第伍部-和信伝-壱拾伍

 第四十六回-和信伝-壱拾伍

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

十日の卯の下刻(六時三十分頃)に、インドゥは城内へ戻る八人と繫絃飯店を出て山塘河沿いを歩き、外城河の聚龍橋(ヂィロォンヂィアォ)閶門(チィァンメン)から入った。

朝から道の両側の商店は活気がある。

呉縣から東へ進めば長洲縣。

南の元和縣へ戻る五人と別れて徐頲(シュティン)の邸へ向かった。

曲がり角の先に拙政園(ヂゥオヂァンユァン)が見える。

「左へ曲がれば平家巷(ピィンヂィアハァン)の瓶莱(ピィンラァイ)があります。後で顔を出して時刻の調整をします」

王均(ウヮンヂィン)は先に立って徐頲(シュティン)の邸へ導いた。

出てきた奥方に「着替えて巡撫公署と布政使公署などへ挨拶してきます。午前には徐(シュ)哥哥をお返しします」と告げた。

孫(スン)哥哥は服を借り、四人で道中を考えた。

「まずは撫院(巡撫公署)だな」

水路沿いに南へ歩き、水路が三方に分かれるところへ来た。

西の橋を渡り突き当たる左手が撫院の塀になる。

一度水路を越して南へ下り、最初の橋を渡って撫院の正門に入った。

 

四人は公署で来意を告げると汪志伊(ゥアンヂィイー)はすぐに会ってくれた。

「ありゃ、哥哥はどうして一緒じゃね」

「先生が仲立ちした高信夫妻の子供のご報告に」

「つれないのう、ついこの間、蘇州に来て居たと聞いたぞ」

「あの時は、先生お留守と聞きましたよ」

ふふふと含み笑いをしている。

インドゥは一歩下がり三人の後ろへ下がった。

三人が殿試に及格(ヂィグゥ)と結果を報告した。

巡撫は盛大に褒め上げて将来の栄華を目指すように締めくくった。

徐頲(シュティン)は「高信の所で宋慧鶯(ソンフゥイン)と息子に対面してきました、名を高叡(ガオルゥイ)」と楽しそうに告げた。

うんうん、いい名だとほめた。

「先生の本籍(本貫)は確か。安徽桐城」

「有無、その通りだ」

「江蘇江都まで張聰賢、馬瑞辰、姚元之の三人と道連れでした。」

「張聰賢といえば、代々進士を輩出する名門だよ。前回壬戌にも出たくらいじゃ。馬の父親はその年に四十過ぎて及格(ヂィグゥ)したが翌年亡くなりおったが息子が及格(ヂィグゥ)とは一族は喜ぶじゃろうて」

地元の事は消息が届くのだろう。

「姚元之は画家の多い一族じゃな」

「先生姚鼐(ィアオナイ)という高名な作家がいますが」

「一族だろうがそっちの方はよく知らんな」

インドゥは“登泰山記”を持っているという。

泰山之陽、汶水西流、

其陰、濟水東流。

泰山の陽 汶水は西に流れ、陰の 濟水東流す。

陽谷皆入汶、

陰谷皆入濟。

陽の谷はすべて汶に入り、陰の谷はすべて濟に入る。

當其南北分者、

古長城也。

南北に分ける 古の万里の長城

最高日觀峰、

在長城南十五里。

最も高き日觀峰、万里の長城の南十五里にあり。

 

「乾隆三十九年十二月になって居りました」

「さすが、書痴じゃな」

泰山(タァィシァン)日観峰は朝、日の出を見る絶好の地と云われる。

東嶽大帝こと泰山府君と言えば冥府の神として一度は名を聞いて居るだろう。

この山にまつられる泰山娘々こと碧霞元君の出自は数多くて終息が付かない。

天仙聖母碧霞玄君、泰山老母、泰山玉女、天仙娘々、天仙玉女碧霞元君。

東嶽大帝の娘玉女大仙、兄弟に泰山三郎(第三子炳霊公)・泰山四郎。

石守道の娘玉葉。

観自在菩薩の生まれ変わり。

此処には、もうひと方眼光奶々という目の神様がまつられている。

 

次は布政使司署だと思ったら「今は代理だ。按察使は来月交代だよ」と教えられた。

江蘇布政使汪日章(ゥアンリーヂァンヂァン)は八日に広西巡撫に栄転した。

張師誠(ジャンシィチァン)は山西布政使からの移動だがまだ着任していない。

「誰でもいいから挨拶だけはしておこう」

三人で出向いてインドゥは残って戻りを待つことにした。

 

