第伍部-和信伝-陸拾肆

第九十五回-和信伝-拾肆

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

東海道

文化十二年四月二十五日(181562日)川崎大師

此の日も“ 長崎屋源右衛門 ”で巳の刻(九時十分頃)まで府内の本道医と面談した。

東海道一日目は川崎宿、日本橋から四里十八町。

与力の高橋鉄次郎と日本橋北詰で別れの挨拶を交わした。

料理屋の並ぶ四つ辻で善造が「此処は中橋(なかばし)と云う所で六十年程前まで運河が有りました」と先頭で和信(ヘシィン)に話した。

先へ進めば京橋、新橋、金杉橋、芝橋、札の辻で右手から三田通りが合流する。

大木戸では人だかりで大分刻が掛かった、善造は「お別れでござんす。良い道中を」と戻って行った。

高輪、八つ山、歩行新宿、北品川と続く。

日本橋から二里で品川宿(しゅく)目黒川の行合橋を渡れば南品川。

品川から六郷は舟渡しを入れて川崎へ二里十八町。

六郷の渡し船は正徳元年から百年たってもひとり十文で済むし、武士は払わなくて済む。

宿へ入り大師道へ一行は進んだ。

一昨年文化十年八月厄払いに将軍家の御成りが有って大師信仰の熱は高まるばかりだ。

当日に平間寺の降円上人が三十七歳で急逝してしまい、寺は代役を立て厄除け祈願を行った。

上人が将軍様の厄を肩代わりしたものと風聞が立ち、厄除け大師として名があがった。

渡し場から宿へ入り、万年屋の角からおよそ二十五町だと警護の進藤常吾郎が庸(イォン)へ話している。

平間兼乗(ひらまかねのり)の夢のお告げで海中より引き上げられたお像を祀るという。

その像が厄除弘法大師尊像であり御本尊として供養されている。

一行の泊まる“ 佐藤惣佐衛門本陣 ”は上の本陣、高札場の先に有る。

例幣使の一行は川崎では三軒の本陣へ二十二日五つ半頃分散して休息し、日本橋から十二里十八町の戸塚まで足を延ばしている。

予定では二十五日には、日本橋から三十八里二十一町四十五間ある由比まで四日で到着と云う。

「私たちは六日掛けるのに」

「仕方ないですよ。土地の医者と会うことが太医様の仕事ですから」

文化十二年四月二十六日(181563日)遊行寺

川崎宿から鶴見を経て神奈川宿へ二里十八町。

神奈川宿から新町(程ヶ谷)宿へ一里九町。

新町(程ヶ谷)から権太坂を越えて戸塚宿へ二里九町。

川崎宿先に市場一里塚(五里目)、東子安一里塚(六里目)、神奈川宿先の台町に神奈川一里塚(七里目)、坂を下りて保土ヶ谷宿の先が保土ヶ谷一里塚(八里目)、右の塚が崩れて原型が無い。

権太坂は一番坂に二番坂、境木の立場を過ぎれば相模の国焼餅坂(牡丹餅坂)、品濃坂の途中に信濃一里塚(九里目)がある。

護衛の山本仁之助が「地元では一里山と言いますが。東の塚は平戸村内(うち)、西の塚は品濃村内だそうで御座る」と叶庸(イエイオン)と話しながら坂を上った。

進藤常吾郎は和信(ヘシィン)と列の最後尾を歩いている。

戸塚一里塚(十里目)先の戸塚宿上方見附先の坂上が原宿一里塚(十一里目)、過ぎれば影取、道場坂一里塚(十二里目)を下り、鉤手(曲尺手・かねんて)で大鋸橋を渡れば藤沢宿。

日本橋から藤澤宿まで十二里十八町。

橋手前を右へ入れば遊行寺正式には時宗総本山・藤澤山(とうたくさん)無量光院清浄光寺(むりょうこういん しょうじょうこうじ)。

惣門に有る時宗の宗紋は「折敷に三文字」。

創建は正中元年、俣野五郎景平入道明阿が開基、弟の遊行四世呑海(どんかい)上人の開山清浄光院。

遊行上人五十五世にして藤沢上人三十五世は他阿一空六十八歳、此の年文化十二年 1815年)五月二十九日、但馬豊岡西光寺で死去。

藤沢上人不在は文政四年(1821年)、遊行上人不在は文政七年(1824年)まで続いた。

大鋸橋の橋畔右手に高札場、左手へ行けば江之島道に一之鳥居。

東海道は六間、江之島道は二間の道幅。

鳥居脇の石柱正面の弁財天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ能し満道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」。

