第伍部-和信伝-参拾伍

 第六十六回-和信伝-参拾伍

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  


文化十一年二月三日(1814324日)

藤枝宿から二里八丁で島田宿。

未の刻(午後二時十五分頃)過ぎに瀬戸川を歩いて渡った。

五十里目の一里塚は川を渡って直ぐ其処の志太村にある。

坂を上り下りすればその先、下青島村には染飯(そめいい)の茶見世が軒を連ねて旅人を誘っている。

二人は腹も減っていないので先を急いだ。

木橋を渡ると五十一里目の一里塚は上青島村にある、瀬戸の立場といわれていて、ここでも茶見世で染飯を商っている。

栃山川の土橋を渡ると島田宿はすぐそこだ。

申の鐘が遠くに聞こえる、休まずに来たせいかまだ時計は四時三十分だった。

小さな橋から先に宿場の喧騒がある、昔の桝形の名残も残っていた。

五十二里目の一里塚は島田宿の東の端に在る。

小まんぢう では明日の朝はいつごろに買えるのか聞いた。

「卯の下刻(六時三十五分頃)には店を開けて居ます」というので「朝辰前(七時四十分頃)には寄る」と伝えた。

桑原伊右衛門(藤泰)を尋ねるという。

「どういう人だ。兄貴」

「文人の一人さ。黙斎という名で佐久間先生と付き合いがあるそうだ」

桑原伊右衛門は、あいにく留守というので飯盛りの居ない“ ときわや ”という旅籠を紹介してもらった。

余談

桑原藤泰は駿河国島田に生れた。

この年四十八歳の宜之は、字(あざな)を涼松。通称は伊右衛門。別号に金渓山人などを使い分けている。

桑原伊右衛門は代々名だが藤泰は孫も名乗っている。

黙斎もしくは黙翁など多くを使うため重複してしまう。

駿河記はこの当時の静岡の様子に人物を知る上で貴重な資料だ。

駿河記の編纂は文化年間、駿府町奉行牧野靱負により始められた。

奉行の転勤で中断、引き継いだのは桑原藤泰が中心となっている。

文化六年(1809年)から十五年(文政七年・1824年)かけて駿河七郡の村々を訪ね、地誌に歴史や史跡を調べた。

多くの史蹟に風物の画も残している。

街道の北側の東から“下本陣・置 塩 藤 四 郎”“中本陣・大 久 保 新 右 衛 門”“上本陣・村 松 九 郎 治”と三軒あった。

脇本陣はなかった。

下本陣の北側に紺屋町出張陣屋があり、昔と違い駿府で管理している。

駿河志多太郡と遠江榛原郡の天領を支配していたが、二十年前に駿府町奉行に統合された。

ときわや ”は落ち着いた旅籠だ、酒を追加した。

二人はあろうことか“ 追分ようかん ”をつまみに酒を飲んだ。

二月四日

二人で六百文というので、豆板銀五匁(五百五十文)、四文銭十二枚、銭二文で支払った。

小雨が降ってきた、濡れるほどでもないが四郎の荷から合羽を出した。

卯の下刻(六時三十五分頃)に“ ときわや ”を発った。

清水屋では“ 小まんぢう ”を買い求める客が多くて少し待った、茶を飲んでいるうちに蒸かしあがってきた。

熱いのを一個ずつ食べ、四個は包んでもらった。

小饅頭二十四文、茶代八文を四文銭八枚で支払った。

渡し場の川下に朝顔の松がある。

島田の宿・大井川川留めの場を浄瑠璃で聞いた人は多い。

街の辻講釈、瞽女の手で街道筋では知らぬものが無いとまで言われるが。

数々の朝顔日記 は、ほぼ同じでお家騒動を背景に、若侍宮城八十次郎(宮城阿曽次郎)と、芸州岸戸家の家老秋月弓之助の娘深雪との波瀾にみちた情話をこの年、文化十一年(1814年)正月に大坂、市川善太郎座で上演した。

