第伍部-和信伝-参拾

 第六十二回-和信伝-参拾壱

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

十月二十四日(陽暦十二月九日)飛島抜錨

十一日目に千八里(和国百二十六里)で箱館の湊へ入った。

十一月四日(陽暦十二月十九日)申の刻(午後二時四十五分頃)箱館投錨。

箱館に入ると高田屋の造船所が見えた。

湊の東端、山がその先に見える。

信にはルゥオトゥオ(駱駝)が膝を折り曲げて休んでいるように見えた。

舵取りの心助が「臥牛山」だという。

「グァギュウサン」

「そうですだよ。牛に見えませんかね」

「ラクダを見たことはないですか」

「話しにゃ聞くが知らねえな。大分昔に江戸へ来たそうだぜ。信様の国じゃ多いのかい」

「私の家付近は少ないですが。母の住む家の近くは数多くが荷運びに使われています。牛の背に顔より大きな瘤が付いていると思えば間違いないですよ」

想像したようで片表と二人で弥帆をたたみながら大笑いしている。

江戸にラクダが来たのは正保三年というから百五十年も前の話だ。

八年前幕府が箱館地蔵町沖埋立て湊の整備をした後、同じ人足を雇って湊の奥を造船所と取次の店、自家の船着きを造り上げた。

月二艘の割で船が送り出されている。

船台は二つ、千石船と五百石船だ、千五百石も二百石も注文次第と責任者の弥二郎は胸を張った。

千石船の此処の規格は全長十六間、最大幅四間三尺、弁材船より少し幅が広い。

船尾の縦帆は図面に載り、船首の弥帆は弁財船以外も注文しだいだ。

本間家の注文の船は五百石船、四百十二両で請け負った。

銭五たちドンファン(東蕃)は三月と五月の受け取りの約束で千石船を注文してある。

造船所の奥の店で銭五は取引を始めた。

高田屋嘉兵衛は三艘の二百石船を先に函館に戻していた。

船頭の話では十日には戻ってくるはずだという。

干鰒魚(ガァンフゥーイ・干鮑)、干海参(ガァンハァイシィェン・海鼠)、鱶鰭(ユイチー・フカヒレ)を三艘の船に積み込んで千八百両を小判と一分判で支払った。

ドンファン(東蕃)は藩札での取引はやらない掟だ。

前金で蔵元、札差の手形を預けるのは、双方危険を承知で行わせている。

松前藩の出先館へ銭五の案内で出向いた。

明日、忍路の漁業権を持つ源田屋を呼んで引き取り量の契約をすることにした。

西蝦夷の鰯粕、昆布の仲介問屋が奉行所に不首尾で撤退したのだ。

東蝦夷の昆布、東廻りの干鰯の利のほうが大きいと判断したようだ。

陸奥の干鰒魚(ガァンフゥーイ・干鮑)、鱶鰭(ユイチー)の売り上げも順調だ。

銭五たちドンファン(東蕃)がそこへ食い込めることになった。

松前藩の大藤という若い男は武士というより商人に近い。

銭五は信と庸(イォン)を紹介した。

「岩井野殿と叶殿です。密命で清へ潜入できるように髪を清国風にしておられますので頭巾で失礼します」

大藤は胡散臭げだったが、二人が流暢な江戸弁で話すので安心したようだ。

喜多村鉄之助と鐙屋大吉郎も紹介し、大吉郎はこれから一年かけて西航路、東航路で一回りすると話した。

その晩は高田屋の宿舎へ泊った。

翌日約束の未の刻(十時十五分頃)に館へ行くと、厳つい顔の四十くらいの男が来ていた。

銭五が富山の薬だと顔つなぎにと“反魂丹”を大藤と源田屋へ贈呈した。

鰊粕の取引を親の代からしていると源田屋は話した。

「他は知らんが忍路は来年あたりから豊漁になると思う、今年の値で約束してくれるならわしのところで四月渡し二万俵を運上込々五千両で請け負う。何不足しそうなら弟たちに声をかけて集めてやる」

一俵二十貫になる、千石船で千俵(二万貫)は積めるとすれば二十艘送り込めば済んでしまう。

取引は浜値で高田屋が集めて回る役目だ、網元には全量を松前、箱館へ運ぶ余力はない。

一俵四朱(一分)、一両で四俵は望外に安い値段だ。

今年値上がりしているのは間で噂を振りまいて儲けたものが大勢いたからだ。

それで高田屋と西蝦夷に目をつけ、直取引に乗り出したのだ。

叺、俵を集めるのも一苦労だ、大口なら半金出せば先の手当てが楽になる。

銭五は大藤にその値で集められるなら十万俵は半金先払い可能だと告げ、今回の松前藩の取り分千両と人手を集める費用に先払い二千両を明日支払っても良いと告げた。

源田屋は俺の二万のほかに十万俵任せてくれるなら、引き受けると豪語した。

銭五は十二万でも売れる自信はあるので応諾した。

忍路付近でそれだけ買えれば東蝦夷が不漁でも焦らずに済む。

今現在、東蝦夷で鰊粕の取引に入っている業者に、儲けを分けて出す情報を流し、様子を見ている。

近江商人は一匹オオカミが多いので利で簡単に靡いてくる、東蝦夷の干鰯は数も少なく値も高い。

高田屋の傘下で動く約束の二百石船が二十艘、五百石船が十二艘すでに集まっている。

源田屋は今年百二十日(二月一日から五月二日・四月に閏)働けば三十両で百八十人漁師を集めたという。

江戸の腕の良い大工の倍の日当になる計算だ、おまけに食い物はよいものが出る。

江戸の足軽小者(仲間)たちと同じで“飯がまずい”と評判が立てば人が寄ってこなくなる。

信は思わずあまり儲かりませんねというと「今年は三万八千俵で二千二百両手元に残ったぜ」と豪語した。

どうやら古い付き合いも、全部切らずに売る算段のようだと信には思えた。

実際は兄弟三人の合計を一人のように話したのだ、それでも鰊粕で一人七百両を越している。

銭五が言っていた問屋とは別口の売り先もあるようだ。

網を降ろす三日前から給金は出ないが食い放題、飲み放題で歓待し、窯場の女でも同じだけ稼げるので、アイヌたちも夫婦で集まってくる。

海岸では気の早い鰊が産卵で跳ね回っている、それを肴に酒盛りだ。

掘っ建て小屋でも雪で目張りすれば内は小さな火でも温かいのだという。

慣れないと全部ふさいで中毒を起こすものも出るので、親方連はまずそれから注意して回る。

雪のない時期、風の日は辛いそうだ、刺し子の重ね着にも限度はある。

和人の漁師は大部屋、丸太の枕で寝て、酒でもふらふら呑みに出なけりゃ五月には二十五両以上は懐に家に戻ってゆく。

鮭漁が終わればアイヌも喜んで源田屋へ来るのだという、気の早い奴は小屋に十日以上前に来る。

源田屋たち網元連はそういうものにでも食い物は余るほど提供している。

飯と寝泊まりが只の噂は、金払い以上に人を集めてくれる。

女や博打で人を集める網元は御殿を建てて儲けを誇示している。

近くの浜でも二通りに奇麗に分かれているのだそうだ。

隠密は砂金より確実な儲けだと幕閣、将軍に報告が上がり、家斉は一橋家を使い、見栄っ張りの先代藩主道広を脅したり、すかしたりして西蝦夷も取り上げた。

商売になる漁場は権利を与え、運上の掠りで奉行所の経費を捻出している。

松前から全部取り上げた砂金場で、金の卵を産めなくした教訓が活きている隠密は今回も砂金場にたどり着いていない

大藤は「二万俵の千両は明日として十万俵の五千両も明日出せるのか」と聞いてきた。

「六千両、小判と一分金で明日お届けいたします」

「では窓口は高田屋でいいのか」

「それでお頼みいたします」

源田屋には半金一万二千両をここで受け渡すことで合意した。

本藩から江戸御用の必要経費でも催促されているようだ、どうせ半分は奉行所の運上と賄賂(まいない)で消えてしまう金だが、貧乏藩には羨ましい話だ。

大藤は「不漁が終わって百万俵賄えれば藩も楽に成る」と満足げだ。

船に戻ると大吉郎は古雪湊、石脇湊、酒田湊、海老江湊へそれぞれ五千俵は銭五から回してくれと頼んでいる。

子吉川河口の石脇湊は亀田藩、古雪湊は本荘藩。

由利本荘付近は讃岐藩十七万石の生駒高俊が、領地召し上げ後に堪忍領として一万石を与えられた地だ、古雪湊に足場を拵えた。

後に分地して八千石の江戸詰交代寄合表御礼衆となった。

矢島陣屋は八森城跡に建てられた。

宝暦六年(1756年)領内総石高一万四千六百五十六石と調べが残っている。

出入りする船は五百石未満が多く千石船はごくまれに訪れる。

百石船や五十石船は五十艘近くが子吉川を行き来している。

銭五は「だいぶ弱気だが、別口で不足しそうなら高田屋のほうからも回してもらいな」と言っている。

子吉川、春はアユ、秋は鮭にサクラマスが遡上する。

「鐙屋の船が子吉川の上まで荷送りを請け負っているんですよ。叔母の一人が古雪湊の船問屋へ嫁入りしていましてね。その縁で二百石船を三艘送り込んでいます」 

最上川は寛政四年(1792年)、大石田川船役所が設置され、尾花沢代官所の管轄となった。

船町が佐倉藩飛び地の河岸として栄えている。

佐倉藩堀田家飛び地は四万石ある、柏倉陣屋がおかれ四十六か村を支配した。

「ほしいところは多いのだが匂いで嫌がる船主が多い。酒田から運び出す船の手当てが難しい。鐙屋が仲介するなら船を持ってくれるのだな」

鉄之助はそう言いながら鼻をつまんだ、最上川を米沢まで、できれば四月中に欲しい農家は多い。

酒田の干鰯問屋は小口が多く十二軒が五十嵐の干鰯を各地へ送り出している。

五十嵐は長岡藩で各地の干鰯問屋がこの地の名を売り物にするほどだ。

「そんなに匂いはひどいですか。私のところの畑は大豆粕がほとんどで、それほど気になりません」

信は和国も大豆粕が主な肥料と思い込んでいたようだ。

鐙屋は矢島藩との縁が深いのだそうだ。

安永六年(1777年)生駒親睦の代になって当主の国入りが認められた。

それ以来酒田の商人との付き合いが始まったという。

家老小助川三右工門、菅原九十九はよく領内を治めていた。

六十四か村、一万二千四百人余、大庄家九人と記録が残っている。

子吉川をさかのぼり矢島川と言われる頃、小板戸に米蔵がある。

間に六つの宿場(湊)が設けられ、船は一艘六十俵積んで川を下ったという。

「大吉郎の船に干鰯に鰊粕を積んだら嫁に怒られるぞ」

鉄之助は大笑いで銭五と肩を叩きあっている。

嫁の実家は山形の「かねじゅう」福島屋治助だという、この年五月に二人目の男の子が誕生した。

紅花を多く扱う福島屋の荷に干鰯、鰊粕は混ぜて乗せるわけにはいかない。

十一月六日、銭五は船から金を降ろし松前藩の出先館まで運び込んで源田屋と大藤に渡した。

松前藩に二万俵の千両と十万俵の五千両の六千両。

源田屋には十二万俵二万四千両の半金一万二千両。

 

銭五は越中の問屋からも鰊肥料の買い増しをせっつかれている。

富山湾での干鰯は信濃矢代宿へ送るので常に不足気味だ。

蝦夷の東側では肥料にする干鰯、鰊粕の需要に追い付かない。

西蝦夷が幕府に取られて、なぜか鰊場が増えだした。

幕府も直轄の不便さから、請負人の管理を松前藩へ押し付けた。

請負人の多くは近江商人が多く漁獲高の二割を松前藩へ納めている。

箱館奉行所に直にやらせるほど幕閣は抜けていない、手慣れた松前に管理させたほうが運上の高は多いとみている。

樺太から増毛への漁期の人口移入は年々増えていて、アイヌと和人の住みわけも軋轢を呼びそうだ。

そこへ俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)が絡み火種が絶えない。

蝦夷地のニシン漁は不漁が十年以上続いて鰊粕が高価になり、干鰯や鰯〆粕が同じように高値になりつつある。

清国は相変わらず干鰯、鰊粕を大量に欲しがっている、二十万俵もの注文が来るという。

長崎では無理だと悲鳴を上げているそうだ。

幕府は喉から手が出るほど金が欲しいが銅に銀の輸出に歯止めをかけ、絹の輸入を制限しと長崎貿易での利益を減らしている。

貧乏人に金が回らず、金持ちは奢侈禁止で使い道がない、これで経済が成り立つはずがない。

雪解けを待てずに二月ともなれば蝦夷地では鰊が押し寄せてくる。

巨釜でゆで上げ角胴で圧搾する、蝦夷地で百万俵はなかなか処理できない。

浜の値段は信じられないくらい安いが、殆どは漕運に取られてしまう。

千石船、五百石、二百石の船主は匂いが残るのでなかなか引き受けないのだ。

勢い一航海の値が吊り上がる、函館から筑紫まで千両などとなれば四俵一両の物が問屋渡し四俵五両にもなる事がある。

戻り荷を探すのも一苦労で船主は鰊粕、干鰯や鰯〆粕を敬遠した。

大坂永代浜干鰯揚場には干鰯問屋(ほしかどいや)が軒を連ね、百五十万俵を取り扱うという。

今半分が浦賀の干鰯問屋三十軒の手を通って上方へきている、それだけ相模灘、九十九里、鹿島灘の大漁が続いていたのだ。

浦賀湊の燈明堂の経費は干鰯問屋が負担している。

その盛況も今深川へ移りだした、干鰯揚場が整備された元文四年(1739年)には干鰯問屋が四十三軒有ったという。

南から東側へかけて漁獲の多いのは薩摩、日向、土佐、阿波、紀伊、安房、上総、常陸などでその他広範囲で漁が行われている。 

加賀、越中、越後の海岸線も内陸への需要を支えられる漁獲高がある。

行燈の明かりに魚油の需要が増え、干鰯問屋もが油の取り合いを始めたと云う。

肥料のほかにも使い道が増え、生産地として蝦夷にも目をつけている。

すでに捨てるものが金になるなら安くても良いと角胴の改良が進みだした。

そんな中加賀藩では文化八年に領内の産物調査を実施して、郡別に移出禁止品を定めた。

藩外から安価なものが入るのを防いだり、専売品を増やして収益を狙った。

鰯は昔から庶民の味方。

和泉式部が読んだという歌を載せた本があるようだ。

“日のもとにはやらせたまふ石清水まいらぬものはあらじとぞ思ふ”