杉山検校が江の島道(一里九町)に四十八基建てたもの。

藤沢宿へ入ると大久保町、左手に問屋場が有り先へ進むと坂戸町。

右に蒔田源右衛門本陣、左に問屋場。

一行の宿は“ 蒔田源右衛門本陣 ”に取ってあった。

文化十二年四月二十七日(181564日)小田原

親善使の一行は“ 蒔田源右衛門本陣 ”を六つ半(五時二十分頃)に旅立った。

台町の坂を上ると京方見附。

藤澤宿から三里十八町で平塚宿、間には相模川が控えている。

馬入川(相模川)上流田村の渡しへの大山道は四ツ谷立場から右へ入る道。

四ツ谷一里塚(十三里目)は別名辻堂一里塚。

小和田には紀州藩七里役所、牡丹餅立場小和田のぼたもち茶屋“ たなかや ”は朝から盛況だ。

茅ヶ崎一里塚(十四里目)を過ぎ、十間坂第六天社は“ 第 六 天 魔 王 ”を祀る社だ。

南湖立場の街道左(海側)御小休本陣“ 松屋清左右衛門 ”、脇本陣茶屋“ 江戸屋金次郎 ”が並んでいる

橋の先街道右へ伸びる参道は鶴嶺八幡宮、この付近が南湖(なんこ)左富士。

馬入川船渡しで一人十四文。

川の近く立場に馬入一里塚(十五里目)。

江戸方見附で和信(ヘシィン)の時計は九時十分。

二十四軒町に山本安兵衛脇本陣、その先に東仲町加藤七郎兵衛本陣、先に高札場、向かいが東組問屋場。

西仲町左手に西組問屋場先が京方見附。

縄手道に花水橋、先に高麗山(こまやま)高麗権現の下社鳥居が有る。

大磯化粧坂(けわいざか)に化粧坂一里塚(十六里目)。

大磯宿江戸方見附は平塚から二十七町しか離れていない。

山側に小島才三郎本陣、尾上本陣、地福寺に参道を挟んで向かいが石井本陣。

鉤手(曲尺手・かねんて)手前の海側に南組問屋場。

上方見附先、西小磯から鉤手(曲尺手・かねんて)で切通し。

国府本郷一里塚(十七里目)の先国府新宿に入った。

塩梅川(しおみかわ)を渡ると間宿(あいのしゅく)二の宮。

吾妻神社の鳥居が有る、此処は弟橘姫命の櫛が流れ着いた場所と言い伝えられている。

押切坂一里塚(十八里目)。

大山道の追分に真新しい秋葉山常夜燈。

国府津、森戸川先に小八幡一里塚(十九里目)。

「あと一里で小田原ですが、ここで一休みしましょう」

山本仁之助が休み茶見世に声をかけた。

未の刻が近いようだ。

和信(ヘシィン)の時計と叶庸(イエイオン)の時計は午後の二時だった。

酒匂川は下横帯四十文の札が川会所に出ていた。

小田原(山王原)一里塚(二十里目)。

山王口は小田原宿江戸口見附で外は街道の両側に蓮池が有る、海側の池の向こうに一里塚が築かれているのが見えた。

番所に小田原藩の使者が来ている。

山本仁之助が宋太医を紹介し、使者が先導して城下へ導いた。

進藤常吾郎が和信(ヘシィン)に「此の辺りが新宿町、鉤手(曲尺手・かねんて)で万町に為り申す」と話しながら進んだ。

宮前町“ 清水金左衛門本陣 に申の刻(十六時二十分頃)の鐘が鳴る中を入った。

宿内に四軒の本陣と四軒の脇本陣が有るという。

本町片岡永左衛門本陣、本町久保田甚四郎本陣、欄干橋町清水彦十郎本陣。

高梨町米屋三右衛門脇本陣、宮前町島屋太郎兵衛脇本陣、宮前町福住屋平兵助脇本陣、中宿町虎屋三四郎脇本陣。

文化十二年四月二十八日(181565日)箱根

宮前町“ 清水金左衛門本陣 ”に巳の刻(九時頃)過ぎまで城下の医者が来ていて旅立ちが遅れた。

此処でも脚気の症状に対する対応が質問の多くに為る。

叶庸(イエイオン)は“ 頂透香 ”に興味はないか宋太医に聞いて大量に買い入れている。

使者に促されて本陣を後にした。

箱根から来ると板橋口見附は鉤手(曲尺手・かねんて)で城下へ入る道だ。

早川上水と呼ばれる水道は、小田原北条氏三代氏康の頃に使用が始まった。

板橋村の取水口を太医三人は庸(イォン)を通訳にし、興味深げに見て回った。

坂を上ると風祭一里塚(二十一里目)。

入生田から三枚橋で須雲川を渡れば直に湯本茶屋一里塚(二十二里目)。

「此の辺りから湯の湧く村が多くなり申す」

案内役の使者は湯量の多い事を自慢した。

観音坂、葛原坂はふたつ坂、おしあげ坂とも言われている。

すくも沢の立場先に坐頭転ばし、おんなころばし坂の急坂。

畑宿(しゅく)には茶屋本陣に休み茶見世が並んでいた。

此処で一息入れ白酒で鮎の鮓を食べた。

白酒二十文、鮎鮓一皿三十六文、大分高いが応対は良い。

甘酒茶屋も繁盛している。

畑宿は小田原から五つ目の立場だ、接待茶屋(無料休み処)も数多く見かけた。

畑宿一里塚(二十三里目)は集落のすぐ先に有る。

八丁平まで峻嶮な上りが続いた。

小田原宿から箱根宿まで四里八丁。

道が湖水に向かって下っている。

関所の手前、葭原久保一里塚(二十四里目)で隊列を整えた。

江戸口千人溜は順を待つ旅人で溢れている。

