第伍部-和信伝-伍拾弐

第八十三回-和信伝-

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

白川“ やなぎや ”柳下源蔵

文化十一年五月五日(1814622日)・白川

寅(二時半頃)に起きだして支度を済ませたのが三時、朝餉は一汁二菜。

若鮎塩焼き二匹の皿、空豆の塩茹と空也豆腐煮つけの平椀、香の物は大根の浅漬け。

汁は豆腐汁。

三時半には障子が明るくなってきた。

卯の刻の鐘(四時頃)で部屋を出て土間へ降りた。

源蔵は桝形まで送ると紋付で付いて来た。

大手門先の中町から三々五々、次郎丸達の後を静かに付く人が増えてきた。

一番丁の角からは家臣と思える人たちが軽装で十人ほど付いてくる。

九番町のくの字まで来て静かに礼をして見送ってくれた。

源蔵ひとりが桝形の冠木門前まで送り「道中御無事で」と挨拶して一行が江戸方棚倉街道へ見えなくなるまで見送っていた。

桝形先を左へ入れば棚倉街道、小路の脇に谷五郎が見えた。
木陰で茣蓙に座っていた爺(じじ)婆(ばば)が街道へ出てくると、土下座
せんばかりに膝を曲げて待っている。

馬が見えてその陰に大輔が居た。

「早くからすまない」

「卯の刻のお発ちと聴きましたのでわいらには早起きでも御座いません」

陽が出てまだ五十分も経っていない。

大輔はそこで引き返すという。

「待月に長生きしろと伝えておくんだ」

「かしこまって候」

別れとなると表情も言葉も固い。

棚倉街道と別れて先へ進んだ。

南湖のまつむしの原の大豆の花は満開で、その先の空豆の畑は摘み取りのおなご衆で賑わっていた。

千代の松原先、五徳村から右手に折れて関山へ向かった。

山間の道を抜けると追分を左の崖下の道を進んだ。

伊王野道が左から来て右へ向かっている、追分を真っ直ぐ進んだ。

表郷内松という集落だという。

生沼は「二里三十丁程の様です」と甲子郎に話している。

甲子郎はすぐに紙に書き込んで「時刻は同でしょう」と次郎丸へ聞いた。

「七時十分だ。別れの愁嘆場を繰り広げる者もいないから早いものだ。ここまで三時間十分」

行基が開いたと云う満願寺目指し、関山に表郷内松から登ると、六地蔵の中に聖観音が置かれている。

眺望が開け南に天狗山がすぐ近くに見える、生沼が「古關蹟の場所はあの山の西端に為り申す」と甲子郎に教えている」。

満願寺の銅鐘は寛文四年の銘が有る。

「寛文と言えば百五十年は経っている。芭蕉に曽良が遣ってくる三十年くらい前だな」

十郎が「我が藩入部の前が結城松平、その前が奥平松平、その前が本多家、榊原家、丹羽家でした」と言っている。

「確か本多家が宇都宮へ移る前あたりだろう」

生沼が銅鐘に刻まれた由緒は飛ばし、旦那が本多忠弘公だと見つけた。

「鋳物師は江戸椎名吉綱とその弟子か息子のようだ」

「花月様の集古十種に観音堂に有る扁額が記されていた。陸奥白川郡関山観音堂額、筆者不詳、長一尺七寸三分、広七寸九分」

三蔵は次郎丸の記憶に驚いている。

黒漆金箔の額は状態も良かった 

満  御  成

願  願  就

寺  所  山

僧は「光明皇后様御真筆で有らせられる」と言っている。

本堂へ行く間に甲子郎に「南鐐二朱銀は八枚あるか」と聞くと「出せます」というので「奉書に包んで後から来いよ」と頼んだ。

「承知しました」

本堂で白川城主従四位下左近衛権少将兼越中守源朝臣定永様初入部奉祝祈願と書きだした。

「これで御祈願をしてくれ。わしらは越堀まで急ぐので後を頼みます、願主は家臣有志でお頼み申す」

甲子郎が三宝を借りて奉書に包んだ(くるんだ)金を乗せた。

山頂からは那須連峰が望めた。

「おお、お城が見える」

遠眼鏡を渡すと一同が感激している。

山を東の参道で降りてゆくと磨崖仏が有った。

「磨崖三十三観音と云って最近参拝者が増えたと聞き申す。左手は硯石への道と為り申す」

硯石口から表郷内松へ戻ると、急いだので一刻(150分程)で戻れた。

甲子郎と生沼が又距離と時刻を確認している。

「九時四十分を過ぎたところだ。ここまで五時間四十分」

関山成就山満願寺の麓から南へ進んだ。

「最近この道も人家が増えて来もうした」

こぎれいな休み茶見世が有るので一休みした。

眼の先に土橋の架かる社川が有る。

「社川(やしろがわ)は白川ともうし白川の関の名の由縁で御座る、この橋は柳橋で御座る」

「阿武隈へ向かうようですが」

「はるか昔はこの川が阿武隈で御座る」

橋を渡り突き当たりを右へ進んだ、右手から伊王野道が合流した。

「関街道は時代や有力な町人によって様々言われており申すが白川の城下から棚倉街道より別れ古関を通るのが最近の流行で御座る。伊王野まで御城下から七里二丁ほどで御座る。奥州街道で芦野までは五里一丁」

「だとすれば越堀まで関街道でも行けるという事か」

「関街道を使うと伊王野廻りで八里二十一丁と言われており申す。奥州街道で七里十二丁」

忠兵衛が「なにやら板屋一里塚へ出るのは遠回りに聞こえますが」と言っている。

「越堀まで行ってはわし等泊まりに成るでな。関の明神から来た道を戻るのは勘弁してくれ」

白河の関跡の花月様が建てた古關蹟碑へ着いた。

生沼は「表郷内松から二十六丁で都合三里二十丁程」という。

八時三十分に為っている。

「休まなければ二十分以上は違う筈だ」

四時間三十分、予定より大分早そうだ。

後ろの岡は三十丈ほどもあるようだ。

「碑が建てられたのは寛政十二年というから、十四年前だ此の古關蹟の字は誰のだろう」

表に“    ”と彫られ、裏面には謂れが彫られている。
     

白河関趾埋没不知 其處所久矣 

旗宿村西有叢祠地 隆然而高所

謂白河遶其下而流焉 

考之図史詠歌 又徴地形老農之言

此其為遺址較然不疑也 廼建碑以標焉爾

寛政十二年八月一日  

白河城主従四位下左近衛権少将兼越中守源朝臣定信識

忠兵衛や弥助に解るように読み上げた。

 

白河関の位置は長い間埋もれており、誰もその場所を知らず。

旗宿村の西側には、高くて急な丘陵地にほこらの跡地がある。

周囲には白河が流れていると言われている。

地形に基づいた歴史や詩、老農の言葉を学んだ。

ここが遺跡であることは疑いないので、その場所を示す記念碑を建てた。

 

西に先ほど渡った社川(白川)が有る。

「今昔物語集に此の辺りで砂金が採れたと書かれている。吉次の時代も採れた様だ」

次郎丸は花月様の文章を、本を置いて有るかのように読み上げた。

白川の関はいづ地にありしやしらず 今の奥野の境に明神の社あるを古関のあとといふは ひが事なり

この道は豊臣家のひらきしみちとてそ聞ゆる。関山てふ山のふもと旗宿村の道こそ関のあとなりけめ 過し年 關 和久てふ村へ行て其長の家へ立よりしが いとふるびたる具足櫃あり 其内に関物語といふものありたればうつし置ぬ