「どっちの子だ」

「高信のムゥチィンは、高信の赤ん坊の時にそっくりだと言っています」

「そう家族が見ているならその方が好いことじゃ」

海賊の問題で悪あがきが始まったと話が長引いた。

 

三人の方は先ほどの橋をわたり、水路に突き当れば左(南)へ下り、最初の橋を渡ると布政使公署の塀になる。

水路沿いに門があり中で訪うと代理の役人が応対してくれた。

「次が按察使だ」

王均はこちらをあまり知らない、それは孫(スン)哥哥も同じだ。

「橋はあったかね」

「ここで渡っておくか、そのまま下っても同じだ。按察使公署の前の道なのに橋がないと不便だと二十年ほど前にかけられた」

(シュティン)は門の南の橋を指さした。

「同じならそこを渡っておこう」

「いいのか」

「君が同じだと言ったぞ」

「向こう側はいくつか水路がつながって橋がある」

「こっちはないのか」

「ない」

ならこのまま行こうと南へ下り最初の橋を渡ればその先に按察使公署の門がある。

江蘇按察使は鄂雲布(ウーインプゥー)、来月八日には安徽布政使へ赴任が決まっている。

門を出て左手が蘇州府の門で三人は打ち合わせをし、出てきた役人に進士及格(ヂィグゥ)の報告をし、さっさと東へ向かった。

孫(スン)哥哥の家で一休みし、王均と二人で遠回りして撫院でインドゥを拾って平家巷の瓶莱(ピィンラァイ)酒店で、明日の打ち合わせをした。

昨日約束した相手は二十六人、三人の及格(ヂィグゥ)祝いのささやかな宴席だ。

「三十に増えてもいい様にしてくれ。足りなきゃ請求するんだぜ」

「王均も運がいい。哥哥との宴会なら後で文句をつけようがない」

「なんでだ」

「旅の途中なら、例の許し状二人はお持ちでしょ」

「持ち歩いているよ」

二人に披露した。

「旅の度に出るのですか」

「先帝の時からの習わしだよ。接待漬けになる危険もあるんでね。高信の例もあるんだ、お互い偉い人の招待は用心が必要だ」

結句申の鐘(平均午後四時、午後四時三十分頃)で始めることになった。

 

王均はインドゥについて行ってそっちへ今日は泊まるという。

徐頲(シュティン)の家族に気を遣うようだ。

「荷はそのまま預かってくれ」

「いいとも。明日の連絡はどうつける」

「孫(スン)哥哥の服を交換に人を出して連絡すれば、その先へ連絡してくれるはずだ」

二人は婁門(ロォゥメン)から出て鎮居(ヂェンヂィ)という古書店に向かった。

「ここで五つ目の橋だ」

「右手三軒目」

小さな板に 古書鎮居 と達筆で書いてある。

中に若い男が一人で道中紀要と書かれた冊子を置いて立ち上がった。

「何かお探しでも」

「特にこれと云ってきたわけじゃないんだが。席佩蘭(シィペェイラァン)もしくは袁枚(ユァンメイ)の物があればと思っている」

大分おおざっぱですねと言われた。

「随園食単」

「こりゃ一般向きの書庫にありますよ」

「子不語、もしくは新齊諧、續新齊諧」

「ははぁ、だいぶんとモノ好きでおられる。子不語の物は正編、続編で銀(イン)二十八両、改題後の新齊諧正編二十四巻は十六両、續新齊諧八巻十五両」

五十九両と言われ十両銀票六枚を出した。

路西街繁絃飯店迄、脚夫(ヂィアフゥ)を頼みたいというと「探してきます」と表へ出て前の店から二人連れてきた。

二人で一両出してくださいというので承知した。

銀(イン)五銭をそれぞれに渡し「今本を出すからいつもの藤箱(タァンシィアン)を用意してきてくれ」と自分は後ろの店から冊子を下ろしてインドゥに確認させた。

一人でも担げそうだがあえて二人で釣りを出さない工夫の様だ。

席佩蘭の自筆の詩という絹本(ヂュァンペェン)を出してきた。

衒い(てらい)のない字体だ。

 

聞鐘 長真閣集 席佩蘭

 