江戸口御門は明け六つから暮れ六つまで開かれる、門を入ると右手に御制札場が有り高札が置かれている。

関所を出入る輩、笠頭巾をとらせて通すへき事、

乗物にて出入る輩、戸をひらかせて通すへ き事、

関より外に出る女ハ、つ ふさに証文へ引合せて通すへき事、

 附、乗物にて出る女ハ 、番所の女を差出して相改むへき事、

手負死人並不審なるもの、証文なくして通すへからさる事、

堂上の人々諸大名の往来、かねてより其聞えあるハ沙汰に及す、若不審之事あるにおゐてハ 、誰人によらす改むへき事、

右条々、厳密に可相守者也、仍執達如件、

正徳元年 五月日 奉行

右が大番所。

山本仁之助は長崎奉行所の出した身分証を横目付へ出した、小田原藩の使者は江戸口御門前で小田原へ戻って居る。

「警護十人、通事二人、医者三人、料理人一人、雑人三人」

読み上げると番士が数を確認し伴頭に「相違ありませぬ」と報告した。

一行の荷を運ぶ問屋場人足は、荷駄共に番人の数合わせだけで許されて通り抜けている。

伴頭一人、横目付一人、番士三人、定番人三人、足軽十五人が人見女(女改め)と此処へ詰めている。

京口御門から千人溜へ出た。

関所の西に小田原藩支配の小田原町に本陣四軒、韮山代官支配三島町には本陣が二軒有る。

親善使は小田原町湖岸の“ 駒本陣 ”と呼ばれる“ 柏屋駒佐五兵衛本陣 ”を約束してあった。

間口十四間,敷地七百十坪,建坪二百十八坪,客用部屋数十六間、湯殿二カ所,雪隠四カ所と進藤常吾郎の手控えに有った。

小田原町湖岸関所側からはふや(壬生屋)高瀬四郎左衛門本陣、川田覚衛門本陣、柏屋駒佐五兵衛本陣、鎌倉屋石内太郎左衛門本陣。

三島町左手に天野又左衛門本陣、湖岸の畔屋天野平左衛門本陣。

三島町左手白井三郎左右衛門脇本陣も含めて大名、公家の休憩だけでは成り立たず、大商人も宿泊可能になっていた。

文化十二年四月二十九日(181566日)沼津

柏屋駒佐五兵衛本陣 ”を六つ半(五時二十分頃)に旅立った。

箱根宿から三嶋宿へ三里二十八町。

小田原町の西が三島町、その先が芦川町宿の外れの左側に駒形権現。

斜面の庚申供養塔は、万治元年の銘がある、登り坂は向坂。

ほぼ直線の登りは赤石坂、釜石坂、風越坂(かざこしざか)、階段を登る挟石坂(はさみいしざか)。

茨ヶ平(ばらがだいら)先に兜石(かぶといし・甲石)坂。

この付近に二十五里目の一里塚が有ったらしい。

秀吉の小田原攻めのときこの石の上に兜を置いたと伝説が残る。

接待茶屋の近くの山中新田一里塚(二十六里目)。

笹原平に笹原新田一里塚(二十七里目)。

延宝六年の庚申塔が建つていた。

三ツ谷新田は三軒の茶屋が有ったからと言われている。

小時雨坂、右したに下る急な坂道と階段がある。

大時雨坂のちには題目坂と言われるようになる。

初音ヶ原の松並木に錦田一里塚(二十八里目)。

愛宕坂の石畳は幅二間、臼転坂(うすころげざか)先の塚原新田から今井坂先に山田川。

大久保家陣屋は小田原藩の支藩である荻野山中藩。

大場川に新町橋がある。

橋をわたったところに江戸見附があり、三島宿の入り口であったことから欄干をもつ板橋。

三島代官 - 宝暦九年に韮山代官所と統合されたが出張陣屋として明治まで続いた。

韮山代官 - 伊豆を中心に駿河・相模・武蔵・甲斐の天領(五~十万石)を明治まで統治した。

三島大明神前に高札場。

南へ伸びる下田往還道、北へ伸びる甲州道は荷駄の列が出来ていた。

境川の上を通る千貫樋が見えた、此処までが伊豆の國、橋を渡れば駿河の國。

伏見一里塚(二十九里目)、山側を玉井寺一里塚、海側を宝池寺一里塚。

下石田の木瀬川村の休み茶見世先に“ 従 是 西 沼 津 領 ”の榜示杭、此処までが韮山代官の支配地に為る。

沼津・日枝一里塚(三十里目)は街道北側の日枝山王の参道脇に有る。

三嶋宿から一里十八町で沼津宿(しゅく)。

沼津宿(しゅく)は東西十九町五十二間、 南北十九町二十間。

三枚橋町を城の南側を回りこむように先へ進むと城下町が広がっている。

横町に続く道が本町通りで北側は上本町、南側が下本町。

上本町に高田本陣、中村脇本陣、下本町東側東本陣が“ 清水助左衛門本陣 ”、西側西本陣の“ 間宮喜右衛門本陣 ”。

清水助左衛門本陣 ”がこの日の宿だという。

進藤常吾郎の手控えには間口十八間半、奥行二十三間、敷地四百三十四坪、建坪三百三十一坪と有る。

本石町長崎屋でも浮世小路百川からの料理人で長崎唐人屋敷風の卓袱料理が出たが、此処沼津でも親善使の為に蘇州風の料理が並んだ。

料理は小菜八品、大菜十二品。

川海老の油爆蝦に渡り蟹の蒸し物は特に護衛の武士に喜ばれた。

鱸(すずき)の松鼠桂魚風には和信(ヘシィン)も驚きを隠さなかった。

全(チュアン)など「このままわが国で料理屋を開いてもやっていける」とべた褒めだ。

 

