三月六日(1814年4月25日)・三十九日目
城下に入って七日目
紀州藩は実高八十万石相当を見ての表高だったようだが、実際は六十万石を下回っている。
平坦地では麦との二毛作も可能で、今は負担の重さにも耐えられている。
税の上乗せ百石につき一斗九升の「糠藻代米」が決まれば六公四民に百石に三石九升。
百石中り(あたり)六十石に二分米が乗り六十二石になり、さらに六十三石九升の税と為る。
表高五十五万五千石で藩の取り分は三十三万三千石が三十四万四千百石、さらに三十五万四千六百四十五石に増える。
三十三万三千石から増えた分が二万千六百石。
堂島高値銀五十八匁で計算すれば銀百二十五万二千八百匁、一万九千五百七十五両となる。
九代紀麟公の蓄積を糠藻代米五年で簡単にしのげると、煽てるものが大殿様の取り巻きにいるようだ。
今紀州藩は藩士からの借り上げ半知を浮置米(借上米)ならせば二割まで戻した。
その分を農民負担に置き換えようとしている。
昼飯はいつもの飯屋で食べた。
兄いが小女に知っているかを聞いた。
「明日は遠出で湯治(とうじ)でもしようと思うがどこがいいのだね」
「遠いけど熊野」
「そこまで行ったら伊勢を廻って江戸へ帰るようだ」
「じゃ、龍神」
「江戸まで聞こえるいい湯だな」
兄いは新兵衛の方へ聞いた。
「新兵衛様どのくらいあります」
「片道二日は強い(きつい)です」
「片道一日なら」
「湯浅の近くに栖原(すはら)」
小女は話が取られないように口をはさんだ。
「中一日入れて三日だんだ。ほんとの湯治なら一回り七んちは湯につかるんだ」
新兵衛が帰りは便船で四刻(よとき)という。
「船なら楽だんら」
おまえの言葉は不思議だと藤五郎にからかわれている。
「湯浅は十軒に一軒は醤油屋と聞いただ」
「そうだな、八里先なら金山寺味噌の御坊が有る」
兄いが「みそ、しょうゆより温泉の方は」と話を戻した。
栖原(すはら)には三軒の湯治宿が有、今の時期なら込みあっていないだろうという。
「王子めぐりで熊野街道を歩くか船でごめんよと湯浅へ行くかだな」
「あにいは熊野街道を歩いたことが」
「ないない、本の受け売りだけだ」
「ちょと、遠回りで布施屋(ほしや)熊野遥拝所から始めますか十三里ほどになります」
何処なのと小女は見世そっちのけで話に入ってくる。
「川端王子のことだよ」
こっちは食べ終わったが新しい客も来ていてあっちに愛想、こっちに愛想と飛び回るのは母親の様だ。
「もう少しはしょれるかね」
はしょるには雑賀道町奉行番所から紀三井寺の裏を通る道だという。
「それじゃ面白みがないか」
川端王子、和佐王子、平緒王子、奈久知王子、松坂王子、松代王子、菩提房王子、祓戸王子、藤代王子、藤白塔下王子、橘本王子、所坂王子、一壷王子、蕪坂王子、山口王子、糸我王子、逆川王子、湯浅は久米崎王子。
途中で息継ぎしたが終わると大きく息をついた。
「十八と云うことは半里くらいに一つあるのか」
「そうなんですがたまに一里開いたり、六丁も行かないうちに有ったりします」
「十三里と為るとあまり休めないな、王子ごとに休んで見物していてはどこかで泊まるようだ」
「有田川の宮原の渡しは藩で宿駅にしてありますよ。わずか一里三十丁で湯浅ですがね」
「いちんち、湯にゆっくりつかるなら往復四日見るか」
兄いの言葉に次郎丸は笑いながら「中将姫の糸我のちかくか」とつぶやいた。
あの中将姫ですかと幸八は驚いている「当麻寺(たいまでら)の中将姫ですよね」と藤五郎が念を押した。
小女(こおんな)も読み本で何度も読んだという。
「本当にいた人なの。當麻曼陀羅は蓮糸を使って一晩で織りあげたってかいたあるだ」
「奈良に京(みやこ)が在った頃の人だよ」
小野小町、衣通姫(そとおりひめ)、中将姫、生きている美人にお会いしたいよと幸八は嘆いている。
継母が糸我の雲雀山(ひばりさん)に姫を捨てたとの謂れが得生寺に残ると新兵衛が小女に教えている。