江戸時代この鰯の歌が紫式部の歌だと伝わり今日に伝わっている。

で、和泉式部の歌というのも創作らしい。

“江戸っ子は鰯なんぞ食わねえ”は、明治になって落語のマクラから広まったらしい。

鰯のことを室町時代から女房言葉で“むらさき”“おむら”というらしいが“むらさき”から連想したのか、紫式部と間違われてから“むらさき”に為ったのだろうか、「大上臈御名之事」に“いはし、むらさき、おほそとも、きぬかづき共”と出ているという。

 

箱館には東蝦夷の引網により鰮漁で鰮粕(いわしかす)も大量に入ってくる。

大きな取引は椴法華湊、尾札部などだ。

ドンファン(東蕃)は協定を結んでおこぼれを扱うくらいで直買い入れには参加していない。

今年は上記の二か所で一万貫、五百俵二百五十両が網元の取り分だそうだ。

鰮粕(いわしかす)一俵二分は、鰊粕取引今回浜値の倍に付く、手を出さないのが賢明だ。

「扱いが少なすぎる。鰊の時期と外れるので飼いならすほうが得策だ」

高田屋と銭五は傘下の船主へ新規の船で鰯粕への参入を禁止した。

鰊が五月に終わり、東蝦夷で鰯が六月に始まる、秋になれば鮭が来る。

源田屋のようにアイヌと手を組めば、年がら年中切れ目なく魚のほうで勝手にやってくる。

西蝦夷も新規の昆布浜も増え網元(請負業者)の懐は膨らむばかりだ。

東蝦夷地も文化九年(1812年)には直捌(じきさばき)制度を廃止の方向だと高田屋の船頭は江戸の情報を教えた。

勘定奉行蝦夷地御用の家人情報だという。

箱館の鮭は干鮭(からざけ)と塩引(しおびき)が椴法華湊から入るという。

この辺り南部藩の漁民が多く移り住んでできた村が多い。

津軽藩の漁民も多くいさかいが絶えない土地だ。

鉄之助は知り合いの家だという温泉の湧く宿へ連れて行った。

高田屋から和国一里ほど東の、松倉川を渡ると三軒ほどの豪勢な構えの宿が並んでいた。

千日丸へ銭五が残り、明日は荷下ろし、荷積み後に船頭三人と来るという。

その晩は四人で湯につかり、寝酒も少なく寝床へ入るとぐっすりと眠れた。

 

十一月七日朝、宿の広間での朝飯に生鮭の塩焼きが出た、早朝にオサツベという川から届いたという。

木箱に雪を引いて鮭を並べ上からまた雪を被せて運ぶのだという。

外に置くと凍るので同じだろうと信がきくと「雪の中のほうが身は硬くならずにうまく食べられます」と教えてくれた。

飯田屋の平蔵という若者が鉄之助と親しく談笑している。

「手紙は昨日届きました。親父の言いつけで、八丁櫓でお届けに参りました。親父は宿で宴席を仕切れと言われましたので二晩泊まってください」

「おいおい、今晩は俺の驕りで銭五たちを招待してあるんだ」

「だめですぜ旦那。親父の言いつけに逆らうと後が怖い」

「よく言うぜ。去年一升酒かっ喰らって大暴れしやがって」

「今回は正気を失わないように一晩五合(ごんごう)で止めます」

「仕方ないな。その代わりお前の船の乗り組み達を俺が隣で歓待しよう。それでいいな」

鉄之助と平蔵が女将に「聞いた通りで旨くやってくれ」と頼んだ。

信を岩井野様、庸を叶様と紹介し、清国の情勢を探るために髪を変えたと教えた。

席を変えて浜の様子を鉄之助が聞き取っている。

要所は手控えに符丁交じりで書き入れている。

一しきり決まりが付いて平蔵が「旦那一勝負どうです」と持ち掛けた。

盤を誇んできたので碁か将棋かと思えば刺し子を被せた。

「去年勝ったからと強気だな」

「旦那は俺がいつまでも十二の洟垂れと思ってるが、もう二十二歳ですぜ」

「生言いやがって」

平蔵が際どいところで持ちこたえて勝った。

「ねえ岩井野様。あっちと勝負してくださいよ。高田屋の旦那の話じゃ腕自慢だそうで」

「腕自慢は小刀の捌きだけだぜ」

「そういわずに頼みますよ」

やせっぽちとみて腕自慢を疑っている。

やり方は違うが二人の勝負でおおよそのコツはつかめた、相手の息継ぎを待つ田舎勝負だ。

組んですぐ引き寄せようとするので力を入れると、態と引き寄せられるふりをしてきたのでそのまま引き倒した。

不思議そうに「もう一回」というので手を組みあうと慎重に力を入れて引き寄せようとした。

刹那にこちらへ引き倒した、訳が分からんという顔だ。

鉄之助に「なんだ勝負にもならんじゃないか」と笑われている。

「旦那と始めて勝負した時とおんなじだ。力が入らない。盤をどかして勝負してください」

畳に刺し子を引き這いつくばって手を組み合った、自慢しているだけあってこのほうが力は入るようだ。

平蔵の腕の筋肉が盛り上がった、一気に気を入れて勝負に出るようだ。

平蔵の薬指の付け根を押すようにしてから、引き寄せると体ごと簡単にひっくり返った。

「なんの術です。よくわからん」

三番続けて諦めたようだ。

その晩の宴席で話を聞いた三人の船頭に挑まれ、あっさりと平蔵が勝ち残った。

「信様がおめえより強いんじゃ、俺たち形無しじゃねえか」

そういって酒を煽った。

銭五は信に挑んだと聞いて顔がほころんだ。

酒の呑みっくらを仕掛けられると「今朝鉄之助旦那と約束してもう限度を越したので勘弁してくれ」と言い訳をして船頭の顔を立てた。

翌八日、平蔵の案内で街を一回りした。

銭五は船頭たちと船へ戻った。

宿へ戻ると帳場に可愛い娘が座っている、今朝まで見ていない顔だ。

「お松どうした」

「おっとうが毛蟹が上がったから箱館の市へ出して、一籠は宿へというので来ましたよ。市場は半兵衛が残ってます」

「帳場が似合うぜ。ここへ養女に来たらどうだ」

女将が聞いて手を打って「そいつは好い。おじさんが承知したらいつでもおいで」と亭主と交互に平蔵に頼んでいる。

「家にゃ子供もいないし、婿は選び放題だ」

「婿なんかいりませんのさ男なんてもうこりごり」

「まぁ、そういわずに養女になってからじっくり選べばいい」

平蔵もにわかに乗り気になっている。

部屋に戻ると「こいつめ、分家の夫婦養子で婿を取って十日目に、浮気したと追い出しやがった」と鉄之助に教えた。

「十三日目だよ。おらっちゃ浮気をされても三日は我慢したんだ。謝るどころか、だだくさなぁ、男の甲斐性だなんてえばるからやねこいでぇたたき出したのさ」

頭巾をとった信に庸を見ても驚かないところを見ると、クンファ(髠髪)のことは女将から聞いているようだ。

夫婦養子は解消し家に戻ったそうだ。

信の江戸弁で蟹の取り方、住処を聞かれ丁寧に受け答えしている。

「竹籠を五十尋程度海へ沈めると勝手に入ってきますのさ。夕に仕掛けて朝引き上げに行くんですよ。爺様の言うには十年ものが旨いそうです。おらっちゃ甲羅が大人の男たちの手のひらより小さいのは海へ帰すんです。あったらいなんていうのはだちゃかんですよ」

庸(イォン)に「能登や越中の言葉が混ざっている」と言われて「ご先祖は能登生まれだから今でもでるのさ」とお松は言う。

「平蔵さんは違うようだ」

「兄貴は嫁さんが陸奥の人だから、津軽の言葉が出たりしますのさ」

東蝦夷は陸奥の言葉が入り交ざっているという、陸奥でも津軽と南部では大違いだという。

鉄之助は津軽出身の漁民たちの世話も焼いているという。

金木村の出だという平蔵の嫁は、小さいときに家族でオサツベへ移住してきたそうだ。

一族五家は昆布漁で生計を立て、飯田屋とは親類付き合いだそうだ。

「ほんとの親類になってしまったのよ」

お松は笑って庸(イォン)に教えた。

昆布漁は四月から始まる、浜の砂利の上で干すのが大事な仕事だ。

五家は拾い昆布をアイヌの取り分として安い給金で働いてもらって財を成した。

朝の作業が済めばアイヌの家族は総出で昆布拾いだ。

雨になれば親方、アイヌの家族子供も総出で、小屋へ干すのに駆けずり回る。

親方の昆布がだめになれば給金も無くなる道理だ。

拾い昆布を半値で買い受ける卸業者は、中には白口昆布には違いないと高く卸すものも出てくる。

その話を聞いて信は「それが話に聞いた白口浜ですか」と驚きの声を上げた。

「知っていますか」

「家の料理人が俵物をより分ける目安に白口、黒口と分けていました。白口はめったにないので大事にしていました」

干海参(ガァンハァイシィェン・海鼠)、鱶鰭(ユイチー)、干鰒魚(ガァンフゥーイ・干鮑)は陸奥も大きな産出があるが、海帯(ハイタイ・昆布)は蝦夷地に敵う土地はない。

鉄之助が煎海鼠(いりこ)はルルモッペの物が上等だという、忍路から四十里ほど海岸を北へ行くのだという、和人の中には留萌という字を当てるものもいるそうだ。

「半分以上長崎へ回すそうですが、残りはどこへ行くのやら」

そういって庸(イォン)と笑っている。

「煎海鼠(いりこ)は能登の名産でばちこ(くちこ)はいい酒のあてですが高すぎますな」

「そろそろ作る時期かね」

「能登ではそろそろでしょう」

干しくちこ一枚海鼠三〇匹は必要だという、それも卵巣で作るので手間が大変だ。

このわたは海鼠の腸を塩漬けし熟成させる。

加賀の干海鼠はそれほど高くないがその分ばちこ(くちこ)このわたが高価に売れる。

とはいえ越前、能登、加賀、越中の物は手ごろだと最近売れ行きも順調だと銭五は言っている。

ハァイシエン(海参)の中でも蝦夷地の物はベイハイ(北海)と呼ばれて倍の値が付くので有名だ。

陸奥ではキンコ(光参)と同じだという。

干した煎海鼠(いりこ)にするには五十日以上かける土地もある。

砂吐き、わたぬき、茹で(海水)、干し十五日と言われる。

まだまだ作業は終わらない。

炊き(真水)、本干し二十五日と言われる。

清国では大分売れ行きも良く“隨園食単”によって最近特に人気が出ている。

大分と前のことだが、幕府は能登の煎海鼠問屋豆腐町塩屋清五郎の儲けが莫大だと捜索をしたが不正は見つけられなかった。

加賀藩長崎俵物御用から大坂町奉行所を通して、長崎俵物役所へ渡る道筋は表の取引だ。

天明五年(1785年)幕府が、長崎の俵物会所を改め、俵物役所を設置、海鼠は全国の藩へ、俵物の統制と買入れを管理させた。

昼間から湯につかった、クンファ(髠髪)は香皂(シィァンヅァォ)で洗って手拭いで縛っておいた。

鉄之助、信、庸、大吉郎、飯田屋平蔵・お松でその晩は宴席を開き、鉄之助は飯田屋の舟子たちも隣座敷へ呼んだ。

鉄之助は舟子たちにも顔が利くようだ。

お松に女将や女中たちが総出でゆでた蟹の身を外してくれた。

舟子たちも食べるほうに一時夢中になって座敷はやけに静かだ。

昼に上がったという鮪のはらすの塩焼きは香りのよい醤油とあっている。

鮭のはらこの醤油漬けは飯が進んでたまらぬと平蔵はお替りしている。

汁が出てきたが肉も魚も入っていない、昆布で出汁をとったようだ。

不思議そうに飲んで食べると芋が旨く煮えている。

後はごぼうに人参、豆腐が入っていた。

「こいつは知らないでしょう。禅の坊さんが工夫したそうです。出汁は昆布とどんこで取っています」

「不思議に旨いものですね。それに出てくる順がいい。昨晩と被らぬ献立はうれしい限りで、また酒が飲めそうです」

此れには平蔵が笑いながら「そいつは残念です。わっちはもう五合(ごんごう)のんでおつもりで付き合えません」と本当に残念そうだ。

翌朝、平蔵とお松に分かれて船着きへ向かった。

 

