第伍部-和信伝-肆拾漆

第七十八回-和信伝-拾漆

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年四月十一日(1814530日)・江戸元矢之倉屋敷

定永は文化九年三月、定信の隠居により家督を継いだ。

この五月に初のお国入りを届け出て、五月二十六日に江戸を発つことが決まった。

忠兵衛を共に上屋敷へ出た。

「殿には少将任官のお祝いを申し上げます」

「これも大殿が房総警備のおかげをもってのことだ」

相州警備の松平容衆(かたひろ)は前年従四位下、侍従、肥後守となり釣り合いを取ったと評判だ。

昼に五つの小鉢で豆腐の料理が出た。

「定栄(さだよし)、頼みが有る」

来たぞと思った、普段しわい兄が次郎丸の好む豆腐料理で旅の疲れを労うはずもない。

「一つは父上の庭造りも一段落しそうになったが、作庭の為に国元へ行かせるわけにも参らぬ。三の丸に南湖は維持だけだが、江戸にもう一か所好きに出来る小庭園、いや火事や災害時の避難屋敷に船をつけられる土地が欲しい」

金の相談の様だ。

「初のお国入りともなればさぞかし物入りで正札殿も頭が痛いでしょう」

「忌憚なく言おう。そちの養子縁組は来年六月、儂と弾正忠殿が参府に合わせて行う」

「賜り申した」

「深川久右衛門町とかいう土地を手に入れてくれ。そちの養子縁組の後、父上に作庭指導という事で手を入れて貰うことにする」

俺に買わせて自分の名で大殿孝行を目論んだようだ。

「国元に中屋敷増設を打診したが酒井がよしと言わんそうだ。五百両の工面も付かんでお国入りは恥ずかしい」

「持ち主は」

「安房勝山鯨組醍醐新兵衛」

「知り合いです。参府までに手に入れれば宜しいですね」

「よそへ取られる前に手を打てるか」

「気の利いた者に使いを頼みます」

「二つ目」

おいおい、豆腐で五百両物にしたのにまだ有るのかと思った。

「国元で出立前に二千両工面してきてほしい」

「しかし殿、私めは一度も白川へは出むいておりませぬ、御用商人とも付き合いが有りません」

「房総警備で国元も不如意だそうだ。兄を助けると言ってくれ」

「その銀(かね)が無いと江戸を発てませぬのか」

「いや、国元での貧民救済を国入りに合わせて行う準備が整ったが、会計から不足を申し出てきた」

「抱屋敷は置き土産としても。二千両は借り入れで宜しいのでしょうか」

「上納金で始末は付かぬか」

「私の養子祝い金でも額が大きいでしょう。四半分は押し付けても千両は難しいと思います」

「正札(日記)は、二万両はそちが動かせると云うておる」

「動かすだけで自由に使えるわけではありませぬ。房総警備のお手伝いで銀(かね)が動いているだけです。戻らぬ銀(かね)を動かすものなどおりませぬ」

「そういうな。白川が無理なら柏崎へ頼むことに為るのだ」

「本川で出かけますか。誰かのお供として国元へ出ますか」

本川で出て三輪権右衛門と協力するように大殿の手紙を二通、冴木が持ち出した。

「十四日には発たれますよう。御供は川添殿へお申しつけ下されますよう」

川添は屋敷付の若侍、鴻池屋永岡儀兵衛の持ち家を店借している。

中間なり荷物持ちを何人か付けるのは構わぬと殿の仰せですという。

手紙のあて先は“ 待月へ ”“ 良平へ の二通。

「待月は三輪権右衛門殿、しかして良平とは誰で御座ろうや」

「須賀川大庄屋でありもうす」

「国元の庭園などゆるりと御見物の上、殿の江戸旅立ち前にお帰りあれ」

八木助左衛門が傍から口を添えた。

「かしこまり申した。大殿の添え状が来ているとはお下屋敷へ行かずとも宜しいのか」

「定栄(さだよし)様には国元の庭園を見て戻られた後で、上方の土産話と共に聴こうと仰せでした」

質素倹約を言いながら、老中致仕後に何ヶ所もの庭園にのめり込み、相当の費用が掛かっているようだ。

上屋敷を辞去し、元矢之倉へ戻ることにした。

「忠兵衛、安房勝山まで出られるか」

「若様のお供ですか」

「いや俺は明々後日(しあさって)には国元へ行くように言われて別口だ」

「勝山といやぁ、鯨組ですかい」

「そうだ。船で行けば俺の出る前に戻れるだろうぜ。屋敷で手紙を書くからそうしたら新川で五大力を探してくれ。もし乗れそうも無きゃおしょくりぶねを雇ってもいい」

「仕立ては四人船頭でも二両は取られますぜ。その代り朝方には着くでしょうぜ」

「念の為さ。八丁櫓でも仕立てられる銀(かね)は預けるぜ」

「五両出してわし一人は気恥ずかしい」

「おしょくりぶねの八人乗合なら銀五十匁くらいか」

「船が居たらそれにします」

屋敷で一分判を二十枚二包と別に南鐐二朱銀六枚を持たせた。

とよは「そっちは使わない分は戻しとくれ、此の四文銭二十枚は団子代だ、好きにしていいよ」と渡した。

屋敷のお仕着せで颯爽と出て行った。

川添甲子郎は殿さまからの申しつけと言うと力んで「しっかりお供をさせていただきます」と答えた。

「わしゃ、また留守番ですのか」

大野はがっかりしている。

大野が一日十一里の予定なら、五日目の夕刻に白川へ入れるという。

甲子郎は「会津様に居る友人は六日で着いたと自慢しています」と言うがいくら陽の長い時期でも体が持たないだろう。

大野は「会津若松まで六十八里は有ると聞いているが」と思い出したようだ。

「松代は六日だと佐久間先生が言うとったぞ」

「白川まで四日は強いだろうな。我が藩の参勤は五日目の日暮れに入れるかギリだと聞いている」

藩が作らせた案内記を持ち出してみた。

一日目は日本橋から幸手迄十二里十丁。

二日目は幸手から小金井迄十里二十七丁三十間。

三日目は小金井から氏家迄九里十六丁三十間。

四日目氏家から越堀迄九里三十二丁三十七間。

五日目越堀から白川迄七里十二丁。

日本橋から白川四十九里二十六丁三十七間。

「二ヶ所の渡し次第で五日目の申の刻なら着くだろう」

後は天気と渡しで遅れても運次第だと大野も納得した。

「ま。四日目にもう一駅伸ばしてもすむことですな」

自分が行かないとなれば無理するのは若さま次第だという。

栗橋の関所は元対岸に有った中田関所で利根川房川船渡しに有る。

川原幅二百十四間、川幅四十間。

絹川の渡しの川幅は三十間、此処は冬場に仮橋と為る。

「荷物持ちに一人か二人連れて出るようかな」

「忠兵衛が戻れば弥助をお供に」

