第伍部-和信伝-壱拾漆

 第四十八回-和信伝-壱拾漆

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

姐姐、潘寶絃(パァンパォイェン)が嘉慶四年に格格として豊紳府に入った時、あとを継いだのは合肥の梁冠廉(リィアングァンリィエン)。

五人の船長を独立させ、慰労金にそれぞれの五百石船を与えている。

頭を梁冠廉にし、それぞれが普段は別行動でも仕事の融通はしている。

中でも一番若手の宋厳丹(ソンイェンダァン)は、独立後に嫁に貰ったのは長春港の顔役の三女だった。

冠廉が邵伯鎮(シャォポォジェン)に着く前に姐姐の肩入れ、横柄な彭邦疇(ペンパァンチォウ)の噂は長春港にもとどいていた。

六月八日巳の刻(陽暦180574午前九時四十分頃)

「なんとまぁ、進士とは言え身の程知らずがいるもんだ」

「でも親父さん、正規の銀(イン)を払えば大事なお客様だ。横柄な官員に腹を立ててちゃ商売できない」

「ふん、おめえは我慢できるというのか。いくら姐姐(チェチェ)の肩入れでもよ。戻りの船を探すというならいっちょ嚙ましてやろうか」

「どうするんで」

「おめえの本拠の九江(ジョウジァン)へ一人は送れるようにしてやるよ。話じゃ宿松の人がいるようだ。その人に持ち掛けてうまく仕事にしなよ。横柄な奴には船が見つからないように手配してやる」

「冠廉の兄いの仇を取ろうというんですかい」

「ふん、商売、商売。南京から京城(みやこ)へまともに五百石船で八百両に日に十二両。三百石で六百両に日に八両が相場だ。こいつを払うならいかがでしょうと流しておこう」

「南京から京城(みやこ)へ二十五日ですぜ。千百両出せますかね。三百石でも九百両だ」

「おめえ宿松の馬陵瓜子(マァリィングゥアヅゥ)を運ぶだろうに、邵伯鎮迄送りますと云えばいい。後は一人二十両と水夫十八人で一日十二両を取ればいい。荷を半分南京(ナンジン)で引き取れば五十人は楽に乗せられる」

