第伍部-和信伝-陸拾壱

第九十二回-和信伝-拾壱

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

日光東照宮

文化十二年二月十一日(1815321日)春分

春分は昼間と夜間がほぼ同じ時間だが、不定時法では昼間が長くなる。

2025317日の東京(江戸)の日の出は549分、日の入りは1750分。

昼の時間が12時間01分、夜の時間は11時間59分となる。

2025320日が「春分の日」に為るが日の出時刻は545分、日の入り時刻は1753分。

昼の時間が12時間08分、夜の時間は11時間52分となる。

文化十二年二月十一日の不定時法では卯の刻(明け六つ)0508分、酉の刻(暮れ六つ)1829分。

昼の時間が13時間21分、夜の時間は10時間39分となる計算だ(文責阿井一矢)。

この時代の二挺天符は昼用と夜用を自動で切り替え、分銅の移動は一年に二十四回、節気に合わせて行っていた。

十五日ないし十六日ごとに手引きを参考に分銅の架け替えを必要としたが、街では刻の鐘の突く回数で大体の時刻が判れば良しとしていた。

十分、二十分程度狂っても困らぬ生活を庶民はしていた。

花音伝説和信(ヘシィン)伝ではいっこく いっときを一刻の字で表しているが一刻(いっこく)を約二時間、一刻(いっとき)を十五分で使用したり、反対に使ったりしている。

