花音伝説 | ||||
第四部-豊紳殷徳外伝 弐 | ||||
第二十三回-豊紳殷徳外伝-2 |
阿井一矢 |
此のぺージには性的描写が含まれています、 18歳未満の方は速やかに退室をお願いします。 |
富察花音(ファーインHuā yīn)
康熙五十二年十一月十八日(1714年1月4日)癸巳-誕生。 |
豊紳府00-3-01-Fengšenhu | |
公主館00-3-01-gurunigungju |
乾隆五十八年一月一日(1793年2月11日)癸丑 豊紳府へ格格として寧寧(ニィンニン)という十五歳の娘がやってきた。 フェンシェンインデが格格を入れるのに乗り気ではないとみて、公主は母親の惇妃へ頼んで汪氏(ワン)の一族の娘を格格として仕えさせた。 実家は満州上三旗正黄旗の佐領と良い家だ。 迎える家は飛ぶ鳥を落とす勢いの和珅(ヘシェン)の息子のところ。 賄賂を積んでもつながりを持ちたいところだ。 しかも馮氏(ファン)から費用として千両の銀と衣装が山と届いたし、付け届も多く集まってきた。 乗り気ではないフェンシェンインデだが無碍(むげ)にもできず床入りをした。 怯える娘に「怖がることは無いよ、今日が嫌なら仕える気が起きるまで待つよ」と肩を抱いて囁いた。 寧寧(ニィンニン)は「初めてなので心配なだけです」と優しいフェンシェンインデに恋心が芽生えた。 処女を傅かせる(かしずかせる)ことは手慣れたものとフェンシェンインデの優しさと欲情はあい待っている。 小さな乳首は薄桃色で指の間で堅く突き出ている。 寧寧(ニィンニン)の気がそこへ集まるのを待って膝を割ると素直に開いて喘いだ。 秘所の和毛は年の割に育っていて渦を巻くように下腹部を覆っている。 「はぁ、はぁ」と息も荒くなったので戻そうとするとしがみついてきた。 気を落ち着けて寧寧(ニィンニン)の顔を見ると痛みは無さそうだ。 「初めてだから今日はここまでだよ」 精をたっぷりと注ぎ込んでフェンシェンインデが「おぅつ」と満足の声を出した。 それに遅れて歯を食いしばっていた寧寧(ニィンニン)が「あぁ、あっ」と気をやった。 手巾で拭くと先ほどより少ないが精液に血が混ざり「二つで一つだ」というとにっこりとほほ笑んだ。 気をやった時の事を聞くと恥ずかしそうに「枕が消えて頭から何処かへ沈んでいくようでした」と答えた。 |
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公主はフォンシャン(皇上)にぐずったが、フェンシェンインデに八か月の休暇と視察旅行が命じられた。 許可状は二冊、遊覧について華美なものは禁ずるが招待には応じる様に別冊の許し状もあった。 口頭で「賄賂を申し出たものは厳罰にするので、申し出よ」といわれた。 やはり父の噂は耳にしていると分かっただけでも、身が引き締まるフェンシェンインデだ。 「転んでもただは起きぬというフォンシャン(皇上)は健在、かもしれぬ」 半分視察、半分遊びで好い、「何ていい加減な」公主はフェンシェンインデに駄々を捏ねて困らせた。 乾隆五十八年二月一日(1793年3月12日)癸丑 満開の梅林で見送った公主はうっぷん晴らしにフォンシャン(皇上)に会いに出かけた。 うっぷん晴らしでも来てくれだけで嬉しい弘暦(フンリ)だ。 和珅(ヘシェン)が献上したという大きな真珠をもらって機嫌は直った。 和珅(ヘシェン)も真珠の念珠を贈ってご機嫌を取ってくれた。 フェンシェンインデは留守の間寧寧(ニィンニン)に公主と馮霽雯(ファンツマン)の事を頼んでおいた。 三人連れでぶらぶらと通惠河まで行くと雇った二艘と供の七人が待っていた。 葛籠に平儀藩(ピィンイーファン)が届けた二種の護符はもう貼ってあった。 今度の旅は景徳鎮での買い物用に界峰興が壱万両、劉全が壱万両の信用状を預けて昂先生と別けて葛籠へ収めてある。 信用状に相当する銀(かね)は現銀を相手に特別に輸送してもらった。 今回は世慣れた中年の與仁(イーレン)という湖北鄂州(オゥーヂョウ)生れの男を連れて行くので十人も連れ立って歩くことになった。 細かい支払いは全て與仁に任せて昂先生と三人で遊び歩くつもりだ。 前の時の旅で劉全の所で孜漢(ズハァン)ともども「使いすぎだ」と小言を言われた。 会計は任せた方がフェンシェンインデも気楽と思って雇い入れた。 街で買い食いしても乾隆通宝を持ち歩くのも面倒だ、銀の小粒でも使いづらい店は多い。 銀(かね)は信用状なら軽くていいが使い道のことも有るので和珅(ヘシェン)が銀二千両、自分のほうで金二百両に銀二千両用意した、それを十人で別けて葛籠で背負った。 旅慣れたものが着替えは下で重い煙管や銭は上と教えて呉れた、前回重い銀(かね)を最後まで背負った権洪(グォンホォン)が音を上げて居た。 ホォンは商売物の銅器に銭を背負ったという風に田舎周りの商人に言うと「壺なら着替えを中に入れるか平物なら一番上に置くんだ」と自分の葛籠を開けて見せてくれた。 よくこんなに入れられた、という風に小さな箱が積み重ねてあったそうだ。 「旅をするには面倒でも通宝は多く持たないのがコツだ、銀の小粒を有利に換金できるようになれば一人前だ」 こんなのもあると見せてくれたのは墨西哥の「カルロスドル、八レアル」という銀貨だ、広州では信用を持たせるための十三行の刻印付きは銭と有利に交換できる。 墨西哥の「1776」の文字と「東興」の刻印がある「こいつは広州で手に入れてお守り代わりに持って居る」という。 二月三日、運河でのんびりと三日目に天津(ティェンジン)に入った。 「歩くより退屈そうだ」 出達前に昂先生に云うと「名所も色々あるから、降りて見物に歩けばいい」と案内の冊子を買い集めた。 天津の街はごみごみと建物が犇きあっている。 天后娘娘を祀る廟に行くと案内人が寄ってきて説明をしてくれた。 宋代の女性、建隆元年(960年)誕生、雍熙四年(987年)に亡くなったという。 海に出ては遭難者を救い“通元霊女”、“竜女”、“神女”だと言われた。 逝去の後も何回も人間に化身し、遭難者を救うと云われ、海上の仙人として祭られた。 話が講釈師並みに面白いので一杯おごって銀塊を一つ手渡した。 屋台店を出たら紀経莞(ヂジングァン)の家の者に街で見つかった。 紀の本家は天津でも有名な名家だが、此方は先代が放蕩者で一族の厄介者だ。 家まで引きずられる様に連れ込まれると思ったが、鼓楼を回った安西の藩羊肉菜館だ。 居たのは妹の紀経芯(ヂジンシィン)。 與仁と昂先生も椅子に座って何が始まるか興味津々。 「知らんふりで、この街で何をしているんですか」 「遊山旅だ。南京と南昌までさ。半年じゃ戻れない」 一月の雪の日に買范(マァイファン)と新しい飯店が出来たのを見に来て以来だから、まだ二十日ほどしか経っていない。 初めて会ったのは、もう五年も前だ、そのころは十一歳に成ったばかりの可愛い女の子だった。 劉全に連れられて二度目の青島のクースーの醸造所を訪ねた帰りだった。 天津(ティェンジン)で泊まった飯店で料理人の経莞(ジングァン)と知り合って家族を紹介された。 劉全は眼をつけて引き抜こうとしていた様だ。 雪の日は買范(マァイファン)とは別行動となり、経莞や「結」の仲間と飲んで紀の家に泊めて貰った。 