陵瓜子は秋の出荷、此処では前年の残りの大払いで処分を引き受けている。

売主も価格よりも損をしなきゃ儲けもの、買主は端境期の埋め合わせで商売が成り立つ。

南京で棉布(ミェンプゥ)を積んで明日の船出迄、会所で遊んでいた。


五人が会所で京城(みやこ)への便の相談をしている。

「五百石船でも二百両と水夫十二人で一日六両までだ」

「そいつは無理だ。それに邵伯鎮(シャォポォジェン)までは別にかかりますぜ」

協定値段の表を指さして教えている。

「厳丹お前の五百石船は来月京城(みやこ)へ馬陵瓜子を運ぶんだろ。安く乗せてやれよ」

「明日九江(ジョウジァン)へ棉布(ミェンプゥ)を運んで十八日に馬陵瓜子を積み込んで長江(チァンジァン)下りだ」

「どうでしょうね。邵伯鎮から京城(みやこ)へ一人二十両と水夫十八人で一日六両。あっしの力でその金額で受けさせますぜ」

「邵伯鎮まではいくらだ」

「お見かけしたところ九人ですかい」

「十人の予定だ」

「おい、宋厳丹(ソンイェンダァン)。こちらさま京城(みやこ)へ大事な御用がありそうだお役に立てよ」

「いかにもわしと此の四人は殿試に受かった進士だ」

間違いなくこの男たちの様だ。

船は五百石船、荷は半分此処で降ろすので四十人は屋根の下で休める、水夫が十八人と船頭、合わせりゃ五十九人が乗船可能だ。

南京七月二十二日発、邵伯鎮二十四日着とここから邵伯鎮は無賃でいいと決まった。

彭邦疇(ペンパァンチォウ)は意気揚々と「ここから先は自分で交渉してくれ」と出て行った。

「俺は九江(ジョウジァン)の対岸の宿松梅中垸村だがどこか近くで降りられるだろうか」

「俺たち三人は桐城(トンジョン)だが」

「安慶任店村にいつも泊まる港がありますぜ。それと梅中垸村なら知り合いもいるから寄ってもいいですぜ」

桐城(トンジョン)だという男は顔がほころんだ。

「そりゃいい、練潭鎮の俺のところまで八十里もない。二人も下僕と一緒に俺の家で一晩泊まればいい」

姚元之の言葉に馬瑞辰、張聰賢は「助かるぜ」と喜んでいる。

「それでここからの往復費用はどうなる」

「お一方只なんだから残りのお方も只だろう」

「親父さんの顔を立てて負けますよ」

「よし決まった。馬陵瓜子の漕運も安くしろよ

一堂に笑いが広がった。

「船は明日の辰に出ますので、ここへきておくんなさい。今だと朝の七時四十五分頃ですぜ」

「早めに来るつもりだが、近くに宿は有るだろうか」

「ここの裏手に五軒ほどありますぜ。宿に飯が付いての料金だ、お任せでよければ案内しましょう」

八人を連れて出て李飯店という宿へ入った。

「船の客人だ八人頼めるか」

「個室が空いてないよ」

「どうします」

「船で寝ることもあるんだ大部屋で十分」

「じゃいつもの様に頼んだぜ」

厳丹が戻ると「荷物は自分で管理してくださいよ。置きっぱなしで無くなったは困るんでね」と亭主が言う。

「お決まりの晩と朝の食事と布団が出るけど、いいものにしたきゃ一人銀(イン)一銭」

張聰賢が銀票两両と銀(イン)五銭出して「これで酒もつけてくれ」と頼んだ。

亭主はにかっと笑って「いい客だ」と出て行った。

「多少は待遇もいいだろうぜ」

「割らずにいいのか」

「彭(ペン)哥哥で気づまりだった分いい気分だ」

主従で久しぶりに大笑いだ。

「俺たち京城(みやこ)で徐(シュ)哥哥と知り合ってから、福の神が付いたようだ」

「裏は彭(ペン)哥哥か」

「ちょうど釣り合いが取れているな。好いことずくめじゃ後が怖い」

 

会所へ戻ると「厳丹、ちょとまずったな。後ろに余分にいなけりゃまとめなくてもいいが人の良さそうなのが、ああも居ちゃどうにもならん」

「なぁに構やしませんよ、二十五人いりゃ五百両は確実なんだ。儲からない荷を運ぶよりましでさぁ」

「人がいいのも困りもんだな」

「親父さんがですか」

「おりゃ好人物だぞ」

会所の男たちが大笑いだ。

 

李飯店には物売りの老婆が「南京土産にどうですか」と竹の扇子と鮮やかな紅楼夢の美女の扇子、玉の腕輪を見せている。

石葆元は父母と妹妹にと思い値を聞いた。

玉の腕輪が銀(イン)五銭、こりゃ玉じゃなくて石だと思った。

紅楼夢は派手過ぎると「その竹のものは」と聞くと一本銀(イン)七銭だという、細工が良いうえに手ごろな値に「三本くれと」逸って两両銀票を出して袖から銀(イン)一銭を出したら一銭負けてくれた。

十本並んだ木箱から選べというので図柄を変えて三本取り出した。

「包むかい」

赤い紙を取り出して丁寧に包んで黄色の糸で結わえてくれた。

「こっちは高くてね」

そういってヂィアレェン(佳人・美人)の絵姿を何枚か開いて見せた。

「十二人別々にそろえると銀(かね)三十両、全部描かれてるのは一本で銀(かね)三両」

さすがに手が出ない。

物売りの老婆は商売になったので次の店に向かった。

 

一人宿と飯で四百銭、二十五人に十九人なら一日銀(イン)十七両六銭、二十五日で盧溝橋へ着けないと儲けにならない。

水夫の分配も一日十八人六両ではあまり喜ばないだろう、割増もつけるようだ。

厳丹には裏で銀(かね)が出たとまでは聞こえてこない、梁(リィアン)の哥哥はどうやったんだろうと気になった。

いつも荷を京城(みやこ)へ出す林黄興(リンホァンシィン)の林陪演(リンペェイイェン)が会所へ来た。

南京扇子の送りの相談だ、製造元の都合で七月二十日過ぎの船を希望だと話している。

「数をあたって封印に一日かかるよ」

「いつもご苦労さんだね」

「物売りのばあさん程度ならそこまでしやしない」

百本入り十箱だという。

「俺の船に乗せないか林さん、七月二十二日に京城(みやこ)へ出るんだ。ここで荷を半分降ろすし俺の部屋に積めば雨風の心配もない」

陪演、手間いらずで目的の男にぶち当たった。

「半分降ろしゃがらすきだね」

「それがよ。ひょんなことで京城(みやこ)へ出仕の進士の人たちを乗せるんだ」

間違いない。

「そいつはいい客を見つけたもんだ」

「あまり儲けにゃならないが」

「どうだろうねその人達に手土産に金陵十二釵扇子を配っちゃ」

「冗談はよせよ。儲けどころか足が出る。な任(レン)さんよ」

「陪演さんが宣伝に配るのは」

「おっ、それがいい」

「何人だよ」

「はっきりしねえが二十五人は乗るそうだ」

考えるふりをしばらくした。

「三十六本出そう。余ったら色女にあげなよ」

厳丹、思わずあたりを見回して「馬鹿な事大声で言うなよ」いるのを白状したようなものだ。

「その代わり俺の店と荷受人の名を耳に入れてくれよな」

界峰興から東源興の出店に回るがそちらの名は伏せるように言われている。

一箱銀(イン)十両、十箱で壱百両になる儲けの種だ。

「千本も送ってすぐ売れるのかい」

「行先は、遠くは俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)迄行くんだぜ」

向うへ行けば一本銀(かね)二十五両はすると聞いたなど洞と思われる話までして「二十日に持ち込む」と約束した。

 

