第伍部-和信伝-陸拾

第九十一回-和信伝-

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年十月二十八日(1814129日)・薬研掘

次郎丸は信濃から戻ると三ヶ所に桜を植えることにした。

薬研掘、松代藩深川下屋敷、白川藩稲荷掘中屋敷それぞれに三年目の八重桜普賢象と今年の江戸彼岸枝垂れの苗木を選んだ。

松代藩深川下屋敷の次郎丸の住いは表八部屋に付属五部屋、奥八部屋に付属五部屋と大がかりになる様で、主屋の影に為る御衣黄の老木を池の北東へ移し替えた。

庭を任せた大井源蔵の意見を取り入れ、枝から三十本の苗木を切り取り奥向きの南へ植え込んだ。

「御衣黄の林は見たこと無いぞ。源蔵」

「八重桜が持て囃されますが、それは有り触れた林ですので小路の西へ御衣黄、東に妹背の林としました」

源蔵は盆栽用の鉢を三百、庭整備予算から買い入れ、御衣黄、妹背、楊貴妃、菊枝垂の盆栽を育てるという。

「これで二月は桜をめでることが出来ますし、苗木も庭の樹からの挿し木ですみ申す」

邸内には十二種の桜の樹が有るという。

出入りの庭師の勧めで毎年蕾の時期に二百ほどを売れば、足軽、中間たちの内職にもなると樋口与五右衛門に大野玄太夫も了承し、次郎丸の許可を取った。

抱屋敷を増やすには予算が足らず、新たに佐賀町と加賀町に貸屋(長屋)を八軒借り受けることにした。

大野玄太夫(女中三人持ち)四十一歳・川添甲子郎三十三歳・大井源蔵二十二歳・上村栄吉十八歳・本堂治助二十二歳・近井金治二十一歳の六人と下屋敷内の伊藤環三十歳・綿内右門二十二歳の八人に、樋口与五右衛門五十五歳が借り受けていた家の女中、三人持ちを経費とした。