火は落ちて、部屋は少し冷えてきている。 酔い覚ましの水を飲んで椅子でぼんやりしていたら小窓から経芯が覗いて「酔いは醒めた」と聞いてきた。 「何か用事でもできたかい」 それを聞いて「用事がなければ来てはいけないの」怒ったように入ってきた。 「当たり前だ、嫁入り前の娘がよその男の部屋へ来ちゃだめだ」 「嫁入りなんかしないわ。家の哥哥のように一本立ちの商売人になる」 椅子から立ち上がるとそこへぶつかる様に抱き着いてきた。 「和孝(ヘシィア)哥哥が勝手に婚姻するからいけないのよ」 フェンシェンインデ普段の付き合いは和孝(ヘシィアォ)のほうの通りが良い。 「俺が悪いのか」 「昔、こんなに可愛い娘が嫁に欲しいと言ったじゃない」 「おいおい、子供の頃の事持ち出すなよ」 言葉と裏腹にフェンシェンインデの一物は堅くなった。 ふたりはもどかし気に服を脱いで寝床にもつれ込んだ、寒さなどもう感じていない。 柔らかい和毛は少し渦を巻いていた。 胸を揉まれるだけで高まった経芯(ジンシィン)は自然に脚を開いて迎えやすくフェンシェンインデを誘った。 「初めてなの、優しくして」 経芯(ジンシィン)は放心状態で顔を手で隠している。 「わたし、どうしたのかしら」 「高まりすぎて気が行ったのさ。痛みはどうした」 「なんかしびれたように疼いているわ」 「特効薬があるよ」 「飲ませてくれる」 「飲み薬や煎じ薬じゃないよ」 「意地悪謂わないで、くださいな」
「昼には遅いな」 「この店、持ち主が売るというので買い取ったの」 「よく銀(かね)があるな」 フェンシェンインデの手を取って結の字を書いてきた。 「なぜ俺のほうに言わない」 黙って手を重ねて「フフフ」と笑った。 「哥哥、今度はいつまでいるの」 「明後日の昼に石家庄へ向かう予定だ」 「今晩か明日付き合ってくれる」 「今日の夜は経莞(ジングァン)と約束した」 「何も聞いてないわ」 「俺も返事はまだだ、手紙を供に届けに行かせた」 「じゃあしたよ、此処へ日が暮れたら来て」 |
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天津(ティェンジン)から十日で石家庄に着いた。 石家荘(シージャーズォアン)の福慶寺は、千四百年前、隋の煬帝の娘・南陽公主が出家六十二年の生涯を此処に捧げた。 主な建物は、書院、万仙堂、橋楼殿、大仏殿、藏経楼、公主祠、碑亭などだ。 建物は山に沿って建ち、岩を割り、壁を削って造られた。 梅は終わり桜と杏が咲いている。 フェンシェンインデには遠目でどちらか分からない。 二日遊んで二月十九日に石家荘の宿を出て、其処から済南までのんびりと十日かけた。 一日休んで二十五日に済南(ジーナン)を出て、十六日目、南京到着は三月十日。 四十一日目でここまで来た、去年と比べると大分早い。 陽の上るのが早くなって、宿は朝早くから騒々しいので寝てなどいられない、それで早発ちとなる。 源泰興は部屋を空けて呉れていた。 「予定通りね」 椅子に座った檀飛燕(タァンフェイイェン)が子供を抱いている。 「まさか」 「そのまさかよ。六日に産まれたわ。女の子よ爸爸(バァバ)」 街の娘は産後でも三日も経てば寝てなどいられない。 フェンシェンインデ十九歳、最初の子だ、行きだったか帰りの時か日を頭で浮かべた。 「名前は香鴛(シャンユァン)よ」 フェンシェンインデ、赤ん坊を抱くのは妹以来だ。 つい口元が緩んで「都へ来る気は」と言い終わらぬうちに「いやよ」と言われてしまった。 媽媽(マァマ)の馮霽雯(ファンツマン)の目元に似ている。 鼻はまだ誰似かわからない赤ん坊特有の鼻だ。 そう思ってみれば下の妹にも似て見える。 香鴛を抱いた飛燕はもう去年の飛燕とは違う母親の顔だ。 日中来てもらうお乳母さんはまだ若い、傍でにこにこして自分の男の子を抱いている。 その日の夜は、檀公遜(ゴォンシィン)も酒を無理強いはしないので早く休めた。 両江総督府は城内、偉く離れた場所にある、前回はこっちの方面は来なかった。 中華門で預かってきた腰牌を見せると三人を通してくれた。 どちらまでもない、気が抜けているなと思った。 両江総督書麟(シュリン高佳氏)は乾隆五十五年五月に免職されウイグルのイリへ派遣されたが、乾隆五十六年四月には復職している。 あの高名な高皇貴妃や高斌の一族だ、何の力が働いたか疑問だ。 此処へ「豊紳殷徳が行く」とフォンシャン(皇上)が伝文書を送って歓待せよと命じている。 両江総督は兵部尚書兼都察院右都御史を兼ねている。 両江総督府へ出向いて来意を告げると京城(みやこ)へ出たという。 伝文書が来て伝令を出したので、十五日には戻れると早馬が来たそうだ。 宿を教え連絡を待つことにした。 「ああは言うが十五日に戻りますかね」 與仁(イーレン)はそれまで見物で潰しましょうかと気楽だ。 府庁を後にすると騎馬の人に声をかけられた、 奇豐額と名乗られフェンシェンインデも自分の名を告げた。 「ついて来なされ」 供の徒歩の兵の後を三人でついてゆくと、夫子廟の裏を通り過ぎ前に回ると馬を降りて文源橋を渡った。 大分遠回りで連れまわされたと感じた、馬を止めたのは大きな妓楼だが楼の名が見えない。 「一刻ほどしたら迎えに来てくれ」 フェンシェンインデたち三人を連れてどしどしとニ階へ揚がった。 江蘇巡撫奇豐額四十九歳朝鮮黄氏の硬骨漢だがフェンシェンインデは何の役人か知らない、教えもしない豐額(フェンウゥ)だ。 両江総督書麟(シュリン)の復職を苦々しく見ている一人だ。 未字正三刻あたりか陽がまだ高い、夕暮れには早い時間で妓楼はこれから書き入れ時だ。 何も言っていないのに酒の支度が出て酒杯のやり取りが始まった。 妓女も来ない。 奇豐額(チーフェンウゥ)も我慢できなくなったか大きな声で笑い出した。 「なぜ何か用かとも聞かん」 「何か御用事でもありますか」 「無い」 「それなら酒でも飲みましょう」 「変な奴と公遜(ゴォンシィン)が言っていたが本当だ」 「おや、お知合いですか」 「燈船を菜(さかな)に酒の飲み比べをした」 「どちらが強いですか」 「二刻で飽きてやめたのでわからん。豊紳殿は強いと聞いた」 「私より此方の昂先生は底なしです」 その昂先生は與仁と料理を片付けるのに夢中だ。 迎えが来て話はうやむやのまま別れた。 十二日の朝になると奇豐額(チーフェンウゥ)から「前日の妓楼申刻」と呼び出しの者が来る。 十二日・十三日・十四日と続いた。 何時も酒と料理が出てそれで終わりで妓女は現れない。 十五日、五日目だ「妓女が居ないと寂しい」と豐額(フェンウゥ)のほうが音を上げて座が賑やかになった。 「しかしお主辛抱強い。負けだ負けだ。歓待しろというが女を宛がうのも気が引ける」 「何か京城(みやこ)から言ってきましたか」 「歓待しろと言ってきたので総督が戻るまで任せろと伝えた」 あまり接待などされることも無い様だ。 「此の楼は」 「此処か、飲み友達の親の経営だ。根城みたいなものだ」 安く済んで総督府も喜ぶさと暢気(のんき)なものだ「これで歓待なんてフォンシャン(皇上)に言えば驚くな」と笑いが出た。 江蘇巡撫とは飛燕に教えられた。 