十一月九日(陽暦十二月二十四日)巳の刻千日丸へ乗船、箱館抜錨。

函館から福山(松前)まで二百里(和国二十五里)。

松前の浜近くに二つの小島が見えた、手前の波に洗われる岩場に何本も杭が差し込まれている。

三十艘近くの大小の帆船が泊まっていた。

十一月十一日(陽暦十二月二十六日)午の刻福山(松前)到着。

銭五たちを迎えの小舟に下ろすと沖の千石船の間に投錨した。

福山館(留守居のわずかな者が維持している)の海岸寄りにある銭五松前に信たちは入った。

館の取壊命令は出なかったようだ。

松前奉行村垣定行が勤めに出ていると聞いて「明日はご都合如何」と聞きに番頭が出て行った。

辰の下刻(九時二十五分頃)が指定された。

朝、奉行所へ向かう途中にある高田屋松前で「十三日に酒田へ向かう」と告げておいた。

銭五は鰊粕の交渉の結果と荷受けの委託証書を預けた、引き取りの金は松前に三月までに届けると約束した。

奉行所では村垣淡路守と勘定奉行から蝦夷地御用として派遣されて来た小笠原長幸が待っていた。

小笠原和泉守は松前奉行が内示されての蝦夷地入りだという。

信のことを勝手掛老中牧野忠精から内々で取り扱うことを命じられてきたという。

家斉へもたらされ隠密の報告は、信にもしものことがあれば大名の半分が破綻するというものだ。

泳がせて「結」の金を吐き出させよと指令は下っている。

銭五の密輸、薩摩の密輸、その他の諸藩の密輸も隠密の手で家斉まで報告は上がっているようだ。

それを取り締まれば大きな藩が崩壊し、替わるべき大名も恐れをなして移動を断ることになる。

まして幕閣が持たない事態は家斉も避けたいのだ。

密輸を理由に藩を取り潰してもそれが幕府の収入の助けに繋がらないのが幕閣の大きな悩みだ。

それよりは河川工事、大奥から持ち出す寺社の修復を申し付けたほうが、財政的に得策なのだ。

定信のように田沼を改易近くまで追いつめても、十万とまとまった資産を取り込めず、振り上げた拳を当たりかまわず振り回した。

田沼は年貢増税の限界により冥加金の名目で商人から税を集めようとして御用商人に見放され追放となった。

御用商人はまさか定信があそこまで緊縮財政を施行するとは思わず、商人は自分自身の首を絞めてしまった。

吉宗が亡くなったころの幕府歳入は八十万両、長崎貿易からは五万五千両有ったという。

その年の支出は七十三万千両と言われている。

天保十四年(1843年)には百五十四万三千両に増えては居るが、支出は百四十四万五千両になった。

この時の収入の多くは貨幣改鋳による出目で天保八年(1837年)より天保十三年(1842年)の六年間で五百五万三千四百三両有ったという。

家慶は将軍に就いたが大御所政治の真っただ中だ、家斉は天保十二年に亡くなり、天保の改革が本格的に始まった。

綱紀粛正、倹約令、風俗取り締まり、いずれも定信の再来がごとく庶民を絞り上げた。

この数字から大久保長安の資金の膨大さが如何にすごかったか推測できる。

家康の時代、堺の手で軍資金に提供された物を、大久保長安が隠したと疑われたが、死後も見つかっていない。

金山、銀山など家康と結んだ取り分が蓄積され、死後に家康の手に入ったのは慶長小判に換算して百万両程度に過ぎない。

一族を抹殺しても手に入れたかったのはどの程度と予測していたのだろう。

御用達の中には御秘官(イミグァン)の資金で大きくなった家もあると調べ“敵対するより利用せよ”が天海に下された遺命(ゆいめい)だ。

代替わり、老中筆頭、勝手掛、大奥取り締まりは必ず引き継いできた。

私事しようと動く者もたまに出るが、大本にたどり着いたものは居ない。

信長、秀吉もその一部を覗いただけで終わった。

「結」、「御秘官(イミグァン)」の組織は隠匿資金を貸付金で分散した。

渡邊家に酒田の街が火災にあうたび、分散は繰り返されて来た。

松前、箱館は四年前の俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)の騒ぎで有能な北方の官吏が処分されて手薄になっている。

ゴローニンの釈放は認めない方針に決まったという。

松平信明は発想力、決断力は定信に及ばない、此の年定信はまだ隠居していない。

荒尾但馬守成章は江戸へ呼び戻されたという、意見具申から呼び戻し決定が速すぎると信は不思議に思った。

定信の倹約令や風俗統制令の頻発で江戸は不景気が続いていた。

定信の後の松平信明は景気が上向きにならず大名から見放されてきた、そして家斉は自分の意のままになる幕閣を模索している。

大奥も若年寄りの水野忠成を側用人にしようと動きだした。

荒尾但馬守は老中土井利厚の手のもので松平信明とは肌合いが違う。

勝手掛老中牧野忠精は松平信明を抑えるため家斉が送り込んだ、世間は定信の一味のように噂している。

この二人が荒尾を大坂へ送り込もうと画策を始めた。

信明は蝦夷の失敗を松前奉行に次々押し付けてきたが、定信一派の力は如実に弱まっている。

定信、信明と続いた緊縮財政は国力をそぎ、立ち直れないほど異国との差がつきだした。

家斉、一橋徳川治済の勢力はまだ定信とその一派を追い払える力がない。

世間は将軍の浪費が財政を苦しめたと信明たちが流す噂を信じた。

(ウイキペディアに牧野忠精は長男が定信との姻戚により、その縁故で忠精が要職を歴任とあるが、寿姫が牧野家に嫁いだのは文化二年。忠精はすでに老中に就任した後だ。)

田沼の失脚は天明六年(1786年)家治の死去だけでなく、徳川家基の生母蓮光院に鷹狩の帰りに田沼が毒を飲ませたと耳打ちしたものがいて、大奥の後ろ盾を失ったせいだ。

後継は一橋家斉九歳に決まったのも田沼の工作と噂さが広まり、定信の恨みが大きく芽生えたと云う。

隠し財産についてあれだけ悪人に仕立てても正確な数字は出てこない。

隠し財産は和珅(ヘシェン)の清国税収八年分(十年分)と同じ、野史の類だ。

田沼の元で役人が袖の下で潤ったと書く人が多いが、江戸幕府の歴史で袖の下が通用しない時代はなかった。

安永三年(1774年)徳川宗武七男賢丸(定信)十六歳、白河藩松平定邦養子。

この時家基十三歳、家治の弟徳川(清水)重好三十歳、上臈御年寄松島の局は此の年以来記録が見つからない。

替わって高岳が大奥筆頭老女となっている、此の高岳は定信の老中就任に御年寄滝川と共に反対したという。

安永八年(1779年)二月二十四日・家基死去十八歳。

天明元年(1781年)閏五月・家治の養子に家斉九歳。

土井大炊頭利厚は五十三歳、土井家は七万石で肥前唐津から古河へ入部してきた。

利厚は寺社奉行、京都所司代を経て老中になって九年がたった。

兄は松平忠告、尼崎藩の藩主だったが五年前に七十歳で亡くなった。

相続した翌々年(明和六年1769年)繁栄していた知行地が取り上げられ替地が与えられた。

繁栄していた土地を召し上げたのは石谷清昌から老中首座松平武元(宝暦十一年就任)への上申と言われている。

佐渡へ無宿人を水替人足として送り込ませたのも石谷の上申という。

利厚のもう一人の兄は加藤明堯、近江水口藩の藩主だったが二十六年前に四十六歳で亡くなっている。

奉行所を出ると東の高見には神明社が建っている。

雪がいきなり降り出した。

「今晩までにゃやみますぜ」

銭五の番頭はあと十日もすりゃ雪だらけに成るという。

十一月十三日、朝のうちに街の西側を銭五の店の者に案内され散策した。

昨日の雪は道に積もっているが荷車の轍が幾筋も付いていた。

銭五は先に千日丸へ乗り組むという。

パウチウシ(博知石ハックッチウシ)カルシナイ(唐津内)などを巡り歩いた。

アイヌの家族と知り合って昔話を聞いた。

その家族の長男は銭五の千日丸の片表(かたおもて)をしている。

昔、松前では米俵は米二斗が一俵だった、一俵で鮭百匹。

加賀で玄米五斗、江戸では精米三斗五升だという。

それを松前藩の手代(近江商人とも)は米八升にした。

おまけにアイヌ勘定は鯖を読むのと同じだ、十匹で一の前に“はじめ”、十の後に“おわり”と十二匹だったのが、それよりひどい奴は“まんなか”を入れて三匹ごまかした。

シャクシャインの反乱は鎮圧されたが、不満の火種は消えていない。

寛政元年(1789年)クナシリ場所請負人・飛騨屋に不満を持ち、国後・目梨の戦いで反乱を起こした。

アイヌを宥めるため、幕府は蝦夷地を松前藩から取り上げ、東蝦夷地の場所請負制を廃止した。

蔵米取り四十俵の御家人は十六石ではなく十四石の白米支給になる。

一人扶持は玄米五合で計算する、年五俵とされた。

知行取り百石の旗本は四十石の収入だが精米すれば三十五石になる。

同程度の百俵の蔵米取りは春二月四分の一、夏五月四分の一、冬十月半分と分けて支給された。

お役に付かなければ収入はそれしかない上小普請組へ組み込まれ、小普請金を納めることになる。

この頃の米価(張紙)は一石三分二朱そこから手数料を引かれてしまう。

旗本、御家人で年三十両がやっとでは子だくさんにはやり繰りも大変だ。

江戸の町方同心は南北で二百四十人、三十俵二人扶持だが、拝領屋敷は百坪有ったという。

こんな俸禄で街の治安を任せようとは無理な相談だ、賄賂(まいない)、付け届けの温床でしかない。

おまけに定町廻りは南北で十二人しかいない、臨時廻りも十二人だった、犯罪が増えれば加役として盗賊改めが任命された。

火付盗賊改方は役高千五百石、役扶持百人扶持、江戸町奉行役高は三千石。

街の小売りの米は二割上がり張紙の値は二割下がった。

酒も、こも被り四斗樽一両、上酒一升二百文、人足で二百文から三百文しか稼げない。

下級武士と町人双方が苦しい生活を余儀なくされている。

江戸も定信、信明の政策で人が減り、商いも低調になったままだ。

アイヌは同族で固まって暮らすことが多いが、和人と交流し互角に商売をする者もいる。

高田屋、銭屋には多くのアイヌの若衆、炊(かしき)が雇われていた。

片表(かたおもて)もすでに三人いて船が増えれば楫取(かじとり)へ昇格させるつもりだ。

船頭は百両の株を持つか、船主が贔屓でもしなきゃ難しい。

博知石は自然石ではなく人の手で穴を刳り貫いたという、石の名がいつの間にか街の名となったのかと思ったらアイヌの言葉に石の名を当てはめたという。

唐津内も肥前唐津とは関係ないという、高見には熊野神社が建っている。

浜の先の小島には弁天社が見える。

小舟が唐津内橋下(しも)の桟橋で信たちを待っていて、千日丸へ送った。


十一月十三日(陽暦十二月二十八日)午の刻福山(松前)抜錨

九日目酒田の湊へ着いた。

十一月二十一日(陽暦千九百十二年一月五日)未の下刻(午後二時四十分頃)酒田湊投錨。

日和山の川上へ船をつけ小舟に乗り換えて鐙屋へ大吉郎の案内で向かった。

鐙屋惣左衛門はにこやかに出迎えてくれた。

大吉郎は子供たちのいる裏の家へ向かった。

宴席の前に本間弥十郎もやって来た、大吉郎は戻ってきて子供自慢を弥十郎としている。

酒田は藻屑蟹の味噌汁が出た、漁期は今月で終わりだという。

生け簀に入れて三日目、泥をすっかり吐き出させたと女中らしきたすき掛けの女が説明してくれた。

味噌は甘めで良い出汁が出ている、たたき潰して擂鉢で擂るのだという。

大閘蟹(ダァヂァシエ)に近い種の蟹だと庸(イォン)が話してくれた。

茹で蟹と焼き蟹は芳蟹だという。

雪という女は大吉郎の世話をやきだして、庸(イォン)と信には十二.三の娘が出てきて皮を割いてくれた。

惣左衛門は大吉郎の妹たちだと紹介した。

銭五が「雪さん。旦那と会うのは久しぶりだ。たっぷり甘えなさい」などと笑いかけた。

豊という娘は信に「本当は蟹尽くしにしようとしたんですがガザミが手に入らなかったんです」と言いながらも信が食べるより早く身を剥いでいる。

女たちは競争のように身を剥いで、すべて割き終わると殻をもって出て行った。

一人に一つの小さな火鉢が出て、五徳の上の網には甲羅に入った蟹みそが煮えている。

「内子に外子も入れてあります」

竹の匙ですくって食べると皿の身も次々入れ、早く食べるほうが旨いと勧めた。

 

その晩は鉄之助、弥十郎、大吉郎の三人が銭五たちと北国の大名の現況を夜が更けるまで話し合った。

本間本家、三十六人衆を引き継ぐ問屋仲間は自分たちのためもあり、更なる貸し出しで藩を支える必要がある。

ただし、藩主の乱行、放蕩、家臣の横暴、怠慢に注意し領民のためにならぬ貸し出しには「結」、「御秘官(イミグァン)」の金を使わぬことを確約した。

帳面には資金貸し出しの日時と返済期日が載せてある。

大坂と同じように“辛未十一月二十一日 酒田 雲鵬 確認 以上権利放棄と書きつけた。

本間弥十郎と喜多村鉄之助は前と同じに連署した、銭五は確認書を三枚渡した。

 

 

津軽藩(弘前藩)には茨木屋の隠居もこれ以上のめり込まぬと約束して戻ったという。

大坂蔵屋敷は天満堀川の西にある。

江戸上屋敷は本所二ツ目。

神田小川町から津軽家の移転は「振り袖火事」の三十年後になる。

鉄之助は聞いた話だがと断って移転させられた理由を教えてくれた。

「江戸の大名屋敷は、火災や刻を告げるのに版木を打っていたが、津軽藩は太鼓を打ち鳴らしたそうだ。それが他の大名、旗本屋敷から苦情が多くなっての移転と聞きました」

鉄之助最近は語尾に“じゃ”をつけることが少なくなった。

元禄元年(1688年)のことで湿地の多い本所二ツ目の地ならし、埋め立てに多くの費用が出て行った。

「本所七不思議とも言われる太鼓は怪異ではなく風習にすぎません」

津軽藩(弘前藩)の参勤交代。

大館から秋田へ出て新庄、上山、関、福島へ出る。

十八日ないし十九日の道中となる。

手続きも必要で、参府お伺い、およそ一月後に許可の連絡が来て準備が始まる。

今年国入りに際し、いろいろ領内にも変化が起きている。

先払いが「ひっこめー」と先に駆けたが「下におれー」としたという。

 

