第伍部-和信伝-参

 第六十一回-和信伝-参拾

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

嘉慶十六年(1811年)

宜綿(イーミェン)のところに哈豐阿(ハフンガ)の噂が聞こえて来るが、同名の別人の事が多い。

満州鑲黄旗富察氏のハフンガはこの年四十歳。

蒙古正黄旗西爾吉勒特氏のハフンガは六十八歳。

満州鑲黄旗瓜爾佳氏にもハフンガがいて混同は広がっていた。

富察氏のハフンガは貴州定廣協副將・威寧鎮總兵を務め、さらに転任して浙江處州,陝甘涼州、漢中(陝西)諸鎮の総兵を務めている。

のちに老大(ラァォダァ)の丰伸布(フェンシェンブゥ・豊伸布)も道光帝が同名の罪人との混同を避けるため徳恩(デゥエン)の名を与えた。

豊伸布はこの年二十歳になった。

 

豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の家系を継いだフゥエン(福恩)は十七歳になった。

実子のシィン(信)は十八歳だがフウエンより二十日早く生まれただけだ、ともに手紙では気を置いて重要なことは書いて居ない。

秘密小島(ウフアガリと琉球で呼ばれている)で信はチィェンウー(銭五)に海燕を娶る許しを得た。

平太人と平儀藩の手でとっくにウェイフゥンフゥ(未婚夫・婚約者)の届けが粘竿処(チャンガンチュ)を通じて内務府に書類は出してある。

爾海燕(ゥァールハイイェン)は龍莞絃(ロンウァンシィェン)の妹妹として戸籍が造られている。

形式上信は無位無官、海燕も庶民の娘、一応庶子という肩書があるのでお届けしましたという形だけ整えてある。

インドゥが京城(みやこ)へ戻るのを待ち、帰京翌日にいろいろな書類と混ぜて出していた。

その書面を含めフォンシャン(皇上)はすぐさま手を打っている。

フォンシャン(皇上)の密使が信に会いに来て、和国探索を任務とされた。

海上へ海賊探索を目的に出ていることは知っていたということだ。

わざわざ綿寧の太監康藩(カンファン)が豊紳府へやってきて親子三人へ密書を手渡した。

その時に手渡された牌は、御秘官(イミグァン)と粘竿処(チャンガンチュ)の特別使節の肩書が記されていた。

御秘官(イミグァン)は表向き解散となっているのだが、受け継がせたという証明にもなる。

祕(インミィ・隠密)御用の代替わりだ。

結の情報では薩摩の山川は前に明国人の倭寇の本拠地の一つで、のちにポルトガル人がここへ多くの船をいざなった。

薩摩は明との貿易、葡萄牙との貿易に巧みに倭寇の者を利用した。

フォンシャン(皇上)は薩摩を広州へ誘いたいのだろうか。

バァ(爸)龍莞鵬(ロンウァンパァン)、マァー(媽)裴雲玲(ペイユンリィン)の四女で龍海燕(ロンハイイェン)として南京(ナンジン)に本籍を置いた。

両家の親が承知と書き判も揃っている。

「例の小判を持参してください。五月ほど付き合ってくれますか」

銭五は何か考えがあるらしく、陽暦の九月十八日の再会を約して別れた。

七月二十日は陽暦九月七日。

信は関元、庸(イォン)、龍莞幡(ロンウァンファン)と共に寧波(ニンポー)から三千石船二艘で秘密小島へ向かった、雲は湧いていないが波が高い。

莞幡は「東へ台風が去った後のようだ」と水夫頭と話している。

陽暦九月十六日、天津(ティェンジン)からの千石船四艘に上海(シャンハイ)沖で合流した船団は奄美の大島で薩摩の船と荷を交換し、秘密小島(ウフアガリ)へ向け東南へ舳先を向けた。

島の食料のシィアォマァィ(小麦)、シゥ(黍)とュイミィー(玉米)、ミィ(米)が満載だ。

来月は和国のミィ(米)が加賀、富山から届けられる。

最近は屠宰(トゥーヅァィ)経験のある家族が来ている。

船が来るたび去勢された羊が毎回二五頭届けられる、島で繁殖までは手が回らないためだ。

最近は南と北の両島で常時三百人以上が暮らしている、水に制限があるため畑地は本島(南側)に作っていない。

島の間は三十里ほどだ、和国の水夫は四里ないという、往復の小さな帆船に二丁櫓の小舟は子供たちの訓練にもなる。

もう一島の西班牙人がいう秘密小島(マル・アブリゴ)は、南に三百里の島のことのようだ。

前に島の形で北の島のことかといさかいが起こりそうだったが、マル・アブリゴは山もなく、単独の島とわかり手打ちとなった。

北の島は水の便が淡水の大池に頼っていて、飲料水は南の島から運んでいる。

水源さえ確保できれば羊に牛も飼わせようとジョーが考えている。

最近は北の島ではガゥンシュ(甘藷)にマァーリィンシゥー(馬鈴薯)、ュイミィー(玉米)の栽培も始めている。

薩摩は交易の利と和国小判年千両の納税で満足している。 

東の岬からの砲声に続き、西の岬からもこの日のために打ち合わせた歓迎の砲声(砲音)が轟いた。

小舟が十艘待ちかねたように漕ぎ寄せてきた。

先頭の船にはチィェンウー(銭五)がいて身軽く縄梯子を登ってきた。

関元も乗っていた船へ来た小舟に乗って、こちらへきた。

「和国の身分証明が出来たが、上陸して役人に身分を名乗る時のものなので大切に仕舞ってください。二枚のはずが一枚で済ませるし、生まれ年はまだしも年齢は余分で、“その”といったのに出来てきたら“さよ”に成っていたが間に入ったものも受け取ったとき気が付かなかったようだ。どうやりゃそんな風に間違えるんだ。提出した書付を見直しもしていないようだ」

「清の役人もそんなものですよ。なまじ咎めるとしっぺ返しが怖いですよ」

龍莞幡(ロンウァンファン)は何度も経験があるという、わざと袖の下をねだる手段でもある。

雲州松平家中岩井野清治郎平信孝甲寅生十八歳
妻さよ、加州銭屋五兵衛娘丙辰生十六歳
文化辛未六月十三日
松平家御船手作事奉行検印

丁寧に油紙に包まれた木札と奉書を信に手渡した。

「和国のどこへ行ってもこれを見せれば通用します。身分は低くても士分であれば細かいことは言いません。イワイノセイジロウ、ヅゥ(字・あざな)はシィンシィアォ(信孝)と書いてノブタカと読みます。ピィン(平)は家の先祖を表して“タイラ”とよみ、続けるときは“タイラノノブタカ”と名乗ります。奉書のほうは婚姻後に“その”へ渡してください」 

