第伍部-和信伝-肆拾壱

第七十二回-和信伝-拾壱

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年三月五日(1814424日)・三十八日目

和歌山城下にはいって六日目。

朝卯の刻から船で城下に出る客で土間は喧騒が酷くなった。

湊の北浜には有明浜と名が有ると女中が藤五郎と話している。

その船の近くでは三十艘近い漁船が網を絞っている。

「まだ一刻やそこらじゃ終わりませんよ。便船の近くは通れるように動きが早いんですよ」

小高い丘で旗振りが三人いる、半丁くらいずつ離れているのは持ち場の船が違うようだ。

「鰯網にしちゃ大がかりだな」

「イナ網ちゅうとやで、鯛に鯖、鰆も入るんですよ。この間は鰹の群れまで入りましたよ」

「ほんとかよう。こんな入り江に入ってくるのかよ」

「群れは見栄ですよう。でも入ってきたのは本当の話でよう。鰤が減ると鰹が寄るんでよう」

次郎丸の頭は紀州が六公四民にさらに二分の上乗せで先代が財政難を乗り切り、十万両を越す貯えが有ると結は調べたが、町民には余裕が有るが農村は同だろうと気に為った。

新田開拓の無税年の短縮で意欲の無くなった村が増えているという。

幕府拝借金は熊野三山の手を経て商人への貸付金となり莫大な利を得ている。

相当理財に堪能な藩士が居るのだろうと感じている。

今は中断しているが湊御殿も金食い虫だ。

八代重倫(しげのり)公は奇矯の人とのうわさだが、七十に為った今でも我儘だと聞こえてくる。

それでも現住の浜御殿には薬草園が有ると聞いた。

大樹は父親の一橋治済(はるさだ)公の教えで大勢の子女を得ていて、雄藩との縁を結ぼうとしている。

紀州は虎千代君死去の後、大樹七男の清水斉順(なりゆき・菊千代)公十四歳を望んでいるようだ。

正室に五女豊姫でと幕閣の許しを待っているようだ。

豊姫様は今江戸住まいだ、一度婚約が成立して国元から江戸へ下った。

お相手の加賀藩主前田斉広公嫡子の前田裕次郎(利命)様が文化二年に亡くなり破談となっている。

虎千代君との婚約をしていた信子姫は伊達斉宗様へ嫁ぐことが決まって年内婚姻と為る。

「どうしたのです」

「なにがだね」

「大分と難しい顔で遠くを見ていましたよ」

「新兵衛殿は物知りだが農民を富ませるのと商人を富ませる、どちらが藩の為だろうね」

「両天秤の釣り合いでしょう。藩祖南龍公は農民の者から武士へ取り立て、七公三民を六公四民になされました。紀麟公は商人へ拝借金を融通なされ十万両の余剰金を貯え申した。しかし金は有れば使いたくなり申す。湊御殿の建築再開が御重臣の方から建白されており申す」

「御父上の江戸下りはそれですかね」

「父は反対ですが決まるでしょう。三浦様では大殿様に逆らえません」

西浜御殿も修復中だという。

巌出御殿は南龍公が慶安二年(1649年)に妙見堂を和歌の浦に移し、後地に造営。

西浜御殿は二代清渓院公造営。

湊御殿も二代清渓院公隠居所としての造営で度々の火災で焼失、再建を繰り返している。

北島御殿、浜御殿、吹上御殿、等々各代の藩主は自分の別邸を建てている。

辰の下刻過ぎ(八時二十分頃)船の支度が出来たと呼びに来た。

「少し早いが出るとするか」

次郎丸が先に立って北の有明浜の方へ歩いた。

網はだいぶ絞られ残りの魚が逃げ惑っていた。

兄いが「城下へのいさばはもう出たのかね」と聞いた。

「最初の船はもう市場へ着いているはずだあよ」

「そんなに早いのか」

卯の刻に出て辰の刻過ぎに河口に着くという。

「俺たちの乗る船もそんなに早く着くのかね」

「割増でりゃ死ぬ気で櫓をこがせますぜ」

次郎丸は笑って「一刻半で良いが一人二匁だしてやんなよ」と船へ乗った。

新兵衛は「次郎太夫殿は気が大きい」と持ち上げている。

五大力便船には三十人は客が乗り込んでいた。

「ほんとに客であふれていたようだぜあにい」

船が沖へ出ると五大力が湊を出てくるのが見えたが、あっという間に差が付いた。

紀湊で堀へ入る船へ乗り換えた、一人二十文で十一人乗り込める。

紀ノ川は上げ潮に為っていて鉄砲場の番所まで一刻(十五分ほど)で着いた。

堀へ入り伝法橋をくぐって右へ折れ、寄合橋の船着きで降りた。

未だ十二時四十分に為っていない。

未雨(みゆう)が駿河屋で羊羹を買うというので橋を渡って寄合町へ入った。

駿河屋は見世に入ると蒸し器の湯気が店の右手に見える。

その脇は大きな鍋で小豆を煮ているようだ。

お城に御殿へ納めるのだろうか、団子や饅頭を造る女たちは口と鼻を白い布で覆い、頭に頭巾をかぶる念のはいった姿で作業をしている。

駿河屋で羊羹を六棹買っている。

「新兵衛様、お家に二棹届けて例の飯屋へ追いかけてきてください。新兵衛様のも注文しておきますので遅くなりませんでください」

「すまんな。すぐ追いかけるよ」

包みを受け取って急ぎ足で堀へ向かって出て行った。

飯屋では「遠出したと聞きましたが」と小女が藤五郎を恨めし気に見ている。

惚れられたようだ。

「塩津湊まで行って来たよ」

「ありゃ、うちの親父さんは塩津の鰤を仕入れてきただんよ」

「刺身は良いから塩焼きにしてくれ。焼いたのは海老しか出てこなかったんだ。今朝の網から来たやつだろ」

「ありゃ六人さんでいいだか」

「一人は子供の顔見に行かせたからすぐにやってくるよ。七人頼む」

小女は大根おろしを擂鉢一杯におろし金で拵えた。

水気を絞って小皿に分けている。

新兵衛が追い付いてきた。

「鯖じゃ無い匂いですね」

「塩津の鰤だそうだ」

「桜鯛、桜鰤はもう御終いでしょうが昨日の鰤の刺身は旨かったです」

「刺身が良きゃ追加するぜ新兵衛殿」

「次郎丸様二日続けて鰤の刺身を食えますか」

「おいおい、俺の本名ばらすんじゃねえよ」

あっと云う顔で赤面した。

「油断しました」

「いいってことさ。次郎太夫はこそばったい」

小女は耳ざとい「若さんは次郎太夫じゃなくて次郎丸が本当の名なんだ」と興味津津の顔で茶を継ぎ足した。

「若さんの由来は丸が附くんで御大身の若様みたいだがらさ。大人になって丸は気恥ずかしい」

「そういわれると品が有ります」

「うれしいね。今日も飯が美味い」

ことやへ戻ると明六日申に三の丸三浦家へ来るように封書が残されていた。

三月六日1814425日)・三十九日目

城下に入って七日目

紀州藩は実高八十万石相当を見ての表高だったようだが、実際は六十万石を下回っている。

平坦地では麦との二毛作も可能で、今は負担の重さにも耐えられている。

税の上乗せ百石につき一斗九升の「糠藻代米」が決まれば六公四民に百石に三石九升。

百石中り(あたり)六十石に二分米が乗り六十二石になり、さらに六十三石九升の税と為る。

表高五十五万五千石で藩の取り分は三十三万三千石が三十四万四千百石、さらに三十五万四千六百四十五石に増える。

三十三万三千石から増えた分が二万千六百石。

堂島高値銀五十八匁で計算すれば銀百二十五万二千八百匁、一万九千五百七十五両となる。

九代紀麟公の蓄積を糠藻代米五年で簡単にしのげると、煽てるものが大殿様の取り巻きにいるようだ。

今紀州藩は藩士からの借り上げ半知を浮置米(借上米)ならせば二割まで戻した。

その分を農民負担に置き換えようとしている。

昼飯はいつもの飯屋で食べた。

兄いが小女に知っているかを聞いた。

「明日は遠出で湯治(とうじ)でもしようと思うがどこがいいのだね」

「遠いけど熊野」

「そこまで行ったら伊勢を廻って江戸へ帰るようだ」

「じゃ、龍神」

「江戸まで聞こえるいい湯だな」

兄いは新兵衛の方へ聞いた。

「新兵衛様どのくらいあります」

「片道二日は強い(きつい)です」

「片道一日なら」

「湯浅の近くに栖原(すはら)」

小女は話が取られないように口をはさんだ。

「中一日入れて三日だんだ。ほんとの湯治なら一回り七んちは湯につかるんだ」

新兵衛が帰りは便船で四刻(よとき)という。

「船なら楽だんら」

おまえの言葉は不思議だと藤五郎にからかわれている。

「湯浅は十軒に一軒は醤油屋と聞いただ」

「そうだな、八里先なら金山寺味噌の御坊が有る」

兄いが「みそ、しょうゆより温泉の方は」と話を戻した。

栖原(すはら)には三軒の湯治宿が有、今の時期なら込みあっていないだろうという。

「王子めぐりで熊野街道を歩くか船でごめんよと湯浅へ行くかだな」

「あにいは熊野街道を歩いたことが」

「ないない、本の受け売りだけだ」

「ちょと、遠回りで布施屋(ほしや)熊野遥拝所から始めますか十三里ほどになります」

何処なのと小女は見世そっちのけで話に入ってくる。

「川端王子のことだよ」

こっちは食べ終わったが新しい客も来ていてあっちに愛想、こっちに愛想と飛び回るのは母親の様だ。

「もう少しはしょれるかね」

はしょるには雑賀道町奉行番所から紀三井寺の裏を通る道だという。

「それじゃ面白みがないか」

川端王子、和佐王子、平緒王子、奈久知王子、松坂王子、松代王子、菩提房王子、祓戸王子、藤代王子、藤白塔下王子、橘本王子、所坂王子、一壷王子、蕪坂王子、山口王子、糸我王子、逆川王子、湯浅は久米崎王子。

