第伍部-和信伝-陸拾参

第九十四回-和信伝-

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

神田明神

文化十二年四月二十日(1815528日)日本橋

宋太医一行が長崎を出て五十二日目。

板橋宿中宿(しゅく)左手“ 飯田新左衛門本陣 ”を巳の刻(九時頃)前に出立した。

江戸日本橋から二里目平尾一里塚を過ぎた。

左塚が滝野川村、右塚は板橋宿内と警護の進藤常吾郎が和信(ヘシィン)に話している。

白山権現の階段下を過ぎ、追分で左へ行くのが日光御成道(にっこうおなりみち)。

「此処が中山道本郷追分です。此の塀が加賀前田家上屋敷で御座る」

聖堂と神田明神に挟まれた昌平坂を下って、筋違御門の筋違橋で神田川を渡った。

「近くに湯島天神が有るそうですね」

「明日にでもご案内致しますが。本日は儀礼の交換で日本橋北詰に北町奉行永田備後守様が午の刻(九つ・十一時四十分頃)にお出ましに為られます。二刻(とき・三十分程度)以上遅れては困り申す」

「この時計は十一時。あと三十分あれば楽に着くでしょう」

和信(ヘシィン)のほうが正確に判断している。

「参りましたな。この時期一刻(こく)が春に比べて二刻(とき・三十分程度)は長いですからな」

長崎屋へ案内の北町奉行所の見習与力だった高橋鉄次郎は、父高橋八郎右衛門の名跡を継いで見習いの二文字が取れたばかりだ。

すでに五十九歳で五番組の同心支配役に着いたばかり、鉄次郎より年上の与力は二人しかいない。

日本橋へ着くと善造と言う若い目明しが来て「本郷追分で確認しましたのでもうじきおいでですぜ」と告げた。

奉行の駕籠がようやく橋向こうへ着き、六十四歳とは思えぬ元気な姿を現した。

南町の根岸肥前守鎮衛は七十九歳と言う老年、江戸の治安を預かるには年寄ばかりじゃないかと、鉄次郎は見習い当時不安な毎日で有った。

善造の子分の幸吉が「筋違御門を通りました」と告げた時、今川橋辺りで人がどよめいているのが聞えた。

「辮髪が珍しんですかね。オランダのカピタンの時以上に騒いで居やがる」

和信(ヘシィン)は須田町付近から雑人に旗を揚げさせ、笛を吹きながら歩きだしていた。

爾海燕(ゥァールハイイェン)に習った陽気な音色に、沿道の人たちも足踏みをしている。

北町奉行永田備後守が片手をあげると、庸(イォン)が出て和語で到着の挨拶をした。

高橋鉄次郎を呼び出し「此の男は奉行所で儂の次の位について居る。本石町三丁目長崎屋源右衛門へ案内させるによって、ゆるりと休まれよ」と告げると橋を渡って駕籠に乗って去った。

