第伍部-和信伝-肆拾捌

第七十九回-和信伝-拾捌

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年四月十四日(181462日)・日光道中

朝の七つ過ぎ(三時三十分頃)に次郎丸は支度を整え川添甲子郎、新兵衛、幸八、藤五郎、弥助、忠兵衛の七人で屋敷を旅立った。

新し橋へ出て三味線掘りへ向かった。

浅草寺で道中の無事を願って二天門で馬道へ出た。

「聖天の近くに一里の杭が前は有ったそうだ」

甲子郎は先頭で幸八に頼んで手に入れた真新しい日光道中の手引書を見ている。

薄暗い中、左手に吉原が浮かんでいた。

小塚っぱらの先日本橋から千住は二里八丁。

大橋を渡って千住宿の入口掃部宿橋戸町、宿並み南北二十二丁十九間有る。

宿往還は浅草蔵前からの山谷通が三十五丁四十七間余。

下谷から小塚原町で合流する箕輪通は三十二丁七間。

千住は川の手前も含めて渕江領に属し代官支配。

町奉行支配、寺社奉行支配、朱引き外だが江戸の内と曖昧な宿場に為っている。

小橋を二つ渡ると千住掃部宿、此処に一里塚が有ったというが見つからない。

「道中記にも何時ごろまで有ったか定かで有らずでは、私たちに見つからなくて普通ですよ」

幸八は一度立ち止まって辺りを見渡したが、諦めて歩き出した。

次郎丸は藤五郎と前に追いつかない距離でぶらぶら歩いている。

後ろから兄いがじれて弥助、忠兵衛と三人で追い越して行った。

小橋で渡ると千住一丁目、高札場の先左手に問屋場に貫目改所が隣り合っている。

日光道中の貫目改所は千住、宇都宮ともに三十貫目秤が置かれていた。

向かいの飛脚屋は朝から忙しそうに人が出入りしている。

まだ次郎丸の時計は六時に為っていない。

三丁目に秋葉市郎兵衛本陣。

四丁目先右手へ水戸街道。

その先は六月村の一里塚、近くには葛西花又村鷲大明神が有り江戸から綾瀬川を船で訪れる風流人も多い。

綾瀬川の水運が栄えたのは、延宝八年下流小菅村から隅田村まで用水堰止めが禁止された。

堰毎に荷を積みかえることが無くなり、親船に数艘の小舟で航行した。

川の流れと棹の力で下り、登りは上げ潮にのり帆を張って進んだ。

河岸は六十か所近くあるという。

綾瀬川で名高いのは下肥舟、長さ十間に幅一間半の平底船が江戸のし尿を川沿い農村へ運んだ。

一度に二百荷は運んでいた。

水運で働く船頭の楽しみの一つが草加の塩せんべい、街道の休み茶見世が工夫し、醤油を塗ったらそれが好評に為り塩せんべいを追い越す人気だ。

四番目の一里塚は草加宿の手前、時刻は八時五十分、巳の鐘が前方から聞こえてきた。

「道中は明け六つ、昼九つ、暮れ六つの三度の所のほうが多い位ですぜ」

兄いは甲子郎に「時計で動く方が無難ですぜ」と言っている。

千住から草加は二里八丁、宿場は道中奉行の管轄。

宿往還三十三丁二十五間、町並み南北十二丁。

清水本陣の前の休み茶見世で朝飯代わりに焼き餅で茶にした。

前日は米沢上杉様が本陣でご休憩、此の見世も通知が有り三十人分を賄ったという。

「噂じゃ御国許が不作で大変だというだが、支払いはきちんと済まされましたうえ金十疋頂きましただ」

この頃は一疋十五文、十匹は百五十文に為る。

窮乏激しい藩財政から我が殿と同じ初の国入りに背伸びしているようだ。

「上杉さまは、白川まで同じ道筋ですぜ」

「上屋敷は後追いの道中にさせたようだな」

甲子郎は「藩の道中奉行は周りへの目配りも大変ですな」など他人事のように言っている。

甲子郎は新兵衛と話は付いているようで別会計をしている。

四人の茶代と焼き餅八枚で九十六文と言うので銭緡(差し)を一本出し「釣りは良いよ」と言っている。

隣は醤油の煎餅を焼き始めた、兄いは幸八を残して買わせる算段だ。

六丁目の市は五、十日に市が立った。

綾瀬川へ下流で合流する伝右川の橋を渡ると綾瀬川の本流、札場河岸の喧騒が聞こえる。

札場河岸は甚左衛門河岸とも言われる水運の中心地、下流に魚屋河岸別名手代河岸、上流に藤助河岸一名蒲生河岸。

千本松原は八百間と言われている、綾瀬川は街道に沿って流れていたが街道を横切り、川にかかる蒲生大橋を渡った。

土橋は長さ十二間四尺、幅二間一尺と道中記に有る。

五番目蒲生一里塚は街道左手の塚に木はなかった。

立場は行きかう人で込み合っていた。

この付近は水田よりも菜種の収穫後は慈姑(くわい)の栽培で有名な地だ。

五月には種付けをはじめ十二月半ばには収穫できる、野菜は江戸の需要の大半を此処で賄うという。

富代は「千住葱の半分は越谷産だ」など極論を言う。

蒲生村を過ぎると右手に大きな池が有る。

兄いが天明の頃に洪水で出来たと聞いたという。

「もういろいろと伝説が有りましたぜ。白蛇(はくじゃ)が住み着いて通る人に置いてけ、置いてけと声を掛けたそうです。有る日巡礼が白蛇に呑まれたそうでね。村の者が水神宮と弁天宮をお祀りした処、それからは声がしなくなったそうです」

「どこかで聞いた話と似ているぜ兄貴」

「白蛇か大蛇が池に住むのは最近では藤澤近くの鉄砲宿の話だ。こっちは退治されなかった様だ。置いてけ堀は本所にもあるが蛇は絡んでいない」

越谷へ入った、草加から越谷は一里二十八丁、宿往還南北十八丁四十八間。

元荒川にかかる大沢橋を渡ると大沢町、大沢町は越谷宿の加宿だ。

町並み越谷九丁二十間、大沢は七丁三十六軒。

福井権右衛門本陣は問屋場も兼ねている。

山崎脇本陣と深野脇本陣や旅籠の多くは大沢町に有る。

道中記には大沢橋畔に一里塚が有ったと記されている。

「天明の洪水で流れましたかね」

「その様だな」

行方知れずを数に入れ、下間久里に七番目の一里塚。

まくりの茶屋で幸八を待つことにした。

十五分ほどでやってきた、兄いが「十二時三十分だ」と言っている。

幸八が来て五分ほどで見世を後にした。

「粕壁は何か名物でも有るかい」

「食い物は聞いたことありませんね。最近鰻屋が出来たくらいですぜ」

粕壁宿(しゅく)は江戸日本橋から九里、奥州の大名家が暇初日の宿を取ることが多い。

備後村を通ると古利根川が街道に寄ってきた。

川に合わせた街道が大きく曲がる角に八番目の備後一里塚。

粕壁宿(しゅく)は越谷から二里二十八丁、杉戸まで一里二十一丁

宿往還二十四丁三十五間、町並み南北十丁二十五間。

三枚橋は小川に石板三枚かけてありそれが土地の名に為っている。

新宿小沢栄蔵本陣は街道左(西側)、中宿の蓮沼屋庄兵衛脇本陣、上宿に問屋場。

六斎市は四日、九日に街道に沿って開かれる。

午を過ぎて売れ残った品物を早々と片付けだす露店もある。

「江戸ご府内と違って大八車に京の牛車が使えないのは不便だな」

「若さん、俺たちが見たからと言ってこっちに牛車の道を付けるほど荷が有るでしょうかね」

「其処だよ。金が万と出ても仕事が無きゃ、使う人も出ないことに為る」

牛馬の背に乗せて運ぶか人力、水運が頼りになる。

桐箪笥や桐箱を売る店は遠くから買い付けに来た商人が多いようだ。

河岸から船で江戸まで通じているので運び出すにも便利な街だ。

日光道中は右へ曲がり高札場の先が古利根川に架かる粕壁の大橋と呼ばれていた。

長さ十六間、横三間で高欄が付いている、上流に上喜蔵河岸が有り高瀬舟が五艘停泊している。

橋の向こうに鰻見世が有ると兄いが案内した。

此処は兄いが七人分支払った、一人一合だが酒を頼んでも南鐐二朱銀に四十文で済んだ。

小女に心づけだと豆板銀を一つ手渡した。

六斎市を当て込んで待つ時間がないほど焼いていたので出るのも手早く、五十分ほどで店を出た

見世から一丁ほどで九番目小渕一里塚が有る。

堤根村から右手に清地村が見えると中間に十番目の一里塚が見える。

道中記に左は堤根村地内 右は清地村地内だとしてあった。

次郎丸が時計を見ると五時十五分。

杉戸宿は宿往還十六丁五十五間、町並み東西八丁二十間余。

幸手まで一里二十五丁。

下町に問屋場。

中町に入ると街道右手に蔦屋吉兵衛脇本陣、長瀬清兵衛本陣、酒屋伝右衛門脇本陣が並んでいる。

此処の市は五、十日に開かれる、粕壁で早じまいしていたのはこちらへ来る準備の様だ。

枡形の鉤手(曲尺手・かねんて)にひときわ大きな家がある。

「ここは米相場で財を増やしたそうですぜ。江戸に手を組んだ店が有るそうでね」

宿はずれのこの付近豪商と言える屋敷が多い。

休み茶見世が並んでいて宿へ入る前か、のんびり莨を燻らしている男たちがいた。

茨嶋(ばらしま)村の一里塚が見えた。

「まだ六時だ割合早く幸手に入れそうだ。兄いが泊まる宿は俺たちも泊まれそうか」

「御一緒というので手紙は出してあるので遅くなっても大丈夫です」

どうやら幸八たちに口止めさせていたようだ。

幸八たちは行も泊まった宿だと甲子郎へ話している。

倉松川を志手橋で渡ると高札場。

橋は長さが十九間、幅二間半有った、この付近の街道は幅六間有る。

宿往還十六丁五十五間、町並み南北九丁四十五間。

杉戸からは一里二十五丁。

一日目は日本橋から幸手迄十二里十丁に為る。

宿(しゅく)は南から右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿、右馬之助町の名主は中村平左衛門。

