花音伝説 | ||||
第一部-富察花音の霊 | ||||
第一回-王府 | 第二回-西二所-1 | 第三回-西二所-2 | 第四回-西二所-3 | 豊紳府00-3-01-Fengšenhu |
第五回-六宮-1 | 第六回-六宮-2 | 第七回-富察皇后 | 阿井一矢 | 公主館00-3-01-gurunigungju |
富察花音(ファーインHuā yīn)
康熙五十二年十一月十八日(1714年1月4日)癸巳-誕生。 |
西六宮 平面図 |
東六宮 平面図 |
第一回-王府 雍正三年九月十一日(1725年10月16日)乙巳 十三歳の富察花音(ファーイン)と高綏蓮(スイリン)十五歳は内務府に選秀され、十五歳になった弘暦の住む毓慶宮(イーチンゴン)へ使女として配属された。 翌日、四阿哥への挨拶が済むと、阿公の首領太監と姑姑がついて雍親王府(弘暦(フンリ)誕生地)へ行くため、毓慶宮(イーチンゴン)の裏門から出て一度内務府で荷物を受け取り、昭華門から蒼震門へ、東筒子へ出ると北五所の北側から神武門を通れば、そこから女の足では半刻では着けないと聞かされた。 姑姑は皇帝から直に雍親王府を弘暦(フンリ)が与えられると、掌事宮女として配属されたそうだ。 選秀の仲間も「最初から楽そうね」と奴婢としてきつい仕事に回された仲間もいる中、高綏蓮(スイリン)は「使女なんて奴婢と名前の差だけよ」と不満顔だ。 王府は門は寂れていたが中は整備された花園があり、三人の太監が枯れた葉の掃除をしている。 大きい屋敷と聞いたが、花音(ファーイン)にはそれほどとは思えない広さに感じた。 阿公(アゴン)はもう十五年も弘暦に仕えていて、最初から名前の呉智雷(ンヂレイ)と呼ばれたことがないそうだが、まだ四十五だという割に老けて見える。 「ということは四阿哥の産まれた時から阿公なの」 「そういうことだ、奴婢たちすべてが小雷子(シャオレイズゥ)なんて呼ばれていた事さえ覚えちゃいない」 「いつの頃の話なの」 「そうさな最後に言われたのが二十年以上前だったかな」 「いつ頃紫禁城に」 「富察花音(フチャファーイン)」と言うと口に指をあて「内緒」と言って両目を瞬きした。 口数は少なく弘暦(フンリ)一筋に務めるのがすべての様にファーインには思えるのだ。 最初に氏素性を阿公が聞き取り、札に書きいれたので、姑姑は公孫静麗(ジンリ)という名だと分かった。 王府に居る太監は三人の前で順に名前を教えて呉れたが、見極めが難しいくらい似ている。 姑姑は誰もがググと呼びかけていた、ファーインの田舎ではグーグーと父親の姉(伯母)を呼んでいた。 屋敷の奥の塀の向こうでは、立派な建物が建築中で、働く職人が大勢出入りしていた。 太監の小閔子(シャオミィンズゥ)がいうにはお寺、それもラマのためのだそうだ。 「トゥケン・フトクトゥというお方で、なんども転生されているそうだ」 もっと話して居たそうだったが、阿公がやってきて話しは「これから庭の手入れについて花音(ファーイン)の指示に従う事」と言いつけられた。 「奴才明白」ファーインの田舎とは少し違い「ノゥサイミンバイ」と言っている、田舎では「ヌゥーツァイミンバァイ」だった。 姑姑がファーインが部屋で刺繍をするそばで、枕作りの手仕事をしながらいろいろと教えてくれた。 「使女は体力勝負よ」 そのように言って柔軟に体が動くようにと、足と背中をくつろげる動きを教えてくれ、姑姑(グーグー)は父親の姉妹だけど、咕咕(グーグー)でお腹やハトが泣くとき(鳴く)なんだと、真似をして笑わせてくれた。 公公婆婆(ゴンゴンポーポー)は鳩の声じゃないなんてことを、午後いっぱい使って話した。 「手やお腹はやらなくても好いの」 「掃除に手仕事で十分、綏蓮(スイリン)のように毎日のように時間があれば琴や胡弓をするのもいいけど、ファーインあなたは好きじゃないみたいね」 「習字に絵を描くこと、それと裁縫に刺繍、後は木登り位」 「まぁ、よく繡坊宮女に取られなかったわね」 「希望はと聞かれたとき繡坊と伝えたのですが、試験から外されたんです」 「そんなことできるの」 「字を書かされて、それだけで此方へと言われて」 「誰か伝でもあったの」 「富察と云っても兄が田舎の正黃旗で親戚で出世しても、佐領に成った人がいるくらい、紫禁城には誰もいません。兄弟も武術に乗馬は上手くないし、学問も田舎の教師位が関の山」 「家族の悪口は厳禁よ、首領太監の後ろ盾でもあればいいのにね。阿公になってもらいなさいよ。あなたが出世すれば阿公は隠居しても極楽よ」 「私みたいな小娘の後ろ盾ですか。迷惑じゃないですかね」 「遠慮してたら年季明けまで使女のままよ。せめて掌事宮女くらいにはならないとつらいわよ」 姑姑は色々聞きだしてファーインの頭の程度を調べているようだ。 雍正帝は庭作りが趣味でこの時も円明園にいて、弘暦と一緒に同年生まれの弟弘晝が雍正帝から菊の自慢話を聞かされていた。 十一月十一日、父親の雍正帝からの一言で弘暦の生活は桁違いに待遇がよくなり、花音(ファーイン)と綏蓮(スイリン)は王府へ使えて(仕えて)ふた月もたたずに格格となり、新たに六人の使女と六人の太監が配属されてきた。 阿公は喜んで花音(ファーイン)の足りない装飾品を集めてきた。 「こんなに買い取るお金などないわ。まだお手当も月に銀十五両よ。二人も使女が付いてあの娘たちも給付だけでは可愛そうですもの」 「馬鹿言うな、姑姑にも言われただろ、すべて出世払いで好いよ」 「じゃ帳面でも作らないと駄目ね」と言うと笑って「気は心、壱拾倍にも百倍にでもなるように期待してるよ」と笑い出した。 「ワァ、欲深ね」 「そういうことだよ。返すのは早くて拾年で好いさ。拾年後に弐拾年後を期待してるよ。老公の隠居所で偉ぶって過ごしたいからね。それまでは欲しいものは四阿哥じゃなくてこっちに言うんだよ」 二人にそれぞれ二人の使女が与えられ、弘暦(フンリ)の身の回りの世話だけでよくなり、それも使女が支度をしてくれる。 料理番も贅沢に三人やってきて五人になり、王府は二十五人を超す人で賑やかになった。 スイリンの容姿は十五歳とは思えぬ細身で柳腰、身のこなしは軽く、弘暦のお気に入りで、スイリンは実家の妹たちに自慢しているそうだ。 ファーインはどちらかというと、ふっくらとして立ち振る舞いが田舎臭い。 スイリンの琴に胡弓の腕は教える先生が「もう後は自分で」というほどだと二人の使女までが、わが事のように自慢している。 そういえば此処何日か先生が来ない日が続いている。 ファーインは書に絵、さらに刺繡の腕がよく、普通なら内務府に配属されるはずが、誰の推薦か毓慶宮(イーチンゴン)へ配属され、その後王府に仕えることになった。 格格になった時でも田舎の両親からは吃驚したと手紙が来たほどで、容姿は人並以下だと花音(ファーイン)自身は思いこんでいる。 のちに九尾狐が内務府を観てみると、スイリンの親族が内務府にいて「この程度ならスイリンの奴婢に丁度いい」と先読みしたそうだが「まさか格格にするとは予想外だ」とスイリンがファーインを下に見ていたのもそのせいだった。 親族の期待を背負いスイリンは弘暦の気に入る事ばかり倣い、使女の二人もファーインとその使女を自分たちの用事までさせて居る。 姑姑と気が合うファーインは、姑姑に指導され、二月もたつと使女に太監たちを上手に使いこなせるようになってきた。 阿公のひと睨みで使いに来る偉ぶっている太監もへこへこしている。 「奴の弱みを知っているんだ」 王府の太監たちにそういうが、その後「俺の睨みが効いてるからと、お前たちが偉ぶると四阿哥に迷惑だから、特に内務府の太監には気にいって貰えるように諂うんだ」そういう処世術も教えている。 太監の小閔子(シャオミィンズゥ)は四阿哥が関玉(グァンユゥ)という名を与えて阿公の代理で動けるようにした。 「関羽の関と俺の宝となれるように玉だ。磨けば光ることができる様に名前負けしてくれるな」 師匠の鴛鵬がやってきて阿公に礼を言っている。 姑姑が「鴛鵬公公の師匠が智雷公公でその師匠が雷鴛公公だよ」そう教えて呉れた。 鴛鵬公公は配下を引き連れて時々来るが、雷鴛公公はめったに人前に出ないそうだ。 「字ずらが似ていて閔(ミン)と関(グゥアン)を書き間違えそう」 「雲長様の事なんだ間違えっこないよ。だけど花音(ファーイン)は訛りが無くならないね」 関羽(グァンユゥ)の事を知らないと言えるのは京城に住んでて居ないはず。 四阿哥は関羽と同じ響きの名前を与えるということは、将来性を見込んで自分の手足にしたい様だ。 後で寝物語に四阿哥はファーインに教えた。 阿公が強力に「四阿哥の手足となる首領太監が必要」と自分は歳をとるばかりだと勧めたそうだ。 「グァンユゥ公公」と呼びかけたら真っ赤になって「揶揄わないでくださいよ。ファーイン娘娘、何か御用でも」とまだ恥ずかしいほうが先立つ様だ。 この間までファーインメイメイだったのをわざわざ娘娘と返してきた。 庭の手入れの割り振りを誰が担当するか、新しい人をまだ決めていないからというと「噂では西二所へ移ると如意館で噂が出ているそうです。それが本当ならその後決めることで、此処では私へ申し付けてください」と言うのだ。 「誰から聞いたの」 「私にも弟子ができまして、まだ七歳の侍童で顔合わせの時です、その小鵬子(シャオパァンズゥ)が聞いたと言っています」 「その子はいつからくるの」 「如意館に拾人ほどが今しつけの勉強で内務府で預かっていますので、近々としかわかりません。早耳は役に立ちますが、話半分がいい処としつけるつもりです。噂を鵜呑みにするのは危険です。ファーイン様もあちら様にはお気を付けください」 名前を付けるのに「鵬」を付けたのは自分の師匠を敬わる為の様だ。 雍正五年一月一日(1727年1月22日) 冬はお使いというと逃げている綏蓮(スイリン)も春が来て暖かくなると出歩く日が多くなる。 「啓蟄が過ぎて出てくる蛙みたい」 姑姑はこっそりファーインに耳打ちする。 「なんでだろう。私がスイリンを好かないからか、彼方様も突っかかる事が多いわ」 「姑姑のせいじゃないわ。スイリンは内務府で会った時から高慢ちきで友達なんていらないと云う顔してたわ」 最近のファーインは姑姑とは友達付き合い。 啓蟄-雍正五年二月十四日(1727年3月6日) 姑姑は王府の掌事宮女。 格格の指導に太監と使女の管理が仕事。 だから本来は先生、でもスイリンは奴婢扱いしてるから皆に好かれない。 