第伍部-和信伝-

 第三十八回-和信伝-漆  阿井一矢  
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

二月一日の朝は強い風が南から吹き荒れている。

それでも辰の刻には治まって雲は吹き払われて強い日差しが街を活気づかせる。

楊閤(イァンフゥ)からお供の方の食事はどうされますかと連絡が来た。

「ほれ四恩の大食いがバレた」

趙(ジャオ)哥哥に揶揄われている。

関元から「六人で軽い食事の用意を」と連絡を受け、康演(クアンイェン)はほくそ笑んでいる。

「どうしたの」

「一人大食いがいるそうだ」

「面白そうね」

「蘇州(スーヂョウ)で大分蟹を食わされたそうだ」

「もう駄目よ」

此処でも大目に買い入れた蟹を二十六日の夜中に店の者で食べつくしたという。

「二月に入っちゃ出すことも出来ないさ。其れで東坡肉(ドンポーロウ)、よく似た黄州(ファンヂォウ)紅焼肉(ホンシャオロウ)、南京(ナンジン)焼鶏(カァォヂィ)、通州(トォンヂォウ)川海老の椒鹽蝦(ヂィアォイェンシィア・海老の花椒揚げ)、四川(スーチュワン)の麻婆豆腐(マァポォドォゥフゥ)、後何かあるか」

「上海紅焼菜(シャンハイホンシャオツァイ・野菜の旨煮)、だけど旦那の食べられる物ばかりじゃないのさ」

「ご相伴なんて言われた時の用心さ」

二人は三日の間二十人のわかい娘(十二から十五位)、一日二刻半で二両なんて法外な給金で集めてきた。

年に二.三度は康演がやる宴会でおなじみ、集める奴も上前は撥ねないで手当てが出るので、人気は高い。

それで見た目も頭もよい娘が集まって来る。

料理屋の手伝いでそれだけ出してくれるのは先ず無いうえに、衣装も毎日用意される。

明日の二日は龍台頭で幹繁老(ガァンファンラォ)での宴会だがこちらは費樂生(フェイユエシァン)達「結」仲間の宴会を開かせる。

 

その楊閤(イァンフゥ)には続々と永定河、大運河を根城に活躍する漕幇(ツァォパァ)の親方連が申の下刻(午後五時頃)前から集まってきた。

情報交換に忙しく卓を回るもの、鷹揚に挨拶を受けても座ったままのものといて、康演(クアンイェン)は調理場から面白く様子を見ている。

卓には茶の接待と伊太利菓子が置かれている。

「酒はガァンペェィの前にはお出しいたします」

楊閤(イァンフゥ)の料理人は時間が来ると次々と人の座る卓へ料理を運んでいる。

玄関には結から費樂生(フェイユエシァン)達の京城(みやこ)駐在の者たちと漕幇(ツァォパァ)から顔の広い男が椅子(イーヅゥ)に腰かけて帳面で予定された者か臨時、代人の区別をつけて席の札を渡している。

