甫箭(フージァン)が四日に「幹繁老へ来る人達は進士及格(ヂィグゥ)の恩賜帰郷が出てます。八日に船を都合して旅立ちしようと昨日話していた」と噂話をしたら、そこへ冠廉が来た。
それで金錠三十両出して仕事として相手からの銀(かね)を受け取って旅の宿の支払いを持つように寶絃姐姐がたのんだ。
潘寶絃(パァンパォイェン)は合肥(ハーフェイ)と上海(シャンハイ)の間の糟運が仕事だった。
和莱玲(ヘラァイリ)を身ごもった時、梁冠廉(リィアングァンリィエン)に後を託した。
寶絃はその際、五人の船長を独立させ、慰労金にそれぞれの船を与えた。
冠廉も結への参加が承認され千石船を二艘四千八百両で造船させた。
三百石なら八百吊(両)で出来る船も多いが、千石船が二千吊(両)はかかる、足し前を出して船底に帆柱を頑丈にさせた。
南京の呂天祐(リュウテンヨウ)は三千五百両かけたと嘯いている。
大分帆にも銀(イン)をかけたようだ。
今は一吊が千文(銭)で銀(イン)一両だが二十年前は九百文銀一両だった。
祖父は同じ裕渓河川筋の中で勢力の有る鹽漕運船主の娘と一緒になり、その引きで結に参加した。
寶絃の記憶している爺爺(セーセー)は食べ物にうるさく、巣湖蟹のお国自慢が始まると奶奶(ナイナイ)に蟹は蘇州が本場だとやり込められていた。
「大昔、炎帝神農様は海だった此の地を大地に替えた、蘇州なんざ海の底だった」
「そんな昔のこと誰も信じゃしないよ」
口げんかも楽しむ老夫婦だった。
潘寶絃の父は合肥の生まれ、巣湖(チャオフゥ)から長江への川筋の漕幇(ツァォパァ)に参加していた。
父親はさらに結への参加を認められ、上海までの航路を選び徐々に勢力を伸ばしていった。
浙江嘉善(嘉興市)の陳家の娘と恋をし、寶絃(パォイェン)が生れた。
その寶絃の父親潘老樊(パァンラオファン)の妹妹の老大(ラァォダァ)が梁冠廉だ。
寶絃は子供のころから焦家の娘の生まれ替わりと言われるほど、巣湖(チャオフゥ)が遊び場だった。
三歳で母親が死ぬと船に乗って過ごす時間が増えた。
十七で覃(チャン)家の二儿子(アルウーズゥ・次男)に望まれて婚姻したが二年で死に別れて父親の船に乗り組んだ。
覃(チャン)家の先代には平大人の姉が嫁いでいた。
その縁で寶絃は小さい時から平大人に可愛がられていた。
覃(チャン)家は浙江嘉善(嘉興市)の陳家と代々姻戚関係を結ぶくらい親密だった。
それで康演の二儿子(アルウーズゥ・次男)関栄の嫁に陳胡蝶が嫁いできた。
やっと陳鴻墀との姻戚関係を冠廉と甫箭に説明し終わった。
「でもその人、幹繁老にも阮品菜店にも来ていませんよ」
鴻墀哥哥は殿試に呼ばれて浮かれているんじゃないのと言って「船の日時を教えてあげてよ」と甫箭にたのんだ。
覃(チャン)家は陳(チィン)家と交流があるが、蘇州陳(チェン)家とは姻戚関係がないと話すと甫箭は納得したが冠廉はよくわからないようだ。
「江蘇に浙江は陳(チェン)に呉(ウー)ばかりだ」と系図語りは飽きたようだ。
「でも陳洪(チェンホォン)、陳健康(チェンヂィェンカァン)哥哥と、もしかして姻戚じゃありませんか」
「系図帖を突き合せりゃどこかで交差するでしょうよ」
「冠廉さんも大変だ。これに梁(リィアン)家の系図もあるぜ」
「爺爺(セーセー)の家には代替わり事に作るので山の様にありますよ。目を通すなんて御免ですぜ」
