江戸まで二十五里十二町四十間)

熊谷から浦和へ十里八町四十間(江戸まで十六里十四町四十間)。

浦和宿から日本橋は六里六町。

領国へ戻るときは桶川、本庄、松井田、追分、鼠宿村と宿場が違った。

日本橋から桶川は十里十四町

桶川から本庄は十一里十六町四十間(江戸から二十一里三十町四十間)

本庄から松井田は十里五町(江戸から三十一里三十五町四十間)

松井田から追分は七里二十二町三十四間(江戸から三十九里二十一町十四間)

追分から北国街道鼠宿村、鼠宿村から谷街道で松代へ。

 

 “ふじや”では暖かく一行を出迎えた。

鰹船が出ているという。

「今年はどうしたんでしょうね早すぎまさぁね。時々迷ったようにこの春分まえに来ますがね。江戸送りはできせんので高値は付きませんので悦ぶのはお泊りのお客人方でございますよ」

江戸日本橋へ相模灘各湊から押送船(おしょくりぶね)が押し寄せれば翌日には半値に落ちてしまう。

一番船はどこだろう、まだ二月だ規制はされているだろう。

湊に揚がっても江戸へ送れなければ値は安い。

もやし物禁止令は強(きつ)く成ったり緩く成ったり。

昨文化九年(1812年)江戸表の初ガツオは三月二十五日(陽暦五月六日)だ。

その時十七本が入ってきた、一本を中村歌右衛門が三両で買い入れたと評判になった。

将軍家のお買い上げは大田蜀山人によれば六本と記録されている。

余談

貞享三年(1686年)に出された“もやし物禁止令”野菜類初物禁止令は寛保二年(1742年)に魚鳥(魚鳥類初物禁止令)にも及んだ。

食料用として、魚・鳥・亀・鶴の飼育・販売を禁止した生類憐みの令は貞享四年(1687年)に出ている。

ただこれには不思議なことに“きゅうり”が含まれいない。

宝永六年(1709年)綱吉死後に順次廃止。

天保十三年(1842年)四月にも季節はずれの野菜や初物野菜の売買禁止令が出ている。

胡瓜・茄子・隠元・ささげ・もやしが含まれている。

天保の改革は、義太夫三味線は男の師匠は女弟子、女の師匠は男弟子を取るのを禁止している。

驚くことに錦絵を十六文で売るように通達している。

「江戸っ子にゃ申し訳ないが、初物尽くしで寿命が延びやす」

介重が言うと「何度目だ、鰹も二度目からは初ものとはいえんだろう」大野にやり込められた。

 

文化十年二月十五日(1813317日)