信(シィン)は六人で来て八人部屋で休んでいる。

平大人が時刻の前にやってきて「供に三人来てるから」と言って別の部屋へ出て行った。

酉(午後六時頃)には予定されているものはすべて来ていた。

表に「貸し切り御礼」の札が下がっていても「なんだ駄目か」と言いながら入ってくるものがいる。

費樂生(フェイユエシァン)が四.五人以上なら今日から三日間の為に用意した二階の六部屋へ「特別ですよ」と送り込ませる。

一人でごねる奴は知らん顔して漕幇(ツァォパァ)の真ん中へ送り込んでしまった。

手慣れたもんだ。

そのために卓の配置を変えた康演(クアンイェン)は、調理場からそこへ座らされて何を頼むかと楽しんでいる。

宴会場は何を頼んでも店の驕りになる、五人の料理人は手ぐすね引いていて、得意料理に腕を振るった。

宴会の挨拶は丸顔で背の高い男が立ち上がった。

「俺たちの繁栄のために干杯(ガァンペェィ・乾杯)」

大きな声で合図をして瑠璃杯の香槟酒(シャンビンジュウ)を呷(あお)った。

小部屋の食事前に平大人が迎えに来て信(シィン)は大食堂へ出た。

頭分と区別せず、すべての卓へ名前と余姚(ユィヤオ)から来たとだけ告げて回った。

平大人は聞いていたらしく真ん中で一人座っている男に「空きがないので二人座らせてください」と告げると困っていた男は喜んで「さぁどうぞ」と座ってもらった。

その頃には四恩の方は出て来る量に目を白黒させていた。

「さて、軽いものとお願いしてあるのだが。残しては店に失礼だ」

なんて湯(タン)哥哥は喜んでいる。

関元は庸(イォン)に「フゥチンにしてやられた」とあきれている。

信(シィン)達二人の卓にも立派な料理が来たので男に「こりゃ参った少し手伝ってください」と小皿を大目に頼んだ。

また一人費(フェイ)が送り込んできたので前に座らせた。

女の子は酒の好みを聞いて瑠璃杯か湯呑みを置いて回っている。

信(シィン)は荒くれ者たちのように思っていたが、統制は取れていて大声の者は川筋の仕事柄と心配は消えた。

香槟酒(シャンビンジュウ)が一本置かれたので「附き合ってください」と前の男二人に半分以上飲ませてしまった。

様子を見て漕幇(ツァォパァ)の大物に眼を付けて「供が来ていますのでここらで部屋に引き取らせていただきます」そう挨拶して小部屋に戻った。

 

「よくわかりましたね」

「合っていましたか」

「あいつは百では聞かない漕幇(ツァォパァ)の船を動かしています。王藩雀(ゥアンファンヂィアォ)という大物です」

そのころ酔った男は酒を注ぎに来た娘に勘定を頼むと「すべて頂いております。お酒は店の驕りです。いくら飲んでもいいのですよ」かわいい顔で声も涼し気に話している。

あとから来た男は〆たと「香槟酒(シャンビンジュウ)は出せるか」と聞いて出してもらった。

 

王は幾人かに声をかけてから係りの娘に「先ほど挨拶に来た客の食事が終わったら知らせてくれ」そう頼んだ。

娘が戻って今皿を下げてきましたというと「ありがとうよ」声をかけて徐(おもむろ)に腰を上げて信(シィン)の部屋を聞いて訪れた。

「本日はワッチらの集まりに顔を見せて頂きありがたく存じます。末永くお付き合いをお願いいたします」

五人の男が手を組んで丁寧に挨拶をするので腹の膨れた四恩は驚いている。

娘娘には動じなかったが強面で体格の良い男の集団が真近(まじか・間近)で頭を下げるには臆したようだ。

信(シィン)が立ち上がって年長者に丁寧に挨拶をかわす様子は気品がある。

五人が部屋を出ると「肝が冷えました」四恩は正直だ。

関元に気付いていても知らん顔する五人は出来た男たちだ。

「明後日も同じ人たちですか」

「いや、明後日は遠くから来る人ばかりだ。確か南京(ナンジン)、合肥(ハーフェイ)からも来るはずだ。俺たちの明日の客にも南京(ナンジン)、合肥(ハーフェイ)の人がいて今日あたり何処で宴会だろう」

何日も宴会続きで経費はどうするのだろうと心配して、趙(ジャオ)哥哥に聞くと「京城(みやこ)の係は向こう任せで、お前さんの出番はないよ」と言われた。

三百両の銀(かね)と千両分の銀票を渡され、銭は千文(銭)用意しておくんだと言われ、重い金箱を大事に抱えてきたが「宿に預けておけばよい」と関元に言われて細かい銭以外は預けっぱなしだ。

宿の支払いもここまで八十八両と二百文で済んでいる。

船の水夫の分は関元から「別だから出さなくていい」と言われている。

两両の銀票を二十枚は自分で用意していつも懐に入れているので、不意の出費でも間に合う自信はある四恩だったが、どうやら桁違いの付き合いの真っただ中にいると気が付いたようだ。

まだ四恩は関元のフゥチンに爺爺(セーセー)が宿を経営しているとは教えられていない。

「どうだまだ腹に入れられそうか」

庸(イォン)に言われて「無理ですよ。もう歩くのもしんどいです。ここに泊まりたいくらいです」と言って腹をさすった。

信(シィン)の分も小部屋に来たのだから戻ってきたときはほっとした鄭四恩(チョンスーエン)だ

平大人(ダァレェン)が顔を出して馬車が来ましたと告げて入ってきた。

ほっとしている四恩を見て「馬車で助かったろ」そう笑った。

関元が「さて宿で飲みなおすか」というので「本気ですか」と心配する四恩だ。

表に出ると豊紳府、公主府と書かれた二つの提灯が明るく輝いている馬車が、三台も止まっていた。

「これで帰るのですか」

「そうだよ。大事なお供さんだ」

その夜の玲齢(リィンリン)への手紙はいつもの五倍は有った。

 

二月二日(陽暦千八百零五年三月二日)快晴、信(シィン)が豊紳府を訪(おとな)う日だ

朝吹いていた強い南風は辰刻を過ぎて治まり、温かい日差しは街を守るようだ。

城壁は風で砂が舞い上がり屋根までがくすんでいた。

 

何時ものように平儀藩(ピィンイーファン)が瑠璃廠東の廊房頭条胡同(ラァンファントォゥティアォフートン)幹繁老(ガァンファンラォ)へやってきたのは辰の鐘の大分後だ。

