“ 深谷宿 ”
文化十一年八月二十日(1814年10月3日)・深谷宿~板鼻宿
坂本屋惣右衛門を六つの鐘(五時五分頃)で旅立った。
飯盛りの多い宿(しゅく)ではこの時刻にはほとんどが旅籠から送り出されていて、静かになる。
脇本陣はそれを見越したかのように様子の良い旅人が出て行った。
本庄宿まで二里二十九町。
大野の岐蘇路安見絵図(きそじやすみえず)と、他の道中案内を宿で見比べると大分違いが出ている。
大野の手控えは日本橋から十八里二十五町、薬研掘から湯島を廻った分一里上積と言うが、道中案内を借りて積算すると十九里五町四十間が一番長い。
「わずか二日で十六町の差が出たか」
大野も呆れているが今更乗り換えて記録する気も起きない様だ。
千十郎に「藩の道中記録は二十年くらい前の物で、道橋奉行が作っており申すが大分違うようでござる」と言っている。
前日は夕刻まで六斎市で賑わっていた町は静かだ。
昨晩も大野は岡下まで一里塚が出ていないと言っていたが、お芳の箇条書きのような草津案内には萱場の一里塚と書いてあった。
街道横断石橋を越せば深谷宿西木戸。
其処から一町ほどで左に一里塚。
名前を付けるなら十八里目茅場村(萱場)一里塚だろうと大野も納得した。
うねるような街道の鉤手(曲尺手・かねんて)先に食い違い土手と云う土塁が有る。
二人の乗る軽尻(からじり)、賃銭も大分上がって(一割五分増)本庄まで一人八十六文。
大野は鉤手(曲尺手・かねんて)で岡部に入ると、馬方に上乗せ駄賃に一人四文銭十枚括りを渡している。
薬研掘で足軽二人に手伝わせ、十枚括り二十と五枚括り四十を拵え、中間に雇った三人に分けて持たせてある。
次郎丸が巡礼に配った時は介重の分から取り出した。
所領高 二万二百五十石となった岡部藩は、岡部に四千三百七十七石、摂津国桜井谷、三河国半原と大きな領地が分散している。
二百年、領国に変動無く岡部を支配している。
安部信操(あんべのぶもち)二十五歳は文化三年八月五日に父の隠居により十七歳で家督を継ぎ、同年十二月に従五位下、摂津守に叙位任官した。
昨年は大坂加番を半年務めた、大分金が不足していると噂だ。
「此の左手が御陣屋ですだ」
馬方がお芳に教えている。
普済寺村の風張には立場が有る。
かぜはりと書いてふつぱりと馬方達は言うのだそうだ。
高札場の先の茶見世で一休みした、
次郎丸の時計は六時二十五分。
大野が一里塚を聞くと「三町足らずで着きますだ」と言う。
十九里目岡下一里塚が村の入口に見えた。
岡下村から街道は下りになり岡村では高札場の先、鉤手(曲尺手・かねんて)で右に見える河原へ向かった。
右手の御堂の先に馬頭観音に二十二夜待塔が旅人の無事を見守っている。
「享保元年の馬頭観音だ」
「享保は百も前の頃でしょ」
「その見当だ」
「正確には」
「九十九年前」
次郎丸は“ 二十二夜待塔 ”は上州に多いと新兵衛兄いが話していたというと「まだ武蔵ですか」と聞かれた。
二つ先の一里塚当たりのはずだよと言うと「なら、二十二夜待塔が動いて来たかも」などと笑わせてくれた。
小山川滝岡橋の下は水量も少なかったが、行きかう荷船は十石積くらいの様だ。
馬の上で橋を渡っても親娘に不安はない様だ。
土手の上に出ると上毛三山が遠くにくっきりと見えた。
「あの後ろの赤っぽいのが浅間山だぁ」
朝方の陽が昇ってきて後ろにある山を浮かび上がらせている。
左手は八幡様だとお芳に教えている、大分とおしゃべり好きの様だ。
大野は「此処で甘酒飲んで一休みだ」と宝珠寺の参道わきの休み茶見世へ入った。
江戸を出る前に未雨(みゆう)が世話に為った本庄の中屋戸谷へ寄るための身じまいの為だ。
三カ所ある高札場の先鉤手(曲尺手・かねんて)で左へ進むと右手に小さな稲荷の鳥居、その先に石橋が有る。
川へ向かって下り、また上って来たので高度は岡村と変わらないかと思った。
鉤手(曲尺手・かねんて)の角に小さなお堂が有る。
「昔ゃあのお堂が国境に在ったそうですじゃね。五料道ちぅうて越後へ通じているそうじゃ」
「今は何処に為ったの」
「本庄宿の先に大きな川があるで、そこから上州だそうだな。相棒」
「そうだ、武蔵国は勅使河原村までじゃわい」
右手へ曲がる角に一里塚。
二十里目傍爾堂迄、川から一休みを入れても四十分で、七時五十分に為ったばかりだ。
緩い上りの道、角の先が本所宿領分だと馬方がいう。
石橋は「馬喰橋ですだ。此の石橋は行先の中屋の先代が自費で架けなさったで」と教えた。
「馬を此処で食べたの」
馬方も笑いながら「馬にかみつかれた馬方が居たんじゃのう。儲けで自分だけ旨いもの食ってな、馬にゃ飼葉も満足に与えなかったそうじゃ。馬も怒ってここで頭に噛み付いたんじゃ」と教えてくれた。
長い坂の両側は稲を刈り入れた後だ、稲束が稲架(はさ)に干してある。
「あと何日くらい干すのかしら」
「一昨日(おとつい)刈り入れていたから、後十日雨が降らなきや脱穀できるな」
すっかりお芳と仲良くなったようだ。
田の向こうに稲荷の鳥居が見える、反対側の木立を指差した。
「此処の薬師様は裸薬師じゃ」
「裸の仏様」
「いんや、建てるたびにお堂が燃えてしまうんでな。家がないから裸じゃと言うのじゃな」
「お堂が無いんじゃ困るわね」
「目の病を治してくれると評判で賽銭はたっぷり入るそうじゃで」
石橋の先で左へ曲がり宿場に入った。
二つ目の石橋で「この先が本町。わしらは中町の問屋場でお別れですじゃ」とさびしげに言う。
中町で馬から降りて先へ進んだ、未雨(みゆう)だけ遅れている、市神の所で先へ行く大野たちと別れた。