清の戯曲桃花扇を元ねたに司馬屋勝助別号司馬叟が書いたともいわれている。

深雪(盲目の門付芸人朝顔)は八十次郎(阿曽次郎)の後を追い、大井川まできた。

川が増水し、渡る事が出来ない(刻限を過ぎた話もある)。

ここまでかと思った深雪は自害を図るが島田宿の宿屋主に助けられ、八十次郎、深雪の二人は結ばれ、深雪の眼も治る。

この目が治るは瞽女の願望でもあり、浄瑠璃に乗せて燎原の火を見るかのごとく街道筋へ広まった。

渡し場近くの老木に知恵者が朝顔の松とつけて人気が上がった。

「後何年かすればここが深雪の泊まった宿と言い出すものが出そうだぜ」

「戻りの道中で広まっていたらお笑いだ」

物語は島田で一番の宿屋の戎屋徳右衛門(講釈本は島屋)という名も出ているのだ。

すでに二年前には異本も出ていて、歌舞伎になれば作者がいろいろ手を加えていくだろう。

川会所は川越人足による渡渉全般を取り締まった

この時期は明け六つ(午前五時五分頃)から暮れ六つ(午後六時四十五分頃)までの川渡しと定めがあった。

川札が高価だ。

大井川渡しは此の日は帯通五十八文で合計六百九十六文になった。

人足八人分四百六十四文、蓮台二台分二百三十二文が掛かる。

支払いは南鐐二朱銀一枚(八百文)、釣りは銭緡一足(百文)に銭四文だった。

蓮台に屋根のついた籠が載せられた、雨のせいか大分奮発した。

降ろされたその先は小さな流れが幾筋かある、大またで越せるくらいだが女たちは怒っている。

「普段は渡し板があるのに無いじゃないの」

人足は「おれっちに、言わねえで下せえよ。会所の人にたのんますだら」と頭を下げている、

此処は持ち場じゃないという顔だ。

「負ぶってやる気は無いのか兄貴」

「付き合ってたら陽がくれるぜ」

そんな馬鹿話をしながら土手をあがると同時に、雨はやんだ。

此の道中、昼の雨は降り続けることが無い。

土手の先、木橋の八軒屋橋を渡ると金谷側の川会所がある。

川越人足番宿(ばんやど)のうち高札場の隣の四番相当は縁起担ぎで亀屋としてある。

「なんだか番宿は並びがごちゃごちゃだぜ」

「ここのところの天気と同じだ。気まぐれか、作った順につけたかだな」

最近は夜中にざっと降って通り過ぎてゆく。

二日違えば昼間雨の中を歩く羽目になったとは気づかぬ二人だ。

川会所が北側高札場の西側、札場の一番はその真向かい、その西に五番、東に大きく空けて三、二、六と並んでいる。

暇に任せて後へ戻り、小さな土橋と八軒屋橋の間の北に八と十番。

南が九と七番だった。

「偶数と奇数で並べた訳でもなく九番は縁起を気にしないようだ」

二人は飽きて先へ進んだ。

「合羽を用意しても、番傘は持ってこなかったが、やはり必要かな」

「兄貴が持つなら俺もほしいな」

「支払いは持っても、荷物はお前だろ。二人分持ってくれ」

「やっぱり俺たちゃ手助けが無いとだめな口だな。お江戸のようにはことが運ばない」

二人は合羽を脱いで肩にかけて歩いた、四郎は合羽ならともかく傘を背負って歩くのを想像してげんなりしている。

「弥次喜多のようには往かないことがよくわかったよ。何かといやうなぎを食って、団子に饅頭じゃしょうも無い」

「兄貴は江戸じゃ甘いものを欲しいなんていわなかったよな」

「なほの付き合いで嫌と言うほど食わされるんだ、表へ出てまで食う気にゃなれんぜ」

卵焼き、饅頭、羊羹、心太(ところてん)まで蜜をかけろと言われていた。

旅に出て、腹より口が甘いものを欲していると、自分ながら可笑しかった。

「何、思い出したんだよ。にやけてるぜ」

「江戸じゃ俺がいなくても何かと口実つけて、鮨や甘い物でも食べてるだろうからな」

「前に孕んだとき、産婆に甘い物は十日に一度に制限されてその反動でしょうぜ。あれだけ甘いもの好きでも太りませんね」

「毎朝のように薙刀振り回してれば太る間もないのだろうさ」

道は緩やかに下っている、道中記に大泥棒日本左衛門の首塚が近くにあると出ていた。

歌舞伎の“ 白浪五人男 ”で知られる“ 青砥稿花紅彩画 ”は八年前江戸市村座での初演以来のあたり狂言だ。

延享四年三月十一日(1747年)に処刑され様々な伝説を生んだ。

二人は十二間あると道中記にある土橋の大代橋を渡って金谷宿へ入った。

志水(清水)土橋を渡ると右手に大きな屋敷がある。

中泉出張陣屋と出ているのがそれだろう。

島田市金谷の中泉出張陣屋(駿府奉行所支配)。

寛文十年(1670年)に宿場の北を流れる沢川の北に設けられた陣屋。

磐田市にあった陣屋(天正十八年・1590年造営)とは別物。 

中泉陣屋は天領支配の代官所となったもので、中泉御殿に隣接して建てられた。

中泉代官の支配地域は遠江と三河の両国に約六万三千石余あった。

支配が信濃にまで及んだのは幕末。

中泉御殿は、天正十五年頃に徳川家康が伊奈忠次(熊蔵)に命じて造営させた。

寛政三年(1791年)の“竹下屋火事”によって本陣二軒・脇本陣一軒・旅籠屋五十二軒の全ての宿泊施設が焼失している。

宿は東の下十五軒から西の一里塚、高札場まで燃えてしまった。

享和二年(1802年)には三軒の本陣すべては再建されているが、脇本陣は設置が遅れた。

東西十六丁二十四間の金谷宿は、金谷本町と金谷河原町。

金谷河原町は加宿(かしゅく)、江戸方から八軒屋、市ヶ島町、薮屋町、中町、下十五軒町、上十五軒町、本町、上本町、田町、新町となる。

間口六間程度と大旅籠並だが山田屋三右衛門本陣(三番本陣)は真新しい風情だ。

元は脇本陣で火災の後で本陣となった

山田屋の三倍は有る間口(表間口一九間五尺、奥行三五間半)の柏屋河村八郎左衛門本陣(一番本陣・名主)は尾張徳川家・紀伊徳川家の定宿だ。

此処も山田屋の倍の間口(表間口十三間)佐塚屋本陣(二番本陣)の佐塚佐次右衛門は門の屋根に鯱(しゃちほこ)が乗っている。

脇本陣とはいいながら山田屋と匹敵する間口の角屋金原三郎右衛門。

助郷会所を過ぎると上本町には問屋場、紀州御七里役所、土橋の西に定飛脚問屋(三度屋・三度定飛脚)が向かい合っている。

田町南に浅倉屋何右衛門、田町北が黒田屋重兵衛(治助)。

また土橋を越えて五十三里目一里塚、南に高札場。

新町の先に金谷大橋、大橋と呼ばれても六間ほどの土橋だ。

その西側には石畳が敷かれた金谷坂。

鶏頭塚(けいとうづか)は石畳みの坂道の始まりにある。

曙も夕ぐれもなし鶏頭華

六々庵巴静 寛保甲子四年二月十九日没

俳諧の弟子、友人が建てたものだ。

右手には庚申堂があり、中腹から金谷の町を一望できる。

その先で富士が見え、金谷坂を登り終わると、菊川の鎌倉街道との分かれ道。

菊川坂を下ると間の宿、菊川宿では金谷宿の許可がないと、いかなる場合も旅人を宿泊させることはできなかった。

菊川名物の“菜飯田楽”は苦心の末に名物として定着した。

五十四里目の一里塚は飴の餅茶見世の隣にある、此処を五十六番目だと書く冊子もあり二つ行くえ知れずだという。

小夜の中山夜泣き石は道をふさぐように坂の途中にある。

「話に弘法大師が出ちゃ千年も前になってしまう」

「そこを不思議と思わないのが信心だ。弘法さんは今も生きている。六十四州を今も巡っているのさ」

「兄貴はまるで本の紙魚(しみ)のようだ」

「紙魚に鼠は本を駄目にするが、俺は勉強ついでに写本にして残してる。借りたままでは兄上に叱られる。お前さんと違って剣術は頭打ちだから早々と免許を寄越されたのさ」

南無阿弥陀 ”の五文字が石に残されている。

余談

馬琴の“ 石言遺響・せきげんいきょう 文化二年(1805年)発行は時代考証ハチャメチャな話に仕上がっている。

西村白鳥“煙霞綺談” 安永二年(1773年)発行の随筆が元本のようだ。

さらにさかのぼって“ 万治道中記 ”にも似た話が出ていると云う、こちらは男の子ではなく娘になっている。

飴の餅休み茶見世がまた出てきた。

弥次喜多はここで食べたと一九が書いている。

小さいので五文で五個が商われたとある。

金谷と日坂はわずか一里二十四丁しか離れていない。

「短い峠でも時がかかったな」

すでに十一時三十分になっている。

「饅頭でも食うか」

道はたで食おうとしたら振分け荷物をぶらぶらさせて、肌襦袢に股引で乞食同然の男がやってきた。

「おいおい、胡麻の蠅(護摩の灰)にでもやられたのか」

四郎が心配して声をかけた。

袋井で女に三両ほど盗まれて、掛川では宿(しゅく)を出たところで身ぐるみ剥がされました。ついてねったらありやせんら、島田へ戻る途中ですら」

「まぁ、こいつを食べて、瓢をやるから水を飲め」

小さな饅頭をがっついて食べずにかみしめている、見たところ自分たちと同年配だ。

育ちがいいのか苦労したのか二つを振り分けにしまった。

「何にも入っていないじゃないか」

四郎も遠慮なく覗いた。

「こっちに寺受け証文が、追剥も気のいい奴で“こいつを取ったら俺の名が廃る”なんて芝居もどきで寄越しました。煙管と煙草入れは凝ったもので残念でなりません」

わざわざ広げて四郎に見せた、島田宿の住人十郎とある。

火打道具、懐中付木や矢立まで取られたようだ。

「からの振り分けをもたすなんざぁ変わった追剥だ」

次郎丸は打飼袋を広げた。

「俺の懐金が丁度三両ある、別に二分貸すから菊川で着るものを買うんだな」

二分あれば、渡しも肩車の札一枚で島田へたどり着けるだろう。

「お所とお名前をお聞かせください」

どうやら育ちは良いようだ。

「俺が次郎でこっちが四郎だ。住まいは江戸の米沢町だ。返すなんて気を起こすなよ。縁があれば戻りの時に会うこともあるだろう」

「私は十郎と申します。江戸へ行くには遠いですが、縁があれば島田宿で気随の十郎と聞いてくださいましょうら」

「いいとも、縁があればまた会おうぜ。俺たちは煙草入れを下げても此奴はただの見たくれで安物だ」

十郎も煙草入れに煙管は好きというより見栄だという。

「島田の銀ざぶという人の作で煙草入れとで五両払いました」

銀ざぶは銀三郎の略で、銀煙管ばかり作るので変わり者で通っているそうだ。

「竹の羅宇まで銀で作ったら、まるっきり煙草が不味くなった」と客を笑わせると十郎は話した。

裸に近いので道中合羽を着て行かせた。

五両あれば吉原の大籬(おおまがき)でも大きな顔ができる。

昼夜で太夫一人に銀八十四匁かかるが、取り巻きにも金がかかる仕組みだ。

この時代、吉原の散茶女郎は金三分、二分、一分と決まりがあった。

銀一匁の張り出しは銭百十文、南鐐二朱銀で銭八百文、金一分判が銭千六百文。

一両は張り出しが銭六千四百文、銀五十八匁二分だが街では六十三匁が享保小判との交換比率だ。

元文小判でも六十匁になるのが相場だが、普段は小判での買い物は庶民に無用だ。

この差額で儲けるのは大きな商人たちだ、町の両替屋も僅かだがお零れに与っている。

大口で二分(二パーセント)、街道では小口には五分手数料を取った。

余談

匁は明治になって正確に3.76グラムと決めた。

江戸時代は匁=銭が清と同じように使われた。

これは両の十分の一とされている、貫の千分の一、百六十匁で斤とされた。

通貨と尺貫での単位に統一は行われていない。

通貨一両=四分=十六朱・尺貫一両=十匁=百分=千厘。

銀は尺貫に従っている、銀一匁=銀十分=銀百厘。

寛文五年(1665年)度量衡の「衡」が統一。

両替商の用いる分銅は後藤四郎兵衛家に製作が許され、匁は“ ”の分銅が用いられた。

改鋳により生じた変動は複雑で商品相場に銀の種別の相場が併記されていた。

享保三年十一月肥後米相場の記録。

慶長銀(1601年より流通)・新銀(享保丁銀・正徳銀、正徳四年1714年より流通)米一石、代銀三十三匁。

三ツ宝銀(宝永七年1710年流通)の相場は一石、代銀八十二匁五分。

この享保三年の五月(1718年)の銀相場。

新金(享保小判)一両=新銀(正徳銀)五十八匁三分五厘。

九月相場は新金(享保小判)一両=新銀(正徳銀)四十三匁八分から四十三匁九分と銀が高騰。

小判が改鋳されるたび銀相場に銭相場が変動した、小判に丁銀も出目を狙った粗悪なものに時代とともに変化した。

一両の値打ちは粗悪になっても銀との交換比率は高く設定された。

慶長で銀五十匁、銭四千文(慶長小判四匁七分六厘・金四匁三分)。

元禄には銀六十匁、銭四千文。(元禄小判四匁七分六厘・金二匁六分)

明和には銀六十匁、銭五千文(元文小判三匁五分・金二匁三分)。

天保には銀六十匁、銭六千五百文(天保小判三匁・一匁七分)。

諸外国との通商条約後に金銀比率が大幅に変更される。

慶応には銀百五十匁、銭一万文(万延小判八分八厘・金五分)。

明和九年(1772年)から通用した南鐐二朱銀には“ 以南鐐八片 換小判一両 ”とあり、寛政十二年(1800年)の発行も品位は同じだった。

重さは二匁七分これを八倍しても銀で二十一匁と金が少し混ざるくらいだ。

幕府が率先して贋金で儲けていると同じことだ。

大阪の商人は小判より銀を匁、貫で取引した。

 

金貨発行高・小判・一分判・二朱金

慶長

14,727,055

元禄・宝永

13,936,220

正徳・享保

8,280,000

正徳・享保(武蔵)

213,500

元文

17,435,711


道は下り何度も大きく曲がりくねっている。

道中記に沓掛、二の曲りと書いてある場所のようだ。

日坂宿の中でも街道は大きく曲がっていた。

扇屋本陣の先の問屋場は人の出入りで喧噪の最中だ。

高札場の先に十三間ほどの高欄板橋が架かっていた。

西はずれに己等乃麻知(ことのまち)神社、道中記には八幡宮だと出ている。

宿場を抜けると十二時三十分になっていた。

五十七里目の一里塚だ、道中記にあるのは“ おのがい ”“ ぬめり川 ”とあるが伊達方村の村境だ。

そこからは人家も乏しい松並木が続いた。

成滝村のはずれで道は折れ曲がって川をまたぐ橋がある。

馬喰橋(ばくろう)は二十三間あまりもある土橋だ、葛川(くずかわ)一里塚というのがある、五十八番目の一里塚だが、金谷の一里塚から此処まで三里十五丁はない筈だ。

二つ無い一里塚を入れて五里に数えるのは書いたものの頭を疑ってしまう。

江戸から金谷宿まで五十三里二丁四十五間、掛川宿まで五十六里十九丁四十五間と道中記は記している。

金谷、日坂は一里二十四丁で日坂、掛川は一里二十九丁、足せば単純に三里十七丁になる、金谷は西はずれ、掛川は宿の東木戸まで五丁以上あるのだ。

八年前の東海道分間延絵図は道中奉行が拵え、まだ世に出ていない筈だ。

余談

製作は三部と言われている。

寛政十二年に命を受けて道中奉行所が調査製作した。

一部は江戸城内に、残り二部は道中奉行所に置かれた。

道中記は元禄のころ出た菱川師宣の東海道分間延絵図からの引き写しだろう。

次郎丸が結の手引きで道中奉行所において閲覧した記憶では、ほとんどは師宣と同じ里程が出ていた記憶がある。

借りたり引き写したりは立ち合いが厳しくその時はできなかった、手を尽くし昨年の暮れに大樹黙認が伝えられて五人許され、美濃守様(大目付兼帯)から許されたのは東海道のみで一日半刻、三日で覚えられる部分は残らず覚えてきた。

このころの道中奉行は役両二百五十両、大目付と勘定奉行が兼務している。

一里塚の先に振袖餅とどこかで聞いた休み茶見世がある。

大覚院観音堂へ参詣の人が増え茶店の平たい餅に振袖とつけた知恵者がいた。

細長い餅に餡を包んで畳んだものだ、二人はそこで一休みした。

茶店の娘っ子よりと老婆にお愛想代わりにそこの橋はなんていうのか聞いた。

「ばくろうばしだね。物知りが“ うまくら ”という読みの橋が相州藤沢にあるだと教えてくれたら。ついでにお江戸のことも聞いただら“ ばくろちょう ”て言うそうだら」

相州藤沢は江の島道にある“ うまくら ”源頼朝が片瀬川に馬の鞍を架けて橋の代わりにしたことから其処に架けた橋は馬鞍橋と附けた。

うまくら ”に“ 馬喰橋 ”の字を使うのはここを通る馬が有る時、相次いで死んだことに拠る。

  馬殺橋 ”との別名もあった、ある聖が橋の石を取り換えるとその後は何事も起きなく為ったという。

六年前(文化五年)の書き上げには“ 馬鞍結橋 ”と出ている。

「二つずつ出してくれるか」

甘味は風雅な味がする、水飴を小豆と練りこんで有るようだ。

振袖餅二十文、茶代十六文は四文銭九枚で四郎が先に払った。

「あの気随の十郎ここで食べたかな。追剥にあってもう素寒貧で通り過ぎたか」

「いくらなんでも木戸近くで追剥は出ないだろうが、午の前にあそこで会ったんだ、もっと日坂宿へ近いだろう」

茶見世の客が聞きつけたように口を挟んだ。

「出たのは朝の五つ刻過ぎですよ。若い男がだんびら振り回されて肌襦袢一枚にされてしまったのですが。会いましたか、ひげ面に睨まれて此方もやられるかと観念しましただが、観音様のご利益で脇道へそれていきましたら。若い男に路銀でもと思いましたが気が付けば消えておりましただら」