坐擁寒衾思悄然

そぞろ 寒衾(かんきん)を擁し 思い悄然

 

殘燈挑盡未成瞑

残燈 しかけ尽くし 未だねむり成らず

 

紗窗月落花無影

紗窓 月落ち 花に影無し

 

只有鐘聲到枕邊

 

只有る 鐘声 枕辺に到る

 

「何時の物だ」

指さしたところに己未正月と有った。

「六年前なら家移りの前だな」

「知り合いですか」

「会ったことはない」

王均は「俺もあっていないな」

「本人に確認もして貰えますよ。家を教えましょうか、菓子持参なら歓迎されますよ」

「家は今日寄ったが夫人は外出をしていた」

王均はそう行って「明日は六月黄を食べる会で会えるだろう」と打ち明けた。

「えっ、あなた様もしかして南通の王鋆様ですか」

俺がそんなに有名かと不思議そうだ。

「種明かしするとですね。私の兄が蟹の仲買でして、瓶莱酒店の甫(フゥイ)さんから明日の納品に六月黄を二百杯頼まれて、その時進士及格(ヂィグゥ)の祝い大閘蟹(ダァヂァシエ)だから、いいものを厳選してくれと頼まれたと先ほど聞いたばかりで」

平家巷の瓶莱酒店だと聞いたばかりへ飛び込んできた書痴二人だ。

蔵書印がないのを確認して「いくら」と聞くと六両と手ごろの値を言うので两両の銀票三枚を渡した。

「明日の宴席出てくるかい」

「いいんですか」

「もちろんだ。申の鐘で始める」

王均は自分が費用を持つ事で名が売れたと鷹揚になってきた。

脚夫(ヂィアフゥ)はさっさと出て行ったので、絹本はインドゥが持って店を出た。

 

十日

公主は蘭園茶舗(ラァンユェンチァプゥ)で、仕分けと梱包が済むのを待って、武夷半岩茶肉桂、皇貴妃二百口、フォンシャン(皇上)二百口を茶献上に伺った。

武夷山正岩水簾洞の武夷肉桂八十口は、献上七十口を皇貴妃娘娘二十口、惇妃娘娘二十口、フォンシャン二十口をこれまでより小さい壺で献上した。 

寿太貴人、晋貴人、鄂太貴人、婉貴妃、恭嬪と数すくなった上皇妃嬪の寝宮へもそれぞれを二口ずつ配って回った。

「多く配るほどないので此方も持参しました」

そういってチョコレートに白蘭地(ブランデー)を置いてきた。

惇妃娘娘には武夷半岩茶肉桂は五口置いたが不満そうだ。

「この分は始めてだな」

「壺入りでなければ届けますわ」

「ならばいらぬ」

「私の分からあと十口」

「それでよい。手間を取らすな。もう戻れ」

見送りに出た使女が「侄女(ヂィーヌゥー)のお二人が午後おいでに為られます」と小声で教えてくれた。

馬車は神武門、地安門と抜け万寧橋を北へ渡り、地安門火神廟先右手、方甎廠胡同の店へはいった。

孜(ヅゥ)に事情を話し、同じ壺入りを十口、出してもらった。

「このお菓子、おいしいわね」

「最近火神廟の参拝人目当てに出た店です。主は蘇州糕団(蘇州伝統菓子)だと言っています」

海棠糕(ハイタンガオ)というので二十買えるならと人をやると、手提げ重に入れて戻ってきた。

「あら困った。何か入れ替えないと」

薛朱蘭(シュェジュラァン)がこれをと言って、梅の花柄に彩られた提げ盆を出した。

「これなら置いてこられても宜しいので」

公主は移し替えると、出された紫薇柄(ヅゥイェイ・百日紅)のきれいな布で包んで、茶壺と一緒に武環梨と夏玲宝に腰牌を渡して届けさせた。

馬車の帰りを待つ間、去年取分け置いた“鉄観音”で菓子を摘まんだ。

巳の刻に出て午の鐘の後すぐに戻ってきた。

「喜んで受け取っていただきました。菓子もたいそう気に入ったご様子でした」

顔が普段より強張っている。

「何かあったの」

「いえ、何もございません」

「わかったわ。ご苦労様」

惇妃は一つ食べ終わると「何時もこの位気が利けばいいのだ」と二人に嫌味を言っていた。

 

