第伍部-和信伝-伍拾

第八十一回-和信伝-

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年四月二十六日(1814614日)・須賀川

卯の刻(四時)。

川添甲子郎が残って勘定をすると言うので六人で先へ出た。

道中記は笹川へ一里二十九丁だが、生沼文平は藩の記録に二里八丁とあるという。

「伊能様の記録が元ですからほぼ間違いないものと。笹川から郡山は一里九丁ですが道中記を足してゆくと一里二十丁と為っており申す」

郡山まで道中記で三里十三丁、藩調が三里十七丁。

多代女は「問屋場が三カ所あり間は五丁程、南黒門から北黒門の間は十一丁有ります」と言っている。

「一里塚でさえ一里とは限らない。伊能先生でも距離を測る基点が定まらなくてさぞかし困っただろうな」

「若さん、一里塚は間が一里じゃないんですか」

岩平は不思議そうだ。

「新兵衛兄いは郡山宿南手前、笹川宿南手前と白石坂南手前の三カ所に一里塚だと話していたよ。南黒門先の一里塚から計ればどのくらいか分かるだろうが計った記録を見た事無いそうだ」

「確かにそのようで御座る。作られたときの記録は江戸の道中奉行所なら、あるで御座ろうが、外には出て居らぬようでござる」

北町の黒門を抜け、坂を下った。

釈迦堂があり、釈迦如来坐像、庚申、大黒天が並んでいて、不動明王像の台座には文化八年の銘が有った。

釈迦堂川は往古に岩瀬の渡し場、今は中宿橋で渡ることが出来る。

此処からは越後高田藩領。

鎌足神社の前を抜けて上人坦に真新しい“ 二十三夜塔 ”昨年の建立だ。

下宿(しゅく)で川添が追い付いた。

隣の森宿(しゅく)は古代の東山道の磐瀬駅。

白石坂の登りへ入ると五十三番目一里塚。

白石坂を下ると供養塔がたくさん置かれている。

「筑後塚で御座る。守谷筑後守が此処で伊達によって成敗されたと伝わり申す」

他領でも知識は豊富のようだ。

滑川橋をわたり街道は十貫内(じっこうち)村へ入る。

五十四番目の一里塚は笹川宿の手前にある。

荒川を蛍橋で渡ると、笹川宿ここからが二本松領。

音無川の耳語(ささやき)橋を渡った。

「花かつみの伝説の地ですわ」

次郎丸は万葉と思い歌い上げた」

あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに

「そうではなく、翁がその花を探したという地の元の話しの地なのです」

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 吾思はなくに

安積香山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫国

「見つからなかったと出ていたと思うが。万葉の前采女(さきのうねめ)が読んだ歌から様々な伝説が広まったという話だ」

「いくつくらいあるんです。須賀川では葛城王と春姫が此処で別れを惜しんだという話と春姫が采女に為るために奈良の京(みやこ)へ向かうとき、恋人と別れを惜しんだ話があります」

岩平は昔物語が好きなようだ、後を多代女が続けた。

「その後の二人が別れ別れになり恋人は山の井の清水に身を投げ、春姫は戻ってそれを聞くと山の井の清水へ身を投じたと伝わります。二人を憐れんだ村人が塚を作り祀ると塚の周りに薄紫の花が咲いたそうですわ」

翁は新古今の歌を頼りに探されたそうですわと多代女が言う。

「でも探したのは場所が今の安積山で此処とは違うのですわ」

みちのくの あさかのぬまの 花かつみ かつ見る人に 恋やわたらん

「細道に出ていたのは前に覚えたよ“ 等窮が宅を出て五里計 檜皮の宿 を離れてあさか山有 路より近し 此あたり沼多し かつみ刈比もやゝ近うなれば いづれの草を花かつみとは云ぞと 人々に尋侍れども 更知人なし 沼を尋 人にとひ かつみかつみ と尋ありきて 日は山の端にかゝりぬ 二本松より右にきれて 黒塚の岩屋一見し 福島に宿る ”でいいのかな。翁は探し当てられないと書いているね」

「曽良さまは日記にかつみについて触れていませんの 山ノ井清水 ”の事を書いて、その日の日記の締めくくりは“ すぐニ福嶋ヘ到テ宿ス。日未少シ残ル。 宿キレイ也 ”なんですの」

「翁は歌枕の花かつみを無視できないと押し込んだかな」

「まぁ、意地悪な言い方。伝承の奥まで掘るのですね」

「それが楽しみの一つさ。多代女さんの句の裏も探そうかな」

「しりません」

ぷっと膨れた顔で歩き出した。

岩平が聞こえない様に「若さんいいんですか。怒ったようですよ」と言う。

「翁の碑を見て呆れない様に予防線だよ」

「何かあるんですか」

「郡山とは無縁の句が彫られているそうだし」

「何か隠しているのですか」

「行けば分かるよ」

多代女が待っている。

「雨考さまが二十年前翁の百回忌を催しましたが。郡山でも記念した碑が善導寺に建てられたと云いますが、七年前の大火で失われたと云います。雨考さまはこの句も見ては居ないというのですわ」

