第伍部-和信伝-肆拾参

第七十四回-和信伝-拾参

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年三月十九日181458日)・五十二日目

朝、卯の刻(正刻四時十四分頃)に粥をしば漬けで食べて“ みしま屋 ”を出た。

淀小橋を渡ってくる人の列に混ざって三々五々伏見へ向かった。

三月も半ばを過ぎ歩くと汗ばむ陽気だ。 

半刻程で濠川と宇治川に分かれる肥後橋まで来た。

先へ進み高瀬川の小橋を渡り、高瀬番所先の濠川(ほりかわ)を阿波橋で渡った。

休み茶見世が有る阿波橋の畔で話し合うと、新兵衛一人を紀州藩邸へ向かわせた。

左へ折れて新兵衛が門番に「本藩の下条新兵衛と申す。河山様のお小屋へ通る」と告げて中へ入った。

脇門は出入りの人足で賑わっている、殿様御用の品々が先行しているのだ。

新兵衛は二刻(三十分)ほどで戻ってきた。

「宇治の“ きくや ”で待てとのことです。先触れでは明日草津を明け六つに発たれる予定で、七つ伏見藩邸入りと共に、申の下刻に参上せよと連絡が来たそうです」

この時期の夕七つは五時前後に為る。

「まず宇治まで歩けば、申の下刻参上に間に合う宇治を出る時刻も分かるという事だな」

昔の奈良街道の六地蔵よりも、大池小倉堤の大和街道で行くと決まった。

竹田街道下油掛町の駿河屋はもう店を開けていた。

豊後橋を渡ると向島と言う地に為る、大池(おいけ)を分断して小倉堤が南へ伸びている。

左が堤で分断された二の丸池、三軒屋という場所で大池から左へそれる道が出た。

「どっちがいい」

左は半里ほどの薗場堤(えんばつつみ)で宇治橋の上へ出る。

道しるべは“ すぐ ”とあり道なり奈良への大和街道で、宇治屋の辻から宇治橋へ出る。

どう転んでも豊後橋から二里は無い。

「聞いた話では十丁程の遠回りだそうです」

未雨(みゆう)に新兵衛が宇治は初めてだという。

「“ きくや ”は宇治橋の西、橋の近くだと言われました」

宇治橋西詰、橋姫の社に着いた。

藩邸から宇治橋まで二里十五丁程だったと兄いが時計を見ていう。

「まだ九時五十分に為ったばかりだ。阿波橋から二時間四十分で来ている」

「ならば明日は未の刻でも間に合うと」

新兵衛兄いに聞いて夏至の頃は昼間の一刻二時間四十分程度と覚えたばかりだ。

逆に冬至の頃は一時間五十分程度に為る。

昨日は立夏で夏至は五月六日だ、定時法で記録するのは天文方に江戸町年寄り位だ。

「いやいや、念を入れるなら午の下刻に出ませんといけません。阿波橋で刻をはかってお訊ねいたしましょう」

「あにいたちは伏見まで来るかい、宇治で待つかよ」

「ここはお三人で藩邸へ出てくださいよ。あっしたちは茶屋でもめぐります」

「商う茶と、遊ぶ茶のどっちだ」

次郎丸に突っ込まれている。

「宇治には花街は無いと聞きましたぜ。芸者も伏見や京(みやこ)から連れてくるそうですぜ。高瀬舟から乗り換えて宇治まで連れてくるお大臣が居るそうですぜ」

休み茶見世の脇にいた駕籠かきに“ きくや ”を聞くと、目の前を指差し、分かれ道を左へ二丁程だという。

行くと朝の掃除が済んだばかりの様で打ち水をしている。

主は「紀州様から三人頼むとご連絡が」と言っている。

四人余分に泊まれるか聞くと、一部屋なら用意するというので兄いが「頼んだよ」と女中に声をかけた。

三人には八畳の部屋を別々に用意されていた。

「一人一部屋は久しぶりだ」

四郎は「さすがは御三家の御威光は大したものだ」と言いながら新兵衛と連れだって次郎丸の部屋へ来た。

主が来て宿帳を出すのでそれぞれ自分のを書いて渡した。

料理旅籠とは言うが昼はやっていないという。

「どこか昼を食うに良い店は有るかい」

「飯屋かうどんや位です。後は料亭で御座いますが」

「饂飩で良いよ」

店の場所を聞いて七人で出かけた。

平等院の裏手の道、川沿いを川上へ五丁程、浮島の十三重石塔の有った跡が見える場所だ。

筍と油揚げの煮物が入る饂飩は旨い「これなら当分昼はこれで良いな」四郎は大分気に入ったようだ。

平等院を回り込んで町中を見て回った。

ひと廻りして橋の畔へ出た。

橋向こうを見て「信様の言っていた通圓ですね」と藤五郎が言う。

「おうすでも点ててもらうかい」

「茶だんごならまだ入りますが茶席はご勘弁」

「なら、其処の茶店がおあつらえ向きだ」

見目良い女がその声で「おいでなされませ」と出てきて言うので、つい縁台に座って団子まで頼んだ。

「先ほども来ておられましたが」

「伏見からこっちに回って来たのさ」

「紀州様の行列で込み合うとか」

今年はお茶壺の到着が早まりそうだと、茶の生育迄話題が豊富な女主(おんなあるじ)だった。

夕飯は時刻にご希望わと聞かれ「申の下刻あたりが好い」と新兵衛が言っている。

「明日は三人伏見の船宿へ泊まるようだ。殿さまご到着であいさつに参る」

主が部屋はどうしますというので「四部屋使えるならそのまま、客が押しかけてきても残りの者で二部屋あれば戻っても大丈夫だ。旅発ちは二十二日に為る」と新兵衛が答えた。

どうやら藩邸で行列の後へ着いてくるように言われたようだ。

兄いに「御希望の鮎はたっぷり用意できました」と主が伝えた。

鱧続きでげんなりしてきたようだ。

部屋が大きいので一部屋に集まり、戻りの日程を熱田まで決めた。

加賀藩の行列は江戸表を三月十六日、美濃街道から上街道。

鳴海から起宿、垂井で関ヶ原、柏原へ出て彦根番場宿を抜けて木之本、三十日に越前入りは連絡が来ている。

三月二十二日宇治から大津へ四里、草津へさらに三里二十四丁で七里二十四丁。

三月二十三日石部へ三里、水口迄さらに三里十八丁で六里十八丁。

三月二十四日土山へ二里二十五丁と坂下二里十八丁、関まで一里二十四丁で六里三十一丁。

三月二十五日亀山へ一里十八丁、庄野へ二里さらに石薬師へ二十五丁で四日市へ二里二十七丁の六里三十四丁。

三月二十六日桑名へ三里八丁。

三月二十七日七里の渡しで熱田、此処で三日滞在の予定。

「三月三十日熱田旅立ちならだいぶ楽旅だな」

新兵衛はこの一行の遊山旅すれすれの日程に馴れてしまっている。

「新兵衛様は御暇の後追いですので残念ですがお別れですか」

「一応藩邸で後始末のお供だと言われた。厄介かけねばいいのだが」

士分だけでも八百人はお供についていて五組に分かれて移動しているという。

一時(いちどき)に紀州、尾張、加賀の行列を引き受けられる宿場などどこにもない。

酒は一人二合までと決めて飯にした。

あゆ笹巻寿司、豆腐田楽、南禅寺とうふ、鮎塩焼き、小鮎天ぷら、鶏鍋。

膳を運んできた女中に藤五郎は田舎っぺ気取りで料理の名前を次々聞いている。

飯は筍飯が出てきた。

「いや、此の南禅寺とうふは旨い」

新兵衛め江戸へ来れば笹の雪の常連のくせにとぼけている。

「お客さん旅慣れているようだが国は何処だね」

藤五郎に聞いている。

「こっちの三人は出羽の酒田、向こうの三人はお江戸で、御一方が紀州の方だ」

「どういうお仲間なんです」

「其処の苦み走ったいい男がな、俺たちの俳諧のお師匠さんだ」

「あたいの爺様も俳諧好きで、この間も石清水様まで泊りがけで出かけたんですよ。お山に昔からの知り合いがいてよく手紙のやり取りをしています」

どうやらこの間の集まりに出ていたようだ。

名前を聞いたら堺屋助左衛門だという「俳号は」と聞いたが知らないという。

「爺様の父様も俳句師だとかかが言うとった」

「もしかして金剛寺で会っているかもしれないが、年頃はいくつくらいの人だい」

「確か六十六に為ったはず」

次郎丸が「ユーリンチィ鶏の素揚げの人じゃ無いのか」と言っている。

「あの人蕪村のお弟子で河原町四条上ルの人で寺村百池と云うんですよ」

蕪村の弟子なら年寄で当たり前かと次郎丸は笑った、蕪村死して三十年が経つ。

「それなら爺様に違いない、河原町四条上ルで糸物問屋がかかの家やもん」

未雨(みゆう)「ぬかったな。あのお年寄りか。初めて会ったんで詳しく商売まで聞くわけにゃいかんしな」と愚痴った。

新兵衛が「あの籠へ乗ってもらった人かね」と未雨(みゆう)へ問かけた。

「そうそう、あの腰の低い人ですよ。なんでも丸山応挙に画を学んだそうですっぜ。あの会の主催のひとりですよ」

「て、ことわだ。師匠とは付き合いなかったんだ」

「うちらみたいな下っ端とは格が違いますから。炭山(すみやま)さんと両全(りょうぜん)さんの伝手で顔出ししたんですよ」

炭山(すみやま)さんは蕪村の孫弟子だという。

自在庵道立(どうりゅう)がその師匠だという。

「蕪村の墓は芭蕉庵のある一乗寺の金福寺に有るのですがね。いろいろと句碑も残されていました」

憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥 ”芭蕉

花守は 野守に劣る けふの月 ”蕪村

西と見て 日は入りにけり 春の海 百池(ひゃくち)

「蕪村宗匠は春の海と言う語句が好きでお弟子さん達もよく此の語句で競いあったそうです」

春の海ひねもすのたりのたりかな ”蕪村

「この句を読んだときは四十七歳と聞きました」

「芭蕉庵と言うからには芭蕉の句碑は他にも有るのですか」

新兵衛も興味が湧いたようだ。

「探してみますぜ。夜半亭蕪村はお弟子さん方の協力で芭蕉庵を再建し、ともども句碑も建てています。この閑古鳥の句は嵯峨日記に出ています。芭蕉翁四十八歳の句だそうです。二十二日の項に“ ある寺に独居て云し句なり ”としてあります、ある寺と有るので滞在していた故郷伊賀上野ではなく一乗寺の金福寺だろうと言われております」

