第伍部-和信伝-肆拾伍

第七十六回-和信伝-拾伍

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年四月一日(1814520日)・六十四日目

朝、卯の刻に いせ久 ”を旅立った。

伊勢屋久左衛門は裁断橋まで見送ると付いてきた。

鯛屋 ”では隠居におちかとお仲が待っていてやはり姥堂おばんこさん迄見送ると付いてきた。

伝馬町は宿から出てきた人の列で込み合っている。

おばんこさんで隠居たちと別れ、橋を渡ると築出鳥居の鉤手(曲尺手・かねんて)。

「おなごり惜しいがここでお別れだ」

次郎丸は付いてくる久左衛門にそのように言って別れた。

伝馬町一里塚と云われるが、裁断橋から二丁程江戸よりに為る。

江戸から八十四番目(八十九里目)、京から三十六番目と四郎の道中記に有る。

七里の渡しを挟んで縄生(なお)一里塚は江戸から九十二番目(九十七里目)京(みやこ)から二十八番目。

蛇毒神天王の先に呼続(よびつぎ)の道しるべ。

前面に“ 東海道 ”。

左は“ 富部神社 塩付街道 ”。

笠寺観音は参詣人で溢れていて、立場では駕籠かきが杖に両手を添え、顎を乗せて休んでいる。

四丁ほど先に笠寺一里塚江戸から八十三番目(八十八里目)京から三十七番目。

天白川(てんぱくがわ)にかかる天白橋を越え、鳴海問屋場の先鉤手(曲尺手・かねんて)で鳴海札辻へ入った。

千鳥碑は前に見たので素通りしている。

おふぎ川を越えれば有松一里塚、江戸から八十二番目(八十七里目)京から三十八番目になる。

鎌研橋一里塚とも言われる場所だ。

「知り合いの布見世でお土産を買いましょう」

未雨(みゆう)が小さな見世へ案内した。

「汗の季節だ一人三本選んでください」

六人が選んでいる脇で主と未雨(みゆう)は何事か話し合っていた。

一匁二分の手のごい二十一本二十五匁二分を南鐐二朱銀三枚に負けてくれた。

「師匠あまり値切りませんね」

どうやら顔見知りの様だ。

「三百七十二文引いてくれてだ。ずいぶん安いがまだ儲かるのか」

主は「へへへ」と苦笑いだ。

「未雨(みゆう)師匠、一匁と言っても引いてくましたね。鳴海で幸八が尺で四分を三尺一匁に値切りましたぜ」

兄いは愉快そうだ。

主は「よそで吹聴しないでくださいよ」と言っている。

兄いに「客が増えればそれだけ儲かるぜ」と言われて「ぎりぎりなんですよ」と笑顔で答えた。

阿野一里塚は江戸から八十一番目(八十六里目)京から三十九番目。

兄いが「十時四十五分だ。まだ午にゃずいぶんある」と言っている。

「いも川の饂飩か池鯉鮒で餡巻きと餅にするかい」

四郎は「今食うと池鯉鮒で匂いに負けるかもしれん」と言い出す始末だ。

一ツ木一里塚は一里山一里塚と四郎の道中記に有る、一ツ木村一里山に有るからだ。

江戸から八十番目(八十五里目)京から四十番目。

藤五郎は早々と未雨(みゆう)に頼んでいる。

「岡崎の淡雪豆腐をぜひ食べたいので寄ってほしい」

「そりゃいいが、池鯉鮒も寄るぜ」

「餡巻きだけで、餅を食わなきゃ腹も減る時分でしょ」

「申までに着かなきゃ通り抜けるぜ。そんときゃ仲間が居なきゃ一人で寄るんだぜ」

逢妻川に架かる池鯉鮒大橋を渡れば池鯉鮒宿京方外れ。

鉤手(曲尺手・かねんて)の池鯉鮒札辻本町と西町の境に刈谷道追分が右へ向かっている。

「宿内にも休み茶見世は多いが桜の馬場近くが俺は良いと思うぜ」

珍しく四郎が提案した。

「ああ、あのバァさん今年も元気だったな」

未雨(みゆう)は良い見世だと賛成した。

兄いは「桜の馬場と言えば“ 東海道名所図会 ”に馬市の場所だと出ていましたぜ」と四郎に話しかけた。

「今年の馬市は四月二十五日から五月五日の十日間だそうですぜ。昔はひと月開いたそうですがね」

馬市は刈屋藩が管理している。

刈屋藩は三河国西尾から土井利信が二万三千石で三河刈谷藩へ移封。

養子の利徳、利徳(陸奥仙台藩伊達宗村三男)長男利制、養子利謙(利徳次男)、養子利以(利徳五男)と養子でつないでいる。

土井利以(としもち)は文化十年家督を継いだばかりだ。

街道の北が字桜之馬場と南に字談合ノ松。

縁台に座ると女房が「餡が入ると五文で抜きなら二文だみゃ。食べりん」と催促する。

「入りと抜き両方だ、人数分だよ。あとは茶を出してくれ」

小娘とバァさんも出てきて世話を焼いてくれる。

抜きが出て食べ終わるのを見計らったように餡入りを運んできた。

「そういゃ大鍋を買い入れたのかよ」

「二十いっぺんに焼けるだら。鍛冶屋に言うたらその場で作ってくれただらよぅ」

休み茶見世を出るとき午後の一時だった。

来迎寺一里塚は江戸から七十九番目(八十四里目)京から四十一番目。

猿渡川橋を越えた。

大浜茶屋村立場は炒豆茶屋七軒とあるが十軒を越える茶店が並んでいた。

宇頭茶屋村(うとちゃやむら)には休み茶見世、茶屋本陣。

尾崎一里塚は江戸から七十八番目(八十三里目)京から四十二番目。

矢作一里塚は江戸から七十七番目(八十二里目)京から四十三番目。

矢作川を越えれば岡崎宿、岡崎城下二十七曲は此処から、兄いの時計は午後の四時。

「藤五郎、どうやら申の鐘には宿を抜けられるようだぜ。どこの店にするかお前が決めろよ」

「兄い、鐘が鳴っていいなら四郎さんたちの入った投(なぐり)町の休み茶見世で良いだろうぜ。どうですね師匠」

「伝馬町手前の籠田総門まで行きつきそうだから負けてやるよ」