「あと一人雇うか」

「気心の知れたものが宜しいのでは」

「ちくまやに声を掛けるか」

介重達三人を大野は便利に使っている。

「忠兵衛が戻れば弥助と二人御供で、三人雇って庭の掃除に門前の掃除では」

ちくまやの娘もいっぱしに為って松代へ養子に入る次郎丸の屋敷中間、足軽まで送り込んでいる。

この年用人の大野は藩の財政とは別に足軽二人を入れ、自分の下役にしている。

介重達三人は小者として月の決まり日に雑用に出入りしている。

今は儀兵衛が持っているが養子縁組が本決まりに為れば他に出どこが必要だ。

その儀兵衛が客を連れて来たという。

「若様、国元へ御出でだそうで」

「早耳だな」

大野も呆れている。

「なに、出がけに忠兵衛さんに出会ったんですよ。船の手配の手助けをしながら聞き出しました」

「あのおしゃべりめ。内緒は腹に収められねえ」

「心配なんでしょうぜ。○○は簡単に出てきませんよ」

遅ればせながら長旅の無事のおかえりでと挨拶を始め、終わるとようやく連れを紹介した。

「松代の八田の婿殿です」

「先生が言っていた御用商人、八田嘉右衛門のことかね」

「七年前に婿に為りました、糸市手代の辰三郎で御座います」

新兵衛と違い実務を学ばせているようだ、歳は二十五に為ったという。

まだ会所組織は無いという、糸市が分散しているのでその調整を任されている一人だそうだ。

儀兵衛が言うには藩との調整が長引いて纏めきれていないという。

「なんで生糸まで儀兵衛が相談に乗るんだ」

「猪四郎は来ていませんか」

「こっちから帰着は教えていないよ。新兵衛が話しているはずだ」

「噂じゃ若さんたちは木綿の一貫生産に乗り出すそうで」

「どうやって知ったのか教えてくれ」

「尾州知多の醤油屋ですよ」

「そっちへも手立てが有るのか」

「大坂鴻池と間違って挨拶されて以来の付き合いでね」

下総流山の鴻池屋永岡儀兵衛は白川藩に食い込んで久しい。

浅草、深川、八丁堀の地に家作が有り、藩の妻帯者が借りて住んでいる。

表向きは抱え屋敷、川添もその一人だ、そうでもしなければ上士と言えど、六畳二間お長屋で我慢させるようだ。

「また抱屋敷を手に入れようという話が漏れてきましてね。若様に養子の引き出物ならぬ置き土産に買わせようと聞きましたが。本当ですか」

「忠兵衛に聞く前に耳にしていた様だな」

「へぇ。お上屋敷は最近話が駄々漏れですぜ。小石川に飽きたようで海辺にもう一屋敷、趣の替わった庭が欲しいとね」

「大殿は専ら息子たちへ作庭の手本を示そうというようだ」

辰三郎は養父の誓約書を持ってきていた。

私儀若殿様御入用御用意致候此段誓約致候 知義

「これでは俺と命運を共にすると言うと同じではないか」

生糸の商いを学んでいる“ 駆け出しでございます ”と言って指印を見せた。

「養父も結いの仲間かね。“ 流行りものには目がない ”俺に金を出して居ては際限もないぜ」

「若様に信濃の生糸を世に広めて頂く為にはまず松代からをお心にと言われてきました」

「聞いたところでは上田紬の名に勝る物なしという。製品では上田の名で出しても良いなら十年で三倍には出来るだろうさ」

「八王子付近に甲州が上田紬の名を使っていますが一段低く抑えられています」

生糸に為らない屑繭から真綿にする技術、それ自体に差が有るようだ。

「上田藩と揉めても困るしな、栄次郎殿は気骨者だぞ」

栄次郎は幼名、養子入りして忠学と名を改めた。

松平忠済(ただまさ)は六十四歳で隠居したが藩政を仕切っていると噂だ。

松平忠学(たださと)は分家から養子に迎えられ、二年前の文化九年に二十七歳で信州上田藩五万三千石の家督を継いだ。

次郎丸三倍と言い放ったが、養子の話が出てから松代周辺の情報は集めている。

上田は絹だけでなく木綿でも大きな取引が成立している。

「それに松代は先代、当代共にお健やかで養子に入っても当分は見習いで実権など何もないぜ。先物で出すばっかりだ」

儀兵衛が「そういわずに先様お代わりで、私めは相談だけとさせて頂きます」と言っている。

盆を持って来てもらうと切り餅四つ風呂敷の紙箱から出して大野へ差し出した。

「当座のお屋敷費用にお使いください」

相当内情を儀兵衛が指導したようだ。

「路銀が出来ました」

四人で壱日壱分あれば余るのは確実、壱分判百枚の切り餅一つで贅沢が出来る。

「一つは甲子郎が道中の費用に預かるのだ」

そういって手渡した。

「切り餅持つなど初めてですが持ち重りしますね」

「後で小銭など“ とよ ”と相談して渡すから頼りにしているぜ」

「若様、大分四文銭で苦労しましたようで」

未雨(みゆう)たちが昨日旅の土産で面白おかしく喋っていった。

儀兵衛と辰三郎が辞去して間もなく新兵衛兄いが一人でやってきた。

「殿さまは何を馳走してくださいました」

「豆腐料理だ。まるで茶人さ。ところでいつ酒田へ旅立つのだ」

「明々後日(しあさって)に決めましたぜ。あいつら遊山旅の積りでいるので七つに出て初日は幸手だと脅かしておきました」

「おいおい、俺たちと同じ日だぜ」

「どこへ行くんです」

「白川常宣寺で墓参りしてくるように言われた」

「もう直に命日ですが、合わせないんですか」

実母貞順院は十四年前、寛政十二年六月二十二日、三十三歳で白川にて死去。

「殿の暇が五月二十六日なのでその前に戻れと言われた」

ひと月以上掛かるほど白川は遠くないと新兵衛兄いは笑っている。

「掛かるかも知れないのだ。金策を申し付かった」

「いくらで」

「二千両だが別に五百両出て行く」

「戻るかねなら江戸で間に合うでしょうに」

「五百両は深川に小さな屋敷を建てる金だ」

「若さんが入るので」

「いや殿の云うには下屋敷から大殿がさ。船で行くことが出来る屋敷だそうだ」

「売り物でも有るんですか」

「しんぺえの住んでた家だった場所だ」

「あれはしんぺえのおっかさんの持ち家、大島川の漁師町ですぜ。三千坪は有りますぜ。五百で売りますかね」

深川八幡の海辺、入舟町に佃町、秋葉社などが入り組んでいる。

「全部買って半分は売るつもりで忠兵衛を交渉に行かせた。殿は千坪あれば良いと言っていた」

仲介した者が細切れは困るというのを次郎丸に内緒にしたようだ、房総警備の視察の時鯨組の事を鰹の話としたので、安房勝山鯨組醍醐新兵衛と聞いてその事を思い出して押し付けてきたようだ。

