文化十一年四月十八日(1814年6月6日)・奥州道中
越堀(こえぼり)“ さかいやよへいじ
”を予定していた辰(六時三十分頃)に旅立った。
南北四丁三十間余、芦野迄二里十一丁。
越堀から芦野は“ 二十三坂 七曲り ”だと幸八が甲子郎と話している。
富士見峠は那須の山々がきれいに陽に映えていた。
富士はと聞かれどうやら雪の峰が見えるのがそれらしいとおぼつかない。
四十番目寺子村の一里塚は村の入口に有る。
村内街道の中に水路がはしり、跨ぐように高札場が有る。
「此の辺りこの形が決まりの様だな」
「本当ですぜ。面白いもんですな」
忠兵衛が相槌打っている。
道は緩やかに下りだした。
余笹川の土橋は二十六間近くある、その先の岩は“ 弁慶の足踏み石 ”だと道中記に有る。
「謂れも書かずに何たることだ」
「馬に乗るとき踏み台にしたら凹んだと、そのくぼみの事だそうですっぜ」
「それにしちゃ新しい」
「大きかったのを三つに切ったと聞きましたぜ」
上り下りは緩やかだが何時までも続いているようだと甲子郎が根をあげだした。
グネグネ曲がり二つ目の峠に掛かった。
黒川の土橋は十五間も有った。
四十一番目は夫婦石の一里塚だが近くの石は妻夫(めをっと)石と言うと道中記に書いてある。
坂を下ると芦野の宿(しゅく)が見えてきた。
「あそこの山際に割れた岩が有って夫婦ものが追われて逃げ込んだそうでね。追手が近づくと大きな白蛇に睨まれて退散して、夫婦は助かったと言い伝えが有りました」
近くの村にもう一つ別の話が有り、白蛇の夫婦が此処で人間に化けるのを見られたという話が伝わるという。
奈良川の土橋を渡れば芦野宿(しゅく)の桝形。
南北九丁二十七間余、白坂迄三里四丁。
此処は交代寄合旗本芦野家三千十六石の領分、那須七騎の一族だ。
那須本家の他、福原氏、千本氏、伊王野氏、大田原氏、大関氏、芦野氏の七家。
芦野家は陣屋を構え、参勤を伴う大名並の交代寄合衆の名家だ。
川原町は小商人が多い、仲町へ入ると街道の中に用水堀、右手に高札場、問屋場、陣屋、侍町に続く道。
左手に本陣が有る。
新町で用水掘が右へ寄り鉤手(曲尺手・かねんて)の手先でまた中央へ戻っていて先ほどの奈良川が寄るとその上流に通じている。
木戸の先は、ややこしい鉤手(曲尺手・かねんて)、先で奈良川の土橋を渡った。
岸村の辺りはまた上り下りの連続だ、奈良川が右手へ遠ざかった。
「あの川また街道を横切りますぜ」
坂を下ると川が街道を横切った、板屋村の休み茶見世で一休みした。
四十二番目の板屋一里塚はすぐ先に見えている。
「やれやれ。近く見えるはずだ向こうは上りだ」
甲子郎はまた愚痴を幸八に聞かせている。
牡丹餅で腹を宥めて、愚痴も封じられた。
「九時十分だ。大体巳の刻見当だな」
登り坂の途中には馬頭観音が置かれてある。
峠の上蟹沢にも馬頭観音。
坂を下ると水田で田植えが始まっている。
「ずいぶん早いな。普段なら苗を育てているころだ」
「今日は芒種ですから。篤農家でもいて日照りでも予想したのでしょう」
寄居村は間宿(あいのしゅく)、村の街道に用水掘が流れている。
村を抜けると四十三番目の寄居の一里塚は別名泉田の一里塚。
境の明神の先に黒羽藩と白川藩の境界の標柱が有る。
“ 従是北白川領
”
また境の明神が出てきた、下野、陸奥と両国に建てられている。
「此の辺りが名高い白河の関の有った場所と言う人は多いですぜ」
「白河二所之関と道中記に有る場所か。大殿が熱心に探したと聞いたが、変哲もない山道だ」
「あの芭蕉翁も関の跡にがっかりしたと聞きましたぜ。でも川添様大殿様の調べた白河の関は此処じゃありませんぜ。」
「境の明神が二つで白河二所之関じゃないのか」
次郎丸が立ち止って二、三度伸びをして唄うように文章を諳んじた(そらんじた)。
“ 白川の関はいづ地にありしやしらず。今の奥野の境に明神の社あるを古関のあとといふは、ひが事なり
”
「とまぁ。ここじゃ無いんだとさ」
