第伍部-和信伝-肆拾弐

第七十三回-和信伝-拾弐

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年三月十三日181452日)・四十六日目

ひょうたんや染八 ”を辰(七時頃)に出立した。

佐野に入り和泉屋食野佐太郎の豪邸前へ出た。

巳の鐘(九時三十分頃)が聞こえてくる。

「ここかね、千人に冷や飯食わせたとか、千人に傘を貸したとか話の大きいのは」

幸八が大きな声で藤五郎と話している。

新兵衛は噂で紀州藩が金を借りた手前、殿様は必ず参勤の時挨拶されると言われているので気にしているようだ。

いろは蔵が立ち並んでいる。

「借金の替わりに菩提心院様から巌出御殿を譲り受けたなどあらぬ噂が御座る」

「だが、あの御殿は豊太閤が建てたのを南龍公様が移築したと出ていたぜ。五十年も前に取り壊したはずだ」

「御存じで」

「読み本の類で食野(めしの)が春日出新田へ移築した云うのを読んで気に為った」

冷や飯、傘の類だと次郎丸は新兵衛に言う。

「なぜそのような話に」

「浪速のもんの噂話だ。食野の威勢を煽っているんだ」

淀屋でこりましたがこれもですかと藤五郎は呆れている。

「噂も読み本に為りゃいずれ本当だと信じるやつが出る」

此処のことだろうが季節が違うなと万葉を思い出した。

“ 秋風の 寒き朝明を 佐農の岡 越ゆらむ君に 衣貸さましを ”

あきかぜの さむきあさけを さぬのをか こゆらむきみに きぬかさましを

橘屋唐金家も井原西鶴に“ 泉州に唐かね屋 ”と書かせるほどの威勢を誇った。

南堀江橘通はこの橘屋唐金家(からかねけ)の蔵が並んでいる。

唐金家、矢倉家と強い姻戚関係で結ばれ、北前船で財を築きあげた。

持ち船は五百石以上の船が一時は百艘を越えていた。

尾張、紀州の小早はこの三家の所有する船の数に負けるほどだ。

何と岸和田藩九浦の小型の漁船を含めた総数の三割がこの三家の持ち物だ。

岸和田藩五万三千石、岡部美濃守長慎は享和三年1803年)に十七歳で家督を継いだ。

それ以来藩の借財に苦しむ年月が続いている。

参府-丑卯巳未酉亥六月。

御暇-子寅辰午申戌六月。

藤五郎たちが先へ進んで次郎丸と新兵衛が湊の船をまだ見ていた。

もうじき春も終りだというのに褞袍を羽織った五人ほどが息せき切ってやってきた。

「やいさんぴん」

次郎丸どう見ても軽輩の息子程度だ。

「何用だ」

「おいさんぴん。ここをどこだか知って旦那の悪口叩きやがるのか」

だれか聞きつけてこいつらに告げたようだ。

「冷や飯千杯のことか。褒めたつもりだが」

「浪速の読み本だと抜かしたそうだな」

喧嘩慣れしているのか、いきなり頭突きをかましたのでひょいと脇へどいたらすっころんだ。

「乱暴だな」

「なによ」

周りを取り囲んで騒いでいると、四郎が飛び込んできて立ち上がった頭分の頬をはり倒した。

「四郎、乱暴はいけねえよ」

「兄貴」

「どうやら伝法の伝吉の身内らしい。怪我さしたら可哀そうだ」

「若旦那を気安く呼ぶな」

藤五郎を未雨(みゆう)が抑えているのが見える、幸八はあにいが抱き留めている。

蔵の間から大きな男たちが飛び出してきて間に割り込んだ。

「こいつら」

終りまで言わないうちに「若旦那の知り合いだ」と大きな声で叫んだ。

「家で茶を振る舞いたいそうです」

ついてくるのも待たずに松が見事な屋敷門へ歩いてゆく。

「やれやれ。茶の湯でも付き合えと言うのか」

新兵衛と四郎は何やら小声で話している。

未雨(みゆう)たちも仕方なさそうに後からついてきた。

門を入ると「どうぞ」と家へ入るように勧めた。

小女が居て案内に立ちあがった。

草鞋(わらじ)と足袋を脱いで上がった。

大きな屋敷だ、廊下を進むと中庭が有り脇の部屋へ通された。

「若さんと言うお方は」

「俺だが」

「主と若旦那がお話有るそうで茶室へどうぞ。後の方は此処で茶なと出しますのでお寛ぎください」

その茶室からいなせな男が出てきて「師匠水臭い」と声を掛けて引っ込んだ。

どうやら未雨(みゆう)とも知り合いの様だ。

大刀を四郎に預け庭へ降り、路地の蹲(つくばい)で手を清めた。

躙口(にじりぐち)から入ると炉の茶釜から湯気が出ている。

黙って茶をたて、次郎丸にだしたので飲み干した。

作法など無用でと主が言って御座をかいた。

「お初にお目に掛かるが、息子から若様のお噂は聞いております」

「いやはや、とんだ道楽者で御座ります。剣の免許もやっとの駆け出しで御座る」

「お目に掛かれて“ ありがたやでございます ”先日堺で信様にお目通りしたおり、お人柄をお聞きしてお会いしたいものと。息のあるうちにお頭にお目に掛かれてこれが本当の“ ありがたやでございます ”」