正陽門から入り宗人府の先を兵部へ曲がり、翰林院を抜ければ北御河橋の先に東単牌楼が見える。

北御河橋の下は安寧橋から皇城を回り抜けて東河(護城河)へ通じ、その東は東便門の東西で城壁を潜り、北の通惠河(トォンフゥィフゥ)へ流れ込む運河だ。

 

今年は東四牌楼へ出て隆福寺街(ロォンフゥスゥヂェ)に入り、右へ折れて関帝廟、鍵の手に曲がれば晾谷廠胡同(リィァングゥチャンフートン)、混雑を抜けるように豊紳府へ出た。

通りは最近取灯胡同(チゥィダァンフートン)と呼ばれだした、倉庫群の北が取燈兒胡同(チゥィダァンルフートン)から大取灯胡同(ダァーチゥィダァンフートン)と言われだして久しい。

五十年ほど以前は晾谷廠胡同の北側には高麗館が有ったという、大取灯胡同の北が咸親王府(シィェンチェンゥアンフゥ)。

親王府は親王府と間違えやすいが、当代は親王系第三代正藍旗已革貝勒永珠が住む邸。

康熙帝玄燁第十四子允祕(和碩親王)の孫にあたり、嘉慶九年から宗人府左宗人に任じられている。

 

前もって知らせが平儀藩(ピィンイーファン)から有ったようで何時もの船着き門ではなく初めての正門からの訪問だ。

 

豊紳府は創作の為、現実とは違う東へ正門を設け、架空の邸と分かるようにした。

豊紳府00-3-01-Fengšenhu

 -不浄門 ・ 右-正門 ・ その先に通用門がある。



 邸内側 正門 ・ 通用門。

豊紳府00-3-01-Maingate-1


関元が通用門で到着を告げるとすぐに正門が開かれ門番と昂(アン)先生が表へ出て挨拶をして中へいざなった。

厳かに内門が開かれると使女が二人、門の向こうで待っていた。

「ご案内いたします」

路の両脇で威厳を持った歩みで先に立って案内した。

使女は背も高くきらびやかな衣装をまとっている、遠くから見た四恩は「すごい美女がいるもんだ。従兄妹は普段はどんな服を着ているのだろう」と思いながら殿(しんがり)三人の侍衛の前を歩いた。

服に眼がとられて美女と判断してしまう四恩は愉快だ。

曾藍桃(ツォンラァンタァオ)が館の前の着飾った三人娘の真ん中にいた。

四恩は軽くうなずいて階(きざはし)を上がり、言われるままに扉の右手へ趙哥哥と並んで立った。 

扉の向こうに平、叶、湯の三人、三人の侍衛は階の下に整列した。

関元(グァンユアン)は藍桃を手招きして「後で信(シィン)様と余姚(ユィヤオ)からきている娘たちで会えるように話はついてるからね」と耳打ちした。

三人の着飾った娘は去年余姚(ユィヤオ)から来た娘たちだ、ほかの九人もどこかで待機しているのだろう。

信(シィン)と平儀藩(ピィンイーファン)だけが居間に入り挨拶をして席が決まると関元(グァンユアン)と叶庸(イエイォン)が呼び入れられた。

関元の挨拶をまるで映したかのように庸(イォン)は堂々と挨拶をしている。

「和国の何処からですの」

「越中富山で生まれ、江戸(えど)で剣(ヂィェン)の修業をしました」

「えっちゅうとやま」

公主も江戸は哥哥の本で知っているがその言葉は初耳だ。

関元が説明をしてくれた。

「チィェンウー(銭五)の時、話した土地の名を覚えていますか」

「加賀、能登、越前」

和語で答えが返ってきた。

庸(イォン)は公主が頭のいい方だなと感心した。

「ええ、その能登の国を景山(ヂィンシアン)と見立てると此処の府第の当たりに相当します」

素早く卓の上に哥哥が用意した地図は昔のものだが、何枚もがつないで大きく両手で広げるくらいあり、湾のえぐれた場所を庸(イォン)が指で押さえた。

覗き込んだ娘娘に哥哥は「江戸が此処」と指さして見せた。

「ならここが能登」

半島の形で間違いはない場所で、手をたたきたくなる庸(イォン)だった。

「そのしたが加賀でさらに越前、湖が琵琶湖(ピィパーフゥ)ね」

地図の文字は崩したかなで読めるわけではないようだ。

伊能忠敬の大日本沿海輿地全図はまだ完成していない。

幕府に蝦夷地測量後に日本東半部沿海地図を提出したばかりで、噂だけは哥哥たち本好きの間に広まっている。

湯晨榮、趙哥哥と四恩も呼び入れられた。

「お久しぶり。趙哥哥」

公主の言葉に片膝をついて挨拶したので湯と四恩もその後ろへ跪いた。

「後ろの二人は初めてね」

信(シィン)が「肩幅の広いのが趙哥哥の娘婿で湯晨榮(タンチェンロン)、丸顔が鄭四恩(チョンスーエン)で邸の財務(会計)の主務(ヂゥウー)です」と手でさして紹介した。

