第伍部-和信伝-壱拾参

 第四十四回-和信伝-壱拾参

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

阮永徳(ルァンイォンドゥ)と顔双蓮(イェンシィァンリィエン)の二人は朝卯の上刻過ぎ(陽暦1805529四時頃)に船着き門から府第へ入った。

王(ゥアン)が外で体を動かしている。

日課の拳のけいこだ。

「こいつをやらないと体の方の眼が覚めない」

豊紳府では皆が同じように声を出さずに拳の稽古をする。

料理人の下働きの奴婢の部屋に灯がともった。
 

豊紳府00-3-01-Fengšenhu

双蓮(シャンリェン)も今朝、夫に断り軽く稽古を行ったばかりだ。

豊紳府では朝六時から早番の者に粥が供される。

この時期だと卯の下刻になる。

昨晩閨ごとで「俺っちは朝が早いが、あなたは使女だからそれほど早くは起きないの」まだ慣れないから言葉も丁寧だ。

粥もそうだが昼に出す湯の仕込みは朝が早い。

「私たち使女は早番が朝五時、遅番が七時と決まっておりますわ。鐘とは違って一年を通して同じ時間で動きます。今だと五時は卯の初三刻くらいでしょうか」

頂いた伊太利亜時計で確認した。

「では朝は四時に起きよう。毎日そうすれば体もすぐになじむさ」

そんな二人だったが、寅の太鼓(平均四時・三時十二分頃)で目が覚めた。

「三時十七分ですわ。まだ」

丈夫(ヂァンフゥー・夫)に抱きしめられ、気が遠くなりそうだったが「初日から寝坊しては王(ゥアン)さんが困ります」その言葉でさらに固く抱きしめられ、幸せを十分かみしめる双蓮だった。

それでもどうやら予定した時刻に船着きの門をたたくと「王(ゥアン)さんも今入ったばかりだよ」と教えられた。

府第の朝、夏は五時に庭番も出て来る、冬は七時が決まりだ。

公主はフゥチンが寅には起きて朝会を開くと聞いて育った。

フォンシャン(皇上)はさすがに年ととにもに遅くはなったが、寅の太鼓とともに起きるのが後宮の習慣だった。

豊紳府へ嫁いでから、時間の不合理をインドゥと話し合い、時計の二十四時間に合わせることにした。

二人は夏の時間と冬の時間をどのようにすり合わせるか、何度も何度も話し有った。

孜漢(ズハァン)が時計を主力にしたのもその影響が大きい。

乾隆帝も時計を好み、特に蘇州(スーヂョウ)で作られるものを愛用し、宮内做鐘所を造るほど時計にのめり込んだ。

広州(グアンヂョウ)の貿易商や公館から贈られたものも多い。

容妃の遺物に三台の時計があり、二台を和第に保管して貰っていたが、嘉慶四年の騒動の時に行方不明となった。

役人は和珅(ヘシェン)殿が処分されたのではというのみで、それ以上探してもらえなかった。

この当時、広州で製作されたものは高値で輸出されていった。

 

香港で競売会社クリスティーズ(Christie)の報道関係者向け発表会で紹介される、英王室が中国・清の乾隆帝(Emperor Qianlong)に贈ったと伝えられる21組の金の懐中時計

2008年【1027 AFP】英国王ジョージ3世(King George III)の在位した1820年代に、英王室が中国・清の乾隆帝(Emperor Qianlong)に贈ったと伝えられる。

 

この記事の可笑しなところに気付かないとしたら相当の歴史嫌いだ。

この後どうなったのか心配だ。

乾隆帝嘉慶413日(陽暦179927日)薨去。
嘉慶帝嘉慶25725日(陽暦182092日)薨去。

1820年代は道光帝の時代だ。

ジョージ3-陽暦1820129日薨去。

死ぬ間際の人から死んだ人へのプレゼント。

何処に有ったのだろうと調べても其の懐中時計の記事は他に見つからない。

故宮にはたくさんの時計が有るが、正確な入手年度に、売り立て時の所有者は不明の様だ。

 