途中で息継ぎしたが終わると大きく息をついた。

「十八と云うことは半里くらいに一つあるのか」

「そうなんですがたまに一里開いたり、六丁も行かないうちに有ったりします」

「十三里と為るとあまり休めないな、王子ごとに休んで見物していてはどこかで泊まるようだ」

「有田川の宮原の渡しは藩で宿駅にしてありますよ。わずか一里三十丁で湯浅ですがね」

「いちんち、湯にゆっくりつかるなら往復四日見るか」

兄いの言葉に次郎丸は笑いながら「中将姫の糸我のちかくか」とつぶやいた。

あの中将姫ですかと幸八は驚いている「当麻寺(たいまでら)の中将姫ですよね」と藤五郎が念を押した。

小女(こおんな)も読み本で何度も読んだという。

「本当にいた人なの。當麻曼陀羅は蓮糸を使って一晩で織りあげたってかいたあるだ」

「奈良に京(みやこ)が在った頃の人だよ」

小野小町、衣通姫(そとおりひめ)、中将姫、生きている美人にお会いしたいよと幸八は嘆いている。

継母が糸我の雲雀山(ひばりさん)に姫を捨てたとの謂れが得生寺に残ると新兵衛が小女に教えている。

ことや ”で服装を整え新兵衛の案内で未雨(みゆう)、四郎、次郎丸で三の丸へ向かった。

京橋までまっすぐな道で人通りも多く、早番の下級下士がお城から戻ってくるのにすれ違った。

京橋を渡り京橋門内は一ノ橋大手門に至る大手道。

両脇を安藤家(田辺城主)と水野家(新宮城主)が屋敷を賜り、その先が筆頭家老三浦長門守の屋敷だ。

当主は為積(ためあつ)、藩主治宝の従兄弟、わずか九歳で家督を相続し、この歳三十四歳、江戸は四谷天龍寺前に屋敷を賜っている。

紀伊三浦家初代は為春、南龍公の伯父に当たる。

元は御付家老だったが“ 藩の家老として仕える ”と吉宗が将軍就任時に付いてゆくことを為隆(三代)は固辞している。 

代々長門守(遠江守など遷任時期もある)を名乗る。

御付家老安藤伊賀守直則は三万八千石、文化五年に道紀が隠居、養子の直與が家を継いだ。

直與は文化六年に死去、兄の直則があとをついでいる、二人の父親は旗本安藤直之。

御付家老水野土佐守忠実(忠奇)は江戸詰三万五千石、此処も養子で父親は旗本水野守鑑。

田丸城代久野昌純(伊織)は一万石、病身で田丸へさえ出向いていない、城下に屋敷が有り、田丸領六万石支配は同族の者が代々仕切っている、上屋敷は城の南西御徒町にある。

父親輝純は近江守、嫡男純固は丹波守だが昌純(伊織)の任官記録が見当たらない。

一ノ橋と大手門を見てから長門守の屋敷へ入った。

脇玄関へ通され式台まで為積自らが出迎えた。

次郎丸、こりゃ身元は露見しているとあきらめた。

部屋へ導かれると上座は空席で気楽にと車座を勧められた。

未雨(みゆう)は遠慮して敷居側をと下がって座を決めた。

「さて定栄殿、紀州はいかがでござる」

次郎丸、定栄(さだよし)などと呼ばれるのは久しぶりだ。

「人気穏やか」

「うれしい言葉だが。ちと難しくなりそうだ」

間をおいて「御多分に漏れず金が出る話ばかりだ。江戸詰水野殿の手紙では養子の話は間違いなさそうだが、拝借金は藩主就任まで先延ばしとなりそうだという。水野殿が大樹様は子女の嫁入り、婿養子で財政が傾きそうだという。これで享保、天明の様な飢饉でも起きれば我が藩も持ちこたえるのは難しいことに為る」と眉をひそめた。

武士は食わねど高楊枝は何処の大名も同じで、質素倹約で家は救えても國は救えない。

「紀麟公様の時は質素倹約で乗り切ったが、大殿の取り巻きが湊御殿の整備を急げと矢のような催促でな。殿も金は産む物でいくらでも都合できると煽られているようだ」

「御大名は見栄も必要でしょう」と次郎丸はやんわりと話した。

「武士は入る物が限られており申す、どうしても質素倹約に向かうのが常套手段でしょうぞ」

「藩もやっと浮置米(借上米)借り上げ半知を二割に減じたが、懐は減るばかりだ」

何用の呼び出しか本題に入らない。

「わたくしに何かお望みでも」

「実は御養子に付き隠密と云う者が居る」

「白川藩士を名乗って隠密行動はとれませんよ。房総警備の手助けに各藩の砲台予定地の様子を見て江戸湾警備の参考にしろとの御下命です。私の方は五十年先の展望という差し迫った話ではありません」

「大坂では蔵元の後ろ盾もあるとか」

「同行の駒井新兵衛の信用で書物など買う費用が出てくるだけです。精々銀六十貫程度の信用です」

「長崎通事とも縁が有るとか」

「そうそう、今頃は長崎へ着くころでしょう、和国で茶に絹が多く生産出来れば清国が買い受けたいと聞きました。彼らはそれを広州で異国へ売るようです」

江戸、京、大坂に紀州と縁の深い商人が居て情報を流すようだ。

「本音が聞きたい」

「神君の時代のように異国との取引再開、耶蘇が寄進を受け取れない仕組みが取れれば國は豊かになる。有徳院様の如く異国の優れたところは取り入れる。ただ大樹様と大名とが一つに為って取り組むには難題が多すぎるのが現状です」

「異国と取引をされるおつもりか」

「清国は窓口を狭めたばかりに海賊が横行しました。我が国は幸いにも長崎で済んでおりますが、東の大陸からの往来も増えています。いずれ仙台など江戸に近い場所に交易の湊を求めてくるでしょう。紀州、尾張も警備だけでなく湊に千石、二千石の船溜まりが出来るように考えるべきです」

「警備の砲台は」

「淡路を挟んで阿波公といずれ築くことに為るでしょうな」

「金が出る話ばかりですな」

「税の仕組みが出来ていないからです。各藩まちまちでは金が集まりません。有徳院様はじめ何度も試みては失敗しています」

「有徳院様のなされたこととは、思い当たらぬ」

「まずは参勤、役儀の無い大名は在府期間の短縮、行列に従う者の半減」

「だがあれは上米の制が伴った」

「それを伴わぬように出来るか模索中と聞いております」

「加賀様は年々華美になると聞きました」

「街道が潤うと吹き込まれたからでしょう。費用は十五日ほどで銀三百三十貫ほど掛けると聞きました。それで収まればいいのですが、今年のお許しで東海道を廻れば費用もかさむでしょう」

「またもや五千両を越しますか。道理で我が藩の参勤費用が銀五百貫と伏見で噂と云う」

銀五百貫は六十四匁一両とすれば七千八百十二両二分に為る。

享保の定めでは一万石で騎馬三騎、足軽二十人、中間人足三十人。

五万石で騎馬七騎、足軽六十人、中間人足百人。

十万石で騎馬十騎、足軽八十人、中間人足百四人。

二十万石を越しても騎馬二十騎、足軽百三十人、中間人足三百人に抑えるように通達が出た。

これを拡大解釈して万石中り(あたり)として計算する見栄を張る藩が多出した。

さらに徒歩のお供を増やす藩は後を絶たない。

行列だけではない、人足は各宿場で雇うことに為る、紀州ともなると前年から各宿泊の本陣とは日程の調整をしている、お許しが狂うと藩の道中奉行は夜も寝られない。

六組(むくみ)飛脚問屋が臍を曲げれば、肝心の日常の品が追い付かなくなる、先行のはずの通日雇が消えてしまう。

大名の多くは米に頼らざるを得ないので米の値段はすぐに影響が出る。

紀州藩の壱年の国元経費は壱萬両前後、参勤でそれに近い金額が消えてしまう。

紀州中屋敷御殿は文化八年二月十六日もらい火で全焼、昨年建て直したばかりだ。

紀州藩は江戸に二十以上の屋敷が有る、赤坂中屋敷は藩主が日常暮らしている。

江戸の費用は年五万両を越えたと結は次郎丸へ報告している。

次郎丸がいくら調べても我が国が専制君主の時代がない。

天皇家が専制君主として国を治めた時代がないのだ。

南朝後醍醐帝でさえ皇室独占をはかり多くの武士に見放された。

頼朝公が武士の統領で居られたのも恩賞と云う名の領国が与えられたからだ。

古事記は大八洲(おおやしま)を大国主から譲られた天皇家こそが、正当な國の支配者と書きながら天孫降臨、神武東征を書く。

核となる国の柱を國民(くにたみ)に示さなければ纏め上げることは難しい。

お家大事、将軍家大事、天皇家大事と段階を踏む教育の先に國民大事が有る筈だ。

為積(ためあつ)は「新兵衛、温泉巡りだそうだな」もう耳に届いていた。

「湯浅を見ていただこうと思いまして」

「行(いき)は大変でも熊野道がお勧めだ」

一同で笑うしかない、小女が誰かれなく喋るようだ。

「新兵衛家で旅支度も用意を頼んでおけ、殿から伏見で定栄(さだよし)殿と面談する手はずを言ってきた、新兵衛は何度も行っている伏見屋敷まで案内してくれ。客人には戻るまでここに留まって羊羹でも食べていてもらう。未雨(みゆう)師匠、まだ食べては居ないでしょうな」

未雨(みゆう)は「温泉で食すつもりで買い入れました。龍神でとも思っていたものですので」と固くなって答えた。

新兵衛が座をはずすと茶に羊羹を持ってくるように頼み「祥太郎の用意が出来たら呼んでくれ」と言いつけた。

母親とともに来て挨拶をした、利発そうな眼をしている。

「いい機会に恵まれた有徳院様から命じられた役目のお頭がこのお方だ」

結、もしくはイミグァン(御秘官)の一人の様だ。

母親も承知の様で座をはずしていない。

「“ 流行りものには目がない ”夫婦でな、息子は鳶が鷹を産んだと云われるが親の目から見ればとんだ“ 駆け出しでございます ”な」

祥太郎が頭下げて「父はそのような噂を聞くようですが学問さえ置いてきぼりのとんだかけだしです」と良い笑顔を見せた。

「頭と云ってもそちらは免許も出ない駆け出しですよ」

次郎丸は将来の紀州を担う男の一人と感じられた。

「わしは殿が御帰国されれば江戸へ出ることに為る。国元は祥太郎が御役目を引き継ぐように。ただ藩政には十年口出ししてはならん。意見も人に悟られないように」

十二歳だという。

「家系の事を言えばわしは殿の従兄弟、祥太郎の母親は菩提心院様の孫、すなわちお家と共によき事悪しき事、命運を共にする一族だ。定栄(さだよし)殿、祥太郎に貴殿のご身分、四郎殿の事、未雨(みゆう)殿が江戸の連絡員の事も教えておいた」