「まぁ。こんなに若いのに邸の大切なお役目をしているなんて。さぞかし切れる頭の持ち主ね」

公主の誉め言葉に真っ赤になる四恩だが、挨拶と自分の紹介はしっかりと行えた。

遅れて趙哥哥に湯晨榮も「ご挨拶を申し上げます」と続いた。

「信(シィン)は姐姐(チェチェ)の館に娘たちを集めてあるから、そちらでお茶を付き合ってね。趙哥哥もほかの方と一緒にね。平儀藩、関元と庸(イォン)さんは教えてほしいことが有るので残って下さる」

公主は上手く仕切りを付けた。

 

脇の部屋から平文炳(ピィンウェンピン)と平康演(クアンイェン)が出てきて、娘娘と哥哥の前に半円を描くように五人は凳子(ダァンヅゥ)へ座った。

茶の支度をすると、前もって言われているのか、使女は扉の外に三人、壁のうらへ三人が入っていった。

「まずは一息ついて茶で喉を潤してくださる」

口を付けて平儀藩は驚いて顔を上げて「娘娘、これは鳳凰」と声を上げた。

「わかるのね」

娘娘が驚いている。

「フォンシャンがある日喉が渇いたお前たちも付き合え。そうおっしゃられて大事そうにフォンホウ(皇后)と一緒に私たちにも飲ませてくださいました。確か十一番で壬戌の年」

手をたたいて公主は喜んでいる。

「素晴らしいこと。一度で覚えたなんて貴方国一番の味利きだわ」

「美味い。壬戌と庚申はご相伴しました。庚申とは違う風味ですね」

そう言って「二番をおねだりしても好いでしょうか」と期待の声がする。

喜んだ公主は自ら支度をして七人分入れて一同へ振舞った。

「落ち着いたところで平大人から皆の賛同を得たいことがある」

その言葉で哥哥と娘娘が庸(イォン)を認めたと分かった。

海賊退治の話し、軍師の話し、財政の話し、庸(イォン)の了解が必要だと話を持ち掛けた。

「私が信(シィン)様の軍師ですか」

「関元は忙しすぎて行動をすべて一緒には無理だ。この先十年をめどに引き受けてほしい」

考えていた庸(イォン)は関元殿が承知ならと頷いてくれた。

公主が「親としてお礼を申します」と華麗に頭を下げて「信(シィン)が我儘を申したら叱る事のできる人に為って下さい」そうお願いした。

「わがままは私と関元殿が言いそうですな」

平儀藩も「御秘官(イミグァン)」の事を手短に告げ「まとめは今哥哥のお役目ですが、いずれ信(シィン)様が引き継がれます」と自分は相談役だと告げた。

この年、平文炳六十一歳、平儀藩五十七歳。

「いずれ俺を飛び越して関元(グァンユアン)の時代になる」

康演(クアンイェン)は老大(ラァォダァ)にそう告げた。

「フゥチンはまだ若い」

「いや時代はお前のものだ」

平康演この年四十四歳の男盛り、平関元二十五歳。

「そういえば庸(イォン)さんの年は」

俺は知りませんと関元が言うと公主は「だから軍師に向かないんだわ」と笑わせてくれた。

「天明二年壬寅二黒(てんめいにねんみずのえとらじこく)の生まれでござる」

また和国の言葉が出た。

儀藩が「今年は乙丑でございます」というと「二十四歳でござるが、干支は同じでござるかな」と聞いている。

和国を離れると干支も忘れがちだと懐の筆を出して字を書けば通じる。

哥哥は「ちょっと待ってくれ」と隣から和国の冊子を何冊か、わしづかみで持ってきた。

「これだ是だ」

和国の冊子に“寛政暦対比”と哥哥の字で書きこんであり「大清と和国の干支は同じだ」と告げた。

「おい、息子よ。お前乾隆四十五年の庚子生まれだろう」

「やっぱり年上でしたか二つ上なら今日から哥哥と呼ばせていただきます」

「五分の飲み分け兄弟で同等にしてくれ。弟弟(ディーディ)より庸(イォン)さんの方が呼びやすい」

「ならば三番を入れてもらって皆で飲んで同等の付き合いといこう」

やっぱり哥哥は人たらしだと康演(クアンイェン)は思った。

 