稲荷掘(とおかぼり)中屋敷は“ なほ ”の親子の屋敷区画が決まったとの話での庭造りに合わせた。

新兵衛達一行が江戸に入って三日が立った。

男三人が先行し住まいの手筈を附け、女子供は新しい店の手代小僧たちと十日ほど遅れてくると言う。

幸八は家内と五歳の娘、藤五郎の方には家内と五歳の息子に七月に生まれたばかりの娘もいるので日程は二十六日掛けている。

其々賄を仕切る中年の女中に見習いの小娘も選んできた、江戸では三人の女中に、三人の小僧を雇う予定だ。

新兵衛は旅の仕切りを本家から江戸へ出る老年の孝太郎という男に頼んでいた。

藤五郎の為の見世は浅草広小路近く浅草田原町三町目、東向きの見世は奥に十部屋、二階に四部屋あり、店と内蔵、外蔵二棟も付いている。

つぶれた店ではなく、元有った呉服屋が日本橋横山町へ移ると未雨(みゆう)から聞いた猪四郎が、手に入れた店だ。

脇道ながら二間の幅が有り人通りも多い、“ ふじや ”の看板もすでに出来ている。

幸八の為の見世は浅草真砂町、北向かいが三嶋門前町。

真砂町は南に近江宮川藩堀田豊前守中屋敷、東は越後椎谷藩堀出雲守上屋敷。

俗称“ 森下 ”のとおりが良い、五十年と経たない新設の町屋だ、町名の由来は町内の“ 真砂稲荷 ”から採られている。

奥に八部屋、二階に四部屋あり、店と内蔵、外蔵も付いて月二十二両。

店の元の名は“ こまや ”、尾張町二町目“ ゑびすや ”の持ち家を借り受けた。

上州、野州、信州の絹織物と紬について、当代のゑびすや八郎左衛門は幸八、藤五郎と共同歩調を取ると言ってくれた。

間には前橋(厩橋まやばし)の呉服屋“ 上州屋 ”が入っている。

こまや ”の名はその侭受け継ぐことにした。

薬研掘ではこの日早暁“ なほ ”が産気づいた。

午の刻過ぎ男子が誕生し、大野は上屋敷、築地下屋敷へ男子誕生を報告した。

翌日花月様より“ 貞四郎 ”と名がつけられ、上屋敷からは相応の祝いの品が届けられた。

後の松平幸栄(ゆきよし)、そして真田幸良(ゆきよし)となる子だ。

乳母の名はあやの、三十となる寡婦で、当歳の男子を連れての務めに為る。

花川戸の舂米屋(つきまいや・しょうまいや)松屋四郎兵衞の娘だという、大野が儀兵衛の紹介で雇い入れた。

三月生まれの子は譲吉、父親定吉は昨年七月末に亡くなった。

十歳に為る娘もいるがあやのの兄が養女に引き取った、親娘を十日に一度合わせ、徐々に月一度とさせるとの約定だ。

三十日に“ なほ ”の二親と待ち合わせて浄土宗天昌山光源寺駒込大観音(こまごめおおがんのん)へ安産の礼と、健康へ育つようにとの祈願に出た。

御徒町の上屋敷を出た佐野夫婦と朝五つに昌平橋で落ち合い、湯島の聖堂の坂を上り前田家前を先へ行くと森川町、追分を左へ行けば中山道、真っ直ぐ進めば寺町へ出る。

右へ曲ると浄土宗天昌山光源寺の駒込大観音の大屋根が見える。

路の先は四つ辻の右は根津権現へ続き、真っ直ぐ行くと突き当りの左に谷中天王寺、右へ行けば不忍池。

山門を入ると正面二階の窓が開いていて観音の顔が覘いている。

元禄十年に奈良の長谷観音を模した身の丈二丈六尺の十一面観音像が造立されたという。

戻りは団子坂を降り、七軒町から不忍池の端へ出た。

御徒町の加藤家上屋敷前で別れ和泉橋へ向かった。

文化十一年十一月二十六日(181516日) 小寒

十月二十五日新兵衛達が江戸に入って二十日目の十一月十五日、猪四郎、金四郎、新兵衛の三人が納得できる庸(イォン)さんの鶏を丈助が作り出せた。

新兵衛が庸(イォン)さんから聞き取った調理鍋に効果が有ると丈助も認めた。

油の低い温度、皮と身の筋目の間の切り込みで奥へ十分な熱油が回ることなど新兵衛が納得するまで四人は何度も会合を開いて試した。

熱々の油では肉へ温度が伝わる前に、皮の風味が逃げることが分かった。

丈助は三十三歳、実家は浅草寺裏手で料亭を開いていてそこの五男坊、子供のころから父親や兄たちに仕込まれた料理人だ。

十二年前猪四郎の義父宗久に見込まれ、浅草八軒町に六人程度入れる小粋な料理屋を開いた。

神さんは三つ年下の幼馴染、お由(おゆう)という働き者だ。

猪四郎が焼け出され、近くの三軒町へ家移りしてからは一家の夕食の下ごしらえは丈助の受け持ちとなった。

猪四郎の内儀お由(およし)が希望一品に人数を伝えると、それに合わせて丈助が用意して届けてくる。

いつもの台詞が「後は女将さんとお仙さんの腕次第だ」と賄のお仙に岡持ちを渡している。

猪四郎は庭の蝋梅の蕾の様子から二十六日でどうかと千十郎と大野へ相談し、寺島村猪四郎別宅を男たちで午の刻に梅見と料理の会を開くことにした。

丁度その日幸専(ゆきたか)様正室三千の方様が深川下屋敷で梅見を女たちで開くというので用意している。

此方は主催が真田幸専正室三千の方四十三歳。

井上正甫娘雅姫十五歳(母親峯姫は定の方様娘とされているが実母は側室田村氏)。

次郎丸(さだよし・定栄)側室なほ二十歳の三人が初めて顔を合わせることに為る。

真田幸弘正室定の方様七十九歳は老齢の為、大奥様お使い御老女十代彌(とよみ)三十三歳が来られるという。

寺島村へは次郎丸定栄(さだよし)二十四歳が主催の梅見、九人の招待に加へ大殿様のお使いに大殿幸弘様御小姓石川新八二十八歳が遣ってくる。

井上正甫(まさもと)三十七歳

遠山金四郎二十二歳

喜多村新之丞二十一歳 

矢澤千十郎二十一歳

大野玄太夫四十一歳

新兵衛三十一歳

猪四郎二十九歳

幸八二十四歳

藤五郎二十二歳

四つ半(十一時頃)には予定の人数が集まり、丈助は“ 庸(イォン)さんの鶏 ”の仕上げに入った。

ウーシャンフェン(五香粉)は少なめにと金四郎の意見が丈助の腕を光らせ、香りが庭の土蔵造りの台所から池の西側の座敷へ漂ってきた。

座敷では御品書きを猪四郎が説明している。

「鶏と鮭は招待させて頂いた分しか手に入りませんでした、お供の方にも三品用意させて頂きました。鰻丼は追加も出来ますのでお申し付けくださいましょう」

「是、猪四郎」

正甫(まさもと)が鼻を動かしめている。

「なんでございましょう。殿様」

「鰻の下焼き、蒸しの香りはせぬようだが」

「参りました。秋葉社の北に菖蒲栽培の畑が御座います。実は台所が狭く、堀の二丁南の別宅に鰻職人三人が支度をしておるので御座います。」 

・庸(イォン)さんの鶏(近いものにユーリンチィ油淋鶏・肉を揚げる際に、熱した油をおたまなどで肉に繰り返しかける調理法。油淋炸のこと。)

ウーシャンフェン(五香粉)・八角、胡椒、肉桂、丁香、小茴香(大蒜)

・小鍋-塩鮭、豆腐、唐菜、自然薯の白味噌仕立て

・小鉢-栗きんとん(御供を含む全員)

・小皿-大根はりはり漬け(御供を含む全員)

・小丼うな丼、もしくは蒲焼と飯(御供を含む全員)

正甫(まさもと)は「雉、山鳥に鶉を野焼きして食べるのが最上と心得て居ったがこれはまた見事な物だ。鶏の皮が旨いものとは知らなんで損をしておった」と料理人の腕を褒めた。

軍鶏と出羽の鶏の交配種と聞かされ「たまには呼んでくれ婿殿」と次郎丸に申し入れた。

「深川下屋敷の管理を任されました。月一度は無理でも三月に一度は花見、雅姫様お住まいの館の進捗など名目はお造り致しまする」

「気の利いた婿どのじゃ。娘も今頃三千殿の接待で浮れて居ろう」

次郎丸、“ 庸(イォン)さんの鶏 ”で気持ちが弾んできた。

「一つ父上様にご報告が。実は唐津公が猟官運動を始めて居られます。奏者番は唐津でも可能でしょうがそれでは飽き足らぬお方と聞き及びます。狙いは老中とすれば岡崎、浜松はかっこうの標的、領地替えの罠が仕掛けられるやも」

「婿殿浜松は六万石、実高も此処十年六万石がやっとじゃ。岡崎は五万石、此処も実高六万石が精々。しかして唐津六万石は噂ではあるが実高二十五万石。浜松は内福と云う噂で十五万石など言われるがそんなもの有りはせぬ」

「その十五万石の出どこが唐津と聞き及びます。猟官に反対の家臣に少しでも反対させぬ下ごしらえの気が致すので御座ります。二十一歳の若年と云え、志は高くとも犠牲をいとわぬ方と聞き及び申しまする」

「気を置いて周りに注意いたそう」

「御油断なきよう、相手は絡めてより攻めるとばかりでは無いようでございます」

「定栄(さだよし)殿忠言嬉しう思うぞ、儂の頼みを聞いてくれ。長男正春はまだ子供じゃ。十歳の息子を貴公に委ねるによって猟官に走らぬ様、実力で藩政、幕政に参与出来る男に育て上げて呉れぬか」

「お言葉身に沁みまする。必ずやよき政治をなされるよう、ともに学ばせて頂き申す」

鶏が終わり塩鮭の小鍋仕立てが配られてきた。

「鶏も良いが此の塩鮭の風味は格別じゃな」

御供を含む全員に膳が配られた。

・小鉢-栗きんとん

・小皿-大根はりはり漬け

・小丼うな丼、もしくは蒲焼と飯は予め好みを調べてあった。

 

三千の方にとっても殿の留守を預かる身、国元からの書状で下屋敷の進捗状態の見聞をかねての顔合わせになる。

朝五つ(八時頃)上屋敷門前に中屋敷からお使い十代彌(とよみ)大奥様御老女が出発つと三千の方へ報告があがるとかねて打ち合わせの永代橋西詰めへ向かった。

堀を船と言う老女もいたが町の様子を知りたいというお方様の様子に東海道新橋から京橋を抜けて日本橋へ回るという道筋を選んだ。

魚河岸の喧騒も止んで行きかう商人にもゆとりがある様子が駕籠内から見て日本橋川に沿って進んだ。

荒布橋を渡り思案橋、崩橋先に十代彌(とよみ)の籠が待受け、三千の方の籠が先に永代橋へ進んだ。

大川を渡ると左へ進み油堀を右へ、遠江横須賀藩西尾隠岐下屋敷先を右へ入れば松代藩深川下屋敷。

ゆったりと見物しながらでもまだ一刻(百二十分程度)も掛からず四つの鐘が聞こえてこない。

早朝に出たお方様付の美和がにこやかに迎えてくれた。

「屋敷、お庭すべて整って御座います。側室なほ様は約定とおり四つに大橋をお渡りの予定と知らせが御座いました。雅姫様は四つに合わせて御駕籠に乗られると知らせが届きました」