安積山 かたびらほして 通りけり

 「雨考さまの云う通り、どこにもこの句が出てきませんの。露秀さまは善導寺に、ご自分の師である二代沾圃さまの顕彰碑をその十五年前に建てています」

安永八年二代沾圃(せんぼ)の七回忌だという。

「“ 安積山 ”(あさかやま)の碑が失われた年、露秀さまは亡くなれておりますわ」

次郎丸は翁伝説がこれからも増え続けるだろうと実感している。

日出山へ八丁あまり、次郎丸は多代女の足がきつそうなので、軽尻(からじり)を人馬継立で郡山迄雇った。

自覚はある様で大人しく馬へ乗った。

甲子郎が追分に“ 十九夜塔 ”を見つけた。

「なにやら懐かしい」

従是磐城道 ”と道標も兼ねていた。

日出山から小原田へ十五丁。

小原田には本陣と高札場が有った。

五十五番目の一里塚は小原田宿の出口に有った。

郡山迄十五丁。

須賀川より郡山迄、生沼が藩の記録で三里十七丁と甲子郎とはなしている。

休息は殆ど取らず九時に桝形を抜けた。

上町の問屋場で馬を降り、堂坂妙音寺観音堂往復の軽尻(からじり)を雇った。

片道一里十八丁だという、往復七十六文だそうだ。

福原の馬継は中十日なので郡山で乗り換えなしで済むという。

帳付けは福原まで二十五丁で十九文だと多代女に話し、街道をそれるが道を知る者を選んでくれた。

上町“ ゑびや 横田冶右衛門 ”で到着を告げると新兵衛兄いが出てきた。

「ずいぶん早いですね。こちらの面子は夜に揃う予定です」

「多代女さんが堂坂に有る芭蕉の碑を見たいというので早めに来たのさ」

「あれですか。良いんですかね」

「兄いが言うまでもない。見れば納得するさ」

次郎丸は兄いが今年見てきたことを未雨(みゆう)と話していたのを聞いている。

弥助と忠兵衛を兄いに預け、先に蝉塚へ向かった。

福原宿へは二十五丁。

会津街道追分に風化している道しるべが有る。

右奥州街道

左會津街道 ” 