スイリンの使女も主児(チャールZhǔ ér)が絶対此処の主って思ってる。 多少のわがままは四阿哥も見逃してくれる。 「我儘娘が好きなんだよ」 阿公がファーインも少しは我儘を言えばいいなんて言ってくる。 天気のいい日はファーインが庭で草木を写生していると、スイリンは「四阿哥の用事だから」と着飾ってさっさと鈕祜禄氏(ニオフル)の景仁宮(ジンレンゴン)へ出かけるので、早くても二刻は帰れない。 ファーインも写生は中断して王府の手入れを残った太監達とすることになる。 手を休めることが嫌いなファーインについている使女の二人も、体を動かすのが楽しくなったようだ。 二人とも京城育ちで紫禁城をまじかに見て育ったそうだ。 父親の高斌が出世するのも高綏蓮(スイリン)の寵愛とのうわさに「父のおかげで楽ができる」と父親を敬うので弘暦(フンリ)もご機嫌だ。 フンリがファーインに象棋(シャンチー)を覚えろと暇を見つけては相手をさせる様になった。 「スイリンに言うと機嫌が悪くなるのでファーインが覚えてくれ。ファーインのほうが覚えがよさそうだ」と煽てられれば覚えるほかない。 「龍士先生の血涙篇は兄が持っていて読んだので、囲碁なら置けるくらいは」 「シャンチーを覚えたいのでしばらく我慢しろ」 こっそりと象棋(シャンチー)の指導書を手に入れて読むことにした。 二年早く生まれた弘暦(フンリ)は田舎育ちのファーインから見れば村の兄貴たちより随分と大人びている。 スイリンには女性の魅力を感じても、ファーインには遊び相手くらいにしか感じていないようだ。 雍正五年三月二十七日(1727年5月17日)丁未 兄のフンリに先立ち、五阿哥弘晝(ホンヂォウ)の嫡福晋に呉礼庫氏が選ばれた。 |
|||||||||||||||
第二回-西二所-1 雍正五年六月十二日(1727年7月30日)丁未 八旗選秀で嫡福晋、側福晋、格格を選ぶことになったのだが、鍾粋宮(ユンツイゴン)の皇后輝發那拉氏が望んでいた輝發那拉氏(ホイファナラ)の一族には参加してくる者が無かった。 雍正五年六月二十八日(1727年8月15日)丁未 弘暦は花音(ファーイン)に新しく選ばれる格格の取り締まりを命じた。 「私がですか、スイリンのほうが年も上ですよ」 「困ると駄々を捏ねるのが落ちだから、ファーインが先輩として姑姑や阿公と協力しろ」 「臣妾明白(承知しました)」 ファーインがフンリに駄々を捏ねる日は来るのだろうか。 同じ富察(フチャ)といえど格の違う英鶯(インイン)が嫡福晋に選ばれた。 新しい格格には五人が選ばれ手狭の王府から紫禁城の西二所(のちの重華宮ヂォンフゥアゴン)に住居が与えられた。 今回、側福晋に弘暦(フンリ)は誰も選ばなかった。 綏蓮(スイリン)は自分が側福晋になれると思っていたようだが、当てが外れて機嫌が悪い。 「こんなに広いんだ」 綏蓮(スイリン)も偵察に付いてきて吃驚している、厨房だけでも二棟ある。 阿公が言うには「此処だけで百では利かない太監が働くんだ当り前さ」だそうだ。 早速ファーインは自分の二人の使女の春杏(チゥンシィン)春李(チゥンリ)を従え、内務府に頼んで配属予定の太監三十人を使い隅々まで掃除にかかった。 奴婢として二十人使女を配属してくるはずが、人選が遅れてるようだ。 使女が二人も付いたと聞いた爺爺から送られた銀の小粒が役立つ日が来た。 小桶ほどの箱にいっぱいの銀は大小二百ほどもあったので、届いた日にチゥンシィンとチゥンリにも大きな銀塊を分けてあげ、一日の休みを替わり番子に取らせ、好きな装飾品を買わせた。 多少は重さも違うのでファーインは手を後ろに隠して当てっこをして選ばせた。 「こんなに頂いていいのですか」 チゥンリなど大きな銀塊に眼をまっるくして受け取ると、大事そうに袖の袋に仕舞った。 阿公はまだ礼をもらうには早過ぎると先手を打ってきた。 二人に手伝わせ、銀塊の大きさをそろえるのに一刻も掛かって仕分けしたのを寅の刻には起きだして、早朝に持って王府を出た。 西二所で集まってもらった太監に、チゥンシィンとチゥンリが笊から取り出して「先渡しのご褒美よ、仕事が丁寧なら、終わりの日にも出してくださるわ」と順番に手渡した。 どうやったのか姑姑が毎日厨房に五人の料理人を先に配属させることに成功していて、昼は掃除が済んだ部屋を使い、三人で楽しい食事がとれた。 綏蓮(スイリン)に言わせれば「奴婢と同じ卓で食事なぞ恥知らずね」だそうだ。 綏蓮(スイリン)は掃除の様子を弘暦(フンリ)と見に来た時に、英鶯(インイン)を差し置いて日当たりの良い部屋を弘暦にねだった。 その後に下見に二人の使女を連れてやってきたインインには「差配はファーインがしたので自分は此処へ住むように言われただけ」だとさっさと荷物を運びこんで来た。 住まいが決まり、割り当ての部屋を姑姑と使女が格格たち五人を案内し、太監を割り振って荷物を運びこんだ。 ファーインがインインに選んだ部屋はスイリンが選んだ部屋より広く、掃除も行き届き、調度品も内務府が良いものを選んでいたので、奥も深くて住みやすく、富察府から付いてきた紅蘭(ホォンラァン)に紅海(ホォンハァイ)からもファーインに苦情は出なかった。 「表から見ると皆同じに見えるから、入口の花で区別しましょ」 英鶯(インイン)が格格たちにそのように告げ、自分は茉莉花だと先に決めた。 さすが嫡福晋だけの事はあって花房に話しを通して用意させている。 花音(ファーイン)は「お先にどうぞ」と言って蝴蝶(フゥーディエ)にも先に選ばせた、そうしないとこのおちびさん引っ込み思案で選べないので手伝って茶花(椿)を選ばせた。 花房がこの時期に小さくて堅いつぼみを付けてきたのを出して来たのを見つけたのもファーインだ。 誰も選ばなかった中から。小さな黄色の花が付いた積雪草(金銭草・連銭草)をファーインは選んだ。 村の医者が「腹の石を流す薬だ」と丹精して増やしていたのを見て育ったせいで、役立つことも有るかもと思ったのだ。 でも本当は芙蓉に似た白い木槿(ムーチンmùjǐn)が欲しかったが佳玲(ジィアリン)が選んだ、綏蓮(スイリン)は秋には黄色の花が咲くと庭師の太監が勧めた薔薇を選んだ、見本の温室で咲かせた大輪の花の一枝が気に入ったようだ。 紫禁城でも数は少なく「皇上(フォンシャン)が大切に育てているのを分けてもらえた」という言葉のほうが気に入ったのは間違いないと後で阿公が笑いながら話してくれた。 皇上(フォンシャン)も弘暦の嫡福晋に気を配ってくれている。 新しい格格は五人 黄若兮(ルオシィー)十二歳。 陳蝴蝶(フゥーディエ)十二歳。 珂里葉特佳玲(ジィアリン)十四歳。 金欣妍(シンイェン)十五歳。 蘇景環(ジンファン)十五歳。 陳蝴蝶(チェンフゥーディエ)と黄若兮(ホァンルオシィー)は誕生日が二日しか違わないと分かった、二人ともやせっぽちで小さいが顔立ちは洗練されている。 でも花音(ファーイン)は「細身で好いな」と思っているようだ。 綏蓮(スイリン)などは「風が強けりゃ屋根まで飛ばされる」なんてひどいことを使女の祥褒(シィアンボウ)に言ったそうだ。 細身のスイリンから見ても小さくてやせっぽちに見えるようだ。 太監は口が堅いと思って聞かれて平気だと悪口を言うのだが、噂話は昼飯の菜と同じだ。 選ばれた六人の中では嫡福晋の富察英鶯(フチャインイン)が十六歳と年長で、蘇景環(スージンファン)と金欣妍(ジンシンイェン)のほかはインインの使女を含め十五歳になったファーインよりも年下だ。 蘇景環(ジンファン)はファーインより半年早く生まれている。 スイリンは最年長の十七歳になって嫡福晋のインインと、どちらが美しいか競い合いそうだとファーインの二人の使女が刺繍の手を休めて噂話に夢中だ。 早速、格格の使女を実家から二人連れてこられなかったものにファーインが割り当てた。 インインの希望で使女の中で年長の香梅(シァンメェイ)を弘暦にねだって使女を三人にしてもらったので、人のものが欲しくなるスイリンが、不満顔を使女に見せていると春李(チゥンリ)が聞きこんできた。 「見せているだけなら、話しは伝わらないわ」 春杏(チゥンシィン)は年の割に冷静だ、二人とも歳は十三でも、二年ファーインに仕えてスイリンやその使女莞雲(グァンイン)に祥褒(シィアンボウ)を手玉に取るコツは姑姑の指導でつかんでいる。 使女で姑姑のお気に入り一番手は春李(チゥンリ)だ。 雍正五年七月十八日(1727年9月3日)庚申 嫡福晋英鶯(インイン)の成婚式が行われた。 ファーインは鐘粋宮(ユンツイゴン)から遣わされて来た姑姑(グーグー)の助けも借りて忙しい時期を乗り切った。 二人の姑姑は仲良しに見えた、静麗(ジンリ)を妹妹(メィメィ)、香寫(シィアンシィエ)を姐姐(チェチェ)と呼び合っている。 新婚の二人は仲睦まじくて焼き餅を焼くスイリンだが、月のものが訪れ、いつもより機嫌が悪いとファーインの部屋へ逃げてきた祥褒(シィアンボウ)がチゥンリにお菓子をねだって急いで食べると戻っていった。 その日は部屋には蘇景環(スージンファン)と小さな黄若兮(ホアンルオシィー)が来ていてファーインが先生に為って三人で手巾の刺繍をしていた。 珂里葉特佳玲(ケリェテジィアリン)がやってきてジンファンを見つけると「囲碁をしようと探していた」と言い出し、自分で碁盤を机に置いて「私が黒よ」と言うと二つの黒石を対角に置いてジンファンに「今日は二つ減らしたから」と弱いことを強調している。 景環(ジンファン)は刺繍より囲碁のほうが好きなので受けて立った。 「昨日は四つ置いても負けたのに強気ね」 ジンファンに揶揄われても真剣な眼差しで、どこに白が置かれるか、早々と考えている。 ジンファンは盤を見るでもなく他のものに話しをしながら、次々に白を置いてゆくので、ジィアリンは焦って置き間違えて「ほっ」と息を吐いてしまった。 弘暦(フンリ)が夜遅くファーインの部屋へやってくると「やれやれ今日は悪日だ」とぼやいて珍しく酒をねだった。 この日皇帝から献上品のおすそ分けで、フランスの酒が西二所へ届けられたのを英鶯(インイン)が格格へ分配し、余った二本のコニャックをファーインの部屋へ内緒でくれたものだ。 「聞かれたら取り締まりの役得と言いなさい」と見かけは自分の使女の三人より子供子供しているファーインを気使う事も忘れない。 普段飲まない酒で陽気になったフンリは詩を詠み、それをファーインに清書させた。 