手慣れた阮永徳と王(ゥアン)はそれぞれの鍋で粥を炊いている。

王(ゥアン)は竈と反対の壁を見て「此処では夏至の前にはこの砂時計で」と粥用の砂時計を指して「洋時計で哥哥は肆拾两分だと測っていました」と教えた。

三台の砂時計に肆拾分XL)、肆拾两分(XLII)、伍拾分(Lと書いてあった、双蓮には読めても永徳には解らない文字もある。

尹(イン)の指導で双蓮は朝の漬物に副菜を準備している。

次々に下働き、当番の奴婢も集まり、いつでも出せる準備が出来た。

卯の下刻(平均七時・朝六時頃)には準備が出来た食堂に、奴婢が集まって来る。

当番は尹(イン)さんに箱を渡されると格格の館への配達に次々出ていく。

双蓮には「明日からこれもあなたの仕事よ」と言われた。

此の十八か月ほどの間で仕組みはわかっているので、双蓮は「任せてください」と胸を張って答えた。

この屋敷では奴婢と使女の身分に差は無いと教えられている。

皆自然に双蓮に挨拶してくる、料理人のおかみさんでも皆と同じだから。

只仕事の内容が違うだけ。

ひと段落落ち着くと遅番の粥が始まる、食堂の時計が七時を指すころには早番の出遅れ組も食べ終わっている。

辰の鐘が鳴り響いてきた(平均八時・朝七時十五分頃)、席が空けば手の空いた当番の奴婢も粥を食べられる。

食べ終わると格格の館から器を下げに出ていく。

公主の食事は朝七時十五分と決まっている。

インドゥの意見で奴婢、使女が先とした。

六宮、寶月楼、公主府の時は食べ終わるまで使女は卓のそばで待っている。

落ち着いて食べるには後の方が気も休まる。

インドゥは一緒に食べても気にしないが、公主は出来ないように躾けられた。

今は同じ食卓で孜漢(ズハァン)の用意した料理人の食事も、一緒にとれる様になった。

最近心配なのは額娘(ウーニャン)の体が弱ってきたという事だ。

度々上がるのもはばかりが有る、今度は献上の壺が届いたらと思っている。

今年六十歳、まだまだ口うるさいのは治らない。

舅父(ヂォウフゥー)も今のフォンシャン(皇上)には重用されていない。

従兄妹の景旺も動向が聞こえてこない。

従姉妹達との付き合いは公主府の宴席だけになった。

 

巳の刻(平均朝十時・九時三十五分頃)

王(ゥアン)と尹(イン)の夫婦が暇の挨拶に来た。

二人の男の子も娘娘に挨拶が出来た。

「お小屋は急なことで落ち着いたら荷を取りにまいります。遅くも五日後には」

「子供の物は急いでもあとは都合でいいのよ」

二人は暇を告げて部屋を出た、通用門には阮永徳、顔双蓮夫婦に手の空いている使女たちが集まり、遠ざかる二人を見送った。

手回りの物と着替えは、頼んだ脚夫(ヂィアフゥ)が二人担いで着いて行った。

阮永徳、顔双蓮はすぐに昼の支度に入った。

食材は前日注文をだしてもう届いている。

夕食に足りないものが出ると未には届けられる、早朝に肉類が来ることもある。

屠宰(トゥーヅァィ)業者も府第へ便宜を図ってくれ古いものがまわることはない。

特に朝の鶏、家鴨の納品は安定門(アンディンメン)内、東縧児(ドゥンシィャオゥズ)胡同から夜中にさばいて届けられる。

府第の納入業者と阮永徳とは昔からの顔なじみ、今朝顔を合わせたときは驚きと、羨ましそうに二人を見ていた。

「永徳の親父、じゃこの府第の料理長ってことかよ」

「料理長はまいるなぁ、ここは昔から当番の奴婢か料理が好きなものが下働きで手伝う決まりだ。それによ。ここで働くと嫁に欲しいとすぐに出て行ってしまう」

「噂じゃ。双蓮さんよう、歳を五歳も下にしてたんだって」

「四歳ですよ小父さん」

「永徳の親父、何時口説いたんだ」

「口説いてねえよ」

「口説かれた、いやそんな筈ねえな。老大(ラァォダァ)と違っていい男じゃねぇ」

「怒りますよ。余(ユゥ)の小父さん」

「こんなのが好いとは気が付かなかったぜ」

双蓮の噂は広がりだしてきた。

奴婢に使女も公主の寛大な心に打たれている。

 

阮品菜店は昨日から来る客に説明する度に驚かれている。

「よせよぅ。富富(フゥフゥ)と同じ年の嫁だって」

「噂じゃ相当の別嬪だとよ」

「半年で全員が婚姻だと、驚かせやがる」

永徳のチィズ(妻子・つま)陶春梅(タオチゥンメェイ)が亡くなって四年がたっている。

豊紳府にいた箏瓶(ヂァンピィン)は聞かれるたびに律儀に答えてい入る。

「よせよせ、きりがないぞ」

「だって、お愛想でも言わないと放してくれませんのよ」

「そういうとこは富富(フゥフゥ)を見習ってガツンと言うんだ」

そんなこと言う永凜(イォンリィン)だって捕まりゃ放して貰えない。

昼時の喧騒が終わると富富(フゥフゥ)と甫箭(フージァン)が小僧を三人連れて昼を食べに来た。

聞きたいのは永凜だって客と同じだ。

「私だって假祝言の様子は知りませんよ」

「なんでへばり付いてなかったのよ」

昨日から同じことをなじられて甫箭(フージァン)も困っている。

「いつ干爸(ガァンヂィエ)がにやつくか、気になってな。見たくないぜ」

「双蓮(シィァンリィエン)さんはどんな風だった」

やはり新しい岳母(ュエムゥ)は気になる女たちだ。

弟弟(ディーディ)が戻ったら驚くだろと思う富富(フゥフゥ)だが、文環が話さぬはずもないと気が付いた。

 