香(こうやつ)を朝の下刻に出て本郷をめざした。

勝山で新平の母親に戻り旅だと伝えた。

本郷へ使いを出すから泊まれとというが大野は本郷まで足を延ばすと告げた。

母親は新平と隠居に使いを出して、もう一人本郷へも使いを急がせた。

“すさき”に着くと新平が「今日は鰹の入れ食いで釣り飽きた」と大騒ぎだ。

介重たちはまた鰹かという顔だ。

「しんぺえすんなよ。かわはぎに鮃を買いに行かせたぜ」

夕河岸は鰹の船で大賑わいだったと女将が戻ってきて新平に笑いかけた。

「そんなに揚がったんじゃなまり節にでもするようだな」

「なまり節ならもやし物に引っかからないかな」

「そりゃそうだろう。生の物じゃないんだ。鰹節とおんなじだろうさ」

「駄目なら深川沖へ魚のえさにでもするつもりで明日うならかすかい」

船頭を三人呼んで何やら言いつけている。

すっ飛んで出て行った。

ようやく足をすすいで上に揚がった。

船頭が「九百匹十五両で買い込みましたぜ。初物の船でも出すきかと大騒ぎでしたぜ」と言いながらもう出ていく準備だ。

「せわしないな」

「出刃組が捌いて生利に早速取っ掛かりやすんで、あいつは今晩寝ずに大忙しでさぁ」

大野が幾日持つんだと女将に聞いている。

「今の陽気で三日は大丈夫。二度蒸しか蒸した後で焼けば十日と言われています。どっちで出すんだいあんた」

「おお、焼を入れろと言っておいた。夜中に揃えば直ぐ船を出すさ。伝吉を呼び出してくれ押送船(おしょくりぶね)に伝吉のほかに十人必要だというんだぜ」

「七丁櫓で出すのか」

「然様です」

「この間知り合いが熱海の方では八丁櫓で胴間が広く、生きた儘江戸まで伊勢海老に栄螺、魚を運ぶ水槽を積めると話していたぜ」

新兵衛顔見知りの銭五の水夫頭に聞いたようだ。

「八丁櫓かよ。舵取りはどうなる」

「そこまで聞かなかった」

「はっ、陸の人間ときたらこうだからしんぺえになるんだ」

「深川の河岸へ着けるそうだから出てきて聞いてみなよ」

「そうだ新平も鯨まで暇だろ。三.四日遊びに来りゃいいじゃないか」

次郎丸に言われて「六日もすりゃ出られるだろうぜ」と女将に言っている。

「おや、江戸見物に連れて行ってくれるのかい」

「今日の生利が通ればそのころにもう一度送り出せばいいから二艘用意して片方へ乗ってゆこう。戻りは木更津船もあるし」

「そんなら今から買い物の支度をしておこう」

なんとも気の合う二人だ。

介重たちは一匹いくらだと勘定していたが割り切れないようだ。

新兵衛が見かねて「一両で六十匹、一分で十五、一朱で四匹までいかねえ八分どまりだ」

悩んでいた朗太(ろうた)が「ぜんてぇ、一匹いくらなんで」

「一匹いくらだと」

算盤を目の前に置いて「百五十文だ」と言い切った。

「はじかずにわかるので」

「目で追うだけでわかるが、はじく方が正確になるぜ。しんぺえが言うように六日、いや三日もすりゃ百でも買えそうだ。生で運んでよきゃ大儲けできるな」

「駄目ですかね」

「品川で鰹が釣れましたは誰も信じやしまいさ」

「品川のスバシリじゃ有るまいし信じてくれないぞ」

大野にまで言われている。

「お買い上げのお許しが出るのがあと三十日は先のことだ」

昨年の三月二十五日を前に魚市場もやきもきしているだろう、一日早くても台所方が許すかもしれないがひと月ずれたら捨てさせられるのがおちだ。

「今年の日限はどう決めるのかしら」

「千里眼でもなきゃ無理だろうぜ。こっちで取れるということだと伊豆はもう大騒ぎだろうぜ」

「皆豊漁では困るからな。百を切れば魚河岸で二分にはなるが、一分程度じゃ船の代も出やしない」

「生利節がどんとでりゃ、初鰹を待つ粋人は大騒ぎするだろうぜ」

新兵衛に言われて権太は「初鰹と俺たちの江戸ご帰還、どちらが早いか賭けをするか」と介重に大きな声で騒いでいる。