松葉総門で左、右、左、右と鉤手(曲尺手・かねんて)が続き岡崎城の北側へ町人町が広がっている。

籠田総門東の堀川の橋を渡れば伝馬町。

道中記は真っ直ぐに描かれた道も何度も曲がっている。

伝馬町は西から上之切、中之切、下之切にわかれて、中根甚太郎本陣は西本陣、服部小八郎本陣は東本陣。

両町の先鉤手(曲尺手・かねんて)に高札場が有り橋を渡ると欠村。

両町からこの辺りが投(なぐり)町と言われている。

 あわゆき ”の札が揺れる見世に座ったところで七つの鐘が聞こえてきた。

餡かけ豆腐のあわゆき豆腐香の物付二十文、藤五郎と幸八は十二文の飯も頼んでいる。

兄いは“ 笹の雪 ”や“ きくや ”と違う鄙びた味に満足している。

藤五郎は「もっと食いたいが宿屋飯を残すと怒られるからやめておこう」と言って小娘を喜ばせている。

筋違橋に“ 従 是 西 岡 崎 領 ”の標石。

西大平村の手前に一里塚。

大平一里塚は江戸から七十六番目(八十里目)京から四十四番目。

乙川に掛かるおおひら橋を渡り生田(しょうだ)へ入った。

吉良街道追分の道しるべ石は五月吉日に為っていたと四郎が新兵衛に話している。

右面“ 文化十一年甲戌五月吉日建

正面“ 西尾 平坂 土呂 吉良道

左面“ 東都小石川住

藤川一里塚は江戸から七十五番目(七十九里目)京から四十五番目。

一里塚の休み茶見世の先、人家が増え藤川へ急ぐ旅人が七人を「ごめん為せえ」と追い越していく。

西棒鼻の先に百田川宿場橋、陽が落ちかかり軒行燈に灯が入れられている。

橘屋脇本陣 大西喜太夫 ”で次郎丸が「七人だが部屋は有るか」を問うと「続きの六畳三部屋でどうでしょう」と言うので「厄介になる」と入った。

文化十一年四月二日(1814521日)・六十五日目

橘屋脇本陣 大西喜太夫 ”を卯の下刻(五時二十分頃)に旅立った。

藤川宿は高札場との間、街道両側は本陣を含め旅籠が多い、すでに打ち水を済ませた旅籠も有る。

東の棒鼻先、早発ちの客が山中宿で買い物に立ち寄っている。

赤坂宿迄二里九丁。

本宿一里塚は江戸から七十四番目(七十八里目)京から四十六番目。

法蔵寺門前の本宿立場は早々と人で溢れていた。

長沢村境の四ツ谷立場茶屋も立って甘酒を飲んだ位人が多い。

長沢村の東に長沢一里塚、江戸から七十三番目(七十七里目)京から四十七番目。

高札場をすぎて西の見附は赤坂札辻と道中記に有った。

八丁三十間に本陣が四軒もある、八年前の大火で宿は壊滅しようやく立ち直ったばかりだ。

御油へ十六丁、見附先の杭瀬川の橋を超えると松並木が続く道だ。

御油の鰻の“ かわにし ”は繁盛していた。

「安くて旨いが、今はまだ腹がすいてない」

四郎がそういうと「八時にもなら無いうちから人で溢れるたぁ驚いたね」と兄いが時計を見せている。

脇本陣戸田屋 ”の前が高札場、鉤手(曲尺手・かねんて)で左へ進むと音羽川の御油橋。

本坂通り追分は姫街道に繋がる道。

御油一里塚は江戸から七十二番目(七十六里目)京から四十八番目。

松林が途切れると休み茶見世が有りその先に“従是東吉田領 ”の石柱。

「たしか師宣の東海道分間之図では八枚ばしで大明神、櫻町だった」

「一里塚のすぐ西ならそうだろうぜ」

伊奈一里塚は江戸から七十一番目(七十五里目)京から四十九番目。

伊奈の立場茶屋も繁盛している。

下地一里塚は江戸から七十番目(七十四里目)京から五十番目。

余談

行きの京(みやこ)へ上る時に使った道中記は、四郎が神奈川の宿で求めた物。

東海道分間絵図は宝暦二年版桑楊編で大雑把にあきれて府中で手放した。

一里塚はウィキペディアWikipedia)に従っている。

帰りの江戸下りは、四郎が京都で前の道中記を置いて、大坂で新たに求めた物。

一里塚は東海道絵図、幕府が延宝期(1673年~1681年)に測量、天和年間(1681年~1684年)に十巻の巻子本に仕上げた物を採用。

すでに絵図にない岡崎(wikipedia-八十一里)で祖語が出ていてこれからも祖語は大きくなる。

川沿いを上へ向かい、右へ折れて川を渡った。

豊川(とよがわ)に架かるのは名高い吉田の大橋、幅四間、長さ九十六間。

船町高札場には船便も張り出されていた。

伊勢、江尻へは毎日出るとある。

西の総門を抜けると鉤手(曲尺手・かねんて)で宿場へ入った。

大手門の先の鉤手(曲尺手・かねんて)先左が曲尺手門。

鍛治町でまた鉤手(曲尺手・かねんて)に曲り下モ町(下モ御門)で凸型に道が曲がる。

本坂通(姫街道)が合流してくる新町の大燈籠は“ 文化二年 ”“ 吉田中安全 ”と彫られている。

本坂通(姫街道)は西が和田追分から御油と吉田へ。

東は見附、天龍手前の安間一里塚の二か所が市野宿で合流、その西側、追分で浜松三方原追分からの道と合流。

御油から見附は姫街道で十五里十四丁、今切の渡しを回避できる。

東海道が御油から見附まで十五里八丁だが船渡しが二か所ある。

吉田宿は東西二十三丁三十間、二川宿へ一里二十丁。

いむれ立場の“ 従 是 西 吉 田 領 ”の石柱が有る。

飯村一里塚は江戸から六十九番目(七十三里目)京から五十一番目。

「そろそろ昼にするか」

未雨(みゆう)は四郎と相談している。

「白須賀迄我慢してうなぎ飯か評判の悪い“ 猿が馬場(ばんば)柏餅 ”は同だ」

「ありゃお公家さんの口に合わないのを真に受けた連中のたわごとだぜ四郎さん」

