甫箭(フージァン)は出ているという、小僧二人が供で、出先は阮品菜店(ルァンピィンツァイディン)から安聘(アンピン)菜館へ回るという。
留守は番頭の鄭玄(ヂァンシァン)がいれば甫箭も安心できる。
嫁を貰えば独立をと考えてもいる。
甫箭(フージァン)に店はほぼ任せている、お飾りに近いと自分では思うようだ。
店の将来は甫箭に任せ、楽隠居でもとふと思うのだが、そうすると次々仕事が持ち込まれてしまう。
“哥哥に見込まれてから、ずいぶんひやひやもしたが十分楽しんだ”
荘園の管理が決まると、まだまだ楽しみはあると活力がわいた。
権洪(グォンホォン)の夫婦に「爸爸(バァバ・パパ)は一つ仕事を減らすと二つ引き寄せる」と言われてしまう。
孜漢(ズハァン)は五十三歳枯れるにはまだ早い。
荒れ邸の老頭(ラオトウ)のようにはいかない様だとつくづく思いながら茶を飲んでいるさまは“ご隠居”と呼んでも良いありさまだ。
誰かに前門(チェンメン)の水会(シィウフェイ)を任せようと人材を思い出しては消していった。
条件は大店の主連と気が合う事、官吏の懐柔が出来る事。
何より腰が軽いことが大事だ。
孜漢は最初は結へ入らずとも好いだろと思っていたが、康演から推挙人になる都合もあるからと参加した。
案の定店から独立させた男たちの推挙人に必要になった。
妾は賽梅花(サァイメイファ)二十三になった、百順胡同(バイシュンフートン)東院妓楼(ドンユァンヂィロォゥ)の売れっ子を買い取った。
客を振るので孜漢(ズハァン)のような変わり者しか寄り付かない。
三百か五百かと思っていたら妓楼は銀票五十両で引き取ってくれという。
本名は周麗華(チョウリィファ)三年前に家に入れて月三十両で始末を任せたら一年後に「五十両残りました」と出してきた。
それで証文を買わせるつもりになった。
「どうするか自分で考えろ。商売するなり嫁に行くなりしたらどうだ。支度はしてやる」
そのように言うと怒って銀(かね)を投げつけた。
「自儘になるくらいの銀(かね)くらい持ってる。旦那に惚れたから来たんだ。売るなりたたき出すなり好きにしな」
これには孜漢(ズハァン)も謝って「俺の面倒を生涯見てくれ」と頼み込んだ。
それ以来家で頭が上がらない。
最近知ったのは、後ろ盾に元太監の隠居がついて自儘にさせていたと相公(シヤンコン)の陶延命(タオイェンミィン)から聞き出した。
陶の話しでは外城には十人ではきかないくらいの隠居太監がいて、十軒は妓楼の株を持っているという。
「どこがそうなんだ」
陶は口をとがらせて口笛を吹きだした、教える気は無いようだ。
安聘(アンピン)菜館裏手の孜漢の家から富富(フゥフゥ)が王李香(リーシャン)の弟子の梁(リャン)と出てきた。
「家に用事だったのかい」
「そう、大事な用事、麗華姐姐にね」
二人はそれだけ言うと「あとはよろしく」と去っていった。
家では潘(パン)が出迎えて「奥様がお待ちです」という。
料理番の潘(パン)は麗華を奥様と呼ぶ只一人の女だ。
女中二人と小間使いは「麗華(リィファ)様と呼べ」いう言いつけを守っている。
部屋では青白い顔をして麗華が待っていた。
「具合でも悪いのか、医者を呼ばなくていいのか」
「梁(リャン)さんに会いませんでしたか」
「富富(フゥフゥ)と二人であとはよろしくだとか言ってさっさと家の方へ行ったきりだ」
「実は子が出来ました」
孜漢は「よくやった。もう出来ないかと諦めていたんだ」と満面の笑みで抱き寄せた。
「ただ生まれる子が可哀そうで」
「なんでだ」
「だって奥様のお娘(おこ)や孫に邪魔者にされてはかわいそう」
「気にするな。俺には財産はない。すべて哥哥と娘娘からの預かり物だ。もとは黄河の氾濫で乞丐(チィガァイ)同然で京城(みやこ)付近をうろついていたのを劉全(リゥチィアン)の旦那に拾われた孤児だ。一緒に家をなくした人たちの情けでやっと生きていられたくらいだ。娘たちには媽媽(マァーマァー)が死んだときに財産分けして言い聞かせてある。それ以外に係累もない」