総督は巡撫を、巡撫は布政使を監督と上から二番目だ。 布政使が実際の行政官だ、監察を司る按察使,軍政を担当する都指揮使が各省を動かしている。 こう書けば簡単そうだが江蘇省(チャンスー)安徽省(アンホイ)江西省(ジァンシー)と広い管轄区域だ。 余懐(西渓山人)『板橋雑記・秦淮燈船』 秦淮燈船之盛、天下所無。兩岸河房、雕欄畫檻、綺窗絲障、十里珠簾。 両江総督書麟から呼び出しの来たのは十六日、豐額から呼び出しの連絡が来ないと飛燕が言う傍から侍衛が、騎馬でやってきた。 フェンシェンインデは弘暦(フンリ)の許し状を見せてこれからの行き先を告げると蘇州と寧波の布政使に紹介状を書いてくれた。 総督府を出て夫子廟へ向かうと城壁に昼の日差しが照りつけて、兵は日陰を探してうろついて居る。 三月十七日 昼過ぎまで子供をあやしていたが、泣き声に送られて源泰興を旅だった。 銀(かね)を置いていきたかったが断られそうなので、気になるがやめた。 兄貴には必要ならいくらでも都合すると、内緒で頼んである。 「それが良いぜ。飛燕に金を遣るなんて言ってみろ。叩き出されるのが落ちだ」 |
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南京(ナンジン)からのんびりと無錫(ウーシー)で遊んで蘇州(スーヂョウ)まで十日かけた。 無錫へ、五日で三月二十一日に入った、陽が伸びて宿場をうまく利用できた。 その前の宿場で相宿の金(ジン)と言う小商人に教えられ、南長街の香潘楼(シャンパァンロウ)という艶めかしい名前の飯店を紹介されて泊まった。 若い大きな女が出迎えてくれた、店の女中達は顔立ちが良いか、物腰が良い女が揃っていた。 飯店で軽く食事をして寝酒で仕上げて早寝することにした。 相宿は小商人が多く賑やかで、酒をおごると街の噂を次々と紹介してくれた。 翌日から小雨で春のおぼろな街を歩く事にした「雨が止むまで三、四日逗留したい」そういうと老爺に老媼は「離れに移りませんか、前は小商人に空けていただけると助かります」と言うので「何人入れる」と聞き返した。 「南北の離れはお供を入れて五人入れる造りですが。泊まり賃が朝晩のお決まり付きで離れ二つで一日六両」と言う、おもわず「安い、それでいいのか」と聞き返した。 無錫(ウーシー)で銀一両は八百銭、安宿でも朝晩食べれば一人二百五十銭掛かる。 其の計算だと二千五百銭は四両と百銭だ、あまり大きな出銭ではないと移ることにした。 「蘇州でいい宿は有るかい」 「大女儿(ダァヌーアル・長女)が山塘街(シャンタンジエ)で牌幡楼(パァィファンラオ)と言う飯店を婿と開いております。お泊り下さるなら旅立ちの日に早で連絡させます」 駄賃を渡してくれと銀の小粒を出すと遠慮する。 「老爺に出すんじゃなくて、使いの者に出す銀(かね)だ遠慮すればそいつが損をする」 それで礼を言いながら受け取ってくれた。 北の離れは昂(アン)先生を含む五人。 南の離れにフェンシェンインデ、與仁(イーレン)を含む五人が入ることにした。 三十人近くも女中に番頭が居る、出迎えた娘の両親にしては老人だ。 小商人たちは事情を教えてくれた、両親と婿は三年前の春、船で遊覧中に突風で船がひっくり返って太湖へ投げ出されたという。 その時乗っていた船で亡くなったのは船頭三人と客十人で、土地の者は此処の三人だったという、助かったのは船頭五人と客六人と言う。 その晩は昂(アン)先生と與仁(イーレン)で街を歩いた。 桜の木は花も散ってしまった、岸の名も知らぬ木々、川の石橋も濡れて風情が有る、幻想的な燈船で酒盛りをしている。 蘇州の知り人とは此処無錫(ウーシー)では出会わなかった。 酒は飲むより飲んでいる者を観察するのが好きなフェンシェンインデだ。 昂先生は飲ませれば限(きり)がないが、ひと月酒がなくても平気だ、其処はフェンシェンインデと似ている。 南京だけを起点に日程は立てておいた。 京城(みやこ)を出てから天津までの船で道順を調べるいい加減な旅だ。 フェンシェンインデは官職、仕事、遊びすら縛られるのが嫌なようだ。 本当は南京から長江を船で下りたいが、ムーチンから南京(ナンジン)で寺へ「結願の祈祷」と言われたし、この時期は気候もいいし歩きのほうがおもしろそうだと昂(アン)先生と意見も一致した。 ところが南京(ナンジン)で調べたら飛んでもない場所にあるので太湖を中心に一回りすることにした。 「活精丹」と保健薬、養生丹など噂がないかも今回は昂先生と調べながらの旅だ。 街の薬房にはいい加減なものを売る店もあるし「龍骨」何て言って昔の「亀卜」を掘り出して延命薬だと高価に売りつける。 中には古代の文字らしき物も彫られている。 「なんで上海なんて漁村に行きたいんで」 「長江(チァンジァン)の始まりは見に行けなくても上海が出口だと、老爺(ヘシェン)から聞いたよ。南の銭塘江(チェンタァンジァン)では海から波が河をさかのぼるそうだ」 「違う河ですか」 昂先生が與仁(イーレン)に地べたに二本線を引いて間に丸を書いて「此処が上海、此処が蘇州、此処が無錫、それでここに太湖(タァィフゥー)が有る」 「寧波はその銭塘江の南ですかね」 「上海(シャンハイ)から船があるか歩いて杭州を通る迂回か日和次第だ」 「上海から寧波(ニンポー)まで歩くと幾日で、海側の街は初めてで勝手が悪い」 「読み本の言う通りなら八千里だが本当は八百里だ、まともに歩いて十日」 「船だとどのくらいで付きます」 「川船では危ないからまともな大きな帆船で丸一日」 大分脅かしている。 「與仁(イーレン)よぅ、船の手配は頼んである、日和次第で運んでくれるか分からないだけだ。船でも真っすぐ進むのは危険で大回りするんだ」 「旦那も人が悪い」 「老爺(ヘシュン)から子供の頃に聞いた川幅百里というのが見たいだけだ、川の中に運ばれた土砂でできた大きな島もあるそうだ。沖からなら広さが実感出来るとさ」 「旦那の目的はそれだけですか」 「蘇州の留園、拙政園に上海で西園」 「全く年を疑いますぜ。そんなに庭がいいですかね」 「京城(みやこ)にはない昔の物が好きなだけさ。まさかフォンシャン(皇上)に円明園で遊ばせてくれなんて言えやしないぜ」 「下世話に言やぁ、お舅さんでござんしょ」 「そう簡単にゃいかねえさ」 この男、飯屋(菜店)の親父から大臣、皇子まで付き合いは広い、フォンシャンの覚えもめでたい。 二十五日は明るいうちから銀(かね)を持たせ「明日は卯の正刻の出だ。妓楼へ揚がって九人で飽きるまで遊んで来い」と送り出した。 大女が「荷は家で老爺が番をしますからお出でになってはいかがです」と親切に声を掛けてくれた。 「官員の端くれで、俺だけ置いてきぼりは毎度のことさ」 そういうと「お酒の支度は」と言うので頼んでおいた。 日が暮れ酉の鐘が聞こえると酒の支度と菜を女中と来て給仕してくれた。 「湯あみの支度も出来ております」 そういうので湯殿へ行くと湯がたっぷりと用意してある。 戻ると娘が葛籠の番をしてくれていた。 「女中に任せりゃいいのに」 「お客様は、私のような不美人はお嫌いなのですね」 大女は美人とされない風潮は活きている、それに確かに女中は色っぽい「男殺しの腰つきだ」と小商人の評判だ。 