第伍部-和信伝-

 第三十七回-和信伝-

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
    

鄭四恩(チョンスーエン)は旅に出て自分に割り当てられた部屋で妻あてに毎日手紙を書いている。

送るのではなく日記のようなものだ。

船に乗った最初の日から会計帳簿を整理し、そのあと書き綴る毎日だ。

チィズ(妻子・つま)は呂玲齢(リュウリィンリン)と言って十七歳になったばかりだ。

 

紹興の酒の水は此処が元だと言われている鑑湖(ヂィエンフウ)東北側二百二十里には錢塘江にそそぎいる孝女江の出口がある。

この辺りは唐の時代から塩田が多くあり鹽の問屋も三十軒ではきかないくらいある。

その中では小さいほうだという舅父(ヂォウフゥー・母の兄)の鹽問屋、曾驍霖(ツォンシィアリィン)の計らいで信(シィン)の邸の財務(会計)を任されることになった。

頭の方は自信がないが小さいころから銭の計算は出来た。

帳面へ付けることも我流だがやっていた。

舅父(ヂォウフゥー)に見込まれて四年働かされ、給金は僅かなものだったがすべて母親に送った。

問屋の方は番頭がいるので、帳付けも教わり、どうやら仕事は一人前にできるようになった。

 

二年前の春に従兄弟(姨表弟)が八歳で信(シィン)の邸(余姚邸)へ勉強のために送られた時も、勉強嫌いな四恩は羨ましいとも思わなかった。

十六歳の四恩から見ても従兄弟は頭のいい子供だった。

舅父(ヂォウフゥー)は「挙人に為れる自信があればお暇を願ってやる」と実の親なのに厳しいと思った。

いずれ鹽問屋を継ぐだろうに何のためだろうと思っている。

 

従兄妹(姨表妹)はそんな弟弟(ディーディ)を羨ましいと感じていたようだ。

その年従兄妹(姨表妹)は十歳、もう一人は七歳だった。

上の従兄妹(姨表妹)は豊紳府で公主様が奴婢を教育しながら給金も出すと聞いて「私は京城(みやこ)の公主様にお仕えしたい」と十一歳で京城(みやこ)へ上がった。

 

「信(シィン)様の邸で子供をまた五人ほど増やして、勉強させるというのだ」

舅父(ヂォウフゥー)が四恩に茶を飲みながら話してきた。

俺は年を取り過ぎてるぞと自分には関係ないと思ったら、邸の古株趙延石(ジャオイェンダァン)の女婿(ヌゥシュィ)の湯晨榮(タンチェンロン)から邸の会計をしないかという誘いの話だった。

 