「江戸下りは大殿の御指図では」

「江戸詰め水野殿だけでは大奥との交渉が進まぬと重臣の建白を殿が認めたのだよ。」

為積(ためあつ)が江戸へ下れば城下は変わるという、湊御殿は今まで以上の金食い虫だという。

新兵衛が戻ると「伏見藩邸で二十日のご対面予定だ。枚方、伏見は込み合うので淀か宇治へ前日までに入ってくれ」と会計方が用意した金包みを渡した。

「大分多そうですが」

「和歌山を出るまでの分が銀八十八匁、これは受け取りを出すだけで良い。それ以外は戻り次第会計方へ報告と受け取りがいる」

「新兵衛さん、兄いに毎日の分の受け取りを取り分けるように頼んでおけばいいよ」

四郎は熱田まで会計をして苦しんだことを話した。

「旅であんなに小銭が必要になるとは考えてもいなかったよ。参勤行列にまぎれて戻れば苦労は無いはずだが、一人旅に為ったら毎日頭を痛めるようだぜ」

「そういわれて四文銭の重みを思い出した。桑名で軽くなったときは嬉しかったな」

未雨(みゆう)が経緯と桑名の蛤について自慢したが祥太郎は松江浜のしか知らぬという。

「そういえば俺たち拾うのは見たが食べていないぞ。和歌の浦のは桑名より身が固かった。歯ごたえが良いが香りが弱い」

「例の飯屋に戻る日を告げて用意して貰いましょう。桑名に負けませんよ」

屋敷を出て飯屋で親父に「十一日の午から未には戻るつもりだ、松江浜の蛤百五十はそろえて欲しい」と頼んだ。

未雨(みゆう)は「仕入代だ。昼に来なきゃ見世に来ている客に振る舞ってくれ」と云ってまた南鐐二朱銀二枚を先払いした。

宿に戻ると「あにいと未雨(みゆう)師匠が交互に払うが会計はあにいに頼めばいいですか」と聞いてきた。

あにいの新兵衛は何のことだという顔だ。

「二十日に伏見の藩邸に行くんだが新兵衛殿が案内人で藩の会計に出す受け取りが必要だそうだ」

未雨(みゆう)に言われて「道中の会計は俺で未雨(みゆう)師匠は気まぐれさ。南鐐二朱銀持ちすぎて荷が重いんだ」と悪ふざけだ。

「いや、本当に八十くらいは用意したので本気に重い」

「まだ四十は有るのか」

「数えたくもないですがその位の重みは有りますぜ」

小判五十両に南鐐二朱銀八十枚だと道中は辛かったはずだ。

「じゃ四郎殿は重い思いはしていないのですか」

「俺は豆板銀に銭で苦労したよ。幸八に藤五郎が背負ってくれるまでは銭を放り出したい時も有った」

七人で飯前に道の確認と宇治へ十九日に入るには何処が寄れるか話し合った。

「男山は一日では無理だと聞いた」

未雨(みゆう)は「二日取って三日目に宇治へ向かうとして逆にたどりましょう」と云って帳面を出した。

枚方は飛ばして淀を十六日に出ることにしましょうと決まった。

十五日は大坂 さのや

十四日は堺 まつや

十三日高石神社 ふでや ”。

十二日に城下を出て、信達宿(しんだちしゅく)“ ひょうたんや染八 ”は予定の通り。

新兵衛はずいぶん細かく刻みますねと面白そうな顔だ。

「予定の通りに行くか行かないか気まま旅だよ。雨が続くと歩く気にもならねえ」

「そういや四郎、番傘買うかと言った覚えが有る」

「俺は傘を背負って歩くの御免だぜ。弥次喜多の道中に為っちまう」

三月七日1814426日)・四十日目

八日目の朝、夜中の強風も止んでさわやかな風がそよいでいる。

薄明るい中、卯の刻の鐘(四時三十五分頃)に送られるように “ ことや ”を出た。

本町御門の鉤手(曲尺手・かねんて)へは向かわず、真田掘りを教仙橋で渡り嘉家作丁(かけづくりちょう)先へ出て大和街道を北へ向かった。

地蔵の辻はまだ婆さんの見世は出ていないが、井戸端で幾人かが寄り集まって荷の整理をしていた。

四箇郷(しかごう)一里塚まで来ると城下へ向かう一団とすれ違った。

新兵衛は「近くに和佐大八郎殿の墓が有ると聞きました」という。

「通し矢の人ですか」

「そうだ、三十三間堂通し矢で百三十年たった今でも破られない記録だ」

「えっと何本でしたっけ、聞いたように思うんですが」

「八千百三十三本だ。いくつの内か覚えがないのだがね」

「一万三千五十三本だよ。貞享三年四月二十七日の事だ。悪口を云う者は射るたびに前に出たというが、有り得ないことだ。必ず立会人が見ている、そんなことしたらそこで止められる」

一里二十五丁で田井ノ瀬の渡しが見える、手前は行きかう人で溢れている。

宿から二里半ほど来て布施屋にある川端王子社(かわばた)の周りは巡礼者も大勢ならんで参拝している。

一行も順を待って参拝した。

まだ時刻は七時四十分、熊野街道を布施屋の渡し場へ向かう人は大きな荷を担ぐ集団が見える。

「渡しから二里十丁ほどの所に小野小町の墓が有ります」

「また小町ですか」

「えっ、ああ、なんか言っていましたね幸八殿」

「大津から伏見まで小町の話が多くて。若い話は少ないですね」

「八十八歳の時のお像が置かれている寺が有るそうですよ。見た人から聞いたんですが京の都には百歳小町像まで有るそうです」

「若さん聞いたこと有りますか」

「山科のずいしんいんだよしんは身では無く心だ。卒塔婆小町坐像だそうだぜ。小町の屋敷がそこにあったそうだ」

「百夜通いの屋敷で御座るか。深草の少将も哀れな」

「もう一つ思い出した、亡くなった地に小野寺が有るそうだ。寺の名が補陀洛寺(ぶだらくじ)と云うそうだがそれでは通じないそうだ。どっちかが百歳と云われるんじゃないか」

「若さん、あと何か所もありますぜ。東福寺の退耕庵などですがね。例の関寺に有ったのを走井茶屋が手に入れたと聞いたことが有ります」

「未雨(みゆう)師匠、あそこで餅を食った時に思い出しておくんなさいよ」

「わりぃ、だがまてよ。一緒に餅は食ってないぜ」

幸八京(みやこ)で再会をすっかり忘れていた。

和佐王子(わさ)迄半里、小栗街道とも言われるこの道に有った“ 甘王子 ”跡と云われていると巡礼たちが話している。

“ 御幸記 ”の事も知っているようで五人の同行者の案内役の様だ。

「若さん読んだことありますか」

未雨(みゆう)が巡礼の後姿が遠ざかると聞いてきた。

「写しのまたその写しが兄上の所にあって読んだが“ 甘王子 ”は覚えがない。ハンサキ、ナクチ、に詣でてワサ、ヒラヲは寄っていないと出ていた。日前宮(ひのくま)は寄ったと出ていた」