「構わず川を越しておけよ。遅くなるようなら人を出すから」
「権太を置いておきましょうか」
「身軽にしてやるなら喜ぶぜ」
そういうわけにもいかないので「一刻(とき・百二十分)は待って先へ進みます」と別れた。
吾郎が来て「江戸へ送ってもらった船主に挨拶して来ました」とお芳の身じまいを見てにっこりした。
四人で中屋へ入った。
「げげっ、宗匠江戸へ戻ったばかりで舞い戻りですか」
「いやいや、御出入り先のお屋敷様のお供で草津に、その後善光寺へとご案内」
「よく言いますな。信濃は無案内と聞かされたのはつい先日」
その間に手代が気を利かせて旦那を呼んできた。
一別以来の挨拶と「家内に娘、御出入り先の本川様。あと五人同行だが先に上州へ向かいました」と分かりやすい紹介だ。
「他にお供が居るんじゃ一晩泊まれも無理の様じゃから、せめて一刻(こく・百二十分)足休めを」
そう言われるまま座敷へ案内された。
家の者達は茶を出すと「俳句の事で夢中で引きとめなさりませぬ様」と下がって行った。
ひと払いの決め事でもあるようだ。
座を下がって平伏して「まさか本川様と聞いて驚きました。お頭様にお目に掛かれるとは、宗匠が東海道をご一緒したと聞いて羨ましくて夜も寝られませんでした」と大仰に喜んでくれた。
ひとしきり雑談し、茶の替わりを頼んだ。
「一刻遅れで川を渡る約束だが男と違って女が駆け出すわけにいかんので神流川渡の橋まで軽尻(からじり)二匹頼んで於いてくれ」
家人が承知して下がると「お辰とお芳は後ろを向いてくれ」と頼んで、もろ肌脱いで腹掛けの後ろから葵御紋入り“通行勝手”の木札を戸谷双烏に袱紗ごと渡した。
不思議そうに開いて目が飛び出るほど驚いた顔をしたが震える手で包直して次郎丸へ戻した。
「戸谷半兵衛光寿、四十一まで生きて初めて震えました」
「身が、松平定栄(さだよし)である。此の後も世の中の為に尽くして下さるようお願い申す。養子が決まり、まだ手続前の身軽故、将来の岳父に頼まれて松代へまいる。旅は名代の本川で来るように仰せつかった。発つ前に本川と言ってくれれば店にも名が知れる」
お芳とお辰(おとき)に「済んだよ」と声を掛けた。
「若さん、もしかして金さんのように入れ墨を」
「違うよ、草津の湯で見れば無いと分るさ」
「若さんて人見知りはしないけど、なぜか此処の御主人とは昔なじみのように気安いわ」
「未雨(みゆう)師匠と出会う前、写本の中に此処の見世の始まりが書かれていたんだ、名前を正確に書かなくてもわかりやすかった」
“ これによりて大きに利德を得仲屋を取直し、其身も相應のもとでを貰ゐて本庄宿へ引込、呉服其外諸品の商ひなして、今本庄宿其外近邊に鳥居三右衞門といひては知らざる者なし
”
中屋の商号を書いてあるので鳥居は戸谷(とや)の事だと分かる者には分かるのだと言うと納得した。
中屋で刻を過ごしたが軽尻(からじり)の用意が出来たと聞いて見世へ出た。
別れを告げ、外へ出るとなんと四頭が待っていた。
「本川様、戻りもお寄りくださいますよう」
「承知した。素通りはしないよ」
「大事な客人だが、川向こうに待ち人が居るそのつもりで頼んだよ」
家人が「賃銭、駄賃は済んでおりますので請求したら言い付けてくださいませ」と送り出した。
十番目本庄宿は深谷宿から二里二十九町。
宿(しゅく)長十七町三十五間。
新町宿まで二里、軽尻(からじり)で橋を越えて新町宿まで五十八文。
明日が六斎市なのか場所割の帳面片手に、問屋場の番頭が市神の脇で指図している。
馬方たちは鉤手(曲尺手・かねんて)をうまく誘導して先へ進んだ。
馬上で時計を見ると十時十分、一刻掛からずに出られたようだ。
繁華な様子で宿(しゅく)長十七町三十五間と中山道随一と言われるだけのことはある。
馬も馬方に合わせ大分と早く歩んでいる、未雨(みゆう)を振り返ると懐に手を当てた、駄賃を弾んでくれる様だ。
二十一里目下野堂一里塚は宿の近くに在った。
神流川渡まで高札場から一里三町程だというから、残り正味一里程だろう。
「此の辺りから伊香保道が有るときいたが」
「もう少し先の庚申塔の有る道ですがな」
「おいおい、庚申塔の無い道が有るのか」
「こりゃお武家に一本取られた」
八幡の社の先の庚申塔で「この道が傍爾堂から来る五料道と繋がるんでございますよ」
「そうか昔の街道へ出るのか。なら高崎まで行く方が楽だな」
「そうですぜ。中屋様のおかげで橋も渡し船も無賃ですじゃし。ここんとこ川幅がのうなって向こう側は仮橋ですんじゃが、手前にしますか向こうまでまいりましょうか」
刈入れ時の雨は避けたいものだなと次郎丸は馬方と話が弾んだ。
十五間から十八間ほどで舟渡しに為り二十間を越すと船止めだという。
土橋の方が流量は変化が少なく。長さ三十間、幅二間でいつでも中州まで渡れるのだという。
「儂が餓鬼ん頃で三十三、四年くらい前に中屋様が架けましてな、修理維持も舟の費用もいまだに持ちなさるで」
二十二里目勝場一里塚を通り抜ければ河原へ降りる道へ出た。
「馬の足に負担だ。ここで良いぞ」
吾郎はお芳の荷から四文銭十枚括りと五枚括りを出して馬方へ渡した。
笑いながら「五枚の四つはお前さん方四人、十枚括りの四つは馬の化粧代だぜ」と渡した。
お芳は「馬も聞いてるからね、猫ばばして頭を齧られないようにね」と馬方連を笑わせた。
後日談
馬方たちは揃って中屋の家人へ、駄賃を馬の分まで貰ったと報告したという。
神流川渡の整備された土手道も行きかう人で賑わっていた、木製の灯籠台は年季物だ。
「師匠、浄財集めて石灯籠を建てるように嗾(けしか)けるか」