余談

閑古鳥は推敲前“ 憂き我をさびしがらせよ秋の寺 ”秋から夏の句へ変えた。

ある寺は長島大智院だと考証されているそうだ。

芭蕉は嵯峨野に有る去来の落柿舎を好んで滞在し、嵯峨日記を著している。

元禄四年1691年)、芭蕉は伊賀上野から奈良へ出て、大津から西嵯峨の落柿舎へ入っている。

佛日山金福寺は鉄舟和尚を芭蕉が訊ねたという伝承が残る。

蕪村が訪れた時、付近の村人が“ 芭蕉庵 ”と呼ぶ茅屋を見て自在庵道立らと語らい、安永五年1776年)再建した。

三月二十日181459日)・五十三日目

朝の粥は小茄子の漬物が付いた。

「茄子の季節が来たか」

「そんかわり、筍が育ちすぎて糠漬けくらいに為っちゃう」

母親から「これ御客様にそんな口叩いて」と叱られている。

未雨(みゆう)が祖父と知り合いと知れていっぺんに身内扱いの口に為った。

千枚漬けのかぶらは時期が終りに近く、辛いものが多くなるという。

娘の方は「寒さの強い(きつい)年ほど甘みが増すのんえ」と藤五郎に話している

「さて、昼まで暇だから橋姫と菟道の尊に御目見(おめみえ)と行こうか」

「若さん、菟道の尊は兄上に皇位を譲るために自殺された方ですか。本社の東に祀られていましたよね」

「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)様は此処で亡くなりそれで宇治という地名と云う話だ」

「その方、橋姫と縁でもあるのですか」

「幸八は都名所図會を見ていないのか」

「京で仕入れたのは全部送りましたぜ」

「兄いは前に見たよな」

「離宮八幡宮に祀られていると有りましたよ。隠居が船で話していた、橋姫に神が恋して通ったという離宮の神ですぜ」

親娘は「あの神さんが橋姫の思い人ですの、住吉さんと違うので」と驚いている。

「神社に何時祀られたか俺は知らないがね。瀧神とか川神という瀬織津姫(せおりつひめ)、宇治水運の守り神に住吉明神を鎮座させたんじゃないのか」

「三の間は夫婦で立ち止まるな、嫁入り道中は宇治橋渡るな橋姫さん焼き餅焼くといいますのえ」

「どこの土地でもそんな場所は必ずあるよ」

兄いが「相州江之島を知ってるかい」と親娘に聞いた。

「絵草子で見ましたよ、江戸の方が参詣に行く名所だと」

「そこの神様が弁天様でね、夫婦で御参りすると焼き餅焼いて夫婦別れに為ると評判さ、男参りと女参りに分かれて参詣するそうだ」

ぞろぞろと橋姫明神へお参りして宇治橋を渡った。

通圓を回り込めば橋寺放生院。

「あそこの浮岸には十三重石塔が有ったそうですがね。六十年ほど前の洪水で崩れたそうですぜ。いまだに絵図を出す時は画に描くようですぜ」

兄いは新兵衛に浮島の由来も話している。

川上へ向かうと山陰に鳥居が見えた、下社のみの参詣で済ませた。

「父君が誉田別という事でやはり日本武尊(ヤマトタケルノミコト)繋がりですか」

「そういうことですよ新兵衛殿。実在したかどうか解らずとも伝承が残るという事は何かしらあったのでしょう」

通圓へ戻り一休みした。

主は「宇治橋架け替え後の寛文十二年頃に建て直されて、正徳五年には修理を公儀で致してくださいました」と新兵衛と話している。

「二百年も前にしてはしっかりしている」と感心している。

「そんときに橋姫さんも修理為されていますが、宝暦六年の浮島十三重塔が倒れた時、対岸は大変な大洪水で橋姫さんに代官屋敷まで流失しましてな

「太閤さんの置き土産だな」

「若さんどういう事ですか」

「新兵衛殿、伏見城の水運の為に宇治川を大池に流れ込まなくしたからな。その分の水の行き場が無くなったんだ。淀小橋から上は遊水の行き場が無い。小倉堤が切れれば大池へ水は行くんだが、持ち堪えればそれで木津川も出口の水位が上がって洪水が増える」

余談

元禄十四年八月十七日1701年)伏見大洪水・豊後橋橋上三尺と記録が残る。

宝永元年八月八日(1704年)木津川氾濫。

正徳二年八月十八日~十九日(1712918日~19日)木津一村で損害家屋七百軒余、死者百人余。

享保二年八月十六日(1717920日)木津川大洪水。

享保六年閏七月十四日~十六日172195日~7日)木津堤決壊、淀城二の丸迄浸水。

享保七年六月二十三日(172283日)木津川氾濫、平地で八尺を越え、淀、鳥羽、桂迄洪水。

享保十年五月十三日~二十日(1725623日~30日)木津山川堤崩壊。

享保十三年七月七日~九日(1728812日~14日)八日木津川洪水、木津川水位一丈六尺、淀城浸水。

享保十六年八月十一日(1731911日)木津川洪水。

元文元年八月十三日(1736年)伏見町浸水六尺以上の記録。

宝暦六年九月十六日~十七日1756106日~7日)

宇治川右岸-馬場通、観流亭、興聖寺門前の民家流出。

宇治川左岸-平等院前から橋姫社下にかけての堤が百五十間にわたって切れおちる。

上林門太郎屋敷、橋姫社流出、浮島十三重塔崩壊。

(宇治橋流失と記録が有るが架橋記録が見当たらない)。

明和元年七月(1764年)宇治川洪水、橋姫社流出。

安永三年(1774年)淀町中水没。

通圓の目の先に札を建てていた。

 御物御茶壷出行無之内は新茶出すべからず

「まるで俺たちが新茶の抜け荷買いに来たとでも思われているようでまいるぜ」

橋畔の高札場以外にも昨日より増えている。

「お茶壺様と例幣使には近寄らないほうが無難だ」

伊勢神宮毎年九月十一日(陽暦十月)神饌授与、十七日奉納の神嘗祭(かんなめさい)へ朝廷から幣帛を奉献する使者の事だ。

街は昨日もそうだが静かと言うより活気がない。

「普段の商いは多くない様だな」

「信様たちは此処を重要視していないようですね」

「近江の北側の加賀藩領と聞いたよ。俺ならさびれた町や村に遣らせるぜ」

四郎もいろいろ考えているようだ。

「なら今日は何処がさびれているか探しておきますぜ」

「兄いは人がわりい」

「蝦夷地なら去年の茶でも買ってくれますぜ」

「碾茶は無理か」

「家の親父様にしかられますぜ」

「なぜだい」

「高級品は客用だけあればいいが信条ですから。そんなの幸八に買わせたら二人で大目玉食っちまう」

「食野(めしの)の金で買えるだけ買って酒田へ送りゃいいさ。煎茶で一斤二匁なら三千斤くらい買えるだろうぜ」

「若さん、信様に似て来たんじゃないですかね。話が大きいや」

茶だんごが搗きあがり、主と女が新しい茶と共に出てきた。

「江戸浅草の茶店はお客様から四文から十六文と聞きましたが、家のは中間の八文ですよ。お薄でも三十二文なんです」

橋向こうの休み茶見世も八文だった。

「そういゃ三十石で大坂へ下るとき、清国の通事の人が此処のは自分の国の茶以上だと褒めていましたぜ」

主が感心した顔で兄いと話している。

「あの辮髪の人品の良い人ですね」

「確かにただもんじゃない風情だった」

「お薄に、煎茶、味が分かるお人の様で冷や汗が出ました。客によって手抜きするわけじゃないのですがね」

きくや ”で身じまいを整え伏見へ三人で出向いた。

豊後橋を渡り、休み茶見世で草鞋を履き替え、刻をはかって阿波橋の畔に着いたのが五時四十五分。

門で河山様へ取次を頼んだ、殿様が居るので警護も厳重だ。

「待っておったぞ」

河山は三人を脇玄関へ導きそこへ出ている小姓へ「待ち人ご到着」と手短に引き渡した。

「遅い」

横柄な口を叩くので「新兵衛殿おひとりで御前へ。我らはこれで御免こうむる」とさっさと四郎と草鞋を履いた。

新兵衛が小姓の襟髪掴んで引きずってきた。

「次郎太夫様、こいつが腹を切るのも可哀そうだ許してくだされ」

十三位だろうか、いつも御寵愛で人を見下していたのだろうが、次郎丸達の身分を知っていたようで、ぶるぶる震えている。

治宝(はるとみ)公は廊下の向こうで笑いながら「三郎、いい薬だ。次郎太夫殿も江戸っ子で気が短い」と扇子で手招きした。

「新兵衛は伊兵衛に似て豪胆で力持ちだな。小姓仲間で三郎は一番力が有る」

「はて藤兵衛が何時三郎に為りました」

「今年な、相撲を取らせたら一番強いので贔屓だった小野川の生まれ変わりと三郎にした。三郎め新兵衛を怒らせたら和歌山に居場所はないとしれ、松坂でも行くか」

次郎丸は可哀そうになった。

「まずは紀州様にはご健康で喜ばしく存じ上げます。お許しあってこれ切りと」

「おぬしが言うならそれでよい。助かったな三郎。新兵衛も驚いたろう。江戸もんはこれだからのう」

暫く雑談をして「わしがそなたたちの事知っておって不思議に思わぬのか」と首をかしげている。

「紀州様へは大樹様近辺と言うより直に耳打ちされたかと」

「なぜそう思う」

「いくら雑賀の子孫が居ても有徳院様が大半は連れて御行きですから」

「残ったのは三浦ぐらいじゃ。これからの紀州は無駄遣いで銀(かね)をばら撒くについて意見は有るか」

「技術の子孫への伝達は無駄使いから。しかし領民を苛めてでは先が有りません」

「海岸防備の銀(かね)は」

紀伊で壱千万両と言われ周りの老臣が憤っている。

「ただし百年でですが、それでも年一万両を海岸防備に使えますか」

会計方だろう「不足の銀(かね)からそんなに回せるわけがない」とにじり寄ってくる。

「年十万両余分に稼ぎましょう。税を一割なら一万両。米の増産は無理でも、献金地士には先の見える賢明な人物は多くいます。意見を広く聞く窓口さえあれば出る銀(かね)を抑え、入る金を増やすことも可能です」

「わしが無駄遣いしたら意見を言うか」

「御三家として必要な銀(かね)を出すなとは言いませぬ。有徳院様、我が藩の大殿のように倹約だけでは立いかぬ世に為りつつあります。権現様とは時代が違いますが、南蛮の学問を学び足りないところは取り入れるべきでしょう」

「なにが優れて居る」

「まずは船。いまは千五百石以上のお許しが出ません、ですが五百石の船大工でも学べば千五百石が造船出来ております。倍の三千石積の船の寄港できる湊が有ればいつかは技術も活用できます」

「小早で十分稼げるではないか」

「食野(めしの)たち一統だけで紀州一國の五百石船の儲けを出していますよ。西回り航路で稼ぐからです。お國にそれだけ儲ける船主が居ますか。北湊や湯浅に千石船が入ればお國も潤います」

