六日の朝はどんよりと曇っていた。
明るくなった卯の下刻(六時十分頃)に“くらた”を出た。
高札場、西坂梅塚と過ぎて先は小高い丘が見えた。
急坂の池田近道、本坂通(姫街道)は天竜川池田の渡しへの近道になる、一時池田への往来は禁止されたが復活している。
左へ折れるのが東海道、西木戸の先加茂川橋に西光寺、五文とりの休み茶見世が並び国分寺もあり、先に行けば中泉代官所がある道だ。
六十三里目の宮之一色一里塚も中泉の先にある。
二人は本坂通(姫街道)へ入った。
一言坂を抜けていくと大回りしてきた東海道に出る。
府中で見た菱川師宣の東海道分間延絵図では見附宿から浜松宿間は三里七丁、次郎丸が閲覧した東海道分間延絵図では四里七丁に為っていた。
それを四郎に言うと置いてきた宝暦東海道分間延絵図では四里七丁だったと覚えていた。
「だってよ。“ こうじやよごえもん ”の主が朝まで二つを見比べ、此奴を話題にして手放して呉れそうも無かったんだぜ」
そうはいうが四郎の記憶力はさすがに大したものだ。
「道中奉行が四里七丁と判定したんだ。だがよ池田近道でも一里は短く為るまいさ」
「師宣も池田近道は書き入れてあったが距離は書いてなかったぜ兄貴」
「道中奉行のほうも書き入れはなかったようだ。本坂通(姫街道)が禁止されていたころの作図かな」
この付近は旗本の領地が多い、弥藤太島知行の旗本堀三左衛門の庄屋鈴木家の屋敷がある。
近くには一言村、西之島村、勾坂村、中村、下岡、田村で千八百石余の領地をもつ旗本皆川歌之助の陣屋もあるはずだ。
池田の渡し近くの路端の茶見世には飛脚に巡礼たちが湯を飲んでいた。
次郎丸は三組の巡礼に「ご報謝」と言って四文銭を五枚ずつ柄杓へ入れた。
今日の船の具合を飛脚に聞くと「今日も二瀬越しで倍取られますぜ」と教えてくれた。
左へ行けば下之渡し場だと親切に教えてくれた、飛脚に巡礼たちは見附へ向かうという。
天竜川は東岸の池田の渡し、西岸の船越一色の渡しとなる。
池田には渡船場は三か所、宿場の機能も果たしている。
下横町に市川本陣、上横町に平野本陣がある。
渡し場は上にもあるが予備で普段は下の渡し場を活用した。
次郎丸が読んだ本には昔の池田は宿場として対岸に有ったとしてある。
武士には船賃なしで、二瀬越でも二十四文で済んだ。
番を待ちながら周りの客たちと道中の話題を繰り広げた。
次郎丸のほうは覚えていなかったが、四郎は大井川で見た顔だと話が弾んでいる。
「お二人とも甘いものがお好きなようで。たびたび見ましたぜ」
こっちはぶらぶら寄り道をしているし、男はなじみの家で商売をしているので何度も出くわすのだそうだ。
四十年配の担ぎの小間物屋だという男が「あっしは辛口でね」と言っている。
「俺たちは酒が強くない替わりに両方行けるんだ」
「饅頭で酒ですかい」
「甘酒も好きなんだよ。どこかいい見世でも知らないか」
「甘酒、白酒は疲れが取れますから、あっしも飲みますがね。江戸下りなら名栗の立場が高名なのですが」
「花茣蓙ばかりみていて失念してたぜ。道中膝栗毛で弥次喜多も飲んでいたな」
船の番が来て順に乗り込んだ。
八丁ほどの川だが時々天龍川は暴れ川に為るので、油断はできない。
川岸をのぼり中野町村で右へ街道は大きくくねっている、渡船の高札場が注意書きを張り出している。
萱場 (かやんば)には高札場がある。
街道から奥に六十四里目の安間一里塚のある場所で、本坂通(姫街道)は右手へ入ってゆく。
北野山龍梅寺という臨済宗の寺がある、やきもち地蔵だと行商人が話して居た寺だ。