信(シィン)は姐姐(チェチェ)の食堂で娘たちに四恩を紹介している。

顔見知りは藍桃だけの様だ。

曾藍桃(ツォンラァンタァオ)は「弟弟は元気なの」と聞いている。

「曾驍熙(ツォンシィアシィ)は勉強も拳も子供たちの中で一番だよ」

信(シィン)も「そうそう私も拳では負けてしまう」とシィアシィの姐姐(チェチェ)をおだてている。

「妹妹の手紙ではチィエもここで働きたいと書いてきましたがお雇い頂けるでしょうか」

「今幾つなの」

「今年で八歳です」

「十歳をすぎないと仕事は追いつかないよ。勉強だけではお願いしにくいから」

「莱玲様の御付きにもう一人は駄目でしょうか」

「聞いては上げるけど。あと二年待つように言うのが良いと思うよ」

「ラァンタァオ無理を言って信(シィン)様を困らせては駄目だよ。舅父が困るから。それにラァンタァオの媽媽(マァーマァー)だって子供が一人もいなくなれば悲しむよ」

優しく説得する四恩にラァンタァオは「私たち姉妹のわがままで困る人が出てはいけませんね。妹妹には手紙でよおく言い聞かせます。戻る前に宿へ届けます」

趙(ジャオ)哥哥が娘たちに手紙を書くように話した。

「四日の夕方申の下刻(17時頃)までに書き上げて通用門門番のところへ届けておくんだよ。こちらから湯(タン)哥哥が取りに来ることになっているから」

娘娘から使女が使いに来た。

「信(シィン)様は娘娘がお呼びです。お供の方は四半刻後に、そこの時計で一時を過ぎたら居間の方へおいで下さい」

 

信(シィン)を案内して武環梨が戻ると四恩はラァンタァオに「奇麗な人だね。門から案内された時ドキドキしたよ」と聞いている。

「武環梨(ウーファンリィ)様よ。来年にはお嫁に行くことも決まっているわ」

妻もいる四恩を揶揄っている様子は趙(ジャオ)哥哥には見物(みもの)だとおかしかった。

つい口が滑って「あの時のもう一人(おひと)かたは」と聞いてしまった。「趙(ジャオ)哥哥も気になりますの」

「夏玲宝(シァリィンパォ)様よ」

「リィンパォ様も許嫁の方がおりますわ」

一斉に口が軽くなっている。

賑やかに話が弾むとあっという間に長い針が半周して上に来た。

名残惜し気に三人を送り出し、娘たちは自分の服と着替えに戻っていった。

 

こんな時でも腹が空いてくる四恩は図太い神経の持ち主だ。

公主と別れの挨拶をかわし、格格、使女に見送られて府第を後にして崇文門へ向かった。

幹繁老(ガァンファンラォ)まで送り届けると平儀藩(ピィンイーファン)と護衛の侍衛は戻っていった。

 

侍衛は二等侍衛で紀佶崇(ジーヂィチォン)、直隷天津府(ティェンジン)生まれ武環梨(ウーファンリィ)の婚約者と夏玲宝(シァリィンパォ)の婚約者二等侍衛・管麟歓(グァンリィンファン)直隷順天府香河県(シャンホー)生まれが来ていた。

もう一人は同じ二等侍衛でも平儀藩の仲立ちで婚約し、三月には袁純雪(ユエンシュェジン)と婚姻の二十歳になった二等侍衛柴功(チャイゴォン)直隷順天府東安県(ドンアン)生まれが相手との顔合わせに来ていた。

ヂィチォンとリィンファンは相手と顔見知りだがゴオンは初めて相手を見て相当気に入ったようだ。

帰り道二人に冷やかされイーファンにも「大分にやけていたぞ」と言われている。

 

平大人と康演(クアンイェン)の親子は玄関を入ってから別れの挨拶を交わした。

「また申の下刻(午後五時頃)には大勢でやってまいります」

「待っていますよ」

信は玄関先で隣へ行く平大人親子を見送った。

「さて遅いが昼にするか」

関元に言われて四恩は顔がほころんだ。

「やっぱり腹が減るのか。今晩もまた宴会だぞ」

「えっ、今日は客の接待で宴会料理とは縁がないはずでは」

「おいおい、本気にしていた様だぞ」

趙(ジャオ)哥哥は湯(タン)哥哥と笑い転げている。

「昼というより腹塞ぎ程度のものだ」

すでに頼んであるらしく小部屋には伊太利菓子と具のない熱々の饅頭が置かれていた。

湯は卵入りだった。

 