“ ことや ”で服装を整え新兵衛の案内で未雨(みゆう)、四郎、次郎丸で三の丸へ向かった。
京橋までまっすぐな道で人通りも多く、早番の下級下士がお城から戻ってくるのにすれ違った。
京橋を渡り京橋門内は一ノ橋大手門に至る大手道。
両脇を安藤家(田辺城主)と水野家(新宮城主)が屋敷を賜り、その先が筆頭家老三浦長門守の屋敷だ。
当主は為積(ためあつ)、藩主治宝の従兄弟、わずか九歳で家督を相続し、この歳三十四歳、江戸は四谷天龍寺前に屋敷を賜っている。
紀伊三浦家初代は為春、南龍公の伯父に当たる。
元は御付家老だったが“ 藩の家老として仕える
”と吉宗が将軍就任時に付いてゆくことを為隆(三代)は固辞している。
代々長門守(遠江守など遷任時期もある)を名乗る。
御付家老安藤伊賀守直則は三万八千石、文化五年に道紀が隠居、養子の直與が家を継いだ。
直與は文化六年に死去、兄の直則があとをついでいる、二人の父親は旗本安藤直之。
御付家老水野土佐守忠実(忠奇)は江戸詰三万五千石、此処も養子で父親は旗本水野守鑑。
田丸城代久野昌純(伊織)は一万石、病身で田丸へさえ出向いていない、城下に屋敷が有り、田丸領六万石支配は同族の者が代々仕切っている、上屋敷は城の南西御徒町にある。
父親輝純は近江守、嫡男純固は丹波守だが昌純(伊織)の任官記録が見当たらない。
一ノ橋と大手門を見てから長門守の屋敷へ入った。
脇玄関へ通され式台まで為積自らが出迎えた。
次郎丸、こりゃ身元は露見しているとあきらめた。
部屋へ導かれると上座は空席で気楽にと車座を勧められた。
未雨(みゆう)は遠慮して敷居側をと下がって座を決めた。
「さて定栄殿、紀州はいかがでござる」
次郎丸、定栄(さだよし)などと呼ばれるのは久しぶりだ。
「人気穏やか」
「うれしい言葉だが。ちと難しくなりそうだ」
間をおいて「御多分に漏れず金が出る話ばかりだ。江戸詰水野殿の手紙では養子の話は間違いなさそうだが、拝借金は藩主就任まで先延ばしとなりそうだという。水野殿が大樹様は子女の嫁入り、婿養子で財政が傾きそうだという。これで享保、天明の様な飢饉でも起きれば我が藩も持ちこたえるのは難しいことに為る」と眉をひそめた。
武士は食わねど高楊枝は何処の大名も同じで、質素倹約で家は救えても國は救えない。
「紀麟公様の時は質素倹約で乗り切ったが、大殿の取り巻きが湊御殿の整備を急げと矢のような催促でな。殿も金は産む物でいくらでも都合できると煽られているようだ」
「御大名は見栄も必要でしょう」と次郎丸はやんわりと話した。
「武士は入る物が限られており申す、どうしても質素倹約に向かうのが常套手段でしょうぞ」
「藩もやっと浮置米(借上米)借り上げ半知を二割に減じたが、懐は減るばかりだ」
何用の呼び出しか本題に入らない。
「わたくしに何かお望みでも」
「実は御養子に付き隠密と云う者が居る」
「白川藩士を名乗って隠密行動はとれませんよ。房総警備の手助けに各藩の砲台予定地の様子を見て江戸湾警備の参考にしろとの御下命です。私の方は五十年先の展望という差し迫った話ではありません」
「大坂では蔵元の後ろ盾もあるとか」
「同行の駒井新兵衛の信用で書物など買う費用が出てくるだけです。精々銀六十貫程度の信用です」
「長崎通事とも縁が有るとか」
「そうそう、今頃は長崎へ着くころでしょう、和国で茶に絹が多く生産出来れば清国が買い受けたいと聞きました。彼らはそれを広州で異国へ売るようです」
江戸、京、大坂に紀州と縁の深い商人が居て情報を流すようだ。
「本音が聞きたい」
「神君の時代のように異国との取引再開、耶蘇が寄進を受け取れない仕組みが取れれば國は豊かになる。有徳院様の如く異国の優れたところは取り入れる。ただ大樹様と大名とが一つに為って取り組むには難題が多すぎるのが現状です」
「異国と取引をされるおつもりか」
