第伍部-和信伝-弐拾玖

 第六十回-和信伝-弐拾玖

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

一芯一葉は産地によって微妙に違いだしてきた。

春前茶、もしくは一番茶で一葉(一芯ではない)を言うもの。

一槍一旗と称して一葉の下を切り離すもの。

正確に一芯一葉で摘み取るもの。

高級茶には違いないので、産地も厳密に一番茶の明前茶(雨前茶)を一葉と二葉に区別している。

特定銘柄茶をのぞき一番茶でも一芯二葉を選ぶ産地が多くなっている、名声にこだわらず量で売る方を優先しだした。

 

嘉慶十六年六月四日(1811723日)

宿の亭主が明日は大暑だと客と話している。

今日は朗旺(ラァンワァン)が朝から来ている、與仁(イーレン)とどういう日程で近辺を回るか話をしている。

フイフイ(回回)風呂は辰には開いているので、ひと汗かいて酒の気を払って、南門三市場を回って街の様子を見ようとなった。

四恩がふらりとやって来た。

「どうしたよ」

「蒸し風呂で汗を流して香槟酒(シャンビンジュウ)でも誘おうと思いまして」

「若旦那、遊び癖が付いたな。昼酒をさそうのかい」

朗旺に揶揄われている。

「イーフゥ(姨夫)にゃ、ビィティグェイ(鼻涕鬼)迄覚えられていますので困りました」

「十前でも銭三吊(三千文」担げる根性が有ったんだ大したもんだ」

「それもそうだ。いくら近場でも子供には大仕事だ」

與仁(イーレン)も銭の重さに泣いた一人だ。

朗旺も仕入れで苦労していたという。

「二吊荷へ入れると道中も大変でした。其れを厭(いと)えば、同行者それぞれが毎日銭と交換する必要がありました。今は銀票に銀(イン)の値が上がって銭をしょって仕入れに行かずに済みます」

「ほんとにそうだ。昔銭勘定の為に、五人は同行させないと重みで根を上げたもんだ」

四恩、子供のころから見た目より力仕事は得意の様だ。

前は鹽の俵、今は絹布を運ぶにも軽々とこなしてしまう。

六人で汗を流しながら昔話を又始めた。

「昔、三俣で降りて先へ進んで南の門から入ったが、昨日は気が付かなかったが塔の近くに古着の屋台店が有った」

此処十年で日湖の周りは様変わりして屋台店は無くなったという、今は南門跡か天主堂跡へ移っているそうだ。

「新調の吊るしの店を教えられて、哥哥が同行の者に買ってくれたが、古着屋が今までのを引き取らせて呉れというので売り払った覚えがある」

「よっぽど好い仕立ての服でも着ていたのでしょうね」

俺達の分でも銀(かね)一両付けたよと笑った。

風呂代は垢落としを頼んでも一人銀六銭、値がほとんど上がっていない。

リャンアル(两爾)は昼(午刻)開いて居ないので、宿に近い市心橋の酒店(ヂゥディン)へ向かった。

四恩が「ここにはいつでも香槟酒(シャンビンジュウ)が有ります」というのでその店に入った。

片道八十八里と聞いて船便を聞くと八丁櫓の三百石船ニャォシェンチュァン(鳥山船)が一、六の日にファンファジァン(奉化江)を上り、下りは二、七の日に渓口鎮を出るというので往復七日を予定した。

一同はドンファンファンディン(東鳳飯店)へ移り、四恩が急いで予約を取りに出た。

一刻もせずに戻って来た。

四人だけ予約が取れたという、片道荷は一担辺り銀(イン)四銭で、人は荷一担ぎで二十銭だという。

「なんて安さだ」

「天津で京城(みやこ)まで仕立てりゃ百両は最低取られるぞ、いくら乗り合いでも呆れるぜ」

「空けておくよりましだというのかよ」

四恩め困っている、せっかく予約を取ってきてこれでは浮かばれない。

「皆さん四人でだと一人留守居になりますよ」

宜綿(イーミェン)が笑っている。

「二人留守居だ」

「一人取り消しますか」

「そんな面倒な事しなくていいから四恩が来ればいい」

「えっ、そんなこと言ったって私じゃ案内も出来ませんよ。あのあたりほんの子供の頃一度行っただけです」

「荷物番と連絡係が必要だ。こっちの二人じゃ南北も東西も不案内だ、それに後から来る二人も誰もいないんじゃまごついてしまう」

與仁(イーレン)の手代は“捕まったぜ”と笑っている。

朗旺は船の出る市場のファンファプゥトォウ(奉化碼頭)で辰(七時二十分頃)の出会いを約束した。

「おい六時起きでやっとだぜ」

「どうせなら市場迄今晩のうちに来ますか。メィフゥ(妹夫)が酒店(ヂゥディン)を兼ねた宿をやっています。空いていなければわが家で夜明かしでも」

手代の二人を宿へ続けて泊らせ、荷をもってファンリィンシャン(幡菱祥)へ回った。

四恩のマァー(媽)へ朗旺は「姐姐(チェチェ)仕事で奉化縣渓口鎮まで行くんで四恩を五日ほど借りるぜ」と告げた。

玲齢は泊まりの用意を四恩に預けると、子供たちと表まで出て見送った。

朗旺は「いい子供達だな」とお愛想まで言っている。

玲齢は褒められて嬉しそうだ。

芳林酒店(ファァンリィンヂゥディン)は慌てて出ていく客とすれ違った。

「どうした弟弟(ディーディ)」

見送る店主に尋ねている。

「船の都合がついて遅れないように慌てて出て行きましたぜ」

「三部屋空いてるかい」

「今の客が出たので三部屋になった」

「そりゃ都合がいいこの人たちを明日の川登りの船に乗せるんで頼むよ」

宜綿(イーミェン)は蝦仁鍋巴(おこげのエビあんかけ)に油爆蝦(川海老の素揚げ)で酒が進んで居る。

「明日は歩く必要もないから酒が旨い」

「首領(ショォリィン)様はいつも理由を付けては酒を飲みますね」

「四恩、内緒だぜ」

「だれに」

「医者にだ」

「王神医(ゥアンシェンイィ)は京城(みやこ)ですよ」

與仁(イーレン)は面白そうに聞いて居る。

「そういえば朗旺さんは幾つだよ。息子の年からすると四十を越したくらいか」

「三十六になりました」

一番驚いたのは四恩の様だ。

「バァ(爸)と七歳も違うのですか。じゃ家に来始めたのは十六くらいでしたか」

「そうだ。まだ嫁を貰う前だ。バァ(爸)と喧嘩し、碼頭脚夫で働いて半分ドゥオルゥオ(堕落・ぐれて)たのを宇蝉(ユゥチャン)に助けてもらったのさ。湯閑(タンシェン)の旦那の口利きで親とも仲直りして、茶の仲買いの仲間へも入れてもらったんだ。当時は市場の使い走りだった」