ラベルの仏蘭西の文字を「この文字が読めるか」などと無理を言いながら「ワインは好きじゃないがこれは好い」と上機嫌だ。 フンリはどうやらワインとブランディの味の差は解かるようだ。 十七歳のフンリにブランディは効いたようで、ファーインに飲みさしの一口分を上機嫌で飲ませ、頬を染めると笑いながらファーインの手を引いて寝床へ誘った。 王府ではスイリンばかり召され、仕えてから初めての事にファーインは戸惑ったが、房事に慣れてきているフンリは優しく扱ってくれた。 鳥の声で目覚めると横にフンリの顔が見え、手はファーインの腕を抱えている。 腕を抜いて幸せに起きたファーインは、寝乱れた髪をチゥンシィンが整え、いつものように歯も磨き、匂いの良い水で丁寧に口中を濯ぎ洗顔を済ませて化粧もした。 髪はゆわずに絹の布で纏め、フンリの顔を覗くと寝たふりのフンリは手を引いて口づけをせがんだ。 「ファーインの顔は可愛い」 「からかうのはやめて起きないと」 「まだ早いさ」そうは言っても時間が気になり、起き上がって寝床から出ると腰に手を回して抱きしめるのでとなりでチゥンシィンが困っている。 その日から三日続けてフンリはファーインの部屋へ夜になるとやって来るので英鶯(インイン)の部屋へ行くように勧めるが、毎晩小さな瑠璃のコップで二杯のレミーマルタンをゆっくりと飲んでファーインを寝床へ誘った。 「王府へ来た頃は田舎娘の丸い顔だと思っていたが、三年で大人になった。飽きが来ない、いい顔だ」 嬉しがらせを言っては口を寄せるフンリだ。 「田舎娘だなんて、それならなんで格格にしたのかしら」 ファーインはいつもそれが疑問だ、なにフンリの方は田舎娘も「玉琢かざれば器を成さず」と考えての格格のつもりだ。 格格たちはそれぞれの得意分野を教えあい、フンリの為に自分磨きに懸命の毎日だ。 礼記曰く玉不琢不成器、人不学不知道 「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」 西二所一の能筆はなんといっても英鶯(インイン)になる。 ファーインは佳玲(ジィアリン)と若兮(ルオシィー)の三人で毎日通っては唐詩選から選ばれた詩を教わりながら、清書して教えを乞うのだ。 佳玲(ジィアリン)は日ごとに上達し、ファーインは「やっぱリ自分は田舎娘」と言葉も方言交じりでチゥンリに嘆くと「英鶯(インイン)娘娘は特別のお嬢様。比べてはだめですよ」とすげない返事だ。 花音(ファーイン)の部屋では毎日の様に三人で英鶯(インイン)に教わる唐詩選のおさらいが日課で、チゥンシィンにチゥンリも実家に出す手紙の字も奇麗になっていった。 「今日は孫逖の煙花象外幽を教わったわ」 そういって貰ってきたお手本を置いて三人で復習していると、佳玲(ジィアリン)が珍しく依諾(イーヌオ)に梓福(ズーフゥ)を連れてお菓子持参でやってきた。 チゥンリの字が気になるのか手を取って教えてくれた。 気になったファーインが「ジィアリンの字ほど囲碁がうまければ鬼に金棒ね」と言うと「待たざる者は幸福」と宣教師がこの間皇帝の要請で漱芳齋(シゥファンヂァイ)で話した言葉で返されてしまった。 その佳玲(ジィアリン)より書く字に風格があるのが英鶯(インイン)で空で読んでくれる詩経はあきれるほど多い。 |
|||||||||||||||
第三回-西二所-2 雍正六年一月一日(1728年2月10日) 年が明け梅の季節が過ぎ、ファーインのお産がまじかに迫ると、西二所はファーインを仕事から解放したせいで天手古舞の有様になり、格格の世話を年長の綏蓮(スイリン)が替わるようにと英鶯(インイン)から言い渡された。 姑姑の静麗(ジンリ)もいやいや綏蓮(スイリン)のお手伝いだ。 毓慶宮(イーチンゴン)で挨拶を交わした最初から気が合わない二人だ。 三月に入ると早くも産婆が二人、皇后の手配でやってきた、初産しかも弘暦(フンリ)にとって最初の子だ「早産ともなったら困ります」と姑姑が香寫(シィアンシィエ)を通して皇后に頼んだ。 格格たちも自分の家での出産は経験しても、次は自分という自覚ができる機会が訪れた。 雍正六年五月二十八日(1728年7月5日)戊申-永璜(ヨンファン)誕生。 ファーインは夜明け方に産気づいたが、初産の苦しみも少なく、大阿哥を陽の中天に上った午正刻に無事に産む事が出来た。 産婆の「もっと息んで」の声も時々聞こえ、フンリと英鶯(インイン)は気が気では無かったのだ。 産婆は普段体を使っているからお産も軽かったと言う「大家のお嬢様の中には大切にされすぎて、歩くことも少ないのでお産はひと仕事です」とかねがね言っていた。 「何ようちの主児(チャールZhǔ ér)をまるで奴婢みたいな言い方をして」 チゥンシィンはお冠だが、田舎育ちを見破られたとファーインは笑っている。 産湯を使いフンリに抱かれた大阿哥と対面したファーインは十六歳、幸せな顔をしている。 フンリも初産が大変と話しは聞いていても、自分の子となると心配するのも当然だ。 フンリは可愛い嫡福晋の富察英鶯(インイン)、格格一番の美貌は高綏蓮(スイリン)、それと最近見栄えが良く頭の回転が早い富察花音(ファーイン)と子供、俺は運に恵まれていると自信が溢れ出ていた。 それもまだ同年産まれの弟に子供が出来ないことも男としての自信につながるようだ。 二人の産婆にフンリとインインは盛大に贈り物を与え、養心殿(皇帝)と鍾粋宮(皇后-輝發那拉氏・ホイファナラ)、実母の景仁宮(鈕祜禄氏・ニオフル)に使者が走った。 フンリは前々から考えていたようで、産着の皇子を抱いた英鶯(インイン)を集まる格格に会わせ、永璜(ヨンファン)と名を与えると告げた。 ファーインのもとへ二人が来て名前を告げたのはその後のことだ。 「璜の意味は」 「帯玉」 「違う、前に唐璜(タァンファンTáng huáng)て聞いて、女性にモテモテになるようによ」 またスイリンの当てこすりが始まった。 街でイタリアやオランダからの本を翻訳しては、扇子で拍子をとって講釈しているのが奴婢伝えに此処にも伝わるのだ。 聞いたほうは「四阿哥の耳に届きませんように」と祈りたくなるほどだ。 唐璜-ドンファンに堂吉訶徳-ドン・キホーテが講釈師のお得意の演目だ。 莎士比亜(Shāshìbǐyǎ)の翻訳物も出ていると聞いたが西二所で知ってるものは居なかった。 シェイクスピアと言えるものは街にもいない寧波の貿易商たちは本も持っていると阿公が教えて呉れた。 「親戚が一人いるよ。それとうんと南の広州にも何軒か親戚がいてたまに便りが来るんだ。 郎世寧(カスティリオーネ)が皇帝に話す物語の内容が、奴婢にまで漏れるには時間がかかるし、本人は建築に画業が忙しい、康熙帝に重用され円明園に噴水を作り皇帝を喜ばせた。 康熙帝と違い雍正帝は宣教師を京城の外へ追い払い、紫禁城内に居るのは郎世寧のほかは二人が許されているだけだ。 広州を管理する粤海関(1685年設置)は、閩海関の管轄下の厦門、浙海関の管轄下の寧波と競争関係にあった。 18世紀半ばには、各地の物産が多く集まる江南を後背地とする上、取引高の大きい対日本交易を担った寧波が優位に立つ。浙海関は寧波の行政区内になる舟山群島の定海に、西洋の船舶が寄港する区域を設けたため、英国商人たちが定海に赴いて、生糸・茶などを買い付けるようになる。 貿易 明州. 泉州. 景徳鎮. 龍泉. 成都. 京兆府. 中都大興府. (燕京). 昇竜. 広州. 鄂州. 潭州. 開封. 襄陽 日本 長崎に唐人屋敷を建て、清国人を居住させた。 夜には届きだした贈り物が、翌日さらに皇帝や皇后からも盛大に届き、ファーインの部屋は満杯だ。 早速実家へ記念の品を弘暦(フンリ)が選んでくれ、自筆の手紙を添えて出したのは三日後のことだ。 三人の太監がその役目を言いつかり、片道五日の道へ祝いの旗が微風にハタハタする荷車を押して出かけた。 ファーインが紫禁城に来るときは、近在の乙女六人で大人が二人ついて七日掛かった道も侍衛の早馬なら宿駅で替えをすれば片道一日で十分だそうだ。 内務府は六人すべてを雇ってくれたが、王府へ移ると顔を合わせることもなくここへの引っ越し、もしかすると此処西二所にいるのも知らないかも、などと思ってしまう。 ファーインの方はそうでも、奴婢の間では評判で、同じ在所仲間の情報は把握しているようだ。 和羅舍林村から蜂蜜をお土産に太監が帰ってきた。 掌に乗る小さな壺が三百以上も奇麗に薄物で包まれ、一箱に二つ入れられている。 花音(ファーイン)は村の特産品と西二所じゅうに配った。 塩味のビスクは格格に不評だったが、蝴蝶(フゥーディエ)が蜂蜜を付けるのを考えて試すと、美味しいので一時はやっていた。 御膳坊では宣教師に頼まれ麺麭も焼いているが、教えた宣教師にも不評だったが西二所から広まった蜂蜜に付ければ美味しいと大喜びだ。 内務府は噂を聞くと各地の蜂蜜を用意したのだそうだ。 英鶯(インイン)のお腹も大きくなり出し、フンリはこの子も皇子だと騒いでいるのを、スイリンの使女たちは複雑な気持ちで聞いている。 雍正六年十月二日(1728年11月3日)戊申、長公主は産まれたが産声も弱く、健康では無い様だ。 年が明け、雍正七年一月十七日(1729年2月14日)、長公主が息を引き取り西二所に悲しみが広がった。 それこそ忙しい日々はあっという間に過ぎて、ファーインと二人の使女は子育てに付いた乳母と気が合い、訪れる格格も内務府からくる美味い菓子が目当てか入れ替わり立ち代わり賑やかだ。 母乳を飲ませるとき、ファーインの幸せそうな顔を見る使女たちも幸せを感じていた。 時がたつとまだ自分一人で歩くのはやっとの永璜(ヨンファン)のそばで佳玲(ジィアリン)は白楽天や杜牧の詩を声を出して読んでいる。 「胎教という言葉は媽から聞いたけど、江山易改本性推移って言葉があるわよ」 「教えるより教われが必要よ。聞いて損はないでしょ」 景環(ジンファン)は囲碁をヨンファンに教えようと盤を置いて誘うが、弘暦(フンリ)に笑われてあきらめたようだ。 相手はフンリか佳玲(ジィアリン)に蝴蝶(フゥーディエ)が務めるのでそれでジンファンも満足している。 嫡福晋に嫡子二阿哥永璉が誕生、大きなうぶ声に西二所は沸いた。 雍正八年六月二十六日(1730年8月9日)庚戌-永璉(ヨンリィェン)誕生。 英鶯(インイン)の得意げな顔が見えると、綏蓮(スイリン)は喜びの前に自分がなぜ妊娠できないか不満だ。 花音(ファーイン)は三歳のヨンファンに「フォンシャン(皇上)とフゥチン(父上)には孝と忠を、嫡子のヨンリィェンには忠誠を」と諭すように話した。 