第伍部-和信伝-伍拾捌

第八十九回-和信伝-拾捌

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

高津屋名右衛門本陣

文化十一年九月十三日(18141025日)・小布施~須坂

高津屋名右衛門本陣 ”で朝の六つに食事をとった。

須坂までの乗懸(のりかけ)二頭が来て荷を振り別けて五つに須坂へ向かった。

二頭分百八十文は昨日の内に支払って有る。

枡一に未雨(みゆう)は「預かって来た手紙を渡して参ります」というので後を追いかけることになった。

枡一の先右手に祥雲寺、玄徳寺、左へ街道が曲がり諏訪社が有る。

小河原村へ出れば松川の渡し、此処は徒歩渡しで膝下六文、荷駄はそのまま越している。

相森新田と書いて「おおもりしんでん」と馬方が大野に教えている。

堰の水路には水が無かった。

八木沢川の板橋を越えれば須坂宿(しゅく)の入口春木町と中町境の四辻へ出る。

木戸柵の向こうに番屋が見えた。

谷街道は此処で右へ行けば八幡村、大野は「駄賃の上乗せだ」と百文の緡(さし)を二人に渡した。

登り坂を先へ進むと大笹街道の一つ仁礼へ向かう道、左手に須坂陣屋大手口。

寿泉院参道先が小山村穀町一町先左手に“ 田中新五右衛門本陣 ”。

此処は宝暦より須坂穀町と称して良いとお許しの出たほどの繁盛地。

大笹街道は福嶋宿から仁礼宿へが本道で、脇道の須坂経由は善光寺平の米、生糸、菜種、綿花、煙草などの集散地であった。

小布施から一里十三町余。

奥州白河藩本川次郎太夫様御宿 ”の宿札が立てかけてある。

部屋に落ち着き宿帳を大野が書いた。

四つの鐘が近くに聞こえる。

「味噌の蔵元塩屋を訊ねたいが場所を教えてくれ」

「ご案内申し上げましょう」

「頼む、千十郎、伊勢屋供をせい」

番頭が「中町の辻迄十一町程、右手草津道へ一町で陣屋様への道へ入れば一町ほどで御座います」という。

言葉では楽そうでも案内するとはくねった道の様だ。

「ここらは中町で左手は西糀屋様で御座います」

∧に七の染め抜きが目立っている。

木戸を抜けると右手へ「こちらが草津道で御座います」と先を示した。

右手の細道は二間ほどだろうか緩やか上りに為って二十五間ほど先を左へ導いた。

味噌蔵“ 塩屋清右衛門 ”の見世は連子窓も黒光りしていた。

次郎丸は南鐐二朱銀四枚を包んでおいたので「こいつは案内料と言うほかに料理人女中にも配ってくれ。大野から出たらそれも遠慮なく受け取るんだぜ」と手を引き寄せて受け取らせた。

番頭が礼を言う間もなく見世の暖簾をくぐった。

未雨(みゆう)が「江戸の伊勢屋で御座います。酒井屋の本間様から書状を預かってまいりました。御主人在宅ならお目に掛かってお渡しを」と下手に出ている。

五十近くに見えるふくよかな顔の男が「清右衛門で御座います」と暖簾の奥から出てきた。

「清右衛門様、酒井屋本間光林様の書状で御座います」

一読して「味噌蔵、醤油蔵を増やすように猪四郎様は書いて参りましたが」と未雨(みゆう)に相談するように訊ねた。

次郎丸を振り返るので「儂は定栄(さだよし)と申し、猪四郎とも昔なじみだが、どうやら松代で後押ししろとでも言っておるようだ。良いものを造る腕が有るなら後押しいたそう」と話しかけた。