その辺は適当な時代だと適当にやっている。

次郎丸に新兵衛が懐中時計を持って居るが、この時代の清国では欧州に負けないくらいの時計を生産している。

和国でも小型の印籠時計は作られたが、実用品とは言い難く、大名道具の範疇を出ていない。

町では急いでも馬車は許されていないうえ、時代劇のように早馬が街中を走り抜けるのは無理がある。

江戸幕府は反乱を恐れていて、街道整備は人が通るに困らぬ程度に留めている。

正確な時刻を時計に頼るのは江戸城内位だったようで、御土圭坊主(おとけいぼうず・土圭の間坊主)が多く勤務していたという。

御土圭役御坊主七名、御土圭間御坊主二十六名が寛政十一年(1799年)に勤務して居たと云う。

文久二年(1862年)御土圭役御坊主十三名、御土圭間肝煎御坊主十名、御土圭間御坊主五十八名に増えている。

坊主に至っては三百人から五百人いた様だ。

御数寄屋坊主組頭、表坊主組頭でも四十俵二人扶持、大名からの賄賂でもなければやっていけない。

数寄屋頭百五十俵高、同朋頭(どうぼうがしら)二百俵高とこの辺りが一番役得の多い人たちだ。

数寄屋坊主(茶坊主)で二十俵二人扶持と厳しいが、受け持つ大名によっては暮らし向きが豊かになる。

茶坊主は、清国で言えば宦官に近い働きをしたが、権力は持って居ない。

小普請の河内山宗春は三十五歳に成る、悪御家人の仲間では有名で、火消、臥煙とは一線を隔しているが脅し、強請、強談判の常習だ。

練塀小路はそんな数寄屋坊主の屋敷が並んでいる、二十俵二人扶持で内職をしなけりゃ悪の道が待受けている。

次郎丸が練塀小路の中西道場へ通って、お情け免許が頂けた頃、もう河内山宗春は有名人だった。

兄弟弟子に柳原土手で蕎麦に天麩羅をおごっては、河内山宗春の悪事を聞いた。

噂話だと言うが父親は御土圭役御坊主とか御本丸奥坊主河内山宗順だとか、奥坊主組頭の河内山宗久だとか、まことしやかに話していた。

「坊主をしくじるほどの何をやらかしたんだろう」

小普請に一度入ると再起はよほどの人物でなければ難しい。

話しはニンポーの海燕の家。

長男・老大(ラァォダァ) 和鵬(ヘパァン)誕生から五ケ月がすぎた。

文化十一年八月五日・嘉慶十九年甲戌(1814918日)誕生。

又もや和国への派遣が京城(みやこ)からの使者が伝えてきた。

医者六人と料理人二人がすでにテンシンを出ているという。

総勢十四人だそうだ。

半分の医者は長崎で滞在し、三人は長崎街道~西国街道~木曾路・中山道経由、例幣使街道で日光東照宮へ参拝が目的だという。

皇室の例幣使一行の通行は正使・副使以下五十人前後で、三月下旬京都をたち一路中山道を下って、倉賀野で分れ例幣使街道へ入り、今市から日光街道を経て日光に入る。

その一行に先んじて参拝せよとの通知が和国将軍との話し合いで急遽和信(ヘシィン)に命が下った。

太医一行が着き次第、此処ニンポーから龍莞絃(ロンウァンシィェン)のレェイシェン(雷神)、フゥシェン(風神)三千石ジャンク(二百二十トン)に二手に分かれて長崎へ向かうという。

日光へは和信(ヘシィン)の顔見知りの蔡太医・蔡英敏(ツァイインミィン)三十三歳と宋太医・宋輩江(ソンペィヂァン)四十歳に二十歳の若い見習い丹宝意(ダンバオイー)が料理人一人、雑人三人に通事に和信(ヘシィン)と叶庸(イエイオン)の九人が参拝に向かうという事に為った。

文化十二年二月二十七日(181546日)晴明

和信(ヘシィン)たち一行九人は長崎奉行遠山景晋(とおやまかげみち)五十二歳と長崎奉行から新番頭(役高二千石)に就任が決まった牧野成傑(まきのしげたけ)四十七歳に見送られ、警護の番士十人と小倉への道五十七里(七泊八日)をたどった。

大村、北方、佐賀、原田、内野、黒崎、八日目三月四日に小倉に入った。

一月、二月は大の月、三月は小の月で二十九日までとなる。

小倉から船で長府へ渡り京まで十四泊十五日。

予定通り遅延も無く三月十九日、二十三日目京の都へ入った。

宋太医は「殷徳(インデ)哥哥と初旅で歩いたことを思えば楽な物です」と蔡太医と二人で、和信(ヘシィン)と叶庸(イエイオン)に旅の辛さ面白さを聞かせてくれた。

蔡太医は「哥哥との旅の思い出の一番は、土地の食事で名物を探す名人に為りました」と医者よりもそっちの方が面白かったという。

例幣使は四月一日に京都を出発。

例幣使の一行(従者を含めて四十人ほど)は草津宿から中山道に進路を取り木曽路、信濃路を経て、碓氷峠を越え上州へ。

四月十一日に中山道倉賀野宿から例幣使街道に入り、日光西街道、日光街道を経て四月十五日に日光到着。

十七日に奉幣を済ますと昼に日光を発って帰路につき日光街道から東海道を通って帰京する。

宋太医一行は護衛を含めて十九人、幕府は日程が被らない様に慎重に旅程を仕組んでいる。

文化十二年三月二十七日(181556日)立夏

京を三月二十一日(1815430日)に旅立ち木曾路初日は大津へ三里。

二日目二十二日は武佐へ八里二十四町。

三日目二十三日は柏原へ九里一町。

四日目二十四日は加納へ九里二十三町。

五日目二十五日は伏見へ八里十町。

六日目二十六日は中津川へ十一里十八町。

そして七日目二十七日に須原に九里三十五町で着いた。

七日で六十里十二町とまずまずの距離を稼いでいる。

倉賀野まであと六日で着く。

八日目二十八日に奈良井へ十里二十五町。

九日目三月二十九日に下諏訪へ九里二十五町。

十日目四月一日に長久保へ七里。

十一日目二日に追分へ八里三町。

十二日目三日に松井田へ七里二十一町。

十三日目四日に倉賀野へ六里二十三町、ここで中山道に分かれての日光例幣使街道に為る。

倉賀野宿を通過後一里十八町で玉村宿に宿泊した。

此の日は松井田から八里五町の玉村宿、木島本陣が宿となる。

旅籠屋五十軒、問屋場が上新田、下新田の二軒が半月交代で務めた。

例幣使の一行は四月十一日に倉賀野から例幣使街道に入り、最初の宿場である玉村宿で宿泊、四月十五日に日光着するのが毎年の決まった日程だった。

倉賀野宿には勅使河原本陣と脇本陣須賀喜太郎、脇本陣須賀庄兵衛。

 