宴会場の大食堂は円を描くように八の卓が置かれ三十二人が入れる支度が出来ている。

四恩たちは小部屋で四人に為った、庸(イォン)、信(シィン)は客と一緒だ。

信(シィン)の挨拶が済むと三十一人の客は出された香槟酒(シャンビンジュウ)の瑠璃杯で「干杯(ガァンペェィ・乾杯)」と飲み干した。

飛燕は娘に任せてこなかったが、哥哥の檀公遜(ゴォンシィン)が海燕(ハイイェン)、香鴛(シャンユァン)の席に着いていた。

同じ席には蘇州(スーヂョウ)から康演(クアンイェン)の三男関玉(グァンユゥ)が席に付いている。

ゴォンシィンは子供たちに囲まれ楽しそうだ。

周りの喧騒から外れ廊下側の窓寄りという末席ながら、信(シィン)が見える席に外甥女(ゥアィシァンヌゥ)と海燕(ハイイェン)を座らせた。

今年は信が頼んで調理室を背に座っている。

関玉(グァンユゥ)は十三歳の乾隆五十八年誕生、香鴛(シャンユァン)は二月ほど生まれが早い。

ゴォンシィンは婿に関玉なら妹妹は喜ぶだろうかなど妄想が先走りしている。

 

平大人は信と同じ席、乳母の侯(ホウ)さんは阜成門(フーチァンメン)の城外の隠居所から呼び出されて出てきている。

うれしくてたまらない顔だ。

其れも信(シィン)が隣へ手を引いて座らせてくれた。

爺の文(ウェン)は風邪だと言って山陶酒店から手紙が届いて、信(シィン)をがっかりさせた。

爺は陳姓だが信は文(ウェン)と幼い時から呼ばされていた。

せっかく通州三河から出てきたのに病が重くなければいいのにと思った。

爺は宴席でせき込むのを恐れたようだが、よい医者が見てくれていて「咳も収まりだした」と書いてきた。

予定の席は関元が庸(イォン)に座ってもらった。

爺は邸の差配を趙(ジャオ)哥哥に引き継がせ、隠居生活に入ったので今年出られないのは残念だと書いてきた。

信も残念に感じているが、文(ウェン)の教えを守り顔に出さないようにした。

四恩達四人にハァンとフージァンが混ざり、此方はこちらと四恩をあおってご馳走責め(攻め)の最中だ。

北京烤焼鴨-ペェィヂィンカァォィア・北京ダック)がデンと置かれた。

十七くらいの可愛い娘が荷葉餅(ホーイエビン)に焼鴨の皮を削いで包むと、次々に手渡してくれる。

「肉は客には出さないよ。湯の材料ね」

道理で昼の面条の湯が美味しいわけだと四恩は思った。

「俺には肉をちょいとそいでくれ」

関元に言われ大目に肉を付けて「お客さん通だね」と言わせた。

料理長の娘の杏梨(シィンリィ)は蘇州(スーヂョウ)にいた子供の頃から知っていて、揶揄ったのだ。

四恩たちはそんなこと知らないので、肉を付けるのが通の食べ方なのだと思った。

鴨湯(ヤータン)と関元が言うと「お客さん昼に飲んだから今間に合わないよ。これ持っていかないと作れない」わざわざ都風に言おうとして片言に為っている。

海帯(ハイタイ・昆布)の料理にはハイダイと言ったり、干鰒魚(ガァンフゥーイ・干鮑)をガァンパイと言ったりして娘も浮き浮きしている。

全鴨席(チュアンヤーシー)に鱶鰭(ユイチー)、干鰒魚(ガァンフゥーイ・干鮑)、海帯(ハイタイ・昆布)が今晩の主な食材で、龍台頭のお決まりも出てきた。

 

宴会場では客が南京(ナンジン)評判の笛が聞きたいと言い出し、大人が二人にお願いしていた。

二人は笛を取りに席を離れ、控えの部屋へ向かった。

 

シィンリィの媽媽(マァーマァー)も宴会場ではしゃいでいる。

平大人が「どうした何かいいことあったのか」と聞くほどだ。

「婚約がシィンリィに決まった」

「どこの男だ」

阮永戴(ルァンイォンダァイ)という阮品菜店(ルァンピィンツァイディン)の二儿子(アルウーズゥ・次男)だという。

富富(フゥフゥ)の一つ下の弟弟、ご近所さんだ。

「向こうは婿に出してもいいと言ってきた」

「そいつは目出たいな。浮かれて当然だ」

平大人が六年前己未の年の夏、蘇州(スーヂョウ)から引き抜いてきた家族だ、瑠璃廠東の廊房頭条胡同幹繁老(ガァンファンラォ)はこの家族のおかげで繁盛し、親子は身内同然でもあるのだ。