「一蔵増やすのに五十両見なければなりませぬ、三年は待っていただかなければ」

「未雨(みゆう)、三人の荷は手つかずか」

「全部ありますぜ」

「七十五両、本日用意できる」

指印をみせ「“ 流行りものには目がない ”若造だが猪四郎の面子は守ろう」と言うと出てきた若者と平伏してしまった。

指印も震えがちに「“ 駆け出しでございます ”」と答えた。

「金は都合がついても戻さずに貯めておくように。結の目的の一つが衆生救済でもある」

取に御出でと言うと「どちらまで」という。

「本陣に奥州白河藩本川次郎太夫の名で泊まっている、松代の義父上に為られる方へ呼ばれての旅の途中だ。受け取りは無用だ」

八つの鐘が聞こえ、店を後に若主人に番頭と下男が付いて同道した。

未雨(みゆう)が大野に訳を話すと三人の荷から切り餅を三個取り出してきた。

「大事に使いなされ。若に見込まれたなら、江戸の本間の後押しも得られる」

未雨(みゆう)に見送られ本陣を後にする三人の背が喜びに溢れていた。

「さて三人に持たせた金も半分に為ったか」

切り餅一分金百枚二十五両、八十七匁五分は歩き旅では肩にこたえる重さだ。

大野が八ッ橋を二箱出してお茶にした。

「江戸へは送らなかったのか」

「未雨(みゆう)と相談して、松代へ挨拶代わりに十箱、残りは御茶請けにしました」

その未雨(みゆう)は本陣の主左治馬信厚事田中新十郎信厚と猪四郎の書状を挟んで面談していた。

家業を継いで二十八年目、須坂の堀家にがっしりと食い込んでいる。

「御用金ではなく顔つなぎと有りますが」

「江戸へ出る支度をしていると聞いて居られるそうで」

「未だ部屋住みのお方にお力でも」

「将来を見る力のあるお方で御座いますよ」

「今が背一杯の状況でお力添えは無理かと」

「その様に本間様の文をお取りでは仕方御座いませぬ。通り一片の泊り客とお思い下され」

新之丞の使いも予約だけで特別の扱いも頼んではいない様だ。

田中新五右衛門本陣

文化十一年九月十四日(18141026日)・須坂~松代

田中新五右衛門本陣 ”を明け六つに旅立った。

春木町四辻を谷街道松代道へ進んだ、百々川(ドドカワ)の上流は殆ど水が無かった。

井上村は大笹街道仁礼宿との追分が有る。

追分を右手、千曲川に向かって下った。

百々川(ドドカワ)の支流が有るがここも砂利が濡れる程度の水量だった。

街道は天領、須坂藩領が入り乱れている、穀町から須坂藩領綿内迄一里二十九町余。

保科川の木橋を越せば川田宿、綿内村から十三町余。

埴科郡に入ると松代藩領、鳥打峠を越えると東寺尾村、蛭川の土橋先左手に福徳寺参道、右手の参道は満法寺。

鉤手(曲尺手・かねんて)手前左に長明寺参道。

次の角手前に木戸が有る。

先が荒神町で右手に荒神堂、中町木戸から千十郎は帰国報告に城内御用部屋へ向かった。

供に介重が荷を持って続いた。

鉤手(曲尺手・かねんて)左に大きな屋敷門「此処が儂の屋敷だ先に御用部屋へ行くぞ」と前を通り抜けた。

大御門から入り三之丸を通り、中御門から花の丸へ入った。

御用部屋で到着の報告を出し、定栄(さだよし)様無事到着を告げた。

月番の家老鎌原重賢はすぐさま藩主幸専(ゆきたか)へ報告し、明日四つ二人で花の丸へ出るようにとの託(ことづけ)を持ち帰った。

伊勢町“ 阿波屋五左衛門 ”は本陣同様の旅籠だった。

一度落ち着いてから次郎丸は未雨(みゆう)と八田嘉右衛門の出店菊屋伝兵衛の“ 菊屋 通称“ 角喜 ”へ出向いた。

呼ばれてきた四代嘉右衛門は四十五歳、精力的な顔の男だ。

屋敷の方へ迎え入れて辰三郎も呼ばれた。

「お申しつけの二千両、ご用意は致しましたが稲荷山“ 松林 ”は何も申してまいりませぬ」

「儂が松代を離れたら話は最初からやり直し、金は必要分を結が用意する事で良い」

未雨(みゆう)が二人へ二箱ずつの八ツ橋を「善光寺土産です」と渡した。

宿へ戻ると大野が上機嫌だ。

「どうした」

「例の夫婦ものが上田の手配が済んで次は上田で連絡と言ってきました」

九月十五日・松代

九月十六日・松代

九月十七日・松代~上田

九月十八日・上田~沓掛

九月十九日・沓掛~板鼻

九月二十日・板鼻~伊香保

「伊香保がこれなら三日とれそうだ」

「そのつもりで頼んで於きました」

千十郎と介重は矢澤家で一休みし、伊勢町“ 阿波屋五左衛門 ”へ来たのは八つの捨て鐘が聞えて来た時だ。

真近の鐘楼の鐘は気になるほどでもない。

夜の食事は一汁三菜。

新之丞の使いは特に食事に注文を附けていないようだ。

汁椀-豆腐にしめじ茸の吸い物

-塩鮭の焼き物

-里芋と芋茎(ずいき)の煮物

-湯豆腐

小皿-茗荷と菜の糠漬け

「豆腐が旨い。江戸でも此処までのは何軒もない」