“ 白川の関といふは、高山険しく萬仭の石壁苔なめせかにして、下碧口の深きに臨む、山の嶺に観音を安置す。山は巌上枝そびへ、走獣も跡をたち、飛鳥上を翔りがたし
”
「廃墟となっていた旧街道の旗宿の地がそうだと十五年前に調べたそうだ。十五に為った頃碑文の写しを覚えさせられた。旗宿村西有叢祠地がそれだと言われた」
「此処とは大分離れているのですかね」
「兄いは行ったのだろ」
「大分前ですが白川の南湖へ行ったついでに一回りしましたよ。ここからは田舎道でしょうが二里は東のはずですぜ。」
「あっ、兄いがホトトギスがテッペンカケタカと聞いたというのはその時か」
「物好き連中がね芭蕉のたどった道は、義経の道だと騒ぐので、付き合ったんですよ。大殿様の、いやあの頃はまだ殿様でしたが、碑(いしぶみ)に出会って一同吃驚が本当ですぜ」
金売り吉次が近くで亡くなったと聞いて尋ねたら二か所あった話までしている。
「此の社の裏にも芭蕉翁の句碑が有りましたぜ、安永六年だそうでね丁酉だそうです、今だと三十七年前に為ります。ここらあたりでなく須賀川で詠んだ句の様でね。なんで此処なのか一緒に来たものも首をかしげていました」
“ はせお 風流の はじめや奥の 田うへ唄
”
芭蕉と曽良は元禄二年四月二十二日矢吹から須賀川相良等躬宅へ着いた。
二十日に芦野から境の明神まで来て古街道の旗宿へ出て泊り、二十一日白河の古関明神参詣後白河宿の先の矢吹へ泊っている。
「確かにそう書かれています。大殿の百二十年も前に旗宿に中りを付けていたようです」
「大殿の事だ奥の細道位読んだはずさ。でもそうは書かないのが大殿らしいよ。その碑をこの奥へ置いた人は芭蕉が此処を訊ねた後旗宿へ向かったというのを承知の上だろうさ」
芭蕉は古街道へここから向かったのだ。
「白川と旗宿の間は辛い山道でしたぜ」
「ホトトギスの声を聴いたのは儲けもんさ」
“ 都をば 霞とともに立ちしかど
秋風ぞふく 白河の関 ”
「能因法師は来てもいない関を題材にし、いい出来なので旅に出たという噂を流して隠れていたという話が残っているが、甲斐に陸奥を旅したというのが本当らしい。昨日の隠居がそう言っていたよ」
江戸育ちの隠居は、当主の頃も冬に為ると江戸に出てくるのが楽しみの一つだった。
隠居した十四年前から次郎丸に和歌の手ほどきをしている。
坂を下ると低いところに一里塚が有る、四十四番目境明神の一里塚だ。
まだ上り下りが先に見える、道端に藤の木が何本も見え大木に絡まり藤色の花に混ざり白もところどころに咲いている。
「江戸では見ごろは過ぎたがここらはこれからの様だ」
「南湖の周りは見事ですぜ。良い時期に来れたようです。三、四日遊んで行こうかな」
幸八と藤五郎はイヒイヒ笑っている。
白坂の宿場町が見えてきた、鉤手(曲尺手・かねんて)の左角に馬頭観音、常夜燈、二十三夜塔が並んでいる。
木戸を抜けると白坂宿、街道に用水堀が有り跨ぐように高札場。
南北四丁三十間、白川迄一里三十三丁。
左手に岩井屋脇本陣、問屋場、河内屋平次左衛門本陣と並んでいる、休み茶見世へ入り焼き団子で腹を宥めた。
木戸の先は白川宿へ向かう峠道が待っている。
皮籠(かわご)の集落に高札場が有る。
兄いは昔の古道の跡に一里塚が残っているという。
「この右手先にも一里塚が有るんで。どうにも不思議でね。前に見に行った時は畑の真ん中に残っていましたぜ、四人の大人が手を広げるくらい離れていましたから街道の跡は間違いなさそうだ」
四十五番目は皮籠一里塚。
皮籠(かわご)の地名は皮籠の中の金などを奪われたことに由来すると兄いが甲子郎に話している。
「襲われたのが金売吉次三兄弟、襲ったのが藤沢太郎入道とまぁ芝居仕立ての話が有るんでね。墓は此処と壬生街道稲葉にも有るのでござんすぜ」
「藤沢太郎入道と言えば熊坂長範(ちょうはん)ではないか出来過ぎた話だな」
幸若舞“ 烏帽子折
”では吉次の手引きで義経が奥州藤原氏を頼る途中、吉次の荷を狙った藤沢入道が義経に打ち獲られる話や、改心する話が時代と共にさまざまに広がっている。