文化十二年四月三十日(181567日)芒種

清水助左衛門本陣 ”を六つ半(五時二十分頃)に旅立った。

東海道、六日目は由比まで八里十二町四十五間、日本橋から三十八里二十一町四十五間。

沼津宿(しゅく)から原宿まで一里十八町。

千本松原はどこまでも同じ景色が続く。

大諏訪を抜ければ吉祥院の先に大諏訪一里塚(三十一里目)。

従 是 東 沼 津 領

榜示杭が示すようにここからは天領の原宿となる。

原宿の東木戸を抜けると東町の松蔭寺が見える。

寺が並んでいる、東から清梵寺、長興寺、松蔭寺、西念寺。

宿場は六百六十間、東の三本松新田から西の六軒町まで入れると千百二十七間、ほぼ十九町あるという。

西木戸先は松並木が続いている。

一本松一里塚(三十二里目)が有った。

原宿から三里二十二間で吉原宿。

柏原の立場は鰻が名物と進藤常吾郎が叶庸(イエイオン)に話している。

「まだ五つ半頃、支度の真っ最中ですよ」

「叶庸(イエイオン)殿は鰻も好きですかな」

「今回も長崎で食べましたし。昨年来た時も大坂で御馳走になりました」

沼田新田一里塚(三十三里目)。

今井村は元の吉原宿、寛永十六年(1639年)津波被害で町ごと中吉原へ移り住んだ。

依田橋一里塚(三十四里目)。

中吉原は延宝八年(1680年)またも大津波に襲われ吉原は今の地へ移った。

東木戸を越えれば吉原宿、叶庸(イエイオン)の時計は十一時。

山本仁之助は此処で昼とした。

吉原宿下本陣“ 長谷川八郎兵衛本陣 ”が一行を待ち受けている。

葱雑炊に串焼きの鮎が出された。

山本仁之助に何やら江戸からの急使が来たという。

「なに幕府要職に移動が出たというだけですよ。これから通る大坂の城代が替わるそうです」

高崎藩大河内松平輝延(てるのぶ)四十歳が従四位下となり、大坂城代に任ぜられるという連絡だ。

「年から言って五年辛抱すれば老中が待っておられますな」

奏者番、寺社奉行、大坂城代、老中、これが普通の出世街道だ。

二十年は掛かると言われているが、短縮するには賄賂しかない。

よほど優れていると筆頭老中、将軍家に認識される人物なら、手順が省かれることが有る。

よく知られているのが松平定信。

安永四年(1775年)十七歳、陸奥国白河藩藩主松平定邦の養子となる。

天明三年(1783年)二十五歳、家督を継いで白河藩主になる。

天明七年(1787年)二十九歳、四月徳川家斉(十五歳)が将軍に為る、六月定信老中首座となる。

推薦したのは徳川御三家と伝わる。

天明八年(1788年)三十歳、将軍補佐(家斉十六歳)。

老中首座を継いだのは松平信明。

明和七年(1770年)八歳・父信礼(三河国吉田藩藩主)の死去により家督を継ぐ。

天明四年(1784年)二月十四日二十二歳・奏者番。

天明八年(1788年)二月二日二十六歳側用人、四月四日老中に任じられる。

寛政五年(1793年)七月二十三日定信(三十五歳)老中を辞職、三十一歳老中首座として幕政を主導。

もう一人あげるなら阿部 正弘だろう。

天保七年(1836年)十二月二十五日十八歳・備後国福山藩家督相続。

天保九年(1838年)九月一日二十歳・奏者番と就る。

天保十一年(1840年)五月十九日二十二歳・寺社奉行加役を兼帯。

天保十一年(1840年)十一月八日二十二歳・寺社奉行兼帯。

天保十四年(1843年)閏九月十一日二十五歳・老中に異動。

弘化二年(1845年)九月二十七歳・老中首座。

和信(ヘシィン)と叶庸(イエイオン)は、山本仁之助は結と繋がりが有るようだと話し合った。

「向こうから言わないのなら知らんふりが良いでしょうな」

「遠山奉行の選んだ人です、次郎丸さんか新之丞さんの手の人でしょう、十人の内進藤常吾郎殿もそうだと思いますよ」

親善使の先頭は通事の和信(ヘシィン)か、叶庸(イエイオン)が歩き、護衛から一人が必ず警護に着く。

警護隊の隊長は山本仁之助、副が進藤常吾郎と向郷三郎兵衛この三人の内一人が先頭に出る様だ。

最後尾も通事に警護となっている。

太医三人は何時もひと塊で歩き、前後二名の四人が護衛に着く決まりの様だ。

料理人、雑人、人足、荷駄の前後にも護衛が四人付いている。

二人は問屋場との交渉役の様で、問屋場人足に睨みを利かせている。

旗持ち人足三人が先頭に続き、土産も増えて本馬(ホンマ)三頭に荷を積み、旗持ちに続いている。

吉原宿下本陣“ 長谷川八郎兵衛本陣 ”から二里三十町二十三間で蒲原宿。

本町下本陣さきに高札場と問屋場、此の宿は此方が月の二十日まで。

西本町の右手上本陣向かいの問屋場が月の残りを請け負うという。

西木戸を出て本市場へ向かった。

本市場一里塚(三十五里目)。

休み茶見世に“だんご”や“やきもち”の旗が閃いている。

三十六里目の一里塚は行方知れずだと進藤常吾郎が叶庸(イエイオン)に話している。

富士川の渡しは舟渡しで二十二文だという。

間宿岩淵の名物は“ 栗の粉餅 ”、餅に栗の粉がかけてある有るだけの簡単な物だ。

茶店の間に岩淵一里塚(三十七里目)。

七難坂は険しい山道続きだ。

麓に降りる道に蒲原一里塚(三十八里目)。

東木戸を通り蒲原宿に入った、油比宿まであと一里。

由比の新町の一里塚に着いたのは叶庸(イエイオン)の時計で申の下刻が近い午後の四時二十分。

