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文化十二年五月一日(1815年6月8日)岡部
由比宿本陣を“ 岩辺郷右衛門本陣 ” 六つ(四時二分頃)に旅立った。
由比川は水量が少なく板橋は架けられていた。
「午の刻(十一時五十一分頃)に府中上伝馬町“ 望月重治右衛門本陣 ”で昼食(ちゅうじき)の約束ですぞ」
進藤常吾郎は叶庸(イエイオン)と先頭で今日の日程の確認をしながら歩いている。
「府中まで六里程ですかな」
「手控えでは六里三町だそうですな」
進藤常吾郎は、叶庸(イエイオン)に接していると兄と話しているような親しみを感じる様だ。
叶庸(イエイオン)はこの年三十四歳に為った、余姚(ユィヤオ)の屋敷へ入ったのは文化元年(嘉慶九年)の九月で、十一年ほど前に為る。
その時に変名の叶庸助から叶庸(イエイオン)に為った。
藤當英司郎庸東と和名は有っても知る人は少ない。
その庸(イォン)を名にした「平凡との事ですよ」と警護の向郷三郎兵衛にはそのように話しておいた。
四年たち妻を迎えた、陳蓬香(チェンパァンシャン)十八歳は世話に為っていた隣邸(隣屋敷)の婆さんの紹介だ。
嘉慶十四年(文化六年)二月に老大(ラァォダァ)叶東鵬(ヨウドォンパァン)が生まれた。
蓬香には「父親が平凡な東の子で、息子が東の鵬とは気宇壮大で良いだろ」と言って有る。
鵬(ほう)は鯤(こん・クェン)という大魚が化したもの、翼の長さは三千里、一度に九万里も飛ぶと想像を絶する生き物だ。
庸(イォン)には平凡どころか城壁の意味もあると、豊紳殷徳(フェンシェンインデ)が和信(ヘシィン)に話していた。
翌年嘉慶十五年(文化七年)十二月には大女儿(ダァヌーアル)叶佳寶(ヨウジィァパァオ)にも恵まれた。
爾海燕(ゥァールハイイェン)に昨年八月老大(ラァォダァ)和鵬(ヘパァン)が生まれた時は蓬香は手放しで喜んでいた。
由比から二里十二町で興津。
西倉沢一里塚(四十里目)は由比川を渡って六十分程歩くと、西倉沢の茶見世の脇にあった。
薩埵峠では伊豆も富士も雲一つない景観をみせている。
坂を下れば興津川の川会所、横帯二十四文の札が下がっている。
先行した警護の向郷三郎兵衛がありったけの蓮台を集めていた。
「平蓮台四台しかありませぬ。大高欄は出せぬと言います」
半高欄の蓮台は向こう岸に待機中、大名、公家は籠を乗せるので担ぎ手十六人から二十四人の大高欄蓮台を用意させる。
四手位なら割増し付き平蓮台で川越えをする。
平蓮台で渡ると川札四枚(担ぎ手四人分)と台札(川札二枚分)、川札合計が六枚の百四十四文が必要になる。
蓮台は一度に四台十六人の人足が必要だが、警護隊十人は荷を蓮台で人は肩車として川を越えた。
親善使の九人は半高欄蓮台を呼んで手張り付きで渡らせた。
興津一里塚(四十一里目)の付近は休み茶見世が並んでいる。
韮山代官支配地興津宿(しゅく)は東西十町五十五間、西町右手に西本陣手塚十右衛門、脇本陣落合七郎左衛門。
西町左手は脇本陣身延屋七郎左衛門、脇本陣大黒屋多八郎、脇本陣水口(みなぐち)屋半平。
街道沿いの見世に宿屋は虫籠窓(むしこまど)が多い。
寺領と代官支配地の境の傍示杭、清見寺門前町と興津宿は一体で栄えてきた。
興津宿から一里二町で江尻宿。
田子の浦の海岸へ街道が近づいた。
江尻・辻一里塚(四十二里目)は大きな塚が築かれている。
江尻宿東木戸を通り抜けた。
鉤手に折れると翁屋脇本陣・府中屋脇本陣、向い側羽根本陣、二軒置いて大竹屋脇本陣。
その先左手が寺尾本陣、斜め前橋本本陣と本陣三軒に脇本陣三軒が此処に集っている。
北東角に高札場、問屋場とありまた鉤手で街道は西へ向かっている。
巴川に架かった稚児橋は板橋で高欄付きの橋だ、渡ると右橋畔に船高札があった。
左へ入るのは久能道の古道、先は清水湊に通じて居る。
西木戸を抜けた。
“ 追分ようかん ”に着いた、追分道標がある、正面に“ 志ミづ道 ”左に“ 南妙法蓮華経 ”と有る。