兄いは「二時半には白須賀に入れる。四時に出ても楽に六時に新居へ着くぜ」と言っている。

未の刻が二時二十分くらい、申の下刻は六時十分ごろと幸八と話している。

卯の下刻(五時二十分頃)に藤川橘屋脇本陣 大西喜太夫 ”を発って白須賀迄丸々八里を九時間ほどで歩くようだ。

右手に岩屋観音堂街道、出口は西見附土居近くだ。

高札場に西問屋場、立場茶屋と続く道だ。

二川宿は十二丁十六間という短い宿場でしかない。

崩れていた一里塚の土台は、街道右手が補修されていた。

二川一里塚は江戸から六十八番目(七十二里目)京から五十二番目。

東細谷一里塚は江戸から六十七番目(七十一里目)京から五十三番目。

境川を越えると猿ヶ馬場、加宿境宿への上り坂。

おおくに ”は混んでいたが座敷を詰めていれてもらった。

亭主は四郎を覚えていて「今お帰りで」とにこやかな顔を見せた。

「京(みやこ)、大坂をたっぷり見て回ったよ」

どうやりましょうと聞かれた。

「丼で良いと思うがどうする」

皆がそれでいいというので「七つだ。香の物に肝の吸い物付、つまみに何かあれば出してくれ。酒は要らない」と頼んだ。

半刻(八分)位で最初が出て、次々と出てきた。

食べ終わる頃、小僧が暖簾から顔を覗かせて「うちのはまだ」と大きな声で怒鳴った。

お重を下げた女房が「これがそうだよ、とおともなるとおいそれとできゃしないよ。わたいが運ぶか、たろ吉どんが持ってくかい」と怒鳴り返した。

「はよう運んでな。旦那にすぐ来る言いに行く」

女房が店を出ると半丁(五十五メートル)ほど先を駆けていた。

「おいおい、出るのが早いと思ったら他人(ひと)のを先に出したのか」

常連らしい隣の客まで笑っていた。

二つの下げ重を持って戻ってきた女房は「熱々そろえるには見世の客を待たせたんですよ。と言ったら文句も言われませんでした」と常連客と話している。

「急ぐときにゃ、出来順に運べとたのも」

「そうなさいましな。五つまでなら一緒に届けられます」

銀九匁と六十文(千五十文)を未雨(みゆう)は南鐐二朱銀三枚(千二百文)でいいかと聞いて渡した。

女房が釣り銭に差しを盆に置いて残りを数えるのを押しとどめ、「重くなるから取っといてくれ」とやめさせた。

四郎は「その手も有るんだよな。ついまともに払おうとして、重い思いをした」と言っている。

宿は十四丁十九間、宿を移した時、間口に制限が掛かっている。

宿(しゅく)を抜ければ潮見坂、昔はこの坂の下に白須賀の宿(しゅく)が有ったと新兵衛に四郎が話している。

「宝永四年の津波の後だそうだ」

白須賀一里塚は江戸から六十六番目(七十里目)京から五十四番目。

高札場が此処に有る。

新居宿はもう直だ、鰻屋が並んで見世を出していた。

棒鼻に一里塚。

新居一里塚は江戸から六十五番目(六十九里目)京から五十三番目。

寄場の先の鉤手(曲尺手・かねんて)に高札場。

旅籠が並んでいて安旅籠は断りを言っている。

「木賃の方はまだ余裕が有るようですが、もう布団の余裕も有りませんのや」。

四郎は藤五郎と「船止めでも有ったか」と心配している。

橋本村へ案内される集団も有る。

「まだ船は来るだろうに泊まり切れるのかな」

兄いが「五時四十五分、まだ最後の船ではなさそうだ」と言っている。

この時期は陽も長くなり船は便数も多くなる。

舞坂宿では朝が早い。

朝の一番方は、寅の刻(二時五十分頃)に出る。

夕方の最終船は申の刻(四時五十分頃)と決まって居て、風が逆だと二時間かかる。

新居宿側では関所の大御門の開くのは明け六つから暮れ六つの間と決まって居た

本陣三軒も大勢の出入りが有る“ 紀伊国屋 ”も応対で忙しそうだ。

新兵衛が「手紙を出した紀州の下条新兵衛だが」と番頭へ声を掛けた。

「ありがとうございます。お早いお着きで安心しました。このような有様で八畳二間ですが、離れでも宜しいでしょうか」

「宿(しゅく)の様子で心配した。八畳二間あるならこちらも助かる」

離れへ案内した女中に兄いがお捻りを十個渡して「旨い飯を食わせてくれ」と頼んでいる。

入れ替わりに茶を運んできた二人にも一つずつ手渡した。

「なんでこんなに込み合っているんだね。本陣まで溢れているじゃあないか」

「此処じゃ無いんですよう、天龍が暴れてあちらじゃ三日も船が出ていなかったんですよう」

「そりゃてえへんだ。明日発てるのかよ」

「今日の夕刻に渡ってきた人が天龍の船止め明け、最初の人たちだそうで、橋本へ案内していますよう。御客様たちゃいい具合に約束なされていて幸いですよう」

番頭が宿帳を持ってきた。

「心づけありがたく分けさせていただきました。噂じゃ姫街道も大混雑だそうで遠淡海(とおつおうみ)の漁師は大忙しだそうでございます」

次郎丸が離れの風呂で汗を流して出てくると廊下先に火鉢が二つ置かれた。

「何事だよ」

「外で天麩羅と海老の鬼殻焼きをするそうだ。廊下は油跳ねを嫌がるそうだ」

「廊下の方で嫌だと言ったのかよ」

「そうじゃねえのか兄貴」

「風も無いからいいが外とは思い切ったことをやるもんだ」

兄いがお捻り弾んだだけでもなく新兵衛の手紙で用意はある程度有ったようだ。

鰹の刺身で始まり、車海老(サイマキ)メゴチの天ぷら、海老の大きなものは鬼殻焼き。

カンパチ柚庵焼、どうまんというガザミの味噌汁。

新兵衛は「鰻に逃げないとは工夫が効いている」とご機嫌だ。

鯛めしが出て茶漬けの用意もされている。

 