鉄次郎は一行を長崎屋へ送り届け、警護の責任者だという山本仁之助に善造を引き合わせた。「何か困ればこの男へ言ってくだされ。長崎屋へ部屋を用意させ申した」

「五日の間の予定で御座る」

和信(ヘシィン)から示された予定表はすでに奉行の認可が出ていて、単なる確認にすぎなかった。

行きたい場所が浅草寺、湯島天神、神田明神、川向こうの寺嶋で遊行とくれば奉行も断りようもない。

此の日、例幣使の一行は粕壁に到着予定。

明日二十一日は粕壁から十里四町で江戸入りと連絡が来た。

二十二日には東海道を京(みやこ)へ上ると云う。

京(みやこ)到着は五月八日、宋太医たちは五月九日の京(みやこ)到着だそうだ。

文化十二年四月二十一日(1815529日)神田明神

長崎屋源右衛門 ”では早朝から訪れる本道医で混雑している。

宋太医に叶庸(イエイオン)、蔡太医に和信(ヘシィン)が通訳に付、丹宝意(ダンバオイー)は二人の太医の言う薬剤が長崎屋に有るかを番頭と筆談で探している。

「和国では虫下しで済むものまで大袈裟に言うが、彼らは本当に医者かね」

街道でも怪しげな医者の質問に悩まされ、江戸ならまともな医者に会えるかと期待していたのだ。

鷓鴣菜(マクリ・海人草)さえ知らぬと言うが、人糞が安価な肥料である以上回虫などの蔓延を防ぐ手段は手足を洗う、食材を洗うこれしか手立てがないのだ。

閩書南産誌 ”“ 大和本草 ”さえ写本を持つものが少ないという。

脚気患者の相談が多いが「麦飯、雑穀、豆類、饂飩、蕎麦などを多く食せば快方に向かう」としか治癒の方策が無いのだ。

又、訪れる本道医の多くが、高価な薬剤を聞きたがるので宋太医も困っている。

「大根が効果ありと昔から言われますが」

「それでは銀(かね)に為らないとごねられたよ」

叶庸(イエイオン)は大根の糠漬けが良いそうですと煽っている。

「沢庵と云う物かね。玄米の糠で漬けるなら効果ありそうだ」

清国では豆類の摂取が多く、脚気が極端に少ないのだ。

支那(しな)でも昔は唐の時代、漢民族に脚気の患者が多く、医者が苦労していたのだ。

和国でも治療の道筋は示されている、曲直瀬玄朔の済民記に“ 小豆、黒豆、牛蒡、そば、栗、くこ、キビ、鶉、雉、猪 に効果ありと記されている。

「せめて鶏、豚、牛を和国の人が調理するなら白米の多食が減るだろうに。我が国のようにヒマワリの種、かぼちゃの種を食すのも効果が有りそうだ」

叶庸(イエイオン)から「脚気の患者の多くが江戸に多い」という事から、食事の偏りが原因と清国でも知れ渡っている。

宋太医たちは護衛の武士と共に須田町へ向かった。

先導に善造が叶庸(イエイオン)とたった。

筋違御門前は八辻ヶ原、松平左衛門尉の塀際を進んで昌平橋を渡った。

昌平坂を登り神田明神の鳥居をくぐった。

善造はここぞと「昌平坂の由来を知りなさるか」と叶庸(イエイオン)に話しを振った。

「いや、何処かに昌平と言う人でも住んでいた哉」

「孔子様の故郷が昌平村と云うそうです」

叶庸(イエイオン)は目明しがその様なことまで知っているのに驚いている。

楼門は朱と緑の色が映えている。

社殿まで進み拝礼をした。

「千百年ほども昔、大己貴命の御子孫真神田臣(まかんだおみ)様柴崎村に創建で、後に平将門様も祭神に加わりなされました。江戸総鎮守として尊崇されておられ、お城の拡張工事に伴い、二百年前にこの地へ移られて参りました」