「ふむ、二人ほぼ同じに此処へ来られるようじゃ」

樋口与五右衛門が門内で三千の方を出迎え「万事お申しつけの御仕度整いましてございます」

本町一丁目鈴木越後の練羊羹、小肌に鯵の箱寿司、笹巻き毛抜き鮨、稲荷寿司を御顔合せの上頂いて午の下刻には散会というあっさりとしたものになる。

雅姫十五歳にとって久しぶりの外出に為る。

呼んでくれたのはやがては義母となる真田幸専正室三千の方。

下屋敷をでて六軒掘の猿子橋から大川端へ出て川下へ、小名木川の万年橋で渡る。

仙台堀は上之橋、中之堀は中之橋、油掘は下之橋で渡り、油掘に沿って左へ、遠江横須賀藩西尾隠岐下屋敷先を右へ入れば松代藩深川下屋敷。

下屋敷門前に“ なほ ”の籠が先について“ 雅姫 ”が降りてくるのを膝ついて待ち受けている。

樋口与五右衛門が「定栄(さだよし)様御側室“ なほ ”殿に御座います」と籠を降りた雅姫に告げた。

「出迎え大義、後に着いて参られよ」と会釈して門内へ入った。

お元が手を曳いて“ なほ ”が立ち上がると、お初がすかさず汚れのない事を確認した。

念を入れ羽根箒で着物を払って伊藤環の案内で門内へ入って行った。

入ると左側に元の大殿隠居屋敷が有り、右手先に建築中の屋敷が見えた。

なほ ”が三人に挨拶すると三千の方が「わが身が三千、右が大奥様御老女十代彌(とよみ)様、左が娘となる“ 雅姫 ”である」と告げた。

なほ ”が二人にも「定栄(さだよし)様側室“ なほ ”に御座ります。よしなに御とりなしをお願い致しまする」と次々と挨拶をした。

鈴木越後の練羊羹と香りのよい茶が供され皆の口が軽くなった。

三千の方は“ なほ ”に「産後ひと月足らずで外出をさせて済まぬがよう来ておじゃった」と鈴木越後の練羊羹を楽しむ“ なほ ”を労わった。

十代彌(とよみ)も「お定の方様もお会いしたく思って居られたが息災で有るとお伝え申そう」と声を掛けた。

新御殿の様子を見て蝋梅(ろうばい)の古木に鉢植えの二十種ほどの梅を樋口の案内で見て元の座敷へ戻った。

九つの鐘が聞える。

座敷には一鉢の梅が置かれている。

「月影と申すそうで御座ります」

花弁は白、丸く一重の抱え咲き、部屋は梅の匂いが満ちている。

小肌に鯵の箱寿司、笹巻き毛抜き鮨、稲荷寿司がそれぞれに供され、茶は煎茶で“ 雅姫 ”は素直に喜んだ。

「これ“ なほ ”殿。定栄(さだよし)様は時にはこの様な物召し上がられるのかや」

「定栄(さだよし)様は数を召し上がりませぬが間が空くと月二度くらいはそろそろどうだとおっしゃります」

「ではわらわが望めばお許し為される様か」

「お喜び為されると存じます」

半刻程で散会となり身じまいを済ませると三千の方から順に屋敷を後にした。

文化十一年十二月一日(1815110日)・薬研掘

此の日五つ前から薬研掘の屋敷では、猪四郎と大野が次郎丸の養子祝い金の締めをしている。

信濃から戻った後も届いた分が有ったからだ、猪四郎は手代の吉次に金を置かせると「新川で打ち合わせ通りに話しを決めて来てくれ、報告は吉次が夕刻家へ戻って来てからでいいよ」と出向かせた。

「猪四郎さんは今日も若さんをどこかへ連れ出す気ですな」

「大野様深読みのしすぎですぜ」

「様子じゃ夕刻まで野放し状態の様ですな」

猪四郎の目論みは何だろうと大野は考えている。

養子祝い金五百両、追加二百両・加賀、越前、越中、越後、出羽

養子祝い金五百両・陸奥、磐城

養子祝い金百五十五両二分、追加十五両二分(江戸送り)・白川領内

江戸預かり養子祝い金二千二百両、追加二百二十両・関東及び以西

合計  三千八百九十一両

藩上納金 二千両

残金  千八百九十一両

・白川藩深川下屋敷用地取得三千百五十坪五百両

(東上六百坪、東下四百坪、中上東五百坪、中下千六百五十坪)

藩上納深川下屋敷用地千坪

(東上六百坪、東下四百坪)

・売却見込み深川土地代二千百五十坪(二千二百五十坪)五百両

(中上東五百坪、中下千六百五十坪)

「大野様下屋敷のお庭整備に五百両、若様御仕度に五百両、 なほ ”様親子御仕度に五百両使える目途が立ちました」

「若の仁徳じゃな」

「無理な取り立てなど一件もないと新之丞様のお墨付きです」

七代目鯨組醍醐新兵衛が格安に譲ってくれた土地は、一文の損も無く反対に儲けを生む塩梅だ。

十二月の下屋敷、薬研掘の三ケ月分の支給と女性たちの分は別会計の金で賄った。

雅姫を迎える邸の建物調度は松代藩持ちだが、次郎丸の手元からも追加を出すのは大野に猪四郎も計算の内に入れてある。

千十郎が樋口与五右衛門と支給の報告に遣って来た。

腰元、女中の分は別として大野の会計と合わせて一年二百石六十一人扶持五十五両の四半期分が出て行く。

「百五十八両三分三朱二百文が深川と薬研掘を合わせた三ケ月分でした。薬研掘で新規の幸吉なぞ有頂天で御座った」

文化十二年四月以降の一年は年二百石(三百七十五両)、六十一人扶持(二百五両三分二朱)、五十五両。

年間六百三十五両三分二朱が両屋敷の男たちの分に為る。

松代藩の支給は年内八百両、二百両は庭整備に必要だ。

下屋敷裏門の富吉町に、新婚でも住めそうな六部屋ある売り家が出たので結で買い取り、千十郎の住いとし、女中に下男と料理人で三人雇った。

下屋敷に一部屋、薬研掘に一部屋と自在に動けるようにした。

とよ、美代、富代、のぶ、四人は深川下屋敷の賄いに来てくれるという。

とよが仕込んだ金庫番の役目を直枝が中屋敷で受け継ぐことに為り、深川は美代がとよの後を受け継ぐことに為る。

史代も“ なほ ”の希望で中屋敷へ奉公と決まった。

つかさ ”乳母とり、“ 貞四郎 ”乳母あやの、乳兄弟に為る譲吉、腰元にお元(素代・もとよ)、お初(初枝・はつえ)を合わせて七人も上屋敷の許可が出た。

なほ ”を入れて九人、さらに軽輩から二人、中間二人、料理番二人、下女一人の十六人が許される限度だと冴木が大野に申し入れてきた。

九月新規雇いの幸吉など前払い計算に浮かれている。

九月一日に九月の三分三朱二百六十七文と十月、十一月、十二月の三ケ月が出たうえ、十二月一日に一月、二月、三月の三ケ月が丸ごと現金支給。

おまけに中間部屋で朝晩の飯は十分出るうえ、昼も持ち出しなど滅多に無いのだ。

年に五両二人扶持も法外な支給で有るうえ、四半期ごとに二両三分三朱を前払いで出して貰えている。

ちくまやの三人は薬研掘出入りが続いていて、深川下屋敷へ次郎丸が移れば常雇いと大野が請け合っている。

樋口は「お国入りの会計は大変だったと聞き及びますぞ」と大野に話しを振った。

「善光寺に草津、伊香保の物の値が高いと脅されて居りましが、話し半分くらいの物で御座います」

伊香保仁泉亭清算四泊五日三両二分。

草津やまもと清算四泊五日八両二朱五十六文。

「此の草津は土産代と送料が半分以上で、掛りは一日一両一分迄行きませんでした。一人一日二朱ほどでしょう。本会計累計三十六両二朱十文も土産代に息災祈願料を除けば九人でも一日二分も掛からぬでしょう」

個別会計十五両三分三朱百九十六文、結投資七十五両。

「このうち大野殿に、未雨(みゆう)の出した心付けが大きいようですな」

「新之丞殿からケチっては為らぬと大分持たされたようですぞ」

切り餅三つ七十五両の他に十八両と細かく千六百二十二文が持ち帰れたと言う。

「土産の栗は喜ばれましたうえ、栗きんとんにしたのは“ なほ ”様も大層褒めて御座った」

栗五斗(唐辛子等ともに江戸送り送料とも)十二両二分百二十文は大きい出費だが喜ばれた人が多く大野は満足していた。

「良い買い物で御座いましたな。小布施の栗は江戸では高直ですからな」

三千の方の接待費用に予定した五十両は半分使わずすんでいて、御供への包金は腰元、供侍二分二十人、駕籠かき奴一分十六人の十四両を出しても十八両余ったと書付を出した。

「次の接待をするときの予備費にしよう」

次郎丸が話しに加わった。

「甘いものと普段手を出さぬ下世話な鮨が良いという方ばかりで助かり申した。寺島の方も実は猪四郎殿、新兵衛殿が金主で助かり申した」

大野は樋口と褒め合っている。

「あの日の出銭より“ 庸(イォン)さんの鶏 ”を完成させる方に金が掛かりました」

猪四郎も自慢げだ。

「こり過ぎだよ。倉造りの厨房なんて初めて見た」

お由(およし)が呆れていたと猪四郎が打ち明けた。

「天麩羅より低い油の温度が大切だというのに手間が取れました。火加減を丈助が旨く操れるまでが勝負でした」

次郎丸は「伏見で庸(イォン)さんが、立会いの様に火加減を真剣に操る様は見事だったよ」といつものように庸(イォン)さんを褒め「丈助が一流の料理人になると見抜いた宗久さんの目が確かだった」と猪四郎の義父を持ち上げた。