沼津を六つ半(五時二十分頃)に出て八里十二町四十五間を十一時間かけた。

由比一里塚(三十九里目)。

馬の水飲み場手前の大きな門は今晩の宿“ 岩辺郷右衛門本陣 ”。

馬の水飲み場と言っても幅が三尺以上、長さ十二間近く有りそうだ。

「十五頭は並んで水が飲めますな」

進藤常吾郎の手控えに屋敷の間口三十三間、奥行き四十間とある。

「本陣が問屋場も兼て居るそうで御座る。岩辺御右衛門(いわなべごうえもん)は八百年続く名家だそうで御座る」

母屋は百七十六坪、四連の蔵と進藤常吾郎が続けた。

文化十二年五月一日(181568日)岡部

由比宿本陣を“ 岩辺郷右衛門本陣 六つ(四時二分頃)に旅立った。

由比川は水量が少なく板橋は架けられていた。

「午の刻(十一時五十一分頃)に府中上伝馬町“ 望月重治右衛門本陣 ”で昼食(ちゅうじき)の約束ですぞ」

進藤常吾郎は叶庸(イエイオン)と先頭で今日の日程の確認をしながら歩いている。

「府中まで六里程ですかな」

「手控えでは六里三町だそうですな」

進藤常吾郎は、叶庸(イエイオン)に接していると兄と話しているような親しみを感じる様だ。

 叶庸(イエイオン)はこの年三十四歳に為った、余姚(ユィヤオ)の屋敷へ入ったのは文化元年(嘉慶九年)の九月で、十一年ほど前に為る。

その時に変名の叶庸助から叶庸(イエイオン)に為った。

藤當英司郎庸東と和名は有っても知る人は少ない。

その庸(イォン)を名にした「平凡との事ですよ」と警護の向郷三郎兵衛にはそのように話しておいた。

四年たち妻を迎えた、陳蓬香(チェンパァンシャン)十八歳は世話に為っていた隣邸(隣屋敷)の婆さんの紹介だ。

嘉慶十四年(文化六年)二月に老大(ラァォダァ)叶東鵬(ヨウドォンパァン)が生まれた。

蓬香には「父親が平凡な東の子で、息子が東の鵬とは気宇壮大で良いだろ」と言って有る。

鵬(ほう)は鯤(こん・クェン)という大魚が化したもの、翼の長さは三千里、一度に九万里も飛ぶと想像を絶する生き物だ。

庸(イォン)には平凡どころか城壁の意味もあると、豊紳殷徳(フェンシェンインデ)が和信(ヘシィン)に話していた。

翌年嘉慶十五年(文化七年)十二月には大女儿(ダァヌーアル)叶佳寶(ヨウジィァパァオ)にも恵まれた。

爾海燕(ゥァールハイイェン)に昨年八月老大(ラァォダァ)和鵬(ヘパァン)が生まれた時は蓬香は手放しで喜んでいた。

由比から二里十二町で興津。

西倉沢一里塚(四十里目)は由比川を渡って六十分程歩くと、西倉沢の茶見世の脇にあった。

薩埵峠では伊豆も富士も雲一つない景観をみせている。

坂を下れば興津川の川会所、横帯二十四文の札が下がっている。

先行した警護の向郷三郎兵衛がありったけの蓮台を集めていた。

「平蓮台四台しかありませぬ。大高欄は出せぬと言います」

半高欄の蓮台は向こう岸に待機中、大名、公家は籠を乗せるので担ぎ手十六人から二十四人の大高欄蓮台を用意させる。

四手位なら割増し付き平蓮台で川越えをする。

平蓮台で渡ると川札四枚(担ぎ手四人分)と台札(川札二枚分)、川札合計が六枚の百四十四文が必要になる。

蓮台は一度に四台十六人の人足が必要だが、警護隊十人は荷を蓮台で人は肩車として川を越えた。

親善使の九人は半高欄蓮台を呼んで手張り付きで渡らせた。

興津一里塚(四十一里目)の付近は休み茶見世が並んでいる。

韮山代官支配地興津宿(しゅく)は東西十町五十五間、西町右手に西本陣手塚十右衛門、脇本陣落合七郎左衛門。

西町左手は脇本陣身延屋七郎左衛門、脇本陣大黒屋多八郎、脇本陣水口(みなぐち)屋半平。

街道沿いの見世に宿屋は虫籠窓(むしこまど)が多い。

寺領と代官支配地の境の傍示杭、清見寺門前町と興津宿は一体で栄えてきた。

興津宿から一里二町で江尻宿。

田子の浦の海岸へ街道が近づいた。

江尻・辻一里塚(四十二里目)は大きな塚が築かれている。

江尻宿東木戸を通り抜けた。

鉤手に折れると翁屋脇本陣・府中屋脇本陣、向い側羽根本陣、二軒置いて大竹屋脇本陣。

その先左手が寺尾本陣、斜め前橋本本陣と本陣三軒に脇本陣三軒が此処に集っている。

北東角に高札場、問屋場とありまた鉤手で街道は西へ向かっている。

巴川に架かった稚児橋は板橋で高欄付きの橋だ、渡ると右橋畔に船高札があった。

左へ入るのは久能道の古道、先は清水湊に通じて居る。

西木戸を抜けた。

追分ようかん ”に着いた、追分道標がある、正面に“ 志ミづ道 ”左に“ 南妙法蓮華経 ”と有る。

朝に頼んであるので向郷三郎兵衛と川原幸三が見世で叶庸(イエイオン)の分を買い入れてくれた。

自分達の分も十本ほど買ったようだ。

久能寺観音道 ”の道標がある“ 安永七年 ”と有った。

草薙一里塚(四十三里目)が有る。

草薙大明神の鳥居が見えた。

街道付近は豊かな立場が続いている。

長沼一里塚(四十四里目)先は松林が続いた。

府中まであと一里と進藤常吾郎が話している。

今日の進藤常吾郎は清国の剣についての質問が多い。

「儂は余姚(ユィヤオ)城の知府様に習いましたが、兄弟弟子には凄腕が多くて太刀打ちできませぬ。国の武進士を目指す人はそれに弓と馬術を人以上に励んでいます、試験科目でない棍はそれでも対等に戦えます。」