善造は東側の崖へ案内した。

深川沖まで見渡せる景色は雄大であった。

明神石坂だと言いながら階段下(明神下)へ案内し左手へ進んだ。

板倉摂津守の屋敷を左へ上れば、湯島天満宮の表門。

料理屋、休み茶見世が軒を連ねている。

「此の鳥居は五十年ほど前に奉納されました。天満宮は千三百五十年前の創建と伝わります」

菅原道真公の時代より前と云う事は元の祭神は違うようだと、庸(イォン)は不思議そうな顔をした。

善造はこの人は和国の神社にも通じているのかと思った。

「天之手力雄命を祀る神社として創建されたそうで御座いますよ。四百五十年程前に為って菅原道真公を合祀されたそうで御座います」

この目明し学があると驚いた。

「本殿は元禄十六年の大火で全焼し翌年再建されました」

叶庸(イエイオン)は態と「それはいかほど前か」と聞いて見た。

「百十年程前の事だと聞いて居ります。ときの将軍様が勧進元に為られたそうです」

綱吉公が寄進したと言いたいのだろう。

境内は宮地芝居の小屋が盛況を呈していた。

本殿で拝礼し、戻りは上野広小路へ出た。

食違い御門へ出て八辻原から須田町を通り、今川橋で和信(ヘシィン)は今川焼の屋台を覘いた。

「良い匂いだね」

「二つ四文だ」

親仁は昨日も見た辮髪に驚きもせず答えている。

和国の四文銭を二枚出し、叶庸(イエイオン)と買い食いしてみた。

中に何もないがごま油の香りで美味しく食べられた。

石町通の角を左へ入れば長崎屋の前には、見物人が二十人ほども集って(たかって)いる。

文化十二年四月二十二日(1815530日)寺嶋

長崎屋源右衛門 ”で巳の刻(九時十分頃)まで府内の本道医と面談し、猪四郎が寄越した手代の案内に従って店を後にした。

鉄砲町、小傳馬町、馬喰町、と進み浅草御門前まで来た。

猪四郎の手代は久右衛門丁の馴染みの船宿山勘へ案内した。

護衛の武士や宋太医一行十九人に善造、手代の面々は三艘の屋根舟に分かれて大川へ出た。

向島の牛御前上(かみ)の船着きで降り、寺嶋村猪四郎の別邸梅屋敷へ向かった。

善造は手代と打ち解け、大きな声で町の噂を話している。

猪四郎がお由(およし)ともう一つの別邸菖蒲園の門前に出ている。

「昼には時間が有るので、まばらですが花を少しの間見て茶でも飲んでください」

そう誘って園内に導いた。

手代は叶庸(イエイオン)と料理人を猪四郎の梅屋敷蔵造りの厨房へ案内した。

丈助が次郎丸の書状に書かれている食材を出来うる限り用意していた。

四日前から“ ふかひれ ”を水で戻し、昨日の朝から房楊枝で掃除し、今日は焼酎で蒸し上げておいた。

鶏のがらで汁を焚いて料理人の来るのを待ち受けている。

「本格の料理には程遠いが我慢してもらうほかない」

料理人の全(チュアン)は「これだけあれば何とかするのが儂の腕だ」と満足してくれた。

全子豪(チュアンズーハオ)と云う名だと庸(イォン)が丈助に話している。

蘇州に同じ名の名料理人がいて鼻が高いと変な自慢をした。

「本来豚の骨、牛の骨の汁も欲しいが、和国では無理だと聞いた。鶏ガラが有るだけましだ」

叶庸(イエイオン)には“ 庸(イォン)さんの鶏 ”をお願いしたいと丈助が頼んでいる。

野菜の甘煮(滝乃川かぶ・空豆)に合わせるように鶏肉を煮込み、同じ皿に盛った物は一同の感嘆を誘った。

饅頭と鱶鰭はさらに食欲を誘った。

庸(イォン)さんの鶏 ”は警護の武士たちの賞賛を浴びた。

「中身のない饅頭がこれほど美味いとわ」が彼らの最大の賛辞だと全(チュアン)は大喜びだ。

猪四郎は鶏ガラを用意する為、十羽の鶏で串焼き用の肉を別にし、手伝った女中たちに振る舞うことにしていた。

将軍名代として日光へ出ていた井伊直亮(いいなおあき)が、参拝の報告を将軍家にあげたと山本仁之助へ報告が届いた。

文化十二年四月二十三日(1815531日)浅草寺

此の日も“ 長崎屋源右衛門 ”で巳の刻(九時十分頃)まで府内の本道医と面談した。

善造は浅草御門への道を選んで浅草寺へ向かった。

蔵前の札差の店先は五月が待てない夏借米の代人で込み合っている。