おん ばざら たらま きりく そわか

三回唱えている、してみると近くの観音堂は千手観音だろう。

「家は島田だというので、菊川で羽織るものを買う金や、宿代と合羽を与えてきたぜ」

「それはご立派なお心掛けで、お二人には観音様の御利益(ごりやく)がありますら。この年寄りの心配まで取り去って呉れましたら」

拝まれて困る二人だ。

「ところでご老人はお近くですかね」

掛川宿の葛布の問屋の隠居だという、伊達方村の妹に会いに行って来た戻りだという。

「どこか飯盛りのいない旅籠を知らんかね」

道中記の記載は掛川には居ないとしているのだ、二人はてんから信じちゃ居ない、纏われたり、隣座敷でお祭りは勘弁してほしい。

「肴町の“ さのや ”がいいでしょうな。連雀町沢野屋本陣の向かいの路地脇にありますら」

二人はそこへ泊ることにした。

街道は突き当たって鉤手(曲尺手・かねんて)に、左へ右へと折れると大木戸がある。

このあたり新町の七曲りと呼ばれる通り道だ。

「本当に七回も曲がってるぜ」

「数えたのか」

「道中記も当てにゃできないからさ」

高札場の先は仁藤町。

街道を進むと大手門が右に見え、連雀町には沢野屋本陣。

中町の浅羽屋本陣まで行って、戻って裏町になる肴町へ入った。

二月五日朝、卯の下刻に“ さのや ”を発って今日は見附だとのんびり歩いた。

堀に繋がる逆川の土手では桜の木が花を咲かせている。

平将門十九首塚があるのが十九首(じゅうくしゅ)。

大きな鳥居が見えた、近寄ると秋葉権現への道だという、常夜燈の多さもさる事ながら秋葉権現、三尺坊への信仰心は火災の怖さを知る人には大切なことなのだ。

倉真川(くらみがわ)に架かった大池橋は三十間近くある長い橋だ。

半刻足らずで五十九里目、大池の一里塚だ。

原川と名栗の立場は橋を挟んで掛川領と天領に分かれている。

名栗のほうには花茣蓙(はなござ)を売る見世が並んでいた。

元は袋井宿円通寺南側に川合代官所(袋井陣屋)が置かれていた。

此処の天領は八万石といわれていたが享保七年1722年)に中泉陣屋(磐田)へ移管された。

松並木にも飽きてきた巳の刻(九時四十分頃)、久津部の六十里目の一里塚を通り過ぎた。

街道に沿って北側に小川が流れ橋は各家に架かっている。

疎らではあるが農家、仕舞屋に混じり休み茶見世がちらほら出てきた。

この付近、原川の松並木と呼ばれるそうだ。

袋井宿江戸方の土橋は阿麻橋(あまばし)だという。

桝形が残っている、南先に高札場が見えた。

街道の左にある東本陣田代八郎左衛門(壱番御本陣)は間口十三間半、奥行き三十一間だと出ていた。

問屋場(人馬会所)を間に挟んで中本陣大田八兵衛。

西本陣を大田八蔵が務めている。

西の高札場の反対側に川井代官所があった円通寺。

西桝形の先が土橋の中川橋、此処までが袋井宿だ、五丁十五間と書かれていた。

「ここが東海道で一番といわれる短い宿場だ」

「その割に本陣三軒は豪勢だ」

旅籠も道中記には五十軒と出ていた。

木原の手前に六十一里目の一里塚で十一時になっている。

松並木の道が続き、西嶋の立場に入った。

街道に幅の広い橋が架かりその先に太田川にかかる三ケ野橋がある。

だんだん登り坂になり山道へ入ると坂の上で鎌倉古道と別れた。

従是鎌田山薬師道 ”の道しるべがあった。

立場が見えた。

台地の道を歩くとやがて下りになり、そして再び上り坂、遠州鈴ヶ森刑場では何人もが道中記と比べて観ている。

三本松橋の先にある坂を下り切った先に、江戸から六十二里目の阿多古山一里塚がある。

急坂を下れば見附宿、東坂の梅塚、坂下の右に天神への参道がある。

まだ午の鐘をきいて間もないので寄ることにした。

見付天神こと矢奈比賣神社は承和七年に神階従五位下を授かっている。

百五十年ほどたつた正暦四年に太宰府天満宮より菅原大神を勧請したという。

“ しっぺいたろう ”の伝説が残る。

禰宜は太郎丸たちや天神へ詣でた人たちに講釈師以上に上手く話を聞かせた。

「信濃駒ヶ根では早太郎や疾風太郎と申したそうですが、見附ではしっぺいにこの字を当てます」

悉 平 ”そういって半紙に書いて皆へ見せた。

四郎は天神祝詞を奉納し、一分判二枚に銭緡二足(二百文)を献じた。

参道の休み茶見世に粟餅が売られている。

二人は五文取と間違えて二つずつ頼んだ。

粟餅が四個で十二文に茶代十六文の二十八文だという。

「五文取とは違うのかね。街道で食べる餅の中でも上の部だが」

四郎は機嫌を取るようにほめている。

「ありゃさぁ、お客人も間違えただね。あっちは宿の西を出てきれいなおなご衆(しゅ)が客を引いてるだら」

「姉さんなら呼ばなくても吸い寄せられて客で一杯だ」

周りの客も笑い出した、未の鐘(午後二時二十分頃)が川の奥から聞こえてきた。

四文銭七枚を頭にひとつと二列に並べて数えさせた。

「見附に泊まるが、すっぽんが名物だそうだが」

茶屋を含めて十軒ではきかない位あるらしい、客の間で論争している。

南小路のくらたという旅籠の評判がいいと話が落ち着いた。

街道へ戻り中川橋を渡ると右手に問屋場、左手に脇本陣大三河屋新左衛門。

脇本陣先には神谷三郎右衛門(南本陣)と街道の向かいが鈴木孫兵衛(北本陣)。

教えられた西坂の手前、高札場の向かいまで行くと、古ぼけた暖簾の旅籠だった。

くらたの字が躍っているようで次郎丸は一目で気に入った。

「お部屋では火が使えませんので鍋はこちらの広間ですが」

「それでいいよ。天神の休み茶見世で聞いたらここを教えられたんだ。旨いと評判だそうだ。周りの客も推薦してくれたよ」

女将はうれしそうに微笑んだが料理の値は街道でも高いほうだ。

「今日の松は鯛の尾頭付きとすっぽんの鍋で二朱、竹は鍋に雑炊がついて一朱、梅は鍋の最後に飯か饂飩を入れて銀二匁ですが」

「雑炊のつく竹でいいよ。すっぽん鍋に饂飩も入れられるのかい。酒は一人二合付けてくれ」

「承知しましたら。風呂はもう入れますが、食事は申の刻(午後四時三十分頃)からになりますら」

風呂に入って申の下刻あたりで飯にしたいと頼んだ。

鍋の最後に入れた饂飩もだが、雑炊が旨くて感心したと伝えた。

「昨年房総でな。知り合いが自慢のすっぽんの雑炊をご馳走してくれたが、それに匹敵する味だ。戻りにも寄りたいものだ」

「どちらかへご用事でも」

「京の都見物だよ、戻りは早くて四十日くらいかな。弥次喜多ならぬ次郎、四郎で甘いものから辛い物まで食べ歩くつもりさ」

女中に女将を羨ましがらせてその晩も深酒を控えた。


六日の朝はどんよりと曇っていた。

明るくなった卯の下刻(六時十分頃)にくらたを出た。

高札場、西坂梅塚と過ぎて先は小高い丘が見えた。

急坂の池田近道、本坂通(姫街道)は天竜川池田の渡しへの近道になる、一時池田への往来は禁止されたが復活している。

左へ折れるのが東海道、西木戸の先加茂川橋に西光寺、五文とりの休み茶見世が並び国分寺もあり、先に行けば中泉代官所がある道だ。

六十三里目の宮之一色一里塚も中泉の先にある。

二人は本坂通(姫街道)へ入った。

一言坂を抜けていくと大回りしてきた東海道に出る。

府中で見た菱川師宣の東海道分間延絵図では見附宿から浜松宿間は三里七丁、次郎丸が閲覧した東海道分間延絵図では四里七丁に為っていた。

それを四郎に言うと置いてきた宝暦東海道分間延絵図では四里七丁だったと覚えていた。

「だってよ。 こうじやよごえもん ”の主が朝まで二つを見比べ、此奴を話題にして手放して呉れそうも無かったんだぜ」
そうはいうが四郎の記憶力はさすがに大したものだ。

「道中奉行が四里七丁と判定したんだ。だがよ池田近道でも一里は短く為るまいさ」

「師宣も池田近道は書き入れてあったが距離は書いてなかったぜ兄貴」

「道中奉行のほうも書き入れはなかったようだ。本坂通(姫街道)が禁止されていたころの作図かな」

この付近は旗本の領地が多い、弥藤太島知行の旗本堀三左衛門の庄屋鈴木家の屋敷がある。

近くには一言村、西之島村、勾坂村、中村、下岡、田村で千八百石余の領地をもつ旗本皆川歌之助の陣屋もあるはずだ。

池田の渡し近くの路端の茶見世には飛脚に巡礼たちが湯を飲んでいた。

次郎丸は三組の巡礼に「ご報謝」と言って四文銭を五枚ずつ柄杓へ入れた。

今日の船の具合を飛脚に聞くと「今日も二瀬越しで倍取られますぜ」と教えてくれた。

左へ行けば下之渡し場だと親切に教えてくれた、飛脚に巡礼たちは見附へ向かうという。

天竜川は東岸の池田の渡し、西岸の船越一色の渡しとなる。

池田には渡船場は三か所、宿場の機能も果たしている。

下横町に市川本陣、上横町に平野本陣がある。

渡し場は上にもあるが予備で普段は下の渡し場を活用した。

次郎丸が読んだ本には昔の池田は宿場として対岸に有ったとしてある。

武士には船賃なしで、二瀬越でも二十四文で済んだ。

番を待ちながら周りの客たちと道中の話題を繰り広げた。

次郎丸のほうは覚えていなかったが、四郎は大井川で見た顔だと話が弾んでいる。

「お二人とも甘いものがお好きなようで。たびたび見ましたぜ」

こっちはぶらぶら寄り道をしているし、男はなじみの家で商売をしているので何度も出くわすのだそうだ。

四十年配の担ぎの小間物屋だという男が「あっしは辛口でね」と言っている。

「俺たちは酒が強くない替わりに両方行けるんだ」

「饅頭で酒ですかい」

「甘酒も好きなんだよ。どこかいい見世でも知らないか」

「甘酒、白酒は疲れが取れますから、あっしも飲みますがね。江戸下りなら名栗の立場が高名なのですが」

「花茣蓙ばかりみていて失念してたぜ。道中膝栗毛で弥次喜多も飲んでいたな」

船の番が来て順に乗り込んだ。

八丁ほどの川だが時々天龍川は暴れ川に為るので、油断はできない。

川岸をのぼり中野町村で右へ街道は大きくくねっている、渡船の高札場が注意書きを張り出している。

萱場 (かやんば)には高札場がある。

街道から奥に六十四里目の安間一里塚のある場所で、本坂通(姫街道)は右手へ入ってゆく。

北野山龍梅寺という臨済宗の寺がある、やきもち地蔵だと行商人が話して居た寺だ。

やきもち焼きだと思ったら、食べるほうの焼き餅を供えると願い事を聞いてくれるそうだ。

六十五里目の馬込一里塚は向宿村(むこうじゅくむら)にある。

馬込橋を渡ると外木戸がある。

浜松藩主で奏者番の井上正甫は次郎丸にとって将来の義父だ。

天明六年(1788年)十二歳で藩主の座に就いた。

正妻になる予定の雅姫(直子)はその娘でまだ十三歳になったばかりだ。

新川に架かる万年橋、ここが田町と板屋町の境になる。

込川西岸は新町、道中記は東木戸から西木戸まで二十丁三十二間だと出ている。

田町は馬込川支流新川西岸の低地に位置したことに町名の由来がある。

城と城下町の縄張りは沼津と酷似している、東から来た街道は城下で鉤手(曲尺手・かねんて)の曲りを経て南へ向かって伸び、城下町を形成している。

さらに宿はずれで西へ鉤手(曲尺手・かねんて)で曲がっている。

神明町で右には大手門、左へ行けば連尺町。

高札場を過ぎて伝馬町に入ると左に佐藤与左衛門本陣、右手に本陣六か所で最も古い杉浦助右衛門本陣。

中の番所と問屋場が並んでいる。

その先の角右手は本陣の中でも最近できた川口次郎兵衛本陣、角の向かいが梅屋市左衛門本陣。

旅篭町には伊藤平左衛門本陣と、杉浦惣兵衛本陣がある。

次郎丸は蒲葵(びろう)笠を目深に被っている、四郎はいつもの三度笠だ。

西の木戸まで見て本魚町へ回った。

午の鐘が響いている、時計はまだ五十分だ。

大工町へまわり若宮小路の“ たのもしや ”へ入った。

小女は次郎丸を見て「うちら、がさつな精進のもっきり一品ですよ」とすまなげに言って来た。

「そいつを勧められてきたんだ。二人前頼む」

窓際の明るい場所の小座敷へ案内された。

飯に納豆汁、うなぎ豆腐というお決まりだ、香の物は付いて居ない。

うなぎの皮に見立てた海苔が意外に旨い。

二人前で六十四文というので四郎は豆板銀一匁でも良いかと聞いて支払った。

四文銭も残りが少ないので両替よりましと判断したようだ。

釣りは四文銭十一枚と二文出てきた。

成子坂町の西番所を過ぎて七間町と上新町の境は沼田川の鎧橋(よろいはし)。

八丁畷(鳥井縄手)から六十六里目の若林一里塚で東若林に入った。

その先は松並木の間に人家がちらほら見える。

街道は人の往来が多くなっている。

従 是 東 濱 松 領 ”高塚村は大沢領で増楽村までが浜松領になる。

大沢氏は高家旗本大沢基之三千五百五十石だが実高五千五百石と言われている。

従五位下・侍従・右京大夫と高位の位が与えられている。

浜松六万石の奏者番井上河内守でも官位は従五位下だ。

「此処の大沢家の次男坊采女は俺の弟弟子だぜ」

四郎とはあまり付き合いは無いようだ。

「高家でもやっとうに励んでるのか」

「高家は兄貴が継ぐだろうし、少しは表芸の武術も出来なきゃ養子の口もかからないぜ」

「それで養子の口は」

「まだ無いようだ。嫡男が賛成しないそうだぜ」

余談

高塚には麦飯長者の伝説がある。

馬子だった五郎兵衛の生活は豊かだったという。

ある日、浜松の宿場から舞坂の宿場まで旅の僧を乗せたが家に戻ると鞍に風呂敷が結わえてあり中に観音経一巻と大量の小判があったという。

追いかけて舞阪まで戻ったが行方は知れなかった。

三十年がたちようやく巡り会えたが受け取っては貰えない。

それを機に五郎兵衛は、旅で難儀するものに振る舞いを始めたという。

領主から小野田の姓を与えられ、小野田五郎兵衛久繁を名乗り、庄屋を務めることになった。

代々篤志家を産み、幕末の頃の人も麦飯長者とたたえられている。

明治になって養子に入り、可美村村長を務めたひとも五郎兵衛を名乗り、浜松貯蓄銀行を設立、小学校新設には土地を無償提供している。

久繁の孫娘四人は両親の亡き後、仮名書き法華経を三年かけて写経し、宝暦八年(1758年)に完成させた。

地蔵院に滞在しこの話を聞いた白隠禅師が“ 八重葎附四娘孝記 ”を書いている。

と、いうことは麦飯長者五郎兵衛が宝暦頃かそれ以前の話だと分かる。

「浜松から一里以上来たがまだ次の一里塚につかないな」

「篠原の立場の中だそうだぜ兄貴」

いつの間にか今日の情報を仕入れている、十一日目ともなると世慣れてきている。

立場に入ると鈴木立場本陣(茶屋)がある。

「俺たちが一休みと言ったら茶を出してくれるかな」

「真っ先に手代にたたき出されるか、くそ丁寧にご身分はと聞かれるさ」

熊野神社、神明宮の先に篠原一里塚があった。

江戸から六十七里目の篠原一里塚は左右で樹が違う、右手北側が榎で左南側に松が植えられている。

篠原高札場が北側にある。

泉光坊 ”という寺がある坪井村から馬郡村へ入った。

坪井村は馬郡村と共に舞坂宿の加宿になっている。

松並木から舞坂宿東の見附に入った、舞坂は天領支配地だ。

渡しの今切という地名は明応八年(1498年)八月二十五日に起きた明応地震で開口部が沈下した。

この時、弁天島が舞坂から切り離されたという。

それ以前は砂洲が新居の橋本まで続き、白砂青松の風景が広がって、潮が引けば徒歩での往来が出来ていた。

六十八里目の舞坂一里塚は宿の手前にある。

宿へ入ると右手に問屋場が有る。

四郎は一両を細かくした。

一両を三分と豆板銀十四匁(千五百四十文)、四文銭十五枚にして手数料が二分(二パーセント)の百二十八文を豆板銀一匁に四文銭四枚に二文たした。

「四文銭は兄貴の掛だ」

そういって四文銭の入った袋の口を広げさせてざらざらと入れ込んだ。

本雁木(がんげ)まで九丁もないというので下見に行った。

仲町の常夜燈には次の銘が刻まれていた。

両皇大神宮”“秋葉大権現”“津嶋牛頭天王”“文化十年五月吉日

岐佐(きさ)神社の参道がある。

「此処にあるのか」

「どうかしたか兄貴」

「珍しい神社だが、於保奈牟知(オホナムチ)を助けた神を祭ってあるそうだ」

「大国主を助けたのは鼠だろ」

「確かに火責めの時逃げ道を教えてくれるのに“内はほらほら、外はすぶすぶ(内部はうつろで、外部はすぼんでいる)”と教えたのだが。こちらは別の時に火傷を受けた時の話だ」