文化十一年四月三日(1814522日)・六十六日目

紀伊国屋 ”の朝は普通の一汁二菜が卯の刻(正刻四時頃)に用意された。

昨晩主の弥左衛門は食事が済むと、茶の支度を女中と共にやってきたとに頼んでおいた。

「五つに為れば船も落ち着くでしょう」

その言葉に従った。

宿の玄関で草鞋を履いていると、街道を関所から来る旅人が列を為している。

正面の“ 尾張屋 ”から女ずれが五人関所の方へ向かっていく。

表へ出ると左手の“ 肥後屋 ”から六人の武士が二日酔いか真っ赤な顔で少しふらつきながら出てきた。

中屋 ”から出てきたのは若い夫婦者の様だ。

関所に近い“ 江戸屋 ”から出てきた親娘連れを見て未雨(みゆう)が声を掛けた。

「爺さん、なにこんなところをうろついてるんだ」

「師匠、うろついてるはひどい。おととい着いたら天龍が渡れないというので一日滞留ですよ」

「それにしても遅いじゃねえか」

「池鯉鮒でこいつの二親に二晩厄介になったんですよ」

娘と間違えると云われた通りの若女房振りだ。

「嫁さん池鯉鮒の人だったか」

「話していませんでしたか」

「聞いたのは三つ下と云うだけだ。吉っさんが今年四十でかみさん三十七と、上ってきたとき聞いたばかりさ」

八百屋吉兵衛、未雨(みゆう)より年下には見えないし、神さんはどう見ても二十四.五の若女房だ。

「此の調子じゃ二月は往復でかかるぜ。今日は何処まで行くんだ」

手続きの順が来て続きは船と為った。

十二人乗りが幾艘もやってきた。

前の方で揉めている「三人だと。二つに分けろと言うのか。その町人三人降りろ」揉めるのを嫌がって若夫婦に小間物屋が降りてきた。

四郎が見つけて三人を自分たちの列へ呼んだ。

丁度後ろが途切れて呼びやすいと判断したようだ。

「だんなぁ、お久しぶりで」

傘を脱ぐと上りで何度も顔を合わせた男だ。

「往復で縁が有るとは驚いたぜ」

「宮でお目に掛かれるかと思いましたが、会えませんでした」

「四日ほどいたが人も多いからお互いまぎれたんだろうぜ」

半刻(八分)も遅れずに三艘が続いて雁木を離れた。

兄いが「七時十五分だ」という、関所と船の手配で四十分ほど掛かっている。

「酔っ払いにゃ逆らうのも面倒で」

若夫婦は兄いたちと話が弾んでいる。

吉兵衛は浜松で泊まるという「おれたちゃ見附だ。舞坂で先に行くぜ」と告げた。

澪標の頭がのぞいている、舞坂の雁木は出てゆく船の順待ちで混雑している。

一里半を七十分で渡ってきたと兄いが若夫婦に話している。

夫婦と小間物屋とは雁木の上で別れた。

 みょうがや ”の前で主の清兵衛が街道を見ている。

「清兵衛殿待ち人かね」

「次郎太夫様、今お戻りで。いえね天龍の様子を聞こうと出ているんですよ」

茶の仕度をするというのを「見附まで行く予定だ。縁が有ればまた会おう」と別かれて街道を進んだ。

浜松方、新町問屋場脇に常夜燈はまだ無かった。

吉兵衛達は問屋場で軽尻(からじり)を頼んでいる。

未雨(みゆう)が浜松で昼飯を一緒にと女房に口説かれたのだ。

舞坂一里塚は江戸から六十四番目(六十八里目)京から五十六番目。

街道の右手に大きな蓮池が有る。

馬郡、坪井と休み茶見世、甘酒の札が多い。

従是東濱松領 ”の石柱が松の根本に有る。

街道左手に榎が植えられた一里塚が有る。

篠原一里塚は江戸から六十三番目(六十七里目)京から五十七番目。

篠原は立場が有り休み茶見世も多くなり、鈴木立場本陣も有る。

あさだ ”という休み茶見世で甘酒を頼んだ。

兄いは馬子にも振る舞い、通りかかった巡礼にも振る舞っている。

従 是 東 濱 松 領 ”の新しい石柱で浜松領へ入った。

若林、東若林と過ぎて八丁畷の始まりに一里塚。

若林の一里塚は江戸から六十二里番目(六十六里目)京から五十八番目。

沼田川の鎧橋から成子坂町の西木戸番所を抜けた。

此処から浜松の宿場、まだ午の鐘は聞いていない。

「きっつぁん、何か食べたいものでもあるのか」

「鰻豆腐と云うのが名物だとか」

「精進物だぜ」

「へっ、鰻じゃないんで」

「見立てだよ。見立て」

四郎は「俺は食べたぜ。安くて旨い。そこはもっきりで納豆汁までついても三十二文だった」と話に割り込んだ。

「四郎さん、その見世大人数で入れますかね」

「昼時は危なそうだな」

「それなら二手に分かれますか、渡船の高札場で落ち合うか、構わず渡って見附で落ち合うかしましょう」

「“ くらた ”で食べたすっぽん雑炊が旨かった」

「先に着いた方が注文という事で」

「場所は分かるのかよ」

「一度寄っています」

ならそうしようと二手に分かれた。

 たのもしや ”はどうにか六人割り込めた。

中の番所と問屋場を通り、高札場の周りの人込みを抜けた。

左手には大手門、宿はずれにも鉤手(曲尺手・かねんて)。

道中記は東木戸から西木戸まで二十丁三十二間。

江戸日本橋から浜松宿まで六十四里二十四丁四十五間と道中記に有る。

京(みやこ)三条大橋から浜松宿までは六十一里十七丁十六間と出ている。

馬込橋を渡ると外木戸、向宿村(むこうじゅくむら)小川の先に一里塚が有る

馬込一里塚は江戸から六十一番目(六十五里目)京から五十九番目。

阿んま(安間村)に安間川、橋の畔に“ 従是西 濱松領 ”の石柱が有る。

安間一里塚は江戸から六十番目(六十四里目)京から六十番目。

追分で本坂通(姫街道)が左へ伸びている。

天龍川西岸の船越一色渡し場は思ったより混んでいない。

水嵩は瀬が隠れるほどだが緩やかになっていた。

二瀬越でも一人二十四文。

対岸の下の渡し場に渡ると大分多くの人が船を待っていた。

池田近道で見附へ向かった。