話は碼頭(埠頭)の顔役や脚夫(ヂィアフゥ)の噂も出て賑やかだ。

妹妹が朗旺に「シャアグゥ(蛄・蝦蛄)があるけど食べます」と聞いてきた。

「もう旬は過ぎただろ」

「夕セリで子持ちが手に入ったんですよ。鹽蒸しか、大蒜と炒めると美味しいですよ」

「両方できる量はあるかい」

「一人三匹でよければ」

「じゃ頼むよ」

身はやせているが腹の子は食べ応えがあった。

水蜜桃の皮が剥かれたものが奇麗に並べられて出てきた。

「今が最盛期ですよ。上海からも来るけど、奉化縣渓口鎮の桃が一番だわ」

「マァー(媽)は熟れる前の堅いのが好きだが、これは香りもいいな」

兄と妹でひとしきり桃談議に花が咲いた。

與仁(イーレン)はまだ朗旺の家族の事を話させようと話を振った。

「嫁も湯閑(タンシェン)の老大(ラァォダァ)の紹介でね。あの家には頭が上がらない」

嫁は謝露衣(シャルゥイィ)、謝瑯旺(シャラァンワン)の四女だ。

湯閑の現当主湯亮誠(タンリィャンチャン)が象山縣の鹽行へ荷を届けた時、主の名が苟朗旺(ゴウラァンワァン)と似ているというところから話が弾んだ。

付近は塩田も多く鹽商人で結へ参加するものが十人ほどいる。

百石以下の船を作る船大工も多くいて、湯閑など寧波(ニンポー)の川船は此処象山縣で造られていた。

ミィ(米)の農家にダァドォゥ(大豆)農家が多くいて、肥料の大豆かすの重要も多く湯閑の仕事は多い。

南へ行けばシィプゥヂェン(石浦鎮)の港があり、湯閑(タンシェン)はそこから杭州(ハンヂョウ)の間が代々の漕運の持ち場だ。

イェンシィン(鹽行)の謝家は塗茨鎮傅家村に本拠があり、鑊肚皮島との間に多くの塩田を持っていた。

周辺の山では塩業に欠かせない燃料の雑木も植林している。

朗旺は湯亮誠(タンリィャンチャン)と鄭宇蝉(チョンユゥチャン)に連れられて謝家を訪ねた。

小姐(シャオジエ)の謝露衣(シャルゥイィ)に一目ぼれしたが、婚約した男が行方不明のままで行きそびれて居ると云う。

その時は話を聞いて諦めたが、思いきれずに惚れたとは亮誠に話した。

半年後行方不明の男が妻と子を連れて故郷へ戻り、礼を尽くしてウェイフゥンフゥ(未婚夫・婚約者)の破棄を申し入れてきた。

謝瑯旺は憤ったが家族が宥めて事なきを得た。

亮誠が訪ねた時はまだうっぷんが晴れていないときだ。

「寧波に年頃の男で引き受けてくれるものに心当たりはあるか」

「あるにはあるのですが」

「なんだ歯切れが悪いな」

「前に連れてきた朗旺という男ですがね」

「碼頭脚夫で働いて半分ドゥオルゥオ(堕落・ぐれて)いたのを贔屓したという男か」

「親とはよりが戻りましたが、定職というほどまともな職ではありません」

「相変わらず銭の仲介か」

「一応此方の下で肥料、飼料の仲買いをさせています」

「宇蝉と同じ商売か」

「そうです。親は茶の仲買いもさせようとしていますが、食い込むのは難しいですから」

「遊びはしないのか」

「酒の付き合いは多いですが、ばくちの話しは聴きませんし、妓楼へは行かないですね」

「年は」

「丁酉の生まれで十七です」

「十七で仲買いが務まるなら大したものだ。露衣(ルゥイィ)は丙申の十八で、年が上だが纏まるかな。食えるだけの嫁荷は持たせる」

「女は居ませんから纏めますよ」

幾度か人が行き来し、乾隆五十九年正月に婚姻した。

シェンリィン(絃林)の茶舗はバァ(爸)の苟聖旺(ゴウシュンワァン)が仕切っているので小さいながらも仲買いとした。

生活は成り立ち、嫁荷を減らすこともなかった。

倉庫脇に家を建てて住まわせてくれたので、子供が出来ても住まいに余裕は有る。


宜綿(イーミェン)と與仁(イーレン)は鄭四恩(チョンスーエン)、苟朗旺(ゴウラァンワァン)と一緒に、奉化県渓口鎮に住む箏芳のダァジィエ(大姐)寿蓮(ショウリィエン)の婿に会いに出かけた。

船は辰の鐘を合図に碼頭を離れた、上げ潮はこの付近でも上流へ上っている。

城内と違いファンファジァン(奉化江)は風も涼しく感じられた。

ヨォゥジァン(甬江)の潮汐は一日、十五日に差が大きくなり、サンヂィァンジァン(三江口)で昼間は午の下刻が満潮となる。

この地では満潮、干潮はそれぞれ二回起きる、潮差は銭塘江(チェンタァンジァン)ほどではないが一丈を越すことも度々起きている。

ファンファジァン(奉化江)はうねうねと曲がりくねっているが、北側の運河南糖河は直線で連なり所々河への出入り口がある。

潮は止まったが流れは緩やかで船足は早い。

「これだけくねってなければ三刻はかからないのですがね」

「いやくねった分水流が穏やかなのさ。この水がまっすぐ流れたら大変だぜ。大雨の度(たび)に寧波の碼頭(埠頭)は全滅だ」

碼頭の脚夫(ヂィアフゥ)は三千人いるという。

厳密にいえば、一芯一葉だと万の樹が有る茶畑で製茶十斤生産が可能と言われている。

一芯二葉と共に摘んでより分けるのが普通だ、一槍一旗と呼ぶ地域もある。

選らずに二葉で出す方が無難と思う茶商は多い。

二葉に一葉が有っても文句は出ないが反対なら信用は無くなる。

最近、葉だけにしてそれを一芯一葉と称して大量に売り出したものがいる。

朗旺の話しだと今年の取引先は一ムゥ(畝)製茶、明前茶(雨前茶)八斤、雨後茶九斤と最近の中では収穫が多かったという。

「武夷(ウーイー)に福鼎(フゥディン)では収穫を増やすについてチィェンニャオ(千鳥)の足跡のように植えているよ」

「酔っぱらいの喝醉了酒晃晃揺揺地走って事ですね」

「一列で植えたりまばらに植えたりしていては安茶では、もったいないと始めたようだ」

「実は息子たちとも話したのですが、来年にどの程度で引取れるかを約束できるのだろうかが心配です」

茶畑を増やしても簡単には収穫できない。

「名の無い茶でも質が良ければ、明前茶(雨前茶)一芯二葉百擔千二百両、雨後茶一芯二葉百擔千両、三番の雨後茶一芯二葉三葉混ざり百擔五百両。この位なら京城(みやこ)で売れる。後は味しだいだ」

「雨後茶でも一芯二葉なら十両に為るのですか。私が一擔六両でまとめたんですよ。二葉三葉混ざりでも五両なんて先を争って売り込まれますよ」

「雨後の二葉を九両で五百擔、混ざりは一擔四両で五百擔買えればボォゥチャフィ(博茶会)銀(イン)五銭、興藍行で銀(イン)五銭手に入る。扱えれば同じ船で送れば運糟費用も出る算段だ。雨後の二葉が安けりゃ儲けが増える」

此処では三番一芯二葉三葉混ざりは四番と変わらぬ取引と言われているようだ。

混ざりも四番も一擔三両で仲買いは買おうとしている、買わせて三番の混ざりを引き取る手もある。

與仁(イーレン)も手を出したいが、数が少なすぎては安く手に入れても運糟で赤字に為る。

「平地に近かけりゃ明前茶(雨前茶)を一番、二番とはや摘みの手もある」

年寄りは嫌がりますぜと朗旺が考えている。

「明前茶なら二百擔でも商売になる。寿眉(ショウメイ)だって七年前、俺達が最初に買ったときは仲買いを通していて京城(みやこ)で七両近くになった。今は仲買いというより元締めと同等になれたが、儲かるまでが大変だった」

問屋の鄭興(チョンシィン)が寿眉(ショウメイ)一芯二葉三葉混ざり百擔六百六十両でも商売に出来るほど漕運に費用が取られていた。

漸く儲けが出たのは大量買入れと大量漕運の仕組みが出来てからだ。

鄭興(チョンシィン)に常秉文(チァンピンウェン)が京城(みやこ)渡し百擔七百五十両での大量買い付けを約束してくれたのも大きい。

嘉慶六年には崇安(チョンアン)の仲間から河口鎮渡しで契約した。

河口鎮の需要に合わせ、近在では前々から茶畑を増やしていたので交渉は楽にできた。

今から思えば相当安値で売ってもらえた時代だ、広州(グアンヂョウ)へ送りたくでも手段が追い付いていなかった、その後は需要に合わせ銘柄茶はほぼ倍の取引値だ。

武夷半岩茶(ウーイーパァンイェンチァ)肉桂(ロォゥグゥィ)

明前茶一芯二葉-百擔一万二千斤、一擔八両。

(六両・脚夫(ヂィアフゥ)二両)

武夷洲茶(ヂォゥチャ)

明前茶一芯二葉-五百擔四万八千斤、一擔三両五百十銭。

(二両五百十銭・脚夫(ヂィアフゥ)一両)