「いやもう絵図は有りましたよ。誰が管理するかで勅使河原村と纏まりが付かない様でっす」
中州の幅は一町を越す広々とした場所だ。
橋を越え中州へ渡ると向こうの土橋の先に介重が待っていた。
「まだ九つに為りませんね」
「今五十五分だから直だろう」
河原さき二町ほどで新町宿の御料傍示杭へ出た、新町の内の笛木新町だと介重がお芳に言っている。
「よく知ってなさる」
「茶見世で聞いたばかり、宿(しゅく)の半分で残りは落合新町だとさ」
右手の茶見世の外の縁台に権太と朗太(ろうた)が居る。
右手の路地口に小さなお堂がある柳茶屋“ しまだや ”だという店は繁盛している。
大野たちは小座敷で将棋を指している。
「若が来たから勝負無しだ」
「いいですよ。この局面は覚えておきます」
大野は勘定を済ませて出てきた。
街道真ん中に大きな高札場が有る。
高さが大人二人分はある、高さ一丈二尺、長さ三間、巾一間と大野が言う。
石橋の先右手にに脇本陣代が二軒、久保五左衛門本陣は上旅籠と変わらぬ風情だ。
左手の小林甚左衛門本陣は木柵の門構えながら大きな宿だ。
その前の落合新町問屋場富沢忠右衛門で大野は頼んで於いた六頭の乗懸(のりかけ)に朗太たち三人の荷を付けた。
六十九文の六頭は四百十四文、南鐐二朱銀一枚と四文銭四枚で釣りが四文銭の差し一本に二文来た。
軽尻(からじり)なら四十六文だ。
三人は馬より荷無しなら「ちょろいもんだ」と言っていた。
大野はこの先の一里塚は何処だろうと銭勘定をした帳付けに聞いている。
「烏川の両端に築かれていたという話ですが、家(うち)の博労で見た物は居りません」
十一番目の新町宿は本庄宿から二里。
宿(しゅく)長十一町三十八間
倉賀野宿まで一里十八町、板鼻へ暮れ六つに着くだろうと大野は言っている。
坂を下りて御料傍示杭先、土橋の温井川は新町宿西口(京口)。
烏川は柳瀬の渡し、烏川は川幅が四十五間と出ているがそれほどでもない。
渡し賃が一人十文で六人分、荷駄(乗懸荷)十四文で六頭分百四十四文を大野が支払った。
「馬舟が多くて助かったが、武士の無賃はこの際大きい」
大野は乗り込む前、駄賃に四文銭十枚括りを馬方六人に配った。
毎晩いくつかは監物と作るようだ。
時計は一時二十五分に為っている。
二十三里目中島一里塚は行方知れずで影もない。
中嶌村と岩鼻で目を凝らしたが塚の名残もない。
大野は介重たちと打ち合わせでもしてあるのか、岩鼻村の出外れから三人を先へ行かせた。
倉賀野は三か所問屋場がある。
上旬に中町、中旬は上町、下旬は下町、の各問屋場が十日間ずつ努めると聞いて来たという。
「本日から三番目下町で、宿の最初に出る問屋九郎兵衛が受け持つそうで御座る」
右手から来る道が日光例幣使街道、間に有るのが阿弥陀堂だと馬方が教えている。
常夜燈が馬鹿に新しいので大野が聞いている。
「昨年暮れに古い木製のをどかして新しくしましただ」
問屋場が近いというので次郎丸は物好きに降りて覗きに行った。
周りを見ているとお芳とお辰も興味深そうに見ている。
「面白いか」
「だって雷電の名も有ると聞いちゃねっ。雷電は雲州様もいまだにごひいきですよっ」
雷電為右衛門この年四十八歳に成る。
明和四年信濃国小県郡大石村で生まれた。
天明四年十七才で出府し江戸相撲に入った。
寛政二年関脇に付出し優勝。
寛政七年に大関に昇進、十六年間、二十七場所の長きにわたり大関を張った。
雷電には禁じ手が三つ、「張り手」「かんぬき」「突っ張り」封じられてなお六割の勝を得たという。
三年前文化八年惜しまれつつ四十五歳にして引退した。
常夜燈の正面“ 日光道
”右側面“ 中山道
”左側面“ 常夜燈
”。
裏面“ 文化十一年甲戌正月十四日 高橋佳年女書
”
「一丈二尺はあるな。良くこれだけ多くの人の浄財を集めたものだ」
「どう見ても関八州総ざらいしたみたい」
相撲関係だけでなく当代の人気役者の名も見えた。
吾郎が馬の仕度が出来たと呼びに来た。
時計が二時十五分に為っていた。
十二番目の倉賀野宿まで新町宿から一里三十町。
宿(しゅく)長九町十六間。
高崎宿まで一里十九町、乗懸(のりかけ)で四十一文の六頭は二百四十六文。
大野は南鐐二朱銀をだしたら四文銭の緡(さし)(四百文)に百文の緡(さし)、四文銭十四枚釣りに出された。
「両替より美味い手だな」
次郎丸は大野の才覚を褒めた。
皆馬に乗らず太鼓橋を越えてから乗り込んだ。
「五貫堀太鼓橋だそうで御座る」
其処からが仲町(中町)、勅使河原八左衛門本陣、須賀喜太郎脇本陣、須賀庄兵衛脇本陣、問屋場須賀長太郎と固まっている。
上町に入る境に高札場。
河岸への道は、井戸八幡宮参道口河岸道が本陣の傍に有る。
「真向(まっこう)にあさま山見ゆる。とあるがその通りですな」
大野は馬の上でご機嫌だ。
倉賀野京口木戸先、右手に安楽寺、その先に一里塚が見えた。
二十四里目倉賀野一里塚は松並木の間にある。
粕沢立場には三軒ほど休み茶見世がならんでいる、大野は此処で一休みした。
此処でも馬方に駄賃を弾んだ。
馬に乗る前に新しい石橋から瀧を眺めた、陽の光で水しぶきが輝いた。
高崎城下、江戸方木戸の先にまた木戸が有り右手に高札場。
宿は左に高崎城を望み、南町、新田町、新町、連雀町、田町。久藏町となる。
十三番目の高崎宿は倉賀野宿から一里十九町。
宿(しゅく)長二十二町十一間と城下町らしく大きな宿(しゅく)だが、本陣、脇本陣は置かず、旅籠も少ない。
六斎市は盛んで本町三と八、田町五と十、新町では二と七の十八回開かれた。