藩主の津軽寧親は分家の黒石領五代当主津軽著高の長男で、江戸住まいのまま、交代寄合陸奥黒石領(四千石)六代当主となった。

天明七年(1787年)本所深川火事場見廻役に就いた。

寛政三年1791年)三十七歳で本家(四万六千石・実高二十三万石~三十三万石)相続、出羽守となる。

分家の黒石領は長男典暁が七代当主と成っていたが文化二年(1805年)死去。

寛政十年(1798年)箱館警護三百名。

寛政十一年(1799年)箱館警護に加て東蝦夷派遣が命じられる。

津軽藩は文化二年(1805年)蝦夷地警備の功績で七万石と成った。

文化四年(1807年)箱館警備から配置替で宗谷・オホーツクの警備強化が命じられた、この時の兵士は七百五十名。 

津軽藩は文化五年(1808年)蝦夷地警備の功績にて十万石に高直し。

黒石領は文化六年(1809年)親足の時、六千石が分与され一万石として黒石藩を立藩。

貞享四年(1687年)の総検地によると二十六万千八百三十一石。

その津軽藩でも宝暦の飢饉、天明の飢饉による打撃は大きく響いた。

宝暦の飢饉(1755年~1756年)時に幕府に届けた津軽領内の損毛高。

表高四万六千石のうち三万四千二百八十石。

新田十九万六千三百五十三石余のうち、十六万千百三十石。

実収四万六千九百四十三石。

諸税の免除、検見の廃止、作取自由、幕府への救援米一万石の要請などが行われた。

安永年間(1772年~1781年)借り入れは大坂茨木屋安右衛門だけでも十万両を越していたという、総額二十四万両、年一万両近くの赤字財政が続いていた。

天明の飢饉(1782年~1788年)では餓死者十万(一冬最大八万人)を超え、領民の半数を失ったという。

穀留め(こくどめ)をせず備蓄米まで強制買い上げし、廻米へ回したのが餓死者続出の最大原因と言われる。

天明四年(1784年)宝暦の飢饉を乗り切った津軽信寧が四十五歳で急死し、長男津軽信明が二十三歳で後を継いだ。

寛政三年(1791年)津軽信明は三十歳で急死、養嗣子津軽寧親が後を継ぐことになる。

天明元年(1781年)二十四万六千八百二十二二人(家中一万六千九百七十四人)。
寛政年中(
1795年頃)十四万三千三百九十九人(家中一万二千九百二十三人)。
昨年文化七年(1810年)の調べで十八万九千七百二十一人(家中一万四千九百二十八人)と回復の兆しが見えだした。

諸藩はこの天明の飢饉の時でも借金返済に江戸表への廻米をしたが、米沢藩は越後と酒田から一万千六百五俵の米を買い入れ領民へ給付した。

米沢藩は備蓄米をすべて放出したといわれた。

 

 

出羽久保田藩(秋田藩)・二十万五千八百石・実高四十万石。

佐竹義和は二十六年前十四歳で家督を継いだ。

宝暦の飢饉(1755年~1756年)の時、藩主は佐竹義明。

藩は領内の米を銀札(銀札一匁・銭七十文)で買い上げて配給という飢民対策を採ろうとして失敗。

佐竹義敦は天明の飢饉のさなか天明五年(1785年)に死去、佐竹義和の代は対策に追われた。

四年前蝦夷地警備に金易右衛門ら約六百人を派遣した。

藩士は増減はあるが文化二年(1805年)千六百五十九家あったと云う。

本城は久保田城。

江戸上屋敷は内神田(振袖火事焼失・天和二年1682年)から下谷七軒町(天和三年1683年から明治二年1869年)へ。

 

出羽亀田藩・二万石・実高二万千石。

岩城隆恕は二十八年前、天明二年(1783年)十九歳で家督を継いだ。

父親隆恭は岩谷堂伊達家から養子に入った。

家臣のいさかいが絶えず、領内は凶作が続き、江戸上屋敷の雨漏れ修理さえもままならなかったという。

藩庁は由利亀田の亀田城。

江戸上屋敷は小石川御門内御台所町。

 

出羽本荘藩・二万石・実高三万千石。

六郷政速は二十六年前二十歳で家督を継いだ。

七年前の鳥海大地震(象潟地震)で隆起した土地を干拓農地化事業で開発した。

田園風景の中に島のように小山が点在する名勝・象潟の誕生だ。

藩庁は由利本荘、本荘城

江戸上屋敷は下谷北稲荷町。

 

出羽矢島(旗本領)・八千石。

生駒親章は二十九年前天明二年(1782年)十歳で家督を相続した。

父親は交代寄合生駒親睦だが、親睦は安永六年(1777年)お国入りが認められた。

親章の初入部は寛政四年(1792年)七月。

生駒家は寛永十七年(1640年)生駒高俊の代に讃岐十七万千八百石から堪忍料一万石で移封された。

高俊に従って矢島へ赴いた家臣は二百人という。

高清の代に弟の俊明へ出羽伊勢居地二千石を分地して八千石となった。

宝暦六年(1756年)の実高一万四千六百五十六石。

戊辰戦争後に一万五千二百石、さらに一万六千二百石となった。

高俊は江戸下谷中屋敷が与えられたと云う、東都下谷絵図(嘉永四年)に藤堂家の隣に生駒主殿と生駒小次郎とある。

俊明の江戸屋敷として、御徒町五千二百坪の内千六百坪が分けられたという。

生駒親章、生駒親道が主殿と呼ばれている。

余談
出羽村山郡(旗本領)・三千石

天明八年(1788年)から天保十年(1839年)の期間幕領。

高力政房は肥前島原藩主高力忠房の三子・明暦二年(1656年)本藩より分知、寛文八年(1668年)出羽村山へ転封。

島原藩四万石高力家は高力忠房長男隆長の時、島原の領民に苛税を強いて領民に訴えを起こされ寛文八年(1668年)改易。

隆長の嫡男忠弘は貞享二年(1685年)に下総国の匝瑳郡、海上郡に三千石を与えられた。

高力政房家は養子六人を迎え、幕末まで存続。

宗長・長氏(真田信就二男)・定重(真田信就三男)・長行(妻木頼保二男)・直賢(牧野英成七男)・直道(加藤泰広六男)・直行(出自不詳)。

長行(妻木頼保二男)の五男長昌は下総高力家へ養子に入っている。

 

 

最上川の水運も年々盛んになってきた。

米沢藩は米沢から左沢(あてらざわ)までの舟路を開いた。

米沢藩の年貢米も最上川を通じて運ばれ、糠野目(高畠町)、宮(長井市)、荒砥(白鷹町)に舟着場が置かれた。

中流部に新庄盆地(新庄藩)の清水、山形盆地の大石田(新庄藩)と船町(佐倉藩飛び地)の三河岸が栄えている。

本楯(寒河江・天領)・寺津(天童藩)・清水(大蔵村・舟形街道・新庄藩)、清川(庄内藩)も大事な河岸となった。

五十石程度の艜船(ひらたぶね)、小ぶりの小鵜飼船(こうかいぶね)が漕運に働いた

寺津には近江商人の日野・中井家が支店・日野屋を文化元年(1804年)に開店し、金融と油絞り業を営んでいた。

宝暦年(1753年)からは寒河江代官所が配置され天領。

 

 

本間弥十郎は信に「どうです津軽と出羽の半分でもこれだけ借金だらけです」と帳面を開いて教えた。

大吉郎は尾花沢の紅花大臣のことを教えてほしいと父親と弥十郎に催促した。

「島田屋は代々鈴木八右衛門と名乗るが紅花大臣は元禄の頃の風流人のことだ」

「今は」

「蔵元、利貸、大名貸しで搾り取っている」

「親父様はあまり好きではないようで」

「そうだ、村山の高力様など見事に搾り取られている。新庄も御用商人にせざるを得ない」

「まぁ、人いいところもあるようだが一度借りると後を引くという話だ」

弥十郎もほどほどに付き合う相手だという。

山形から白河へ移った松平家へも四千両を超す金を十年年賦、無利子で貸した。

村山地方に三万石の飛地領があり、蔵米での返済を見込んだのであろう。

「蔵米返済ほど恐ろしいものはない。領地の上りが商人へすべて行っては借り入れを繰り返すばかりだ」

「本間様、渡邉様とは肌合いが違うということですか」

「鐙屋ともさ。“かねじゅう”も買い入れはともかく借り入れはやめさせろよ」

山形「かねじゅう」福島屋治助は大吉郎の義父だ。

青苧、米穀の仲買の多くは仕入れ資金を島田屋に借りて商売をしている。

高利貸ではない、当時の商売の先付けとして普通の利払いだが、動かす金が多い。

大石田船持商人への貸付金も多いはずだという。

最大の強みは一人で貸し付けず、必ず分散し儲けは少なくとも、損害も分散したことだ。

紅花大臣とは元禄の頃江戸へ送った荷が高値で売れず、江戸の仲買も手を組んで買わぬようにした。

八右衛門(清風)は品川で降ろした荷を群衆の前で燃やした。

これは偽の荷(屑綿)を積み上げた演出だ。

紅花の卸値が上がり八右衛門(清風)は大金を手に入れた。

吉原で豪遊し、芭蕉とも交流を持ったという。

 

おひざ元の話が始まった、大吉郎は留守の間に決着が付いた話だ。

荘内藩は江戸までの参勤道の里程百三十里二十四町。

藩は家中五百人、給人が二千人程度抱えている、明和期に二千八百四十五名。

寛文七年(1667年)江戸表“詰の年”七百八十人、“留守の年”四百三十五人。

参勤道中は五百五十人規模だったと記録が残るのだが吉宗の時代に二十万石規模で騎馬十騎、足軽八十人、人足百五十人とされたはずだ。

江戸~草加~幸手~間々田~宇都宮~太田原~白坂~須賀川~二本松~桑折~関~上ノ山~楯岡~清水~清川~鶴岡。

此の年参府の参勤道中を幕府の許可なく変更、上ノ山から米沢、板谷峠を抜け福島に至ったため、幕府の不興を買うことに発展し、家老竹内八郎右衛門と中老白井弥太由を七月に罷免した。

事件は文化六年江戸詰め元締役坂尾儀太夫が、国元へ戻る途中の六月二十六日奥州関において最上屋主人長之助を無礼討ちした。

文化七年二月儀太夫は知行召し上げ、永蟄居処分となった。

家系は子供の万年(甚平)が後に受け継ぐことを許されている。

白井弥太由(矢太夫)は中風で療養中、罷免とともに隠居、嫡子重明に四百石を相続させた。

竹内八郎右衛門(茂樹)は七月に罷免、千百石の上席番頭は竹内八郎右衛門(茂林)が継いでいる。

責任をもって交渉に臨める藩士もいない藩に仙台藩が黙って見逃しはしない。

此の事犯により、中老に任ぜられ政権を握るのは水野重栄、此の年三十四歳の男盛り。

本間光道との縁で藩政改革に乗り出した。

 

 

荘内藩・庄内藩(鶴岡藩)・十三万八千石→十六万七千石・実高二十二万三千石。

酒井忠徳は四十四年前明和四年(1767年)十三歳で家督を継いだ。

安永元年(1772年)六月、十八歳の時、本国入りの旅費が途中で尽き、涙したと伝わる。

江戸で工面が付かぬうちに出達の日限が来た。

足りない旅費を国元で調達し途中で受け取ることにして十三日に江戸を出て、福島まで来て金が尽き、国元からの金が届くまで滞留することになった。

明和四年(1767年)から安永元年(1772年)まで江戸在府だったのだろうか。

酒井家の参勤交代(入部)年月は子、寅、辰、午、申、戌、六月。

酒井家の参勤交代(参府)年月は丑、卯、巳、未、酉、亥、六月。

享保五年(1720年)大凶作が起こり、施粥を実施した。

藩の財政が傾いたのは享保八年(1723年)蝶姫(浅野吉長の娘・前田綱紀の養女)を荘内藩五代酒井忠寄正室へ迎え入れてからと云われる。

酒井忠寄は支藩(二万石)の松山藩主酒井石見守忠予の次男から本家を継いだ。

浅野吉長-広島藩四十二万六千石。

前田綱紀-加賀藩百二万五千石。

荘内藩は蝦夷警備、東北外様諸藩警守だったが、忠寄は老中に就いている。

大老四家の酒井家は雅楽頭流酒井家、この時は播磨姫路藩十五万石酒井忠道三十五歳、此の藩も壊滅的な借金地獄だ。

文化五年(1808年)に借金累積は七十三万両に達していた。

此の藩は奇跡的に、木綿の売買権を商人から取り戻し、藩直轄として二十四万両もの蓄えを得た。

将軍の姫を天保三年(1832年)正室に迎え、借金地獄を乗り越えた希有な藩でもある。

家斉二十五女である喜代姫(都子・晴光院)には六男二女と同母の兄弟、姉妹が多い。

母親は側室お八重の方(皆春院)、子に美作津山藩十万石松平斉民(確堂)がいる。

元文四年(1739年)日光東照宮の修理が命じられ四万八千両の普請費用が重くのしかかった。

荘内藩江戸勘定方は借り入れを繰り返すようになっていく。

本間四郎三郎光丘と荘内藩のかかわりは宝暦八年(1758年)から始まる庄内浜大砂丘の植林と言われる。

宝暦十年(1760年)本間家三千百四十両献上。

明和元年(1764年)本間家千両献上。

忠徳は明和四年(1767年)小姓格に本間光丘を登用して財政改革を進めた。

明和五年(1768年)二月光丘は大津借の整理のため、高利の借り入れを肩代わりした。

さらに備荒貯蓄米籾二万四千俵(八年計画)を献じている。

光丘の功績に五百石三十人扶持が与えられた。

安永五年(1776年)財政建て直しに御勝手御用掛に就任。

安永九年(1780年)六月十八日、庄内大地震。

危難を乗り越え天明元年(1781年)には余剰金さえ生じたという。

藩財政がどうにかつり合いを保っていたが定信の方針は、荘内藩を窮地へ追い込んでゆく。

天明の飢饉、川普請(天明八年1788年)などでまた借財が増え始めた。

寛政八年(1796年)白井矢太夫と竹内八郎右衛門は水野重幸と本間光丘を藩政から追放した。

追い打ちをかけるように寛政九年(1797年)四月、忠徳は将軍名代として京に上り、その費用四万両を領内より募った。

この時は金六千五十両、銭五百五十貫、米一万二百俵、蝋燭一万三千五百丁、尾関又兵衛は二百両を献上している。

本間光丘は享和元年六月一日(1801711日)に死去。

本間家は次代の本間光道も荘内藩に尽くし、文化元年(1804年)四月酒田大火、六月、鳥海山が噴火、大地震に際し、三万両の救済資金を出した。

文化三年三月四日(1806422日)には火事で江戸藩邸が類焼し、二千両を献じた。

文化八年(1811年)水野重幸の長子重栄は白井矢太夫と竹内八郎右衛門失脚後、中老に任じられた。

その後、文化十二年(1814年)本間光道は家老になった水野重栄により、郡代役所出仕を命じられて藩の再生に協力している。

藩庁は鶴ヶ岡城。

江戸上屋敷は神田橋御門。

 

 

出羽松山藩・二万石→二万五千石・実高四万三千石。

酒井忠崇は天明七年(1787年)に三十七歳で家督を継いだ。

宝暦十年(1760年)忠休は西の丸若年寄になり五千石加増。

陣屋は飽海郡中山村が分与されて中山陣屋(松山陣屋)。

藩庁として天明元年(1781年)第三代藩主酒井忠休によって松山に築城。

江戸上屋敷-下谷七間町。

 

