二十七日の午、荒川関川村の船着きで降りて一里(和国九町)ほどで表門へ着いた。
母屋の前に帳場の建物がある、ここで酒の小売りもしているという。
積み上げたこもかぶりに見事な字体で“ 雪桜 ”としてあり、升が大小百ほども飾られている。
角樽も二十ほども並んで、一升徳利まで見事な出来栄えだ。
母屋の西に手入れされた広い庭が付いている。
ご先祖様の道楽だという、大きな石は京鞍馬、小豆島から運んできたと聞いていると教えてくれた。
余姚(ユィヤオ)屋敷に劣らぬどっしりとした造りだ。
チゥ(厨・台所)の隣の部屋には大きな囲炉裏がある。
ラォレェン(老人)が二人火の番をしている。
養父は文人と付き合いが広く、文芸にも秀でていたという。
十歳という幼い時に中条分家から養子に入り、家を継ぎ番頭たちの助けで家財を豊かにしたという。
信は最初わがままな贅沢者かと危ぶんだが、夜の宴席は八十人ほども列席した割に質素に見えた。
大きなヂゥオヅゥ(卓子)にダァンヅゥ(凳子)が用意されている。
十人が座り、客は次の間に正座している、信たち四人の顔が見られるように椅子は片側に並んでいた。
荒々しい造りのヂゥオヅゥ(卓子)は信のために作らせたようで、木の香りも好ましい。
料理は主、客共に同じもので区別はない様だ。
鰤の塩焼き、鮭の酒蒸し、鮑の旨煮のほかは野菜の煮物くらいだ。
簡単に「客人の来訪を祝いましょうぞ」と盃を上げて宴会が始まった。
銭五は顔見知りの船頭に酒を注いで回ってきた。
酒は自家の物と近在の酒蔵の物だという。
宴が進むと「膝を崩せ。遠慮するな」と三左衛門が声をかけた。
「おおっ」
声が上がるということは正座に我慢していたものもいたようだ。
銭五は「この人数に鮑をそろえるとは手が込んでいますな」と酒を運んできた中年の女に大きな声で伝えている。
「銭五様にとってはお口汚しでございましょう」
謙遜なのだろうと和人の習慣に慣れてきた信は思った。
「鮭が今年も遡上が始まりましたようで」
「ありがたいことでございます。三面川ならずとも荒川にも入るようになりました。荒川の網は日に一度ですが、今年も許しが出申した」
信は贅沢とは目立たない気配りだと気が付いた。
俵物の鮑、川の鮭、沿岸の鰤、土地の冬野菜、心と手間が掛かっている。
銭五と庸(イォン)は鮭を小皿のジャンイォ(醤油)へ漬けて食べている。
出された小皿のジャンイォ(醤油)がいい香りがする。
信が隣の若い男に言うと「そこの髭の爺様の自慢の醤油でございます」と身を引いて教えた。
近くで醸造しているのだそうだ。
藻屑蟹の味噌汁は濃厚で旨い、土地の酒とも相性がいい。
「海老江で一晩宴席をというのはこれの準備のためでしたか」
「いいや。今日の宴席は前から決まっておりましたのさ。信様のために特に気張ったわけじゃありませんよ」
酒を注いでくれた女が替わって答えた、自分へ問いかけたと思ったようだ。
「ははさま。それじゃいつも我が家が贅沢しているようにとられますよ」
此処では松江藩士の信孝ではなく和信(ヘシィン)として認識されている。
クンファ(髠髪)の庸(イォン)が江戸弁で女たちに冗談を言うので驚いている。
屋内で信と庸はクンファ(髠髪)を隠してはいない。
庸(イォン)は大吉郎と盛んに盃を交わしている。
朝餉は一汁一菜、チゥ(厨・台所)に続いた部屋で三左衛門と五人で食べた。
続き部屋、囲炉裏の周りでも家族が食事を始めた、座敷にいた猫は台所へ呼ばれて土間へ降りて行った。
煮干しの頭に出し殻となった胴体に何やら混ぜて与えられている。
薄味の味噌汁に豆腐とワカメが浮いていた。
一菜はこれも薄味の野菜の漬物だ、和国それも北の食べ物は塩辛いと聞いていたが長く漬けたわけでもない様だ。
信が嬉しそうに食べているのを見て不思議そうに思っている給仕の女たちだ。
銭五が助け舟を出した。
「聞いた話ではお屋敷での朝は、粥と野菜の火を入れたものだそうです。粥へ味を足すヂィャァツァイ(搾菜)という漬物が付くか、卵が一つつくかだそうです。母君も同じような食事で、ただ卵は温かくしたものを好まれるのだそうです」
「唐人の聞き書きだと、朝から卓から溢れんばかりの御馳走が並ぶと書いてあるそうで」
「それは驕り高ぶった人の話ですよ。ただ格式に従った宴席は豪華絢爛だそうです」
三左衛門は嬉しそうにうなずいている。
「これでこそ、結と御秘官(イミグァン)の後継者です。我が家の食事に顰めっ面でもされたらどうしようと心配して損しました」