そのなかに白川の関といふは 高山険しく萬仭の石壁苔なめせかにして 下碧口の深きに臨む、山の嶺に観音を安置す 山は巌上枝そびへ 走獣も跡をたち 飛鳥上を翔りがたし

「この辺で止めないと長くなりすぎるな」

岩は九九折にして 麓は細道なり 蔦楓生茂り 行歩もたやすくしがたしとあり いまも関山の山上観音あり 古き下馬の碑などもあり。歌にも月にこゆるなどあれば 山上へのほりおりする道にもあらし ことに此やまはただひとつ・然たる山なり

山の左右平なる道いかほどもあるを 山の・へ道をひらきたればとて 行かふ人あるべきかは されば此山をかたきりて 麓に関をすへたるなれば 旗宿むらの道こそ古関のあたり成べけれとそ思ふ 此頃一遍上人の絵縁起に 白川の関書たる図あり

山の半ばにつくりて ふもとに道をひらきたるにや 関守下をのぞむけしきこそありけれ この頃はかくまでひらけしが 後日そのところまでわかりて 今は其碑をもたてをきしなり

退閑雑記

 

半刻程も居たようで九時五十分に為っている。

川と別れ谷あいを進んだ、此の辺りところどころに畑地が有り、大豆らしき作物が植えられていた。

白河の関跡から峠を上ると境明神。

「古関碑からわずか十四丁程かな。誤差を入れて四里が良いところだ」

時計は十時二十五分、上り坂で刻が掛かったようだ。

此処まで六時間二十五分。

追分の明神は陸奥側に住吉大神、玉津島神社が下野側に在ったそうだが芭蕉の時代には一社に為っていた。

祭神は住吉の中筒男命(なかつつのおのみこと)と玉津島の衣通姫命(そとおりひめのみこと)。

下野国野州、陸奥国奥州、境神社旧記(さかいじんじゃきゅうき)」によると、坂上田村麻呂が延暦十年(791年)蝦夷征伐の途中ここで休息したとき、白髪の翁(中筒男命)が現れ、田村麻呂と問答したという。田村麻呂はこのためここに祠を建て、中筒男命や衣通姫命を祀ったとある。(那須町の文化遺産)

二尺もない領境石柱が有る“ 従 是 北 白 川 領 ”と石柱幅一尺にはみ出るように彫られている。

「裏に延享三年と為っています。俊徳院様越後高田より移封後二十五年が過ぎ、古き領境標柱を次々御取り替えあそばしました」

「四十五年近く前の事だな」

「その位経つはずです」

「曽良日記の芭蕉が訪れたのは、花月様の碑の有る場所でなく、俊徳院様が建てさせた領境石柱の有るこの神社だな」

石段を上ると追分村井上源右衛門寄進の寛文七年と寛文九年の銘が入る石灯籠が有る。

曽良日記

一 廿一日 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣。

○白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下一里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。

道へ出た時が十時四十五分。

義経伝説の五両沢がこの先近くに在るという。

「陸奥へ落ちる途中山に登り、月へ無事を願った月見山。追分明神を発ち、切り立つばかりの岩ばかりの崖を見て弁慶が“ 具足の様じゃ ”と言ったと伝説の残る“ 具足岩 ”、谷川の澄んだ水、飲めば清涼なる味わいに“ 五両出しても良い ”と言われたそうです」

矢の根石 ”も弁慶が願いを込めて矢を突きたてた伝承。

「その話だが追分明神を発ってこっちに来ては反対だろう」

生沼も「そういや可笑しな筋ですな。関を抜けずに山越えの遠回りでもしましたかね」と頷いている。

「そういゃ“ 弁慶の足踏み石 ”が余笹川の土橋の近くに在りましたな」

甲子郎が思い出した。

「奥州道中に出ればすぐありますな。四里程先に御座る。九郎判官、弁慶、吉次の話はこの近辺には多(おお)う御座る。吉次が亡くなった場所が幾つも有りまする」

三蔵と十郎は疲れても居ないようで坂道を先頭で進んでいる。

 

追分で生沼を待って右手の山道へ入った。

「此処を抜けぬと関街道は当分奥州道中に近づきませぬ」

追分で峠を抜けると板屋一里塚の南側へ出る、坂下の茶店で別れを惜しんだ。

「領境石柱から此処までが二里三十丁もござらぬゆえ多く見ても六里三十丁、万願寺往復で精々一里十丁でござろう」

「お主、遠回りで七里二十丁と言っておった。二十丁は余分にかかったようだ」

「山中の峠道が思ったよりなごう御座りました。領境石柱から板屋一里塚二里と記録が御座りました」

別れがたく話は弾んでいる。

「お城下まで四里十三丁ほどで御座る。桝形が通れぬ時は いかけや ”に世話に為り申す」

まず大丈夫だろうと十郎と三蔵が口をそろえた。

醤油の塗られた焼餅と饂飩で腹を満たした。

二時に為って生沼文平、景山三蔵、兵藤十郎の三人は白川へ戻って行った。


「芭蕉に曽良は黒羽から那須の殺生石、遊行柳へ戻って、奥州道中を下って境の明神、東へ山道を旗宿へ、関の明神、その後関山を登って白川を抜けて矢吹、何日も行ったり来たりしていたのだな」

「若さん、芭蕉はよく軽尻(からじり)を使ったと書いていますそうで」

「甲子郎よ。黒羽を出るとき家老の好意で那須までは馬で出たのだ」

奈良川の板橋を渡った、一度遠ざかった川が寄ってきて土橋で東へ渡った。

「遊行柳は川向こうの畑地の先にあるそうだ」

「戻りますか」

「其処まで風流人じゃねえよ。柳の木と歌碑が有れば精々だ」

弥助と忠兵衛まで笑っている。

八つの鐘が鳴っている、時計は二時二十五分だ。

「午の鐘は聞こえる場所に居なかったので、五分くらい違いがあるだろうな」

「残りは二里三十丁も有りません。一回休んで六時、申の下刻を過ぎた頃でしょう」

藤吾たち三人は、一丁程後ろで賑やかに話しながら歩いている。

芦野宿は人で溢れていた。

かば焼きの匂いがしたがここは我慢した。

仲町へ入ると街道の中に用水堀、左手に高札場、問屋場が有る。

二時四十分に芦野宿を抜け出た。

宿場の先大きな屋敷の前で街道は右へ曲っていた、また橋を渡った。

「甲子郎よ。来る時もこんなに此の辺り込み合っていたか」

「芦野の先で二回は渡ったように思います。道は上り下りの連続でそっちへ気が向いていました」

江戸から四十一番目の夫婦石の一里塚を過ぎた。

二丁ほど先に妻夫(めをっと)石が有るはずだ。

川の手前と向こうに休み茶見世が有る。

「甲よ。来たときは休まなかったがそこで一休みだ」

来る時、幸八が越堀から芦野は“ 二十三坂 七曲り ”だと言っていた。

茶見世の女将に越堀までの距離を聞いてみた。

「一里十七丁程だべえ~。芦野からなら此処まで三十丁だべえ~」

黒川の土橋は十五間、此の辺り来る時に甲子郎が音をあげていた場所だ。

置かれている岩は“ 弁慶の足踏み石 ”だ。

余笹川の土橋は二十六間近くある。

江戸から四十番目寺子村の一里塚、富士見峠は富士が見えるが遠眼鏡ではぼやけてよく解らない。

越堀(こえぼり)“ さかいやよへいじ ”には五時四十分過ぎに着いた。

 