鉄之助爺が言っていた三番だが金庫番と言う人の一人だろうと思い出した。

「息子にもいい機会なので話すことが出来ます。信様、喜多村新之丞様のお許しで我が家の預かる金銀は國事に何時成りと取り出させます」

そういって眼光鋭く「これ伝吉、三番蔵に金五十貫、四番蔵に銀二百貫、これは預り金で定栄(さだよし)様の御下命が有れば取りだすのだ。五番蔵はご先祖が儲けた分だから相続したらお前の好きなように使え」

「大事にしろじゃないのでとっつぁん」

「大事にするのは貸金と北前船だ。こいつは大勢の生活がかかっているからな」

貸金は取り立てが強く(きつく)なると相手がつぶれる危険もあると教えている。

「分家に一統も十分儲けている、遊びに狂わなきゃ困ることもない」

皆さま飽きておられるでしょうと広間へ揃って出た。

「金さん」

「伝よ。落ち着いたようだな」

ふでや ”のおっかさんが言う話で大坂へ聞いたら未雨(みゆう)師匠の案内で紀州へ向かったと聞いたぜ」

ふでや ”とも縁が有るようだ・

「未雨(みゆう)とも知り合いなのか」

さのや ”で何度かお目に掛かったよ」

江戸の頃ではない様だ。

「もしかして西湊の はつのや ”も縁続きか」

「聞いていないのですか。師匠なら系図が書けるほど知っているはずですぜ」

未雨(みゆう)は苦笑している、京からこっちの爺の連絡網だと思ったがそれ以上の役目も有るようだ。

「昼を一緒に」

「今日は髙師浜の“ ふでや ”へ泊まるつもりだ、まだ五里も有る。先へ行かせてもらうよ」

「なら昼飯代をお土産に」

文箱から二十五両の封金を四つ出した。

一つに一分金百枚包んである。

「あにい荷が増えたぜ」

未雨(みゆう)が仕方なさそうに振り分けに入れた。

南鐐二朱銀の小さい封金も見えた、南鐐三十二枚と未雨(みゆう)の字で書いてあった。

「やっと減ったのに参るぜ」

幸八も嘆いている。

「百両が昼飯代とはさすがに豪儀だ」

新兵衛は呆れている。

貝塚の宿場で午の鐘を聞いた。

岸和田宿弁天一里塚迄佐野から二里二十丁、城下を抜けると忠岡に入る。

二里十丁で髙師浜の“ ふでや 申には一時間ある。

「佐野からお使いが来られました。穴子を仰山買いましたえ。助松へ鱧鮨の旨い店がおますんえ。買いに行かせてますえ」

未雨(みゆう)すっかり伝吉に見抜かれている。

四部屋に分かれた。

三月十四日181453日)・四十七日目

朝卯の下刻(五時四十五分頃)に堺へ向かった。

大和川の付け替えから百年、四年前から新しい湊の工事が始まり、千石船が三十艘は石堤近くに舫っている。

小早は砂浜近くまで澪標頼りに寄ってきている。

戎島の燈台は大きい、島へ入り、島の北の石堤先へできた新田を一回りした。

「この土はみな川からの土砂だそうだ」

戎島が大きくなりだしたのは大和川付け替え五十年ほどたってからと云う。

橋を渡ると米市場が有る、大小路から市ノ町で南へ戻り大町へ向かった。

住吉橋へ向かい大坂堺は大丁浜新町“ まつや ”に宿を取った。

身軽になって草履を履いて昼を食べに山之口へ向かった。

「穴子を食べるなら出島穴子屋筋では」

「新兵衛様。噂は噂でね。たくさんある中から選ぶより、此処しかないという店ですよ」

五十人は入れる追い込み座敷は人で溢れていた。

たけや ”と言う店の仲居は愛想もよく庭寄りの卓へ案内した。

「珍しいな」

「でしょ。長崎風だそうでね」

座敷の中で卓は三か所、それぞれ七.八人は周りに座れる大きさだ。

「清国や阿蘭陀では椅子に座ると聞いた」

新兵衛が画で見たという。

「縁台ならともかくあちらさんのように一人がけの椅子は落ち着きませんや」

注文も聞かずに一刻(十五分くらい)で丼の穴子飯が出てきた。

茶は出ず、小椀の薄味の汁がやけにうまい。

食べ終ると勘定を廊下でし、札を貰うと下足番に渡し、四文銭七枚を渡すと草履(ぞうり)をそろえてくれた。

勘定して店を出るのにもあっという間で、その間に次の客が呼ばれて卓に着いている。

「酒は商わないのですか」

「ここは穴子と穴子の骨の出汁だけですよ」

「あのやり方なら食い逃げも出来ないな。二日続けて美味い穴子で良い思いが出来た」

「今晩は穴子の天ぷらに穴子鮨」

「おどかしなさるな」

この頃の堺奉行は松浦伊勢守忠。

堺奉行から京都西町奉行へ転任、そして勘定奉行へと出世の階段を上った。

その伊勢守が織田信節と宿へやってきた、三人で庭の茶亭で話したいという。

「次郎丸殿。やっと江戸へ戻れることが決まった。昨年は一度江戸に呼び戻されたがまた京(みやこ)へ追いやられようやく片が付いて来月に江戸へ下向する。次郎丸殿は頭に馴れたかな」