湯晨榮は寧波(ニンポー)の船問屋(沿岸貿易)湯閑(タンシェン)の次男で、子供の頃に顔見知りだ、湯の旦那には家族も世話になっている。

今までの会計は目が悪くなった老人で、隠居させ若い男を雇うという話だ。

其の時初めて舅父(ヂォウフゥー)は「結」の有力者だと聞かされた。

仕組みを聞かされ「五年辛抱したら四恩を結に推薦してやる。そうすれば自分に合う商売をやる資金も集まる」と美味しい話も聞かされた。

「ついてはお前の媽媽(マァーマァー)が決めた許嫁と婚姻して余姚(ユィヤオ)のお邸へ行け」

返事もしないうちに「哥哥、話は済んだの」と媽媽(マァーマァー)が可愛い娘と隣の家の老媼を連れて入ってきた。

小さいころ乳母代わりに大分世話を焼いてもらったばあさんだ。

娘は誰なんだろうと思ったら、実家の四軒先の呂玲齢(リュウリィンリン)だった。

こんなに可愛かったんだと自分の許嫁に改めて惚れてしまった。

婚約したのは六年も前の事だ。

嫁のヅゥフゥムゥ(祖父母)も一緒に来ているという、四恩の知らないうちに話は出来あがっていたのだった。

十七歳の婿と十六歳の嫁の婚姻がその日のうちに執り行われた。

父親は三年前に死んだが、干爸(ガァンヂィエ)が優しい小父さんだとは子供の頃から感じていた。

干媽(ガァンマァ)は母親と仲が良く姉妹同然の付き合いを昔からしていた。

其の二人は十年も前に続けて亡くなってヅゥフゥムゥ(祖父母)が玲齢を育てた。

媽媽(マァーマァー)は、四恩の婚姻を期に寧波(ニンポー)の絹商人に継妻として迎えられると聞かされた。

ヅゥフゥムゥ(祖父母)は玲齢に「これからは旦那様の言いつけをよく聞いて、良い嫁と言われるように心がけなさい」と迎えの馬車に四人で乗り込んで港へ向かい宿へ一晩泊って寧波(ニンポー)へ船で戻っていった。

 

二人は四恩の部屋で初夜を迎え、翌日迎えに来た湯晨榮(タンチェンロン)と余姚(ユィヤオ)の信(シィン)の邸へ向った。

家族持ちには塀外に七軒ほどの家が並んで建てられていた。

まだ新しいのは四恩たち新しい雇人のために建てられたようだ。

東端は湯晨榮で西の家に四恩夫婦が入ると教えられた。

家の中はすでに調度品で溢れていた。

媽媽(マァーマァー)が家を売る約束で誂えたものだと聞かされた。

邸の向かいには大きめの家が並んでいる、其の南側には果樹園が広がっている。

夫婦は趙(ジャオ)哥哥と呼ばれている人から邸のしきたりや、仕事の内容を教えられた。

ほとんどの家の夫婦が邸で働いていた。

三日目に、帳簿を引き継いで銀箪笥、銭箪笥の鍵も預かった。

 

嘉慶九年十月三日(陽暦千八百零四年十一月四日)、この日信(シィン)様は三人の供と戻ってきた。

暫く蘇州(スーヂョウ)周辺を見学していたと趙(ジャオ)哥哥が教えてくれた。

十一歳だというが四恩より分別ありげで体も鍛えられている、背も二寸(裁衣尺-71ミリ)は四恩より上背がある。

供の人と四人で日焼けしてまで歩き回ったんだなと思った。

邸で働く者のうち子供のいない雇人は邸で朝の粥を食べて仕事に就く決まりだ。

朝の食堂は賑やかで信(シィン)様はゆっくりと粥を食べると、湯を一杯必ず飲んで出てゆく。

四恩はいつも二杯粥を食べる、子供の時から変わっていない。

野菜の煮物の皿と漬物は小皿で置いてあり、好きなだけ食べられる。

財務(会計)としては残った分はどうするのだろうと心配した。

玲齢が知っていた、食事が終わるとこんな田舎でも乞丐同然の、貧乏な人がいて邸の裏へやってきて食べていくそうだ。

何時も五人くらい来るが十人分は用意しておくと聞いていた。

煮物などが残ると自分の大きな椀に入れて持ち帰るそうだ。

一月経って食堂の経費が驚くほど少ないので趙(ジャオ)哥哥に相談した。

「そりゃ米と玉米(ュイミィー)くらいは買い入れるけど野菜は果樹園の管理の脇で作るし、肉はそれほど出さないしな。一人差し五本くらいで賄えるはずだ」

「確かに食堂へ来る人と賄いの人たちで」

素早く計算して「一人刺し四本と三十文ですね」というと趙(ジャオ)哥哥が「計算が早いな」とほめてくれた。

「だが薪や炭などの計算が三月に一度は出るから、そういうのも食費に何割かは含ませるんだぜ」

そういう事も徐々に覚える必要があると四恩は思った。

雇人の家族持ちは食費ではなく現物が支給されるので、それの出費の請求も四恩に来る。

贅沢したいときは回って来る商人に頼んで置けば調達してくれる。

前の財務(会計)は全部一緒くたで参考にはできない。

四恩は面白くなって、帳面の仕分けで毎日が楽しく過ごせた。

 

