三月十八日(1814年5月7日)・五十一日目
今朝も朝はすぐき漬けで粥を食べ、卯の刻に“ みしま屋 ”から男山へ向かった。
太子坂を上り仮御堂(薬師堂)の右手をさらに上に向かった。
太西坊(だせいぼう)の両全と云う人はまず此方へと見晴らし良い裏へ案内した。
淀大橋、淀姫明神本社が桂川の向こうに浮かび上がる。
遠く京の家並が見え、稲荷山、比叡、鞍馬が見渡せた。
「筒井順慶が洞ヶ峠で様子見をしたと伝わりますが、ここの方がはるかに山﨑方面を見渡せますな」
新兵衛はあにいの遠眼鏡を借りて周囲を見回した。
「あれは作り話で御座いますよ。信用できない太閤記にさえ出てこない話で御座います」
幸八など「この洞ヶ峠を決め込むってのも作り事ですか。読み本は当てに出来ませんか」と不審げだ。
両全は「事実を二割ほど入れて面白話を半分、後はお涙にするか気宇壮大なお大臣ものに仕立てるんですよ」と可笑しそうに笑った。
「光秀殿が敗れた大きな原因は此処へ置いた兵を引き上げた事、朝廷との打ち合わせを優先したこと、大坂、堺を甘く見て手を打っていない事」
「なぜ堺を後回しに」
「安土を先に抑えることに軍を分散したので、頼りに出来る部下が少なくなったからでしょう。全軍で安土、坂本を守るか大阪まで進出して堺を抑える。金と食料を手にしなければ戦は出来ませんぞ」
片や仇討との名分が有る軍団、謀反と言う負い目の軍団、それも各地へ分散しては素人目でも勝ち目は薄いですなと言う。
「どうです。両全さんの軍談物は年季が入っていますぜ」
未雨(みゆう)に言われて「酒も飲まずに軍談は勢いが出ない」などと言っている。
石燈籠は両全の代で十三基に為っているはずだが全部は確認できていないという。
「今日の集まりは出られないので、巧院さんに怒られてしまう」
どうやら大事な客が着くようだ。
宿泊の人達が朝の参籠から戻ってきたので辞去して本社北総門への道へ出た。
右手へ回り西総門の楠で「昨日の大楠公の楠の一本です」と教えた。
築地塀は本社を取り囲んでいる。
「信長塀と言われます。信長公、秀頼公、大猷院(たいゆういん)様三人のお力で今に残ります」
西谷小門は栂ノ尾道だ、途中から橋本へも降りてゆく道が有る。
「八角堂は六百年ほど前に建造されましたが、壊れていたのを慶長十二年頃に秀頼公が再建されましたがまたも壊れています。元禄十一年に善法寺央清権僧正様の勧進により再建されました」
大塔へ出た。
西谷大塔は七間三尺八寸四方で二階の上に七輪の相輪が有る。
「高さが十三間五尺八寸だと言います。秀頼公の再建ですが慶長十年と慶長十二年の説が有るそうです、一昨年修理が施されました」
二百年を経て、何度か大修理が施されたようだ。
岩本坊は西谷小塔(多宝塔)跡だという。
享保十六年正月二日奥坊から出火し岩本坊も焼失し、此処へ移ったという。
「西谷小塔は待賢門院の発願で方三間四天柱を建て、長承元年に建立されましたが、正治元年焼失、建て直されたと言いますが四百年あまり過ぎた慶長元年に地震で倒壊しています」
南総門付近も宿坊が多い、参詣人の朝の参籠から戻って旅発つ人が見送られて出てゆく。
「参籠と言っているだけで実際は宿房から本社へ卯の刻に礼拝に出ているだけです」
「前夜からのお籠りじゃ無いのか」
「新兵衛様、相当なご身分の方でなければお許しが出ません。宿房で代わりを務めるんです」
元三大師堂では元三大師の坐像を拝観できた。
三尺(さんじゃく)に満たない坐像だが眼光鋭く参道を見ていた。
灯籠の間の石段を降りて琴塔へ向かった。
石段を上がり、塔を見て少し下がって伊勢遥拝所から琴に法輪を見上げた。
東谷宝塔院は琴塔の方が通りは良い、四隅櫨端に風鐸に並べて琴が吊り下げられていた。
「往古に一辺が五間四方有り法輪も建久三年に七輪を九輪したと記録が有るそうです」
慶長五年秀頼公宝塔院再興、慶長十一年宝塔院宝塔(琴塔)再建だと云う、二百年が過ぎた今も華麗な様子に一行は見とれている。
宝塔(琴塔)は縁を四面に廻らせて有、南面は五間の蔀戸、二階部分は三間、中に板戸が挟まれて両脇に連子窓、四隅の小さな琴が目立っている。
昨日の巫女が東門から石段を降り参詣者を送り出している、此方を認めると「今日も御参詣ですか」と尋ねた。
四郎が「今日は宿坊めぐりだよ」と答えている。
「大日様と毘沙門天を拝みなされ」
答えも待たずに侍僧に「拝観」と声を掛けた、どうやら格が高い巫女の様だ。
北面には毘沙門天、南面胎蔵大日が安置されていた。
兄いは侍僧と巫女へお捻りをだし、未雨(みゆう)が手早く“ 拝観志納 ”と書いて南鐐二朱銀をだすと侍僧に見えるようにして包んだ。
次郎丸まだ南鐐二朱銀が残っているのかと驚いた。
兄いは幸八と藤五郎に“ さのや ”で豆板銀の重さの不揃いを集め、お捻りへ二つ入れて四十個くらい拵えていた。