おとなしい料理人と気立ての良いチィズ(妻子・つま)に可愛い娘は京城(みやこ)に溶け込んでいる。

客が「紅(ホォンパァォ・祝儀)」と叫んで赤い包みを高く差し上げている。

大人も袖から出して渡すと「娘は何処だ」と騒いでいる。

シィンリィが呼ばれると関元も付いてきて「フゥチンも呼んできた」と言っていると紅包を高々と掲げて入ってきた。

小卓が持ち出され包がうずたかく積み上げられた。

信(シィン)は関元に頼んで持ってきてもらうと「いくら」と耳打ちした。

入れてあるのは「两拾壱」というので後ろを向いて百両の銀票を関元に見せて中へ押し込んだ。

こんな時、誰も名前なぞ書く暇もないので解からないだろうと、世慣れしていない信(シィン)は思ったが、包に百二十一も入れる奴はいない。

孜漢(ズハァン)に周甫箭(チョウフージァン)もやってきて卓へ乗せている。

笛がお祝いの曲を吹きだした。

二人が戻ってきたのだ。

四恩たちの小部屋でも戸を開けて音色に酔っている。

 

三日、あれほど続いていた南風は吹いていない。

穏やかな朝は久しぶりだ。

寅の下刻頃だろうかと四恩は下へ降りた。

大きな時計は六時十分を指していて大食堂はもう趙(ジャオ)哥哥が粥にありついていた。

泊りは信たちの一行六人だけで、大食堂では仲居たちも粥を食べている。

四恩は不思議にも思わないのは余姚(ユィヤオ)から来たからで、余姚(ユィヤオ)邸では皆一緒が普通なのだ。

信(シィン)様はと聞くと「庸(イォン)さんと関元さんがついて爺さんのお見舞い」だという。

湯(タン)哥哥も降りてきていて「其れだと俺が一番の寝坊だ」と言った。

四恩が何時もの通りに粥を二杯食べると「あれだけ食べて朝は同じか」と湯(タン)哥哥は最初の一杯も持て余していた。

 

爺は、本当は陳(チェンウェンドゥアンというのだが、誰でもが爺さんとしか呼ばない。

去年の事だ「まだ五十二だぞ」本人は怒るが、陳さんと言ってくれるのは居ない、見た目はどうしても六十をはるかに過ぎているせいだ。

趙(ジャオ)哥哥は、俺たちの家族がこの屋敷に来た時には、もう爺様だったと言い張っていた。

家族ぐるみで庭番にやとわれたのは和信が生れた、乾隆五十九年十二月から三月後の乾隆六十年三月、十一年前だ。

趙延石(ジャオイェンダァン)は二十七歳、妻の汪鶯寶(ワンインバァオ)二十四歳。

湯(タン)哥哥の妻になった趙藍藍(ジャオラァンラン)は七歳だった。

双子の男子は延壽(イェンシォウ)、延幡(イェンファン)、五歳のやんちゃ盛り。

信(シィン)はこのような家族に支えられて成長した。

 

もう一人いた庭番は同じ時にやとわれたが、見込まれて船乗りになったという。「今じゃ三艘の三百石船の船主だ」

趙(ジャオ)哥哥は時々顔を出す鄭(チョン)についてそのように教えた。

余姚運河(余姚江)を使っての鹽の運び出しに活躍しているという。

鄭(チョン)の侄女(ヂィヌゥ)の鄭蓬旛(チョンパァンファン)は去年十歳で豊紳府へ使えた。

最初は資格が無いと思っていたようだが、何度か趙(ジャオ)哥哥に頼んで候補に入れてもらったら、信(シィン)はあっさり引き受けたという。

あとで舒慧蓮(シュフゥィリィェン)が聞くと「鄭(チョン)さんは身内同然、その身内なら身内のはずだ」と答えたという。

鄭(チョン)は裕福でもない哥哥の娘に「精一杯着飾らせて送り出したい」と言って断られ、がっかりしていたが、フゥィリィェンからの話を聞いて感激したとリィンリンが聞き込んできた。

 

その日の夕刻が近づくと大人が香鴛(シャンユァン)と海燕(ハイイェン)を連れて先に出たと連絡が来た。

「三人で出かけたのか」

関元は不思議そうな顔だ。

「あ、これは失礼を。フゥチンと余(ユゥ)さんがついて行きました」

呉(ウー)の二儿子(アルウーズゥ・次男)は恐縮している。

「なら俺たちもすぐに出るからと奶奶(ナイナイ)に伝えてくれ」

 