「買い手の当てでも有るので」

「大名家に売り込んでも良い」

それで戻りのない二千は何の金ですかと聞かれた。

「殿の初のお国入りで貧民の救済だと聞かされた。俺の耳に心地良い言葉にしたようだ」

お代替わりでの善行は誰かの入れ知恵だろう。

病人、老人と赤子を対象に千六百人ほどだという。

領民は分領を除いても白川、岩瀬、石川、伊達、信夫、百七ヶ村。

越後は岩船、蒲原、三島、刈羽、魚沼、五郡二百二十一ヶ村に及んでいる。

合わせればおよそ十万人の領民が住んでいるのだ。

次郎丸が林松塢(はやししょうう)に聴くところによれば松代藩は十二万人ほどの領民が居るのだという。

赤子の間引きを防ぐための給付は、定信以前から行われていたが、定信は自分が持ち出して給付を始めたかのように、人を使って広めた。

質素倹約を金科玉条の如く唱えたが、国元江戸での様々な庭園の増設は何の倹約なのか納得は出来ない。

次郎丸は質素倹約も度が過ぎればただの吝嗇に過ぎないと思っている。

背伸びをしすぎない贅沢は、して当たり前だと思っている。

倹約して残した金で国防をしなければ急場に間に合わない、為ればこそ金を稼ぐ手段を模索している。

金持ちから金を吐き出させ、庶民に渡れば消費が伸びる、金持ちが遊行に金を使っても庶民にはなかなか回ってこない。

廻すのには産業育成への投資させることだ。

ただ建物を建てれば技術は伝承する、庭を作れば技術が残る。

そう思えば浪費とばかり言ってはいられないが、寺社の修復の御手伝いを言いつかる大名には大きな負担がのしかかる。

寺社の改築には物持ちは銀(かね)を出し渋るので、大奥へ働きかける寺社は多くなる一方だ。

「大野様。今度はご一緒されるのですか」

「わしゃ。留守番で若い者にお供させる」

「幾日で白川までの予定です。御一緒させて頂けますか」

先ほどの書付を大野が出した。

「五日ですか。一日平均十里、若さんらしくない道中だ」

参勤の道中は皆これくらいが普通で、中には駕籠を空にして急ぐ大名が増えている。

陸尺だって人が乗らなきゃ足も速くなる。

本陣は兎も角お供に割り振る小宿で、宿銭を値切る会計方が多いと聞いた。

そういう噂は街道を勝手に走っている。

「若さんも銀(かね)が入っても懐に留(とど)まらない人ですね」

「二万両持っていると殿に吹き込んだものが居る」

「松代様にもそういう噂が有るようですかね」

「兄いの来る前に儀兵衛が松代の人と来たが、何も言っていないぜ。それより今日から松代で勝手を預かりたいとさ」

あちらのご隠居が手を回したようだと大野が経緯を話してくれた。

兄いが笈摺(おいずる)から北齋漫画を三冊出した。

「全部呉れるのか」

「そうですよ。一冊は仕舞うため。一冊は誰か見せてくれと言うときの為、手垢がついても良い様にね」

「名古屋と昨日言っていたが、江戸でも売り出したのか」

「大野様これがわずか銀二匁八分、良い見世で鰻のお重より安いと来た」

銭換算でいくらですと若い栄吉が訊いた。

「上村様ここんところ銀一匁百十文、三百八文て所ですかね」

相変わらず計算が早い。

次郎丸だと三百三十文から二十二文をひくという数式が理解できず、同じような計算を出来るようになったのは新兵衛のおかげだ。

五枚の絵も板で挟んである厚紙の間から出して広げた。

「これは」

「用はないでしょうが、吉原の大籬の中はこういう風だと求めてきました」

北齋戴斗が文化八年に描いた吉原大籬扇屋図だという。

「よく行くのか」

「まだ大門潜ったことは無いですぜ大野様」

そういいながら写してきた聞き書きを大野に渡した。

一枚が尺二寸に幅九寸ほど有る「こんなに一時に人が集まるほどでもないそうですがね」と並べた。

おなじみ台所の柱に“ 火の用心 ”まで描いてある。

神棚の前に腕を揉ませている楼主に女主(おんなあるじ)。

小上がりの階段上にも女達が描かれている。

「七十人は描き込まれていますね」

栄吉は驚いている「こんなとこへ放り込まれたらどうしていいか迷います」と兄いに言いだした。

裏神保小路から小普請支配の八木但馬がやってきた。

八木但馬は代々十三郎を名乗っている。

次郎丸は別間へ誘って道中でしたためておいた報告書を渡した。

「お頭は御国もとで母君の墓参と聞き申した」

「さすが早耳ですな」

「報告書は明日例の手筈で稲垣様へお届けして置きます」

稲垣太郎左衛門は牧野忠精(ただきよ)家の江戸家老だ。

次郎丸は向こうから呼ばれればとも角、直に屋敷へ届けたりしない。

幾ら大樹、勝手掛老中、大目付と繋がると言えこちらは部屋住みでしかないのだ。

赤坂氷川町、長山直之へ帰着連絡を入れ、支配の八木十三郎が間をつなぐ役目だ。

直之は父親の代に八木但馬支配に入り、一時小笠原若狭支配へ組替えが有った。

「いやぁ、我が屋敷裏も広小路と言われて久しいが両国へ来ると違い過ぎていつも笑ってしまう」

十五分程度で口実の京(みやこ)土産“ 都名所図會 ”と一緒に包んで帰って行った。

部屋へ戻ると新兵衛は栄吉と二人で夕飯を食べている。

「若さんのは“ なほ ”様の部屋へ用意されるそうですぜ」

鰈の煮付け、山芋の千切りにとろろ汁、こういう時の飯は内三が決まりだ。

米三に麦七なら三倍飯が食えると大野も言っていた。

文化十一年四月十二日(1814531日)・江戸元矢之倉屋敷

辰の刻(六時三十分頃)、次郎丸は大野を共に麻布谷町へ向かった。

兄から命じられた正式な訪問に為る。

表向きは幸専(ゆきたか)様六月御暇に付き、ご挨拶訪問だ。