徐頲(シュティン)達進士は一度出仕の後、故郷への一時休暇が認められた。

翰林院には南京貢院での顔見知りの人たちがこぞって歓待してくれた。

一番喜んでいたのは李可藩という男だ。

肩をたたき合って歓待している。

聞けば李可瓊が哥哥、李可藩が弟弟、哥哥が先生で、試験に受かったのも哥哥のおかげだと涙迄流しかねない喜びようだ。

哥哥は徐頲(シュティン)とは何度も会試で顔を合わせた有名人だ。

弟弟(ディーディ)の方に見覚えがない、哥哥と違い当時は相当目立たない人だったのだろう。

徐(シュ)は四月の休暇が与えられ同時に給与も四月分でた。

「閏八月初三日からですね」

「そうだ。家は用意される、京城(みやこ)へ入ったら連絡せよ」

広州の者は休暇が六か月だった、旅費は基準がありそれが個別に渡された。

京城(みやこ)入りして土産を買いあさる者はお上りさんとみられた。

瑠璃廠付近の店はこの三月ほどで大分儲けた店が多い。

徐(シュ)は高信のおかげで今年は無駄に買うのはやめていた。

八日に旅立ちと幹繁老のヌゥーヂゥーレェン(女主人)に告げると一家は及格(ヂィグゥ)を喜んでいると同時に、別れが寂しそうだった。

孫(スン)哥哥は一緒に船で戻ろうと誘いに来た。

徐頲(シュティン)、江蘇長洲縣。

哥哥は孫原湘(スンユァンシィァン)、籍は江蘇昭文縣だが住まいは蘇州城内の元和県へ家を買い入れた。

城内の北と南だ、周りは田が多く、網師園、李家園他、花園が多い。

その晩に飯を食いに来たのは七人で「じゃ八人同じ船で戻ろう」となった。

 

李兆洛(リィヂァォルゥオ)江蘇陽湖。

孫爾準(スンウァールヂゥン)、江蘇金匱縣

周済(チョウジー),江蘇溪縣。

王均(ウヮンヂィン・王鋆),江蘇南通。

黄承吉(ホァンチァンヂィ)江蘇江都。

朱自新(ジュヅゥシィン)江蘇江都。

 

大運河で遊びながら江蘇江都まで三十日、五月八日に出て六月八日に江都(ジァントゥ・揚州ヤンヂョウ)に着く。

三日滞在しろと黄哥哥と朱弟弟は迫って(せまって)来る。

長江(チァンジァン)を超えて鎮江(チェンジァン)。

運河は江蘇陽湖(常州市)の西を南下する、李兆洛は降りやすい場所が有るという。

江蘇溪縣(宜興市)の周済は江蘇陽湖から陸路を取る。

江蘇金匱縣(無錫市)で孫爾準は家の付近で降りて別れる

「これだと十一日にでる江都から三日で金匱縣まで行けるな」

孫爾準は「一日泊まるか」と四人に声をかけた。

「四百六十八里か夜船でも楽しむか、降りて五人で宴会か考えどころだな」

「十三日か十四日に山塘街へ降りれるな。王均はどうする」

江蘇南通は長江(チァンジァン)の東岸だ。

「長江下りでもするか」

「山塘街で下りて甫(フゥイ)の店に頼んで三人で蟹を食おう」

来る時は端境期で口に入らなかったそうだ、おまけに徐(シュ)に置いて行かれたとごねている。

「おまえぇ。自分で孫爾準と待ち合わせていると言っていただろう。俺のところや孫(スン)哥哥の所じゃ遠回りだと手紙まで寄こしただろ

「うっ」

忘れていたようだ、半年前に書いた手紙を忘れるとは情けない。

「すまん」

「なんだと」

「俺が奢るよ、だから泊めてくれ」

唐揚げが美味しい時期だ、黙っていたのはこのためか。

徐(シュ)は来るときは甫(フゥイ)の知り合いの綿屋が紹介した荷船にただ乗りで、京城(みやこ)入りした。

支給された旅費は懐に入れた。

 