「私も無外流の免許は頂きましたが、自鏡流居合の入口でまごまごしており申す」

「昨年、勉強に回った伏見で無外流の人に出会いました。町人姿でしたがある方の護衛だと言って居られました。下条と言うお方に勧められて紀州まで遠回りするそうです」

叶庸(イエイオン)だって剣術の話は嫌いではない、ついついのめり込んでしまった。

富山藩民弥流(たみやりゅう)師範から免許は授かった。

同じ無外流でも道場が違うのか、金四郎や下条の話をしてこなかった。

府中宿東見付に着いた。

駿府城は城代が預かる重要な城だと進藤常吾郎が力説する。

昨年からの城代、高木守富は五千石の大身旗本、城代は御役高五千石、御役料二千石、与力十騎,同心五十人を率いた。

駿府定番も老中支配で、御役高千石・御役料千五百俵。

下伝馬町右手に小倉平左衛門本陣、平尾清三郎脇本陣。

鉤手(曲尺手・かねんて)に問屋場と荷物の検査を行う貫目改所が見える。

上伝馬町右手には望月重治右衛門本陣、松崎権左衛門脇本陣。 

午の刻(十一時五十一分頃)まで叶庸(イエイオン)の時計で二十分は有る。

由比から六里三町の府中宿へ、休憩と興津川の渡しを入れても七時間三十分ほどで着いた。

  望月重治右衛門本陣 ”で昼食(ちゅうじき)の約定だ。

茗荷と梅干しの吸い物

鰹の煮付けに鯵の塩焼き。

人参と三度芋の煮物。

昼にしては豪華だ。

川原幸三は問屋場で馬次をしていてようやく間に合った。

府中一里塚は日本橋から四十五里目だが、街道の付け替えで民家の中に埋もれたという。

本陣から出て鉤手に曲がると四度同じように街道が曲がっている。

川越町の左手は二丁町、西大木戸を抜ければ安倍川村はすぐそこだ。

横帯水四十八文だと人足たちが向郷三郎兵衛へ教えている。

蓮台人足十六人七百六十八文に蓮台四台が百九十二文で警護の荷と土産を運ばせた。

親善使九人は手張りも付けて高欄の蓮台に乗せた。

丸子一里塚(四十六里目)が有る。

宇津ノ谷へ入る小さな小川の先に宇津ノ谷一里塚(四十七里目)がある、前後左右人家が途絶えた辺鄙な場所だ。

峠は幾段にも別れ村には茶屋宿が軒を並べていた。

峠に駿州有度郡、志太郡の境の標石が二本建っている。

街道は川を遡り鉤手に左へ橋を渡ると岡部宿に入る。

岡部一里塚(四十八里目)は行方知れずだという。

「宝暦の分間延絵図には載っているのですが」

「伏見で三十石船を待つ間に聞きましたが、元禄の絵図の引き写しだそうですね」

岡部は本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠屋二十七軒、宿は十三町五十間。

高札場の先は本町、街道右手が仁藤本陣。

街道左手に“ 内野九兵衛本陣 ”、進藤常吾郎の手控えに間口十五間、奥行き二十九間余、建坪百七十四坪、総畳数百二十九畳半とある。

叶庸(イエイオン)は本陣といえど田舎料理と侮っていたが、手の込んだ物が出て喜んでいる。

吸い物の椀には鶏肉の細切りと豆腐のお澄ましに木の芽が浮いている。

甘鯛の干物

林巻大風呂吹大根

浅茅田楽

揚げ豆腐に焼き茄子

太医三人も和国のあっさりした料理に馴れてきている。

最後に本物らしく装った鴫焼が出た。

中は鶏肉だが大きな茄子を刳りぬいて有り、味噌味でなく醤油味だった。

東海道一里塚

 

江戸 日本橋

(東京都中央区)

一里 - 芝、金杉橋

(東京都港区) - 江戸中期にはすでになく、当初からなかった可能性も高い。

二里 - 品川、八ツ山

(東京都品川区) - 江戸中期にはすでになかった。

三里 - 大森

(東京都大田区)

四里 - 六郷

(東京都大田区)

五里 - 市場

(神奈川県横浜市鶴見区)

六里 - 東子安

(神奈川県横浜市神奈川区)

七里 - 神奈川

(神奈川県横浜市神奈川区)

八里 - 保土ヶ谷

(神奈川県横浜市保土ケ谷区)

権太坂(一番坂・二番坂)、焼餅坂、品濃坂。

九里 - 品濃

(神奈川県横浜市戸塚区)

十里 - 戸塚、吉田

(神奈川県横浜市戸塚区)

十一里 - 原宿

(神奈川県横浜市戸塚区)

十二里 - 藤沢、道場坂

(神奈川県藤沢市)

十三里 - 辻堂、四ツ谷

(神奈川県藤沢市)

十四里 - 茅ヶ崎

(神奈川県茅ヶ崎市)

十五里 - 馬入

(神奈川県平塚市)

十六里 - 大磯、化粧坂

(神奈川県中郡大磯町)

十七里 - 国府本郷

(神奈川県中郡大磯町)

十八里 - 押切坂

(神奈川県中郡二宮町)

十九里 - 小八幡

(神奈川県小田原市)

二十里 - 小田原、山王原

(神奈川県小田原市)

二十一里 - 風祭

(神奈川県小田原市)

二十二里 - 湯本茶屋

(神奈川県足柄下郡箱根町)

二十三里 - 畑宿

(神奈川県足柄下郡箱根町)

二十四里 - 葭原久保

(神奈川県足柄下郡箱根町)

二十五里 - なし

・かぶと石

二十六里 - 山中新田、接待茶屋

(静岡県田方郡函南町)

二十七里 - 笹原

(静岡県三島市)

二十八里 - 錦田

(静岡県三島市)

二十九里 - 伏見

(静岡県駿東郡清水町)

三十里 - 沼津、日枝

(静岡県沼津市)

三十一里 - 大諏訪、松永

(静岡県沼津市)

三十二里 - 原、一本松

(静岡県沼津市原)

三十三里 - 沼田新田

(静岡県富士市)

三十四里 - 依田橋

(静岡県富士市)

三十五里 - 本市場

(静岡県富士市)

三十六里 - なし

 

三十七里 - 岩淵

(静岡県富士市)

三十八里 - 蒲原

(静岡県静岡市清水区)

三十九里 - 由比

(静岡県静岡市清水区)

四十里 - 西倉沢

(静岡県静岡市清水区)

四十一里 - 興津

(静岡県静岡市清水区)

四十二里 - 江尻、辻

(静岡県静岡市清水区)

四十三里 - 草薙

(静岡県静岡市清水区)

四十四里 - 長沼

(静岡県静岡市葵区)

四十五里 - 府中

(静岡県静岡市葵区)行方知れず。

東海道絵図-幕府

・延宝期(1673年~1681年)に測量

此遍家のうらに一里塚あるよし・江戸から四十三里・ 京から七十七里 

四十六里 - 丸子

(静岡県静岡市駿河区)

四十七里 - 宇津ノ谷

(静岡県静岡市駿河区)

四十八里 - 岡部

(静岡県藤枝市)

四十九里 - 鬼島

(静岡県藤枝市)

五十里 - 志太

(静岡県藤枝市)

五十一里 - 上青島

(静岡県藤枝市)

五十二里 - 島田

(静岡県島田市)

五十三里 - 金谷

(静岡県島田市)

五十四里-不詳

水あめの茶見世。

五十五里-不詳

 

五十六里- 小夜中山

 

五十七里 - 伊達方

(静岡県掛川市)

五十八里 - 葛川

(静岡県掛川市)

五十九里 - 大池

(静岡県掛川市)

六十里 - 久津部

(静岡県袋井市)

六十一里 - 木原

(静岡県袋井市)

六十二里 - 阿多古山

(静岡県磐田市)

六十三里 - 宮之一色

(静岡県磐田市)

六十四里 - 安間

(静岡県浜松市東区)

六十五里 - 馬込、向宿

(静岡県浜松市中区)

六十六里 - 若林

(静岡県浜松市南区)

六十七里 - 篠原

(静岡県浜松市西区)

六十八里 - 舞坂

(静岡県浜松市西区)

六十九里 - 新居

(静岡県湖西市)

七十里 - 白須賀、元町

(静岡県湖西市)

七十一里 - 細谷、豊橋一里山

(愛知県豊橋市)

七十二里 - 二川

(愛知県豊橋市)

七十三里 - 飯村

(愛知県豊橋市)

七十四里 - 下地

(愛知県豊橋市)

七十五里 - 伊ノ奈

(愛知県豊川市)

七十六里 - 御油

(愛知県豊川市)

七十七里 - 長沢

(愛知県豊川市)

七十八里 - 本宿

(愛知県岡崎市)

七十九里 - 藤川

(愛知県岡崎市)

八十里 - 大平

(愛知県岡崎市)

八十一里 - なし

(岡崎宿内 ?)