「竹山同心丁の豆腐屋から取り寄せました。頼めば豆腐料理も引き受けます」

「日替わりで誂えて欲しい」

若さん本当に豆腐好きですねとお芳に笑われた。

阿波屋五左衛門

文化十一年九月十五日(18141027日)・松代

阿波屋五左衛門 ”の朝飯は一汁二菜。

汁は蜆味噌汁

平に焼き豆腐田楽

皿にあまごの塩焼き

小皿は菜の湯掻き

「蜆は近くで手に入るのかな」

「岡谷からきましただに」

蜆に鰻、川海老、岡谷からは活きたまま人の背に揺られてくるという。

四日かけても採算が取れるのだと次郎丸は驚きを隠せない。

五つ前に普段着で千十郎と介重に荷を持たせて出た。

矢澤家で着替え、介重は宿へ戻らせた。

「手土産が八ッ橋三箱に湯の花でいいのですか」

フフッと笑う声で「まぁ、高価な物を贈られても殿も困りますな」と得心した。

差料は一竿子忠綱二尺四寸、脇差にこの旅の前に買い入れた無銘一竿子忠綱と言われる一尺七寸八分半。

お気に入りの脇差藤原行光一尺七寸九分は監物に譲った。

大御門から入り、三日月堀に沿って進んで中御門で花の丸へ入った。

門脇に案内の磯田音門が待受け、式台を上がると御小姓が二人の佩刀を受け取り、後ろに従い奥へ入った。

九扈亭(きゅうこてい)へ鎌原重賢が先にたって案内した。

幸専(ゆきたか)は重臣たちと待ち受けていて次郎丸の挨拶を受けた。

「手土産で御座りまする。草津の湯で求めた湯の花に、善光寺で買い受けた京菓子で御座います」

御小姓が湯の花の使い方の書付も受け取り、御前で披露した。

一渡り茶が給されて饅頭が置かれた。

重臣の中から「定栄(さだよし)様は剣の奥義を窮めたと聞き申したが」の声がする。

真田一族の一人の様だ。

「我は十四の時、小野派一刀流練塀小路中西子正先生よりお情けの免許を頂きましが、諸先輩に立ち向かうと足が震える未熟者で御座います」

忍び笑いが漏れている。

「一学がほめて居ったが腕は見届けては居らぬという。披露せぬか」

幸専(ゆきたか)にいわれ「さて立ち会いともなれば双方の面目を掛けることに為り申す。青竹での居合の型で宜しければご披露申し上げる」と据物斬りの一手で逃げを打った。

作事方が一間六本の青竹を用意してきた。

千十郎は他へ聞こえぬように「試し切りにしては太う(ふとう)ござる」と耳元でささやいた。

「細いほうが撓って切りにくい。剣術に疎いかたの策か、もしくはお助けの方か」

脇差の方を受け取り、足袋裸足で庭先へ降りた。

作事方に六角に並べさせ中心に立つと一礼し、顔を上げた時には幸専(ゆきたか)にも鍔鳴りの音が小さく聴こえた気がした。

青竹は三本が斜めに切られている。

「見えたか」

「体が一回転されました」

「刀身が光りました」

「ただ立ち上がったかのように見え申した」

三本だけではないかとの声がする。

「なぜ前三本にしたのだ。六角に置いた意味が解らぬ」

家臣の中から「山寺久敬申し上げます。剣は前方の相手との戦いのための武器であり、後方の敵に気をとられては為らぬと聞き及びまする。わざわざ後ろへも置かせたのやと」助け舟が出てきた。

「猪武者よとな」

足袋を脱ぎ懐へ仕舞うと脇差をお小姓に預け、座敷へ戻った。

次郎丸は「六本一時に切れるほどの腕が有り申さぬ。ご助言有りがたし」と一礼した。

話しの流れが馬術に為り馬場へ移動した。

小山田采女が引きだした馬は見事な黒鹿毛で手入れも良く、百二十間ほど先で馬場を折り返す腕も見事だった。

恩田靭負も自慢の鹿毛を披露した。

馬見所で次郎丸へ「そちは乗馬を習ろうたか」と幸専(ゆきたか)にいわれた。

「藩の大坪流の手ほどきで歩ませるくらいで、流鏑馬は出来ませぬ」

馬奉行三家の名が告げられ馬場へ出てきた。

竹村大蔵族宣殿、竹村権左衛門安休殿、中村七十郎殿と告げられた順に大坪流に従って妙技を披露した。

茶室に戻り酒宴となった。

「重陽は終わったがあのようにまだ菊が咲いて居る」

黄菊 ”“ 白菊 ”“ 東菊

三種の酒が出てきた。

「三杯飲まねば帰さぬぞ。禁酒も終りじゃ」

何処かで調べられたようだ、“ 白菊 ”のさわやかな辛口は次郎丸の気に入った。

「何か詩を吟じよ」

いおりを結びて人境にあり しかも車馬の喧しきなし 君に問う何ぞ能くしかり 心遠ければ地おのずからかたより 菊を東籬の下に採り 悠然として南山を見る 山気に日夕に佳く ひちょうあいともに還る この中に真意あり べんぜんと欲してすでに言を忘る

「五柳先生で有るな。良き声である。重賢あと一献干したら中御門まで見送るように頼みおく」

 

飮酒二十首 陶淵明

結廬在人境 而無車馬喧

問君何能爾 心遠地自偏

采菊東籬下 悠然見南山

山氣日夕佳 飛鳥相與還

此中有眞意 欲辨已忘言

 