生まれ年は寛政六年甲寅を“キノエトラ”もしくは“コウイン”と覚えるように念を押された。

海燕は寛政八年丙辰で“ヒノエタツ”もしくは“ヘイシン”だと教えてくれた。

庸(イォン)が「私から江戸訛りを教えていますが、雲州お国訛りはよくわかりません」という。

「江戸育ちにしたほうが無難ですよ」

「それにしてもいわいの(岩井野)とは珍しい姓ですね」

「石井と書いてイワイいう家の分家でしてね、名跡が絶えていたのを拝借しました。松江藩江戸家老、御国家老にも根回しは済んでいます」

後ろにいた老爺(ラォイエ)が前に出て、笈から出した木箱に納められた銅の鞘を出し、中に納められた小判を出した。

チィェンウー(銭五)はチィンチャン(慶長小判)だという。

信(シィン)が懐から布にくるんだ銅の鞘を出すと老爺(ラォイエ)の目がきらりと底光りした。

どうやら自分の預かる鞘と見比べたようだ。

ぴたりと二つが合わさりそれを確認するともう一枚を出した。

平儀藩(ピィンイーファン)が“ツァォ(草)”と呼ぶ人たちが持つというユァンウェン(元文小判)だ。

信が懐から同じような銅の鞘から出すと初めてにこりと老爺(ラォイエ)がほほ笑んだ。

話す言葉がよくわからない、チィェンウー(銭五)もすべてはわからないようだ。

「チィンチャンのほうは和国の金貨百万両以上を動かすときに確認するといっています。ユァンウェンのほうは十万単位を動かすことが可能と言っています。はてな間の金はどうすりゃいいんだ」

庸(イォン)は「津軽弁だ」と言い出した。

チィェンウー(銭五)も「そうなんだが、難しすぎる。先ほど船が着いたばかりで挨拶もしていないんですよ」と言っている。

老爺(ラォイエ)が笑いながら、江戸弁に切り替えた、信も聞き取れる言葉になった。

関元には津軽の言葉もおぼろにわかるようだ。

二十ほどの若い男が加わり、この後はしばらくの間チィェンウー(銭五)と行動を共にするといってユァンウェン(元文小判)の半分を受け取った。

老爺(ラォイエ)は箱館まで同行して戻りの酒田で降りるという。

若い男はこの際ここからひと往復し、馬関へ回り大坂を抜けて江戸へ出る船に乗り換えるという。

話をよく聞くとこの際西航路、東航路を見極めたいという。

島前で落ち合う予定の三艘の千石船と能登まで莞幡の船も一緒に航行し、銭五の千石船に乗り換えて酒田飛島経由で箱館へ出る。

箱館で俵物を買いこんで越中富山四方湊で積み替えて秘密小島まで戻るという。

莞幡の船団が来るのを待ち、寧波(ニンポー)へ戻るには順調にいっても四月は必要だ。

「御秘官(イミグァン)の者はあと三人頭がいるのですが、当人が江戸へ出ているそうで繋ぎが付きませんでした」

信と老爺(ラォイエ)も自分の小判を仕舞った。

「私の権限で動かせる金は、松江の船問屋、酒田、箱館と分散してあり、動かせるのはユァンウェンで小判十万両が限度で、あとは銀五貫の塊百三十となります」

ユァンウェンン(元文小判)で動かせるのは推定で小判五十万両、五貫の銀錠千二百個だろうという。

チィンチャンで動かすのは小判で百二十万両だが時代がそろっていないので元文小判に換算して百六十万両と五貫の金錠千六十個に銀錠千二百個があるという。

和国の金錠五貫はほぼ清の金錠五百两両と思えばいいという。

小判を抜けば清国の庫平両金錠に換算して五十三万二千六百六十三両と銀錠六十万三千十五両になるという。

小判は金と銀に吹き直さないほうがいいと勧められた。

そのほかにある金は貸付金で動かすのは勧められないという。

小判の百七十万両は庫平両に直せば金錠三十九万二千九百六十五両と銀錠二十万五千二十五両となると銭五は計算していた。

双方の動かせる実際の金高が銀換算で二千万両に満たないと聞いて龍莞幡(ロンウァンファン)はあきれている。

「話とはそういうものさ。二百年前の大戦(おおいくさ)で全部無くならずに残ったほうが不思議なくらいだ」

信は帳面が二通りあるはずで、大半は貸付金だろうと平大人から言われてきた。

インドゥと公主からもそれらしきことも聞かされ、方針を示した書付を渡された。

関元とチィェンウー(銭五)で銀換算壱千万両、信と老爺(ラォイエ)で銀換算弐千万両、もう一枚の組みは誰が預かる資金なのだろう。

劉全(リゥチィアン)が片手でインドゥに示したのが総額ととらえれば、彼はおおよその動向を聞かされていたのだろう。

「私の此の小判の繋ぎは大坂と聞いているのですが老爺(ラォイエ)は大坂よりおいでですか」

「わしゃ津軽が本拠ですじゃ。この若者は酒田ですじゃよ。大阪は信殿が直接いかにゃならぬといわれております」

「別の小判があるというのではないのですか」

「聞いておりませんか」

「父も平大人も知りませんでした」

「墨書きの小判は役目を終えたそうですが、わしの小判は双子ですじゃ。ゆえに役目が終えるのは二つの小判ですべて動かして後(のち)になりますのじゃ」

莞幡(ウァンファン)は「それなら同じくらい別にあるということですか」と安心した顔だ。

関元と顔を見合わせて笑い出した。

「できるだけ和国の金は和国の商人にわたるようにしましょう」

信は皆の顔を見て告げた。

「それがフゥチンの願いでもありますから」

「和国の大名というものは清国の知府程度の人が多いのですじゃ。おまけに所役の負担が多く皆貧乏ですじゃ。大名貸しは支払いが金ではなく米になってしまう。手間ばかりで儲けは少ないですのう。名字帯刀で恐れ入って差し出せがいつものことですじゃ」

