花音伝説

第伍部-和信伝-

 第三十二回-和信伝-

阿井一矢 

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

フェンシェンインデと固倫和孝公主の間に男子誕生。

乾隆五十九年十二月十九日(179528日)-和信(ヘシィンHé Xìn

 

産まれ落ちると平文炳(ピィンウェンピン)の手で余姚(ユィヤオ)邸へ預けられた。

船乗りの隠居邸、塩業者の隠居邸などが並ぶ一角だ。

乳母と爺やの二人が世話をするほかは庭番に二人の若者、三人の奴婢が屋敷を管理した。

 

和信の記憶は三歳の誕生日(満二歳)、媽媽(マァマ)が手に墨を塗り手形を紙へ何枚も押させるところから始まる。

それを見ている自分がいるような曖昧な記憶だ。

翌年はそれを嫌がる様子をやはり傍観している記憶だ。

五歳の時からは確り記憶している、それまで媽媽(マァマ)と信じていたのが乳母で老爺は自分の御守の付き人と告げられた日の事だ。

 「結」の要、平文炳(ピィンウェンピン)、「御秘官」の要、平儀藩(ピィンイーファン)は、豊紳殷徳(フェンシェンインデ)に続いての男子に黄泉の馮英廉(ファンインリィェン)も満足しているだろうと感じている。

京城(みやこ)へ初めて上がったのは嘉慶五年二月(1800年)の事で龍抬頭の祭りの日に船の両親とすれ違った。

信に初めて両親のことが教えられたのもこの日だ。

泊まるのは瑠璃廠東の房頭条胡同幹繁老(ガァンファンラォ)が平文炳(ピィンウェンピン)に紹介された。

 

翌年は都へは出かけなかったが、両親が災害に良く働いたと毎年面会に京城(みやこ)へ上がってよいとフォンシャン(皇上)の許しが出た。

嘉慶七年二月一日の豊紳府へ初めて出たときは屋敷の者が総出で収穫し、漬け込んだ楊梅(ヤンメイ)の白酒(パイチョウ)漬けの瑠璃の瓶を持参した。

三年前から収穫も増えて瑠璃の瓶を土産に三十本持って来た。

百二十本の樹から三百本の瓶と百口の壺へ漬け込むだけの収穫に増えて来た。

 嘉慶九年二月二日、フォンシャン(皇上)は光禄寺の門内から声を掛けた。

楊梅(ヤンメイ)の白酒(パイチョウ)漬けの瑠璃の瓶の土産はその年も豊紳府邸の人に喜ばれた。

 