松平輝延(まつだいらてるのぶ)が八万二千石の大河内長沢松平の家督を継いで十四年目。
奏者番から寺社奉行へ進んだ四十一歳。
寺社奉行は十二年目、そろそろ大坂城代かと噂も出ているが藩財政が悪化し始めた。
城下町の様子は穏やかだ、商人には活気がある。
二十五里目高崎一里塚は九蔵町、日光街道の一本上の道に在ったと言われている。
大野はその事は聴いていた様だ。
田町五、十日の絹市は藩の許しで専売取引の権利を持って居た、そのため全国の大手問屋が支店を出している。
今日も街道は臨時の見世も多く出て大賑いだ、二年前の大火から見事に復興した。
此処の問屋場は不規則で上番本町一日~十四日、中番田町十五日~二十二日、下番新町二十三日~晦日と為っている。
馬方は引き継ぎに田町の問屋場へ向かった。
板鼻宿まで一里三十町、乗懸(のりかけ)八十二文、六頭で四百九十二文。
次郎丸の時計は三時三十五分。
大野は先ほどの四文銭の緡(さし)に百文の緡(さし)で支払い二枚の四文銭を受け取った。
冴木が屋敷の差配をしていた頃を思えば、格段に銭の扱いに馴れている。
鉤手(曲尺手・かねんて)で左先が本町。
京方の木戸門の先、鉤手(曲尺手・かねんて)で右へ行く角にも木戸門が有る。
道は烏川に沿って上り、左に烏川板橋が出てきた。
川に沿って下ると道は右へ行くと下豊岡村、かわいらしい道しるべには“ 右 はるなみち くさつみち ”左手に若宮八幡宮参道が有る。
もう一つは四角い大きな道しるべ、手が込んでいる。
正面“ 榛名山 草津温泉 かわなか かわらゆ温泉 はとのゆ
”」
右面“ 従是 神山 三里 三ノ倉
五り半 大戸九り半 ”
左面“ 左中山道 安中 松井田 横川
”と細かく彫られてある。
中豊岡村の高札前で一休みした。
大野は四文銭十枚括りを馬方六人それぞれに与えた
上豊岡村に飯野家茶屋本陣、此処の主は名主を務め伊勢御師でもあると馬方が言う。
坂下に一里塚が有る。
二十六里目藤塚一里塚の坂上右手に藤塚浅間神社。
田の刈入れも過ぎて広々とした原の右手に上野国一社八幡宮参道。
十町程行くと板橋には名前が板鼻川橋とついていた。
九丁目に入ると先が板鼻宿江戸口木戸だと馬方が教えてくれた。
「昔は八丁目までだったそうですぜ」
問屋場まで行かずに木戸先の榛名道追分で降ろしてもらった。
暮れ六つの鐘が響いている。
六丁目“ わくや小右衛門
”へ大野が導いた。
宿札に“ 白川藩本川次郎太夫様御一行様御宿
”と下がっている。
「許せよ、大野と申すが本川様の用人である」
九人の顔ぶれを見て戸惑ったようだが「すぐに御仕度を」と女中たちに洗足の支度をさせた。
「宿が大きくなっていると聞いたが」
女中が言うには、二十五年前の記録で宿(しゅく)長九町十四間だが江戸口木戸外へも茶屋に旅籠が増えているという。
風呂上り、部屋で時計を見ると六時四十分。
大野が来たので「十里を普通に歩いても渡船などを見れば五刻半(十一時間)は必要だ。馬とはいえよく来られた物だ」と采配を褒めた。
この時期の江戸で明け六つ五時五分・暮れ六つ五時五十二分。
「何の、千十郎殿の意見も多く取り入れさせてもろうたおかげで御座ります」
軽尻(からじり)でなく乗懸(のりかけ)にして中間を身軽にしたのは監物の知恵の様だ。
文化十一年八月二十日(1814年10月3日)
天明元年(1781)上州・武州の中で藤岡の生絹取引量は最大です。
藤岡町の二つのメイン通りと鎮守 藤岡の絹市最盛期は上州最多の月12回開かれ、動堂町通りは1、6のつく日、笛木町通りでは4、9のつく日のように交代で市が開催された
十石峠街道は、中山道新町宿から神流川に沿って藤岡、鬼石、万場、中里、上野、白井の各宿を通って上信国境の十石峠を越えて信州に入ります
沓掛まで九里一町(三十七里二十六町)
“ 板鼻宿 ”
文化十一年八月二十一日(1814年10月4日)板鼻宿~沓掛宿
福田脇本陣は木島本陣より地面が多く取られている。
屋敷もわずかだが大きいそうだ、問屋は両家が半月交代で務め、今は福田脇本陣が問屋の当番に当たるという。
“ わくや小右衛門 ”は昨晩の内に当番の福田家問屋場へ六頭の乗懸(のりかけ)の手配をしてくれたので明け六つ前に馬方が表で準備している。
安中までは短いので乗懸(のりかけ)でも四十文。
戻りの道中も世話に為りたいので松代を出る前に書状で日時を知らせると約束した。
“ わくや小右衛門 ”を明け六つの鐘に送られて旅立った。
六丁目三軒先に福田脇本陣。
三丁目右手に木島家問屋場、木島本陣、向かいに当番の福田家の問屋場が有る。
高札場は左手に在り、斜め向かいに牛宿が有る。
牛宿に馬ばかりだは江戸もんの悪口だ。
板鼻宿京口木戸まで宿(しゅく)長十町三十間。
十四番目板鼻宿は高崎から一里三十町、安中宿まで三十町、
板鼻堰用水が街道右手に有る、宿の主が高崎で烏川へ落とすと教えてくれた。
碓氷川の木橋はさすがに馬から降りて渡った。
乗る前に大野は四文銭五枚括りを馬方の駄賃の上乗せと配った。
右手に御料傍示杭が有り、此処からが安中藩領中宿村となる。
碓氷川渡し場に冬場、土橋が許されたのが前橋藩から幕府領となる延享四年。
十八年後の宝暦二年には通年で仮土橋となり、今は木橋が架けられている。
二十七里目中宿一里塚は目の先に有った、左塚は民家の陰に為っていた。
高札場の間が追分、享和二年の庚申塔が有る。
初め不思議な常夜燈のように見えたので例によって次郎丸は降りてみている。
笠石が大きい屋根の様に感じた。
「まるで一人何役もこなす役者の様だ」