今こんな指値をしたら笑われる、同量をもう一軒が請け負ってくれ、さらに増やす約束も出来た。

「噂では河口鎮の扱い量はこの十年で倍になったと聞きますが、こっちへの買い付けは来ていません」

運糟船の南下禁止がある以上寧波(ニンポー)が昔のように貿易港にならなければ無理だと話し合った。

「河口鎮はまだまだ取引が増えるよ。周りの茶商が五倍は堅いとみている」

「そんなに売れますか」

「話じゃ十倍くらいは売れるとみる広州(グアンヂョウ)の貿易商もいるそうだ」

「ここからじゃ運ぶ費用で太刀打ちできませんね。

「せめて三番を千擔生産できれば仲間入りも可能だが」

「どのようにやればできるのです」

「福州から南京へ三千石船で運んでいるのを、寧波へほかの商品を千擔分積んでくれば積み替えれば済むさ」

「それに見合う買い取り価格は」

「送り出すときに五両迄だな。河口鎮取引で八両を越したら勝負は出来ない」

朗旺もいろいろ考えてみたが広州(グアンヂョウ)へ送るだけの生産能力は寧波(ニンポー)には無いとがっかりしている。

碧螺春(ビールゥオチゥン)、白毫銀針(パイハオインヂェン)、武夷肉桂(ウーイーロォゥグゥィ)と張り合うのは杭州(ハンヂョウ)龍井茶くらいしか思い浮かばない。

寿眉(ショウメイ)、武夷洲茶(ウーイーヂォゥチャ)、婺源仙枝茶(ウーユアンシィェンヂィチャ)の三番に数量、価格で対抗するには運送費の問題を解決しなければ無理な話だ。

「どうだい。数が纏まらないと無理は判ってくれたかい、婺源仙枝茶の有利な点は河口鎮で書類を纏めれば、船の積み替えをしなくて済むという利点があるんだ」

寧波には確かに名の通った茶はあっても二十擔程度では勝負は出来ない。

河口鎮の會館や同業の扱い量も増え、與仁(イーレン)達新興の仲買いと軋轢は起きなかった。

茶の運糟費削減に船での南下も海賊騒ぎで申請するものも十年以上出ていない。

広州(グアンヂョウ)十三行、イギリス使節も、もう諦めたのだろうか。

河口鎮は年々取引が増え、仲買いの世話をする會館は新設の準備に入っている。

建昌會館-在河口四堡。乾隆十四年

浙江會館-在河口三堡。乾隆三十八年

南昌會館-在河口三堡。嘉慶二年

施徳會館-在河口三堡。嘉慶七年

贛州會館-在河口一堡。嘉慶十五年

「船の南下禁止が解けなければ経費倒れとみているのさ。俺達は福州から脚夫(ヂィアフゥ)で送り切れない分を三千石船で南京(ナンジン)へ送り、そこから河口鎮の港へはいれる船で送っている。ここ寧波で京城(みやこ)や上海(シャンハイ)へ送るにも五百石船が仕立てられなきゃ儲けに繋がらない、大運河に許された千石船で、河口鎮(フゥーコォゥヂェン)から京城(みやこ)へ一擔十両と言われる漕運を两両に抑えることができた」

朗旺にも扱ったことのない大きな取引になりそうだ。

「二万四千斤は必要ですか」

「一擔二両の漕運費で四百両、船代を出したら儲けが減るだけだ。倍は載せる必要がある」

「それで三十万斤と話があったわけですね。三千石船で天津(ティェンジン)へ運べば大分浮きますね」

ざっと千五十擔(十二万六千斤)一度に運べば两両でも船代は出る。

船問屋は千石船でも五割増しの千五百石(六万二千六百五十八斤)分の荷を積む、四恩にもようやく大きな数字が呑み込めたようだ。

余姚(ユィヤオ)邸の先生は和国の千石船は此方の二千石と称する船と同じだが、どちらの国も小さくとも“千石船”と名をつけるという。

船を買うか借りる取引をするときは、船の長さと幅を知るのが重要だと教えた。

「船問屋をお仲間に入れて成り立つ話だ、沿岸は半分東源興(ドォンユァンシィン)に頼っているのが現状だが、地の船問屋を入れなきゃ成功は難しい」

「ということは、河口鎮や福州(フーヂョウ)の船問屋も加わっているのですか」

「南京、河口鎮、福州それぞれに地付きの茶問屋、船問屋も加わっているよ。俺達は現状を壊さず、増やせる分を取り扱わせてもらっている。ここでもそうするつもりだ」

 

二か所ほど波止場へ着け、人や荷の積み替えがあった。

水夫たちが交代で遠くに見える廟を拝んでいる。

「ティンハウミュウ(天后廟)でもあるのかね」

「土地の神様ですよ。宋の時代、今から八百年ほど前の縣令が祀られています」

世顕を祀る䔥王廟だ、蝗害、水害から近辺を守り、過労で殉職したと伝わる、寧波の粛王廟と同じ神だ。

「城内にもありますが、ここへも来たことありますよ。確か三か所回った気がします。年末の寒い日でした」

あとは溪口鎮董村霊廟と渓口鎮上白村西祠廟がある。

七歳の頃に祭りの日に親子三人で来たという、髭の赤い顔の神様と多くの額を見上げた覚えもあり救賜綏寧王 ”の扁額が青いので特に記憶に残ったという。

「その額はあそこの廟にかかっているよ。何をしに来たか覚えているかい」

ミィルァ(弥勒)と言われるブゥダァイ(布袋・チィスゥ契此)が修行した渓口鎮山中の寺へ来たという、バァ(爸)の知り合いの土地の人に会った覚えも有るという。

「後、この付近から二十里ほど東の湖の近くの寺では、ここで亡くなったという大きな岩を見ました。丸っこい岩で上がわずかにへこんでいました」

寺号を覚えていない四恩に「山中が雪竇寺と言われる雪竇山資聖禅寺と湖の近くは岳林蝉寺だよ」と朗旺が教えた。

岳林蝉寺は人が少なかったが、山中の雪竇寺は参詣人が多かったと記憶していた。

雪竇寺の北麓が四明山鎮(四明山東北)、付近の茶商は“四明十二雷”の名を誇る。

布袋は死後もその姿を視たと言われ“景徳傳燈録”で世に禅者として知られた。

伝灯録巻二十七

“蹙額皤腹出語無定、寝臥随処、常以杖荷一布嚢、凡供身之具尽貯嚢中入鄽肆聚落”

弥勒の事を布袋が話したと伝わる・契此(チィスゥ)通称布袋(ブゥダァイ)

於嶽林寺東廊下、端座磐石而説偈曰。

嶽林寺東廓の下、磐石に端坐し偈を説く。

弥勒真弥勒

弥勒、真の弥勒

分身千百億   

身を分かつこと千百億

時時示時人

時時に時人に示すも

時人自不識

時人自ら識らず

偈畢安然而化。

偈(げ)畢(お)わりて、安然として化せり。

嶽林寺-岳林蝉寺・始建于梁大同二年536年)。

 

朝宗禅師語録

“杭州径山の大慧禅師 宗杲和尚、頌に云く。「不落不昧、石頭土塊、陌路に相逢ふて、銀山粉砕す。拍手呵呵笑ひ一場、明州箇憨布袋有り。」”

大慧宗杲(10891163)・大慧宗杲著『正法眼蔵』三巻。

葛飾北斎-布袋 ・hokusai-budai

 

その時は桃園にも回ったと記憶していた。

邸へ勤めた時、趙(ジャオ)哥哥こと趙延石(ジャオイェンダァン)はその桃園を知っていた。

邸では昔からの桃の木(三十本)に奉化縣渓口鎮の桃の木(二十本)、上海(シャンハイ)水蜜桃(三十本)、パァンタァォ(蟠桃・二十本)、和国の桃の木(十本)が邸の東西南北に分けて栽培されている。

挿し木で増やしたもの実生の物とで趙(ジャオ)哥哥と舒慧蓮(シュフゥィリィェン)は桃の畑地を三倍に増やしている。

十日の間に親子三人で近在を回るのに貸し馬を借りた記憶もあるという。

馬喰が付いて賑やかな道中だったという。

 