王均は蘇州七月二十日の船で邵伯での集合に間に合うように十五日には出ると朱徳叶(ジュドゥーイェ)と相談していた。

家に甫寶燕(フゥイパオイァン)が訪ねてきた。

「どうされました」

「いえね呂四製塩所の親戚迄行きますのさ。台鐘(タァィヂォン・置き時計)に懐(フゥアィピィアォ・懐中時計)を頼まれましてね。それで戻りが明後日の十五日ですが乗っていかれませんか」

たまには丈夫(ヂァンフゥー・夫)と船で出るのも、息子夫婦だけにしてやれるからと言ってはいるが、自分たちの事を気遣いしてくれたと思うのだった。

「時刻が分かれば王家村の船着きに出ます」

「ここへ迎えを寄こしますよ。風向き次第じゃ一刻位ずれますから」

櫂をかいて進んでいては時刻がかかる。

「下僕に若いものを付けるので二人大丈夫でしょうか」

話しはまとまり十五日の午の刻前後と決まった。

少年の名は馮元錫(ファンユァンシィ)十五歳だという、元の名を金綬(ヂィンスゥ)。

王均お気に入りの弟子のひとりだ、三年教えてきて才能に驚く中、一度は京城(みやこ)で勉強がしたいと下僕に志願した時控えめな名にした。

「三年とかぎろう。そのあとは会試を第一目標、できれば進士を目指すなら許そう」

「はい、しっかり先生の役に立ちます」

 

インドゥの一行は、六月十三日、蘇州(スーヂョウ)を発って六月二十八日天津(ティェンジン)到着。

夜船で出て七月一日(陽暦千八百零五年七月二十六日)京城(みやこ)通惠河(トォンフゥィフゥ)に到着している。

フォンシャンへの報告と新進士への激励の宴席の報告、蔡牽(ツァイヂィェン)と玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)の癒着のあらましを宜綿(イーミェン)と二人で報告した。

張保仔(チョンポーチャ)が降伏したいとの噂を盛んに吹き込むものがいた話。

「広州からは何も報告がない。降伏して官に奉公は実現しそうか」

「五千ともなると二割は逃亡の心つもりで無いと無理でしょう。張保仔(チョンポーチャ)には総兵級の役職で無いと部下が納得しないでしょう」

航路の上乗せ分は総督府というのみで、どの辺りの役人が関与しているのか特定できないと報告した。

インドゥは細かいことは粘竿処(チャンガンチュ)の仕事だと思っている。

 

蘇州繁絃(ファンシェン)飯店には続々人が集まってきた。

下僕を連れてゆくもの京城(みやこ)で雇うもの様々だが。

徐頲(シュティン)、江蘇長洲縣。

下僕-曹(ツァオ)。

孫原湘(スンユァンシィァン)、江蘇元和県(原籍昭文縣)

王均(ウヮンヂィン・王鋆),江蘇南通。

下僕-馮。

李可瓊(リィクゥチィォン)南海羅村

童槐(トォンファゥイ)浙江鄞縣(寧波)

陳鴻墀(チェンフォンチィ)浙江嘉善(嘉興市)

下僕-豊泉

九人が二十日に蘇州を出た、二十一日無錫(ウーシー)から三人が乗船。

李兆洛(リィヂァォルゥオ)江蘇陽湖。

孫爾準(スンウァールヂゥン)、江蘇金匱縣

周済(チョウジー),江蘇溪縣。

二十四日未に邵伯鎮(シャォポォジェン)崙盃(ロンペェイ)大酒店に行くと地元の二人が出迎えてくれた。

黄承吉(ホァンチァンヂィ)江蘇江都。

朱自新(ジュヅゥシィン)江蘇江都。

 

