第伍部-和信伝-

 第三十九回-和信伝-捌

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

二月四日

朝の粥を食べ終わるころ康演(クアンイェン)がやってきた。

「今日は金魚池と相公(シヤンコン)の陶延命(タオイェンミィン)に会いに行きましょう」

珍しく信(シィン)を外出に誘った。

関元(グァンユアン)は船の状態と洗い出しの手伝いだという。

「じゃ庸(イォン)さんと三人で行きましょう。趙(ジャオ)哥哥達は勝手にしてください。ああ、湯(タン)哥哥は府第に行く約束がありましたね」

関元が三人に「两両。小遣いだよ」と銀(かね)二両を渡した。

「土産を忘れると怖いぜ。俺も今日のうちに忘れずに買っておくぜ」

四恩は懐の銀(かね)と合わせて何を買おうか頭がいっぱいだ、呂玲齢(リュウリィンリン)への土産など考える暇もなかったのだ。

「庸(イォン)さんは土産に縁は無いでしょう」

それを聞いて信は「片手落ち」とだけ言うと関元が两両懐から出して渡した。

四恩に「翟(チャイ)の媼に買っていくよ」と銀(かね)を片手でもてあそんだ。

何時も気にしてくれ、服の洗濯まで面倒見てくれるのだ。

「惚れてる人はいないのですか」

「お前さんのようにな、許嫁など居ないんだよ。それより許嫁に惚れ直したは本当か」

四恩め酔って惚気(のろけ)たようだ。

康演(クアンイェン)は〆たと思っている。

「ところで康演さん相公(シヤンコン)てなんの役人です」

まだそんな言葉知らないようだ。

「男妾」

「関元、其れは言い過ぎだ。旦那という意味はあるが」

「フゥチン、小相公(シャオシヤンコン)は若旦那だが使い分けをするのは俺でも難しいぜ」

「まったく、お前ときたら身もふたもない奴だ。庸(イォン)さん陶延命(タオイェンミィン)については話が長くなるから黙ってついてくればオイオイわかりますよ」

 

三人で大柵欄を抜けて背に五牌楼を背負うように大街を南へ向かった。

天橋で堀に沿って東の道へ入ると金魚池は朝から賑わっていた。

中でも高い塀から寺の屋根にも見えた邸の門は開いていて、人が出入りしていた。

人のいない塀際で康演は声を潜めた。

「此処は御秘官(イミグァン)の繋をする邸で厳哀(イェンアイ)と代々名乗る店をやっています。まだ関元には教えておりませんが、三儿子(サンウーズゥ・三男)は何度か連れてきました」

関玉(グァンユゥ)はまだ十三歳、来年に結に入れる予定だという。

「その時には信(シィン)様も入っていただきます。哥哥は戊申の年に十四歳での加入でしたがそれは英廉様の言いつけにフゥチンが従ったためです」

関栄(グァンロォン)に東源興を譲り、関玉(グァンユゥ)は南京(ナンジン)において好きな商売をさせようと思っているという。

自分はもう少し動けるようにして、老爺(ヘシェンのあだ名)の死によりほぐれた糸をより合わせる心算(つもり)だという。

「信(シィン)様が早めに入っていただくのは相互扶助、互助をできるという強みを持っていただくためです」

話していても目配り、気配りは信(シィン)と庸(イォン)の体に響くものが有った。

こんなに神経を張り詰めて言葉は低く、それでいて脳裏に入って来るのは相当な人だと二人はひしひしと感じている。

不要なことは遠くにいても聞こえるように笑いながら話、必要なことは口を開かずに二人へ聞こえる声で喋っている。

信は「グァンロォさんに康演さんの仕事、グァンユゥさんに大人(ダァレェン)の仕事、グァンユアンさんには大きく羽ばたいてもらう。そうお考えですか」

「はて、何時になるやらが本当ですがね。三人の力がそろえば大人(ダァレェン)くらいの仕事はできるでしょう」

 