「俺っちの戻るのはあと五日くらいだぜ。賭けは俺たちのご帰還に決まってらぁね」

朗太も「俺もその通りだ。介重が反対へ張るなら賭けるぜ」と言っている。

「無理目にゃ張るものもいないか」

「ところで新平、生利は亀か、雌雄か」

「雄節と雌節の四半分にしやす」

「それなら二百文で卸せそうだな」

「百で卸して魚屋が二百文で売れれば、江戸っ子も買いやすいし損はないでしょうが。ただ伊豆物が来てると損しそうでね」

沖を抜けた群れがイルカや鯨、サカマタに追われて安房へ蛇行したとは知らぬことだ。

江戸っ子も鰹が安けりゃ、自分で生利にして調理するのが此の処流行りだした。

朝の粥は卵を落とし入れて食べていると新平が戻ってきた。

「船には乗らなかったのか」

「鯨組と浜漁師が組んで当分鰹の生利作りになりやした。もやし物規制で出せないなら那古から勝山は当分生利で勝負します。初物は鎌倉に丸投げで行こうと決めました」

儲けが一匹二百文でも千ともなれば三十二両にはなる計算だ。

「丸損しても高が一日五十両、十日遊んで五百両」

儲けよりは遊んでいるより漁に出る方が網元も気が休まるのだ。

「遊ばして小遣い出すより。動けば日銭が出ますから。それに鰹を捌くなら女子供でもできる手仕事です」

しんぺえ大きく出たと大野が高笑いだ。

「ところでどっから元矢之倉へ入りやすんで」

「行徳河岸なら上屋敷に近いから行徳船で入るよ」

行徳の船場から行徳川で大川に出て日本橋川小網町行徳河岸へ早い時で一刻半。

隠居が昨晩の連絡で見送りに来るからそれまでいてくれと手紙をよこした。

旅支度が済んで草鞋を履いたところへ、馬に揺られて隠居がやってきた。

一学に別れを言って涙ぐむのは年のせいだと強がりを言う隠居だ。

辰の下刻(九時頃)“すさき”を出た。

鶴が崎手前の八幡まで一気に歩き休み茶見世の娘に新兵衛が声をかけた。

「お戻りなさいませ」

「しっかり稼げよ。草鞋を十足くんな」

一足十二文だ、銭緡を一本と四文銭五枚出した。

まだ替えるには早い、介重が心得て自分の荷へ入れた。

「お足元に気を付けくださいね。夜中に強い雨が降りました」

元名の蕎麦見世は今朝ももう開けていた。

“すさき”竹ヶ岡陣屋まで五里十町ほど。

まだ午の刻を過ぎたばかりだ、此処で草鞋を履き替えておいた。

陣代の酒井に別れの挨拶を交わし、大川と別れた。

湊浦の“みさきや”へ着いた時、まだ二時を回ったばかりだ。

「こんだけあちらこちら道がうねらねけりゃ四里もありませんぜ」

権太は宿で買ってくれた大福もちをほおばりながらぼやいている。

二月十七日、辰に“みさきや”を出て、富津の織本家へ着いたのが巳の下刻(九時三十分)頃。

湊浦から富津へ三里二十七町。

織本嘉右衛門(道定・俳号子盛)は「おかえりなさいませ」と顔がほころんだ。

「嘉右衛門殿に頼みができた」

「何なりと仰せつけください」

陣屋と砲台を此の富津に移動させる相談を始めた。

「どのくらい入用でしょう」

「まず準備に二万両。これは爺から連絡先を聞いたのでわしの名で借り出す」

「してわたくしは」

「まず今の陣屋の周りにお小屋を作るところから始めてくれ。今の陣屋から一里内外に二百家六百人は住めるようにしたい」

「街つくりという事でしょうか」

「そういうことだ。わしがこられない分を此の新兵衛兄貴が猪四郎兄貴と動いてもらう」

「新兵衛さんも加わりますか」

新兵衛はうなずいた。

「お小屋裏には畑か果樹の樹を増やしたい。この辺りなら、梨、柿、蜜柑、枇杷などで土地に合うものを植えてほしい。十人ほど雇ってくだされば五年で収穫が可能だろう」

一学は「桑の木の実はうまいぞ」と勧めている。

「五年後に移転させようとお考えで」