「赤貝と蛤か」

そうそれだといって拝殿まで入ってお参りし、禰宜がそばに来たので思い切って南鐐二朱銀を四郎に出させて賽銭とした。

四郎め、目を見張っていたが自分も同じだけ賽銭箱へ入れた。

禰宜は遠目が利くようだ、二枚の南鐐二朱銀を見分けたようで顔が綻んでいる。

「延喜式神名帳に遠江六十二座。敷智郡六座の一つとして記載されておりもうす。千年以上の古社である」

若い者に教えてやろうという態度でいろいろ話してくれた。

御祭神は蚶貝比売命(キサカイヒメ)と蛤貝比売命(ウムカイヒメ)

蚶貝比売命は赤貝の神、蛤貝比売命は蛤の神。

蚶(あかがい)の白い粉に蛤の粘液を混ぜて膏薬を作り、それを擦り込むと大国主命は元の姿に戻ることが出来た。

街道へ戻り、西へ進んだ。

北側の宮崎伝左衛門本陣は、道中記に間口十一間二尺、奥行き二十間三尺と出ている。

街道の南側が堀江清兵衛脇本陣(茗荷屋)になる、間口五間・奥行十五間と控えめな作りだ。

目の前北側は相本陣源馬徳右衛門、間口八間半と出ていた。

北側に高札場。

南側の西町常夜燈も周りを回ってみた。

正面には“両皇大神宮”、 西面“秋葉大権現”、 東面“津嶋牛頭天王”、 南面“文化十年二月吉日”と彫られていた。

お喋り好きのばぁさんがやってきた。

「これらが出来て朝暗い時の船待ちが楽になっただら」

「浜松のほうの問屋場脇が空地だが、そこへも建てたらどうだい」

「心配ありがとさん。もう金も集まって新町じゃ順待ちで首う、なごして待ってるわい」

すぐそこの渡船場へ出た。

北雁木は閑散としていたが遠くに防波杭か船つなぎ用らしきものが石垣に沿って植わっている。

船は「みおつくし」(澪標・船の通行用の深さを知らせる棒杭)に沿って行き来している。

次郎丸は万葉集(巻十四)詠み人知らずの“とうとうみ いなさほそえの みおつくし われをたのめて あさましものを”を思い出して呟いた。

“ 遠江引佐細江のみおつくし吾を頼めてあさましものを ” 

“ 等保都安布美 伊奈佐保曽江乃 水乎都久思 安礼乎多能米弖 安佐麻之物能乎 ”

「そりゃだれの詠んだ歌だい兄貴。男と女ではだいぶ意味も違いそうだ」

詠み人知らずで万葉の頃の歌だぜ。俺は女の人が、気の変わった男をまだ諦めきれない気持ちと感じたな」

「それなら、男の気持ちを代弁すれば女心と秋の空はどうだ。その頃も船で渡したのかよ」

船渡しは近道だ、川があって其処には橋があり、砂州が繋がって潮が引けば歩いて渡ったと教えた。

「橋は三百年ほど前に流されたきりだそうだ。その少し前は舞坂側から橋のほうへ砂州が伸びていた絵図が残っている。明応の大地震でこの付近は大きく変わったそうだ」

上屋敷の蔵書には橋を馬で渡る画もあった。

元禄十二年(1699年)八月十五日にもこの地は大きな災害に襲われている。

元禄十四年(1701年)五丁ほど西へ関所を移し、三河吉田藩へ関所を任せることに成った。

宝永四年(1707年)十月四日にも大津波が襲い関所と宿場は北へ移ってきた。

遠州灘、熊野灘、土佐湾など広範囲が大きな被害を受け津波は十四間の高さを超えたという。

この地震では吉田城も大きな被害を受け、天守は崩壊している。

この時の吉田城主は少年の牧野成央、家督相続したばかりの九歳の藩主に打つ手は見つからないまま国替え(日向延岡八万石)となった。

この年は十一月二十三日には富士山も噴火している。

今切の渡しは慶長に設置されたとき、舞坂と荒井の間が二十七丁、元禄の移転で一里となり、宝永の移転では一里十八丁と大きく間がひらいた。

舞坂の真ん中の本雁木(がんげ)は東西十五間、南北二十間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。

乗り遅れたものは無いようだ。

渡荷場(とうかば)南雁木も船で一杯だが出てゆく船はもう居ない。

最後の船も十五丁ほど先へ進んでいた、渡しは一里半で、風の助けのない遅い時では一刻かかると言われている。

この年は春分が正月三十日で二月六日の刻は次のようになる

夜明け前の卯の正刻五時十分頃、日没後の酉の正刻六時四十五分頃になる。

朝の一番方は、寅の刻(三時二十分頃)に出る。

夕方の最終船は申の刻(四時四十分頃)、乗り遅れても臨時は出ない

本雁木(がんげ)から降りた武家の少年が此方へ盛んに手を振っている。

「四郎の知り人らしいぜ。付近にゃ誰もいない」

「兄貴のほうじゃ無いのか」

蒲葵(びろう)笠を脱いでいたので向こうからはよく見えたようだ。

「次郎丸様お久しぶりでございます」

「やっ、その声は黙之助じゃないか」

「気が付いていなかったのですか」

「こっちからは眩しくてよく見えなかったよ」

「それならいいですけど」

四郎はやっぱり兄貴の知り合いだと燥いでいる。

中間が追い付いてきた、昔なじみの幸吉だ。

「若さんお久で。五年ぶりになりやす」

「お前も元気そうだ」

「ついに還暦になりました。足は自慢でしたが、さすがに大坂から浜松は遠いでござんす」

浜松藩大坂蔵屋敷詰になった用人の岡村について出ていたはずだ。

長男の黙之助の供で浜松へ下ってきたという。

「今日のうちに浜松へ入るのか」

「今からじゃ陽のあるうちは無理でしょうね」

「一刻で歩けるなら戌には入れるぜ」

「うちの若旦那なら歩けてもあっしにゃもう無理でござんしょ。飛脚なら一刻で駆けるのが御定法」

「そんな決まり聞いたことないぜ。今日は一緒に泊まれ」

「どこへお泊りで」

「兄貴まずい。決めてこなかった」

「相部屋でいいから戻りながら探すか」

高札場から見ると引き込みの番頭に留め女も数が少なくなっている。

どうやら空き部屋は少ないようだ。

「脇本陣に声をかけてみるか」

みょうがや ”では一瞬戸惑ったがすぐに笑顔で「四人様、相部屋なら用意させていただきます」と気を引いてきた。

「頼むぜ。こちら浜松の大坂蔵屋敷から国元へ御用でお戻りの岡村様だ」

四郎は黙之助を前に押し出すように紹介した。

「そちらは奥州白河藩の本川様、いまがんげで偶然行き合わせたんだ」

主人が足を濯いでいる様子を見て番頭を手招きした。

「かしこまりました」

式台戻って畳廊下を奥へ案内してくれた。

どう見ても上段の間だ。

四郎に次郎丸は慣れているが黙之助と幸吉にはかたぐるしい。

荷をかたづけた頃合いを見て主人が女中に茶の支度を持たせてやってきた。

「ようこそ御出で下さいました」

女中が部屋を出ると指印を見せた。

驚いたがすぐに返した。

「一刀流の免許をかろうじて貰えた駆け出しの剣術家だよ」

「脇本陣とはいっても親の後を継いだばかりの駆け出し者でございます。まさかの事、御出で頂けるとは今生の幸せ。式台で耳に本川様と聞き、指印をご存知との香貫屋の話は連絡網で流れましたが、すでに熱田あたりかと思っておりました。」