久喜町、街道右手問屋場の通りを挟んだ向かいには、知久文左衛門本陣。

問屋場は一日交代、宿内四町回り持ちだという。

仲町の“ たわらやとうじろう ”という大宿へ声を掛けた。

「大変どっしゃろ」

上片風の発音に驚いた。

「思い切って足を延ばし過ぎたぜ、昼飯をのんびり食った分遅れたよ」

「そんでも来てくれはってうれしいどす。四部屋と言うので八畳四間の離れを開けて有ますえ」

案内されて驚いた四間続きと思ったら本当の離れだ。

間口六間の二階が表だが奥が深い、庭の先に松林が有る。

同行が決まって七人の予約は白川まで取ったそうで“ たわらやとうじろう ”は長嶋屋青木吉兵衛が持ち主だと兄いが言う。

次郎丸が一番手前を勧められた「甲子郎も此処にするか、兄いを一人にしてやろう」と言ったら兄いが笑った。

「可笑しな気を廻さずに。これからは出来るだけ一人で寝てくださいよ」

女将が怪訝な顔だが急に頬を染めた。

「勘違いですよ」

「そうなのかよ幸八」

「兄いは嫁さん一筋ですぜ」

「それもはずかしい話だ」

兄いに頭をはたかれた。

「幸八、何か言うときは間に人を置けと前に言ったろ」

藤五郎に言われている、どっちが年上だと思うほど可笑しな二人だ。

宿帳を付けると幸八は軽そうな包みを一つ渡して「約束の草加の塩せんべいと醤油煎餅」と渡している。

江戸へ向かうときの約束だと言う。

「来たときは此処の次は草加と言う楽旅だったんですがね」

「親爺に楽ばかりさせたと知れりゃ俺が怒られる。御大名の参勤より強いと言うほうが身のためだ」

奥に広い湯殿、厠が有る。

その周りを囲むように廊下でつながる三部屋が有った。

「先に汗流しなさいませ。その間に夕食の支度をしまっさかい」

どの部屋にするか聞かれて次郎丸の部屋で良いと答えた。

八畳と言うが広い、京間で造らせたようだ。

酉の鐘が聞こえる「七時半だ」兄いの声がする。

兄いは「若さんじゃ有るまいし後家殺しはやりませんぜ」と言いながら部屋へ来た。

「ここは結とは関係ありませんぜ。五年ほど前から年一度は世話に為ってるだけですぜ」

「それにしちゃいい顔だ」

「父親が猪四郎と取引が有るんですよ」

「なんだ、猪四郎がらみか」

順に風呂から出て飯に為った。

一汁三菜に空豆の塩茹でが付いてきた、酒は疲れ休めの一人二合にした。

話題は粕壁の六斎市の賑わいだ。

甲子郎が道中記を持ち出すとここは二日、七日に六斎市がたっている。

「道中記では此処を飛ばして栗橋が一日、六日だ」

「先へ進んで戻るんですかね」

栗橋までの六斎市は道中記に有った。

栗橋宿、一日、六日。

幸手宿、二日、七日。

杉戸宿、五日、十日。

粕壁宿、四日、九日。

越谷宿、二日、七日。

草加宿、五日、十日。

千住は休み無し。

「これだと三日、八日は街道沿いじゃ開かぬようだ」

「案外甲子郎様細かい事気にしますね」

道中記には無いが、御成り道の鳩ヶ谷でその三日、八日に六斎市が開かれる。

幸手の隣四里に有る岩槻は一日、六日の決まりだ。

岩槻藩は二万石、大岡忠正三十四歳の城下町、此処も財政は悪化している。

日光御成街道は江戸の本郷追分で中山道から分岐し幸手宿志手橋の杉戸宿よりへ通じている。

宿場は岩淵宿、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿、幸手宿と為る。

日光御成街道は本郷追分まで一里、追分から幸手宿十二里三十丁、日光道中は日本橋から幸手迄十二里十丁。

幸手宿はもう一つの御成り道が有る。

妙観院脇から栗橋宿までの迂回路だが一度も使われていない。

文化十一年四月十五日(181463日)・日光道中

朝は慌ただしく飯を食べ、卯の下刻前に(五時ころ)に仲町の“ たわらや ”を旅立った。

御成り道は日光御廻り道だと女将が教えてくれた、その道から続々と巡礼が宿へ入ってくる。

今朝教わった雷電神社へ参詣してきたのだろう。

角に安永二年の道しるべがある。

左面“ きさい くき道

右面“ かぞ わしの宮道

日光道中栗橋宿迄二里三丁、日光御廻り道は栗橋まで三里だという。

右手に入る道は関宿への道だ。

長嶋屋の先、荒町の鉤手(曲尺手・かねんて)に一里塚が有る。

十二番目の一里塚に為る。

桝形を通ると内国府間村(うちごうまむら)。

安永四年の道しるべ、右手八丁程に権現堂河岸が有るという。

右 つくば道

左 日光道

東かわつま 前ばやし

権現堂河川権現堂河岸は江戸まで水路で二十五里、六軒の問屋で九艘の高瀬舟を運用しているそうだ。

中川に掛かる出羽橋は長さ十九間に幅三間有る。

外国府間村(そとごうまむら)で川が近寄ってきた。

小右衛門村の手前に十三番目こえもん一里塚、時計は六時二十分。

栗橋宿へ入った。

宿往還十五丁十三間余、幸手宿から二里三丁。

町並み南北十丁三十間、中田宿迄房川船渡しで十八丁。

「こえもん一里塚の次は栗橋宿に有ったか中田宿(しゅく)に置かれていたが跡が見えないと曖昧だ」

「此処も洪水で関所も対岸から移した位だ川近くに有ったんじゃないか」

百八十年ほど前、寛永十年に中田から栗橋へ関所が移されている。

右手に池田由右衛門(與四右衛門)本陣、左手に小林脇本陣。

町並みを抜けると関所の木戸が有る。

此方側に移り栗原関所だが名称は“ 房川渡中田関所 ”渡船は十二艘が運用される決まりだ。

普段は川原幅二百十四間、川幅四十間、水深九尺。

増水(一丈二尺以上)後の川留明けは水深一丈と定められた。

渡船料五文、茶船十二文、馬と荷駄は倍額、水嵩八尺から一尺五文追加される。

馬舟長さ十間、幅九尺で四頭が一度に運べた。

渡船は茶船で十七文を五人分支払って中田へ渡った。

厳重な関所と思われるが東海道に比べれば規模は小さい。

番士は代官支配の御家人四家、富田、足立、島田、加藤で二十俵二人扶持。

下番を雇ってその妻女に女改めをさせたとも云う。

大樹は今だ日光社参の予定がたたない。

浚明院様社参は三十八年前の安永五年、将軍家渡河は船橋を使った。

栗橋宿、中田宿(しゅく)と二つで一つの宿駅業務を行っている。

中田宿へ渡った、堤を越えると高札場、中町に藤田孫右衛門本陣、船戸町に問屋場、宿屋が並んでいる。

鉤手(曲尺手・かねんて)に休み茶見世が有り一休みした。

冷した甘酒が有るというので兄いがそれを頼んでいる、まだ日盛りと言うほどでもないが昨日長めに歩いた分体力は回復しきれていない。

兄いは幸八と下妻街道から来る巡礼を呼び止めては豆板銀のお捻りと甘酒を振る舞っている。

「この付近静御前に縁が有るとか」

次郎丸が茶店の小女に聞くと老婆を呼んだ。

「栗橋伊坂の地で亡くなったそうですわい。高柳寺に墓が建てられましたがこちらへ寺が移りましての、光了寺と寺号も変わったそうじゃわい」

関東郡代中川飛騨守が十一年前享和三年に墓を建てたという。

「八幡様の隣がその寺じゃわい」

一里塚を聞くと「聞く人はおおいんが、見たこたねえわい。光了寺さんの参道に有ったはずだという人もおったわい」聞かれるのは多いという。

余談
この話の三十年後。
日光道中絵図巻-天保十四年四月(1843年)に鉤手(曲尺手・かねんて)土塁東には松の木の一里塚が描かれている。(宿村大概帳は杉、左右之塚とも中田宿地内とある)