山形藩・六万石・実高不詳。

秋元久朝は文化七年(1810年)十九歳で家督を受け継いだ。

藩庁は出羽村山、山形城。

江戸上屋敷は明和四年(1767年)に呉服橋門内(田沼意次との邸替え)。

西の丸老中秋元凉朝と側用人田沼意次との確執と世間で噂が出た。

凉朝は明和四年六月老中致仕、明和四年閏九月上野舘林六万石から出羽山形六万石へ転封、明和五年五月秋元永朝に家督を譲った。

上野舘林は実高十万六千石、出羽山形の実高は表高を超えていない時期が多い。

此の転封は、老中首座松平武元が田沼と親しく、それをもって田沼の陰謀説が残る。

上屋敷の変遷

(壱)鍛冶橋御門付近(慶長十二年1607年)~

(弐)一橋御門外(寛永九年1632年)~

(参)清水御門内(正保元年1644年)~

(四)大下馬後(天和二年もしくは三年1682年、1683年・大手門下馬・松平因幡守との邸替え)~

(五)和田倉御門内(宝永年間・阿部豊後守正武邸へ・大下馬後に本田伯耆守が入る)~

(六)日比谷御門内(正徳四年もしくは五年1714年、1715年・一橋御門内に移転した戸田能登守邸へ。阿部豊後守正喬が和田倉の邸へ)~

(七)神田橋御門内(延享四年1747年・松平右京大夫邸へ)~

(八)呉服橋御門内(明和四年1767年・田沼主殿頭意次邸へ)~

(九)浅草新寺町(元治二年1865年・戸田越前守邸へ・呉服橋は牧野備前守へ)。

秋元家(石高は入封時)

慶長六年(1601年)上野国総社藩(一万石)~

元和八年(1622年)甲斐国谷村藩(一万八千石)~

宝永元年(1704年)武蔵川越藩(五万石→六万石)~

明和四年(1767年)出羽山形藩(六万石)~

弘化二年(1845年)上野舘林藩(六万石)。

幕末山形藩領地
出羽村山郡-三十九村・下野都賀郡-三村・下野安蘇郡-一村・河内丹南郡-十村・河内丹北郡-十六村・河内八上郡-十一村

秋元家養子の連鎖

・甲斐谷村藩主、武蔵川越市初代藩主・秋元喬知(戸田忠昌の長男)。

父親-下総佐倉藩主戸田忠昌。

母親-甲斐谷村藩第二代藩主秋元富朝の娘

・武蔵川越藩第三代藩主・秋元喬求(戸田忠余の長男)

父親-下野宇都宮藩主戸田忠余(戸田忠昌の曾孫)。

母親-芳春院。

・武蔵国川越四代藩主、出羽国山形初代藩主・秋元凉朝(秋元貞朝の三男)

父親-旗本秋元貞朝(谷村藩主秋元泰朝の曾孫)。

母親-不詳。

・出羽山形藩第二代藩主・秋元永朝(上田義当の四男)。

父親-上田義当(義當・秋元貞朝の子・凉朝の兄)

母親-上田義行の娘。

・出羽山形藩四代、上野館林藩初代・秋元志朝。

父親-周防国徳山藩八代藩主・毛利広鎮八男。

母親-秋元永朝の娘喜哉。

・上野舘林二代・秋元礼朝(太田資始五男)。

父親-遠江掛川太田資始。

母親-良。

 

山形藩の御用商人・紅花商人五人衆。

「〇に長」長谷川吉郎次、「〇に谷」長谷川吉内、「やままん」村居清七、「やまじゅう」佐藤利兵衛、「かねじゅう」福島屋治助。

街の規模は縮小したが出羽三山参詣の足掛かりとして栄えた。

 

出羽上山藩・三万石。実高三万千石。

松平信行は美作国津山藩主・松平康哉の五男から養子に入った。

六年前文化二年(1805年)十六歳で家督を継いだ。

家臣間にいさかいが多く、手当米を増額し、先代から続いていた家臣間の対立を鎮めた。

信行は天保二年(1831年)四十二歳で、家督を長男信宝十五歳に譲り隠居した。

信行は明治六年(1873年)八十四歳で亡くなった。

家系は藤井松平、松平利長から続く名家だ。

藩庁は出羽上山城。

江戸上屋敷は一の橋麻布新堀端。

 

 

米沢藩・十五万石・実高三十三万石。

米沢藩は寛永十五年(1638年)表高三十万石、実高五十一万七千石。

寛文四年(1664年)末期養子に上杉綱憲を迎えたとき半地処分を受けた。

表高十五万石、実高二十八万石。

上杉治広は八代藩主上杉重定の次男。

二十六年前天明五年(1785年)治憲は隠居し、治広は二十二歳で家督を継いだ。

宝暦十年(1760年)米沢藩主上杉重定の養嗣子に、秋月直松(治憲)が選ばれた。

明和四年(1767年)治憲は家督(九代)を継いだ。

この時代の家中(藩士、足軽)には六千人いたという。

治憲(鷹山)日向高鍋藩主秋月種美の次男、母親は黒田長貞次女春姫(秋月種美正室)。

春姫の父親は黒田長貞、母親は豊姫(黒田長貞正室・瑞耀院)。

豊姫の父親は上杉綱憲(四代)、母親は側室樫田氏(於磯)。

治憲は天明五年(1785年)治広に家督を譲ると、隠居後に鷹山と名乗り、米沢で改革の仕上げをするために藩主の後見をした。

鷹山が参勤交代に縛られぬように、三十五歳という若さで隠居したとみる向きがある。

藩庁は置賜郡米沢城。

江戸上屋敷は霞が関桜田門外。

 

高畠藩・二万石・実高不詳-天童藩(実高二万千石)

織田信浮は四十四年前、明和四年(1767年)に十七歳で相続を許された。

兄の上野国小幡藩主織田信邦は明和事件連座で隠居。

幕府は上野国小幡藩二万石から陸奥国信夫郡、出羽置賜郡、出羽村山郡内二万石への転封を命じた。

陣屋は文化七年(1810年)糠野目陣屋焼失、高畠城内に陣屋を借りる。

江戸上屋敷は鍛冶橋門内(没収)、八代洲河岸(大手より六丁)へ移される。

嘉永二年(1849年)切絵図に丸の内大名小路。

余談

天保元年(1830年)に天童藩(実高二万千石)と認められた。

天童織田藩はこの時は、まだ出羽置賜高畠城内に陣屋を置いている。

高畠城は上杉氏が幕府から預かり、織田家は高畠村、小郡山村、泉岡村、塩森村、相森村、柏木目村を領地としていて、天童村山が織田家最大の領地だ。

織田家は信雄の時、大和国に三万石と上野国に二万石の領地があった。

大和宇陀松山藩は二万八千石で信雄、上野国小幡領は信雄の四男信良に引き継がれた。

大和宇陀松山藩はお家騒動もあり減封、国替えで丹波柏原藩二万石となったが明治まで存続した。

上野小幡藩も紆余曲折の後、信右の時代、収入六千二百六十九両、支出一万二千八百四十四両と破綻している。

明和事件に連座した信邦は蟄居、藩を継いだ養嗣子信浮は出羽高畠藩へ移された。

陣屋、住居にも事欠き、上杉氏の管理する高畠城内へ陣屋を置き、のちに糠野目へ移った。

天明の飢饉では家臣さえ逃散したと言われていたほど困窮した。 

十一年前、幕府は信夫郡・村山郡内の領地九千九百二十石余を収公した。

村山郡内に替地を与えることにより領地の大部分が村山に集中した。

文化七年(1810年)糠野目の陣屋が焼失するという不運続きで、上杉氏の高畠城内に仮住まいとなった。

名家の意地か賄賂(まいない)使いは上手くないと聞こえてくる。

陣屋の天童移転計画は許可が下りてこない。

 

出羽新庄藩六万八千二百石(実高十万三千石)は戸沢正胤が跡を継いで十五年、今だ十九歳という若年の殿様だ。

此の藩も天災、飢饉、失政により危機に瀕している。

戸沢政盛の時幕閣と縁を結び、最上郡と村山郡に二万石を加増されて常陸松岡四万石から新庄に移封、出羽新庄藩六万石となった。

新田開発、鉱山開発の結果、寛永二年六万八千二百石と成ったという。

領内人口は最盛期の五万八千五百十一人から八割にまで減ってしまい、借入金は年貢の二年分を上回った。

藩の立て直しに全藩士が取り組んでいる。

藩士が率先し桑を植え、蚕を飼い、糸を紡いだ。

赤子無尽なる制度を作り赤子養育米として困窮者に配っている。

戸沢正胤は長男正令に貢姫(島津重豪十二女)十三歳を正室に迎えた。

貢姫の兄に島津斉宣などがいる。

(ウイキペディアなどに八万三千二百石、外様から譜代へと書かれているので気になった。戊辰戦争時に政府軍について一万五千石を加増されたと分かった。譜代格となった時期は不詳。)

寛永元年より新荘(新庄)城築城(古城跡)、寛永二年完成。

寛永六年(1629年)本丸・二の丸・惣矢倉、焼失。

江戸上屋敷は麻布狸穴。

余談

宝暦六年(1756年)新庄まつりの起源の城内天満宮祭り始まる。

 

出羽長瀞藩は元久喜藩一万二千石の米須家(江戸定府)が所領のうち六千四百石を十三年前に移されたものだ。

所領は分散しており、久喜の陣屋を長瀞へ移し、代官をおいて久喜藩から長瀞藩となった。

米須家は初代江戸北町奉行米津田政の子孫だ。

長男米津田盛の時、河内に一万石を加増されて大名に列した。

田盛長男米津政武の時、弟田賢に分与し一万二千石となり久喜に藩庁を置いた。

政武長男政矩は家督を継いだ時、弟政容へ下総で千石を分与し一万千石となった。 

米津政矩は大坂在任中二十九歳で死去。 

政武次男の米津政容(寄合旗本千石)が後を継いだが幕府は政容の千石を収公した。

政容三男米津政崇は大坂定番を務めている。

政崇長男米津通政は所領のうち六千四百石を出羽長瀞へ移され長瀞藩が成立した。

この地は享保の時、長瀞質地騒動の騒ぎで質流地禁止令の不備が露呈した。

一揆が起こり鎮圧の結果は禁止令の廃止となり、大地主の出現となった。

米津通政は荒れ地の開墾を進めたが四十五歳で隠居した。

通政の長男米津政懿は十二歳で家督を相続し十二年目、二十四歳の若き藩主だ。

長瀞陣屋は最上満家の隠居城でもあった場所だ。

山形藩鳥居氏代官陣屋がおかれ、さらに保科氏の所領を経て天領となっていた。

通政はそこを新たな陣屋とした。

最上川水運の拠点大石田と船町の中間点になる重要な地であった。

江戸上屋敷は芝愛宕下大名小路。

 

村山地方・寒河江柴橋の天領代官所は柴橋と寒河江の両方を束ねている。

明和四年(1767年)頃の支配高は、四十八ヶ村七万四千石。

 

 

越後長岡藩は越後村上藩の内藤家(五万石)と縁が深い。

領国は互いの城館が和里三十里ほどの近さにある。

牧野忠精世嗣忠鎮へ松平定信の娘の婉姫(寿姫)を迎え入れたが、忠鎮は三年前(文化五年)に二十一歳で死去した。

寿姫は精世の養女として内藤信敦の継室として再嫁し、文化九年には村上藩第六代藩主となる信親を産む事になる。

信敦は三十五歳、昨年から寺社奉行を務めている。

村上藩は水害に悩まされ減封が続いていた悪所でもあった。

歴代の領主の財政を潤していた三面川の鮭も乱獲が続き不漁が続いていた。

青砥武平次という郷村役(三両二人扶持)が“種川(たねがわ)の制”を確立し漁獲高を驚異的に増やした。 

ある資料では運上金二百五十両有った物が、内藤信興入封後の元文元年(1736年)は五両に落ち込んだという。

武平次は金沢儀左衛門の二男、青砥冶兵衛の養子となったという。

三十三歳の延享二年(1745年)郷村役に就いた。

内藤信凭は武平次の進言を取り入れ、三面川を三方向へ分流させた。

稚魚の川下りの時期を禁漁とし回遊率を上げた。

村上藩は武平次の功に対し明和三年(1766年)七十石の石取り侍へ昇進させた。

三条領代官を拝命とも言われている。

宝暦十三年(1763年)に始めた工事は、天明八年(1788年)武平次の亡くなった後も続けられた。

寛政六年(1794年)に工事は完了し、寛政八年(1796年)運上金は千三百両に達したと云う。

この方法は荘内藩も文化三年(1806年)いち早く取り入れた。

越後長岡藩は信濃川流域の長岡と新潟が領地で間の三条は村上藩領となる。

三条は稲垣家二万三千石から幕府領となり後に村上藩に組み入れられた。

この頃には三条は鍛冶屋町・六ノ町(砂原)の鉄器の生産で繫栄している。

その昔、吉宗の時代この辺りは複雑になった。

村上藩領の一部が高崎藩領に移管され三条町は村上藩領。

裏館村は三条町東方の一ノ木戸村と共に高崎藩領。

本寺小路一帯が境界線で青玉小路の南側と三ツ星小路の両側が村上藩領。

青玉小路の北側は高崎藩領。

文化八年頃には人家は七百軒を超えたらしい。

高崎藩八万二千石は松平輝延の時代、此の年は寺社奉行。

余談

越後村上家は上記のように松平定信の孫が藩主に就いた。

越後柏崎には伊勢桑名藩の飛び地がありこの時代は奥平家松平忠翼が藩主だ。

長男の松平忠堯が後を継いで文政六年(1823年)三月二十四日武蔵忍へ移封を命じられた。

後を陸奥白河藩から久松家松平定永が十一万石で移封されてきた。

定永は定信の嫡男で婉姫(寿姫)の兄になる。

表高十一万石の桑名藩は桑名・員弁・朝明・三重で八万三千石、越後柏崎五万九千石あったという。

この時忍十万石から陸奥白河へ移封されたのは阿部正権十八歳だが、その年の十月に亡くなった。

越後は明治初年の調べでは四千三百六十一村・百十五万八百八十一石余と記録されている。

幕府領も多く存在し預かりとして大名家が管理した土地も多い。

高田藩預地・川浦・出雲崎。

桑名藩預地・古志郡・刈羽郡・蒲原郡・脇野町。

会津藩預地・出雲崎。

新発田藩預地・新潟・水原。

米沢藩預地・水原。

幕府領は新潟奉行所・出雲崎代官所・水原代官所・川浦代官所・脇野町代官所。

 