峠道を十丁ほど登ると平緒王子(ひらお)迄緩やかな下りが二十四丁程続いた。

平緒王子の先、休み茶見世で前の巡礼に追いついたので一休みしようと甘酒を頼んだ。

「お武家様たちも熊野でしょうか」

「わし達は湯浅までだよ。宮原が泊まれたら今日は宮原に泊まるつもりだ」

「近くにいてくださると心強いものでつい行先が気に為りました」

「王子めぐりしながら行くので前後を歩くようだぜ。俺たちは神社と寺は省略するつもりだ」

「わっしたちもそうなんでございます。お先に失礼します」

五人は先に出て行った。

奈久知王子(なくち)迄二十丁。

地蔵の先が鉤手(曲尺手・かねんて)で先が遠くまで畑道だ。

大きな池を過ぎてまた鉤手(曲尺手・かねんて)に地蔵が有る。

「この辺りは街道でも一番歩きやすいところです」前の巡礼はだいぶ先に見えた。

一里ほどで松坂王子(まつさか)に着いた。

巡礼たちが草鞋に布を巻いている「塩見峠は楽に見えて強いで御座いますよ」と教えてくれた。

手拭いを四本割いて別け、巡礼のように巻きつけて歩いた。

湧水が道に流れて確かに歩きにくい。

峠の上からは海が見えた。

松代王子(まつしろ)迄二十四丁程で着いた。

「強いと脅されて丁度良かった」

「本当ですぜ。上って見りゃこんなものかと安堵しましたぜ」

巡礼たちが休み茶見世にいたので礼を言って縁台に腰かけて茶を頼んだ。

何処(どこか)で鐘をついている、午の刻に為ったと兄いが時計も見ないで未雨(みゆう)と話している。

菩提房王子(ぼだいぼう)迄七丁しかない。

浜へ出て追分で左へ入った。

三十丁程の祓戸王子(はらえど)では巡礼が“ 藤白宿 ”は此処から次の藤代王子(ふじしろ)の間に有ったと話している。

その間十丁あまり、次郎丸は写本に“ 三町許りの小宅 ” とあるのを思い出した。

「どうしました。目が真剣だ」

「いやね定家の写本に三町の小宅とあったのを思い出したが、その頃の三町がどのくらいの大きさだろうと考えていたんだ」

巡礼が「大宝律令の町は六十歩で御座います。四十四間ほどと聞きました。今の二丁十二間ほどになりますそうでございます」と教えてくれた。

この先達博覧強記の様だと次郎丸も尊敬のまなこだ。

「昔の偉い人は豪儀だ、本陣の豪勢なとこより大きいのが小宅でござんすか」

「はは、藤五郎それも窮屈平臥したんだとよ」

巡礼たちも殿上人はさすがに違うと感心している。

熊野一の鳥居で巡礼と一緒に遥拝をして先へ進んだ。

籠宿でしつらえたか、肩代わり付の籠が二台、御供に小僧を三人連れて追い越してゆく。

有間皇子の故地だと巡礼が一同に話してくれた。

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

良い声で朗詠してくれた。

“ 家有者笥盛飯乎草枕旅之有者椎之葉

 海が遠のき二丁程で峠道が立ちふさがった。

巡礼にならってまた草鞋へ布を巻いた。

「この峠には十八体のお地蔵様が一丁ごとに有ります。時々崖下に落ちてはまた拾い上げるのですが、悪口に駕籠かきが距離をごまかすのに蹴落としたと云われています」

「巡礼さん。そいつは頂けねえ」

四郎が江戸言葉でぞんざいに言う。

「噂ですよ。余分におけば銭を余分に稼げますのに減ったら損します」

「そう来なくちゃいけねぇ」

一同悪者にされた駕籠かきに同情した。

筆捨松でも絵師巨勢金岡の話をしてくれた。

坂下宿手前の筆捨山では狩野元信が絶景に感嘆して筆を捨てたと言われている。

あにいは茶店で焼き団子と甘酒を巡礼たちへも振る舞った。

発つまでに、通りかかった巡礼を呼び止めては茶店の甘酒を振る舞っている。

大分振る舞ったつもりだったが二百四十文だという。

喜んだのは幸八と藤五郎で打飼袋から差を一本二人で二百文盆に置いた。

あにいは巾着から四文銭十枚出した。

「おめえら覚えておけよ。先に荷を軽くしやがって」

どうやら銭が重いので振る舞いで軽くしたかったようだ。

御所の芝は上皇の熊野詣の行在所が置かれたこともある絶景の地だ。

藤代王子(ふじしろ)から二十丁、藤白塔下王子(ふじしろとうげ)からは下りが続いた。

橘本王子(きつもと)までの十五丁の下りは草鞋の布が良いすべり止めに為った。

「なんかねえ」

「どうした幸八」

「いやね上り十八丁より下りの方がつらいとは」

「若い衆(わかいしゅ)反対のこちらから行く方が下りは強く(きつく)感じますよ」

「あの登りを下るのは箱根よりきつそうだ」

七丁で所坂王子(ところざか)。

「ここには蜜柑の原木、橘の樹が有りますが、千年以上前の樹とは思えぬ若さが有ります」

田道間守(たぢまもり)の伝承を誰かが利用したようだ。

新兵衛は「何代目かの子孫じゃないですか」と言っている。

十二丁で一壷王子(いちつぼ)。

巡礼が峠は二段で三十丁と脅かしてくる。

「拝の峠の休み茶見世で一休みすりゃ大丈夫ですよ」

新兵衛が助け舟、途中で休めと言う。

十丁ほどで沓掛の集落、急坂手前にわずかだが平らな道に為り、拝の峠の休み茶見世が有った。

「集落から十丁は上ったかな先はどうなる」

女将は良い声で教えてくれた。

「そうだが、急坂胸突き八丁だが」

「その先は」

「平らになって八丁で蕪坂王子(かぶらざか・蕪坂塔下王子)だが」

午後四時五十分に休み茶見世を出た、日暮れまで一刻ほどだと茶店の女将が教えてくれた。

峠の下りは緩やかだったが急に急坂に為り道がうねっている。

十八丁ほど下った坂の途中に山口王子(やまぐち)。

三丁下れば平らな畑地が続いている。

山の斜面は石垣と蜜柑畑だ、

十三丁先、川の手前に宮原宿が有る、渡し場迄土手から五丁程あるようだ

時計は六時三十五分陽が山陰に入っている。

さかや ”という宿へ泊まるといいと巡礼たちが言うのでついていった。

巡礼たちは八畳一間、此方は二間とれた。

巡礼の先達は襖を開けて一緒に飯を食いながら歓談した。

次郎丸達も付き合ってその日の酒を控えた。

どうやら蜜柑船の仕切りをしていたようで詳しい話を喜んでしてくれた。

今は住いが堺だが、元は移出港の有田川河口の北湊で廻船業者だという。

三百石から千石の船五艘で蜜柑に材木を運んだという。

北湊は小蜜柑の江戸送りだけでも百万籠を越したという。

先達の取引先は伊勢、浦賀、木更津に有ったという。

五十の時妻が死んで養子息子夫婦に身代の八割を相続させ、堺の取引だけ自分でやることにし、昨年六十に為って番頭夫婦を養子にして身代を譲って熊野、西国の巡礼をしているという。

あにいが「今年の江戸の春相場は小売店がひと籠九分だと言っていましたぜ」と振った。

「例年湊積み出しが二籠三分だったが今年は銀八十匁と聞いたぜ。なぁ元吉はん」

ひょろりとした男に聞いている。

「おととしから見ても値上がりしていると聞いたよ」

五百石船で三千籠積めるという、三百五十艘ほどに相当する蜜柑が関東へ送られるという。

「紀文が万両稼いだも納得できる話ですね」

「ここの藤兵衛と云う人は有田小蜜柑四百籠積んで大儲けしたのが百八十年前でしてね、今とは大違いの儲けを出したそうですよ。紀文はこっちじゃ読み本の類と云われています」