静御前は小野小町ほどでもないが各地に伝説を残している。

二十組ほど振る舞って茶店へ南鐐二朱銀を二つ渡して席を立った。

宿往還は十二丁十八間、町並み四丁五十間、古河まで一里十八丁。

渡船に刻が掛かり巳の鐘が街道前方から聞こえてきた。

次郎丸の時計は九時。

道を下ると鉤手(曲尺手・かねんて)で右へ街道が続いている。

八丁程の松並木の先に茶屋新田“ 十九夜 ”と刻まれた石塔が有る。

「十九夜とはなんですね」

「甲子郎様、これは安産祈願の願塔でね。月の出を待つ二十三夜になぞらえた風習ですよ。この付近は大分と多いようですぜ」

古河(こが)の城下が近いのか人の往来も増えている。

松並木の中、小橋の先が古河宿との境、また土橋が有り先に一里塚、一つなくなったとして十五番目の原町一里塚だ。

原町の木戸を入ると古河の城下町、右へ行く道は関への道。

道中記に城下伝馬町に塚が有ったとも言われると出ていた。

下総国葛飾郡古河藩七万石老中土井利厚五十六歳の領地だ。

安永六年十九歳で家督を継いで三十七年、老中に就任して十二年、能吏としての評判が高く、領主の入れ替わりの激しかった古河もようやく落ち着きを見せている。

波乱の有った土井利益の時代に比べれば藩内も落ち着いている。

初代とされる土井利勝は大老を務め下総古河十六万石を拝領した。

無子絶家と為った土井家を利益が延宝三年五月幕府より宗家相続を命じられた時、七万石に減封された。

利勝の孫、利益は万治元年下妻藩一万石を分地されていたが本家相続後引っ越し大名と為った。

七年後延宝三年下総国古河藩、六年後延宝九年志摩国鳥羽藩、十年後元禄四年肥前国唐津藩。

利里の代、宝暦十二年古河を離れて四代七十一年後、元の領地へ復帰した。

宿往還三十七丁四十一間余、町並み十九丁四十一間、野木迄二十五丁三十間。

街道右手に高札場、問屋場。

左手先に吉沢与市(幸之助)本陣、その先に真新しい金毘羅宮が有る。

鉤手(曲尺手・かねんて)に脇本陣。

城下を抜けると松並木が続いている、一際大きな樹が有る場所が下総、下野の国境と道中記に有る。

野木大明神を通ると土塁が有り野木宿へ入った、古河から二十五丁三十間、間々田迄一里二十七丁

町並み十丁五十五間、宿場は小さいが本野木、新野木それぞれに二軒の問屋場が有った。

新野木の街道左に熊沢七郎右衛門本陣、向かいに脇本陣。

木橋の向こうに野木一里塚、ここで十六番目。

土塁の先は松並木、友沼村に友沼河岸が出来て五十年が経つそうだ。

乙女村は板橋の先に馬頭観世音。

台座に文化十年“ 是より左 あじと とちき さのみち ”とある、左手先に恩川(おもいがわ)の乙女河岸が有る。

その横が乙女村一里塚、十七番目。

「そろそろ午だが昼はどうします」

「間々田で何か探そう」

土橋の先右へ下妻道、寺の門脇に“ 十九夜 女人講中 ”“ 十九夜供養 講中 ”が有る。

「もう十五ほど見たな」

間々田は近い。

余談

間々田の逢の榎は間(あい)の榎。

例幣使が江戸と日光の中間に目印として植えたとの伝承。

この榎を十八番目の一里塚に数える記事が多いが和信伝では採用していないのでこの辺りで数字は違ってきます。

一矢調べで日本橋から間々田宿十八里二十九丁三十間。

日光道中二十一次は三十六里三丁二間。

間々田から鉢石(日光)十七里八丁三十二間。

不採用理由

日光道中絵図巻-天保十四年四月(1843年)十二代将軍家慶の日光社参行程図に一里塚として描かれていない事

「土手向町、上町、中町、下町。青木八三郎本陣と出てるな」

甲子郎と幸八で道中記を開いている、間々田(ままだ)宿町並み九丁五十間、小山迄一里二十二丁。

土塁の手前右手に愛宕社が見えた。

街道左手舘野脇本陣、問屋場、青木八三郎本陣と並んでいる。

乙女河岸からの荷だろうか、続々と荷駄の列が来た。

兄いが差配していた男に話しかけるとすぐに戻ってきた。

「六丁ほど先、千駄木村に一里塚が有ってその先すぐ土橋の右に休み茶見世が有って其処が旨い饂飩を出すそうです」

甲子郎は「それにしよう。もりに出来れば汗も引く」ともう決めたように言う。

千駄木一里塚は十八番目。

冷たい井戸水で締めた饂飩は汁に合っていた。

「こりゃ昆布に鰹節まで使っておる。江戸でもこれだけ汁に銀(かね)をかける見世はめったにない」

「一人十六文です」

女将の声に「安すぎる」なんて煽てている。

薬味の生姜に茗荷がこの饂飩と汁(つゆ)に合っていると次郎丸も満足げだ。

七人分百十二文に甲子郎は銭緡(差し)と四文銭三枚だした。

兄いが「全員冷酒を茶碗で頼む」と銭緡(差し)二本出し、「これで頼む」と渡した。

井戸で冷やした五合(ごんごう)徳利から茶碗へ別けたが、冷えているうえに極上酒だった。

「さてと、三時だ小金井までのすなら頑張ってもらうようだ」

どうやら景気付の様だ、酉の刻に入れるぎりぎりなのだろう。

見世を後にして出ると結城道から巡礼たちが列を為して間々田(ままだ)宿へ向かっている。

小山(おやま)宿土塁を抜けると五丁程で一里塚、これが十九番目。

右へ行く道は三峰明神へ向かう道。

町並み十二丁十三間、新田迄一里十一丁。

左手に高札場、追分の先は佐野道で思川大行寺渡しへの道。

先に脇本陣、向かいが問屋場。

左手先中町に小川彦右衛門本陣。

宿の北の土塁の先は松並木、喜沢村は喜沢追分で壬生街道と別れ、今市宿で日光道中にまた合流する。

地蔵尊と道しるべが一緒に為っている。

兄いが「こいつは不思議な道標なんですぜ」と立ち止まった。

およそ百年前、享保三年の銘が有る。

右へ奥州海道 左へ日光海道

「通達が末端の石工まで伝わらない頃だろう」

後で困ったでしょうねと甲子郎と幸八が話している。

此の海道はその三年前から街道、道中へ替わっている。

壬生街道は十二里二十七丁で一里十丁日光道中より短縮できる。

例幣使などは戻りの時はこの街道を使うのが通例だ。

壬生街道沿いも河岸が多く繁盛している。

水深が浅くなるので米三百俵を運べる船が大半を占めていた。

乙女河岸、友沼河岸まで大きな高瀬舟が昇ってきて、壬生河岸から一日で下ると荷を積み替え、早ければ二日で深川へ着けた。

この高瀬舟は房丁高瀬舟といい、米千二百俵(四百八十石)を積んだという。

積み荷の多くは年貢米と薪に炭、戻り船に様々な物資を江戸から運んできた。

運船賃は元禄三年の幕府公定運賃に米百石に付四石。

正徳二年には米百俵に付四俵か一俵錏二十文の決り。

喜沢村にある二十番目の一里塚は街道の松並木の外に見えた。

四つ辻は右が結城道、左は朽木道。

そのあたりから新田(しんでん)宿に為る、並木が二丁程で土塁が見えた。

小山宿は宇都宮藩領だがここは天領。

町並み三丁、小金井迄一里十一丁

街道左に高札場隣が四脚門の青木半兵衛本陣、その先に代官所の陣屋が有る。

宿はずれに道しるべと供養塔が一緒に為っている。

寛政十二年銘は“ 左 おざく道 ”“ 新田宿講中 ”の馬頭観世音。

宝暦二年の銘は“ 左 おざく こくふんじ ”の六十六部供養塔。

おざく ”は石裂(おざく)大権現、石裂山信仰の道だ。

松並木が杉並木に入れ替わると小金井宿の外れ、二十一番目の一里塚が有る。

土塁を抜けて小金井の宿(しゅく)に入った、軒に灯が灯されだしてきた。

「酉の鐘まで四十分ほど有る。良く歩けたものだ。

幸手宿から小金井宿迄十里二十七丁三十間。

日本橋から小金井宿迄二十三里一丁三十間。

此処は佐倉藩領、町並み南北六丁四十二間。

下町右手に陣屋、中町左手先に問屋場、大越忠右衛門本陣、高札場。

問屋場の向かいの“ はしやこえもん ”へ入った。

「お疲れで御座いましょう。風呂はすぐ入れます。お部屋は三部屋で宜しいので」

「あいてるのかい」

「お触れは小金井を通過でしたが、昨晩は小山や石橋に泊まれぬ人で小金井も大騒ぎでしたが、本日はがらすきです」

小山は米沢上杉家、石橋は宇都宮へ二本松藩丹羽家が泊まっていて先の雀宮と共に先が閊えていた。

足を洗っている間に二人と三人が続けて入ってきた。

「大繁盛だな」

笑いながら三部屋を案内された。

この時期参府に暇の大名家の間を縫って旅をするようになる。

とりあえず荷物番を残し、風呂は順に入ることにした。

兄いが予約するだけあって扱いも良いし風呂も大きい。

次郎丸と甲子郎が先に上がって幸八達三人が向かった

廊下の向こうの声が聞こえる。

「上杉様で良かったぜこれが会津様だと倍近くの行列だそうだ」

「こっちは良いが。江戸から来た人が言うには、大磯で加賀前田様の行列は通り過ぎるのに一刻掛かったそうだ」