この年、和信(ヘシィン)の邸(やしき)にいる子達は官員ではなく船乗り、塩業の親が多い。

康演(クアンイェン)から関元(グァンユアン)に此処の取り扱いが移り、その際に資金が多く使える様になった。

康演(クアンイェン)の時でも余るくらいだったので人を雇って荒れた畑を開墾して増やし、実のなる樹を増やした。

蟠桃は贈られた二十本だけだが、日本で古くからの桃を改良した苗木が百本来て十本残して一帯に配った。

昨年、陝甘総督時代の伝手で尚安(宜綿・総督嘉慶二年1797年~嘉慶四年1799年)が蟠桃の苗木を集めてくれた。

来年には気の早いものは実がつくと老媼(ラォオウ)が教えてくれた。

なんでも陝西の西安(シーアン)から馬で一日の山中に樹齢千年を豪語する樹があり毎年挿し木(接ぎ木)で十六本しか譲らぬそうだ。

その樹の若木を三本に孫にひ孫、玄孫だと札がついてきた。

鴨梨(ヤーリー)は昨年ようやく一本に実を付けた。

通いの料理人はいろんな蜜に漬け込んで食べさせてくれた。

摘み取って二十日ほど棚に置いておくといい香りがした。

隣邸の老媼の生まれ故郷には大きな樹になると選定して二百個以上の実が取れたという。

収穫から三日くらいの堅いほうが美味しいと教えてくれた。

故郷は武漢だという。

今は預かる子たちにも拳、槍、馬を習わせる余裕も出来た。

王陽明(本名:王守仁)の故居で有名で、その地から西の北城の西門を出て十五里ほど。

三十軒ほどの農家に囲まれた邸がある。

浙江省紹興府余姚県、塩業の人たちの隠居屋敷と余姚の人たちは思っている。

康熙帝から許されたと代々の浙江巡撫は引継ぎを受けるという。

今は嘉慶四年から阮元が引き続いて務めていて、海賊退治では結への応援もしてくれている。

付近の若者に対しての教育の場の応援も盛んにしてくれる。

詁経精舎(こけいしょうじゃ)を設立、学術振興,学者を多く集め書物の編纂事業を統督貢献している。

 

拳の先生は書も教えるので邸内に家がある。

馬術は北城に郷紳の子供達へ教える馬場が有り、五歳から教えてくれる。

同じ時期に「結」の仲間からの要請もあって五歳から八歳の男の子が六人同居してきたが、科挙の郷試には向かない活きた学問が主体で地理、天文、気象と学ぶことは多い。

天文の先生は数理も教える、星の運行も数理が基本だという。

 

京城(みやこ)へ出た一行のうち男たちが戻ってきた。

付き添いの男三人が戻り、女五人と関元(グァンユアン)の家族が後になるとの報告だ。

付き添いの女たちは京城(みやこ)見物で十日ほど後になるというので嬉しそうだと報告された。

「小遣いは足りそうかい」

趙(ジャオ)哥哥が代表しての報告だ。

「孜漢(ズハァン)の旦那が戻るワッチ達まで十分下さいました」

「よく気が利く人だね。お礼の手紙を私が代表して書いておこう」

関元(グァンユアン)のチィズ(妻子・つま)舒慧蓮に子供達が公主の気に入り、なかなか手放してくれないという。

舒慧蓮(シュフゥィリィェン)二十五歳

平峰征(ピィンファンジァン)嘉慶三年生れ。七歳。

平峰源(ピィンファンユァン)嘉慶五年生。五歳。

 

三月二十日に余姚(ユィヤオ)を船出した十二人の娘たちは直ぐに豊紳府になじみ公主の覚えも良いという。

「ファリン様も夢月(モンュエ)様もいい娘たちが来てくれたと御喜びでした。人数が増えるのはお見通しの様でした」

「安心したよ。人数が多くなって引き受けて下されるか心配だったのさ」

「姚杏娘(ヤオシィンニャン)という若い使女のかたが奴婢掌事女に選ばれていてファリン様からも見習うように言われておりました

「その娘のこと聞いています。十七歳だというのに気配りが良いと額娘(ウーニャン)も褒めておりました」

五月一日に着いて京城(みやこ)を出るのは二十日に為るという。

 

邸の周りに住む老人たちは信(シィン)が十一歳で日増しに大人びてくるのを期待の眼で見ている。

物言いは優しいが剣に乗馬は大人顔負けの腕だ、母親に似たようだ。

おまけに皇帝の一族と知っても驕りのかけらも見えない。

 

七月二日盛夏のさなかに関元(グァンユアン)に率いられ京城(みやこ)土産とともに余姚(ユィヤオ)に戻ってきた。

付き添いの女たちはあか抜けたと邸の老人におだてられている。

「いわれたように船でも日よけ傘をしていましたのさ」

明日とあさっては実家で休むように言われ、土産を積んだ驢馬を引いて送られていった。

 