礼物、手土産には及ばぬと厳命された。

昨晩、兄いは幸八と藤五郎が江戸へ出るについて、麻布のお屋敷を覚えるというのでついてくることに為った。

「氷川明神へ行ったときに道は覚えただろうに」

「あっし抜きで二人に行かせたら、帰りは迷子になりますぜあの二人」

まるで大人扱いをしていない。

表から出て裏へまわり、横山同朋町、村松町。

二丁目と三丁目の間を抜けて橘町二丁目に出た。

一丁目千鳥橋角の“ はしもと ”が新兵衛兄いの定宿だ。

三人はこちらを認めると後をついてきた。

千鳥橋の向こうは元濱町、小舟町先左の道浄橋を渡り先の江戸橋を渡った。

魚河岸の匂いが充満し、威勢の良い兄いたちが盤台を天秤で運んでいく。

その侭、本材木町を白魚橋まで進んだ。

京橋川の白魚橋の向こうに有る白魚屋敷の稲荷は、粋筋の女たちが何人も熱心に祈っていた。

三十間掘に沿って進んだ、新橋を渡って右へ向かい、幸橋御門前を通り、新シ橋先の虎の御門前で堀に沿って左へ進んだ。

黒田公と小屋敷の間をぬけて汐見坂を上り、榎坂から氷川明神へ向かう三人と別れた。

霊南坂を上って常火消屋敷で右へ入り陽泉寺で左に有る真田家上屋敷表門へ向かった。

霊南坂は元の嶺南坂、陽泉寺と火消屋敷の間が根太坂で奥に澄泉寺が有る。

今井屋敷、谷川屋敷が抱え屋敷として使われている、此処は年貢地で年貢を肩代わりし、藩士の住まいに充てていた。

表門で大野が「白川藩大野と申す。松平定栄、弾正忠様御暇帰国ご機嫌伺いに付き、これにまかり候。用向きにお伝えあれ」と名乗った。

若侍は門内へすぐさま案内に立った。

ひ弱な若様到来と思っていた者には驚く偉丈夫に見えたようだ。

旅で逞しくなったというより、剣術、砲術、柔術は父親に勝ると思う人は多い。

門内正面に丘が有りその向こうに御殿が有る。

正使などと違うので丘の階段を越える近道で案内された。

幸専(ゆきたか)は玄関まで出迎えたいのを広間で我慢している。

一通りの挨拶を受けると「ようよう来てくれることに為り嬉しく思う」と柔和な顔が満面の笑みに為った。

一人目は姫、二人目が年末に生まれると報告は受けている、後継ぎを儲ける不安は少ないと家中も期待しているのだ。

最初の養子の話は大和国郡山藩柳沢保光六男の光致だが、文化四年に大和柳生藩の当主俊豊(としとよ)と為った。

次の話は肥前国島原藩松平忠馮(ただより)の次男正廬(まさとも)だが常陸国下妻藩への養子が決まった。

「来年少将様御参府に合わせて養子縁組を正式にお届けと決まった。儂との参府に合わせるとお使いも頂いた。それでな気も早いが大殿のお許しも有り今日より深川下屋敷を住いとされる準備に入られるお心積りでお願いいたす」

「なんと、お気遣いありがたく存じ上げます。今日より義父として礼を尽くさせて頂き申し上げる」

内輪の固めの盃を交わした。

「大殿も待っておられるゆえ、遠回りより裏門からなら手近ゆえ、案内させよう」

松平定永は文化九年襲封して越中守、今年暇の前に従四位下左近衛権少将に任じられた。

先ほどの若侍が案内に立ち、崖の間の道を抜けて馬場へ出た。

若侍は矢澤監物と名乗った。

厩を遠目に見て崖下を抜けて一段高い裏門へ出た。

塀沿いを西へ行くと鉤手(曲尺手・かねんて)で南部坂下へ出る。

隠居屋敷で「御客人をご案内してまいった」と門番に注げて屋敷へ導いた。

正面の大玄関から書院へ導かれ、大殿へ紹介すると若侍は戻って行った。

「千十郎は殿のお気に入りじゃが、定栄殿が養子入りすれば藩の案内役に就けるそうじゃ」

「諸事無案内ゆえいろいろと指南していただくのは有難き幸せに存知あげます」

「噂以上に謙虚だな。雅姫が子供じゃ子供じゃと先延ばしだが来年は十六歳もう言い訳も聞き飽きた。そう思っていたら向こうからせかし出しおったわ」

次郎丸と大野は仰け反っている。

「どうした何を驚いている」

「いや、いや大殿。実は作春の事でございますが、我が藩の御使い番衆は婚儀が伸びるのは、姫様十二歳と聞いてまいりました。行き違いが有ったようで」

「ははん、あの常磐町の小娘、お主が子持ちと聞いて断るつもりで言わせたのじゃろう」

なんで気が変わったかと考えているようだ。

昨年、正廬(まさとも)、定栄(さだよし)二人は紅葉狩りと称し、ともに偶然を装って姫に引きあわされて会ったが、正廬(まさとも)はその後に下妻藩への養子が決まったと断りが来たという。

内実は断って貰ったようだが、どちらも口を噤んでいる。

次郎丸自分でも自信がないが正廬殿は恐れたようだ、それにやめますかと誰も聞いてこない。

「それよりも唐津殿が岡崎もしくは浜松に狙いを定めたようです」

奏者番への道はようやく見えて来たという。

「二歩、三歩先へ狙いを付けたか。厄介なご人じゃ。同じ六万石でも収入は半分以下だろうな。落ち度の罠へ嵌らねば良いが」

浜松の実高は十九万石有る様だと言われて久しい。

この時の唐津藩は水野忠邦が家督を継いで十年が経つ。

表高六万石だが実高二十五万石と言われている。

岡崎は本多忠顕が寛政二年養子に入り後を継いでいる。

五万石だが十万石格の名家で、実高は十九万石有る様だ。

宝暦十二年曾祖父忠任が唐津転封まで此処を領している。

「それはそうと深川の屋敷は手を入れぬと池が汚れてな。風情もない。殿は和歌の道は励んでも庭には興味が無いようじゃ。それでな定栄(さだよし)殿に住む前に手入れを押し付ける気じゃ。金は後押しが行ったはずだ。不足は出るだろうが年八百両が扶持される。貧乏藩ゆえそれでやりくりしてくれ」