「どうです。此処までで疑問はありますか」

「いやはや、これほど困っても幕閣は格別殖産を勧めず、自分で方策を考えろですか。人参で旨く行っても養蚕は奢侈禁止とかみ合いませんね」

「幕府が貸付金を出すのは特別なつながりがあるか、賄賂(まいない)が必要で高利貸から借りるようなものです」

大吉郎は信とどこまで貸し出しても藩が返済できるか話している。

「格式の規格変更しか手はないのでしょうが、お話では無理しても格を上げたい人ばかりのようですね」

 

 

村上藩・五万石・実高七万千石。

内藤信敦が五歳で家督相続して三十年。

寛政十二年(1800年)奏者番。

享保十三年(1728年)の村々高辻帳、百八十九村七万五千三百五十六石余。

岩船郡八十一村・高二万八百二十五石余。

蒲原郡八十三村・高四万五千七百九十八石余

その他二十五村・高七千七百三十二石余

内藤弌信は陸奥国棚倉藩五万石から宝永二年(1705年)所領を駿河国・遠江国内(吉田城)に移され、正徳二年(1712年)大坂城代に就任。

享保三年(1718年)大坂城の構えについて吉宗の質問があり、的確にこたえられず罷免されたと云う。

弌信は享保五年(1720年)越後国岩船・蒲原・三島三郡へ転封。

間部家から引き継ぎを完了したのは享保六年(1721年)四月二十一日。

この時には天守櫓は寛文七年(1667年)十月十八日の落雷火災で焼失していた。

此の櫓は松平直矩が寛文三年(1663年)に建造させたが、松平家は寛文七年(1667年)八月十九日、転封により姫路に復帰、城受け取りは二十二日と記録がある。

榊原熊之助(政倫)が入部したのは寛文七年(1667年)六月十九日と出ていた。

藩庁は村上城。

江戸上屋敷は永田町。

余談

前城主は間部詮房。 

大名としての間部家は甲府綱豊(家宣)が将軍に就任したことに始まる。

相模厚木で一万石を皮切りに宝永七年(1710年)に高崎五万石の領主となった。

吉宗に嫌われ享保二年(1717年)高崎から村上へ転封させられた。

享保五年(1720年)七月病死、家督は、実弟で養嗣子の詮言が継ぎ、幕府領の越前鯖江へ転封。

享保六年(1721年)三月二十六日幕府代官からの引継ぎを完了した。

間部家は鯖江で陣屋の建築から手掛けることになり苦労している。

“間部の青鬼”と攘夷派から疎まれた鯖江藩七代の間部詮勝は天保十一年(1840年)家斉の元で見いだされ西丸老中についている。

老中水野忠邦、大老井伊直弼とも対立し、何度も老中を辞任した。

徳川慶喜が実権を握ると隠居謹慎一万石減封(四万石)。

明治元年(1868年)十月、会津藩と内通を疑われ国許での謹慎。

波乱の人生を歩み明治十七年(1884年)八十一歳で死去。

 

越後長岡藩・七万四千石・実高十二万石。

牧野忠精は明和三年(1766年)六歳で家督を継いで四十五年になる。

天明元年(1781年)奏者番。

天明七年(1787年)寺社奉行。

寛政四年(1792年)大坂城代、従四位下。

寛政十年(1798年)京都所司代、侍従。

享和元年(1801年)老中。

文化十三年(1816年)老中を免じられたが、文政11年(1828年)再任し、天保二年(1831年)七十二歳で死去した。

藩庁は長岡城。

江戸上屋敷は元文六年(1741年)西之窪、その後西の丸下、小川町、日比谷御門下、大名小路の順に移転。

 

越後村松藩・三万石→四万石・実高三万九千石。

堀直庸は十二歳で家督を継いで九年がたった。

堀家は安田藩当時三万石、三万六千七十四石、三万九千百十二石と石高は上昇した。

堀直吉の時代に領地替えで蒲原郡村松に陣屋を移した。

江戸上屋敷は神田末広町。

 

越後三日市藩・一万石・実高一万千石、定府。

柳沢里世は七年前十六歳で家督相続。

今年大坂加番を命じられた。 

柳沢吉保の五男松平時睦が享保九年(1724年)甲斐国甲府新田から三日市に移され一万石を与えられて立藩。

宝暦十年(1760年)信著が家督を継ぐと柳沢に復姓している。

陣屋は三日市に置かれたが水害を受け幕府代官所館村陣屋に移る。

江戸上屋敷は下谷三味線堀。

 

越後黒川藩・一万石・実高二万七千石、定府。

柳沢光被は十四歳で家督を継いで十四年。

大坂加番、日光祭礼奉行などを歴任してきた。

柳沢吉保の四男柳沢経隆が享保九年(1724年)甲府新田藩から越後黒川に移封されてきた。

陣屋は蒲原郡黒川町。

江戸上屋敷は牛込横寺町。

 

越後三根山藩・六千石→一万千石・実高一万五千石、定府。

寛永11年(1634年)牧野駿河守忠成が四男定成に蒲原郡三根山の新墾田六千石を分与。

三根山藩立藩は安政四年(1857年)、牧野忠泰(五島盛繁の三男)襲封後新田分五千石を加え一万千石の定府大名となった。

陣屋は三根山に置かれた。

江戸上屋敷は麻布飯倉片町。

 

越後新発田藩六万石→五万石・実高十八万石。

溝口直諒は十三歳、九年前に家督を継いだが四歳のため松平信明が後見となった。

父親の溝口直侯も九歳で家督を継いでおり、このときは騒動の裁定に入ったゆえに松平信明が後見となった。

藩は溝口秀勝が春日山藩主堀秀治の与力として六万石で入封している、

慶長十五年二代宣勝は弟善勝に一万石を分与沢海藩が立藩。

寛永五年三代宣直は検地打出しの中から分地したが五万石を相続した。

弟(宣勝次男)又十郎宣秋六千石(水原陣屋のち正保元年から切梅)。

弟(宣勝三男)内記宣俊五千石(池之端陣屋)。

弟(宣勝四男)左京宣知四千五百石(水原陣屋のちに正保元年二ツ堂へ)。

新発田藩が十万石に高直しするのは万延元年(1860年)溝口直溥の時代だ。

藩庁は新発田城。

江戸上屋敷は愛宕下大名小路(幸橋御門外)。

 

越後與板藩二万石・実高二万千石、定府。

井伊直朗は五十一年前、兄の井伊直朗の養子となり、十一歳で藩を継ぎ六十二歳となった。

正室は田沼意次の次女、田沼の元で若年寄に就任したが、田沼失脚後も務めている。

天明元年(1781年)~文化九年(1812年)。

文化元年(1804年)江戸定府から城主格となった。

與板城の建築が許され文政六年(1823年)に完成した。

與板(与板)陣屋(與板城)。

與板藩井伊兵部少輔江戸上屋敷は向柳原新橋にある。 

三島郡十七村六千七百六十四石余、刈羽郡十八村五千六百二十三石余、頸城郡二十四村七千六百十一石余。

頸城郡は領地替えとなり刈羽郡二千石,魚沼郡五千石余が与えられる。

戊辰戦争では政府軍に所属し與板は激戦地となった。

ウイキペディアに当時の記録に出兵百六十六名中戦士五名、士族二百五十三名、卒族千二百三名とある。

 

越後椎谷藩一万石・実高九千石、定府。

堀直温(池田方忠)は十三年前、十七歳で養子として備前岡山(池田治政五男)から将来の藩主として迎えられた。

三年前に直起の死去により藩主となる。

直起の起用と領地五千石の半知替え処分については政務を代行した堀直基の失政によると伝わる。

椎谷藩は刈羽、三島、蒲原の三郡。

三島八村二千二百五十五石余・蒲原八村二千二百四十四石余と刈羽郡のうち三村五百石の計五千石が幕府に上知された。

信濃国水内郡内の二村,高井郡内の九村の計五千石を与えられた。

堀直起(松平乗佑の七男、松平乗厚)、堀直温(池田治政五男、池田方忠)、堀直哉(水野忠光五男)と婿養子が三代続いた。

直温、直哉と日光祭礼奉行を申し付けられた。

刈羽郡椎谷町陣屋、高井郡六川村に陣屋が置かれた。

江戸上屋敷は日本橋蛎殻町。

 

越後糸魚川藩一万石・実高一万二千石・定府。

松平直益は五年前十八歳で家督を継いで五年目二十三歳になった。

前年一月江戸屋敷消失、本年三月藩内大火災が起こった。

此の藩は本来福井藩を継ぐべき光通の実子直堅が、光通の遺書と称する文書により昌親の家督相続が認められ、直堅は幕府によって賄料一万俵が与えられ、のちに糸魚川藩一万石が所領となった。

藩領は天災が続く貧乏藩の見本だ。

陣屋は頚城郡糸魚川陣屋

江戸上屋敷は赤坂溜池。

 

越後高田藩十五万石・実高十八万四千石。

昨年榊原政令三十六歳が家督を継いだ。

先代藩主・榊原政敦の長男、母親は象(きさ)の方。

逸話の多い藩主が続いている。

姫路藩主榊原政岑は千石の旗本の家に生まれた。

享保十六年(1731年)兄が亡くなり、十七歳で家督を継いだ、翌享保十七年(1732年)本家の末期養子として十五万石播磨姫路藩主に迎えられた。

姫路藩主時代、寛保元年(1741年)遊女高尾太夫の身請け、能楽の奥義を極めたという。

折しも吉宗の倹約令の時代、数々の乱行を咎められ、寛保二年(1742年)越後高田へ移封隠居を命じられた。

重臣の尾崎富右衛門は幕閣への弁明は奇談として続燕石十種に書かれた。

遊女薄雲は式部大輔の乳母の娘で、殿と乳兄弟であると弁明したと有る。

移封後は倹約に励み、新田五百町歩の開墾、農村の副業奨励をしたと伝わる。

隠居後に三十一歳で死去した。

高尾太夫は高田への転封に同行し、政岑の死後江戸へ戻り、池之端下屋敷に住んだという、剃髪して連昌院と名乗り四十三年後の天明九年(1789年)に六十八歳で亡くなったという。

墓は榊原家菩提寺本立寺にある。

長男榊原政純は七歳で家督を継いだが政岑の死去の翌年に十一歳で亡くなった。

幕閣に働きかけ異母弟富次郎政従(政永)を小平太政純の身代わりとした。

富次郎は家重へのお目見えを済ませ式部大輔に叙任した。

父親の影響を受けて能楽趣味が高じ、家臣へ能の「拝観の許可」を出して観せたが、そのうち領民にまで触れを出して観に来させたという。

寛政元年(1789年)五十四歳で隠居し次男榊原政敦が後を継いだが文化七年(1810年)隠居した。 

政敦の時、文化六年奥州領九万石余から五万石余を頸城郡公儀領と交換に成功した。

頸城郡は六万七千四百八十四石余。

奥州白河浅川に八万四千六百三十六石余とも言われている、付け替えで高田領が十一万九千石、奥州領三万三千石余になったと云う。

幕府領となったが高田藩が預かり、浅川陣屋を移転、奥州白河飛び領地に釜子(かまのこ)陣屋を置いた。

文政三年(1820年)に高田藩預かり地は幕府の直轄、浅川代官所が置かれた。

政令の時一本木温泉の開発に着手、開湯から数年で十軒ほどの温泉街が形成された。

高田屋、永野屋、湯本屋、小方屋、南部屋、村越屋(現「赤倉ホテル」)、高砂屋、遠間屋(後に「あたらしや」、現「遠間旅館」)の名が記録されている。

江戸時代から現代に続く老舗旅館は多い。

藩庁は頚城郡高田城

江戸上屋敷は神田・小川町。

 

 

二十二日は雪が降り続いた。 

信は請われるままに清国の現状を鐙屋の家族に話した。

英吉利東印度会社は更なる売り込みを裏社会と手を結んで画策している。

和国では鴉片の喫煙はほとんど話題にならないくらい少ないという。

鎮痛、鎮咳効果があるが、処方できる医者は限られている。

和国では阿芙蓉と言われるらしいが、知らぬ人のほうがほとんどだ。

津軽藩ではだいぶ前から効能と薬害が知られているという。

江戸では歌舞伎も取り上げ富岡恋山開(とみがおか こいのやまびらき)のなかに津軽のお座敷で所望した一粒金丹の科白も作られた。

鴉片自体は五百年以上前から薬として入ってきたと鉄之助が教えてくれた。

津軽藩は栽培を試みたこともあるそうだが失敗したという。

金に成るのが乾貝(ガンペイ・コンプイ・干し貝柱)くらいでは藩の慢性的な赤字を救えない。

鐙屋惣左衛門が思い出したように話に加わって来た。

「弘前のご城下では祢ふたの巡行に規制をかけたそうで」

「然様でござる。町内廻りは差し支えない。言い換えれば隣町内へいくなですからな。おまけに太鼓にも大きさを控えよではあんまりですな」

鉄之助も老臣達の遣り口に呆れていると言う。

その老臣たちとは鉄之助より年若の口うるさい連中だ。

高直しで藩と共に自分も偉くなったと勘違いしている。

更なる高直しを望んでいると鉄之助は心配している、十万石でも格式に合う出費は藩の財政を苦しめている。

陸奥盛岡藩が二十万石格になり張り合うのは両家の血の気の多いものたちだ。

高直しで藩の収益が増えるわけでもなく、殿様の位階が上がり、出るものが増えるだけだ。

慶長八年(1603年)、鷹岡に築城された城は慶長十六年(1611年)に至ってようやく完成した。

寛永四年(1627年)に落雷により炎上、藩が保管していた火薬により爆発したという。

天海僧正の助言で弘前城と名が変わった。

そして昨年から念願の本丸を幕府の許しで再建に取り掛かった。

藩政改革の失敗、蝦夷地警備、高直しによる参勤交代経費、格式に見合う出費、これを補うのは税の増収と借金以外津軽藩に手はない。

庶民、農民のささやかな楽しみにまで規制をかけて自己満足に浸っている。

最近まで木綿の着物さえ町民、農民に禁じるくらいひどい仕打ちをしていた藩だ。

木綿糸・布は高価で経済的にも容易ではなかった。

農民に麻と木綿の併用が認められたのは、寛政二年(1790年)のことだ。

そこで弘前、金木を中心に広まったのが“こぎん”だった。

藍染めの麻布に最初は麻糸で、後に白い木綿糸で刺したのが広まった。

養蚕に励みたくとも奢侈禁止の影響で、紅花と同じく苦境に立たされるばかりだ。

鉄之助は三月ほど酒田に逗留すると言っていた。

御秘官(イミグァン)の金の確認と、次代へ繋ぐ作業があるという。

「弘前にいると私が金を動かせると思い込んで、押しかけてくるものもおりますので当分戻れません。茨木屋が前に手を引いたとき泣きついたのをもう一度、いや何度でもやらせるつもりでしょう」