南京(ナンジン)長春港二十二日出航で二十四日申に彭邦疇達が到着した。

自分の弟子が下僕として付いてきていた。 

宿松の石葆元(シィパァオユェン)と下僕

安徽桐城の姚元之(ヤオユェンヂィ)と下僕、

馬瑞辰(マールゥイチェン)と下僕

張聰賢(チャンツォンシィェン)と下僕。

二十四人になったがあと四人来るはずだという。

「二十六日の巳の刻に船出だ」

彭(ペン)哥哥は厳しいことを言う

初日は夜船を考えてきたという。

「少しでも日を詰めれば出費も少ない。ここから一人二十両、水夫十八人で一日六両。飯は来た時と同じで宛がいぶちだそうだからいいものに酒は自腹だ」

とうとうと安く契約したと自慢が激しいが、話がそれほど違うわけでもないので誰も口を挟まない。

一覧表を回覧させてきた。

二十九日間の旅の工程表だ。

「船頭にも渡してある。三回は夜船になる予定だ。遅れが出れば増えるだろう」

徐(シュ)は王均と顔を見合わせていたが、あきらめの表情だ。

「遅くも閏八月一日に着かねばならん。余裕は六日だけだ。詰められるところは詰めてでも着くように考えた」

その演説をしている途中で四人がそれぞれの下僕とともにやってきた、

胡承珙(フゥチァンゴォン)・安徽涇縣

呉存楷(ウーツゥンカァィ)・杭州府錢塘縣。

蘇繹(スーイー)杭州府錢塘縣

胡敬(フゥヂィン)・浙江仁和

気をそがれたようで後でよく見ておいてくれと卓へ広げた。

「誰か銀(かね)を集めて人数分の二十両を預かってくれ。水夫の一日六両は除けた二両の分とこの間の残りから毎日渡す約束だ」

わざわざ難しくして「どうだ出来るならやってみろ」感がある。

朱自新(ジュヅゥシィン)が頼まれて名前を書いて銀(かね)を集めた。

三十二人分六百四十両分の銀票と六十四両の銀票に分けた。

「王均哥哥、徐(シュ)哥哥、孫(スン)哥哥」と呼ばれて銀票を集めた卓へ行った。

「どうした」

「これじゃ不足しますよ」

「当たり前だ。都から出るとき孫(スン)哥哥と徐(シュ)哥哥は五十両ずつ出してくれたからできたんだ。一日六両二十九日の大きさが分かっていないのだ。後で泣きついてきたら何とかするさ」

話あうと個別に宿で泊まりを三十日だと最低でも十二両が必要で、それを半分に往復旅費支給したのが内務府会計司だ。

これはすべて徒歩で、船、馬車を使えば二十両などあっという間に使い果たす。

「そうさ、徐(シュ)哥哥は契約を総額でしてから割り振った。一人二十両というのが安いと思えたんだろうが。船主だってほとんど儲けなど出無い金額だ」

「そうだな。半分近く荷があるから、それでやりくりするんだろう。いくら安宿でも朝晩食えば銀(イン)三銭で泊めてはくれんよ。仮に銀(イン)四銭で二十九日をかけてみろ。夜船をかけても先へ進めはありがたい話のはずだ」