正面は“ 庚申塔 ”だ。
左面は上りの旅人の目に入る“ 從是 一宮 大日 街道
” と道しるべ。
「こりゃ貫前(ぬきさき)神社への道しるべで御座います」
馬子に教えて貰った。
碓氷川の上流が街道を横切り土橋が架かっていた。
此処も一同馬から降りて橋を渡った。
「大丈夫なのに、若さん慎重すぎる」
お芳の言葉に未雨(みゆう)が珍しく怒った。
「馴れぬ川を越えるに、流れがきつい場所では慎重になるのが大将の器だ。お芳は足軽でもほめ過ぎで権太以下だな」
「どうせ女は男以下だよ」
是には次郎丸も大笑いだ。
「師匠の負けだな。だが権太が一番下は可哀そうだ」
「どう見ても朗太(ろうた)より歳が上とは思えませんぜ。まるで十八、九の悪がきだ」
木戸の先が安中宿下木戸だと馬方が大野に教えた。
此処は安中藩三万石。
板倉勝尚(かつひさ)三十歳が治めている。
文化二年五月十二日、養父の死去により家督相続。
従五位下伊予守
文化七年九月、奏者番就任。
十五番目安中宿は板鼻から三十町
宿(しゅく)長三町四十四間と短い宿場だ
松井田宿まで一里三十町とまるで間宿(あいのしゅく)の様な感じだか、定式人馬の半減が認められ息を繋いでいる。
藩士を除けば男手が百五十を切るという助郷頼りの宿場だ。
右手の脇本陣は上の脇本陣金井家が間口十一間半、下の脇本陣須田家が間口八間。
向かいに伝馬町で本陣および問屋を営んでいる須藤家が有る。
大野が昨晩の内に手を回しておいたので馬は用意されていた。
此処は難所も有り百六文だという、六百三十六文にたいし大野は南鐐二朱銀を出すと釣りに四文銭で四十一枚出された。
大野は豆板銀をあまり使いたくない様だ。
安中も飯盛女を置けず、その分板鼻に茶屋が増えてきた。
安中城門口は右手の大手門へ登る大手坂、先に高札場。
明日は六斎市の立つ二、七の日。
松井田宿上木戸を出ると谷津の高札場、右へ街道がくねり上野尻にも高札場。
安中大木戸が出てくる、その先で人家が途絶え松並木が続いた。
「安中藩は此処までなの」
「松井田の先、御関所も御領内ですなぁ」
村境の先に人家が増えてきた、街道から奥に二十八里目原市一里塚が見える。
馬方によれば一里山一里塚だという、対角に街道からずれて見えた。
五町ほど坂を登ると原市村の集落。
「原市村に在ると言っても一里山のほうが一里塚の名にふさわしいな」
此処の村は絹買の商人が多く出入りしていると秩父の絹買が話していた村だ。
原市には茶屋本陣を五十貝(いそがい)家が受け持っているが、一行は訊いただけで通り過ぎた。
畑の中に大きな塚が有る、しかも街道の両脇だ。
「この方が一里塚だと通用するぜ」
「奥にもまだありますぜ旦那」
馬方が指差す先に小振りの塚が出てきた。
八本木立場に山田卯兵衛茶屋本陣が有るが、松代藩は景色を楽しむため野立をすると千十郎が話している。
捨て鐘が聞こえる、五つの鐘だが六時四十分くらいだ。
一行は小奇麗な“ あまざけ
”の暖簾の休み茶見世を選んだ。
大野は四文銭十枚括り六つを馬方に配った。
二十九里目郷原一里塚、江戸より是まで徐々に高みへ来ている。
「板鼻からでも五十丈は登ってるでなぁ」
馬方も賃銭の高いのをそのように説明している。
左の郷原の妙義道に真新しい常夜燈が有る。
「十年くれえ前に地の人たちが建てなされたで」
次郎丸は馬を止めさせ見に行った。
正面“ 白雲山 ”
東向き面“ 文化五年戌辰四月七日
”
台石西向き面“ 当所講中
”
台座に“ 是より妙義道
”
高さは二丈近くも有り、台座には多くの建立者名と石工向山民吉の名も見えた。
山道は下りで正面に妙義山が見える。
“ かうづけや はこその山の あけぼのに 二声三声 鳴くほととぎす
”
信生法師。
“ 草枕 夜やふけぬらん 玉くしげ はこその山は 明けてこそ見め
”
能因法師。
波己曽(はこそ)社は妙義神社の古名、白雲山は妙義山。
「良い声ですなぁ。お返しに馬子うたなど聞かしましょう」
“ 雨がふりゃこそ~~松井田泊まり~~降らにゃ越します~~坂本へ
”
「おれたちゃ降らないから峠越えだ」
権太めもう一度とせがんでいるうちに松井田の江戸口木戸へ着いた。
木戸内は両側に幅・深さ共に三尺の掘割が完備している。
街道右手字下町の徳右衛門脇本陣
街道左手の仲町金井藤右衛門本陣は壱百七拾壱坪あるとお芳が言う。
金井本陣の問屋場が月番で馬を乗り継いだ。
第十六番目松井田宿、安中宿から一里三十町。
宿(しゅく)長九町八間。
六斎市は三日と八日。
坂本宿まで二里十八町。
吾郎が「外郎が有りますぜ」と声を掛けた。
「善光寺にも似たものはあるだろうが少しは買っておこう」
「あっしが買い入れておきます」
吾郎が前の“ 諸国名産 頂透香 陳外郎 虎屋 ”の見世へ向かった
手持ちぶたさで次郎丸が台詞を詠んだ。
“ 親方と申すは お立合の中に御存知のお方もござりましょうが お江戸を発って二十里上方 相州小田原一色町をお過ぎなされて 青物町をのぼりへおいでなさるれば
欄干橋虎屋藤衛門只今は剃髪致して 円斎と名乗りまする ”
つい舞ってしまった。
「七代目の芝居はおっかさんと見に行ったわ。良い声だったけど若さんのほうが、張が有る」
「褒めてくれるなら何か買おうか」
「善光寺土産をたくさん」
「いいとも、背負えるだけ買ってやる」
介重が「持ちきれなきゃ俺たちも持ってやるぜ」と嗾けた(けしかけた)。
中間三人にとってお芳は妹のように思える様だ。
「坂本からは歩くというから、重いものは俺たち三人が分担するぜ」