「情人眼里出西施、と言うだろう俺には西施どころか貂蝉以上に見える」 「冗談が過ぎますわ」 娘が下がったので持って来ている「聊斎志異」を読んでいると與仁(イーレン)連たちが戻ってきた。 「なんだ、朝帰りかと思った」 自分たちの葛籠を持って寝部屋へ行くと大きないびきがすぐに聞こえて来た。 それを追うように娘が来て「ひと夜のお情けで好いのです」と寝床へ誘われた。 元人妻と聞いていたように、なれた手順でフェンシェンインデを高みへ導いてくる。 善がり声を押さえるためか手巾を咥えて耐えている。 「少しの間で好いのです。抱きしめていてください」 呼吸が落ち着くと口づけして手巾で拭くと服をつけて出て行った。 名前を聞かなかったことにその時やっと気が付いた。 寅の鐘で目が覚めると長鳴き鶏が何羽も競うように鳴き出した。 三月二十六日の卯の初初刻、粥を食べる店で、娘はフェンシェンインデにもほかの客にも同じように愛想を言い、分け隔てなく接客した。 卯の正刻に出て夕方、陽のあるうちに蘇州に入った。 山塘街(シャンタンジエ)と聞いて五人墓(顏佩韋、楊念如、周文元、沈揚、馬然、五義士)を思い出した。 「義風園」もとは魏忠賢の祠と言われている、彼の死後郷紳によって義士の墓所になった。 来て分かったのは山塘街が十一里もある大きな通り沿いの街だ、それで道草を食う余裕は無かった。 蘇州は香潘楼(シャンパァンロウ)で紹介された山塘街(シャンタンジエ)南端にある牌幡楼(パァィファンラオ)に泊まった。 徐々に街は繫華になり波止場に泊まる荷船に混ざり遊行の灯船の明かりが灯るころ牌幡楼へ着いた。 「連絡を受けてお部屋はお支度して御座います」 大女儿(ダァヌーアル・長女)の店だと言うだけあって老爺とよく似た顔立ちの女が出迎えてくれた。 牌幡楼は外城河の山塘河の出口(入口)が対岸に有る、城へ行くにも金門が近く、便利な場所だ。 フェンシェンインデは自分の資本の店は今回避けている。 後で誣告の材料に為ることは昂先生の忠告でしない事の一つだ。 女遊びは目眩ましでも妓楼に泊まりこまない等もそうだ。 翌朝、江蘇布政使の役場に向かい両江総督書麟の書状を差し出した。 布政使の趙紅源は「宿はどこですか。今日は友と一緒に招待したい」と丁寧な応対だ。 宿の名と場所を書いて渡し「申の正三刻までにはそこへ戻ります」と告げた。 念のため留園、拙政園、網師園の拝観の紹介もしてもらった。 勝手に訪ねてフォンシャン(皇上)の許し状など見せて強引に入るのは気恥ずかしい。 江蘇巡撫の駐在地が蘇州と知ってはいても奇豐額が戻っているとは気が行かなかった。 てっきり南京で会ったので南京にまだ居ると思い込んでいる、総督が留守の間の代理で出向いていたのでそのままとどまっているはずと勝手に思っていた。 総督は準備もあり四月五日に京城(みやこ)へ向かうと趙紅源は教えて呉れた。 連絡網は活動的で動きが良いのだと。 その夜はまた奇豐額を交えて酒盛りだ。 昂先生にも飲ませようと妓女が誘うが「護衛で来ていますので酔っては仕事を失う」と断わる昂先生に纏わりついている。 次の日は拙政園でお茶にした。 蘇州最大の庭園と言われている、唐の時代には詩人陸亀蒙の住居と冊子には出ている。 この日権洪(ホォン)が一緒だ、楊與仁(イーレン)とは気が合うようでなにかあるか期待して付いてきたようだ。 茶と菓子くらいで後は庭だけ見ているのですぐ飽きたようだ、飽きている二人を見てそれがなぜか面白いフェンシェンインデだ。 三日目の朝女将が「明日侄女(ジィヌゥ・姪)の婚礼でこれから無錫(ウーシー)へ出ますので明日の御見送りは失礼させていただきます」と言う。 網師園(ワンシーユェン)は宋宗元の持ち物だった、八十を過ぎた風情の枯れた老爺が掃き掃除をしていたが、フェンシェンインデが礼をすると礼を返して「話は来とるよ。孫に案内させる」と家人を呼んだ。 「南宋代に造成された漁隠が荒廃していたのを、乙酉の年に重建されたんですよ」と案内してくれた若い娘が丁寧に説明してくれる。 古い家屋は手を入れられて、見ていて飽きないフェンシェンインデだ。 金門から出て留園を訪ねたが、すぐ飽きてあっさりと出た、康演(クアンイェン)の店はこの近くだが寄らずに宿へ戻った。 その夜は奇豐額がまた南京へ行くというので送別会だ。 趙紅源が三十人も人を集めた。 フェンシェンインデは挨拶に追われて席を温める間もない。 この間来ていた妓女も、昂先生に今日もまとわりついて皆の酒の菜(さかな)にされている。 「すまんすまん」 宋宗元が孫に手を引かれてやって来た。 奇豐額の息子と婚約しているとの話が聞こえてくる。 |
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四月一日の昼、のんびりと牌幡楼(パァィファンラオ)を出た、山塘街(シャンタンジエ)を南へ下り盤胥路(パンシュルゥ)を南へ歩く事にした。 三日目に上海に入って古い城壁沿いに歩き、黄浦江(ファンプチャン)に臨む鼓慶酒店(グゥチィンヂゥディン)へ入った。 翌日街を回り、西園へ入れて貰った、明の時代に潘氏が作庭、荒廃していたのを土地の有力者が再建、老城隍廟の「西園(シィユァン)」に庚辰の年に組み込まれた。 去年聞いた孟浩(モンハオ)の家を訪ねると店に出ているというので足を延ばして訪ねた。 「此方へ泊まって下さればいいのに」 「今度は半分公用で知り合いの処は出来るだけ避けているんだ」 わずか一年で大きな飯店を二軒経営している。 「こんな田舎に何か用事でも出来たのですか」 「いやさ、長江の海への出口が観たくて寧波へ行く途中での寄り道だ」 姉妹かよく似た二人の娘が挨拶に来た。 「妹妹(メィメィ)を紹介します。こっちが香鈴(シャンリィン)であっちが香麗(シャンリィ)」 何処で見分けるのか手を振って教えて呉れた。 「二軒あるなら二人一緒じゃなくて別のほうが良いんじゃないか」 「それがね、もう一軒はあっしの姉がやっているんですよ、三人並べるとごっちゃになるんでね。来年にはもう一軒出して二人で遣らせようか考えています」 「銀(かね)なら相談に乗るぜ。手紙をくれれば蘇州の東源興(平文炳の出店)で受け取れるように出来る、顔は広くないが店もあるからいつでも言ってくれ」 鷹揚に言って、その晩はおとなしく鼓慶酒店(グゥチィンヂゥディン)で全員そろって食事にした。 卓の下へ葛籠を置くと店の者は不審そうに見ていたが変わり者はどこにでもいると思われたようだ。 今度の旅は景徳鎮での買い物用に界峰興が壱万両、劉全が壱万両の信用状を預けて昂先生と別けて葛籠へ収めてある。 その銀(かね)はもう着いているはずだ。 銀(かね)の番は最低五人と決めて出た旅だ。 琺瑯の湯呑は十で一組を十組、白磁にコバルトで絵付けを施した「リンロン(玲瓏)これを買えるだけ買いこめと頼まれてきた。 京城(みやこ)の瑠璃廠ではフェンシェンインデの買った三倍の値段だそうだ。 琺瑯の湯呑は公主が贈り物にしたいと劉全に頼んだ。 聞いてフェンシェンインデは呆れて公主に言うと「貴方の持ち出しではかわいそう」何て言われてその晩は何時もより萌えたフェンシェンインデだ。 劉全はフェンシェンインデが儲かる様に配慮した様だ。 