八十二里 - 矢作

(愛知県岡崎市)

八十三里 - 尾崎

(愛知県安城市)

八十四里 - 来迎寺

(愛知県知立市)

八十五里 - 一ツ木、刈谷一里山

(愛知県刈谷市)

八十六里 - 阿野

(愛知県豊明市)

八十七里 - 有松、鎌研橋

(愛知県名古屋市緑区)

八十八里 - 笠寺

(愛知県名古屋市南区)

八十九里 - 伝馬町

(愛知県名古屋市熱田区)

九十里 - なし

(海上七里)

九十一里 - なし

(海上七里)

九十二里 - なし

(海上七里)

九十三里 - なし

(海上七里)

九十四里 - なし

(海上七里)

九十五里 - なし

(海上七里)

九十六里 - なし

(海上七里)

九十七里 - 縄生

(三重県三重郡朝日町縄生)

九十八里 - 富田

(三重県四日市市)

九十九里 - 三ツ谷

(三重県四日市市)

百里 - 日永

(三重県四日市市)

百一里 - 采女

(三重県四日市市)

百二里 - 石薬師

(三重県鈴鹿市)

百三里 - 中冨田

(三重県鈴鹿市中)

百四里 - 和田

(三重県亀山市)

百五里 - 野村

(三重県亀山市)

百六里 -

(三重県亀山市)

百七里 - 坂下一ノ瀬

(三重県亀山市)

百八里 - 元坂下、荒井谷

(三重県亀山市)

百九里 - 山中

(滋賀県甲賀市)

百十里 - 土山

(滋賀県甲賀市)

百十一里 - 市場

(滋賀県甲賀市)

百十二里 - 今在家

(滋賀県甲賀市)

百十三里 - 林口

(滋賀県甲賀市)

百十四里 -

(滋賀県甲賀市)

百十五里 - 夏見

(滋賀県湖南市)

百十六里 - 石部

(滋賀県湖南市)

百十七里 - 六地蔵

(滋賀県栗東市)

百十八里 - 目川

(滋賀県栗東市)

百十九里 - 野路

(滋賀県草津市)

百二十里 - 月輪池大萱

(滋賀県大津市)

百二十一里 - 粟津

(滋賀県大津市)

百二十二里 - 石場

(滋賀県大津市)

百二十三里 - 走井

(滋賀県大津市)

百二十四里 - 御陵

(京都府京都市山科区)

京(みやこ)三条大橋

(京都府京都市中京区)

 

東海道

・菱川師宣 東海道分間之図 元禄三年(1690年)

・桑楊   東海道分間絵図 宝暦二年(1752年)

・幕府   宿村大概帳   天保十四年(1843年)

(東海道分間延絵図・文化三年1806年・相違分のみ)

一番

日本橋

品川

二里

二里

二里

二里

二里

二里

二番

品川

川崎

二里十八町

二里十八丁

二里十八町

四里十八町

四里十八丁

四里十八町

三番

川崎

神奈川

二里十八町

二里十八丁

二里十八町

七里

七里

七里

四番

神奈川

新町

(程土ヶ谷)

一里九町

一里九丁

一里九町

八里九町

八里九丁

八里九町

五番

新町

(程土ヶ谷)

戸塚

二里九町

二里九丁

二里九町

十里十八町

十里十八丁

十里十八町

六番

戸塚

藤澤

二里

一里三十町

二里

十二里十八町

十二里十二町

十二里十八町

七番

藤澤

平塚

三里

三里十八丁

三里十八町

十五里十八町

十五里三十丁

十六里

八番

平塚

大磯

二十町

二十六丁

二十七町

十六里二町

十六里二十丁

十六里二十七町

九番

大磯

小田原

四里

四里

四里

二十里二町

二十里二十丁

二十里二十七町

十番

小田原

箱根

四里

四里八丁

四里八町

二十四里二町

二十四里二十八丁

二十四里三十五町

十一番

箱根

三嶋

三里二十八町

三里二十八丁

三里二十八町

二十七里三十町

二十七里二十丁

二十八里二十七町

十二番

三嶋

沼津

一里十八町

一里十八丁

一里十八町

二十九里十二町

二十九里二丁

三十里九町

十三番

沼津

一里十八町

一里十八丁

一里十八町

三十里三十町

三十里二十丁

三十一里二十七町

十四番

吉原

二里十八町

三里六丁

三里二十二間

三十三里十二町

三十三里二十六丁

三十四里二十七町二十二間

十五番

吉原

蒲原

三里

二里三十丁

二里三十町二十三間

(二里三十二町二十二間)