やきもち焼きだと思ったら、食べるほうの焼き餅を供えると願い事を聞いてくれるそうだ。
六十五里目の馬込一里塚は向宿村(むこうじゅくむら)にある。
馬込橋を渡ると外木戸がある。
浜松藩主で奏者番の井上正甫は次郎丸にとって将来の義父だ。
天明六年(1788年)十二歳で藩主の座に就いた。
正妻になる予定の雅姫(直子)はその娘でまだ十三歳になったばかりだ。
新川に架かる万年橋、ここが田町と板屋町の境になる。
馬込川西岸は新町、道中記は東木戸から西木戸まで二十丁三十二間だと出ている。
田町は馬込川支流新川西岸の低地に位置したことに町名の由来がある。
城と城下町の縄張りは沼津と酷似している、東から来た街道は城下で鉤手(曲尺手・かねんて)の曲りを経て南へ向かって伸び、城下町を形成している。
さらに宿はずれで西へ鉤手(曲尺手・かねんて)で曲がっている。
神明町で右には大手門、左へ行けば連尺町。
高札場を過ぎて伝馬町に入ると左に佐藤与左衛門本陣、右手に本陣六か所で最も古い杉浦助右衛門本陣。
中の番所と問屋場が並んでいる。
その先の角右手は本陣の中でも最近できた川口次郎兵衛本陣、角の向かいが梅屋市左衛門本陣。
旅篭町には伊藤平左衛門本陣と、杉浦惣兵衛本陣がある。
次郎丸は蒲葵(びろう)笠を目深に被っている、四郎はいつもの三度笠だ。
西の木戸まで見て本魚町へ回った。
午の鐘が響いている、時計はまだ五十分だ。
大工町へまわり若宮小路の“ たのもしや ”へ入った。
小女は次郎丸を見て「うちら、がさつな精進のもっきり一品ですよ」とすまなげに言って来た。
「そいつを勧められてきたんだ。二人前頼む」
窓際の明るい場所の小座敷へ案内された。
飯に納豆汁、うなぎ豆腐というお決まりだ、香の物は付いて居ない。
うなぎの皮に見立てた海苔が意外に旨い。
二人前で六十四文というので四郎は豆板銀一匁でも良いかと聞いて支払った。
四文銭も残りが少ないので両替よりましと判断したようだ。
釣りは四文銭十一枚と二文出てきた。
成子坂町の西番所を過ぎて七間町と上新町の境は沼田川の鎧橋(よろいはし)。
八丁畷(鳥井縄手)から六十六里目の若林一里塚で東若林に入った。
その先は松並木の間に人家がちらほら見える。
街道は人の往来が多くなっている。
“ 従 是 東 濱 松 領 ”高塚村は大沢領で増楽村までが浜松領になる。
大沢氏は高家旗本大沢基之三千五百五十石だが実高五千五百石と言われている。
従五位下・侍従・右京大夫と高位の位が与えられている。
浜松六万石の奏者番井上河内守でも官位は従五位下だ。
「此処の大沢家の次男坊采女は俺の弟弟子だぜ」
四郎とはあまり付き合いは無いようだ。
「高家でもやっとうに励んでるのか」
「高家は兄貴が継ぐだろうし、少しは表芸の武術も出来なきゃ養子の口もかからないぜ」
「それで養子の口は」
「まだ無いようだ。嫡男が賛成しないそうだぜ」
余談
高塚には麦飯長者の伝説がある。
馬子だった五郎兵衛の生活は豊かだったという。
ある日、浜松の宿場から舞坂の宿場まで旅の僧を乗せたが家に戻ると鞍に風呂敷が結わえてあり中に観音経一巻と大量の小判があったという。
追いかけて舞阪まで戻ったが行方は知れなかった。
三十年がたちようやく巡り会えたが受け取っては貰えない。
それを機に五郎兵衛は、旅で難儀するものに振る舞いを始めたという。
領主から小野田の姓を与えられ、小野田五郎兵衛久繁を名乗り、庄屋を務めることになった。
代々篤志家を産み、幕末の頃の人も麦飯長者とたたえられている。