文化十二年四月八日(1815516日)今市

文化十二年二月二十七日長崎を発って、三月十九日、二十三日目京の都へ入った。

京を三月二十一日(1815430日)に旅立ち、十四日目四月五日、中山道に分かれての日光例幣使街道を歩んでいる。

京から十四日目(三十八日目)四月五日、玉村を出て五料、柴、境と進み玉村宿から五里三十町で木崎宿。

茂木本陣は大きな門構えが目立っている。

十五日目六日に木崎宿を出て太田、八木、梁田(やなだ)、川崎、と進み、六里二十二町で天明(てんみょう)宿。

天明宿松村与左衛門本陣がこの日の宿だ。

十六日目七日、天明(てんみょう)宿を出て犬伏(いぬぶし)、富田(とんだ)、栃木、合戦場、七里二十五町先の金崎宿は古澤本陣が今夜の宿だ。

旅籠十数軒(大五軒・中二軒・小五軒)の小さな宿場だった。

十七日目八日金崎宿を出て、楡木(にれぎ)、奈佐原、鹿沼、文挟(ふばさみ)、板橋の次が今市となる。

此の日は九里十八町、日光鉢石(はついし)は二里先となる。

長崎を二月二十七日に旅立ち四十日目四月八日は予定通りだ。

今市の町並は七町二十一間程で天保十四年(1843年)の頃の人口は千百二十二人、家屋二百三十六軒。

今市宿高橋本陣・脇本陣が一軒、旅籠は二十一軒。

宿建人馬二十五人二十五疋。

上町・中町・下町に分かれ、下町には本陣職を歴任した高橋家、本陣から少し進むと同じ並びに上町の脇本陣。

例幣使街道の杉並木は、今市から小倉(こぐら)までの三里二十町ほどに為る。

日光杉並木街道は日光・例幣使・会津西、三つの街道、全長九里十五町の両側に続いている。

此の日幕府から織田信節を代表する日光道中の状況と、日光山大猷院の修復状況の視察に派遣された二十六名は四里離れた徳次郎宿に着いた。

家斉は自分が動けば百万両、世子の家慶なら七十五万両と試算して織田に参詣の可能性を探らせに遣わした。

前将軍家治の日光社参安永五年から来年が四十年になる。

家斉四十三歳、家慶二十三歳、十年後までにいずれかが社参をする準備だ。

織田を年内に持筒頭から普請奉行に転任させる根回しも始めている。

普請奉行を派遣すれば事業開始と捉えかねない警戒を与えてしまう。

今がその日光御成り道の整備を始める好機と捉えたようだ、後追いで井伊直亮(いいなおあき)近江彦根藩第十五代藩主が将軍名代として日光へ向かうという。

二十六名の内には大名家からの代参として、奥州白川藩本川次郎太夫二十五歳、信濃松代藩矢澤監物二十一歳、武州川越藩安井政章二十九歳など八名が含まれていた。

和信(ヘシィン)との連絡で回り順の調整が行われた。

双方の間に有る大沢宿へ和信(ヘシィン)と護衛三名、本川次郎太夫と矢澤監物に護衛二名が集まっての打ち合わせだ。

「私と監物は女街道の視察も命じられたので帰路は小山で視察隊と分離して本庄へ向かいます」

街道の見取り図を次郎丸は示して説明した。

「女街道とは抜け道ですか」

和信(ヘシィン)は聞いたことが有るという。

「姫街道とも言われ本街道より往来が楽なようです。和信(ヘシィン)様たちが木曾路で来られた時に泊まられた追分宿の隣借宿と言う集落へ通じています」

「下仁田道という街道ですか」

「よく御存じで、荷物の往来が多くその視察を命じられています。借宿から浅間の六里ヶ原へ回り分去茶屋から須賀尾へ出て高崎へ回り本庄へ戻ります」

「織田殿は」

「織田様は江戸へ御成り道で戻られます」

双方の一行に案内人が山内絵図を渡し、寛政十二年(1800年)の日光山往古図模写、書肆で買える日光山名跡誌を解説してくれた。

清国太医一行

 

日光街道の状況視察一行

四月九日

日光三社権現

(本宮権現、瀧尾権現、新宮権現)