邸を差配しているという舒慧蓮の丈夫(ヂァンフゥー・夫)の関元は仕事の運送業務が忙しく四恩はまだあっていない。

なんでも、杭州(ハンヂョウ)と福州(フーヂョウ)の間を海賊退治用に新造された船を献納の為に、往復しているとこれも趙(ジャオ)哥哥が教えてくれた。

 

箪笥の置いてある部屋は四恩のほかにいろいろな帳簿を整理する檀弦弦(タァンシェンシェン)という人も新しく雇われ、舒慧蓮から引き継いだ帳簿と格闘している。

四恩に比べて大変そうだ、南京(ナンジン)からやってきたという。

話をすると面白い人で、小さな子供が二人いる。

すぐに家族ぐるみで仲良くなった。

弦弦、四恩が家に戻ると、泊り番が二人やってきて寝泊まりする部屋になる。

留守の時は舒慧蓮(シュフゥィリィェン)へ鍵を預けるように申し付けられた。

玲齢(リィンリン)は趙(ジャオ)哥哥のチィズ(妻子・つま)に気に入られて、仕事もその汪鶯寶(ワンインバァオ)の手引きで、舒慧蓮(シュフゥィリィェン)の指図する果樹園の管理が選ばれた。

四恩め夜になると新妻の手をさすり、貰って来た軟膏を擦り込んでは「かわいそうに大変な仕事でご苦労だね」と可愛がっている。

 

杭州(ハンヂョウ)で乗った船には関元様の手下(てか)の水夫が舵取りに、帆の操作を十三人できびきびとしていたよ。

私の方はお邸から六人で、併せて十九人が乗っていったんだ。

杭州(ハンヂョウ)では河を波が遡るのは観られなかったんだ。

残念。

蘇州(スーヂョウ)の街は運河沿いに広がっていて余姚(ユィヤオ)や私たちが育った寧波(ニンポー)より賑やかだったよ。

龍蝦(ロォンシィア)を覚えているかい、婚約のお祝いだと湯の旦那が宴席を開いてくれたとき出てきたやつさ。

「焼き加減も上手で美味いですね」

そう二人でお礼を言ったら我が事のように自慢した船頭さんが「当たり前だ向かいの島のその先の荒磯から上げてきたばかりだ。蘇州(スーヂョウ)の蟹がいくら高価でもこいつと比べりゃ半分だ」そう言って高笑いしたっけ。

蘇州(スーヂョウ)で蟹をご馳走になったけど宿の経営者が仕入れは百銭もしませんよ、龍蝦(ロォンシィア)もここでは百銭ほど。よほど金持ちの旦那なので飯店が儲けたのよと教えてくれたんだ。

徳州(ダージョウ)の酒店へ泊った時、私に龍蝦(ロォンシィア)が安くて美味しいと主が言うので六人分頼んだのさ。

趙(ジャオ)哥哥は出てきたら眼をむいていたけど、信(シィン)様は笑って食べたんだよ。

客の前で甘い油が熱熱で上からかけられるんだよ、機会が有れば寧波(ニンポー)でご馳走したいくらい上品で美味しかったよ。

あとて湯の哥哥に怒られたけど一匹八百銭もしたんだ。

いくら海から遠い町でもびっくりしたよ、頼む前に土地の料理の値段も下調べがお前の仕事の一つだと教えてくれたのさ。

京城(みやこ)の通惠河(トォンフゥィフゥ)で船を降りて三人は船の番で残されたこともきつい仕事だと書いている。

四恩は同情さえもしている。

思い込みもあるが優しい男だ。

本当はその三人、入れ替わりで界峰興(ヂィエファンシィン)から見張り番が来て、大烟簡胡同の妓楼延聘老(イェンピィンラオ)で船から降りた十人たちも交えてどんちゃん騒ぎをしていた事を知らされていない。

人たらしの関元がそんな船の番だけなどのぬかったことはしないのだ。

 