「ほんの駆け出しで助けられてばかりで御座います」

伊勢守は「堺奉行と言っても事務処理ばかりの駆け出し奉行だ。京へ行ったり大坂へ出たりと馬が頼りじゃよ」と良い笑顔を見せた。

「京町奉行の次は伊勢殿が受け継ぐことに為るので、今のうちに顔繋ぎだ」

京町奉行はほぼ五年と任期が長い。

「それでのう。指印だが一番と決まったのを伝えに来た。わしゃどうやら八十過ぎ迄死なんらしい」

「それはおめでたい話で」

「死ぬまで大樹様にこき使われるということじゃ」

信節(のぶとき)この時六十八歳、持筒頭、普請奉行、作事奉行、大目付には七十六歳で就任し九年務め、さらに留守居に転任、八十七歳まで生きた。

家斉は六十九歳で死去したが、信節(のぶとき)より八年長く生きた。

三月十五日181454日)・四十八日目

堺は環濠に囲まれている、南北三十丁、東西十丁だが海が土砂で遠のき新たな街が周りへ広がってきた。

大坂 さのや ”まで大和橋から四里ほど。

兄いは重いと感じたか「紀州駿河屋の羊羹です」と紀州土産を持ってきたかのごとく渡している。

未雨(みゆう)を供に蔵屋敷へ向かった。

淀屋橋で中之島へ渡り堂島川は大江橋を渡った。

風呂敷を受け取り、用人の倉田光衛(こうべい)へ取次を頼んだ。

駿河屋の羊羹を二棹出し「紀州の駿河屋が本店の看板を掲げて居りましたので買い入れてきました」と前へ置いた。

「仕事は何事なく済んだか」

「家老三浦長門守様ご引見くだされ、領内案内までつけてくだされました」

「左様か。江戸へ戻られたら殿にもわしの事も良しなに伝えてくりゃれ」

「かしこまって候」

さのや ”へ戻って「我が藩の蔵屋敷用人はかたぐるしくて往生した」と新兵衛に話した。

「宿の主の話では明日は昼船で淀まで上るそうですよ」

「それなら酒を多めに飲んでも大丈夫だ」

「未雨(みゆう)師匠の為に鱧鮨を買い入れたそうです」

その晩は雀鮨に鯖鮨も並んだ。

三月十六日(181455日)・四十九日目

一行の乗る八軒家浜を出る昼船は卯の下刻に出るという。

「午じゃないんで」

「いくら十六夜でも午じゃ淀で暗くなる。その先へ上るのは難しい」

一番船は寅の刻(陽暦五月三時)に出て行く。

卯の刻に さのや ”を出た。

尼崎屋市兵衛の舟に七人の他は、荷の梱が積んである。

船頭は十二人いる。

「借り切りと同じだ」

幸八は草鞋を脱ぐと懐へ入れた。

下ってくる舟からはぞろぞろ人が降りて雁木を上がって行く、その間を縫うように川の中ほどへ出て上へ舳先を向けた。

桜の宮で六人降りて帆柱から伸ばした綱を引いた、人足も呼んで手伝わせている。

木村堤を長柄の三ツ頭まで一里ほど引くのだという。

近くを歩く旅の者とほぼ同じくらいで引いてゆく。

船頭が舟に戻ると東の岸へ舳先を向けた。

毛馬から赤川までまた曳き舟に為る。

兄いは煮売り船を呼んで田楽餅を船頭たちへも振る舞った。

尼崎屋市兵衛が用意した、握り飯と瓢の水で餅を食うと腹は満杯だ。

十八丁程で赤川へ着くと船頭は船に戻ってきた。

対岸の柴島へ渡した船は帆を張った、弱いが西寄りの風が船の上るのを助けてくれる。

綱を引く船頭は一度船に戻り、入り江のような川筋の場所を越すとまた降りて綱を引いた。

柴島から江口そして三島江、ほぼ三里だとかじ取りの親父が教えてくれた。

風を受けて綱役も楽になったようだ、対岸に街道が近づいてくる。

「あそこは土居村、先に守口宿(しゅく)」

未雨(みゆう)に言われて東海道分間絵図が頭に浮かんだ。

「東海道分間絵図では家並が少ないが」

「そうですね。本陣一軒に旅籠は三十軒がいいところですね」

この後出る東海道宿村大概帳に宿内往還二十一町三十一間、宿内街並南北十一町五十一間、問屋場一軒・本陣一軒、旅籠二十七軒と出ている。

立場が見えると対岸の松が鼻へ舳先を向けた、此の辺り船の往来が多くなっている。

普段の川幅三百間以上と言われる場所だ。

伊加賀村は立場と聞いたが家並は多い、京へ上る人の数の多さに兄いも驚いている。

「旅人と言うより京へ荷を運んでいるんですよ。船より人の手の方の賃金が安い」

これだけ人手をかけて綱を引けば、下りの倍でも安い船賃だと次郎丸は思った。

「よく聞くのは綱引きが大変だから可哀そうだ。大坂から京へは歩くという人がいるのですがね。駕籠と同じで使わなきゃ銀(かね)に為らずに困る人たちです」

松が鼻から三十丁あまり上ったか、午の鐘が川の両方から響いてきた。

鍵屋浦で兄いは船頭や曳役に焼き餅と甘酒を振る舞った。

次郎丸は甘酒だけにした。

過書船の船番所は監視をしても不審な舟以外は顔なじみで、伏見船船番所ほど厳しくは無い。

苫をはずして役人が来るのを待ち検閲は簡単に済んだ。

くわらんかに纏わられる舟が多いがこっちには寄ってこない。

「こないね」

新兵衛は不思議そうだ。

「この帆の脇に下がる布の黒筋が見えるでしょ。こいつは寄りなさんなと言う合図ですよ。来てくれと言うときは船頭の竿先に白い旗をくくります」

淀川で五里、街道七里だと未雨(みゆう)は幸八、新兵衛と話している。

「淀小橋まで乗るのもいいが、面倒でも橋本で降りるように話してある」

「そういゃあ、道中記などは橋本には旅籠も有ると出ているが」

「商人宿に、巡礼宿なのだ。泊まれるが追い込みの相宿が多くてな」

「たまには良いだろうに」

次郎丸に言われて「若さんや四郎さん、新兵衛さんは耐えられますかねえ」と未雨(みゆう)が笑う。

「なにがだ」

「隠れ飯盛りでね、屏風の陰で合戦始まりますぜ」

「そりゃ辛い」

兄いは大笑いだ。

「二里歩いても飯盛りと縁がない“ みしま屋 ”がいいと さのや ”の親父(おやじ)が言っていましたぜ。良い飯食わせるそうですぜ。隣が宿泊用の旅籠に為っているそうでね」