申の下刻(北京18053317時頃)に六人そろって幹繁老(ガァンファンラォ)を出て茶食胡同(チァシィフートン)へ西河沿いを西へ進んだ。

廊房頭条胡同幹繁老から茶食胡同楊閤まで男の足で四半刻はかからない。

それでも着いた時には大人(ダァレェン)はすでに部屋に収まっていた。

玄関では費樂生(フェイユエシァン)が「あと三家族が遅れているだけ」と時間前なのに遅れているなどと言っている。

酉の約束に少し遅れて普通だが費(フェイ)は時間に厳しい。

小部屋に入り関元は爺爺(セーセー)に挨拶してくると部屋を訪ねた。

「着いたか、急がせて悪いが、お前と信(シィン)様に宴会場に出て、干杯の音頭を取って下さいと頼んでくれ」

「爺爺(セーセー)は」

「途中で信(シィン)様と入れ替わる」

そいつはいい考えだと部屋で信(シィン)にそれを伝えた。

庸(イォン)にも出てくれと三人で宴会場に入ると折よく費(フェイ)が席へ導いてくれた。

一日とは違う卓の並びで信が調理場を背にするように座ってもらった。

「だから二人のようなこと言ったんだな」

「どうしたの」

「いやね、俺と信(シィン)様としか言われなかったんですよ。二人じゃまるでさらし者だ」

「言いようが強(きつ)いよ」

「ええ」

後ろから「だからお前には前後、すべてを話さなきゃならないんだ」と康演の声が聞こえた。

「今日は料理人ですか」

後ろを見ずに信(シィン)が聞いた。

「此処から見張り」

「そいつは面白そうですね」

信(シィン)だってまだ子供だ、害のない調皮(ティアォピィ・悪戯)には眼がない。

赤子のころから周りに趙(ジャオ)哥哥の子供という調皮ものが、三人もいたせいだ。

香槟酒(シャンビンジュウ)が行きわたって最後に信(シィン)の卓へ回ってきた。

「漕幇(ツァォパァ)と結の友誼(イォウイー・友情)に干杯しましよう」

「干杯(ガァンペェィ・乾杯)」

「ガァンペェィ」「ガァンペェィ」「ガァンペェィ」

宴会は賑やかに始まった。

店で頼んだ娘たちは家族持ちの人たちの人気の的だ。

年寄りは「家の孫の嫁にならないか」などと口説いている。

三日目ともなると娘たちも慣れてきている。

表の陽は陰り庭の提灯へ次々と灯がともったがまだ目立って庭を照らさない。

半時ほどで信は「ほかの部屋へも挨拶をしてまいります」と部屋を出て平大人がいる部屋へ「交代ですよ」と声をかけた。

酉の下刻には表はすっかり暗くなり、庭の提灯が明るく輝いてきた。

 

「香鴛(シャンユァン)を知らない人もおられるでしょう。檀飛燕(タァンフェイイェン)の一人娘ですぞ。そして檀公遜(タァンゴォンシィン)の外甥女(ゥアィシァンヌゥ・姪)だ」

ゴォンシィンの名は南京(ナンジン)と取引が有ればいやでも耳に入る名だ。

「もう一人はジャワの泗水(スーシュイ、スラバヤ)からはるばるやってきた爾海燕(ゥァールハイイェン)」

まるで芝居の呼び込みだわと娘たちは呆れている。

平大人(ダァレェン)すっかり酔っている。

笛の演奏が始まると女たちは食べる手を止めて聞き入っている。

男は酒で陽気になり、手をたたいたり歌ったりする者も出だした。

頃合いを見て「先様お替り」と席を立って信を呼びに出たが、娘たちは客が手放さない。

信が来て「まだいいでしょ」と海燕たちを引き留めたので客は大喜びで踊るものまで出た。

戌の太鼓が聞こえてきて、姚翠鳳(ヤオツゥイファン)が出てきた。

「本日はありがとうございます。卓の方は片づけますが菓子を出しますのでお帰りにはどうぞ包んでお持ちください」

瑠璃杯と椀は置かれているので「茶をくれ」「酒をくれ」と居残り組はせわしなくなった。

信は挨拶をかわしながら平大人に娘たちを預けた。

小部屋で落ち着いて茶を飲んでいると康演がやってきた。

「どうでした今日の料理」

胃に優しい料理が選ばれていて、皆がほっとしたと伝えている。

「そろそろご馳走にも飽きた頃と思いましてね。薬膳にしてもよかったんですがね」

大分今日は気遣って選んだようだ。

平大人が「馬車が着いた」と呼びに来て店を後にするとき、玄関の大時計は午後の八時四十分を指していた。

 

第三十八回-和信伝-漆 ・ 23-01-25

   

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

・和碩親王(ホショイチンワン)

世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅郡王(ドロイグイワン)

長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅貝勒(ドロイベイレ)

・固山貝子(グサイベイセ)

・奉恩鎮國公

・奉恩輔國公

・不入八分鎮國公

・不入八分輔國公

・鎮國將軍

・輔國將軍    

・奉國將軍

・奉恩將軍    

・・・・・

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

・・・・・

満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

・・・・・

   

 

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

     
     
     
     

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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