下枡形先右手へ三春道の追分。

従是三春道

左手に御霊大明神が有る。

逢瀬川に架かる木橋を渡った先に藤屋本店がある。

「ここは藤乃井と言う酒蔵です。百年ほど前からこの地で酒造りを始めたと言います」

馬の上から脇を歩く次郎丸へ何かと話しかける、蝉塚が近づき、心が逸って居る様だ。

街道左手高台に鎮座する日吉神社は千年を越す古社だという。

左側にある無量山阿弥陀寺の鐘は江戸で鋳られて運んできたという。

「百年ほど前、享保二年の銘が有るそうですわ」

この付近の知識はあるようだが、来たのは俳句に目覚める前で、蝉塚へは行っていないという。

福原一里塚に福原宿南木戸が見える。

博労は右手の道へ入ってゆく。

「だんなぁ。この先が元の福原ですがな。西原の旧道いいます」

元西宿で此処の住民が福原に新道開設と共に移動させられたと言う。

阿武隈川の渡しを渡る、土手下は水田が広がっていた。

堂坂の妙音寺観音堂はひっそりとしていた。

多代女は堂守へ用意してきた紙包みを「供養料よ」と渡した。

門内に石柱がある。

閑けさや岩にしみ入る蝉の声

佐々木露秀 不孤社中

寛政九年丁巳 建立

「趣がないわ。石選びが間違っているわ。これでは蝉の声がしみいるのは無理筋だわ」

裏を見て何も言わずに門の外へ出て行った。

「あれほど期待してたのに。どうしたんでしょう」

岩平も裏へ回ってすぐ戻ってきた。

「どうだね」

「これでは句が泣きます。翁をたたえても逆に貶めてしまいます」

戻り道、次郎丸は馬脇へ岩平を付かせて先へ行かせた。

生沼文平と川添甲子郎も裏を見てきたが、何も言わずに後ろを歩いている。

問屋で馬からおり「団子か饅頭は何処が美味しいの」と聞いて、四文銭十枚ひとくくりを駄賃の上乗せと渡している。

「本陣手前の和久屋の茶見世が評判だね」

「有難う。寄ってみるわ」

饅頭は今蒸し(ふかし)てると言うので岩平が残って ゑびや ”へ運ぶことに為った。

足盥を運んできたのは幼い子供たちだ。

年増の女中が「脚絆はこの子たちが洗って火熨斗をかけて置きます」と言う。

ゑびや ”は奥が深い、裏庭の先に堀が有り向こう側が代官所だという。

生沼文平が「ここ郡山は大槻組、片平組、郡山組と三カ所の二本松藩の代官所が有り申す」と甲子郎と話している。

夕の食事が済むと兄いへ連絡が来た。

次郎丸と二人で筋向いの呉服屋へ入った。

六人の中年の男たちが談笑している。

「西小野屋の覚右衛門で御座います。お運び頂き“ ありがたやでございます ”」

次々名と三番指印に三番の合言葉「ありがたやでございます」を次郎丸へ告げた。

郡山、二本松、福島で呉服商の商仲間(あきないなかま)だという。

「“ 流行りものには目がない ”なり立てのほやほやだよ」

「御養子がお決まりとお聞きし、新兵衛さんからお近くへ御出でと言うのでご都合も構わず無理を言い、もうしわけも御座いません」

「結の人達は単なる知り合いではない。いつでも時間が有れば顔出しなど容易いものだ」

容易い(たやすい)と言う言葉に一同は感激している。

「福島は今年も六月十四日が生糸市です。多くの生糸が買いたたかれ江戸に京(みやこ)へと持って行かれてしまいます。新兵衛さんは地場で機織りを増やせば文字摺絹の名がよみがえると言います。値が上がらず多くの生糸が手に入れば土地に貢献できます」

「待ちなさい。生糸ではなく真綿取引は推奨した。京(みやこ)大坂、江戸に対抗しては取引が成立しない。買い取り商と争うべきではない。まして天王市相場は無視できない相談だ」

岡村熱田神社と長倉村八雲神社合同で行われる天王祭の市は、その年の取引値を決めたというほど大きな取引が有った。

では私らにどうしろと言うのかと紛糾した。

「六人力を合わせ、養蚕農家と真綿取引の安定をすること。買い取り商たちと争わずに差し値をすること」

「無理を言いなさる。買い取ったものをどう売れと」

「聞いていないのかね」

「知多木綿、上州絹布の事ですか。資金が有りません」

「昔の夢を捨て、やるなら織の指導職人を雇い、織子の腕を上げることから始める。いきなり良いものが大量に生産できるなど絵空事だ」

紬はどうだろうと兄いが下手に出た。

「信達(しんだつ)は奥羽内の半数の生糸が生産されると聞いた。されば屑糸の割合も増える。やる気が起きれば知多木綿に投じたのと同じ資金を結に呼びかけ、此処へも投資させる。農家で細々生産していては京(みやこ)、大坂の商人に対抗できるはずもない」

上州座繰り機の普及がこの地を救う筈だと兄いも強調した。

下総結城縞と高機(たかばた)の技術が知多木綿を成長させるとも話し、此方で種紙も優秀な種には一枚二朱を提示して良いと些細と思ったが伝えておいた。

資金は千両、織機十台単位で一組、大庄屋を説得して一村丸抱えの一貫生産を勧めた。

「もちろんの事、今ある機(はた)での生産は認めなければならぬよ。農家の臨時収入は村の財産だ」

「いくら結でも一組千両など無駄には出来ませぬ」

自分達の懐からも応分の出資と思って居る様だ。

「あにい、幸八たちと同じ仕組みは無理かな」

「幸八、藤五郎と同じ三十年元金均等返還、利無しですか」

六人が食いついた、尾張、紀伊では年利一割としてきたと説明した。

「利無しで三十年の均等返還をお許しに」

縮緬生産と京(みやこ)の買い取り商人と協調できる組を福島、二本松、郡山の三カ所、初年度織機十台単位で一組が三カ所、十年で五倍までは次郎丸の裁量で資本投下を約束した。

「鯨で一反を三丈、幅壱尺三寸、一疋が二反で六丈ただし短いのと換算して値を決めよう」

幅広物でなければはいけませんかと言う。

「尺二寸物を一村でやるなら任せてみよう」

「誰に仕切らせます」

兄いは其処が肝心だと思っている。

市原隆右衛門(りうえもん)に頼もう」

「須賀川ですか」

「あそこなら郡山へ連絡も取りやすい。戻りがけに申し入れておこう」

「お待ちください。仕事は此方、仕切は須賀川では困ります」

兄いがにゃつとした、良い食いつきだと次郎丸も安心した。

「ではこの六人の中で一人二番に推薦してくれるならその者に仕切らせる」

福島北南町の“ こうだや ”寺嶋喜二郎を五人が揃って推薦した。

「種紙ですが、一種に絞りますか」

「できれば三カ所別種からはじめたいが当てでもあるのか」

「白川様分領保原(ほばら)をご存知でしょうか」

「陣屋が有るとは承知しておる」

「“ さんと の名は御承知でしょうか」

蚕都(さんと)、鴻池屋永岡儀兵衛が連れてきた八田辰三郎が言っていた上田養蚕の種紙の事だ。

「聞いている。六十年以上各地で名をあげているとか」

「何年も十枚一両で苦しんでおります。一枚二朱で宜しければ買占めも可能です」

「だめだ。結は前年他の取引業者へ渡した分以上の余分を買い取りはしても、買い占めての独占には金を出せない。相場を無理に上げても困る。種紙用の資金は面倒みるから独占しての相場崩しはしないでくれ」