日光道中と別れ雷門へ向かった。

「風雷神門と言いますがね。江戸っ子は雷門で済ませまさぁ」

門内右に鹿嶋、左に大神宮、各神社の前、参道の両脇は仲見世の名が付いた土産物、休み茶見世が並んでいる。

先には仁王門が有り、通り過ぎた右手に絵馬堂、五重塔がある。

左側が山王の鳥居、参道の突き当りが大屋根の本堂に為る。

一同は本堂で礼拝し回廊で周りを見渡した。

本堂の東側に大きな鐘楼と三社権現。

「裏手が奥山と言って水茶屋、楊弓場などの遊び場に為ります」

寺なのか神社なのか和信(ヘシィン)は不思議な場所だと宋太医と話し合っている。

「浅草寺の本尊を見つけた人が祭神の三社権現へ参ってください」

善造に導かれて隣の神社で拝礼した。

鳥居から出て左の門が「随身門 ずいじんもん )ですが此処では神ではなく身体(しんたい)の身を当ててあります」と善造が庸(イォン)へ話した。

「門の先が馬道、来る時追分で右へ向かった日光道中へ出ますので、そちらから戻りましょう」

馬道を右へ行けば花川戸、大川には東橋が架かっている。

駒形(こまかた)の追分で雷門からの道と合流した。

文化十二年四月二十四日(181561日)小石川御薬園

此の日も“ 長崎屋源右衛門 ”で巳の刻(九時十分頃)まで府内の本道医と面談した。

善造が和信(ヘシィン)と先頭で御薬園に向かった。

「今日は途中までが中山道を通ります」

「織田さまのお使いと打ち合わせの時御成り道で来られたと聞きましたが。違うのですか」

「同じ場所も通りますが御一行様が江戸に来られた道で間違いではございません。御成り道は大手門が始まりで、神田橋門を通り筋違御門へ出るので御座います」

一行は今川橋、須田町、八ツ小路(八辻ガ原)で昌平橋を渡った。

昌平坂から本郷追分で御成り道と分かれ白山権現への階段を上り、東鳥居前を通り抜けた。

「元は足利尊氏公が加賀国石川郡に鎮座されていた加賀国一之宮白山比咩神社を本郷へ勧請されたと言われております。五代将軍様ご幼少のみぎり別邸とされた御殿後へ百六十年ほど前に遷座と云います。享保三年の火災で本殿のみが残りまして御座います」

大分はしょっていると和信(ヘシィン)は愉快になった。

御殿坂(白山御殿大通り)を下り小石川戸崎町を右へ行けば小石川御薬園。

小石川御薬園は薬園奉行所、小石川養生所は町奉行所の管轄だという。

享保七年岡田利左衛門支配の一角に施薬院(養生所)が設立、町医小川笙船(しようせん)の建白と云う。

寄合医師、小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていると云う。

享保の時代に比べ難病の者も多く此処を頼った結果、全快者に比べ病死の者が四人に一人くらい出ている。

宋太医、蔡太医は病人に使う薬を聞き取り、手に入れられるものは回す約束をした。

此処にも脚気患者が多く通っているが、麦七米三の食事療法に気休めの薬剤を処方していた。

鍋割坂岡田利左衛門管轄薬園奉行所へ出向き、栽培中の薬草を見せてもらうことにした。

江戸城の他、京(みやこ)仙洞御所へも薬剤が届けられ余剰品の売却も役儀の内に含まれていた。

薬園の西北芥川小野寺(あくたがわおのじ)御役屋敷を訪れ同じように薬草の説明を受けて回った。

東海道

・菱川師宣 東海道分間之図 元禄三年(1690年)

・桑楊   東海道分間絵図 宝暦二年(1752年)

・幕府   宿村大概帳   天保十四年(1843年)

(東海道分間延絵図・文化三年1806年・相違分のみ)

一番

日本橋

品川

二里

二里

二里

二里

二里

二里

二番

品川

川崎

二里十八町

二里十八丁

二里十八町

四里十八町

四里十八丁

四里十八町

三番

川崎

神奈川

二里十八町

二里十八丁

二里十八町

七里

七里

七里

四番

神奈川

新町

(程土ヶ谷)

一里九町

一里九丁

一里九町

八里九町

八里九丁

八里九町

五番

新町

(程土ヶ谷)