「蜜柑組は二十九組と聞き申した」

新兵衛めとぼけていると次郎丸は可笑しかった。

「左様です、元締めは此処宮原を含めて三人、なかなか威勢の良い事でしてな」

百万籠をひとかご銀四十匁で積みだして倍に為れば何千人もが生活できる。

紀州藩では正徳四年(1714年)の新金銀吹替え後には半分、ひと籠銀五厘の税を掛けた。

元禄のころひとかご銀一分。

吹替え後に二十籠銀一匁で四十万籠と結は調べたが、今はそれ以上出荷されている様だ。

次郎丸はその話を聞いたとき前の銀一分は四朱の方じゃないかと聞き返したほどだ。

そんなに税が安いなど信じていいのか、そう思った。

「元値ひとかご一両で四分一ではないのだね」

「間違えなく、五厘と有るので匁の下の分(ふん)のはずです」

其処まで優遇されていたかと驚きで有った。

今時は銀五十貫位だろうという、これに京大阪の分も入ってくれば年に銀百貫の税が納められているはずと云う。

紀伊國屋文左衞門(きのくにやぶんざえもん)の蜜柑伝説は噂ですかと幸八に藤兵衛は「淀屋とおんなじだ」とがっかりしている。

「大儲けは自分でやりな」

兄いにけしかけられている。

「ところで新兵衛様。紀三井寺からの道は幾つもあるようですが本筋らしき道はまだですか」

「実は川向こうの得生寺の手前に為るのでまだ先なのだ。五年ほど前に来たが道しるべは紀三井寺へ四里と為っておった」

先達は「ここからでも南へ川沿いに下ればその道へつながるんでございますよ」と手控えを開いて見せた。

定家御幸記十月八日藤白宿泊まりという所からを渡した。

九日の所に王子の名が漢字、片仮名、平仮名混ざりで書いてある。

宮原晝食所、熊野道紀三井寺一里塚“ いとか王子 ”“ ・イトカ山峻嶮・ ”“ サカサマ王子 ”とあるが渡しの事は書いてなかった。

「これを時々開けば前に来た時の記憶が簡単によみがえるんですよ」

「渡しはどうしたんですかね。サカサマ王子てのも凄い名ですね」

「省略したみたいですね。逆川(さかさがわ)が有るので当時はそのように呼ばれていたのではないでしょうか」

明日は湯浅迄一緒にと云われ、卯の刻の朝飯を食べての出立と決めて亥の刻あたりに寝についた。

三月八日1814427日)・四十一日目

九日目、朝の一番船の客が出た後、飯が運ばれてきた。

その時には一同は新しい草鞋も履いていて、飯を食べ、汁を残さず飲み干した。

「このふのりは素晴らしく旨い。もっきりでなきゃお代わりしたい位だ」

「藤五郎さん。この辺りは今が最盛期だ、湯浅で言えば鍋ごと出してきますよ」

先達も「飽きられると困るから三杯汁がいいところです」と云って有田(ありだ)の布海苔を自慢した。

真冬の時期をはずせば河口から十丁ほどの沖ノ島、地ノ島が特に良質なのだという。

さかや ”を出て土手を降り、渡し場へ向かう人の列へ入った。

朝に夕は二艘で人を運ぶので回転が良く、すぐに十二人が一緒に乗ることが出来た。

「わしらに付きおうて酒をのまんとは律儀な御人たちじゃ」

巡礼の中で一番若いという小太りの男が笑って兄いに話しかけた。

「たまに飲まないより、たまに飲む方なんだよ」

「冗談ばかりじゃ。湯浅は何しに行くじゃ」

「醤油蔵見て温泉でふやけるのさ」

「何の商売していなさるのや」

「俺は国が出羽の酒田で江戸に京、大坂で新刊の本や古本を買って酒田へ送るんだよ。ありだのこみかんが送れりゃ大儲けだが、日にちが掛かりすぎて駄目だそうだ」

「そうか、どんな急いでも船でひと月がいい所か、その位なら食えるじゃろうに」

「ひと月で着けばいいんだが、冬場のみかんでギリ食える限界だそうだ」

「日持ちの良い小夏ちうのが日向からやってきたと言うがよ。堺で五十籠しかはいらんじゃ」

「日向からは来ないのかい」

「扱うほど樹が多くないと聞いたな。時期も悪いんじゃ、三月から六月の間で収穫は百日くらいだとよ」

船を降りても二人は話に夢中だ。

「そりゃ船に氷室でも無きゃ無理だな」

「氷室で思い出した。こみかんなら今でも食えるじゃ」

「どこで食えるんだね。本場でも時期が終わってお目に掛かれていないんだ」

「糸我峠の茶見世は夏でも出るくらいため込んでいるじゃ」

「道中で食えるならそこへ寄ろうぜ」

土手の道を右へ折れると集落へ入った。

追分に道しるべが有る。

元禄二年 ” “ 順礼道すくによし 右左ハさとみち

“ これよりなら山へ 四十四 ” “ これよりきみいてらへ四り

大きな字で彫られていた。

「この四里ですが当てにゃ出来ません」

新兵衛も大分遠かった記憶が有るという。

「この先の一里塚も四箇郷(しかごう)一里塚から五番目ですがどう見ても紀三井寺から一里じゃ四箇郷は有りません」

「南龍公様の時の里は今の三割ましで一里塚は正確さより追分付近の目印と聞かされた」

「そうなんでしょうな。二十丁くらいで出てきたりして最初の巡礼の時は面食らいました」

「藤谷の旦那はそれ以来わしら物好きを誘って巡礼に回りなさる」

巡礼たちは交互に名を教えてくれたので次郎丸達も名乗った。

道の右手に中将姫所縁の得生寺、先達が此処で匿われた話しをしてから、先の稲荷を指差した。

あそこが我が国最初の稲荷神社で“ 伏見より六十年ほど古い ”と伝わると笑って教えてくれた。

一里塚を通ると二股に道が分かれていて左へ先達が進んだ。

宮原宿“ さかや ”から二十二丁ほどで糸我王子(いとが)だ。

この付近もこみかんの樹が段に為って数えきれないほどの樹が植えてある。

坂が急になり休み茶見世が二軒軒を連ねている。

奥の見世で表に出ていた女が此方を見た。

先達が笠を上げると驚いたように駆け寄った。

「まぁ、旦那様今年は来ないのかと心配しましたよ。ひと月も遅いじゃ有りませんか」

「四国へ行ったが雨続きで難儀したんでこっちは後へ為ったのだ。なぁ、頼みが有る」

「なんですよう。水くさい。ま、腰かけてくださいそれからゆっくり聞きますから、お茶で宜しいでしょうか」

頷いたので見世へ案内した

次郎丸達も立ち止まっていたので奥へ「おみつさん、十二人さんだよ」と声を掛けた。

一渡り茶碗が回ると前に片膝付いた。

「お願いとはなんです」

「ひと月早いが冷えたこみかんを一人ひとつ食わせてほしい」

「もう、一つくらいで大袈裟ですよ」

裏へ回ると一刻(十五分ほど)で若い衆が笊へ山に持ってきた。

一人二つ食べても二十個以上余った。

先達は街道を通る巡礼に一つずつ配って途切れると戻った。

一つ残ったのをみて四郎は「かんとひとつのこし」と笑った。

「何の呪文だんだ、教えてくんなさい」

「江戸あたりじゃ。最後に一つ残るとそれを言うのさ」

次郎丸が丁度現われた一人旅の老巡礼に手渡した。

冷えた手触りに「これが茶見世の名物夏のこみかん」とうれしそうに食べてくれた。

逆川王子(さかがわ)迄十一丁程の急坂の下り道が続いた。

「上り十一丁、下り十一丁」

兄いはぶつぶつ言っている。

「この先の峠は通りませんよ下道ですから」

ほんのわずかな上り下りで川へ出た。

「もしかしてこれが逆川」

「この先で本流へ流れ込んで戻ってきます」

十丁ほどで川が現れた。

川に沿って下ると橋が架かっている。

橋の先が湯浅の町だ。

「久米崎王子(くめさき)まで十丁程ですからそこでお別れしましょう」

先達について街中を抜けた。

次郎丸は巡礼たちと別れると厳しい目で周りを見回した。

「兄貴もおかしいと思うか」

「土手下から付かず離れず商家の手代風の奴が二人さっきは物陰で覗いていたが」

「一人は消えたが、もう一人」

いきなり社の裏へ回り込んで首ねっこを抑えて連れ出した。

「怪しいもんじゃ有りません」

「怪しいやつに限ってそういうんだ」

「四郎離してやれ。知り合いだ」

若さま隠れる気はなかったのですがとしょげている。

「あにいが酒田へ戻った後紹介された壽助と云う丸三の手代だ。なんで湯浅にいる」

「旦那様が急に隠居して、落ち着くまでのお手伝いです」

「見世仕舞したのか」

「駒次郎様が番頭の後ろ盾で後を継がれました」

駒次郎は淡斎次男でこの歳十六歳だ、新和泉町と屋敷にも近く、剣術好きで四郎や次郎丸に可愛がられている。

五十年配の身なりの良い男と、頭一つ抜きんでた男があわてた様子でやってきた。

「おかしらぁ」

次郎丸はとっさに手を広げて「ちょっと待て」と二人と案内してきた男を止まらせた。

「新兵衛殿、これから見聞き(みきき)することは三浦様親子の他には話さずに済ませてくれぬか」

「委細承知」

「孫三郎。油断するな、いくら地元と云え耳目も有る。まるで盗賊のお頭みてえだ」

「つい御懐かしくて」

「ふん、火事からこっち、正月にも会ったじゃねえか。そちらは誰だね」

「本家の兄の太郎兵衛で御座います」

太郎兵衛は次男だが、長男は夭折したと聞いた、江戸深川西永代町が本宅のはずだ。

孫三郎の長男を養子にしている。

孫三郎は名のように三男で兄の商売を受け継いで分家した。

「実は三浦様から歓待するなり温泉でふやけさせるなりよろしく頼むと使いが来ました」

「よく宮原の方から来ると知れたな」

「使いは宮原へお泊りと云うので、渡しまで使いを出しました。そしたら巡礼が同行と云うので声を掛けそびれたと聞いて此処へお迎えに」

「二人とも隠居か」

「私は付き合いで紀州へ遊びに来ました“ ゆっくりお話がしたいものです ”」

「俺のような駆け出しの若造に痛み入る」

嫌も応もない孫三郎の新宅へ連れて行かれた。

道中の本陣より大きい、庭も広く取られている。

「ここが出来るのを待って隠居しました」

まだ五十前のはずだ、敦盛でも気取ったか。

「醤油蔵を見に来たんだ、せめて昼からは二.三軒は回りたい。それとな栖原の湯治宿の温泉が目当てなんだ」

「今晩は我が家で、昼からシラス網、四つ手でシロウオを取るように申し付けてあります。明日の朝から温泉めぐりで一晩泊まる、翌日も朝から温泉めぐりでふやけてくだされ。それで我が家へ戻って泊まってくだされ」

食い気も挟んできた、遊所へ誘っても動かないと知っている。

シラスは鰯、シロウオは鯊の仲間、シラウオはワカサギに近い種目。

「新兵衛殿、それでいいかな」

「船の便がどうなっているんでしょう」

「明々後日(しあさって)に七丁櫓二艘仕立てます」

えっ二艘ですかと新兵衛は不審顔だ。

「私たちもお城下へ買い物に行きます」

未雨(みゆう)に「どこか一日飛ばすようだぜ」と四郎は楽しそうだ。

昨年十一月の火事の後急に無常でも感じたのかと思えばだいぶ前から考えていたようだ。

余談

砂糖問屋河内屋孫左衛門、幼名孫三郎、孝友。

武功年表-巻之七 - 寛政元年(1789年)より文化十四年(1817年)。

文化十年癸酉十一月二十九日夜砂町西側より出火。西風列火く(列の下へ火で一字にしてある。烈火と同意義)竈河岸、小〃より(此処より)和泉町東側より大坂町、堺町、葺屋町、南座の芝居、難波町、よし町、乗物町、稲荷堀、酒井候。翌朝六時鎮火。

竈河岸は住吉町(スミヨシ)、難波町(ナニハ)の南(ヘツイカシ)。

稲荷堀(とうかんぼり)・十日堀(とうかぼり)とも、小網町と蛎殻町の境。

和泉町、大坂町、乗物町ともに新が省略されている。

・・・

新兵衛と兄いが相談した。

丸川-角右馬(中町)池永右馬太郎。

山丸-角長(北町)加納長兵衛。

此の二軒を訪れた。

ほぼ同じ間取りの醤油屋で屋内通路である通庭の先に台所、上が吹抜けに為る造りだ。

仕込み蔵・室・詰場, 圧搾場, 澄まし場, 樽藏、少し違いはあるが長年の知恵が詰まっている。

申には間が有る「もう一軒行きますか」と新兵衛が、道町へ小路を抜けて“ 山せ ”山形屋久保瀬七の見世へ連れて行った。

金富良「コンプラ瓶」が置いてある、醤油瓶で“ JAPANSCHZOYA ”と書かれている、

コンプラドールで仲売人の事が誤って伝わりコンプラ瓶と為ったようだ。

兄いは大分と瓶が気に入ったようだ。

「どの位送れるのですか」

「見世では年六百本の契約です」

「どのくらいまで増やせるのですか

「同じ味なら三千本は集められますよ」

「酒田へ送る便は」

「堺経由ならあるが、ひと梱百二十本で銀五百匁掛かるそうだ」

大分高い運送費だ買える物かと高く言ったようだ。

「六百本を込みだと幾らで請け負います。瓶が間に合うなら一度の方がいい」

藤五郎に「お前が扱えよ」と言っている。

「銀八貫五百なら受けますよ。来月初めには送れます」

どうやら酒田から松前にでも送るようだ。

「小判だと、どする。両替してきてもいいだが」

算盤をはじいて番頭を呼んだ。

「百四十一両と銀六匁七分」

「若さん、軽くしていいですかね」

「いいともよ」

幸八と藤五郎が五十両ずつ出して残りを兄いが出した。

まさか値切らずに前払いとは思っていなかった様だ。

用意してある荷受人の名を書いた紙を渡した。

酒 田 湊 正 五 郎 内 庄 五 郎

「信用してくださるので,それであなたの名は」

「湯浅を信用する」

そういって別の紙を出した。

酒田 駒 井 新 兵 衛

「これは俺の名で荷を扱うのはこの男だ」

そういって紙は引っ込めた。

藤五郎が“ 酒田 加 藤 藤 五 郎 ”と書いて渡した。

「ほかに買いたいものも有れば送りますよ」

番頭が商売っ気を出して聞いた。

「金山寺味噌を買う積りだ」

「買いなさったらこちらで送りを引き受ければ手間いらずですよ、中町の玉井なら取引も有ります」

いっしょに行くと主が“ 山三 ”大坂屋玉井北村三右ェ門に案内した。

ひとしきり由来を聞かされたが六十両で折り合って送りは“ 山せ ”が引き受けた。

未雨(みゆう)の振り分けから五十両、十両はあにいが出した。

ひと梱の重さに数量を“ 山せ ”の瀬七が控えて自分の見世で番頭にわたした。

「小判で八両、銀なら四百八十匁」と言う。

兄いが八両出した、まだ小判に一分金は有るようだ。

四百匁程度の銀は後で買い物も有ると持っていくようだ、大分使ったはずが、いったい幾ら持っているんだと四郎は呆れている。

生シラス、釜揚げ、シロウオの踊りは酒に醤油を垂らした汁に小鉢から小網ですくい入れて食べた。

天麩羅と出てから、鴨の鍋と鶏の天ぷらが出た。

飯が出てきたら鯛めしに為っている。

孫三郎は幸八を気に入ったようで道中の面白話を盛んにしている。

太郎兵衛は「商売は順調ですが子や、孫たちに残してわたしも紀州へ戻ろうかと」そう言って次郎丸へ酒を注いだ。

「紀州はこれから窮乏するぜ。なんだかんだ冥加金をせびられるぞ。献金地士や武士にしてくれても金はせびり続けるはずだ」

「金ならいいですがお手打ちは困ります」

「どうせなら義倉の事を考えたらどうだ。酒田、越後は豪農に頼んでやらせているぜ」

「どの程度の規模でやれば」

「一万人が一年食いつなぐには米だけで一万石」

「げげっ」

「そんなに食いはしないが、一人扶持なら一石八斗だ、その半分は食うだろうが、一人でやれとは言わんよ、百人でやれば百石だ。一年一人十石を積むことから始めりゃ賛同者も増える。よしんば一人一石でも年に百石積み増していけばよい」