明治になって養子に入り、可美村村長を務めたひとも五郎兵衛を名乗り、浜松貯蓄銀行を設立、小学校新設には土地を無償提供している。
久繁の孫娘四人は両親の亡き後、仮名書き法華経を三年かけて写経し、宝暦八年(1758年)に完成させた。
地蔵院に滞在しこの話を聞いた白隠禅師が“ 八重葎附四娘孝記 ”を書いている。
と、いうことは麦飯長者五郎兵衛が宝暦頃かそれ以前の話だと分かる。
「浜松から一里以上来たがまだ次の一里塚につかないな」
「篠原の立場の中だそうだぜ兄貴」
いつの間にか今日の情報を仕入れている、十一日目ともなると世慣れてきている。
立場に入ると鈴木立場本陣(茶屋)がある。
「俺たちが一休みと言ったら茶を出してくれるかな」
「真っ先に手代にたたき出されるか、くそ丁寧にご身分はと聞かれるさ」
熊野神社、神明宮の先に篠原一里塚があった。
江戸から六十七里目の篠原一里塚は左右で樹が違う、右手北側が榎で左南側に松が植えられている。
篠原高札場が北側にある。
”泉光坊 ”という寺がある坪井村から馬郡村へ入った。
坪井村は馬郡村と共に舞坂宿の加宿になっている。
松並木から舞坂宿東の見附に入った、舞坂は天領支配地だ。
渡しの今切という地名は明応八年(1498年)八月二十五日に起きた明応地震で開口部が沈下した。
この時、弁天島が舞坂から切り離されたという。
それ以前は砂洲が新居の橋本まで続き、白砂青松の風景が広がって、潮が引けば徒歩での往来が出来ていた。
六十八里目の舞坂一里塚は宿の手前にある。
宿へ入ると右手に問屋場が有る。
四郎は一両を細かくした。
一両を三分と豆板銀十四匁(千五百四十文)、四文銭十五枚にして手数料が二分(二パーセント)の百二十八文を豆板銀一匁に四文銭四枚に二文たした。
「四文銭は兄貴の掛だ」
そういって四文銭の入った袋の口を広げさせてざらざらと入れ込んだ。
本雁木(がんげ)まで九丁もないというので下見に行った。
仲町の常夜燈には次の銘が刻まれていた。
“両皇大神宮”“秋葉大権現”“津嶋牛頭天王”“文化十年五月吉日”
岐佐(きさ)神社の参道がある。
「此処にあるのか」
「どうかしたか兄貴」
「珍しい神社だが、於保奈牟知(オホナムチ)を助けた神を祭ってあるそうだ」
「大国主を助けたのは鼠だろ」
「確かに火責めの時逃げ道を教えてくれるのに“内はほらほら、外はすぶすぶ(内部はうつろで、外部はすぼんでいる)”と教えたのだが。こちらは別の時に火傷を受けた時の話だ」
「赤貝と蛤か」
そうそれだといって拝殿まで入ってお参りし、禰宜がそばに来たので思い切って南鐐二朱銀を四郎に出させて賽銭とした。
四郎め、目を見張っていたが自分も同じだけ賽銭箱へ入れた。
禰宜は遠目が利くようだ、二枚の南鐐二朱銀を見分けたようで顔が綻んでいる。
「延喜式神名帳に遠江六十二座。敷智郡六座の一つとして記載されておりもうす。千年以上の古社である」
若い者に教えてやろうという態度でいろいろ話してくれた。
御祭神は蚶貝比売命(キサカイヒメ)と蛤貝比売命(ウムカイヒメ)。
蚶貝比売命は赤貝の神、蛤貝比売命は蛤の神。
蚶(あかがい)の白い粉に蛤の粘液を混ぜて膏薬を作り、それを擦り込むと大国主命は元の姿に戻ることが出来た。
街道へ戻り、西へ進んだ。
北側の宮崎伝左衛門本陣は、道中記に間口十一間二尺、奥行き二十間三尺と出ている。
街道の南側が堀江清兵衛脇本陣(茗荷屋)になる、間口五間・奥行十五間と控えめな作りだ。
目の前北側は相本陣源馬徳右衛門、間口八間半と出ていた。