厳哀(イェンアイ)とかすれた字の看板が見えて老人が池をのぞいている。

「やってきたぜ」

「黒は元気かね」

「はは、次男とチィズ(妻子・つま)が手を出すなと怒るんだ」

「きれい好きでは育たんよ。見るには綺麗好きがいいがなぁ」

「蘇州(スーヂョウ)に戻る気は」

「孫がもう少しいう事を聞いてくれれば行ってもいいがね」

「駄目か」

「儲け仕事が好きすぎて、がらくたばかり育てているよ」

「大分儲けたらしい」

「肝心の玉まで売りゃ儲かるさ」

信と庸(イォン)の事は知っているという、手元から小さな玉石が池の向こうのカラスを追い払った。

「ほい、当たらなかったか」

庸(イォン)は観ていた、池の向こうにごろた石が置いてあり、そこに当てればカラスが飛び立つという事の様だ。

長年続けているようで大分へこんでいる。

「おや、見つかったか」

信には何のことかわからなかった。

「カラスも正直でな。仲間呼ぶ奴追い払うやつ。あいつは五年来ているよ」

そのあといきなり言い出した言葉に信は動揺した。

「陳が死んだ」

「いつ」

「今朝の辰の初初刻(上刻)」

古めかしい言い方だ(北京陽暦千八百零五年三月四日七時頃)信がもしかしたらと「陳文鍛(チェンウェンドゥアン)でしょうか」ときいた。

「今頃連絡が行ったころだ」

「行かなくては」

「遺体は逃げない」

老人は達観したようにいった。

「昨日は元気な様子でした」

「長年生きると死ぬ前にカラ元気が出る。あいつは二十でもう老人の様だった」

長い付き合いだという。

「平儀藩(ピィンイーファン)が仕切るが、影が葬儀を山陶酒店で執り行う。出て来るのは顔閤(イエンフゥ)という青年だ。陳の外甥(ゥアィシァン)という事になっている」

爺も御秘官(イミグァン)だったようだが、どうやってこんなに早く連絡がつくのか不思議だった。

「午後に為れば支度も済むから其れから行きなされ。急いで行っては駄目です」

御秘官(イミグァン)と「結」が信を隠し、育ててきたのだ。

信には影というのが誰か思い至らなかった。

「大人にはこちらから使いを出した。今頃聞いているだろう。おそらく自重するはず。墓は隠居所の近く通州三河に有る」

康演は相公(シヤンコン)のところへ行くという。

「男は泣きたいときでも泣かぬ覚悟が必要です。拳を握って耐えるのも男です」

「でも、爺は」

「わかります。フゥチンも耐えるはずです。耐えなければなりません」

感情は表に出さない、確かに爺の教育は幼い信にそう教えた。

行けば爺は悲しむだろう、そう思えばこれも試練だ。

赤子を手離した試練に耐えた額娘(ウーニャン)の事を思えば、今の自分は弱すぎる。

「海賊退治などと生意気なことを言ってすまないね。康演」

「わかってくれましたか。乗り出せばこちらにも犠牲は出ます。それに耐えられる覚悟が出来ましたらおとめはしません」

庸(イォン)は、こういう人達の役に立つ勉強を日々怠らぬことを心に誓った。

信も幹繁老(ガァンファンラォ)へ戻れば、爺のところへ行かずにはすまされない。

ならば寄り道をし、知らなかったことにした方がよいのだと康演の心遣いを知った。

紅橋は行きかう女も、ばくれんじみた闊達な歩きで闊歩している。

眼付きの鋭い男も多い。

寺の間を縫うように東へ向かう、右手に大きな法華寺がある。

「此処は半歩街、この付近緑営の兵士が多いです。営の長は参将の劉盃瑯(リウペェイラァン)と云って大酒のみです」

緑営は城外と思っていたが外城のはずれに兵営が有るという。

広渠門大街(グァンチィーメンダーヂィエ)だという割に寂しい場所だ。

 