翌六日は越堀から氏家へ九里三十二丁三十七間

さかいやよへいじ

文化十一年五月六日(1814623日)・越堀~千住

六日は越堀から氏家へ九里三十二丁三十七間。

氏家の宿は“ ほていやいちべえ ”。

七日は氏家から喜連川へ二里四丁。

七日、八日は喜連川で師匠の歓待を受けた。

九日は喜連川から小金井へ七里十二丁三十間。

小金井の宿は“ はしやこえもん ”。

十日は小金井から幸手へ十里二十七丁三十間。

幸手では“ たわらやとうじろう ”に泊まった。

十一日は幸手から千住へ十里二丁。

 

草加で煎餅が焼ける間一休みしていたので大分と刻(とき)が掛かっている。

四軒に三十枚を二包ずつ、手分けして計八包誂えた。

藤吾は「軽くて良いですが、土産も大変ですね」と言う。

「一つはお前さんの分だ、花月様、殿、我が家、知り合いに四つだ」

千住は師匠が秋葉市郎兵衛本陣へ手紙を出してくれている。

空きが無いなどは無いと師匠は言う。

「大名どもも千住は小休みで通り過ぎる。当代の主は我が弟子だ」

草加から瀬崎村、保木間村、竹ノ塚村、六月村、嶋根村、輿野村、梅田村。

先に鉤手(曲尺手・かねんて)で右が千住宿だ。

幸手を卯の刻(朝四時頃)に出て千住に入ったのが申の下刻(夕六時十分頃)。

角の左の関札の掲載に“ 白河藩本川次郎太夫様御一行様 ”が混ざっている。

「御大層な物だ」

「先触れしますか」

「見栄でもそうしておくか」

関札の前から甲子郎が先へ出て行った。

藤吾、弥助に忠兵衛も草加で埃の無いものに着替えている。

本陣の冠木門を入ったの見て次郎丸を先頭に進んだ。

当代の市郎兵衛は三十過ぎの苦み走った男だった。

部屋へ通ると「師匠からお前の弟弟子で、内々に藩でも重要人物だと思わせぶりに書いてきましたが、白川藩の兄弟弟子なら一人しか居りません」とニコと笑った。

「ま、定栄(さだよし)様付用人、としておいてください」

宿帳を番頭が持って来て、後ろからは女中が茶の仕度を持って付いてきた。

「喜連川様よりねぎま鍋を用意してほしいと書いて御座いました。主従同室で支度ともありましたが宜しいので」

番頭の手前次郎丸はちと気張って答えた。

「それでよろしい」

「あと一刻(こく・15分程)程で出せますが。湯あみは如何されますか」

「汗だけ拭(ぬぐ)うだけだ替わり番子でもすぐ終わる」

「二カ所ありますのでご案内を。御三人様予約が有りますが、未だにお着きされませんので空いて居ります」

大名用へは次郎丸、五人替わり番子で終わるころ、板座敷に夕餉の仕度も終わっていた。

三人の到着が告げられている。

「師匠も冬のねぎま鍋ならとも角、今時とは面白い事押し付ける」

市郎兵衛は付ききりで世話を焼いている。

「なまり節を喜連川様に十日ほど前にお届けしたばかりで」

「よくこの時期に傷まずにもったものだな」

「押送船(おしおくりぶね)で川を登らせました。阿久津河岸まで五十八里を品川から一昼夜で届けました。その時めじに脂がのり出した話をお耳に」

江戸川で関宿の先境河岸でまで上り、利根川を下って鬼怒川に入ったという。

「こっちは師匠の手でおほりがし(小堀河岸・おおほりがし)に伝手が有るんで。ちゃんと儲けに繋がりますんで」

一人に一人宛て女中が付き、昆布を引いた鍋に湯と酒、めじ鮪のぶつ切りを入れ、あくを除くと醤油に味醂を入れた。

昆布を引いて葱を火鉢で焼いてから鍋に入れ、頃合いを見て椀へ盛って出した。

冬の鮪と違い脂のうきも少なく上品な味わいだった。

「此のほろほろと鮪の身がほぐれるのは始めでやす」

「忠兵衛は冬の脂ぎった方が良いか」

「若さんのように上品にゃ出来て居りやせん」

甲子郎に弥助が笑い出した。

酒をほどほどに止め飯の仕度を頼んだ。

風呂吹き大根は亀戸の物だという、こうり豆腐と茄子の煮物、苗蝦菽乳とかいてえびとうふ。

汁は伊佐木のうしお汁、飯と浦里。

「浦里とはなぜ」

藤吾は不思議そうに見ている。

「飯に乗せて食べるやつさ」

「初めて味わいました」

女中は酒を飲んだ後の食べ物として最近はやりだという。

「最近と言うが鉄爺の話しじゃ、天明の頃、遊郭で出す泊まりの客への朝飯だったと聞いた。廃れていたが復活したんだとさ」

五人の汁に入る白子に次郎丸は驚いた。

「いったい何匹からこれだけ白子を集めたやら、とんだ贅沢だ」

本当は家内(いえうち)で伊佐木(イサキ)の刺身、煮つけを食べ、骨と白子で作っているので無駄は出ていない。

「本朝食鑑などで下魚などと貶し(けなし)ているが、我が屋敷ではうまく料理してくれる。白子などめったに口に出来ぬよ。和漢三才図会なども貶すが旨いものだ」

主が「出て居りますか」と聞いた。

按ずるに、伊佐岐は、(じょう・姿)、うきやうぎょ(烏頰魚)に似て、淺黒色、細鱗。背に、一つの、黒き線文、有り。大なる者、尺に過ぎず。味、美ならず。夏・秋、多出す

「うきやうぎょ(烏頰魚が判らず人に聞くとすみやきたひ(黒鯛)と言う。黒鯛に似ているというが大分違うな。巻之四十九に有る」

「あの本を空で言えますのか」

「まさかな。食い物につられて魚を調べただけさ。覚えている魚は少ないぜ」

残りの白子を口に含むと、急に姉から送られた鮭の塩味が口中に広がった気がした。

からざけも くうやのやせも かんのうち

から鮭も 空也の痩せも 寒の内 芭蕉

「芭蕉も詠んだ干鮭(からざけ)は我が家でも貴重品だ。まとめて芭蕉の句を覚えようとしたがおくのほそみちを読むのがやっとで、この句も梅我(ばいが)から三年前に聞かされて覚えた」