北側に高札場。
南側の西町常夜燈も周りを回ってみた。
正面には“両皇大神宮”、 西面“秋葉大権現”、 東面“津嶋牛頭天王”、 南面“文化十年二月吉日”と彫られていた。
お喋り好きのばぁさんがやってきた。
「これらが出来て朝暗い時の船待ちが楽になっただら」
「浜松のほうの問屋場脇が空地だが、そこへも建てたらどうだい」
「心配ありがとさん。もう金も集まって新町じゃ順待ちで首う、なごして待ってるわい」
すぐそこの渡船場へ出た。
北雁木は閑散としていたが遠くに防波杭か船つなぎ用らしきものが石垣に沿って植わっている。
船は「みおつくし」(澪標・船の通行用の深さを知らせる棒杭)に沿って行き来している。
次郎丸は万葉集(巻十四)詠み人知らずの“とうとうみ いなさほそえの みおつくし われをたのめて あさましものを”を思い出して呟いた。
“ 遠江引佐細江のみおつくし吾を頼めてあさましものを ”
“ 等保都安布美 伊奈佐保曽江乃 水乎都久思 安礼乎多能米弖 安佐麻之物能乎 ”
「そりゃだれの詠んだ歌だい兄貴。男と女ではだいぶ意味も違いそうだ」
「詠み人知らずで万葉の頃の歌だぜ。俺は女の人が、気の変わった男をまだ諦めきれない気持ちと感じたな」
「それなら、男の気持ちを代弁すれば女心と秋の空はどうだ。その頃も船で渡したのかよ」
船渡しは近道だ、川があって其処には橋があり、砂州が繋がって潮が引けば歩いて渡ったと教えた。
「橋は三百年ほど前に流されたきりだそうだ。その少し前は舞坂側から橋のほうへ砂州が伸びていた絵図が残っている。明応の大地震でこの付近は大きく変わったそうだ」
上屋敷の蔵書には橋を馬で渡る画もあった。
元禄十二年(1699年)八月十五日にもこの地は大きな災害に襲われている。
元禄十四年(1701年)五丁ほど西へ関所を移し、三河吉田藩へ関所を任せることに成った。
宝永四年(1707年)十月四日にも大津波が襲い関所と宿場は北へ移ってきた。
遠州灘、熊野灘、土佐湾など広範囲が大きな被害を受け津波は十四間の高さを超えたという。
この地震では吉田城も大きな被害を受け、天守は崩壊している。
この時の吉田城主は少年の牧野成央、家督相続したばかりの九歳の藩主に打つ手は見つからないまま国替え(日向延岡八万石)となった。
この年は十一月二十三日には富士山も噴火している。
今切の渡しは慶長に設置されたとき、舞坂と荒井の間が二十七丁、元禄の移転で一里となり、宝永の移転では一里十八丁と大きく間がひらいた。
舞坂の真ん中の本雁木(がんげ)は東西十五間、南北二十間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。
乗り遅れたものは無いようだ。
渡荷場(とうかば)南雁木も船で一杯だが出てゆく船はもう居ない。
最後の船も十五丁ほど先へ進んでいた、渡しは一里半で、風の助けのない遅い時では一刻かかると言われている。
この年は春分が正月三十日で二月六日の刻は次のようになる。
夜明け前の卯の正刻五時十分頃、日没後の酉の正刻六時四十五分頃になる。
朝の一番方は、寅の刻(三時二十分頃)に出る。
夕方の最終船は申の刻(四時四十分頃)、乗り遅れても臨時は出ない。
本雁木(がんげ)から降りた武家の少年が此方へ盛んに手を振っている。
「四郎の知り人らしいぜ。付近にゃ誰もいない」
「兄貴のほうじゃ無いのか」
蒲葵(びろう)笠を脱いでいたので向こうからはよく見えたようだ。
「次郎丸様お久しぶりでございます」
「やっ、その声は黙之助じゃないか」