「定栄(さだよし)殿、来てくれてうれしく思う。発つときにわざわざ挨拶無用じゃ。参府の後会うのが楽しみじゃ」

四杯目を飲まされ御前を去った。

矢澤家へ戻り、着替えを持ってくるよう使いを出してもらった。

弟二人を呼んで今日の花の丸の出来事を話聞かせた。

「居合を学んでは来ませんでしたが、若さんの腕でまだ皆伝には遠いのですか」

「窪田源太夫殿に言わせれば殿様剣術で御座るそうじゃ。太平の世に生き死にを争うより殿様剣術で十分と言われた」

剣術といえ、体力が無ければ後れを取る。

「地力をつけ、日々の鍛練。儂には出来んな。本の虫とは両立は出来ない相談だ」

殿に大殿の進める文武両道の実現は先が長いと話しあった。

財政の余力が無ければ民、百姓の余力も無くなる、財政基盤を整える方策を学び合おうと誓った。

宿の食事は豆腐料理が幾つも用意された。

-松茸

-塩鰤蒸し焼き

高坏-香茸白和え

小皿-唐菜おひたし

雷豆腐

八杯豆腐

浅芽田楽

-埋豆腐

阿波屋五左衛門

文化十一年九月十六日(18141028日)・松代

朝は明け六つに一汁二菜の食事を食べた。

汁は蜆味噌汁

平に南京・氷豆腐煮物

皿にあまごの塩焼き

小皿は菜の湯掻き

六つ半過ぎに一学先生の住む竹山同心丁へ向かった。

松代道を木町で右へ行くと堀の先に紺屋町。

「昔は此の辺り紺屋が多く住み着いていたそうですが。堀が汚れるというので染め物職人は、城下東の肴町や鍛冶町に移っていきました」

「それはどのあたりじゃろう」

「旅籠の裏の通りです」

右手の馬場への木戸前左の道へ入ると竹山丁で、右の横町先が竹山同心丁。

天池院の南が一学先生の道場と屋敷に為る。

道場から木剣の響きがする。

屋敷の玄関で「頼みますぞ」千十郎が声を掛けた。

「どうれ、どなたで御座る」

此の子が四歳の国忠(くにただ)であろうと「拙者奥州白河藩本川次郎太夫で御座る。一学先生にお目通りをお願い仕る」と礼儀を尽くした。

「そちらは」

「拙者奥州白河藩大野玄太夫に御座る」

「拙者信州松代藩矢澤千十郎にて候」

「都合を聞く故、道場前でお待ちあれ」

聴いていると正確に伝えている。

一学先生が迎えに出てこられ「まずは道場へ]と案内した。

「是、国忠、此の大きなお方が将来のお前のお殿様だ。御挨拶を」

「佐久間修理(しゅり)に御座ります。お引き立て願わしぅ存じ上げます」

こりや相手も驚くはずと三人が頷いている。

「将来儂の力の及ぶ限り後押しを約束しよう」

ごゆるりとなされと道場を出て行った。

「先生お久しぶりで御座います」

「昨日は上手く立ち回られたとお聞きし申した」

「二代養子となれば、思わぬ敵も出来るという事で有りましょう」

「御覚悟が出来ましたか」

「殿のように上手く立ち回れるかがまだ不安ですが、先はなごう御座ります」

師範代の谷口弥右衛門という若者が紹介された。

「卜伝流と小野一刀流の違いは何でしょう」

噂は聞いている様だ。

「兜を発ち割る胆力を練るのが卜伝流、相手の切り込みに乗じて先を取るのが私に教えられた一刀流。これがすべてに当てはめるのは無理とおおもいくだされ」

「兜割は業物次第ではないと」

「正宗を持てば名人に為れるわけでもありませぬよ。私の脇差は無銘ながら一竿子忠綱と伝わりますが、昨日の青竹三本で仔細に見れば傷がつき申した。これでは兜は無理と知れます」