ゆきのあした ひとりからざけを かみえたり

雪の朝 独り干鮭を 噛み得タリ 芭蕉

「そうだ千住でも魚(うお)の句を残しているな」

ゆくはるや とりなきうおの めがなみだ

行く春や 鳥啼魚の 目は涙 芭蕉

「そうです、それです。奥州旅立ち元禄二年の句です」

市郎兵衛、和歌だけでなく俳句も勉強しているという。

「翁は句集の為にこの句を入れたそうで、元の句が知りたいですな」

「芭蕉に傾倒しているのが二人、今年に為って知り合った。訊ねてみましょう」

「近くに住まわれておられますか」

「一人は江戸天王町。一人は奥州須賀川」

「判りましたら連絡をお願いしても宜しいでしょうか」

「必ずお引き受けを。十日後までにご一報を差し上げましょう」

「そんなにお気を使わずとも。ついでで宜しいのに」

「師匠に聞けば私より十年早く弟子と為られたと、兄弟子の仰せはききませぬと師匠に叱られます。此の句も鳥啼魚(うていぎょ)と言う魚かと言って笑われた」

「若さんもですか。私も千住に住みながらなんだ、と言われて俳句の手ほどきを受けだしました」

「不肖の弟子で喜連川の師匠に面目ない。師匠が古今で助かり申した」

後日談
その日のうちに未雨(みゆう)師匠が覚えていたのが分かった。

「續猿蓑巻之下旅之部に“ 鮎の子の 白魚送る 別れかな ”が有りましてね。外したはいいが勿体ない句なので弟子筋の宝生沾圃(せんぽ)が編集されたようです」

次郎丸はそれを市郎兵衛だけでなく、多代女にも書き送った。

次郎丸は「不孤社中、佐々木露秀が二代沾圃(露仏庵沾圃-芭蕉晩年の弟子である服部沾圃の弟子を名乗るか)の弟子と言うの聞いていたのでお知らせまで」と記しておいた。

秋葉市郎兵衛本陣

文化十一年五月十二日(1814629日)・千住

朝は一汁二菜、卯の刻(四時頃)には膳が用意された。。

「千住へ今朝一で入りました」

千住は朝が早いのでなく四六時中動いている。

神田送り、日本橋送り、深川送りなど大川を行き来する船は、切れ目がない。

鮎並(アイナメ)の煮物は旬に入ったという、産卵期が近くなると身も肥えてくる。

向こう座敷で三人の客の喜ぶ声が聞こえてきた。

茄子と茗荷の田楽には手が凝っていると思える味がした。

漬物の新牛蒡は柔らかく香りも良かった、蜆の味噌汁と相性も良い。

 

市郎兵衛が「江戸の両国は一刻も掛かりませんや」と引き留めるので、巳の刻まで茶味を楽しんで出が遅れた。

次郎丸の時計に興味を持った。

「最近は一日三分程進む様だが、昼九つに合わせるようにしている」

「九つも石町、上野、浅草、千住と順送りで突くので大分ずれますよ」

「道中で頭を捻るほど違ってくるのは経験済みだ。屋敷の二挺天符のほうが半月一度の調整で判りやすい」

本陣から出て大橋を渡り切った。

あれだけのものが出されたに拘らず一人二百二十文だという。

甲子郎は昨晩の鍋だけでも銀二匁と言われてもしょうがないと藤吾と話している。

「本陣は泊めるだけでは大赤字さ」

「兼業が多いですね」

「それで持ちこたえているのだ。品川などは町へ金を出させて支えさせるのだ」

「本陣、脇本陣じゃ食売旅籠のように飯盛りも置けませんな」

師匠の手紙で市郎兵衛から奢りの分も有るだろうと二人は話している。

次郎丸を先頭に馬道で浅草寺へ入った。

 