父親の代にできたのだから鉄之助も協力しろが急進派の言い分だ、脅せば金を貸すだろうと驕り高ぶる高飛車な出方で済むはずもないのだ。

民百姓に対する心持が米沢藩とは真逆だ。

藩の勘定奉行釜萢兵左衛門が何度も延期の交渉と、新規借り入れに奔走し、若い鉄之助も何度も大坂へ供をした。

当時の藩は津軽信寧の手に余る借金地獄が続いていた。

最後の手段と幕府から四千両、さらに一万両借り入れて急場をしのいだこともあった。

国元だけで返済分が収入の四分の一にも達していた。

信寧が遅ればせながら財政の立て直しを始めたが、天明四年(1784年)四十六歳で急死、二十三歳で跡を継いだ信明は藩士を半農半士という荒業で荒れた田畑(でんばた)の復興を目指した。

しかし志(こころざし)半ばの寛政三年(1791年)三十歳の若さで急死してしまった。

鉄之助はそれ以降の藩への肩入れから御秘官(イミグァン)の手を引かせている。

現当主の寧親は格式にこだわる面と先代の政策を堅持する両面はあると一応の評価はしているようだ。

だが施策はことごとく失敗が続いている。

 

十一月二十三日(陽暦千九百十二年一月七日)辰刻(八時四十分頃)酒田湊抜錨

四日目巳の刻(十時二十分ころ)粟島が視認され、東の陸(おか)へ寄って南下した。

三面川の河口から一里沖をさらに南下すること二十八里(和里三里十八町)。

十一月二十六日(陽暦千九百十二年一月十日)未の刻(午後一時三十五分頃)千日丸ほか二艘と海老江投錨。

渡邉家のラォレェン(老人)は銭五の船を見ると自分も乗り込んで来た。

「うちの旦那の読み通りだ。心配で一昨日からここへきていました」

銭五は荷を船頭に任せ、ラォレェン(老人)に案内されるままに渡邊家の出先の店へ案内された。

「対岸の塩谷湊に今使いを出しました。今晩はそこで歓待させてくだされ」

「関川へ今日行かずともいいのですか」

「明日の朝に船を支度しますので、時間稼ぎと勘弁してくだされ」

信もラォレェン(老人)の物言いに笑って応じた。

使いが戻って「一刻くだされと女主人(おかみ)に言われました」と報告した。

「じゃ街並みを案内しながら刻を潰しますか」

「できれば船大工の仕事が見たいですね」

「そりや好都合だ。行く途中にゃ五軒もありますじゃ」

船を降りて後ろを見るとこちらの浜は海老江に比べ、浜がだいぶ引っ込んでいるように思えた。

「気が付きましたか向うは砂州が伸びてこっちは引っ込んでいますじゃ。儂のひいじいさんの頃にな、北前船が盛んになって町ごと五町ほども海側へ移したといいますじゃ。昔は浜に塩田もあったと聞きましたじゃ」

和国には珍しいという、街の中心に広い道がある。

家の軒が突き出た下に腹を割いて竹串で広げられた鮭が吊るされている。

「塩引き、酒びたしくらいの町ですじゃ」

銭五が「函館で出たトバのようなものですよ」と教えた。

大吉郎もこの時期この付近の海沿いの町、川沿いの町は同じ匂いがしますと教えてくれた。

船を造るところを見ると十石程度から二百石あたりがこの湊の需要のようだ。

鍵重という店の女主人はまだ二十歳くらいだ。

信は和人が若く見えるからもう少し年は行っているのかと思った。

頭巾を信と庸(イォン)が取ると驚いたようだが、和人の言葉を喋るのですぐ平静になった。

板の間に藁の円座が並べられ箱膳が置かれ、次々料理が運ばれてくる。

鮭の白子煮、はらこの醤油漬け、塩引きの炙り、鮭尽くしだ。

鮭のかぶと煮は連絡を受けてすぐに煮込み始めたと女主人(おかみ)が信に教えてくれた。

女主人が「うちのととさんがこつぜねぇ。十日も前からそわそわ客人が来るからいつ来てもいいようにとだちかんたらありゃしませんのさ」とところどころわからない言葉で話しかけた。

「三左衛門さんが待ち受けるように言いつけたんですよ。だちかんて何ですか」

「てんぽこきなんですよ。あれ、だちかんは埒が明かないでいいのかしら」

「またわからなくなりましたよ“てんぽこき”ってのも判りませんよ」

「ととさんは嘘つきなんです。お客人は銭五さんの知り人で大男だというものですから。船乗りで太った大男を想像しちまいました」

ラォレェン(老人)は「おりゃそんな風には言ってないぞ。母親に似て早とちりなだけだ」という。

銭五は「今度は船乗りでなく陸の人間を好きになれよ」と煽っている。

どうやら船乗りに惚れて一緒になったことがあるようだ。

ラォレェン(老人)も「もう二年だ十九になって言い寄るやつも多いだろうに。母親も泣いていたぞ」と年までばらした。

「ちゃわちゃわ言うとらんと飲みなされ」

女中が持ってきた銚子を受け取って注いで回った。

粕汁の鍋が出て来た、火鉢で湯が沸く前に昆布を入れてすぐに取り出した。

下煮をした材料が次々放りこまれ、鮭は別の鍋で湯通しして後から入れ込んだ。

それを見ながら酒を酌み交わし話が弾んだ。

粕汁は旨い、大きく切った大根が鮭の頭の脇に置いてある。

ネギが時期なのだろうか甘くていい味が染みている。

「食べられない歯などは外しましたから全部食べられますよ」

出汁の昆布も引き上げたのを鋏で断ち切ると、もう一度入れて食べるように勧めた。

ふつうは入れなおすことは無いのだという。

「どうするの。捨てちゃもったいない」

「醤油で煮込むことが多いですよ。でもここでは滋養のため胃袋のために食べていただくんです。おっかさんは酢醤油に二日入れるのが一番だといいますよ」

大吉郎は少し滑った(ぬめった)ほうが旨いという。

それをあてにまた酒がすすんだ、外は雪がちらつきだしたが、障子をあけても体がほてって額に汗が浮かんだ。

 

 

二十七日の午、荒川関川村の船着きで降りて一里(和国九町)ほどで表門へ着いた。

母屋の前に帳場の建物がある、ここで酒の小売りもしているという。

積み上げたこもかぶりに見事な字体で雪桜としてあり、升が大小百ほども飾られている。

角樽も二十ほども並んで、一升徳利まで見事な出来栄えだ。

母屋の西に手入れされた広い庭が付いている。

ご先祖様の道楽だという、大きな石は京鞍馬、小豆島から運んできたと聞いていると教えてくれた。

余姚(ユィヤオ)屋敷に劣らぬどっしりとした造りだ。

チゥ(厨・台所)の隣の部屋には大きな囲炉裏がある。

ラォレェン(老人)が二人火の番をしている。

養父は文人と付き合いが広く、文芸にも秀でていたという。

十歳という幼い時に中条分家から養子に入り、家を継ぎ番頭たちの助けで家財を豊かにしたという。

信は最初わがままな贅沢者かと危ぶんだが、夜の宴席は八十人ほども列席した割に質素に見えた。

大きなヂゥオヅゥ(卓子)にダァンヅゥ(凳子)が用意されている。

十人が座り、客は次の間に正座している、信たち四人の顔が見られるように椅子は片側に並んでいた。

荒々しい造りのヂゥオヅゥ(卓子)は信のために作らせたようで、木の香りも好ましい。

料理は主、客共に同じもので区別はない様だ。

鰤の塩焼き、鮭の酒蒸し、鮑の旨煮のほかは野菜の煮物くらいだ。

簡単に「客人の来訪を祝いましょうぞ」と盃を上げて宴会が始まった。

銭五は顔見知りの船頭に酒を注いで回ってきた。

酒は自家の物と近在の酒蔵の物だという。

宴が進むと「膝を崩せ。遠慮するな」と三左衛門が声をかけた。

「おおっ」

声が上がるということは正座に我慢していたものもいたようだ。

銭五は「この人数に鮑をそろえるとは手が込んでいますな」と酒を運んできた中年の女に大きな声で伝えている。

「銭五様にとってはお口汚しでございましょう」

謙遜なのだろうと和人の習慣に慣れてきた信は思った。

「鮭が今年も遡上が始まりましたようで」

「ありがたいことでございます。三面川ならずとも荒川にも入るようになりました。荒川の網は日に一度ですが、今年も許しが出申した」

信は贅沢とは目立たない気配りだと気が付いた。

俵物の鮑、川の鮭、沿岸の鰤、土地の冬野菜、心と手間が掛かっている。

銭五と庸(イォン)は鮭を小皿のジャンイォ(醤油)へ漬けて食べている。

出された小皿のジャンイォ(醤油)がいい香りがする。

信が隣の若い男に言うと「そこの髭の爺様の自慢の醤油でございます」と身を引いて教えた。

近くで醸造しているのだそうだ。

藻屑蟹の味噌汁は濃厚で旨い、土地の酒とも相性がいい。

「海老江で一晩宴席をというのはこれの準備のためでしたか」

「いいや。今日の宴席は前から決まっておりましたのさ。信様のために特に気張ったわけじゃありませんよ」

酒を注いでくれた女が替わって答えた、自分へ問いかけたと思ったようだ。

「ははさま。それじゃいつも我が家が贅沢しているようにとられますよ」

此処では松江藩士の信孝ではなく和信(ヘシィン)として認識されている。

クンファ(髠髪)の庸(イォン)が江戸弁で女たちに冗談を言うので驚いている。

屋内で信と庸はクンファ(髠髪)を隠してはいない。

庸(イォン)は大吉郎と盛んに盃を交わしている。

朝餉は一汁一菜、チゥ(厨・台所)に続いた部屋で三左衛門と五人で食べた。

続き部屋、囲炉裏の周りでも家族が食事を始めた、座敷にいた猫は台所へ呼ばれて土間へ降りて行った。

煮干しの頭に出し殻となった胴体に何やら混ぜて与えられている。

薄味の味噌汁に豆腐とワカメが浮いていた。

一菜はこれも薄味の野菜の漬物だ、和国それも北の食べ物は塩辛いと聞いていたが長く漬けたわけでもない様だ。

信が嬉しそうに食べているのを見て不思議そうに思っている給仕の女たちだ。

銭五が助け舟を出した。

「聞いた話ではお屋敷での朝は、粥と野菜の火を入れたものだそうです。粥へ味を足すヂィャァツァイ(搾菜)という漬物が付くか、卵が一つつくかだそうです。母君も同じような食事で、ただ卵は温かくしたものを好まれるのだそうです」

「唐人の聞き書きだと、朝から卓から溢れんばかりの御馳走が並ぶと書いてあるそうで」

「それは驕り高ぶった人の話ですよ。ただ格式に従った宴席は豪華絢爛だそうです」

三左衛門は嬉しそうにうなずいている。

「これでこそ、結と御秘官(イミグァン)の後継者です。我が家の食事に顰めっ面でもされたらどうしようと心配して損しました」

渡邊家では粥の日、玄米の日、添え物は一汁一菜と分けてはいるようだが宴席といえど、格式の必要な場合を除き質素なものだという。

たまに昼に饂飩を打ったり、蕎麦を打つと大賑わいになるという。

食後に屋敷外の蔵を案内してくれた、今年の米も続々と馬で運ばれてくると戸前に積み上げている。

例年十二月の二十日からここへ運び込まれる決まりだという。

まず大坂、江戸表に運び出すのが先になるそうだ。

蔵から運び出す米俵についてゆくと頑丈な蔵に着いた。

蔵の背後は雇人の住居が五十棟ほど並んでいる、猫が十数匹日向でじゃれあっている。

開けてある扉裏に“文化七年庚午米沢”と墨書された板が張られていて、まだ墨も乾いていない。

米沢藩の物だという米は備蓄米にされているそうだ。

「これは昨年の収穫米です。四斗俵で六百俵が備蓄米となります。三か所の蔵を古い順に結の連絡のある飢饉の地方へ送ります。いくら必要でも年に一蔵しか開けません。微々たるものですが多くの地方からの要請にすべて応えれば自分たちが飢えることになります」

いつの間にかあの老人が後ろに来ていた、もしかしてこの移し替えを見せたかったのだろうか。

「村上藩、米沢藩、新発田藩の要請はこの蔵を使わず別の蔵を当てています」

運び込む人足は冷たい風の中でも汗をかいている。

「その人足たちは日に百五十五文稼ぎます。この地では四十文で玄米一升が買えます。一人ものなら食えますが酒飲みでは楽ではありません」

白米は宴席の御馳走の一つだという。

ラォレェン(老人)は「お江戸ではお会式で“一貫三百、どうでもいい”と声をそろえて寺参りをするそうで職人が千三百文稼げるならと本気で江戸を目指すものも出ます」と話した。

信は譲られた本にその画を見たことがある。

「街場のほうが実入りはいいでしょうが、掛かりも多いはずですね」

「そうですじゃ。熟練の大工で銀五匁四分、最近は六百文あたりが相場だそうですが、これがなかなか稼げませんのじゃ。下職、人足では二百文と言われています。江戸で二百文ではどうにも立ちいかぬでしょう」