老爺(ラォイエ)は「ですので銭屋殿たちの上納金頼りの藩が増える一方ですのぅ」と笑っている。

裏話は飢饉災害のせい、当主の道楽、所役(諸役)免除の賄賂(まいない)。

金はいくらあっても足りない、御用商人に儲けさせて借り入れるのが早道。

松江にしろ加賀にしろ内情は同じのようだ。

隠居後、九年前に上杉鷹山を名乗った殿様のように質素倹約で藩を立て直す人は数が少ない。

米沢上杉家は質素倹約に励むあまり賄賂(まいない)が行きわたらず江戸城西丸普請手伝いを仰せ使るという失態を冒してもいる。

いまだ完全に借財の返済は済んでいないという。

一番の原因は会津百二十万石から出羽米沢三十万石(末期養子でさらに十五万石)へ左遷されたとき、すべての家臣を連れてきたことによる。

おまけにご先祖の一人が、歌舞伎や読み本で賄賂(まいない)好きの悪者に仕立て上げられた。

隠居に際し治広公にあてた文書という。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候

一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

右三条御遺念有間敷候事。

関元とチィェンウー(銭五)は和国に千石船二十艘と千五百石の外洋船を三艘のドンファン(東蕃)という漕幇(ツァォパァ)を作り上げている。

ドンファン(東蕃)は松前から五島までの北航路が主な商域だ。

樽廻船、菱垣廻船には資金提供で十家程と繋ぎも付いた。

今ガリオンは三艘だが、新型船を二艘手に入れようとしている。

スペイン領チーレとの交易を始める用意だという、単船での航海より僚船との航海のほうが安全となるためだ。

智利(ヂィリィ・チリ)は現地ではチーレ、もしくはシーレと云うそうだがスペインは、独立を容認の方向だという。

後押しはイギリスだという、近隣諸国と資源の取り合いで険悪な様子にスペインはチーレに見切りをつけ肩入れをしていないようだ。

チィェンウー(銭五)の狙いはプゥタァォヂォウ(葡萄酒)だという、鉱山資源はイギリスの東インド会社の手が伸びていて手を出すのは難しいという-

仏蘭西、伊太利、西班牙、葡萄牙に対抗できる産出量が見込めるというのだ。

海流の流れに沿った交易はマニラ、オークランド(ニュージーランド・シィンシィラァン新西蘭)、バルパライソ、パナマと回るのが最適とされているとチィェンウー(銭五)は説明した。

「バルパライソは聞いたことがないが」

信も知らないという。

「新興都市ですよ。森林が多く造船が盛んです。五十年を経ずして大きな町になりそうです」

バォフェアノゥ(薄荷脳)が西班牙、葡萄牙、巴西(ヴァシィ・ブラズィウ)に売れるという、江蘇では自生していたが南通を中心に栽培地は広がってきた。

「アフリカ周りや、パナマ経由以外にも販路があるということですか」

莞幡(ウァンファン)も興味がわいた。

「チーレまで行けば葡萄牙(プゥタァォィア・ポルトガル)商人もチャ(茶)、ミェンプゥ(棉布)と同じように買い付けに来るそうだ」

「ということはもうケゥジィア(ハッカ・客家)の商人が交易に乗り出しているのですか」

「だいぶ以前から売り込みがあるそうだ」


英吉利、西班牙、阿蘭陀、仏蘭西では閩南語のティ(テー・テ)が定着したが、広東語系のチャ(茶)は葡萄牙、和国を通じて広まっている。

北京の漢人はチャ(茶)が主流で北方ではチャイ(茶)が広がった。

なぜチャ(茶)とティ(テー・茶)に分かれたのだろうか。

唐の時代に長春ではチャ(茶)と言われていてそれが和国へ伝わったという。

シィャメィン(アモイ・厦門)に拠点を置いたオランダ東インド会社からティ(テー)が広がったといわれている。

アォメェン(マカオ・澳門)は明の時代、海賊の討伐に協力した見返りに葡萄牙に居留権を与えた。

その葡萄牙の交易国がチャ(茶)を使っている。

欧州では仏蘭西の那波列翁・勃納把爾(ナポレオン・ポナパルト)が大陸封鎖令を出して英吉利の影響力をそぐことに懸命だ。

俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)は大陸封鎖令を破り、英吉利と通商を再開した。

仏蘭西とその同盟国は俄羅斯との戦争へ引きずりこまれていくことになる。

影響は広がり、プゥタァォィア(葡萄牙)は四年前ヴァシィ(巴西)のリウ・ヂ・ジャネイル(里約熱内盧・リオデジャネイロ)に遷都した。

葡萄牙は澳門からの貿易を望んだが清は認めなかったが、貿易商人がここで休暇を過ごす国際都市として発展した。

本国を失った葡萄牙王家はポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国を成立させることになる。

アルガルヴェは三年前スペイン占領下から解放された地域だ。 

ナポレオンは葡萄牙から撤退したが王家は戻らず、英吉利軍が変わって軍政を敷いている。

王家が戻らない理由の一つがヴァシィ(巴西)のゴールドラッシュが続いていることだ。

ガリンペイロ(ガリンボ)による採掘、盗掘はアマゾンの乱開発を引き起こした。

英吉利は葡萄牙と結んだ条約により四分の三の金を得たと見られている。

 

関元は四艘の千石船と寧波(ニンポー)へ戻り、信は莞幡の三千石船二艘に庸(イォン)、チィェンウー(銭五)、老爺(ラォイエ)若者たちと共に乗り、能登を目指した。

八月三日に秘密小島(ウフアガリ)を出帆、四十七日目に島前が見えた。

九月十九日(文化八年・嘉慶十六年・陽暦1811114日)