「丈助に何か作らせるつもりですね」

「新兵衛兄いに指図させ、豆腐の餡かけにせせりを油で揚げて煮込んだ物を試させたいな」

「鰻(うなぎ)に鰌(どじょう)。天麩羅(てんぷら)に鮨(すし)。王子の玉子焼きならお由(およし)に子供たちも付き合いますぜ」

「明神下の神田川へ、昨日二人で行ったばかりだぜ」

「だから家の家族とね。和泉橋の春木へ入ったこと無いので其処なら俺もね」

田原町奴うなぎで開店して十五年ほど、明神下の神田川は開店して十年足らずで奴、春木にも劣らぬ人気店だ。

「催促してますな」

大野は笑っている。

「毎日は恐れ入る」

樋口も笑っている。

猪四郎の自宅目の前の駒形(こまかた)に前川が有るが、猪四郎とは何年か前に一度入ったきりだ。

弥助と幸吉を呼んで「和泉橋向う代地の春木で五人と三人で合わせて八人、昼九つでうなぎ丼を頼んでくれ。幸吉は春木の約束が取れたら戻って報告、弥吉は三軒町の猪四郎の本宅へ親子でうなぎを食べに来るようお由(およし)に伝えて春木迄ご案内してくれ」と命じた。

千十郎に「お前さんと樋口殿、大野に儂と猪四郎で五人だ。昼の約束が取れたら出かけるぞ」と伝えた。

弥吉は次郎丸の供で春木へは二度ほど行ったことが有る、二度とも横山町銭屋江戸店の藤吾、洋栄(ひろはる)との会食だ。

四つの鐘が聞こえてきた。

少しして幸吉が「座敷を開けてお待ちしておりますとのことで御座います」と戻ってきた。

「茶より向柳原で甘酒呑んで刻をつぶしましょう」

とよに「春木の後、深川の下屋敷の庭を見て戻る」と伝えておいた。

「神田川から屋形で油掘へ出られますか」

「そいつが一番楽だな。待たせておけば俺たちが降りて、猪四郎も途中で気が替わることもなく駒形(こまかた)まで戻れる」

大野は次郎丸を急かして広小路へ出た。

新し橋先に屋台が出ている、二手に分かれて熱いのを呑んだ。

大野が一杯十二文を五人分、四文銭でそれぞれの娘に渡している。

和泉橋を渡ると遠くに弥吉たちが見える。

弥吉に「春木に無事到着と報告してくれ」と屋敷へ行かせた。

店の前で落ち合い二階座敷で改めての挨拶だ。

喜一郎、光次郎が二人で次郎丸達大人に立派に挨拶している。

お由(およし)は「昨日も鰻、今日も鰻。若さんもよく家の人に付き合います事」と笑っている。

「あと十回くらい付き合わんと寺島の礼に足りないと思ってな。今日はおいらが勘定を持つからな」

「若さん、まだ違う鳥料理を丈助に遣らせる気だぜ」

猪四郎がちくっている。

「それはお楽しみ。御裾分けに私たちも御馳走してくださいな」

上手を行く返答に猪四郎も遣るしかないかと思い出したようだ。

「今が鰻の旬だが穴子の鮨も捨て難いし、小肌も新子が待ち遠しい」

「まぁ、若さんは家の人以上に食い意地が張っていますわね」

どちらが誘っても付き合うのは昔からだ。

店は律儀に九つの捨て鐘と同時に九人分の丼を二階へ運び込んだ。

「弥吉っあんは九つと言って急かしたけど時間通りという事は若さん相当の常連ね」

「おいら二回きりだよ。一緒に来たもんが常連に為ったようだ」

店主が茶の継ぎ足しに来て「銭屋さんは十日に一度は新しいお客人を連れて来て下さいます」とにこやかな顔で話していった。

横山町一丁目からは、ほんの一跨ぎでしかない。

猪四郎は「深川のお屋敷を廻って六つ半前までには戻る予定だ」とお由(およし)に話している

お由(およし)親子とは店の前で別れた。

久右衛門丁の馴染みの船宿山勘で、往復の約束を二分払って船を出させた。

文化十一年十二月十二日 (1815121日)大寒

藤五郎は酒田で手代に雇った男たちが田原町に着くと、年長者の郷助五十歳をふじやの番頭に任じた。

番頭に手代二人には幸八、猪四郎、新兵衛に相談しながら上州屋との連絡を密にするように言いつけた。

藤五郎は江戸で猪四郎から勧められた伸五郎(しんごろう)十九歳を手代にし、十三歳に為る酒田から来た鷹介(ようすけ)を小僧に三人で十日知多の両口屋へ旅立った。

藤五郎が酒田へ旅発つ前日と十日後、予め知多の両口屋へ千両の為替を二回で二千両京屋で送っておいた、知多へ向けて江戸を発つ前にも、猪四郎が工面して藤五郎の名で送り出している。

別にふじやの当座の資金に千両を用意してある。

「四千両は若さんの保証付きだ無理して相場に手を出すなよ」

相場師の養子らしからぬ慎重な猪四郎だった。

藤五郎が上州と尾張、幸八が野州と信濃に、猪四郎と新兵衛立会いで範囲を決めている。

国境の重なる足利、桐生周辺は取引の仲介商人次第とした。

新兵衛は親族の他に猪四郎も出資し四千両まで出すことにし、一年間の仕入れ予算限度が見世に千両、信濃二千両、野州千両と振り別けている。

信濃は太物が八田の取引次第で、千両増やすと次郎丸が新之丞に話した。

その幸八は十一日出羽松山藩の分領桐生へ向かった。

太織り(ふとり)に小倉綿真砂岐織の自分の分は足利で済ませ、上州屋の要請の桐生取引を藤五郎に頼まれて決めを付けるために代理で出ることにした。

野州足利(上野足利藩)、上州桐生(出羽松山藩)、上州前橋(武蔵川越藩)の三ヶ所は上州屋の手助けが必要な場所だ。

一度上州から散らした二万両は半分元へ戻したので、上州屋は川越藩(元前橋藩)への貸し出しの戻った分と同額を貸し出すという先行の不安定なことに為っていると報告が来た。