しない打ち込みの剣術が盛んになれば、流派を超えた他流試合も解禁されるでしょうとの次郎丸の話しに一学先生も同意した。

「遅まきながら、善光寺土産の京菓子と草津の温泉の元、湯の花で御座る」

大野が草津で買い求めた湯の花の包を渡し、八ッ橋も二箱差し出した。

腰湯で浸かるくらいで六分目ほど、五右衛門風呂程度でひと包だと書付も渡した。

表で訪(おとなう)声がする。

谷口弥右衛門が出ると「拙者江戸より参った出口丈太郎で御座る。ぜひとも佐久間先生にお会い致しご指南を賜りたい」と大音声を上げた。

「先生老年故他流、同流を問わず門人以外とは殿のお許しを得ぬと立ち会えませぬ。どうぞお引き取りを」

道場破りか、本当の修行旅かは見分けが難しい、三人の名乗りが聞こえる。

「練塀小路中西一刀流出口丈太郎。卜伝流佐久間一学殿にご教授賜りたい」

一学が「若さんご存知かな」と聞く。

「覚え御座らんが中西先生の名を言うとは不審、先生ではなく儂が来ているのを承知で来たようだ」

「打ちのめして恐れ入ったと噂を流しますかな」

手も有るので道場へと次郎丸が言って大野にも指図した。

道場へ三人、皆大男で押し出しの良い男たちだ。

「拙者本川次郎太夫、ご貴殿と同じ一刀流で御座るゆえ一手ご指南賜りたい」

出口は〆たという顔だ、それを見て珍しく次郎丸は大太刀を選んだ。

下段付に構えたのを見て出口がぎょっとした顔を見せた。

木刀の先が触れた途端飛びさがって平伏し「参り申した。儂の及ぶところではござらん」とニコリとした。

大野がすかさず「これは修業の路銀になされ」と三宝(三方)に百文の緡(さし)二本と懐紙の上に南鐐二朱銀を乗せて差し出した。

大人しく三宝を受け取り控えていた男に渡した。

胸を張って道場を去る三人を道場の門人は大人しく見守っている、一学先生の躾が行き届いている証(あかし)だ。

「上手く負ける物ですな」

大野の言葉に一学もうなずいている。

「卜伝流の上を行く男たちですな。さて今日は蕎麦をうつで御座るでな。飛び切り辛い大根も買い入れてある」

大野がにっこりした。

「大野は辛味大根にぞっこんだ」

次郎丸の言葉に門人たちに笑いが広がった。

「本川様、打ち合わずに済むと見たのでしょうか」

谷口は其処が気になるようだ。

「一人ならともかく三人なら、金で方が付く連中と見もうしたで御座るよ」

武者修行の三人は天池社の前で話している。

「先生、なぜ打ち込みませんでした。片腕骨でも折らなきゃ金になりませんよ」

普段一撃必殺、確かな技の持ち主なのだろう。

「死ぬかと思った。打ち込めば俺の脳天にあの木刀が落ちて来るかと肝が冷えた」

誰かの差し金なのだろう、昨日の居合で後方の青竹にも水平に浅く筋が刻まれたのは、片づけた作事方の依田木工右衛門と目付横田助右衛門しか知らない。

次郎丸が一回りしたと見た御小姓が正しい目をしていたのだ。

此の三人もそこまでの情報は知らずに来たようだ。

四つの鐘で門人たちが新たに十人ほど遣ってきて、蕎麦の仕度が賑やかに始まった。

庭では竈に大釜が据えられ水を汲みいれている。

手慣れた様子に出てきた修理(しゅり)も笑いが止まらない。

八つの鐘に送られるように伊勢町へ向かった。

阿波屋五左衛門 ”には辰三郎が来て未雨(みゆう)と話が弾んでいる。

「先ほど藤本善右衛門様と保右様が御帰りに為り無事取引の誓約書を交わし、こちらの希望の上物、並み物合わせて年二千疋の契約、松代紬との名称の区分けなど細部まで纏まりました」