松江美保関沖合百二十五里(和国十五里二十町)、冬の拠点隠岐西の島へ未の刻(午後一時三十分頃)に碇を下した。

銭五は和国の里で秘密小島(ウフアガリ)から四百八十七里十八町だろうという。

三千九百里に相当するということは莞幡(ウァンファン)のレェイシェン(雷神)、フゥシェン(風神)は逆風が続いたが一日八十三里(和国十里十三町)は予定に近い。 

逆風が続く下での帆船としては高速が出たということだ、三本マスト、三角帆、縦帆による “風上返し”も銭五が感心して見ていた。

菱垣廻船でも大坂から江戸間六日が最速という。

樽廻船の問屋では江戸佃と摂津灘の間は二百四里と言われている。

最近の沖乗りでは百七十里とも言われだした。

大坂高麗橋からの五十七次で東海道を下れば百三十九里四町一間(546.3キロ)。

沖乗りで清の千三百六十四里を一日二百二十七里(和国二十八里十四町)ほど進んだ事になる。

前は下田番所で荷改めを受けたが、今は浦賀番所となり沖乗りの航路も短縮した。

その話を聞くと昼夜航行して適度な風だったのだろうと水夫頭が話している。

幸吉は沖乗りや夜間航海が普通だったという、祖父の時代は年六往復だが最近の船主は十往復を押し付けるという。

順風の日ばかりというのはあり得ず、風待ち、沖掛り、逆風、荒天を考慮しない日限縛りまで横行していると云う。

片道順風十二日が老練の水夫でも限度だという。

菱垣廻船は千五百石船が江戸大坂間に二十艘就航しているという。

一駄銀八匁だったが十匁に値上がりした。

五百石樽廻船の舵取りだったという幸吉は遠州灘沖で暴風に出会い、船が難破漂流していたところを仲間十人と助けられて、秘密小島(ウフアガリ)へ来たが、仲間内で話し合い国へ戻るより居心地が良いと皆が住み着いてしまった。

銭五が手をまわして琉球まで流された事にし、薩摩の手で積荷を買い取り荷主へ支払い、ドンファン(東蕃)の船頭に組み入れた。

船には十九人いたが帆柱が折れたとき、船が大きく傾き、海へ八人落ちてしまった。

新米の炊の訓練に十人加えていたが、半分の五人は片表、賄、碇捌きと一緒にいて流された。

幸吉たちは親父(水夫長・かこちょう)の指示で手あたり次第四斗の空き樽を海へ投げ込んで八幡大菩薩に無事を願った。

酒樽、醤油樽は刎荷(はねに)せずに用意されていた二十の空き樽が、浮き代わりの役に立つことを願った。

舵も折れて八丈付近へ流され、海流が回り西南へ流されてきたようだ。

まだドンファン(東蕃)の船のように船尾の縦帆は付けられていなかった。

ジョーの乗ったヂァンフェイ(張飛)と出会ったのは漂流十七日目、水が切れた翌日で幸吉たちは粥よりも水で腹を満たした。

ジョーが小笠原の島の話を聞いて「宮内という男の言う無人島を見てみたい」と出かけた帰りだ。

助けられての最初の言葉「酒はあっても水の無いには死ぬ思いだった」酒好き連中に聞かせたい話だ。

「手抜きだ。あんな風で帆柱が倒れるなんてあり得ない。切倒す前に失くしたなんて信じてもらえるものかよ」

賄に若衆たちは口をそろえて罵っていた、灘から安治川を経て、三回目の江戸行きだったと云う。

ジョーは必要なものを移し替えると船頭の了解の元、砲撃の的にして船を沈めた。

無人島は伊豆下田から七日との伝聞だが、銭五は和国の里で二百二十里(千七百六十里)あるはずと言っていた。

この頃の千石舟で七百両から八百両掛かる建造費は、一艘沈めば小さな船問屋では立ち直れない打撃だ。

漂流民を簡単に送り返せないのは和国幕府の方針が厳しいせいだ、薩摩が琉球沖で助けたが一番ごまかしがきく理屈だ。

厳しいのは主にロシアとの雲行きが怪しくなったせいだ。

小笠原へ漂着し、最初に戻ったと記録されるのは紀州蜜柑船だ。

遠州灘で遭難し南東へ流されたという、時は寛文十年一月六日と云われている。

途中で南西へ流されて七十日以上漂流したという。

八丈付近をだいぶ東の先まで流されていたようだ、幸い積荷が蜜柑で、米はなくとも魚を釣って飢えはしのげたという。

どの島かは不明だが漂着した残骸で船を修理し、北へ出帆後八日目に八丈へ着いたという。

江戸から八丈まで七十一里二十七町、小笠原まで二百五十里と言われているそうだ。

島から八丈までは百七十八里九町と推測できる。

下田から無人島まで千七百九十八里(和国二百二十四里二十七町)、品川から劒岬まで百六十里(和国二十里)と言われている。

品川からなら江戸湾を出て相模灘で大島、八丈を経由してゆける距離だ。

菱垣廻船と樽廻船は何度手打ちしても協約やぶりは日常茶飯事と教えてくれた。

 