「来たぞ」

「いいのか」

「なんだもう知らせが来たか」

「知っていて来たか。見込みがありそうだ」

「おいおい、陸景延(リゥチンイェン)に影響されて口が悪いぞ」

「二胡の先生がいなくなって家内(いえうち)が寂れた」

妻に妾二人の三人が景延から二胡を習っていたのだ。

豊紳府へは哥哥の婚姻したときに出入りが許された。

砂利だけでなく塵芥の処理も受けあう。

「砂利場を見せてもらうために来た」

「案内するぜ」

天壇の東に金魚池の南を抜けてきた堀川がある、城壁を潜り抜けて南の護城河へ排水される。

三人を陶延命(タオイェンミィン)が先に立って南の左安門(ヅゥオウェンメン)を出て、西へ向かうと城壁を抜けてきた水が護城河と混ざりあう場所がある。

その先に南護城河からさらに南への水路に砂利場があり、二十人程の男に混ざって三十人くらい女が洗った砂利を簀の子に干している。

濁った水は石組みの間を抜け、前より奇麗になって流れてゆく。

信(シィン)と庸(イォン)はその仕組みを興味深く見つめている。

「その石組みの中に砂や泥がたまってうわずみが出てゆくんだ」

「たまれば掻い出すんですか」

そういう事だ二つの内ひとつずつ交代さと言っている。

上流側に木の蓋があり交互に水路を閉める仕組みだ。

出口の下側に有る穴をふさぐ丸太を抜けば水が低くなって作業が出来ると言って人を呼んでやり方を見せてくれた。

 

荷を積んだラクダの隊列がやってきて、左安門(ヅゥオウェンメン)へ入ってゆく。

蘿蔔(ルゥオポォー・大根)を満載にして荷車が通る、牽く男は上半身裸で汗までかいている、押している男は疲れ切った顔だ。

「あれは昼の市場で仲買が買って夕市へ出す荷だ」

聞かないうちに説明してくれた、次々に砂利場の脇の道を荷車が通ってゆく。

「あの俵は牛の餌だ」

「城内に牛がいるのですか」

「三百五十はいるな。豚に羊もいるぜ。屠宰(トゥーヅァィ)業者は五十じゃきかないくらいいる。牛は荷車をひいてきて中で太らして飯店へ行く定めだ」

「そんなに多いのですか」

「おいおい、食べるだけじゃない。馬に牛、羊の皮は使い道が多いんだ。東直門(ドォンヂィメン)を筆頭に城外にはそれ以上の業者がいるぜ。骨を専門に焼いて畑の肥料に卸す問屋も大勢いるんだ。牛の角(つの)まで銀(イン)になる、無駄は無いのだぜ」

通州への街道に有る二閘村(リャンヂァツェン)には風向きを見て、犬猫の骨などもそこで焼く。

「砂利も業者は多いですか」

「こいつは今んとこ俺だけだ。明の時代から太監の独占さ」

「という事は」

「気づいたか。老相公(ラオシヤンコン)が親玉だ」

太監(宦官)の裏の仕事で、隠居すると権利を買って引き継いできた。

簀の子の下に落ちた砂利は細かいので高値で売れるという。大きいものと小さなものを振り分けているそうだ。

護城河はいろいろな金儲けの種が転がっているそうだ。

景山の下、西側では菱の実が栽培され、その下流では魚が育てられている。

西便門(シィビィエンメン)の外ではアヒルに鶏が多いという。

「最近人の増え方が異常だ。食い物はまだまだ需要があるが、俺は手を出す暇がない」

四人で何やら秘密めいた話を始めた。

 

暫くして康演は護城河に沿った道を一人で永定門(イォンディンメン)へ向かった。

信(シィン)と庸(イォン)は陶延命(タオイェンミィン)の案内で駱駝の休む広場へ出て、隊商にくわわり、ともに左安門を潜って道士観の先の正藍旗営所へ向かった。

隊商は営内の倉庫へ、三人は導かれるまま詰め所で漢人の参領に紹介された。

名は名乗ってもらえなかったが会うだけで用は済んだようだ。

先ほど聞いた劉盃瑯(リウペェイラァン)なのか信には教えてもらえず聞くのも憚られる。

陶延命は機会がくれば康演(クアンイェン)が説明するという。

信は皇室に関することで今は表に出せない何かがあるかと感じた。

満州正藍旗は崇文門(チョンウェンメン)内が本営だ。

 