この日の夕刻、庄(チョアン)の売り立て会は今年も盛況の知らせと豊紳府三種計七十五包、フォンシャン三種計七十五包に権孜(グォンヅゥ)六包の鳳凰茶が届いた。

鳳凰水仙は二十擔来た。

今回は白毫銀針(パイハオインヂェン)三百擔に寿眉(ショウメイ)二千五百擔が一緒に着いた。

すぐに鄭興(チョンシィン)に白毫銀針(パイハオインヂェン)、寿眉(ショウメイ)の到着をしらせた。

番頭が来て支払いは三日後、荷は明日引き取りに来ると言って戻った。

 

翌日

権孜(グォンヅゥ)は自分に店脇の脚夫(ヂィアフゥ)とで担いで公主へ届けに出た。

先に興藍行(イーラァンシィン)へ周り、孜(ヅゥ)への土産は三種六包みのうち半分を汪美麗(ワンメェィリィー)に届けた。

「いいんですか、半分家へ回して」

「向こうで包んだままだと両方喫す事もできないので半分こに仕分けました」

「これ豊紳宜綿(イーミェン)様の字でしょ。いいの」

半斤とはいえ高価なものと分かってきた汪美麗だ。

「本当なら一昨年から半分にすべきだったのですが、漸く気が付いたおまぬけ者です」

其処から目の前の権鎌(グォンリィェン)の店で「鳳凰鎮で買えたからお裾分け」との鳳凰水仙茶を二包差し出した。

「親父の方は」

「回り切れないので手代が一軒あたり二包届けたよ」

「気が利きすぎるぜ」

「ありがとう哥哥、今汪美麗に気が利かないと謝ったばかりだ」

「当然妹妹(メィメィ)のほうにも出したんだろ」

「支店と分店に手紙と一緒に届けたが、どの位店売りできるかも知らせるように手紙書いておいた」

「そんなに高いのか」

「向こうの市場で一擔十一両に運送費に最低二両とかかる。儲けなしでも卸で一包三両じゃ小売りは一斤銀(イン)二銭だ」

「それほど高いものではないな」

「それで手に入ればの話しさ」

「向こうから売り込みは来ないのか。洪(ホォン)の桂園茶舗はどうなんだ」

「もう五擔持って行った。あと九擔しかないよ。それと品物は何軒か扱ってる」

「まさか物持ち相手に高く売るのか」

「そのまさかさ。他にありませんと言えば高く言っても買い入れてくれる。おかげで買い手に苦労しないで捌ける」

孜(ヅゥ)は府第の通用門で荷を受け取り「店には府第へ入ったと連絡してくれ」と頼んで脚夫(ヂィアフゥ)を先に返した。

 

東鎌酒店(ドゥンリィエンヂゥディン)の朝は粥と漬物に添え物の煮込み昆布しか扱わない。 

粥の具は、米と玉米(ュイミィー)に鶏手羽、希望によって鶏卵が入るが、其れは一個無料に惹かれ、ほとんどの客がそうして喝(フゥァ・食べる)する。

幸い仲居に雇った二人はきれいに玉子が割れる。

一碗四十銭、一の日は鶏胸肉が余分に入る、その一の日には家族で來る客で大盛況だ。

二十人程度の店だが客の絶える事のない日が続いた。

朝の一碗四十銭の粥と言っても、均して百二十杯は出る、卵の入る利点は熱い粥が食べごろに為ることだ、それで回転が速くなる。

出汁は鶏骨と海帯(ハイタイ・昆布)でとる、海帯は煮込まず取り出すと刻んで甘辛く煮込んで粥の添え物に出す。

「酒店で朝酒が出ないのなぜだ」

文句なのか愚痴なのわからぬ遊郭帰りの男たちには「朝は勘定が忙しんだ。お決まりなら簡単だからだ」と変な理屈で黙らせる。

昼は希望があれば小椀で出すつもりが「朝仕事で来れないから昼粥はどうだ」という客につられ“日替わりの昼粥あります”と壁に貼り付けたら粥だけの客が増えてしまったが、権鎌はその日の材料で具を間に合わせるので特別手がかかるわけではない。