東海道をそのまま進めば中泉代官所に、宮之一色一里塚江戸から五十九番目(六十三里目)京から六十一番目が有る。

見附の高札場で六時に為っていた。

幸い くらた ”は六畳三部屋空いていた。

「昨日まではこの部屋で十五人も泊まられたんですよ」

下横町市川本陣、上横町平野本陣も壱畳一人迄泊まっていたと噂だったという。

四郎が女将へ注文を出した。

「あと一人来るから飯は酉の刻にはじめて欲しい。竹で良いが雑炊と別にうどんかそばを最後に入れて食べたい」

女将が承知して去ると間もなく、未雨(みゆう)がやってきた。

文化十一年四月四日(1814523日)・六十七日目

朝六つ半(五時二十分頃)“ くらた ”を旅発った。

中川橋を渡ると矢奈比賣神社の鳥居前を通り、街道は急坂上り坂と為る。

阿多古山の一里塚は江戸から五十八番目(六十二里目)京から六十二番目。

また坂を上ると三本松橋の先に遠州鈴ヶ森刑場。

幾度か上り下りを繰り返し、岩井の立場の先に“ 従是鎌田山薬師道 ”。

三ケ野坂(みけの坂 )を上れば太田川にかかる三ケ野橋。

西嶋の立場からは松並木が続いて、木原権現の先に一里塚。

木原一里塚は江戸から五十七番目(六十一里目)京から六十三番目。

土橋の中川橋先が袋井宿西桝形。

袋井宿は五丁十五間に本陣三軒、旅籠も道中記には五十軒と出ている。

川合橋に西の高札場、反対側に川井代官所があった円通寺。

西本陣大田八蔵、中本陣大田八兵衛の先に問屋場(人馬会所)と東本陣田代八郎左衛門(壱番御本陣)。

桝形が残り南手前は高札場。

袋井宿江戸方の土橋は阿麻橋(あまばし・天橋)。

袋井宿(しゅく)から二里十六丁で掛川宿。

久津部一里塚は江戸から五十六番目(六十里目)京から六十四番目。

原川と名栗の立場は原野谷川の橋を挟んで掛川領と天領に分かれている。

橋の手前に“ 従是東掛川領 ”の石柱、此処までが天領。

名栗のほうには花茣蓙(はなござ)を売る見世が並んでいた。

休み茶見世で甘酒を飲んだ、兄いはまたここでも甘酒を巡礼に振る舞った。

十二文の甘酒が六十杯、七百二十文に為った。

未雨(みゆう)の向こうを張って南鐐二朱銀三枚を渡し「余分は時々で良いから巡礼に御報謝してくれ」と頼んでいる。

大池一里塚は江戸から五十五番目(五十九番目)京から六十五番目。

倉真川(くらみがわ)に架かった大池橋は三十間近くある。

秋葉権現への道の大鳥居が見えた。

掛川の西の木戸を入った。

本陣二軒,旅籠三十軒は宿の大きさにしては少ない。

宿場は十二丁ほどで東の高札場、その先は東の木戸、新町の七曲り。

江戸から金谷宿まで五十三里二丁四十五間、掛川宿まで五十六里十九丁四十五間。

京(みやこ)からの距離も出ている。

三条大橋から金谷宿七十三里三丁十六間、掛川宿まで六十九里二十二丁十六間。

掛川宿から日坂宿を通り金谷まで三里十七丁。

七丁ほどで逆川土手に一里塚。

葛川一里塚は江戸から五十四番目(五十八番目)京から六十六番目。

手前に振袖餅の休み茶見世、兄いの時計は十時三十分。

未雨(みゆう)が珍しく寄ろうと言って「一人二つと茶頼むよ」と小娘に声を掛けた。

四郎は「二月前に京(みやこ)へ上がるときいなかったな」と聞いている。

「あたいは十日前から出たのさ。姉ちゃんが嫁に出たんで呼ばれたんよ」

そりゃめでたい話を聞いたと「寄ってよかった」と四郎が出てきた老婆に言った。

「有難うさんですら。お客さん、追剥にやられ人に道中合羽と路銀を恵んだ人だら」

「よく覚えてるな。あんときゃ兄貴と二人だったぜ」

「いい男の顔は忘れねえだら。それとあの日に孫に縁談の口が掛かっただら。大覚院観音様のご利益だら」

餅が七十文、茶代が五十六文、兄いが差しと四文銭六枚に鐚銭二文たした。

「百二十六文、確かに毎度有難うございます」

小娘見かけによらず計算が早い。

逆川の“ ばくろうばし ”の先、道は右へ折れ曲って鳴滝へ向かう。

道中記に“ おのがい ”“ ぬめり川 ”とあるが伊達方村の村境だ。

伊達方一里塚は江戸から五十三番目(五十七里目)京から六十七番目。

日坂宿、西はずれに己等乃麻知(ことのまち)神社。

事任(ことのまま)八幡宮だという、付近は八幡領だと未雨(みゆう)が話している。

十三間ほどの高欄板橋(古宮橋)が架かって渡ると高札場。

日坂宿はグネグネ折れ曲がった上り坂が続いている。

沓掛、二の曲りの急坂を越えた。

弥次喜多で有名になった飴の餅休み茶見世が出てきた。

南無阿弥陀 ”の五文字が石に残される小夜の中山夜泣き石は、道をふさぐように坂の途中にある。

飴の餅茶見世が此方にもある。

佐夜鹿(小夜の中山)一里塚は江戸から五十二番目(五十六番目)京から六十八番目。

「京都で手放した道中記は此処と大井川の間に三カ所一里塚が有ったと出ていた。金谷の一里塚から歩いた感じで一里四丁程度だ。有ったという方が変だぜ」

「ほら熊野街道でもおかしな風に出てきたでしょう。目印の古い塚でも有ったのじゃ有りませんか」

「新兵衛殿は素直で良いな」

菊川名物の“ 菜飯田楽 ”の休み茶見世が出てきて昼を誘っている。

石畳が敷かれた金谷坂を下りると金谷大橋、大橋と呼ばれても六間ほどの土橋が架かっている。

金谷一里塚は江戸から五十一番目(五十三番目)京から六十九番目。

上本町には問屋場、紀州御七里役所が有る。

金谷本町と金谷河原町二つで、東西十六丁二十四間の金谷宿。

寛政三年(1791年)の“ 竹下屋火事 ”で本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠屋五十二軒、全て焼失した。