白川藩、二本松藩、福島藩にまたがる紬生産の端緒が開かれるのも近い、元々幕府への冥加永で大きな特権を得ている地だ。

此の当時、種紙冥加永は伊達地方で二十両迄落ち込んでいて京(みやこ)では伊達の値段が高くなるのを警戒している。

生糸一箇(九貫六百匁)の取引値は三十五両から三十八両。

兄いが調べた京(みやこ)の引取り値が四十二両程度、荷づくりに二朱、送料一両が掛かるという。

「喜二郎さん。俺たち三人は明後日此処を発って、福島を経由して酒田へ戻る。福島で幸八たちも交えて話を煮詰めましょうや」

次郎丸が改めて こうだや ”寺嶋喜二郎の二番を確認した。

兄いは冬場酒田から福島まで八日、夏場は六日で戻れるそうだ。

ゑびや 横田冶右衛門 ”へ戻ると皆がまだ起きていた。

「何の相談でしたの」

「しのぶもぢずりの相談さ。幸八と藤五郎に酒田で許しが出れば江戸で紬の見世を持つので、中通は福島が中心でやろうというのだ」

「しのぶずりは高価で織れる人も染める人も少ないとか」

みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに

「百人一首河原左大臣ですわ。難しいうたですわ」

「河原左大臣源融(とほる)は自分じゃないと言いながら見捨てないでくれと頼むようにしたと師匠は教えてくれた。古今では少し違う写本も残っている」

「どこが違うのですの」

陸奥の  しのぶもぢずり  誰ゆゑに  乱れむと思ふ  我ならなくに

「模様のように心が乱れると言うのでしょうか」

「伊勢物語は“ そめにし ”にしてあるよ。それより幸八と藤五郎は福島で紬に木綿の仕組み教えてやってくれ。六人いたが全員居る所で話すと面倒だから福島で話させると決めてきた」

兄いは二人に言い聞かせた。

「一度おさらいしておくといい。酒田で説明するのに話す手順も付くだろう」

「兄い」

「どうしました」

「今晩でかたぁついちまったぜ。明日はやることも無くなった。美味いもんでも食わせてくれよ」

「そうはいっても鰻に蕎麦切、川魚に鯉こくくらいですぜ」

思案していたが「福原の先二十丁ほどに佐世姫と大蛇の伝説がある蛇骨地蔵堂てえのが有りますぜ」と思いついたようだ。

「近くへはいきましたが、寄っては居ないのです。小娘の頃で怖らしく思って大蛇の骨の地蔵様は見ていないのです」

多代女は昔を思い出しているような顔を見せた。

「昨年ですがね。秘仏だそうで見せて貰えませんでしたよ。噂じゃ五尺七寸も有るそうでね」

「それならお堂の外で拝むだけで済みますわ。行っておきたいですわね」

岩平は母親の気まぐれはいつもの事だという顔だ。

「もちろん若さん暇ですから行きますよね」

蛇骨地蔵堂は東勝寺境内に有るという。

「高柴デコ屋敷も近いですぜ」

「ありゃ三春だろ。まごまごしてりゃ三春か本宮に出ちまうぞ」

わらっていやがる。

文化十一年四月二十七日(1814615日)・郡山

卯の刻(四時)、問屋場で多代女に馬を頼んだ。

地蔵堂迄一里十四丁、日和田は上十日馬継で、乗り継ぐ必要もないというので往復で頼むと昨日の博労が来た。

多代女は帳付けと何やら話し合っている。

四人は歩くことにした。

今朝から曇り空だが博労は「此の雲ならもうじき陽が出ますだよ」と言う。

福原は町並み五丁程で、宿の北外れに大きな沼がある。

「あやめ姫が大蛇に為って住み着いてもおかしくなさそうだ」

「時代が違いますよ」

生沼が次郎丸に教えた。

寛永四年に宝沢沼の堤防工事が始まり、寛永六年に完成したという。

沼は照内川(しょうないかわ)に沿って土手が築かれている。

上り坂の松並木は牛ヶ池を下に見て登った。

今現在開拓の仕上げに入った土地だという。

箕輪山が遠くに聳えている、眼下に日和田(ひわだ)の宿が見えた。

追分に道しるべが有る、どうやら本宮から見て右の道と云うようだ。

寛延四未年

右富田道 ” 