二人は陶延命に案内されて大柵欄まで出てわかれた、

幹繁老(ガァンファンラォ)では信の帰りを待ちわびていた振りの康演が、袖を引いて小部屋へ連れ込んだ。

打ち合わせをして、用意されてきた白服に着替え、葬儀を引き受けた山陶酒店(シァンタァオヂゥディン)へ六人で出向いた。

顔閤(イエンフゥ)は信(シィン)の挨拶を受けて「すべてお任せを」と言葉少なく伝えた。

漢人の風習に従い多くの親族が詰めかけている。

信(シィン)はどうやって集めてきたか不思議に思ったが、女たちは泣き叫んでいる。

導師の上げる経は長く続いたがやがて終わり、顔閤(イエンフゥ)と五人の家族以外は引き取ってほしいと言われた。

 

夕刻前に棺は運び出されると伝えられ、涙を堪えた信(シィン)は別れを惜しみながら山陶酒店を後にした。

やはり大人(ダァレェン)は出てこなかった、康演が代理と紹介されていた。

関元はまだ知らないはずだ。

趙(ジャオ)哥哥が連絡は出したという。

「孜漢(ズハァン)の店で頼んで連絡は出しましたが、通惠河(トォンフゥィフゥ)の停泊地に見えなかったと使いは戻ってきました。手代が一人残ったそうです」

趙(ジャオ)哥哥か、孜漢(ズハァン)のどちらかが気をきかし、二人で行かせたようだ。

そのころ関元は通惠河(トォンフゥィフゥ)を東西に動きながら船頭の訓練をしていた。

停泊地に戻ると界峰興(ヂィエファンシィン)の手代が待っていて、子細を聞くと顔見知りだという五人を引き連れ、山陶酒店へ急いだ。

すでに棺は馬車に積まれていて墓所の通州三河へ向かうところだった。

顔閤(イエンフゥ)は関元を見分け手短にわけを聞かせた。

五人は広渠門外まで棺を見送り城壁伝いに船に戻った

 

湯(タン)哥哥は葬儀の後、約束のとおりに豊紳府通用門へ行くと余姚(ユィヤオ)への手紙を渡され、幹繁老(ガァンファンラォ)へ戻ってきた。

その晩は精進もので済ませ一同は早寝をした。

 

二月五日、珍しく朝に小雨が降った。

幹繁老(ガァンファンラォ)の神さんは「今年は雪も少なかった。先月二十日以来の水気だ」と言っている。

それでも庭の大きな梅の樹は十分水が回るので今年も奇麗に花をつけた。

背の低い桜は若木だろうか、信(シィン)が数えたら十二本あった。

ファイ(槐樹)は開店の時に植木職人に売り込まれた一丈ほどもある樹だ。

「夏に来てくれれば白い花が咲くんだけどねえ」

四恩に「チィズ(妻子・つま)と都見物においでよ」と誘っていた。

四恩たちは瑠璃廠へ出て装飾品を買いあさり、大柵欄へ回って残りの銀(イン)をはたいて色々と買い入れてきた。

船出を未(午後二時)まで遅らせることになって午の刻に軽く面条を啜る余裕が出来た。

水夫が荷を持ちに来てくれ、四恩は銀箱以外は担がずに済んで顔がほころんだ。

「そいつはお前の命だからな」

趙(ジャオ)哥哥は一度もって重いので、二度と手を出してこない。

四恩にすれば鹽の俵に比べりゃどうという事も無いのだが、何時も重そうに背負っている。

最初の予定より水夫(船頭)が増えたのは、新入りの水夫を連れて来て訓練したからだ。

きびきび働くさまは四恩には誰が新米か区別がつかず、頭に「なさけねえ」と言わせてしまった。

 