浅草寺で無事の報告参りをし、雷門を出て三間町の猪四郎の家へひと包み届けた。

「猪四郎は出て居りまして」

内儀のお由がすまなそうに言っている。

天王町へ来ると午の鐘が聞こえてきた。

未雨(みゆう)の伊勢屋で娘に「夕刻までに屋敷へ戻る」と伝えて煎餅を「土産だ」と渡し、浅草御門を通って屋敷へ向かった。

屋敷で金勘定をして藤吾は、自分の見世となる横山町へ向かった。

富代にお前さんの娘の所へ「ひと包煎餅を届けておきな、一つは屋敷で食べる分だ」と渡した。

「さて面倒でも一仕事片づけてくるか」

つかさ ”を“ なほ ”に渡し、金を四人で分けて持った。

「若が持つことは有りませぬ。儂も行きますので良いでしょう」

大野も会計に渡すまで責任があるのだ。

未の鐘(石町・二時二十分)で屋敷を出た。

上屋敷で花月様の都合を聞き合わせに人が出た、煎餅は早い方が良いと頼んで持たせた。

金は会計方が国元の受け取りと、持参の封金を確認して殿へ報告した。

下屋敷は明日辰に来るようにと繋ぎが付いたと冴木が次郎丸に伝えた。

殿は上機嫌で「煎餅の礼だ。今朝の到来物じゃ。なほもそろそろ甘いものを制限するころじゃ。これで我慢させよ」と塩饅頭を一箱寄越した。

薬研掘には申の下刻前五時四十分に戻れた。

甲子郎は「会計め、道中の路銀の清算は知らん顔しました。経費帖の写しを渡したら一読して返してよこしました」と憤慨している。

監物が樋口与五右衛門老人と遣って来た。

奥へ渡した残りから、塩饅頭を一緒に食べることにして大野を呼んだ。

四人で留守の間の庭の進み具合を話した。

「大殿が出される八百両を如何しましょう。私が用人として会計を任され申しました」

「半分庭に使おう。今のところ渡した分に幾ら足りないのだ」

「まだ鳥居と船門仕切で八十二両の予算で半分支払っており申す」

「九両残っているのか。大殿の金は何時おさげ渡しに為る」

「二百両お預かりしました」

「殿の国入り前に二百両、暮れに四百両と申されており申す」

監物は大殿の遣り繰りも“ 堂奥 ”に入っていると自慢した。

「では二百両で不足が出るときは大野から出してもらい、二百両は下屋敷給付の予備とせよ」

「お分かりでしたか」

「なにが」

「下屋敷勤めの者の禄高を金で計算しての総額八百両だそうで御座いました」

樋口は物頭一名四十石五人扶持、広間席一名三十五石三人扶持、新番席一名二十石三人扶持、足軽三名で十二石六人扶持、中間八名に四十両。

「締めて書きだすと百十二石十七人扶持と四十両に為り申す。わたくし樋口二百二十石は物頭役高の差額分と矢澤監物殿百石は上屋敷の支給となるそうで御座る」

二百二十石は家老並みだ。

この間大野殿と話して一石換算一万二千文(一両三分二朱)、一人扶持三両一分二朱

で今年は換算、来月から下屋敷支給と決まりましたと言う。

「計算しますと一年二百五十六両四百八十文、その半分の百二十八両二百四十文が六月以後支給禄高に為り申す」

「その計算だと来年あたり樋口殿の差額分も下屋敷掛りと為りそうだな」

「下屋敷勤め十四人の禄髙より私めの差額の禄のほうが多いのでござる」

「八百両あれば樋口殿、監物殿を入れても、十分と言いだす人が出てくるさ。儂の方は大野に物頭と同じ給付が出ても三百両など掛からぬよ」

矢澤監物は実収四十石で七十五両、樋口与五右衛門は四十石五人扶持そのまま支給と言う。

「ほぼ倍にしてくださるので」

大野の目が輝いた。

「足軽の分も下屋敷負担に為ればだいぶ楽だぞ。倍増なら十人扶持も可能な話だ」

薬研掘はそんなに禄が低いのですかと驚いている。

「九人来てくれるなら皆倍でもいいし、今の下屋敷の給付が増えてもいいなら、此方と釣り合いを取ればいい」

「甲子郎が喜びます。子供も増えますので二十石四人扶持がもらえれば嫁も楽になり申す」

樋口が「そんなことしては庭の手当てが無くなり申す」と考えている。

大野は「深川の海辺の土地、二千二百五十坪亀井様が五百両提示されました。再来年までに支払うそうです」と嬉しそうだ。

「二千百五十坪じゃないのか」

「ひそかに測られたそうです。書面二千百五十なら儲けものだと、此の金を庭につぎ込んでも余裕が出ます」

樋口と監物に「前にも言った通り、庭の経費は薬研掘で持つので気にする必要は無いぜ、今年だけは今の二百両の内半分庭に使おう」と安心させた。

四人で話し合い、百両の内から六月に出す三月分の支給六十四両百二十文を出すようにした。

松代藩は、三月、六月、九月、十二月支給なのだという。

大野が此方も同じで御座ると同意し、六月支給分から薬研掘の仕事が増える分二人扶持を深川持ちで支給と為った。

屋敷の男たちは年にして六両三分の余禄が出ると聞いて驚いている。

「一両二分三朱に為る」

大野に呼び出され、上乗せは養子が決まり下屋敷に入る間、およそ一年あるといわれ「下に優しい若さんに雇われて幸いです」と忠兵衛が一番喜んでいる。

中でも大野付の足軽にも出ると監物に言われ「ははっ、あり難き仰せ」と平伏してしまった。

五両一人扶持がそれと同等に近い扶持が出るのだ。

弥助など遠慮がないので「若さんの養子で下屋敷へ入れば又もとに戻るんでござんしょ」と不満げだ。

樋口が「この屋敷から来るものは女子も含めて倍にする話がある」と口を滑らせた。

甲子郎は「それでは元の人達に不満が」と心配そうだ。

監物が「殿の許しが出れば釣り合いを取り申す」と言って安心させた。

次郎丸が「向こうの中間は年五両だそうだ、足高を付けることにして同じ支給にするつもりだ、弥助倍は無理筋だ六両二人扶持なら足高一両二人扶持を向こうの足軽に付ける計算だ」と言っていたが「五両二人扶持で手を打たないか」と交渉した。

「あちらさんへ足高二人扶持増やすというので」

「それなら他の屋敷への言い訳もできると云う物だ、悪口の駄さんぴんの二倍に近い」

大野抱え足軽の本堂治助、近井金治には「下屋敷足軽は四石二人扶持、五両一人扶持を五石二人扶持にどうだ、下屋敷は足高一石今年並みなら一両三分二朱だな」と大野に書き取らせた。

弥助が増えたような気はするのですがと言う。

忠兵衛が「本堂様に近井様は八両三分が十六両二朱にどうだと若さんが言うのだ」と回転の良さを披露した。

樋口は「この際他の者も下話をして殿の裁可待ちにしませぬか」と乗って来た。

物頭に大野殿が加わり二名共四十石五人扶持、広間席一名三十五石三人扶持、新番席一名二十石三人扶持。

元の三人に足高一人扶持を乗せることに次郎丸が同意した。

この屋敷の三人の武士は倍増と監物が切り出した。

川添甲子郎に二十石四人扶持、これは新番席に加える事

上村栄吉と大井源蔵に十石四人扶持の徒士席に加える事。

本堂治助、近井金治は足軽身分、忠兵衛、弥助は中間身分のまま。

物頭二名、広間席一名、新番席二名、徒士席二名、足軽五名、中間十名となる。

住居も一年で手当てが必要だ。

「下屋敷の女手は家族だけですので、移るときにご相談を、定栄(さだよし)様の奥方様の方でお連れの方との兼ね合いもございます」

なほ ”の親子が松平家に残る事は話してある。

「二家の他に、これからは井上家の方との連絡も必要になり申す」

「これは大野殿が適任で御座ろう」

樋口に押し付けられてしまうようだ。

「冴木から引継ぎして貰うようだな」

次郎丸に言われては仕方ないという顔だ。

大野は自分では庭園のほうが手に余るので大井源蔵に任せたいという。

樋口も「源蔵殿ならうってつけで御座るな」と言う。

樋口は下屋敷へ戻り監物が残った。

後日、殿の裁可が降りたが下屋敷会計内(婚姻前支給八百両)のみとされ、樋口の家は長男笵四郎藤吉に継がせ二百二十石、樋口与五右衛門は一代限り下屋敷物頭とされた。

夕餉を採っていると未雨(みゆう)が来ていると女中の史代が伝えに来たので呼び入れた。

「若さん一人で夕餉とは」

「都合で一人に為ってしまったのだ」

煎餅の礼を言うが固い挨拶は抜きで「銭五さんは大分と若さんへの連絡網を広げていますね」と言う。

「もう聞こえたか」

「横山町一丁目は旦吟の耳に入る範囲ですのでね」

「そういやあ、旦那の銀助で銀貨の銀と思っていたら吟じるの吟だそうだな」

「そういやぁ細かく説明しなかったですね。銭屋の今までの人たちは故郷の城端(じょうはな)へ移りますと近所へ挨拶したそうですぜ」

「ああ、それでか」

「どうしました」

「お前さんに繋ぎを付けようと店に寄った時、一人ついていたのが銭屋の手代でな。今度江戸担当で俺との繋ぎ役。初めて白川で会った時その城端を話題にしていた」

「もう繋ぎを」

「越後村上から白川抜けて江戸へ出る予定だったそうだ。祝い金を村上の渡邊さんと掻き集めて持って来てくれたんだ」

「いくら情報が早いと言っても渡邊まで養子縁組の成立が伝わるとは」

「俺も、驚いたぜいくらなんでも俺が知る前に、上屋敷から漏れていたんだろうぜ」

秋葉市郎兵衛に聞いた芭蕉の句の疑問は、即答で答えが帰ってきた。

「續猿蓑巻之下旅之部か。とてもそこまで目を通して居なかったよ。須賀川で案内してくれた親子が芭蕉に詳しくてな。いろいろ教えてくれたよ。宗匠が行っていれば話が弾んだだろうぜ。曽良の日記の写しも持っていたぜ」

「あっちは断片しか見たこと無くてね、江戸に有るのは燃えたと聞いていますぜ。茱月洞(しゅげつどう)藤井晋流さんが手に入れたとは聞いたことが有ります」

「今度出す句集に一部を乗せるそうだ」

白河付近の部分は覚えたから書きだしておこうと、とよに頼んで用意させて書き上げた。

「明日もう一部作っておくか。そこにある旗宿の方の白河の関も廻ってきた。新兵衛兄いが聴いたホトトギスは飽きるほどたくさん聞いたぜ。上手いやつ下手なやつ、馬子が怒るくらいなんだこれはと“ てっぺんはげた ”と鳴いていたぜ」

大野と監物も部屋に来て多代女、岩平の事で盛り上がった。

「そうだ大野の知っているのが居たぜ。白川と聞いていたが須賀川が故郷だそうだ」

「はて」

「田善だよ。亜欧堂(あおうどう)だ」

「元気でしたか」

「大酒のみとは知らなんだよ。月待ちで二晩夜中まで付き合った」

亥の刻に為って夜回りの拍子木が聞こえてきた。

「明日は築地だが監物も大殿に目通りしておきなよ」

「いきなりで大丈夫でしょうか」

「だめもとで明日は付き合いなよ。煎餅を配るのが近くに居るので紹介するぜ」

鴻池屋永岡儀兵衛と言って流山の酒屋で普段は四日市町鴻池屋に居る。

猪四郎さんの所はと宗匠が訊くので「天王町の前においてきた」と答えた。

猪四郎は四日市町に酒田屋、日本橋堀留町二丁目に酒井屋という店を出している。

前は掘留町が住まいだったが文化三年三月四日(1806年4月22日)牛町から亥の下刻に出た火事が神田、浅草まで燃やし、神田川の北、義父が持って居た土地へ住まいを移した。