「後から来る者を待てというので足が遅いのだ」

黙之助が驚かないので四郎のほうが「知っているのか」と聞いてしまった。

「猪四郎さんとの付き合いも有るので耳にしてはいます。でも若さんは最低の組だそうですが」

「黙之助よ、指印はまだ四番のままだ。お前だってそろそろ入れる年だろうに」

「一度国元へ戻り、祖父の添え書きを持って戻ればお許しと聞かされました」

静かに幸吉は部屋を出て周りを窺ってきた。

「隣座敷はまだ入られておりませんようです」

主が隣との襖を開けた。

「皆様は本川様のご身分はご承知の様でございますな」

「黙之助は七年前に中西道場へ入った弟弟子だ。父親と大坂の蔵屋敷へ移って以来だ」

黙之助は七歳のとき中西道場に入門し、九歳の時家族と大坂蔵屋敷へ赴任していった。

次郎丸はようやく旅に出た経緯と四郎のことを話しておいた。

番頭が来て「お隣へ入れても宜しいでしょうか」と聞いてきた。

主と由縁(ゆえん)でも有るかと気を使っている。

主より先に次郎丸が「いいとも。繁盛でいいことだ」というので主も承知と番頭と式台まで出て行った。

襖を閉めて四人で雑談を始めた。

女中が来て「湯殿で汗を流しなさせ」と何処かの方言のように聞こえる言い方をしてきた。

替わり番子に湯殿で汗を流してきた。

「本当に新兵衛さんが追いかけてくるんですか」

「宮で二日か三日遊んでいれば追いつくはずなんだが」

「大坂へ向かうときは、浜松から三日目に宮へ着いています。若さんたちがのんびりと歩くなら金谷、掛川に今日にも来ていれば確かに追いつけるでしょうが」

「それだよ。今ここだよと連絡を付けるほうが難しい」

後は街道で何が美味かったや、期待外れの話になった。

食事は一汁三菜だが手が込んでいて旨いものだった。

若布と豆腐の汁に巻湯葉も入っている。

太刀魚の煮付けに香の物。

お平には里芋の煮物、菊菜、焼き豆腐。

驚いたのは飯だ、ここまでで一番うまい飯と言うべきだろう。

隣は親子連れが入ったようで時々幼い娘の笑い声が聞こえた。

戌の下刻前(九時二十分頃)に強風が吹いてきた。

四郎が手早く勘定は済ませて来たと黙之助主従に伝えた。

幸吉は「若さんの奢りだ」と喜んでいる。

女中が布団を運んできた。

隙間が出た場所で四人は酒盛りならぬ茶で寛いだ。

茶うけにと“ 追分ようかん ”を二本出したので残りは一本。

餡を竹皮で包み、竹皮ひもでむすび、蒸しあげるので、店ではひと月持つと教えたと四郎が説明した。

「風が止まぬと船が出ないぞ」

「兄貴俺たちゃここで籠城でもいいさ」

「新兵衛が追い付くまで昼は毎日鰻でも食べるか」

「毎日は勘弁してくれ兄貴」

二人に黙之助は「新居のほうでは此方のほうが美味い店が多いと自慢していた」と幸吉と笑い転げている。

江戸とは違って蒸しを聞かせる店と違い、大坂風に焼く此方のほうが美味いと言うようだ。

「私にはどちらも美味いものですがね。つい大坂風になじんで江戸風の流行だという蒸したのは歯ごたえがなくて」

「どこで江戸風を食べた」

「それがですぜ。昼前に白須賀で食べたのが江戸風だというのでね」

一日二度も続けて食べたようだ、黙之助もよく食べたものだと次郎丸は呆れている。

上方風もふっくらと焼ける店が多くなったという。

「あっしの若いころは江戸でも蒸すなんてのは、やっていませんでしたぜ」

「ということは江戸風に蒸して出すのはつい最近か」

「天明のころに流行りはじめましたぜ」

天明ではほかの三人は生まれる前で、二十五年以上も前になる。

「それで記憶にある鰻は蒸したものが多いのか」

「あっしのガキの頃は串に刺して丸で焼いていましたぜ。それが開いて焼く店が流行って、たれにも工夫がされ、どんどん高級な物に成りやしてね」

柳原、両国でひと串十文、十五文だった物が、どんぶり飯に乗せて三十文、いい店だと五十文。

「それが、あっという間に百文が普通に成っちまいました」

座敷で食わせる店が増え、二百文なんざぁ当たり前だと憤っている。

今でも大坂の担ぎで回る店は焼き立て十六文で回っているという。

「さすがに筒っぽうの店はなくなりました。残念なのは伏見から大津へ抜けたので京の都で筏の白焼きを食べそこないました」

「この爺さんの食い意地には負けますよ。桑名の焼き蛤もあっという間に六枚食べました」

「だって旦那様が食い扶持だと、三分余分に呉れましたからね。残しちゃ申し訳ない」

三分も二人の旅費のほかに持たせたら相当無理がきく。

「大坂へ戻るとき用に半分残せ、というのにとっくに二分は腹の中です」

「若旦那だって相当食べていますぜ」

赤子の時から一緒だ、遠慮などない主従だ。

「大体八日目か」

「九日目になります。七里の渡しが一日止まりました」

それで桑名で蛤を食べる時間の余裕もできたようだ。

二月七日の早朝暗いうちから街道のざわめきが此処まで聞こえてくる。

隣の部屋へ「一番船は出る時刻ですよ」と声をかけている。

時計はまだ三時に十五分ある、何時の間にやら風は収まっていた。

舞坂詰船は前夜から舞坂へ詰めて夜間の御用を務め、翌朝に通行人を乗せて帰る十六艘が寅の刻(陽暦三月末三時二十分頃)を待って順次船出する。

早朝の船に乗りたい旅人(たびびと)には時刻に合わせ。粥に香の物を用意してくれるのだ。

四郎は卯の刻に飯を頼むと言いつけていたのでもう一眠りと決め込んだ。

朝の食事に出た浅蜊の味噌汁は旨い。

浜松へ行く黙之助主従と別れ本雁木(がんげ)へ向かった。

昨日会ったばぁさんと担ぎの小間物屋が横町から出てきた。

「おや、またお会いしましたね」

「本当によく出あうぜ」

「新居へお渡りで」

「そうだ、そっちは」

「中条まで戻ってからまたこっちへ来て渡りやすんで。宮でまたお会いしたりして。あっしは桑名から伊勢へ向かいます」

「宮で待ち人来たらず、となれば三日は居るようになる」

「ありゃそいつはお会い出来そうですな」

東西に分かれて船着きへ向かった。

今切(いまぎれ)の渡しは二人で二十四文、一里半有るというのに安いものだ。

船は乗客八人に船頭二人、澪標へ向かって進んで、ほかの荷船の間に入った。

乗客の少ないのは四人が大きな荷を持ち込んだせいだ。

「兄貴よう」

「どうした」

「だいぶ持ち金が減ったが、少し倹約するかい」

「気にすんなよ。懐金はあれで仕舞じゃない」

「俺は兄貴から三両貰ってきた」

「それを使わぬうちに新兵衛に会えるさ。たいてい二十や三十は持って出たはずだ」

関所大御門を出て旅籠紀伊国屋に万屋五兵衛の前は旅籠尾張屋平吉と伊勢屋長吉、その先突き当りに飯田武兵衛本陣と疋田弥五助家本陣。

巳の刻(九時四十分頃)の鐘が丘の上から聞こえてくる。

鉤手(曲尺手・かねんて)に左へ折れると寄場がある。

小さな板橋を渡った。

「ここが幸吉おすすめの上方風の鰻屋だぜ」

「まだ腹もすかないぜ。白須賀の江戸風にしようぜ。どうやら先は蒸しをしない鰻屋ばかりになりそうだ」

鉤手(曲尺手・かねんて)の手前に見える一里塚は六十九里目。

棒鼻と呼ばれる場所に桝形がありそこまでが新居宿。

橋本村は加宿だ、その先はしばらく松並木が続き大倉戸の立場があるが足を止めずに先を急いだ。

鉤手(曲尺手・かねんて)を通り過ぎると元の白須賀宿の一里塚と高札場がある。

右手に火鎮(ほずめ)神社、さきに蔵法寺がある。

遠州灘を眼下に眺める潮見坂を上った。

「宝永四年の津波の後に宿を坂上に移したそうだ」

十四町十九間宿場があり家移りの時、間口割りを制限したという。

「新居から一里二十四丁という割に刻がかかったな」

「この五丁ほどの坂が思わぬ歩きづらいからだな」

仕舞屋から機織りの音が聞こえてきた。

鉤手(曲尺手・かねんて)の先は下り坂だ。

伝馬町の白須賀宿本陣は大村庄左衛門、脇本陣が桐屋三浦惣次郎。

道中記にある“ 火防 ”は間口二間に奥行四間半に槙が十本くらい植えられ、街道の両側に何か所もある。

加宿境宿村の境まで歩いてから脇本陣ななめ前の“ おおくに ”という鰻屋へ戻った。

うなぎ丼二杯で二百二十文を豆板銀二枚で支払った。

二人の江戸っ子口調を主が聞きつけて話を聞きに来た。

「なんかねぇ、懐かしい口調で。つい出てきましたがこのあいだも若いお侍に中間さんが浅草言葉で五年ぶりの江戸風鰻だと喜ばれました」

「そいつに舞坂で出会ってね。ここで食べたと聞かされた。こっから先ゃ上方風の焼きだというので当分食べ納めに寄らせてもらった」

聞けば浜町河岸の“ だいこくや ”が引っ越した時、いい機会と故郷へ戻って店を開いたという。

「大国(おおくに)は大黒(だいこく)にひっかけたのか」

「さようです。やっぱり江戸っ子は洒落がわかる」

大国をだいこくと呼んでさらにおおくににする謎かけのようなものだ。

旅籠で両替の木札を下げた家へ入って「早いが今晩ここで泊まりたい」と告げた。

両替をしておこうと手数料の札を見ると一両につき二分としてある。

「おい、兄貴一両に二分だと半分だぜ」

「御客様、二分(にぶ)ではなく二分(にふん)でございますよ」

次郎丸が「わりぃ、何時か言おうと取っておいた冗談だぜ」と取成した。

四郎が一両出すと、一分判三枚、豆板銀十四匁に四文銭十五枚が出され、豆板一匁に四文銭四枚に二文足して手数料にした。

二月八日は卯の刻に旅籠を出た。

道は緩やかに下り、加宿として境宿は隣り合わせに続いている。

高札場は境宿のものだ、秋葉山常夜灯があり“ 文化十年 ”と去年の銘がある。

道中記に“ 猿が馬場 柏餅ここの名物なり。あづきをつつみし餅 うらおもて柏葉にてつつみたる物也 ”と出ている店がある。 

「いくらなんでも朝からは食えねえね」

「名物ひとつ食いの河岸(悔い・逃し)」

洒落にもなってねえよと四郎にいなされた。

ようやく日が昇る気配の宿はずれに、女太夫らしき編み笠に三味を持つ女がいる。

四郎は「十郎の金をとった相手かな」と気にしている。

「相手の姿恰好はきかなかったな」

二人は道連れをいうか、一人旅のものをひっかけるのか興味を持って近づいた。

「もうし」

きたぞきたぞと四郎は目が輝いた。

「どちらまで御出ででござんす」

「俺たちゃ、御油の予定だ」

「まぁ、うれしい藤川なぞいわれちゃ急ぎで足がつらいですが。吉田まで道連れを頼まれてくださいな」

「吉田でいいのか」

四郎少しがっかりしている。

「叔母の家へ用ができたんですが、この先物騒なもので。いつもなら三人ほどで回るんですが、都合で二人田舎周りであっち一人なんですよ」

この先二川まで道中記に“ 夜道可慎 ”と出ているほどわびしい道だ。

境川の境川橋は三河と遠江の境界になる。

「昔の二川宿への距離が二里六丁、今は一里十七丁になっていたぜ」

「てことはこの道中記は宿が移る前のものからの引き写しだぜ」

二十五丁は白須賀宿が西の高台へ移動したということだ。

下細谷村は一里山立場とも言われていた。

七十一里目の一里塚は街道から引っ込んでいる。

梅田川の筋違橋から振り返ると後ろ北側に岩肌が見える、八畳敷きの鏡石というのがこれの様だ。

四郎と女が後ろを歩いた。

二川宿も江戸方見附を入ると一里塚の跡らしき土塁がある。

七十二里の二川一里塚跡なのだろう。

正保元年(1644年)に二川村を西へ、大岩村を東に移動させて二川宿と加宿大岩町に組み直した。

合わせても十二丁十六間という短い宿場でしかない。

それでも本陣、脇本陣に旅籠が三十軒ほどある立派な宿場だ。

この辺りは天領で赤坂出張陣屋が管理している。

「ここらで商売になるのかい」

「問屋場で顔つなぎして宿銭稼ぐのがせいぜいのところですよう」

東問屋場、脇本陣、が並んでいる。

松坂権右衛門脇本陣がその先にある。

馬場彦十郎本陣は文化四年に紅林家から受け継いだ。

高札場に西問屋場、立場茶屋は西見附土居の手前にある。

岩屋江八丁 ”“ 弘化四年 ”の道しるべがある。

岩屋観音堂街道で近道だ。

火打坂には“ 尉と姥の石 ”が道端にあるが道中記には特に説明はない。

坂の上に茶店がある、下る前に一休みした。

「よくこんな上に休み茶見世を出したね」

「裏手に昔からの良い井戸があるだら」

若い男は次々くる客で忙しい。

岩屋観音堂街道は南につながっていた。

観音堂は行基が天平二年に建立、山上の聖観音立像は明和二年(1765年)に建立された。