「夜船をかけられるところは物売りも多いから買い食いもできるぞ」

「冷えた瓜でもあれば夏の楽しみも増える」

「その分、蚊にご馳走を献じるのがおちだ」

朱(ジュ)が現れた彭(ペン)哥哥に「三十二人分六百四十両は私から渡しますか」と聞くと自分で渡すと言って状袋に入れた。

六十四両の方を渡すとにわかに顔色が変わった。

「なんだこれは」

三十二人の两両は六十四両ですよというと冷や汗を流し始めた。

慌てて別の状袋から前の残りを出して袋ごと朱(ジュ)に「毎朝六両ここから渡してくれ」と船代の状袋を抱えて逃げ出した。

孫爾準(スンウァールヂゥン)と黄承吉(ホァンチァンヂィ)が怪訝な顔でやってきた。

「何かあったか、えらく青い顔して部屋へ入っていったぞ」

「銀(イン)が足りないことにようやく気が付いたんですよ」

「えらく自慢してたが、やっと気づいたのか」

「気が付いていたんですか」

「徐(シュ)哥哥は総額で契約したから金が残った。一人いくらじゃ船旅は出来まいさ」

「どのくらい足りなくなりそうだ」

八十五両に六十四両で百四十九両。

「予定通りなら、二十五両ですね。今晩と明日の支払い個別に集めますか」

「いや彭(ペン)哥哥が頼んだ後だ、集めなくても何とかしよう」

孫爾準と黄承吉は两両の銀票十枚ずつ出した。

「これで毎日の六両の不足を補いなさい。今日明日のは心配するな。そのつもりで壱百両余分に持ってきてある」

話しを豊泉から聞いたと陳鴻墀(チェンフォンチィ)が来て、五十両の銀票を朱(ジュ)に渡し「余るのが確実になったら盛大には無理でも賑やかにやろう」と笑っている。

茶を楽しみ談笑していると彭(ペン)哥哥が青白い顔に何事をか決心した様子でやってきた。

実はということから始め、思い違いをしていたことを認めた。

「ここに百両ある。明日の宴席の支払いと日に六両に不足が出たらこれで補ってほしい」

漸く素直になったと孫(スン)哥哥と黄(ホァン)哥哥は「すべて解決済みだ心配無用だが。二十両宴席へ負担してくればそれだけ卓が賑やかになるがどうだね」

顔色が戻ってゆく、徐(シュ)は人間て正直なもんだなと思うのだった。

两両を十枚数えて朱(ジュ)に手渡した。

黄(ホァン)哥哥は仲居に「これを追加だ」と手渡しさせた。

にっこりして仲居は「全部使ってよろしいですか」と聞いて居る。

「チャオズウカン(敲竹槓・ぼったくり)はやめてくれよ」

「京城(みやこ)へ遊びに行ったらご馳走してくれれば、そんな事しませんよ」

朱(ジュ)は「ここにいる皆でご希望通りに」と言っている。

何やら姻戚ででもあるような言い方だ。

二十五日の昼。

下僕たちの席も大ご馳走ではしゃいでいる。

蝦仁鍋巴(おこげのエビあんかけ)には手をたたいてはしゃいでいる。

いつも口うるさい彭(ペン)哥哥が、何も言わずに黙々と食べているのを気に架ける者はいない。

当たり障りのない受け答えに終始しているのが不気味だと徐(シュ)が思っている。


七月二十六日邵伯鎮(シャォポォジェン)出航。

彭(ペン)哥哥が三十二人分六百四十両の乗船費用を渡し「この後は十日ごとに六十両この男が渡す」と朱(ジュ)に用意した銀票を出すように言いつけた。

どうやらもとに戻ったようだなと徐頲(シュティン)と孫(スン)哥哥は船端で見ていた。

会計が確かにと受けとりを書いて彭(ペン)哥哥が受け取り朱(ジュ)に渡した。

「船宿で行き届かぬところもあるでしょうがご勘弁ください。船での朝晩の飯は皆同じなので足りないときは物売り船から調達いたします。遠慮はご無用に願います」

「ほう。前の話しよりだいぶ待遇は良さそうだ」

「南京で京城(みやこ)への荷で儲けが出ましたので、少しは余裕が出ました」

前なら割り前とでも言いかねないなと孫(スン)哥哥は耳元でささやいた。

「これは乗船記念で、其の荷の荷主からお分けしてくれと頼まれました」

金陵十二釵の扇子は高級品だ、その割にがさばらない。

東源興(ドォンユァンシィン)の名をつかわずに甫寶燕(フゥイパオイァン)が船の名を調べて南京到着五日も前に仕組んだものだ。

船の会計は「宣伝になるから送り主に荷受人の名をそれとなく教えてくれ」と小遣い迄もらった。

会所がいつも同じような荷をやり取りしているので不思議ともおもわず「任せとけよ」と胸をたたいた。

「南京貢院街の林黄興(リンホァンシィン)から前門(チェンメン)の界峰興(ヂィエファンシィン)へ送って京城(みやこ)で人気の扇子ですぜ」

下僕ももらえ、広げて嬉しそうに扇いでいる。

「何本くらい積み込んだ」

孫(スン)哥哥はきれいな彩に顔がほころんだ。

「さてね、封印付きで十二箱、ひと箱壱百くらいでしょうかね」

二箱増えて実入りも増えた。

「封印迄あるのか」

「水夫の中にゃ一本くらいとかすめるやつもいると会所が封印するんですよ」

「なんだ送り主じゃないのか」

「高いもんですからね。会所も慎重でさあ。きちんと数まで当たっていますぜ」

石葆元(シィパァオユェン)はあの時見たものとは出来が画然(がくぜん)と違うので驚いている。

「土産売りの老婆は程度が落ちるのでも銀(イン)三両だと言っていました」

それを聞いて一同は唖然としている。

会計は厳丹から二本もらって大切にしまい込んだ。

厳丹め出航前、嫁に「シァンヅゥ(扇子)一面、先に貰っておけよ」と一本渡してきている。

百六十八里進んで二十七日に安宜鎮(アンイーヂェン)で泊った。

八十六里で二十八日は淮安(ホァイアン)。

百里で二十九日に泗陽縣。

五十八里で黄河(ファンフゥ)を横断してさらに五十里、八月一日は宿遷(スーチェン)に停泊。

百十六里かせいで二日に邳州(ピーヂョウ)。

百二十里進んで三日に大呉鎮(徐州・シューチョウ)を通過。

夜船をかけて百七十二里で四日は張楼鎮(徐州)を過ぎて南阳湖、昭阳湖、独山湖、微山湖,合称南四湖に入った。

 