「我が藩にそんな湊は無理だ」

「相州鎌倉を見てください六百年も昔に唐(から)の大船が来ています」

湊からの連想か防備へ気が移ったようだ。

「何時頃我が方に海岸防備の指令が来るのだ」

「二十年は先でしょう。まだ異国に堺への航路は難しいと思われているようです」

瀬戸内の夜は海賊への不安が有ると信じられているようだ。

「その二十年で砲術の進歩、大砲を作る技術を勉強せねばなりません」

「結とやらは力に為ってくれるのか」

「國を守るためならいくらでも」

「十万と言えば出てくるとでも」

「打ち出の小槌は持ち合わせていませんが」

「なかなか本音は言わぬようだ」

「私で動かせるのは年二万両、出しっぱなしでは後が出てきません」

「出した者に儲けさせよという事か」

「たとえば、千両出して十年で元が取れる商売を認める。それ以上は出した者の才覚次第。それを二十人揃えるお手伝いをします」

「もしや、そちゃ我が藩の財政も承知か」

「私が教わったのは有徳院様の時代に江戸藩邸費用が二万両から小判吹替えで五万両越したのが元文四年」

「昔の事じゃ」

「近年の事は教わっておりません」

「先ほどの二十人は藩内でか」

「十人は藩内。五人大坂、五人江戸」

「藩内十人も新規事業に千両出せるというか」

「やる気のあるものには、こちらで話を通して貸し出させます」

たとえばと問われて「たとえば食野(めしの)に天五、茨木屋」と答えた。

天五は天王寺屋五兵衛。

近習が「お食事ご用意整いました」と告げに来た。

「次郎太夫殿と二人で食べるので四郎殿は新兵衛と賄い飯をたべてくれ」

配膳が済んだ部屋では毒見係が同じ膳を先に食べると治宝(はるとみ)は箸を付けた。

「いやはや、部屋住みのころと違って窮屈な物じゃ。そなたも養子先で同じ作法に為るじゃろうよ」

「できれば熱いものは熱いうちに食べたいものです。今の部屋住みの方がいいのですが相手のご隠居が早く来いとせっつきます」

「新兵衛だが儂の参府まで江戸で砲術を学ばせようと思う」

「会津藩山本良高殿しかるべし」

「即答じぅあな」

「我が大殿も認めおりそうろう」

「曽根孫太夫これへ」

呼ばれてきた用人へ新兵衛の遊学を命じた。

文机を運ばせ、さらさらと書いて読ませた。

「会津藩へこれを持たせよ。仔細は次郎太夫殿から話してもらう」

宇治まで戻るのかと聞かれ船宿で一休みして朝方戻りますと答えた。

「新兵衛に見送り無用と伝えてくりゃれ」

「かしこまって候」

挨拶に今晩も出なくていいようだ、諸役との相談がすんだようで内玄関で落ち合い藩邸を辞去したら亥の刻(十時二十分頃)の太鼓が火の用心を告げて回っていた。

亥の刻でござぁ~~い。どなた様も火の用心さっしゃれな~~

船宿の澤田喜助で「卯の刻まで一眠り、いや一休みできるか」と聞くと愛想よく「一部屋空いておます」と案内してくれた。

酒とあてに漬物を出してもらった。

「新兵衛殿まだ付き合ってもらうようになったな」

「良い道連れと思ってくれますか」

砲術の勉強の遊学とは言いますが次郎太夫殿のお目付けでしょうなと笑っている。

呑み足りないので追加した。

「久しぶりに余分に飲める」

四郎は「これで庸(イォン)さんのユーリンチィ鶏の素揚げでもあればいう事ない」と無い物強請りだ。

主が酒の追加を持ってきた。

「宗匠はもう江戸へ向かったのですか」

「いや今朝も一緒で明日まで宇治だ」

「なぜ伏見を素通りで」

「紀州公の行列で宿に泊まれないと困るからさ」

「それじゃ仕方ないですな」

「淀で泊まった宿がこの前、唐人の鶏料理を出してくれたぜ」

「上手くできましたか。うちじゃ今一でね」

「唐人の香辛料を仲間が控えていて教えたら、負けじ劣らじの出来栄えだった」

「五つだそうですが三つしか覚えていなかったんですよ。生薬屋も知らないようでした」

「八角、胡椒、肉桂、丁香、小茴香」

四郎が覚えたよと紙に書いた「大蒜も使うそうだが、手伝った女中の教え方が旨かったようだ“ みしま屋 ”は感心してたぜ」と打ち明けた。

「専用の鍋まで誂えたそうだ。油を惜しまずかけるより浴びせるようにするそうだ」

「今夜は後二組出るのでね、まだ火が有るので試してみますよ」

「こんな時間にまだ残っているのか。それに生薬手に入るのか」

「薬の見世はこの裏でね。夜中も土産に客が寄るんですよ」

半刻程(四十五分ほど)で店の奢りだと半身をもってきた。

「鶏は安くてもウーシャンフェン(五香粉)は二十羽分程度で一分取られました」

薬屋は何やら秘密めかして配合比率は教えられないなんてほざいていましたという。

「なんだどこかで聞いてきていたようだな」

「その様です」

切り分けて出してくれた、皮は旨くパリッと油が切れている。

「いい出来だ。これなら高くても納得してくれるよ」

肉の臭みは消えて小茴香(シャオハイシヤン)に丁香(チョウジ)の香りが良い。

肉桂(ニッケイ)の辛みが酒と合うと新兵衛も言っている。

三月二十一日1814510日)・五十四日目

船宿から見ると奉行所方向が明るく為りだしてきた。

卯の刻の鐘(四時十五分頃)で起きて顔を洗った。

女中が三人来て顔の髭をあたってくれた。

四郎が三人へお捻りを渡した。

「四郎殿も拵えたのかね」

「兄いに頼んで持ち分を包んでもらったよ」

船宿の澤田喜助の朝は宿屋飯とは思えぬまともな一汁二菜が出た。

三人でだいぶ飲んだが銀八匁だという。

「四両あれば三人でひと月居座っても大丈夫だ」

四郎は支払うと主に居座りたい位だと言っている。

次郎丸は“さわや”が懐かしいかとからかった。

次郎丸の時計で六時に宿を出た。

三軒屋まで来ると雲が広がってきた。

「雨に為らなきゃいいが」

「白いから大丈夫ですよ」

新兵衛は天候も読めるのだろうかそんなことを言う。

橋姫で時計を見ると八時十分「路に為れたか大分早く戻れたようだ」とつぶやいた。

きくや ”では未雨(みゆう)が廊下で本を広げている。

「三人は飽きずに出て行きましたよ」

「商売に為りそうなのか」

「宇治ではここ数年二万三千斤あまりの碾茶生産だそうで。宇治郷全体の半分が碾茶だと言っていましたよ」

「ここらは大目だろ三万五千貫に届かないのか」

「高級品ばかり作りたがるそうでね。幸八や藤五郎の手に余るそうですぜ」

今朝早くに迎えが来て小倉村へ向かったという。

「なにかい太吉さんよ。煎茶を銀二匁で半斤袋(ふくろ)四袋(たい)ひと包み、そいつが五百有るというのかい」

「売りそこなったそうだ。代官の手代の話では相手が素人で、山目取引したつもりというんだ」

太吉は昨日知り合ったばかりだが幸八が見世の名を記憶していた。

宇治茶に紀州鰹節や摂津の海苔を扱う店で“ 正 五 郎 ”へ荷が来るという。

「耳よりの話が有ったら教えてくれ」

昨日そのように頼んだばかりだ。

宇治茶は大和目より多い大目の一斤二百匁だ、山目だと二百五十匁、二割も違えば話はかみ合わない、おまけに茶は季節で重量に変化が出る。

「この時期は袋ごとで大和目に見てくれと言ったら、結局喧嘩別れだ。お代官も手におえない相手で引きさがるしか無いのだ」

小倉村木下吉右衛門はやせ形の眼光の鋭い老人だった。

「大野屋さん、その人達かい」

「そうだよ。酒田の人たちで向こうへ送れるものを探しに来たんだ」

「こっちのいい値で買うというんだね」

昨年の袋詰めなら最悪大和目迄我慢すると藤五郎と幸八が請け合った。

「今持っているのは一分金二十五両の封金だが、銀に両替してくるか六十匁で良いからそれで受け取るかだけだ」

銀千匁は金十六両と銀四十匁だが、堺から酒田へこっちで手配するか請け負うかも決めてほしいとこれは兄いが大野屋太吉に相談した。

二十五袋(たい)茶箱入り二十箱を見せた。

渋紙包みじゃないんだと聞くと、箱入り注文だったという。

おお秤で新兵衛が指名した箱を量り、茶を取り出して箱の重さをはかった。

この家が村の茶師の元締めの様だ、釣秤も三種置いてあった。

「袋も入れて十貫六百五十匁だ、中身五十斤、大目で十貫匁だから十分だな。大和目勘定袋込みだと言えば大負けで済む量だ」

茶箱が八斤、茶が五十斤の五十八斤が二十箱に為る。

「茶より送料がかかるな」

藤五郎と幸八はそっちの心配だ。

大野屋太吉が幸八藤五郎と三人で、残りの十九箱を次々秤にかけて「ふり幅が百二十匁だ」と満足したようだ。

藤五郎が符丁を書いて中へ入れ、太吉がすべての箱、四面に封印をした。

「ひと箱二両で送れるが、俺の見世まではそちら持ちで運んでくれるかい」

吉右衛門が今日中に持っていくというので、兄いが藤五郎と幸八に茶代を支払わせた。

送料の二両は安いと兄いは思っているようだ、四箱ひと梱で船へ積むという。

「送料は太吉さんの見世で渡すよ。それともここで渡そうか」

「受け取りを書くから見世の方がいい、百六十枚も一分金持たされたら歩くのも嫌になる」

吉右衛門は「十斤五匁の安茶を持ってるのが居るんだが、買って貰っても送料で偉く高い茶に為りそうだな」と大笑いだ。

茶代の受け取りを貰って平等院南門傍の大野屋太吉の見世へ向かった。

途中代官屋敷で新兵衛に受け取りを出させて取引の報告を出した。

これで新茶抜け買とは誰にも言われない。

「明後日には伏見で積み替えて、難波は四月一日の船だ」

「おいおい、荷送りが大分あるようだな」

太吉は船の予約の荷に隙間が有るんだという。

藤五郎が荷受人“ 酒 田 湊 正 五 郎 内 庄 五 郎 ”荷出人“ 酒 田 加 藤 藤 五 郎 駒 井 幸 八 ”と書いて渡した。

「町中は活気がないな」

「茶師でも有名どころは顧客が付いてるが、俺たちの様な店が少なくなった」

「人が少ない気がする」

「百年前は今の倍は居たそうだ。宇治以外でも茶の畑が増えたからな」

「手を広げる気が有るなら伏見、大津へ連絡所出して、茶の取り扱い始める人を紹介するぜ」

「噂は出ているが大丈夫なのか」

「加賀の高田屋嘉兵衛に銭屋五兵衛が乗り出すそうだ。金主元は大坂の茨木屋」

「大分おお掛りの様だ」

「これから木を植える分で一万斤、後摘みを売る茶商からは二万斤が目途だそうだ」

三万斤を売る相手が居るのかと不審げだ。

「加賀を真ん中に出雲から蝦夷地までの大きな湊ごとに下話は進んでいるそうだ」

「酒田もか」

「五千斤までなら引き受けると十軒の茶商も乗り気だそうだ。明日には江戸へ向かうのでやる気が有るなら伏見の連絡場所を教えるから聞いてごらんよ。もう人が来ているころだ」

茨木屋は大津、伏見、淀へ連絡所を開く場所を確保してある。

銭五の方は小浜、熊川、今津、大津だがまだ場所の確保が出来ていない。

懐紙に“ 茨木屋伏見店せいきち様へ 宇治大野屋太吉さまを紹介いたします 酒田湊正五郎と取引も有りわたくし新兵衛とも取引が有りますのでご紹介します 甲戌三月二十一日 駒井新兵衛拝  ”と書いて渡すと手控えから所書きを別紙に写した。