戻りはどうするとまた議論だ、江蘇は四か月貰えたから皆同じ日に出仕だ。

「逆算すれば八月三日江都だ

「そりゃまずかろう、舟止めに会えば十日は必要だぜ」

閘門がいつ閉められるのか行ってみなけりゃわからない。

さんざん議論して「七月二十五日江都、崙盃(ロンペェイ)大酒店と決まった

「遅れたら一人で追いかけるんだな」

「馬車は高いぞ。駆けて来るか」

遅れるはずがないのは黄哥哥と朱弟弟だろう。

「昔の会試への道中を書いた公車紀程を読んだが呆れるくらい遊び惚けて旅をしていた、京城(みやこ)から宿遷四十三日もかけて居る。大分閘門の役人ともめているな」

 

五月四日(陽暦190561日)

豊紳府の朝の粥は公主が命じて今日から具が増えた。

乾貝(ガンペイ・コンプイ・干し貝柱)がたくさん届いたからだ。

でどこは内務府、珍しいことが有るものだ。

広州物だと届けてきた御膳房の役人は「産地が混ざってしまいました」それでお裾分けとなったようだ。

「責任者はどうしたの」

「だれの責任かわからずじまいです。管理の者が亡くなって初めて発覚しました」

高級品と安物が混ざったという事の様だ、後宮の味に煩い掌事宮女に味を見破られたら大事になる。

双蓮が受け取り下働きの奴婢と三人で運んできた。

永徳が中身を見て「しめた、儲けもんだ」と言っている。

和国の扇貝(シァンペェィ)が半分以上あるという。

双蓮が見分け方を習って手早く分け、混ざったのを抜くのは永徳の役目だ。

ほんの四半刻で三種に寄り分けた。

似ているけど別物だという、和国の扇貝(シァンペェィ)と奉天府の物はふくらみが違うという。

江珧柱(ヂィァンィアォヂゥ)は朝鮮ものだという。

「普通は混ぜて売ることが多い、和国の物と偽る奴がいるんだ。五倍は値が張るからな」

永徳わざと四日目には組み合わせをして粥を炊いた。

香りに気が付いたのは公主と雲嵐に姐姐、紫蘭の四人だ。

「さすがだね。もしかして気が付いても遠慮して言わないものも居るかもしれないな」

桑小鈴(サンシャオリン)が「明日の粥の材料に扇貝(シァンペェィ)が欲しいのですが」とやってきた。

花琳(ファリン)の家の方は今十人が住んでいる、朝の粥の話を聞いて作ろうと思ったようだ。

「どれがいい」

三種の乾貝(ガンペイ・コンプイ)を見せると、「左の乾貝(コンプイ)」と広東語で和国の物を指さした。

「峰(フェン)に教わったのか」

「ううん、老爺(ラォイエ)が俵物を売ってた」

十六の小娘にしては出来るなと永徳は仕込みたくなった。

「花琳(ファリン)様の許しが出たら、たまには夕飯の支度を手伝うか」

「いいの」

「出来上がったのを向こうへも届けりゃいいさ」

横流しではない、公主は昂(アン)先生の家に庭番、門番の家も食材は共有だと前に永徳に教えている。

贅沢したけりゃ自分で足せばいいだけの事だ。

「じゃ、お許しが出たら手伝いに来ます」

乾貝(コンプイ)を持参の竹ざるに入れ、にこにこ笑いながら船着きの方へ足取りも軽く向かっていった。

明日の粥はさぞ美味しいだろう。

双蓮には「お前さんを仕込むなら、二人の方がやりやすい」と言い訳をしている。

「なぜ」

「一人だとお前に首ったけとバレる」

「いやだ」

身体をよじって恥じている。

「さて、明日の粥は少し凝った奴にしようぜ。鶏をさばいて卯の刻に届けに来る約束だ。ガンペイは奉天府の方を戻してくれ」

「今晩湯を仕込まなくていいの」

「火を止めると、この季節は良くないのだよ。立冬から春分は大丈夫だ」

双蓮は頭が良いらしく、書付を丁寧に仕分けしている。

「ヌゥオミィー(糯米)とュイミィー(玉米)も水に漬けておこう」

二つの大きな瓶に半分水を入れサンシァン(三升)ずつ、汚れを水洗いで取り除いて流し込んだ。

夕食の仕込みも下働きの奴婢を指図して始めた。

 