「いやわしと違い、慎重な兄上では十年はかかりそうだ。それまで住む者には安く貸し出してもいいだろうと思う。本決まりになれば移り住む家を用意する金も出す」

「白河様の方で開墾のお許しを出してくだされば可能ですな。小作も家族持ちに持ち掛ければ応じるでしょう」

富津陣屋へ早くて五年、遅くも十年で砲台を築く金も用意すると告げた。

二月十八日、卯の刻に織本家を発った。

木更津で昼を取り姉崎まで足を延ばした。

「九里は歩いたか」

「いえ八里と九町がせいぜいでしょう」

新兵衛の時計は午後の四時を指している、歩く様子で里を計っている。

「今頃の暮れ六つは六時頃になります」

暮れ六つの鐘はこの房総では陽がおちで二十分くらいが多かったという。

さすが本家が大事にするはずだ、細かく目が行き届いている。

子供は留守中の暮れに二人目の女の子が生まれたという。

二月十九日、朝卯の刻に宿を出たが寒さは柔いでいる。

成田道が合わさるあたり往来が多くなってきた。

来たときはこの分かれ道まで様子見に来てから、江戸寄りの山王まで戻った。

橋の付近は行き来が多くて細い橋は順待ちをしていた。

船橋下組の“とうまや”へ入ったのは五時。

陽気のせいか人出が多く三部屋へ別れた。

「昨日より一里は多く歩いた割に早く着いたな」

だんだん江戸が近づいてきた、中間たちも気が浮き立っている。

「昨日今日とよく歩いたが、明日は半分船だ」

歩くなら小岩市川の渡しから逆井の渡しで江戸へ入る手もある


二月二十日、卯の刻に“とうまや”を出て小さな東照宮を遥拝して行徳街道へ向かった。

二又、原木、田尻、上妙典、本行徳、船場と歩いた。

寛永九年(1632年)に本行徳村が行徳川の利権を与えられ繁栄は衰えを見せない。

文化十年(1813年)には行徳塩会所の設置が認めらた。

常夜燈は昨年成田講中の寄進で新しくなった。

神社に寺が多く、船場の常夜燈の周りから街道にかけて人であふれている。

「ひどい混雑ですね」

「今井の渡しはすぐ下流にあるからな。江戸からはこれても此方からは渡してもらえない。小岩市川の渡しへ回らなければどうしてもここへ来る」

明け六つから暮れ六つまで船が発着している。

野菜など運ぶ小舟から二十人以上乗せるかよい船で混雑している。

世に言う行徳船は五十艘以上に増えている。

順を待って二艘に分かれたが、辰の下刻(九時)には二艘とも船場を離れた。

新川から小名木川と抜け大川を横切って日本橋川小網町行徳河岸へ着いたのは午の刻、石町の鐘が聞こえる。

「今日は二丁櫓のせいかだいぶ早いな」

通いなれているような年寄りが「よっコラショ」と下男に手を引かれて立ち上がった。

一学はここで別れ、新兵衛は中間と元矢之倉へ向かった。

次郎丸に大野は鎧の渡しへ出ると、先程の年寄りがやってきた。

同船になり上屋敷方向へ歩く後をつける形になった。

老人は代地の方へ折れていった。

二人は上屋敷で帰着報告し、兄に今日会えるか確かめると明日の朝辰の下刻に来るように用人から伝えられた。

中ノ橋で南八丁堀へ渡り数馬橋で南小田原町、三の橋で渡り下屋敷へ入った。

上屋敷で報告は明日でよいといわれたことを伝え、あらましを話して辞去した。

大野は元矢之倉で荷を整理すると中屋敷へ戻っていった。

新兵衛は中間の清算を浅草平右衛門町左衛門河岸のちくまやで済ませてきていた。

「江戸へ戻ったら小肌の鮨が食べたくなった」

奥から出てきたなほにいやな顔をされた。

「ほら父上の意地汚しが始まった」

政(つかさ)をだしに悪口を言いやがると娘のほほをつついて新兵衛と広小路に出た。

「いいんですかい」

「よかぁねえさ。子守をするのは苦手だ」

「子守はともかくあっちは子供に早く会いたいですぜ」

「いつ酒田へ戻る」

「二十五日までには買い物を済ませて出る予定で」