戸塚

二里九町

二里九丁

二里九町

十里十八町

十里十八丁

十里十八町

六番

戸塚

藤澤

二里

一里三十町

二里

十二里十八町

十二里十二町

十二里十八町

七番

藤澤

平塚

三里

三里十八丁

三里十八町

十五里十八町

十五里三十丁

十六里

八番

平塚

大磯

二十町

二十六丁

二十七町

十六里二町

十六里二十丁

十六里二十七町

九番

大磯

小田原

四里

四里

四里

二十里二町

二十里二十丁

二十里二十七町

十番

小田原

箱根

四里

四里八丁

四里八町

二十四里二町

二十四里二十八丁

二十四里三十五町

十一番

箱根

三嶋

三里二十八町

三里二十八丁

三里二十八町

二十七里三十町

二十七里二十丁

二十八里二十七町

十二番

三嶋

沼津

一里十八町

一里十八丁

一里十八町

二十九里十二町

二十九里二丁

三十里九町

十三番

沼津

一里十八町

一里十八丁

一里十八町

三十里三十町

三十里二十丁

三十一里二十七町

十四番

吉原

二里十八町

三里六丁

三里二十二間

三十三里十二町

三十三里二十六丁

三十四里二十七町二十二間

十五番

吉原

蒲原

三里

二里三十丁

二里三十町二十三間

二里三十二町二十二間)

三十六里十二町

三十七里二十丁

三十七里二十一町四十五間

十六番

蒲原

由比

一里

三十丁

一里

三十七里十二町

三十八里十四丁

三十八里二十一町四十五間

十七番

由比

興津

二里

二里十八丁

二里十二町

三十九里十二町

三十九里三十二丁

四十里三十三町四十五間

十八番

興津

江尻

一里二町

一里九丁

一里二町

四十里十四町

四十一里五丁

四十一里三十五町四十五間

十九番

江尻

府中

二里二十町

二里二十七丁

二里二十五町

四十二里三十四町

四十三里三十二丁

四十四里三十四町四十五間

二十番

府中

丸子

一里十八町

一里十八丁

一里十六町

四十四里十六町

四十五里十四丁

四十六里四町四十五間

二十一番

丸子

岡部

二里

二里

二里

四十六里十六町

四十七里十四丁

四十八里四町四十五間

二十二番

岡部

藤枝

一里二十六町

一里二十九丁

一里二十六町

四十八里六町

四十九里七丁

四十九里三十町四十五間

二十三番

藤枝

嶋田

二里

二里九丁

二里八町

五十里六町

五十一里十六丁

五十二里二町四十五間

二十四番

嶋田

金谷

一里

一里

一里

五十一里六町

五十二里十六丁

五十三里二町四十五間

二十五番

金谷

日坂

一里二十四町

一里二十九丁

一里二十四町

五十二里三十町

五十四里九丁

五十四里二十六町四十五間

二十六番

日坂

掛川

一里二十九町

一里二十九丁

一里二十九町

五十四里二十三町

五十六里二丁

五十六里十九町四十五間

二十七番

掛川

袋井

二里十六町

二里十六丁

二里十六町

五十七里三町

五十八里十八丁

五十八里三十五町四十五間

二十八番

袋井

見附

一里十八町

一里十八丁

一里十八町

五十八里二十一町

六十里

六十里十七町四十五間

二十九番

見附

浜松

三里七町

四里八丁

四里七町

六十一里二十八町

六十四里八丁

六十四里二十四町四十五間

三十番

浜松

舞坂

二里十町

二里二十八丁

二里二十八町

(二里三十町)

六十四里二町

六十七里

六十七里十六町四十五間

三十一番

舞坂

荒井(新居)

二十三町

一里十八丁

一里十八町

六十四里二十五町

六十八里十八丁

六十八里三十四町四十五間

三十二番

荒井(新居)

白須賀

一里十町

一里二十六丁

一里二十四町

六十五里三十五町

七十里八丁

七十里二十二町四十五間

三十三番

白須賀

二川

二里六町

一里十八丁

一里十七町

六十八里五町

七十一里二十六丁

七十二里三町四十五間

三十四番

二川

吉田

一里二十二町

一里十八丁

一里二十町

六十九里二十七町

七十三里八丁

七十三里二十三町四十五間

三十五番

吉田

五井(御油)