湯老媼が一人の痩せた子を連れてきた、十三歳だという。

花琳(ファリン)がまず会って字を書かせると上手だ。

紫蘭(シラァン)の所へ行くと気に入った顔をした、それで娘娘に会っていただき採用した。

名を書かせると南宮夕依(ナンゴンシィイ)と鮮やかに書いた。

「珍しい姓ね。どこの出なの」

「バァ(爸)は重慶(ツォンチン)の出です。マァー(媽)と京城(みやこ)へ出てきました。」

「フゥチンはご存命ではないの」

「教徒の乩の時に郷勇(シイアンイォン)で参戦して戦死しました。私が五歳の時でした。豊紳宜綿(イーミェン)様の指揮下で興平の街で戦っていたと教えられました」

「まぁ、縁が有るわね。此処の事は湯老媼から聞いているわね」

はい伺っていますと透き通った声で答えた、緊張が解けたようだ。

「いつ都へ出てきたの。何か伝手でも」

「七歳の時です。マァー(媽)の弟弟は右安門(イウウェンメン)外で駱駝の隊商の世話をしていて、そこへ呼んでくれました」

湯老媼(タンラォオウ)が「その男はワッチの侄子(ヂィヅゥ)の従兄弟という縁がありまして、聞き合わせたら勤めたいというので連れてきました」と身元を保証した。

湯老媼はここぞとばかりに身内自慢をしてくる。

「ねえねえ。この娘、北五老胡同の方に荷は置いてきたの」

あまりの身軽な様子に気になったようだ。

「本当は、わっちの帳付けをやらせようと思ったんですがね。家から連れ出すとき、全部お仕着せだから置いてくるように言ったんですよ。だから着の身着のままで」

「花琳(ファリン)に揃えさせるから紫蘭の方へあなたが届けなさいな。芽衣(ヤーイー)がこの娘を連れて行って頂戴」

 

紫蘭の館で潘玲(パァンリィン)に紹介して後は任せた。

「あなた、身の回りの物はそれだけ」

潘玲が聞くと頷いた。

「湯老媼が持ってゆくのは最低限にしなさいと言うので」

湯老媼(タンラォオウ)が「お邸で頂くことが出来たよ」と服を抱えてきた。

湯老媼は「あたしゃびっくりして曲がった腰が伸びたね」と潘玲に双蓮と永徳が夫婦になったことを聞いた時の事を言い出した。

紫蘭も交え、しばらく話してから厨房へ出て双蓮に「良かったね」と声をかけた。

 

二人は手を取り会って喜びを表現した。

「新しい宿泊施設はどう」

「今二十人いるよ。最近此処へ勤めたいという娘が増えたよ」

「でも今空きは少ないのよ」

そう言ってくすくす笑った

「今日の娘、湯老媼(タンラォオウ)は斡旋の跡継ぎにしたかった娘でしょ。いいの」

もう此処まで噂が広がっている。

「原因はお前さんだよ。高く付くからね。菓子代だけじゃだめさ」

「でもなんで、私の年が分かったの」

「通州の斡旋の奴、飲んでべらべらと子守っ子を追い出されたことも喋ったのさ。聞いた奴はまたそれを洞吹いたので聞こえてきたんだ。それがこちらへ知られる前にお知らせしたんだ」

双蓮(シィァンリィエン)は永徳に断り、人が来ないように見渡しの良い花畑で話し合った。

「どんな旦那だい」

「いい人で、腕もいいし」

「あっちもかい」

是老的辣(年の功)で遠慮ない、双蓮恥ずかし気にうなずいた。

 

翌朝の食堂は大騒ぎだ、扇貝(シァンペェィ)の粥は最後に為りそうだの噂が広がり早番の時間に門番の家族に庭番の家族まで来ると伝えてきたからだ。

前の晩永徳と双蓮は大慌てでヌゥオミィー(糯米)と玉米(ュイミィー)を倍にした。

扇貝(シァンペェィ)は奉天府の分を全部使い、娘娘が哥哥に昂(アン)先生もというだろうと扇貝(シァンペェィ)は全部しまい込んだ。

「これで前のと合わせて三百杯は最低採れる。まさか三杯食べはしないだろう」

「遅番用は別に仕込まないとな」

二人で壁の人数を確認すると四十八人だった。

「最低百は作るようだ」

封も確認して家へ戻り、いただき物の菓子で茶にした。

「あなた、わずかの間に痩せましたね」

「腹が引っ込んだんだ。その分筋肉が付いたぜ」

二人でいたわりつつ早く寝た。

椀を持って立っているものも居る。

門番は家で食べずに集まっている、各門それぞれの控え所に熱々の桶で配達した。

普段も先に言えば同じようにしているので奴婢も手際よく対処している。

なかにはお代わりを頼むのにお世辞まで言う非番の門番がいる。

「王(ゥアン)さんより美味い」

そういう人には大きな声で「これだけいい材料が有れば王(ゥアン)さんならもっとうまく作れる」と永徳は怒鳴っている。

 

徐頲(シュティン)の一行は盧溝橋で船に乗ることになった。

同行希望が増えて、下僕を入れると十五人だ。

南京へ戻るので二百両と水夫十二人で一日六両だという。

江都まで三十日、遊び旅だ

「三百八十両ですぜ。安いと思いますがね」

船を聞くと三百石船だ、三十人は客を載せられるが、船で寝るにはちょと狭い。

徐頲(シュティン)が五十両、孫(スン)哥哥も五十両出すという。

往復の旅費は十二両しかもらえない。

残りを独り頭二十五両集めたいというと「四十五両多いぞ、二十二両でいいだろうに」と彭邦疇(ペンパァンチォウ)がいう。

頭が良過ぎて細かすぎる。

「頼むぜ、飯のたびに個別に支払うのか」

「好いもの食いたい奴は出せばいい」

これが毎日たかっていたやつの言葉かよとげんなりした。

船を紹介してくれた周甫箭(チョウフージァン)という奴の話しじゃ、毎日のように二胡を二つもって蝉環(チァンフゥアン)は、いそいそと下斜街全浙會館へかよったという噂だと教えてくれた。