微山湖(ウェィシャンフゥ)と繋がり十里で王庄(ワンヂィアン)へ辰に着いて泊まったのは眺めの良い宿だ。

五日、王庄(ワンヂィアン)で余裕が出たので一日村をまわった。

祭礼なのか大勢の人が廟に参っている、梁山伯と祝英台を祭る廟だという。

浙江の話しのはずの廟が此処にあるとは皆なぜかを知らない様だ。

拉洋片(ラーヤァンピェン・西洋鏡)に人がたかっている。

西湖景の解説を節をつけて人寄せをしている。

見終わると満足した顔で次の六人と入れ替わってゆく。

夜は王均と徐頲(シュティン)が余分に出して食卓が豪華になった。

漂湯魚丸・微山湖咸鴨蛋・靠河沿・霸王別姫・麻鴨卧雪

靠河沿に甲魚(スッポン)の味がしないと文句が出たが「こいつは鍋の形で中身じゃないのです」と女老板(ヌゥーラオパン)が教えてくれた。

その代わり霸王別姫には鴨と魚(スッポン)が使われていた、虞美人と何の関係があるのだろう。

昼間の祭礼と云い不思議な街だと大笑いの食卓だ。

麻鴨卧雪は疲労回復と解熱、解毒、視力回復と効能が語られた。

 

六日は八十里で前陳店。

七日、七十六里で濟寧(チィニン)。

八日、六十里で南旺鎮。

九日は百零六里で梁山縣。

十日、百零六里で週堂村。

十一日、五十六里で申に聊城(リャオチェン)に着いて夕方の街を歩いた。

十二日、八十八里で臨清。

十三日、百零八里で武城。

十四日、八十二里で徳州(ダーヂョウ)。

十五日。百十四里で東光縣。

十六日、百四十里で阜城縣。

十七日、四十六里で南皮縣に船止めで、先が混雑して船中一泊。

十八日、八十四里で前日予定の滄州(ツァンヂョウ)に泊った。

十九日、壱百里で青縣二十里屯村。

二十日、二十六里で長張屯村に船止めで先が混雑して舩中一泊。

二十一日、八十里で前日予定の静海縣に泊まった。

二十二日、七十六里で天津(ティェンジン)北部の郎園村停泊。

翌朝、永定河乗り入れ。

二十三日、八十里、廊房安次に泊った。

二十四日。百零三里で固安縣に船中泊。

二十五日、八十四里で申(午後五時十分頃)に盧溝橋へ到着。

 

郎園村から宋厳丹(ソンイェンダァン)が手配した宿へ泊ることになった。

彭(ペン)哥哥が作成した予定とは違う泊まりとなったが、予定の日時にぴったりと盧溝橋下手一里の船着きへ着岸させた。

「さすが、商売だけあるな」

これには彭(ペン)哥哥も文句は言えない旅となった。

拱極城(宛平城)に沿って小川があり持ち主は元太監と噂されている。

百人程度泊まれる商人宿と庭で区切られた高級飯店がある。

案内した厳丹が到着を告げると飯店へ案内していった。

「商人宿をお願いしたはずで」

「店主に指示が出たんで厳丹さんの方へ請求は出ませんよ」

ああ、誰かの耳に入ってのふるまいかと引き下がった。

広い園内を横目に見て仲居が名前を聞いて部屋へ案内し「時計をお持ちでしたら四十分後。ここの時計で六時二十分にお集まりください。宴席の用意をさせて頂いております。お会計は済んでおりますので追加以外は必要ありません」と仲居に案内をさせた。

徐頲(シュティン)と王均とがとなり合わせだが、下僕の部屋も付く離れだ。

同じようなものが遠くまで続いているように見えた。

「俺たち桃源郷へ迷い込んだか」

「どこのだれか知らないが京城(みやこ)入りに合わせて用意したのだろうか」

宴席で鼻高々なのは彭(ペン)哥哥だ、さも自分の手柄顔をし始めた。

 

御秘官(イミグァン)の太監組織の隠居仕事だ、康熙帝玄燁の時代に与えられた土地だ。

インドゥは知らされているが、関与しないように言われている。

宦官(綿寧の太監)の康藩(カンファン)から名目上インドゥは引き継いだがその前の代の袁洪玄(ユァンホンシュアン八十八歳)が此処を預かっている。

いずれ康藩の時代も来るだろうがまだ四十一歳といういう壮年だ。

内城、外城の隠居太監はここからの給付で楽隠居、もしくは明代から続く雑多な汚れ仕事を請け負っている。

袁洪玄の仕事はお飾りだと思うものが大半だが、頭脳はいまだ明晰と言われている。

広州の出と言われている、先祖に明の袁崇煥がいるとも噂されるほど頭が切れる。

漢軍正白旗に同族がいるという、結と御秘官(イミグァン)をつなぐ鎖の一つだ。

拱極城内には出世に縁のない宦官の身内が三十軒ほど小店で商いを営んでいる。

いざとなれば全国へ行商に出て情報を集めてくる。

 

