九月に入り、公主の元へ珍しく宜綿(イーミェン)が友人を連れて来た。
「哥哥」「首領」と呼び合っている。
「同じ飯を四川で食った友人です」
歴戦の猛者だという、槍の名手だと宜綿(イーミェン)が褒めた。
「槍と棍ではどちらが有利なの」
「乱戦に為れば槍も突くより叩きつける事になりますが、一対一になれば槍が有利です」
宜綿(イーミェン)が相手を褒めるのは珍しい、相当の猛者の様だ。
宜綿(イーミェン)はフェンシェンインデと同じ事件で嘉慶四年に呼び戻されて暇になったが、哈豐阿(ハフンガ)は後始末で嘉慶六年の大水の後まで四川、陝西に留まって(とどまって)いた。
満州鑲黄旗富察と云っても家は佐領がいい処だと出世に興味は無い様だ。
十三歳になる息子は「豊伸布」だと告げて嬉しそうに顔が緩んだ、相当の親馬鹿の様だ。
出かけていた昂(アン)先生とインドゥが戻り槍談義に花が咲いた。
話が一段落してようやく公主に今日の訪問の報告だ。
内務府から了承の通知が来て妹の長女誕生の祝いに出かけてきた。
夫は貝勒永鋆、淳親王の孫という名家だ、ついこの間まで護軍統領という重職についていた。
八旗にそれぞれ護軍統領、参領がいる、
貝子の奕紹(イーシァオ)の新しい職と同じだ。
上三旗が禁門を守護,下五旗は王公府門を守護した。
八旗漢軍は緑営と言われた組織に編成されたが、禁旅八旗九万人といわれる組織は入り組んでいて一覧図を内務府が抑えて離さない。
驍騎三万四千・護軍一万五千・前鋒千七百・歩軍二万千・親軍千七百・健鋭兵二千・火器営兵六千・虎槍営兵六百が主な組分けと言われた。
紫禁城外から皇城以内は、満洲八旗歩軍、下五旗護軍は城外。
インドゥは内大臣の時にいやというほど詰め込まされた知識だ。
八旗兵は百万と言われた時代だ、直隷駐防に代表される駐防八旗は嘉慶帝の財政をむしばんでいる。
乾隆帝の死期が近づき殉死を望んでいた和珅(ヘシェン)を弾劾してくれる官吏を探すのに苦労し、いささか無理強いの形で二人探し出したが、調べが進むと和珅(ヘシェン)和琳(ヘリェン)兄弟の名を騙った汚職ばかりだった。
これには定親王綿恩に綿寧も驚いて和珅(ヘシェン)逮捕前に豊紳殷徳(フェンシェンインデ)に害が及ばぬように十一阿哥成親王永瑆(ヨンシン)と徹夜で協議を重ね、嘉慶帝の認可を得るほどだった。
「弟弟、綿慶殿の事聞いたか」
「うむ、最近病がちだという」
多羅質郡王綿慶は宜綿(イーミェン)の上の妹妹の嫁ぎ先だ、ひ弱だという話で側室に子供が一人出来ただけで家族が少ない。
綿慶の兄弟も五人の男子がすでに亡くなっている。
「宋太医の話だとあと二月は難しいという。王神医(ゥアンシェンイィ)の薬でもここまでもったのが奇跡だそうだ」
嘉慶帝の指示で薬を飲み始め二年足らずで子はできたが身体の衰えは家系の血のものだという。
最初に宋太医と王神医(ゥアンシェンイィ)が診察したときは労咳病(ろうがいやみ)の症状をしていたが、血を吐くわけでもなくちがう筈だというのが二人の意見だ。
「よく家系に伝わる血というが、俺たちもそうなのか」
「いや、哥哥や俺はそれだけではなさそうだ。哥哥の息子も娘も長命、俺のところもそう卦が出る」
「宋太医に王神医(ゥアンシェンイィ)も不明の原因ということはあるようだ」
「なんせ、医者は千年前の教えに縛られているからな」
「あの二人にもわからぬ病は多いという。腑分けして病の元を取り除ければ助かる病人でも血を止める工夫がつかないそうだ。足一本、手一本ですむならともかく頭の中に腹の中は割くことが難しい」
「難しいということはできるものもあるのですか」
哈豐阿(ハフンガ)が外科は馬医者のほうが上だと言って笑った。
「それだよ馬なら眠らせる手もあるそうだが、人が阿片で痛みを抑えても奥深くでは血が流れ出て止められないそうだ」
後のことだが十月二十六日、綿慶は朝茶を飲んで眠るがごとく安らかになくなった。
「それより來杏妹妹(ラァイシィンメィメィ)のほうはまだか」
「あと十日ほどだ」
「和鵬(ホパァン)は二等侍衛だったな」
「おお、気の早い奴だぜ。春に妊娠したから和春(ホチュン)と名を決めているそうだ」
「ふざけた野郎だ」
「だろ、男かどうかも知れないうちに決めたそうだ」
和鵬(ホパァン)は赫舎里氏(ヘシェリ)満州正黄旗、代々石虎胡同に住んでいる。
ラァイシィンが母親譲りの美貌で侍衛仲間に評判だった。
公主は三月先の祝いと訪問の届の準備を姐姐(チェチェ)と相談している。
「お家柄とは大変ですな。お付き合いのたびにですか」
「おう、哥哥も気いつけなよ。出世の声がかかれば足を引っ張る奴も出てくる」
「私のような下っ端にはないでしょう」
「下っ端ほど袖の下がお好きだぜ」
「私のところは無縁ですよ」
「だからだよ。俺や父があれだけ賄賂と無縁でも、うわさで内務府に宗人府が上奏を信じ込む」
「そうだ、叔叔(シゥシゥ・叔父)は死んだ後、罪状探しに福康安(フカンガ)殿の看病が至らないを口実に太廟から棺が放り出された」
「その通りですよ。今日の訪問も福恩の槍の教授のお願いの返事と届けますね」
公主の笑いにハフンガも揶揄われたという顔だ。
「忘れもしない壬子(乾隆五十七年)の三月、西藏(チベット」派遣の時だ。チンハイまで生まれたばかりの息子を置いて出征した」
ハフンガは思い出すように語った。
「この時の大将軍はフカンガ殿で四川からの糧食の運搬が割り当てられた。いざ西蔵まで着いたら戻る脚夫(ヂィアフゥ)の手当ても出ないという話だ」
差配に聞くと徴発され、ここまでの軍費に脚夫(ヂィアフゥ)の支払い履歴もないという、前の隊は乞丐(乞食)同然で故郷へ戻されたという。
「大将軍は(和琳の事)慌てて自分の財産、軍費の借り上げをして目の前で二百を超す脚夫(ヂィアフゥ)一人一人が受け取るのを確認されたうえで、送り返す護衛兵も三十人つけられた。道々見つけたものは一緒に連れ帰るようにと十分の銀も持たせました」
「フカンガ殿がそこまでされたの」
「あ、いや。ヘリン殿のことでござる。ついそう呼ぶので。そのことを知ったフカンガ殿は甚く(いたく)和琳(ヘリン・ヘリェン)殿をご信頼なされました。病の責任をなど言語道断でしょう」
「これこれ、口が滑ると脚を取られますよ」
慌てて口を覆うハフンガだ。
和珅(ヘシェン)と同じように和琳(ヘリェン)も西蔵語は通訳なしで行え、土地の者にも優しかったという。
「それにしても大きな損が出た、あの勇猛な海蘭察(ハイランチャ)殿も病で帰京を余儀なくされたほど病人が多くて大変だった」
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