後ろの二人は話が弾んでいる。

この岩屋観音は江戸の大工茂平が、吉田の大橋をかける際に完成祈願したと云われていると女は四郎に話している。

「あたいは芸が達者で飯盛りに成らずに済んだけど、吉田じゃ百を超す飯盛りがいるでござんすよ。芸者も二枚看板じゃ身儘に出きゃしない」

「俺たちゃ飯盛り、芸者より美味い飯を出してくれる宿のほうがいい」

「若いのに本気ですかねぇ」

「知り合いになったやつが袋井で女に金を抜かれる失態をしたそうだ。飯盛りだと宿に付いてるから飯盛りじゃなさそうだが。おいらは女に弱いので用心用心」

「嫌ですねぇ。あたい達じゃありませんよ。枕探しにやられるなんざぁ油断が過ぎましよぅ」

「姉さんはどこが一番稼げるんだね」

「問屋場の扱いのいいのは掛川、浜松、吉田が良いですよぅ」

「ずいぶんと広い範囲だね」

「浜松に元締めがいて二十人ほど掛川から熱田の間の街道に出ていますのさぁ。大体の日取りは半年に一度顔出しして仲間と被らないように回りますのさ」

関所の出入りは顔なじみでも容赦ないのだという。

「瞽女と揉めないのかい」

「そのために稼ぎの時は問屋場へ顔つなぎが必要でござんすのさぁ」

「江戸じゃ正月しか鳥追い笠を被らないが、ここらでもそうかい」

「さいですよ。女太夫より鳥追い女のほうが有名で年中被って門付していると思う方もおいでですよう」

七十三里目の一里塚は飯村(いむれ)にある。

二川宿から一里二十丁、吉田宿は東西二十三町三十間ある。

新町に入ると本坂通(姫街道)が合流してきた。

東八町交差点北側に建つ常夜灯は新町の大燈籠だと教えてくれた。

文化二年 ”“ 吉田中安全

東惣門は街道をまげて南向きに建てられ番所は二軒建ててある。

逆凹方に回り込むと、下モ町(下モ御門)でまた鉤手(曲尺手・かねんて)に間借り鍛治町へ入る。

「この道中記の下モってどう読むんだい」

「ただのしもまちですよう」

いつの間にかモが入ったようだ、縁起でも担いだかと次郎丸は思った。

曲尺手門の前が曲尺手町で先がまた鉤手(曲尺手・かねんて)に左、右と曲がっている。

曲尺手町をすぎると呉服町、そして札木町にはいる。

道の両脇には、順に問屋場、本陣が二軒清須屋中西与右衛門、江戸屋新右衛門。

江戸屋の斜め先に脇本陣桝家鈴木庄七郎。

鉤手(曲尺手・かねんて)の前で女と別れた。

「魚町の五色家でお兼(かね)と聞いて下さりゃ様子もしれましょうら」

「達者で稼げよ」

鉤手(曲尺手・かねんて)を西の総門へ着くまで見送ってくれた。

その先でまた左へ曲がっている。

「十回は城下で曲がったぜ兄貴」

「気になったか」

「数えるのも楽しみの一つだ」

「護摩の灰でなくてよかったな」

「それより、此処の親玉の隠密かと思ったぜ」

船町には高札場があった。

此処の湊からは伊勢、江尻への便船も出ている。

また二度曲がって吉田の大橋でもう一度右へ曲がって豊川(とよがわ)を渡った。

川を渡れば左へ折れて川沿いを下った。

七十四里目の下地の一里塚を過ぎた。

川を右へ折れて離れると横須賀村だ。

宿村を過ぎて甘酒の旗が揺れる伊奈の立場茶屋で一休みした。

十間ほど先が七十五里目の伊ノ奈の一里塚だ。

御油が近いようで秋葉山常夜灯が見えた

秋葉山 ”“ 寛政十二年

七十六里目の御油の一里塚を通り過ぎた。

追分に常夜灯がある、姫街道の本坂通(姫街道)嵩山宿からの街道だ。

音羽川の御油橋を渡れば、吉田宿から二里二十二丁の御油宿に入る。

橋の畔の休み茶見世で宿の様子を聞くために甘酒を頼んで一休みした。

此処のは甘みが少なく飲み終わると次がほしくなりそうだ。

「飯盛りいらねえだら、んなら脇本陣戸田屋太郎兵衛様んとこがいいだべ」

宿の入口の最初の旅籠だという。

「お二人さぁ、伊能様ちぅ方をしっとられるだら。五年ほど前にひと月くらい泊まりこまれて地図さぁ、作られたで」

「聞いたことあるぞ」

「俺もだ。主はだいぶ物好きだと噂していた。浮田幸吉のように空を飛びたいらしい」

そんな話で盛り上がった。

「鰻の見世はあるのか」

「うなぎだぁ。さぁこまったべ、評判の良いのはいっとうはずれになるだぁ。後手近にもあるだが隣が人馬継所だで蠅がおおいだら」

道中記に九丁三十二間の宿場だと有るので、宿の約束をして西端まで行くことにした。

道は茶屋町から二度曲がって宿へ入ると左手に高札場がある、御油は二川、赤坂と同じく天領だ。

吉田、御油と異常に飯盛りが多い宿が続いている。

高札場の斜め前が脇本陣戸田屋だ、四郎が部屋の約束をした。

「鰻を食べてくるよ」

そう告げて出てきた。

鉤手(曲尺手・かねんて)に曲がると、林五郎太夫本陣に路地の先の雲州御七里役所の看板を下げた鈴木半左衛門本陣。

鰻の“ かわにし ”がはずれにある。

言い方を変えれば京方の入口だ。

大串で銀一匁と出ている。

「どんぶりにしますか、別にしますか」

「どんぶりで頼む」

少し安いので気になったが予想を裏切る旨さだ。

「これが上方風ならこの先も楽しめそうだ」

二人は飯盛りもまだ客の袖を引きに出ないのをいいことに、ぶらぶら看板を見ながら“ とだや ”まで戻った。

問屋場は京方から来た人馬で混雑していた、隣は蠅やアブに負けじともうもうと煙を出して鰻を焼いている。

継送りは宿場の通り越し禁止だが、赤坂宿・御油宿は特別だ。

江戸方への荷は赤坂を通り越して御油まで来る。

京方への荷は御油を通りぬけて赤坂まで行く。

とだや ”では脚を洗って脚絆まで女中が洗ってくれた。

「お客人も鰻で精を付けてもうちじゃ飯盛りもいないよぅ」

「居ないと聞いて此処にしたのさ」

四郎の軽口に女の目が潤んでいる。

「ややっ、惚れたな」

次郎丸は可笑しかった。

「飯の時に酒を一人二合つけてくれ」

部屋へ主が帳面を持って付いてきた。

奥州白河藩本川次郎太夫、弟四郎と書いて渡した。

「関札を下げても宜しいでしょうか」

「構わんが、わしのような若輩者でも宜しいのか」

「白河様といえば名門でございますので」

四郎は可笑しげに含み笑いをしている。

暫くして女中が茶に小さな饅頭を四個持ってきた。

「宿の江戸屋さんの名物饅頭です」

「さっそく頂こうか」

酒饅頭で香りがよいので褒めておいた。

「お客さんはお江戸の人かね」

「そうだよ。上役の言いつけで京に大坂の屋敷を見に行くのさ」

「兄者はこういうが半分見物旅だ」

「ばらすやつがあるか」

女中は申の後には風呂に入れると告げて出て行った。

まだ申の鐘は聞こえてこない、二人で金の整理をした。

隣へ三人ほどの女が入ったようだ、徐々に常連客らしき泊り客の到着が告げられている。

参勤のない時期は本陣は気が引けて、脇本陣へ泊まる物持ちは多い、申の鐘が聞こえ、女中が風呂へ入れるから貴重品は持って来てくれと呼びに来た。

二月九日は曇り。

卯の下刻(六時十五分頃)宿を立って赤坂へ向かった。

赤坂、岡崎へ向かって、北西へ続く松並木を歩くうちに陽が差してきた。

杭瀬川の橋を超えると見附、御油から十六丁で赤坂へ入った。

此の宿は文化六年に大火が起きて多くの旅籠が燃え落ちて家並びが新しい。

町並は八丁三十間に本陣が四軒ある。

右手に弥兵衛本陣、又左衛門本陣、問屋場(弥一左衛門)、向かい側には彦十郎本陣ここは門構え玄関の付く間口十七間半と宿一の大きさがある。

最近まで彦十郎が問屋場を兼ねていた。

左の庄左衛門本陣の先に赤坂出帳陣屋の入口が見える。

高札場をすぎて西の見附のそばに杉森八幡社の鳥居が目立つ。

道中記に赤坂宿から二里九丁で藤川宿と出ている。

八王子橋で音羽川をこえた。

七十七里目の一里塚は長沢村の手前、八王子橋を渡って松並木の間にあった。

音羽川に架かる御殿橋の由来は三代様ご上洛の折に此処へご休憩の御殿を建てた。

巓(いただき)神社参道入口に秋葉山常夜燈がある。

秋葉山 ”“ 寛政十年

長沢村境の四ツ谷立場茶屋にも“ 為当所火災消除口 ”“ 寛政十三辛酉歳二月 ”と刻まれた秋葉山常夜燈。

唯心橋を渡るとその先に曲ってきた同じ川に架橋されている橋の名は千両橋。

緩やかな上り下りの道が続いた。

権現様ゆかりの寺である法蔵寺門前は本宿立場。

休み茶見世七軒と旅籠二軒があった。

二人は法蔵寺団子を一人二本と茶を頼んだ、一皿に四本入れて出した。

平たく五個の団子を串刺して炙ってあり、溜りで味付けして有る。

此処は旗本柴田家知行地だと老爺が教えてくれた。

次郎丸の頭は武鑑を辿っている。

「兄貴、柴田と言えば織田家の柴田勝家公と所縁でも」

「おお、そうだそのご子孫だ。思い出した柴田勝房殿が持筒頭をされていたが、柴田勝延殿の代は覚えがない」

「兄貴でも覚えきれないのか」

「こっちへ来るのが二月前に分かりゃどうにかできたかもな」

そんなこと言うが大名と違って旗本は数がおおい。

知行取りだけでも二千九百家を越している。

ただ三千石以上となれば二百五十家ほどに絞られる。

「冨田家が代官職のはずだ」

「なぜそんのこと知ってる」

「武鑑を読めよ。知行地まで乗ってるぜ。お国替えされるたび。役に立つのは武鑑ばかりと評判だ」

団子は一串五文だった、茶のほうが此処でも高い。

余談

代官家の五代冨田群蔵常業は文化十年(1812年)二十四歳で冨田家の養子に入っている。

文化十三年(1815年)本宿陣屋代官に就任した。

群蔵は吉田藩士西岡家の三男として生まれた。

七十八里目の一里塚は本宿の西の外れにある。

昔の名残の残る旧山中宿、此処は苧(からむし)細工で有名だ。

小さな網袋を十二文で買い入れた、四文銭の袋に被せると丁度いい具合だ。

形の良いくねった瓢箪が気に入って見ていると、若い衆が「二合の酒が入ります」と話しかけてきた。

形はいいがこの口が気に入らんというと細工のされた栓を入れた箱を出してきた。

「どれを選んでも瓢箪とで銀一匁」

そいつはいいと気に入ったのを取り出すと口を合わせてくれた。

「最初は水で二刻程湿らせてやってください、そうすりゃ栓ともなじみますんで」

道は下って松並木で舞木橋を渡った。

五丁ほど先で藤川宿の入口にあたる東棒鼻が見えた。

宿囲石垣を抜けて道中記を見ると宿場は九丁二十間だとある。

鉤手(曲尺手・かねんて)の先に市場町の秋葉山常夜燈。

寛政七年建立 ”とある。

津島神社参道の先が東町高札場、中町問屋場と続き、森川久左衛門本陣がある。

橘屋脇本陣の先が百田川宿場橋、西棒鼻で宿が終わる。

成就院の十王堂に芭蕉句碑があると出ていたので見に入った。

爰も三河 むらさき麦の かきつはた はせを

はせをは芭蕉のことで、裏へ回ると何時誰が建立したか記されていた。

寛政五歳次葵丑冬十月 当国雪門月亭其雄并連中 以高隆山川之石再建

七十九里目の藤川一里塚が出てきた。

吉良街道追分の道しるべ石は四角柱だった。
「おいおい、まだ五月じゃねえよ」

右面“ 文化十一年甲戌五月吉日建

正面“ 西尾 平坂 土呂 吉良道

左面“ 東都小石川住

藤川宿から一里二十五丁で岡崎宿。

この頃の岡崎藩は評判がガタ落ちになっている。

次郎丸は父の定信が調停に入り、財政改革が軌道に乗る端緒が見えたにかかわらず、藩主本多忠顕の遊行が目に余るとの噂を聞いている。

寛政二年(1790年)十五歳で伊予西条藩から養子に迎えられた。

三十八歳の壮年の藩主の乱行は目に余ると幕閣も困り果てている。

「三谷喜三郎らとの改革は挫折で借入金は増える一方だそうだぜ」

「結は」

「入らないほうが無難だと猪四郎も言っていたぜ。三谷も手を引いたそうだ」

参勤は参府が丑卯巳未酉亥の六月.暇が子寅辰午申戌六月となる。

今は殿様が江戸に居るということだ。

八十里目の一里塚は西大平村の西側にある。

余談

此処ではウィキペディアWikipedia)の順番に従っているのだが。

次の岡崎宿内にあったとされ、またも八十一里目は無しにされ、矢作八十二里目とされている。

その矢作は東海道分間絵図の元禄三年(菱川師宣)に矢作橋西端に乗っていて調べた人が大平~矢作は6509mと載せているうえ、岡崎市でも市内は四か所、本宿、藤川、大平、矢作で有るとしている。

ちなみに日本橋から岡崎宿伝馬町までは八十里二十三町四十五間(316.8km)になる。

 