「兄い、なってるじゃなくて取ってあるだ」

「連絡付いたのかね」

「尼崎屋市兵衛では三部屋抑えてあると言ってた」

枚方の宿場は東見付から西見付で東西十三町十七間。

枚方本陣池尻善兵衛、家老専用本陣中島九右衛門、脇本陣二軒銭屋籐四郎、河内屋与左衛門。

問屋場が二か所、旅籠は三十二軒と道中記に有る。

高札場は三か所、船番所二か所。

紀州公七里飛脚御小屋、町飛脚が有り、民家は三百五十軒ほどだと有る。

対岸大塚へ棹と帆で向かい、檜尾川迄綱を引いて上り、前島でまた鵜殿(うとの)迄綱を曳いた。

対岸の楠葉でまた曳役が降りて橋本まで来た。

此処で舟から降りて木津川を越えて淀へ向かう。

兄いの時計で午後三時二十分、九時間と三十分掛かったと新兵衛に話している。

街道を辿れば高麗橋から淀まで十里十二丁、伏見まであと一里十四丁。

三十石舟の夜船の下りで三刻(平均六時間)あまり、上りは昼船で六刻(平均十二時間)。

下りは船頭四人に乗客二十八人がお約束。

八軒家船着場から伏見は十里十三丁余。

有徳院様の時、八軒家船着場から伏見の上り百七十二文、下り七十二文だったが値上げが決まって居る。

淀は町並東西十四町五十七間余,人口二千八百四十七人,家数八百三十六軒。

旅籠屋十六軒と以外に少ない、人口が多いのは淀船五百艘が此処へ登録しているからだ。

本陣、脇本陣がなく納所町人馬継問屋場は定百人、馬百疋,そのうち定囲は五人馬五疋で臨時御用囲が二十五人馬十五疋。

未雨(みゆう)は船頭に南鐐二朱銀を三枚出すと「こいつでうまい酒でもだしてやれよ」と渡した。

狐渡しは二十人ほどが渡し船の到着を待っていた。

男山八幡宮はここから東へ二十丁程に見えるが参道は少し上から回り込むようになる。

その参道は科手(しなで)にあった。

木津川土手の鉤手(曲尺手・かねんて)を右へ行けば淀大橋だ。

道中記には寛永十六卯年に架けられたとある。

「大猷院(たいゆういん)様が男山を建て直されたのが寛永十一年だ」

「でも、若さん寛永といゃあ百八十年ほど昔だ、橋は流されたこと無いんですかね」

「修理して大事に使っているんじゃねえのか」

木津川の淀大橋は幅四間ほどで、長さが百三十七間ほど有った。

淀姫明神の御旅所が右にある。

「山城与杼(與杼・よど)大明神や水垂(みずたれ)明神と出る画を見た。本社は桂川の向こうだが。淀小橋から見えるように東海道分間絵図に描かれていた」

孫橋の右手に池が有り弁天堂らしきお堂が有る。

突き当りの左手にお城が有るが宝暦六年(1756年)に落雷で天守焼失し、再建はされていない。

稲葉正備は文化三年1806年)三十二歳で淀藩十二万石の家督を継いだ。

屋敷町を抜けると宇治川の淀小橋に出るのだが、右回りに大回りが京街道だ。

小橋と言うが幅四間ほどで長さは七十間以上有る、此処も寛永十一年の架橋とある。

橋を渡って左へ行けば“ みしま屋 ”の見世がある。

その二丁程先角に納所(のうそ)町人馬継問屋場が見えた。

小橋の右手へ行けば伏見へ出る。

鱧は湯引きに薄口の醤油とスダチが添えられてきた。

鮎は塩焼き。

鯖鮨と鱧鮨も出た。

筍は丸で焼いたと目の前で皮を剥いでくれた。

「まるで未雨(みゆう)師匠の為の宴席だな」

「これで穴子が出たら大当たりだ」

小女は「今日は伏見へ取られましてまるっきり入らなかったそうです。海が近きゃ何とか出来るでしょうが」とさも残念そうに言う。

飯は少し冷ましたようで甘みが出ている「旅籠の朝飯と違って気が利いている」新兵衛は美味しいと三杯も食べた。

「庸(イォン)さんの鶏が懐かしいですね」

「おいおい、未雨(みゆう)師匠。これだけ好きなものが並んで無い物強請りかよ」

四郎に笑われている。

「庸(イォン)さんの鶏ってなんです」

新兵衛以外に食に詳しい、興味が湧いたようだ。