投錨は島前、由良姫大明神の東側だ、右手山上に焼火(たくひ)神社が見える。

義経の頃は北麓の大山神社の祭祀が行われ、時代が下がると修験道が入り込んで焼火山雲上寺となっていた。

やがて元禄のころだろうか祭神を大日孁貴尊とされる事になった。

ここは表向き幕府領、松江藩預かりとされている。

陣笠を被った代官が清国の船とみて詰問に現れた。

浙江(ヂゥァヂィァン)船乍浦(ヂァプゥ)鎮出航は白色と定めがあり長崎なら見慣れた色だ。

漕ぎ寄せた船から掛け声も勇ましく「いずくの船ぞ」と大声を張り上げた。

代官の高富養助は五十五歳、ガレオンには乗船したが、新造の南京(ナンジン)で造られた三千石ジャンク(二百二十トン)は北前の千五百石(二百トン)以上に大きく見えた。

葡萄牙(プゥタァォィア・ポルトガル)人はこの船をニャォチュァン(鳥船)と呼ぶ。

普通ジャンクと言われているのはシャチュァン(沙船)のことだが、どちらでも莞幡(ウァンファン)は気にしない。

ただ造船技師の言う“外洋には竜骨がある方が強い”という言葉に従って注文を出した。

縄梯子で銭五が降りて牌を写した書付を差し出した、本藩の御用商人へ下されるものだ。

「検分をお願いいたします」

「わかり申した」

船子たちに「半時ほど待て」と声をかけて一緒に登ってきた。

信の身分証は聞いているらしく一瞥して戻した。

幸いにも妻については聞かれなかった。

銭五は船長だと龍莞幡を紹介した。

チィェンウー(銭五)が巾着袋を渡すと重みを確かめ、打飼袋を開いて収めると書状を出して渡した。

銭五は中身を確認して老爺(ラォイエ)に渡した。 

後で信には「五島久賀(ひさか)島から蝦夷福山(松前)までの連絡網の伝達事項です」と説明した。 

蝦夷福山(松前)は今幕府領だ、松前章広は家督を十九歳で継いだが、蝦夷地を召し上げられ武蔵に五千石が与えられた。

さらにそれも召し上げられ年三千五百両の給付とされ、今は陸奥梁川に九千石で移封されている。

幕府への届けに除籍藩士二百四十名、陸奥梁川へは百十名とした。

理由の多くは前藩主の浪費、乱暴な海防政策と言われ、四年前には永蟄居を命じられた。

ただ蝦夷地での交易は認められるという変則的な扱いだ。

将軍家斉の父親一橋治済の後押しと言われている。

松前の殿様は三十七歳、世の中の風に翻弄されている、銭五は前藩主(父親)の謹慎を解くには今はその時期にあらずと嘉兵衛から報告を受けている。

今は蝦夷地での金の採掘が話題にも上らぬようだが、大目付はいまだに松前江戸屋敷の隅々まで目を光らせているという。

慶長年間は一年千貫の砂金が採取されたとうわさが出たくらいだ。

いや、松前氏に千貫の収入があったともいわれた。

金山を求めて大久保長安の探索も入ったが、奥州藤原氏の時代から金山での採掘はされていない。

千軒金山が確認されたが松前藩に下賜とされている、金堀ではなく砂金採取のため管理が難しいためともいわれる。

一両を砂金五匁として和紙に包んで通用したと云う、此の一両がどの時代の小判か資料には明示されていない、慶長小判は金が四匁以上使われている。

元禄小判で金二匁七分三厘、銀二匁三厘が標準。

元文小判には金二匁三分、銀一匁二分が標準だ。

はるか昔、奥州藤原氏が蝦夷と協力して開発した砂金場は奥が深い。

砂金掘りに隠れキリシタン弾圧(寛永十六年・1639年)がおよび、多くが逃散し、寛永十七年(1640年)内浦岳(駒ケ岳)の噴火、大地震、津波と災害が多発し衰退した。

 

肥前福江藩五島氏は平家盛が祖と伝わる、藩主は家を継いでまだ二年目の五島盛繁二十一歳だ。

福江藩は六十余の島を領有している、久賀(ひさか)島は今回寄らずに通り過ぎたが銭五の拠点の一つがこの島の田ノ浦に置かれている。

罪人が多く送られて来る島で代官が常駐している、銭五は罪人の食い扶持にガゥンシュ(甘藷)の栽培を推奨した。

福江藩は清国の制度に学び“金あげ侍”と悪口を叩かれながらも資金を集め、国防に費やしている。

紙漉き、皮細工、鋳物、養蚕を導入、藩政も能力主義の役席体制を導入した。

殖産に励んでも、借金に頼る海防では藩財政はいきづまるばかりだ。

昨年伊能忠敬が訪れたときは全面的に協力した。

 

高田屋の船頭の話では、オロシャの艦長ゴローニンと言うものが四月に国後で捕縛されたと言っておりますぞ。蝦夷地は難しいことになりそうですな」

「まだ高田屋の船は停泊しておりますか」

「明日まで見付島に停泊しておりますぞ」

「十三里ほどですから歩いて話を聞きに行きますか」

信と庸(イォン)へ相談した。

高富は「見付島の浜まで二里ですぞ」と訂正した。

「清国の里は五町くらいなんですよ」

「ああ、それなら」

縄梯子を伝い高富に続いて銭五、信、庸の三人が降りた。

高富は同心へ「異国の髪型ではあるが、お船方の岩井野信孝様じゃ。銭五殿の案内で加賀へ藩の用事で出られるそうじゃ」と信(シィン)を紹介した。

この島の役人は本藩の指図で抜け荷のことは承知のようだ、よく幕府が黙認していると信(シィン)と庸(イォン)は不思議に思った。

名君と言われた松平不眛は、ともに財政を立て直した朝日丹波の死後、茶にのめりこみ散財を繰り返している。

五年前隠居した後、斉恒が財政再建に苦労しているが、朝日丹波死後八万両有った蓄財も浪費され、増えた借財はなかなか返済できずに苦労している。

「ガリオンは何度か見ましたがジャンク(戎克)は初めて見もうした」

高富は舟を留める方向を指図してから、庸(イォン)に乗ってきた船について話しかけた。

今日は信に庸(イォン)は六尺棒(グゥン棍)を持っている。

「南京(ナンジン)へ入れるのはあの船が限度です。寧波(ニンポー)は倍くらい大きくても水深があるので入れます。ガリオンも広州(グアンヂョウ)なら一万石の船でも係留可能です」

流暢な江戸弁で応えられて驚いたようだ、それだけ庸(イォン)が漢人に溶け込んでいるということだ。

和国の千石の船は重量換算百五十トン(容積換算百トン)規模だが、清国で千石は容積換算七十トンクラスだ。

福州で建造され、のちに有名に成るキーイン(耆英- 1846頃建造)は八百トンと言われている。

乗組員はわずか四十二名と記録されている。

さらに英吉利のカティサーク(進- 18691122)は九百三十六トンと記録され、乗組員二十八名で運用したと記録されている。

龍莞幡(ロンウァンファン)の三千石船で戦闘員十六名、砲は六門、火縄銃は不許可、弩(ヌゥ)は六台、乗員八十名と許可が出ている。

乗客四十名も許可されていて、百三十六名と荷が積める。

(清国三千石船は約二百十三トン)