藤田川の木橋の先が日和田宿、町並み南北四丁三十間余だという。

右へ下る道は三春へ通じている岩城街道の追分。

左手へ道は緩やかに上っている。

東勝寺の門前で馬を降りると多代女が由来を教えてくれた。

「蛇骨地蔵堂は、養老七年松浦佐世姫開山と伝えられています。住職の方は別の由来を言うと兄が話しています」

佐世姫物語 ”は安積、白川二郡を領した浅香左衛門尉忠繁(浅香九衛門尉忠繁)の娘あやめ姫。

横恋慕され父を殺され、自分は浅香沼へ投げ入れられ、怨念から大蛇となったあやめは、この地方を荒らし廻った。

毎年人身御供を求め、三十三人目の娘は、片平村の権勘大夫(ごんかのたゆう)の娘に決まり、夫婦は長谷観音にお参りして、そこで出合った佐世姫は娘のかわりに身を捧げることとなった。

大蛇が現れ佐世姫は経を読み上げた。

「読み上げたのは法華経提婆品とも観音経ともぼさまの間に伝わっています。瞽女様たちは法華経と語りますわ」

大蛇は沼に沈んだが神女となって現れ「わが死骨をもって地蔵の像を刻め」と告げ、佐用姫を背に乗せて猿沢池に送った。

「御伽草紙とは大蛇の由来が違うのですわ」

三十三観音塔は信仰に基づき東勝寺周辺に置かれたという。

霊蛇の人身御供となった者を観音としてあがめた三十三観音塔は、西国三十三観音霊場の写しと云われるそうだ。

「壷坂法華霊験の一つにされたようですわ。長谷観音の方は分が悪くなったようです」

提婆達多品(だいばだったぼん)法華経の第十二。

提婆達多と竜女の成仏を説き、悪人成仏の可能なことを説く。

観音経は法華経観世音菩薩普門品第二十五。

観世音菩薩の偉大な慈悲の力を信じ、その名を唱えることにより救ってくれると説く。

「越後長岡の瞽女様はそれほど法華霊験にこだわりが無いようですわ」

ぼさまは代々寄る家が決まって居て、暮れから弥生に掛けて五組は須賀川へ来るという。

「三人ほどで組んで、三日ほど滞在されていかれますわ。今年の瞽女様は十くらいの声の良い娘が一緒で婆様連に大もてでした」

「ここらへ回る瞽女殿は越後が多いとは聞いたが、雪の深い時期に出てくるのも大変だな」

  御伽草子 ”壷坂松浦長者の娘松浦小夜姫の話。

奥州ごんか(こんか)の大夫は、自分の娘が大蛇の生贄となる身代わりにするため、小夜姫を買った。

身代わりになった小夜姫が法華経を唱えると大蛇は若い娘となり「経によって救われた」礼に猿沢の池へ小夜姫を送り届けた。

「蛇骨地蔵は奥州ごんかの大夫の話を広げたとしか思えませんわ」

「松浦小夜姫は“ 竹生島の本地 ”では辯天様にされているくらい多くの話があるからな」

「大蛇も壷坂の観音様の化身だとありましたわ」

「大蛇が龍に為って昇天したというのも読んだ」

「まぁ、それは読んでも聞いてもいませんわ。ぼさまは小夜姫様は八十五歳で亡くなり竹生島の辯財天と為られて大蛇と縁ゆへに、頭上に大蛇を頂いたと語っていますわ」

二人が思いつくまま小夜姫に夢中なので生沼文平と川添甲子郎は岩平を連れて先へ進んだ。

「辯天の神使いは白蛇と古来より言われていて己巳(つちのとのみ)の日にお参りすれば御利益が有るをさらに強めた利口者が居たのだろうな」

「宇賀神は天竺にはおられないのですの」

「支那(しな)にも居ないと聞いた。我が国で経文を作ったと大殿も言われていた」

「ぼさまの浄瑠璃は語る人よって脚色がおこなわれるので、毎年違ってくるんですもの。経文も同じですかしら」

佛説即身貧転福徳円満宇賀神将菩薩白蛇示現三日成就経(ブッセツ ソクシンヒンデン フクトクエンマン ウガジンショウボサツ ビャクジャジゲン サンニチジョウジュキョウ)と佛説が付けば天竺渡来と思うのが普通人だ。

「此の辺りの浄瑠璃語りも三味線が多いのかな」

「仙台筋は琵琶が多いですわ。ぼさまの夜話で聞いたのですが、南部胆沢では大蛇に為るのは掃部長者の強欲な妻と言う話に変わったそうですわ。その話では大蛇が、姫の読経で折伏されているのですわ」