渡邊家では昨年(庚午)、今年(辛未)と自家の水田で一万俵(二千五百石)の収穫があったという。

昔五斗俵だったがそれを四斗俵に規格が変わったという、米沢藩から毎年二千五百俵が渡邊家に入ってくる。

小国からここまで五里十町、馬で運んでくる小国の御蔵米は海老江まで運ばれ、北前船で大坂、江戸へ運ばれる。

米沢藩では最上川を下り、酒田からも送り出している。

この地で玄米一升四十文の物が、江戸では白米一升百二十文だという。

細い水路の橋を渡り屋敷内へ裏門から戻り、酒蔵、米土蔵、味噌蔵、金蔵などを見て回った。

ラォレェン(老人)は「この金蔵はいつも空いておりますから、幾らでも預からせてもらいます」などと冗談交じりで勧めてくる。

「カリブという遠くの海では昔海賊が大暴れし、西班牙の金貨、銀貨満載の船から略奪したそうです。その宝を隠したという話が幾か所もあって、和国にも船一杯の金が隠されたと噂されていますよ」

「見つけたら一夜にしてお大臣の仲間入りですな」

蔵は母屋の北から東にかけて並んでいる。

母屋の台所の竈は二つ、大きな釜が据えてある。

「ここはつなげれば二百人の宴席がしつらえられます」

今日も囲炉裏番に二人の老人が座っている。

米沢藩は借金の形に勘定頭格四百五十石を与えた、仕事は伯州鉄と雲州鉄を海老江で受け取り米沢へ運ぶことと、粟島の管理だ。

江戸は火事が多いとも聞いたというと、我が国は家が燃えても木材が豊富ですぐに建て直せると老人は自慢げに言う。

本家、分家を含めいつもどこかで新築、改築が行われていて大工との繋がりがあるという。

二十三年前に火事で建て直したが、手入れは何度もされたそうだ。

天明八年(1788年)焼失し、すぐ同じ規模で建てたという。

そういえば裏門付近の塀も新しく見えた。

「信様は風水、占いの類を信じますか」

「陣を張る、城砦を造る時に風水は役立つと習いました。占いは易が古来より未来を見る指針と言われています。叔父は易によって未来を見ることにたけています」

「我が家の家相を見た易者が近い将来火災の害に合うが、新しい家を建てるとき指針を示す人の言葉を信じれば、二百年安泰だと教えてくれました。ここは川が近いのですがその二百年先に水害により家が汚されるが、壊れずに済むといいました」

「近い将来とは難しい言い方ですね」

「わしの代は間違いないようですな。生涯で二度家を燃やすとは因果なものです」

二十六年前、天明五年(1785年)十歳の時中条分家より養子相続したという。

「火事は注意しても貰い火ということもあります。まず逃げることが大事です」

「消さずにですか」

「なれないものは小火でも慌てます。水の手がないのに無理をしては命を失います」

「確かにそうですな」

「城砦は守るには周囲を水で囲います。これはどこの国でも同じと聞きました」

「そうですのう」

「火事から守るには城内に池、もしくは川が必要です。建物の東西に動く水、南北に井戸が基本でしょう」

水龍(シゥイロォン)のことを話し和国には龍吐水という名の機械があると聞いたと話した。

「江戸の職人に十五両出して造らせたが屋根まで水が届きませんでしたよ」

「わが邸のは十五丈が基本ですが銀で四十両掛かりました」

「だいぶ安いように聞こえますが」

「銀で和国の四百匁、金に直せば四両、和国の重さで四十匁でしょう。性能の良いものは倍します」

ここのところ換算をすることが多く大体の数字はすぐに出てくる。

ほぼ同じくらいだが性能は段違いのようだ。

和国一丈は十尺(3.03メートル)、清国も十尺だが量地尺でも一割近く長い(3.45メートル)。

置いてある龍吐水というものを見たがこれではだめだと断定する信だ。

「父の持っていた本の画では龍吐水は布の筒で用水桶から水を吸って竹の筒から水を送り出すと説明が書いてありました」

「布ですか」

「和国でいえば印半纏の生地を丸めるのだと思います。さすれば水の漏れも少ないでしょう」

からくり儀右衛門の雲竜水はまだ先の話だ、それでも五間から六間程度だったという。

上関分家の儀右衞門宅へ向かった。

船を降りた場所近くにその家がある。

上関口留番所の跡があり土塁が残っている。

「わしが相続したころは米沢様の代官がここへきておられましたが、三年後に会津様のご領地になり廃止されました」

そのころ米沢藩では代替わりがあり渡邊家では貸付金古借一万千三百六十両を無利子、永年賦償還とし、分家は二百石を与えられた。

当主は宴席で信の隣に座った若者だった。

街道沿いの家並みを見て回り働く人たちの様子、街道を行き来する人の様子を見た。

大根を稲架掛け(はさがけ)して干している。

切り干し大根にするのだという。

翌日朝、銭五と大吉郎は船で先に海老江まで下り、信と庸は馬に揺られて渡邊三左衛門の生まれた家へ向かった。

荒川沿いを二里ほど下り西へ向かった。

越後街道を南へ進み、胎内川を渡った先にその家がある、馬子の話では下関からここまでで五里ほどだという。

「善映様」

「困ります父上」

「いやいや、いくら我が家でも今は善映様が御本家当主、米沢藩勘定奉行格でもあるのですぞ」

母親が茶を出してくれた。

頭巾の信と庸(イォン)は口元を覆う布を外し「髷ではないのでこれで失礼」と喫した。

「宇治から取り寄せました」

「良い香りです。いい水をお持ちのようで気持ちが和らぎます」

信の言葉に母親はうれし気にうなずいた。

この家では小千谷縮を扱っていた、この頃の小千谷は会津藩預かり領だ。

青苧(あお・苧、苧麻を含む)、苧(からむし)、苧麻(ちょま)を酒田、山形、米沢から小千谷へ運び、出来上がった小千谷縮を各地へ卸していた。

四月ともなれば小千谷、堀之内・十日町には全国から仲買が集まってくる。

高級品は定信の政策で生産できず、商いは半分に落ちている。

国内を冷えさせ、異国の脅威に怯え、それでも名君と言われるのは誰のための政策政治だったのだろう。

武士が権威を取り戻す、それは戦国の世なら通用した話だ。

下級御家人、旗本を救済するどころか困窮させても気が付かなかったようだ。

各地の産物を売って経済を立て直そうと励む大名にとって、痛手は広がっている。

家を辞去し、先ほどの渡しで川を越え、海まで下った。

浜沿いを北へ向かえば海老江の湊まで三里ほどだという。

松林が延々と続く浜辺は風情がある、鳥居が見え奥には荒川神社と書かれた標柱が見えた。

馬子が神社は八丁ほど奥になると教えてくれた。

夕暮れに海老江に入り渡邊家の客用の宿へ入った。

使いを出すと銭五と大吉郎はラォレェン(老人)に案内されてやって来た。

「宴会続きで疲れたでしょう。今晩は酒でものみなが語りあかしましょう」

結句にぎやかな夜になった。


十二月一日(陽暦千九百十二年一月十四日)巳の刻(十時十分頃)海老江抜錨。

越後海老江湊~富山四方湊-七百里(和国八十七里十八町)

十二月七日(陽暦千九百十二年一月二十日)巳の下刻(十一時十分頃)越中富山四方湊投錨。

銭五は荷下ろしを船頭たちにまかせると番頭に「布紙の所へ白海老が手に入ったら届けてくれ」と頼んだ。

信たち三人と百二十石だという押送船(おしょくりぶね)で神通川へ乗り入れた。

二十石程度の船や小さな船をよけるように進んだ。

下ってくる船には四十石をこすだろうという帆をたたんだ船もある。

中の柱に銭五の印が付いた帆を上げ七丁の櫓を漕いで二里の川を上って木町の浜へ着けた。

左手に城壁、川上には絵草紙にもある船橋が見える。

船番所で通行札を改めてもらうとイタチ川へ入った。

水主が裏の橋だと信に教えてくれた、橋をくぐって船着きで降りた。

街道を西へ行くと城の大手門、その先の旅籠町で布紙屋の看板を下げた宿へ入った。

部屋で頭巾を脱いでくつろいでいると体の小さなラォレェン(老人)が入って来た。

後ろから頭巾をかぶった偉丈夫が来て上座に座った。

信は和国では松江の下級藩士という身分なので、黙って下座へついた。

頭巾を取ると意外に若く見えるが四十は過ぎていると聞いている。

「身は出雲守利幹」

それだけ言うとじっと信を見た。

「雲州松平家中岩井野清治郎平信孝でござります」

軽く礼をとった。

「叶庸助が世話になっておる」

「いえ、わが師でございまする。世話になるばかりでござりまする」

それだけで廊下に控えていた若い藩士と去っていった。

此の年先代の次男啓太郎(利保)十二歳を養子と届を出した。

富山藩は外様大名在府一年四月交代と違い元禄の頃から八・九月となった。

この年三月、加賀藩は江戸へ参勤で向かう途中の小諸宿で、前の追分宿に尾張藩がいたので一日滞在を伸ばしている

江戸入府費用は五千両を超える、一日延びれば三百両近く物入りが増えてしまう。

加賀藩の在国時は富山藩が名代に立つため江戸に、江戸入りすれば交代して領国へ戻る。

加賀藩は早くて十三日、悪天に合えば十九日かかったことも有る。

それを江戸時代、九十往復はしていたことになる。

ラォレェン(老人)と銭五は手紙らしきものを交換した。

「いつまで居る」

「明日には松江に向かいます。高田屋はもう松前を出ているでしょう」

「わかった。航海気を付けてまいれよ」

「かしこまりました」

金の話も荷の話もなく簡単に出て行った。

宿の飯は白エビで始まり白エビの天ぷらで終わった。

庸(イォン)も初めてだという。

太った女中が世話を焼きながら教えてくれた。

「昔から鱈の腹には飲み込まれていたそうで、最近網を深くまでおろして捕るようにしたそうです」

「深くとは」

「鰯網を百尋ほど(183メートルほど)降ろすと入るそうです。小さな船では行えません。二十人掛かって四斗樽一杯がやっとだそうです。そのどんぶり一杯に一両とついたことも有るそうです。網を降ろすにも番所に三両納めますので網元はやりたがりません」

銭五の仲間内の網元が一斗ほど届けてきたとにこやかな顔で教えた。

「ホタルイカが有名だそうですが」

「ありゃ春の雪解け水が海へ入るころですよ」

なぜ天ぷらを最後にしたのかと大吉郎が聞くと「時がたつと白くなくなるので」とそんなこと気になるのかという顔だ。

翌早朝、橋端の波止場で押送船(おしょくりぶね)に乗って四方湊へ向かった。

千日丸、大生丸、大木丸は銭五が着くのを待って帆を上げた。

十二月八日(陽暦千九百十二年一月二十日)巳の刻(十時十分頃)越中富山四方湊抜錨。

四方湊から美保関湊まで、八百四十里(和国百五里)十日で到着。

十二月十七日(陽暦千九百十二年一月二十九日)辰の刻(八時四十分頃)美保関湊投錨。

大吉郎はここで銭五の幸栄丸を待ち、馬関を回って大坂へ。

そこから江戸淀屋の恭進丸で江戸へ出る。

さらにそこから仙台廻りで箱館、酒井へと一年かけての一回りだ、いや二回りに近い航海だ。。

荷を受け取ると島前に向かった、船の時計は五時を指していた。

夕日が西の海に沈む前に見付島の沖へ錨を降ろした。

役所の手代の乗る小舟が来た。

別府の番小屋に高富が来ていると聞いて銭五を筆頭に三人で向かった。

土産に持ってきた富山の薬の箱を二つ渡した。

囲炉裏の傍で近況を話して船に戻った。


十二月十八日(陽暦千九百十二年一月三十日)船の時計で朝の八時に錨を上げた。

秘密小島(ウフアガリ)まで三千九百里(和国四百八十七里十八町・銭五)

秘密小島(ウフアガリ)~屋久島千六百里(和国四百里・和国の船乗りによってまちまち)

屋久島~福江久賀(ひさか)島-千百里(和国百十二里十八町・和国の船乗りによってまちまち)

福江久賀(ひさか)島~島前西の島-千二百里(和国百五十里・和国の船乗りによってまちまち)

美保関湊の情報で対馬藩連絡役所の在る肥前浜崎へ寄ることになった。

幕府からだけでも十五万両を越す借財があるといわれているそうだ。

今年三月朝鮮通信使が来島したが、江戸へ行く許可が出ていない。

定信が提案した易地聘礼という家斉の将軍襲職祝賀の通信使を対馬で迎え送るやり方が現実となった。

それでも計上された経費は三十八万両となった。

藩主の宗義功は身代わりと言われている。

隠密は猪三郎(義功)が天明五年(1785年)十四歳で亡くなり、富寿(義功)を身代わりに建てたと報告が出ている。

膨大な赤字を抱えている中、家臣は派閥を組み争いが絶えないという。

島前西の島から肥前浜崎まで四百六十里(和国五十七里十八町)、五日目に湊へ入った。

十二月二十二日(陽暦千九百十二年二月四日)午の刻長崎奉行支配地の浜崎冲一里で船を降ろし、銭五は庸(イォン)と二人で対馬藩浜崎役所へ赴いた。

半刻ほどで浜へきて船へ戻って来た。

信と庸(イォン)に「売りたいというがまだ手元にも来ていない人参だ。馬鹿にしてるぜ」と相当お冠だ。

お種人参の普及、江戸表での対馬藩人参座廃止、売値も下落している。

松江藩は自前の人参畑を大きくする準備に入っている、人参方役所の方針など美保関湊での話もその下話だったようだ。

昨今二千斤を上回る生産高だ、直に会津藩に追い付くだろうと云う。

いまさらと思うが念のためと寄って損をしたという顔だ。

その晩は船で泊まった。

十二月二十三日(陽暦千九百十二年二月五日)浜崎を離れ四日目の夕刻田ノ浦湊へ入った。

肥前浜崎~福江久賀(ひさか)島田ノ浦-四百六十里(和国五十七里十八町)

十二月二十四日(陽暦千九百十二年二月六日)早くも田ノ浦を出た。

年が変わり嘉慶十七年一月二十二日(文化九年・陽暦千九百十二年三月五日)辰の刻(八時三十分頃)秘密小島(ウフアガリ)が見えた。

前年八月三日(陽暦九月十八日)に島を出て百三十九日が経っている。

予定では正月二十五日に関元の船、二月十五日に莞幡(ウァンファン)の船が来る約束だ。

 

 

第六十二回-和信伝-参拾壱 ・ 23-08-21

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

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