この日海燕(ハイイェン)はフゥチャオ(浮橋)の東へ出かけた。

何時も来る洗い場の老媼(ラォオウ)二人に誘われて七塔寺へ参詣に行くためだ。

旌(ヂィン)は五十五歳だという、陳(チェン)は五十二歳、ともに寺から二里ほどフゥチャオ(浮橋)寄りの灰街で生まれ育ったという。

フゥシィアンチェン(胡香蝉)の家とも近いので父母(フゥムゥ)の顔は知っているようだ。

ヅゥウェイヂィエ(紫微街)の南端の牌楼で辰(七時二十分頃)の約束をした。

二人が大尚書橋を渡り、島を伝って向こう岸へ出た。

牌楼の脇で五人ほどがシゥィイェン(水烟。水煙草)の回し飲みをしている。

喫煙というより水烟は飲み物でも楽しんでいるように見えてしまう。

二人は立ち上がって此方へやって来た。

辰の鐘が聞こえだした。

「時間が正確だね」

「こんな朝から暇な人が多いのね」

「あの人たちはもう一仕事してきたのさ」

「何してるの」

「聖宮の境内の掃除さ。手当は安いけど、其れほど汚れていないから楽だそうだよ」

二人が抜け道を案内し、君子営の北側に出て、東嶽廟の裏から靈橋門(東南・浮橋)へ出た。

フゥチャオ(浮橋)を渡って右手斜めの道筋が灰街だという。

一里ほど雑多な物売りの荷車が並び、その間に山門が見えた。

朝から参詣人は列をなしている、ざっと六十人はいる様だ。

門前の七つの大きな佛石塔にちなんで“七塔寺”と呼ばれていると陳(チェン)が教えてくれた。

門番に銀(イン)八銭渡して案内を頼むと若い僧がやって来た。

案内の僧は「七塔報恩禅寺で開基は千年前」だと教えた。

蔵経宝閣、大悲弥陀殿は三百五十年ほど前、仏殿、山門、鐘楼等が再建されたのは百五十年ほど前だという。

案内の僧が鐘楼の二つある大きな銅鐸(銅鐘)は一つ八千斤あると教えてくれ、大勢の参詣人と背比べをして観た。

大雄寶殿には金ぴかの仏像が置かれている。

左の觀音殿には観音大士の立像が有、右の地蔵殿には地藏王菩薩立像。

他にも多くの仏像の名を話してくれたが、どれがどの佛か覚えきれなかった。

案内の僧はまだ様々な建物を回れるというが礼を言って門へ戻った。

四人で相談して香蝉の実家を回って帰ることにした。

饅頭の店は中でも食べられると聞いて茶と肉餡入りを頼んだ。

一休みして身じまいを整え、店を出ると、前の屋台店で菓子を土産に買い求めた。

二里ほどで実家の通りに出た。

店構えは小さいが脇に工場が有りバァ(爸)とダァグァ(大哥)が大きな壺をこしらえているのが見えた。

弟弟(ディーディ)二人も何か小さな細工物を作っていた。

店へ入りマァー(媽)に「元気」と陽気に声をかけた。

「もうじきバァ(爸)の手が空くからそこへ座ってお待ちよ。海燕(ハイイェン)も急ぐ必要もないでしょ」

何時もながらぶっきらぼうな親子だ。

旌(ヂィン)達は土地者の気安さで勝手に椅子(イーヅゥ)へ座っている。

「お土産よ」

香蝉が手渡して湯を沸かしにチゥ(厨・台所)へ出て行った。

シゥイフゥ(水壺)の素敵なものが棚に飾ってある。

「これは見本なの。売り物なの」

海燕は見とれている。

「売り物ですよ。一番上が銀(イン)五十銭、中が三十五銭なんです」

「そんなに安く売っては駄目よ。貧乏人には高すぎるし、金持ちには安すぎるわ」

「どういうことですの」

「金持ちは良いものを安く買いたいのは確かよ。でもそれは銀(かね)五十両の物を四十両で買いたいの。銀(かね)五両が四両では買いたくないのよ」

「でもこれが五十両は無理ですわ」

「同じものをたくさん揃えられるなら買い手を紹介するわ、似たものでもいいのよ、だけど百は必要ね。ここで集めることができるなら銀(イン)五十銭で百口銀(かね)五百両、銀(イン)三十五銭で百口三百五十両。資金が必要なら銀票を預けるわよ」

「小売値段でもいいの」

「差額は此処の手数料よ」

香蝉のバァ(爸)とダァグァ(大哥)が興味深げに聞いて居た。

「どうすれば五十両なんてシゥイフゥ(水壺)にするんだね」

「例えば蓋の飾りをソォンシゥ(松鼠・栗鼠)にするなんて工夫がいるわ。広州(グアンヂョウ)へ売り込むなら胴にも樹の模様をつけるとか、いかにも大げさに飾り立てる事ね。湯が冷めないように小さなフゥオペェン(火盆)と組み合わせるのもいいわね」

「そんなことでいいのかね。普段使いには向かないな」

それはそうだわと海燕も相槌を打っている。

香蝉がお茶を全員に淹れてくれた、いい温度で飲みやすい。

「お客に見せるか、もしくは私はこんなに高いものが買えて普段使えるのよと自分に満足するの。例えばブゥダァイ(布袋・チィスゥ契此)を付けてお酒を温める、フゥルゥショウ(福禄寿)をつけて長寿のお茶とかね」

「ショウラォレン(寿老人)もいいかもしれんね」

バァ(爸)の言葉にダァグァ(大哥)も賛成している。

「三人並べれば全部ほしくなりそうだ。いいかもしれないな」

「八仙人(シィェンレン)は大げさでもフォウシェングゥ(何仙姑)も入れたら」

マァー(媽)も興味が起きたようだ。

「和国では七福神というのがパァシィェン(八仙)の替わりに有ってね、ビィェンカァイティン(辨財天)がフォウシェングゥ(何仙姑)の替わりなの」

「やれそうなのは男三人、女二人で五種類だね。銀(かね)三十銭上乗せで作れるよ」

バァ(爸)は乗り気だ。

「いいわ。上乗せで買い上げるわ。広州でどちらが売れるかも興味があるわ。辨財天は和国ではピィパー(琵琶)を抱えている姿よ。絵姿は家に何枚かあるから一枚届けるわ」

「それ、手は何本あるかね。インドゥ(印度)の絵では孔雀を従えて楽器を持つ手が四本あるのを見たよ」

「和国でも六本に八本のもあったけど二本の方が自然でいいわ」

「それ頼むよ」

サラスヴァティーは各国様々な姿で具現されている。

漢人はビィェンカァイティン(辨財天)を財寶神の一人として捉えるくらいで、和国ほどの信者は居ない様だ。

バァ(爸)が知っているのさえも海燕(ハイイェン)にとっては驚きの一つだ。

マァー(媽)も他の者も、二人の言うビィェンカァイティン(辨財天)がだれかわからない様だ。

「インドゥ(印度)の川の女神で音楽と財宝を司ると聞いたわよ。スラバヤでは女の人の信者が多かったわ」

「この辺りじゃ祀られてないよ」

ピィパー(琵琶)に似たヴィーナを持つ絵姿も、交易港から外れた寧波(ニンポー)には残っていない様だ。

昔はインドゥ(印度)からの交易船も多く来ていたのだ。

「やっぱりブゥダァイ(布袋・チィスゥ契此)の人気が有りそうね」

「この付近じゃ隣の親父位に思われてるからな」

ダァグァ(大哥)と弟弟(ディーディ)二人がリャンアル(两爾)へ付いて来て、絵姿に資金を預かることに為った。

 

ジィシャンティン(ラクシュミー・吉祥天)とビィェンカァイティン(サラスヴァティー・辨財天)は混同されやすい。

シュリー・マハーデーヴィーこと吉祥天はヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃であり愛神カーマの母とされている。

他方辨財天はヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻とされた。

和国では本地垂迹説により神々と佛を同一として信仰させた。

市杵島比売命=弁財天だが、この説により次の組み合わせも行われ、混同は広がった。

辨財天真言-オン・ソラソバテイエイ・ソワカ。

吉祥天真言-オン・マカ・シュリエイ・ソワカ。

七面天女=吉祥天。

七面天女=弁財天。

七面大明神・七面天女=法華経を守護するとされる女神。

この図式で次の混同が産まれている。

市杵島比売命=弁財天=七面大明神・七面天女=吉祥天。

辨天は宇賀神とも習合し、宇賀弁才天として、様々な神と同一視されていった。

瀬織津姫といわれる古事記・日本書紀には記されていない神が居られる。

祓戸大神の一柱だが、お名前が商標登録されていると云う。

“倭姫命世記”などには内宮別宮荒祭宮の祭神の別名とされておられる。

この神を辨財天(辯才天)と同一視される人がいるそうだ。

 