朝に頼んであるので向郷三郎兵衛と川原幸三が見世で叶庸(イエイオン)の分を買い入れてくれた。
自分達の分も十本ほど買ったようだ。
“ 久能寺観音道 ”の道標がある“ 安永七年 ”と有った。
草薙一里塚(四十三里目)が有る。
草薙大明神の鳥居が見えた。
街道付近は豊かな立場が続いている。
長沼一里塚(四十四里目)先は松林が続いた。
府中まであと一里と進藤常吾郎が話している。
今日の進藤常吾郎は清国の剣についての質問が多い。
「儂は余姚(ユィヤオ)城の知府様に習いましたが、兄弟弟子には凄腕が多くて太刀打ちできませぬ。国の武進士を目指す人はそれに弓と馬術を人以上に励んでいます、試験科目でない棍はそれでも対等に戦えます。」
「私も無外流の免許は頂きましたが、自鏡流居合の入口でまごまごしており申す」
「昨年、勉強に回った伏見で無外流の人に出会いました。町人姿でしたがある方の護衛だと言って居られました。下条と言うお方に勧められて紀州まで遠回りするそうです」
叶庸(イエイオン)だって剣術の話は嫌いではない、ついついのめり込んでしまった。
富山藩民弥流(たみやりゅう)師範から免許は授かった。
同じ無外流でも道場が違うのか、金四郎や下条の話をしてこなかった。
府中宿東見付に着いた。
駿府城は城代が預かる重要な城だと進藤常吾郎が力説する。
昨年からの城代、高木守富は五千石の大身旗本、城代は御役高五千石、御役料二千石、与力十騎,同心五十人を率いた。
駿府定番も老中支配で、御役高千石・御役料千五百俵。
下伝馬町右手に小倉平左衛門本陣、平尾清三郎脇本陣。
鉤手(曲尺手・かねんて)に問屋場と荷物の検査を行う貫目改所が見える。
上伝馬町右手には望月重治右衛門本陣、松崎権左衛門脇本陣。
午の刻(十一時五十一分頃)まで叶庸(イエイオン)の時計で二十分は有る。
由比から六里三町の府中宿へ、休憩と興津川の渡しを入れても七時間三十分ほどで着いた。
“ 望月重治右衛門本陣 ”で昼食(ちゅうじき)の約定だ。
茗荷と梅干しの吸い物
鰹の煮付けに鯵の塩焼き。
人参と三度芋の煮物。
昼にしては豪華だ。
川原幸三は問屋場で馬次をしていてようやく間に合った。
府中一里塚は日本橋から四十五里目だが、街道の付け替えで民家の中に埋もれたという。
本陣から出て鉤手に曲がると四度同じように街道が曲がっている。
川越町の左手は二丁町、西大木戸を抜ければ安倍川村はすぐそこだ。
横帯水四十八文だと人足たちが向郷三郎兵衛へ教えている。
蓮台人足十六人七百六十八文に蓮台四台が百九十二文で警護の荷と土産を運ばせた。
親善使九人は手張りも付けて高欄の蓮台に乗せた。
丸子一里塚(四十六里目)が有る。
宇津ノ谷へ入る小さな小川の先に宇津ノ谷一里塚(四十七里目)がある、前後左右人家が途絶えた辺鄙な場所だ。
峠は幾段にも別れ村には茶屋宿が軒を並べていた。
峠に駿州有度郡、志太郡の境の標石が二本建っている。
街道は川を遡り鉤手に左へ橋を渡ると岡部宿に入る。
岡部一里塚(四十八里目)は行方知れずだという。
「宝暦の分間延絵図には載っているのですが」
「伏見で三十石船を待つ間に聞きましたが、元禄の絵図の引き写しだそうですね」
岡部は本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠屋二十七軒、宿は十三町五十間。
高札場の先は本町、街道右手が仁藤本陣。
街道左手に“ 内野九兵衛本陣 ”、進藤常吾郎の手控えに間口十五間、奥行き二十九間余、建坪百七十四坪、総畳数百二十九畳半とある。
叶庸(イエイオン)は本陣といえど田舎料理と侮っていたが、手の込んだ物が出て喜んでいる。
吸い物の椀には鶏肉の細切りと豆腐のお澄ましに木の芽が浮いている。
甘鯛の干物
林巻大風呂吹大根
浅茅田楽
揚げ豆腐に焼き茄子
太医三人も和国のあっさりした料理に馴れてきている。
最後に本物らしく装った鴫焼が出た。
中は鶏肉だが大きな茄子を刳りぬいて有り、味噌味でなく醤油味だった。
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