女中が、風呂が空いたと伝えている、また忠兵衛達は烏の行水だと甲子郎が悪口を言っている。

兄いは二、二、三の部屋割りだと言いながら旨そうに鮎の塩焼きを食べている。

忠兵衛は「御供の中間二人一部屋とはおごり過ぎです」と今日も甲子郎に言っている。

「なら主に相部屋で良いと表で客でも呼び込むか」

「ゲッ、川添様ご冗談でしょ」

弥助は忠兵衛を睨んでいる。

「冗談だが、この後の宿場が込み合えば木賃へ行かせるぞ。若様をお前たちと相部屋は、俺が大野様に叱られる」

鶏の肉に蒟蒻と南京の旨煮は予想外に美味い。

「これで良い器に盛れば高級料亭でも通用するな」

酒は一人二合までにして早寝とした。

亭主が来て兄いと話している。

「米沢様の前も大名家が通ったのかね」

「一日前が二本松の丹羽様ですよ。噂じゃお殿様の代替わり、左京大夫叙任で初のお国入りだと聞きました」

幸八と藤五郎が酒田で承認されれば江戸へ出るので秋口には出てくると話している。

話しの様子では結と関係はない様だ。

文化十一年四月十六日(181464日)・日光道中

朝卯の刻(四時ころ)に“ はしやこえもん ”を旅発った。

「兄い、京へ向かっていた頃が懐かしいぜ」

「あの時期は日の出も遅いですから」

「江戸へ戻るときは辰に出て申に入れる日程にしよう」

白川でその予定で組んでくれと甲子郎に言っている。

「若さんそれじゃ二日は余分だ、せめて六日で戻る算段をしてくださいよ」

小金井から石橋は一里十八丁。

小金井の北の土塁を抜けると杉並木が続いている。

街道に松と杉が両方に為るころ、二十二番目の一里塚が有る。

右は松、左は杉が植えられている、先に見えるのが下石橋村。

木戸の先に壬生道への分かれ道が有り、先には土塁が有る。

並木の外左右に塚が有るが一里塚ではない様だ。

「道中記には地蔵塚とあるのがこれの様だ。

右に愛宕社の参道、民家に挟れてまた土塁が有る。

石橋宿へ入ると左に鳥居が有り石橋大明神とある。

右に井澤八右衛門脇本陣、問屋場、左手に井澤郡蔵本陣、高札場。

その先右手に名主屋敷で控え本陣の井澤新右衛門家。

町並み五丁二十八間、雀宮まで一里二十三丁。

ひときな大きな寺が有る、遠いので遠眼鏡で覗くと扁額には“ 開雲寺 ”とある。

「さればここが大猷院(たいゆういん)様御殿所の寺か」

珍しく次郎丸は寄ろうとも言わない。

土塁を過ぎると木橋の両脇に休み茶見世が有った。

土橋の先が松並木、集落に高札場が有る。土橋の先の松並木に大きな一里塚が有る。

道中記に二十三番目の下古山一里塚だと出ていた。

脇の畑には干瓢の元に為るユウガオが植えられている。

「今にも花が開きそうだな、此の辺りが鞘堂新田か」

「夕方に花が開くんでさぁ。すなわち夕顔」

幸八は「水口付近で見たより葉も大きく育ってますぜ」と言っている。

「昔は手で筒切りにして皮を剥いたそうですがね、今じゃ工夫されて絡繰り仕立てで数多く剥けるそうですぜ」

鞘堂、名の起こりは戦で討ち死にした者の供養に鞘を埋め、地蔵堂を建てたと伝わると兄いが甲子郎に話している。

その地蔵堂が右手に有る。

左手に星の宮、先に有る追分の右手へ伸びる道は関宿道、角に休み茶見世が有った。

松並木の終わり近くに一里塚が見える、二十四番目の雀宮一里塚に為る。

すぐ先に土塁と町木戸が有り先は雀宮宿。

町並み五丁二十間、宇都宮迄二里一丁。

右手に問屋場、向かいに平治右衛門脇本陣、三軒おいて中町小倉半右衛門本陣。

本陣は周りに比べ相当古びた様子だ。

本陣の先に高札場、その先が上の問屋場。

中町芦谷冶右衛門は仮本陣で名主、問屋を兼ねている。

此の宿も火災の難が続いている。

脇本陣は享和二年十二月二十八日に燃えたが、寛政元年、二年に続いて十三年で三度燃えたという。

土塁と町木戸を通ると右手に雀宮大明神の鳥居。

先は杉と松が交互に二、三本ずつ植えられた並木が続く。

土塁の先に台新田村の立場、兄いは「九時だ」と甲子郎と話している。

「次の立場で一休みしよう」

「城下の入口ですぜ」

「此処からどの位だ」

「一里は無いですぜ川添様」

行ってみようと立ち止まらなかった。

並木が切れて一里塚が有る、二十五番目の江曽嶋一里塚。

其処からは杉並木に為り土橋の先が土塁に為る。

宇都宮新町立場で宇都宮城新町口へ続いている。

慶長七年の奥平家昌が十万石で領めて二百十年余り、再封を含めて十家が此処を領している。

戸田忠延は二十五歳、文化八年に家督相続して三年目。

城下の繁栄に比べ戸田家は疲弊している。

土塁に木戸が見えその手前に休み茶見世が五軒ある。

甲子郎が真ん中の見世に目を付けて入った。

「何か腹の足し為る物は有るか」

「稲荷鮨に焼き餅ばっかしら」

「稲荷を一人二つと焼き餅一つで七人頼む」

「まんずちべてえ水で咽喉ひやしんさ」

婆が湯のみに冷えた水を配った。

稲荷は大分と大きい、稲荷鮨用に作らせたようだ。

干瓢に生姜が刻み込まれている。

「旨い」

思わず次郎丸が声を出すほどだ酢飯はあっさり、干瓢は甘く、其処へ生姜を刻みいれてある。

茶も出がらしでなく上物だ。

ひとり茶代も入れて三十二文、甲子郎が四人分だし兄いがそれを足して銭緡(差し)二本に四文銭六枚にして出すと小娘は「たすかに二百二十四文丁度だすら」と受け取った。

次郎丸が婆に旨い水だと豆板銀を一枚手渡して席を立った。

木戸をぬけると宇都宮の賑わいが感じられる。

熱木町に木戸と土塁が有る。歌橋町には城への道へ番所。

突き当りに木戸に半鐘、右手が佐野口番所だという。

左は鉤手(曲尺手・かねんて)でまた木戸が有る。

材木町口にまた木戸が有り先へ行けば伝馬町だが、通り過ぎて左手にも木戸が有りそちらが日光道中。

一丁ほど先に土塁と木戸が有り一里塚に榎が聳えているのが見える。

二十六番目の伝馬丁一里塚だが、奥州街道には道中記も有ったようだと曖昧に書かれている。

宇都宮藩の城下町、町並み南北十八丁五十八間に続いて東西二十丁、白澤迄二里二十八丁三十間。

書律を見て甲子郎が中へ入った。

奥州道中の案内記を二冊買い入れてきた。

是で二本松までの新知識が補えると一冊を幸八へ差し出した。

「おいくらです」

「いいいい、背負っている煎餅を寄越せとは言わんよ」

「白川で配った残りを皆で食べる分しか有りませんぜ」

「だからあまりもんを強請っただけさ」

伝馬町の上野新右衛門本陣、向かいの新石町に荷物貫目改所、伝馬会所。

鉤手(曲尺手・かねんて)を二度通れば突き当り、右手は押切橋で茂木(もてぎ)街道八日市場、近くには下級藩士屋敷が集まる中宿が有る。

藩祖本田正純の時代に此処八日市場へ市を開かせたという。

左へ向かい田川に掛かる上河原橋を渡った。

「博労町に為ります此処で宿は終わりですぜ」

土塁に木戸門の外も大きな蔵の醤油屋など有るが人馬継立も見えない。

「兄いなんで博労町なんだ」

「川添さま、昔此処に腕の良い伯楽(はくらく)が住み着いて繁盛したそうでね」

伯楽(はくらく)は馬医者、博労が集まるので付けたと聞いたと言う。

先に宇都宮宿はずれの木戸門が有る。

今泉、竹林と回りは水田で並木もない道が続いている。

二十七番目の竹林の一里塚がある、一丁ほど先が岩曽との村境でそこからは松と杉の並木に為る

下川股、上川股と並木が続き、切れたところが海道新田。

「道中記も昔の本に一里塚は此処にも在ったと出ているが、西鬼怒川の一里塚は流されたと聞いてるそうですぜ」

二十八番目海道新田の一里塚は古往還に有り、街道から二丁余引き込んでいた上に崩れていると道中記に有る。

又松と杉の並木が始まった。

下岡本、中岡本を過ぎ、白澤宿まであと五丁程だ。

やげん坂を下れば白澤宿、白澤村と上岡本村にまたがる四丁三十間、氏家迄一里十八丁だが、宿場の先三丁程で西鬼怒川の渡しに為る。

二つの村は宇都宮藩領。

街道の真ん中に水路が有る。

上岡本村に福田脇本陣、白沢村に宇加地本陣。

高砂屋の正面入口に、色鮮やかな高砂の翁(おきな)、褞(おうな)の彫刻が飾りつけてある。

屏風で余計豪華に見えて旅ゆく者の目を楽しませてくれる。

木橋の先で東鬼怒川が迫ってくる、此処の渡しはつい最近舟渡しに為ったと兄いが言う。

二十九番目の白澤(三本杉・西鬼怒川の一里塚)一里塚は宿場の先に為るが、ここらあたりと言う話ばかりだ。

暇の大名続き後で混むかと思えばあっさりと渡れた、冬場は三間ほどに為るので仮橋が掛かっていたと兄いが言う「今ので十五間ほどですぜ。二十二文は高いように思いますがね」と愚痴っている。