こんな風に町や風景を毎日書き綴った。

蘇州(スーヂョウ)の景延(チンイェン)さんが贔屓して蟹をたくさんごちそうになり趙(ジャオ)哥哥に羨ましがられた、など自慢も多い。

京城(みやこ)へ着くと庸(イォン)さんが龍抬頭の祭りの日は俺たちは接待する方だから、前もって御馳走をたくさん食べようと三日間御馳走攻めで賑やかだったし、京城(みやこ)の面条は湯も美味しくて毎日食べても飽きなかったと書いている。

本当は二月二日の龍抬頭の祭りの日も別室で湯晨榮と庸(イォン)に煽られ、たらふく御馳走を食べていた。

趙(ジャオ)哥哥は毎日御馳走で十斤は重くなったと大げさに嘆いていたが、四恩の方は普段の丸顔が膨らんだ様子も腹も出てこない。

「お前はご馳走を食べても太らずにどこに消えるんだ」

毎朝の粥の時にお替りする度に不思議がられている。

信(シィン)は庸(イォン)と朝のけいこで如何にか体型を保っている。

「帰りの船は朝晩粥で済ませた方が無難だ」

庸(イォン)はそう言って今から脅かしている。

 

清国の正式な刻は九十六刻制(一刻は十五分)が採用されている。

一時辰を初刻と正刻の二つの小時に分けた。

午後11時台を例に取ると以下このように分けた。

初初刻(1100分・子の初刻)・初二刻(15分)・初三刻(30分)・初四刻(45分)・正初刻(1200分・子の正刻)・正二刻(1215分)・正三刻(1230分)・正四刻(1245分)

民間では不定時法の地域が有るように話を複雑にした。

 

豊紳府を出て興藍行(イーラァンシィン)に着いた時には辰の刻の鐘はまだ鳴っていない。

権廉(グォンリィェン)は範文環(ファンウェンファウン)と盛んに話をしていた。

與仁(イーレン)はいつものように笑って聞いているだけだ。

「ずいぶんと早いな」

康演(クアンイェン)が言うと首を振って時計を見た。

「八時二十分。まだ十分は有りますぜ」

毎日朝陽の上る時間が早くなり、同じ辰でも三日で五分は違ってくる。

「春分なら二時間刻みで合うのですがね」

時計なぞあてにできませんと文環が言うと「哥哥、鐘に頼ってちゃ時代に遅れますぜ」と廉が茶々を入れている。

この二人どうやら気の置けない間柄の様だ。

「春分には太陽、夏至には大地、秋分に月、冬至に空を祭ると決まってる」

冊子を出して「今年の春分は二月二十一日だとさ」と與仁(イーレン)が教えている。

「来年丙寅の分もあるのか」

積み上げた冊子から取り出して見せたら鐘が響いてきた。

「二月二日、龍抬頭の祭りの日だ」

範文環(ファンウェンファウン)は「なんですと。天文は何を考えてそんなこと」そうわめいてる、

康演は賑やかな奴だと思っている。

「落ち着きな。今年は閏が入るはずだ。一年が長くなるんだ」

冊子をめくると閏は八月としてある。

二十四節季の一覧を見れば閏も判るはずと康演は考えて「こいつ知ってて煽る口か」と思った。

頭分にはもってこいの様だとフゥチンを見ると頷いた。

阿吽の呼吸とはこの親子だ。

 

「ところで水会のことはどう思う」

「話は弟弟と與仁さんから伺いました、どうぞ世話しておくんなさい」

あっさりした男の様でこれなら哥哥の気に入るだろうとまたフゥチンを見た、「おいおい、お前さん細かいことも聞かされたのかよ」大人(ダァレェン)事平文炳(ピィンウェンピン)も気になるようだ。