女たちが手伝いの農民と戻って、今年二回目の楊梅(ヤンメイ)の収穫が始まった。

先月十六日に一回目の収穫はまだ黄紅色のもので、色づくのを待って邸のものと手伝い併せて総勢四十八人で手摘みをするのだ。

手を広げて苗木を探しに回っているものは、親樹を売りたいものからも買い集め、今年二回目の今日は千二百本を超す樹が収穫できる。

舒慧蓮(シュフゥィリィェン)が農園を仕切って将来栽培五千本にするという。

集めてきた親樹、苗木は七つの離れた場所に分散してできるだけ混ざらないように地域分けもしている。

手摘みの楽しみは後で熟れた実を皆で食べられることだ。

女たちは手の感触で熟れ過ぎというものは別の袋に集めている。

白酒(パイチョウ)は高粱酒(カオリャンチョウ)に茅台酒(マオタイチョウ)だったが、今年は洋河大麴(ヤンハダァチュイー)なども試すという。

 

九月に入り、公主の元へ珍しく宜綿(イーミェン)が友人を連れて来た。

「哥哥」「首領」と呼び合っている。

「同じ飯を四川で食った友人です」

歴戦の猛者だという、槍の名手だと宜綿(イーミェン)が褒めた。

「槍と棍ではどちらが有利なの」

「乱戦に為れば槍も突くより叩きつける事になりますが、一対一になれば槍が有利です」

宜綿(イーミェン)が相手を褒めるのは珍しい、相当の猛者の様だ。

宜綿(イーミェン)はフェンシェンインデと同じ事件で嘉慶四年に呼び戻されて暇になったが、哈豐阿(ハフンガ)は後始末で嘉慶六年の大水の後まで四川、陝西に留まって(とどまって)いた。

満州鑲黄旗富察と云っても家は佐領がいい処だと出世に興味は無い様だ。

十三歳になる息子は「豊伸布」だと告げて嬉しそうに顔が緩んだ、相当の親馬鹿の様だ。

出かけていた昂(アン)先生とインドゥが戻り槍談義に花が咲いた。

話が一段落してようやく公主に今日の訪問の報告だ。

内務府から了承の通知が来て妹の長女誕生の祝いに出かけてきた。

夫は貝勒永鋆、淳親王の孫という名家だ、ついこの間まで護軍統領という重職についていた。

 

八旗にそれぞれ護軍統領、参領がいる、

貝子の奕紹(イーシァオ)の新しい職と同じだ。

上三旗が禁門を守護,下五旗は王公府門を守護した。

八旗漢軍は緑営と言われた組織に編成されたが、禁旅八旗九万人といわれる組織は入り組んでいて一覧図を内務府が抑えて離さない。

驍騎三万四千・護軍一万五千・前鋒千七百・歩軍二万千・親軍千七百・健鋭兵二千・火器営兵六千・虎槍営兵六百が主な組分けと言われた。

紫禁城外から皇城以内は、満洲八旗歩軍、下五旗護軍は城外。

インドゥは内大臣の時にいやというほど詰め込まされた知識だ。

八旗兵は百万と言われた時代だ、直隷駐防に代表される駐防八旗は嘉慶帝の財政をむしばんでいる。

乾隆帝の死期が近づき殉死を望んでいた和珅(ヘシェン)を弾劾してくれる官吏を探すのに苦労し、いささか無理強いの形で二人探し出したが、調べが進むと和珅(ヘシェン)和琳(ヘリェン)兄弟の名を騙った汚職ばかりだった。

これには定親王綿恩に綿寧も驚いて和珅(ヘシェン)逮捕前に豊紳殷徳(フェンシェンインデ)に害が及ばぬように十一阿哥成親王永瑆(ヨンシン)と徹夜で協議を重ね、嘉慶帝の認可を得るほどだった。

 