伏見中油町 茨木屋出店

宿へ戻る途中幸八は「兄貴、簡単に紹介して良いのかよ」と聞いてきた。

「あれわな。噂を広げておけば銭五さんたちの仲間へ入りたい。家の茶を扱ってくれと言う人を呼び込む誘い水だ」

「そうか、それでさっき話しに出た安茶の行先が出来るかもという事か」

「“ 待てば海路の日和あり ”さ。買いたたけば恨みも残る、言い値で買って儲けを出す。信様がそう言っていたよ。俺や若さんまだそこまで錬れていないやとつくづく思ったね」

「若さんですか、誰が見ても非の打ちどころが有りませんぜ」

「あれで、四郎さんより気が短いぜ」

二人は信じられんという顔だ。

「優しいだけで俺や猪四郎が信奉するわきゃないさ。欠点が有るから付き合えるんだ。味方どころか敵(あだ)まで友達だ、度胸が良すぎるのが一番の欠点だな」

きくや ”へ戻ると新兵衛は廊下で正座して本を読んでいるが、次郎丸と四郎は陽の当たる所で寝そべって本を読んでいた。

「買えたのかよ」

「なんで知ってるんで」

「藤五郎の顔に書いてある」

三人で顔を見つめあって噴出した。

「銀千匁で煎茶千斤、茶箱二十箱分買いましたぜ」

「酒田送りは高いだろう」

「ひと箱にすれば二両の送料でした」

「大分安いな」

「四箱ひと梱だそうでね。八両は宇治からなら安いですね。酒田の正五郎とも取引が有るんで安く受けたんでしょう」

「若さん両替しないで一両六十匁でと言うのが効くようでした」

「じゃ、湯浅とほぼ同じで送れたという事か」

コンプラひと梱百二十本で銀五百匁の送料だった。

両替屋は一両を銀六十匁から六十四匁で両替するが土地によって手数料が違うし、相場も違う。

未雨(みゆう)が本を抱えてきた。

「大分昔の俳諧本も有りましたよ」

此処の先代が集めた本だという。

「こりゃ今日中にゃ無理だ」

雍州府志の十巻本も有るが次郎丸は脇へのけた。

幸八は都名所図會五巻本を見ている。

「兄い橋姫はどの巻だい」

「五巻に宇治近辺が載せてあるよ」

すぐに宇治橋の画を見つけた。

「通ったのは住吉に、離宮の神、だけど橋姫は嫉妬に狂った妻で、どの神かこれじゃ解らないと為っていますぜ」

「だから読み本が氾濫するんだ。渡辺の綱にひっかけたりいろいろ作れるからな」

頼光四天王はかっこうの英雄譚だ。

大江山酒呑童子討伐から始まる物語は何百年たっても色あせない。

渡辺綱(わたなべのつな)一条戻橋の上で茨木童子の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした。

この話と橋姫を繋げる絵も多い(宇治の橋姫-渡辺之つな-奥村政信画など)

坂田金時(さかたのきんとき)金太郎伝説・歌舞伎などでは息子の金平が大活躍する。

碓井貞光(うすいさだみつ)碓氷峠に巨大な毒蛇が住み着き大鎌をふるって退治。

卜部季武(うらべのすえたけ)今昔物語集“ 頼光の郎等平季武、産女にあひし話 ”

他に豪傑譚には藤原秀郷(俵藤太)の百足退治なども有る。

時々娘が菓子や茶を運んでくる。

新兵衛も本好きの様で飽きは来ない様だ。

「幸八殿、今読んでいる“ 洛陽名所集 ”巻六に出ているからそこから都名所図會は写したようだよ。

本のその分を差し出した。

「此の社は、橋の西のつめ也。姫の大神は宇治玉姫とも云。離宮神、夜橋姫にかよへる時、暁ごとに波に声きこゆるとぞ、また一説に住吉明神宇治の橋守神と通いたまふとなり。どっちが通ったではなく二つの説が有ると出てますね。万治元年て何時ごろですかね」

「百五十年ほど前だな。昔の宇治橋は十三重塔石塔の場所に掛かっていたと東海道名所記に出ていた」

幸八にその本も寄越した、丁寧に付箋が挟まれている。

「万治三年と。ここの爺様はずいぶんと古い本も集めたようですね。若さん見ましたか」

「いや、その本は見たこと無いな」

四郎が「幸八っあん。ここにも出てたがおんなじだ」と“ 出来斎京土産 ”巻七をわたした。

「延宝五年と、これは万治のまえですか、後ですか」

「順を言えば明暦、万治、寛文、延宝だな」

天和(てんな)、貞享(じょうきょう)、元禄と新兵衛が続けた。

「元禄より前ですかそりゃ古い」

元禄は十七年まで続き、百十年前に為る。

「若さんは雍州府志を好みませんが橋姫は出ていましたか」

「覚えがない」

山城名勝志 ”を読みながら「瀬織津比咩が祭神と云うのが見当たらない。どこで見たのだろうかな。聞いただけなのか思い出せんのだ」と不満足の顔だ。

「この巻十七には号姫大明神だと出ていて住吉明神の事は隆縁伯耆と言う人の歌だと出ている。顕昭の袖仲抄ではこの住吉明神説は否定していたように思う、隆縁伯耆の歌と言うがこの人に覚えがない」

橋姫の物語は古く宇治十帖から混同しているからとあきらめ顔だ。

橋姫の 心を汲みて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞ濡れぬる

「それが源氏物語に出てくる歌ですか」

「薫から大君への贈歌とされているよ。返し歌も有るよ」

さしかへる 宇治の河長 朝夕の しづくや袖を 朽たし果つらむ

「船で聞いた和歌と関連でも」

「古人いわく、古今の詠み人知らずの“ さむしろに ころもかたしき こよひもや われをまつらむ うぢのはしひめ ”を基に紫式部か誰かが此処へ入れたようだ」

「紫式部が書いたんでしょ」

「写本しかないからな。俺ならもう少しいい話に出来ると思った暇人が居たと思うんだがね」

「若さん素直じゃないですね」

「新兵衛殿、俺が猜疑心深くなったのは兄いの新兵衛のおかげさ」

「またおれのせいにして、この手で本探しをもう十年もやらされているんだ」

皆で大笑いだ。

「源氏の歌の元に為るのはほかにもありそうですね」

「あるあると言いたいがね。後ひとつしか知らないのだ。後追いなら数知れずというくらい出ていた」

わすらるる みをうぢばしの なかたえて ひともかよはぬ としぞへにける

「これも詠み人しらずとされている。古今は源氏より百年は古いし、伝説が多すぎて混乱するばかりだ。平家物語の橋姫なんざぁ能の金輪にそのまま取り入れてある」

「牛の刻参りですね。本気でお参りする人もいるそうですね。貴船の神様も困るでしょうね」

「伝説と伝承、昔話と読み本。区別は難しい」

これをくわしく尋ぬれば、嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さんとぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れと示現あり。

次郎丸は一節を読み上げるようにすらりと吟じた。

「この後が渡辺綱の髭切へつながるんですね」

「そうだよ安倍の晴明迄曳きづり出す騒ぎだ。だが鬼女の誕生は嵯峨天皇の御世と百年以上前だとされている。不思議だろ」

「そうか平家物語読んだとき連続した時代と思いましたよ。百年以上潜伏していたんですね」

兄いは「此の調子だから読み本読むたびに時代考証の本探しだ。酒田のおやっつぁんの分とで息つく暇もねえ。平家物語だって異本ばかりで取り留めもねえ」と嘆いてみせた。

「髭切は良いが膝切の行くえも有ったですよね」

相模国曾我十郎祐成、同五郎時宗が、親の敵祐経を討ちける時、箱根の別当行実が手より兵庫鎖の太刀を得たりければ、思ふ様に敵をぞ討ちたりける。 この太刀は、九郎判官の権現に進らせたりし薄緑といふ剣、昔の膝丸これなり。親の敵心のままに討ちおほせて、日本五畿七道に名を揚げ、上下万人に讃られけるも、この剣の用なりとぞ聞えし。その後彼の膝丸、鎌倉殿に召されけり。鬚切・膝丸一具にて、多田満仲八幡大菩薩より賜りて、源氏重代の剣なれば、暫く中絶すといへども、終には一所に経廻りて、鎌倉殿に参りけるこそ目出たかりける様なりけれ。 ”

「判官殿が手放したせいで運が逃げたという話に仕立てられているよ」

「二振りは鎌倉殿が持った後どうなりました」

「新兵衛殿なんと江戸に髭切が有ると伝わっている」

「本当ですか」

驚いたようでにじり寄ってきた。

「最上家と言う寄合旗本の家に伝わるそうだがね。髭切、鬼丸と言われている」

「本物ではないとお考えで」

「鎌倉北条氏に伝わり、新田義貞公鎌倉攻めの時手に入れ、最上氏へ伝わったと聞いた。膝切は鎌倉崩壊の時に燃えたらしいのだが、箱根権現は此処にあるのが本物の“ 薄緑 ”で膝切、膝丸であると言っている。有徳院様が調べをしていないのは信じていなかった様だ」

「御調べになさっておられない」

「“ 享保名物帳 ”や大殿の“ 集古十種 ”に鬼丸別名鬼切丸が有って、北条得宗家から新田、足利と伝わり権現様の手に入ったというが国綱の銘が有り時代が違うようだ。本阿弥家がお預かりしているとあった」

「その刀も鬼を退治したのですか」

「いや伝承では得宗家で夢のお告げがあり、抜き身で置いた刀が火鉢の細工物の鬼の首を切り落としたという少し怪しい話だ」

「なぜ本阿弥家へ預けっぱなしですか」

「得宗家、新田、足利、太閤と持ち主が没落しているので台徳院様が嫌ったと伝わっている」

得宗家は北条氏執権、台徳院は徳川秀忠。

「読まれたのですか」

「特別に監視付きで拝観した。三人選ばれ午前二刻、午後二刻それも自ら頁を繰るのは許されなかった」

「覚えたのですか」

「飛ばし読みだ。十本だけ興味を持った。その中に鬼丸が有っただけの事だ」

刃長二尺五寸八分五厘物打ちに一つ刃こぼれあり

新兵衛は何ゆへ藩公迄もがこの人を特別に扱うかの一端を見た思いがした。

「おいおい、橋姫からとんだ刀詮議だ」

菓子ばかりで腹が膨れて昼も食いそびれたと笑い出した。

「本はあきらめて饂飩へ行きますか」

そうしようと七人でうどん屋へ出て遅い昼とした。

「最近鱧に穴子で鰻を食わないな」

「巨椋池では三年物など大きいのも取れるそうですぜ」

珍しく藤五郎が食い物に食いついた。

「今晩に間に合うか頼んで見るかい」

「庭の池で泥を吐かせていますぜ。三か所で二百は居ましたぜ。蓮池は鯉でした、下は石畳で蓮は壺に植わっているそうでね。近くの料亭に卸すんだそうですぜ」

藤五郎何時の間にやら聞き出していた。

「料理旅籠と言うだけのことはあるようだな。藤五郎はなんで食べたいと云わなかったんだね

「あっしゃ鰻は好きな方じゃないんで。付き合いで食うくらいです」

「穴子や鱧はだいぶ喜んでいたが」

「特に穴子がいいですね」

きくや ”の女将に言うと「江戸風に蒸しますか、上方風に焼きますか」と言うではないか。

「どんぶりは上方風、皿に江戸風」

四郎が口を出した。

「そんなにお好きなら京(みやこ)風のいかだで白やきもさせましょうかいな」

「そいつも行こう」

いしまろに われものもうす なつやせに よしというものぞ むなぎとりめせ

次郎丸が歌を詠むと、女将がぷっと吹き出してしまった。

「ほんまいけずやわ。痩せるには川で鰻でも追いかけるようでっせ」

やすやすと いけらばあらむを はたやはた むなぎをとると かわにながるな

「若さんのいけずは年季もんだすえ」

聞いていた娘が口を挟んできた。

その晩は瀬田蜆の味噌汁に鰻が幾種類も出てきた。

川海老の素揚げに茄子の煮物、小蕪の蒸し物。

「この山葵と醤油で白焼きをおたべ」

娘が藤五郎に すりたてを出した。

「うーむ、紀州様がこれを見たら怒るな」

「どうしました」

「昨晩は、ご相伴したが、豆腐の吸い物、瓜の漬物、鮎の塩焼き、茄子と小芋の煮物。それだけだった。鱧寿司でも付くかと思ったが出なかったぜ」

「若さんだって江戸にもどりゃ鮎が鰯に化けますぜ」

「だからぶらぶら出歩きたくなるんだ」

そうそう、鰻だが途中であった老人がと話が横にそれた。

「その男が言うには俺らの生まれる少し前、天明の終わるころに鰻のかば焼きが開いて蒸しをかけるようになったと言っていたぜ」

未雨(みゆう)は「わっしが江戸へ出たのが天明四年、確かに鰻を裂いてる屋台は見なかったですぜ。人足たちと十二文で二本つつっぽうを食いながら酒を飲んで三十六文、稼ぎの半分消える日もありやしたね」と懐かしそうに語った。