「入れ替えれば済むということですか」

「三年で前のを出すように仕手もいいし、毎年入れ替えれば味も保てる。一石あれば千人が一日食いつなげる」

「生きられるぎりぎりの一日一人一合ですか。それにはまず置いておく倉ですか」

「こいつばかりは無いと出来ないからな」

未雨(みゆう)は何か考えていたが「船はもう頼んであるのかね」と手代に聞いている。

「まだですが。都合でも」

「できれば朝早い方がありがたい。買い物もあるし、十二日に信達宿(しんだちしゅく)へ入りたいので、買い物は前日に済ませたいのですがね」

「朝卯の刻に出りゃ巳の下刻に紀湊ついて、寄合橋に午には着きますな」

「若さんそれでいいですかね」

「飯屋の蛤食えそうかい」

「なんです若さん」

「孫三郎がいくら紀伊の出でも松江浜の蛤はめったに食えないだろう。城下へ出るなら付き合うか」

「あしに食わせりゃ二十は食いますぜ」

「御供入れて五十は大丈夫ですぜ。百五十頼んで於きました」

未雨(みゆう)は人一人十個くらいで飽きるだろうと踏んでいる。

三月九日1814428日)・四十二日目

十日目、朝粥の梅干しで酒のけが抜けてゆく。

一行七人に孫三郎、太郎兵衛の兄弟と手代二人も付いてきた。河岸を渡り西へ向かえば栖原の集落まで十丁ほど。

三軒の湯宿は同じ湧水を沸かしているという。

「龍神とは違いますが、御城下の女たちは肌が光ると言ってやってきます」

「それで“ 珠の湯 ”に“ たまや ”と“ ひめのゆ ”か。飯屋の小女まで知っていたぜ」

手代は“ たまや ”へ案内した。

「朝風呂で酒でも飲んだらぐうたらの出来上がりだぜ」

「ここを根城に三軒回れるように手配しました」

「三度入るのか」

四郎も呆れている。

とりあえずひとっ風呂と次郎丸は未雨(みゆう・吾郎)と風呂場へ向かった。

女が五人湯につかっている。

商家の若女将風が三人と、陽に焼けた老婆が二人いた。

かけ湯をして空いているところへ入れてもらった。

湯の手触りが良い、熱過ぎないのも次郎丸にはちょうど良かった。

「よくおいでですか」

女の一人が声を掛けた。

「初めてだよ。熱すぎないので長湯が出来る」

老婆がここぞと「年寄にはありがたい湯だ」と話に入り込んだ。

「よく来るのかね」

「月一度ですだが。三日遊びに息子が出してくれるだが」

「親孝行な息子だね」

「こみかんの収穫時期は卯の刻から酉まで稼ぐからの、この時期は網編みで稼いどるだが」

「魚網かい」

「そうだが。息子の一人は日向の小夏など儲からんものやっとるだが。こんひとん娘が嫁じゃ」

そのおばばは、やっと番が来たという顔だ。

「お武家さん江戸詰めだが」

「いや、一人藩の人も来ているが、わしは江戸の別の藩だよ」

若い三人と入れ替わりに幸八と藤五郎が入ってきた

「十人は湯に浸かれそうですね」

かけ湯して手で湯の温度を確かめて入ってきた。

「箱根では熱くて往生しました」

言っている傍からこんこんと壁を叩く音がして、木の樋から湯気の立つ熱水が流れてきた。

「いきなりじゃ参るぜ」

樋から遠ざかっている。

おばばは藤五郎達とも世間話をして出て行った。

次郎丸と未雨(みゆう)が戻ると新兵衛と兄いについて手代も風呂へ向かった。

「孫三郎と兄さんは行きませんのか」

「夕に入れば十分です」

「附いてきた意味ないぜ」

宿の女将が蜜柑の大きいのを持って来て皮をむいて勧めた。

「こりゃ不思議だ、酸味が弱い」

「孫三郎は食べたこと無いのか」

「兄さん知っていますか」

「俺も知らんよ。どこから来るんだね」

「たぁですがな。小夏言います」

「おや、さっき風呂場にいたバァさんが言っていた名だ」

未雨(みゆう)が「巡礼の小太りの親父が兄いに話していましたよ。若さんのとこまで聞こえなかったですか」という。

「船の前と後ろで声が届かなかったようだ」

女将はその婆さんの家が周りに勧めて樹を増やしているという。

「こみかんの後で収穫出来ますので遊びが出ませんだが」

でもねェと言って言葉を濁した。

「どうしたお栄」

「あの二人仲いいんですけどね。一人のばあさんのは次男が漁網の織場を持っているのに、長男は小夏でしょ」

共にいい稼ぎ人なんだろというと話し出した。

「こみかんが終われば漁網の織場が安い工賃で人を集めますだが、こみかん終わりに小夏で稼げるなら安い工賃の織場へ来てくれませんだが」

「そんなに網は安いのか」

「女手の方が仕事は細かくて綺麗なんだそうですよ。でも女じゃ工賃余分にくれませんだが。こみかんほどは稼げませんが織場の倍になるんだが」

午の前に次に行きましょうと“ ひめのゆ ”へ向かった。

此処でも次郎丸が先に湯へ行くというので未雨(みゆう)と兄いが付いてきた。

若女将が二人と女中っこと言うくらいの子供が三人先にいた。

「あれお侍さまも湯めぐりですか」

「龍神が片道急いで二日は掛かると城下で言われて、手短に此処にしたのだ」

「私たちは明日(あした)その龍神へ向かいますのさ。去年は込み合ってこの風呂場くらいに二十人は入りましたよ」

「そんなに人気かい」

「こみかんもお仕舞で田植え前でお百姓さんでも暇な時期ですから」

五人が出ていくと藤五郎と手代の二人が来た。

「あの人たちも湯めぐりですか」

「明日は龍神へ向かうそうだ。大分裕福な家の様だな」

「中町の穀物問屋と道町の太物呉服の女将さんだそうですぜ。なんでも姉妹で旦那は婿だというんですがね」

「ややこしそうだ。若しかして婿に迎えて店を持たせたってとこか」

六人でわいわいやっていると四郎と新兵衛が来て「幸八は湯あたりで寝ている」と笑いこけた。

珠の湯 ”でも次郎丸が先に湯へ入った、男ばかり五人ほどが居て、高野山へ明日向かうと話している。

その日は元へ戻り“ たまや ”へ泊まった。

・・・

三月十日1814429日)・四十三日目

十一日目、たまや ”の朝飯は辰に頼んであるという。

豪華だ、昨晩も驚く品数で手代迄がほたえて(騒いで)いた。

「朝どれシラスだが」

鉢に有るのを分けてくれている、このために朝を遅く頼んだようだ。

釜あげしたばかりだというのも大根おろしと出ている。

凍み豆腐の煮物は芋が付いている。

「京芋いいますだが」

先手を取って女将が教えてくれた。

「ふのりが美味い」

味噌汁に豆腐の小切りと入っている。

皆がお代わりを頼んだ。

「三杯までですが」

土地の決まり文句だろうか、巡礼が言ったようなことを女将も言った。

鰆のひと塩も有る。

朝風呂へ次郎丸が四郎と新兵衛の三人で行くと、昨日の朝の若女将がおばば二人と入っていた。

「おや、あんたは龍神へは行きませんのか」

「あたいはあん人たちとは初めて会いましたのさ。今日はこの後由良へ戻ります」

「由良と言うと近くなのかね。俺たちはばらばらの国から来ているんだ」

「一里ほど海岸を南へ行った町ですよ」

おばばは「龍神は十年前に行ったことあるが南龍公様んおかげで風呂も直したばかりで綺麗なもんだった」と言う。

「殿さまが風呂を」

新兵衛が「亥の年ごとに風呂場を改築します」と次郎丸と四郎に教えた。

「と言うことは来年また綺麗になるのか」

「そうだが、でもなぁ二十里もあるでな」

有田川河口の北湊には高野山詣での船が着くので歩く人は多いという。

城下からも二十五里は有ると新兵衛が言う。

「なぁ、おばば殿。息子のこみかんの畑は遠いのかね」

「いんやぁ。わしの足でも一刻程じゃ。こみかんに興味でも」

「興味はあるがもう時期も終わってこれから花の時期だろ」

「そうじゃもうじき花ばかりじゃ。長男の小夏は今が収穫始めてこれからだんだん忙しうなるで」