まだよくわからないはずだが、傍にいた佳玲(ジィアリン)と蝴蝶(フゥーディエ)も「私たちにも子供が授かれば必ず教える」と指を立てて「天に誓う」と言うと、ヨンファンも回らぬ口で「ファシィ(発誓)」と言うので思わず抱きしめた。 雍正九年に入ると花音(ファーイン)のお腹が目立ち始め、スイリンの機嫌が悪く「まとめ役はもうたくさん」とインインに「景環(ジンファン)にやらせてください」と駄々を捏ねだした。 インインはジンファンが承知したので、西二所に住む格格の世話係を蘇景環(スージンファン)に任せると格格の使女を集めて話聞かせ、自分の主に伝えるように求めた。 その英鶯(インイン)のお腹も目立ちだした。 黄若兮(ホワンルオシィー)が妊娠していることがわかり、綏蓮(スイリン)はあの手この手でフンリを楽しませるのに躍起だ。 西二所は妊婦であふれそうだ。 雍正帝五阿哥弘晝様の王府でおめでただ。 最初のお子は男子。 雍正九年四月十二日(1731年5月17日)辛亥-永瑛(ヨンイン)誕生。 雍正九年四月二十日(1731年5月25日)辛亥、十六歳の若兮(ルオシィー)は流産した。 雍正九年四月二十七日(1731年6月1日)辛亥、ファーインは寅の刻、二公主を産んだが太医たちの「呼吸が弱く、長く生きられない」との非情な宣告にフンリは気落ちしている。 雍正九年五月二十四日(1731年6月28日)辛亥、英鶯(インイン)は三公主を産み、「公主は健康に問題ない」といわれたフンリは胸をなでおろした。 雍正九年九月二十九日(1731年10月29日)辛亥、皇后輝發那拉氏五十一歳薨去。 雍正帝皇后(孝敬憲皇后)・輝發那拉氏(ホイファナラ)。 康熙20年5月13日(1681年6月28日)~雍正9年9月29日(1731年10月29日) 住居-鍾粋宮 雍正九年十二月十二日(1732年1月9日)辛亥、花音(ファーイン)の二公主が亡くなる。 予期していたといえこんなに悲しいのかとファーインは泣き崩れた。 永璜(ヨンファン)が慰めてくれるのだが、親子で余計悲しくなって泣いてしまう。 その永璜(ヨンファン)も四歳の誕生日には佳玲(ジィアリン)が褒めるほど上手な字が書けてフォンシャン(皇上)も褒めてくれたのを思い出し、自分を励ますファーインだ。 |
|||||||||||||||
第四回-西二所-3
雍正帝は薩満太夫(サマンタァユゥ)を招いて慰霊の大祭を行った。 坤寧宮は居並ぶ廷臣で溢れている。 ファーインたちは参列を免除された。 薩満太夫は馬車で神武門から入ると、東へ折れて東筒子を南へ、景運門で馬車を降りて門をくぐると用意された輿で乾清門を抜けて漸く坤寧宮へ到着した。 「だけど神武門の目の前の順貞門ではいけないの。斎場は御花園の隣よ」 「方位というものよ、それに裏口とから、こんにちわ。何て出来るわけないでしょ」 姑姑はファーインに「何事も儀式は厳粛にが決まりですよ」と薩満太夫が言うなら従うのが招く方の為なのというが、四倍の道のりをかけて効果が出ないときは同するんだろうと思っている。
四阿哥弘暦(フンリ・ホォンリ・フォンリ・Hóng lì)は和碩寶親王。 五阿哥弘晝(ホォンヂォウHóng Zhòu)が和碩和親王に冊封された。
六歳になり生意気にも「ウーニャンの字よりジィアリンの字が好きだ」など云うのでなおさらやって来ては、手本に手元にあるインインの書をヨンファンと一緒に勉強だ。 学堂への送り迎えにも行きたがるのでフンリに「あまり甘やかせては駄目だ」と釘を刺されるくらいだ。 大阿哥永璜(ヨンファン)がジィアリンの名を新しく習った書体で上手に書いて渡したので、喜んだジィアリンは自分の部屋に飾っていると佳玲(ジィアリン)の使女の依諾(イーヌオ)に梓福(ズーフゥ)もが春李(チゥンリ)や春杏(チゥンシィン)とお茶を楽しみながら話している。
雍正十一年六月十一日(1734年7月21日)癸丑-弘曕(フォンィエン)誕生。
雍正十一年六月十三日(1734年7月21日)癸丑-永璧(ヨンビィ)誕生 母親-呉札庫氏
息子たちの嫡福晋が続けざまに男子を産んでいる。 自分の子も産まれ、弘暦(フンリ)に二人の男子、弘晝(ホンヂョウ)様にも男子が二人。
八旗選秀で輝發那拉祥曖(ホイファナラシィアンアィ)十六歳がフンリの側福晋に選ばれた。 祥曖(シィアンアィ)が連れてくる使女の名に蝶が入っていて葉(叶)に改めることになった位で困ることは無くなり、姑姑は手続きで内務府と相談を始めた。
二十四歳になって美人とは綏蓮(スイリン)の事だとの評判に為っている、気をよくしたフンリが側福晋に選び、二人の側福晋との成婚式が行われた。 嫡福晋の英鶯(インイン)も笑顔で二人に贈り物を渡し、格格の面々は二人を祝福して自分たちの部屋へ引き下がった。
雍正十二年六月二十四日(1734年7月24日)乙卯-和碩和婉公主誕生 母親-呉札庫氏はこれで三人の母親だ。 第一子永瑛様雍正九年四月、第二子永璧様は雍正十一年六月の誕生。
お腹の大きくなった蘇氏(スー)もすでに二十三歳、綏蓮(スイリン)は王府に入ってから十年たっても子宝にめぐまれず、年もじきに二十五歳を迎え焦るこの頃だ。 蘇景環(ジンファン)三阿哥永璋を出産。 「碁を上手になるのと乗馬が褒められること」 ジンファンは英鶯(インイン)にそう話し、嫡男永璉(ヨンリィェン)の藩屏になるように勉学にも励ますことを誓った。 雍正十三年五月二十五日(1735年7月15日)乙卯-永璋(ヨンチァン)誕生
日ごとに衰弱し食も細く、太医たちは相談の上で薬を変更しても効き目が表れない。 富察花音(ファーイン)二十三歳にて死去。 雍正十三年七月三日(1735年8月20日)乙卯
体は衰弱しても顔色は変わらず、子供に返ったようにふっくらと下膨れしている。 ファーインは遺言を五通、体が衰弱すると用意していた。 一つはフンリ、二つ目は両親、三つ目はヨンファン、四つ目は姑姑、五つ目は阿公。 阿公には特別な箱が用意されて、金錠が参拾錠、銀錠は参百錠に形見の簪と手巾が入っていた「対不起(ごめんね)」で始まる遺言は阿公にはつらくて読むのに涙で字が見えない。 阿公は出会った日からファーインが自分の孫のように思えていたのだ。 作ることのできない子供、そして孫が此処に現れた、そう思い込むほど肩入れしてきたのだ。 永璜(ヨンファン)の世話は、乳母と使女を隣の佳玲(ジィアリン)が面倒見るようにと部屋をそのまま使わせることになった。
「やけに暗いじゃん、どこだんべ」 子供のころ周りの百姓が昼寝から起きて呟く言葉を覚えてでもいたのかもしれない、ファーインは自分は死んだはずで、寝棺に入れられてから生き返ったかと思った。 「とりあえず出なきゃ」 声を出してみたが、泣いている永璜(ヨンファン)の声が聞こえるだけで、気が付いてもくれないのだ。 フォンシャン(皇上)のほかは皆泣いているがファーインには聞こえてこない。 阿公の呉智雷(ンヂレイ)がヨンファンの声をかき消すくらい大きい声で泣くのでそれに負けないように叫んで、組んでいた手で寝棺を叩こうとしたら腕が棺の上に出て勢いで天井近くまで体が浮いた。 棺が透けて見え死化粧され、普段見たこともない礼服に着がえさせられている自分が見えた。 「あれ、自分がいる。ということは死神か仙女でも迎えに来るのかな」 なんで冷静でいられるのかファーインは不思議だとおもった、老衰という言葉はあるが、死ぬ前三日は体の痛みも苦しみもなく、魂の灯が失われる感覚だけで、他に何の意識も持たずに死んだように思えた。 祖父の家にある「聊斎志異」はボロボロだったが、子供ながらよく読んだものだ、相当古いと思ったら村の誰かれなく字が読めるものが借り出したり、祖父が読み聞かせるので古く見えただけだ。 「一日一話読んだら終わりだよ。今日は耿十八だけだ」 話しを思い出して、霊になったら馬車の迎えが来ないか部屋から出て、神武門へ向かったが何も起こらなかった。 「いつまでも遊んでいないで習字に刺繍、裁縫が出来なきゃお嫁にも行けない」そういうのが口癖の爺爺。 手書きの写本というのはおかしいが、伝があって手にしたらしく、近在でその本一冊しかないのが自慢の爺爺だ。
時々ふらっと商売の旅へ出ては、お土産を持った奴婢と帰ると近在の親戚と飲んで騒いでいる爺爺が不思議で、いつも旅の話をしろとせがむとお決まりの「習字に刺繍、裁縫が出来なきゃお嫁にも行けない」ばかりだ。 父親が十人も人を使い、蜂を増やして村の者が総出で集めてくる蜂蜜が好評だった、それを売りさばくのが仕事だと分かったつもりのファーインだ。 いつでも嫁に行けると媽(マァmā)が言うと、京城(みやこ)で内務府が十二歳から十七歳くらいを欲しがっていると話しが来たと、近在から五人のファーインと同年代の娘を集め、どうやって区面したか新しい衣服と旅の為の着替えを全員に渡し「路銀はこれで賄え」と二十両も銀を出してきた。 「花音(ファーイン)も行くんだ、お前の腕なら繍坊にはいれる」 媽が泣き騒いでも父親(フーチンfùqin)も爺爺もが「もう決まっていることだ」と取り合わなかった。 ファーインは死ぬと皆こうなのかなと思い神武門から街へ出ても見たが、同じような死人に出会うこともなく、ヨンファンが気になって西二所へ戻った。 一日位と思ったが寝棺は何処かへ移されていて乳母の雪蘭(シュェラン)が一人部屋で転寝をしていた。 そっと椅子に座りぼんやりしていると佳玲(ジィアリン)に連れられヨンファンが元気に戻ってきた。 花音(ファーイン)の椅子に座るので抱きしめようとしたが自分とヨンファンが重なりヨンファンが「ウーニャン」というと雪蘭(シュェラン)が大袈裟に泣くのでヨンファンに慰められている。 「これ、反対じゃ」 ファーインが叱っても誰の耳にも聞こえない様だ。 「思うほど悲しくないのはなんで、死んだらこんなもの」 自分が不思議な体験をしているくらいに思えるファーインだが、ヨンファンの肩幅が大きくなっているのに気が付いた「やはり母親だわ」と一人ごちた。 一錠銀一両は仏蘭西の重さで37gが標準だ。 取引用に作られた五十両のものは街では大口取引以外には流通しにくい。 弘暦(フンリ)は通宝を新たにし、私鋳銭を駆逐しようとの建白を受け皇帝に奏上している。 |
|||||||||||||||