停泊地には昂(アン)先生が見送りに来ていた。

「来たら水夫が一刻遅らせたというので、向かいの酒店で大分飲んでしまった」

関元は大笑いだ。

七歳の老大(ラァォダァ)連れて昼酒とは先生らしい。

噂では子供たちに時々盃を舐めさせているようだ。

「信(シィン)さま。やはり莱玲様付はむりのようです」

「そうですか。分かりました」

気がどこかへいっているようなので「どうしました」と聞いてきた。

「赤子のころから世話になった文(ウェン)爺が昨日亡くなりまして。まだ五十三なのに早すぎました」

関元は「葬儀は旅先なので近くの身内で行いました。墓は通州三河に有るそうです」と伝えた。

昂(アン)先生親子が二人に悔やみを言って慰めた。

「支度が出来ました」

水夫頭の呼びかけで別れの挨拶をかわして船へ乗った。

三百石船のこの船は運河だけでなく外洋にも耐えることが出来た。

関元に水夫八人、客五人に見習い三人、賄い二人が乗り込んでいる。

水夫頭はまだ三十前だがこの船に乗って五年目、ようやく頭と呼ばれるようになりこの旅の船に選ばれた。

 

前の頭は段(ドォアン)三十二歳ですでに五人の子持ちだ、今年新造される三千石の護衛船兼沿岸貿易船の船長に選ばれた。

これで関元のもとに三千石船は三艘で、護衛を兼ねる一番船として加わった。

許された砲は六門、火縄銃は不許可、弩(ヌゥ)は六台、乗員八十名とされた。

「弟弟が鎮海から戻って客四十名、戦闘員十六名が許可されたと聞いてきた」

関元の元へ知らせが来たのは七日に天津(ティェンジン)で龍莞絃(ロンウァンシィェン)と出会って教えられた。

浙江省水軍の提督府本部は鎮海城内に置かれている。

「なら八十と五十六で百三十六が海賊と戦う時の人員だ」

「そう良いことだぜ。彼方は許可を出す口実を捻りだすのがお得意だ」

客も海賊に襲われれば戦うのは常識を裏手に取ったという事だ。

総指揮は浙江定海総兵官李長庚が任命された。

寧波(ニンポー)まで来ることはめったになくなり手薄な泉州が狙われている。

厦門の対岸、金門鎮(ジンメンヂェン)総兵署が海賊と戦う官の中心地だ。

「大体八十じゃ操作で手一杯だ」

「公船がそれで決まってるからなど言ってるから海賊にやられてしまうんだ」

政府の直の戦船は乗員不足で機能が低下したままだ。

仕方なく地方の役人が手をまわして銀(かね)を集めて回る始末だ。

それを口実に懐を肥やすものも多く現れている。

 

嘉慶六年には定海総兵李長庚は福州(フーヂョウ)で三十隻を造れと銀(かね)十万両集めたという。

四百門の大砲まで誂えたというが何時でき上るか不安も大きい。

嘉慶八年に大いに海賊を打ち破った時はこれらの船の活躍の始まりだ。

この時は玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)が海賊と協定を結んで殲滅できなかった。

 

温州総兵胡廷声(胡振聲)が昨年戦死したのも玉徳(ユデ)の怠慢だがしっぽがつかめない。

閩浙総督の玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)は朝廷の工作も上手で漢族の役人には手が出しにくい。

巡撫阮元(ルゥァンユァン)、総兵官李長庚(リーヂァンガァン)は手を組んでいるが先行きは不透明だ。

「戦の親玉が定海総兵じゃぁな」

「蔡牽を敗走させたと偉ぶってるが、相手は鎮海銜武王だとえばってる(いばっている)そうだぜ」

「部下にいいのがいるから如何にか保ってるのさ」

王得禄(水師千総)、邱良功(閩安協副將)など勇猛果敢な男たちが支えている。

福康安(フカンガ)が台湾平定して二十年近くたつが、海賊の拠点は撲滅できていない。

同安梭船(橫洋船)は官の戦船だが同様の船を海賊も調達しているという。

古い烏艚船では太刀打ちできない。

「部下が増えすぎて海賊連中食うものも足りないと噂だ」

「官の備蓄庫が狙われそうか」

「泉州、厦門あたりが手薄の様だ」

「厦門がか」

金門鎮は当てにならんそうだ

二人は幾人かの水夫も交え朝まで語り合った。

 