宿(しゅく)は東の下十五軒から西の一里塚、高札場まで燃えつきたと云う。

志水川、志水(清水)土橋手前、左手に大きな中泉出張陣屋の屋敷がある。

金谷宿東外れ大代川に架かる土橋の大代橋を渡った。

川会所、高札場、八軒屋橋の先が大井川渡し場。

水嵩が有るので脇通九十四文の札が下げられている。

濡れるのを厭う旅人が多いようだ、今日は手張(補助者)が付くので二枚必要だ。

平連台(並連台二本棒)担ぎ手四人で川札四枚と台札(川札二枚分)の計六枚で渡ろうとしたら三台しか残っていない。

それで割高の半高欄連台(半手すり二本棒)を四台雇った、川札四枚と台札(川札の四枚分)の計八枚が掛かる。

脇通九十四文の川札五十枚で四千七百文。

兄いが南鐐二朱銀六枚出したら刺し(差し)一本返してきた。

半分ほど進むと対岸の“ 朝顔の松 ”が目立っている。

菜飯田楽 ”を食べればよかったと次郎丸は後悔している、渡り切ると兄いが「四時だ」と言っている。

清水屋で“ 小まんぢう ”を一人二個食べ、茶を飲んで腹を宥めた。

ときわや ”へ行くと六畳二間だという。

相談して此処へ泊まることにした。

島田は街道の北側、西から三軒の本陣が並んでいる。

上本陣・村 松 九 郎 治

中本陣 大 久 保 新 右 衛 門

下本陣 置 塩 藤 四 郎

問屋場は五丁目にある。

島田は大井川堤から道悦島村境まで往還三十四丁五十三間と長く、そのうち東西九丁四十間が島田宿。

ときわや ”の二階から街道を見ていると留め女が大勢出てきた。

明け六つ(午前四時五分頃)から暮れ六つ(午後七時十五分頃)までの川渡しで十分渡れるが「混雑がひどくて、もう渡れませんよ」など言っては引っ張りこんでいる。

かと思えば渡ってきたと見れば「藤枝へは夜旅に為りますよ」と誘っている。

文化十一年四月五日(1814524日)・六十八日目

ときわや ”を明け六つ前(四時頃)に出た。

三軒の本陣からは、供を連れた身分高そうな武士が出て渡し場へ向かっている。

問屋場の東、島田一里塚は江戸から五十番目(五十二番目)京から七十番目。

栃山川の土橋を渡った先に道悦島村、此処までが島田だという。

上青島一里塚は江戸から四十九番目(五十一里目)京から七十一番目。

一里塚の東側に上青島の集落、下青島(瀬戸)の先、緩い坂を上ると“ 従是東 田中領 の石柱が有る。

瀬戸の立場でも茶見世で染飯を商っていた。

瀬戸川の土手に一里塚。

志太一里塚は江戸から四十八番目(五十里目)京から七十二番目。

瀬戸川は人足が少なく三十分ほど待つことに為った。

水量が多く乳通水三十二文を出して渡った。

藤枝の西の木戸で七人揃うと兄いが「七時二十分に為ったぜ」という。

坂を上ると問屋場、青島上本陣、村松下本陣。

街道は右へ折れて東木戸まで十九丁十二間と出ている。

高札場のある上伝馬町と東木戸の下伝馬町に問屋場が有り、上の問屋が江戸下り、下の問屋が京(みやこ)上りを扱った。

「長い宿の割に旅籠が少ないようだ」

「それでも五十軒ほど有るはずですぜ。ここで目立つのは刀鍛冶でしょうね」

問屋場の先に木戸口が設けられ、田中城への道が伸びている。

城主は本多正意(まさおき)、寛政十二年父親が隠居、十七歳で家督(四万石)を継いで十四年目、文化五年から奏者番を務めている。

岡部へ一里二十六丁。

東木戸の先は左手高台に青山八幡宮。

鬼嶋に入り川の手前に田中城からの道、八幡橋を越えれば一里塚。

鬼島の一里塚は江戸から四十七番目(四十九里目)京から七十三番目。

従是西 田中領 ”の石柱が有る、その先朝比奈川に架かる横内橋を渡れば横内。

横内橋は道中奉行の管理、長さが三十二間、幅三間ある。

横内は美濃岩村藩の飛び地、橋の先左に横内陣屋がおかれていた。

岩村藩主松平乗賢の時、西丸(徳川家重附)老中について加増されたときこの地も含まれた。

村はずれ街道脇に“ 従是西巌村領 ”の棒杭が有る。

松並の先で鉤手(曲尺手・かねんて)岡部札辻を通り抜けた。

岡部は本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠屋二十七軒、宿は十三丁五十間。

高札場の先は本町、街道左に内野九兵衛本陣、北隣は大旅籠柏屋(かしばや)。

街道右手が仁藤本陣。

丸子へ二里。

岡部川の橋を渡ると休み茶見世が有る。

茶を運んできた爺様に四郎が話しかけた。

「親爺(おやじ)さんよ。道中記に岡部一里塚が出ているが京(みやこ)へ上るとき見つけられずに通り過ぎた。どの辺りに有るんだね」

「でえぶ前だが川が暴れて街道が付け替えられたそうだら。百年くれぇ前までは十石坂(じっこくざか)の川向こうに有ったそうだら」

最林寺が六年前に焼けたとき、有るはずの一里塚を探す人もいたという。

「あの宝暦二年桑楊や、府中で見た師宣のは確かに川向こうの様だった」

前と違い画を思い出したようだ。

宝暦二年はほぼ六十年前に為る、絵図は師宣の引き写しで当てには出来ない。

岡部一里塚は江戸から四十六番目(四十八里目)京から七十四番目。

道中記に有る幻の一里塚だと皆で大笑いだ。

通称“ 稲刈地蔵 ”は宇津ノ谷の西入口だ。

峠に駿州有度郡、志太郡の境の標石が有る、道の反対側に峠の地蔵堂。

地蔵に由来する名物十団子を商う休み茶見世が出てきた。

峠を降りて東の麓に間宿(あいのしゅく)宇津谷村その先に一里塚。

宇津ノ谷一里塚は江戸から四十五番目(四十七里目)京から七十五番目。

上り下りを繰り返して丸子川へ出た。

丸子橋を渡ると丸子(鞠子)のとろろ飯の休み茶見世が有る。

屋根瓦に草が生えて如何にも田舎の風情が有る。

「弥次喜多が食いそこなったのは何処だろうな」

「時分時だ構わず此処にしませう」

藤五郎が「七人は入れるか」と言いながら土間へ入った。

いい具合に三人立ったので七人が座る余裕が出た。

すぐにとろろ汁と麦飯が出てきた。

幸八と藤五郎は食べないうちからお代わりを頼んでいる。

ズズッと音を出して掻き込んでさっさと勘定して出てゆく馴れた客も多い。

芭蕉も丸子のとろろ汁を詠みましたよと言う。

うめわかな まりこのしゅくの とろろじる

元禄四年正月江戸に出発する門人、乙州に与えた餞(はなむけ)の句だという。

「芭蕉翁食べたことが有るんでしょうかね。聞いた話だと思うのですが」

九人分で三百二十四文、兄いが差し三本と四文銭六枚で支払った。

「おいおい、重いの抱え込んでいたのか。良くそれで峠を越えたもんだ」

「此の辺りから銀より銭が喜ばれると聞いてね」

「だからと言って」

未雨(みゆう)も呆れている。

丸子の宿(しゅく)は川沿いに東西七丁しかない、其処に本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠大小二十四軒が詰め込まれている。