第五回-六宮-1 患うでもなくアッという間に雍正帝は寝付くと、フンリを呼んで皇位継承を伝え、大臣を集め何事か秘密裏に命を下して、そのまま亡くなってしまった。 雍正十三年八月二十二日(1735年10月8日)乙卯 雍正帝五十六歳薨去。
雍正十三年九月三日(1735年10月18日)乙卯(きのとう)
前途洋々・前途有為とは此の事だと、弘暦は自信に満ちて登基の宣旨を読み上げた。
「ねえ、美人ってイライラしてるほうが引き立つの」 「昔から、ひそみに倣うという言葉があるでしょ」 口さがない奴婢は誰にも聞かれていないことを確認しながらこそこそ噂話が趣味だ。 子供だった格格も皆大人の女性になり、内務府が支給する衣服も一段と上等になった。
富察英鶯(フチャインイン)冊封皇后-二十四歳 高綏蓮(ガオスイリン)冊封高貴妃-二十五歳 輝發那拉祥曖(ホイファナラシィアンアィ)冊封庶妃-十八歳 蘇景環(スーヂィンフゥアン)冊封蘇嬪-二十三歳 黄若兮(ホアンルオシィー)冊封黄嬪-十九歳 金欣妍(ジンシンイェン)冊封金貴人-二十三歳 陳蝴蝶(チェンフゥーディエ)冊封陳常在-二十歳 珂里葉特佳玲(ケリェテジィアリン)冊封海常在-二十二歳
すべて永璜(ヨンファン)の為の取り扱いだ、そして富察花音(フチャファーイン)は十四日(1735年10月29日)付けで追封哲妃となった。 蝴蝶(フゥーディエ)が「なんで祥曖(シィアンアィ)が庶妃という聞いたことがない妃嬪なの」と景環(ジンファン)に聞いているが「分からないわ」に誰かに聞かなくちゃと言いながらそのままだ。
黄嬪若兮(ルオシィー)死去。
西二所は相次ぐ悲報に悲しむ間もなく引き移りの準備に忙しい。
弘暦(フンリ)は慈寧宮の整備が済むまで鈕祜禄氏(ニオフル氏)を景仁宮にいてもらうことにしたが「それまで寿安宮でよいから引き移ろう」と言われて引き移ってもらうことにした。 太妃たちも寿安宮などへ移ってもらうことにして、内務府が割り振りを付けた。 これで後は自分の妃嬪の割り振りだが、改めてファーインがいないと困る事が多過ぎると姑姑の公孫静麗(ジンリ)に愚痴を言うのだ。 「フォンシャン(皇上)、ファーインは生前私と阿公にそのことを話していつかは役に立つと佳玲(ジィアリン)が書きとりました、皇帝の手前秘密にしておりました。奴婢は誰も知りませんご安心のほどを。それで参考になさいますか」 「すぐジィアリンを呼びなさい、書付も忘れずに、それでファーインは自分はどこに住みたいか話していたのか」 「ファーインは延禧宮が希望でした。それと蝴蝶(フゥーディエ)が同居を希望していましたが、それはただの口癖でチェチェと同じ部屋がいいと寂しくなると必ず言う子供の寝言です」 「なんだ大阿哥の母親のくせに欲がない、もっと奇麗な寝宮を欲張ればいいんだ。どうして東路に近い場所を」 「フォンホウになられるインイン娘娘と真反対に自分を置いて重しに為るつもりの様でした」
「なんだこれは読めやしない」 「フォンシャン(皇上)これは羅馬という国にあった数字と文字です。私とファーインしか読めない秘密の手紙の交換に使っていました。威尼斯(ヴェニスwēi ní sī)からの献上品の時計の文字と同じです」 壹から拾に拾壹、拾貮を書いてそこへあてはめてみせると「よく出来ている」と感心してみせた。 東西の六宮が当てはめられそこへ部屋の主の名ではなく使女の名前の一文字が書かれている。 枠を書いてそこへ当てはめれば一目瞭然だ、ただ数字だけでなく文字にも順番に工夫があるので佳玲(ジィアリン)がいないとどこへ書き込めばいいのか分からない。 もっと複雑なのを整理したのがこの図だ、弘暦も十二までは知っていてもその先の数字までは見覚えがないので不思議なものに見えたのだ。
「話をした時はまだ若兮(ルオシィー)が元気でした。それと皇后娘娘に人が多くなるので空きを作るより別殿に隣を使うのもいいとファーインが申しておりました。蝴蝶(フゥーディエ)を延禧宮へ入れるのもいいのではないでしょうか」 「工夫があるようだ。面白い。それに即位後に人も増えるから空きが有ってもいいかもな」
「ただこれだと金貴人(ジングイレン)が少しかわいそう、私やスイリンの近くでは気詰まりでしょう」 「そうだね。東六宮の永和宮か延禧宮へ同居はどうだろう」 「陳常在(チェンチャンザイ)とは仲がいいですし、使女同士もいつも仲良くお使いに行きますから、いいと思えます。海常在とでは永璜(ヨンファン)がいて気づまりだと思います」 「好いところに目が効いてるね。そうしよう、やはり陳常在が偏殿だね」 「歳も位も蝴蝶(フゥーディエ)のほうが下ですから」 二人とも蝴蝶(フゥーディエ)に寝宮を一つ与えるのは余分と思っていたようだ。 ちっちゃなフゥーディエのままだと二人の意識は重なっているようだが、もう二十歳になっているのだ。 猫を被る欣妍(シンイェン)にフォンシャンもフォンホウも気付いていない。
新しく皇后がそれを清書して二人で寿安宮の皇太后へ持っていくと「よく考えてある。これでよい」と快諾してくれた。
嫡福晋・富察英鶯(フチャインイン)冊封皇后 長春宮掌事宮女-紅蘭(ホォンラァン)・紅海(ホォンハァイ)・香梅(シァンメェイ) そのほかに宮女六名と太監八名が配属された。 別殿として咸福宮も管轄。
側福晋・輝發那拉祥曖(ホイファナラシィアンアィ)冊封庶妃 翊坤宮掌事宮女-詩涵(シーハン)・梦葉(モンヨゥ) そのほかに宮女四名と太監六名が配属された。
側福晋・高綏蓮(ガオスイリン)冊封高貴妃 永寿宮掌事宮女-莞雲(グァンイン)・祥褒(シィアンボウ)、祥褒の祥の字は祥曖に対抗するように一画足して意地悪く礻ではなく衤にした。 そのほかに宮女四名と太監六名が配属された。
蘇景環(スージンファン)冊封蘇嬪 景仁宮掌事宮女-湖然(フーラン)・百然(バイラン) そのほかに宮女二名と太監四名が配属された。
珂里葉特佳玲(ケリェテジィアリン)冊封海常在 永和宮掌事宮女-依諾(イーヌオ)・梓福(ズーフゥ) 永璜(ヨンファン)の為にファーインの使女の二人もここへきている。 永和宮偏殿掌事宮女-春杏(チゥンシィン)・春李(チゥンリ) 乳母-雪蘭(シュェラン) そのほかに宮女二名と太監三名が配属された。
金欣妍(ジンシンイェン)冊封金貴人 延禧宮掌事宮女-康児(カンアル)・菊英(インヂィ) そのほかに宮女二名と太監三名が配属された。
陳蝴蝶(チェンフゥーディエ)冊封陳常在 延禧宮偏殿掌事宮女-璃茉(リームオ)・桂英(グゥイィン) そのほかに宮女二名と太監二名が配属された。
啓祥宮(チィシャンゴンQǐ Xiáng gong) 儲秀宮(クシュゴンChu xiu gong) 東六宮-空き寝殿 鍾粋宮(ユンツイゴンJung t’sui gong) 承乾宮(チァンチェンゴンChéng qián gong) 景陽宮(ジンヤンゴンJǐng yáng gong)
奴婢の間では欣妍(シンイェン)が同居させて貰っている噂なのだ。
「でも何もできない、でもなんで。私の一日とみんなの一日は違うのかしら」 フォンシャンの即位式典からこの日へ来てしまったようだ。 蝴蝶(フゥーディエ)の掌事宮女と同じで見守るしかできない。
|
|||||||||||||||
第六回-六宮-2 年が変わり元号は乾隆となる。 乾隆元年一月一日(1736年2月12日)丙辰(ひのえたつ)
喜んだのは蝴蝶(フゥーディエ)ばかりでなく佳玲(ジィアリン)や景環(ジンファン)もで皆でお祝いを盛大にした。 ファーインも部屋の隅でお付き合いだ。 美味しそうなお菓子に果物を見ても食べたいという気も起きないのが不思議なファーインだ。 本殿に陳貴人(チェングイレン)の蝴蝶(フゥーディエ)が入り、偏殿に新しく入宮してきたのは、張常在(ヂァンZhāng)で直ぐに裕常在(ユゥYù)と冊封された十六歳の体の大きな娘だ。 背の小さい蝴蝶(フゥーディエ)と並んで散歩すると「お嬢様の付き人だ」スイリンの悪口が聞こえる。 スイリンと顔を合わせるのはフォンホウへの朝の集まりくらいになるので「これでもういじめられないよ」ファーインは掌事宮女の璃茉(リームオ)と桂英(グゥイィン)の夢枕に立った。 二人は仙女と間違えたようで蝴蝶(フゥーディエ)に盛んに本当に綺麗なお顔で素敵なお姿でしたと様子を話している。 「せめて絵姿でも描いてよ。私だってどんな顔か知りたいんだから」 ファーインの願いは無理な相談の様だ、ヨンファンの夢に入れるかと思って試したが出来ずにがっかりした。 死去の直前、黄嬪に冊封されていた若兮(ルオシィー)が、追封されて儀嬪とフンリがした。 乾隆元年九月二十八日(1736年11月1日)丙辰-追封儀嬪
穏やかな冬が続いている、ファーインの田舎と比べればだが。 年が変わってもファーインに変化がない、ただ顔は見えないのが困ると思うのみだ。 どうにかして自分を見たくて眼を見張っても水たまり、鏡、ガラス、どこにでも写りそうな所で試すが首から下しか自分ではわからない。 あの日から同じ着物、色褪せないし、汚れないのは好いが、たまには着替えがしたいファーインだ。 手を青空にかざすと死んだ時より若替えった様に奇麗な手で、あれ以来爪も伸びないし顔を触ると額の産毛も奇麗に無いままだ。 化粧をしたくとも自分の顔さえ見えないし道具も持てない。 佳玲(ジィアリン)は海常在から海貴人へ位が上がった。 永璜(ヨンファン)への献身的な奉仕に答えたものと、ファーインは嬉し涙を流した「え、泣いてるのに涙が出ないよ」霊魂に涙はないのに悲しみも怒りもあるのはどうしてとファーインは不思議に思った。 景環(ジンファン)も蘇嬪(スーピン)から純妃(チュンフェイ)だ、最近計数に明るいと皇后から会計を任されているので位階の上がるのも順当だ。
乾隆二年五月十一日(1737年6月19日)丁巳-冊封純妃
フォンシャン(皇上)の夜伽が極端に少なくとも、昼間に刺繍をしているか、今でも続いているジィアリンとの習字、囲碁が打ちたくなればジンファンの寝宮。 生活は充実している、実家も裕福で仕送り替わりに刺繍した手巾を贈ると喜んでくれるのでいつも楽しく過ごしている。 ファーインにどう見えているのだろう、蝴蝶(フゥーディエ)だってもう二十二歳だ、子供に恵まれないのを皆が心配しているが、本人は格格の当時のようにこどもっぽいままだ。