「壬生稲葉の方は、義経奥州落ちのお供でそこまで来たが、病で亡くなったとしか話は無かったですぜ」
題目塔に地蔵が下黒川への追分で旅人の安全を見守り、上り坂には欅が混ざる杉の並木道が続いている。
水路が街道を横切りそこからが白川宿だと兄いが言う。
山間の道は緩やかにうねりながら上り下りが繰り返された。
此の辺り水路が多くなり石橋に為っていた。
脇道の度に馬頭観音が有る、大きく道がくねり鉤手(曲尺手・かねんて)の先が江戸口見附。
東海道でもめったにない大きな桝形の木戸口だ。
「ここからが白川のお城下の九番町から一番町が有ります」
北へ向かってきた街道は東へ回り込み、桝形の先でまた北へ向かう。
九番の次七番町で右へ曲がり、其処が三番町。
板橋の先が二番町、石橋の先に木戸が有りそこから一番町。
街道に用水掘りが引かれ番所が置かれて中町の通りと為る。
角から城内への木戸が有り先は武家屋敷の続く街だという。
一丁おき用水掘り上に番所が有る。
鉤手(曲尺手・かねんて)の先に問屋場、大手門が左手、右手に高札場。
また鉤手(曲尺手・かねんて)で本町左が“ やなぎや ”柳下源蔵脇本陣、右は芳賀源左衛門本陣。
宿内町並は南北三十一丁十八間。
江戸を出て五日目越堀から白川迄七里十二丁。
日本橋から白川四十九里二十六丁三十七間。
柳下源蔵脇本陣へ兄いが案内した。
「お約束とおりのお越しで有難うございます。二刻前は米沢様ご家中御通行で混雑いたしておりましたが蔵座敷は使わずに済みました」
昨十年に棟上げをして今は内装の仕上げと態と十日前から畳を上げておいたそうだ。
「やはり後追いの方がご休憩、お立ち寄りで、覗きに行った人がいたようで声高に畳も入っていないと笑っておられました」
「こちらのひょろりが本川様だよ」
東海道の旅でそうでもないが兄いの口癖だ。
「“ ありがたやでございます
”白川様御家中と聞いておりますが、町屋で宜しいので」
「“ 流行りものには目がない
”若造で出来たばかりの蔵座敷が気に為ったのだ。草鞋を履き替えたら三輪権右衛門殿お屋敷までごあいさつに参ろうと存ずるが、誰ぞ案内を頼めぬか」
主にとっては当代の弟、先代の次男とはいっても、実は先に生まれたと結の手で情報は共有している。
お頭の上に若様と言う身分に囚われぬ謙虚さに感動した。
「わたくしご案内させて頂きます。追手門を通る必要が有りますので。お二人で参られますか」
「いや川添は此処で新兵衛と帰りの道中の日程を話し合うようにする。帰りは兄いが居ない分川添が頼りだ」
次郎丸は草加煎餅を風呂敷に包んだ物を幸八から手渡された。
「これで我慢していた煎餅が口に出来ます」
「もう一軒分あるのかい」
「ぬかりは有りませんよ。渋紙でしっかり湿気除けもしておきました」
追手門は大手門、鉤手(曲尺手・かねんて)で後戻りすれば二丁程。
門衛に突棒の足軽が居る。
「江戸屋敷より参った本川で御座る。三輪様お屋敷まで無案内い故、これにおる脇本陣柳下源蔵殿に道案内を頼んだ」
桝形に居た若い武士たちが五人ほど急いでやってきた。
次郎丸の顔を覗き込んで「若君、何の冗談で」と声を上げた。
「なんで大輔が居るんだ。御重役は用部屋か屋敷でふんぞり返るのが仕事だ」
「私はまだ軽輩ですよ。からかっちゃ困ります」
四人は名札の“ 奥州白川藩本川次郎太夫
”を見て、大輔が次郎丸を若様と呼ぶのであっけにとられている。
「私に御用ですか、父の方ですか」
「大殿より待月殿あての手紙を預かってきた。二人で通させてもらうよ」
門内の足軽を一人呼んで「途中で止められぬように屋敷までご案内せい」と言いつけた。
桝形の先久徳家の屋敷を右手へ折れ、十字路を左へ二軒目の屋敷の門で足軽が「お客人で御座る」と若侍に声を掛けた。
どちら様でござると足軽の手前か少し横柄な言葉で問いかけてきた。
「桝形で三輪様より案内をするように頼まれ申した。それがしはこれにて役目に戻らせて頂き申す」
次郎丸が礼を言うと丁寧にお辞儀をして去っていく。