きっと内務府会計司にも彭(ペン)哥哥の様な細かいものが、大勢いるんだろうなと思った。

結局は孫(スン)哥哥が折れて二十二両になった。

徐頲(シュティン)は幹繁老のヌゥーヂゥーレェン(女主人)に頭を下げ、仲居と料理人十八人に一人銀(イン)五銭(銭五百文)を出して「少ないがこれだけは受け取ってほしい」と頼んだ。

前日、船の事で出入りしていた甫箭が紅包をたくさん買い入れ、銀(イン)を交換したと聞いてハハン、と思っていたので「ありがとうございます。皆に分け与えます」と返事した。

 何処で話を聞いたやら盧溝橋の酒店に六人多くいた。

最初見送りかと思えば同船希望だという。

「二十二両で江都まで行くというので載せてもらいに来た

飯に宿代込みと勘違いしているようだ

彭(ペン)哥哥が袖を引っ張るので孫(スン)哥哥と着いていくと「六人分増えても船は支払い済みだ。百三十二両あれば江都までの飯と酒代には十分だ」

せこい、分けようではなく飯代を浮かせる算段だ。
「船頭の話だと客二十四人迄は乗せられるそうだ。まだ三人余裕がある
甫箭の話しでは三十人だと言っていたがどこかで乗って来るのかと思った。

宿松(安徽省安慶市)、桐城(安徽省桐城市)、南海羅村(広東省佛山市南海区羅村鎮)などからきている人たちだ。

姚元之が同郷の馬瑞辰、張聰賢に話して広まったようだ。

二十三歳、二十四歳なんて若さで二甲へ入る天才だ。

駆けて来る奴がいる、陳鴻墀だ。

「もう年なんだから、かけてまで見送りに来なくても」

孫(スン)哥哥に言われて「荷物持ちは後からくる、二人載せてくれ。今朝聞いてあわててやってきたんだ。荷物持ちは俺より十は年食ってる、後から来いと先に来た」と息が弾んでいる。

浙江嘉善(嘉興市)の人、四十八歳でようやく進士に為れた。

彭(ペン)哥哥もう笑いが止まらない。

皆を乗り込ませ孫(スン)哥哥は「あいつに会計を任せて正解だ。百七十六両懐に入ったからにはしみったれも出来まい」と最後に乗り込んだ。

 

「やれやれ。間に合ってよかった。この年寄りと二人の船旅は心もとなくてな。徐頲(シュティン)は道順なのになぜ誘わん」

「だってねえ。どこに宿をとったかも知りませんよ」

「連れない奴だな。話じゃ、来るときも一人で只船に乗って来たというじゃないか」

誰にも只船の事は話していない、どこで聞いたのだろう。

「おやぁ、その顔は内緒じゃったか」

「そんなうまい話なぜ言わない」

孫(スン)哥哥までにらんでいるがこちらは迫力がない優男だ。

李可瓊(リィクゥチィォン)という広州(グアンヂョウ)の男は学者というより武進士で通るいかつい三十男だ。

徐頲(シュティン)とは何度も会試で顔を合わせた仲だ。

実弟の李可藩(リィクゥファン)は嘉慶七年に二甲進士となっていて再会した時は驚くくらいはしゃいで泣きそうに為っていた。

「いいなぁ。只船に乗れるなら杭州(ハンヂョウ)からでも乗ってみたいものだ。船じゃ五十両も掛ってしまう。支給は二十四両だった」

「泣きついてみますか」

「誰に」

「蘇州に甫(フゥイ)という飯店の知り合いが居ましてね。やたらと顔が広い」

「飯店の主じゃ船に縁がないだろ」

「それがね。姐姐(チェチェ)の旦那が漕幇(ツァォパァ)と仲がいい上に自前の運糟船も持っている」

「乗せるかな」

「蘇州(スーヂョウ)で家に暫く泊まりますか、六か月じゃ往復も忙しいが、上手く乗れれば楽になりますよ」

陳鴻墀(チェンフォンチィ)は「其の姐姐だという甫寶燕(フゥイパオイァン)に聞いたんだよ」というではないか。

「只船の事ですか」

「蘇州(スーヂョウ)でこれから京城(みやこ)だと言うたら、昨日出たと言われた」

知らないという事は残念なことだという。

「寶燕の二儿子(アルウーズゥ・次男)の嫁は俺の娘だ。去年二人目の子が生まれた」

関栄(グァンロォン)二十一歳、妻は陳胡蝶(チェンフゥーディエ)十九歳。

「巧く運糟の船が有れば上海(シャンハイ)、広州(グアンヂョウ)までが最短二十二日、商船でも三十日、戻りの船を捕まえられれば、天津(ティェンジン)迄四十五日あれば戻れる」