早速ファーインは奴婢のたまり場でうわさを聞くと「どちらも響きは同じ、雅なんて那拉氏に有るの」奴婢たちは辛らつだ、聞いていると「嫻妃(シュンフェイ)」と言っている「うんうん」とファーインも賛成だ、普段からおとなしく控えめに書にいそしむ姿しか観たことがない。 囲碁の相手も相手ほしさに押しかける景環(ジンファン)くらいだ。 同じ日、金欣妍(シンイェン)も金貴人(ジングイレン)から嘉嬪(ジャーピン)と位階が上がりファーインは「功績など何にもないのに」と辛口で、奴婢たちにも不評の欣妍(シンイェン)だ。
乾隆二年十二月四日(1738年1月23日)丁巳-冊封嫻妃(シィェンフェイ)。
二阿哥が亡くなった、風邪をひきやすく紫禁城すべてが心配していた事が現実になった。 皇后の胸は張り裂けるほどの痛みでいっぱいだ。 乾隆三年十月十二日(1738年11月23日)-永璉(ヨンリィェン)死去。 瑞慧皇太子がフンリに依って贈られた。 十一歳になったヨンファンに「これからはあなたが三阿哥のお勉強のお手伝いをしっかりと見るんですよ」とジィアリンが諭すように言っている。 無理言ってるとファーインは傍で聞いている「四歳の三阿哥におとなしく勉強なんてできる」だってじっとすることが出来ない子だもの、母親のジンファンとは大違いの甘えん坊だ。
嘉嬪に位が上がった欣妍(シンイェン)が四阿哥を産み、高貴妃綏蓮(スイリン)が悔しがるのを見てファーインは目の前で「ヒヒヒ」なんて笑ってみたがちっとも面白くなかった。 嘉嬪(ジャーピン)なんて最近の生意気さは綏蓮(スイリン)以上だ。
死ぬことは怖くなかったが、死んだ後で心配してるのは永璜(ヨンファン)の事が気がかりと、優しくしてくれたフォンシャン(皇上)の事が日がたつにつれて愛おしい気持ちが募る。
四年経ったころからだと思うのだが今が何年か思い出せない「だんだん若いころのことが分からなくなるわ、全部忘れれば天上界へ行けるのかしら」フンリへの愛しさへの募る気持ちの持って行き場もない。 ただ誰も自分の存在に気が付かずともいいので、わが子のそばで漂っていたいのだ。 「なんで公主にも会えないの。死んだらみな同じじゃないの」 不思議に思うが、時々同じような影の人間が通り過ぎるのを感じていたが、話しかけてくるものは居なかった。 霊になって初めて仏殿の読経や、欽安殿で道教の玄天上帝の祭事も霊体に影響が及ばないことを知った。 薩満太夫(サマンタァユゥ)なんて何度見てもこけおどしだと思うファーインだ。 痛みも苦しみもない不思議な感覚は誰にも説明してもらえないことで、いつの日か自分を見たり感じたりできる高僧や仙人が、紫禁城に来るかもと思っている。 よく何仙故や西遊記の話に出てくる事が自分にも起きているらしいと、思ってもどうするすべもなく、刻が過ぎて行くに任せた。 いいことは十二歳になる永璜(ヨンファン)の世話は佳玲(ジィアリン)が見てくれているので安心できることと、お腹がすかないこと、着物が汚れないので着替える必要がないことだ。 生きている時は美味しいお菓子が欲しい、甘い飲み物が欲しい、今日はフォンシャンが来てくれるかなど毎日がせわしく過ぎた。 いまは会いたければいつでも目の前に立つ事ができることだ、ただそれはいかめしい侍衛が多い養心殿の周りに近づくのが怖く、六宮や御花園の周りだけのことだ。 関玉(グァンユゥ)が立派になっていくので、傍に行ってもいいかと寄っていくのだが払子を時々振るので近付きにくい。 残念なのはフォンシャン(皇上)に腰を抱いて貰い口づけが出来ないこと、試そうとしたらただすり抜けるだけで一度でやめた。 他の妃嬪たちはファーインが傍に来ても感じないらしく、平気でフォンシャン(皇上)に甘える者もいて、最初のころは好い気持ちはしないのでそういう時は紫禁城を漂うことにした。 「今日はいつなんだろう」 永璜(ヨンファン)の誕生日に春杏(チゥンシィン)・春李(チゥンリ)がお菓子を作っているのを見ても日付が思い出せない。 二人はいつ嫁入りするんだろう急に心配になった。 阿公も随分年を取って皺だらけだ、姑姑の静麗(ジンリ)も目じりに皺が目立つ。 そういえば媽の事や父親の事も思い出すことも少ないし、爺爺の事なんて死んでから顔を思い出したのは二回か三回だ。 乾隆五年秋に佳玲(ジィアリン)が妊娠してお腹が大きくなると、ファーインの死後にジィアリンが永璜(ヨンファン)の世話をしていたのだが、フォンホウは南三所で養育すると引き離した。 「十三歳だもの王府に住んでも不思議じゃないわ、城内ならまだまし」 悲しむジィアリンに言っても聞こえない様だが、依諾(イーヌオyī nuò)が慰めている。 お嫁に行った梓福(ズーフゥ)もやってきて慰めの言葉をかけている。 そういえばジィアリンは幾つだ考えてやっと思い出した「二十八歳だ。私が二十九歳のはず、なんでイーヌオは嫁入りしないの、チゥンシィンにチゥンリの嫁入りもさせてやってよ」怒ってみても伝わることもない。 なんでこの子たちの嫁入りは遅れてるのと心配の種は増えるばかりだ。 ファーインは「心配で夜も眠れない」と声に出しておかしくなって笑いが止まらないが、片方でヨンファンを心配している自分に気が付いた。
まだ十四才、ファーインは自分の十四才と比べて受け答えも洗練されていると興味を持った。 永寿宮の偏殿に住むという「きかん坊のお嬢とわがまま娘、皇后も何を考えているんだろう」と他人事でも興味津々のファーインだ。 もう一人永寿宮で引き受けて居るというので覗きに行った。
フォンシャン(皇上)が選んだの、誰か情報をと宮人や太監の近くで暫くいたが誰も気にも留めていない様だ。 納蘭珠鈴(ヂゥーリィン)が名前を呼んだ、静麓(ジンルー)だそうだ。 暫く聞いていると年はもう十八歳だという。 なんということか十四歳のわがまま娘の言うがままだ「せめて隣の翊坤宮で引き受けてやれないの」と心配が増えてしまった。 二人とも答応(ダァイ・ダァインDá yīng)、案内してきた嘉睿(ジャールイJiā ruì)の方がえばってる(威張ってる)。
内務府選秀で皇后の長春宮(チャンチュンゴン)に何人か入ってきたが一人生意気な子がいた。 魏桃華(ウェイタアォハァ)十四才だと紹介されていたが、繍坊で働く事が決まったのを景環(ジンファン)が目ざとく見つけて引き抜こうとしたのを、英鶯(インイン)の掌事宮女香梅(シァンメェイ)が横取りしたのだ。 そういえば香梅(シァンメェイ)の髪型が姑姑になっている。 嫁入るのは諦めたのかな。 包衣魏氏の次女で桃華(タアォハァ)と名前は可愛いが動きは活発で気が利いている。 欣妍(シンイェン)が意地悪を御花園で蝴蝶(フゥーディエ)にしているのを見て、ひっかいやろうとしたが無駄だった。 璃茉(リームオ)と桂英(グゥイィン)にしっかりしなさいと小言を言っても気が付いてくれない、そういえばこの子たちも年季は明けたはずと思い出した、どうやら聞いているとちっちゃな蝴蝶(フゥーディエ)が心配で離れられなくなっているようだ。 フォンシャンの好みは不思議だ、生意気なスイリンにシンイェン、可愛いインイン娘々はわかるがおちびさんと言われるフゥーディエに今度はやせっぽちのジンルーまでいる。 いろいろな妃嬪を選んで楽しんでいるとしか思えない。 生意気娘をまた選んでいるのは一番の好みは「我儘娘」、珠鈴(ヂゥーリィン)はこれからどういう道を進むのかファーインも興味津々だ。 自分はふっくら田舎娘だったことはすっかり忘れたファーインだ、西二所へ移る時に命じられた格格の取り締まりの気持ちが今でも時々出てくるようだ。 佳玲(ジィアリン)は無事五阿哥を産んだ、母子ともに健康だ。 フンリは直ちにジィアリンを海貴人(ハイグイレン)から愉嬪(ューピン)へと位を引き上げた。 あのわがまま娘の納蘭氏(ナーラン)が早くも貴人に冊封された。 入宮五日で貴人と告げられたが、やせっぽちは答応のままだ、まるでスイリンとファーインの関係を再現してるみたいだ。 まさかフォンシャン(皇上)が将棋のつもりで二人を戦わせ遊ぶつもりかとまたファーインの心配が増えた。 綏蓮(スイリン)がどんな顔をしてるか見に行ったが、にこにこしてる「おかしい」と五阿哥の顔を見に行った、こういう時幽体は便利だ「貴妃娘娘臣妾告退」から始まる挨拶無用だ。
乾隆六年二月七日(1741年3月23日)辛酉-舒貴人(シューグイレン) 冊封の式はだいぶ先になるようだ。
雍正十三年に海常在(ハイチャンザイ)、乾隆二年に海貴人(ハイグイレン)、おとなしいジィアリンでも皇子を産めば待遇もよくなり愉嬪だ。 二十一歳の柏貴人(バァイグイレン)の妹は十八歳の白貴人(バァイグイレン)だ、二年前に貴人に昇格(内務府が辛亥と甲辰を記入間違いしたせいで九歳で貴人となってしまった、どうするんだろ今十歳の貴人と噂だよ)、二人そろって景陽宮(ジンヤンゴン)へ移っていいとの皇后のお許しが出た、新しい奴婢や太監は困るだろうなと思うファーインだ。 「悔しいけど欣妍(シンイェン)がまた位階が上がったわ」
乾隆六年二月十三日(1741年3月29日)辛酉-嘉妃(ジャーフェイ)
二人とも何年も苦労してるのにあっさりと十四歳のわがまま娘に嬪位を与えるフォンシャン(皇上)に驚いていた。 蝴蝶(フゥーディエ)は十五年後宮に居てもフォンシャン(皇上)の気に入る働きがないと、まだ貴人でしかない。 「刺繡、書ではお気に入りとは縁がないわ」 「ほんとね綏蓮(スイリン)の鼻っ柱が折れたか見に行こうか」 二人が祝いの品を選んでる隙に先回りした、あれ不思議スイリンが今日もにこやかだ。 後から来た二人も期待外れの顔だ。 「葉赫那拉氏(イェヘナラ)のなかでも納蘭妹妹(ナーランメィメィ)は羽振りがいいというのは本当のようね」 二人のつまらなそうな顔に「囲碁に琴でも今からでも勉強したら」と耳元でささやいたが耳飾りを風が揺らしてるくらいに思ったようだ。 柏貴人(バァイグイレン)が怡嬪(イーピン)に昇格、奴婢はほっとしてる、呼び名で困ることがなくなったせいだ。
乾隆六年十一月一日(1741年12月8日)辛酉-冊封怡嬪(イーピン)
ファーインの意識には何もない。
フンリは河北の遵化州を含む直隷州を置き、裕陵の築造を命じた。
景環(ジンファン)が二人目となる六阿哥を産んで、夜中なのに納蘭珠鈴(ヂゥーリィン)の舒嬪(シューピン)が来て六阿哥が「いい男になる」なんて騒いでいた。 フォンシャンもこの時間でも、産まれたと聞いて駆けつけてきた。 その舒嬪(シューピン)が永寿宮(ヨンショウゴン)から承乾宮(チァンチェンゴン)へお引越しだ「十六才の生意気娘が出て行ってうれしいわ」と綏蓮(スイリン)がほっとしてる「苛めを我慢してるのね」と妃嬪たちは思っている。 残った静麓(ジンルー)はどうなるの、答応なんて古手の女官に馬鹿にされても口答えしたら仕返しが酷くなるだけだよ。