「その小夏の畑見せてもらえるかな。俺たち家老の三浦様に教えられて此の湯に来たんだ」

新兵衛が名乗ると「俺たちこれで戻るが一緒に来なさらんか」そう言って湯から出た。

四郎が女将に頼んで駕籠を呼んでおばばを載せて出る支度をしていると兄いと未雨(みゆう)も出てきた。

幸八と藤五郎を話し相手に残してきたという。

半道も行かずに四郎が笑い出した。

「どうされた」

「兄いもそうだが、若さんも湯に飽きて逃げ出したかったようだ」

皆そうだそうだと大笑いだ。

「孫さん膨れて居った」

「逃げたと思ったでしょうよ。申までに戻らにゃ本気で怒りだす」

浜沿いを二十丁程行くとこみかんの畑が続く道を丘へ上ると大きな屋敷が有る。

「みかん御殿の様だ」

次郎丸は豊かな農村だと感心した。

その家に駕籠が着くとおばばが「戻ったぜ」と声を掛けた。

「駕籠で戻るなど御珍しい」

「こん人たが小夏の畑が見たいというので連れて来たんじゃが、長介は何処にいる」

その間に兄いが駄賃を余分に渡して籠を帰した。

その長介だろうか納屋からのっそりと出てきた。

「こちゃお城の下条様の若様、その右が三浦様に言われて湯治に来た本川様。後は御供じゃ」

未雨(みゆう)が駿河屋の羊羹を二人のおばばに手渡した。

家の裏手のこみかんの畑を抜けると南斜面に五段の黄色い実が付いた樹がならぶ場所へ出た。

番小屋で五人ほどが選別している。

日向夏がだいぶ増えたという。

三宝柑に比べ日持ちが良いという。

「お殿様の御帰国に合わせて収穫するだが、二十六日朝に城下の田原屋さ届けるだが」

畑番の上兵衛と云う親父はその一角十本を猪除けの柵で二重に囲っている。

鳥除けの網が三本の樹に被せてある。

「鳥除けと云うより早く熟さねえように日よけだが」

長介はその男を小夏の生き字引だと煽てている。

一回り見て次男の漁網の織場を聞くと長介が案内すると先にたった。

北斜面もこみかんが植えられている。

「こっちでもいい出来なのか」

「南斜面が終わるとこっちが始まるので最近は畑地が増えました」

浜の一段高い屋敷の脇に十軒ほどの織場が有る。

これだけあると人手も多く欲しいのはもっともだと思った。

新兵衛は話を聞いて、上手く人を集めるにはこみかん並を出すのが本当だと、すげないことを言っている。

「儲けが少ないのですだ。あまり売れませんでな」

次郎丸は「自分で卸すのかい、仲買人が集めるのかい」と聞いている。

自分で売店を湯浅に出していますという。

なかなかの規模の様だ。

兄いは出来を見て「安房で見たよりいい出来だ」と感心している。

浦賀や江戸でも売れないのかねと聞いた。

「安くたたく業者ばかりで話が進みませんだ。中には品質落として安くしろといいますだ」

「手持ちは」

「鰯網三十組、シラス網十組。今はイナ網を同業三軒で織っています」

「知り合いに話してみるよ。良い品質だ必ず売れるよ」

長介と二人で栖原近くまで送ってくれた。

たまや ”の前では孫三郎たちが心配そうな顔でうろうろしている。

まだ申には為っていない。

三月十一日1814430日)・四十四日目

十二日目、日の出ないうちに起き出して梅粥を食べた。

薄明るくなって家を出ると、湊では二艘の船の準備が出来ていた。

卯の刻(四時四十分頃)の鐘がのんびりと響いてきた。

弱い陸風が便船を湊から送り出した。

次郎丸が先に乗ると手代が、新兵衛にどうぞと言ってもう一艘へ案内した。

孫三郎の船には太郎兵衛、兄い、未雨(みゆう)と次郎丸が乗り、新兵衛の方には四郎、幸八、藤五郎に手代二人が乗り込んだ。

「出してもいいですか」

船頭が声を掛けたのが五時ちょうど。

凪の内で押送船(おしおくりぶね)は海風が吹く前に十分沖に出た。

有田川の河口の岬は猪の鼻のような形に見えた。

「宮崎の鼻です」

太郎兵衛達は猪の様には見えないと笑った。

便船を追い越してどんどん引き離してゆく。

北湊から出たいさばは沖へは出ずに陸地に寄っている。

塩津から出たいさばに便船もあまり沖へは出てこない。

有田(ありだ)沖ノ島の沖合に出ると、帆を張って海風の力を借りて紀港へ舵を切った。

見える船がどんどん後に為る。

「あにい、塩津からとあまり変わらねえぞ」

兄いが時計を見るとまだ九時前だ、風を捕まえれば漕ぎ手も楽になる。

「四時間たらずですぜ。十時前にゃ湊へ降りれそうですぜ」

兄いは何を買うか未雨(みゆう)と話している。

「有田の代官所に顔を出さなかったが後で揉めないか」

「三浦様から私の方にへ連絡するくらいですから、なさっておられますよ」

「おいおい、あにい。孫さん俺等よりお気楽者の様だ」

寄合橋の船着きについたのは十時半。

ことやへ荷を置いて飯屋へ行く前に次郎丸が孫三郎たちに漁網の話をした。

「二百両ほど損切りの積りで扱う気は無いか」

「元は鰯網漁で儲けました、昨今また豊漁で網は幾らでも必要になります。地元の為だ兄貴と一緒に応援します」

新兵衛「侍と違って応諾が早い」と感心している。

「ところで宿は有るのか」

「ここへ泊まれるか聞いて、二部屋取りました」

「なんだ自分たちの家屋敷が城下にないのか」

「そこまで手が回りません」

午の鐘で飯屋へ行くと小座敷は空けて待っていた。

「すまないなぁ」

「いえ、お使いが来ましたよ」

そう言って藤五郎をちらと見た。

そういうことかと次郎丸は呆れた、酒田でも此の調子なのだろう。

幸八と兄いは慣れっこの様だ、そういえば湯であった若女将の情報もどこで聞いたのだろう。

増えた四人は飯も食わずに蛤に夢中だ。

「よくこんな沢山焼けるな」

「あたいのあねさん二人手助けに呼んだが」

次郎丸はそれでも十個食べた。

「いい香りだ。自慢するだけある」

桑名と熱田、間の噛みごたえだ、熱田ほど固くない。

藤五郎は焼く人の腕もいいと煽てている。

「これで百五十。後は見世の奢りだがどんどん食べてくんな。飯か汁はどうしなさる」

そういわれて漬物のしぼり大根を時々口へ運んだくらいだと気がついた。

店にいる客に二つずつ奢りだと出している。

誰も飯とは言わないが「汁の中が蛤じゃないよな」藤五郎ももういいやという顔だ。

「豆腐にふのりの味噌汁だが」

「なら頼む」

全員がそれなら頼むと出してもらった。

汁と大根で二百六十文だという、未雨(みゆう)は刺し三本出して「釣りは饅頭でも買いな」と笑わせた。

未雨(みゆう)いったい重いのがまんして、いくら持っているのだろう。

次郎丸は新兵衛に言いつけた。

「新兵衛殿は家へ旅支度に戻り、明日の辰に宿を出るのでそれまでにことやへ来てくれぬか」

「わかり申した」

兄いと藤五郎に幸八の三人は買い物と書肆へ行くと出て行った。

孫三郎たち四人も買い物だ買い物だと言いながら本町の通りを京橋の方へ向かった。

三人で本願寺を抜けて堀が川へ出る端まで歩き、番所手前の伝法橋を渡った。

城の西を南へ進んで鐘堂の近くだという刺田比古(さすたひこ)神社の方へ向かった。

有徳院(ゆうとくいん)様所縁を寄らねば兄上にも怒られる。

参拝は簡単に済ませ境内を巡った。

其処から東番所の裏手で和歌川の大橋を越えて新町へ入った。

真田堀の別れの場所は川幅が一段と広く、東北から和歌川が流れている。

そのままことやへ戻ろうか見ていたら申の鐘が北と南から聞こえてきた。

「そいいゃあ湯浅で羊羹食い損ねたな」と四郎が思い出した。

「一本ありますが。後で食いますか」

「足りないとまずいから三本ほど買いたそうぜ」

番所のある鈴丸橋で北新町へ入り、甫斎橋(ほさいばし)で真田堀をわたって本町を横切り、駿河屋で羊羹を三本と二本に分けて買い入れ、付近の見世を覗きながら本願寺東側でまた本町へ出た。