前日から相談に松代へ親子で来ていたという。

上田紬と同等に織れるように織子への指導も行い、双方で機屋(はたや)を増やす費用は八田嘉右衛門が十年で千台まで持つとなったという。

「資金は必要なら結へ言うんだぞ、織機だけではないのだからな」

辰三郎へ念を押しておいた。

「稲荷山は来ませんね」

「慎重に下調べでもしているのだろうぜ」

夕飯は今日も豆腐が多めだ。

-巻き湯葉、しめじ茸の吸い物

-塩鰤の焼き物

-里芋と南京の煮物

小皿-大根のはりはり漬け

小竹葉(おざさ)豆腐に振り掛け山椒

飛龍頭(ひりょうず)と蕗の旨煮

女郎花(おみなえし)田楽に胡椒醤油

餡かけ豆腐

「蕗のほろ苦さと、染み出た牛蒡の旨味がたまらんな」

大野と未雨(みゆう)はお代わりが欲しい位だと褒めている。

主が家の料理人と豆腐屋の合作ですと二人を連れてきた。

大野が大層褒め、南鐐二朱銀を懐紙で二つ包んで、二人へ差し出した。

「おと、そんなに美味しいの」

「おめえの年でこいつが旨いと言われちゃこっちが心配だ」

中年男二人は大笑いだ。

「あたいはあんかけ豆腐が温くて旨いよう」

「娘さんえ、それならもう一品試してほしいのでお持ちしてよござんしょうか」

「試してみたいわ」

「そうだ、禁酒も解けたので酒も出してくれ。我らももう一つ二つ食べてみたい」
すぐに御仕度をと主も台所へ向かった。」

「おっ、青海(せいがい)豆腐ではないか。一度しか食したこと無いぞ、よくぞ青のりが手に入った物だ」

葛湯で豆腐を煮、醤油をさし青のりを煎ってもんでふりかける物だ。

「あっちもこいつは旨いもんだと思いますね。葛餡かけもいいがこいつは堪らんね」

お芳は二人に先を越されて膨れている。

餡かけ豆腐を「これで最後ですよ」と出されて上機嫌に為った。

「お武家さま。豆腐百珍はお読みで」

「おお、試してみたいが全部は無理だな。信濃にいて良く青のりが手に入ったな」

「上総物が手に入らねえで作れませんでしたが、おとつい三河湾の“ あおさ が手に入りまして御座います」

阿波屋五左衛門

文化十一年九月十七日(18141029日)・松代~上田

阿波屋五左衛門 明け六つに食事とした。

-豆腐と葱の味噌汁

-塩鮭の焼き物

-厚揚げと小芋のあっさり煮

小皿-大根のはりはり漬け

此の文化十一年に毎月三・七日を市日と定め、三日と十七日が伊勢町、七日と二十三日が中町、十三日と二十七日が荒神町に決まった。

決まったばかりの六月に早くも不成立だった中町の市も、八田一族の後援も功を奏し、活況に為り、伊勢町もそのおかげで盛況だという。

今朝も夜明け前から人だかりが出来ている。

六つ半に軽尻(からじり)二頭に乗懸(のりかけ)二頭が来たというので権太たちが荷の振り別けを指示した。

支度が出来、介重が矢澤家へ先駆けた。

先頭の軽尻(からじり)に千十郎、次に次郎丸が乗り込んだ。

乗懸(のりかけ)は列の最後に阿波屋五左衛門の先導でお辰(おとき)親娘が続いた。

小越町の木橋を渡り、木戸先には矢澤家の腰板張、白壁の塀が有る。

瓦が乗る塀は三十年ほど前からの事だと昨日千十郎の母親から聞かされた。

お城の城門の鯱瓦はそれ以前には無かったという。

右手先の鉤手(曲尺手・かねんて)で左へ行くと、矢澤家の門前には二十人ほどが見送りに出ていた。

許嫁であろうか、着飾った娘が千十郎の母親に寄り添うように立っていた。

その許嫁の二親とその家族も来ていた様だ、来年六月参府の時、女行列に加わるという。

門先を塀に沿って左へ入ると軽輩らしき棒を突いた武士が、三十人以上並んでいる。

千十郎は一人一人にうなずいて通り過ぎた。

後で聞くと預かり同心と言う。

「お役で出ている者を除いて皆が見送って呉れると言われました」

松代道角の木戸を出て右へ向かった。

堀の三間余の石橋先、紺屋町には大勢の武士に町人が出ていて見送って呉れた。

辰三郎に八田嘉右衛門の顔も見えた。

馬場への木戸前には小山田采女他十人ほどが見送りに出ていた。

千十郎と次郎丸は馬を降り一同と別れの挨拶をした。

一学先生と門人たちが紙屋町の橋畔に出ていて、神田川の三間の石橋先で別れの挨拶を交わした。

次郎丸は遠くの人に見えるようにと乗馬を勧められ素直に従った。

松代道(松代通)を矢代まで二里四町余。

この時代の軽尻(からじり)乗懸(のりかけ)規定

馬の背の両側に明荷(あけに)を附け、布団を上にひいて人を乗せた。

その荷を乗懸下(のりかけした)または乗尻(のりじり)とよんだ。

正徳三年(1713年)品川宿では人一人と荷物二十貫目、軽尻の荷物は五貫目、ほかに蒲団・跡付・中敷・小付(こづけ)など一切で、三、四貫目まで、五貫目になれば断わると決めた。

軽尻(からじり)は人一人に荷は五貫目まで、跡付・中付・小付等一式で二、三貫までにすると為った。

この道中記で乗懸(のりかけ)でも荷だけの事があるが、荷軽尻とも云われた。

乗懸の駄賃は本馬(四十貫迄)と同じと規定されている。

東海道-江戸・品川間-二里

本馬・乗懸

軽尻馬

明暦元年(1655年)

四十二文

二十七文

万治元年(1658年)

四十二文

二十七文

寛文二年(1662年)

一里五文増

五十三文

(三十五文)

寛文三年(1663年)

六十四文

四十一文

宝永四年(1707年)

九十四文

六十一文

寛政十一年(1799年)

百十七文

七十三文

文化六年(1809年)

百十七文

七十三文

文政元年(1818年)

百十七文

七十三文

中山道-坂本~碓氷峠~軽井沢・二里三十四町

文化十一年(1714年)

二百八文

百三十九文

天保十四年(1843年)

二百六十五文

百七十四文

中山道-沓掛~追分・一里五町

文化十一年(1714年)

四十八文

三十三文

天保十四年(1843年)

六十一文

四十二文

長沼宿(千曲川沿い)・宝暦十二年(1762年)

長沼宿~善光寺・二里八町

九十二文

六十一文

長沼~神代(北国街道へ)

・一里八町三分

五十三文

三十五文

長沼~福嶋(大笹街道へ)

・一里十八町

七十三文

四十九文

天明六年(1786年)~寛政五年(1793年)「善光寺宿増駄賃書上」

善光寺~丹波島

・一里十三町

・・

四十三文

善光寺~長沼

・二里八町

・・

七十四文

善光寺~戸隠

・四里余

・・

二百四十九文

(元禄時代百五十文)