海賊の脅威が減った今、漕幇(ツァォパァ)と乗員の削減を図り、船を増やす計画が進んでいる。

その余剰船員を、銭五が進めている薄荷交易船へ振り分ける重要な決定を下すため、信が酒田へ出向くのだ。

船名は関羽(グァンユゥ)、張飛(ヂァンフェイ)、趙小龍(ヂァォシャオロン)と違いディアオチャン(貂蝉)、ハァンウァ(姮娥)と伝説の女名だ。

買えるなら一万石以上でもと、内外三十人で銀(かね)五十万両を用意してある。

ただし条件に建造五年以内、八百トン以上、乗員百六十名以下で運用とジョーとも話し合って来た。

関羽(グァンユゥ)級で八百トン、現在は総員で二百三十名乗り組みだがさらに削減を図ろうと考えている。

あてはある、アォメェン(マカオ・澳門)の葡萄牙商人が五艘をバルパライソの造船所へ発注したと康演が聞いてきた。

情報では千二百トン五艘でレアル銀貨百万ドルもしくは百八万ドルと聞こえてくる。

百零八万ドルなら銀(かね)七十二万九千両になる。

康演は売値で高くも一艘銀(かね)十五万両だろうという。

売る気が見え見えで吹っ掛けていると誰もが思うようだ。

「もうけさせるなら回送費上乗せの二十万両、厦門で引き取れれば手間が省ける。チーレまで人を送るより早く片が付く。チャ(茶)と薄荷の抜け荷で儲けさせれば安く売るかもしれんな」

一航海銀(かね)二万両はもうけが出ると試算している。

「アォメェン(マカオ・澳門)受け取りならバルパライソまで水夫を契約して運用を教われれば役に立つでしょう」

「幾人かそのあとも続けて雇ってもいいんじゃありませんか。船籍をチーレにしてもいいし」

「それも必要になるかもしれませんな。雑多な船員が乗り組んでも広州(グアンヂョウ)やアォメェン(マカオ・澳門)でも通用する」

康演を交えてそんな下話をしてきたのだ。

平大人が銀は寝かすより動かしてこそ値打ちが付く、儲けを考えて動かしては損をしたとき責任問題になると常々周りに教えている。

結は商売、御秘官(イミグァン)は人のため、損はして良いというのが代々の教えだ。

蓄えはその結果に過ぎない、藤原氏、平氏の蓄積は多くの人を助けてきた。

その金銀を狙ったのは頼朝、信長、秀吉だった。

頼朝は梶原の言葉で藤原氏を滅ぼし、信長、秀吉は大商人を味方に引き入れた。

秀吉は各地の鉱山を手に入れ、それは家康が引き継いだ。

大阪城落城時、金蔵に金二万八千六十枚、銀二万四千枚が残されていた。

大体次の数量となるが慶長小判の含む金四匁〇一二二15.045グラム)にすると三十万両以上となる。

金壱千弐百六貫五十八匁・四千五百二十四.六七五キロ。

銀千三十二貫・三千八百七十キロ。

秀吉が残したものは分銅から改鋳され秀頼、淀君の浪費と二度の大坂城の戦いで大多数が使われていた。

二千枚分銅・千枚分銅は、それぞれ大判二千枚分、千枚分にあたる。

二千枚分銅一個約八十九貫(約三三四キログラム)。

千枚分銅一個約四十三貫(約一六二キログラム)。

家康は全国の太閤遺金を大久保長安に探させたが見つかっていない。

西三川砂金山は佐渡の有望な砂金山だが、秀吉は大規模に鉱山技術者を送り、家康は天領として独占した。

 

莞幡(ウァンファン)には一晩泊りになると高富が話している。

シャンビンジュウ(香檳酒)とバァイラァンディ(白蘭地・ブランデー)を八本ずつ持って船を降りた。

料理番が「蒸かすだけで済む」と饅頭を三十ほど入った籠を庸(イォン)に背負わせた。

小舟を東に見える入江の奥の浜へ付け、別府集落へ向かった。

高富が小川沿いの小道を先に立って案内した。

小川から外れると道は両脇の丘の間を縫って進んだ。

刈入れの済んだ田圃の間の道はまた小川に沿って崖が迫ってきた。

緩やかな登りが終わると視界が開けた。

穏やかな入江が広がっている、二里(和国九)ほど先に見えるのは中の島だという。

浜の先に切り立つ岩場の小島が見附島で、人は住んでいない。

高富は下役に「番小屋で酒盛りの用意だ」懐から元文一分判、南鐐二朱銀、豆板銀などいくつか出して渡している。

庸(イォン)が同心に「こっちの細い瓶は網で井戸へつるして冷やしてくれ」と頼んでいる。

チィェンウー(銭五)が庸(イォン)のグゥン(棍)に小旗をつけて振ると、船脇に着けていた小舟がやってきた。

庸(イォン)の普段のグゥン(棍)は下になる方に鉄輪がはめてあり上部は竹の箍を打ち込んである。

本人は腕の力を分散するためだと言っている、長さも営造尺五尺三寸に切り詰めてあり、つり合いは悪い。グゥン(棍)の先生も不思議そうに見ていた。

前に久賀(ひさか)島で大猪が暴れたとき、グゥン(棍)鉄輪を遠心力で振り下ろすとさしもの大猪が一撃で気絶した。

脚を縛り天秤棒へ吊るして小川の上で血抜きをした。
驚くほど多くの蚤達が小川に流されていった。

今日は信と共に六尺棒で船を降りている。

船頭が言うには、松前で昆布に干し貝柱を集めに行く嘉兵衛と別れたという。

箱館奉行所は福山(松前)へ移し、箱館には吟味役が置かれている。

福山は松前藩を移動させて奉行支配とし、奉行所を置いていた。

ゴローニンは福山(松前)に護送されて来たが“松前藩居留地襲撃”に関係なしと奉行荒尾成章が幕府へ使者を送ったという。

「江戸の者には松前と国後が隣の村くらいに見えてるようです」

「偉い人は自分で出向くなんて考えもしないからな。蝦夷の交渉を長崎でなぞいうから面倒になる。清も同じような人ばかりが出世する時代だ」

信(シィン)は聞いていて苦笑いしている、清国も外国使節に跪拝を強要した。

葵の御紋を見せれば恐れ入るのは木っ端役人だけだ。

幕府も清国もキリスト教に怯えている。

伊能忠敬の測量は進んでいるが地図が街へ出るはずもない。

間宮林蔵の話などが漏れてくる以外は、大雑把な地形図くらいしかない。

事件の発端は七年前のことになる。

甲子(文化元年)の年、幕府が開港交渉に来た俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)使節を長崎へ回航させたうえで通商の拒絶をした。

長引く交渉に煮え切らない態度の幕府に威信を傷つけられ、ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフが武力での打開を図った。 