それで上屋敷では 準備に入られるお心積り ”などやんわりと押し付けたようだ。

一学先生に寄れば寛政八年他家と切坪で屋敷地交換したという。

「さだが会いたいと首を長くしている茶室へ案内しよう」

大野は別間で老人たちに質問攻めにあうだろうと廊下から庭へ降りても笑いが止まらない。

さだ、は定姫さま、白川七代俊徳院様の姫君だ。

大殿幸弘様が茶室へ導いたが、お方様は年を感じさせない立ち居振る舞いだ。

「実母は国元の者と聞いたが」

「はは、そのとうりで御座る。中川家の出と聞き及んでおり申す」

「やはり縁でおじゃる。わが実母は岡田家の出で一族だと聞き及んでおるが聞いておるか」

「母が生前姉にそのように申したと最近知り申した」

「姉上がおじゃるか」

「婉姫と申しますが再婚したため寿子と名を改め申して御座る。越後村上内藤信敦様に継妻として再縁しもうし、二年前に男子が産まれ申した」

妹は四年前に十四歳で肥前平戸松浦家に嫁いだがまだ子供に恵まれていないという事も話した。

二人は知っているはずだが、初めてのように熱心に聞いてくれた。

矢澤監物がやってきたとお小姓が伝えに来た。

呼び入れると「殿の仰せでそれがしが深川屋敷御留守居樋口殿へ紹介せよと言いつかりましてございます」と二人へ申し上げた。

「今から行くと戻れなくなりそうだな」

「深川へ泊まれば済みます」

大分親しい口の利き様に変化したのを見逃す次郎丸でもない。

「旨い事言いおってどうせ下賤な物を食う(くらう)気であろう」

どうやら泥鰌に深川飯の事を大殿も知っているようだ。

「わしが手に入れた庭だ。定栄殿に手入れして貰えば生き返るだろう」

若しかして我が父はそれを見越しての国元の庭見物へ送り出すかと思った。

屋敷を辞去して南部坂を下りて榎坂を上って上屋敷を通り過ぎた。

白魚橋から弾正橋で白川藩の上屋敷へ入った。

冴木に今日の首尾と松代藩深川屋敷へ入る手はずを話しておいた。

監物がこれからの窓口だと紹介しておいた。

冴木は矢澤と聞いて顔色を変えた。

「どうした」

「若、こちらへ」

声の届かぬ庭の向こうの泉水で声を潜めた。

「矢澤と聞いて驚いたのは松代では無役席に矢澤家が有り、当代はまだ若年で幸専(ゆきたか)様近習と聞いております」

「ならば。そうであろう。大殿も親しげであった」

大袈裟だなと思ったが次郎丸が将来の主なら、一族である者を側近に今から就けるのは有って普通だ。

亀島橋で霊岸島へ出て一の橋の向こうに新川大神宮。

四日市町猪四郎の酒井屋で屋敷への連絡を付けて貰った。

大川端の豊海橋で永代橋西詰めへ出て大川を渡った。

橋の中ほどで石町の鐘が聞こえる。

「おい、大野。もう八つだぜ」

「どこぞで昼を食べますか」

監物が「佐賀町の稲荷小路に鮨屋が有りますよ」と言う。

「新子でも出ていないかな」

「まだ早いでしょう。小肌とは言いながらこのしろばかりですよ」

非番には相当出歩いているようだ。

「定栄(さだよし)様この付近歩きなれているようです」

次郎丸、最近定栄をさだながと読まれたりする、どうやら同名の人でも江戸にいるようだ。

「この先の仙台掘りに友人が昨年暮れまで居候していたんだ」

木戸を通ると川端の高札場が左に見える。

油掘りを下之橋で渡れば、自身番に火の見やぐら、佐賀町の稲荷小路入口の縄のれんの見世へ入った。

「こりゃわかさん二人お知り合いで」

「なんだ監物も、わかさんで通してるのか」

「今日から、此方は殿様でおいらは若さん」

監物は親父にそう告げた。

「どういう事です」

「おいらの御主人に為るからさ」

「御養子の口が決まったんですかい」

「その口のおいらは藩士だからこれからは家来に為るんだ」

裏で女たちが大騒ぎしている。

「なにが起きたんだ」

「新子が入ってひとりじゃさばききれないので、朝から近所の神さん総出でさばいてるんですよ」

明日は江戸中の小肌の鮨売りが新子を売りさばきに出るという。

「今日はまだ浸かってないのか」

「朝の分はもういけますぜ。小さい分二匹付で一口でさぁ」

三人新子の握り四貫に、煮はま、煮あなご、小鯵など食べて銀三匁、まだまだ鰻ほど銀(かね)は取れない。

表を鮨売りが“ しんこの到来で御座~~いぃ ”と声を響かせて通って行った。

「おい、親父もう出ているぜ」

「とのさま。こいつぁ参った。家の売り子は明日の卯の刻から出すと言って有るんでね」

「このしろと同じで出すのか」

表で「このしろ、小肌は八文、新子四匹付けで十二文」と客へ告げている。

「あいつ鮨屋の前でいい気なもんだ」

この付近大川に沿って倉が並び干鰯問屋、米問屋、油問屋も数多い。

女将が裏から出てきて「家のも暮れる前に幾らかでも稼ぎにだしたらどうだい」と親父に言っている。

「よし来た米を三升余分に炊くことにしな。その位は漬かってるはずだ。売り子に特別だ一つ六文出すと言うんだぜ」

見ていると酢飯を握って箱へ並べている、若い衆がそこへ酢から取り出した小肌を布で挟んで酢を切ると四匹ずつ丁寧に乗せてゆく、ひと箱終わると親父が酢水で洗った手でもう一度握ってゆく。

三人手際が面白くて三十分ほど見ていてようやく腰を上げた。

「毎度おおきに」の声に送られて路地奥から豊島橋南から千鳥橋へ向かった。

上げ潮時か油掘りは大川から流れ込んできていた。

松平織部正の屋敷に沿って進んだ。

織部正は松平正敬(まさかた)上総大多喜藩二万石を六年前の文化五年に十五歳で相続した。

上屋敷は駿河台に有る。

北門に御小屋が有り監物が声を掛けると覗いて「すぐに開けますので」と声がする。

門内の板塀に沿って進むと細い水路に石橋が置かれている。

「油掘りに続いており申す。潮の満ち引きで流れが変わり申す」

左手の木戸から老人が顔を出した。

「樋口与五右衛門で御座る」

「松平定栄(さだよし)である。これよりのちこの屋敷の差配を任されてきた。詳細は樋口殿に任せる故、どのように庭を維持するか、意見が有れば矢澤殿へ申すように」

「直にはなりませぬか」

「此処へ移るにはまだ先に為る。今は両国広小路薬研掘り元矢之倉に屋敷が有る。それでも良いが、監物はどう思う」

「近習は次の者が決まっておりますので近々此方へ三日に一度は参ります。その際定栄様お屋敷へ参上しますので樋口殿のやりやすいように致しましょう。お小屋に余裕が出るまで近くに住んでも良いのだが」