幸八は話しが旨く行けば、伊勢崎で織元を任せる話も片づける予定だ。

手代から三十過ぎの与吉を番頭に選び、手代の伴助、小僧から小吉、治助の二人の四人で日光道中越谷宿へ向かった。

一日目越ヶ谷宿、二日目古河(こが)宿、三日目佐野天明(てんみょう)宿さらに足利八木宿、桐生新町へ向かう予定。

橘町のはしもとから、新兵衛兄いが元矢之倉薬研掘屋敷へ五つ(八時頃)に為らないうちに遣って来た。

「北齋戴斗が江戸へ戻ると噂ですぜ」

「新しい家でも見つけたのか」

「東橋(あずまばし)の東っ側、中之郷原庭蛇山と聞きましぜ」

「猪四郎の近くだな、弟子が多すぎて落ち着く暇もないようだ」

「画手本が売れるので生活は楽みたいですぜ」

「孔雀でも画かせたらどうだ」

「一品物は高直ですぜ」

肉筆画は欲しがるものに事欠かないという。

「一番は深川の菖蒲、はなかつみ、菖蒲(あやめ)が咲いたら画き比べだが、だいぶ先だろうし」

「またどこかへ引っ越しなんてね」

一年居つく方が珍しい北齋だ。

鳥居清長、鳥文斎栄之、勝川春英、北尾政美などの画会は盛んにおこなわれていた時代、歌麿の亡き後美人画、役者絵も今一つ華やかさに欠けていた。

「昔東洲斎写楽ってのが描いた大首絵は出羽での人気が無いそうだな」

寛政七年三月を境に世に出てこない絵師だ、二年後には蔦重も亡くなり、番頭が蔦重二代目に為り婿養子になった。

兄いは最近の蔦屋耕書堂にめぼしい本が無いという。

「亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)さんと同じで素人受けは有りませんぜ」

「おいらは大隈の瀧の絵は気に入ったよ」

二人で青蔭集を開いて「田善さんが素人受けを狙ったらだめですね。此の迫力は独自の物だ」と諦めたようだ。

「今日の昼は焼き鳥ですよ」

「何処かへ行くのかね兄い」

「此処へ料理人調理台付で二百本猪四郎さんが手配しましたよ。お由(おゆう)さんも遣ってきますよ。お子さんは手習いで来ないそうです」

富代が「お使いの人の話しじゃ豆腐の餡かけにせせりを七人分取るには五羽では足りなそうだと言っていましたよ」とお茶を注ぎながら報告した。

「新兵衛、猪四郎、お由(おゆう)さんとおいらで四人、“ なほ ”を抜かせば怒るだろ、後二人か。富代に味を覚えて貰うとしたら残りは大野だな」

猪四郎たちは四つ過ぎに来て台所で支度をしている。

丈助ではなく知らない顔ばかり三人が来ている、皿を籠で背負った女中も五人付いてきた。

屋敷の女中は茶の世話だけが仕事だ、猪四郎は飯を用意せずに鮨を色々と持ってきた。

串に刺した細切れの鶏を焼く焼台から筒が出て、煙を外に逃がしている。

一台は塩、一台は味醂醤油で焼く傍から座敷へ運ばせている。

一人は持ち込んだ釜で昆布の出汁を取ると、鶏の骨を軽く焼いてから出汁へ入れて火を弱くした。

次に豆腐の餡かけにせせりを油で揚げて煮込んだ物も七人分だけきちんと運ばせ、だし汁も同じ膳に付けている。

汚れた皿は持ってきた布で拭くと背負い篭に入れている。

七味は味醂醤油で焼く鶏との相性が良い。

善光寺八幡屋礒五郎と薬研掘からしや徳右衛門と交互に試す者が続出した。

「風味は善光寺、辛さは薬研掘」

幸吉の言葉に“ なほ ”は大笑いだ。

「幸吉、善光寺は中辛でからしやのは大辛だよ。お前の舌が正しいよ」

富代も楽しそうだ。

肉を差した竹串も同じように運び出した、寺島で水にさらした後、十分干してから焚き付けに使うそうだ。

皿を此処で洗うには台所の勝手が悪いので布だけ濯いで、皿は持ってきた別邸まで運んで湯で洗うのだと言う。

女中は籠が一杯になると一人ずつ屋敷を後にしていく。

とよによると薬研掘に猪牙舟が来ているという。

流石に焼台は炭を除けても、熱が引く迄手が付けられないようだ。

猪四郎は「二百本では足りなかったですね。やはり一人八本計算じゃ不足でしたか」と大野に言って「次回は三百本にしますか」など言いだした。

お由(およし)は相手が新兵衛に次郎丸なら芸者遊び、遊所遊びと縁がないので付き合うのを嫌がらないのだ。

吉原大籬で遊ぶことを思えば大した出銭でもない。

子供の頃、太夫で昼三(呼び出すのに三分)で鰻飯五十人前にも満たない思っていた。

「お安いもんじゃないの」

実際はもろもろお床入り迄に最低十倍は掛かると知った。

「それでも十両しないじゃん」

その猪四郎が寺島に客を招待するに蔵造りの厨房(台所)に三十両つぎ込んだと聞いた時には呆れた。

「鰻で八千八百文、鶏に四千文、鮭に二千文、ほかの品物に八千文」

銭で二万二千八百文はたった三両二分一朱、人手を計算に入れなきゃ猪四郎の小遣いで十分の金額だ。

是で現大名にお供さん、将来の大名の次郎丸を招待できる、丈助など「大店の旦那遊びは見えないとこに金を掛けますで御座います」と言っている。

是を武家が差配する深川下屋敷の接待が十八両の他、付け届けが十四両と聞いてお由(およし)も驚いている。

「羊羹に鮨でなのですか」

念を押している、厨房いれた接待と同程度では「お侍さまは楽じゃない」と思った。

実際、浜松井上家の連絡を冴木から大野が引き継いで、経費月三両を十両掛けるようにしている。

是で雅姫周辺の腰元までが次郎丸贔屓に傾いている。

輿入れに乳母、老女、腰元六人、下女六人の十四人に若党、小者を三人ずつ二十人までの住いの見取り図に御付きの者は大安心しているという。