「あっしにこまい事はむりでさぁ。こうやれああやれというお方がいれば幸いでやすぜ」

「妹夫(メェィフゥ・義理の弟)のリィェンが指揮してもいいのか」

「こいつならワッチの足りないところも塞いでくれまさぁ。ようがす。こいつを頭であっちが北側を受けあいますぜ」

東四牌楼の東西で二ヵ所と鴨兒胡同(ィアルフートン)に簪兒胡同(ツァンアルフートン)に寄合所を置いて権廉(グォンリィェン)が四か所の纏めをすると納得した。

二人とも手当てにいくら出るのだとも聞いて来ない、男意気に感じたというのだろう。

與仁(イーレン)が「銀(かね)の心配は俺がするから。手伝う男たちを探してくれ」と言い出した。

「なんだ何時お前さんが金方になった。どこかに銀(かね)でも隠してあるのか」

文環の言葉には皆で大笑いだ。

「銀(イン)がどうしたんですよう」

美麗(メェィリィー)が顔を出してきた。

「おやおや、耳が早い」

「だって昨晩つわりが来て、家の手当てを増やす約束をして呉れたばかりだから。相当ため込んでるのかと思って」

「三人目か。哥哥の言ってた日和見はよく当たるから男だろうな」

平大人は五人目とは言わなかった。

「わたしゃ女がいいよ」

「おれに言ってもなぁ。広州(グアンヂョウ)の日和見の言い分だぜ」

與仁(イーレン)ドキドキしている、河口鎮(フゥーコォゥヂェン)の事はしらを切れずに告白したが鎮江(チェンジァン)は黙っている。

「今年も広州(グアンヂョウ)のほうまで行くのかい」

「二月末の様子見だが鳳凰茶を首領(ショォリィン)様と買い付けるのが一番の遠出のはずだ」

平大人が今年も忙しそうだと「哥哥はどう言ってる」と聞いた。

「哥哥は命令が下らなければ動けませんから」

それもそうかと康演も頷いている。

 

ようやく腰を上げ、五人で興藍行を出たのは店の時計が八時五十五分を指した時だ。

通用門で五人で来たと話すとすぐに娘娘の部屋まで案内された。

居間には親子で入り三人は扉の前で声がかかるのを待っている。
娘娘の時計は九時十五分。

「そんなに掛ったかな」

「大人。これ三分一日で進むのよ。いつも昼に時計を合わしているわ」

「直りませんか」

「だってかわいいでしょ。時計が少し急いだって困るほどでもないわ。それにどうして今日に限って気が付いたの」

「興藍行(イーラァンシィン)を出る時五十五分だったのでね。いつもはそんなに掛らないはずで」

「それだけなの」

「春分の話しや、閏月の事も話していたもんで。それよりご新規さんの紹介を」

リィェンとイーレンに挟まれて表で待っていたが、呼び込むといきなり平伏した範文環は自分の名を告げ、頭が床に附くほど力が入っている。

「まぁまぁ、そんなに形式ばらずにお立ちなさい」

その声で唇は青ざめたが気張って立ち上がった。

「話は通じたのかい」

哥哥はどうやら気に入ったようだ。

「はい、妹夫(メェィフゥ・義理の弟)の下で役立たせて頂きます」

「水会(シィウフェイ)は刻を選ばないぜ」

「お任せくださいお話の寄合所に木版を下げ、呼び出しが有れば駆け付けます」

昨日聞いて、そこまでもう気が回ったこの男は使えると皆が思った。

「話が本決まりになれば地安門緊急の腰牌は出るはずよ。神武門は皇上(フォンシャン)のお許しが出れば水龍(シゥイロォン・手押しポンプ)運びこみの腰牌が出してもらえるわ。頭分は月に一度門内通行を義務とされるはず」

条件はきっと豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の隠密行動と引き換えの予感がする二人だった。

 

海燕(ハイイェン)と香鴛(シャンユァン)が昂(アン)先生に連れられてやってきた。

「あれ、何か急用でも」

「いえお迎えの馬車がおとっさんにおっかさんも来ていますわよ」

「・・・」

何事かと言葉も出ない親子だ。

「お茶にお菓子で接待するから、笛を聞かせてねとお願いしたのよ」

昂(アン)先生が朝に詰め所に来ていなかったのは、お迎えに出ていたという事の様だ。

 