「休み茶見世で余分に渡すより安いもんだぜ」

甲子郎に言われている。

一尺水位が上がれば割増しが付くので高くなるのだ。

少し先に支流が有る木橋を渡ると鬼怒川の渡しが待っている。

上阿久津は阿久津河岸での水運で栄えている。

江戸まで五十八里、米の運送費は百石に対し六石と定めが有った。

小鵜飼船で二十石の米を乙女河岸まで運んで、江戸の荷を積み替え運び込んだ。

江戸からの物資に加え常陸の海岸から十里、浜で上がって塩した魚が翌朝には届いたという。

氏家と共に此処も栄えている。

板橋の先右手に一里塚。

三十番目の氏家(下新田)一里塚、左手明神側は見つけられないと兄いが教えている。

追分に水戸への道を示す道しるべが有る。

正面に“ 右 江戸海道

左面に“ 左 水戸かさま 下たて 下つま みち

氏家にはほかにも関道、奥州道中、原方道、会津中道、会津西道と四方へ通じていた。

木戸口を通り氏家に入ったのは六時十分、町並み南北八丁四十五間有る。

氏家宿(しゅく)は宇都宮藩領。

鉤手(曲尺手・かねんて)の先左手に平石六右衛門本陣、高札場、大分離れて伝馬屋脇本陣。

光明寺の青銅不動明王は五十五年前の宝暦九年の作だという、赤い火炎を背負う青不動は街道から見えている。

鉤手(曲尺手・かねんて)の先左の道が会津中道、板橋の手前に“ ほていやいちべえ ”。

予約の手紙で三部屋用意してあるという。

会津中道は会津若松まで三十一里十丁五十二間有るという。

長年の付き合いで奥州道中は馴染みが多い分無理も効く。

特に鉄之助の代に風呂を大きくさせた宿が多いという、結に入らぬ宿でも結の商人の往来は多いのでさまざまに便宜を図ってくれる。

「鯖の一塩が有りますが一品余分につけましょうか」

次郎丸はまさかと思ったが兄いは平然と「そいつは良い久しぶりだ」と頼んでいる。

紀州で食べてかれこれひと月はたっている。

一汁三菜とはいえ一品増えて豪華になった。

驚くことに汁は蛤だった。

「これも鯖も常陸の海からやってきます」

女中はそのように自慢したついでに「御不動様みましたぁ」と言う。

「大きくて立派だった。夕日で顔が神々しく光っていたよ」

丈六尺あるのだという、街道から見えるように岩の上に座って居られるそうだ。

文化十一年四月十七日(181465日)・奥州道中

朝卯の刻(四時ころ)に“ ほていやいちべえ ”を旅立ち、五行川にかかる板橋の五行橋を越えた。

喜連川迄二里四丁。

桜野村も宇都宮藩領、氏家に劣らず繁華な町並みが三丁以上続いている。

鍛冶屋が仕事の準備を始めている。

十九夜塔がまた畑の脇に有る、先に一里塚が見えた。

三十一番目の狭間田(はさまだ)一里塚の地は松山新田と言うらしい。

下松山立場の中に高札場が有る。

狭間田新田の先は弥五郎坂の登り、早乙女村で坂を下ると馬頭観音像と寛政五癸丑建立の“ 二十三夜供養塔 ”が祀られていた。

荒川のかたわらに寛延元年の道しるべ“ 右江戸道 左下妻道 ”荒川板橋を渡ると喜連川宿、宿内七丁二十間、佐久山迄二里三十丁。

喜連川藩の城下町だが喜連川氏は五千石、池ノ端七軒町に江戸屋敷が有るが参勤は免除される別格の家だ。

喜連川彭氏(ちかうじ)四十四歳

寛政元年十九歳で家督相続、五百石加増されて五千石。

毎年十二月に参府し、十万石相当の国主並家格となったが財政は苦しい。

それは格式に見合う収入が無いからだし、喜連川に銀(かね)を産む産物も無い。

それと家来が多すぎるのも原因の一つだ、士分が百七十家を越すという。

領民は四千人を下回っている、年貢収入も田畑を合わせて実高一万石程度からだからたかが知れている。

本町の本陣上野太右衛門は太郎平とも、問屋も兼ねていて、その先に高札場が並んでいる。

街道左手が喜連川陣屋への入口。

三十二番目の喜連川一里塚は宿内に有る。

喜連川八幡宮の先鉤手(曲尺手・かねんて)で内川板橋。

和田村の南和田一里塚は三十三番目。

上下河戸村は江川の本支流が合流する一帯を占めている。

上流に上河戸、下流に下河戸と別れている。

「何だこりゃ」

「面白いでしょ。街道が動いたとしか思えませんがね。一里塚が歩いて街道を越えたなんて話にでもなれば面白いですぜ」

一里塚を築いたのは古道で佐久山宿(しゅく)の領分に有る。

三十四番目の一里塚は上下河戸村と道中記に出ている。

享保六年の道しるべ。

右 奥州海道 ”“ 左 在郷道

畑に寛政十一年の“ 南無阿弥陀仏 が建っていた。

つるが坂を上って行くと左の畑地に馬頭観音が見えた。

土塁の先に木戸が有る。

佐久山宿は宿往還一里三丁四十間。宿内町並東西十丁十二間。

大田原迄一里二十五丁

江戸から三十七里十六丁、三十六里十六丁ともと道中記に有る。

「此の一里は何のためにわざわざ書いてあるんだろう」

「きっと細かく足すか端数を切り捨てるせいでしょうぜ」

右手に福原道(ふくはらのみち)追分が有る、福原から黒羽へ通じている。

鉤手(曲尺手・かねんて)で問屋場、参道わきに高札場、中町の井上勘左衛門本陣と道の右手に並んでいる。

「ここは鮎の焼き干しの出汁で出す饂飩が名物ですぜ」

「汗を吹っ切るにはいいかもしれん。ひと汗かくか」

紺の暖簾に“ あいや ”とある見世へ入った。

平打ちうどんは熱い汁(つゆ)になじんで旨い、夏に焼いた葱がこんなに美味いとはと兄いは大喜びだ。

「これで二十文は値打ちもんだな」

藤五郎が慌てて銭緡(差し)二本出して「ひゃっこい水で汗をぬぐいたい。釣りはその礼だぜ」と荷から新しい手のごいを全員へ配った。

大汗かいて、井戸端にでて汗をぬぐらせてもらってさっぱりして見世を出た。

忠兵衛はものたり無さそうだが、御供は辛いのだと次郎丸は愉快だ。

文化元年大火で宿内の大部分が焼失し、ようやく町は立ち直ってきた。

佐久山は福原内匠資明三千五百石。

この町の伝説を兄いが話してくれた。

伝説では板岳という姫様の乱行激しく(十六歳とも)家臣に殺されたが、怨霊のたたりを恐れた領民が梵鐘を造り供養した。

「ずいぶんな話だと鐘を見に行きました」

鐘には延宝七年の作と銘が有り“ 妙信童女 藩主内匠資清の娘だと兄いは言う。

「時代も人もちがいまさぁね。十六歳だという人に童女は変でしょ。延宝七年といゃあ百三十年以上も前だ。誰か戯作に仕立てたようですぜ」

「こんなとこまで聞きかじっておるのか」

甲子郎は驚きを隠せない。

「本家に当たる那須家は名家ですから、那須与一は佐久山の生まれです。そこからいろいろ調べましたがね。大名の本家は無子廃絶、御取立て、継嗣騒動で改易、御取立てと為り、交代寄合千石で家名は残りましたぜ」