家は八間町の南側の三間町に建てた。

なぜややこしく言うかと言えば、八間町は小さいが、三間町はその周りを取り囲むようにある。

近所に“ 駒形どぜう の見世が有る、雷門も近い、鰻なら“ 奴鰻 ”も有る。

一人で生きづらいので次郎丸へ呼び出しがくる。

市郎兵衛の話しから鮭に話しが広がった。

「ここは良いよな。鉄の爺様に、妹君、おまけに銭五の富山が加わった」

未雨(みゆう)は旅の間に兄いに感化され友達並みに口を聞く。

「若は阿武隈の分はお相伴ですが、私たちには回るほど遣ってきません」

大野は家が有るのに口を減らすため、賄で済ます方が多い、もちろん足軽二人も忠兵衛達と一緒だ。

「仙台物は高直ですから、白川藩は鮭の漁獲が少ないので取り合いですよ」

監物は「松代は千曲川が有りますので、昔は京(みやこ)へも送っていたそうです」という。

「若さん、それならこれからも、鮭を手に入れる機会が増えると云う物ですね」

吾郎は煽っている。

「鮭と鱒で二千匹は漁獲が有るそうですが、これがなかなか手に入りませぬ」

鮭の漁師に四割を税として納入が求められている。

遡上が一時少なくなった時期は監物が言うには権現様の時代、酒井忠勝公が鮭之打切(さけのうちきり)で川を堰止めて総取りをした記録が残るという。

信濃の鮭より手近の利根川物は漁獲も多く、江戸では手に入りやすい。

藩は換金作物に杏の木を増やすことを奨励しているが、増えてこないという。

「到来物を待つより九月末あたりに行けば、米の刈取りも終り鮭漁が始まるでしょう」

「牛にひかれて善光寺は有るが鮭に惹かれて松代かね」

上田藩千曲川、松本藩女鳥羽川(めとばがわ)で鮭を求めて川筋に期待が掛かっているという。

「上田の忠学(たださと)殿は昨年暇に為って今在国か」

「本来戌年の暇ですが、家督相続によりずれております。参府が我が藩暇と同じ六月に為るはずで御座る」

未雨(みゆう)が家に戻り、大野と監物もそれぞれの寝部屋へ引き取った。

留守の間に監物の部屋が決められていた様だ。

    和信伝和国通貨相場

一両六千四百文・銀換算六十四匁・銀一匁(豆板銀)
百文

一両銀取引相場・銀六十匁~六十四匁・銭百七文~百文

一分0.25両・一分1600文・一朱400文。

一朱0.0625両・二朱0.125両 三朱0.1875両 

0.1両=640文=一朱240文=0.4

薬研掘

文化十一年五月十三日(1814630日)・薬研掘

卯の下刻前(午前五時前)、次郎丸は監物と忠兵衛を共に中屋敷へ向かった。

「定栄(さだよし)様、大殿は拝謁を許されますかね」

「監物見かけに因(よ)らず心配性だな。町の中では若さんで行こうぜ」

「私は監物でなく千十郎にしてくれますか。それと上屋敷、下屋敷では定栄(さだよし)様で無いとまずいので。お屋敷から出てからにしてください」

「それで宜しい千十郎殿」

「殿(どの)はいくらなんでも」

「儂より小姓のそなたのほうが実収は良いはずだ」

次郎丸は二百石程度の上士並みだと言う。

今年に入り給付はそれだけだが、四割支給での二百石だから苦しくはない。

「国元に一族が口を開けて餌を待っていますよ」

「そんなに親族が多いのか」

「ざっと二十人。無役席の父は健在ではありもうすが」

「役に立ちそうなのは」

「男は弟二人。私の実入りはせいぜい七十五両。嫁は許嫁が来年輿入れ」

小姓で百石と云え支給は四十石、扶持米は無いという。

親は無役席千石で、惣領が収入の有る家は少ない。

「せめて三百両ないと嫁がボロを下げる様だな。殿は国へとは言わぬのか」

「若さんの付き人で在国、江戸住まい一緒ですよ。弟を養子に出せと大殿に言われます」

薬研掘の屋敷から横山町三丁目の突き当りへ出て左へ曲った。

一丁目の角見世が銭屋江戸見世と教えた。

もう小僧が見世の前の掃除をしている。

「吉よ。お前さんは城端へは行かないのか」

「若さん、おいら来年に為らないうちに手代にしてくれるそうで、江戸に残る事に為りました」

よく働けよと声を掛けて先の通塩町(とおりしおちょう)で緑橋を渡った。

橋の先が通油町(とおりあぶらちょう)、通旅籠町(とおりはたごちょう)先が日本橋大馬町(おおでんまちょう)二丁目、左手路地の先が猪四郎の酒井屋の有る堀留二丁目と教えながら歩いた。

本町三丁目で左へ行けば室町一丁目、日本橋川の日本橋。

橋の東側、本船町から本小田原町一帯は魚市場の喧騒で賑わっている。

橋の西側には品川町裏河岸、通称釘店(くぎだな)。

橋の向こうを左に折れた、万町、青物町先の楓川の海賊橋。

「昔は高橋と言ったそうだ。三代様の時に架橋され、後に向井将監忠勝様お屋敷を賜り、海賊取締りゆへ海賊橋の名が附いた。巷に九鬼家のお屋敷ゆへと噂有」

「どちらとも今に為っては判明しませんね」

四つ角まで進み右へ行けば九鬼家上屋敷、先に細川越中守下屋敷。

白銀町代地を挟んで白川松平家上屋敷。

掃除をしていた中間へ顔を見せて「築地下屋敷へ行くよ」と声を掛けた。

突き当りの八丁堀は左へ折れて中ノ橋で南八丁堀へ渡り。数馬橋で築地掘を渡ると南小田原町、前後に辻番小屋の有る三ノ橋で周って(まわって)来た築地堀を渡ると、その先右手が一橋(ひとつばし)様下屋敷、隣が白川藩下屋敷になる。

「此処から新しく手に入れた深川越中島の下屋敷へ船で通うと言っていらしたそうだ。まだ更地同然の地所を庭園にされるそうだ」

「此処の下屋敷も良いお庭とお聞きしています」

三人は薬研掘(元矢之倉)から一時間十分ほどで此処まで来た。

服部半蔵正礼(まさのり)が門内で待って居るには驚く次郎丸だ。

「正札殿、こちらへご用事でも」

「定栄(さだよし)様にお礼を言うために此処で待たせて頂き申した」

内玄関まで三人を案内して「そこな床几でお二人はお持ちくだされ」と次郎丸を書院へ案内した。

石町で辰の刻(六時三十六分頃)五つの鐘を打つ音が聞こえてきた。

正札は花月様の前で次郎丸に苦労の礼を述べて下がって行った。

「よくぞ手に入れてくれた。隠居では褒美もままならぬがそちが欲しがっておった相州正宗の小刀を遣わす」

殿と同じように煎餅の礼とは言わなかった。

相州伝五代綱廣が鍛えた物、刀身九寸五分“ 相州住伊勢大掾源綱廣 ”の銘が有る。

伊勢守を名乗る延宝六年以前の作という、大刀は秘蔵されて出てこない。

小姓の忠吉が小刀を、正札が大刀を持ってきた。

「その拵えは庄兵衛興正」

二尺三寸五分、二代長曽祢虎徹と言われた名工の鍛えた技物。

「そちが叶庸助と云う者の話をした時、所持しているというときの顔を忘れられぬ。儂が養子に出た時兄から頂いた物だ。奇しくもそちが養子となる故、我が形見として取らせる」