権廉(グォンリィェン)と範文環(ファンウェンファウン)は、二人の可愛い娘の登場にうっとりと見つめている。

また幾人かが来たみたいで表が賑やかになった。

宜綿(イーミェン)の家族が五人そろってやってきた。

子供たちは大喜びで部屋に入ってくると「いつも馬車なら楽なんだけど」と言っている。

それもそうだ驢肉胡同から地安門外を回れば大人の男でも半刻はかかる。

三日に一度、書の先生が豊紳府へ来る、前はそのたびに親子でやって来ていた。

運河の向こうの城壁を直線をひいた場所には超える門や近道などない、まっすぐ飛べる鳩なら簡単だが鳩飼いの言い草だ。

宜綿(イーミェン)もいろいろと福恩と試したがこの道が判り易く無理が無いと結論付けている。

宜綿(イーミェン)が留守の時は一人でこられる年になった。

門番の老人は送り迎えしたがったが公主は「もう一人でこられるはず」と許さなかった。

福恩に愚痴ると「岳母(ュエムゥ)のいう事聞かなきゃ向こうへ住まわせてもらう」といっぱしの事が言えるようになった。

官学へは入れないと公主は哥哥に言っている「学寮の命令でもなきゃそれでいい」哥哥も賛成している

旗人官僚がどれだけ不正の温床に浸っているか固倫和孝公主(グルニヘシィアォグンジョ)たちは情報豊かになって知っている。

干爸(ガァンヂィエ)の失脚、哥哥の度々の解任。

「老爺(ラォイエ・ヘシュンの愛称)の時に後ろであおったのも満蒙の八旗人が多かったわ」

満州(マンジュ)の言葉に字は私たちで十分教育できるといつも福恩に教育の手は緩めない。

富俊(蒙古正黄旗萬舒保佐領人)のような学者は次々に覚羅学の不備を唱え、このままでは満足に満州(マンジュ)の言葉も字も理解できない官人が増えてしまうと嘆く。

六十二歳を越した今でも将軍、都統の職を転々としながら啓蒙を続けている。

このような汚職に浸かることのない頑固者は邪魔にされるだけで大学士、尚書、大臣には任命されにくい。

卓特氏の出身は檜舞台と無縁と本人も周囲に漏らしている。

今年進士を目指している穆彰阿(郭佳氏)は受かれば出世街道が待っている。

八旗官学の先生の中には漢語を理解できないものまで居て学生と的(まとも)に討論できない。

理藩院などは漢人どころか蒙古人さえ尚書に為れないのだ。

藩部の統治機関としてマンジュの寡占が続いている。

蒙古侍郎を貝勒(ベイレ)からも選ぶこととして定員を三名とした。

居間の両脇の扉を開け、男たちは東の部屋の椅子(イーヅゥ)に座った、広げた部屋には二十人ほどの人がいる。

入りきれない使女たちは階段の両脇に並んだ。

主役は二人の笛だ。

宜綿(イーミェン)が二人の笛を見て「香鴛(シャンユァン)のは蘇州(スーヂョウ)の笛(ヂィー)に似ているが長いんだね」と聞いている。

「江南の笛とは聞いていますが、持っている人の中では私のが一番長いようです。海燕のは異国の笛だときいたわ」

「そうなのチィエのは葡萄牙(プゥタァォィア・ポルトガル)商人の祖父が残したもので、誰も何処から来た笛か知らないそうなの。トラヴェルソと媽媽(マァーマァー)から聞いたけど祖父も何処の笛か知らなかったそうなの。媽媽は私より上手に吹けたの。和国の曲もチィェンウー(銭五)の船頭さんから教わったのよ。その人の笛は半分くらいの長さなので響きは違うのよ」

「チィェンウー(銭五)ってだれだい」

宜綿(イーミェン)は聞いていなのでつい出た言葉だ、昨日はフゥチンまで話が進んでいなかった。

「チィエ(妾・わたし)海燕(ハイイェン)のフゥチンですわ」

門番たちも詰め所の外に出てきた。

 

合奏に個別にと幾つも曲が変わり、人々の顔には笑顔が溢れている。

二人は楽しい曲、穏やかな曲と続け、時々哀愁を帯びた曲調をわずかに入れている。

半刻ほども続いた楽しい時は終わりを告げ、それぞれの落ち着く場所へ引き取っていった。

府第には琴に琵琶の達人は時々来るが、笛の巧者は見えていない。

府第には哥哥が音曲を好まないと勘違いしている人が多い、嫌いなのではなく遊郭の音曲が好きでないという事だ。

 