山影に陽が落ちかかるころ(午後七時頃)ファンファシェン(奉化縣)シィカオチェン(渓口鎮)の波止場に停留した。

イェタァイユェンプゥ(玉泰塩舗)という店舗の前を一里ほど東北へ道なりに行くと、朗旺が利用するシィカオヂゥディン(渓口酒店)という宿を兼ねた店へ入った。

「四人泊まれるかい」

「一部屋でいいなら寝床は用意できるよ」

「どうしますか」

宜綿は「構わんさ。與仁の鼾を我慢すればいいだけだ」と承諾した。

ファンファユェナァイトォウ(奉化芋艿頭)の時期だという。

主は似ているけど似ていないと禅語のようなことを言って何種類かの芋料理を勧めて来る。

猪肉(豚肉)のユェナァイトォウパァイクゥボォ(芋艿排骨)は白濁の湯も旨い。

猪肉(豚肉)のユェナァイトォウコウチョウボォ(芋艿頭扣肉)はハァォイョウ(蚝油)にシァォシィンヂウ(紹興酒)が使われていた。

共に手が込んでいて味わいがあると宜綿と與仁は大喜びだ。

小麦の粉を練って重ねて焼いたものに岩海苔の粉と胡麻を振りかけた餅は、酒の摘まみに適していた。

翌朝、朗旺が宗風の都合を聞きに行くと、作業の後、未の刻(午後二時二十分頃)当たりに酒店(ヂゥディン)へ行くという。

チャンソンフゥン(張宗風)は話の通りの頑固者だ。

「安茶の仲間には入りたくない」

白茶一ムゥ(畝)で荒茶七十斤には怒りだした。

「製茶で十四斤だと、寿眉(ショウメイ)なんて茶の同類などごめんだ」

與仁(イーレン)が話した茶畑に植える樹の本数にも不満を言う。

「一ムゥ(畝)五十六本だと。お前ら狂ってるんじゃないのか。一ムゥ(畝)の広さを教えてやる」

一ムゥ(畝)は十六歩に十五歩だという。

「七十五尺に八十尺くらいは知ってるよ。十六本の七列百十二本が最大だろうと俺たちは考えている。それを千鳥に植えて半分が最適と判断して崇安(チョンアン)に福州(フーヂョウ)では安茶の畑を増やして広州(グアンヂョウ)の要求にこたえている。ここでそれが出来れば京城(みやこ)へ安く送ることができる。いまの京城(みやこ)は安茶を広州(グアンヂョウ)に取られて街の者が呑む安茶さえ不足している」

「なんだと。良い茶を高く売るんじゃないというのか。安い茶を京城(みやこ)の者に飲ませるだと。慈善のつもりかい」

「儲けは大事だ。俺達も儲けるが贅沢をできない奴らに、安茶でも旨い茶を回したいのだ。京城(みやこ)は今、驚くべき速さで人が集まってくる」

これから挿し木し、茶畑を増やしても四年後の収穫だと話はそっちへ向かった。

「銀(かね)も時間もかかる。今の畑では遣る奴は居ない」

「それは承知だ」

「どのくらい引き受けられるのだ」

「製茶三十万斤」

「二千五百擔、味、風味を揃えろというのか」

「そのため、指導者に配合師がいるのだ」

やはり茶の話しとなると詳しく知りたくなったようだ。

「相当広い範囲でやらないと無理だぜ」

「一ムゥ(畝)十斤から始めると三万ムゥ(畝)」

「無理ばかり言うじゃないか」

百ムゥ(畝)の農家三百家となれば奉化縣全体に広げるようだ。

十二ムゥ(畝)でようやく一擔の製茶、四両では副業でしかない。

一家二十擔ならどうにか食う事が出来る、四十擔で専門の茶農家と言える。

張宗風でさえ三百ムゥ(畝)で二十五擔でしかない。

「ちょっと待て。お前さん安茶の事ばかりで、明前茶に雨後茶の一芯二葉に触れていないぞ」

「気が付いたか、その分は高く売れる、四番が摘み取れるなら捨て値でも日銭稼ぎくらいにはなる。寧波(ニンポー)の業者はツァイ(乳茶)用のツェンチャ(磚茶)に安く買おうとしている」

