文化十一年四月五日(1814年5月24日)・六十八日目
“ ときわや ”を明け六つ前(四時頃)に出た。
三軒の本陣からは、供を連れた身分高そうな武士が出て渡し場へ向かっている。
問屋場の東、島田一里塚は江戸から五十番目(五十二番目)京から七十番目。
栃山川の土橋を渡った先に道悦島村、此処までが島田だという。
上青島一里塚は江戸から四十九番目(五十一里目)京から七十一番目。
一里塚の東側に上青島の集落、下青島(瀬戸)の先、緩い坂を上ると“
従是東 田中領 ” の石柱が有る。
瀬戸の立場でも茶見世で染飯を商っていた。
瀬戸川の土手に一里塚。
志太一里塚は江戸から四十八番目(五十里目)京から七十二番目。
瀬戸川は人足が少なく三十分ほど待つことに為った。
水量が多く乳通水三十二文を出して渡った。
藤枝の西の木戸で七人揃うと兄いが「七時二十分に為ったぜ」という。
坂を上ると問屋場、青島上本陣、村松下本陣。
街道は右へ折れて東木戸まで十九丁十二間と出ている。
高札場のある上伝馬町と東木戸の下伝馬町に問屋場が有り、上の問屋が江戸下り、下の問屋が京(みやこ)上りを扱った。
「長い宿の割に旅籠が少ないようだ」
「それでも五十軒ほど有るはずですぜ。ここで目立つのは刀鍛冶でしょうね」
問屋場の先に木戸口が設けられ、田中城への道が伸びている。
城主は本多正意(まさおき)、寛政十二年父親が隠居、十七歳で家督(四万石)を継いで十四年目、文化五年から奏者番を務めている。
岡部へ一里二十六丁。
東木戸の先は左手高台に青山八幡宮。
鬼嶋に入り川の手前に田中城からの道、八幡橋を越えれば一里塚。
鬼島の一里塚は江戸から四十七番目(四十九里目)京から七十三番目。
“ 従是西
田中領 ”の石柱が有る、その先朝比奈川に架かる横内橋を渡れば横内。
横内橋は道中奉行の管理、長さが三十二間、幅三間ある。
横内は美濃岩村藩の飛び地、橋の先左に横内陣屋がおかれていた。
岩村藩主松平乗賢の時、西丸(徳川家重附)老中について加増されたときこの地も含まれた。
村はずれ街道脇に“ 従是西巌村領 ”の棒杭が有る。
松並の先で鉤手(曲尺手・かねんて)岡部札辻を通り抜けた。
岡部は本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠屋二十七軒、宿は十三丁五十間。
高札場の先は本町、街道左に内野九兵衛本陣、北隣は大旅籠柏屋(かしばや)。
街道右手が仁藤本陣。
丸子へ二里。
岡部川の橋を渡ると休み茶見世が有る。
茶を運んできた爺様に四郎が話しかけた。
「親爺(おやじ)さんよ。道中記に岡部一里塚が出ているが京(みやこ)へ上るとき見つけられずに通り過ぎた。どの辺りに有るんだね」
「でえぶ前だが川が暴れて街道が付け替えられたそうだら。百年くれぇ前までは十石坂(じっこくざか)の川向こうに有ったそうだら」
最林寺が六年前に焼けたとき、有るはずの一里塚を探す人もいたという。
「あの宝暦二年桑楊や、府中で見た師宣のは確かに川向こうの様だった」
前と違い画を思い出したようだ。
宝暦二年はほぼ六十年前に為る、絵図は師宣の引き写しで当てには出来ない。
岡部一里塚は江戸から四十六番目(四十八里目)京から七十四番目。
道中記に有る幻の一里塚だと皆で大笑いだ。
通称“ 稲刈地蔵 ”は宇津ノ谷の西入口だ。
峠に駿州有度郡、志太郡の境の標石が有る、道の反対側に峠の地蔵堂。
地蔵に由来する名物十団子を商う休み茶見世が出てきた。
峠を降りて東の麓に間宿(あいのしゅく)宇津谷村その先に一里塚。
宇津ノ谷一里塚は江戸から四十五番目(四十七里目)京から七十五番目。
上り下りを繰り返して丸子川へ出た。
丸子橋を渡ると丸子(鞠子)のとろろ飯の休み茶見世が有る。
屋根瓦に草が生えて如何にも田舎の風情が有る。
「弥次喜多が食いそこなったのは何処だろうな」
「時分時だ構わず此処にしませう」
藤五郎が「七人は入れるか」と言いながら土間へ入った。
いい具合に三人立ったので七人が座る余裕が出た。
すぐにとろろ汁と麦飯が出てきた。
幸八と藤五郎は食べないうちからお代わりを頼んでいる。