「清国の通事の人なんですがね。鶏を油で揚げたり吊るし焼にしたりといろいろ料理をしてくれたんですよ」

豆腐の餡かけにせせりを油で揚げて煮込んだのが旨かったと次郎丸も話に加わった。

「伏見の船宿澤田喜助さんの所のことですか。お客さん方が一緒だったのでしょうか」

小女が聞きましたという。

「うちの旦那が手伝った女中に来てもらって覚えましたよ。客人に評判で昨日もそれ目当てで来たお方が五人いました」

「おいおい、先月の二十三日だぜ。もう広まったのか」

まだあれから二十日あまりすばしこい人もいるものだ。

主に話したようで「明日にも用意しますので同じ味か試してください」と部屋へやってきた。

「清国の調味料は薬屋で手に入れるようだぜ」

「ウーシャンフェン(五香粉)と言ってましたよ」

兄いが手控えを出した。

八角、胡椒、肉桂、丁香、小茴香とあるのを主が書き写した。

「宇治では小茴香が手に入らなかったので代わりに大蒜(にんにく)で代用しましたよ」

「若さんと、台どこでこそこそしていたのはそれか」

「江戸で猪四郎に材料揃えさせようと思いましてね。あいつ新しい物好きだから自分で料理しますぜ」

主は「八角、胡椒、大蒜しか覚えてなかったんですよ。全部揃えりゃもっと旨く料理できやすね」と大乗り気だ。

三月十七日(181456日)・五十日目

朝はすぐき漬けで粥を食べ、卯の刻に男山へ向かった。

今日は房めぐりでなく本社まで行って戻る予定で出た。

淀大橋は京(みやこ)道、三条大橋から三里半と道中記にある。

昨日(きのう)見た参道ではなく大橋を左へ折れた。

川が曲がる角に西へ延びる道が出てきた。

突き当りに休み茶見世が軒を連ねている。

左へ行くと平橋が有りそこを渡った。

「安居橋(あんごばし)と言います、下は放生川(ほうじょうがわ)です」

右へ折れてすぐ橋が見えた。

「返り橋と言います」

返り橋は“ そり ”で太鼓橋。

「芭蕉翁は“ ゆをむすぶ ちかいもおなじ いわしみず ”と詠みましたが、残念ながらここではなく那須湯元で詠んだ句です」

那須湯本の温泉大明神は京都の石清水八幡宮を合祀。

一の鳥居と楼門をくぐって中に入る、右側に頓宮殿その先が極楽寺。

頓宮南門の先へ出ると先ほどの安居橋(あんごばし)から小路が続いている。

正面に二の鳥居、可愛らしい常夜燈が置かれている。

岩の間の道を進んでいくと小川に橋が有る。

七曲がりを上ると影清塚で二股に為っていて左へ進んだ。

石段を越すたびに道が広くなる。

一段と高みへ上る石段の先に南門と三の鳥居が有る、一の鳥居からぶらぶら来た割に三刻(四十五分くらい)ほどだ。

「三百九十六段も有ったぜ」

また四郎は喋りながら数を取っている。

橋本から此処へ直に通じる道は一刻半(三時間)程かかるという。

「一の鳥居は四百年ほど前の応永八年の木製鳥居から奉納され、二百年前の元和元年にも木製でした。寛永の大造営の時に松花堂昭乗の発案で寛永十三年に石鳥居となりました」

二の鳥居も木製朱塗から一の鳥居に遅れること六年、寛永十九年に石鳥居に為ったと未雨(みゆう)が続けた。

「実は二の鳥居は元和五年以前の記録がないのですが、ここ三の鳥居が最初の鳥居で応永七年七月十六日の建立と云われています」

朱塗金泥と豪華絢爛で石造りに為ったは正保二年正月と七十年ほど前だという。

「一度倒れたそうですが、安永七年に元の石材で建て直しています」

高さ四間一尺五寸、柱間四間だという。

馬場に為っていて宿房の名が刻まれた石灯籠が両脇に並んでいる。

「このうち四十くらいは今あるそうです。全国から来てここで参籠の方の手続きも代行します」

馬場の謂れは頼朝公流鏑馬奉納の古事によるという、南総門は四脚門石段下に五つ石が有る。