脅かしやがると笑い出した。

一番、二番で三十六ムゥ(畝)製茶三擔の六擔でも農家に一擔五両以上になれば家族を養える。

二番、三番を與仁達、四番をツェンチャ(磚茶)業者と話した。

「四年持ちこたえる資金はあるのか」

「銀(かね)二千五百両は保証できる」

「一家二十両で百家だと年二千両必要だ」

「お前さんも相当無茶だな」

「無理は承知だ。百ムゥ(畝)以上茶畑に出来るのが、そのくらい居るということだ」

宜綿(イーミェン)は苟朗旺(ゴウラァンワァン)に相談した。

「今年の分は間に合うが。来年分だ。老大(ラァォダァ)に房恒徳(ファンハンドゥ)の方を早めに結へ入れるようだぜ」

「なんだと。結の後押しもあるのか。ガンションディ(干兄弟)の聖亨もこの仕事に絡ませるのか」

「俺の老大(ラァォダァ)だ気に入らんのか」

「いや、あれが絡むならお前さんより信用できる」

「ひでぇ事言いやがる」

婚儀には夫婦で参列もしてくれたのだ。

四恩が買い出しから戻って来た、宗風は“おや”という顔で見ている。

「朗旺と親戚になると聞いた時は悩んだぜ。宇蝉が紹介してきたから付き合うくらいのもんだ」 

「この男が宇蝉の老大(ラァォダァ)だぜ」

「なんだと、四恩か道理で見覚えがある顔だと思ったんだ」

「本堂の布袋の画前で寺の事など教えてくれた方ですね」

「覚えていたか、十五年以上たつはずだ」

「七歳の時ですから十七年になります」

「お前もこの話に絡んでいるのか」

「千両投資しました」

「儲からんぞ」

「十年で元が取れれば十分です」

「驚いたな朗旺の仲間は俺の姻戚で固めやがった。良いよ仲間に入れてくれ」

與仁(イーレン)は驚いて聞いた。

「四恩とも姻戚なのかい」

「四恩から聞いて居ないのか」

「おれ、姻戚ですか」

四恩も驚いている。

「遠縁には違いない、俺の張(チャン)家とお前の鄭(チョン)家は血縁があると言われている。どの辺りかは聞いたことは無いがな」

「どこかで嫁を迎えたくらいかね」

宜綿も気になって聞いてみた。

「そうだろうな。宇蝉のバァ(爸)も詳しく知らずに俺のバァ(爸)と付き合っていたくらいだ」

「爺爺(セーセー)は前葛村(チィェングゥツゥン)の出と聞いて居ますが」

「そうだよ。四恩と逢ったのも䔥王廟へ来た時のことだ。親類は俺くらいしか居なくなっても桃の仲買や茶の取引などの商売柄何人かと付き合いは有った」

今は銭の値が下がり、銀(かね)に価値が付いたが、五十年以前は八百文と言われた時もあった。

税の納付は銀(かね)だが、あくどい役人は其の銀(かね)を銭千文に交換させて差額を懐に入れた。

そのために銭をかき集める商売人の必要が有ったが、銭が安くなりうまみも消えた。

宇蝉達はその最後の生き残りだったようだ、儲けで生活が成り立つ時代では無くなりつつあった。

土地の鹽行は真っ先にその交換をさせられる、認可と引き換えを匂わされるのが一番効く遣り口だ。

知県で税二千両の地方なら交換だけで四百両手にした時代もあったという。

国庫への納付分は銀(かね)なのでまたいくらかは上司への賄賂になる。

知県の養簾銀は千二百両、知府ともなれば倍の二千四百両支給された。

これが武官だと一品総督でも二千両に過ぎない。

「俺たちの仲間はボォゥチャフィ(博茶会)という組合を作った。宗風が参加してくれるなら自前の製茶場を幾つか用意したい」

「俺も資金を出すようなのか」

「結へ入る気が有れば推薦する。そうしてその銀(かね)で製茶場を運営すればいい」

「いくら資金を提供されるんだ」

「十人が推薦して一人千両」

「そんなに推薦人がいないだろう。おりゃ意固地のへそ曲がりと評判だ」

「岳父(ュエフゥー)と四恩が一筆書くさ」

「後八人もだぜ。そんなに結の奴に知り合いは居ない」

與仁(イーレン)はここぞと一押しした。

「俺と俺の仲間の茶の仲買いで集める」

「やっぱり結の奴らはおかしな奴ばかりだ。千両十人儲かるはずもない」

「だから、儲けが先ならこんな面倒な事やりゃしないさ」

「聖亨の方の推薦人は居るのか」

朗旺が話に入った。

「聖亨の老爺(ラォイエ)の方へ問い合わせしている。五人はすぐ集まるはずだ」

順番はシェンリィン(絃林)苟聖亨とランシァン(蘭祥)房恒徳を入れてから張宗風を推薦することにした。

與仁(イーレン)は三枚の証書を書いて四恩へ預けた。

四恩も三枚書いて一緒に仕舞った。

「手回しがいいな」

「こうなると思ってさっき四恩に紙を買いに行かせた。寧波(ニンポー)を出るときそこまで気が回らずに出て来たんでな」

「ところでボォゥチャフィ(博茶会)というのは何人いるんだ」

「與仁さんの代人を宝玉と箏芳が。朗旺さんが差配人、助で聖亨さんと恒徳」

「四恩はどうして入らない。それと宝玉に恒徳というのは誰だ」

「私は銀(かね)だけ参加しました。もう一人銀(かね)を出していますが、口出しはしません。宝玉は恒徳の嫁で箏芳と同輩です」

もう少し詳しく聞かせろというので、自分のこと、余姚の邸から公主府、蒙古の事を話した。

結は江南で鹽業、漕運が多くいて質金融は少ないと話した。

「此処の鹽行も入ってるのか」

「奉化縣渓口鎮には聞いたことないですね。私のマァー(媽)の実家が紹興の鹽行で、そこで帳付けしてた時も聞いて居ませんよ」

しばらく話してから明日前葛村の茶畑を見に行く約束をした。

「そこでだ、気になったことがまだあるんだ」

「なんでしょう」

「もう一人資金を出したという男だ。危ないやつじゃ困る」

「実は女の人です」

「女でそんな度胸のある人がいるのか」

「私の恩人のウェイフゥンチィ(未婚妻・婚約者)なんですよ」

「会うことは出来るのか」

「寧波に居られますから、おいでに為ればいつでも紹介します。お仲間へ入られて知らないままでは気になるでしょう。こちらへ来るのは仕事が有るのでちと無理のようです」

此方の話しがある程度進んだら寧波(ニンポー)へ出てくるという。

朗旺が銀票を取り出して二十両十枚に十両十枚を渡した。

「三百両でしばらく活動してくれ。必要が出れば俺の店へ連絡を頼む、しばらくはシェンリィン(絃林)をボォゥチャフィ(博茶会)の連絡場所にする。家の方の話し合いが付けば、老大(ラァォダァ)に店を任せてほかの子供たちと夫婦で別家する」

「城内は面倒だから市場と碼頭の付近にしろよ」

「そうするつもりだ。倉庫も用意するようになるのでな」

「今のは駄目か」

「あそこでは狭いよ。二千擔は置くようになるつもりだ」

「奉化縣だけじゃそんなに期待できないぜ」

「杭州(ハンヂョウ)からこっちとタイジョウ(台州)ドゥチャオジェン(杜橋鎮)から此方と売り込まれてはいるんだ」

「天台山雲霧茶でも狙っているのか」

「そういうのは昔からの仲買いに任せるよ。華頂山には係るつもりはないよ」

「安心したぜ。高望みしての諍いはごめんだ。ところでそちらの武術家のように見えるお方は無口ですね」

「おれか、茶は好きだが商売は苦手でな、最近は看板書きで号のヨォウグゥ(有谷)の方が通りがいい」

首領(ショォリィン)様の方が仲間内では通用していることはまだ與仁も黙っている。

「有谷先生、さぞかし腕が立つんでしょうな」

「俺より腕の立つのが来ているんだが、まだ寧波(ニンポー)について居ないんだ。他の荷をそろえるのに手間取って汕頭(シャントウ)へ置いてきた」

蘇(スゥ)老師と手代の乗る船がそろそろ寧波(ニンポー)へ着く時分だ。

白茶にするのは自分の茶畑の物はパイハオ(白毫)が有るので、そのままでも通用するが、白毫銀針(パイハオインヂェン)の一芯二葉の名を変え、一芯一葉上級茶をのみ白毫銀針(パイハオインヂェン)と名乗らせると聞こえて来るという。

「白毫銀針と寿眉の間に名をつけるという事かい」

「どうやらそのようだ」

「しかし一芯一葉のみで商売が成立するほど収穫はないだろう」

「献上茶にして残りを一斤三十両と聞いた」

その話が葉だけにして一葉と売り込む業者の手口と似ている。

「福州で昔使われた手と似てるな」

「偽の鳳凰をつかまされた話か」

「聞いたか」

「豊紳宜綿(イーミェン)様という方と豊紳殷徳(インデ)様が協力して偽を暴いたと聞いた」

四恩がたまらず「首領(ショォリィン)様」と声を出した。

宜綿が一度にらんだだけですくんでしまった。

宗風はそれを見て「四恩、何が言いたいんだ」と聞いた。

「ははは、こいつ俺の正体を言いたくてたまらぬらしい。俺の本名が豊紳宜綿なんだ。今回は俺の出番はないので知らないだろうと黙っていたんだ」

「ヨォウグゥ(有谷)先生が豊紳宜綿(イーミェン)様ですか」

寿眉を売り込みに来た仲買いが“玉麒麟”の大活躍宜しく、教徒の反乱の時の大活躍から福州(フーヂョウ)での大捕り物、鳳凰鎮(フェンファンチェン)のあらましを講釈師宜しく吹聴したという。

「金剛力士(ジィンヂィリィシィ)か張飛(ヂァンフェイ)の生まれ変わりのごとくに話すので、こんなメェイチャンフゥ(美丈夫)なお方とは想像してもいませんでした。それにお若い」