ズズッと音を出して掻き込んでさっさと勘定して出てゆく馴れた客も多い。
芭蕉も丸子のとろろ汁を詠みましたよと言う。
“ うめわかな まりこのしゅくの
とろろじる ”
元禄四年正月江戸に出発する門人、乙州に与えた餞(はなむけ)の句だという。
「芭蕉翁食べたことが有るんでしょうかね。聞いた話だと思うのですが」
九人分で三百二十四文、兄いが差し三本と四文銭六枚で支払った。
「おいおい、重いの抱え込んでいたのか。良くそれで峠を越えたもんだ」
「此の辺りから銀より銭が喜ばれると聞いてね」
「だからと言って」
未雨(みゆう)も呆れている。
丸子の宿(しゅく)は川沿いに東西七丁しかない、其処に本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠大小二十四軒が詰め込まれている。
街道の左手に高札場、紀州お七里役所、藤波脇本陣、横田三左衛門本陣、問屋場と並んでいる。
江戸方見付は本馬(荷四十貫)、乗懸(一人と荷二十貫)、軽尻(からじり・一人と荷五貫)そのほか荷を担いだ人足が溢れていた。
府中へ一里十六丁。
見附の先に一里塚が見える。
丸子一里塚は江戸から四十四番目(四十六里目)京から七十六番目。
手越村川会所には安倍川脇水六十四文の札が出ていた。
川札は二十八枚、千七百九十二文だという。
蓮台は七台雇うことが出来、南鐐二朱銀二枚と差し二本で、四文銭二枚釣りが来た。
一刻(十五分)ほどで順が回ってきた。
府中で次郎丸と四郎は“
こうじやよごえもん ”へ顔を出すので先へ行ってもらった。
新兵衛は護衛に就くと言うので、次郎丸達と行くと決まった。
未雨(みゆう)たちは脇本陣水口屋へ泊まる約束、話しが付いているので夜に為っても心配はない。
“ こうじやよごえもん ”では半刻で良いからと引き留められた。
「一里塚ですが、昔は我が家の裏に土塁の跡が有ったという人が居ました。此の通りではなく遊郭の裏へ抜ける道が有ったそうです」
「では跡形もないと」
「見に行きましたが、周りより小高い石くれ置き場に為っていました」
四郎が大坂で求めた道中記を見せて「書き込みが有りますが、もう一揃い求めてきましたので置いてゆきます」と差し出した。
「いいのですか心覚えをその侭で」
「同じこと書き入れてありますぜ」
「そりゃ抜かりない事で」
此処で置いた東海道分間絵図や師宣の東海道分間之図に有る“
岡部一里塚 ” も行方知れずになっていたと話すとその部分に行方知れずと書いた紙を差し込んでいる。
「与五右衛門さんは、私たち以上に物好きだ」
「同類と話すのは楽しいものですな」
名残惜しいがと見世を後にした。
行方知れずの府中一里塚は江戸から四十三番目(四十五番目)京から七十七番目。
“ 追分ようかん ”で買おうかどうかを決めるのに一里塚を通り過ぎて駕籠が空か乗っているかで賭けをした。
新兵衛は「何本買うんです、私は五本買いたい」と言っている。
「なら買うにして誰が羊羹を持つかにしよう。追い抜かれるかすれ違うかした駕籠にしようぜ」
「負けたら十五本ですか」
新兵衛は空駕籠にするというので四郎は「乗って居るのが女」と決めてしまった。
「まてまて、空駕籠が来たら新兵衛殿だな」
四郎と新兵衛はあてっこと勘違いしたようだ。
松林が切れて南長沼に一里塚。
長沼一里塚は江戸から四十二番目(四十四番目)京から七十八番目。
後ろから「ほい、ほい」の駕籠かきの声が聞こえる。
やり過ごすと空駕籠だった。
「決まりだな。次の一里塚で誰が出すかやるかい」
「同じで良いですか」
「新兵衛殿が替えたくないならそうしようぜ」
草薙大明神の鳥居が見えた。
「ここが草薙の剣にまつわる伝承地ですか」
「それがね。ここだと言われだしたのは延喜式神名帳で大昔だが弟橘姫は“
さねさし さかむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも ”と歌を残している。相模の小野と思わるがそこが何処か解らないのでこの地と信じる人が多いのだ」
ひと坂超えると一里塚が見える、空駕籠らしくのんびりと向こうからやってきた。
「まだ一里塚の手前でしたね」
