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文化十二年四月九日(1815年5月17日)日光
小倉の日光道中と日光例幣使街道の追分から西へ向かえば今市宿に入る。
日光街道本道と会津西街道・日光北街道との追分先右手に高橋本陣。
その先から杉並木が始まり左手には瀧尾神社がある。
左手の瀧尾神社は、天応二年(782年)に勝道上人が男体山に二荒山大神を祀った同時期に建立という。
杉並木の街道と竜蔵寺薬師堂。
その先が鉢石(はついし)宿の名前の元になった「鉢石」という巨岩が露出している。
十一日は日光山神廟へ太医の一行は詣でている。
神橋の右手の木橋を渡り正面の階段(長坂)から山内に入り、御殿屋鋪と御本坊の間を通って表参道に出て、参道を真っ直ぐ進み日光東照宮の正面石段上の石鳥居をくぐった。
この鳥居は元和四年(1618年)、九州筑前藩主黒田長政公奉納、十段の石段はわずかだが上が狭めて有、たかさ三丈ある鳥居の存在感が増して見えた。
左手に慶安三年(1650年)若狭小浜藩主酒井忠勝公奉納の五重塔が有る。
仁王門には高さ一丈を越す像が有る、右に阿形密迹金剛(みっしゃくこんごう)と左の吽形那羅延金剛(ならえんこんごう)が睨みをきかせている。
承応二年(1653年)の築で切妻造、銅瓦葺き、三間一戸の八脚門。
案内人の言葉を叶庸(イエイオン)が太医たちへ訳している。
長押上の狛犬四態、表門の木鼻は象、脇柱の木鼻は獏、表門背面に木製神門狛犬、左には角が見える。
奈良の正倉院に代表される校倉造りを模した建物は神庫。
中神庫の前を左へ、神厩には三猿はじめ猿の一生を描き、人の一生に渡る生活が彫刻されている。
境内左手の手水舎で身を清めた。
右手の陽明門への石段基部に立つのが唐銅鳥居(二の鳥居)。
案内人は基部を見てくれと言う。
「両脚の根元の部分に、返り花、反り花と呼ばれる蓮の花に唐獅子模様が刻まれております。神社の鳥居にはこのような彫刻は有りませぬ」
陽明門下、南蛮鉄燈篭の原材料は伊達正宗がポルトガルから運ばせたという。
陽明門への石段を上がった左右の玉垣には飛び越えの獅子と名付けられた狛犬。
狛犬と玉垣は一体で石柵が倒れるのを防ぐ控柱の役目だと言う。
陽明門は御所十二門の内の名称を朝廷から賜ったもので、後水尾天皇の御宸筆による「東照大権現」の勅額があるので勅額門とも言うそうだ。
此の門の前までは武士でなくとも訪れることが許されている。
高さが三丈六尺、奥行き一丈三尺、間口二丈三尺と案内人が話している。
案内人の同だという顔に大きさでは驚かない太医たちも繊細な彫刻に驚いて見せた。
陽明門背面に木製神門狛犬が有るが阿吽に為ってはいるが角は無かった。
唐門と、透塀その奥に拝殿が有り一行は其処まで進んで拝礼した。
「清国皇帝陛下より謹んで東照大権現様の御霊の安寧をお祈りいたします」
宋太医に続き和信(ヘシィン)が和語で祈りをささげた。
神官に蔡太医が親書と小判五十両を三宝で渡した。
唐門屋根上には昼を守る霊獣の龍と、夜を守る霊獣の恙(つつが)が乗っている。
東回廊の奥社参道入り口の眠り猫と、真裏にある竹林に遊ぶ二羽の雀の彫刻は平和で安全な世の中を現していると案内人が説明している。
坂下門は元和四年(1608年)に建てられた一間一戸、銅瓦葺き、二脚平唐門控柱付で奥が権現様が眠る奥宮に続いていた為、普段は閉められ将軍参詣の折しか開く事がなかった事から「開かずの門」とも呼ばれていると説明が有った。
陽明門へ戻り「門を支える十二本の柱には胡粉(貝殻をすりつぶした白色の顔料)が塗られ、グリ紋と呼ばれる地紋が彫られていますが、内側の二本目だけは他の柱と逆向きの紋様に。 これは「魔除けの逆柱」といわれ、魔除けのためにあえて逆に彫ったものとされています」と案内人はどうだ気が付いたかねと言う顔をした。
「もう一つ言い伝えが有ります」