四月十日

四月十日

日光山輪王寺

四月十一日

四月十一日

日光山神廟

(日光東照大権現)

四月十二日

四月十一日

日光山大猷院

(徳川家光公廟)

四月十三日

 

織田の視察一行は十二日に太医一行の出た今市の高橋本陣へ移動する。

十三日には帰路につく為徳次郎へ戻り、例幣使一向に先んじて江戸へ先行すると告げた。

文化十二年四月九日(1815517日)日光

小倉の日光道中と日光例幣使街道の追分から西へ向かえば今市宿に入る。

日光街道本道と会津西街道・日光北街道との追分先右手に高橋本陣。

その先から杉並木が始まり左手には瀧尾神社がある。

左手の瀧尾神社は、天応二年(782年)に勝道上人が男体山に二荒山大神を祀った同時期に建立という。

杉並木の街道と竜蔵寺薬師堂。

その先が鉢石(はついし)宿の名前の元になった「鉢石」という巨岩が露出している。

 

十一日は日光山神廟へ太医の一行は詣でている。

神橋の右手の木橋を渡り正面の階段(長坂)から山内に入り、御殿屋鋪と御本坊の間を通って表参道に出て、参道を真っ直ぐ進み日光東照宮の正面石段上の石鳥居をくぐった。

この鳥居は元和四年(1618年)、九州筑前藩主黒田長政公奉納、十段の石段はわずかだが上が狭めて有、たかさ三丈ある鳥居の存在感が増して見えた。

左手に慶安三年(1650年)若狭小浜藩主酒井忠勝公奉納の五重塔が有る。

仁王門には高さ一丈を越す像が有る、右に阿形密迹金剛(みっしゃくこんごう)と左の吽形那羅延金剛(ならえんこんごう)が睨みをきかせている。

承応二年(1653年)の築で切妻造、銅瓦葺き、三間一戸の八脚門。

案内人の言葉を叶庸(イエイオン)が太医たちへ訳している。

長押上の狛犬四態、表門の木鼻は象、脇柱の木鼻は獏、表門背面に木製神門狛犬、左には角が見える。

奈良の正倉院に代表される校倉造りを模した建物は神庫。

中神庫の前を左へ、神厩には三猿はじめ猿の一生を描き、人の一生に渡る生活が彫刻されている。

境内左手の手水舎で身を清めた。

右手の陽明門への石段基部に立つのが唐銅鳥居(二の鳥居)。

案内人は基部を見てくれと言う。

「両脚の根元の部分に、返り花、反り花と呼ばれる蓮の花に唐獅子模様が刻まれております。神社の鳥居にはこのような彫刻は有りませぬ」

陽明門下、南蛮鉄燈篭の原材料は伊達正宗がポルトガルから運ばせたという。

陽明門への石段を上がった左右の玉垣には飛び越えの獅子と名付けられた狛犬。

狛犬と玉垣は一体で石柵が倒れるのを防ぐ控柱の役目だと言う。

陽明門は御所十二門の内の名称を朝廷から賜ったもので、後水尾天皇の御宸筆による「東照大権現」の勅額があるので勅額門とも言うそうだ。

此の門の前までは武士でなくとも訪れることが許されている。

高さが三丈六尺、奥行き一丈三尺、間口二丈三尺と案内人が話している。

案内人の同だという顔に大きさでは驚かない太医たちも繊細な彫刻に驚いて見せた。

陽明門背面に木製神門狛犬が有るが阿吽に為ってはいるが角は無かった。

唐門と、透塀その奥に拝殿が有り一行は其処まで進んで拝礼した。

「清国皇帝陛下より謹んで東照大権現様の御霊の安寧をお祈りいたします」

宋太医に続き和信(ヘシィン)が和語で祈りをささげた。

神官に蔡太医が親書と小判五十両を三宝で渡した。

唐門屋根上には昼を守る霊獣の龍と、夜を守る霊獣の恙(つつが)が乗っている。

東回廊の奥社参道入り口の眠り猫と、真裏にある竹林に遊ぶ二羽の雀の彫刻は平和で安全な世の中を現していると案内人が説明している。

坂下門は元和四年(1608年)に建てられた一間一戸、銅瓦葺き、二脚平唐門控柱付で奥が権現様が眠る奥宮に続いていた為、普段は閉められ将軍参詣の折しか開く事がなかった事から「開かずの門」とも呼ばれていると説明が有った。