横切って住吉町からことやへ戻った。

「ところで二本余分を買ったが何処へ持って行く。江戸までは荷物だろうに」

「だめですぜ若さん。蔵屋敷用人の倉田光衛(こうべい)様へ紀州和歌山の戻りですと証拠の土産ですよ」

次々人が戻ってきた。

新兵衛が荷を背負って戻ってきた。

「明日で良いと言ったのに」

「母親にしかられて仕舞いました」

「そうか、付かず離れずでは通じないか」

「はぁ。お役目は見張れと云うことだと勘違いしています」

「勘違いじゃねえさ。幕閣に俺が何を報告するかと、疑心暗鬼が女の間で伝わったんだろう」

新兵衛心配そうな顔だ、何か見逃したかと言う顔だ

「隠密なら俺たちを隠れ蓑にして領内を巡るくらいはするだろうが、それほど優秀な隠密なら有徳院様の頃から土地についているだろうさ」

「いますかね」

「全国にいると云っちゃおかしいか」

「噂では、草、庭番、つくばいとか聞きます」

「俺たちは結と言うお仲間で、権現様御指図の金貸し御用達の一部を許されているくらいだ。商人の株仲間の方が結束は強いぜ」

孫三郎に太郎兵衛が「商売の助け合いが結の条件でね。私らの祖父の代から世話に為ったり世話したりしています」とゆとりを持って話している。

「町中で、お頭なんて言われると困るんだ。でも治宝(はるとみ)様の隠密に悟られているんじゃ、大したお頭じゃないな」

ほかの者に見張らせ孫三郎、太郎兵衛、新兵衛に懐の葵御紋入り“通行勝手”の木札に大樹様許し状を見せた。

「俺が容認した者だけに見せてよいとお許しだ」

三人は目を見張って見つめている。

次郎丸が懐へしまうとようやく息をついた。

「それで風呂場でも刀の脇に印伝、下へ服を畳むのですね」

「うむこの刀をどかせば気配でわかる、いくら忍びでも枕探しはし難かろうが財布ならぼろいから油断する」

印伝を見せると「年季が入っていますね」太郎兵衛は驚いている。

徳三郎にとっては見慣れた印伝だ。

兄いの声が聞こえる。

「師匠飯の支度は」

「酉の鐘前には出してくれと頼んだよ。酒は二合で打ち止めだ」

「入っていいよ」

ぞろぞろ入ってひと談義だ。

与力の高橋様がおいでですと言うので座敷へ来てもらった。

「明日のお立ちと聞いてお暇を」

「有難う、大分世話に為った」

「いえ、何分殿からの要請と聞き申した次第で。下条殿もまだ御役から離れられないと聞き申した」

「御家老から伏見屋敷へ案内を申し付かりました」

「道中無事を」

「かしこまって候」

次郎丸は俺には難しい挨拶は無縁だと断りつつ四郎と共に頭を下げた。

孫三郎事河内屋孫左衛門は砂糖取引の上位に入る大物だ、次郎丸との交遊は鉄之助を通じて始まった。

砂糖問屋は消費の増大をとらえ、住吉講と住吉明徳講が有ったが合併し、文化五年冥加金千両を上納するに至っている。

河内屋は文化六年の戻り金(銀)五十五両、銀八分八厘、翌文化七年には金九十五両、銀九匁四分四厘に為った。

昨文化十年の利益は見世勘定で四百九十両だと正月に“ なほ ”に話していた。

「千両儲けるのは大変そうね」

孫三郎は苦笑していた。

余談

戻り金(銀)-荷の運賃の一部を割戻し海難への準備金とした。

文化四年~十年・運賃十櫃銀五十七匁・戻り銀十四匁。

文化五年(1808年)出島取引価格百斤銀六十九匁。

文化五年(1808年)江戸取引価格百斤銀六百六十匁。

長崎へ入る清国の船は百七十五斤一芚で来て、半分が一櫃で八十六斤半に為る。

紀州藩は寛政年間年一万両を五年に渡り幕府から借り入れ、サトウキビ(甘蔗)の栽培を始めた。

・・・・・

食事は久しぶりに一汁三菜の宿や飯だ。

酒の肴に丸干しを一人三匹つけてもらった。

「なぁ、徳三郎、茶は見込み薄かな」

「隠居になに仕事させようというんです」

皆が笑いこけている。

「日高郡清川村では四年前に宇治から人を呼んで茶畑を始めたと聞いたのだ」

「茶を植えるよりこみかんの方が金になる間は無理でしょうね」

「紀州じゃ無理か」

「無理です」

未雨(みゆう)が茶うけに羊羹を出すと孫三郎が驚いた顔だ。

「何時だそうかと思ったが、先を越されました」

何てことだ「実は私も」と風呂敷を解けると駿河屋の羊羹だ。

兄いも「湯浅で食べる気が起きないほど御馳走攻めであっしも買ってきました」と四本出した。

「孫さんのは湯浅へ土産。あっしのはたびの荷物。師匠のを食べましょう」

やはり俺たちはお仲間だ、考えることがおんなじだと四郎が笑っている。

 

三月十二日181451日)・四十五日目

十三日目、卯の下刻(五時四十五分頃)に朝飯を出してもらった。

食べ終わると支度をして辰(七時ころ)にことやを旅立った。

曇りの空だが雨は落ちてはこなさそうだ。

本町御門の鉤手(曲尺手・かねんて)は街道へ向かう者、城下へ入る者で混雑している。

「孫よ、此処で見送りは良いよ」

「いや地蔵、いや渡し場まで」

言いだしたら聞かないのは家系の気性だ。

嘉家作丁(かけづくりちょう)の辺りは見送りから戻るのか、普段着の家族が多く戻ってくる。

地蔵の辻では婆さんが何時ものように巡礼に茶を振る舞っている。

四箇郷(しかごう)一里塚では別れを惜しむ人たちで休み茶見世に多くの人がいた。

田井ノ瀬の渡しの茶店で別れの盃を交わした。

「さぁお別れだ。元気に遊べよ」

「若さんも。未雨(みゆう)師匠江戸で新しい俳諧の本が出たら送ってくだされよ」

「兄貴に頼んだ方がいいじゃねえのか」

「兄さんは俳諧が好きじゃ有りませんから。もっぱら和歌の解釈しか読みません、若さんと気が合うと思います」

未雨(みゆう)は気安く応じている。

「新しいのを見たら送りますよ」

「若さん、弥一郎は勉強好きで商売は兄さんに仕込んでもらえますが、駒次郎は血気さかんと言うか抑えが利きません」

「おいおい、俺に監視させる気か」

「できれば古今伝授」

「買い被りだ。俺だって伝授されていないんだ、知っているだけだ。先生を付けるくらいなら請け合うぜ」

「それでよろしいので気性を隠せる技を仕込んでください」

兄(あに)さんが孫三郎の三男の事を頼んできた。

「松三郎はよく言えば豪胆、物語の紀文にあこがれています。まだ十一なので夢を見るようです」

「一人は兄さん、俺に二人か。でもな俺の養子が決まれば四郎に押し付けるぞ。それでもいいか」

「おたの申します」

「わかった分かった。兄さん(あにさん)と相談しながらうまく育てるよ」

二人に手を合わせて頼まれては、知らん顔も出来ない。

九時過ぎ渡し船へ乗れたのでそこで別れた。

二人は船が向こう岸へ着くまで見送ってくれた。

信達宿(しんだちしゅく)迄城下から七里“ ひょうたんや染八 ”に申刻(四時五十分頃)前に着くことが出来た。

「一人増えたよ。下条様の御嫡男だ」

「それはそれはようこそ御出で下されました」

先ぶれは八日後の三月二十二日で、日程に狂いはないと連絡が来たという。

茶で寛いだ

「大分掛かり申した」

「渡し場の愁嘆場が長かった」

「親心ですよ」

四郎は「孫さんおとなしく隠居で優雅に過ごせますかね」と言っている。

「商売人だ湯浅に戻れば放っておかれるわけがない」

新兵衛も話題に乗って来た。

「こみかん、小夏、醤油、漁網、金山寺味噌。売り物は多い町ですからね。湯浅に甘蔗は集荷しないかな」

砂糖方役所は産地に出張所を置いてある。

「温泉入って高野山めぐりで俳諧でも読む。信じられないぜ」

「大坂にでも誰かに見世を開かせるんじゃねえか」

四郎に兄いもおとなしく隠居は無理だろうと言う。

紀州藩御暇はこの年は美濃路を利用している。

未雨(みゆう)に会いたいと客が来たという。

一刻(十五分位)ほどで戻ってきた。

「加賀様が江戸を出る日の事がわかりました」

「やはり鎌倉、江の島廻りか」

「十六日の江戸お発ちだそうです。七つ発ちだそうですがね。どこへ泊まるかを聞いてひっくり返りました。箱根は通り抜けだそうです。予算銀千百貫」

四郎は「七つなら戸塚迄行くかな」と自分たちと重ねた。

「それがね品川泊まりですぜ」

「夕の七つか」

四郎など茶がこぼれそうで慌てている。

「本郷の藩邸を夕の七つに出て品川に六つに入るそうです」

「費用が例年の三倍だと」

三十日に越前今庄へ入るそうです」

「彦根を抜けるようか大津へ回るのか」

「美濃街道から上街道だと聞きました。鳴海から起宿、垂井で関ヶ原、柏原へ出て彦根番場宿を抜けて木之本」

「関ヶ原から木之本への街道には出ないのか。こっちが伏見から大津へ抜けると草津から桑名なら宮に鳴海で出くわす心配はないな」

「行列の最後の人がうろつくくらいでしょう」

この時の加賀前田家は前田斉広(なりなが)三十三歳が藩主に為って十二年目。

一連の農業改革も成果を見ない今華美に浸り始めた。

「何か難しい順路ですね」

「古い街道が交差しているからな。東海道から美濃路で垂井、中山道で番場、上街道と言う北国街道で金沢へか」

「銀千百貫ですか一万七千両ほどですね」

銀六十四匁一両だとその位だと兄いが言っている。

「正確には」

「一万七千百八十七両二分」

算盤を見もしないで言う。

「銭五の親父が聞いたら卒倒してしまうぜ」

「大丈夫でしょう。最近は信様がらみの話で額が大きい」

「新しい船か」

「ディアオチャン(貂蝉)、ハァンウァ(姮娥)ともに千二百トン。千石船十二艘分の荷が積めると聞きましたよ」

「そんなの入れる湊が有るのか」

「清でも沖どまりだと聞きました。広州でもやっとだそうです」

「江戸だとどうだ」

「品川沖か、浦賀沖で荷を積み替えるようでしょうね」

「大きすぎても手におえんな」

四郎は千石船さえ大川の奥には入れないという。

紀州廻船は低迷期だと兄いが言う。

樽廻船に加わったが纏まりが悪いという。

「ここも尾張と同じで小早に頼ることが多い。五百石、千石は大坂荷を運ばされて紀湊にゃ数が少ない」

ほまち稼ぎの船頭が多いのが小早に多いとの噂だという。

「あにい、ほまちとは風待ちのことかね」

新兵衛は知らない様だ。

「風待ちの湊で臨時の荷を運ぶ連中ですよ」

「街道の雲助駕籠みたいですね。最近は聞かなくなりましたが陸から海へ商売替えしたかな」

幸八など可笑しさを堪えるのに顔が歪んでいる。

・・・・

余談

治宝(はるとみ)公参府と御暇。

寛政元年(己酉1789年)十九歳家督相続~文政七年(甲申1824年)五十四歳隠居。

隠居後和歌山西浜御殿を居所に定めた。

江戸参府十三回、和歌山帰国十四回。

史実の御暇。

枚方宿

本陣-江戸屋池尻善兵衛家。

紀州家家老専用本陣-柴屋中島九右衛門、後に田葉粉屋木南喜右衛門。

文化十一年三月四日-申の刻到着。

文化十一年三月五日-朝正七つ出立。

枚方から信達は距離が有るので七つ発ち(三時~四時)が基本だ。

大坂で止宿したのは文政五年(参府)と文政八年(隠居帰国)の二回。

紀州街道~東海道(京街道大坂~枚方~伏見から伏見街道で大津へ)~中山道(草津から垂井)~美濃路(垂井から起で泊まって熱田へ)~東海道で江戸へ。

寛政三年参府は上海道、享和二年御暇と文化三年御暇は木曾街道。

寛政六年三月に洛中往来と記事を見つけた。

武鑑の参府、御暇は基本。

参府-丑卯巳未酉亥三月

御暇-子寅辰午申戌三月

美濃路起宿の記録。

寛政十年-小休。

寛政十一年-小休。

寛政十二年-小休。

享和元年-小休。

享和二年-・・・

享和三年-泊。

文化元年-昼。

文化二年-

文化三年-・・・

文化四年-泊。

文化五年-・・・

文化六年-泊。

文化七年-

文化八年-・・・

文化九年-・・・

文化十年-泊。

文化十一年-泊。

文化十二年-・・・

文化十三年-泊。

・・・

紀州中屋敷御殿は文化八年二月十六日もらい火で全焼、文化九年建て直し。

文化八年(辛未1811年)在國。

文化九年(壬申1812年)在國。

文化十年(癸酉1813年)参府。

文化十一年(甲戌1814年)御暇。

文化十二年(乙亥1815年)病気在國。

文化十三年(丙子1816年)参府。

 

 第七十二回-和信伝-拾壱 ・ 2024-05-13

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記