「安心できないぜ。向こうで一服しているのが立ち上がったぜ」
遠目に若く見える男が駕籠かきに話しかけた。
草薙一里塚は江戸から四十一番目(四十三里目)京から七十九番目。
一里塚を抜けると向こうで若い男を乗せた駕籠が、こっちへやってきた。
「四郎が買うんだぜ」
「俺の懐は兄貴と一緒だ」
「なぬ。おまえの懐金を出すに決まっているだろうに。兄上に貰った三両そのままのはずだ」
「しかたねえ、夜にでも兄いに崩してもらおう」
追い抜かれた二台の駕籠には姥桜に女中、共に番頭、小僧が二人付いている。
「あの若いやつがもう少し粘って交渉してりゃ、兄貴持ちだったに」
“ 追分ようかん ”に着いた、脇に追分道標がある。
正面に“ 志ミづ道 ”左に“ 南妙法蓮華経 ”。
「十五本間に合うかな」
「残っております」
「五本ずつ包んでくれ、今の時期日持ちは同じゃ」
「十日後から二十日目くらいが一番の食べごろです」
千五十文と言うので四郎は南鐐二朱銀二枚と豆板銀を三匁出した。
四文銭で二十枚来たのを次郎丸へ「兄貴の掛りだぜ」と押し付けた。
新兵衛大きな風呂敷を出してくるんだ。
「風呂敷の小さいのは持ってないんだ」
「倍包んでもまだ余る。問屋場から早便で送りますかね」
「俺の所へ送りつけたら“
なほ ”に帰り着くまでに食われてしまうぜ」
四郎が書付を入れろと言う“
一筆啓上 をとこくうものなり ”。
巴川に架かった稚児橋は板橋で高欄付、突き当りが高札場、問屋場。
鉤手(曲尺手・かねんて)で右へ行くと魚町右手に寺尾本陣、斜め前橋本本陣。
先へ進むと中町に大竹屋脇本陣、羽根本陣。
向かいは府中屋脇本陣、翁屋脇本陣。
江尻は東西十三丁程。
新兵衛は下町で葛籠屋を見つけると笈摺(おいずる)を買い入れて羊羹を入れた。
侍に笈摺(おいずる)は似合わないが気にしていない。
辻一里塚は江戸から四十番目(四十二里目)京から八十番目。
田子の浦の海岸へ街道が近づいた。
清見寺門前町を抜けて寺領と代官支配地の境の傍示杭先が興津宿、五時四十五分に為っていた。
西町左手に西本陣手塚十右衛門、脇本陣落合七郎左衛門。
西町右手は脇本陣身延屋七郎左衛門、脇本陣大黒屋多八郎、脇本陣水口(みなぐち)屋半平。
街道沿いの見世に宿屋は虫籠窓(むしこまど)が多い。
街道沿いの二階建てを禁じられている宿場は多い。
脇本陣水口(みなぐち)屋半平は中でも目立っている。
“ 水口屋半平 ”へ入り次郎丸が声を掛けた。
「許せよ。江戸の伊勢屋の連れだが着いておるか」
「ようこそおこしを。皆さまお着きで今風呂へ案内致したところで御座います」
草鞋を脱ぎ捨て足袋も擦り切れていたので捨てた。
足たらいで丁寧に足を洗い、脚絆も洗おうとしたら女将が来て「こちらで洗って火熨斗をかけておきます」と取り上げた。
十帖の間へ通され、続きの六畳二間を分けてお使いですと女中が教えた。
主が女将と十二.三の娘を連れて挨拶に来た。
「お泊り頂き“ ありがたやでございます ”食事前に風呂も入れます。六人は入れますが、師匠のあと一組お使いに為られます」
「“ 流行りものには目がない ”若造に痛み入る」
島田から興津へ十里三十一丁ある、丸子で三十分、府中で一時間取られたが、明け六つ前(四時頃)から十二時間五十五分掛かった。
未雨(みゆう)たちが戻ってきた。
「いい風呂でしたぜ。桶のような風呂は多いですが、ここは浪速風の湯船ですぜ」
見晴らしもよく興津の湊へ入る船も見えるという。
風呂から出ると新兵衛の笈摺(おいずる)が話題に為った。
「私のが古くなったので捨てて担ぎましょうか」
兄いが言うのに被せ「中身は蒸しようかんですよ。良いんですか重いですよ」と遠慮した。
「買ったんですか」
「幸八ほれ見ろ。お前の負けだ」
どうしたと聞くとほかの三人が若さんは“
なほ ”様へ土産に買うというのに三人分十五本を余分に買い入れたという。
「すまんな幸八殿。土産に有りがたく頂戴しよう。しかし三十本は重いな」
四人で三十本を別に買ったので、明日の朝問屋場から未雨(みゆう)の家へ送ることにした。
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