奥向き八部屋に付属五部屋と若党、小者は屋敷内に御小屋が与えられるのだ。

奥向き八部屋の内五部屋が“ 雅姫 ”の居住区域だという。

三部屋が次郎丸と二人の部屋、付属の五部屋で十四人はと思ったが、腰元下女は交代で“ 雅姫 ”の居住に宿直(とのい)となる。

薬研掘では八つ(未の刻・一時四十五分頃)台所から焼き台が運び出され、掃除が始まっている。

お由(およし)は最後の荷と船で駒形(こまかた)まで船で戻り、猪四郎は残っている。

「新兵衛よう。正月は江戸か」

「二月末に酒田へ戻るつもりだぜ」

「なにも出羽の雪んなか戻らず、桜を見て戻りゃいいだろうに」

「二月末には桜も咲きだすよ」

「そりゃそうだが」

曲亭馬琴の南総里見八犬伝第一輯五冊が売りだされたという。

挿絵を描いている画工、柳川重信は北齋の長女お美与を妻としている。

南総里見八犬伝第一輯一冊目の表紙をめくると子犬が描かれている、挿絵が多い冊子だが里見治部大輔は鯉に乗っている。

伏姫と八房(やつふさ)に続いて八犬士の子供時代が挿絵に有る。

序文には書き上げた日付が出ていた。

八犬士傳序初里見氏之興於安房也。・文化十一年甲戌秋九月十九日。洗筆於著作堂下紫鴛池。

「こりゃ大分長い話になりそうだ」

「椿説弓張月より長そうですかね」

五編二十九冊で足掛け五年かけている。

「一九の膝栗毛以上かもよ」

新兵衛は筋違御門外神田平永町角山青堂で二十組百冊を酒田へ送り出したと言う。

「御門の内側にも外神田ってのがよく分かりませんや」

「古い話だがな。元禄十二年に寛永寺門前下谷車坂町内を内神田に移して神田平永町と名付けられたので元が外神田なのさ」

「それでわざわざ外神田と言うんですかい」

「未雨(みゆう)の高弟旦銀事旦吟は隣っ丁に仕事場を持っているよ」

旦銀と旦吟の違いを猪四郎は知らないので若旦那の銀助が旦那の銀助、旦銀とだんだん詰めて言われる様になった、それで旦銀を吟じるの旦吟にして俳号にしたことを説明した。

ふじや こまや ”と密接な仕事仲間だ、安物仕立てを三島町に置いて、小柳町に借家をして高級仕立ての請負を出来るお針子を増やしている。

付近の長屋には腕の良い神さんがごろごろ遊んでいる、田原町、真砂町へ朝夕人を行かせても神田に仕事場を持ちたいようだ。

文化十一年十二月二十七日 (181525日)立春

数え七日は立春、昨日は節分。

屋敷ではいり豆をまいて、ひいらぎ鰯の頭を戸外に挿した、流石に年の数の入り豆は遠慮するものが多い。

明日の日本橋南詰四日市では才蔵市が年の瀬を告げるころ、餅札が門口に張られていない家は肩身が狭い。

今年の大晦日(おおみそか)は三十日。

辰の刻(八時頃)次郎丸は大井源蔵と深川下屋敷へ向かった。

を組の仁右衛門から紹介された南組三組の与五郎が、暮の忙しい中に来てくれると連絡が来たのだ。

三組は仙台掘りから熊井町までの永代の東側が受け持ちで下屋敷周辺を取り囲んでいる。

水は有っても組織だっての消火は侍には難しい、綿内右門が樋口与五右衛門に申し出、下屋敷の足軽の三人幸島洪造(ほんぞう)三十三歳、吉田仁吉二十二歳、横江要吉二十歳に中間八人の十二人で消火の基本から学ぼうとしている。

綿内、樋口、千十郎も来て次郎丸は与五郎と話し合った。

与五郎は稲荷小路の鮨政で千十郎と会ったことが有るという。

龍吐水に水桶はすぐさま揃えることにし、小頭の甚吉と相談してそのほかの必要な品を揃えるとした。

「破壊が消火の基本ですがね。守る建物の順を決めてください。十丈先まで水を飛ばす力など龍吐水にはありやせん。精々屋根の火の粉を消す程度です」

「新しい御殿の付近に燃えやすいものを置かないのが良いという事か」

「左様でござんす。消火より火を出さぬご用心を」

「相分かった。綿内その方は火の用心の方も気を置くように」

「かしこまりました」

小頭の甚吉と頭の与五郎は、宗太と言う若い男に見取り図を描かせながら屋敷内を廻って辞去し、堀川町へ戻った。

次郎丸寒いので仙台掘り今川町の“ さわや ”へ先に大井を向かわせて屋根を支度させた。

千十郎が笑っている「こっちへ迎いに来させないだけましです」と言う。

「ほい、しまったそう言う手も有った」

綿内が樋口に言われて今川町まで送ってきた。

道々予算など話、“ 雅姫 ”のお付の若党、小者が来たら近くの家を借り受けても良いと話しておいた。

「土地借りで三間ないし五間程のを建ててなら、子供がいても良いだろう」

綿内は自ら難しい役目を望むのは、川添と張り合って出世の望みが有るのだろう。

綿内は大川へ出ずに加賀町の千鳥橋、堀川町の豊島橋を渡り、仙台掘へ出ると左へ、二丁足らずで“ さわや ”に付く。

治三(はるぞう)が屋根舟のみよしにいる、源蔵が子供を抱いたお春と船着きの手前で次郎丸たちを待っていた。

舟から仁吉が首を伸ばして「若さん、いい所へ。寒がりの客を送ってきたところで舟あんかが温いでござんす」と言いながらともへ出てきた。

「源蔵と差向いは恐れ入る」

「綺麗どころでも都合しますかい」

みよし(船首)の治三が笑いかけた、もう五十過ぎの親父だ遠慮のない口を聞いてくる。

前に名前を聞いて字を聞くと「治(おさむ)をはると読ませるんですよ。ぞうは三の字、三男ですがね、兄貴は治一、治次と親父め自分の冶吉(はるきち)を使いまわしたんですよ」そう言って笑わせてきた。