「清国は窓口を狭めたばかりに海賊が横行しました。我が国は幸いにも長崎で済んでおりますが、東の大陸からの往来も増えています。いずれ仙台など江戸に近い場所に交易の湊を求めてくるでしょう。紀州、尾張も警備だけでなく湊に千石、二千石の船溜まりが出来るように考えるべきです」
「警備の砲台は」
「淡路を挟んで阿波公といずれ築くことに為るでしょうな」
「金が出る話ばかりですな」
「税の仕組みが出来ていないからです。各藩まちまちでは金が集まりません。有徳院様はじめ何度も試みては失敗しています」
「有徳院様のなされたこととは、思い当たらぬ」
「まずは参勤、役儀の無い大名は在府期間の短縮、行列に従う者の半減」
「だがあれは上米の制が伴った」
「それを伴わぬように出来るか模索中と聞いております」
「加賀様は年々華美になると聞きました」
「街道が潤うと吹き込まれたからでしょう。費用は十五日ほどで銀三百三十貫ほど掛けると聞きました。それで収まればいいのですが、今年のお許しで東海道を廻れば費用もかさむでしょう」
「またもや五千両を越しますか。道理で我が藩の参勤費用が銀五百貫と伏見で噂と云う」
銀五百貫は六十四匁一両とすれば七千八百十二両二分に為る。
享保の定めでは一万石で騎馬三騎、足軽二十人、中間人足三十人。
五万石で騎馬七騎、足軽六十人、中間人足百人。
十万石で騎馬十騎、足軽八十人、中間人足百四人。
二十万石を越しても騎馬二十騎、足軽百三十人、中間人足三百人に抑えるように通達が出た。
これを拡大解釈して万石中り(あたり)として計算する見栄を張る藩が多出した。
さらに徒歩のお供を増やす藩は後を絶たない。
行列だけではない、人足は各宿場で雇うことに為る、紀州ともなると前年から各宿泊の本陣とは日程の調整をしている、お許しが狂うと藩の道中奉行は夜も寝られない。
六組(むくみ)飛脚問屋が臍を曲げれば、肝心の日常の品が追い付かなくなる、先行のはずの通日雇が消えてしまう。
大名の多くは米に頼らざるを得ないので米の値段はすぐに影響が出る。
紀州藩の壱年の国元経費は壱萬両前後、参勤でそれに近い金額が消えてしまう。
紀州中屋敷御殿は文化八年二月十六日もらい火で全焼、昨年建て直したばかりだ。
紀州藩は江戸に二十以上の屋敷が有る、赤坂中屋敷は藩主が日常暮らしている。
江戸の費用は年五万両を越えたと結は次郎丸へ報告している。
次郎丸がいくら調べても我が国が専制君主の時代がない。
天皇家が専制君主として国を治めた時代がないのだ。
南朝後醍醐帝でさえ皇室独占をはかり多くの武士に見放された。
頼朝公が武士の統領で居られたのも恩賞と云う名の領国が与えられたからだ。
古事記は大八洲(おおやしま)を大国主から譲られた天皇家こそが、正当な國の支配者と書きながら天孫降臨、神武東征を書く。
核となる国の柱を國民(くにたみ)に示さなければ纏め上げることは難しい。
お家大事、将軍家大事、天皇家大事と段階を踏む教育の先に國民大事が有る筈だ。
為積(ためあつ)は「新兵衛、温泉巡りだそうだな」もう耳に届いていた。
「湯浅を見ていただこうと思いまして」
「行(いき)は大変でも熊野道がお勧めだ」
一同で笑うしかない、小女が誰かれなく喋るようだ。
「新兵衛家で旅支度も用意を頼んでおけ、殿から伏見で定栄(さだよし)殿と面談する手はずを言ってきた、新兵衛は何度も行っている伏見屋敷まで案内してくれ。客人には戻るまでここに留まって羊羹でも食べていてもらう。未雨(みゆう)師匠、まだ食べては居ないでしょうな」
未雨(みゆう)は「温泉で食すつもりで買い入れました。龍神でとも思っていたものですので」と固くなって答えた。
新兵衛が座をはずすと茶に羊羹を持ってくるように頼み「祥太郎の用意が出来たら呼んでくれ」と言いつけた。
母親とともに来て挨拶をした、利発そうな眼をしている。
「いい機会に恵まれた有徳院様から命じられた役目のお頭がこのお方だ」
結、もしくはイミグァン(御秘官)の一人の様だ。
母親も承知の様で座をはずしていない。
「“ 流行りものには目がない ”夫婦でな、息子は鳶が鷹を産んだと云われるが親の目から見ればとんだ“