三十六里十二町

三十七里二十丁

三十七里二十一町四十五間

十六番

蒲原

由比

一里

三十丁

一里

三十七里十二町

三十八里十四丁

三十八里二十一町四十五間

十七番

由比

興津

二里

二里十八丁

二里十二町

三十九里十二町

三十九里三十二丁

四十里三十三町四十五間

十八番

興津

江尻

一里二町

一里九丁

一里二町

四十里十四町

四十一里五丁

四十一里三十五町四十五間

十九番

江尻

府中

二里二十町

二里二十七丁

二里二十五町

四十二里三十四町

四十三里三十二丁

四十四里三十四町四十五間

二十番

府中

丸子

一里十八町

一里十八丁

一里十六町

四十四里十六町

四十五里十四丁

四十六里四町四十五間

二十一番

丸子

岡部

二里

二里

二里

四十六里十六町

四十七里十四丁

四十八里四町四十五間

二十二番

岡部

藤枝

一里二十六町

一里二十九丁

一里二十六町

四十八里六町

四十九里七丁

四十九里三十町四十五間

二十三番

藤枝

嶋田

二里

二里九丁

二里八町

五十里六町

五十一里十六丁

五十二里二町四十五間

二十四番

嶋田

金谷

一里

一里

一里

五十一里六町

五十二里十六丁

五十三里二町四十五間

二十五番

金谷

日坂

一里二十四町

一里二十九丁

一里二十四町

五十二里三十町

五十四里九丁

五十四里二十六町四十五間

二十六番

日坂

掛川

一里二十九町

一里二十九丁

一里二十九町

五十四里二十三町

五十六里二丁

五十六里十九町四十五間

二十七番

掛川

袋井

二里十六町

二里十六丁

二里十六町

五十七里三町

五十八里十八丁

五十八里三十五町四十五間

二十八番

袋井

見附

一里十八町

一里十八丁

一里十八町

五十八里二十一町

六十里

六十里十七町四十五間

二十九番

見附

浜松

三里七町

四里八丁

四里七町

六十一里二十八町

六十四里八丁

六十四里二十四町四十五間

三十番

浜松

舞坂

二里十町

二里二十八丁

二里二十八町

(二里三十町)

六十四里二町

六十七里

六十七里十六町四十五間

三十一番

舞坂

荒井(新居)

二十三町

一里十八丁

一里十八町

六十四里二十五町

六十八里十八丁

六十八里三十四町四十五間

三十二番

荒井(新居)

白須賀

一里十町

一里二十六丁

一里二十四町

六十五里三十五町

七十里八丁

七十里二十二町四十五間

三十三番

白須賀

二川

二里六町

一里十八丁

一里十七町

六十八里五町

七十一里二十六丁

七十二里三町四十五間

三十四番

二川

吉田

一里二十二町

一里十八丁

一里二十町

六十九里二十七町

七十三里八丁

七十三里二十三町四十五間

三十五番

吉田

五井(御油)

二里二十二町

二里二十二丁

二里二十二町

七十二里十三町

七十四里三十丁

七十六里九町四十五間

三十六番

五井(御油)

赤坂

十六町

十六丁

十六町

七十二里二十九町

七十五里十丁

七十六里二十五町四十五間

三十七番

赤坂

藤川

二里九町

二里九丁

二里九町

七十五里三町

七十七里十九丁

七十八里三十四町四十五間

三十八番

藤川

岡崎

一里七町

一里十八丁

一里二十五町

七十八里十町

七十九里一丁

八十里二十三町四十五間

三十九番

岡崎

池鯉鮒

三里

三里二十丁

三里二十九町二十二間

八十一里十町

八十二里二十一丁

八十四里十七町七間

四十番

池鯉鮒

鳴海

二里二十八町

二里三十丁

二里三十町

八十四里二町

八十六里十五丁

八十七里十一町七間

四十一番

鳴海

宮(熱田)

一里十八町

一里二十六丁

一里二十四町

八十五里二十町

八十八里五丁

八十八里三十五町七間

四十二番

宮(熱田)

桑名(七里渡)

七里

七里

七里

九十二里二十町

九十五里五丁

九十五里三十五町七間

四十三番

桑名(七里渡)

四日市

三里八町

三里八丁

三里八町

九十五里二十八町

九十八里十三丁

九十九里七町七間

四十四番

四日市

石薬師

二里二十五町

二里二十七丁

二里二十七町

九十八里十七町

百里四丁

百一里三十四町七間

四十五番

石薬師

庄野

二十五町

二十七丁

二十五町

九十九里六町

百里三十一丁

百二里二十三町七間

四十六番

庄野

亀山

二里

二里

二里

百一里六町

百二里三十丁

百四里二十三町七間

四十七番

亀山

一里十八町

一里十八丁

一里十八町

百二里二十四町

百四里十二丁

百六里五町七間

四十八番

坂の下(坂下)

一里二十四町

一里十八丁

一里二十四町

百四里十二町

百五里三十丁

百七里二十九町七間

四十九番

坂の下(坂下)

土山

二里十八町

二里十八丁

二里十八町

百六里三十町

百八里十二丁

百十里十一町七間

五十番

土山

水口

二里二十五町

二里三十二丁

二里二十五町

百九里十九町

百十一里八丁

百十三里七間

五十一番

水口

石部

三里二十六町

三里二十七丁

三里十八町

百十三里九町

百十四里三十五丁

百十六里十八町七間

五十二番

石部

草津

三里

二里二十五丁

二里三十五町五十四間

百十六里九町

百十七里二十四丁

百十九里十八町一間

五十三番

草津

大津

三里二十四町

三里三十丁

三里二十四町

百十九里三十三町

百二十一里十八丁

百二十三里六町一間

上がり

大津

京(三条大橋)

三里

三里

三里

百二十二里三十三町

百二十四里十八丁

百二十六里六町一間

 

・菱川師宣 東海道分間之図 元禄三年(1690年) 百二十二里三十三町・481.83km

 

・桑楊   東海道分間絵図 宝暦二年(1752年) 百二十四里十八丁・488.04km

 

・幕府   宿村大概帳   天保十四年(1843年) 百二十六里六町一間・494.59km

(東海道分間延絵図・文化三年1806年・相違分のみ  プラス一里三十五町)

 

一里3.92km3.92727273km

一里=三十六丁(町)・一丁=六十間・一丁=109

 

東海道五十七次 日本橋(江戸)~高麗橋(大坂)百三十九里四町一間 530.6km

伏見街道

伏見宿

三里

三里

五十三番

草津

大津

三里

百二十三里六町一間

五十四番

大津

伏見宿

四里八町

百二十七里十四町一間

五十五番

伏見宿

一里十四町

百二十八里二十八町一間

五十六番

枚方

三里十二町

百三十二里四町一間

五十七番

枚方

守口

三里

百三十五里四町一間

上がり

守口

高麗橋(大坂)

四里

百三十九里四町一間

 

 

 第九十五回-和信伝-拾肆 ・ 2026-01-30 

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記