鉄之助との関係でこの付近は詳しくなったという。

次郎丸の祖母の伯母が鉄之助にも叔母にあたる遠縁で、その方は弘前から福原へ嫁いできているのだという。

鉤手(曲尺手・かねんて)で右へ左へと進んで箒川を越えた。

坂はそれほど急ではないが大分と高台へ出た。

瀧澤村の古往還に三十五里目の一里塚が有ったと道中記は記し(しるし)ている。

「古往還てのがよく解らんね。街道新田でも同じように書いてあった」

兄いは何度も往復して道中記は参考程度と諦めている。

「書いてる人の技量次第ですぜ。誰かのを引き写すか、自分で覚えを取りながら歩くかでずいぶん違いが出ますし。洪水の後でまるっきり違っていたなんてことが有りますから」

深川を越えると雲が湧いてきた「夕立ちならぬ昼の雨かな」と早足に自然と為っている。

街道の両側は水田でまだ田植えは始まらず池のようになっている。

松並木はだいぶ先に有る、松並木が二丁ほど有り一里塚が有る。

三十六番目大田原一里塚で富士見と言われるそうだが西は真っ黒な雲で見通せない。

皆道中合羽を早めにつけて歩いた。

雨が行く手を遮るように強くなってきた。

先に鉤手(曲尺手・かねんて)、左に日光北街道分岐の休み茶見世へ入って雨宿りにした。

二刻(三十分)程で小止みに為り先を急いだ。

西から聞こえていた雷は南へ向かっている。

溜池の先に木戸が有る、左手に薬師堂の七重の石塔が見えた。

大田原宿は宿往還一里十五丁二十間、町並み南北十五丁余、鍋掛迄三里一丁三十七間。

中町の高札場の隣が印南定次郎本陣、十郎右衛門問屋場。

次郎丸は兄いと相談して人馬継立で鍋掛迄軽尻(からじり)にした。

「ぬかるみ歩くよりゃましでしょう」

ひとり前七十六文だった、同じような考えの者は多く一行が出るころには何人もが待っていた。

城の大手へ続く道から馬の武士が三騎出てきて一行の先を歩んでいる。

大田原藩は大田原光清(みつきよ)従五位下山城守三十九歳、一万一千四百石の城下町。

享和二年、父の死去により二十七歳で家督を継いだ。

慶長時代の晴清以来十代に渡りこの地を治めている。

慶長七年下野芳賀郡・那須郡、陸奥磐城郡に四千五百石を加増され、合わせて一万二千四百石を領する大名となり、大田原藩を立藩した。

三代高清の時相続に際し弟の為清に千石を分与している。

白川口の木戸の先は蛇尾川(さびがわ)の蛇尾橋、長さは七間ほど有った。

「ここは今五間ほどの川幅ですが以前二十倍ほどに広がって、船渡しも川止め、諦めて日光へ行こうとしたらそれも無理と十日も大田原に住み着く始末でした」

馬の上で後ろの甲子郎へ大きな声で話している。

七丁ほど先の二本松橋で巻川を渡ると一里塚が見える。

三十七番目中田原の一里塚だ。

棚倉追分は蛇尾橋から二十五丁程。

正面“ 是より左奥州道 ”“ 是より右たなくら道

左“ 南無阿弥陀仏

裏“ 元禄四年

三十八番目練貫一里塚まで来た。

女人講の“ 十九夜塔 ”が有った。

常夜灯が有り側面“ 右 奥州海道 もう一方に“ 左 那須湯道

三十九番目の鍋掛一里塚まで来た。

一里塚を右へ曲ると鍋掛宿ここは天領。

人馬継立で馬を降り、馬方には兄いが四文銭五枚ずつ駄賃の上乗せをした。

鍋掛宿江戸から四十二里六丁三十七間。

街並み五丁余、越堀(こえぼり)迄八丁。

那珂川対岸の越堀宿と二宿(しゅく)で一宿(しゅく)の務めを果たしている。

「わかさん、此処には芭蕉翁の信奉者が居て十年近く前に句碑を発てたそうですぜ」

「未雨(みゆう)師匠がいれば寄るだろうが。今回はお預けだ」

野をよこに 馬ひきむけよ ほととぎす はせを

元禄二年に那須湯本へ来た時の句だ、黒羽から白川へ向かう途中、那須湯本で馬方に請われてしたためたと有る。

馬方を務めたのは図書家来角左衛門と曽良の日記に有る。

浄法寺図書高勝は俳号桃雪、黒羽藩城代家老。

四月十九日温泉神社に参詣、殺生石を見に行っている。

文化五年十月鍋掛宿の俳人達によって建てられたと兄いは教えてくれた。

菊池助之丞本陣前を通り、宿はずれの鉤手(曲尺手・かねんて)が凹型で幾重にも曲っている。

那珂川を橋で渡ったが、今でも増水時には船渡しだと兄いが言う。

川幅十三間ほどに十九間の橋が掛かり、河原は六十間近くあった。

従此川中東黒羽領 ”の碑が有る、大坂で造らせて運び込まれたばかりだと兄いが言う。

越堀宿は黒羽藩領、南北四丁三十間余。

本領の黒羽は喜連川、佐久山、大田原、鍋掛、越堀、芦野と其々へ通じる街道が有った。

大関増業(ますなり)は文化八年家督相続をしたが養父増陽(ますはる)より年上だったという。

この文化十一年三十四歳、一万八千石従五位下土佐守。

喜連川恵氏(やすうじ)は実兄。

橋の先で街道は左へ宿場の中を用水が通り高札場はそれを跨いでいる。

此処の問屋場は大田原までは片継だった。

先行していた三騎の馬が本陣前に繋がれ一人が番をしている。

会釈して通り過ぎようとしたら「定栄(さだよし)ではないか」と呼び止められた。

陣笠に面当をしていたが取ればまさしく喜連川恵氏だ。

「師匠は江戸のはずでは」

「それはこっちの台詞だ。今は領内見回りのお供だ。大田原で後ろにいたのは定栄(さだよし)達だったか」

すでに老年の恵氏は隠居で、大坂勤番の弟からの頼みで腹心の家臣二人の用心棒だという。

幾ら隠居でも喜連川の名を知らぬものはこの付近にはいない。

「私は殿の命で亡き母の墓参で御座る。供は三人で後は酒田へ戻る商人三人」

「武助亡き後藩内も纏まりが無いようじゃ、増陽(ますはる)殿も隠居で睨みが効かぬ上体もすぐれぬので儂に替わりを頼むと要請されたのじゃ。大田原はいわば顔つなぎじゃ」

立ち話をしていると増業(ますなり)の家臣二人が戻ってきた。

「御隠居様。お待たせしました」

「定栄(さだよし)。戻りは喜連川へ寄るようにな」

「かしこまって候」

年一、二度だが和歌の手ほどきをうける身だ。

騎は後ろへ向かってゆく、追いかけるように申の鐘が遠くから聞こえてきた。

今日の宿は“ さかいやよへいじ ”この宿(しゅく)は藤田源蔵本陣、三宅六衛脇本陣を入れても十三軒しかない。

「新兵衛様よく予定通りに来られましたな」

「手紙に書いた通り、このひょろりととしたお方が大川様だ。母君の墓参に藩の方がおひとり付いてこられたよ」

「ここまでくれば明日は米沢様を追い越さぬように辰に白川へ向けて旅立ちだ」

米沢公は二つ先の白坂だという、五里十五丁あれば白川迄追いつくこともない。

「お知らせの鮎に氷室の鮭が用意できております。鶉の塩焼きなど食べられますか」

「なんだ塩気ばかりだ」

「熱い中歩いて塩気が抜けたでしょうに、塩焼きを溜りへちょとつけて食べるのは旨もうござんす」

「なんと、気を使わせたか」

冗談のようにやり取りして部屋へ通された。

「同じ九里程度でも渡しがないと楽に着くな」

那珂川が増水してなくて幸いだと皆が胸をなでおろしている、上流はそれほど降らなかった様だ。

「雨も通るのが早くて助かりましたな」

文化十一年四月十八日(181466日)・奥州道中

越堀(こえぼり)“ さかいやよへいじ ”を予定していた辰(六時三十分頃)に旅立った。

南北四丁三十間余、芦野迄二里十一丁。

越堀から芦野は“ 二十三坂 七曲り ”だと幸八が甲子郎と話している。

富士見峠は那須の山々がきれいに陽に映えていた。

富士はと聞かれどうやら雪の峰が見えるのがそれらしいとおぼつかない。

四十番目寺子村の一里塚は村の入口に有る。

村内街道の中に水路がはしり、跨ぐように高札場が有る。

「此の辺りこの形が決まりの様だな」

「本当ですぜ。面白いもんですな」

忠兵衛が相槌打っている。

道は緩やかに下りだした。

余笹川の土橋は二十六間近くある、その先の岩は“ 弁慶の足踏み石 ”だと道中記に有る。

「謂れも書かずに何たることだ」

「馬に乗るとき踏み台にしたら凹んだと、そのくぼみの事だそうですっぜ」

「それにしちゃ新しい」

「大きかったのを三つに切ったと聞きましたぜ」

上り下りは緩やかだが何時までも続いているようだと甲子郎が根をあげだした。

グネグネ曲がり二つ目の峠に掛かった。

黒川の土橋は十五間も有った。

四十一番目は夫婦石の一里塚だが近くの石は妻夫(めをっと)石と言うと道中記に書いてある。

坂を下ると芦野の宿(しゅく)が見えてきた。

「あそこの山際に割れた岩が有って夫婦ものが追われて逃げ込んだそうでね。追手が近づくと大きな白蛇に睨まれて退散して、夫婦は助かったと言い伝えが有りました」

近くの村にもう一つ別の話が有り、白蛇の夫婦が此処で人間に化けるのを見られたという話が伝わるという。

奈良川の土橋を渡れば芦野宿(しゅく)の桝形。

南北九丁二十七間余、白坂迄三里四丁。

此処は交代寄合旗本芦野家三千十六石の領分、那須七騎の一族だ。

那須本家の他、福原氏、千本氏、伊王野氏、大田原氏、大関氏、芦野氏の七家。

芦野家は陣屋を構え、参勤を伴う大名並の交代寄合衆の名家だ。

川原町は小商人が多い、仲町へ入ると街道の中に用水堀、右手に高札場、問屋場、陣屋、侍町に続く道。

左手に本陣が有る。

新町で用水掘が右へ寄り鉤手(曲尺手・かねんて)の手先でまた中央へ戻っていて先ほどの奈良川が寄るとその上流に通じている。

木戸の先は、ややこしい鉤手(曲尺手・かねんて)、先で奈良川の土橋を渡った。

岸村の辺りはまた上り下りの連続だ、奈良川が右手へ遠ざかった。

「あの川また街道を横切りますぜ」

坂を下ると川が街道を横切った、板屋村の休み茶見世で一休みした。

四十二番目の板屋一里塚はすぐ先に見えている。

「やれやれ。近く見えるはずだ向こうは上りだ」

甲子郎はまた愚痴を幸八に聞かせている。

牡丹餅で腹を宥めて、愚痴も封じられた。

「九時十分だ。大体巳の刻見当だな」

登り坂の途中には馬頭観音が置かれてある。

峠の上蟹沢にも馬頭観音。

坂を下ると水田で田植えが始まっている。

「ずいぶん早いな。普段なら苗を育てているころだ」

「今日は芒種ですから。篤農家でもいて日照りでも予想したのでしょう」

寄居村は間宿(あいのしゅく)、村の街道に用水掘が流れている。

村を抜けると四十三番目の寄居の一里塚は別名泉田の一里塚。

境の明神の先に黒羽藩と白川藩の境界の標柱が有る。

従是北白川領

また境の明神が出てきた、下野、陸奥と両国に建てられている。

「此の辺りが名高い白河の関の有った場所と言う人は多いですぜ」

「白河二所之関と道中記に有る場所か。大殿が熱心に探したと聞いたが、変哲もない山道だ」

「あの芭蕉翁も関の跡にがっかりしたと聞きましたぜ。でも川添様大殿様の調べた白河の関は此処じゃありませんぜ。」

「境の明神が二つで白河二所之関じゃないのか」

次郎丸が立ち止って二、三度伸びをして唄うように文章を諳んじた(そらんじた)。

白川の関はいづ地にありしやしらず。今の奥野の境に明神の社あるを古関のあとといふは、ひが事なり

「とまぁ。ここじゃ無いんだとさ」

白川の関といふは、高山険しく萬仭の石壁苔なめせかにして、下碧口の深きに臨む、山の嶺に観音を安置す。山は巌上枝そびへ、走獣も跡をたち、飛鳥上を翔りがたし

「廃墟となっていた旧街道の旗宿の地がそうだと十五年前に調べたそうだ。十五に為った頃碑文の写しを覚えさせられた。旗宿村西有叢祠地がそれだと言われた」

「此処とは大分離れているのですかね」

「兄いは行ったのだろ」

「大分前ですが白川の南湖へ行ったついでに一回りしましたよ。ここからは田舎道でしょうが二里は東のはずですぜ。」

「あっ、兄いがホトトギスがテッペンカケタカと聞いたというのはその時か」

「物好き連中がね芭蕉のたどった道は、義経の道だと騒ぐので、付き合ったんですよ。大殿様の、いやあの頃はまだ殿様でしたが、碑(いしぶみ)に出会って一同吃驚が本当ですぜ」

金売り吉次が近くで亡くなったと聞いて尋ねたら二か所あった話までしている。

「此の社の裏にも芭蕉翁の句碑が有りましたぜ、安永六年だそうでね丁酉だそうです、今だと三十七年前に為ります。ここらあたりでなく須賀川で詠んだ句の様でね。なんで此処なのか一緒に来たものも首をかしげていました」

はせお 風流の はじめや奥の 田うへ唄

芭蕉と曽良は元禄二年四月二十二日矢吹から須賀川相良等躬宅へ着いた。

二十日に芦野から境の明神まで来て古街道の旗宿へ出て泊り、二十一日白河の古関明神参詣後白河宿の先の矢吹へ泊っている。

「確かにそう書かれています。大殿の百二十年も前に旗宿に中りを付けていたようです」

「大殿の事だ奥の細道位読んだはずさ。でもそうは書かないのが大殿らしいよ。その碑をこの奥へ置いた人は芭蕉が此処を訊ねた後旗宿へ向かったというのを承知の上だろうさ」

芭蕉は古街道へここから向かったのだ。

「白川と旗宿の間は辛い山道でしたぜ」

「ホトトギスの声を聴いたのは儲けもんさ」

都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく 白河の関

「能因法師は来てもいない関を題材にし、いい出来なので旅に出たという噂を流して隠れていたという話が残っているが、甲斐に陸奥を旅したというのが本当らしい。昨日の隠居がそう言っていたよ」

江戸育ちの隠居は、当主の頃も冬に為ると江戸に出てくるのが楽しみの一つだった。

隠居した十四年前から次郎丸に和歌の手ほどきをしている。

坂を下ると低いところに一里塚が有る、四十四番目境明神の一里塚だ。

まだ上り下りが先に見える、道端に藤の木が何本も見え大木に絡まり藤色の花に混ざり白もところどころに咲いている。

「江戸では見ごろは過ぎたがここらはこれからの様だ」

「南湖の周りは見事ですぜ。良い時期に来れたようです。三、四日遊んで行こうかな」

幸八と藤五郎はイヒイヒ笑っている。

白坂の宿場町が見えてきた、鉤手(曲尺手・かねんて)の左角に馬頭観音、常夜燈、二十三夜塔が並んでいる。

木戸を抜けると白坂宿、街道に用水堀が有り跨ぐように高札場。

南北四丁三十間、白川迄一里三十三丁。

左手に岩井屋脇本陣、問屋場、河内屋平次左衛門本陣と並んでいる、休み茶見世へ入り焼き団子で腹を宥めた。

木戸の先は白川宿へ向かう峠道が待っている。

皮籠(かわご)の集落に高札場が有る。

兄いは昔の古道の跡に一里塚が残っているという。

「この右手先にも一里塚が有るんで。どうにも不思議でね。前に見に行った時は畑の真ん中に残っていましたぜ、四人の大人が手を広げるくらい離れていましたから街道の跡は間違いなさそうだ」