大笹街道・文化六年(1809年)

仁礼~大笹

・六里十八町

六百六十九文

四百五十三文

この時代駕籠代は本馬・乗懸の二倍程度。

此の文化十一年道中記の公定が不明の分は、宝永四年、乗懸一里四十八文の1.15倍が基本に従い算出している。

峠、悪路は割増しが認められていた。

「若さん、此の先左手の山、妻女山と言いまして、川中島合戦のみぎり上杉謙信どの陣立ての地と伝わり申す」

笹崎坂の下に松代道の一里塚、土口村先に屋代堰、四間ほどの土橋が架かっていてその先が雨宮村。

大野は此処で馬方に一人二百文ずつを配った。

此処にも諏訪明神の社が有る。

北国街道追分先に高札場、本町の脇本陣の柿崎平九郎家先が柿崎源左衛門本陣で問屋場を兼任、ここで馬次となり乗り換えた。

須々岐水神社すぐ先に追分から十四番目矢代一里塚。

寂蒔村の立場で一休みした。

大野は四人の馬方に四文銭八十文括りを配った。

矢代宿から下戸倉宿は一里十八町。

下戸倉宿から坂木宿へ一里十八町。

此処で馬次となり大野は次郎丸、千十郎にお辰(おとき)親娘を全行程馬へ乗せた。

坂木宿から上田海野町は三里六町。

今日は上田まで八里十町余。

九番目生塚一里塚先橋を渡れば北国口の鉤手(曲尺手・かねんて)の木戸で上田宿に入る。

大野は此処でも四人の馬方に四文銭八十文括りを配った。

次郎丸は松代の馬方に見栄を張ったなと面白く思った。

宿は原町“ 春錦堂 ”の“ 井筒屋宋兵衛 ”脇本陣、着いたのは陽が落ちた十六時五十五分、暮れ六つまでもうじきだった。

未雨(みゆう)は遅くまで白雄の弟子たちと付き合った。

井筒屋宋兵衛

文化十一年九月十八日(18141030日)・上田~沓掛

昨晩来た新之丞の使いの夫婦は、板鼻までの旅籠を教え「私どもは此処までで。板鼻に別の者がお知らせに上がります」と告げて去った。

井筒屋宋兵衛 ”を明け六つ(五時三十分頃)に旅立った。

乗懸(のりかけ)二頭に荷を積んで身を軽くして九人は歩きだ。

追分から数えて八番目常田一里塚、七番目は岩下一里塚。

海野宿で馬次して先へ進んだ

六番目田中一里塚先が田中宿、次郎丸の時計で八時四十分。

五番目片羽一里塚の先が片羽村。

西原村を出ると四番目西原一里塚、此の辺りが上田藩と小諸藩の領境。

十尺程度の木橋の先が小諸宿、問屋巴屋で馬次をした。

地幡川に架かる木橋は長さ十六間、橋の向こうに三番目四ツ谷一里塚。

平原村を出ると二番目平原一里塚。

馬瀬口村は間(あい)の宿、休み茶見世で力餅と甘酒を頼んだ。

三ッ谷新田先に北国街道第一番馬瀬口一里塚。

登りの道も緩やかになれば中山道との追分も近い。

「今日は百丈ほども上りが続いたがお芳はまだ歩けるのか」

「大野様、まだ足は一日歩ける余力十分ですよう」

大野は馬方二人に百文の緡(さし)を一本ずつ「駄賃のうわのせだ」と渡している

追分から沓掛まではわずかだが下りになる。

追分宿の問屋・旅籠の土屋庄左衛門で馬次した。

次郎丸の時計は四時近い。

未雨(みゆう)は“ 黄檗ぬのや ”土屋作右衛門旦那へ寄るというので後に為った。

陽が落ちて軒行燈の灯が揺らめくころ“ つるや甚右衛門 ”へ着いた。

「お待ちしてましただに」

おしんは つるや甚右衛門 ”へ戻って居た。

部屋に落ち着き茶を呑んでいると暮れ六つの鐘が聞こえてきた。

つるや甚右衛門

文化十一年九月十九日(18141031日)・沓掛~板鼻

つるや甚右衛門 ”は一汁二菜に少な目ではあるが“ おしんのうどん ”が追加されていた。

明け六つ(五時三十分頃)に軽井沢へ向けて旅立った。

今日も二頭の乗懸(のりかけ)を頼んでの身軽旅だ、此処の乗懸(のりかけ)は五十一文。

馬方に勧められてお辰(おとき)親娘は馬に乗った。

大野が馬方へ「駄賃の上乗せだ」と四文銭五枚括りと二枚で二十八文をそれぞれに配った。

登りに掛かっているはずだが付近の山は高く見えている。

軽井沢で馬次が有り大野は乗懸(のりかけ)二頭に、軽尻(からじり)二頭でお辰(おとき)親娘は軽尻(からじり)の方へ乗せた。

熊野大権現で高札場脇の“ いせや ”で一休みして、本宮を参拝した。

下りでは紀州で教わった滑り止めを一同はして滑らぬ用心をした。

一度下り又上ると山中茶屋、一休みし力餅で腹を宥めた。

大野は百文の緡(さし)と四十文括りを四人の馬方に配っている、軽井沢から坂本はわずか二里二十六町だが峠が二つあるので二百八文乗懸(のりかけ)に掛かる、軽尻(からじり)でも百三十九文だ。