東勝寺は千年前、日和田南方寺池の地に辨応道天により開山、蛇骨地蔵堂の有る此の地へ移ってきたと住職は話した。

「儂もな此処へは三月前に来たばかりで詳しくないんじゃ」

二百年ほど前の慶長四年の大火で蛇骨地蔵堂と共に焼失、百年ほど前の享保三年の再建という。

川添甲子郎が三宝へ南鐐二朱銀五枚を奉納すると蛇骨地蔵堂へ案内し、秘仏の公開をしてくれた。

次郎丸は養老七年作像にしては新しいと感じた。

「芭蕉翁がこの地へ来た元禄二年にはお堂は再建されていなかったのですわね」

「さようじゃ。裏手に安積沼の跡の水田と今はあやめの咲く小さな沼が有っての、そのあたりへ来たと伝わっておる」

どうやらこの住職も俳句に興味を持つ一人のようだ。

「困ることに勝手に話を作るものが居ての、三十三観音塔を犠牲者の供養の塔だと言いだすものまで出る始末じゃと檀家も困っておる」

堂の裏手へ回ると花菖蒲(はなあやめ)の群落が花開いている。

きみかため なつけしこまそ みちのくの あさかのぬまに あれてみえしを

「それは誰が詠んだのですか」

「能因法師だよ岩平。七百五十年は昔の人だ。こもの花のさきたるを見てと題しても有る」

はなかつみ おひたるみれば みちのくの あさかのぬまの こゝちこそすれ

「よほど安積が気に入ったかもう一首ある」

わかるれと あさかのぬまの こまなれは おもかけにこそ はなれさりけれ

「ほう、お若いのに和歌にお詳しい。万葉では出てこんだろうか」

をみなへし さきさわにはふる はなかつみ かってもしらぬ こいもするかも ” 

娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞

「どなたの歌ですの」

「中臣郎女(なかとみのいらつめ)が大伴家持へ贈ったと師匠に教わったよ」

「何たることわずか一首と言われる花かつみを知るとわ」

住職は少し大げさに褒めた。

次郎丸はこの住職こそ只者では無いぞと想い出している。

「若さん最後のはよくわかりません」

「岩平、女郎花が咲く佐紀沢(さきさわ)の土地に花かつみが咲いている、勝手も知らぬはしたこともない恋をしそうですとうたったんだよ」

「難しすぎますよう。女郎花の中に花かつみが有るだけの事でしょ」

「翁さえ安積山でかつみさがしに夢中になったと書いているよ。歌人には花かつみは特別だと認識されていたんだよ」

「ふう~ん」

「そうだいい例がある」

「どんなですか」

「翁に夢中の人が傍に居るじゃないか」

「ああ、それならわかります」

多代女は知らんふりだ。

「そのうち翁の句碑を建て始めそうですものね。今日も此処で花菖蒲を見なけりゃ安積山迄行く気がしたんですよ」

住職は別れ際に「説教節に惑わされるなよ。親の菩提供養に身を売るなどもってのほかじゃ」と岩平に教訓を垂れた。

博労は戻ってきた多代女に「高倉までいきんなしゃるかの」と聞いている。

生沼は岩平と笑い合っている、高倉との間に安積山が有る。

どうやら二人は多代女が帳付けとしていた高倉往復の約束を聞いたようだ。

往復百二十文の支払いも見ていたようだ。

「高倉宿までおよそ一里。藤田の一座は越後ですじゃがの」

「萩姫の湯治(とうじ)した熱海が近くに有るときいたが」

次郎丸が訊ねた。

「五百川沿いに四里程遡りますだよ。ここからも街道が有るだ」

「いったら今日中に郡山へ戻れぬな」

安積山へ行くと言うのを態と遠くを持ち出してけん制した。

「萩姫って聞いたこと無いですよ」

「四百年以上も前の話しらしい。京(みやこ)の公家の姫様だ。病を治してくださいと不動様へお願いしたら、都の北五百番目の川へ行くように言われてやってきたそうだ。温泉を見つけて湯治の結果病が消えたという話だよ。温泉は伊豆の熱海になぞらえたと物の本に出ていた。名を付けたのは伊東祐長(すけなが)と言う人らしいが、確かじゃないそうだ」

「なぜ確かな話じゃないと」

「安積氏をこの人から始まるとしてあるから、この人が付けただろうと曖昧な話なのだ」

五百川(ごひゃくかわ)が京(みやこ)から五百番目は本当かと岩平が悩んでいる。

「何時の時代よりか“ 影さへ見ゆる ”の“ 山ノ井清水 ”の安積山はすぐ先の此処だと云われだしたのですが、曽良さまの日記に“ 山ノ井ハコレより西ノ方三リ程間有テ帷子ト云村ニ山ノ井清水ト云有 ”とあるのを無視しています」