四十五番目は皮籠一里塚。

皮籠(かわご)の地名は皮籠の中の金などを奪われたことに由来すると兄いが甲子郎に話している。

「襲われたのが金売吉次三兄弟、襲ったのが藤沢太郎入道とまぁ芝居仕立ての話が有るんでね。墓は此処と壬生街道稲葉にも有るのでござんすぜ」

「藤沢太郎入道と言えば熊坂長範(ちょうはん)ではないか出来過ぎた話だな」

幸若舞“ 烏帽子折 ”では吉次の手引きで義経が奥州藤原氏を頼る途中、吉次の荷を狙った藤沢入道が義経に打ち獲られる話や、改心する話が時代と共にさまざまに広がっている。

「壬生稲葉の方は、義経奥州落ちのお供でそこまで来たが、病で亡くなったとしか話は無かったですぜ」

題目塔に地蔵が下黒川への追分で旅人の安全を見守り、上り坂には欅が混ざる杉の並木道が続いている。

水路が街道を横切りそこからが白川宿だと兄いが言う。

山間の道は緩やかにうねりながら上り下りが繰り返された。

此の辺り水路が多くなり石橋に為っていた。

脇道の度に馬頭観音が有る、大きく道がくねり鉤手(曲尺手・かねんて)の先が江戸口見附。

東海道でもめったにない大きな桝形の木戸口だ。

「ここからが白川のお城下の九番町から一番町が有ります」

北へ向かってきた街道は東へ回り込み、桝形の先でまた北へ向かう。

九番の次七番町で右へ曲がり、其処が三番町。

板橋の先が二番町、石橋の先に木戸が有りそこから一番町。

街道に用水掘りが引かれ番所が置かれて中町の通りと為る。

角から城内への木戸が有り先は武家屋敷の続く街だという。

一丁おき用水掘り上に番所が有る。

鉤手(曲尺手・かねんて)の先に問屋場、大手門が左手、右手に高札場。

また鉤手(曲尺手・かねんて)で本町左が“ やなぎや ”柳下源蔵脇本陣、右は芳賀源左衛門本陣。

宿内町並は南北三十一丁十八間。

江戸を出て五日目越堀から白川迄七里十二丁。

日本橋から白川四十九里二十六丁三十七間。

柳下源蔵脇本陣へ兄いが案内した。

「お約束とおりのお越しで有難うございます。二刻前は米沢様ご家中御通行で混雑いたしておりましたが蔵座敷は使わずに済みました」

昨十年に棟上げをして今は内装の仕上げと態と十日前から畳を上げておいたそうだ。

「やはり後追いの方がご休憩、お立ち寄りで、覗きに行った人がいたようで声高に畳も入っていないと笑っておられました」

「こちらのひょろりが本川様だよ」

東海道の旅でそうでもないが兄いの口癖だ。

「“ ありがたやでございます ”白川様御家中と聞いておりますが、町屋で宜しいので」

「“ 流行りものには目がない ”若造で出来たばかりの蔵座敷が気に為ったのだ。草鞋を履き替えたら三輪権右衛門殿お屋敷までごあいさつに参ろうと存ずるが、誰ぞ案内を頼めぬか」

主にとっては当代の弟、先代の次男とはいっても、実は先に生まれたと結の手で情報は共有している。

お頭の上に若様と言う身分に囚われぬ謙虚さに感動した。

「わたくしご案内させて頂きます。追手門を通る必要が有りますので。お二人で参られますか」

「いや川添は此処で新兵衛と帰りの道中の日程を話し合うようにする。帰りは兄いが居ない分川添が頼りだ」

次郎丸は草加煎餅を風呂敷に包んだ物を幸八から手渡された。

「これで我慢していた煎餅が口に出来ます」

「もう一軒分あるのかい」

「ぬかりは有りませんよ。渋紙でしっかり湿気除けもしておきました」

追手門は大手門、鉤手(曲尺手・かねんて)で後戻りすれば二丁程。

門衛に突棒の足軽が居る。

「江戸屋敷より参った本川で御座る。三輪様お屋敷まで無案内い故、これにおる脇本陣柳下源蔵殿に道案内を頼んだ」

桝形に居た若い武士たちが五人ほど急いでやってきた。

次郎丸の顔を覗き込んで「若君、何の冗談で」と声を上げた。

「なんで大輔が居るんだ。御重役は用部屋か屋敷でふんぞり返るのが仕事だ」

「私はまだ軽輩ですよ。からかっちゃ困ります」

四人は名札の“ 奥州白川藩本川次郎太夫 ”を見て、大輔が次郎丸を若様と呼ぶのであっけにとられている。

「私に御用ですか、父の方ですか」

「大殿より待月殿あての手紙を預かってきた。二人で通させてもらうよ」

門内の足軽を一人呼んで「途中で止められぬように屋敷までご案内せい」と言いつけた。

桝形の先久徳家の屋敷を右手へ折れ、十字路を左へ二軒目の屋敷の門で足軽が「お客人で御座る」と若侍に声を掛けた。

どちら様でござると足軽の手前か少し横柄な言葉で問いかけてきた。

「桝形で三輪様より案内をするように頼まれ申した。それがしはこれにて役目に戻らせて頂き申す」

次郎丸が礼を言うと丁寧にお辞儀をして去っていく。

「それがし江戸藩邸より参った本川ともうす。待月様宛の書状を大殿より預かってまいった」

「ではお渡しするのでこれえ」

手を出すので次郎丸は「無礼者。大殿より託された書状を見も知らぬ貴公に渡すわけに参らぬ」としかりつけた。

「われを知らぬか」

「存じて居らぬ。江戸から白川へ来るのも初めてなのでな」

「知らぬなら仕方もない。案内しよう」

玄関先を廻り木戸から中へ導いた。

「爺様、大殿からの書状を届けに来たそうです」

縁側で目白籠を磨いている待月に声を掛けた。

眼鏡をはずして此方を見て、慌てて縁先から裸足で飛び降りた。

「爺、儂は今殿より本川次郎太夫の名を使っての母の墓参りで来たのだ」

慌てることは何もないよと言い聞かせた。

「是、十郎なぜ玄関へお通ししないのだ。見た目は兎も角。大殿の書状に敬意を払うのだ」

出直しましょうと玄関へ案内した、確かに旅支度はどう見ても軽輩で五日目ともなると大分草臥れている。

「祖父を爺と呼ぶとは」

「子供の頃何度かあやされた」

「もしかして定栄(さだよし)様」

頷くと、驚くふうでもなく玄関から居間へ案内した。

源蔵は大手門(追手門)の橋まではよく喋ったが、城内でまだ一言も発していない。

成り行きを楽しんで居る様だ。

手土産の煎餅を渡した。

手紙を渡し「門が閉まらぬうちに宿へ戻るから、まず書状を読んでくれ」と頼んだ。

「三郭御園の出入りに蘿月庵の案内、南湖の案内の手配と有りますが」

「どうやら養子先の庭園の手入れをするのが当分の仕事の様だ。大殿の仕切りを学べと遠まわしに云ってきたようだ」

「墓参の事は何もありませぬが」

「殿から直に言われた。あとは孫八郎殿の都合で会おうと思っている。大殿は須賀川の大庄屋への書状も届けるようにと預けられた」

ひとしきり話が落ち着くと十郎を外孫だと紹介した。

「兵藤十郎で御座います」

代々八右衛門を名乗る家老の一家(いっけ)だ。

「酒井殿と打ち合わせの上、宿へ使いを出させて頂きます」

玄関先まで見送られ、源蔵が先に立って大手へ出た。

宿で一緒に茶を飲みながら城内の雰囲気はどうですと甲子郎が源蔵に聞いている。

「落ち着いています。手入れもよく殿様お国入りに気合が入り過ぎている訳でもなさそうです」

久しぶりに晩酌無しでの食事も済んで明日はどうするかを話した。

「とりあえず俺の方は此処で様子見に為りそうだ。兄いは甲子郎と南湖見物に二日ほど出てくれ」

「どうしました」

「あれから一刻そろそろ探りが動くころだ」

河村甚右衛門という方がお見えですと女中が告げてきた。

「表座敷へお通ししました」

そういうので川添と二人で出向いた。

「目付の河村で御座る」

「元矢之倉定栄(さだよし)様付本川次郎太夫で御座る」

「おなじく、川添甲子郎で御座る」

「役儀によってあい訊ねるが、何ゆへ用部屋へ届を出さぬか」

「殿様直々に藩の用向きと違い母親の墓参を許され申した。いわば私的な行動ゆえ用部屋とは無縁で御座る」

「そうは参らぬ。明日辰に三之丸門道中用部屋へ出ませい」

「かしこまって候」

型式ばっていたが「吉村様より申し付かったが金策で有ろうか」と何か隠したものの言い方をした。

「召し上げなら力をお貸しするとのお言葉で御座る」

「いやいや、そのような押し借りなど命じられては居りませぬよ」

「お隠しなさらずとも、お力貸しをして良いと言われておられる」

儀兵衛の言うとおりだ上屋敷は情報が駄々漏れだ。

召し上げにたいし押し借りと言っても反応はない、其処まで深くかかわっては居なそうだ。

「遅れずに来られませい。おひとりで良いとのお言葉である」

「承知つかまった」

源蔵に「さて困った三之丸門道中用部屋は何処だろう」と聞いた。

「本日の追手門先の突き当りを左へ、厩の手前を右へ入れば三之丸門で左手が道中往来を扱う用屋敷です」

「辰前に出仕しておるのか」

「辰が出仕時刻で御座います」

辰が六時三十分ごろで、六時に着くには卯の下刻(五時十五分頃)には宿を出たほうがよさそうだと為った。

和信伝-次郎丸道中記の一里塚・参考日光道中・奥州道中宿村大概帳

あくまで創作の和信伝内の道中記です。

1

聖天の近くに一里の杭が有った

浅草

2

千住掃部宿、此処に一里塚が有った

千住宿

「宿村大概帳」榎、右之塚斗千住宿地内

3

六月村一里塚

六月村

「宿村大概帳」榎、左右之塚共六月村宿地内 

4

千本松原一里塚

草加宿

「宿村大概帳」榎、左右之塚共草加宿組之内吉笹原村地内

5

蒲生一里塚

蒲生村

「宿村大概帳」左無、右、左右之塚共蒲生村地内

6

大沢橋畔に一里塚が有った

越谷宿・大沢町

7

下間久里一里塚

下間久里村

「宿村大概帳」榎、左右之塚共草下間久里村地内

8

備後一里塚

備後村

「宿村大概帳」榎、左右之塚共備後村地内 

9

小渕一里塚

小渕村

「宿村大概帳」榎、左右之塚共小淵村地内 

10

三本木一里塚

左は堤根村地内

右は清地村地内

「宿村大概帳」榎、

左之塚は堤根村地内、右之塚は清地村地内

11

茨嶋一里塚

茨嶋(ばらしま)村

「宿村大概帳」榎、左右之塚共茨嶋村地内

12

幸手一里塚

幸手宿・荒町の鉤手

「宿村大概帳」榎、左右之塚共幸手宿地内

13

こえもん一里塚

小右衛門村

「宿村大概帳」榎、右之塚計小右衛門村地内

14

中田(光了寺さんの参道に有ったはず)