翌朝一同は散会してそれぞれ予定された外城の宿へ向かった。

徐頲(シュティン)に王均(ウヮンヂィン)、孫原湘(スンユァンシィァン)の三人は幹繁老(ガァンファンラォ)へ帰着の挨拶をして延壽街の縣會館へ入った。

帰郷前に出仕に戻れば家が決まるまで此処へ逗留と予約済みの宿だ。

前孫公園胡同の錫金會館には孫爾準に李兆洛、周済の三人。

彭(ペン)哥哥はお気に入りの全浙會館だそうだ、南京(ナンジン)の彭邦疇(ペンパァンチォウ)と全浙會館のつながりは本人も言わないので誰も知らない。

試館の変更の無いものがほとんどだ。

 

徐頲(シュティン)の初出仕も無事に済み、品級別に住居が示された。

禄米蔵の南側だ王均(ウヮンヂィン)と孫原湘(スンユァンシィァン)は北側大方家胡同へ家が与えられた。

この付近南小街というらしい、趙堂子胡同には北に十二軒、南に十二軒の家(裏口)が並んでいる。

二人は翰林院庶吉士と難関を突破しても研究生扱いで三年はまた勉強が仕事になる。

三人は同じ道で通うことに為る。

徐頲(シュティン)の間口四間の住居は古びている、家族を呼び寄せるには余りにもひどい。

閏八月七日までに家移りを済ませて翰林院へ出た。

住まいからほぼ五里有る。

雑用を言いつけられ、その日を無事に過ごすと、翌日からは膨大な資料の整理が待っていた。

住まいは下僕の曹(ツァオ)が毎日磨き上げている。

 

月に食い扶持と付き合いで銀(イン)三十銭で賄うように言い渡した。

禄米蔵と貢院の間の官員ばかりの住まいが集まっている趙堂子胡同でも、食材は朝晩売りに来るので遠くへ出る必要もない。

米と雑穀、豆類は支給されてきた。

家の周りの下水迄掃除して水はけは近所一となった。

周りは六品、七品の年寄りが多い、家族持ちは同じ家並に十五軒もあるという。

小さな子供も十人ではきかないくらいいるという。

曹(ツァオ)はお裾分けと称して順に菓子に果物を配っている。

主より曹(ツァオ)の方が有名人だ。

一回り一角のものに覚えてもらうと今度は茶のいいのが手に入りましたとふれて家で周りの下僕、下女を接待する。

小作の一日の仕事量からみれば楽ができるという。

この俸給でどうやって家族を養えるのだと徐頲(シュティン)には信じられない胡同だ。

翰林院編修、三十二歳にして正七品、年四十五両、四十五斛の俸給ではこれが精いっぱいだと思うのだ。

自分の小遣いのつもりの六十両を大事にしないといけない様だ。

斛=五斗、十斗一石=百リットル。

日本-米一俵四斗、十斗一石=約百八十リットル。

七品鸂鶒,朝冠頂飾小藍宝石,上頂素金頂,吉服冠用素金頂に二十五両も掛った。

曹(ツァオ)は小作だが家族が多い、息子に家を任せ年二十吊(銀(イン)二十両)で付いてきた。

言いぐさが良い「旦那様の気が付かない付き合い、掃除、食事すべてこなします」と妻に申し出たそうだ。

家の差配でさえ年銀(イン)二十両だが、ただの帳付けだとまで言ったという。

半月もすると趙堂子胡同を訪ねてきた王均(ウヮンヂィン)も驚く一角に変貌していた。

馮元錫(ファンユァンシィ)は、曹(ツァオ)に聞いて王均から食費の別に銀(イン)二十銭出してもらうと、同じように周りをきれいにすることから始め頼まれごとも喜んで引き受けた。