千十郎が「若さん、良い事が有る。坂本からの峠越え、荷駄を二頭雇って身軽はどうです」と妙案を出した。
外郎店は天正の頃に店を設けたと未雨(みゆう)が聞いてきた。
道はきつくなるので乗懸(のりかけ)百二十三文の六頭七百三十八文。
大野は千十郎の意見に賛成した。
左へ入る道が有り、そこも榛名道だと大野は聞いてきている。
右手八幡への坂道の下が上町、松本駒之丞本陣壱百七拾四坪と問屋場。
先の左手に上町安兵衛脇本陣、さらに先の京口木戸手前に高札場。
馬方が「木戸先は新堀村でごぜえやす」という。
緩やかな上りが徐々に急になる。
大きく左へ曲ると一里塚が見えた。
三十里目新堀一里塚。
丸山坂を下りると茶屋本陣、お東とお西はどちらも中島家と云う。
八年前、文化三年に焼失、年内に再建されたという。
登り坂の途中に地蔵が有る。
「昔馬子が片荷の釣り合いに首を乗せて運んだそうじゃ。それも深谷じゃそうな。夜んなると“
五料恋しや ”と泣く声が聞こえてくるそうな、哀れに思った深谷の人がこん首を五料に届けてきて胴に乗せたそうな」
碓氷郷の産土神碓氷神社の前で峠越えの無事を祈った。
三十一里目横川一里塚、昔の街道に造られたがどこに有るのか判然としない。
「昔の東山道に近い場所らしい」
遠見番所が設けられた頃だと大野が言う。
百合若足跡石なる物が街道脇にあると馬方が言う。
板橋の先が横川村で、横川茶屋本陣と休み茶見世が軒を連ねている。
この付近はわらび餅が名物だという、力餅とわらび餅、好みを聞いて馬方へも振る舞った。
大野は四文銭十枚括りを太賃の上乗せに配っている。
次郎丸と未雨(みゆう)は通りかかる巡礼に四文銭五枚括りを「御報謝」と配りまわった。
山の方へ横川諏訪神社の参道が伸びている。
碓氷関所の東西の門は明け六ツに開き、暮れ六ツに閉じられた。
東門は安中藩が西門は幕府の管轄だった。
番所の前の石段を登り、おじぎ石に手をつくと、ひざまついてから手形を差し出した。
さすがに武士は藩名木札を見せるだけで通り抜けた。
お芳たち親娘は千十郎が付き添っていたので「草津の湯と善光寺詣で」と言うだけで女改めは無かった。
西門の先は下りで霧積川に架かる板橋先はまた上り坂に為る。
原村を抜けると坂本宿(しゅく)の江戸口木戸門は直ぐそこに見える。
木戸脇からの水路は宿場の中央を流れていた。
十七番目坂本宿は松井田から二里十八町。
宿(しゅく)長六町十九間。
軽井沢宿まで二里十八町。
下町先が仲町、右手に八郎兵衛脇本陣。
左手の金井三郎左衛門本陣と佐藤甚左衛門本陣。
本陣の隣が問屋場で金井本陣問屋場に佐藤本陣問屋場。
月番の佐藤本陣問屋場で荷駄(本馬)二頭をしつらえた。
さすがに峠越えともなれば一駄二百八文で四百十六文、四文銭の緡(さし)に四文銭四枚だした。
次郎丸が時計を見るとまだ十時二十五分。
用水の向こう側に永楽屋冨右衛門脇本陣、京口木戸門手前に坂本八幡宮への参道が有る。
登り坂の手前で立ち止まった。
「さていよいよ峠越えだが紀州で教わった滑り止めをして置こう」
権太が新しい手のごいを配っている。
「新しいのをどうします」
そういえば千十郎に話していない。
「古いのと交換だ。古いのを裂いてこうやりゃいい」
半分に引き裂くと軽く捩って(よじって)草鞋を包むように巻きつけた。
「少し指の根元の方へ付けたほうが歩きやすいぜ」
草鞋の鉢巻ですなと千十郎が珍しく冗談を言った。
「雪駄止めなら真田紐で踵だが、草鞋を守るとは初めてです」
「草鞋に手のごいの替わりは幾らでもある。足袋が擦り切れたら早めに替えぬと爪先をけがしてしまう」
馬方も手のごいを貰うと真似をし、馬の草鞋も替えている。
大野は早々と四文銭十枚括りを二人の馬方へ「駄賃の上乗せだ」と渡している。
次郎丸はどうやら軽井沢へ降りたらまた遣るのだろうと思った。
遠見番所までは難なく登れた。
吾郎と次郎丸が最後を歩いている。
「此の上に刎石坂と呼ばれている場所ですがね。あっしの師匠春秋庵白雄が選句をたのまれた翁の歌碑があるんですよ。あっしが弟子入りして二年目の春先でした」
「わざわざこの峠の先へかい」
「坂本宿(しゅく)の人たちでした。それほど記憶にない事ですが、刎石坂の上の四軒茶屋手前と覚えています」
「詳しく覚えていないという事は建てる方には師匠本人は拘らなかったのだな」
「その様です。字は師匠の書いた物を彫ってあるそうです。五尺も無い小さなものだそうです。詠んだ場所と違うのだと言って有るとは聴きました」
弘法の井戸はこの右手だと馬子が大野へ話している。
「此処の水で刎石茶屋(はねいしちゃや)は茶を入れる大事な井戸ですじゃぁ」
「その道を弘法大師も通られたか」
「水に難儀しとるを見かねて錫杖でついたら噴出したそうですらぁ」
刎石坂と呼ばれているところに芭蕉句碑が置いて有る。
“ ひとつ脱て うしろに負ひぬ 更衣
”
更衣はころもがえ。
未雨(みゆう)が話していたとおり小さな句碑で句の右手に芭蕉翁と彫り込まれていた。
「下から上げたようだ。周りの石とは大違いだ」
回り込んでみた。
「寛政二年か二十四年前だな」
「師匠がととにつれられて家に来た年だ」
お辰(おとき)は思い出したように微笑んでいる。
「おっかさんまだそんときゃまだ餓鬼だろうによく覚えているもんだ」
「初午の地口行燈(じぐちあんどん)の発句に狂歌を書きに来られたんだよ。手本も無しに二刻(とき・百二十分)もととと書きまくってた」
三十二里目刎石一里塚は岐蘓路安見絵図にはあるが見当たらない。
馬方は弘法の井戸の道に塚の跡に石組が有るという。