中田宿

「宿村大概帳」杉、左右之塚とも中田宿地内
日光道中絵図巻-天保十四年四月(1843年)に鉤手(曲尺手・かねんて)土塁東には松の木の一里塚が描かれている。

15

原町一里塚

古河宿

「宿村大概帳」杉、左右之塚共原町地内

16

野木一里塚

野木宿

「宿村大概帳」杉、左右之塚共野木宿地内

17

乙女村一里塚

乙女村

「宿村大概帳」杉、左右之塚共乙女村地内

間々田の逢の榎は間(あい)の榎

この榎を十八番目の一里塚に数える記事が多い。

不採用理由・日光道中絵図巻-天保十四年四月(1843年)十二代将軍家慶の日光社参行程図に一里塚として描かれていない事

18

千駄木一里塚

千駄木村

間々田宿土塁外(日光社参行程図)

 「宿村大概帳」

左松 右杉、左右之塚共間々田宿地内

19

小山一里塚

小山(おやま)宿

「宿村大概帳」杉、左右之塚共小山宿地内 

20

喜沢一里塚

喜沢村

「宿村大概帳」

左雑木 右杉、左右之塚共喜沢村地内 

21

小金井一里塚

小金井宿

「宿村大概帳」

左杉 右松、左右之塚共小金井宿地内

22

下石橋一里塚

下石橋村

「宿村大概帳」杉、左右之塚共下石橋村地内

(日光社参行程図-右松・左杉)

23

下古山一里塚

下古山村

「宿村大概帳」松檜・榎、左右之塚共下古山村地内

24

雀宮一里塚

雀宮宿

「宿村大概帳」杉、左右之塚共雀宮宿地内

(日光社参行程図-右檜・左松)

25

江曽嶋一里塚左檜 

江曽嶋村

「宿村大概帳」右杉、左右之塚共江曽嶋村地内

(日光社参行程図-右左檜)

26

伝馬丁一里塚だが、奥州街道には道中記も有ったようだと曖昧に書かれている。

宇都宮宿

日光道中に宇都宮一里塚

27

竹林の一里塚          

竹林村

「宿村大概帳」左杉・榎、右杉、左右之塚共竹林村地内

28

海道新田の一里塚

海道新田

「宿村大概帳」海道新田の一里塚(木立無し、古往還にて二町余引き込む

29

三本杉・西鬼怒川の一里塚・西鬼怒川の一里塚は流されたと聞いてるそうですぜ

白沢宿

「宿村大概帳」木立杉。

但、左右之塚共白沢宿地内鬼怒川渡船場河原之内に有之候処、度々出水にて変地いたし、当時塚形無之、杉之古木有之所を壱里塚跡と言。

30

氏家(下新田)一里塚

氏家宿

「宿村大概帳」木立無、右之塚計氏家宿地内

31

狭間田(はさまだ)一里塚

松山新田

「宿村大概帳」左無之、右皀木、

左右之塚共下松山村・狭間田新田入会地内

32

喜連川一里塚

喜連川宿

「宿村大概帳」左右共榎、左右之塚共喜連川宿地内 

33

南和田一里塚

和田村

「宿村大概帳」木立無之、左右之塚共和田村地内 

34

上下河戸村一里塚

上下河戸村

「宿村大概帳」 左栗、右桜、

左右之塚共上下河戸村地内古道にて往還より引込有之

35

瀧澤村の古往還に三十四里目の一里塚が有った

瀧澤村

「宿村大概帳」左榎、右桜、左右之塚共瀧沢村地内

36

大田原一里塚

大田原宿

「宿村大概帳」(大田原宿中居の一里塚)詳細不詳

「奥州道中分間延絵図」大田原宿地内字大本松

「下野一国」中居村より十九丁十八間に壱里塚

37

中田原一里塚

中田原村

「宿村大概帳」檜、左右之塚共中田原村地内

38

練貫一里塚

練貫村

「宿村大概帳」木立無之、左右之塚共練貫村地内

39

鍋掛一里塚

鍋掛村

「宿村大概帳」木立無、左右之塚共鍋掛村地内 

40

寺子一里塚

寺子村

「宿村大概帳」右榎、左無し、左右之塚共寺子村地内

41

夫婦石の一里塚

芦野宿

「宿村大概帳」芦野宿の一里塚(木立無し)

『増補行程記』黒川土橋渡り、坂を上り、妻夫石付近

42

板屋一里塚

板屋村

「宿村大概帳」木立無之、左右之塚共板屋村地内

43

寄居一里塚(泉田一里塚)

寄居村

「宿村大概帳」木立無之、左右之塚共寄居村地内

44

明神一里塚

明神村

「宿村大概帳」榎、左右之塚共境明神村地内

45

皮籠一里塚

皮籠村

「宿村大概帳」松、左右之塚共皮籠村地内 

石阿弥陀の一里塚(古街道)

46

白川天神町一里塚「武奥行程記」

白川宿


 

和信伝の為の道中

日光道中-日本橋~宇都宮 ・ 奥州道中-宇都宮~白川

日光道中

↓日光道中分間延絵図

↓ 延べ距離

日光道中宿村大概帳 ↓

01

日本橋~千住

二里八丁

↓二里八丁

    二里八丁↓

02

千住~草加

二里八丁

↓四里十六丁

    四里十六丁↓

03

草加~越谷

一里二十八丁

↓六里八丁

    六里八丁↓

04

越谷~粕壁

二里二十八丁

↓九里

    九里二丁↓

05

粕壁~杉戸

一里二十一丁

↓十里二十一丁

    十里二十三丁↓

06

杉戸~幸手

一里二十五丁

↓十二里十丁

    十二里十二丁↓

07

幸手~栗橋

二里三丁

・(岩槻四里)

↓十四里十三丁

    十四里十五丁↓

08

栗橋~中田

十八丁。房川渡し

↓十四里三十一丁

    栗橋と合算

09

中田~古河(こが)

一里十八丁

↓十六里十三丁

    十五里三十五丁↓

10

古河~野木

二十五丁三十間

↓十七里二丁三十間

 十六里二十四丁二十間↓

11

野木~間々田

一里二十七丁

↓十八里二十九丁三十間

十八里十五丁二十間↓

12

間々田~小山

一里二十二丁

↓二十里十五丁三十間

二十里二丁二十間↓

13

小山~新田(しんでん)

一里十一丁

↓二十一里二十六丁三十間

二十一里十三丁二十間↓

14

新田~小金井

一里十一丁

↓二十三里一丁三十間

二十二里六丁二十間↓

15

小金井 ~石橋

一里十八丁

二十四里十九丁三十間

二十三里二十四丁二十間↓

16

石橋~雀宮

一里二十三丁

↓二十六里六丁三十間

二十五里十一丁二十間↓

17

雀宮~宇都宮

二里一丁

↓二十八里七丁三十間

二十七里十二丁二十間↓

此処までが日光道中・奥州道中へ分かれる。

日光道中・宇都宮宿から徳治郎~大沢~今市~鉢石・日光東照宮。

日光道中二十一次は三十六里三丁二間。

奥州道中・宇都宮~白川

↓奥州道中分間延絵図

↓延べ距離

奥州道中宿村大概帳↓

18

宇都宮~白澤

二里二十八丁三十間

↓三十一里

・二里二十八丁三十間

三十里四丁二十間↓

19

白澤~氏家

一里十八丁

↓三十二里十八丁

・四里十丁三十間

三十一里二十二丁二十間↓

20

氏家~喜連川

二里四丁

↓三十四里二十二丁

・六里十四丁三十間

三十三里二十二丁二十間↓

21

喜連川~佐久山

二里三十丁

・弐里三拾町三拾六間

↓三十七里十六丁

九里八丁三十間

三十六里十六丁五十六間↓

22

佐久山~大田原

一里二十五丁

・壱里半七町四拾壱間

↓三十九里五丁

十里三十三丁三十間

三十八里六丁三十七間↓

23

太田原~鍋掛

三里一丁三十七間

↓四十二里六丁三十七間

十三里三十五丁七間

四十一里八丁三十四間↓

24

鍋掛~越堀

八丁余

↓四十二里十四丁三十七間

十四里七丁七間

四十一里十七丁二十二間↓

25

越堀~芦野

二里十一丁

↓四十四里二十五丁三十七間

十六里十八丁七間

四十三里二十九丁四間半↓

26

芦野~白坂

三里四丁余

↓四十七里二十九丁三十七間

十九里二十二丁七間

四十六里三十三丁三十四間半↓

27

白坂~白川

一里三十三丁

↓四十九里二十六丁三十七間

二十一里十九丁七間

四十八里三十丁三十四間半↓

日本橋~二十八里七丁三十間~宇都宮(日光道中分間延絵図)

宇都宮~二十一里十九丁七間~白川(奥州道中分間延絵図)

日本橋~四十九里二十六丁三十七間~白川(日光道中・奥州道中分間延絵図)

日本橋~四十八里三十丁三十四間半~白川(日光道中・奥州道中宿村大概帳)

 

 第七十九回-和信伝-拾捌 ・ 2024-07-20

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記