未雨(みゆう)は左手のお祓い所へ六人を導いた。

南鐐二朱銀十四枚と各人の名と、祈祷要請の願文の紙を三宝へ載せて社人へ渡した。

奉納舞に南鐐二朱銀十四枚を出し、昇殿参拝の案内を頼み南鐐二朱銀七枚を奉納した。

参拝用の草履を買い入れ、草鞋を脱いで箱へ捨てた。

此処で参籠御祈祷の届を出すと、順が来れば本殿に案内してくれる。

待機所(待合)では茶の接待を巫女がしてくれた。

「ここが香炉峰だという人がいるんですが。誰に聞いても謂れがしれません。中にゃ清少納言でも参詣してるのかなんて言います」

おいおい、肝心の男を忘れていると次郎丸に言われても思い当たらない様だ。

「八幡太郎と言えば思い出せないか」

「七歳の春に石清水八幡宮で元服した義家ですか」

「誕生したのが壺井の香炉峰の館なんだよ。いつの頃か支那(しな)の香炉峰と言う山になぞらえて風流人が付けたようだ」

新兵衛も此処へ来るまでに次郎丸の博識に馴れていて驚きもしない。

社僧の一人が慌てて書き留めている、これで自慢できるとの思惑か頬が緩んでいる。

巳の刻の鐘が下から聞こえてきた。

「上から聞こえるのは有るが、下から聞こえてきたのは初めてだ」

四郎は藤五郎と笑い合っている。

「五代目淀屋辰五郎の墓が有るそうだ」

二人は巫女から聞き出したようだ。

巫女は今田に住まいが有り、毎日卯の下刻に家を出てくると言っている。

「近道が有ります」

二の鳥居の先、橘本坊へ出てくるのだという。

「市殿坂は巫女の坂とも言います。朝に夕は巫女が列を為して行き来します」

番が来て巫女が案内に立った。

七段の石段を上り、総門をくぐると朱も鮮やかな本殿が大きく見える。

石畳が西へ斜めに伸びている。

「ちょっと変だ」

「若さんどうしました」

「都名所図會では右へ向かっていた」

巫女が笑って総門の石畳の縁を指差し「総門に背を向けて立てばわかりますえ」という。

七人並んで納得した、総門を作るとき西が本殿との間が広い、なので本殿に正対すれば左へ向き、総門にならえば右へ石畳が伸びるようにみえる。

石階の下で言われる侭に上を見れば左に龍、右に虎の彫刻が有る。

七段の段を上がり、草履を脱ぎ、足をぬぐって階を上がった。

側面の舞台で左手には御神矢、右手に五十鈴を持つ巫女が現れ、笙の音が聞こえると笛や太鼓の音も聞こえ舞が始まった。

宝剣を持つ二人が現れ優雅に舞って去り、五十鈴の音も涼やかに最初の巫女も去ると神官が奉書を広げ祝詞を奉じた。

回廊の東の階を降りて鬼門除けの石垣の説明の後、若宮社へ参拝し、右隣の姫若宮も参拝した。

「誉田別様皇女がご祭神どすえ、お名前は伝わっておりませぬ、若宮は大鷦鷯様がご祭神どす」

右角の水若宮は祭神が菟道稚郎子で誉田別様皇子と話した。

御本社の周りをまわりながら詳しい説明をしてくれた。

北総門・東総門・西総門は往古、鳥居が置かれていたという。

「その頃は南総門あたり築地(ついじ)も有りまへんどした。三の鳥居が総門のお役だったそうどす」

南総門へ来たとき午の鐘が近くで響いた、先へ進むと神官がたすき掛けで鐘を突いていた。

一廻りして東の総門下では楠の由来を語り琴塔の前で礼を言って別れた、兄いがお捻りを手渡していた。

右左に分かれ一行は護国寺仮御堂(薬師堂)への階段を降りた、来年には本堂も再建されるはずだという。

太子坂を下り二の鳥居へ出た、蓮池の脇を抜けて川沿いの茶店で甘酒と焼き団子を頼んだ。

「あの巫女さん説明にも力が入ってたな」

「わかさんが博識でそれを聞いちゃ一番の語り手を付けてくれたんだろうぜ。師匠も大分と語るし、十分先達が出来る」

「ここ十年毎年来ていますので顔も売れて来たんですよ、話は明日回る太西坊(だせいぼう)の両全と言う先達さんの受け売りですよ。江戸へ来たときゃ日がな俳諧のお仲間と宴席ばかりでね」