「とりあえず一廻りだ」

木戸から庭へ入ると大きな池が有る、家屋は元矢之倉と変わりないようだ。

「幾人詰めて居る」

樋口は帳面を出して確認しながら答えた。

「物頭一名、広間席一名、新番席一名、足軽三名、中間八名、これで十四名。家族は十六名がおり申す」

三十人の内二十四人が屋敷内に住んでいるという。

「庭師が一家出入りしており申す」

「池の水手は如何に」

「十五間川と海辺の間の西横川から引き入れて居り申す」

此の池はほぼ海の水だという。

「ほぼという事は湧水も有るのか」

「島の鎮守辯天の裏から湧水が有り申す。飲用は禁止されており申すが真水で御座る」

十五間川は通称油掘、西横川は油堀西横川だ、其処から十間に一間半ほどの水路が有るという。

小山の向こう南側に有る水門を見に行った、水路の向こうは深川富吉町だと言う。

与五右衛門は門から出て路地を抜けると正源寺が有り、初代団十郎の墓が有ると教えてくれた。

「様子を見て水位の調節をいたします、船は猪牙が出入りでき申す」

「屋根は入れないか」

「引潮に合わせれば出来もうすが」

「まず上げ潮で屋根が入れるように此処から手を付けよう。わしはひと月ほど国元へ墓参故、予算は矢澤殿へ伝えるよう」

「かしこまり申した」

次郎丸自然と監物と呼んだり、人には矢澤殿と使い分けている。

池を跨ぐ橋は問題ないようだ、北東隅に稲荷が有る。

「此処も宮大工に見せて予算を立てるように」

「かしこまり申した」

与五右衛門は手控えに書き加えた。

ほぼ一回り半刻ほど掛かった。

橋で島へ渡ると辯天の社が有る、社は良い造りだが鳥居がまずい。

「ここは鳥居を新しくするように、それと考えたが修理費用はわしの方で出すので上屋敷へ請求せずとよい。屋敷を教えるので出られるなら付いて参られい」

次郎丸歩くのに飽きて船で戻るつもりだ。

千鳥橋から豊島橋で今川町へ出た。

さわや ”で往復だよと猪牙を頼み、二人船頭で大川を上へ横切り両国橋手前の薬研掘りへ、雁木で船頭に「船で戻らせる」と待たせておいた。

四人で屋敷へ帰って、家族へ二人を紹介した。

つかさ ”はもの怖じもせず二人へ「父上をよろしく頼みまする」と言って乳母と“ なほ ”に連れられ下がって行った。

とよに切り餅二つ出させ「これで稲荷や水門の費用に充てるように。矢澤殿が承認すれば仕事に入るように頼む」と手渡した。

大野が「矢澤殿と打ち合わせもしたいので此方へ泊まることにしてくだされ」というので樋口は帰すことにして弥助に船まで送らせた。

弥助は船頭に「こいつは待たせた分だ」と豆板銀二つ手渡した。

文化十一年四月十三日(181461日)・江戸元矢之倉屋敷

朝早くに監物は食事が済むと上屋敷へ戻って行った。

幸八と藤五郎が辰(六時三十分頃)に遣って来た。

「真田様のお屋敷はだいぶ遠く感じましたぜ」

「馴れてないからさ。わずか二里もねえよ。それに婿入りしても向こうへは住まないぜ」

「ここで良いんですか」

「藤五郎馬鹿言うなよ。ここは白川様の抱え屋敷だ」

幸八に言われている。

次郎丸は深川下屋敷と言われたと伝えた。

「四郎の居候していた“ さわや ”から三丁程海寄りだ。永代橋の東っ側だ」

兄いが遣ってきたのはすぐその後だ。

とよに部屋へ来てもらった。

「食野(めしの)の分」

そういって笈摺(おいずる)から切り餅を四つ積み上げた。

「茨木屋のご隠居の分は重いのでどうします」

十貫の銀(かね)を運び込まれてもとよが苦労するだけだ。

とよは「何両になるかねえ」と首をかしげた、とっさに思いつかない様だ。

普通一貫を越せば持ち歩くにも不便だ。

「一貫が十五両と四十匁、十倍で百五十六両十六匁ですぜ」

そう言って手品のようにまた笈摺(おいずる)から六つの切り餅を出した。

「六両は小判でと」

言いながら巾着から豆板銀十六枚と小判五枚の包みに沿えて一両を出した。

「この分は若さんの道中懐金にしましょ」

とよは小判と豆板銀を次郎丸へ渡した。

兄いが銭五の分は猪四郎が持ってきますと、とよに告げた。

そんなに兄いたちは買い物したのととよは驚いている。

「若さまが旅に出れば銀(かね)を吸い寄せるなら、国元入りの金策は上首尾さね」

八田の残り二十五両に兄いの持ってきた二百五十両、猪四郎が立替える二百両、これで屋敷地を買い取る五百両の目途が付いた。

兄いは幸八たちに此処に居ろよと告げて「一仕事片づけてきます」と出て行った。

忠兵衛が鯨と上背は有るが粋な女を連れてやってきた。

子供を見せたいがまだ一歳に成らないので乳母とおっか様に預けて来たという。

「昨年十二月十日に生まれました」

七代目鯨組醍醐新兵衛まだ二十歳に成るかならずだ、初代(はつよ)は四歳年上だと云う。

初代(はつよ)は なほ ”と“ つかさ ”に目通りして深川の土地の事を切り出した。

「おっか様と相談して三千百五十坪の土地券を持参しました。値段は五百両ぽっきり」

四枚の土地券が有る、四百坪一枚、五百坪一枚。六百坪一枚に千六百五十坪一枚だ。

丁寧に東上六百坪、東下四百坪、中上東五百坪、中下千六百五十坪とある。

「此の上、下は北に南の事だそうです。ここに無い中上西は伯隆屋敷、深川三左衛門様の土地だそうです。御薬園がこれらの土地の東側に有るそうですよ」

御薬園との間がサカマチだと新平が口を添えた。

「西っ側は佃町が上の大島川沿い、下は海辺新田」

「そいつはお前やおっかさんがいたころの話だろ」

「変わっちゃいませんよ」

ふくれてみせた。

「さて殿は何処がお気に召すかな。買い取って旅から戻るまで焦らすか」

「東の上下で千坪が使いやすいですぜ。秋葉大権現が有りますから防火にゃぴったりだ」

とよが切り餅二十個を玄太夫に甲子郎の二人へ持たせてきた。

醍醐新兵衛こと新平がこいつはおっかさんの銀(かね)だがと言って持ってきた大きめの箱から切り餅四つ出して「御養子の本決まりのご祝儀」と贔屓役者へでも渡すように寄越した。

空いた箱に五百両を入れ、笈摺(おいずる)に仕舞い込んだ。

大野は「入るのも大きいが出るのも大きい」とまいっている。

初代(はつよ)はほっと息を吐いた。

「大きい事言いましたが安心しました。家の旦那は勝山を出るとき、藩庁へは此方様へ売ったと届を出したんですよ。おまけに気が利くじゃ有りませんか番頭連れてきて藩の御屋敷へも届けに行かせたんですよ」

二人は今晩のおしょくり(押送船)で戻るという。

鯨組から買い物に番頭など五人連れてきているのだという。

「そろそろ鯨が寄りますからね。何かと買い物が増えまさぁ」

忠兵衛が一分判を二十枚二包と別に南鐐二朱銀五枚をとよに渡した。

「南鐐二朱銀一枚と八文で済みました、団子代もほとんど手づかずで有難く頂戴します」

帰りは新平の仕立てで銀(かね)が出なかったという。

とよは受け取りと合わせ「自分の分を減らすこたぁないよ」と八文を渡した。

猪四郎とお由夫婦が王子の卵焼きとやってきた。

手土産と言うより屋敷中で食べても良い位、供に背をわせて来た。

猪四郎は供に何か言いつけて家へ帰した。

「よくこんなに朝から間に合ったわね」

「一昨日約束して今朝の辰に引き取らせてきましたのさ」

店に言って三十八に切り分けて来たという。

「なんでその数なの」

なほ ”は不思議そうだ。

「まずは御茶請けで一人一切れ、何時もの倍はありますよ。二十三はお屋敷の人の分。お客が多いでしょうが残りが十五有れば“ なほ ”様にも後でもう一切れは回るでしようとね。そろそろ甘いものも制限される時期でしょうから」

