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文化十二年四月二十一日(1815年5月29日)神田明神
“ 長崎屋源右衛門 ”では早朝から訪れる本道医で混雑している。
宋太医に叶庸(イエイオン)、蔡太医に和信(ヘシィン)が通訳に付、丹宝意(ダンバオイー)は二人の太医の言う薬剤が長崎屋に有るかを番頭と筆談で探している。
「和国では虫下しで済むものまで大袈裟に言うが、彼らは本当に医者かね」
街道でも怪しげな医者の質問に悩まされ、江戸ならまともな医者に会えるかと期待していたのだ。
鷓鴣菜(マクリ・海人草)さえ知らぬと言うが、人糞が安価な肥料である以上回虫などの蔓延を防ぐ手段は手足を洗う、食材を洗うこれしか手立てがないのだ。
“ 閩書南産誌 ”“ 大和本草 ”さえ写本を持つものが少ないという。
脚気患者の相談が多いが「麦飯、雑穀、豆類、饂飩、蕎麦などを多く食せば快方に向かう」としか治癒の方策が無いのだ。
又、訪れる本道医の多くが、高価な薬剤を聞きたがるので宋太医も困っている。
「大根が効果ありと昔から言われますが」
「それでは銀(かね)に為らないとごねられたよ」
叶庸(イエイオン)は大根の糠漬けが良いそうですと煽っている。
「沢庵と云う物かね。玄米の糠で漬けるなら効果ありそうだ」
清国では豆類の摂取が多く、脚気が極端に少ないのだ。
支那(しな)でも昔は唐の時代、漢民族に脚気の患者が多く、医者が苦労していたのだ。
和国でも治療の道筋は示されている、曲直瀬玄朔の済民記に“ 小豆、黒豆、牛蒡、そば、栗、くこ、キビ、鶉、雉、猪 ” に効果ありと記されている。
「せめて鶏、豚、牛を和国の人が調理するなら白米の多食が減るだろうに。我が国のようにヒマワリの種、かぼちゃの種を食すのも効果が有りそうだ」
叶庸(イエイオン)から「脚気の患者の多くが江戸に多い」という事から、食事の偏りが原因と清国でも知れ渡っている。
宋太医たちは護衛の武士と共に須田町へ向かった。
先導に善造が叶庸(イエイオン)とたった。
筋違御門前は八辻ヶ原、松平左衛門尉の塀際を進んで昌平橋を渡った。
昌平坂を登り神田明神の鳥居をくぐった。
善造はここぞと「昌平坂の由来を知りなさるか」と叶庸(イエイオン)に話しを振った。
「いや、何処かに昌平と言う人でも住んでいた哉」
「孔子様の故郷が昌平村と云うそうです」
叶庸(イエイオン)は目明しがその様なことまで知っているのに驚いている。
楼門は朱と緑の色が映えている。
社殿まで進み拝礼をした。
「千百年ほども昔、大己貴命の御子孫真神田臣(まかんだおみ)様柴崎村に創建で、後に平将門様も祭神に加わりなされました。江戸総鎮守として尊崇されておられ、お城の拡張工事に伴い、二百年前にこの地へ移られて参りました」
善造は東側の崖へ案内した。
深川沖まで見渡せる景色は雄大であった。
明神石坂だと言いながら階段下(明神下)へ案内し左手へ進んだ。
板倉摂津守の屋敷を左へ上れば、湯島天満宮の表門。
料理屋、休み茶見世が軒を連ねている。
「此の鳥居は五十年ほど前に奉納されました。天満宮は千三百五十年前の創建と伝わります」
菅原道真公の時代より前と云う事は元の祭神は違うようだと、庸(イォン)は不思議そうな顔をした。
善造はこの人は和国の神社にも通じているのかと思った。
「天之手力雄命を祀る神社として創建されたそうで御座いますよ。四百五十年程前に為って菅原道真公を合祀されたそうで御座います」
この目明し学があると驚いた。
「本殿は元禄十六年の大火で全焼し翌年再建されました」
叶庸(イエイオン)は態と「それはいかほど前か」と聞いて見た。
「百十年程前の事だと聞いて居ります。ときの将軍様が勧進元に為られたそうです」
綱吉公が寄進したと言いたいのだろう。
境内は宮地芝居の小屋が盛況を呈していた。
本殿で拝礼し、戻りは上野広小路へ出た。
食違い御門へ出て八辻原から須田町を通り、今川橋で和信(ヘシィン)は今川焼の屋台を覘いた。
「良い匂いだね」
「二つ四文だ」
親仁は昨日も見た辮髪に驚きもせず答えている。
和国の四文銭を二枚出し、叶庸(イエイオン)と買い食いしてみた。
中に何もないがごま油の香りで美味しく食べられた。
石町通の角を左へ入れば長崎屋の前には、見物人が二十人ほども集って(たかって)いる。
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