文化三年1806年)レザーノフの部下ニコライ・フヴォストフはロシア皇帝の許可を得ずに樺太松前藩居留地を襲撃、さらに択捉島駐留幕府兵をも攻撃した。

文化三年九月十一日(18061022日)樺太襲撃は連絡手段がなく、翌文化四年に箱館の松前藩駐在役と幕府へ知らされた。

文化四年四月二十三日1807530日)、ロシア船二隻が択捉島西南、内保湾に入港、中川五郎治ら番人五人を捕えて、米、塩、什器、衣服を略奪。

二十九日、内保湾の北にある紗那に侵入し守備兵を攻撃。

五月一日、守備兵が撤退、紗那幕府会所にロシア兵が上陸。

倉庫から米、酒、雑貨、武器、他を略奪放火した。

この事件のさなか、ペテルブルクへの途次にあったレザーノフは180758クラスノヤルスクで病死。

 

船頭はこの後馬関赤間関へ向かうという。

「俺たちは能登と飛島へ向かうよ」

日が暮れ(午後五時十五分頃)、民家で沸かしてくれた湯で体を拭った。

高富の案内で浜の番小屋へ出向いて宴会が開かれた、高田屋の船頭も参加した。

急場とは思えぬ豊富な海の幸に庸(イォン)は大喜びだ。

伊勢海老に鮑を囲炉裏に鉄網を載せて豪快に焼き上げた。

夕方のはえ縄に雄蟹が二十匹掛かったと網元が半分届けに来た。

高富は銭五に話してバァイラァンディ(白蘭地・ブランデー)を一本持ち帰らせた。

高富は大分と島の連中と友好的なようだ。

「貴重なものでしょうにいいのですか」

庸(イォン)は深いところに住む蟹と知っていた。

「船を出して美保関へ送るには少ないのですよ。昨日送りだした船はまだ戻りません。少ないときは島のごちそうですよ」

雄蟹が百を超せば船を出すという、雌の十倍の値が付くという。

溜まるまで生け簀へ入れておくこともあるという。

危険を冒しても夜船で美保関へ送り、境港、安来、松江の朝市に間に合わせるそうだ。

庸(イォン)が烏賊の一夜干しには「何年ぶりだろうな」とむしゃぶりついている。

そのうちに蟹も焼きあがった「旨い」高富も盛んに足を割って食べている。

薄く皮をそいで塩を振ってあるので力は必要ない。

「薩摩のソイもいいが。この醤油はうまい」 

アゴ出汁で造るのだと高富が話している。

チィェンウー(銭五)も満足げで信に「トビウオを干して使います。ああ、フェェイユイ(飛魚)のジャンイォ(醤油)です」と教えた。

甲羅で焼き上げた蟹みそに身をほぐし入れ、一人一杯を分けてくれた。

饅頭は番小屋の女が蒸篭で蒸してくれた、下役たちは白蘭地(ブランデー)を飲みながら、饅頭に醤油を少しつけてうまそうに食べている。

一人濁り酒と割って飲むのがうまそうで信は分けてもらった。

「こいつはいい味が出てる」

高富も真似して陽気に歌いだした。

雑魚のアラ汁だという椀はみそ味だ。

信も初めてだが旨いらしくまだ有るかと言ってお替りもした、胃が落ち着いてまだ飲み食い出来そうだ。

島の海女だという若い娘と老婆が酒蒸しの岩牡蠣を出した。

「旨い」

信も思わず声が出た。

「信孝殿は普段さぞかし旨いものを食べられておられるでしょうに。このような雑な料理も好きでござるか」

「我が家では、母の教えで普段は質素でござる。客を持て成すときは見栄もあるので見栄えの良く旨いものにいたします。我が家の料理人はすぐ油で炒めるので素材の味が出るこのような宴席がようござる」

ぼろが出ない程度の江戸弁に聞こえればいいがと思っている。

井戸で冷やした香槟酒(シャンビンジュウ)が旨い。

クンファ(髠髪)、裁着(たっつけ)袴の信に、高富が丁寧な言葉を使うので、番小屋の女たちも不思議そうに思っている。

下役たちは香槟酒(シャンビンジュウ)より白蘭地(ブランデー)のほうが良いらしいので、信は女たちへ香槟酒(シャンビンジュウ)を勧めた。

高富が注いで回るので女たちも付き合って飲んだ。

 

翌日、船に戻ってから銭五は「一つだけ減点があります」と信に言った。

「どこでしょうか」

「料理のことは気を付けましょう。ここではともかく和国では我が家の料理人はすぐ油で炒めるというのは通用しません。普段は煮炊きをしても滅多に油いためは行いません。油で揚げるくらいです」