権洪(グォンホォン)と景園(ヂィンユァン)の夫婦は昼に粥を喝(フゥァ・食べる)にきてその美味さに感服した。

「哥哥いっそ東鎌酒店ではなく東鎌粥店(ドゥンリィェンヂォゥディン)にした方が楽だぜ」

「こいつかみさんがいなきゃ頭どつくぞ」

年の近い兄弟に遠慮はない。

権鎌(グォンリィェン)と穆寶泉(ムウパァォチュァン)の夫婦は料理人希望の十四の小僧と仲居二人を雇った。

仲居は前住んでいた家に住まわせ老媼を留守番に雇った。

小僧は水会の寄り合い所の孫なので、そこで寝泊まりしている。

店は朝が早い、卯の刻にしていたが、どうにも早すぎる、それで時計を買い入れて開店を六時にした。

下ごしらえはしておいても出すには四半刻は必要だ。

六月十一日(陽暦千八百零五年七月七日)の京城(みやこ)の卯の刻の鐘は時計で四時三十分ごろだ。

師走、正月は七時あたりに卯の鐘が響く。

この日、辰の鐘は七時十分に鳴った、八時で店を閉める。

十一時で昼を始め、未の鐘で昼を終わりにし、申の鐘で夕飯を提供し酉で店をしまう。

穆寶泉(ムウパァォチュァン)は無類のきれい好きで仲居が昼寝で戻ると、店を乾拭きして磨き立てる。

店を閉めると仲居と三人でまた掃除を丁寧にやって、やっと体を休めることになる。

 

六月三日

余姚(ユィヤオ)の信(シィン)の日常に変わりはい。

楊梅(ヤンメイ)は小暑六月七日が一回目の収穫だが黄紅色に為ったのはまだ少ない。

関元(グァンユアン)が久しぶりに邸にいる。

関元手元の船は三千石三艘、千石船五艘に増えた、それ以下は東源興(ドォンユァンシィン)共有名義になっている。

関元は龍兄弟に運用を任せ必要な時自分が乗り込むことした。

自慢は千石船のうち四艘の軽かな動きと頑丈なつくりだ。

邸で造船技術の本を買い集め、福州ジャンクより良いものを、南京で造らせている。

「福州で造ると、技術が蔡牽(ツァイヂィェン)たちに、流れ出ないとも限らないから」

「水軍と同程度の大船を造らせたなど聞こえて来るよ」

「商人が名義貸しで造らせ、略奪されましたで総督が認めるんだろうな」

「それも懐に一割くらい入るのだろうぜ」

大型造船所は福建に四か所。

広東、五か所。

浙江、三か所。

江蘇、安徽で五か所。

山東、一か所。

結は護衛戦闘艦を寧波(ニンポー)で、商船を南京市宝船廠(造船所)で造るのが最近の方針だ。

「三千石が南京で造れるなら一番いいんだが」

「三本マストは技術者が少ないですから、千石船を大きくしたでは成り立ちません」

 

各国の帆船の乗員数を調べると和国乗員数が圧倒的に少ない。

・南京船

元順号・船主沈敬贍

安永九年五月一日(1780年)房総に漂着。

和国尺九丈二尺(二十七メートル)。

中恰啁二丈九尺(八.七メートル)。

ほぼ千石船と同等だが乗組員が七十八人いたという。

 

・千石船

弁財船・樽廻船・菱垣廻船。

千石積

重量換算 百五十トン(容積換算千石船-百トン)

全長 二十九メートル。

幅  七.五メートル。

乗員 十五人。

二十四反帆。

江戸~大阪 六日~十二日。

 

・ダウ船

ムスリム商船-三角帆の木造帆船。

小型船全長 15mから20m

乗船員 10人~30人。

大型船全長 30m以上

乗員 400人~500人。

最大のダウ船は一隻で、ラクダ600頭を運ぶ180トンクラスがあった。

 

・マニラガレオン

コンセプション号

排水量2000トン。

全長4349m140160フィート)。

千人の乗客を運んだといわれている。

 

・イングランドガレオン

ゴールデン・ハインド 1577年建造。

フランシス・ドレーク船長

排水量 305 トン・トン数 100 150 トン・

全長     120 ft 36.5 m)・最大幅 22 ft6.7 m)。

乗員8085名。

 

・福州ジャンク。

耆英(Keying- 18468月イギリス人購入。

800トン・三本マスト。

全長160 ft45 m)・35 ft10.7 m)(竜骨)

乗員 42

大砲20門。

 

・クリッパー船

レインボー号・1845年建造。

排水量757トン

最高速度14ノット(時速26キロ)