礼を言って両刀を受け取った。

「実は供の二人ですが。一人は真田のほうで指導役の付き人に選んでくれた二人のうち一人でございます。ぜひともお目通りの上お言葉をかけてくださりませんでしょうか」

「冴木から聞いた、矢澤監物であるか」

「左様でございます」

「これ、忠吉。内玄関へ出て矢澤殿を案内せい」

若いのうと正札と顔を見合っている。

「矢澤監物で御座ります。お引見あり難き幸せに候」

花月様、正札の二人から「よしなに頼む」と言われて「身に替えても」と息張って答えた。

忠吉が大小の刀が収まる木箱を用意して中へ納めた。

三本の飾り紐で飾られた木箱は、監物が持って辞去した。

三の橋から紀伊殿を回り込んで南本郷町で海辺へ出て明石橋へ出た。

八丁堀の南っ側に有る稲荷の橋を渡り、亀島川を高橋(たかばし)で渡り、越前掘の東湊町から白銀町の境の薬師稲荷で刀の礼を言った。

「何か霊験でも」

「霊岸島の由来の霊岸寺の境内に在った橋本薬師の後だよ。三河国鳳来寺由来で鳳来寺薬師ともいう。権現様にも関わる寺で、三代様が東照宮をお建てに為られた伝承がいろいろあるがその内話すよ」

「短いのを一つ」

「権現様御誕生の時、寅の守り神である真達羅(しんだら)大将像が鳳来寺から消え去るという事が起きたそうだ。権現様がお亡くなりに為った後、元の所に出現されたという」

「真達羅大将とは」

「薬師如来の眷属、甲冑(かっちゅう)をつけ、忿怒の姿をとるという」

新川を二ノ橋で渡ると霊岸島の四日市町鹿嶋の前。

酒田屋に猪四郎の顔が見えたが知らん顔して三軒先の鴻池屋へ入った。

「お帰りなさい」

儀兵衛が笑った。

「可笑しいな、相州正宗は小刀だと聞きましたよ」

「養子に付御形見と思えと貰えた。庄兵衛興正だ」

仰け反っている。

「そりゃたしかに凄い話ですね」

忠兵衛に「草加煎餅を渡してくれ」と呼びこんだ。

猪四郎が居たから向こうへも顔を出してくると酒田屋へ向かった。

「なに通り過ぎるんですよ」

「土産の煎餅を渡してきた」

「昨日はごちそうさんでした。お由はあん位、歯ごたえがないと物足りないそうでね。瓦煎餅は風呂上りの口やすめだとぬかします」

千十郎の持つ木箱をみて「どこの土産です」と首をかしげた。

「鯨の土地の礼として、花月様養子の時に頂いた物を譲り渡していただいた」

「兄上様でなく花月様からですか」

「殿は塩饅頭を下されたよ」

「今ほかに一振り望むなら。誰が良いです」

「新刀で水心子正秀か若い大慶直胤。虎徹に一竿子だ」

「直胤さんは江戸のどこかに居るはずですが。殿様がまだ国元じゃないですか」

「出羽に居るんじゃないのか」

「買い上げたいのですか」

「勝手に使えるのはせいぜい五十両だ」

「そこまではしないでしょうが。買えるかどうか探してみましょう。それより一竿子忠綱ですがね」

「見つかったのか」

「無銘ですがね。若さんの大刀と同じ元禄のころのものだそうでね。一尺七寸八分半」

「無骨者らしい差料だ。一尺七寸九分の行光と変わらんな」

「三十両だそうですぜ。黒鞘に収まっています。何本あっても欲しいものですかね」

「そりゃそうだ。買い取ってくれ」

「龍の彫が有る大小揃いも有りますぜ」

「彫の有るのは百両以上と評判だぜ。俺にゃ無理筋だ。“ なほ ”の薙刀で百十五両した」

千十郎はそれほど興味がないのか出された茶を忠兵衛と飲んでいる。

「もし只なら貰いますかい」

「相手次第だ」

「龍と宝剣。梵字がね、大刀に有るのですぜ、なんと聖観音菩薩だ」

「聖観音と観音菩薩は同じで勢至観音は右に点二つ」

「聖観音と観音菩薩が同じなら問題は無いですがね。なぜ宝剣の上に彫るのですかね」

少し考えた。

「似ているのは大黒天か孔雀明王だな。観音と宝剣は意味が解らん。そいつは考え物だ。梵字無しなら欲しいな」

「梵字が無きゃ、俺とお由から養子成立の祝いなら受け取りますかい」

「二人からなら受け取る。嬉しいぜ。賄賂ととれる相手は困るけどな」

忠兵衛は「煎餅の礼が大小揃いですかい」と言っている。

「煎餅のお返しとは面白い」

千十郎まで話に乗っている。

刀剣好きの旗本、大名は多いが、金に困って売るのが放蕩息子たちだ。

お代替わりの家が狙い目の業者につけ込まれ、安く手放してしまう。

「千十郎は永代で戻るか」

「薬研掘で飯を食わせてくださいよ。御刀拝見をしたくてうずうずしているんです」

刀剣に興味が無いわけでは無さそうだ。

酒田屋を出て大川端で豊海橋を渡った。

北新堀町先の崩橋(くずればし・長さ十一間-幅四間)で渡ると小網町三丁目。

釜屋もぐさの看板が目立っている。

妻楊枝のさるや七郎兵衛も人の出入りが多い。

鎧(よろい)の渡し先一丁目で思案橋前、右へ折れると稲荷堀。

稲荷堀(とうかんぼり・とおかぼり)は松平越中守、酒井雅楽頭の中屋敷を囲んでいる。

幅は七間ほど有るが、行き止まりのせいで流れが無くなり、葭が茂り船は入れなくなっている。

「殿に花月様も蔵屋敷として使いたいようだが船が入れぬので困っておられる」

「何処かと交換してもらうようですかね」

「養子先へ移り住んだ後 なほ ”や“ つかさ ”これから生まれる子を此処へと話が出ているが、三千九百三十七坪も有るという。隅へ親娘の住まいを建てようと言っている。今度の金はそれに出る出費も有るので断れなんだ」

次郎丸は内心、白川藩への忠誠の人質かと心配もある。

石町の鐘が八つを告げている。

堀が広がる左前が甚左衛門町、堀の向こうに銀座。

「こんなところで銀貨を製造しておりますか」

「此処へ移って十四年たつ、儂が子供の頃引き移って来たそうだ。此のあたり蠣殻町だったので蠣殻銀座と言いだした人がいる」

住吉町から竈河岸を難波町(なにわちょう)へ出た、浜町河岸を左へ、浜町川には難波橋(なにわはし)、高砂橋(たかさごはし)次の富沢町の栄橋(さかえはし)を渡り、久松町へ入った。