「六文ひと串は安いな」

「だって醤油どころか塩焼きでしたよ。稼げるようになって嫁と大国へ行けるようになったときは二百文の大串食っても安いもんだと思えてね」

「今でも二百文出せば大店でもいいものが出てくる」

両国も川向こうなら、二百文あれば小座敷で酒を飲んで上の鰻丼が食べられると兄いが身を乗り出した。

「猪四郎は最近旅鰻が増えたとぼやいていましたぜ」

娘が「鰻が旅するんですのん」と驚いている。

「そうだぜ、浦安、牛久から船に乗ってやってくるんだ」

鰻の旅姿でも想像したようで娘は笑ってしまった。

「京(みやこ)の鯖だっておぶさってくるだろうに」

「よその土地で取れた物という事ね。鯖は京(みやこ)じゃ取れないから全部旅の物に成るのね。鱧に穴子も同じ旅の物。鰻くらいね土地の物は」

「おりょうさんは分かりが早い、良い女将さんに為るだろう」

すかさず藤五郎は褒めている。

「鰻は高い店が増えたが鰌は相変わらず安いな」

「兄貴と入ったのはだいぶ前だ」

「鯉金ぶん投げた時が最後だ。あの後は猪四郎に鰻をご馳に為った」

「十二人が鰌鍋で酒を飲んでも二両で釣りが来た」

「それって随分高いわ」

「飲んだ酒の量がすごかったのさ、あいつら底なしだ。おまけに勝手に普段食えないいいもの頼みやがった」

「卵焼きに、店へ言っていつの間にか鮓まで並んでいたのには驚いたよ」

幸八が「若さんのどこが気が短いんで。普通ならおこる話ですぜ」と振ってきた。

「お前今の話よく聞いていないな。鯉金ぶん投げたのは若さんだ。喧嘩相手でも気を許せば勝手を仕手も笑ってくれるのが若さんだ」

新兵衛は「幸八さんに昨日付いてきてもらえばいい芝居が見せられた」と大笑いだ。

「何かもめごとでも」

「お小姓の一人がな約束前に訪れたのに遅いとごねたんだ」

「身分の高い一族ですか」

「親は五百石取りの用人だから、いい家には違いない。若さんさっさと帰ろうぜと草鞋を履いた」

「四郎さんもですか」

「そういゃ四郎さんはもう式台にいたな」

「どうなりました」

「わしが襟元引きずって謝らせた」

「新兵衛さんも気が荒いじゃないですか」

「殿さまが扇子で手招くので仕方ないから部屋へ通ってもらった」

無事に済んだのと女将とおりょうや女中は不安げだ。

「殿さまが三郎を叱る前に若さんが許して下さいと頼んでくだされたので、殿もご機嫌で夕食の相伴をと、お二人で別間へ」

皆一様に驚いている、先ほど次郎丸が「ご相伴」と言ったのは御家来方一緒と思っていたようだ。

鰻はいまいちなど言っていた藤五郎さえ、皿も丼も綺麗に片づけた。

「紀州から来た小夏という水菓子です」

五個を盆に乗せてきた。

「宇治まで来ているのか」

新兵衛が驚いている。

「伏見へ二籠入った中から二十買い入れました」

「湯浅で二房食べて以来だ」

「七人と四人で十一人、三個しか有りませんでしたからね」

新兵衛も実が成ってる畑を見たが食べろとは言ってくれ無かったと笑わせた。

未雨(みゆう)の咽喉がごくりと鳴った。

「まぁ、師匠」

「いやはや歳を食っても食い意地はなおらぬ様だ」

 

文化十一年三月二十二日1814511日)・五十五日目

辰(六時四十五分頃)に出ると言ってあるので他の客が出払った後で玄関へでた。

萬福寺に、六地蔵までの案内人を主が付けてくれた。

女将の親子は一行を橋畔まで送ってくれ、宇治橋を渡り切り振り返ると二人で手を振ってくれた。

隠元隆琦の開いた黄檗山萬福寺へ寄るので“ きくや ”を遅く出ると言ったら笑われた。

「あちらは卯の刻には掃除が終わっておりますえ」

兄いは「寺に寄ろうは珍しい」と言いながら都名所図會を開いていた。

寝る前に借り出した冊子は主に戻した。

「支那(しな)風の寺と云うくらいで珍しくも有りませんよ」

「煎茶を宇治、いや我が国へ伝えた恩人だよ」

「見ものは布袋さんくらいですえ」

「あちら風なら金ぴかに塗って有るかい」

「おっきなお腹丸出しで笑ってはる」

新兵衛も隠元の名は知っていた。

「禅寺と聞きましたが」

「厳有院様の頃、明清交替の頃に来られたのさ、学者では朱舜水など著名な人が我が国に多く来ているよ」

長崎興福寺逸然性融は隠元を招請、三年で戻る予定が万治元年家綱と面談し残ることに為った。

万治三年黄檗山萬福寺を開創。

臨済正宗の正統としての自負を持っていたという。

承応三年六十三歳で渡来後、寛文十三年四月三日八十二歳で亡くなった。

総門は皆が想像していたより小ぶりだった、二代目の総門で百二十年ほど前の建物だという。

三門は総門と違って大きく、寺が出来た時の物だという「禅のお寺さんは五間三戸。ここは三間三戸二重門という造りでっせ」と言いながら額を指差して「隠元さんの字ですがな」と教えた。

黄檗山 ”・“ 萬福寺

左右の聯もそうだという。

地闢千秋日月山川同慶喜 ”  

地闢ひらいて千秋 日月山川同じく慶喜し

門開萬福人天龍象任登臨 ”  

門開いて萬福 人天龍象登臨するに任す

唐風の建物に混ざり鎮守の社が有る。

天王殿では布袋が出迎えた。

長崎から隠元に呼ばれてきた明の仏師范道生の作像だという。

大雄寶殿の十八羅漢も范道生作だそうだ。

都名所図会に祖師堂は達磨大師金色の像を安ずとありこれも范道生の作像だという

石碑亭は禅師の死後、宝永六年後水尾帝から贈られた“ 特賜大光普照國師塔銘 ”を乗せた亀趺(きふ)が有る。

「亀趺(きふ)は贔屓(ひき)の事でひいきのひきたおしの語源です」

良い説明だこれで総門の摩伽羅(まから)を知っていれば素晴らしいと次郎丸は愉快だ。

戻り道鉤手(曲尺手・かねんて)で総門が見えると一同を立ち止まらせた、

「屋根をごらんくだされ」

「しゃちほこがどうした」

幸八は素直に聞いた。

ここぞと「あれは鯱ではありませんのや。摩伽羅(まから)言います。天竺の鰐という生き物で神様の乗り物だそうですのや」と説明した。

次郎丸は遠眼鏡を幸八に渡した。

「ありゃ足に見えますね。おまけに口が長い」

「尾を見てください」

「尾びれじゃないしっぽだ」

「ほかの屋根は見えにくいのですが少し違うと聞きました、足のある物に無い物が乗っています」

三本の遠眼鏡を回して皆で見ていると参詣人が寄ってきて羨ましそうに見ているので次郎丸が貸すと四郎に兄いも渡している。

案内人の親父に未雨(みゆう)が南鐐二朱銀をくるんで「いい案内だった。六地蔵で渡しそこなうといけないから先に受け取ってくれ」と手渡した。

「“ きくや ”さんで頂いてますだが遠慮しねえで頂きます」

一刻(十五分)程で三本とも戻り総門を出た。右手に四辻が有り寺の石垣に沿って右へ右へと道をたどった。

西へ湾曲し道は四辻へ出た、

「此の辺り宏芝村と言いましてここが宏芝の辻いいますのや」

右へ曲った。

道標がない、道に迷いそうだ、案内を付けて呉れていて助かった。

古い奈良街道は入り組んでいた、札の辻は立場が有り旅籠も並んでいる。

「ここが六地蔵ですのや。こってへ道のまま行けば髭茶屋の辻へ出ます。京(みやこ)へは左で大津は道のまま先へ進んで下せえ」

礼を言って別れた、鉤手(曲尺手・かねんて)を曲がるまで腰を折って礼をしている。

路ばたに沈丁花が赤い実を付けている。

「未雨(みゆう)師匠どうしたね」

「実を付けるなど珍しいので」

和國に雌の木が少ないのであまり実は見かけないという。

「師匠句はおもいつかないかね」

実もつかず 歌も詠まれぬ 沈丁花

「前に作ったのですが、実が付いていてしまったと思いましたぜ」

「道潅からの連想か」

「みのひとつなしの向こうを張ったのですが不評でね。狂歌の方へ行くようだねは良い方で、批評に採点は出来ても自作は弟子に劣ります」

「道潅も歌を知らなかったと湯浅常山が“ 常山紀談 ”に書いたのを読んだか」

「若さん、あの本は読みましたが調べましたよ。中務卿兼明親王の事」

「さすが師匠だ」

聞いていた藤五郎は「道潅、歌道に暗いってのじゃないので」と不振顔だ。

「藤五郎さん、あれわね続きも有るが講釈師がはぶくんでね、作り事で歌道に暗いのは別の人でね、元の歌を作ったという中務卿兼明親王が貸す蓑が無いと山吹の枝を出してことわったんですぜ」

ななへやへ はなはさけとも やまふきの みのひとつたに なきそあやしき

「この歌の詞書にね“ 小倉の家に住み侍りけるころ、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり。心も得でまかりすぎて、またの日山吹の心得ざりしよし言ひにをこせて侍りける返しに言ひつかはしける ”とあるんですよ。道潅より四百年は前の話ですぜ。この歌は万葉の昔に詠まれた“ はなさきて みはならねども なかきひに おもほゆるかも やまぶきのはな ”が下にあるんですぜ」

余談

常山紀談
太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をばいはずして、山吹の花一枝折りて出しければ花を求むるにあらずとて怒りて帰りしに、これを聞きし人のそれは七重八重花は咲けども山ぶきの実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべしといふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。