豊紳殷徳(フェンシェンインデ)と豊紳宜綿(イーミェン)は水会の上奏について養心殿に呼び出され、浙江巡撫阮元(ルゥァンユァン)の後任に清安泰(チィンアンタァイ)を送ることが知らされた。

「玉徳(ユデ)が可笑しな事をしていると上奏がある。調べてまいれ」

やはりそんなことを押しつける代わりに水会(シィウフェイ)を容認するとの交換条件を付けてきた。

誰の上奏かは知らされていないが、海賊関連の対立だろうと二人は推測した。

 

インドゥは珍しく供に三人連れてきて神武門(シェンウーメン)前で待たしてある。

先に一人、楊閤(イァンフゥ)へ出して康演と姚淵明を興藍行(イーラァンシィン)へ呼びに行かせた。

「居なきゃ幹繁老(ガァンファンラォ)へ回ってくれ。界峰興(ヂィエファンシィン)で孜漢(ズハァン)も頼んだぜ」

興藍行(イーラァンシィン)へも一人先行させ、権孜(グォンヅゥ)に権鎌(グォンリィェン)、権洪(グォンホォン)を呼び出してもらった。

そして範文環(ファンウェンファウン)も呼び出すのに残りの一人を先へ行かせた。

神武門から地安門(ディウェンメン)を出て隆福寺街(ロォンフゥスゥヂェ)までのんびり二人で歩いた。

珍しく二人は何も話さずにぶらぶら周りを見物している。

 

「また祕の御用だ。水会の腰牌を下げ渡す代わりに押し付けられた

四人分の腰牌が権鎌(グォンリィェン)へ渡され、一枚は楊閤(イァンフゥ)の姚淵明(ヤオユァンミィン)、一枚は範文環(ファンウェンファウン)へ渡すようにたのんだ。

「一枚がわっしとして、で、残りは誰ですか」

「これから来る孜漢(ズハァン)を口説くから、そいつをちらつかせて脅すんだ」

「哥哥もひとがわりいや」

さんざん與仁(イーレン)にも言われているので、ようやく「哥哥」と言えるようになった。

其れまでは豊紳殷徳(フェンシェンインデ)様というばかりで範文環と一緒に飲み分けなんて仲間にしてもらえるとは信じられなかった。

海賊退治、水会(シィウフェイ)など係わる人たちと同じ中間になった感激はこの男に生きがいを与えた。

「ところで権鎌(グォンリィェン)の店はどうなった」

「與仁(イーレン)さんから話が来て、代人の手続きも終わり明日から店が開けます」

「確り働きな」

哥哥の言葉に、ああこの人の後押しがあったのかと思う権鎌だった。

名前の字の替えも親に老大(ラァォダァ)も喜んでくれた。

姉の婿たちも店に来ていて、それぞれの店は桂園茶舗支店、分店とはいうが独立した店に為って、協力は東権飯店も含めて一族が団結出来た。

権鎌の店は今の住まいの表通り隆福寺街(ロォンフゥスゥヂェ)の牌楼の西側だ。

店の名は東鎌酒店(ドゥンリィエンヂゥディン)と決まり看板は今日にも上がるという。

東鎌酒店の字は哥哥の知らない間に宜綿に頼んで書いてもらっていた。

「俺に内緒か」

「信様の訪問の日に書いた。あの前から今日養心殿で出会うまで会って無いからな」

タンション(堂兄・従弟兄)の子と謂えど先帝の孫だつい言い方にも丁寧さがにじむ。

東鎌酒店と字体を変え、二枚書いてもらい片方は居間に飾ったという。

西にするかと宜綿が聞いたが、老大(ラァォダァ)のあだ名が兮(シィ)で西(シィ)では哥哥と間違えられると「東で」と頼んだ。

東四牌楼に近いのでそれが好いかと気楽に応じてくれた。

二枚板書してもらうに與仁(イーレン)と権鎌は銀票二十両包んでいったら、其れを蘭玲(ラァンリィン)が紅包に包みなおし、「権鎌(グォンリィェン)の開店祝いだわ」と押し付けた。