刎石茶屋(はねいしちゃや・羽根石立場)で力餅やわらび餅で一休みした。
茶屋本陣はどこかの姫様だろうか、御付の腰元六人に老女と言うには若い上臈が出てきた。
坂本を眼下に眺めていたが籠へ乗り込むと刎石坂を下って行った。
「駕籠のほうが大変そう」
「歩く方がいいか」
「この坂を馬に籠では疲れてしまいそう」
「よしよし、後の辛い坂もその調子で頼む」
時計は十一時三十五分。
下ってゆくと堀切と言う水場が有る。
その先は馬方が「座頭ころがしですだ」という隘路が続いた。
「まごめ坂」、「入道くぼ」という悪路が続いている。
山中茶屋へ着いた。
「若さんが脅かすほどじゃないわよっ」
一里近くの山道を六十五分で歩ききった。
馬方も褒めている。
大野も「道中記も此処で半道だ」と言うが馬方は後の街道は道幅も広くて楽だという。
三十三里目山中一里塚は左塚しか見当たらない。
「安見絵図から六十年、右塚は崩れたようだ」
大野が休み茶見世を選んで入った、丸屋六右衛門茶屋本陣をはじめ十五軒の茶見世が有った。
“ 羽根や
”という店は込み合っている、力餅やわらび餅で一休み、横川、刎石茶屋と来て今日三度目だ。
熊野大権現への参詣戻りの人が増えてきた。
馬方が言うには社家は三十家だという、参道前に上州、信州の国境標柱が有るという。
「吾嬬者耶(あずまはや)」
「若さん何の呪文」
「大昔日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が此処を越えるとき、辰巳の方角へ亡くなった弟橘媛をしのんで三度呼びかけたという伝承さ」
ついでのように「次はあんころ餅だ」等(など)と言ってみた。
坂を下り、しばらく行くとまた登りに為る、沢に土橋が架かっていた。
「茶見世に寄らぬ荷駄にはいい休み場所だな」
長さが五尺に満たぬ石橋が出てきた。
「足を濡らさぬのはあり難い」
「あっ」
「どうした。足をくじいたか」
手ぬぐいを見せて「切れた」という。
直ぐそこが熊野大権現「俺は参詣するので草鞋と足袋を替るけど。あと少しだ我慢しな」と励ました。
曽根茶屋本陣の前後に休み茶見世など十五軒ほどが客を呼んでいる、高札場脇の“ いせや ”を選んだ。
未雨(みゆう)が先に九両預かり、神楽奉納は出来るか聞き合わせに向かった。
次郎丸達は足袋と草鞋を捨て、新しく穿き直し、ちくまやの三人は馬方たちと此処に居させた。
五人で参詣に熊野大明神へ向かった。
国境の傍示杭から見ると鳥居の真ん中が目に入る。
最初の石段は十段、鳥居と次の石段前は石畳の道、古い形の狛犬が有る。
次の石段前に未雨(みゆう)が居てすぐに始まりますという。
旨い具合に神楽奉納が一段落した処へ、飛び込んで行った様だ。
手早く奉納者の名も書いて来たという「どうせ本名でも知らないだろう」と松平定栄としてきたという。
お辰(おとき)が「なぜここを特別に参詣されます」と不審げだ。
「社伝だが日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が八咫烏の導きで助かり、此処へ熊野の大神を勧請したとしてあるからさ」
五人の巫女に三人の楽人が奉納舞を始めた。
三十人ほどの参詣人が得したという顔で見いっている。
短く頼んだようで一刻(こく・十五分程)で終わり祝詞が奉じられた。
近くから鐘が鳴っている、八つだ、時計は二時八分。
本宮へ参拝し、那智、新宮と回り随神門 (
ずいじんもん )へ戻った。
馬方が教えてくれた風車(源氏車)を見て石段を降りた。
「此の狛犬見慣れない形ね。それと皆さま撫でさする様でつるつるだわ」
通りかかった禰宜が「四百年ほど昔の物だそうじゃ」と教えてくれた。
“ ほんだや
”という先ほどの見世へもどり、あんころ餅で茶を飲んだ。
吾郎はいつの間にか足袋草鞋を履き替えていた、素早い男だ。
大野は「あとは下るだけだが駄賃の上乗せをすると馬方を喜ばせ、思い切って十枚括りを与えている。
矢ヶ崎川二手橋で軽井沢宿の下木戸が見えた。
未雨(みゆう)が中宿左手、本陣問屋場を聞いて先に六頭の仕度を頼みに向かった。
中宿に入ると左手に脇本陣が三軒有る、用水路を跨いで高札場が在りその右手が佐藤市右衛門本陣。
問屋場も本陣が仕切っていて、脇本陣は分家だという。
十八番目の軽井沢宿は坂本から二里二十六町。
宿(しゅく)長六町二十七間。
沓掛宿まで一里五町。
乗懸(のりかけ)五十一文の六頭は三百六文、百文の緡(さし)三本と六文出した。
荷の積み替えが済むとすぐに沓掛へ向かった。
家の隙間に一里塚が有るときいていて大野は見に行ってきた。
三十四里目軽井沢一里塚は家の間から見えていて傍まで入れたという。
用水が右へ曲がり土橋が架けてある、その先に上木戸。
板橋が有る先へ行くと精進場川の野沢橋、街道右手は離山(はなれやま)。
街道を横切る小川が多く土橋が架けられていた。
「ねえ、おじさん」
「儂かい」
「熊野大明神から大分と坂を下って来たけどなんか高いどころにいる気がする」
「山中茶屋中りと同じだと客から聞いたことが有るだ」
「ええっ、あんな山の上と同じなの」
「そんだな、沓掛まで上りに下りで同じくらいなんだそうだぁ」
大野が昨晩広げていた安見絵図には川に架かる橋の右手に「八まん」、左手に 「一りつか 川向ひ古道」と有った。
馬方に聞くと「左浅間の手前で見えるで」という。
三十五里目宮之前一里塚が近いというので大野が遠眼鏡を取り出している。
馬方に四文銭五枚括りを「駄賃だ」と渡している。
大野は里程で渡す額を決めて居る様だ。