本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北斗七星)が来るように造られていると自慢げに鼻をこすった。
宋太医の一行は最後の日光山大猷院(徳川家光公廟)へ向かった。
大鳥居まで戻り右手へ、日光三社権現の西側に大猷院二天門が有る。
左に持国天、右には広目天、大猷院の額は後水尾上皇の御真筆と案内人が話している。
霊廟への通路に有る夜叉門は牡丹門とも言われ、欄間に扉の羽目板部分、壁面に流麗な牡丹唐草彫刻が施されていた。
門の表と裏には東西南北を表す色の四体の夜叉像が祀られていた。
東の青は烏摩勤伽(うまろきゃ)。
西の白は鍵陀羅(けんだら)。
南の赤は毘陀羅(びだら)。
北の緑は阿跋摩羅(あばつまら)
夜叉門を潜り拝殿の前に有るのが唐門。
大猷院拝殿、大猷院相の間、大猷院本殿が一棟に連なった建物で拝殿は金箔で覆われ、天井には百四十の龍が描かれている。
拝殿の先は巾がせまい相の間となり、その奥が本殿となっているが太医の一行でも此処までが許された参詣となる。
案内人は「本殿は東北(鬼門)を向いています。死して後も朝夕東照大権現様の側でお仕え奉ると遺言なされ、御廟も東照宮の方へ向けてあるためで御座います」と話した。
大猷院の御廟への皇嘉門は竜宮門とも言われているそうだ。
宋太医の一行はその日の参詣が終わると今市まで戻った。
途中輪王寺から出てきた視察派遣隊と行き会うと、道を譲って先へ行かせ後に着いた。
和信(ヘシィン)は最前列に出て、態と遅れた本川次郎太夫と情報の交換を高橋本陣近くまで続けた。
何の事はない、最後には庸(イォン)さんの鶏にまで話題が及んでいた。
「料理人が嘆いています。材料も厨房もお粗末で腕が振るえないとね」
「例の猪四郎宛てに至急便で書状を出して置きますよ。猪四郎の別宅なら厨房も材料もそろえてくれます」
別れ際に料理人の希望の材料を和信(ヘシィン)と叶庸(イエイオン)は書き、和語に直せるところは直しておいた。
「この二通一緒に送れば何とか都合するでしょう」
本川次郎太夫として猪四郎宛ての書状を徳治郎の定飛脚で早の早とさせて送り出した。
「十三日の昼前に着きましょう」
定飛脚は代金三分で請け合ってくれた。
奥の細道 松尾芭蕉
元禄二年三月二十九日(1689年5月18日)
元禄二年四月一日(1689年5月19日)
元禄二年己巳(つちのとみ)は閏一月(小の月・閏一、三、四、六、八、十二月)が有る。
曽良旅日記は四月朔日、其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。
芭蕉の記入日時が一日ずれている。
丗日、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、「我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとヾめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。
卯月朔日、御山に詣拝す。
(うづきついたち、おやまにけいはいす)
往昔、(そのかみ)此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。
千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。
(しみんあんどのすみかおだやかなり)
猶、憚多くて筆をさし置ぬ。
(なお、はばかりおおくてふでをさしおきぬ)
あらたうと青葉若葉の日の光
(あらとうと あおばわかばの ひのひかり)
あらたふと木の下闇も日の光
(真蹟懐紙)
あなたふと木の下闇も日の光
(曾良書留)
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