Length 159 ft 0 in 48.46 m

Beam   31 ft 10 in 9.70 m

乗員数-不詳

1848317日以降に失踪。

 

・護衛艦-海上自衛隊

とね-あぶくま型護衛艦の6番艦-艦長は二等海佐。

基準 2,000トン・満載 2,500トン。

速度     最大27ノット以上

全長 109.0m。最大幅 13.4m

乗員     120名。

 

 

「外城河の婁門(ロォウメン)船着き脇に酒店があったの気が付きましたか」

「有ったあった。本が気になって飲もうかと誘うのも気が引けた」

「軽く菓子で一杯いかが」

「明日の金主に逆らっては不味いですな」

「そうそう、その調子で。で哥哥、勘定はこちらもち」

「そりゃいかん」

「では酒店はこちら、山塘街迄船ではどうです」

「こちもちで」

「さようです。時計の針と逆回りで閶門(チィァンメン)手前で降りられますから」

「ところで甘いものに会う酒が置いてありますかね」

「まぁ、百聞は一見に如かずということで」

来た道を戻り、酒店風に解放された入り口わきで、梅花糕(メイホワガオ)を売っている。

「海棠糕(ハイタンガオ)もあるかい」

「十分あるよ。いくつほしい」

「酒しだいだ」

「酒のあてなら両方ともイーコで十分だ」

「このおっさん、俺の家の前で菓子屋を営む、はやる店の次男だが蘇州に三軒も菓子屋を出して自分はここでかみさんとほそぼそ、適当に仕事をしてやがる」

「おい、お前自慢の酒を出しやれよ」

かみさんにしては若い娘が瓶を持ってきて席へ案内した。

「青島(チンダオ)の呂家の即墨老酒(チィームーラオチュウ)です

「娘かい」

「はい、一番上の哥哥は京城(みやこ)へ店を出しましたので手伝うことにしました」

「青島、呂(リュウ)家の酒とは懐かしい」

「ご存じで」

「子供のころ二回ほど。確か呂家は一軒だと記憶している」

「ええ、仕込むのは劉(リゥ)家、朱(ジュ)家を入れての三軒ですわ」

菓子は酒と合って旨い、梅花糕の甘みは抑えてある。

しばらく娘をからかいながら外を見ていると、船が遠めに見えた。

王均は「勘定してくれ」と頼んだ。

銀(イン)两銭(200文)は安い。

外城河の船はどこで乗っても閘門迄銀(イン)一銭。

外城河閶門側ではなく山塘街北側に船着きがある。

山塘街(シャンタンジエ)は混雑していた。

七里山塘は七狸山塘とも言われ虎丘まで続いている。

 

山塘河入り口山塘橋にある美仁狸が出迎えてくれる。

通貴橋にあるのは通貴狸、橋の上で、インドゥ少し脅しておこうと古い話を振ってみた。

「この橋の別名、瑞雲橋てこと存じているのかい」

「いや、聞いたことはないが。誰か彩雲でも見ましたか」

「明の隆慶帝二年戊辰の年(1568)橋上出現五色祥雲と記録がある」

「そりゃ古い。確か250近くも昔だ」

おっ、だいぶんと学者馬鹿でもないようだと思い出したインドゥだ。

「でも、通貴橋とはだれか偉い人でもが通っていたんですかね」

「俺の先生によれば山塘呉文端公一鵬という人が菩提庵前郭方伯某のために架けたそうだ。戊申1788)の改修で橋は大きくなったそうだ」

「どの戊申です」

「二十二年前。不思議はもう一つ彩雲橋、通称半塘橋。この橋を潜れないとこの運河は通れないほど低い」

「そうでした。昔虎丘へ行ったときに、船が遠めに通れるかと心配した位の橋がありました」

通貴橋の先に虎丘への船の出る桟橋に、商船の船着きが続いている。

文星狸のある星橋はだいぶ先になる。

「呉一鵬旧居の玉涵堂の前を回ってゆこう」

「近いのですか」

「四半里ほどだ」

橋を南へ降りてまっすぐ進めばすぐそこに玉涵堂がある。

「ところで文端公は何時頃の人です

「南京吏部尚書だったのが嘉靖帝の時代七十歳で致仕、嘉靖帝二十一年八十三歳で亡くなっている」

げっ、やっぱり書痴(書虫)だとあきれている。

一鵬故居玉涵堂
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第四十六回-和信伝-壱拾伍 ・ 23-02-19

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記


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