陽明門へ戻り「門を支える十二本の柱には胡粉(貝殻をすりつぶした白色の顔料)が塗られ、グリ紋と呼ばれる地紋が彫られていますが、内側の二本目だけは他の柱と逆向きの紋様に。 これは「魔除けの逆柱」といわれ、魔除けのためにあえて逆に彫ったものとされています」と案内人はどうだ気が付いたかねと言う顔をした。

「もう一つ言い伝えが有ります」

本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北斗七星)が来るように造られていると自慢げに鼻をこすった。

宋太医の一行は最後の日光山大猷院(徳川家光公廟)へ向かった。

大鳥居まで戻り右手へ、日光三社権現の西側に大猷院二天門が有る。

左に持国天、右には広目天、大猷院の額は後水尾上皇の御真筆と案内人が話している。

霊廟への通路に有る夜叉門は牡丹門とも言われ、欄間に扉の羽目板部分、壁面に流麗な牡丹唐草彫刻が施されていた。

門の表と裏には東西南北を表す色の四体の夜叉像が祀られていた。

東の青は烏摩勤伽(うまろきゃ)。 

西の白は鍵陀羅(けんだら)。 

南の赤は毘陀羅(びだら)。 

北の緑は阿跋摩羅(あばつまら) 

夜叉門を潜り拝殿の前に有るのが唐門。

大猷院拝殿、大猷院相の間、大猷院本殿が一棟に連なった建物で拝殿は金箔で覆われ、天井には百四十の龍が描かれている。

拝殿の先は巾がせまい相の間となり、その奥が本殿となっているが太医の一行でも此処までが許された参詣となる。

案内人は「本殿は東北(鬼門)を向いています。死して後も朝夕東照大権現様の側でお仕え奉ると遺言なされ、御廟も東照宮の方へ向けてあるためで御座います」と話した。

大猷院の御廟への皇嘉門は竜宮門とも言われているそうだ。

宋太医の一行はその日の参詣が終わると今市まで戻った。

途中輪王寺から出てきた視察派遣隊と行き会うと、道を譲って先へ行かせ後に着いた。

和信(ヘシィン)は最前列に出て、態と遅れた本川次郎太夫と情報の交換を高橋本陣近くまで続けた。

何の事はない、最後には庸(イォン)さんの鶏にまで話題が及んでいた。

「料理人が嘆いています。材料も厨房もお粗末で腕が振るえないとね」

「例の猪四郎宛てに至急便で書状を出して置きますよ。猪四郎の別宅なら厨房も材料もそろえてくれます」

別れ際に料理人の希望の材料を和信(ヘシィン)と叶庸(イエイオン)は書き、和語に直せるところは直しておいた。

「この二通一緒に送れば何とか都合するでしょう」

本川次郎太夫として猪四郎宛ての書状を徳治郎の定飛脚で早の早とさせて送り出した。

「十三日の昼前に着きましょう」

定飛脚は代金三分で請け合ってくれた。

 

奥の細道 松尾芭蕉

元禄二年三月二十九日(1689518日)

元禄二年四月一日(1689519日)

元禄二年己巳(つちのとみ)は閏一月(小の月・閏一、三、四、六、八、十二月)が有る。

曽良旅日記は四月朔日、其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。

芭蕉の記入日時が一日ずれている。

丗日、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、「我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとヾめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。

 

 卯月朔日、御山に詣拝す。

(うづきついたち、おやまにけいはいす)

往昔、(そのかみ)此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。

千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。

(しみんあんどのすみかおだやかなり)

猶、憚多くて筆をさし置ぬ。

(なお、はばかりおおくてふでをさしおきぬ)

あらたうと青葉若葉の日の光

(あらとうと あおばわかばの ひのひかり)

 

あらたふと木の下闇も日の光

(真蹟懐紙)

あなたふと木の下闇も日の光

(曾良書留)

 

 第九十二回-和信伝-拾壱 ・ 2026-01-07

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記