孜漢は間を端折って乾隆二十六年十月黄河決壊の時に懐慶府で一家離散したと話した。
懐慶府は洛陽の北東黄河を挟んで百八十里にある、京城(みやこ)まで千五百里の街道を幾日さまよったか定かではないという。
離合集散も多く、乞丐同然のものにも盗賊が襲う時もあったという。
農人の情け、丐頭の情け、漕幇(ツァォパァ)達の情けにすがってひたすら歩いたという。
漕幇の船頭達に、運河脇の河原で恵まれた粥の旨さは今でも思い出すという。
生まれた年と村の名、父母(フゥムゥ)の名は守り袋の油紙に包まれていた。
父母(フゥムゥ)の安否もわからぬまま、冬を越し春も過ぎ、漸く京城(みやこ)まで百里の所まで来た。
丐頭の情けでその付近の集団に加わっていたという、農家の手伝いは飢えをしのぐ手立てだった。
集団の長は子供たちに字を教えた、字が読み書き出来れば仕事も増える。
白髭の老頭(ラオトウ)から棍と拳も教えられた。
この時の集団は結と御秘官(イミグァン)の庇護下にあったとあとで知った。
だから農家にも給付が出て、それで雇ってくれたと劉全が教えてくれた。
今は袁洪玄の住まう拱極城(宛平城)南の飯店には、代々の宦官内の「御秘官(イミグァン)」が隠居後に住んでいてその下の組織だった。
目的は各地の被災民の暴発を防いで京城(みやこ)を守っていたが、嘉慶帝は粘竿処(チャンガンチュ)の報告を全面的には信じていない。
康熙帝玄燁のもくろんだ、皇城を民に盾となって守らせる、それは嘉慶帝になって崩れだしている。
孜漢が二十歳の時、劉全(リゥチィアン)が自分の店へ勤めさせ、乾隆五十三年三十四歳の時にインドゥの金庫番に推薦されて十九年になる。
金庫番は與仁(イーレン)が引継ぎ、店は周甫箭(チョウフージァン)へ譲ると決めている。
亡くなった妻は十八の時、北城の酒店の出戻り娘安孝甜(アンシィアォティエン)二十五歳と出会って婚姻し、すぐに娘孜景園(ズジンユァン)が生まれた。
このころは街の使い走りをしていて苦しい時代だった。
娘三人が授かったが嘉慶五年一月に流行風邪がこじれ五十四歳で亡くなった。
この時は蔡英敏や宋輩江は前月(師走)から皇城内から出られず、街の医者は手を尽くしたが原因のわからぬまま亡くなってしまった。
太医達はふた月六十日の間禁足状態で街とは完全に隔離されてしまったのだ。
師走、正月と猛威を振るい二月には医者も暇になるほど急速に終息した。
「だから麗華(リィファ)はこの家を守り、生まれる子を大事に育てる。それ以外は俺に任せりゃいいんだ」
店に戻り、戻って来た甫箭と豊紳府へ向かった。
途中興藍行(イーラァンシィン)で子ができると話して夫婦を驚かせた。
娘娘はたいそう喜んでくれ麗華(リィファ)への「お土産」と言って髪飾りの箱を呉れた。
非番のインドゥにもさんざん揶揄われ、ようやく府第を後にした。
道々礼雄(リィシィォン)の婚姻について式は双信の三月後で、日時はまだこれからだが規模は同じに孜漢の銀(かね)と店で出すように頼んだ。
「いい機会だから興延に礼雄二人を番頭にして給与も月十両、付き合いは五両と〇〇の方は銀(かね)三十両にします」
「〇〇はどこで遣うかわからないから銀(イン)百銭は常に持たせておけよ」
「村の方へ使わせてもいいのですか」
「いいともよ、それから安定門(アンディンメン)の店は俺から甫箭に名義を替えておけよ」
そうしますと甫箭は請け合った、これで甫箭の接待できる場所が北側にもできた。
「その際小僧を三人手代にします。もし鄭玄が独立すれば二人くらいは付けるようですし、蘇州の担当を育てるつもりです」
良い読みだと安心して頷いた。
城外四里はさびれた風情だが、結へ参加が認められた甫箭には必要な場所だ。
商人の多い結の集まりには好都合だ、季節によって名目はいくらでもある。
年に五百を超える給付を受ける興延に礼雄の二人は、店の中核へ上るということだ。
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