西大平陣屋は名奉行とうたわれる大岡越前が大名になった時に与えられた領地に作られた。

越前守忠相は本願の相州大曲に墓があるが、領地は孫の大岡忠恒の代に三河に統合されている(大曲は引き続き残されたという)。

大岡家は一万石の定府大名で陣屋は郡代一人・郡奉行一人・代官二人で賄われている。

筋違橋に“ 従 是 西 岡 崎 領 ”の標石が立っている。

「岡崎は岐阜屋という旅籠へ泊まるつもりだ」

「知り合いかい、兄貴」

「いや近くに佐久間先生と文のやり取りしてる藍叟という俳人がいるのだ。昔江戸へ出てきたとき知り合ったと話していた」

藍叟四十七歳、弟子や友人が引きも切らずに訪れるという。

「一茶殿と変わらぬくらい女好きだそうだ」

「そいつはすごい、俳人とはそういう人が多いのかね」

「まさか。芭蕉にそういう話は聞いたことがない」

「岡崎女郎衆は居るのかね。兄貴」

「山東京伝の仇討敵討ものか、俗謡の岡崎女郎衆はよい女郎衆は昔物語で三嶋女郎衆の類(たぐい)だ」

岡崎城下二十七曲と言われて迷路かと心配したが、欠村からすでに人家が多くなった。

「もうここから鉤手(曲尺手・かねんて)が始まってるぜ」

投(なぐり)町の休み茶見世は“ あわゆき ”の札が揺れていた。

菓子ではなく餡かけ豆腐だと小女が言う。

「茶は要らんからそいつを二つ出してくれ。

二人はその娘の見世でさっと熱いのを啜った。

小女は湯呑に水を入れてきた。

「やけどしませんでしたか」

「江戸っ子のやせ我慢さ」

コロコロ笑う女を始めて見て次郎丸は此の宿が気に入った、水も美味い。

あわゆき ”に四文銭八枚、別に湯呑に一つずつ四文銭を入れておいた。

籠田総門から伝馬町へ入ると人で混雑している。

下之切、中之切、上之切と伝馬町は分けられていると道中記にある

伝馬通西本陣中根甚太郎本陣の近くだという岐阜屋はすぐに分かった。

この時期本陣は東(服部小八郎)と西の二軒、大津屋が本陣になるのは八年後。

泊まりの予約をして余分な荷物を預け、藩札を見せた。

菅生蟹沢(すごうかにざわ)までの道を聞いて藍叟の家を訪ねた。

十人ほどが居間に居て庭にも五人ほどいたので「松代の佐久間先生から聞いて現況を覘きに参りました。白河藩の本川という若輩者で発句の心得はありません」と挨拶した。

「先生には元気だとお知らせくだされ」

「承知つかまつった」

往復十五丁もないので上之切へ戻るとまだ三時に成ったばかりだ。

路地脇で花を売る老婆はもう店を閉めようとしている。

自身番まで戻ると四郎が呼び止められた。

「古沢の旦那がお呼びで」

「市郎右衛門殿かね」

「さいで」

二人が内へはいると小者は表で番をした。

「四郎さん。どこへ行くんだね」

「熱田で父の戻りを待ってから京の都へ行くのだ」

古沢に次郎丸を紹介し、次郎丸には古沢を江戸の無外流を一緒に学んだと話した。

「実は俺の兄貴分でな、今回は用心棒代わりに付いてきたんだ」

「四郎さんに用心棒が必要かね」

「逆、逆。俺が用心棒だ」

古沢は二十石三人扶持という軽輩だが目付を務めている。

「宿で菅生蟹沢へ出向いたというが俳句に興味でも」

次郎丸へ話を振ってきた、四郎とは考えもしていない様だ。

「私の先生が俳句の連中と付き合いが多いのでね。近況を覘いてきました」

見かけてもあわてて声をかけずにまず下調べ、本田の歩行目付は心がけが違う。

「岡崎はいつまで滞在されます」

「明日には宮へ向かいます」

「道中お気をつけて通行くだされ」

次郎丸は松代の佐久間一学へ向けて文を送った。

定飛脚問屋は松代まで十八日で銀一匁だという。

江戸から出すのと変わりがないので驚いた。

東海道江戸から大阪へ十五日銀一匁が相場だが、これは街道を行き来する飛脚が多いからで中山道は日数がかかる。

四郎は四文銭の袋を持って「だいぶ少ないぜ」と両替屋へ入った。

一両出して南鐐二朱銀七枚に四文銭二百枚を受け取り、手数料豆板銀一匁に四文銭五枚出して二文を貰った。

袋にざらざら落とし込んで涼しい顔で店を出た。

「せっかく軽くなったのに、ひでぇ話だ」

二月十日は、しとしと夜中に雨が降りだしたが卯の刻には雲が切れた。

卯の下刻(六時十五分頃)に“ 岐阜屋 ”を旅立った。

材木町口角から柿田橋角を抜け松葉橋を渡り、松葉総門を出た。

八丁ほどで味噌蔵がある「此処が八丁味噌の語源だという味噌蔵だ」と大声で話す旅人がいる。

八町村突当り角先に矢作橋がある。

長さ二百八間と道中記にある、両国橋で幅四間、長さ九十四間だ。

吉田大橋が幅四間、長さ九十六間で矢作橋は、はるかに長い橋だ。

「絵本太閤記のようにここで日吉丸と蜂須賀公が出会うのは無理がある。最初に橋を架けさせたのは権現様で、慶長七年に完成している。岡崎でも別の橋のはずだな」

「蜂須賀公はその時味噌屋へ押し込んだと書かれて困っているそうだぜ。権現様が架けてから修理してるのかな」

「二代様、三代様と三代続けて橋を架けさせたと出ていた。何度も流されて上流に仮橋を架けた時もあるそうだぜ。今のは十五年前に架けられたものだ」

のんびり歩く二人を「ごめんなせえぇ」と追い抜くものも多い。

二人は渡り終えて道中記よりえらく短いようだと議論している。

「三百歩だった。百二十歩は余分になきゃ可笑しいぜ」

二歩で一間、歩けるように調整したようだ(右足数え)。

数えながら話の受け答えも出来るとは器用な四郎だ。

「また師宣の東海道分間絵図からの引き写しだろう。寛永の三代様の時は二百八間あったのだろうぜ」

二人は覚えていない様だが実は、宝暦二年の東海道分間絵図も“矢矧橋二百八間 第一の大橋”と書き込んでいた。

橋を渡り上(かみ)に曲がると先の鉤手(曲尺手・かねんて)に八十二里目の矢作の一里塚を見つけた。

余談

寛政十一年(1799年)にできた橋は幅四間三尺九寸、長さ百五十一間五尺一寸と記録がある。

寛永十一年(1634年)の架け替えでは二百八間。

延宝二年(1674年)には幅四間、長さ百五十六間。

菱川師宣の東海道分間絵図は元禄三年(1690年)。

長さを長短二つ記入している。

下敷きにしたのは天和元年(1681年)の東海道絵図と言われているがここには長さはない。

宝暦六年(1756年)九月十六日の洪水でも流されている。

寛政の架け替え後に何度も修復されたが、安政二年(1855年)七月二十五日の洪水でも大部分を流され、家茂上洛の時は渡船で矢作川を越えている。

明治天皇の江戸下向の時は六郷と同じく船橋を設置した。

勝蓮寺門前に宝暦十年建立の碑(いしぶみ)“ 親 鸞 聖 人 御 舊 跡 柳 堂 ”があった。

誓願寺十王堂がある、義経と浄瑠璃姫との伝承が残る寺だ。

道は鉤手(曲尺手・かねんて)に何度もうねっている。

「おいおい、此処もまだ岡崎城下二十七曲(まがり)の続きかね」

八十三里目は尾崎村の西外れにある。

宇頭茶屋村(うとちゃやむら)には休み茶見世、茶屋本陣があった。

此処までが岡崎藩領で村は岡崎宿、池鯉鮒宿から大名の休憩差し止め、旅人などの止宿の差し止めを訴えられている。

文化七年池鯉鮒宿はさらに訴えたが、元禄十一年に松平主税頭(頼方・八代将軍吉宗)が帰藩の途次に本陣藤屋で休みをとった際、下付された関札の由緒があり、以前通り茶屋営業を認められた。

村は隣の大浜茶屋村とつながり間には、挙母、足助へ通じる挙母道、大浜湊へ通じる大浜道がある。

「この街道も塩街道だぜ」

「先には数の多い遠山一族の明知(あけち)遠山氏の領地も有るそうだぜ。どうやらそちらが本家だという人もいるんで気にはしているんだ」

「遠山の事は美濃苗木藩が本家じゃないのか」

「古い話でな兄貴、遠山景朝という人が最初の遠山氏だ。その方の長男景村の家系が美濃苗木の遠山家だ。景重と名乗る三郎兵衛という方が明知遠山の初めの方で、俺のところはそこの分家だと兄上から教わった。ややこしいのは景員という六郎様が本家の岩村を継いでいるんだが、家系は絶えているのだ。それで美濃守様はこちらが本家だと事あるごとに兄へ言ってくる」

大浜茶屋村も立場で道中記に炒豆茶屋七軒、作間茶屋(農閑期)六軒とあるがもっと多そうだ。

この辺りは刈屋藩二万三千石の領地だ。

今は土井利以(としもち)十九歳の若き藩主が淡路守を名乗る。

昨年、文化十年に藩主なったばかりだが、趣味に走り藩政は家老任せだと聞こえてくる。

今は暇で亀城(刈屋城)に居て六月に参府するはずだ。

庄屋だった柴田助太夫は村の困窮を理由に、助郷の免除を当時の藩主稲垣重昭へ申し出たが、処罰され刑死したと伝わる。

猿渡川橋を渡る。

御鍬神社は御鍬神を祀るとある。

聞いたことがないので境内へ入り禰宜に聞くと“豊受比売命”の事だと教えてくれた。

來迎寺村、牛田村、八橋村、駒場村、花園村、里村、今村、大浜茶屋村の八ヶ村が伊勢から勧請したと言う。

八橋無量寿寺への道しるべが有る。

従是四丁半北 八橋 業平作観音有 ”“ 元禄九丙子年六月吉朔日 施主敬白

八十四里目の一里塚は来迎寺村にあった。

その先にまた八橋無量寿寺への道しるべがあった。

従是五丁北 八橋 業平作観音有

元禄十二年巳年三月吉日 施主敬白

水面に桜が散り始めている。

池の杜若(かきつばた)はまだひと月早いので蕾も見えない。

巳の刻の鐘(九時四十分頃)が近くから響いてきた。

池鯉鮒宿の東、街道の右手北側は馬市が行われる原だ。

休み茶見世で一休みした。

街道の北が字桜之馬場と南に字談合ノ松だという。

今年も四月二十五日から開くという、刈屋藩が役人を馬市番所へ出して管理するそうだ。

ひくまのに におうはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびのしるしに

 引馬野に にほふ榛原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに

 引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓

「誰の作だい兄貴」

「長忌寸意吉麻呂という方がうののさらら(鸕野讚良)について三河へ来られた時の作だよ」

「うののさららとは女帝の事か」

余談

持統天皇(うののさらら、うののささら)が大宝二年(702年)三河行幸の折に長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が読んだと万葉集にある。

天皇は前年に吉野へも行幸しているが、三河へ大宝二年(702年)十月十日に出て十一月二十五日に三河から戻った。

十二月十三日病を発し、二十二日に五十八歳で崩御した。

池鯉鮒宿は刈屋藩の領地だという。

何やら香ばしくて良い匂いがする。

葭簀の陰を覗くと四角い平鍋に小麦を溶いて焼いている。

「気になるだかね」

「いい匂いがするな」

「餡が入ると五文で抜きなら二文だみゃ。食べりん」

「両方呉れ。もちろん二人分だ」

「昼前だそろそろ腹もすく頃だみゃ」

先に餡無しが来て、鍋のほうは餡を載せて丸めて少し温めて持ってきた。

「うまく考えているもんだ」

「匂いにつられる人が多いだみゃ」

四文銭八枚出して釣り二文を受け取って四郎へ渡した。

見ていた小娘が不思議そうに聞いた。

「こちゃの兄さんが出して、そちゃの兄さんが釣りを貰うだにゃ」

「四文銭が俺の掛りでこいつを持たされているんだ」

袋を持たせた「重いだら。いったい何枚あるにゃ」とすぐに返した。

次に来た客も餡入りと餡無しを頼んでいる。

焼いている若い衆は「一回で十本焼ける鍋を買おうずら」と傍に付いていた老婆に相談している。

「馬市までにゃ買うだら。竈も、もういっちょ作るだらしんぺいいらね」

「この辺り鉄の鍋は幾ら位するんだね」

後から来た旅人が老爺に聞いている。

この休み茶見世五人で切り盛りしても、流行っているようで忙しい。

「三升炊きの鍋に釜だと一貫文以上するだら」

「そんなにとるのかい。俺が国では五百文で女房が怒っていたぜ」

「鍛冶屋の腕次第だら、底が薄いと鋳掛屋が喜ぶだら。五百文だら一升炊きがせいぜいずら」

「おらが女房のも一升なのかな」

「五人や六人の家族なら十分だら」

大野鍛冶がこの辺りを回っているという。

吉田鍛冶は農村から泊りがけで修理に人が来るという。

客どうしでも話が弾んでいる。

「今年の馬市はだいぶ遠く木曾からも来るんだそうだら」

「去年はいい値が付いたのかい」

「ほうやあ、最後のへぼい売れ残りでも一頭二両一分に四頭買った人がいるんだら」

「馬具でも作る皮とりかい」

「いんや、荷駄には向かないが農耕には使い道が有るんだとさ」

三河に入って“ だら ”の言葉に“ にゃ ”も混ざっているなと、次郎丸は楽しくやり取りを聞いている。

東見附を入った、岡崎から三里二十九丁二十二間で池鯉鮒(ちりゅう)だとある。

休み茶見世がおおい、四郎は十二軒あったという。

山町から右へ行く小路は挙母城下へ通じる駒場道の追分。

街道右手中町問屋場があり左へ入る小道は吉良道追分。

街道左手の本町に脇本陣木綿屋新右衛門、問屋場、真向いにも問屋場。

永田清兵衛本陣が左にみえた。。

本陣の先にまたも問屋場、月番なのだろうか混雑している。

右へ鉤手(曲尺手・かねんて)に見えたが本町と西町の境に刈谷道追分が左へ伸びている。

また鉤手(曲尺手・かねんて)への角は了運寺、先には総持寺。

街道を進むと名所図会に出る池鯉鮒大明神。

“石橋は神籬の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありなん ”