「弟弟、綿慶殿の事聞いたか

「うむ、最近病がちだという」

多羅質郡王綿慶は宜綿(イーミェン)の上の妹妹の嫁ぎ先だ、ひ弱だという話で側室に子供が一人出来ただけで家族が少ない。

綿慶の兄弟も五人の男子がすでに亡くなっている。

「宋太医の話だとあと二月は難しいという。王神医(ゥアンシェンイィ)の薬でもここまでもったのが奇跡だそうだ」

嘉慶帝の指示で薬を飲み始め二年足らずで子はできたが身体の衰えは家系の血のものだという。

最初に宋太医と王神医(ゥアンシェンイィ)が診察したときは労咳病(ろうがいやみ)の症状をしていたが、血を吐くわけでもなくちがう筈だというのが二人の意見だ。

「よく家系に伝わる血というが、俺たちもそうなのか」

「いや、哥哥や俺はそれだけではなさそうだ。哥哥の息子も娘も長命、俺のところもそう卦が出る」

「宋太医に王神医(ゥアンシェンイィ)も不明の原因ということはあるようだ」

「なんせ、医者は千年前の教えに縛られているからな」

「あの二人にもわからぬ病は多いという。腑分けして病の元を取り除ければ助かる病人でも血を止める工夫がつかないそうだ。足一本、手一本ですむならともかく頭の中に腹の中は割くことが難しい」

「難しいということはできるものもあるのですか」

哈豐阿(ハフンガ)が外科は馬医者のほうが上だと言って笑った。

「それだよ馬なら眠らせる手もあるそうだが、人が阿片で痛みを抑えても奥深くでは血が流れ出て止められないそうだ」

後のことだが十月二十六日、綿慶は朝茶を飲んで眠るがごとく安らかになくなった。

 

「それより來杏妹妹(ラァイシィンメィメィ)のほうはまだか」

「あと十日ほどだ」

「和鵬(ホパァン)は二等侍衛だったな」

「おお、気の早い奴だぜ。春に妊娠したから和春(ホチュン)と名を決めているそうだ」

「ふざけた野郎だ」

「だろ、男かどうかも知れないうちに決めたそうだ」

和鵬(ホパァン)は赫舎里氏(ヘシェリ)満州正黄旗、代々石虎胡同に住んでいる。

ラァイシィンが母親譲りの美貌で侍衛仲間に評判だった。

公主は三月先の祝いと訪問の届の準備を姐姐(チェチェ)と相談している。

「お家柄とは大変ですな。お付き合いのたびにですか」

「おう、哥哥も気いつけなよ。出世の声がかかれば足を引っ張る奴も出てくる」

「私のような下っ端にはないでしょう」

「下っ端ほど袖の下がお好きだぜ」

「私のところは無縁ですよ」

「だからだよ。俺や父があれだけ賄賂と無縁でも、うわさで内務府に宗人府が上奏を信じ込む」

「そうだ、叔叔(シゥシゥ・叔父)は死んだ後、罪状探しに福康安(フカンガ)殿の看病が至らないを口実に太廟から棺が放り出された」

「その通りですよ。今日の訪問も福恩の槍の教授のお願いの返事と届けますね」

公主の笑いにハフンガも揶揄われたという顔だ。

 

「忘れもしない壬子(乾隆五十七年)の三月、西藏(チベット」派遣の時だ。チンハイまで生まれたばかりの息子を置いて出征した」

ハフンガは思い出すように語った。

「この時の大将軍はフカンガ殿で四川からの糧食の運搬が割り当てられた。いざ西蔵まで着いたら戻る脚夫(ヂィアフゥ)の手当ても出ないという話だ」

差配に聞くと徴発され、ここまでの軍費に脚夫(ヂィアフゥ)の支払い履歴もないという、前の隊は乞丐(乞食)同然で故郷へ戻されたという。

「大将軍は(和琳の事)慌てて自分の財産、軍費の借り上げをして目の前で二百を超す脚夫(ヂィアフゥ)一人一人が受け取るのを確認されたうえで、送り返す護衛兵も三十人つけられた。道々見つけたものは一緒に連れ帰るようにと十分の銀も持たせました」

「フカンガ殿がそこまでされたの」

「あ、いや。ヘリン殿のことでござる。ついそう呼ぶので。そのことを知ったフカンガ殿は甚く(いたく)和琳(ヘリン・ヘリェン)殿をご信頼なされました。病の責任をなど言語道断でしょう」