「金の話うまく伝えてくれ」

「鉄之助様の後押しだ。信様の方も約束されたので、大風呂敷広げて待っててください」

「十、二十で苦労したのが下に万が付くことに成るとは思わなかったぜ」

夕闇の柳橋を渡り第六天裏の喜助の店でコノシロ、丁寧に小骨を抜いたものを食べた。

小鯛も春子の時期が来たと勧められた、喜助はシャリを少なく大人なら一口で食べられると去年から評判になった。

「わかさん、旅に出ていたそうだね。いつ戻りなさった」

「二刻半程前に行徳船から降りたばかりだ」

返事している間に、煮蛤(にはま)の握りが二人の前に出てきた。

「行徳船だと成田でも」

「船橋の先まで出たよ那古寺など寺や神社をだいぶ回った」

「面白い話でもありやしたか」

「あったあった。なぁしんぺえを知ってるだろ」

「深川のしんぺえすんなの新平ですか」

「それそれあいつがシビの大物を釣り上げたと頭をぶっ割いて兜焼きだと御馳走してくれた」

「深川の漁師がよくやるやつですか」

「あれの五倍じゃ聞かない大物だった」

新兵衛は「向こうじゃ季節外れの鰹が大漁だそうだ」と反応を見ている。

「生利が大量に来ましたぜ。もやし物には引っかからずに街にあふれていますぜ」

「初鰹は出てこないか」

「生利で察した様でね。お台所の方じゃ生利を運んだ船が残っていたんで、いつでも良いとお許しが出たそうですぜ」

「いつのことだ」

「三日前ですがまだどこからも来ていませんぜ」

「三日じゃ明日明後日には入りそうだな」

「わかさんも初鰹に金を出しますかい」

「二人とも三回は鰹を食わされた、江戸の初鰹は遠慮するぜ」

「でも、若。鎌倉物はなんで来ないんでしょうね」

「普通なら伊豆から鎌倉沖でしょうよ。ひと月早いし」

喜助も首をかしげている。

最後にもう一度コノシロを食べた。

二人で二百四十文だという、次郎丸が二朱銀を出し「釣りは春っちに絵双紙でも買う足しにしてくれ」と店を出て柳橋で別れた。

   

寧波へ戻っ和信(ヘシィン)に驚愕の悲報が待っていた。

宜綿(イーミェン)の突然の死去の知らせだ。

朝普通に起き挨拶を交わし、椅子に座って動かなくなったという。

胸を張り威厳をもった様子のまま息を引き取ったという。

麗麗(リィリィ)の誕生から二月後の四月八日だという。

 

花音伝説の宜綿(イーミェン)の家族。

福恩-乾隆六十年(1795年)誕生

母嫡妻

香蘭-嘉慶二年(1797年)誕生

母嫡妻

福祥(フゥシィァン)・嘉慶六年七月一日(180189日)誕生

母継妻-龍蘭玲

麗麗(リィリィ)・嘉慶十八年二月八日(1813310日)誕生

継妻-龍蘭玲

 

正史等の宜綿(イーミェン)

豊紳宣綿(伊綿)-良輔(リァンフゥ)

乾隆四十年三月十日(1775409日)誕生

嘉慶十八年(1813年)三十九歳死去。

正紅旗滿洲第二參領第十四佐領下人。

父親-和琳・母親嫡妻他他拉氏(蘇凌阿之女)

子供について安定した情報は少ない。

基百科,自由的百科全には豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の後を継いだのが福恩で豊紳宜綿(フェンシェンイーミェン)の家を継いだのが福祥の系図を乗せてある。

至少有三女:

鈕祜祿氏,適怡親王奕勳(1793年—1818年)為嫡福晉。

鈕祜祿氏,適順承郡王春山(1800年—1854年)為嫡福晉。

鈕祜祿氏(1813年—1888年),道光帝成貴妃。

 

第六十四回-和信伝-参拾参 ・ 23-09-25

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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