「そういういい話はすぐするものだ」

「よせよ恥ずかしいじゃねえか」

孜(ヅゥ)達も来てあとは孜漢(ズハァン)と康演達だと言っているうちに漢(ハァン)やってきた。

「また南へお出でですか」

「察しが好いな」

「孜(ヅゥ)たちが居るんじゃ茶の御用で」

「そいつは與仁(イーレン)の仕事だ。こっち隠密仕事さ

「海賊でも暴れてますか」

「そうなんだ。誰やら賄賂でも嚙まされたようだ。それもあるがお前さんを口説く話だ」

ギクッと音がしたかと思うほど緊張している。

「この年でお供は御免ですぜ。若いのを二人だすので勘弁してください」

之には店中が大笑いだ。

「駄目だ俺たちはお前が欲しい」

「そんな殺生な。こんな年寄り苛めないでくださいよ」

「そういうわけにゃいかなんだ」

宜綿(イーミェン)なかなかしつこい。

「こうなりゃやけだ。甫箭(フージァン)に店を譲って広州(グアンヂョウ)でもどこでも行きますよ」

「若い妾を置いて出てもいいのか」

「連れてゆくわきゃ、ありませんぜ」

哥哥をはじめこれにはまた店中が大笑いだ。

汪美麗(ワンメェィリィー)が茶を入れながら「皆さんもう勘弁してあげたらいかがです」と助け船だ。

メェィリィーをありがたそうに見ている。

 

インドゥは供の二人に「お役御免だ、先に戻っていいぜ。娘娘には不安が的中だと伝えておいてくれ」そう伝言をして戻らせた。

まだ弘珠(ホンヂゥ)が戻ってこない、通惠河まで追いかけたようだ。

 