街道の左手に高札場、紀州お七里役所、藤波脇本陣、横田三左衛門本陣、問屋場と並んでいる。

江戸方見付は本馬(荷四十貫)、乗懸(一人と荷二十貫)、軽尻(からじり・一人と荷五貫)そのほか荷を担いだ人足が溢れていた。

府中へ一里十六丁。

見附の先に一里塚が見える。

丸子一里塚は江戸から四十四番目(四十六里目)京から七十六番目。

手越村川会所には安倍川脇水六十四文の札が出ていた。

川札は二十八枚、千七百九十二文だという。

蓮台は七台雇うことが出来、南鐐二朱銀二枚と差し二本で、四文銭二枚釣りが来た。

一刻(十五分)ほどで順が回ってきた。

府中で次郎丸と四郎は“ こうじやよごえもん ”へ顔を出すので先へ行ってもらった。

新兵衛は護衛に就くと言うので、次郎丸達と行くと決まった。

未雨(みゆう)たちは脇本陣水口屋へ泊まる約束、話しが付いているので夜に為っても心配はない。

こうじやよごえもん ”では半刻で良いからと引き留められた。

「一里塚ですが、昔は我が家の裏に土塁の跡が有ったという人が居ました。此の通りではなく遊郭の裏へ抜ける道が有ったそうです」

「では跡形もないと」

「見に行きましたが、周りより小高い石くれ置き場に為っていました」

四郎が大坂で求めた道中記を見せて「書き込みが有りますが、もう一揃い求めてきましたので置いてゆきます」と差し出した。

「いいのですか心覚えをその侭で」

「同じこと書き入れてありますぜ」

「そりゃ抜かりない事で」

此処で置いた東海道分間絵図や師宣の東海道分間之図に有る“ 岡部一里塚 ” も行方知れずになっていたと話すとその部分に行方知れずと書いた紙を差し込んでいる。

「与五右衛門さんは、私たち以上に物好きだ」

「同類と話すのは楽しいものですな」

名残惜しいがと見世を後にした。

行方知れずの府中一里塚は江戸から四十三番目(四十五番目)京から七十七番目。

追分ようかん ”で買おうかどうかを決めるのに一里塚を通り過ぎて駕籠が空か乗っているかで賭けをした。

新兵衛は「何本買うんです、私は五本買いたい」と言っている。

「なら買うにして誰が羊羹を持つかにしよう。追い抜かれるかすれ違うかした駕籠にしようぜ」

「負けたら十五本ですか」

新兵衛は空駕籠にするというので四郎は「乗って居るのが女」と決めてしまった。

「まてまて、空駕籠が来たら新兵衛殿だな」

四郎と新兵衛はあてっこと勘違いしたようだ。

松林が切れて南長沼に一里塚。

長沼一里塚は江戸から四十二番目(四十四番目)京から七十八番目。

後ろから「ほい、ほい」の駕籠かきの声が聞こえる。

やり過ごすと空駕籠だった。

「決まりだな。次の一里塚で誰が出すかやるかい」

「同じで良いですか」

「新兵衛殿が替えたくないならそうしようぜ」

草薙大明神の鳥居が見えた。

「ここが草薙の剣にまつわる伝承地ですか」

「それがね。ここだと言われだしたのは延喜式神名帳で大昔だが弟橘姫は“ さねさし さかむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも ”と歌を残している。相模の小野と思わるがそこが何処か解らないのでこの地と信じる人が多いのだ」

ひと坂超えると一里塚が見える、空駕籠らしくのんびりと向こうからやってきた。

「まだ一里塚の手前でしたね」

「安心できないぜ。向こうで一服しているのが立ち上がったぜ」

遠目に若く見える男が駕籠かきに話しかけた。

草薙一里塚は江戸から四十一番目(四十三里目)京から七十九番目。

一里塚を抜けると向こうで若い男を乗せた駕籠が、こっちへやってきた。

「四郎が買うんだぜ」

「俺の懐は兄貴と一緒だ」

「なぬ。おまえの懐金を出すに決まっているだろうに。兄上に貰った三両そのままのはずだ」

「しかたねえ、夜にでも兄いに崩してもらおう」