二十歳そこそこで四川での大活躍など皆が驚いて当たり前だと與仁が教えた。

「そうでしょ。私の頭の中の宜綿様は髭面でもっと年が上の方です」

褒められているのかがっかりしているのか、よくわからなくなった。

四恩めここぞとばかりにしゃしゃり出てきた。

「お仲間になったんですから首領(ショォリィン)様の由来も話した方がいいですよ」

「仕方ねえ奴だな。このお調子もんが。おまえの好きなように教えていいよ」

話し終わって四恩はすっきりしたようだ。

「茶の話しに戻るがニンポーバァイチャ(寧波白茶)とするにはそれなりの特徴が必要だぜ」

「明前茶一芯二葉は茶畑の特徴重視、雨後茶一芯二葉と三番の混ざりを統一しようと思う」

「明前茶(雨前茶)は今までの仲買に任せるというのか」

「共同の買い付けを望むなら博茶会へ誘えばいいことだ」

「俺たちの情報では平地に近いところでは清明節までが一番茶、穀雨前が二番茶とした方がよさそうだ」

「山間部より先に摘めという事か」

「そうした方が葉先は柔らかい」

「だがそうすると揉捻に耐えられないぞ」

「揉捻をしない」

「なんだと」

「だからバァイチャ(白茶)とするんだ」

屋外、もしくは屋内で萎凋(クゥェイ・ウェイ)させて発酵させるのだ。

清明節までが一番茶、穀雨前が二番茶ともに明前茶(雨前茶)となる。

三番茶が雨後茶の一芯二葉、三葉混合でそこがボォゥチャフィ(博茶会)の主力とする。

宗風はだいぶ考えていたが「茶樹の本家で争うよりバァイチャ(白茶)の本家になるか」と決断した。

「俺のところを親樹にして仲間へ分ける。それでいいだろうか。もちろんそのためには収穫が見込めない分ボォゥチャフィ(博茶会)で支えてくれるだろうか」

「いいとも。今年の茶の売上はいくらあった。経費込みで良い」

「四百五十両の売上だが実収は半分だ」

與仁が話を聞いて紙に計算して皆に回覧した。

張宗風、三百ムゥ(畝)親樹一万二千本。

挿し木一本一銭、一ムゥ(畝)五十六本、百ムゥ(畝)五千六百本、五百六十両。

百家、五十六万本、五万六千両。

「どうだ何人迄仲間に入れられる」

「俺が出来るのは一年三十家で十七万本までだろう。それ以上は親樹が死んでしまう」

「親樹一本十五本以下にするか」

「だが一家五百六十両は到底負担できんぞ」

「それをボォゥチャフィ(博茶会)が相応な分引き受けるのさ」

「買値で叩くことは無いだろうな」

「ない。それが結だ。鹽業、漕運五百年それでやって来た」

「俺が儲かりすぎないか」

「なら挿し木費用を割り引いてくれればいい」

また與仁が新規に書きだした。

挿し木十本一銭、一ムゥ(畝)五十六本、百ムゥ(畝)五千六百本、五十六両。

「おいおい、いきなりひどい数字にしたな」

「この五十六両の三十家分千六百八十両が宗風の一年の取り分だ。親樹を提供できる仲間を増やせるかを考えてくれ」

「農家の負担は」

「ボォゥチャフィ(博茶会)で引き受けてもいい」

「畑さえあれば参加できるという事か」

「食えるまで面倒を見る必要もあることを忘れるなよ」

「俺が結へ入れるなら、ボォゥチャフィ(博茶会)へ資金を出せば済むという事か」

「一人じゃない。房恒徳(ファンハンドゥ)、苟聖亨(ゴウシュンフゥン)の三人で負担すればいい」

「ならば苟朗旺(ゴウラァンワァン)も結へ入れて四人なら、四恩たちと同じ千両で四千両になる」

ボォゥチャフィ(博茶会)の資金総額は七千両、年二千両で三年農家を支える資金になる。

少なくとも宗風が金策で困ることは起きないはずだ。

「認める気が起きたか」

「こうなりゃ断る理由もない」

さっそく、與仁と四恩が朗旺の分を書いて他のものと一緒にした。

細かい取り決めは日を置かずに明日決めようと為って散会した。

 

翌七日朝、辰の下刻(1811726日・八時三十分頃)に宗風の家で細かい取り決めを交わした。

宗風の友人たちの茶畑を回り昼に宗風の茶畑を見て回った。

一丈半ほどの大きな樹が三本あり百五十年以上の樹だという。

小作に五家がいて三百ムゥ(畝)の茶畑に、三百ムゥ(畝)のミィ(米)を栽培している。

小作には自分用に五ムゥ(畝)のミィ(米)を栽培させているという。

茶の摘み取りには三十人が手伝いに来る仕組みだという。

近在四家で人のやり繰りをしているのだという。

三百ムゥ(畝)近くが其の三家も茶を栽培し、同じように小作を抱えているという。

與仁と朗旺が残り、四恩と宜綿は先に宿へ戻った。

日暮れ刻(午後六時四十分頃)、與仁と朗旺が戻って来た。

「明日もう一度話し合うことにしました。この道の先に宗風の知り合いのファンディン(飯店)が有り、そこへ午の刻に集まることに為りました」

「知り合いの茶農家はどうやら挿し木用の十本銀(イン)一銭が不服のようでしたが百ムゥ(畝)分五千六百本、五十六両になると聞いてからは大分乗り気のようです。十家分の挿し木でも今年の収入に匹敵しますから」