「ずいぶん詳しい」

「婿が教えてくれた」

「もしかして」

「まずい。気が付いたか」

「蘇州、上海から天津」

乗ってきたと白状した。

 

宿代を支払おうとしたら船長が賄いつきで請け負ったという。

孫(スン)哥哥と彭(ペン)哥哥は儲けもんだとホクホクだ。

「これで最後の宴会は派手にできる」

徐頲(シュティン)はそんな馬鹿なと思うが、裏で誰かが金を出したとは思っている。

そんなこんなで閘門で騒ぐほどの事は起きなかった。

船長について水夫は酒を飲ませると口が軽くなり「二百石船五艘、三百石船五艘、千石船二艘の船主だ」という。

今回は通惠河(トォンフゥィフゥ)で荷卸しをして天津へ荷を運んでそのあと南京(ナンジン)のはずが急遽盧溝橋へ回されたという。

「家の親方は支配下に五十艘の船があるが、近くにいれば月一度は都にいる姐姐(チェチェ)に顔を見せる」

なぜだと聞くと「前の親方は姐姐(チェチェ)で船先から大声出して風に向かって立ってる様子は格好が良くて、真似する奴もいたが腹ぼてに為って船を降りたんだ」と自慢する。

この水夫酔ってもインドゥの格格とは言わない心得は有る。

 

甫箭(フージァン)が四日に「幹繁老へ来る人達は進士及格(ヂィグゥ)の恩賜帰郷が出てます。八日に船を都合して旅立ちしようと昨日話していた」と噂話をしたら、そこへ冠廉が来た。

それで金錠三十両出して仕事として相手からの銀(かね)を受け取って旅の宿の支払いを持つように寶絃姐姐がたのんだ。

潘寶絃(パァンパォイェン)は合肥(ハーフェイ)と上海(シャンハイ)の間の糟運が仕事だった。

和莱玲(ヘラァイリ)を身ごもった時、梁冠廉(リィアングァンリィエン)に後を託した。

寶絃はその際、五人の船長を独立させ、慰労金にそれぞれの船を与えた。

冠廉も結への参加が承認され千石船を二艘四千八百両で造船させた。

三百石なら八百吊(両)で出来る船も多いが、千石船が二千吊(両)はかかる、足し前を出して船底に帆柱を頑丈にさせた。

南京の呂天祐(リュウテンヨウ)は三千五百両かけたと嘯いている。

大分帆にも銀(イン)をかけたようだ。

今は一吊が千文(銭)で銀(イン)一両だが二十年前は九百文銀一両だった。

祖父は同じ裕渓河川筋の中で勢力の有る鹽漕運船主の娘と一緒になり、その引きで結に参加した。

寶絃の記憶している爺爺(セーセー)は食べ物にうるさく、巣湖蟹のお国自慢が始まると奶奶(ナイナイ)に蟹は蘇州が本場だとやり込められていた。

「大昔、炎帝神農様は海だった此の地を大地に替えた、蘇州なんざ海の底だった」

「そんな昔のこと誰も信じゃしないよ」

口げんかも楽しむ老夫婦だった。

潘寶絃の父は合肥の生まれ、巣湖(チャオフゥ)から長江への川筋の漕幇(ツァォパァ)に参加していた。

父親はさらに結への参加を認められ、上海までの航路を選び徐々に勢力を伸ばしていった。

浙江嘉善(嘉興市)の陳家の娘と恋をし、寶絃(パォイェン)が生れた。

その寶絃の父親潘老樊(パァンラオファン)の妹妹の老大(ラァォダァ)が梁冠廉だ。

寶絃は子供のころから焦家の娘の生まれ替わりと言われるほど、巣湖(チャオフゥ)が遊び場だった。

三歳で母親が死ぬと船に乗って過ごす時間が増えた。

十七で覃(チャン)家の二儿子(アルウーズゥ・次男)に望まれて婚姻したが二年で死に別れて父親の船に乗り組んだ。

覃(チャン)家の先代には平大人の姉が嫁いでいた。

その縁で寶絃は小さい時から平大人に可愛がられていた。

覃(チャン)家は浙江嘉善(嘉興市)の陳家と代々姻戚関係を結ぶくらい親密だった。

それで康演の二儿子(アルウーズゥ・次男)関栄の嫁に陳胡蝶が嫁いできた。

 