お春の子はまだ三月足らずだが、可愛い顔をして次郎丸たちを見送った。

綿内は舟を見送ると下屋敷へ戻った。

流石に源蔵はとも(船尾)の障子を閉めたが舟あんかには近寄らない。

大川に上手(うま)く入り、上げ潮を上手(じょうず)に使い、大橋の西っ側を上へ登った。

元の柳橋をくぐり雁木へ寄せた。

次郎丸は「少ないがこいつは駄賃だ」と豆板銀を一つずつ手渡した。

舟賃は後請求なので次郎丸は“ さわや ”の舟代を知らないのだ。

この時代屋根でこの距離でも一人船頭三百文程度、船頭二人で四百文程度だった。

猪牙ならほぼ半分になる。

屋根は江戸で五百艘は活動していた様だ。

良い客が付く船頭は、賃金より駄賃祝儀で稼ぐ者もいる。

この頃の大工は九人で一分と言われている、腕が良くなると一人で一朱稼ぐようになる。

白川の生沼文平から“ はなかつみ ”がもとの“ はなしょうぶ ”の種が届いた。

取り入れた場所と日付が入っている袋が十二個。

「十一月にも送ってきたが。場所は違うという事は向こうさんも大分気にかけている様だ」

源蔵への定朝様の書付には次の項目が有った。

部屋の中に貯蔵し七~八カ月経て、翌春彼岸前に蒔くために、自然の環境をはなれ湿潤を失うがために、無量のすばらしい花を開くのであろうか。

上村栄吉は来年十九歳に成る、源蔵と四つ違うが今の所は特に目立ったところを見いだせない。

字は大野が褒めるくらいだから屋敷内でも上位に属している。

次郎丸は樋口与五右衛門へ指導させ、下屋敷内の中間取り締まりを受け持たせようと考えている。

どうやら美代が栄吉を好いているようだと“ なほ ”が言っている。

綿内の先走りを牽制させるところまでは考えていない、下屋敷綿内の新番席、三人の足軽の間に徒士席の上村を配置すると言えば大野、樋口も受け入れるだろう。

家格によって代々の職が決まるのは監物以外には適用しないつもりだ。

千十郎は次郎丸の手足として真田家とを結ぶ大事な駒と云う以外にも、気が合う主従に為れると信濃への旅で確信した。

大野や未雨(みゆう)に出しゃばることもなく、淡々と次郎丸の行動に目を配り、危険を避けるように行動させるのが使命のように付き従っていた。

魚近(うおきん)の声が台所から聞こえる。

「集めるのに苦労しましたぜ。相並(アイナメ・鮎並)は取っこですぜ」

「どっかの殿様が買い集めたのかい」

富代と無駄口を叩きながらも、鱗や内臓の処理が進んでいる様だ。

史代が「生姜を買ってまいりました」と大きな声で報告している。

次郎丸は今晩の菜は煮魚だなと思った。

鴻池屋永岡儀兵衛が久しぶりに遣って来た。

挨拶もそこそこに「最近は深川小松町へ御出も多いとお聞きしました」と言う。

「うむ、“ 雅姫 ”様の御殿に庭整備、何かと気にかかるのだ」

「徒(かち)の人たちの屋敷をお探しと聞きました。まだ必要でしょうか」

「家族持ちは近くからの通いと考えている。最低三部屋、庭無しでも五部屋あればと思っている」

「松賀町(マツガチョウ)の緑橋をご存じで」

「橋は知っているが渡ったことが無い」

「緑橋先右手井沢町に十五軒持ち家が御座います。飛び飛びで宜しければ五軒松の内に空が出ます」

「転出かね」

「加賀様の方が国表へ移動為されます。向う様の都合で後は決まって居ないそうで御座います」

前通路、奥に路地木戸、門内六坪ほどの庭ありの六畳三部屋に八畳二部屋と玄関、台所八畳の土間、廊下奥に厠、月二両二分だという。

「入れ替わり時に掃除に畳替えなどは持ちますが、五年契約をして頂きたいのですが」

「それは良い話だ」

五軒十二両二分なら家族持ちが喜ぶ顔のほうが好い、年百五十両なら当人から取らずに貸すこともできる。

候補は大野、樋口、伊藤、綿内、川添の五人にあてがえる、ほかを望むなら自腹覚悟と言えばよい。

上村と大井にも同じ程度を考えるとした。

大野を呼んで「明日綿内と樋口の三人で外観をみてきてくれ」と儀兵衛に付近の見取り図を描いて貰った。

大野が「良し」と言えば四日市町の見世に回らせると約束した。

樋口も綿内も今は自分持ちの貸家だが、次郎丸の予算持ちなら出銭は減る。

裏長屋は九尺二間の三坪に土間で最低四百文程度、佐賀町、加賀町に借りたのは八軒、河内屋が家主で六畳二間、一畳の廊下先に二坪の小庭、台所が付いている、井戸、厠は共有で月三朱(千二百文)。

八軒、年にして十八両は高級長屋だ、足軽三人が入居済、あとで薬研掘の足軽、“ 雅姫 ”付若党を此処へ入れる予定で、下屋敷の家族持ちに仕切らせている。

千十郎の富吉町の家で三人の雇い人を含めて年七十四両一分二朱、ただし家の六十両は結の経費にした。

嫁が信濃から来れば雇い人は通い女中二人増やそうと、隣地にたつ河内屋の六畳二部屋の長屋五棟を猪四郎が買い入れてくれた。

今のところ、千十郎は三人の人件費十四両一分二朱とお仕着せ、食事費用を出せば済むようにした。

三軒長屋に二軒長屋、二軒の方は手前一軒分の空き地に井戸(飲用は水売りが来る)、厠は長屋の奥に有る。

河内屋は同じ造りの長屋を三十カ所持っているという、道側には木戸が有り一軒は大屋と称して大抵年寄が住んでいる。

よく買い取れたと猪四郎は自慢している、建物は結が持つがそのほかは千十郎の持ちとした。

今は良いが嫁が来たら支給を増やさぬと遣り繰りが大変そうだ。

河内屋の家作の家賃は高いが、長屋の路地は水はけがよいと評判だ。

殆どが油掘と油掘西横川に近い場所に有るという、油掘は十五間川とも言うが、油問屋が数多いので名が附いた。

火消南組三組の受け持つ区域と一致している。

文化十一年十二月二十八日 (181526日) 薬研掘

大野は一度屋敷へ顔を出し、川添たちと何事か話し合ってから、共もつれずに深川へ出向いた。

猪四郎から王子の卵焼きを夕刻に届けると使いが来た。

「いつも前触れもないのに」

「それに合わせた夕飯にしろとでも」

富代は献立を変更する様だ。

大野が戻ってきたのが未の刻(八つ・二時頃)。

「いい家ばかりです。一間の表門を入ると左に台所その奥が六畳三間、式台先に続きの八畳間。右に通路が有りその左に八畳間の廊下が有りました。押入れが各六畳間に、八畳の奥の部屋に床の間と書棚。廊下奥に鉤手に六畳からの廊下が来てそこに厠、庭と言っても式台の前、右手の通路で盆栽を楽しんで居ました。通路先に小さな木戸、その先は路地で同じ儀四郎の持ち家の裏手が六軒並んで見えました。あとの三軒は離れて御座った。井戸は十二軒に三ケ所、三軒に一ケ所ありました。水売りは午前に銭瓶橋の落水の水船から、午後は寺島村の水屋が廻ります」

佐賀町とほぼ同じ分量の水は供給可能だという。

「そうそう風呂屋が緑橋の畔に有りました」

加賀町、冨吉町の風呂屋は下屋敷でも利用のものが多い、佐賀町は町が大きく三軒の風呂屋が点在している。

五軒は正月八日に加賀へ旅立つので十五日以降の入居、家賃は二月からの計算と決めて来たという。

黒江町加賀藩深川御蔵屋敷からの国元移動だと聞いてきた。

樋口は今の住居が月三両だが息子が出してくれるので、そのまま相川町に家内と二人で住みたいという。

大野は次郎丸養子の後、薬研掘を引き上げた後で家移りをするという、熊井町に儀四郎が手当てする約束だという。

今は橋本町に儀四郎の持ち家に夫婦と本堂治助に近井金治が女中、下女、下男の七人で暮らしている。

五人で五部屋程度の小屋敷を手当てするという話が出来ている様だ。

川添、大井、伊藤、綿内、吉田、幸島の六人が希望と言うので儀四郎と相談したら三月に二軒空くのでそれも借りる約束をしたと云う。

「一人目当てでもあるのか」

「上村に嫁を取らせて入れましょう」

「美代か」

「左様で」

「夫婦で働かせるか」

「実は美代が母親を引き取りたいので長屋を探していると聞いたので」

「どうしてだ」

「実家も兄が継ぎましたが、母親と嫁の反りが悪いと」

「上村は」

「留守番に家にいて呉れれば幸いと」

「なら新年早々婚姻だな、上村は深川、美代は薬研掘に通わせなよ。仕事は三刻(六時間)辺りで良いよ。辰の下刻(八時半頃)から未の下刻(三時頃)くらいか。富代の手伝いで昼の仕度にとよの手伝いが主な仕事だ」

「その様に取り計らいます」

井沢町から油掘で大川端、右手の大橋まで来て対岸へ、川端を右へ行けば薬研掘、元柳橋までのんびり歩いて半刻(六十分)は掛からない。

文化十二年一月二十一日(181531日)・薬研掘

このひと月で夜明けが三十分ほど遅くなって寒さは和らぐ様子もない。

雪の多い年で九回は年が明けて降ったが、此処五日ほど晴れが続いている。

武江年表には前年十月六日より二月四日まで二十八回と記録されている。

湯島天神の白加賀(しらかが)は満開に為っているし、亀戸の梅屋敷の臥龍梅(がりょうばい)も白梅で満開との噂が聞こえてくる。

此処には三千坪の庭園に三百本以上の梅の木が有るという。

実はこの時代亀戸天神社“ 鷽替神事 ”はまだ始まっていない、あと五年後の文政三年(1820年)が始まりとされている。

大宰府天満宮は菅原道真公ひ孫の大宰大弐菅原輔正(すがわらのすけまさ)により、寛和二年(986年)がその始まりと書いている。

亀戸天神社の西側、横十間川天神橋北側に参道が有る。

亀戸天神社の北東に亀戸梅屋敷が有り、天神と両方に寄る人で賑わいをみせている。

次郎丸と大井源蔵は久右衛門丁の馴染みの船宿山勘から屋形舟を呼んだ。

供に幸吉を連れ、笈摺(おいずる)を背負わせた。

朝方なら混まないだろうと卯の下刻(六時四十分頃)に薬研掘から屋形舟で大川を東へ、竪川へ入り、四ツ目橋先で左へ入る横十間川を北へ進めば、天神橋先右手に亀戸天神社の参道が有る。