「多代女さんは何処だと思うのだね」

「これは兄が直に行きましたが逢瀬川上流三里に片平村(かたひらむら)が有ります。湧水も有り沼も有ったそうです。“ 帷子 ”とは土地言葉の音から取られたとみて間違いないと思います」

姉ヶ茶屋まで十二丁で坂も強く(きつく)無いと博労が言う。

「餡餅と黄な粉餅を食べなさるなら見晴らしもいいでな」

博労が勧めるのでそこまで行くことにした。

追分が有り左への道の先が萩姫の湯が有る熱海だという。

少し坂道を上ると右手の丘が安積山だという、一里塚が出てきた。

左手の視界が開けると箕輪山が聳えている。

姉ヶ茶屋で餡餅と黄な粉餅両方を食べながらのんびりと景色を楽しんだ。

多代女も風情の無い安積山では周りを見ようとも言ってこない。

「萩姫の湯さ入ると美人に為るそうだで。女将さんならもっと美人に為るだら」

褒められてうれしそうだ。

「そんなら今度は美人になりたい人たちを誘って入りに行こう」

郡山迄一里二十六丁、景色を見たり寺社の門前を眺めたりのんびりと歩んだ。

下桝形で九つの鐘を聞いた。

上町の“ ゑびや 横田冶右衛門 ”へ戻ったのが十二時十分だった。

多代女は今日も駄賃の上乗せを博労に渡している。

隣の縁台では兄いが職人らしき男たちと昼から酒を飲んでいた。

「こんなに早く戻るなら高柴デコ屋敷は行かなかったようですね」

「姉ヶ茶屋で餅を食って戻って来たよ」

職人たちが立ち上がった。

「じゃ、送りも任せたよ」

「お任せください」

三人の男たちは下桝形の方へ去った。

「彼ら腕の良い鍛冶屋でね。鰐口と大鍋を酒田と江戸へ送るように頼んだんですよ」

日和田の鋳造品は高く売れるのだという。

「江戸で大鍋を頼んだんじゃなかったのか」

「江戸は江戸、日和田は日和田で欲しい人は居るようですよ」

その晩兄いは“ ゑびや ”をこれからも使うか疑問だという。

「どうした」

「此処も代替わりでね。今の亭主が飯盛りを自家に置きたがってましてね。御存じの七つ、八つの小さな娘を年季奉公で雇っているんですぜ」

「ずいぶん気の長い話じゃないか」

「助けてやりたくも金が入れば次の娘と為るのは見え見えでね。人買の懐が肥えるだけです」

「親元へ帰して済む話でも無いからな。また売られれば辛さが増えるだけだ」

給金のほとんどは様々な理屈をつけて手元に残るのはわずかだ。

子供で年五両から八両の約束、子守りから雑用などで十五年の年季だ。

招寄(めしよせ)で飯盛りを呼ぶ宿も増えているという。

一時百人と言われた飯盛りも半分に減り、本宮にお株を奪われているようだ。

文化十一年四月二十八日(1814616日)・郡山

卯の刻(四時頃)、“ ゑびや 横田冶右衛門 ”を旅立った。

問屋場で多代女に馬を頼んだ。

日出山で継立と思ったら郡山から須賀川まで下十日の上りは通しで七十八文だという。

兄い達は上桝形まで来て見送ってくれた。

釈迦堂川の先、北黒門への坂道途中に休み茶見世が有る。

「心太を食べてお別れとするか」

馬は此処でお役御免にした。

次郎丸は岩平に腰から印籠をはずし「礼の替わりだ。薬は小田原の外郎で頭痛や風邪、胃弱に効くそうだ」と渡した。

「錦絵で見ました。中年男の薬売りと若い女の薬売りとありました」

「たぶん男は五代目団十郎の舞台からだろう」

親方と申すは お立合の中に御存知のお方もござりましょうが お江戸を発って二十里上方 相州小田原一色町をお過ぎなされて 青物町をのぼりへおいでなさるれば  欄干橋虎屋藤衛門只今は剃髪致して 円斎と名乗りまする