やっと陳鴻墀との姻戚関係を冠廉と甫箭に説明し終わった。

「でもその人、幹繁老にも阮品菜店にも来ていませんよ」

鴻墀哥哥は殿試に呼ばれて浮かれているんじゃないのと言って「船の日時を教えてあげてよ」と甫箭にたのんだ。

覃(チャン)家は陳(チィン)家と交流があるが、蘇州陳(チェン)家とは姻戚関係がないと話すと甫箭は納得したが冠廉はよくわからないようだ。

「江蘇に浙江は陳(チェン)に呉(ウー)ばかりだ」と系図語りは飽きたようだ。

「でも陳洪(チェンホォン)、陳健康(チェンヂィェンカァン)哥哥と、もしかして姻戚じゃありませんか」

「系図帖を突き合せりゃどこかで交差するでしょうよ」

「冠廉さんも大変だ。これに梁(リィアン)家の系図もあるぜ」

「爺爺(セーセー)の家には代替わり事に作るので山の様にありますよ。目を通すなんて御免ですぜ」

普通二部作り分家と共有する、兄弟が多けりゃその分も作るので街の秀才はいい稼ぎになる。

 

大変なのは甫箭(フージァン)だ。

徐(シュ)の方へ上手く船の旅を売り込んで契約させた。

肝心の陳鴻墀(チェンフォンチィ)の宿が分からない。

浙江會館,全浙會館の客にも心当たりがないという。

盆兒胡同に進士に受かった人で出歩かない人がいると聞いて様子を探った。

下僕の老爺が良くいく酒店で酒を奢って聞きだした。

「殿試の後、腹下しで昨日まで寝ていた」

それが聞きだせたのが七日の夕刻だ。

「其れじゃ江蘇の人たちとは交流が無いのかい」

「知り合いは多いが、家の旦那出不精だから。蘇州(スーヂョウ)にいる孫の顔さえ見に行かないぜ」

「この間俺の嫁の実家の菜店に大勢で来て食事をしていたが来なかったのかい」

「あの時、誘いは有ったが会試に受かるかでおろおろしてた。だから緊張のし過ぎで殿試の後腹下しだ」

会試の中に交流していた人がいて試館が分からないという事は「落ちたな」と心の内で合点した。

「蘇州(スーヂョウ)、杭州(ハンヂョウ)は陳(チェン)さんが多いと聞いたが本当かよ」

「陳(チェン)さん、呉(ウー)さんは、目をつむって石を投げりゃぶち当たる位いるぜ。だけどうちの旦那は浙江嘉善陳(チェン)だ」

間違いない「じゃ、明日の船には乗らないのかい」と聞いてみた。

「俺と二人旅だぜ。来るときは蘇州の小姐(シャオジエ=お嬢様)の縁で天津(ティェンジン)迄船できたが帰りは決まっていないぜ。その船はいつ出るんだい」

「隣の胡同の幹繁老てとこの料理人の話しじゃ明日の午の下刻に盧溝橋の東詰の韓(ハン)酒店(ヂゥディン)で待ち合わせだそうだ」

午の下刻(平均午後一時・午後一時十五分頃)

「船だと高いんだろ。嘉善迄本には六十両だと出ていた。歩きなら日にちはかかるが十両なら十分だそうだ。荷物持ちは辛いぜ」

「俺は江蘇江都まで一人二十二両割り振ったと聞いた。蘇州の人が二人で百両出したと料理人も驚いていたぜ」

それやこれやで一刻あまり酒を奢って聞きだしたのは西城盆兒胡同の鄞(ヂィン)縣西館という試館だという事だ。

普通寧波(ニンポー)からの人が利用している。

宿まで送り届け「また機会が有れば飲もうぜ」と別れた。

朝に街の若い衆に聞き合わせに行かせた。

息せき切って戻ってきた。

「巳の鐘の後、急いで出て広安門へ向かいましたぜ」

巳の鐘(平均十時・九時四十分頃)

その時間だと今朝思い出して話したようだ。

三十七里は有る。

清代前半・一里五百メートル。

和信伝・一里四百メートルと五百メートル使い分け

一刻半(平均三時間・三時間三十五分)、店の時計で確認すると、ギリギリだなと間に合わないときは船を待たせようと、早足で永天門を出て右安門で左手の街道で先回りした。

この付近嘉慶六年に粥廠が設けられた場所だ。

自慢の懐中時計を出してみると一時十分を指している。

広州で三十五両と格安で見つけた、店の時計と合わせると日に二分と狂わない。

遠目に駆けだした人が見え、後から昨晩の老人が荷を背負って歩いている。

絵にしたら面白そうだと見ていると、まにあったようで船に乗る準備が始まった。

船が出るまで、そこで見ていて府第へ報告に向かった。

 

第四十四回-和信伝-壱拾参 ・ 23-02-10

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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