平大人達五人は昂(アン)先生と哥哥それと宜綿が附いて八人で出て、姐姐(チェチェ)の館で昼酒に白蘭地(ブランデー)を出してもらった。

「仲間になったお祝いだ」

権廉と範文環は哥哥の言葉に感激している。

二人は出された異国の杯(ベェィ)で白蘭地(ブランデー)を飲んだ経験はあるみたいで、香りを口中で楽しんでいる。

宜綿(イーミェン)さえ初めて見る瓶に興味があるようだ。

「こいつはいい酒ですね。あっしゃここまで高そうなのは仕入れたこともありやせん」

「科涅克(コニャック)という地方の軒尼詩(ヘネシー)というそうだ。歴史は浅いが人気は高いそうだ」

英吉利人だが仏蘭西の軍隊に入って、科涅克の街に駐屯したとき、酒に惚れ、自分で醸造を始めたそうだ。

そんな説明をしてから「此の平大人が姐姐(チェチェ)に広州(グアンヂョウ)土産に持って来たんだ」とぶちまけた。

「あれから飲んで無かったんで」

二年寝かしておいたと打ち明けている。

ラベルに1798と記されている、喜望峰周りなら一年は航海にかかる事もある。

嘉慶十年は陽暦1805年だ。

「醸造して七年目だな。樽で三年は熟成されるそうだぜ」

姐姐(チェチェ)が注いで回って「此の瑠璃杯を手で温めて一杯を四半刻かけて飲むのがこつだそうですが。我慢できやしませんよ」と笑っている。

「誰から教わったんだい」

「大人もよく知ってる冠廉ですよ」

白蘭地(ブランデー)は哥哥より姐姐(チェチェ)のほうが強いという。

雅瑪(アルマニャック)の拉基城堡(シャトー・ド・ラキー)、科涅克(コニャック)の人頭馬(レミーマルタン)などが時々外甥(ワイシォン)梁冠廉(リィアングァンリィエン)から届けられてくる。

妹妹の老大(ラァォダァ)の冠廉は姐姐(チェチェ)の後継者で、今でも姐姐(チェチェ)と慕って豊紳府へやって来る、決して姨(イー・おばさん)とは言ったことがない。

 

そのころ娘娘の居間では届いたばかりの伊太利菓子の餡餅(シャーピン・クロスタータ)に胡椒面包(フゥヂィアォミェンパァォ・パンペパート)で嘉慶六年の十一番老延寿が振舞われている。

味見を兼ねて哥哥と公主が朝に封を切ったもので二人は満足できるとお客を呼び寄せ、伊太利菓子の注文も出して取り寄せた。

伊太利菓子(意大利イーダァリィ)が店の名で買う方は伊太利亜菓子となぜか広まっている、周徳海(チョウダハァイ)は「どっちでもいいさ」と鷹揚だと云う。

おっかさんも嬉しそうに茶の香りを楽しみ、胡椒の香りに酔っている。

海燕(ハイイェン)は十一番老延寿と餡餅のチョコレートの風味に酔っている。

飯店の出す餡餅は野菜や肉が入っているが、こちらはチョコレートが挟んである。

二人は「お酒よりよっぽどいいわ」と言い合っている。

チョコレートの風味に弱い香鴛(シャンユァン)は「二人に絶対お酒を勧めないわ」とお冠だ。

「いいわよ。でもこのお茶に負けないものを用意してね」

口争いでは年下の海燕も負けていない。

雲嵐(ユンラァン)と蘭玲(ラァンリィン)は、子供二人の世話で忙しいが福恩(フゥエン)は公主と何やら論争している。

豊紳府はワイワイ賑やかで楽しむ人で溢れんばかりだ。

蘭玲(ラァンリィン)は公主が用意した小さな三つの壺を入れた深めの手提げ木箱を大事そうに抱え込んでいる。

と蓋に焼き付けられた字が浮かんでいるのが見える。

嘉慶六年十一番老延寿と縫い取りされた手巾が壺下にひかれていて「今朝小分けしたのよ」と娘娘から教えられた。

公主は封を開けた茶を風味が落ちないうちに別けようと、特別な壺を作らせていたのだ。

蜂蜜(ファンミィ)の小壺入りから思いついたようだ。

弟弟は自分の手柄なのに、引っ込み思案なので「分けろ」とは強く言い出せないのだ。

 