追い抜かれた二台の駕籠には姥桜に女中、共に番頭、小僧が二人付いている。

「あの若いやつがもう少し粘って交渉してりゃ、兄貴持ちだったに」

追分ようかん ”に着いた、脇に追分道標がある。

正面に“ 志ミづ道 ”左に“ 南妙法蓮華経 ”。

「十五本間に合うかな」

「残っております」

「五本ずつ包んでくれ、今の時期日持ちは同じゃ」

「十日後から二十日目くらいが一番の食べごろです」

千五十文と言うので四郎は南鐐二朱銀二枚と豆板銀を三匁出した。

四文銭で二十枚来たのを次郎丸へ「兄貴の掛りだぜ」と押し付けた。

新兵衛大きな風呂敷を出してくるんだ。

「風呂敷の小さいのは持ってないんだ」

「倍包んでもまだ余る。問屋場から早便で送りますかね」

「俺の所へ送りつけたら“ なほ ”に帰り着くまでに食われてしまうぜ」

四郎が書付を入れろと言う“ 一筆啓上 をとこくうものなり ”。

巴川に架かった稚児橋は板橋で高欄付、突き当りが高札場、問屋場。

鉤手(曲尺手・かねんて)で右へ行くと魚町右手に寺尾本陣、斜め前橋本本陣。

先へ進むと中町に大竹屋脇本陣、羽根本陣。

向かいは府中屋脇本陣、翁屋脇本陣。

江尻は東西十三丁程。

新兵衛は下町で葛籠屋を見つけると笈摺(おいずる)を買い入れて羊羹を入れた。

侍に笈摺(おいずる)は似合わないが気にしていない。

辻一里塚は江戸から四十番目(四十二里目)京から八十番目。

田子の浦の海岸へ街道が近づいた。

清見寺門前町を抜けて寺領と代官支配地の境の傍示杭先が興津宿、五時四十五分に為っていた。

西町左手に西本陣手塚十右衛門、脇本陣落合七郎左衛門。

西町右手は脇本陣身延屋七郎左衛門、脇本陣大黒屋多八郎、脇本陣水口(みなぐち)屋半平。

街道沿いの見世に宿屋は虫籠窓(むしこまど)が多い。

街道沿いの二階建てを禁じられている宿場は多い。

脇本陣水口(みなぐち)屋半平は中でも目立っている。

水口屋半平 ”へ入り次郎丸が声を掛けた。

「許せよ。江戸の伊勢屋の連れだが着いておるか」

「ようこそおこしを。皆さまお着きで今風呂へ案内致したところで御座います」

草鞋を脱ぎ捨て足袋も擦り切れていたので捨てた。

足たらいで丁寧に足を洗い、脚絆も洗おうとしたら女将が来て「こちらで洗って火熨斗をかけておきます」と取り上げた。

十帖の間へ通され、続きの六畳二間を分けてお使いですと女中が教えた。

主が女将と十二.三の娘を連れて挨拶に来た。

「お泊り頂き“ ありがたやでございます ”食事前に風呂も入れます。六人は入れますが、師匠のあと一組お使いに為られます」

「“ 流行りものには目がない ”若造に痛み入る」

島田から興津へ十里三十一丁ある、丸子で三十分、府中で一時間取られたが、明け六つ前(四時頃)から十二時間五十五分掛かった。

未雨(みゆう)たちが戻ってきた。

「いい風呂でしたぜ。桶のような風呂は多いですが、ここは浪速風の湯船ですぜ」

見晴らしもよく興津の湊へ入る船も見えるという。

風呂から出ると新兵衛の笈摺(おいずる)が話題に為った。

「私のが古くなったので捨てて担ぎましょうか」

兄いが言うのに被せ「中身は蒸しようかんですよ。良いんですか重いですよ」と遠慮した。

「買ったんですか」

「幸八ほれ見ろ。お前の負けだ」

どうしたと聞くとほかの三人が若さんは“ なほ ”様へ土産に買うというのに三人分十五本を余分に買い入れたという。

「すまんな幸八殿。土産に有りがたく頂戴しよう。しかし三十本は重いな」

四人で三十本を別に買ったので、明日の朝問屋場から未雨(みゆう)の家へ送ることにした。

 
 

 第七十六回-和信伝-拾伍 ・ 2024-06-11

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記