「これこれ、口が滑ると脚を取られますよ」

慌てて口を覆うハフンガだ。

和珅(ヘシェン)と同じように和琳(ヘリェン)も西蔵語は通訳なしで行え、土地の者にも優しかったという。

「それにしても大きな損が出た、あの勇猛な海蘭察(ハイランチャ)殿も病で帰京を余儀なくされたほど病人が多くて大変だった」

 

役儀によっては友人、親族といえど違反行為は上奏しなければ自分が非難される時代、生き抜くのも大ごとだ。

ハフンガのように戦いの場に駆り出される武人に出世は難しい時代でもある。

飛虎健鋭雲梯営で襄陽、四川と連戦、二人は四川で知り合ったという。

方や官軍、方や郷勇(団練・郷紳)の指揮官と前線へ送られることが多かった。

二人の話はその縁での首領の宴席に紛れ込んだ話に及んだ。

「あの頃教徒たちに幻術使いがいて、兵が悩まされたとうわさが飛んで指揮官にも信じるやつがいた」

「手品の高度な奴に催眠術など、見世物師ならすぐに見破れる程度でも噂のほうがすぐに広がったよな」

「あの芸妓屋の親父のほうも凄かったが、楊(ヤン)と呼ばれていた学者が術だとすぐに見破ったな」

「五十人連れてきて俺の支配に組み込まれたが、あんな物知りでも郷試に落ちた秀才とはな」

「挙人に受かるのは大変だが秀才でも地方じゃなかなか受からない」

 

童試第一段の県試は県の長官である知県が行い、五日掛かって四書、五経、詩、賦、論を試験。

府の試験「童試」合格者、再試験(三年に一度)を経て秀才(生員)。

郷試(三年に一度)合格者は挙人。

会試は郷試(三年に一度)の翌年行われ受かれば貢士。

貢士は殿試を受ける資格となり合格者は進士。

そのうち上位者一甲が状元、榜眼、探花。

 

嘉慶七年(1802年)の状元一甲第一名は呉廷琛、蘇州府呉県の人すでにこの年三十歳と伝わる。

上位合格者は翰林院へ迎え入れられる、半数は三品以上の上級官僚に出世した。

「第二甲」「第三甲」の合格で優秀なものは庶吉士に任じられて翰林院へ残された。

同年の武状元は李白玉、直隸蔓城の人。

武進士一甲第一名,授頭等侍衛、大門上行走に任じられた。

 

豊紳府へは武探花の陸鳳翔(嘉慶七年武進士)も景延(チンイェン)のつてで出入りしている。

公主は兄に願い御前侍衛から「使女の剣武指導に差し遣わす」と許しを得たので非番には家族ともども、ほとんどここにいる。

去年の騒動以来嘉慶帝は公主に優しい。

上の息子六歳は昂(アン)先生の弟子だ、下の二歳の息子は与えられた棒を見よう見まねで扱いだし、正式に弟子に加えられた。

来年には広東(グアンドン)潮陽(汕頭・シャントウ)営游擊に転任と決まった。

遊撃は従三品だから栄転には違いない、大分に早い時期からの根回しが進んでいるようだ。

「遠くて大変ね」

「しかしこれで妻にも楽をさせることができます」

二等侍衛では諸手当を入れても月十二両にしかならない、家職のないものには家庭を保つにはつらい報酬だ。

 

第三十二回-和信伝- ・ 2023-01-02

   

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

・和碩親王(ホショイチンワン)

世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅郡王(ドロイグイワン)

長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅貝勒(ドロイベイレ)

・固山貝子(グサイベイセ)

・奉恩鎮國公

・奉恩輔國公

・不入八分鎮國公

・不入八分輔國公

・鎮國將軍

・輔國將軍    

・奉國將軍

・奉恩將軍    

・・・・・

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

・・・・・

満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

・・・・・

   

 

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。

時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

     

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




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