次郎丸は「土産の羊羹を食べ終わったら甘いものは十日に一度。ちょっぴり許さにゃ怒りだす」と指でつまむ振りをした。

深川の話で新平と猪四郎たちは盛り上がっている。

「白川のいまの殿様も越中守さま、土地が越中島は面白いと。爺様が喜んでね何としても若さんに買わせろと後ろで煽るんですぜ」

越中島は旗本榊原越中守照清が埋め立てを行い、屋敷地として賜ったことによる。

やがて川浚いの土砂捨て場になり東へ土地は伸びて行った。

享保十七年の火災で被災した黒船稲荷が越中島石置き場の東側に移ってきた。

瑞運寺の秋葉大権現は栃尾の常安寺から勧請し、遠州秋葉山からではない。

八十年ほど前寛保二年、瑞運寺秋葉大権現出開帳は遠州秋葉山から差し止め要求が出されるほど人気が有った。

幕府の裁定は遠州秋葉山今根元、栃尾常安寺古来之根元と両方をたてた。

新平から買い取った土地は西が深川ツクダマチ、東はサカマチまで。

白川藩との間に入ったものは此処が五等分されていたことを知らずにいたのだろうか。

伯隆屋敷以外の土地、表立っての持ち主は安房勝山藩に為るようだ。

拝領地ではないので大名間での売り買いは度々起こる。

享保四年に佃町は佃島島民の困窮を訴え、助成地として認められている。

富代が美代を連れてきた。

「小肌の鮨売りが来てるんですが、新子は割増しで十二文だというんですよ」

次郎丸が「飯台一つ買い切れよ。小肌コノシロ入れて別にもうひと箱」と南鐐二朱銀を出して「足りない分は台所持ちだ」と大笑いだ。

「新子で二箱買えたら買いましょ」

富代は美代をせかして出て行った。

大野までうずうずと笑っている。

「わかさん。もう食いなすったね」

猪四郎は勘が鋭い。

「昨日の事だ。深川佐賀町の稲荷小路の鮨屋で四貫ほどつまんだ、小肌売りが向こうじゃ夕刻には回っていた」

大きさは早鮨の二尾のせ握り四貫で小肌売りの一貫に近い。

卵焼き一切れと新子の握り一貫、大根の浅漬け、蜆の味噌汁。

台所から運んでいる最中に新兵衛兄いが戻って来た。

「俺の分は」

「大丈夫足りますよ」

史代がまだ幼い声で答えている。

史代は次郎丸が留守の間に雇い入れていて、まだ十三歳だという。

富代に「いくつ買ったんだよ」と聞いている。

「新子は三十四貫、小肌が二十四貫」

何時もの家に向かうと後からも押しかけてきたので割り振ったという。

それぞれの家の人数分の新子をまず別けた、皆は富代に世話になることが多いので無理押しはしてこない。

新子は五箱有ったという、別けていたら一人二つに十二足りないというので富代が「家は人数多いからその分入れなくていいよ。その替わり小肌はひと箱買わせてもらうよ」と一歩引いたので丸く収まった。

売り子の若い衆は「すっからかんでもう一度売りに回るようだ」と戻ったという。

屋敷に二十三人、お客様七人、足りないと困るが大食いが四ったりもいるから残る事は無いと言う。

鉄之助が新之丞と中年の無骨な武士を伴ってきた。

「昼を召し上がります」

とよに聞かれて「出してもろうよ」と答えた。

「お頭が一番指印に為られたお祝いと、養子の本決まりのお祝い」

新之丞が大野に木箱を差し出した。

「重い」

持とうとして焦ったようだ。

「新之丞は五人力と評判ですからの」

幾ら有るんだと次郎丸は遠慮がない。

切り餅十六だと鉄之助が言う、一分判で四百両に為り重さは一貫四百近く有るだろう。

大野がようよう銀(かね)を持って下がると連れの武士を一同へ紹介した。

「中奥番を相勤めまする松平定朝(さだとも)ともうす。定栄(さだよし)様にはおめでたが続きますようで宜しうござる」

「もしか花菖蒲の松平殿」

「ばれておりますのか」

「昨日養子入りについて、住む様に言われた松代藩深川屋敷を観に参った。池が有るが海の水を引いているというのでアヤメ、花菖蒲は無理筋かと松代の者と話した時、名をお聞きしたばかりで御座る」