一家で三十家分を引き受ければ百二十家で始められる計算が成り立つ。

皆、低地栽培の為、買いたたかれて苦労しているようだ。

翌日シィカオヂゥディン(渓口酒店)へ宗風が巳の下刻(十時五十分)に遣って来た。

「どうした。早いじゃないか」

「実はあらかじめご承諾いただきたく出てまいりました」

「どうした」

「地の仲買も話に加えてほしいというのです。最近杭州(ハンヂョウ)から出入りする業者に押されて高級品で競り負けています」

話を聞くと明前茶(雨前茶)一芯一葉を支えきれないという。

朗旺は一番茶、明前茶(雨前茶)には手を出していない。

雨後茶一芯二葉は朗旺たちも買い入れるが地域は競合していない。

與仁(イーレン)は地の仲買が増えるのは良いことだと賛成で、朗旺も構わないと言うとほっとしている。

「其の仲買いはどのくらい扱っていたのだ」

「昨年は春前茶一芯一葉十擔。明前茶(雨前茶)一芯二葉百二十擔でした」

朗旺が手控えで確認した、自分以外の仲買の名と取引範囲に買値迄調べてあるという。

「奴ら春前茶に一擔二十二両付けたので寧波では買いきれませんでした、昨年は十五両で二十五擔取引が有りました」

どうやらこの地域は一芯一葉の判定がまだ甘いようだ。

新芽と一葉だが、新芽が開いても摘み取り時期で一葉と措定されているようだ。

他の地区が厳密に分けだして一芯一葉に高品質、高値販売を始めたのに追いついていない様だ。

少し早いが一緒にファンディン(飯店)へ行くと、昨日の三人と老爺(ラォイエ)が談笑している。

老爺(ラォイエ)は段輦鶯(タンニィエンイン)と名乗った。

朗旺が「一緒にやってくださると聞きました」と声をかけた。

「今までわしの顧客に食い込まぬように気を配ってくれた恩は忘れんよ。新しく増やすというなら一緒に遣らせてほしい」

「歓迎しますよ。連絡も容易になりありがたいことです」

取引は少ないようだが朗旺にも信頼されているようだ。

話し合いは順調で宗風に準ずる形で決まりが付いた。

段(タン)は三番と四番を二百擔ずつ持っているがどちらも擔三両と言われて商談がまとまらないという。

「四番は三両でもいいが三番は買値が三両なのだ」

「朗旺、三番を銀(イン)五銭の口料で引取れるのか」

「やれます」

「段(タン)老爺、それで売るかい。四番は其の業者に三両で売るか朗旺に三両で買わせるぜ」

ウフウフ段(タン)が笑っている。

「どうした」

「いえね。その業者、王(ゥアン)がさっきから前の道をうろうろと行き来しています」

「呼んできなよ。面白い芝居を見せてやるよ」

呼び込んでくるといかにも小狡そうな顔つきの男だ。

「今三番を三両五銭で買い取って寧波で四両にして売ることにしたんだが。四番はどうする。引き取れなければこちらで買うつもりだが」

「旦那方後生だ。わっしにも儲けさせてください。三番を三両五銭、四番を三両で売ってください」

「どのくらい引取れる」

三番三百擔、四番五百擔は即銀で買えるという。

三番が段(タン)は二百擔、朗旺の取引先で二百擔。

四番は段(タン)は二百擔、朗旺の取引先で二百擔。

「王(ゥアン)さんよ。三番を一擔五銭で寧波(ニンポー)へ運べるかい。そうすりゃ四両で八百擔まで買い取らせてもらうよ」

奉化縣渓口鎮近辺で三番三両五銭となれば千擔位出てくるだろうと與仁は見ている。

「増えてもその値で買っていただけますか」

小狡そうだがその分目端は利くようだ。

「どのくらい当てが有るんだい」

「二千擔」

「おいおい、大きく出たな」

「元手がないので一度に買えないだけです。寧波(ニンポー)へここから五銭ならわっしの船で運べば利も出ます」

どうやら船問屋もしているようだ。

與仁はいいやつ捕まえたと宜綿を振り返ると同じように笑い顔だ。

寧波(ニンポー)の業者はツァイ(乳茶)用のツェンチャ(磚茶)に千擔は欲しいと注文が出ているという。

その分の卸は王(ゥアン)に任せようと朗旺が提案した。

與仁は三番が段(タン)の二百擔、朗旺の取引先で二百擔の四百擔、千六百両の銀票を出して朗旺が荷受人で受け取ることにした。

段(タン)には二百擔で七百両、朗旺の方も二百擔で七百両を王(ゥアン)がそれぞれへ支払って手元を見て首をかしげている。

「おいおい、それすべてが儲けにゃなるまい。まだ運糟費の清算をいくら自前船でも必要だぜ」

「そうでした。濡れ手で銀票二百両儲かるわきゃありませんや」

與仁わざと王(ゥアン)の倉庫までと、そこから朗旺の倉庫へ入れる経費を知らぬ顔をしている。

自分でそいつを計算して取引しろと突き放した考えだ。

これで朗旺に船で話した計算通りの、與仁銀五銭、朗旺銀五銭の口銭が出る。

四百擔は確保でき、あと王(ゥアン)がどのくらい集められるかお手並み拝見となった。

王(ゥアン)と段(タン)に朗旺の三人は現物の移動があると出て行った。

宗風達四人は呆れている。

「こんな簡単に銀(かね)が動くのですか」

「この後どのくらい集められそうだと思うね」

「近辺で三番千擔は王(ゥアン)でも集まるでしょう」

「そうすりゃ天津(ティェンジン)迄千石船が仕立てられる。船問屋と交渉次第で一擔两両で京城(みやこ)へ運べれば寿眉と張り合える」

「私たちの三番が同じ収入が得られるという事ですね」

「そういうことだ、擔三両五銭となれば寧波(ニンポー)四両引き渡しの漕運も引き受け手が出るだろう」

「王(ゥアン)がそれをやってもよいとお考えですか」

「ほかにつてが有れば仕事を分け合えばいいことだ、それと河口鎮(フゥーコォゥヂェン)相場が上がればその分上積みも宗風と契約したはずだ」

三人も合意しているので新しく契約書を交わすことに異存はなく応じた。

四恩が不思議そうな顔をしている。

「どうした」

「いえね宗風さんたちは挿し木用での収入と、今までの収入の折り合いがついたのは判りますが、新規の茶畑を増やす予定は無いのですか」

「土地はあるが荒れていてな、多くの樹を植えることができないんだ」

「それですよ。聞いた話では有名な老木は荒れ地にあるそうじゃないですか。雑木の中に茶の老木でもありませんか」

おいおい、四恩め仙人みたいなこと言い出したぞと大笑いだ。

「この付近山奥と違って隠れ里など無いはずだ」

「いや、馬鹿にしたもんでもないぞ。俺のところの裏山は持ち主がいなくなって五十年以上人の出入りがない」

「そういや、あの山は誰の持ち物なんだ」

「最後は蕭(シャオ)の爺さんじゃないか」

「山番のか。孫は今でも山番で管理には入っているが持ち主じゃないはずだ」

もう一人の六十くらいの男が首をかしげている。

「蕭(シャオ)の爺さんにムゥトォン(木通・通草・アケビ)探しに連れて行ってもらったのが五十年前の秋だ、あの後爺さんが亡くなって身寄りもないと分かったように覚えている。孫がいたのか」

ムゥトォン(木通・通草)は薬草にもなり実は貴重品だった。

「そういや俺のバァ(爸)も連れて行ってもらったことを話していたぞ。鄭(チョン)の家と姻戚じゃないのか」

「鄭(チョン)も男が少なくて、この四恩だけしかいないはずだ。バァ(爸)から何か聞いて居ないのか」

四恩は子供の時のことを思い出したようだ。

「七歳の時䔥王廟で幾人かと書類を交換していましたが、その書類は何か知りません。廟で楓老媼(フゥンラォオウ)という人に預けていましたよ。マァー(媽)なら知っているかもしれません。桃の仲買を上海としてたのですが、なぜか奉化縣渓口鎮から毎年桃が送られてきて近所に配るようでした」

「楓老媼(フゥンラォオウ)は間違いないかい」

「ええ、二十五くらいのきれいな人です。なんで老媼なんていうんだろうと思っていました」

楓老媼は子供のころからのあだ名で宗風と同い年だという、ならば十七年前二十五歳で四恩の見立て通りだ。

「楓老媼はチョンフゥンリィ(張楓麗)で俺の再従兄妹(はとこ)で段(タン)家の老大(ラァォダァ)の嫁だ」

「さっきの段(タン)さんのかね」

與仁は糸が伸びてゆくのを感じ取った。

「そうだ。上白村(シャンパイツゥン)で陶器に銅器などを商っているよ。四恩が逢ったと云うなら䔥王廟でも西祠廟の方だろうここから二里ほどのところだ」

「お坊さんが十人ほどおられました」

「なら間違いない。話は済んだから二人でどういうことか聞きに行こうか」

宜綿(イーミェン)は行って聞いた方がいいと送り出した。

残った三人と與仁(イーレン)は話が弾んでいる。

扱い量が増えれば他の仲買も加えることに反対は無いと確認できた。

確認書に入っていないことは宗風と朗旺の意見を聞いてくれとなって散会した。


段(タン)家のフェンエンシィァン(奉恩祥)は五人ほどの男が忙しく荷造りをしている。

「ラァンタァン(榔堂)さんは居られるかい」

「中にいますよ」

「邪魔するよ」

中へ入り宗風と同年配の男に声をかけた。

「ガンションディ(干兄弟・義兄弟)元気そうだな」

「弟弟(ディーディ)も元気そうだ。バァ(爸)と話はついたのか」

「すべて順調だ。この連れは宇蝉(ユゥチャン)の老大(ラァォダァ)の四恩だ」

「おっ、親父似のいい男だな」

どうやら宇蝉とも知り合いの様だ、四恩は丁寧に挨拶をした。

チョンフゥンリィ(張楓麗)が茶の支度をしに出てきた。

「宗風哥哥お久しぶり。四恩も立派になってマァー(媽)も安心ね」

昔の事を宗風が聞いて居る。

「その書類は土地管理の委託証書よ。土地は燈玲(ドォンリィン)が嫁入るときに持たされてきたものよ。桃園が二百ムゥ(畝)、年二十両。ミィ(米)とュイミィー(玉米)で二百ムゥ(畝)が年二十両。私が預かって山林の管理費に十二両貰って後は毎年送っているわ。四恩の所へ今年も桃が来たでしょ」

マァー(媽)の燈玲の所へ来た桃の出どこは此処からだったと分かった。

母子であまりそのことを詳しく話し合っていない様だ。

四恩はバァ(爸)が仲買いしていた伝手でマァー(媽)宛てに毎年送られれてくるものだと思い込んでいたようだ。

順序は嫁荷の土地、小作料、桃園開設、仲買い、委託、と進んで居たようだ。

「山林は前葛村(チィェングゥツゥン)の山の事か」

「私の実家の西側よ」

「ということは持ち主が四恩のマァー(媽)の燈玲でいいのかい」

「何か使う当てでもあるの」

「茶畑を四人で少し増やそうと思っている」

「借りてくれるなら燈玲は持ち出しがないうえ収入になるわ。千六百ムゥ(畝)はあるはずよ」

「そんなにはいらんのだが山番と相談して一人二百ムゥ(畝)で八百必要だ」

「一人二百ムゥ(畝)でいくら出せるの。私が決めていいのよ」

「一人二十両必要か」

「山林だから開墾にお金がいるでしょ。半分でいいわよ。契約は二十年どんなことが有っても再契約は一倍半迄にするから四十年は安心できるわよ。買い取るなら全部で四百両と燈玲と前に話が付いてるわ、でも十五年以上たつから少し、いえ百五十両上乗せをしてくれるなら売るわよ」

「俺が買い取って貸し出してもいいという事か」

「哥哥なら反対は出ないわね。そこに四恩がいるからマァー(媽)に聞かせればいいわ」

四恩は親戚関係が気にかかっているので聞いてみた。

宗風哥哥と私が再従兄妹で、朗旺とも私が再従兄妹だそうよ。燈玲の爺爺(セーセー)と朗旺の姥姥(ラァォラァォ)が兄妹で前葛村(チィェングゥツゥン)へ嫁に来た縁で燈玲と婚姻が成立したのよ」

四恩の爺爺(セーセー)が前葛村生まれは間違いない様だ。

「全部買い取っても山番に頂上付近と、登る道筋は管理させてね。全部畑にされては山が崩れるわよ」

「分かった茶畑だから樹が有るなんて屁理屈は言わんよ。半分は保水の為に使わずに残すことを約束するよ。急ぎは無理でも五百五十両用意する」

「いいわ。年内ならそれで手を打つわ。でも山番に年十両出してもらえると助かるんだけど」

「その位構わんよ」

「じゃ、シャオリィンフゥ(蕭麟富)に連絡しておくからどこを開墾するか話し合ってね。ムゥトォン(木通・通草)のある場所を大事にしてるから」

「俺も木通は好きだよ。茶畑が小さくなっても木は守るよ」

「それ証書にして呉れれば五十両引くわよ」

「いいのか楓老媼(フゥンラォオウ)の取り分が減るぞ」

「いいのよ。持ち出しが無くなるうえ、纏まった銀(かね)が入れば燈玲は孫へ遺せるわ」

話はそれだけだと奉恩祥を後にして四恩と宗風は宿の前で別れた。

 

 

王陽明「雪竇山」・王守仁(1472-1528)・幼名雲,字伯安,号阳明子。

窮山路断独来難     

山を窮むる路は断にして、独り来ること難し。

過尽千渓見石壇 

千渓を過ぎ尽き、石壇を見る。

 

壑雷隠隠連岩瀑

壑雷隠隠とし、岩瀑は連なり

山雨森森映竹竿

山雨森森とし、竹竿は映じる。

莫訝諸峰倶眼熟 

訝る莫き諸峰、倶に眼に熟く

当年曾向画図看

当に年曾々向かひ、図に画き看るべし。

 

 

第六十回-和信伝-弐拾玖 ・ 23-06-18

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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