髭茶屋追分は多くの旅人が京(みやこ)へ向かっている。

牛車(うしぐるま)の最後尾だろうか五台が替え牛を連れた牛飼いを引き連れて通り過ぎた。

走井の一里塚は江戸から百十八番目、三条大橋から二つ目に為る。

上って来た時と違い大坂で四郎が見つけた道中記は五つ一里塚が少なく、御陵が百十九番目と為っていた。

髭茶屋から十五丁程先の走井茶屋で一休みした。

「道中記が当てに為らずにどう歩きゃいいんだ」

「一里塚さえ三十六丁有ったり無かったりだから目印、目印」

四郎が兄いにぼやいても受け流されている。 

羽二重餅で餡を包んである。

次郎丸は一つで飽きたが幸八は二つ食べても物足りなさそうなので皿を渡すとにやつきながら食べている。

「草津を思い出しやした。苦手だったとは気が付きませんでしたよ」

「嫌いじゃないが多くは要らんのだ。羊羹も欲しい時でも一人じゃ食べる気にもならん」

「幸八、信じるなよ。兄貴は追分ようかんで酒を飲む口だ」

四郎に言われて本当かという顔をした。

「卵焼きだけだと思いましたぜ、それも兄いのお仕込ですか」

「俺は知らねえよ」

勘定済ませて立ち上がると幸八に怒鳴っている。

大津高札場まで二十丁程、大津宿は南北一里十九町、東西十六町半あり、石場の鉤手(曲尺手・かねんて)に一里塚。

江戸まで百十七里、石場の一里塚で午の鐘を聞いた。

膳所の先が鳥居川の集落、手前の粟津の一里塚は江戸から百十六番目。

瀬田の大橋は西風に煽られる様にわたり切った。

「今日は橋姫様の機嫌は悪そうだ」

月輪池大萱新田一里塚で江戸から百十五番目。

野路の玉川の先に野路一里塚、江戸から百十四番目。

うばが餅は込み合っていたがどうにか座ることが出来た。

「五十文を七皿、茶は人数分」

兄いが勝手に注文した。

新兵衛が「一人一皿は多くないのかね」と聞いている。

「そりゃ食い過ぎだね。あそこの皿の様子だと二個で十分でしょう」

兄いは出てきた皿から二個ずつを懐紙でくるんで通りかかる巡礼に「御報謝」と言ってお捻りと一緒に七組渡してきた。

次郎丸が二個を懐紙でくるむと懐のお捻りを出して老人に「御報謝」と手渡してきた。

「どういう計算かよく解らんね、若さんは一つで仕舞なのかね」

新兵衛は手慣れた手順に驚いている。

「なぜ走井でやらんのか解らない」

まだ首をかしげている。

未雨(みゆう)は「橋姫様にお礼の積り」と教えて自分の皿から二つ包んで巡礼へお捻りと差し出した。

結局一人一個でやめて御報謝の繰り返しだ。

追分まで進み脇本陣“ 大黒屋弥助 ”へ次郎丸が声を掛けた。

「幾部屋取れる、七人いるのだが」

「三部屋ならご用意できますが」

「宜しい、それで頼む」

宿の食事は特に注文しない割にいいもの出てきた。

塩鯖の焼き物、大根と菜の膾、干瓢と牛蒡に小芋の煮物、湯葉と若布の汁、それと瓜の粕漬けが添えてあった。

酒は一人二合出してもらった。

「旨い飯だね」

藤五郎は女中に飯の炊き方が良いし、良い米を使っていると褒めた。

文化十一年三月二十三日1814512日)・五十六日目

朝は卯の刻に飯を出してもらった。

じの干物、湯葉と菊菜の煮物、瀬田蜆の味噌汁、それに梅干しがふたつ添えてある。

いい扱いで布団もよいし、部屋も綺麗の割に銀十八匁で済んだ。

十六匁に、新兵衛の分二匁の受け取りの書付を出してもらった。

兄いは新兵衛の分はこぶくろを作って別にしていた。

表の街道のざわめきが収まる辰に宿を発った。

追分の先の宿から遅立の客がちらほら出てきているくらいで丁度空く時間に為る。

「旅に馴れたはずがどうもこの時刻の旅立ちが性に合うようだ」

「参勤のお供に呼ばれたらそうはいきませんよ」

「養子の口も江戸定府が良いな」

草津川の渡し場会所に三尺三十二文の札が下がっている。

わずか五間ほどの川で蓮台は勿体ないが濡れる依りましと頼んだ。

八百九十六文に兄いが南鐐二朱銀と豆板銀を出すと鐚銭十四枚が戻された。

目川(めがわ)立場一里塚は江戸から百十三番目。

京に大坂迄人気が広まったと言われる田楽茶屋が隆盛を誇っている。

京いせや ” 一丁先に “ 元いせや ”隣が“ 古志まや ”。

「どうやらここには縁がなさそうだ」

「行も帰りも店先を見るばかりですね」

道中薬和中散ぜざい(是斎)の本家和中散大角弥右衛門は多くの旅人で賑わっていた。

六地蔵梅ノ木の一里塚は江戸から百十二番目。

石部の京方見附を入れば江戸から百十一番目石部の一里塚。

石部を抜けたのが十時十五分。

針、平松と休み茶見世は心太を食べる人で座る所も無い繁盛だ。

山夏見の立場に一里塚、江戸から百十番目。

横田川は船高札に四人二十文と木札が下げてある。

新兵衛は首をかしげている。

「船頭四人乗るというので渡船料は一人二十文ですぜ」

「可笑しいと思ったよ」

「昼はもう少し我慢して泥鰌にするか」

「どこか当てでも」

「京(みやこ)へ上るときは素通りしたが水口の名物どじょう汁でどうだね」

水口では年中出せるように養殖が盛んだ。

横田川の流れは速く船頭はびしょ濡れで棹を差している。

泉村一里塚は江戸から百九番目。

道中記の里程は水口で江戸から百十三里と為っている。

「いよいよ可笑しくなってきたぜ。前持っていたのは百十四番目だった」

「確か日永で百里目だった」

四郎が日永を探した。

「この本は江戸から九十五番目だ。四日市は江戸から九十九里に為っていた」

「大坂で手に入れたほうが怪しいのかな」

「兄貴の頭の東海道分間絵図は同なんだ」

「一里塚の距離は載っていないよ、次の宿(しゅく)への距離位だ。全部足せはお断りだ」

「いやきっとやったはずだ」

「宿場が江戸から何里は落ち着きゃ思い出すさ。俺は見たこと無いが東海道絵図という天和の頃作ったのは一里塚を起点に江戸から何里、京(みやこ)から何里とあるそうだ」

「手に入らないのかよ」

「その絵図を見た者さえ居ないくらいだ、風聞だけだ。御書物蔵を捜索も出来ないさ。大殿でさえ見つけられない」

余談

東海道絵図が何時の測量か確定できる資料がない。
延宝期に測量、天和年間に十巻の巻子本に仕上げたと云われている。
寸法は幅約十八寸に長さ約五尺の巻物に為っている。
何部作成されたか不明。
菱川師宣絵の東海道分間之圖はこれを元に作られたと言われている。