二里二十二町

二里二十二丁

二里二十二町

七十二里十三町

七十四里三十丁

七十六里九町四十五間

三十六番

五井(御油)

赤坂

十六町

十六丁

十六町

七十二里二十九町

七十五里十丁

七十六里二十五町四十五間

三十七番

赤坂

藤川

二里九町

二里九丁

二里九町

七十五里三町

七十七里十九丁

七十八里三十四町四十五間

三十八番

藤川

岡崎

一里七町

一里十八丁

一里二十五町

七十八里十町

七十九里一丁

八十里二十三町四十五間

三十九番

岡崎

池鯉鮒

三里

三里二十丁

三里二十九町二十二間

八十一里十町

八十二里二十一丁

八十四里十七町七間

四十番

池鯉鮒

鳴海

二里二十八町

二里三十丁

二里三十町

八十四里二町

八十六里十五丁

八十七里十一町七間

四十一番

鳴海

宮(熱田)

一里十八町

一里二十六丁

一里二十四町

八十五里二十町

八十八里五丁

八十八里三十五町七間

四十二番

宮(熱田)

桑名(七里渡)

七里

七里

七里

九十二里二十町

九十五里五丁

九十五里三十五町七間

四十三番

桑名(七里渡)

四日市

三里八町

三里八丁

三里八町

九十五里二十八町

九十八里十三丁

九十九里七町七間

四十四番

四日市

石薬師

二里二十五町

二里二十七丁

二里二十七町

九十八里十七町

百里四丁

百一里三十四町七間

四十五番

石薬師

庄野

二十五町

二十七丁

二十五町

九十九里六町

百里三十一丁

百二里二十三町七間

四十六番

庄野

亀山

二里

二里

二里

百一里六町

百二里三十丁

百四里二十三町七間

四十七番

亀山

一里十八町

一里十八丁

一里十八町

百二里二十四町

百四里十二丁

百六里五町七間

四十八番

坂の下(坂下)

一里二十四町

一里十八丁

一里二十四町

百四里十二町

百五里三十丁

百七里二十九町七間

四十九番

坂の下(坂下)

土山

二里十八町

二里十八丁

二里十八町

百六里三十町

百八里十二丁

百十里十一町七間

五十番

土山

水口

二里二十五町

二里三十二丁

二里二十五町

百九里十九町

百十一里八丁

百十三里七間

五十一番

水口

石部

三里二十六町

三里二十七丁

三里十八町

百十三里九町

百十四里三十五丁

百十六里十八町七間

五十二番

石部

草津

三里

二里二十五丁

二里三十五町五十四間

百十六里九町

百十七里二十四丁

百十九里十八町一間

五十三番

草津

大津

三里二十四町

三里三十丁

三里二十四町

百十九里三十三町

百二十一里十八丁

百二十三里六町一間

上がり

大津

京(三条大橋)

三里

三里

三里

百二十二里三十三町

百二十四里十八丁

百二十六里六町一間

 

・菱川師宣 東海道分間之図 元禄三年(1690年) 百二十二里三十三町・481.83km

 

・桑楊   東海道分間絵図 宝暦二年(1752年) 百二十四里十八丁・488.04km

 

・幕府   宿村大概帳   天保十四年(1843年) 百二十六里六町一間・494.59km

(東海道分間延絵図・文化三年1806年・相違分のみ  プラス一里三十五町)

 

一里3.92km3.92727273km

一里=三十六丁(町)・一丁=六十間・一丁=109

 

東海道五十七次 日本橋(江戸)~高麗橋(大坂)百三十九里四町一間 530.6km

伏見街道

伏見宿

三里

三里

五十三番

草津

大津

三里

百二十三里六町一間

五十四番

大津

伏見宿

四里八町

百二十七里十四町一間

五十五番

伏見宿

一里十四町

百二十八里二十八町一間

五十六番

枚方

三里十二町

百三十二里四町一間

五十七番

枚方

守口

三里

百三十五里四町一間

上がり

守口

高麗橋(大坂)