竪川、大横川、横十間川は開鑿されて五十年余り経っている。

右手に萩寺として有名な龍眼寺が見え、右隣は津軽出羽守下屋敷。

この時代は津軽寧親(つがるやすちか)が寛政三年(1791年)陸奥弘前藩九代藩主に為って二十四年。

四万七千石から蝦夷地出兵の功績を持って七万石に高直し、さらに蝦夷地警衛の功績で十万石に高直し、従四位下に昇進。

この時同じように南部藩も蝦夷地警衛の功績により、十万石から二十万石に高直しされている。

南割下水本所二 ツ目に上屋敷、その東側に中屋敷さらにその東先にも中屋敷。

横十間川東側に下屋敷、大川百本杭に下屋敷と本所に集中している。

柳島橋の左手(西畔)が柳島妙見堂。

柳島橋をくぐり、北十間川を右へ入れば亀戸梅屋敷は直ぐそこに有る。

次郎丸は「吉太郎よ。早けりゃ亀戸天神社の参道へ一刻(百二十分)後には行くつもりだ。それまで吉次と時間を何処かで潰してくれ」と豆板銀を三個渡した。

柳島妙見堂には、大人が寄り付きやすい様、見た目の良い茶屋女が多い店が並んでいる。

普通なら一本四文の団子が茶と共で二十文は安い方だ。

源蔵達と臥龍梅(がりょうばい)を見てから邸内をざっと見て、天神へ向かった。

「こう人が多くちゃじっくりと見ても居られないな。天神で土産のくず餅買って戻ろうぜ」

くず餅と言っても小麦を錬って蒸篭(せいろ)で蒸したものだ。

この時代川崎大師の久寿餅はまだ売り出されていない、池上本門寺では此処と似ているくず餅が五十年以前には売られていたと云う。

亀戸天神参道、船橋屋のくず餅は十年前の創業だ、江戸人の好みに会った勘助工夫の黒蜜に黄な粉がまぶしてある。

二十五の包を誂えたが一刻(いっとき・十五分)程で勘定が出来た、幸吉が笈摺(おいずる)へ入れて店を出たら丁度二時間が過ぎたところだ、参道を出ると吉次が迎えて呉れ、屋根舟迄案内した。

屋敷へ戻って“ なほ ”と次郎丸がくず餅を食べ終わると同時に、九つ(十二時頃)の鐘が聞こえてきた。

大井、伊藤、綿内、吉田、幸島の五人が井沢町へ引き移った。

伊藤、綿内は自分の借家から、吉田、幸島は佐賀町の借家からの移動、大井は借家自己負担から下屋敷持ちで実入りが増える。

加賀町の借家の横江は嫁が貰えたら広い家でもと大野に話し、そのまま河内屋の借家に住んでいる。

佐賀町の七軒は河内屋から借りたままで下屋敷出入りの庭職人に貸し出した、下屋敷の庭仕事が忙しいので人手を増やしたのだ。

下屋敷へ通うのに大分楽になったようだ、借りておくのは何れ“ 雅姫 ”様輿入れの時は人も増えて必要も出るはずだ。

大野と樋口は下屋敷内の人員の多くを通いとして新御殿を広く取り、大殿様の御殿は本藩からの来客用接待に残すと決めている。

大井は下屋敷の花卉栽培が主な仕事なので、薬研掘には用事のある時だけで済むように大野が計らった。

川添は上村と三月に井沢町へ入居となる。

川添を薬研掘と深川の連絡要員に大野がさせたのも先を見ての事だ。

「井上河内守様、“ 雅姫 ”様お屋敷との連絡も儂と入れ替わるように」と言い付けている。

美代は大野の娘として上村と婚姻させ、上村の借家での仮住まい、とりあえず伊藤の借りていた一色町の春米屋の借家へ母親を迎え入れた、大屋は事情を聞いて三月までの約束を了承した。

母親は一人暮らしでもよいと気丈だが、次郎丸が三月に広い家に移れると母親に話しておいた、伊藤が親娘四人で住んでいた家だ決して狭くはない。

その伊藤が樋口と話している。

「最近庭師の娘が、弁当だ、茶だとよく出入りしますな」

「働き者の様だ。誰かの嫁にでもするかね」

「樋口様。前は弁当運んでもすぐ帰りましたが、食べ終わってもなかなか帰らなく成りました」

「気が付かんか」

「何のことで」

「大井源蔵が来るのが増えてからだ」

「そういえば源蔵の分も持って来ていますな」

伊藤は機微に疎いか、娘心を察していないようだ。

その庭師の親方の娘志乃は十七歳、庭仕事が好きなようで下屋敷へは五つ、六つの頃から母親についてよく来ていた。

下屋敷は樋口か伊藤が交互に泊まり番になる、二人が下屋敷会計を担当するからだ。

樋口が主で伊藤が助、ここ三年うまく機能している。

泊まり番は中間部屋に最低三人と足軽一人が加わり五人が決まりだ。

女中三人、下女三人は大殿御殿内に部屋が有る、今の所はそこの台所が下屋敷の食事を用意する決まりだ。

下女三人は料理上手とは言えない、中間部屋では菜を買い求めて追加している。

「定栄(さだよし)様のお屋敷は料理上手が多いそうで、さぞ会計も緩やかでござろう」

二人は薬研掘の予算は二年前一日九百文だが、十日で均してと言う事情を知らない。

昨年末に人も増え、ようやく千三百五十文に為ったのだ。

奥九人・士六人・女中六人・中間三人・ちくまや三人合わせると二十七人。

予算は少なくとも、他と比べれば到来物に事欠かないから、一人一日五十文など裏長屋並みでもやっていける。

町では、ぼてふりで二百文、暮らしは楽でない、親方にならなければ裏長屋から抜け出せない。

米が一升百文から百二十文が平均の時代、一人一日四合は食べてしまうのが普通だ。

下屋敷は二十人に一日千八百文が給されていた、朝晩を自宅で食べる者もいて飯炊きは人数を把握するのに手が掛かっている。

屋敷内にいた家族持ちが外に出たので、千八百文あればいいものが給付出来るはずだ。

「お美代殿が井沢町へ来たら引き抜こうと思う。富代殿に習って腕がいいそうだ」

次郎丸の思惑を二人は気づいていないようだ。

薬研掘から来る四人とも、料理はなまなかの料理人より舌も肥え、腕も良いと次郎丸の自慢だ。

「下女を鍛えて貰えば泊まりの夕飯も良くなりましょう」

樋口と伊藤はそんな期待を込めて話している。

中間の頭は幸助、三十二歳とは思えぬ老成した男だ。

働きは機敏で人使いは上手だ。

下屋敷の中間部屋は博打が御法度、自然大人しい男たちが残る。

次郎丸養子の話し前でもよかった給付が、臨時とはいえ十一両三分と普通の大名屋敷の三倍が給される。

自然博打は外でやるようになるが、此処の屋敷から出されるへまをしたくは無い。

女中で年五両、下女で年四両、嫁のあてでもなければ三月の出代(でがわり・出替)に辞めたくないので、働きも良くなった。

出代(でがわり・出替)奉公は万治・寛文年間までは二月二日、それ以降は三月五日(四日)に定着した。

 
 

 第九十一回-和信伝- ・ 2025-11-12 ・ 2025-11-13 ・ 2025-11-17 ・ 2025-11-19 ・ 2025-1-22 ・ 2025-11-23 ・ 2025-11-24 

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記



kanon5-61.htmlへのリンク

kanon5-62.htmlへのリンク

kanon5-63.htmlへのリンク

kanon5-64.htmlへのリンク

kanon5-65.htmlへのリンク

kanon5-66.htmlへのリンク