大野がお辰(おとき)親娘に「羽根石の立場迄歩きなさい」と勧めて歩かせた。

刎石茶屋で大野は「甘酒を一同に頼む」と声を掛けた。

遠見番所までくれば坂本宿はすぐ下に在る。

京口木戸門を通り月番の金井本陣問屋場で馬次をした。

乗懸(のりかけ)百二十三文二頭で二百四十六文、軽尻(からじり)七十七文二頭百五十四文の四百文。

大野は帳付けと相談して南鐐二朱銀をだし、四文銭ばらで百枚釣りに出してもらった。

未雨(みゆう)が感心している。

「始末をして駄賃は気前がいい、てえしたもんだ」

両替の手数料を如何に出さずに済むか、大野は考えてきている様だ。

碓氷関所の西門前で馬から降りて身じまいを正した。

安中藩の受け持つ東門を出て、親娘を又馬へ乗せた。

横川村の休み茶見世で一休みした。

力餅とわらび餅の好みを聞いて馬方へも振る舞った。

大野が四文銭十枚括りを四人の馬方に配った。

次郎丸は通りかかる巡礼に四文銭五枚ずつ「ご報謝」と配り出した。

二十組三十六人がわずかの間に通っている。

「若さんいったい幾ら持って居るんですよぅ」

お芳に止められている。

京口木戸を入ると松井田宿の高札場。

月番松本駒之丞本陣問屋場で馬次をした。

乗懸(のりかけ)百六文二頭で二百十二文、軽尻(からじり)六十九文二頭で百三十八文の三百五十文、百文の緡(さし)三本と四文銭十二枚に一文銭二枚で支払った。

諸国名産 頂透香 陳外郎 虎屋 ”は盛況だ。

江戸口木戸を出た、妙義山は徐々に遠ざかってゆく。

八本木立場付近は眺望が開け茶屋本陣より野立を好むのがよく分かる。

大野は四文銭十枚括りを四人の馬方それぞれに配っている。

安中宿で又馬次をした。

此処から板鼻まで三十町余りだが大野は同じように頼んでいる。

乗懸(のりかけ)四十文二頭で八十文、軽尻(からじり)二十五文二頭で五十文の百三十文。

百文の緡(さし)に四文銭八枚出して二文の釣りを貰った。

碓氷川の土橋はお辰(おとき)たちに馬から降りて渡らせた。

碓氷川下流の木橋を越えると又馬へ乗せた。

大野は四人の馬方へ四文銭五枚括りを配った。

板鼻宿京口木戸を入ったのは次郎丸の時計で四時五十分、沓掛から板鼻まで九里一町、峠に関所を越えたにしては捗っている。

当番の福田家脇本陣問屋場で大野は明日の仕度の相談というので荷を持って先へ進んだ。

 わくや小右衛門 ”は行にも止まった宿。

 宿札に“ 奥州白川藩本川次郎太夫様御一行様御宿 ”と有るのは前とは違う字体だ。

大野は弥二郎と言う若い男を連れてきた。

「新之丞様の言いつけで伊香保までの道案内で御座います。宿が有りますので明け六つに参上させて頂きます」

三国街道ではないという。

 

 五海道中細見記 抄   安政五年(1858年)より ・    次郎丸道中記

追分より

宿場 

前の宿場から

次の宿場

 

一番

小諸

三里半

二里半

 

二番

田中

二里半

十八町

六里

三番

海野

十八町

二里

六里十八町

四番

上田

二里

三里六町

(三里半)

八里十八町

五番

坂木

三里六町

(三里半)

一里

十一里二十四町

・上戸倉宿まで

一里十八町

六番

上戸倉

一里

(一里半)

十八町

十二里二十四町

矢代迄

三里

六番-

下戸倉

十八町

一里半

(二里半)

十三里六町

七番

矢代

一里半

(上戸倉から

矢代へ三里)

 

一里

・丹波島へ

三里

十五里二十四町

・松代まで

二里四町五間

・善光寺へ

四里十二町

八番

稲荷山

矢代から

一里

桑原~麻積へ

松本へ

九番

丹波島

矢代から

三里

善光寺へ

一里十二町

十八里二十四町

十番

善光寺

一里十二町

上新町迄

一里十町

二十里

 

 第八十九回-和信伝-拾捌 ・ 2025-06-10 ・ 2025-06-14 ・ 2025-06-15

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記