四里

百三十九里四町一間

 

   

東海道一里塚

 

江戸 日本橋

(東京都中央区)

一里 - 芝、金杉橋

(東京都港区) - 江戸中期にはすでになく、当初からなかった可能性も高い。

二里 - 品川、八ツ山

(東京都品川区) - 江戸中期にはすでになかった。

三里 - 大森

(東京都大田区)

四里 - 六郷

(東京都大田区)

五里 - 市場

(神奈川県横浜市鶴見区)

六里 - 東子安

(神奈川県横浜市神奈川区)

七里 - 神奈川

(神奈川県横浜市神奈川区)

八里 - 保土ヶ谷

(神奈川県横浜市保土ケ谷区)

権太坂(一番坂・二番坂)、焼餅坂、品濃坂。

九里 - 品濃

(神奈川県横浜市戸塚区)

十里 - 戸塚、吉田

(神奈川県横浜市戸塚区)

十一里 - 原宿

(神奈川県横浜市戸塚区)

十二里 - 藤沢、道場坂

(神奈川県藤沢市)

十三里 - 辻堂、四ツ谷

(神奈川県藤沢市)

十四里 - 茅ヶ崎

(神奈川県茅ヶ崎市)

十五里 - 馬入

(神奈川県平塚市)

十六里 - 大磯、化粧坂

(神奈川県中郡大磯町)

十七里 - 国府本郷

(神奈川県中郡大磯町)

十八里 - 押切坂

(神奈川県中郡二宮町)

十九里 - 小八幡

(神奈川県小田原市)

二十里 - 小田原、山王原

(神奈川県小田原市)

二十一里 - 風祭

(神奈川県小田原市)

二十二里 - 湯本茶屋

(神奈川県足柄下郡箱根町)

二十三里 - 畑宿

(神奈川県足柄下郡箱根町)

二十四里 - 葭原久保

(神奈川県足柄下郡箱根町)

二十五里 - なし

・かぶと石

二十六里 - 山中新田、接待茶屋

(静岡県田方郡函南町)

二十七里 - 笹原

(静岡県三島市)

二十八里 - 錦田

(静岡県三島市)

二十九里 - 伏見

(静岡県駿東郡清水町)

三十里 - 沼津、日枝

(静岡県沼津市)

三十一里 - 大諏訪、松永

(静岡県沼津市)

三十二里 - 原、一本松

(静岡県沼津市原)

三十三里 - 沼田新田

(静岡県富士市)

三十四里 - 依田橋

(静岡県富士市)

三十五里 - 本市場

(静岡県富士市)

三十六里 - なし

 

三十七里 - 岩淵

(静岡県富士市)

三十八里 - 蒲原

(静岡県静岡市清水区)

三十九里 - 由比

(静岡県静岡市清水区)

四十里 - 西倉沢

(静岡県静岡市清水区)

四十一里 - 興津

(静岡県静岡市清水区)

四十二里 - 江尻、辻

(静岡県静岡市清水区)

四十三里 - 草薙

(静岡県静岡市清水区)

四十四里 - 長沼

(静岡県静岡市葵区)

四十五里 - 府中

(静岡県静岡市葵区)行方知れず。

東海道絵図-幕府

・延宝期(1673年~1681年)に測量

此遍家のうらに一里塚あるよし・江戸から四十三里・ 京から七十七里 

四十六里 - 丸子

(静岡県静岡市駿河区)

四十七里 - 宇津ノ谷

(静岡県静岡市駿河区)

四十八里 - 岡部

(静岡県藤枝市)

四十九里 - 鬼島

(静岡県藤枝市)

五十里 - 志太

(静岡県藤枝市)

五十一里 - 上青島

(静岡県藤枝市)

五十二里 - 島田

(静岡県島田市)

五十三里 - 金谷

(静岡県島田市)

五十四里-不詳

水あめの茶見世。

五十五里-不詳

 

五十六里- 小夜中山

 