「それがし江戸藩邸より参った本川ともうす。待月様宛の書状を大殿より預かってまいった」
「ではお渡しするのでこれえ」
手を出すので次郎丸は「無礼者。大殿より託された書状を見も知らぬ貴公に渡すわけに参らぬ」としかりつけた。
「われを知らぬか」
「存じて居らぬ。江戸から白川へ来るのも初めてなのでな」
「知らぬなら仕方もない。案内しよう」
玄関先を廻り木戸から中へ導いた。
「爺様、大殿からの書状を届けに来たそうです」
縁側で目白籠を磨いている待月に声を掛けた。
眼鏡をはずして此方を見て、慌てて縁先から裸足で飛び降りた。
「爺、儂は今殿より本川次郎太夫の名を使っての母の墓参りで来たのだ」
慌てることは何もないよと言い聞かせた。
「是、十郎なぜ玄関へお通ししないのだ。見た目は兎も角。大殿の書状に敬意を払うのだ」
出直しましょうと玄関へ案内した、確かに旅支度はどう見ても軽輩で五日目ともなると大分草臥れている。
「祖父を爺と呼ぶとは」
「子供の頃何度かあやされた」
「もしかして定栄(さだよし)様」
頷くと、驚くふうでもなく玄関から居間へ案内した。
源蔵は大手門(追手門)の橋まではよく喋ったが、城内でまだ一言も発していない。
成り行きを楽しんで居る様だ。
手土産の煎餅を渡した。
手紙を渡し「門が閉まらぬうちに宿へ戻るから、まず書状を読んでくれ」と頼んだ。
「三郭御園の出入りに蘿月庵の案内、南湖の案内の手配と有りますが」
「どうやら養子先の庭園の手入れをするのが当分の仕事の様だ。大殿の仕切りを学べと遠まわしに云ってきたようだ」
「墓参の事は何もありませぬが」
「殿から直に言われた。あとは孫八郎殿の都合で会おうと思っている。大殿は須賀川の大庄屋への書状も届けるようにと預けられた」
ひとしきり話が落ち着くと十郎を外孫だと紹介した。
「兵藤十郎で御座います」
代々八右衛門を名乗る家老の一家(いっけ)だ。
「酒井殿と打ち合わせの上、宿へ使いを出させて頂きます」
玄関先まで見送られ、源蔵が先に立って大手へ出た。
宿で一緒に茶を飲みながら城内の雰囲気はどうですと甲子郎が源蔵に聞いている。
「落ち着いています。手入れもよく殿様お国入りに気合が入り過ぎている訳でもなさそうです」
久しぶりに晩酌無しでの食事も済んで明日はどうするかを話した。
「とりあえず俺の方は此処で様子見に為りそうだ。兄いは甲子郎と南湖見物に二日ほど出てくれ」
「どうしました」
「あれから一刻そろそろ探りが動くころだ」
河村甚右衛門という方がお見えですと女中が告げてきた。
「表座敷へお通ししました」
そういうので川添と二人で出向いた。
「目付の河村で御座る」
「元矢之倉定栄(さだよし)様付本川次郎太夫で御座る」
「おなじく、川添甲子郎で御座る」
「役儀によってあい訊ねるが、何ゆへ用部屋へ届を出さぬか」
「殿様直々に藩の用向きと違い母親の墓参を許され申した。いわば私的な行動ゆえ用部屋とは無縁で御座る」
「そうは参らぬ。明日辰に三之丸門道中用部屋へ出ませい」
「かしこまって候」
型式ばっていたが「吉村様より申し付かったが金策で有ろうか」と何か隠したものの言い方をした。
「召し上げなら力をお貸しするとのお言葉で御座る」
「いやいや、そのような押し借りなど命じられては居りませぬよ」
「お隠しなさらずとも、お力貸しをして良いと言われておられる」
儀兵衛の言うとおりだ上屋敷は情報が駄々漏れだ。
召し上げにたいし押し借りと言っても反応はない、其処まで深くかかわっては居なそうだ。
「遅れずに来られませい。おひとりで良いとのお言葉である」
「承知つかまった」
源蔵に「さて困った三之丸門道中用部屋は何処だろう」と聞いた。
「本日の追手門先の突き当りを左へ、厩の手前を右へ入れば三之丸門で左手が道中往来を扱う用屋敷です」
「辰前に出仕しておるのか」
「辰が出仕時刻で御座います」
辰が六時三十分ごろで、六時に着くには卯の下刻(五時十五分頃)には宿を出たほうがよさそうだと為った。
|