豊紳府を出て興藍行(イーラァンシィン)に着いた時には辰の刻の鐘はまだ鳴っていない。
権廉(グォンリィェン)は範文環(ファンウェンファウン)と盛んに話をしていた。
與仁(イーレン)はいつものように笑って聞いているだけだ。
「ずいぶんと早いな」
康演(クアンイェン)が言うと首を振って時計を見た。
「八時二十分。まだ十分は有りますぜ」
毎日朝陽の上る時間が早くなり、同じ辰でも三日で五分は違ってくる。
「春分なら二時間刻みで合うのですがね」
時計なぞあてにできませんと文環が言うと「哥哥、鐘に頼ってちゃ時代に遅れますぜ」と廉が茶々を入れている。
この二人どうやら気の置けない間柄の様だ。
「春分には太陽、夏至には大地、秋分に月、冬至に空を祭ると決まってる」
冊子を出して「今年の春分は二月二十一日だとさ」と與仁(イーレン)が教えている。
「来年丙寅の分もあるのか」
積み上げた冊子から取り出して見せたら鐘が響いてきた。
「二月二日、龍抬頭の祭りの日だ」
範文環(ファンウェンファウン)は「なんですと。天文は何を考えてそんなこと」そうわめいてる、
康演は賑やかな奴だと思っている。
「落ち着きな。今年は閏が入るはずだ。一年が長くなるんだ」
冊子をめくると閏は八月としてある。
二十四節季の一覧を見れば閏も判るはずと康演は考えて「こいつ知ってて煽る口か」と思った。
頭分にはもってこいの様だとフゥチンを見ると頷いた。
阿吽の呼吸とはこの親子だ。
「ところで水会のことはどう思う」
「話は弟弟と與仁さんから伺いました、どうぞ世話しておくんなさい」
あっさりした男の様でこれなら哥哥の気に入るだろうとまたフゥチンを見た、「おいおい、お前さん細かいことも聞かされたのかよ」大人(ダァレェン)事平文炳(ピィンウェンピン)も気になるようだ。
「あっしにこまい事はむりでさぁ。こうやれああやれというお方がいれば幸いでやすぜ」
「妹夫(メェィフゥ・義理の弟)のリィェンが指揮してもいいのか」
「こいつならワッチの足りないところも塞いでくれまさぁ。ようがす。こいつを頭であっちが北側を受けあいますぜ」
東四牌楼の東西で二ヵ所と鴨兒胡同(ィアルフートン)に簪兒胡同(ツァンアルフートン)に寄合所を置いて権廉(グォンリィェン)が四か所の纏めをすると納得した。
二人とも手当てにいくら出るのだとも聞いて来ない、男意気に感じたというのだろう。
與仁(イーレン)が「銀(かね)の心配は俺がするから。手伝う男たちを探してくれ」と言い出した。
「なんだ何時お前さんが金方になった。どこかに銀(かね)でも隠してあるのか」
文環の言葉には皆で大笑いだ。
「銀(イン)がどうしたんですよう」
美麗(メェィリィー)が顔を出してきた。
「おやおや、耳が早い」
「だって昨晩つわりが来て、家の手当てを増やす約束をして呉れたばかりだから。相当ため込んでるのかと思って」
「三人目か。哥哥の言ってた日和見はよく当たるから男だろうな」
平大人は五人目とは言わなかった。
「わたしゃ女がいいよ」
「おれに言ってもなぁ。広州(グアンヂョウ)の日和見の言い分だぜ」
與仁(イーレン)ドキドキしている、河口鎮(フゥーコォゥヂェン)の事はしらを切れずに告白したが鎮江(チェンジァン)は黙っている。
「今年も広州(グアンヂョウ)のほうまで行くのかい」
「二月末の様子見だが鳳凰茶を首領(ショォリィン)様と買い付けるのが一番の遠出のはずだ」
平大人が今年も忙しそうだと「哥哥はどう言ってる」と聞いた。
「哥哥は命令が下らなければ動けませんから」
それもそうかと康演も頷いている。
ようやく腰を上げ、五人で興藍行を出たのは店の時計が八時五十五分を指した時だ。
通用門で五人で来たと話すとすぐに娘娘の部屋まで案内された。
居間には親子で入り三人は扉の前で声がかかるのを待っている。
娘娘の時計は九時十五分。
「そんなに掛ったかな」
「大人。これ三分一日で進むのよ。いつも昼に時計を合わしているわ」
「直りませんか」
「だってかわいいでしょ。時計が少し急いだって困るほどでもないわ。それにどうして今日に限って気が付いたの」
「興藍行(イーラァンシィン)を出る時五十五分だったのでね。いつもはそんなに掛らないはずで」
「それだけなの」
「春分の話しや、閏月の事も話していたもんで。それよりご新規さんの紹介を」
リィェンとイーレンに挟まれて表で待っていたが、呼び込むといきなり平伏した範文環は自分の名を告げ、頭が床に附くほど力が入っている。
「まぁまぁ、そんなに形式ばらずにお立ちなさい」
その声で唇は青ざめたが気張って立ち上がった。
「話は通じたのかい」
哥哥はどうやら気に入ったようだ。
「はい、妹夫(メェィフゥ・義理の弟)の下で役立たせて頂きます」
「水会(シィウフェイ)は刻を選ばないぜ」
「お任せくださいお話の寄合所に木版を下げ、呼び出しが有れば駆け付けます」
昨日聞いて、そこまでもう気が回ったこの男は使えると皆が思った。
「話が本決まりになれば地安門緊急の腰牌は出るはずよ。神武門は皇上(フォンシャン)のお許しが出れば水龍(シゥイロォン・手押しポンプ)運びこみの腰牌が出してもらえるわ。頭分は月に一度門内通行を義務とされるはず」
条件はきっと豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の隠密行動と引き換えの予感がする二人だった。
|