西町の長者に目の悪き娘あり、ふたおやは知立大明神に願掛けした。

満願の日、娘の片目が見えるようになった。

その時から御手洗の鯉が片目となったという伝説がある。

池鯉鮒宿京方外れ、逢妻川に架かる池鯉鮒大橋、桜の馬場から此処までで十八丁ほどの様だ。

八十五里目の一里塚は一ツ木村一里山。

「そこで饂飩を食べようぜ兄貴」

「膝栗毛の蕎麦としてある見世か」

膝栗毛には今岡村のたてばにいたる、此のところはいも川と言。

めんるいの名物、いたって風味よしとききて。

“ 名物のしるしなりけり 往来の 客をもつなぐ いもかわの蕎麦 ”

「蕎麦とは言うが西鶴も書いてるぜ、ひら饂飩だとな」

道中記も“ いも川、うどんそばきりあり道中一ばんによし ”として蕎麦と饂飩の両方扱ったように取れる記述にしてある。

いも川 ”と札が揺れる店へ入った。

かけ蕎麦ならぬかけ饂飩は出しの利いた汁も美味い。

一杯十六文は安い、いい味が出ていると褒めて店を出た。

今岡の立場をとおり今川村に着いた。

此処も立場で休み茶見世が軒を連ねている。

八十六里目の一里塚は阿野にある。

有松一里塚との間に桶狭間古戦場。

有松に入ると未の刻の鐘(二時十五分頃)が聞こえた。

間宿(あいのしゅく)有松は、尾張藩のお声がかりで絞り染めが保護され、大きな問屋が軒を連ねて繁盛している。

“ ほしいもの 有松染めよ 人の身のあぶら絞し 金にかえても ”

「あにき、そりゃ弥次郎兵衛だ」

「ばれたか」

弥次喜多を十日で宮まで歩かせた一九だが、こちらの二人は十五日も掛かっている。

小売りもしている店をのぞいてみた。

「本のとうりだ。符丁のウの字とエの字が書いてあるぜ」

「符丁は弥次喜多にかぶれた人用に大きくしたんですにゃ」

店主も遊び心満載だ。

一尺が三分五厘の値段の布は出来がよく、触るのが惜しいくらいだが店主は笑っている。

三尺にすれば、江戸で豆絞りの三尺手ぬぐいを買うのとほとんど同じになるようだ。

高い高いと噂だが江戸の物の値からすれば、よいものが買える。

最近の晒し木綿相場は一反(長さ二丈八尺。幅九寸五分)六百文。

四郎は長めが良いと鯨で三尺五寸(ほぼ132㎝)一匁二分で二本買い入れて次郎丸へ一本渡した。

豆板銀三匁を四郎が出すと計ってから四文銭十六枚と二文を返した。

換算表を出して「今日は銭にすれば二百六十四文だ」と店主は言っている。

「上ってくる人は豆板銀も持たずに来ますんで、豆板銀百十文、南鐐二朱銀八百文が御定法で。上方から来る人はなまかわに丁銀に豆板銀ばかりでにゃ」

豆板銀の正式名称は小玉銀、元文の小玉銀は純度が四十六パーセントしかない。

これは丁銀と合わせて流通させるために純度を合わせたものだ。

この辺りから先は銀の支払いが多くなるのだと次郎丸は納得した。

八十七里目の一里塚は有松鎌研橋の手前。

鳴海は文化八年(1811年)大火に見舞われ、本陣、脇本陣に旅籠の半分が焼失した。

鳴海宿平部に秋葉山常夜燈。

秋葉大権現 ”“ 宿中為安全 ”“ 永代常夜燈 ”裏には“ 文化三丙寅正月

中島橋を越えた。

瑞泉寺の先の庚申山圓道寺は尼寺、奥に誓願寺。

鉤手(曲尺手・かねんて)に左へ折れる札の辻に問屋場と高札場がある。

作町の左手に西尾伊左衛門本陣

右手の如意寺には芭蕉の供養塔がある、没後三十五日に建てられたとある。

また鉤手(曲尺手・かねんて)に右へ、宿の中は地蔵に道しるべが数多くある。

脇本陣は銭屋新三郎家と大和屋左七家。

鳴海宿京方にも常夜燈がある、此処のものは寛政四年と二十二年まえのものだ。

秋葉大権現 ”“ 新馬中 ”裏が“ 願主重因 ”と傳馬にかかわる人たちで建てたようだ。

芭蕉の生前の自書による千鳥碑を見た。

表に“ 千鳥塚 武城江東散人 芭蕉桃青

裏に“ 千句塚 知足軒寂照 寺島言 同 安信 出羽守自笑 児玉重辰 沙門如風

側面に“ 貞亨丁卯年十一月 日

貞享四年(1687年)十一月四日芭蕉は知足邸に到着。

五日に言亭で歌仙興行が開かれた、芭蕉は“ 京まではまだ中空や雪の雲 ”と詠んでいる。

七日には安信亭(寺嶋安信)で歌仙興行され、芭蕉は“ 星崎の闇をみよとや啼く千鳥 ”と詠んだ。

芭蕉が鳴海六俳仙と歌仙千句完成記念に率先して建立したと伝わっている。

天白川にかかる天白橋を越えてしばらく行くと笠寺村の手前に笠寺一里塚。

八十八里目の一里塚だ。

笠寺観音に立場は多くの人が行き来していた。

呼続(よびつぎ)の道しるべは前面に“ 東海道 ”左は“ 富部神社 塩付街道 ”と彫られていた。

蛇毒神天王が見えた、祭神は蛇毒気神(だどくけのかみ)。

「此処は権現様の四男で清洲藩の藩主の尾張左中将が建てた社だ」

「尾張は五郎太様が初代ではないのかね兄貴」

「二十八歳という若さでお亡くなりになられ、後継ぎがいないので源敬公(義直)が継がれたのだ。ま世間的には源敬公(義直)初代でいいのさ」

裁断橋の東側に八十九里目の一里塚がある。

鉤手(曲尺手・かねんて)に折れて精進川の裁断橋、橋から振り返ると南東側に熱田社の築出鳥居が見えた。

熱田社には八橿の鳥居があり、一鳥居、二鳥居、中鳥居、東鳥居、西鳥居、築出鳥居、下馬鳥居、浜鳥居と呼ばれている。

裁断橋を渡るとそこはもう宮宿、姥堂おばんこさんは八尺の坐像が街道を見ている。

伝馬町には左に森田八郎右衛門本陣(白本陣)、脇本陣の小出太兵衛家、脇本陣は一軒だか脇本陣格は十軒を数えた。

右手に問屋場、三又に道しるべが有る。

東面“ 北 さやつしま 同 みのち道 ”     

南面“ 寛政二庚戌年 ”  

西面“ 東 江戸かいとう 北 なこやきそ道 ”  

北面“ 南 京いせ七里の渡し 是より北あつたご本社貮丁道

源太夫社(上知我痲神社)は、三又の正面、右に高札場。

右に行けばは熱田社があるが、左へ進むと南部新五左衛門家(赤本陣)。

浜鳥居をくぐって七里の渡しを桑名から来る船を見た。

左に目をやれば尾張家の東の浜屋敷、橋を駕籠で渡るのはと目を凝らしたが付き添う腰元の顔までは判別できない。

脇本陣格の旅籠で“ いせ久 ”へ投宿した。

宿札を出すというので応諾した、此処なら渡し場へ来れば目立つはずだ。

“ 奥州白河藩本川様 ”多くの札に混ざってあまり目立っていない。

「兄貴この分だとまだ親父殿は来ていないのかな」

「吾郎のほうで繋ぎを付ける工夫はしているだろうさ。明日の朝までに連絡がなけりゃ関札見物でも始めりゃいいさ」

「気楽なもんだ」

女中が「お連れ様が御着きですよ」と告げた。

だれかと思えば噂の主だ。

「そろそろと思って鳴海へ人を出しておきました。」

「新兵衛あにぃのほうの情報は有るかい」

朔に大木戸を出て六日に岡部とまでは連絡が来ているという。

「明日、明後日には此処へ着くでしょうよ。鳴海へ顔を見知るものを出してあります」

「遠山様のほうは」

「景晋様は伊勢を回って明日桑名で船に乗ります」

「じゃ明日の夕には一同揃うかもと言うことだ」

「景晋様は白本陣へ二月十一日と十二日ご宿泊とされております」

大名の参勤のない二月なら長崎奉行は本陣が当たり前だ。

その話をすると「それがですね。本陣は五回に一度くらいで大宿、中宿が当たり前でした」という。

結は、お七里とは言わず、宿に一人は連絡を受け持つものが居るのだという。

「俺たち二人の噂も先行してるのかね」

「頭が交代は皆へ連絡がついていますが。本川様の名と街道へ出ているはわずかなのですが漏れています」

吾郎は「金を十分持って江戸を立たさないのは、喜多村様の方針で四郎さんへ銭の価値を知っていただくためでして」と打ち明けた。

「十分苦労したよ。四文銭と豆板銀がこんなに大切とは道中で身に染みた」

次郎丸も「四郎が四文銭は俺の掛りだと両替しては持たされた」と二百枚近くはあるはずの袋を出した。

「十両足らずで出すのは心配だと織田様はおっしゃって居りましたよ」

「昨晩の勘定で四両二分に細かいのが大分ある。兄貴の懐金が三両無駄に出たがね」

「無駄など言うなよ」

経緯を二人で話すと吾郎は嬉しそうに笑った。

「そうだ明日には俺の道中合羽を買っておくか」

道中、馬に駕籠、芸者遊びに飯盛り、金の使い道は多いはずだが、二人は甘いものに鰻くらいの贅沢では二人分、日に一分(千六百文)あれば十分旅ができる。

吾郎は「帰りの費用です」と手形を渡した。

京烏丸通押小路上ルの井筒屋善助へ、江戸日本橋本石町井筒屋から出した、四郎が受け取れる十両の為替だ。

「おおどこだね」

「顔を売るにはいい店ですよ」

新兵衛が来れば必要は無いだろうが、持っていると無いでは気持ちの持ちようが違うはずだ。

次郎丸の腰の物は見かけが粗末でも、中身は捨て値で大小合わせて二十は越すだろう、半分で見た呉れの良いものを差せば旅費には困らない。

次郎丸の旅装束ならはげ鞘でも鞘袋で隠せば済む。

街歩き用に旗本や小大名の部屋住みと思わせる為の小道具を差してきた。

脇差の豊後住藤原行光は特に気に入って求めた。

大刀の粟田口近江守忠綱は息子一竿子のほうだと言われている。

食事が済むころを見計らったように五人の男がやってきた。

吾郎が二人を紹介すると男たちは名と仕事を告げた。

皆小商人だが性根は座っているように見えた。

「私の手の者でこの街で繋ぎの役目を代々しております」

「もっと大きく商売をして儲ける気は起きないのかね」

四郎は不思議そうに聞いた。

「好きな商売ができて暮らしに困りません。欲をかいて忙しい思いより家族との団欒が持てる今が幸せだにゃ」

桶屋に笊屋、八百屋に乾物屋と簪職人。

笊屋が俳句が得手だという。

「遠出をする役目は別にいます。岡崎へは俳句の添削をお願いするので月に三度往復しています」

卓池に頼んで見てもらうようだ。

この時代情報伝達が早いほど儲け仕事に繋がってくる。

公儀御用、大名飛脚、大商人の連絡網、それにまぎれるように結も六十四州に繋がりを持った。

日に三百文、五百文の小商いでも親戚の伯母から援助だ、従弟が助けてくれたという名目で節季や、暮れに物が届く、人並みに暮らしが立つように出来ていた。

四半刻程でそれぞれの家へ戻っていった。

女中が布団を運んできて「どういう集まりだにゃ」と探ってきた。

「俺の先生が俳句の連中と繋がりがあってな。岡崎の卓池という人の事を聞きに来たのさ」

「あの人たちも俳句仲間ですにゃ」

「俺の弟子だよ」

吾郎がそう言って「からっぺたの俺の弟子でも時々いい発句をひねり出すぜ」と笑い顔だ。

「そいゃ、笊屋のきっつあんうちの旦那と俳句の見せっこしてたにゃ」

主が宿帳を持ってきた。

吾郎は浅草天王町住人としたためた。

「庄吉の師匠とお聞きしましたが」

「師匠はお恥ずかしいですが、未雨と書いてみゆうと読ませております」

「やはりそうでしたか。春秋庵様の弟子とお聞きしました」

「師匠といっても十六の頃までで、その後は兄弟子たちの薫陶を受けてきました」

「一茶様とも」

「文の交流はあります」

次郎丸たちに遠慮して別間へ誘って出て行った。

「兄貴は一茶という人と会ったことあるのかよ」

「噂ばかりであったことはないよ。今は信濃柏原に居るはずだ」

この当時の浅草天王町は半分以上が収公されて代地へ引き移っていて、家数は十六軒が残る小さな町だ。

 

第六十六回-和信伝-参拾伍 ・ 23-11-14

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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