渡邊家では粥の日、玄米の日、添え物は一汁一菜と分けてはいるようだが宴席といえど、格式の必要な場合を除き質素なものだという。
たまに昼に饂飩を打ったり、蕎麦を打つと大賑わいになるという。
食後に屋敷外の蔵を案内してくれた、今年の米も続々と馬で運ばれてくると戸前に積み上げている。
例年十二月の二十日からここへ運び込まれる決まりだという。
まず大坂、江戸表に運び出すのが先になるそうだ。
蔵から運び出す米俵についてゆくと頑丈な蔵に着いた。
蔵の背後は雇人の住居が五十棟ほど並んでいる、猫が十数匹日向でじゃれあっている。
開けてある扉裏に“文化七年庚午米沢”と墨書された板が張られていて、まだ墨も乾いていない。
米沢藩の物だという米は備蓄米にされているそうだ。
「これは昨年の収穫米です。四斗俵で六百俵が備蓄米となります。三か所の蔵を古い順に結の連絡のある飢饉の地方へ送ります。いくら必要でも年に一蔵しか開けません。微々たるものですが多くの地方からの要請にすべて応えれば自分たちが飢えることになります」
いつの間にかあの老人が後ろに来ていた、もしかしてこの移し替えを見せたかったのだろうか。
「村上藩、米沢藩、新発田藩の要請はこの蔵を使わず別の蔵を当てています」
運び込む人足は冷たい風の中でも汗をかいている。
「その人足たちは日に百五十五文稼ぎます。この地では四十文で玄米一升が買えます。一人ものなら食えますが酒飲みでは楽ではありません」
白米は宴席の御馳走の一つだという。
ラォレェン(老人)は「お江戸ではお会式で“一貫三百、どうでもいい”と声をそろえて寺参りをするそうで職人が千三百文稼げるならと本気で江戸を目指すものも出ます」と話した。
信は譲られた本にその画を見たことがある。
「街場のほうが実入りはいいでしょうが、掛かりも多いはずですね」
「そうですじゃ。熟練の大工で銀五匁四分、最近は六百文あたりが相場だそうですが、これがなかなか稼げませんのじゃ。下職、人足では二百文と言われています。江戸で二百文ではどうにも立ちいかぬでしょう」
渡邊家では昨年(庚午)、今年(辛未)と自家の水田で一万俵(二千五百石)の収穫があったという。
昔五斗俵だったがそれを四斗俵に規格が変わったという、米沢藩から毎年二千五百俵が渡邊家に入ってくる。
小国からここまで五里十町、馬で運んでくる小国の御蔵米は海老江まで運ばれ、北前船で大坂、江戸へ運ばれる。
米沢藩では最上川を下り、酒田からも送り出している。
この地で玄米一升四十文の物が、江戸では白米一升百二十文だという。
細い水路の橋を渡り屋敷内へ裏門から戻り、酒蔵、米土蔵、味噌蔵、金蔵などを見て回った。
ラォレェン(老人)は「この金蔵はいつも空いておりますから、幾らでも預からせてもらいます」などと冗談交じりで勧めてくる。
「カリブという遠くの海では昔海賊が大暴れし、西班牙の金貨、銀貨満載の船から略奪したそうです。その宝を隠したという話が幾か所もあって、和国にも船一杯の金が隠されたと噂されていますよ」
「見つけたら一夜にしてお大臣の仲間入りですな」
蔵は母屋の北から東にかけて並んでいる。
母屋の台所の竈は二つ、大きな釜が据えてある。
「ここはつなげれば二百人の宴席がしつらえられます」
今日も囲炉裏番に二人の老人が座っている。
米沢藩は借金の形に勘定頭格四百五十石を与えた、仕事は伯州鉄と雲州鉄を海老江で受け取り米沢へ運ぶことと、粟島の管理だ。
江戸は火事が多いとも聞いたというと、我が国は家が燃えても木材が豊富ですぐに建て直せると老人は自慢げに言う。
本家、分家を含めいつもどこかで新築、改築が行われていて大工との繋がりがあるという。
二十三年前に火事で建て直したが、手入れは何度もされたそうだ。
天明八年(1788年)焼失し、すぐ同じ規模で建てたという。
そういえば裏門付近の塀も新しく見えた。
「信様は風水、占いの類を信じますか」
「陣を張る、城砦を造る時に風水は役立つと習いました。占いは易が古来より未来を見る指針と言われています。叔父は易によって未来を見ることにたけています」
「我が家の家相を見た易者が近い将来火災の害に合うが、新しい家を建てるとき指針を示す人の言葉を信じれば、二百年安泰だと教えてくれました。ここは川が近いのですがその二百年先に水害により家が汚されるが、壊れずに済むといいました」
「近い将来とは難しい言い方ですね」