五十七里 - 伊達方

(静岡県掛川市)

五十八里 - 葛川

(静岡県掛川市)

五十九里 - 大池

(静岡県掛川市)

六十里 - 久津部

(静岡県袋井市)

六十一里 - 木原

(静岡県袋井市)

六十二里 - 阿多古山

(静岡県磐田市)

六十三里 - 宮之一色

(静岡県磐田市)

六十四里 - 安間

(静岡県浜松市東区)

六十五里 - 馬込、向宿

(静岡県浜松市中区)

六十六里 - 若林

(静岡県浜松市南区)

六十七里 - 篠原

(静岡県浜松市西区)

六十八里 - 舞坂

(静岡県浜松市西区)

六十九里 - 新居

(静岡県湖西市)

七十里 - 白須賀、元町

(静岡県湖西市)

七十一里 - 細谷、豊橋一里山

(愛知県豊橋市)

七十二里 - 二川

(愛知県豊橋市)

七十三里 - 飯村

(愛知県豊橋市)

七十四里 - 下地

(愛知県豊橋市)

七十五里 - 伊ノ奈

(愛知県豊川市)

七十六里 - 御油

(愛知県豊川市)

七十七里 - 長沢

(愛知県豊川市)

七十八里 - 本宿

(愛知県岡崎市)

七十九里 - 藤川

(愛知県岡崎市)

八十里 - 大平

(愛知県岡崎市)

八十一里 - なし

(岡崎宿内 ?)

八十二里 - 矢作

(愛知県岡崎市)

八十三里 - 尾崎

(愛知県安城市)

八十四里 - 来迎寺

(愛知県知立市)

八十五里 - 一ツ木、刈谷一里山

(愛知県刈谷市)

八十六里 - 阿野

(愛知県豊明市)

八十七里 - 有松、鎌研橋

(愛知県名古屋市緑区)

八十八里 - 笠寺

(愛知県名古屋市南区)

八十九里 - 伝馬町

(愛知県名古屋市熱田区)

九十里 - なし

(海上七里)

九十一里 - なし

(海上七里)

九十二里 - なし

(海上七里)

九十三里 - なし

(海上七里)

九十四里 - なし

(海上七里)

九十五里 - なし

(海上七里)

九十六里 - なし

(海上七里)

九十七里 - 縄生

(三重県三重郡朝日町縄生)

九十八里 - 富田

(三重県四日市市)

九十九里 - 三ツ谷

(三重県四日市市)

百里 - 日永

(三重県四日市市)

百一里 - 采女

(三重県四日市市)

百二里 - 石薬師

(三重県鈴鹿市)

百三里 - 中冨田

(三重県鈴鹿市中)

百四里 - 和田

(三重県亀山市)

百五里 - 野村

(三重県亀山市)

百六里 -

(三重県亀山市)

百七里 - 坂下一ノ瀬

(三重県亀山市)

百八里 - 元坂下、荒井谷

(三重県亀山市)

百九里 - 山中

(滋賀県甲賀市)

百十里 - 土山

(滋賀県甲賀市)

百十一里 - 市場

(滋賀県甲賀市)

百十二里 - 今在家

(滋賀県甲賀市)

百十三里 - 林口

(滋賀県甲賀市)

百十四里 -

(滋賀県甲賀市)

百十五里 - 夏見

(滋賀県湖南市)

百十六里 - 石部

(滋賀県湖南市)

百十七里 - 六地蔵

(滋賀県栗東市)

百十八里 - 目川

(滋賀県栗東市)

百十九里 - 野路

(滋賀県草津市)

百二十里 - 月輪池大萱

(滋賀県大津市)

百二十一里 - 粟津

(滋賀県大津市)

百二十二里 - 石場

(滋賀県大津市)

百二十三里 - 走井

(滋賀県大津市)

百二十四里 - 御陵

(京都府京都市山科区)

京(みやこ)三条大橋

(京都府京都市中京区)

 

 第九十四回-和信伝-拾参 ・ 2026-01-15

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記