四月五日、渡し船で黄浦江を渡り胡家村へ出ると、眼に入る一面砂浜が続いている。 民家は数えるほどしかない。 眼の前にはふたつの島が見え、漁に使う船が引き上げられている。 與仁(イーレン)は「此処はまだ河ですか。聞いたより狭い」何てほざいている。 川上へ向かい黄浦江を渡し船で渡ると與仁(イーレン)も流石に驚いている。 この辺り五十里は川幅がある一里三百歩で一万五千歩ぶんだ。 陸で歩けば二刻では足の速い物でも掛かりそうだ。 南沙家塘の家を訪ねて来意を告げると「明後日辰までに酒店(ヂゥディン)へ船で迎えを遣る」という話だ。 與仁(イーレン)「十人だが乗れるかい」と聞いてその家の男たちは大笑いだ。 與仁(イーレン)は黄浦江には橋もあるので大きな船は入れないと思ったようだ。 表へ案内され沖がかりしている大きな三枚帆の船を見せられ「あれで寧波へ行くんだ。迎えの船は小さい奴だ」とまた笑い出した。 家に戻ると與仁(イーレン)は銀(かね)の交渉をしだした。 弄ばれている、フェンシェンインデは昂先生と與仁(イーレン)の後ろで目配せした。 「いくら出せる」 「一人銀一両」 「良いよ」 十両は取られると思って交渉しようとしたらしい、そんなものであの船は雇えない、陸の者は沿岸航路の相場など分かるはずもない。 急いで背中の葛籠を下ろして開けると箱から銀(かね)を出して支払っている。 受け取るほうも知らん顔で受け取った。 昂先生はたまらず大笑いだ、與仁(イーレン)の肩を叩いて(はたいて)大喜びだ。 與仁(イーレン)は一人得意げに鼻を擦っている。 この辺り寧波への定期船はない、広州あたりへ出る商船は寧波が本拠だ。 この船は平文炳の結社へ参加している船だ、蘇州への荷物を此処で積み替える。 波が穏やかなら荷を下ろす様子も見えるはずだ。 大体の日しか分からないので幾艘もが入れ替わりで舫ってくれる約束だ。 フェンシェンインデそれだけの事が五百両で請け合ってもらえて助かっている。 河口と「西園」を見るために五百両出すなど平文炳も呆れているはずだ。 劉全に黙っている予定だが地獄耳だ、聞いたら怒るだろうなと暢気なものだ。 本人十日歩くより一昼夜で着くなら安いもんだ位に思っている。 四月七日、船は午に河口から出て外海に出た。 天津から船で青島に渡ったのは七歳の時、波しぶきが楽しくて甲板で燥いで居て劉全はハラハラしていた。 風は北西、黄海へ出て上海の城壁も見えなくなった。 翌朝、幾つもの島を左に見て波の穏やかな杭州湾へ入った。 川から出るのか黒っぽい流れが見える。 引き潮らしく船足は遅い、小島の近くに泊め錨が降ろされると小舟が二艘島影から帆をはらんで遣ってきた。 荷物用の腕木で一人ずつ小舟に乗り込んで甬江(ヨンジャン)へ入った。 乗り移るのに一刻も掛かった、商売の荷でもあるのか重さの釣り合いを船頭と大きな声でやり取りしながら人も荷も二艘へ分けられた。 上げ潮時に為ったのか河は水の流れがない「こんなにうまくいくとはあんたがた運がいい」と船頭は帆を操りながら上機嫌だ。 サンヂィァンジァン(三江口)の先、フゥチャオ(浮橋)に船溜まりがありそこで船から降りた、昂先生が船頭全てに銀塊を配っている。 南門から入り范欽の天一閣は蔵書の数が多いと聞いたが外から眺めて宿へ向かった。 『四庫全書』には此処の473種の典籍が記録されている。 防火用の池があり、天一池と云う、東側の月湖から水が引かれた。 按閤酒店(アンフーヂゥディン)が寧波での宿だ。 近くにムスリムの回回堂も有るというので蒸し風呂もあるか探すことにした。 やはり昔からの風呂屋があるそうで辮髪でも入れると聞いた。 三人で蒸されて垢を落としてもらって一人四百五十銭、與仁(イーレン)は「安くていい」とご機嫌だ。 金で払うと露骨にいやな顔をされると小商人たちが大声で喋っていた。 金一両が公定銀十両、寧波では今銀一両七百七十銭が相場だという、大分銀が安い、蘇州(スーヂョウ)では八百銭、南京(ナンジン)は八百二十銭で通用していた。 旅に出て金銭感覚が麻痺している、と言ってこの上乾隆通宝を刺し十本(千銭)も持てば男でも音を上げる。 陪演に「結」の連絡場所へ着いた報告へ行かせ、遊ぶ場所も聞いてこさせた。 昂先生の持っている冊子に妓楼は出ていない「これだけの港に街で無いはずが」と不思議そうだ。 黄海に出たとたん船酔いで降りるまで寝込んでいた「運河とは大違いだ」と嘆いている。 宿へ戻ると陪演が戻ってきていて「船を降りて左手へと言われたけど、右手から回れば繁華街があったそうです」と言っている。 「旦那に今晩でられるならば集まりがあるから出てくださいと頼まれました」 見取り図らしき手書きの場所が書かれている。 「出ても三人と言いましたら構わぬそうです」 酒店の主人に聞くと近いというので「時刻は聞いたか」と陪演に言うと「いけね」と慌てている。 道案内を一人雇って出かけ供は此処で飯を用意させた。 東坡肉(豚の三枚肉の煮込み)・龍井蝦仁(エビと龍井茶の炒め)・叫花鶏(鶏肉を蓮の葉で蒸す)が用意できるという。 ぶらぶら行くと約束まで一刻有るというので街を案内してもらった。 古着屋があった「この辺りで服を新調できるか」と聞くと裏の通りに良い店があると案内までしてくれる。 十人の服を「旅の垢で汚れた服と買い替える」というと古着屋め「今の服はどうする」と聞いてきた。 引き取りたいというので任せることにした。 明日から順番に来させると約束して三人は体に合う服を選んで取り換えた。 良いものを選んだようで三十両だという「安いもんだ」と心のうちでフェンシェンインデは思っている。 古着屋め「十両でいかがで」と揉み手だ、俺のだけでも五十はしたはずと思ったが「いいよ」と鷹揚に渡した。 二人に五両ずつ分けて「こずかい」と言っておいた。 戻ると服が違うので店の者は目を白黒させている。 ふた刻ほど交流をして酒店に戻り、服屋の店の場所と名を教え、銀は余分に用意させた。 古着屋へ売った銭は懐に入れろと言いつけた。 翌日、江寧布政使と面会し紹興の話から沈家の庭を紹介してもらえた。 その日の午後からは関帝廟に阿育王寺・天童寺を脚に任せて歩き回った。 寧波について六日目、そろそろ出るかと云うと権洪(グォンホォン)は嬉しそうだ。 「旅のほうが良いかよ」 「いえね毎日ごちそう詰めも辛い」 呆れたやつだ、小遣いが足りないのかもしれない。 この旅は俸給の他に一日百銭で七日ごとに一両にして銀で渡される、長逗留だと小遣いは不足だろうと、時々一両が與仁(イーレン)から出される。 與仁(イーレン)に持たせた銀(かね)が少なくなるとフェンシェンインデは自分の分から與仁(イーレン)に背負わせる。 寧波を四月十四日の早朝旅だった。 三日目、紹興府の沈園近くに宿を決めた。 牌全飯店(パイチュアンファンティエン)何処聞き覚えがある名だ。 昂(アン)先生が「牌幡楼(パァィファンラオ)の牌だけだ、ちがうか」 飯と幡は土地が違うので同じ響きがしたせいかも知れない。 翌日近くの沈家を訪ねて庭を拝観させてもらった。 壁にこの詩を書いたという伝説もさも有りなんと思える庭だ。 沈園-詩人陸游(リゥヨォゥ・1125年~1209年)の歌碑が有る。 釵頭鳳(チァイタォゥファン) 日本語での読み