「気が付いていなかったのですか」
「こっちからは眩しくてよく見えなかったよ」
「それならいいですけど」
四郎はやっぱり兄貴の知り合いだと燥いでいる。
中間が追い付いてきた、昔なじみの幸吉だ。
「若さんお久で。五年ぶりになりやす」
「お前も元気そうだ」
「ついに還暦になりました。足は自慢でしたが、さすがに大坂から浜松は遠いでござんす」
浜松藩大坂蔵屋敷詰になった用人の岡村について出ていたはずだ。
長男の黙之助の供で浜松へ下ってきたという。
「今日のうちに浜松へ入るのか」
「今からじゃ陽のあるうちは無理でしょうね」
「一刻で歩けるなら戌には入れるぜ」
「うちの若旦那なら歩けてもあっしにゃもう無理でござんしょ。飛脚なら一刻で駆けるのが御定法」
「そんな決まり聞いたことないぜ。今日は一緒に泊まれ」
「どこへお泊りで」
「兄貴まずい。決めてこなかった」
「相部屋でいいから戻りながら探すか」
高札場から見ると引き込みの番頭に留め女も数が少なくなっている。
どうやら空き部屋は少ないようだ。
「脇本陣に声をかけてみるか」
“ みょうがや
”では一瞬戸惑ったがすぐに笑顔で「四人様、相部屋なら用意させていただきます」と気を引いてきた。
「頼むぜ。こちら浜松の大坂蔵屋敷から国元へ御用でお戻りの岡村様だ」
四郎は黙之助を前に押し出すように紹介した。
「そちらは奥州白川藩の本川様、いまがんげで偶然行き合わせたんだ」
主人が足を濯いでいる様子を見て番頭を手招きした。
「かしこまりました」
式台戻って畳廊下を奥へ案内してくれた。
どう見ても上段の間だ。
四郎に次郎丸は慣れているが黙之助と幸吉にはかたぐるしい。
荷をかたづけた頃合いを見て主人が女中に茶の支度を持たせてやってきた。
「ようこそ御出で下さいました」
女中が部屋を出ると指印を見せた。
驚いたがすぐに返した。
「一刀流の免許をかろうじて貰えた駆け出しの剣術家だよ」
「脇本陣とはいっても親の後を継いだばかりの駆け出し者でございます。まさかの事、御出で頂けるとは今生の幸せ。式台で耳に本川様と聞き、指印をご存知との香貫屋の話は連絡網で流れましたが、すでに熱田あたりかと思っておりました。」
「後から来る者を待てというので足が遅いのだ」
黙之助が驚かないので四郎のほうが「知っているのか」と聞いてしまった。
「猪四郎さんとの付き合いも有るので耳にしてはいます。でも若さんは最低の組だそうですが」
「黙之助よ、指印はまだ四番のままだ。お前だってそろそろ入れる年だろうに」
「一度国元へ戻り、祖父の添え書きを持って戻ればお許しと聞かされました」
静かに幸吉は部屋を出て周りを窺ってきた。
「隣座敷はまだ入られておりませんようです」
主が隣との襖を開けた。
「皆様は本川様のご身分はご承知の様でございますな」
「黙之助は七年前に中西道場へ入った弟弟子だ。父親と大坂の蔵屋敷へ移って以来だ」
黙之助は七歳のとき中西道場に入門し、九歳の時家族と大坂蔵屋敷へ赴任していった。
次郎丸はようやく旅に出た経緯と四郎のことを話しておいた。
番頭が来て「お隣へ入れても宜しいでしょうか」と聞いてきた。
主と由縁(ゆえん)でも有るかと気を使っている。
主より先に次郎丸が「いいとも。繁盛でいいことだ」というので主も承知と番頭と式台まで出て行った。
襖を閉めて四人で雑談を始めた。
女中が来て「湯殿で汗を流しなさせ」と何処かの方言のように聞こえる言い方をしてきた。
替わり番子に湯殿で汗を流してきた。
「本当に新兵衛さんが追いかけてくるんですか」