林口の一里塚は神社の参道に有る、江戸から百八番目、雲行が怪しくなってきた。

水口宿京口の鉤手(曲尺手・かねんて)を入った。

小坂町御門に百間長屋を過ぎ天王口御門あたりで雨が降り出した。

慌てて手近な飯屋へ飛び込んだ。

「丸ですか、抜きですか」

丸はと兄いが訊いたら皆うなずいた。

「丸で七人分と酒を付けてくれ」

兄いは此処どまりなのでのんびり酒を飲むつもりだ。

宇治から未雨(みゆう)が脇本陣“ 松葉屋文右衛門 ”へ連絡付けてある。

どじょう汁で汗をかくつもりが温まるくらいに為った。

雨は大分強くなってきた。

「もう少し呑みたいな」

女将が「ならお客さん卵とじかかば焼きなどどうだね、夕の支度でかば焼きは支度済んでるで、すぐ出るだ」と売り込んだ。

「泥鰌のかば焼きは食べたことがない」

幸八は喜んで女に「人数分と酒は二合宛て追加だ」と頼んでいる。

次郎丸の所からは街道が見える。

慌てて走る者、道中合羽に三度笠で落ち着いて歩く者いい肴に為る。

雨傘を差して旅人の袖を引く女も見える。

縄のれんの向こうで店を覗く様子の女がいる。

おや入ってきたぞ、このような店に釣り合わぬ風情の女だ。

未雨(みゆう)や藤五郎は入口に背を向けていて気が付かない。

「宗匠」

肩を叩かれて飛び上がった。

「なんですよう。未の下刻にゃ着くと思ったらここで滞留ですか」

「わりぃ、ちょいと雨宿りが長引いた」

「誰か使いに寄越せば傘を持たせましたのに、吉弥さまが教えて呉れなきゃ居所も知れやしない」

「それよりその右の方が“ お ”の次郎太夫様だ。勘定したら追いかけるから先に戻ってくれ」

女は店の親父と二言三言話をして出て行った。

いい年の親父が背負い駕籠で傘を運んできた。

「宗匠、七本でたるんだら」

「さきゅさん有難うよ」

「うだら」と言って傘を置いて出て行った。

「まずいねこりゃ。酒もこれでおつもりだね」

藤五郎は「れこですか」なんて小指を立てた。

「まさかね脇本陣の娘だ、薹が立ってるが嫁入り前だ」

吉弥は俳句の知り合いだという。

「会えば驚く髭面の大男だ。良い句を捻るので名前で女も寄ってくる」

ずいぶんと飲んだつもりが銀七匁だという。

一人百十文で鰌鍋にかば焼き酒は四合ほど飲んでいる。

「二朱でも釣り合うのか」

未雨(みゆう)はまた南鐐二朱銀を見せ、そこへ一枚足して女将へ「美味い酒でうまいどじょうを食えたよ」と手渡した。

三又を真ん中の東海道で進み、作坂町脇本陣“ 松葉屋文右衛門 ”へ入った。

部屋に落ち着く間もなく玄関先が騒がしい。

どら声が二階まで響いてくる。

「町人が泊まれて武士が泊まれぬとは呆れた脇本陣だ。許さぬ」

次郎丸は他の者を制して降りて行った。

「武士は相身互い。供の物は布団部屋に移らせるゆえお許しあれ」

「下手に出られては争う必要もないそう願おう」

主は「幾部屋ご用意すればよろしいでしょう」と低姿勢だ。

「六人で六畳三部屋なり八畳二部屋なり」

「承りました。まずおすすぎを」

女中に言いつけている間に先ほどの娘が次郎丸達を離れへ案内した。

「ここは手狭故、お頭は茶室でお休みいただきます」

「八畳二間も有る。今までもそう泊まってきた構わぬよ」

「若さんせっかくだそうなさい」

新兵衛が言うので逆らうのはやめた。

主が来て礼を言った。

「助け口までしていただき“ ありがたやでございます ”」

「“ 流行りものには目がない ”若造の差しで口に礼は申し訳ない」

風呂は離れ専用だという、新しく建てたばかりの様で檜の香りが籠っている。

女たちが浴衣を風呂場に置いて行った。

茶の支度をして夕食は酉までお待ちくださいと出て行った。

「先ほどの人たちへ先に出さないとうるさいと思ったのでしょう」

「遅くて十分だ。だが態と泥鰌汁でも出す茶目っ気も有りそうな娘だ」

四郎さんその通りだ、泥鰌が怖いと言った方がいいかねと未雨(みゆう)が笑っている。

陽が伸びていて六時三十分でもまだ外が明るい。

「う、雨が止んでいたか」

「そういゃあ、灯(あかし)無しでも部屋が明るい」

縁側で見ると東に虹が架かっていた。

縁側を大男がやってきた。

ひのおつる 待てととどめる 虹の橋

未雨(みゆう)が今うかんだと男に話している。

「松春吉弥で御座る。未雨(みゆう)師匠は含みが御座らんが、弟子にしろ云う人が多いのが不思議」

不思議はよかったと次郎丸は喜んだ。

「飯屋にはいったのを見かけたのかね」

「目の前の下駄屋で家内と買い物をしていたのだ。お信さんへ話したら今日お着き予定と聞かされた。宇治からの連絡だそうだな」

石清水の両全さんへ寄って、伏見は紀州様のお着きというので宇治へ宿を取ったと話しが弾んでいる。

「皆さん俳諧仲間かね」

「いろいろ揃ってるよ。若さんと言って部屋住みの次男坊に、家出中の旗本の息子に出羽の商人三人、紀州様の家中で江戸遊学へ下向される方」

「俳諧師じゃないのかね」

「一人なり立てで師匠は尾張横須賀の帯梅宗匠だ」

「そりゃ大物だ。どのひとだね」

藤五郎が弟子と言っても教えを受けるのはこれからでと言っている。

夕飯の支度が出来たと運び出したので吉弥はこれで失礼すると去った。

漬け物、鮎の塩焼き、豆腐田楽、煮物(隠元、筍、里芋、人参、干瓢)、汁(しめじ、鶏肉、大根)。

飯は小豆飯だった。

次郎丸がぼんやりと東海道分間絵図の里程を思い出しているとおとなう声がする。

「入っていいよ」

その声で娘が入ってきた。

「どうしたね」

「師匠は私をなんと」

「此処の娘だと言っていたよ」

「師匠はまだ嫁に行っていないと信じていますが。十年前に婚姻し、十日後に実家に戻った夜、山津波で夫は亡くなりました。婚家は一族死に絶え私はそのまま実家で過ごしていてこの話を知る人もわずかです」