注-紅鮫 鮫人について-南海にすみ、いつも機を織る、しばし泣き、涙は落ちて珠玉となす。 和漢朗詠(1018頃)上「凝っては鳳女の顔に粉を施せるがごとし、滴っては鮫人の眼の珠に泣くに似たり〈都良香〉」〔曹植‐七啓〕 出典 精選版 日本国語大辞典 禹陵や紹興酒の醸造所を歩き回り、五日目の昼に紹興を発った。 |
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南京まで十二日かかった、京城(みやこ)を出て九十日目だと昂先生が話して居る。 南京着-乾隆五十八年五月一日(1793年6月9日) 源泰興(ユァンタァィコウ)の香鴛(シャンユァン)の笑顔で旅の疲れも飛んでいく。 フェンシェンインデが覗きこむと不思議そうな目で見つめ返す。 部屋は下がりもので満載だ、誰だこんなにと思うほど色が溢れている。 指を差し出すと握り返してきた。 この前より妹と飛燕をまぜたような顔つきに為っている。 本当ならここで南京(ナンジン)は余分だ、紹興から景徳鎮のほうが近いが南京(ナンジン)の夢想寺、宣城(シュエンチョン)の弘願寺と云う寺に寄るためだ。 蘇州へ向かう前に寄ろうとしたら大回りに為るため後にした、いい加減なものだ。 いい加減なのは京城(みやこ)で見つけた旅の道程や橋の記載だ。 来たら橋などないのは何か所もある、おまけに宿場の里程もいい加減だ。 旅発つ前に相役、上役の老人たちがフォンシャンの南巡での事を自慢してきたが、ただ運河での優雅な船旅で何の役にも立って居ない。 旅で当てにできたのは旅慣れた小商人の方だ、小さな村でも泊まれるところを心得ている。 ムーチンから「寄れたら結願の祈祷を」と布施まで渡されている。 寄れたらは「寄ってこい」くらいはもうわかる「駄目なら代人を」もそれでいいならフェンシェンインデに頼まない。 飛燕に景徳鎮で仕事だと翌日一日休んで出かけた。 五月三日、旅立ちは曇り。 景徳鎮に着いたのが二十一日、十九日目で着いた。 早速宿を決め指定された店へ行くと信用状を確認して銀(かね)を見せてくれた。 商売で決まれば信用状を渡すか現銀にするか決めて出してもらえることにした。 「一番は一緒にお出でに為れば余分はお持ち下さる方が手間も省けます」 「承知」 四日掛かって全て使い切った。 七軒と契約出来て月末から順次送り出すことになった。最後は七月末、到着は九月末だろうという。 自分の土産はやはりここで自慢の茶碗の金彩三才碗の四つが木箱に入るものを百組送らせた。 景徳鎮(ジンダーツェン)から南昌へ三日。 翌日五月二十九日 南昌(ナンチャン)であの老道人の元へ朝から出かけた。 家に一人で訪れると「ほう、遣ってきたか。じゃがの値を釣り上げる者が居て銀二百両じゃ。どうなさる」と高飛車だ。 「幾つ頂けます」 「ほぉ、面白い気に入ったよ。でもな他の約束もあって仙丹は十錠だけだ。それでもいいかのう」 「お願いします」 「ほうそうかの。相談じゃがもっと欲しいのかい」 「出来れば買いたいのです」 「今日は十錠、実は昨日取りに来るはずがまだ現れん。明日昼までに来なけりゃその分十錠買うか」 「ぜひとも買わせていただきます。では今日の分は締めさせて頂き、朝また推参させていただきます」 話がまとまり三人呼び入れ、銀二千両を渡して十の箱を受け取り、自分の葛籠へ入れた。 「では明日、昼までに伺います。金錠でも同じで好いでしぃうか」 「混ざるなら少し割り増しじゃ」 両替所を探して手数料でも取られるなら面倒だ、フェンシェンインデ鷹揚だ。 「では金二百両に銀五十両つけて」 にっと笑いがこぼれかけ、慌てて「仕方ない。それで手を打とう」と渋い顔だ。 宿へ戻り金錠を二人の葛籠へ入れてその葛籠の持ち主が明日の供に着くことにした。 翌日仙丹と金を交換し、その日のうちに南昌を発った。 南昌(ナンチャン)では九江迄の河を下る船の空が十五日後までないという。 「荷の軽い分、土産をどこで買うかな」 など軽口をたたきながら八里湖迄四日目に着いた。 翌日長江を下る船に空きがあるという、十人で乗り込む事にして切手を買い入れた。 南京まで一人銀二両だという、與仁(イーレン)などあまりの安さに驚いている。 連日の大きな銀の動きで與仁(イーレン)め気が大きくなっている。 街でその晩の酒店を見つけ、明日からの船で食べる菓子や果物を買い入れた。 與仁(イーレン)が気を利かせて水用の瓢を二つ買い入れて来た。 客は四十人以上集まっている。 何のことはない、途中で港に着けて、荷を積み下ろす、そのすきに船の周りに物売りがわんさと集まってくる。 昂先生はつい余分に買って十人ほどの子供たちに配っているので、周りはいつも賑やかだ。 六月五日、九江から南京まで五日で下って昼に長春港に到着。 「こりゃ楽でいい」 昂先生も河なら揺れも平気みたいだ。 朝出て昼に停泊して人に荷物の受け渡し、夕に港で停泊と夜は危険が多いと下らないのだが、それでも五日で着くのは早い。 港から市街地へ半日かけて戻ったのは六月九日の夕方。 源泰興ではこんなに早く戻るとは予想していなかった。 フェンシェンインデも六月末だろうと言った手前、部屋がなくても文句も言えない。 空きは一部屋、それでフェンシェンインデが源泰興へ泊まり、三軒の飯店、酒店を探して分散して泊まらせた。 夜、飛燕が子供とともに部屋へ来た。 フェンシェンインデが飛燕の部屋へ泊まるのは勘弁してくれと言うのでやってきた、あんなに色の氾濫した部屋は御免だ。 授乳が済むと子供が寝ている脇で一年ぶりの逢瀬だ。
飛燕の顔が「にこっ」と笑いそのまま声もなく到達し、力が抜けてゆく。 舌を吸い上げると顔をのけぞらす様に力が入る。
飛燕の声が高くなり顔がほころんできた。
汗をぬぐって抱きしめると先ほどの母乳の匂いが部屋にこもっている。 香鴛(シャンユァン)が泣き出す、飛燕は子供を抱き寄せて授乳をした。 おむつ(ニャォプゥ)の中を確認して乾いた布にするとすやすやと寝に入った。 この二人最初の時から寝屋ごともなしで息が合っている。 ふたりは時間をかけて十分堪能して眠りについた。 朝、外はまだうす暗い、起きているのは鳥たちくらいの時間だ、まだ厨房の者も動き出す前。 授乳している飛燕を見て母親は大変だと実感した。 「逢いたくなったら呼ぶか京城(みやこ)へ来るんだぜ」 「任せなさい」 こんな情緒のない二人でも、身体はお互いを愛情で包み込んでいる。 朝は源泰興も世話しない。 飛燕は香鴛(シャンユァン)を抱いて店の奥で客の動きを見ている。 ただそこの椅子に母娘が居るだけで客は嬉しくなる様だ。 中には「旦那が来てるのに、ほっておいていいのか」などお節介もいるが「此処へ来てもらっても邪魔、邪魔」と言うと笑って旅立っていく。 明日は済南(ジーナン)へ旅立つというので檀公遜(ゴォンシィン)たちが夕飯をおごってくれた、フェンシェンインデの葛籠は飛燕が番をしてくれた。 何が入っているか聞きもしない、護符だけは興味を持ったようだが読めない文字だ。 おまけに封印まであるのでなんだとは思う様だ 「酒は好いのかね」 菜店の親父は不思議なものを見ているように聞いた、何時もの酒豪の五人が酒を控えている。 「せっかくだ、旅立ちの乾杯だけ遣ろう」 一杯だけで別れた。 その晩も飛燕はフェンシェンインデの部屋へ子供と来た。 |