「宮で二日か三日遊んでいれば追いつくはずなんだが」
「大坂へ向かうときは、浜松から三日目に宮へ着いています。若さんたちがのんびりと歩くなら金谷、掛川に今日にも来ていれば確かに追いつけるでしょうが」
「それだよ。今ここだよと連絡を付けるほうが難しい」
後は街道で何が美味かったや、期待外れの話になった。
食事は一汁三菜だが手が込んでいて旨いものだった。
若布と豆腐の汁に巻湯葉も入っている。
太刀魚の煮付けに香の物。
お平には里芋の煮物、菊菜、焼き豆腐。
驚いたのは飯だ、ここまでで一番うまい飯と言うべきだろう。
隣は親子連れが入ったようで時々幼い娘の笑い声が聞こえた。
戌の下刻前(九時二十分頃)に強風が吹いてきた。
四郎が手早く勘定は済ませて来たと黙之助主従に伝えた。
幸吉は「若さんの奢りだ」と喜んでいる。
女中が布団を運んできた。
隙間が出た場所で四人は酒盛りならぬ茶で寛いだ。
茶うけにと“ 追分ようかん ”を二本出したので残りは一本。
餡を竹皮で包み、竹皮ひもでむすび、蒸しあげるので、店ではひと月持つと教えたと四郎が説明した。
「風が止まぬと船が出ないぞ」
「兄貴俺たちゃここで籠城でもいいさ」
「新兵衛が追い付くまで昼は毎日鰻でも食べるか」
「毎日は勘弁してくれ兄貴」
二人に黙之助は「新居のほうでは此方のほうが美味い店が多いと自慢していた」と幸吉と笑い転げている。
江戸とは違って蒸しを聞かせる店と違い、大坂風に焼く此方のほうが美味いと言うようだ。
「私にはどちらも美味いものですがね。つい大坂風になじんで江戸風の流行だという蒸したのは歯ごたえがなくて」
「どこで江戸風を食べた」
「それがですぜ。昼前に白須賀で食べたのが江戸風だというのでね」
一日二度も続けて食べたようだ、黙之助もよく食べたものだと次郎丸は呆れている。
上方風もふっくらと焼ける店が多くなったという。
「あっしの若いころは江戸でも蒸すなんてのは、やっていませんでしたぜ」
「ということは江戸風に蒸して出すのはつい最近か」
「天明のころに流行りはじめましたぜ」
天明ではほかの三人は生まれる前で、二十五年以上も前になる。
「それで記憶にある鰻は蒸したものが多いのか」
「あっしのガキの頃は串に刺して丸で焼いていましたぜ。それが開いて焼く店が流行って、たれにも工夫がされ、どんどん高級な物に成りやしてね」
柳原、両国でひと串十文、十五文だった物が、どんぶり飯に乗せて三十文、いい店だと五十文。
「それが、あっという間に百文が普通に成っちまいました」
座敷で食わせる店が増え、二百文なんざぁ当たり前だと憤っている。
今でも大坂の担ぎで回る店は焼き立て十六文で回っているという。
「さすがに筒っぽうの店はなくなりました。残念なのは伏見から大津へ抜けたので京の都で筏の白焼きを食べそこないました」
「この爺さんの食い意地には負けますよ。桑名の焼き蛤もあっという間に六枚食べました」
「だって旦那様が食い扶持だと、三分余分に呉れましたからね。残しちゃ申し訳ない」
三分も二人の旅費のほかに持たせたら相当無理がきく。
「大坂へ戻るとき用に半分残せ、というのにとっくに二分は腹の中です」
「若旦那だって相当食べていますぜ」
赤子の時から一緒だ、遠慮などない主従だ。
「大体八日目か」
「九日目になります。七里の渡しが一日止まりました」
それで桑名で蛤を食べる時間の余裕もできたようだ。
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