次郎丸は悲しそうな顔をしたようだ。

「今はもう吹っ切れましたが父親は嫁に行かなくてもよいと言いますが。婿を迎える気も有りません」

何の相談だろうと気に為った。

有明ににじり寄ると、押えを置いて明かりを小さくした。

そのまま帯を解いて膝にすがられた。

「子が欲しいのです。せめてお情けを」

文化十一年三月二十四日1814513日)・五十七日目

朝卯の刻に飯が出た。

ぐじの干物、湯葉と牛蒡の煮物、瓜の粕漬け、豆腐に油揚げの味噌汁。

飯は菜飯だった。

又辰近くの旅立ちになった、土山まで二里二十五丁ある。

東見附を抜けると今在家に江戸より百七番目(百十二里)の一里塚。

いつの間にか四郎と新兵衛は示し合わせたように一番最後を離れて歩いている。

「なあ、兄いあのお信という娘」

「気が付きましたか」

「なんだありゃ。あんなに色っぽかったか。別人かと思ったぜ」

「食ったんですかね」

「兄貴は後家殺しだと思っていたが、娘も殺すかね」

「いや、生娘が一晩でああなるはずもないでしょうぜ」

「師匠は言わなかったが出戻りかな」

「それなら有りうるでしょうね」

前で藤五郎が幸八と未雨(みゆう)で同じようなことを話している。

藤五郎が前に聞こえない距離が有るとみて二人に話しかけた。

「宿の娘、今朝の色っぽい事驚きましたぜ」

「五年来の付き合いだが、あんなお信さんを見たのは初めてだ。最初に会った十九の時でも色気などどこにもなかった」

「藤五郎が手を出したはずもないとすりゃ、茶室ですかね」

「それしか無いと思うが、聞くわけにもいかないだろう。藤五郎は宇治の娘に惚れられたみたいだが」

「手を出しちゃいませんよ」

「だろうな。手を出したら旅立たせはしないだろう」

淀藩の飛領地が有るようだ“ 従是東淀領 ”の領界石が置いてある。

茶畑が増えてきた。

大野村は水害が多く市場村との境に堤を築いた。

そうすると市場村はそれまで以上の大水に悩まされ掘割を作ることにした。

東の頓宮村境から五百四間、 幅四間の工事は村民の総賦役で四年の工期で元禄十六年に完成した。

大日川の橋の先、市場の一里塚は江戸から百六番目(百十一里目)京(みやこ)から十四番目。

松野尾村の立場は休む人で一杯だった。

松の尾川の渡しは水脇六十文と川会所に札が出ている。

一行はひざ下を濡らしながら渡ることに為った。

とりあえず草鞋と足袋は懐へ入れ、蓮台の数が少ないので人は肩車、荷を蓮台で運ばせた。

付近の畑で新茶の摘み取りが始まっていた。

土山宿辻町御代参街道の追分道標は二つ。

天明八年の“ たかのよつぎ かんおんみち

文化四年の“ 右 北国たが街道 ひの 八まんみち

定飛脚問屋の先の鉤手(曲尺手・かねんて)を左へ入れば道の右左に本陣が有る。

土山宿を横切って流れる来見川の橋をわたった。

三丁ほど先に江戸から百五番目(百十里目)の土山一里塚がある、京(みやこ)から十五番目

街道は鉤手(曲尺手・かねんて)に田村神社の参道に為り、右手の田村川に架かる板橋を渡った。

欄干は尺程度に低いものが設置されている。

土山宿から坂下宿へは二里十八丁、間に鈴鹿峠が有る。

かにがさかあめ ”は旅人が三人ほど休んでいた。

猪鼻村立場は草餅、強飯(こわいい)が売り物、まだ昼には早い。

江戸から百四番目(百九里目)は山中一里塚で旧道へわざわざ入って見つけた。

「京(みやこ)から十六番目の一里塚だが、此処へ抜ける人も多いようだ」

街道へ戻ると、らくやかんのん道しるべは木の杭に“ ゐちいのくわんおん道 ”。

兄いが新兵衛に「峠の上で一休みと峠を越えて一休みのどっちにします」と相談した。

「音に聞こえた難所と言うが老人の言うのは当てに為らん」

「難所は坂の下の方ですよ」

「では下ってから休み茶見世でもあればそこで」

八町二十七曲がり ”はさすがにこたえたようだ。

「これを登るのを嫌で美濃路に為ったは如何にも」

今のような参勤行列組んでいては身動き付きませんと兄いと話している。

鈴鹿権現の鳥居脇、休み茶見世で強飯(こわめし)と草餅で腹を満たした。

岩屋観音に江戸から百三番目(百八里目)の元坂下、荒井谷の一里塚。

「京(みやこ)から十七番目だ」

四郎もあきらめて逆の数えにしている。

梅屋本陣では「江戸への戻り旅だ」と老人に顔を見せた。

若夫婦は「お茶なと」と言うが草鞋を脱がずに別れた。

下之橋(河原谷橋)から沓掛の立場を抜けて辯天の一里塚まで来た。

江戸から百二番目(百七里目)、京から十八番目。

筆捨山の茶店は繁盛していた。

ころびいし ”の周りは巡礼が三組ほど休んでいる。

関宿(しゅく)の手前に大和街道が分岐して“ ひだりハいか やまとみち ”の道しるべが有る。

西の追分の先、新所の坂からは火縄屋が並んでいる。

会津屋は断りを言うほど込み合っているのが見えた。

 関の戸 ” の看板がある、通り過ぎて振り返ると“ せきのと ” に為っている。

玉屋の前は亀山へ足を延ばすのか急ぎ足で向かう旅人も多い。

高札場の先伊藤本陣は様子の良い武家が供と入るのが見えた。

川北久左衛門本陣へ入ってゆくのは “ 松葉屋文右衛門 ”でごねていた連中だ。

鶴 屋 ”へ入ることにした。

道中記に波多野鶴屋は西尾吉兵衛。

 関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か 

「許せよ。七人だが部屋は有るか」

「三部屋ご用意できます」

奥の離れは大人数の講中の様だ。

女中が「お伊勢様へ詣でる方々です」と教えてくれた。

二階、八畳三部屋の続き部屋で、街道に面している。

「よく空いてたものだ」

「お伊勢様の講中の方が此処へ入ったのですが、離れが空いていると聞いて移られたんです。八畳五部屋お使いです」

「お決まりに酒は一人二合付けてくれ。特別に酒のあてでもあるなら追加で頼むよ」

兄いはお捻りを渡して頼んだ。

「たのべば鰻を届けて呉れますが、一匹百八十文に為るです」

「七人分で七匹頼んでくれ、先払いで鰻分だ、余ればその分何か付けるように」

未雨(みゆう)が南鐐二朱銀二枚とお捻りを手渡した。

「さっそく頼んできますだ。焼き上がるころ飯で良いですかね」

「そうしてくれ」

兄いが帳場で何か相談していると女中が戻って「あと二刻(三十分)で来ます」と年増の女中に言って「半分こ」お捻りを一つ手渡している。

鰻は大きく頭も付いてきた、肝焼きが一人二本付いている。

女中が「半分にしていいだか」と聞いて金串を使って皿に取り分けた。

皿がまだ温かい「気が利いてるな」に女中は喜んでいる。

有名になるだけあって夕の膳は手が込んでいる。

鶏の腿肉塩焼き、山菜炊き合わせ、凍み豆腐と南京の旨煮は鶏肉も添えてある。

辛味大根の朝漬け、汁は豆腐。

飯はお代わりしてもまだ余った。

藤五郎は「俺が国では鶏の手羽を焼いてから油で炒めて食べる。ここじゃあんたらの飯の菜なのかい」と聞いている。

「油で炒めるまではしてくれませんよ。塩焼きして味噌で食べますだ」

四郎は酒のあてに半助を残しておいたようで酒を飲みながら齧っている。

「江戸じゃ出してもらえないからな。本所あたりでも馬鹿にされる」

「それじゃ中間、折助と一緒ですぜ」

「俺の友達は半助が好物だぜ、貧乏御家人は折助以下だ」

「そいやぁ土手の鰻屋台も半助をやらなくなった。旅鰻が増えて大きいのが増え、蒸しを多くかけても頭が食えなくなったせいだ」

「大串でも一匹でしたが、旅鰻は大串を片身で取れますぜ。大きな頭を食えるように焼くには手間もかかります。安くは出来ませんぜ」

鰻の頭談義に花が咲いた。

年増の女中が「それでお江戸の方は頭を残されるのですか」と納得したようだ。

文化十一年三月二十五日1814514日)・五十八日目

鶴 屋 ”を卯の下刻(五時二十分頃)に旅立った。

御馳走場の先が関宿(しゅく)の江戸方出入口。

木崎の坂を下れば関の一里塚は江戸から百一番目(百六里目)、京(みやこ)から十九番目。

追分の右の道は伊勢別街道、伊勢外宮鳥居まで関の追分から十五里。

小万の隠れ松と言われる松林、一里十八丁で亀山宿。

間が鈴鹿川の大岡寺畷(だいこうじなわて)で千九百四十六間半と言われている。

「野径(やけい)という方が此処の句を詠んでいて、芭蕉翁が“ ひさご ”に乗せています」

からかぜの たいこじなわて ふきとおし

芭蕉は此処の事を詠んでいないが芭蕉の持っていた瓢(ひさご)は有名だったと話してくれた。

小万くらいしか話題がない松原で話題を提供してくれている。

もの一つ ひさごはかろき わが世かな

春立つや 新年ふるき 米五升

「のちに名付けて“ 四山の瓢 ”米櫃にしていた米五升入る大きな瓢だそうです」

坂を上ると落針の昼寝観音に着く。

小布気神社の鳥居が有る。

野村一里塚は江戸から百番目(百五里目)、京(みやこ)から二十番目。

惣門の先が亀山宿。

京口門から入ると鉤手(曲尺手・かねんて)で西新町へ出る。

青木門を挟んで西町、外堀池の側の坂は万町。

横町の高札場と大手門、鉤手(曲尺手・かねんて)で右に東町に入り先がまた鉤手(曲尺手・かねんて)で江戸口門に至る。

外に東新町、茶屋町と宿場が続く。

十丁先に土橋が有り、その先の和田一里塚は江戸から九十九番目(百四里目)、京(みやこ)から二十一番目。

鉤手の先、和田村追分に道標が有る。

従是神戸 白子 若松道 元禄三 庚午年

施主 度会益保

白子湊(紀州領)、若松湊(亀山領)へ向かう道と道中記に出ている。

「若さん、若松と言えば大黒屋の生まれた土地ですぞ」

「あのロシアへ漂流した人ですか」

「わしは少年で許されなかったが壬戌の年、白子で聞き取りをした記録が有る。サンクトペテルブルクという大きな街のことは、ほら話と思う者もいたくらいで有り申した。長じて古き書物でほらではないとわかり申した」

「知識を抑え隠すのでなく学ばせるべきでしょうが、老人は夷狄、蕃夷(ばんい)などとさげすむだけです」

「老人だけで済めばいいのですが攘夷と叫ぶ若者もいます。いまだに蒙古襲来を持ち出します」

「そういえば京(みやこ)へ上るときこの辺りでも日蓮上人の廣宣流布の碑を見たように」

「はぁ、若さんの連想はそっちにも広がりますか」

「自分で抑えが効かない方向へ時々飛んでしまうのだ。関の西追分と川合の橋を越えた所で見たという事はやはりこの付近だ」

兄いは立ち止まらないのによく覚えているもんだと言う。

ほんの二丁も行かないうちに出てきた。

一段高く石が積まれ、見上げると八尺は有りそうだ。

天長地久國土安穏 ”“ 南無妙法蓮華経 ”“ 後五百歳中廣宣流布

背に“ 施主 谷口法悦 ”と彫られている。

「百年は経っているようだが年が無いですぜ」

川合(河合)村は東西が川で小さな立場に為っている。

川を越えると“ 従 是 西 亀 山 領 ”の石柱が有る。

中富田一里塚は鉤手の角にある。

中冨田一里塚は江戸から九十八番目(百三里目)、京(みやこ)から二十二番目。

兄いが時計を出して何かぶつぶつ言っている。

「どうしたよ」

「五時間の積りが三十分余分だ」

「その位どうでもいいだろうに」

「庄野に昼を頼んでおいたんですよ。鮎を頼んで置いたんですぜ。前に安楽川へ上る鮎は日本一と聞いたんでね」

汲川原入口に“ 従 是 東 神 戸 領 ”の石柱が有る。

「庄野は天領だよ」

「では宿の周りが神戸領なんでしょうね」

伊勢神戸藩は一万五千石、本多忠升は十一年前十三歳で家督を継いだ。

庄野へ入って料亭かと思へば兄いは通り過ぎた。

問屋場で談笑していた男があわてて澤田本陣へ入るとよく響く声で「ご到着~~」と叫んだ。

すすぎをとって足を洗うと脚絆を取って上に上がった。

広間にとおると五人の紋付の男たちがかしこまって拝んできた。

「どうしたまだ佛にゃ早い」

「早で江戸から昨日お許しの連絡が来ました。届を出して三日でご裁可が居りまして、半減が決まりましたうえ、助郷の範囲を広げることもお許し下されました」

「さすが、美濃守様は御決断が速い」

「今晩宴席を設けさせてくだされませんでしょうか」

「いや今日は四日市、明日は桑名で尾張様のご都合で海を渡らねばならぬ。昼を食べたら出ねばならぬ」

「では祝いの盃を廻すだけはお許しください」

「そこまでは断る理由もござらぬ」

楠与兵衛は嬉しそうに支度を頼んだ。

男たちが帰ると昼の膳が運ばれてきた。

目が開いた娘は八歳だという、字も覚えて絵草子を自分で読める様になりつつあると二親と祖母は次郎丸に礼を言う。

新兵衛の「兄い、若さん医者もやるのか」に兄いと幸八はたまらず吹き出した。

本陣“ 澤田兵左衛門 ”を午の下刻(一時十五分頃)に出た。 

石薬師へは二十五丁。

上野村、川の土手にある石薬師の一里塚、江戸から九十七番目(百二里目)、京(みやこ)から二十三番目。

天領のこの地へ宿場が出来て二百年、此の宿には本陣が三軒有るが、旅籠は十五軒、脇本陣は無い。

中町に岡田庄兵衛本陣と岡田忠左衛門本陣。

本町に小澤右衛門本陣、向かいが問屋場。

その先街道左に大木神社の鳥居が有る。

石薬師を通り抜ければ四日市へ二里二十七丁。

道は下ってその先に上り坂が見える。

川には石橋が掛かっていた、水が石の上に掛かりそうに流れている。

この付近東海道分間絵図には坂を挟んで大谷、小谷と出ていたところだ。

二段の坂を上りその先には杖衝坂が待っている。

此の辺り庄野宿から四日市宿までの街道沿いは天領に為る。

采女の一里塚は江戸から九十六番目(百一里目)京(みやこ)から二十四番目。

「新兵衛様上りはあと少し、此の辺り日本武尊(ヤマトタケルノミコト)様が坂を登り切り、体を清めたと伝承が有ります。大日の井戸や弘法の井戸と云う井戸も有るので伝承が多いところです」

「弘法の井戸は全国くまなくあるとよく聞かされました」

「下りは急坂でね。京(みやこ)へ上るときは息切れがしました。芭蕉翁が落馬した句碑も有りましたぜ」

未雨(みゆう)も笑っている。

「“ 歩行ならば杖つき坂を落馬哉 土芳の横日記にもその時“ まさなの乗手や ”と馬子に叱られたと出ています。自分でも季語もはいらぬと書いています」

宝暦六年村田鵤州によって建立されている、ちらと横目に見たくらいで通り過ぎた。

坂を下りると采女の立場に為る、川を越えれば小古曽(おごそ)から二筋小さな川に石橋が置かれていた。

幾筋も小川が有り石橋と土橋が続いている。

やっと日永の追分まで来た。

「まだ先か、こんなに一里塚離れて居たっけ」

「藤五郎、此処の一里塚は他より十丁以上は離れているよ」

立場は、伊勢土産を買い足りない人たちが、足袋や団扇を買い求めるために繁盛している。

土橋の続く立場の端に日永一里塚。

江戸から九十五番目(百里目)京(みやこ)から二十五番目。

申の鐘(四時五十分頃)が響いてきた。

「藤五郎よ、今度の一里塚も昔のように距離が有るが、坂は無いから楽だぜ」

「兄い幾ら何でもひどい、四日市の川向こうで見たぞ」

「覚えてたのか。娘と夢中で喋っていて見逃したと思ったぜ」

「おいら、其処まで女蕩しじゃねえよ。きちんと街道は見てるぜ」

「ほんとにしておこうぜ」

街道は鈴鹿峠で南へ向いたが、関からは東へ、石薬師付近から徐々に北上している。

浜田村はもう街場の様相を見せる店が並んでいた。

鵜森神社参道わきの休み茶見世で一休みした。

旅姿の若い武士が供と参道から出てきた。

「おっ」

その声で振り向いた武士が「金四郎殿ではござらんか」と寄ってきた。

「家に戻られたと聞いたが。またも出られたのか」

「いやいや、兄上の養子と云う形で江戸へ戻れば家へ入るのだがね」

「四日市か、桑名か」

「四日市だ、宿は決まっているそうだ。靭負殿こそどこへ行かれる」

長引きそうだと次郎丸が同宿を誘った。

黒川彦兵衛本陣 は本陣に為って三年目、それ以前は太田家が本陣で、黒川彦兵衛が脇本陣だった。

一番本陣清水太兵衛家は札の辻の東側、黒川彦兵衛本陣は西側に為る。

「元助、陣屋で友人と黒川本陣へまいると告げてまいれ」

「かしこまりました」

先へ駆けて行った。

四郎も陣屋と怪訝な顔だが本陣へ入るまで道場の話をしている。

部屋で四人に為るとそれぞれの名を靭負と云う武士へ告げた。

「織部靭負ともうす。金四郎殿もその名で付会う仲で御座るが、この度兄の養子となり多羅尾氏純として信楽へまいる途中で御座る」

多羅尾氏純(うじひろ)は信楽代官と為る許可が下りての国入りだという。

「それで陣屋か」

「陣屋は古い建物が多くて、何処かへ泊まるつもりで町へ出てついでに俵の藤太(藤原秀郷)の兜拝見と訪れたのだ」

「御大名でもなかなか十万石はおらんぞ」

「我が家は千五百石で御座るよ」

「多羅尾氏と云えば四十二有る代官の最高位と云われておるではないか」

「いきなり代官に為れと言われて、これから職務を学ばなければなり申さぬ。兄も体が弱ってきているというし家臣の助けなしにはどうにもならんよ」

四日市は二名、手付に手代(抱え席)が居るだけであとは使用人だという。

普通代官の手付は幕府御家人から選ばれていることが多い。

「支配地は広いが人が足らん、江戸家老と云う名ばかりの元に九人が居るが信楽を含めても家来が三十人やっとだ。これで十万石の支配をするにはそれぞれの土地の者頼りだ」

多羅尾氏は家康の伊賀越えを助けた功で没落から救われた。

江戸屋敷は土手四番町、牛込御門と市ヶ谷御門の間、朝比奈屋敷の東隣にある。

余談

天領支配地の石高と税収。

天領では江戸期を通して年貢はおおむね四公六民で安定していた。

年貢高は毎年の年貢割付によって決まる。

天明六年

1786年)

石高

四百三十四万千二百十三石

年貢高

百八万千四百八十五石

米納

  八十五万千四百九十三石

金納

  八万三千九百四十五両

天明八年

1788年)

石高

四百三十八万四千三百三十四石

年貢高

百四十三万三千三百七十七石

米納

百十六万二千三百八十九石

金納

十万八千三百九十五両

文化十年

1813年)

 

石高

四百四十三万七千四百五十八石。

年貢高

百五十万千八百七十七石。

米納 

百二十二万千七百六十三石。

金納

  十万三千四百五十九両。

元助が戻ってきた。     

その晩は新兵衛を中心に剣術話に花が咲いた。

元助は兄いが引き受けて別間で道中の話で酒を十分飲ませて寝かした。

 第七十四回-和信伝-拾参 ・ 2024-05-28

 
   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




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