「わしの代は間違いないようですな。生涯で二度家を燃やすとは因果なものです」
二十六年前、天明五年(1785年)十歳の時中条分家より養子相続したという。
「火事は注意しても貰い火ということもあります。まず逃げることが大事です」
「消さずにですか」
「なれないものは小火でも慌てます。水の手がないのに無理をしては命を失います」
「確かにそうですな」
「城砦は守るには周囲を水で囲います。これはどこの国でも同じと聞きました」
「そうですのう」
「火事から守るには城内に池、もしくは川が必要です。建物の東西に動く水、南北に井戸が基本でしょう」
水龍(シゥイロォン)のことを話し和国には龍吐水という名の機械があると聞いたと話した。
「江戸の職人に十五両出して造らせたが屋根まで水が届きませんでしたよ」
「わが邸のは十五丈が基本ですが銀で四十両掛かりました」
「だいぶ安いように聞こえますが」
「銀で和国の四百匁、金に直せば四両、和国の重さで四十匁でしょう。性能の良いものは倍します」
ここのところ換算をすることが多く大体の数字はすぐに出てくる。
ほぼ同じくらいだが性能は段違いのようだ。
和国一丈は十尺(3.03メートル)、清国も十尺だが量地尺でも一割近く長い(3.45メートル)。
置いてある龍吐水というものを見たがこれではだめだと断定する信だ。
「父の持っていた本の画では龍吐水は布の筒で用水桶から水を吸って竹の筒から水を送り出すと説明が書いてありました」
「布ですか」
「和国でいえば印半纏の生地を丸めるのだと思います。さすれば水の漏れも少ないでしょう」
からくり儀右衛門の雲竜水はまだ先の話だ、それでも五間から六間程度だったという。
上関分家の儀右衞門宅へ向かった。
船を降りた場所近くにその家がある。
上関口留番所の跡があり土塁が残っている。
「わしが相続したころは米沢様の代官がここへきておられましたが、三年後に会津様のご領地になり廃止されました」
そのころ米沢藩では代替わりがあり渡邊家では貸付金古借一万千三百六十両を無利子、永年賦償還とし、分家は二百石を与えられた。
当主は宴席で信の隣に座った若者だった。
街道沿いの家並みを見て回り働く人たちの様子、街道を行き来する人の様子を見た。
大根を稲架掛け(はさがけ)して干している。
切り干し大根にするのだという。
翌日朝、銭五と大吉郎は船で先に海老江まで下り、信と庸は馬に揺られて渡邊三左衛門の生まれた家へ向かった。
荒川沿いを二里ほど下り西へ向かった。
越後街道を南へ進み、胎内川を渡った先にその家がある、馬子の話では下関からここまでで五里ほどだという。
「善映様」
「困ります父上」
「いやいや、いくら我が家でも今は善映様が御本家当主、米沢藩勘定奉行格でもあるのですぞ」
母親が茶を出してくれた。
頭巾の信と庸(イォン)は口元を覆う布を外し「髷ではないのでこれで失礼」と喫した。
「宇治から取り寄せました」
「良い香りです。いい水をお持ちのようで気持ちが和らぎます」
信の言葉に母親はうれし気にうなずいた。
この家では小千谷縮を扱っていた、この頃の小千谷は会津藩預かり領だ。
青苧(あお・苧、苧麻を含む)、苧(からむし)、苧麻(ちょま)を酒田、山形、米沢から小千谷へ運び、出来上がった小千谷縮を各地へ卸していた。
四月ともなれば小千谷、堀之内・十日町には全国から仲買が集まってくる。
高級品は定信の政策で生産できず、商いは半分に落ちている。
国内を冷えさせ、異国の脅威に怯え、それでも名君と言われるのは誰のための政策政治だったのだろう。
武士が権威を取り戻す、それは戦国の世なら通用した話だ。
下級御家人、旗本を救済するどころか困窮させても気が付かなかったようだ。
各地の産物を売って経済を立て直そうと励む大名にとって、痛手は広がっている。
家を辞去し、先ほどの渡しで川を越え、海まで下った。
浜沿いを北へ向かえば海老江の湊まで三里ほどだという。
松林が延々と続く浜辺は風情がある、鳥居が見え奥には荒川神社と書かれた標柱が見えた。
馬子が神社は八丁ほど奥になると教えてくれた。
夕暮れに海老江に入り渡邊家の客用の宿へ入った。
使いを出すと銭五と大吉郎はラォレェン(老人)に案内されてやって来た。
「宴会続きで疲れたでしょう。今晩は酒でものみなが語りあかしましょう」
結句にぎやかな夜になった。
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