だが雍正元年癸卯に七歳で京城に来たジャサク・ラマに雍親王府(乾隆帝誕生地-王府)を正式に与えラマの寺とした。 そして十五年かかって造り上げた、華美にあふれた様式の法輪殿に大きな文殊菩薩像を置いた。
フォンシャンは全国にラマの寺を開き、此処でその纏めをさせて国家管理をさせるようだ。 花音(ファーイン)はこわごわついていったが、賑やかな読経はこけおどしにしか見えなかった。 久しぶりの王府に気もそぞろだが、あの当時使っていたのは、ほんの一部にしか過ぎなかった。 「こんなに広いんだ。まるで異国の王宮みたいだわ」 フォンシャン(皇上)から離れ、一番奥まで行ったが、修業に励む僧侶の多さにあきれて寺を後にした。 「神通力があると子供のころはラマが怖かったけどウソね」 フンリよりも六歳は若いジャサク・ラマはフンリに説法をしていても意識は四方に飛ばしていた。 フォンシャン(皇上)は神妙だが、ラマは本気で聞いてるかなと思っていた。
そういえばあれからだいぶ月日が流れたんだと思うファーインだが、坤寧門の塀の上で青空を流れていく雲を見ていると、阿公が道々若い太監に話す言葉が聞こえてきた。 「フォンシャンが高貴妃娘娘に大阿哥のウーニャン花音娘娘を格格を選んだときは十五歳だった、十七歳はそれから思えば遅いくらいだ」 ヨンファンが嫁とりしたことだとファーインは胸の内で呟いている。 「ということはあの頃の四阿哥より歳が上なのね、随分永璜(ヨンファン)のほうが子供っぽいわ」
老公の隠居所と思ったら方向が違う。
侍衛にしては変、体格が違うし背も低い。 その先では静麗(ジンリ)も女官のような人たちに何やらぶつぶつと教えを垂れている。 「こんなところがあるんだ」 思わずつぶやくと樽に座っている阿公が振り向いた。 「あら、見つかった」 気配を感じただけで見えはしない様だ。 首をかしげて静麗(ジンリ)に何か言っている。 「なんで言葉が分からないんだろう」 不思議な気持ちになり、高みへ上がると御茶膳坊の屋根へ出た。 「向こうが南三所だから御史の住処かしら」 その時阿公は不思議な言葉でこう言っていたのだ。 「今ファーインの使うフランス渡りの匂い水の香りがした気がしたんだが」 「私も永和宮のあたりでよくそんな香りをかぐわよ。だけど同じものは入って来ないそうよ。生前に誰かに上げたのかしら。妃嬪たちはフォンシャンの気を引こうと香をたいたり匂いのキツイものを使うからスミレ(紫羅蘭-ヅゥルゥオラァン・菫) 花音(ファーイン)が使っていた香水はウビガン調香と書かれ、使われた原料の名前が添えられていた。 ポンパドール夫人が景徳鎮の磁器のお礼に康熙帝に送ったものだ。 多くの贈り物に混ざり三彩、五彩、青磁が夫人の気に入ったとの手紙と、多くの香水に薔薇の苗木が送られてきた、京城に着いた時には代が変わり、雍正三年になっていて皇帝はフンリが西二所へ移るときに香水を届けさせた。 マリーアントワネット御用達で有名になるウビガンはまだ産まれていないので別のウビガンだ。 二人が話していたのはポルトガル語の様だ、どこから覚えさせられたかフンリも父から「御秘官」と言われ「康熙帝の頃に伝わって来た組織だ」と秘密めいたことをささやかれた。 詳しく教わらないうちに雍正帝は崩御した。 何のことはない雍正帝が組織を譲るため、皇子が産まれると一人ずつ御秘官まとめ役候補を分散して職に就いていたのを、阿公が弘暦(フンリ)が皇帝になってから報告し、それぞれを親王府などから引き上げさせて纏めているのだ。 フンリについた阿公が決まりで長(おさ)に就くことになった。 「御秘官」は大きく二つ、紫禁城の太監、侍衛に分かれている。 多くは倭国から宋の時代に馮氏(ファン)の一族に入った家系だ。 蒙古、満州と漢の江南に分かれて住み付いた。 それで一族と言っても、特別な任務を帯びたものが連絡を就ける必要から生まれた。 倭国で言えば鎌倉に幕府が置かれたころだ。 霊体になってもフンリの居る養心殿の周りは警備が厳重で、近づくのは怖いファーインだからその話は知らない。 静麗(ジンリ)が何人か連れて養心殿の御膳坊へ行くのを幾度も見たことはあるがまさか特別なお役の報告とは思ってもないファーインだ。 御膳坊が隠れ蓑の役目、皇帝が毒殺されるのを防ぐには手足の太監が必要だ。 佳玲(ジィアリン)が愉嬪から愉妃に冊封された、何か功を立てたのだろうか。 次の日、自分の名前が哲憫皇貴妃というのに気が付いたファーインだ。 「死ぬまで格格だったのに、えらい違いだわ。哲憫(ジゥーミィンZhé mǐn)だなんてフォンシャンは他に思いつかなかったのかしら。賢明だけのほうがましだったわ憫なんていらない」
見に行くと掌事宮女の二人が右往左往している。 莞雲(グァンイン)に祥褒(シィアンボウ)だ、綏蓮(スイリン)は確か三十五歳、雍正三年に私と同じに毓慶宮(イーチンゴン)に使女で仕えたんだわ。 掌事宮女二人は王府へ来た時十二才、私より一つ下。 「えっ私って生きてれば三十三才なの。年季明けでもお嫁に行かないのは二人とも高家に恩でもあるのかしら」 なぜか計算するでもなく数字が明滅した。
「癸巳と書いてあるわ。今は乙丑って佳玲(ジィアリン)が本を開いていたわ、なんで自分の歳をもっと簡単に数えられないの。フォンシャン(皇上)に言って伊太利と仏蘭西みたいにすればいいのに」 だがそのフランスも、もう少しすれば可笑しな革命歴を使えとナポレオンが言い出すのはファーインには知らないことだ。
永寿宮(ヨンショウゴン)の前で騒いでやったが聞こえはしない。 静麓(ジンルー)が不思議そうに門の太監に何か言ってる。
フォンシャン(皇上)好みの眼が大きい細身の娘になっていた。 「ちょっと目を離したら猫みたいに甘え上手になってる」 本当に気まぐれ猫でフォンシャン(皇上)も綏蓮(スイリン)で懲りたはずが珠鈴(ヂゥーリィン)や桃華(タアォハァ)みたいな若い、我儘な焦らし上手が好きだ。 タアォハァは従順なのは英鶯(インイン)娘娘にだけのようで、紅蘭(ホォンラァン)なんて涙を浮かべて謝ってるのを目撃した。 「オーイ、ホォンランしっかりしなさいよ。いつまでもお嫁に行かないからそんなこと言われるんだよ」 スイリンといいインインといい宮女には好かれてるのか、ほかの理由で年季明けの後も務めてるのか分からない。 春杏(チゥンシィン)も春李(チゥンリ)だって嫁入りして子供もいるよと教えたい。
皇后もタアォハァを便利に使いたいようだ。 「此処ならフォンシャンもタアォハァばかり召すのも気が引けそうね。美味い手だわ」
乾隆十年一月二十三日(1745年2月23日)乙丑-冊封愉妃。 乾隆十年一月二十三日(1745年2月23日)乙丑-冊封高皇貴妃
雨が降れば平気で寝宮へ押しかけても「誰も文句は言わない気楽なもんだ」というのが本当の気持ちなのか強がりなのか。 乾隆十年四月(1745年)乙丑 同期の納蘭珠鈴(ヂゥーリィン)が舒嬪(シューピン)になって承乾宮(チィシャンゴン)へ移ってから二年、ようやく陸静麓(ジンルー)が答応から常在に昇格した。 スイリンにいじめられても耐え抜いての昇格だ、もう二十二歳やせっぽちもそれなりに見栄えは好いのだがフォンシャン(皇上)好みではない。
高綏蓮(スイリン)が亡くなっても偏殿で生活していたが、皇后直々に本殿へ移れとのお達しが来た。 早速お祝い事の好きな舒嬪(シューピン)がお祝い品を持った奴婢を引き連れてやってきた、スイリンがいつもいた場所に自分が座って高笑いしている。 スイリンが怒って出てくるかと暫くいたが気配もない。
乾隆十年十二月二日(1745年12月24日)乙丑-和碩和嘉公主誕生
乾隆十年十月十八日(1745年)乙丑-裕常在-死去 延禧宮(エンシゴン)偏殿が空いた。
最近ご近所永寿宮(ヨンショウゴン)の静麓(ジンルー)と交流が増えて近くの翊坤宮(イークゥンゴン)祥曖(シィアンアィ)は仲間に入れず寂しそうだ。 その祥曖(シィアンアィ)も八年ぶりの出世で奴婢は大喜びだ。
乾隆十年十一月十七日(1745年12月9日)乙丑-冊封嫻貴妃(シェングイフェイ) 相変わらず奴婢たちは嫻貴妃(シュングイフェイ)だ言いにくいのかな。 承乾宮(チァンチェンゴン)珠鈴(ヂゥーリィン)はまるで綏蓮(スイリン)の子供のころに似てるわ、ファーインはそう思った。 「選秀入宮の時は可愛かったのに、生意気になったようね」 ファーインは忘れたようだが綏蓮(スイリン)は最初から高慢ちきだったし、珠鈴(ヂゥーリィン)も生意気だったはずだ。 ヂゥーリィンはファーインが霊体になった後で入宮してきてすぐに貴人、その年の内に嬪になったんだと思い出したがあれから何年だろうと指を折っても思い出せない。 「まさか綏蓮(スイリン)が乗り移ったのかしら」 それなら私に気が付きそうなものと考えると、あれだけ恨み言を死ぬ前に言ってたのに、魂はどこへ行ったのだろうと気がかりになった。 長春宮(チャンチュンゴン)富察皇后が七阿哥を産んだが少し早く生まれたせいでだいぶ小さく生まれてきた。 お祝いに納蘭珠鈴(ヂゥーリィン)が来ているが、複雑な顔をしている。 いつもの大袈裟な舒嬪(シューピン)は影を潜めている、気を置くことも有るんだと少しは見直した。 乾隆十一年四月八日(1746年5月27日)丙寅-永琮(ヨンツォン)誕生 欣妍(シンイェン)がまた皇子を産んで大威張りだ。 早速偵察に出かけるファーインだ。 「八阿哥はフォンシャン(皇上)にそっくり」 「あれれ、舒嬪(シューピン)が贈り物をもっておべんちゃらだ」 ファーインはおかしくて大笑いだ、でも誰も気が付かない。 「フォンシャンの若い頃なんて知らないくせに、よく言うわね。フォンホウが聞いたら目くじらを立てるわよ」
|
|||||||||||||||
第七回-富察皇后
母親は嫡福晋伊拉里氏(イラリ)その父親は二等軽車都尉佐領徳海 乾隆十二年八月十四日(1747年9月18日)丁卯-永璜(ヨンファン)の次子綿恩(ミェンエン)誕生 母親は側福晋伊爾根覚羅氏(イルゲンギョロ)でその父は七品官明泰。
自分の姿を鏡に映そうとしたが写らないので忘れていたが「霊体も老けるのかしら」と心配するファーインだ。 湖北(洞庭湖北側)からも西林覚羅氏(シリンギョロ)の十五歳のおとなしい娘がやってきた。