突き当りを左へ行くと村松町の四辻へ出る。

右へ折れて右手先は若松町「此処は屋敷の富代の娘の小間物屋が有り、屋敷へ入れぬ鮨の担ぎを此処へ入れて女中たちが買に来る」と教えた。

鉤手(曲尺手・かねんて)で右へ出て、忠兵衛が怒るといけないので裏門前を通り抜け、薬研掘の表門から戻った。

「何時も両国橋か大橋で渡りますが、永代がこれなら思っていたより近こうあり申した。鉤手(曲尺手・かねんて)が多いので初手は一人では心もとうで御座りまする」

「魚市場へ出て思案橋で小網町と云うのも手だぜ」

「それで朝とは違う道で御座るか」

「今朝浜町川を渡った緑橋の三つ下流が栄橋だ、浜町河岸で横並びさ」

「なにやら簡単に聞こえました」

富代に三人分昼餉の仕度を頼み、大野たちを呼び寄せ首尾を話しながら、二振りの刀を披露した。

千十郎に負けぬくらい興奮しているのは大井源蔵だった。

皆が見ている間とよに「一竿子忠綱が三十両だそうだ」と話した。

「小刀ですか、お安いですね」

「一尺七寸八分半だそうだ」

「行光と同じくらいですね。お買い召されますか」

此の白川行き道中でも一竿子忠綱二尺四寸と藤原行光一尺七寸九分を無骨に差しての道中だ。

普段は打刀、脇差に肥前國忠廣五代忠吉二尺三寸五分に一尺七寸を差している。

旅に出る刀と長さがわずかに違うが、此方は柄巻師に月一度出して色に巻き片を替えさている。

一竿子忠綱と行光は諸捻巻(もろひねりまき)と云うのだと香佑氏(こうし)が言う。

「猪四郎の話しだ。物は無銘だがまがい物では無さそうだ。持ってきたら金を頼むよ」

鰻の煮こごりに鯵の押しずし、小肌の押しずし。

千十郎、忠兵衛も同じものを一緒に食べた。

「これで穴子でも出たら大騒ぎだ」

「予算が出れば用意しますよ」

富代と美代が千十郎に話している。

「これで一人前、いくらなのだ」

「今日は贅沢なんですよ。煮こごりは二十五人前で三百文、一人十二文に押しずし二切れで十六文の二十八文ですよ」

「小ぶりの卵二個より安いのか。築地の賄いを任せたい位だ」

千十郎も意外と世間に詳しい。

屋敷で一日九百文だが十日で均しているという。

「到来物が有れば贅沢できますのさ。お茶に菓子は買うことも少ないし。熱海の魚が月二度ほど市場へ出せない半端物を頂けます」

「そういやぁ千住の本陣でめじ鮪のねぎま汁が出た」

「本陣ですか。よく下世話な物を」

「喜連川の師匠が手紙で頼んでくれていたのだ」

「喜連川に居て千住の河岸の様子が分かるのですか」

千十郎が驚いている。

「驚くのは潮汁の椀だった。白いものが有ると聞いたら伊佐木の白子だ。五人前出すに幾匹必要だろうと考えてしまった」

「そりゃ若様、身は別の客人の腹の中でしょうよ。ここでも八月に入れば作らせますよ」

美代が「伊佐木は高いのですか」と富代に聞いている。

史代がでしゃばって「本陣ですもの高くて当たり前でしょうね」と言う。

「今の時期、十二文程度さ。でも白子は小さいし、育っている成魚を探すのが骨さね。片身刺身で片身煮付けにすれば白子が見つかりやすいのさ」

「でも若さんの言う、潮汁だと骨の出汁で使うので、煮付けが出来ませんよ」

「其処が本陣さ。良い料理人が控えているのだろうよ」

伊佐木の時期が来ればカワハギも旨くなるよと云う。

美代の実家は内藤新宿、家は魚があまり出なかったという。

十七歳でそろそろ嫁入るころだと“ なほ ”が気にしている。

とよに富代をはじめ深川へ幾人連れて行けるかも決まって居ない。

史代は今年春の出替わりで来たが、初めての奉公が屋敷勤めだという。

 

殿の暇前の忙しい中、薬研掘もいろいろと忙しくなってきた。

次郎丸と“ なほ ”の間には十月末には二人目の子が産まれる。

腰元のつや、華代(かよ)は二十歳に為っていて、暮れには嫁入りが決まって居る。

遅い位だが相手の家庭に事情が有り一年伸びた。

どちらも婿は江戸詰三十石三人扶持の軽輩だが、文化五年から花月様六園整備で小石川大塚上町の抱え屋敷に勤めている。

北に大悲寺、西に浪切不動が有る。

替わりに行儀見習いで十四の娘が二人、六月朔に遣ってくるという。

次郎丸は会っていないが“ なほ ”が大層気に入っているのだそうだ。

猪四郎の話しでは共に大きな商家の娘で、三年の約束だという。

大野と冴木が話しを進め、中屋敷へも“ なほ ”に付いてくれると決まったそうだ。

政(つかさ)の乳母のとりはもちろん、これから生まれる子の乳母も大野と冴木は見つけている。

次郎丸はとよがどうするか気がかりだったが、直枝を仕込んで金庫番へ育てるという。

最近知ったのは家が江戸の結の古株だそうだ。

鎌倉河岸に近い永富町一丁目に宝永七年青物問屋丸屋喜兵衛を開いたという。

多町丸屋十兵衛の別れだという。

連雀町、神田多町とともに青物三か町を為している。

合わせると青物問屋九十六、みずがし問屋が二十七と云う。

今年だと丸屋では十七人の売り子が町回りをしていると招かれた母親が話していった。

そのおっかさんの実家は京橋大根河岸(だいこがし)だが、おっかさんは“ だいこかし ”と言っている。

とよが期待する直枝はまだ十五歳だ、上に兄と姉が居る。

大野も無理して足軽二人を抱えていたが、深川持ちが決まりあと少しの辛抱だ。

大野玄太夫も四十四歳、息子は殿によって家督相続が許され稲荷堀(とうかんぼり・とおかぼり)中屋敷での二十石五人扶持が認められ、大野は薬研掘の持ちとされた。

殿と云うより、周りで冴木が根回しして居る様だ。

本堂治助、近井金治は大野の同輩の次男と三男で、深川持ちと云うよりは早急に薬研掘持ちと次郎丸は考えている。

大野は黙っているが先を見越し、儀兵衛が貸し出しをして居る様だ。

内々で養子入り前に領内巡遊を幸専(ゆきたか)様在国中にどうだと話しが有るようだ。

千十郎は鮭の話をして居ないという。

「どこから漏れるのかな。疑いだしたら限(きり)もない」

「大殿に殿もが若さんをお気に入りの様で。重臣の方々を牽制されるのでは」

「今なら本川次郎太夫は通用するかな」

なほ ”は“ つかさ ”に「又お留守になるとさびしいわね」と自分ではないように言っている。

「遅くも産まれる前にお帰り下さいませ」

十月十三日以降だろうと産婆は言っている。

「まだ範囲は二十日くらい幅が有るそうです。二百八十日前後だとは“ つかさ ”の時に教わりました。乳母は悪阻から見て二十五日以後でしょうと断定します」

「産婆は仕事に差し支えるから五月(いつつき)も前の断定は避けるさ」

 
 

 第八十三回-和信伝-拾弐 ・ 2025-04-04

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




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