一軒一軒回るより、昼の後に茶と菓子が供されると知れ、近所の下僕のたまり場となった。

少年の元錫は人に溶け込むのも早かった、小さな子たちに字を教えるところから始めだした。

孫原湘は人入れの世話で四十台の叶一鳴(イエイーミン)という男を月食費込みで銀(イン)十二銭で雇った。

朝の粥は上手に炊くが主の倍は食べてしまう。

それでも最初の月の食費は二人で銀(イン)二十二銭で済んだ。

庶吉士で正九品と同じように三年扱われる。

九品(俸銀三十一両五銭,禄米十五石七斗)これでは服を新調もできない。

九品練,朝冠阳文鏤金頂,吉服冠用鏤花素金頂は銀(かね)二十両もする。

蘇州で興藍行(イーラァンシィン)が送金などの世話を見ると言われたが、選別などで二百両が集まりそれを預かってもらった。

ほかの二人も同じように小出し以外は預かってもらうことにした。

出世競争に敗れても、田舎に引き込むことのできない下級官吏が、大勢京城(みやこ)にいた。

八旗の先祖の功績で、世職を受け継ぐものなら少しは楽をできるが次男、三男は自力で出世の道を進むしかない。

この付近は鑲白旗の満人と漢人の雑居地域だ。

禄米蔵の役人の方がえばって歩いているくらいだ。

 

趙堂子胡同に五日に一度(一と六の日)人の出入りの激しい家がある。

主は五十過ぎの山羊髭の太った男だ、息子が詹事府右中允だと聞いた。

皆小さな紙袋を持って出てくる。

九月三日、休みの徐頲(シュティン)がぶらぶら付近をうろついていると、呼び止めて家で茶を飲ませてもらった。

友人が別けてくれた鉄観音烏龍茶に似ていると言った。

「ほう、噂にたがわずいい茶を飲んでいなさるようじゃ。これは三か所の鉄観音烏龍茶の内どれだと思いなさる」

『福建鉄観音』と『安溪鉄観音』は覚えているが其れとは違い少し酸味がある。

「南岩鉄観音を知らないのですが。それでしょうか」

「あたり。先のフォンシャンが名を付けたなど喧伝にやかましいがいい茶だ」

その間にも何人か来た、おいてある袋を一つとると三十文おいてゆく。

「ありゃ闘蟋(ドウシィ・蟋蟀)用の餌だよ。蝦に川魚に黄豆粉ともう一つ入っている

四半刻の間に十人ほどやってきた、すべてなくなった。

「今約束は二十人分、これで今日は終わりだ」

そうこうしていると品の良い老頭(ラオトウ)が来て「噂を聞いたが餌を分けてくれんか」と頼んでいる。

「十回連続の約束なら応じます」

「今日は」

「あんたのような人のために余分は有るよ。一袋三十文、五匹の六日分だ」

「そんな安くていいのかい」

「餌で儲けて生活はできないさ。自分用を作るためには金がかかるんでね。仲間内への小分けをしているんだ」

「では十匹分を毎回頼めるかね」

「今日は一袋、次回から二袋」

「わしゃ、董(ドン)という、わしが来られないときは」

「住まいは」

「東城北羊肉胡同」

「ペェイイァン(北羊)の董(ドン)と言えば渡すよ。一と六の日だけだよ」

供から三十文渡されて支払い、袋をもらうと嬉しそうに出て行った。

「蟋蟀のいるようには見えないが」

「金魚池に家族がいてそこで千匹以上飼っているんだ。去年十両以上の値が付いたものが十八匹出てわしの餌仲間が受けに入ったのさ」

「大きく売ればいいのに」

「そんなことしたらわしたちの蟋蟀が負けてしまう。大損だ」

同じような餌の師匠は十人ではきかないくらいいるという、種親の有名なものは銀(イン)百両の値も付くことがあるという。

百匹に三匹程度、期待できるものが産まれると大当たりだと教えてくれた。

皆自慢の餌を仲間内で共有している、普段の餌で無く、戦う準備の餌だそうだ。

何時からその餌に切り替えるかも重要な秘密だという。

閏が入って重陽がずれ飼う方も調整に必死だ。

八月、閏八月と徐々に会の場所が増えるという。

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、閏月はこの規定に従った)

九月いっぱいはあちこちで闘蟋(ドウシィ)の大きな会が開かれている。

さっきの老頭(ラオトウ)も成績が良くないのだろう。

「そんなこと話してもいいのかい。それに仲間と違う人にも餌を分けたりしていいのかい」

「成績が上がれば次は俺たちの蟋蟀も欲しくなるからさ、できるものなら挑戦してみたらどうだい、促織経でも読めば少しはわかるぜ」

徐頲(シュティン)は蟋蟀も鶉も興味はないのでそういって断った。

それでも促織経という指南書は読んでみたいと思った。

「戦わせるより鳴き合わせの会は有るのですか」

「いくつかあるよ、蟋蟀自慢に籠自慢が多いな」

瓢箪を繰り抜いたもの、細工の細やかな物は観賞用で高価だという。

 

第四十八回-和信伝-壱拾漆 ・ 23-02-28

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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