赤穂の大石内蔵助良雄の弟が太西坊の住職専貞だと言う。

大石にまつわる話はさんざん聞かされたと未雨(みゆう)は可笑しそうに話した。

川沿いを行くと左へ湾曲し土橋が有りそこを渡った。

淀大橋を渡り城下を抜けてみしま屋 ”へ戻った。

庸(イォン)さんの鶏は主自ら用意するという。

支度中なので申の下刻(六時頃)迄半刻程(七十五分ほど)待ってくれと言う。

食べ終わると主がきた。

「どうでした」

「旨い。だが庸(イォン)さんには及ばないのは油をかけるときの手順だろうと思う」

四郎の言葉につけたした。

「信殿はユーリンチー(油淋鶏)と言っていた。聞くと油を掛けるというより浴びせるようにすると皮がばりっとするそうだ」

「どう書くんで」

字で書くと行水より瀧行に近いようですねと言った。

「明日も出していいでしょうか」

未雨(みゆう)は「任せる」と渋い顔で承知した。

三月十八日(181457日)・五十一日目

今朝も朝はすぐき漬けで粥を食べ、卯の刻にみしま屋 ”から男山へ向かった。

太子坂を上り仮御堂(薬師堂)の右手をさらに上に向かった。

太西坊(だせいぼう)の両全と云う人はまず此方へと見晴らし良い裏へ案内した。

淀大橋、淀姫明神本社が桂川の向こうに浮かび上がる。

遠く京の家並が見え、稲荷山、比叡、鞍馬が見渡せた。

「筒井順慶が洞ヶ峠で様子見をしたと伝わりますが、ここの方がはるかに山﨑方面を見渡せますな」

新兵衛はあにいの遠眼鏡を借りて周囲を見回した。

「あれは作り話で御座いますよ。信用できない太閤記にさえ出てこない話で御座います」

幸八など「この洞ヶ峠を決め込むってのも作り事ですか。読み本は当てに出来ませんか」と不審げだ。

両全は「事実を二割ほど入れて面白話を半分、後はお涙にするか気宇壮大なお大臣ものに仕立てるんですよ」と可笑しそうに笑った。

「光秀殿が敗れた大きな原因は此処へ置いた兵を引き上げた事、朝廷との打ち合わせを優先したこと、大坂、堺を甘く見て手を打っていない事」

「なぜ堺を後回しに」

「安土を先に抑えることに軍を分散したので、頼りに出来る部下が少なくなったからでしょう。全軍で安土、坂本を守るか大阪まで進出して堺を抑える。金と食料を手にしなければ戦は出来ませんぞ」

片や仇討との名分が有る軍団、謀反と言う負い目の軍団、それも各地へ分散しては素人目でも勝ち目は薄いですなと言う。

「どうです。両全さんの軍談物は年季が入っていますぜ」

未雨(みゆう)に言われて「酒も飲まずに軍談は勢いが出ない」などと言っている。

石燈籠は両全の代で十三基に為っているはずだが全部は確認できていないという。

「今日の集まりは出られないので、巧院さんに怒られてしまう」

どうやら大事な客が着くようだ。

宿泊の人達が朝の参籠から戻ってきたので辞去して本社北総門への道へ出た。

右手へ回り西総門の楠で「昨日の大楠公の楠の一本です」と教えた。

築地塀は本社を取り囲んでいる。

「信長塀と言われます。信長公、秀頼公、大猷院(たいゆういん)様三人のお力で今に残ります」

西谷小門は栂ノ尾道だ、途中から橋本へも降りてゆく道が有る。

「八角堂は六百年ほど前に建造されましたが、壊れていたのを慶長十二年頃に秀頼公が再建されましたがまたも壊れています。元禄十一年に善法寺央清権僧正様の勧進により再建されました」

大塔へ出た。

西谷大塔は七間三尺八寸四方で二階の上に七輪の相輪が有る。

「高さが十三間五尺八寸だと言います。秀頼公の再建ですが慶長十年と慶長十二年の説が有るそうです、一昨年修理が施されました」

二百年を経て、何度か大修理が施されたようだ。

岩本坊は西谷小塔(多宝塔)跡だという。

享保十六年正月二日奥坊から出火し岩本坊も焼失し、此処へ移ったという。

「西谷小塔は待賢門院の発願で方三間四天柱を建て、長承元年に建立されましたが、正治元年焼失、建て直されたと言いますが四百年あまり過ぎた慶長元年に地震で倒壊しています」