一色町(いっしきまち)、青物町(あおものちょう)。

出だしを気持ちよく語りあげた。

頂透香 ”と懐紙に書いて、「とうちんこう」だよと教えた。

「芝居の物まねに五代目の事を聞くと、とうちんかうと聞こえるように言うそうだ。七代目は俺と同い年だが芸達者と評判だ」

心太(ところてん)はよく冷えていた、酢醤油だったが、溶き辛子の風味と巧く折り合っていた。

一椀十二文だという。

甲子郎は銭緡(差し)を出して釣りを貰うと豆板銀を「お捻りだよ」と女将へ直に渡している。

市原造り酒屋は多代女の実家、先に藤井本陣。

千用寺刻の鐘まで来て岩平親子と別れた。

本町“ 太田庄三郎本陣 ”では帳場の前に主が出ていたので「白川まで戻る。世話に為った」と挨拶して通りぬけた。

南黒門を抜けたら九時五十分に為っていた。

「随分と刻を稼いだようだ」

「この分なら矢吹辺りで九つですかな」

「大根蕎麦が待っているか」

次郎丸は五十二番目須賀川一里塚まで来てから甲子郎に聞いている。

「なぁ、甲よ。博労は兎も角もお捻りは予め懐紙へ包んでおくようだぜ」

「申し訳ございません。実は兄いに三十包頂いたんですが、小出しの方へ入れ忘れた物で。これからは包んで渡します」

銭緡(差し)一本に四文銭十枚くらいの割合が大盤振る舞い、多代女のような物持ちでもそんな見当だった。

生沼は「川添殿はまだ慣れておられないようで」と言っている。

「兄いに負んぶで抱っこの道中でしたので」

勉強、勉強と次郎丸は言いながら歩いている。

忠兵衛は「四文銭五枚括りと十枚括りをいくつか持つと旅は便利ですぜ」などいっぱしの事を言っている。

「おお、おお、上総へ行ったくらいで大分先輩風だぜ。礼に大根蕎麦幾らでも奢るぜ」

甲子郎の言葉に弥助はくすくす笑っている。

三人は蕎麦で盛り上がっている。

忠兵衛はやはり五鉢をあっさりと食べきった。

大根そばで満足したか口が軽くなり、道中鯨の事を甲子郎と話している。

白川へ入ったのが五時三十五分近く“ やなぎや ”柳下源蔵の時計は五十五分を差していた。

郡山からおよそ九里三十二丁、のんびりした歩きで十四時間ほど掛かった。

生沼文平は「明日午の刻にお迎えに参ります」と言うので“ やなぎや ”の前で別れた。

やなぎや ”には元矢之倉から大井源蔵が足軽の近井金治を供に連れてきていた。

「一昨日到着しましたが、道中役所の者は須賀川から月内に戻るというのでお待ちしておりました」

新之丞と猪四郎の手紙を持参したという。

内容はほぼ同じで養子祝い金二千二百両を酒井屋が預かっていると云う物だ。

「甲よ。こっちで無心しなくて済んだぜ」

源蔵には「大野へ手紙を書くから。明日先に江戸へ戻ってくれ」と言ってその場でしたためて源蔵に一読させた。

半蔵正礼宛てにもう一通をしたため、これも源蔵に読ませ「遅くも十三日に上屋敷へ到着の挨拶へ出ると大野から伝えるようにせよ」と伝えた。

「此の服部殿あての書面は大野に届けさせるように」

「上屋敷へは国元、江戸を合わせれば予定に達したとだけで宜しいので」

「こちらは遅くも五月五日に白川を発つ、喜連川へ寄るが十三日には江戸へ入れるという事だ。面倒でも明朝道中役所へ届を出してから江戸へ向かってくれ」

主の源蔵が来て「須賀川より祝金が届いております」という。

「明日、お城へ運んでしまおう。生沼文平が午には来るので五人で五百両背負ってゆこう。城内へ入る口実に為る」

源蔵何か恥ずかしそうに口ごもっている。

「どうした」

「お城下では三十六両しか集まっておりません」

「金高など気にするな、一文、二文でも祝ってくれる気持ちがうれしい」

食事の後、主の源蔵を呼んでこの後の日程を煮詰めた。

二十九日は午後三郭御園。

五月朔日(ついたち)南湖周遊。

二日南湖周遊。

三日午前、午後ともに三郭御園。

四日遊休日・松風亭蘿月庵。

五日旅立ち、白川~越堀迄七里十二丁。

六日越堀から氏家、九里三十二丁三十七間。

七日~八日氏家から喜連川、二里四丁。

九日喜連川から小金井、七里十二丁三十間。

十日小金井から幸手、十里二十七丁三十間。

十一日幸手から千住、十里二丁。

十二日千住から日本橋、二里八丁。

十三日午前江戸到着・帰着報告。

白川~日本橋・四十九里二十六丁三十七間(日光道中分間延絵図・奥州道中分間延絵図)。

白川~日本橋・四十九里十一丁四十九間(伊能測量隊)。
(千住までを同じとして日本橋から白川誤差不足十四丁四十八間余)。

和信伝-次郎丸道中記部分は日光道中分間延絵図文化三年に沿っています。

誤差のほとんどが新田、小金井間での不足十八丁差による。

・伊能測量隊・寛政十二年-二十九丁。

・日光道中分間延絵図・文化三年-一里十一丁。

・宿村大概帳・天保十四年-二十九丁。

・日光道中絵図巻・天保十四年四月-二十九丁。

 

 第八十一回-和信伝- ・ 2024-10-29

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記