「左金吾の事は甚助も気に入っておるが、上様にも武芸の方で気に入れられて忙しいのに花菖蒲の方で名が高まりおった」

先代の左金吾も花菖蒲の愛好者だ。

筒組(鉄砲組)もそうだが、百人組の躑躅(つつじ)など花卉栽培で名をはせる家が多い。

「海水の濃度が高いと花菖蒲は無理でしょうか」

「いくつか試す方法も有ります。庭が広ければ真水から汽水域へ段を付けて試すのも良いでしょう」

「池の中に島が有りそこに真水が湧いておりました」

「なればその水で島に池を作ればよろしかろう」

「面白い、池中の島に池とは、有りがたき御言葉活路が開かれ申した」

鉄爺は「躑躅は当分金四郎に手伝わせればいいだろう」と言い出した。

「嫁の実家の足軽でも通って貰いますか」

「百人町からは遠いな」

「十日に一度くらい泊まり込みなら頼みやすそうですね」

「左金吾も人を送ってみて呉れぬか。汽水域に強ければその種を欲しがるものは多いはずだ」

「庭師にも従うように言いつけますので是非ご指導をお願い申す」

「わかり申した。非番の日で都合が付けば一度見に行きましょう」

「われは国元へ母の墓参でしばらく留守だが大野が心得ており申す」

「はっ、監物殿とも連絡を密にしてよき庭を造らせて頂きます」

大野は監物と気が合うようだ。

余談

松代真田藩

深川下屋敷は寛政八年(1796年)に谷中三崎の土地と切坪相対替えしている。

上屋敷は少ない資料を読み解くと絵図で確認できない部分もあった。

↓初代信之-明暦元年(1655年)に麻布台今井(東京都港区)。

↓三代幸道-寛文十二年(1672年)に、桜田(港区)移転。

・貞享二年(1686年)桜田上屋敷召し上げ。

1686年~1688年の間が不明。

↓元禄元年(1688年)に溜池上(ためいけうえ・端)(港区)。

↓元禄元年八月に麻布谷町上屋敷拝領。

↓八代幸貫-天保十二年(1841年)大名小路間部下総守屋敷拝領・谷町上屋敷戸田采女正へ。

↓八代幸貫-弘化元年(1844年)・水野忠邦・毛利慶親中屋敷拝領-外桜田新し橋北。

・天保御江戸大絵図天保十四年(1843年)再板改正-外桜田新し橋北。

・弘化改正御江戸大絵図(弘化二年・1845年)-外桜田新し橋北。

以降の嘉永外桜田永田町絵図・万延元年外桜田永田町絵図・安政六年外櫻田絵図も同じ場所に有る。

左金吾事松平定朝は先に辞去した。

新之丞は幕府職制に詳しい、先手頭は先手弓頭と先手鉄砲頭が有る。

この頃は弓組十組と筒組(鉄砲組)二十組、合わせて三十組。

各組には組頭一騎、与力十騎、同心三十人大きな組は五十人配属される。

「定朝様の父上定寅様も左金吾を称し先手鉄砲組八番組頭を拝命し、二度加役として盗賊改めを務めました」

「代々花菖蒲を」

「左様でございます。筒組は結とは出入り商人を通じて付き合いが有る程度でしたが、有徳院様の頃より相互に連絡人を立てています」

「それで今は左金吾殿が繋役と」

「左様でございます」

鉄砲方とは別な仕組み、百人組も別組織。

鉄砲方は修理、技の伝承、教授が任務に為る。

百人組は元々伊賀・甲賀・根来から選抜されていて、二十五騎組が増えて四組が有る。

平時大手三之門詰め(百人番所)、箱番所、同心番所に勤務、将軍家御成り警備に動員されるほかは目立っていない。

伊賀組の広い屋敷内で始めた躑躅は有名で需要に追い付かぬほど盛況だ。

頭は布衣、役高三千石役料五百俵が付与(役料は時代によって変動)、与力二十騎、同心百人。

「二十五騎組は言葉とおりに与力二十五騎配属されています」

「与力でも裕福ではないと聞いたが」

「役高八十石、同心は役高三十俵二人扶持ですが根来衆は役高三十俵三人扶持とわずかですが優遇されています」

伊賀百人組が青山百人丁に与力、目白台に同心屋敷。

甲賀百人組が青山甲賀町、大久保番衆町に与力十騎。

根来百人組は牛込高田通根来町、市ヶ谷本村谷町。

二十五騎組は内藤新宿に与力屋敷、角筈、大久保百人町に同心屋敷。

二十五騎組の同心屋敷は間口十間に奥行きが二百間有るという。

同心の内職は死活問題だ、大久保の躑躅(つつじ)、内藤新宿の花卉、牛込の提灯、青山の傘張り、春慶塗は業者も有難がる高級品だ。

青山周辺に傘の卸業者が二十軒は有るという。

「内藤新宿といやぁ唐辛子も有名だな」

「あれは高遠藩から始まったものですよ。畑地も増えて内藤様下屋敷産は本家だと言わずとも高値で売れるそうです」

鉄砲組についてもいろいろ知っていた。

組織がばらばらでまとめ役の若年寄が把握しているかがよく解らないという。

「実は結が恐れるのは沼津様です。若年寄から側用人に為られて二年。吉田の松平様の後は自分だと奥への運動は唐津様以上だそうです」

「それで大奥の景気が良いのか」

「生糸、真綿の取引規制が緩やかになるのは良いのですが、またぞろ寺社への寄進が増えています」

「賂が町へ流れず、寺方へ流れてしまうのはまずいな」

「でも奥もしたたかですね。側用人、奏者番に権力あるように操作しておこぼれを待つ雛鳥を装っています。峰姫様は鎮子さま以来の御輿入れですので御仕度で大きな銀(かね)が動いています」

「唐橋が付いていくのだろ。一目見ただけで恋い焦がれた大名の話を聞いたぜ」

「そうらしいですが、京女に弱い人は多いですね。水戸は借銭が減る代わりにいろいろ無理を言われそうです」

「九万両棒引きと噂だぜ」

「決まったそうです、化粧料が毎年一万両付くそうです」

「小石川に大奥の別れが出来たら、出入り商人が喜ぶか泣かされるか、かじ取りが難しそうだ」

峰姫十五歳、母はお登勢の方、弟に治宝(はるとみ)様が望む八男斉順様がいる。

鎮子さまとは長女淑姫、尾張徳川家斉朝に十五年前十一歳で嫁いでいる。

遠山の一家が四人の武士を伴ってきた。

先客はそれぞれの宿、家へ引き取って行った。

実父遠山景晋、養父遠山景善に金四郎。

金四郎の義兄に為る堀田伊勢守一知が代表して口上を述べた。

「若年寄有馬誉純へ婚儀の届も無事終わりました。お手伝い頂き一同有りがたき幸せと存ずる。定栄(さだよし)様御養子も後は届け出だけと聞き申した」

その後普段一堂に会すのも珍しいという三人を紹介した。

「甲賀百人組頭本田主馬殿、今月に入り就任致され申した。伊賀百人組頭池田甲斐守殿、十月前に組頭に為られ申した。根来百人組頭大久保玄蕃殿、この中では古手で五年目に入り申した」

一同は有馬様から「顔を覚えて貰うように」と言われたという。

「堀田殿は幾年に相成られる」

「定栄様、儂は二十五騎百人組頭に為って来月で三年目に入る。同心に手伝ってもらって躑躅を増やしてしまった」

此の猛者たちに囲まれて金四郎めかしこまって小さくなっている。

四人のてっぽ組のお頭が去り遠山親子も去り金四郎だけ残った。

なほ ”が遣って来た、婚儀の日にちを訊ねている。

「さてお祝いはどうしましょう」

「抱え屋敷でも儀兵衛か猪四郎に貸してもらうか」

「義父がもう借りています。赤坂新町だそうです。氷川明神まで三丁程だと聞きました」

「部屋住みじゃ銀(かね)の出どこが無いな」

「義父が月三両、嫁につけて呉れます」

「腰元は兎も角、女中を三人ほどに、中間二人の五人で月十両は出ていくわ」

なほ ”さまの読みは鋭いですね。父は月十両でやりくりしろと言います」

「四千石の御姫様に内職は無理だな」

「道場と学問所へ通えば内職どこでは有りませんよ」

「結はどうなった」

「婚姻後に未雨(みゆう)さんの手引きで入れるそうです」

「家が義父持ち、実家が十両、結で料理番を持ってもらえば後五両くらいだな」

「三両は」

「それを嫁さんが貯めれば後で必要な時役に立つ」

「嫁さんが金庫番嫌がったら」

何時の間にそんな心配性になったのと笑われている。

「明日は見送りにきませんよ」

そういって露月町へ戻って行った。

大野に東上六百坪、東下四百坪の地権を預けた。

「明日の朝お上屋敷へ届けてくれ。あとの土地は秋葉大権現に寺を挟んで五百坪と千六百五十坪だと話しておくんだ」

「欲しがったらどうします」

「買い手がいるが競りますかと言えばよい」

お相手の見込みはと聞かれた。

「大隅守殿に話してみるさ。兄上が抱え屋敷が必要だというので先年探していた」

大隅守は亀井茲尚(これなお)二十九歳、兄は亀井矩賢(のりかた)四年前に弟の茲尚を養子にしている。

石見津和野四万六千石、ご多分に漏れず藩の財政は逼迫している。

 
 

 第七十八回-和信伝-拾漆 ・ 2024-07-10

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記