南総門付近も宿坊が多い、参詣人の朝の参籠から戻って旅発つ人が見送られて出てゆく。

「参籠と言っているだけで実際は宿房から本社へ卯の刻に礼拝に出ているだけです」

「前夜からのお籠りじゃ無いのか」

「新兵衛様、相当なご身分の方でなければお許しが出ません。宿房で代わりを務めるんです」

元三大師堂では元三大師の坐像を拝観できた。

三尺(さんじゃく)に満たない坐像だが眼光鋭く参道を見ていた。

灯籠の間の石段を降りて琴塔へ向かった。

石段を上がり、塔を見て少し下がって伊勢遥拝所から琴に法輪を見上げた。

東谷宝塔院は琴塔の方が通りは良い、四隅櫨端に風鐸に並べて琴が吊り下げられていた。

「往古に一辺が五間四方有り法輪も建久三年に七輪を九輪したと記録が有るそうです」

慶長五年秀頼公宝塔院再興、慶長十一年宝塔院宝塔(琴塔)再建だと云う、二百年が過ぎた今も華麗な様子に一行は見とれている。

宝塔(琴塔)は縁を四面に廻らせて有、南面は五間の蔀戸、二階部分は三間、中に板戸が挟まれて両脇に連子窓、四隅の小さな琴が目立っている。

昨日の巫女が東門から石段を降り参詣者を送り出している、此方を認めると「今日も御参詣ですか」と尋ねた。

四郎が「今日は宿坊めぐりだよ」と答えている。

「大日様と毘沙門天を拝みなされ」

答えも待たずに侍僧に「拝観」と声を掛けた、どうやら格が高い巫女の様だ。

北面には毘沙門天、南面胎蔵大日が安置されていた。

兄いは侍僧と巫女へお捻りをだし、未雨(みゆう)が手早く“ 拝観志納 ”と書いて南鐐二朱銀をだすと侍僧に見えるようにして包んだ。

次郎丸まだ南鐐二朱銀が残っているのかと驚いた。

兄いは幸八と藤五郎に さのや ”で豆板銀の重さの不揃いを集め、お捻りへ二つ入れて四十個くらい拵えていた。

四郎と新兵衛は「もう用意しておくのか」と驚いていた。

「兄貴が兄いを銀(かね)の管理の頼みにするはずだ」

今更のように言っていた。

護国寺仮御堂(薬師堂)への石段手前の橋は注連縄がはり廻られている。

巫女が「ささやきの橋で昔は此処へ水が流れていたそで御座いすよ」と教えてくれた。

手水舎の石鉢へ石清水の源から溢れるほど水が湧き出ていたという。

そこで巫女へ礼を言って別れて下へ向かった。

石清水社が右手にある。

元の水脈の源は東総門付近だと社僧が教えた。

今は此処石清水井が源泉だという。

鳥居を見ると寛永十三年とある、見ていた社僧は「お山で最初の石鳥居だ」と自慢した。

「京都所司代板倉周防さまご寄進で御座る」

次郎丸が読み上げた。

石清水権現宝前石鳥居

奉為 将軍家御祈祷所令寄進之也

寛永十三年丙子八月 日

板倉侍従従四位下兼周防守源朝臣重宗

「よい字で石工の腕も素晴らしい」

「松花堂昭乗様の字で御座る。道向こうの瀧本坊でご住持されて御座った」

寛永三筆と言われるだけのことはあると感心した。

字体を変えて草書に楷書で彫られていた。

続いて四郎に新兵衛も眺めている。

「拓本を取って手本にしたい字で御座る」

新兵衛は字に惚れたとまでいって見入った。

兄いは二人の社僧にお捻りを渡している。

遠州に昭乗所縁の宿坊は多い“ 茶室閑雲軒 ”は安永二年正月二十五日に焼失したという。

東崖に飛び出して作られたそうだ。

「清水(きよみず)に似ていますね」

懸け造りはそれに習ったのだろう。

宇治方面や巨椋池が一望できるのだという。

胡蝶坊へ向かった。

「其処は橘本坊(たちばなもとぼう)と言います。八幡太郎義家公の甲冑が納められていたそうですが火災で金具の一部を残すのみだと言います」

市殿坂の場所だ。

宝暦九年二月九日に客殿から出火、新坊、井關坊、閼伽井坊、杉本坊、岩井坊、祝坊,櫻井坊を合わせて全焼した。

昨日見た景清塚の手前に石清水井から出た流れが有る。

手前で右手に入ると松花堂、胡蝶坊迄廻って市殿坂を下った。

今田町と言う場所の金剛寺へ寄った。

未雨(みゆう)の俳句仲間が四十人ほど集まっている。

住持は「鱧鮓に鯖鮓が百人前も届いた」とあきれている。

「半分は周りへ配ればいいでしょうよ」

それを言う間も有らば「炭山(すみやま)様からのご注文ですと大きな箱が三段届いた。

そのスミヤマは「私に任せるというたに誰です注文したのは」と騒いでいる。

「先払いして有ると届けてきた伏見の “ ようすけ ”“ たんば ”が言っていたから問題ないよ」

住持は落ち着いたものだ、ご近所に小坊主が配りに出た。

一行は集まった俳諧の連へ顔出しし、未雨(みゆう)を置いて別間で昼食(ちゅうじき)にした。

太巻きの乾瓢に卵焼きが旨い。

未雨(みゆう)が若い男を三人連れてきて「庸(イォン)さんの鳥が食いたいというのですが、今晩一緒させていいですか」という。

三人なら間に合うだろうというと六人だという。

「誰か頼んで“ みしま屋 ”へ手紙を届けて貰えよ」

次郎丸が増えた人数と用意を頼むと書いて未雨(みゆう)へ渡した。

三人が揃って「“ ありがたやでございます ”」と言うではないか。

「“ 流行りものには目がない ”人たちだね」

次郎丸に言われてうなずき合って四人で出て行った。

新兵衛も此処まで来て何かの符丁だと気が付いたようだが訊ねてはこない。

未の下刻に散会したようで三々五々寺を出てゆく。

「もう終わりなのかい」

「朝の辰から始まっていたそうです」

残った六人と淀大橋から城下を抜けて“ みしま屋 ”へ向かった。

年寄も歩くというのを次郎丸が「空籠についてこられてもはずかしいから乗ってくれ」と頼んで乗らせた。

その晩のユーリンチィ鶏の素揚げは想像を絶する旨さだと兄いも驚いている。

「油をおごったのと平底の鍋が届いたおかげです」

油はねを抑える返しが付いているのだという。兄いはさっそく台所で画にしてきた。

「猪四郎にたくさん作らせて酒田迄送らせる」

「なぜ酒田で作らないのだ」

四郎は「送料も馬鹿に出来んぞ」と言っている。

「送るのはほかの荷と一緒。俺たちが戻るころには荷が追い付きますぜ」

今晩は筍の旨煮が出たが「昨日の焼き筍は旨かった」に年寄が食べたいというので主が台所で焼き上げてきた。

「早いね」

「こいつは自分用に熾火に差し込んでおきやした。ついでに三本差し込んできたので希望が有れば出しますぜ」

新しい五人の客が食べるというので主はさっそく台所へ出向いた。

「師匠は良いのかい」

その中の一人が言うのに「昨日食べたし明日宇治へ出れば鮎と筍飯が出るだろう」と話している。

 第七十三回-和信伝-拾弐 ・ 2024-05-18

 
   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記