ファーインは蝴蝶(フゥーディエ)のところでタァファが鄂という字の事を話ししているのを聞いて「この子思っていたより頭いいんだ」と感心した。 鄂の一文字で湖北を表すなんて知らなかった。 後宮入りして規範を蘇景環(ジンファン)が教えることにして偏殿に入るように言われたが、どこで聞き込んだか空いている景陽宮(ジンヤンゴン)へ入りたいと願い、毎日通うことでおさまった。 「怡嬪に白貴人は今どこだろ、聞いて回ったろ」 二人は麗景軒にいた、なんかひっそりと暮らしている。 最初おとなしいと見たのは眼鏡違いかな、わがまま娘に弱いのは昔からとスイリンを思い出した、でも同時に我儘をいう若い妃嬪が何人もいれば優劣が付いて誰かが振り落とされるよ。 (ほんとに振り落とされたみたいで直ぐ寵愛されなくなって仕舞った。) その引き渡しの日、イタリア人の宣教師が羅馬では年が改まったことをフォンシャン(皇上)に奏上した。 モンゴルの巴林氏(バァリン)のお姫様がやってきた。 このお姫様我儘そうな顔してたけどお付きが利巧なのか素直に景仁宮の偏殿に収まってくれた。 同じ年頃の娘が三人付いてきた、皆紫禁城に緊張気味で顔が強張ってる。 フォンシャン(皇上)は規範を覚えたら鍾粋宮(ユンツイゴン)へ移れると約束してる。 寝泊まりしないなら掃除に太監やお付きに来たものが行っていいんだと。 フォンホウも「そうなさい」と此のお姫様に優しい。 蒙古のお姫様の髪型もいつまで見られるんだろう、うっとりと見とれるファーインだ。 「おお、おお、若くて我儘な娘が好きだね。此のお姫様お利巧さんなのかな」 元気にあふれ乗馬は男勝り、付き合った四阿哥に五阿哥もマッ青になるほど引き離されて喜んでいたのはおつきの侍女たちと、みていたフォンシャン(皇上)だ。 戻ってくると怖い顔して二人の皇子を叱って、後ろにいた妃嬪たちを振り向いて舌を出してお道化て見せた、自分で選んだ駿馬のほうが早いのがうれしい様だ。 だって五阿哥はまだ六歳だよ、四阿哥でもやっとこ十歳、自分はお前たちより優れていたと自慢話が始まるのはいつもの事だ。 五阿哥は簡単に済んだが可愛そうなのは三阿哥で、騎馬ではなく徒歩で夏の野原を重装備をして走り回り、汗だくで戻ってきたらとばっりで怒られてる。 四阿哥はお鉢が回らないうちに機嫌が戻って、ほっとしたのもつかの間、やっぱり怒られている。 「いい気味だ」なんていってから欣妍(シンイェン)の子で無きゃ「可愛そう」と思って上げるんだけどと、言いながら五阿哥のそばで慰めの言葉をかけることにした。 佳玲(ジィアリン)は心配そうに見ているが欣妍(シンイェン)は怒っているぞ「五阿哥に三阿哥のせいで怒られるなんてあんたが悪い」とジィアリンに八つ当たりだ。 「そうじゃないよ、四阿哥の馬が十八歳のお姫様に追いつかないせいだよ」 女に負けるなんてとフォンシャンは思っているようだけど、移動手段が馬のお姫様、だって五阿哥に比べたら立派な大人。 ファーインは乗馬が得意な大阿哥が愛おしくなって、若い侍衛(シィウェイ)と弓の訓練場に居るはずと探しに行った。
それでも軍機処に出れば若い侍衛など「傍に来るだけで足が震える」と話すのを聞いた。 老練の大臣たちも鋭い質問に答えるのが遅れると「教えてやろう」と細かい数字まで空で言われ、平伏して謝ることが多いという。 ファーインはそれらを太監たちや奴婢のうわさ話で聞いて、さすがフォンシャン(皇上)と惚れ直したのになんてざまと怒っても伝わらない。 「タアォハァがきてからよ」とファーインは霊体のまま東六宮でふらふらするより西六宮にいるほうが増えてきた
でもなんで那なんだろうと疑問に思ったがおしゃべりのタアォハァも知らない様だ。 生きてるときならフォンシャン(皇上)に聞けたのにと思った、なんせ京城の漢語に地方の言葉、満語、蒙古語まで読み書きしてしまうんだものね。 年越しの支度も済んだ大晦日、皇后の七阿哥が亡くなった。 「寿命は長くはない」と非情にも太医たちは見放していたが「薬石の効なく」なんてひどすぎる。
乾隆十三年一月十五日(1748年2月13日)戊辰-慎貴人(シェンShèn) 索綽多氏(ソチョロ)の十九歳。 ファーインは「老けてる」なんて悪口を呟いた「ほんとの年はいくつ」。 皇后は不運続きだが皇后の弟、傅恒(フーハン)は出世街道まっしぐら。 今年もフォンシャンの引き立てで覚えめでたいはず。 乾隆五年(1740年)-侍衛 乾隆七年(1742年)-御前侍衛・内務府総監・円明園管理 乾隆八年(1743年)-戸部右侍郎 乾隆十一年(1746年)-軍機大臣・戸部右侍郎・内大臣兼任 乾隆十二年(1747年)-戸部尚書、議政大臣兼任。
諡号-孝賢皇后。 孝賢誠正敦穆仁惠徽恭康順輔天昌聖純皇后。
なんて心配していたが欣妍(シンイェン)が妊娠していて「おれは精力抜群」と自信が溢れているのに、ファーインは呆れている。 やはり祖父の康熙帝を目指してるようだ。 後宮の取りまとめを誰にするかもめている、皇太后が推薦して嫻貴妃(シュングイヘイ)祥曖(シィアンアィ)が選ばれて嫻皇貴妃と冊封して皇后代理だ。 三十一歳、まだ子供がいない、流産したわけでも無いけどそのほうが欲を描かないとでも思われたようだ。 蘇景環(ジンファン)がいつもと違って冷静さがない。 やはりわが子が皇位をと思うのは親心、皇后には「わが子が藩屏」とは言っていたけど欣妍(シンイェン)には負けたくないと闘争心でも出たようだ。 同じ日のっぽの静麓(ジンルー)がやっとの思いで貴人になった。 答応(ダァイン)時代苦労したけど今じゃ立派な永寿宮の主。 珠鈴(ヂゥーリィン)には頭が上がらない、なんでも納蘭氏の支配地の民の出だそうだ。 反対すれば親族が危険と子供のころから逆らうなと教えられたようだ。 珠鈴(ヂゥーリィン)にくっついて出てきたので、内務府選秀のはずが、八旗選秀と間違えるほど奴婢の噂だ、ファーインもてっきりそう思い込んでいたがタアォハァと同じ時に入宮した「納得」いまさらねぇ、でもよく答応にしてもらえたもんだと噂を聞き回ったが奴婢たちも曖昧で噂は幾つもあった。
今でも昔皇后が書いた手本を見て字を書いている。 今年から五阿哥も毓慶宮(イーチンゴン)なので、寂しい佳玲(ジィアリン)にはいいことだ。 「おいおい少しはフォンシャンの気を引くお勉強してくれよぅ」
乾隆十三年四月十二日(1748年5月8日)戊辰-冊封鄂貴人。 乾隆十三年四月十二日(1748年5月8日)戊辰-冊封陸貴人。 乾隆十三年四月十二日(1748年5月8日)戊辰-冊封那貴人 乾隆十三年四月二十日(1748年5月16日)戊辰-冊封嫻皇貴妃。
そんなこんなで騒いでいるうちに桃華(タアォハァ)が来年妃になるそうだ。
乾隆十四年一月一日(1749年2月17日)己巳 乾隆十四年四月二十七日(1749年6月11日)己巳-永瑜永眠。
刺繍好きだけで取り柄はないがファーインのお気に入り、十二歳で格格から始まった人生も、もう三十三歳。 延禧宮の本殿の主になって十二年、ファーインは気がかりの一つが減って気が楽になった。 嫻貴妃が皇貴妃になって妃嬪は位階が上昇、去年の通達から漏れてはいない。
乾隆十四年四月五日(1749年5月20日)己巳-冊封舒妃(シューフェイ)。 乾隆十四年四月五日(1749年5月20日)己巳-冊封婉嬪(ウァンピン)。 乾隆十四年四月五日(1749年5月20日)己巳-冊封嘉貴妃(ジャーグイフェイ)。 妃嬪全てが上がると思っていたが外れる者もいて悲喜交交。 だけど生意気娘二人が揃って妃に冊封「偏ってる」蝴蝶(フゥーディエ)もいまさらと思わずに寵愛を受けられる工夫でもしなさい。
|
|||||||||||||||
功績を認められないと代替わりに位階がさがった。 ・和碩親王(ホショイチンワン) 世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅郡王(ドロイグイワン) 長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅貝勒(ドロイベイレ) ・固山貝子(グサイベイセ) ・奉恩鎮國公 ・奉恩輔國公 ・不入八分鎮國公 ・不入八分輔國公 ・鎮國將軍 ・輔國將軍 ・奉國將軍 ・奉恩將軍 ・・・・・ 固倫公主(グルニグンジョ) 和碩公主(ホショイグンジョ) 郡主・縣主 郡君・縣君・郷君 ・・・・・ 満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。 ・上三旗・皇帝直属 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ) 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ) 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ) ・下五旗・貝勒(宗室)がトップ 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ) 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ) 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ) 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ) 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ) ・・・・・ |
|||||||||||||||
第一回-王府 -2021-06-10 | 第二回-西二所-1-2021-06-11 | 第三回-西二所-2-2021-06-12 | |||||||||||||
第四回-西二所-3-2021-06-13 | 第五回-六宮-1-2021-06-14 | 第六回-六宮-2-2021-06-15 | |||||||||||||
第七回-富察皇后 -2021-06-16 | 第一部 完 |
第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。 18歳未満の方は入室しないでください。 |
|
第一部-富察花音の霊 | |
第二部-九尾狐(天狐)の妖力 | |
第三部-魏桃華の霊 | |
第四部-豊紳殷徳外伝 |