「なんで宮の前だね」
「昔は街道が川向こうの長倉様への参道じゃでね」
千年以上前からあると参詣の巡礼から聞いたという。
「祭神は」
「八幡様じゃ」
次郎丸は東山道の頃の古社だろうと納得した。
「あのあたり古道の跡だな」
そんな話をしていると街道が畝って本当に浅間は左側に見えるようになった。
湯川橋は木橋、陽は宿の向こうへ落ちてゆく寸前だ。
沓掛宿江戸口木戸を入ると用水路が街道の中から左手へ流れている。
用水路の右手へ入り土橋の先に市神の社が用水路の上にある。
そこで馬から降り、馬方とちくまやの三人は問屋場へ向かった。
「めずらしいわぁ。ここのは鳥居が有るわね」
「俺も始めてみたよ。普通はお社だけだもんな」
未雨(みゆう)夫婦は鳥居前で拝んでいる。
問屋場では三人が荷物を降ろして待っていた。
隣は土屋本陣、この先追分も本陣は土屋家だ。
前に高札場が有り石橋が有る、それを渡ると今日の宿の“ 鶴屋甚右衛門 ”脇本陣。
宿札が“ 白川藩本川次郎太夫様御宿 ”と出ている。
「お疲れですやろ。お風呂はすぐにでも入れます」
お芳と歳が同じくらいの女中が三人ほど率いて足盥を運んできた。
「皆様もお武家さまに女二人が混ざる旅でずら。四人さんで女二人と言う人は会いませんでしたか」
お辰(おとき)が「山中茶屋で見かけましたよ。今日は追分まで行くんだと先に出て行きましたよ。あたい等は熊野さんで大分差が出ていますので今時分ついてる頃だわ」と教えた。
「ありゃまぁ。見逃したかしんらね。二分儲け損なった」
「どうしたの」
「親戚の旦那が俳句好きで、今日明日にも来るはずだから来たら連絡をと頼まれたんですよ」
未雨(みゆう)は借宿の作右衛門旦那かと思ったが知らん顔で部屋へ案内された。
「飯の仕度はゆっくりでいいよ」
親娘で按摩を頼んでいる。
「女子しの按摩が二人居るで二人呼びますか」
「そうして」
吾郎は按摩が来ると次郎丸の部屋へ行った。
「本庄からばれたかな」
四人でなく九人と言いましたぜと言う。
「お客様ですよ」
未雨(みゆう)と同じくらいか小太りの男が遣って来た。
「おしんに二分やらずに済みました。明日狩宿宿へ頼まれて助に行きますんで土産を買う積りだったようでございます」
「どうして知れました。本川と知らせでも」
「いえ未雨(みゆう)一家とお武家が信濃へ向かったとは聞きました、春秋庵加舎白雄師匠に弟子入りした時からの付き合いでした」
「した」
「連絡も寄越さず信濃入りは呆れた所業。勘弁するには食事の後で一刻(百二十分)以上は茶屋でご詮議。本川様も付き合って下され」
笑っている。
承知した処へ食事の用意が出来たという「半刻後にお迎えを出します」と出て行った。
親子は別間で男は七人で食事をした。
おしんと言う娘は「九人さんとは聴かされていませんでした」と儲けがふいだと嘆いている。
未雨(みゆう)の事を知る江戸の者から「若さんと言う人のお供で草津と善光寺へ行くと聞いた」の話が先行したという。
“ 黄檗ぬのや
”とは遠い親戚だが、狩宿宿“ 黒源 ”黒岩源右衛門とも親戚、此処“ 鶴屋 ”とも親戚だという。
側の番頭が「取られたくは無いのですが“ 黒源 ”さんに家の旦那が頼まれまして」と口を利いた。
「こちらのおなご衆も軽尻(からじり)頼むので一緒にいくかい」
「付き合うべえ。くっちゃべる相手が居れば俺も飽きねえ」
上州弁に信州弁がまじゃるなどと言っている。
番頭に卯の下刻に出らるように軽尻(からじり)三頭の手配を頼んだ。
大野がいくらになると南鐐二朱銀を預けた。
「此のおしんの分は此方で」
大野は承知した。
“ ぬのや
”の使いが来て次郎丸は未雨(みゆう)と二人で附いて出た。
草津道の手前“ よしの
”という茶屋へ案内された。
留守の間に大野は宿から借りた案内記で道中の記録を千十郎と調べている。
沓掛街道
沓掛宿~五里二十六町十五間~狩宿宿
(借宿宿~三里十三町・もしくは二里十八町~須賀尾宿)
(須賀尾宿~二里三十町四十間~長野原宿)
狩宿宿~六里七町四十間・五里十二町四十間(三十一町差)~長野原宿
長野原宿~三里十八町~草津
十五里十六町五十五間・もしくは十四里二十一町五十五間(三十一町差)
二人はこれで納得した。
「明日は鼻田峠の峰の茶屋の一休みで十分だな」
万騎峠越えで三十一町差が出るのは道が付け替わったのだろうと二人は話している。
お辰親娘の部屋にはおしんが羊羹と茶を持参して押しかけている。
「二番目の姉が小諸へ嫁いでいるんでね、土産にきのんもろただに、あんだら草津にいきんしゃるなら、一番目の姉が開いた湯宿にもあたいが元気だとつげんしゃい」
「なんという宿なの」
「広小路の“ やまもと
”のおつねと言えば判るわ、すぐ傍にわたの湯が有るから女は便利よ。十五年前麓の小雨村と言う冬住みの里へ嫁に入ったに、一昨年湯宿を頼まれて引き継いだのよ。十一を頭に三人子供がいるのに半年は会えないのよ」
「冬住みの里って何かしら」
「温泉は雪が深くなると湯治客もぐんと減るがね。一里も辰巳へ下って春まで支度をととのえるだに」
姉が五人、兄は一人の七人兄妹だと話した。
おしんは十三、なぜ引き合いが多いかと言えば信濃に珍しく饂飩踏みの名人だという。
「今度も半月狩宿宿の“ 黒源 ”さまへ頼まれただの、ごしたいなんど言わずにいくっかいかずっしょ」
こりゃお江戸の人には難しかろうと「疲れたと言わずに行こうという事」だと言い直した。
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