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六月十二日の昼、南京を発った。 七月五日、済南へ二十五日掛けて着いた、冬に出てもう真夏だ、普通なら陽も長いから道も捗るはずがのんびりしたものだ。 二月一日に京城(みやこ)を出て百二十九日目だと昂先生が教えている。 二日街を見て回り七月八日の午後に街を出て天津へ向かった。 何処で道草を食ったのか、天津へ八百里たらずを二十三日もかけた。 一日四十里、女でも二刻半で歩ける、旅は平均一日八十里五刻見れば十分だ。 天津府(ティエンジン)着は八月一日。 有ろうことか天津で十五日もぶらぶらしている。 供は先に都へ向かわせている、買い受けた土産品に景徳鎮での取引した書類も持たせている。 八月十六日に漸く三人は都へ向けて歩き出した。 天津から京城(みやこ)へのんびりと八日日、二百日目で京城(みやこ)へ戻ってきた。 京城(みやこ)到着、乾隆五十八年八月二十三日(1793年9月27日) 左安門から入り、豊紳府と和第へは帰着連絡だけで、朱家胡同に開かせている老椴盃(ラァオドァンペェイ)へ宿を取り着替えを届けさせた。 翌二日、朝巳の正初刻に神武門から入り養心殿へ三人で参上した。 藩徹(ファンチュァ)はもう六十一歳、徹艮(チューゲェン)二十六歳が後を継ぐことが決まった。 仰々しく十の箱を入れた筥を「休暇と視察の旅のお土産です」と差し出した。 藩徹が恭しく受け取りフォンシャン(皇上)の前に置いた。 「ひと払いせよ」 居なくなると近くへフェンシェンインデを呼び寄せた。 「今回は幾つじゃ」 「十錠ですが老爺へ十錠届けます」 不満そうなので「老爺にねだれば別けると思います」それで笑みがこぼれた。 老爺もこれで自分の分を分けたと自尊心も満足するだろうと読んでいるフェンシェンインデだ。 その後は供の二人に目通りが許され、徹艮(チューゲェン)藩徹(ファンチュァ)も交えて各地の歓待ぶりと人気の様子を報告した。 書面で出しますかと聞くと慌てて手を振って「よい、良い」と云われ助かったと胸をなでおろすフェンシェンインデだ。 気に入ったのは奇豐額(チーフェンウゥ)の無骨な歓待ぶりだ。 「あの男まだ世慣れていないか、五日目で音を上げたか」 大分気に入ったようだ。 「蘇州の店は儲かりそうか」 「これからでございます」 やはり粘竿処(チャンガンチュ)は知っているようだ。 姐姐(チェチェ)は京城(都)への便がないのか重陽の節句過ぎ迄連絡がない。 久しぶりの呼び出しにワクワクして出かけた。 「なんか若返ったみたいだ」 「お世辞なんかいらない」 「旅の土産は」 「買ってくるはずない」 何を怒っているのかよく分からない。 口づけして舌を舐って胸を揉んで「これでも駄目か」と諦めた。 「この前の時は半年くらいが七か月、今度は天津(ティェンジン)に一日に入ったと云うから十五夜を楽しみにしてたら、一体何処に居たのよ」 身体を持って揺さぶられた。 「こりゃヤバイ」 天津(ティェンジン)で月見をしたのは男ばかりでよかった。 「天津(ティェンジン)で結の仲間と月観の約束をしていたのでそれまで新しく出す、飯店や菜店の店探しに走り回っていたんだぜ」 「ふん、南京(ナンジン)へ寄るならなんで言わずにいたのよ」 不味い飛燕と娘がばれたかと、急いでそっぽを向いた顎をぐいと引き寄せてまた口づけをした。 手ごたえがあったので着ているものを徐々に脱がした。
声もなく行ったのは初めてだ、いつもは何か言いながら昇天する。 身体を拭いてもまだ動けない様だ。自分の始末をして乳房の間に顎を置くと漸く「喜歓(シーファン)、哥哥」と頭を抱き寄せた。 「姐姐(チェチェ)。宝貝,我愛你(バオベイウォアイニー)」 そう囁くとまた気が行ったようで唇から血が滲んできた。 「我慢するなよ」 「だって」 姐姐(チェチェ)は自分の乳房事フェンシェンインデの頭を抑え込んだ。 「我想你(ゥォシャンニ)、我想你(ウォシィァンニー)」 そう言いながら腕に力がこもる、抱き合うだけで今日は何度も行ってしまう様だ。 女は年とともに鈍感になると、火班の老爺たちの自慢話は嘘ばかりだ。 「哥哥は狡い」 そんな事まで言いだした。 「言葉で行くのはいや」 無理ばかりだ、でも十五夜の事は持ち出さなくなった。 年末、噂で南昌の老道人が亡くなったと和珅(ヘシェン)の耳に届いた。 噂のおまけに百十八歳だったが「朝まで」元気だったと実しやかに伝わった。 フェンシェンインデはこれでお役御免だと安心した。 |
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乾隆五十九年一月一日(1794年1月31日)甲寅 フェンシェンインデ、公主共に十九歳。 二人の仲睦まじい様子はフンリの耳にも届いている。 フェンシェンインデは本当に容妃娘娘に似てきていると思っている。 それはフォンシャン(皇上)も同じらしくカスティリオーネの残した工房に容妃の絵を描くときの替わりになって呉れと頼んできた。 三日に一度の工房通いはそれなりに楽しそうだ。 寧寧(ニィンニン)や翠凛(ツゥィリン)と三人で出かけてよいと和珅(ヘシェン)も賛成して母親惇妃の処へも顔を出してくるそうだ。 どういうわけか城へ上がった日の夜の公主は積極的だ。 フェンシェンインデがタジタジになる程何度も求めてくる。 秘薬「活精丹」、いや延命薬の「保精丹」でも飲まないと負けてしまうなど思ってしまうほど寝屋の公主は積極的だ。 小さな引き締まった乳房は両の手に余るようになり、小さな乳頭も薄桃色の儘だが指の間から顔がのぞくように突き出てくる。 秘所の和毛は柔らかく手触りはどの女よりいいと思っている。 その日は三度目が終わっても、まだ公主が離さない。 一度冷えた茶を二人で飲んで気を落ち着け、体を入れ替えながら攻め立てた。 幾度も公主は達して気を飛ばした。 ついに起きあがれないほど気を遣った公主が、身体を弛緩させて息も絶え絶えの様子に、慌てて置いてあった湯で湿らせた布で、体をごしごしと擦った。 目が覚めた公主は一瞬自分を見失ったように見えた。 抱き合って布団にくるまると、身体に熱がこもりふたりは幸せな眠りについた。 固倫和孝公主が妊娠したとフェンシェンインデに告げたのは四月下旬。 「あなたお話が」 妊娠を告げ寧寧(ニィンニン)と馮氏(ファンFéng)の三人で男の子なら和珅(ヘシェン)に知らせずに隠して育てたいと相談した。 三人から打ち明けられた話は和珅(ヘシェン)が何時弾劾されてもおかしくないという話だ。 公主と馮霽雯(ファンツマン)の手の者となった妾-翠凛(ツゥィリン)は和珅(ヘシェン)が公主に男子誕生の際、皇位を望んでいるという事を伝えた。 和第に秘密の部屋が二つあり、一つは金銀財宝、一つは皇帝の衣装部屋。 「あり得ない」 フェンシェンインデは考えておくと言った。 馮霽雯(ファンツマン)は男ならここで決断しなさいと迫った。 「父を裏切ることになる」 公主はフェンシェンインデに迫った。 「私はあなたを守りたい。でも兄たちは老爺を許さないでしょう。