「年だというが花甲(フゥアヂィア・還暦)過ぎたか」

「首領(ショォリィン)そいつは酷い。與仁から聞いていませんか」

「娘は俺たちより上のはずだ」

権洪(グォンホォン)のチィズ(妻子・つま)の景園(ヂィンユァン)は今年三十二歳だ。

「確かに甲午の正月一日に産まれましたぜ」

「ほう娘の誕生日を覚えているか」

「わっちと同じ正月一日だ、忘れやしませんぜ。わっちは乙亥の生まれですぜ」

「五十一で年寄りは泣かせる話だ」

宜綿さすがに干支に強い。

「弟弟、その辺で勘弁してやれよ。お前を欲しいのは水会(シィウフェイ)の方だ」

ほっとした孜漢はやけくそだ。

「ええ、こうなりゃどっちでも同じだ。好きにしてくださいよ」

旅に出ないならどうでもいいと腹をくくったようだ。

「親方こいつを受け取って下せえ」

「さっきからちらちら、うるせいと思っていたんだ。なんだね此奴は」

しげしげとみて「神武門(シェンウーメン)腰牌。エエッおまけに満字で出入りお構いなしとは何ですね」驚いている。

さすが孜漢(ズハァン)は満州文字も読める。

「噂にゃ聞いていましたが。いよいよですかい」

四か所に頭を置いて、寄合所を十二か所置くのだと聞いて驚いている。

「外城へ寄合所が八軒、東四牌楼の東西、十一阿哥の邸の両脇にする。神武門(シェンウーメン)出入りの目論見は一人のつもりだったが先手を打たれたぜ」

そうこうしていると姚淵明(ヤオユァンミィン)と範文環(ファンウェンファウン)が相次いでやってきた。

宜綿(イーミェン)が話を引き受けて権鎌が腰牌を差し出した。

「此の満文字は読めません」

與仁(イーレン)が説明すると二人が驚いている。

「俺も読めんよ。孜漢(ズハァン)の旦那が読めたんだ」

話しが一段落し、落ち着いて茶を飲んでいると、ようやく康演が弘珠とやってきた。

「南京(ナンジン)への船の見送りでね、お呼び出しとは水会(シィウフェイ)が本決まりですか」

インドゥが此処までの話をして銀(かね)の手配を頼んだ。

「それから腰牌が出た替わり與仁(イーレン)のお供で一回りだ」

「この前爺さんの葬儀の日、王神医(ゥアンシェンイィ)がフゥチンの診察に出向いてくれましてね。その時噂だがと教えてくれたそうですぜ」

食事会を姐姐の館で行ったときは人の耳が有るので親子は喋らなかったようだ。

「娘娘が心配なさるんじゃないかと思いやしてね」

娘娘と哥哥は上奏すればと考えていたのは知らん顔した。

インドゥは宜綿と豊紳府へ弘珠を供に戻ることにした。

與仁(イーレン)は水会(シィウフェイ)の方は康演(クアンイェン)に任せて広間を使ってもらった。

茶の相談と日程を権洪(グォンホォン)、権孜(グォンヅゥ)の三人で組み立てた。

漢(ハァン)が途中で抜けてきて明日にもお供の二人は此処へ顔を出させると言って清々した顔で広間へ戻った。

今度は康演が出てきて「宋輩江(ソンペィヂァン)の方と水会の話を煮詰めるから終わったら一緒に行こう」と言って戻った。

結局二月十六日に出る予定で、蘇州(スーヂョウ)、上海(シャンハイ)、船で福州(フーヂョウ)、汕頭(シャントウ)、そこから福州へ戻って武夷、河口鎮、南京(ナンジン)と六十八日の予定を立てた。

哥哥と一緒だと上乗せ十日くらいと三人は組み立てた。

まだ福州(フーヂョウ)で玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)の裏を探るとは知らない三人だ。

 

この頃の海賊は福建から徐々に台湾へ本拠を移し出している。

金門鎮総兵の許松年は玉徳(ユデ)の要請で台湾の海賊を追討の準備に入った。

朱濆(ヂゥフェン)に蔡牽(ツァイチィェン)が手を結んで勢力は拡大している。

浙江、福建、広東と広範囲が海賊の脅威に脅かさている。

勢力には八十艘が参加していると聞こえてきた。

香港附近も騒がしくなったと関元に情報が来ている。

広州(グアンヂョウ)の総督は負け続けだなど聞こえて来る。

鄭一(チェンヤッ)の跡目を継いだ、張保仔(チョンポーチャ)の勢いが強くなっているようだ。

なんでも龍女(ロォンヌゥ)事石陽(ダァンイァン)という鄭一の女の後押しで跡目を継いだという話だ。

妾(妻とも)とはいえ鄭一の生前から海賊仲間で一目置かれる存在だったという。

王太太からの情報では海賊で船を襲うが貧乏人の味方をしていて人気が高く、官船の手に負えないという。

五千人を超す手下がいるとも関元のもとに情報が来る。

結と漕幇(ツァォパァ)の船は襲われていないので無理押しはしない方針だ。

 

第三十九回-和信伝-捌 ・ 23-01-27

   

 満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

 

 

世襲罔替

・親王(チンワン)

・郡王(グイワン)

・貝勒(ベイレ)

・貝子(ベイセ)

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

和碩親王(ホショイ・チンワン)

-世子(シィズ)-妻、福晋(フージィン)。

多羅郡王(ドロイ・グイワン)

-長子(ジャンズ)-妻、福晋(フージィン)。

多羅貝勒(ドロイ・ベイレ)

固山貝子(グサン・ベイセ)

奉恩鎮國公・奉恩輔國公

不入八分鎮國公・不入八分輔國公

鎮國將軍・輔國將軍    

奉國將軍・奉恩將軍    

 

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

     
     
     
     
     

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記


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