男たちは科涅克(コニャック)でいい気持ちで散会した。

通用門を出て隆副寺町興藍行(イーラァンシィン)へ四人で向い、範文環はしっかりした足取りで左手の万寧橋(ワァンニィンチィアォ)へ向って歩んだ。

 

興藍行で権廉(グォンリィェン)は別れ際に「大舅子(ダァーヂォウヅゥ・妻の兄)とチィズ(妻子・つま)には名前の事を話してありますが、父母(フゥムゥ)と哥哥に了解を取りに行ってまいりやす」そう話して自宅へ向かった。

「中々の男の様だな」

「確り(しっかり)したもんでさ。あっしの留守は三人で店をまわすつもりでしたがあいつを独立させましょうか」

「いいのか」

「思いっきりも必要で」

「何をやらせる。水会(シィウフェイ)はまだ食うには難しいぞ」

「幸い飯店を買えというのが出ましてね。泊りは五部屋で少ないが店は十と五六は入れます」

「まだ結へは難しいか」

「兄弟はいいですが十人集まるかはどうですかね」

「じゃ、こうしょう。まず水会の寄合所が出来て、店も順調なら俺と康演も一口のろう」

「孜(ヅゥ)に権榮(グォンロォン)、権洪(グォンホォン)の三人にあっしで占めて六人、後は孜(ヅゥ)に探させましょう」

「哥哥に漢(ハァン)の旦那を抜いたら怒られるぞ」

「そうでした。どうにかなりやすね。出かける前にあっしの分は証書を漢(ハァン)の旦那に預けておきます。姚淵明にまとめさせればいいですか」

「そうしよう。これで前門(チェンメン)を漢(ハァン)が引き受けてくれば問題解決だな」

「旦那は自分の仕事を減らしているのに怒りやすぜ」

「難しい頼み事は哥哥に丸投げさ。それより権榮って誰だ」

「いやですぜ。孜(ヅゥ)の一番上でさぁ」

「確か兮(シィ)じゃないのか」

「ありゃあだ名で榮が親が付けた名でさぁ。最も兮のほうが有名になっちまいました」

「偉い人は字(あざな)があるから孜(ヅゥ)の哥哥二人は偉い人と同じだな」

三人は笑って別れた。

   

豊紳府・公主改築予定図・嘉慶六年~十年


鈕祜祿氏,滿洲正紅旗人、三等輕車都尉世職。

殷徳の字は天爵、号は潤圃さらに天爵道人とも伝わる。

哥哥こと和孝(ヘシィアォ)は固倫和孝公主に合わせた創作で、二人の幼名は伝わっていない。

和信も創作だがモデルはいる。

和孝公主與豐紳殷德婚後非常恩愛並生有一子(約出生於乾隆五十八至六十年間)

惜孩子於嘉慶二年夭亡,此後再沒有生育。

宜綿の号は存谷(有谷)だが字ではなく又名良輔、さらに伊綿とも伝わる。

 

第三十七回-和信伝-陸 ・ 2023-01-23

   

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

・和碩親王(ホショイチンワン)

世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅郡王(ドロイグイワン)

長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅貝勒(ドロイベイレ)

・固山貝子(グサイベイセ)

・奉恩鎮國公

・奉恩輔國公

・不入八分鎮國公

・不入八分輔國公

・鎮國將軍

・輔國將軍    

・奉國將軍

・奉恩將軍    

・・・・・

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

・・・・・

満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

・・・・・

   

 

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

     
     
     
     

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




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