普通二部作り分家と共有する、兄弟が多けりゃその分も作るので街の秀才はいい稼ぎになる。
大変なのは甫箭(フージァン)だ。
徐(シュ)の方へ上手く船の旅を売り込んで契約させた。
肝心の陳鴻墀(チェンフォンチィ)の宿が分からない。
浙江會館,全浙會館の客にも心当たりがないという。
盆兒胡同に進士に受かった人で出歩かない人がいると聞いて様子を探った。
下僕の老爺が良くいく酒店で酒を奢って聞きだした。
「殿試の後、腹下しで昨日まで寝ていた」
それが聞きだせたのが七日の夕刻だ。
「其れじゃ江蘇の人たちとは交流が無いのかい」
「知り合いは多いが、家の旦那出不精だから。蘇州(スーヂョウ)にいる孫の顔さえ見に行かないぜ」
「この間俺の嫁の実家の菜店に大勢で来て食事をしていたが来なかったのかい」
「あの時、誘いは有ったが会試に受かるかでおろおろしてた。だから緊張のし過ぎで殿試の後腹下しだ」
会試の中に交流していた人がいて試館が分からないという事は「落ちたな」と心の内で合点した。
「蘇州(スーヂョウ)、杭州(ハンヂョウ)は陳(チェン)さんが多いと聞いたが本当かよ」
「陳(チェン)さん、呉(ウー)さんは、目をつむって石を投げりゃぶち当たる位いるぜ。だけどうちの旦那は浙江嘉善陳(チェン)だ」
間違いない「じゃ、明日の船には乗らないのかい」と聞いてみた。
「俺と二人旅だぜ。来るときは蘇州の小姐(シャオジエ=お嬢様)の縁で天津(ティェンジン)迄船できたが帰りは決まっていないぜ。その船はいつ出るんだい」
「隣の胡同の幹繁老てとこの料理人の話しじゃ明日の午の下刻に盧溝橋の東詰の韓(ハン)酒店(ヂゥディン)で待ち合わせだそうだ」
午の下刻(平均午後一時・午後一時十五分頃)
「船だと高いんだろ。嘉善迄本には六十両だと出ていた。歩きなら日にちはかかるが十両なら十分だそうだ。荷物持ちは辛いぜ」
「俺は江蘇江都まで一人二十二両割り振ったと聞いた。蘇州の人が二人で百両出したと料理人も驚いていたぜ」
それやこれやで一刻あまり酒を奢って聞きだしたのは西城盆兒胡同の鄞(ヂィン)縣西館という試館だという事だ。
普通寧波(ニンポー)からの人が利用している。
宿まで送り届け「また機会が有れば飲もうぜ」と別れた。
朝に街の若い衆に聞き合わせに行かせた。
息せき切って戻ってきた。
「巳の鐘の後、急いで出て広安門へ向かいましたぜ」
巳の鐘(平均十時・九時四十分頃)
その時間だと今朝思い出して話したようだ。
三十七里は有る。
清代前半・一里五百メートル。
和信伝・一里四百メートルと五百メートル使い分け。
一刻半(平均三時間・三時間三十五分)、店の時計で確認すると、ギリギリだなと間に合わないときは船を待たせようと、早足で永天門を出て右安門で左手の街道で先回りした。
この付近嘉慶六年に粥廠が設けられた場所だ。
自慢の懐中時計を出してみると一時十分を指している。
広州で三十五両と格安で見つけた、店の時計と合わせると日に二分と狂わない。
遠目に駆けだした人が見え、後から昨晩の老人が荷を背負って歩いている。
絵にしたら面白そうだと見ていると、まにあったようで船に乗る準備が始まった。
船が出るまで、そこで見ていて府第へ報告に向かった。
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