四郎と新兵衛は「もう用意しておくのか」と驚いていた。
「兄貴が兄いを銀(かね)の管理の頼みにするはずだ」
今更のように言っていた。
護国寺仮御堂(薬師堂)への石段手前の橋は注連縄がはり廻られている。
巫女が「ささやきの橋で昔は此処へ水が流れていたそで御座いすよ」と教えてくれた。
手水舎の石鉢へ石清水の源から溢れるほど水が湧き出ていたという。
そこで巫女へ礼を言って別れて下へ向かった。
石清水社が右手にある。
元の水脈の源は東総門付近だと社僧が教えた。
今は此処石清水井が源泉だという。
鳥居を見ると寛永十三年とある、見ていた社僧は「お山で最初の石鳥居だ」と自慢した。
「京都所司代板倉周防さまご寄進で御座る」
次郎丸が読み上げた。
“ 石清水権現宝前石鳥居 ”
“ 奉為 将軍家御祈祷所令寄進之也 ”
“ 寛永十三年丙子八月 日 ”
“ 板倉侍従従四位下兼周防守源朝臣重宗
”
「よい字で石工の腕も素晴らしい」
「松花堂昭乗様の字で御座る。道向こうの瀧本坊でご住持されて御座った」
寛永三筆と言われるだけのことはあると感心した。
字体を変えて草書に楷書で彫られていた。
続いて四郎に新兵衛も眺めている。
「拓本を取って手本にしたい字で御座る」
新兵衛は字に惚れたとまでいって見入った。
兄いは二人の社僧にお捻りを渡している。
遠州に昭乗所縁の宿坊は多い“
茶室閑雲軒 ”は安永二年正月二十五日に焼失したという。
東崖に飛び出して作られたそうだ。
「清水(きよみず)に似ていますね」
懸け造りはそれに習ったのだろう。
宇治方面や巨椋池が一望できるのだという。
胡蝶坊へ向かった。
「其処は橘本坊(たちばなもとぼう)と言います。八幡太郎義家公の甲冑が納められていたそうですが火災で金具の一部を残すのみだと言います」
市殿坂の場所だ。
宝暦九年二月九日に客殿から出火、新坊、井關坊、閼伽井坊、杉本坊、岩井坊、祝坊,櫻井坊を合わせて全焼した。
昨日見た景清塚の手前に石清水井から出た流れが有る。
手前で右手に入ると松花堂、胡蝶坊迄廻って市殿坂を下った。
今田町と言う場所の金剛寺へ寄った。
未雨(みゆう)の俳句仲間が四十人ほど集まっている。
住持は「鱧鮓に鯖鮓が百人前も届いた」とあきれている。
「半分は周りへ配ればいいでしょうよ」
それを言う間も有らば「炭山(すみやま)様からのご注文ですと大きな箱が三段届いた。
そのスミヤマは「私に任せるというたに誰です注文したのは」と騒いでいる。
「先払いして有ると届けてきた伏見の
“ ようすけ ”“ たんば ”が言っていたから問題ないよ」
住持は落ち着いたものだ、ご近所に小坊主が配りに出た。
一行は集まった俳諧の連へ顔出しし、未雨(みゆう)を置いて別間で昼食(ちゅうじき)にした。
太巻きの乾瓢に卵焼きが旨い。
未雨(みゆう)が若い男を三人連れてきて「庸(イォン)さんの鳥が食いたいというのですが、今晩一緒させていいですか」という。
三人なら間に合うだろうというと六人だという。
「誰か頼んで“ みしま屋 ”へ手紙を届けて貰えよ」
次郎丸が増えた人数と用意を頼むと書いて未雨(みゆう)へ渡した。
三人が揃って「“ ありがたやでございます
”」と言うではないか。
「“ 流行りものには目がない
”人たちだね」
次郎丸に言われてうなずき合って四人で出て行った。
新兵衛も此処まで来て何かの符丁だと気が付いたようだが訊ねてはこない。
未の下刻に散会したようで三々五々寺を出てゆく。
「もう終わりなのかい」
「朝の辰から始まっていたそうです」
残った六人と淀大橋から城下を抜けて“
みしま屋 ”へ向かった。
年寄も歩くというのを次郎丸が「空籠についてこられてもはずかしいから乗ってくれ」と頼んで乗らせた。
その晩のユーリンチィ鶏の素揚げは想像を絶する旨さだと兄いも驚いている。
「油をおごったのと平底の鍋が届いたおかげです」
油はねを抑える返しが付いているのだという。兄いはさっそく台所で画にしてきた。
「猪四郎にたくさん作らせて酒田迄送らせる」
「なぜ酒田で作らないのだ」
四郎は「送料も馬鹿に出来んぞ」と言っている。
「送るのはほかの荷と一緒。俺たちが戻るころには荷が追い付きますぜ」
今晩は筍の旨煮が出たが「昨日の焼き筍は旨かった」に年寄が食べたいというので主が台所で焼き上げてきた。
「早いね」
「こいつは自分用に熾火に差し込んでおきやした。ついでに三本差し込んできたので希望が有れば出しますぜ」
新しい五人の客が食べるというので主はさっそく台所へ出向いた。
「師匠は良いのかい」
その中の一人が言うのに「昨日食べたし明日宇治へ出れば鮎と筍飯が出るだろう」と話している。
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