駆け出しでございます ”な」
祥太郎が頭下げて「父はそのような噂を聞くようですが学問さえ置いてきぼりのとんだかけだしです」と良い笑顔を見せた。
「頭と云ってもそちらは免許も出ない駆け出しですよ」
次郎丸は将来の紀州を担う男の一人と感じられた。
「わしは殿が御帰国されれば江戸へ出ることに為る。国元は祥太郎が御役目を引き継ぐように。ただ藩政には十年口出ししてはならん。意見も人に悟られないように」
十二歳だという。
「家系の事を言えばわしは殿の従兄弟、祥太郎の母親は菩提心院様の孫、すなわちお家と共によき事悪しき事、命運を共にする一族だ。定栄(さだよし)殿、祥太郎に貴殿のご身分、四郎殿の事、未雨(みゆう)殿が江戸の連絡員の事も教えておいた」
「江戸下りは大殿の御指図では」
「江戸詰め水野殿だけでは大奥との交渉が進まぬと重臣の建白を殿が認めたのだよ。」
為積(ためあつ)が江戸へ下れば城下は変わるという、湊御殿は今まで以上の金食い虫だという。
新兵衛が戻ると「伏見藩邸で二十日のご対面予定だ。枚方、伏見は込み合うので淀か宇治へ前日までに入ってくれ」と会計方が用意した金包みを渡した。
「大分多そうですが」
「和歌山を出るまでの分が銀八十八匁、これは受け取りを出すだけで良い。それ以外は戻り次第会計方へ報告と受け取りがいる」
「新兵衛さん、兄いに毎日の分の受け取りを取り分けるように頼んでおけばいいよ」
四郎は熱田まで会計をして苦しんだことを話した。
「旅であんなに小銭が必要になるとは考えてもいなかったよ。参勤行列にまぎれて戻れば苦労は無いはずだが、一人旅に為ったら毎日頭を痛めるようだぜ」
「そういわれて四文銭の重みを思い出した。桑名で軽くなったときは嬉しかったな」
未雨(みゆう)が経緯と桑名の蛤について自慢したが祥太郎は松江浜のしか知らぬという。
「そういえば俺たち拾うのは見たが食べていないぞ。和歌の浦のは桑名より身が固かった。歯ごたえが良いが香りが弱い」
「例の飯屋に戻る日を告げて用意して貰いましょう。桑名に負けませんよ」
屋敷を出て飯屋で親父に「十一日の午から未には戻るつもりだ、松江浜の蛤百五十はそろえて欲しい」と頼んだ。
未雨(みゆう)は「仕入代だ。昼に来なきゃ見世に来ている客に振る舞ってくれ」と云ってまた南鐐二朱銀二枚を先払いした。
宿に戻ると「あにいと未雨(みゆう)師匠が交互に払うが会計はあにいに頼めばいいですか」と聞いてきた。
あにいの新兵衛は何のことだという顔だ。
「二十日に伏見の藩邸に行くんだが新兵衛殿が案内人で藩の会計に出す受け取りが必要だそうだ」
未雨(みゆう)に言われて「道中の会計は俺で未雨(みゆう)師匠は気まぐれさ。南鐐二朱銀持ちすぎて荷が重いんだ」と悪ふざけだ。
「いや、本当に八十くらいは用意したので本気に重い」
「まだ四十は有るのか」
「数えたくもないですがその位の重みは有りますぜ」
小判五十両に南鐐二朱銀八十枚だと道中は辛かったはずだ。
「じゃ四郎殿は重い思いはしていないのですか」
「俺は豆板銀に銭で苦労したよ。幸八に藤五郎が背負ってくれるまでは銭を放り出したい時も有った」
七人で飯前に道の確認と宇治へ十九日に入るには何処が寄れるか話し合った。
「男山は一日では無理だと聞いた」
未雨(みゆう)は「二日取って三日目に宇治へ向かうとして逆にたどりましょう」と云って帳面を出した。
枚方は飛ばして淀を十六日に出ることにしましょうと決まった。
十五日は大坂“ さのや ”。
十四日は堺“ まつや ”。
十三日高石神社“ ふでや ”。
十二日に城下を出て、信達宿(しんだちしゅく)“ ひょうたんや染八 ”は予定の通り。
新兵衛はずいぶん細かく刻みますねと面白そうな顔だ。
「予定の通りに行くか行かないか気まま旅だよ。雨が続くと歩く気にもならねえ」
「そういや四郎、番傘買うかと言った覚えが有る」
「俺は傘を背負って歩くの御免だぜ。弥次喜多の道中に為っちまう」
|