もし私たちの子を皇位などとは噂だけでも命とりに為ります」 馮霽雯(ファンツマン)は話が拗れた時の為に、待たせていた平文炳と平儀藩が呼ばれた。 「結」に結社、「御秘官」の詳細を説明され、フェンシェンインデは従うしか道がない事を教えられた。 公主に馮霽雯(ファンツマン)は男の子誕生と信じている。 固倫和孝公主から難産で生まれた子は女子、産まれ落ちてすぐ亡くなったと届けがあった。 身代わりに平文炳が乞食の中で死期の迫った娘を天津で見つけ、買い取ると秘密裏に医者が手当てをしたが、直ぐ亡くなったので灰にした。 和信の誕生とともに、豊紳府では供養を念入りにした。 フェンシェンインデと固倫和孝公主の間に男子誕生。 乾隆五十九年十二月十九日(1795年2月8日)-和信(ヘシィンHé Xìn) 産まれ落ちると「御秘官」の倭国への密輸を仕切る平文炳へ預けられた。 結社漕幇(ツァォパァ)の中核「結」の指導者の一人だ。 公主もわが子と別れるのは辛いが、何より生きながらえてほしい気持ちが勝った(まさった)。 フェンシェンインデと公主に何処で育てられるか知らされることはない。 手形が毎年贈られそれで健在と成長が知らされる。 この年フンリはフェンシェンインデの位階を上げている。 乾隆五十九年十月-正黄旗護軍統領。 上三旗は皇帝直属の部署だ。 続けざまに上諭があり 乾隆六十年正月-内務府大臣。 いくら六人いる内務府大臣でも偉い事だ。 二十歳の若者が大臣だ、和珅(ヘシェン)は飛び上がらんばかりに喜んでいる。 「孫が欲しい、公主が生む男の孫が」 和珅(ヘシェン)の長女は鑲白旗貝勒永鋆(ヨンユァン)の嫡福晋、長子は綿算と名づけられ、今年長女が誕生した。 次女は学者の貴慶の嫁に出し妊娠中。 弟和琳(ヘリン)には男の子が誕生し、子供は良輔、フォンシャン(皇上)が豊紳宣綿(伊綿)と名乗らせた。 フェンシェンインデと同じ乾隆四十年(1775年)生まれで今年長子福恩が産まれた。 二十三歳になった翠凛(ツゥィリン)にも子供が出来ない。 四十六歳の壮年期の和珅(ヘシェン)は格格を二人家にいれた。 一人は承乾宮(チァンチェンゴン)の恭嬪の宮人だった女で、もう二十九歳だが四年前嫁入りして間も無く夫を亡くした。 妊娠八か月で寡婦になった。 夫は劉全の所で働いていて、和珅(ヘシェン)も「良い女を嫁にとって幸せ者」と声をかけたことがある。 広州に両親が居て其処へ戻ることも有るまいと、子供は女の子を欲しがる家に養子(委託)に出し、和第で下働きの仕事を与えた。 瞳が青く、回族か欧羅巴の血を引くらしい女は声も上品で牛腿琴(ニウトゥイチン)を持ってきて居たので、食事の時演奏させると招待客に評判になった。 招待客の中の老爺が「昔フォンシャン(皇上)が小提琴(バイオリン)をご自分で奏でて披露されたが形は似ていても音色はずいぶん違う」と昔話で盛り上げてくれた。 ただ歌わせると声がいいのに不味い、それが欠点だ、それで歌の上手い女も雇った、もう一人の格格にした。 二人で暇さえあれば古歌から、はやり歌まで覚えるのが仕事になった。 つい手を出した、壮年期の男の疼きに負けた。 世間はそう見たが、和珅(ヘシェン)は前から目を付けていたようだ。 それで手元に置いて仕事を与えた。 子供を産んだ寡婦とは思えぬ具合に手放せなくなった。 秘薬なしでも十分満足させてくれる晋播(シィンボォ)という女に惚れた。 まさかこれが後に罪に為るなど誰も思わない。 フンリでさえ「青い眼の女か、いい処に目を付けおって」などともに笑ったくらいだ、ということはフォンシャン(皇上)も目には留めていた様だ。 年季明け、寡婦、子連れ(養子に出したとは言っても養育費の為に働いている)、誰が聞いても世話した方をほめる。 嘉慶四年弾劾二十の大罪 宮廷から暇を出された侍女を妾とした。廉恥を顧みない行為である。大罪その四である。 此の弾劾文を知った宮人を妾にして居る多くのものは恐れおののいた。 乾隆六十年九月三日(1795年10月15日)十五阿哥永琰(ヨンイェン)は正式に皇太子と宣示された。 皇太子は顒琰(ヨンイェン)と名を改めた。 |
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第二十三回-豊紳殷徳外伝-2 |
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自主規制をかけています。 筋が飛ぶことも有りますので想像で補うことをお願いします。 |
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功績を認められないと代替わりに位階がさがった。 ・和碩親王(ホショイチンワン) 世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅郡王(ドロイグイワン) 長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅貝勒(ドロイベイレ) ・固山貝子(グサイベイセ) ・奉恩鎮國公 ・奉恩輔國公 ・不入八分鎮國公 ・不入八分輔國公 ・鎮國將軍 ・輔國將軍 ・奉國將軍 ・奉恩將軍 ・・・・・ 固倫公主(グルニグンジョ) 和碩公主(ホショイグンジョ) 郡主・縣主 郡君・縣君・郷君 ・・・・・ 満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。 ・上三旗・皇帝直属 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ) 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ) 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ) ・下五旗・貝勒(宗室)がトップ 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ) 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ) 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ) 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ) 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ) ・・・・・ |
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第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。 18歳未満の方は入室しないでください。 |
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第一部-富察花音の霊 | |
第二部-九尾狐(天狐)の妖力 | |
第三部-魏桃華の霊 | |
第四部-豊紳殷徳外伝 |