「和国にはいませんか」

「肉もあまり食べませんので、鳥は食べても調理は限られています」

「どうしてです」

「昔は食べていましたが、仏教が盛んになって、結果帰依した人が禁じたりしましたので」

「仏教徒が多いということですか」

「幕府は人別帳という台帳を寺に任せましたので、信仰はなくても寺が戸籍を管理しています。

「私のも寺が管理しているのですか」

「いえ、侍は別です。幕府の下に藩があって侍は藩が管理します」

庸(イォン)はそのことは教えていないようだ、。

富山藩江戸詰めの三男に生まれ、養子に出るか部屋住での一生と思っていた。

チィェンウー(銭五)が富山藩との係わりを深める中、蝦夷地出兵準備に外れた庸助と出会った。

家老の村と密約を結び、財政の支援と多くいる部屋住みの養子を斡旋した。

字もうまく、商家でもよいというものは簡単に話が付く。

庸(イォン)のようになまじ剣の腕が良いものは難しい。

叶庸助として、使命は銭五の支援の継続を図ることとされている。

富山藩の窮乏は立藩の時からの事情による。

分家の時、石高以上に人員を押し付けられたことによる窮乏だ。

富山藩には士分だけで六百八十六家あるという。

越中富山とは言うが本藩が要所を抑えている、神通川下流域右岸港町は東岩瀬湊など本藩に抑えられた北前船で財を成した。

神通川左岸地域の西岩瀬、四方が富山藩の御用商人たちだが、石数の小さな船(百二十石以下・十六艘)しかもっていない。

飛騨が幕府天領となり飛騨木材を神通川・庄川で河口の東岩瀬港(高原山伐採分)・伏木港(白川山伐採分)を通して上方へ運んだ。

加賀、富山両藩は飛騨の木材を手に入れにくくなった。

銭五の富山藩領の拠点は四方の西の打出にある、昔は三千軒の宿場町と言われるほど栄えた場所だ。

木町の浜は川流しの木材を一旦ここで引き揚げたことによる、いたち川との合流の先、荒川との合流点下流は本藩に抑えられている。

四十石に満たない川船が富山藩領から下って西岩瀬、四方からの荷を運んでくる。

越中富山の薬売りは三百五十年以上前から京都に進出していたという。

富山藩は分藩の後“反魂丹”を売り物にして盛況を極めた。

薬の原材料調達に薩摩と手を結ぶ薩摩組と称する抜け荷も行われていた。

富山藩の現当主は前田利幹、切れ者だが財政には疎い、領民は物価の高騰に苦しんでいる。

加賀藩も加わり薩摩経由の抜け荷は年々増えていった、そこへチィェンウー(銭五)が加わったのだ。

富山藩の売り物は北前船のもたらす昆布、干しナマコの仲介が主流だ。

世に売薬の小商人(こあきんど)に隠密がというが作り話が多い。

本藩の当主前田治脩が亡くなって斉広が継いだが、本藩の経済は破綻寸前のありさまだ。

本藩の家老は木っ端大名など足元にも及ばぬ高禄だ。

元禄期

・本多五万石・長三万三千石・横山三万石・前田一万八千石

・奥村一万七千石・村井一万六千五百石・奥村一万二千石・前田一万一千石

このほかにも一万石以上が四家、合計十二家あったという。

加賀藩組分侍帳・先祖由緒并一類附帳には一万千七百家が掲載されているそうだが一万七千家あったともいわれている。

この数字だけだと相当の下級武士と卒がいたようだ、繫栄しているように見えるのは高給取りの家臣を多く抱えているせいだ。

百万石がここ最近頻発した水害等により収穫が半分になっては、大きな藩ゆへ財政方の苦労も大きいのだろう。

御勝手方御用主附長連愛の苦衷は余り有るものがある。

支藩の大聖寺藩は七万石、名君と言われた前田利考(まえだとしやす)はわずか二十七歳で亡くなった。

現当主は江戸育ちの世間知らずと評判で、ことあるごと身の不運を嘆いていたという。

藩主となって六年、二十六歳となっても評判は悪い。

加賀橋立久保彦兵衛からの新規借り入れが三千両を超えたという。

大坂の加島屋久右衛門からも多くを新規に借り入れたという。

加島屋は三十八歳の働き盛りの正誠が当主だ、大聖寺藩とは八十年以上の付き合いがある。

前田利章の時代に放蕩三昧、凶作による飢饉百姓一揆、江戸城改修お手伝いと一代で加島屋からの借り入れは膨らんでしまった。

正徳二年(1712年)の百姓一揆は八十カ村五千人の農民が参加したという。

一揆の結果、この年の年貢を四割に削減と決まり収まったという。

銭五は関元と付き合いだしてから「結」の使う広州語に近い言葉に堪能になった。

「結」ならこの言葉で話せれば手印が与えられ、どこへ行っても不自由せずに旅ができる。

関元の手引きで銭五は筑紫の「結」の一員となって商域も広がった。

大きいのは琉球から薩摩の密輸船と繋がりができたことだ。

泗水(スーシュイ、スラバヤ)へも何度も同行した。

二人で琉球の東海にある無人島を手に入れ基地にもした、昔から「結」の取引に使われていた島なので薩摩との折り合いも簡単に金で済んだ。

秘密小島はこの言葉が主流で西班牙語、葡萄牙語、英吉利語、伊太利語もまじり有って通用した。

北前船の船頭は津軽、酒田、加賀、松江、博多、広島、大坂、名古屋、江戸、仙台と言葉を使い分ける、というよりまぜこぜで通用させている。

一番通用しにくいのが薩摩弁と津軽弁だ。

江戸言葉と言っても侍と町人ではだいぶ違いが出る。

信はまだそのあたりの区別がつかない事も起きる。

莞幡のフゥシェン(風神)に乗る江戸言葉の話せる水夫の幸吉は、それでも根気よく付き合ってくれたので、どうにか様になってきた。

庸(イォン)の話す江戸の侍言葉は旗本、御家人と違い、お国言葉が時々出てしまう。

ダァンシィン(擔心・心配)のことを“アジゴト”と言って慌てて直している。

“ダイジナイ”が武士言葉で心配ないで、町人なら“しんぺぇすんな”になる。

ただ武士の格好で街に出るのはまだ関元が許してくれない。

それで船では動きやすい裁着(たっつけ)袴のことが多い、クンファ(髠髪)は切るわけにいかず船を降りるときは頭巾をすることもある。

武士の旅装なら軽衫(かるさん)袴、野袴だが、どう見ても似合わない。

此処三年で二寸(裁衣尺7.1cm背が伸び五尺一寸(裁衣尺181cmになった。

和国では薩摩と南部には同じくらいのものが多いともいうが、江戸、大坂には少ない。

「いっそ大店の若旦那という名目で、小刀も差さないほうがいいでしょう」

太刀捌きは習っても、小刀でも普段腰に差していないと形にならないと銭五は笑っている。

「打飼袋のように太刀を背負う絵姿を見たことがあります」

「海賊と争うならそれも良いでしょうな。でも普段その恰好では船だと周りにぶつかって困るでしょうぜ」

「どうにもそれでは。空手で行きますか」

「琉球に伝手もありますから、余姚(ユィヤオ)へ人を送りますよ」

拳に近いですか」

余姚(ユィヤオ)では北方からの拳が学ばれている。

ジィウゥ(継武)が大興県に伝えた拳の流れで、孜漢が子供から青年期に学んでいたものと同じだ。

信の拳の先生はインドゥやイーミェンが共に学んだヤンレェンメェイ(楊藍昧)で、ジィウゥ(継武)の孫弟子ヤンドンシェン(楊冬扇)の三男、幼いころ神童と言われた名人だ。

信は最近ようやく庸(イォン)の小具足と対等に戦えるようになった。

棍(棒)術はイーミェンが太鼓判を押す腕になった。

太刀捌きは和刀ではだいぶ差が出るが、小刀の捌きは庸(イォン)も目を見張る腕になった。

脇差の虎徹は隣屋敷の婆の形見だ、それで常時船に持ち込んではいる、笈に入れると鍔から上が突き出てしまう。

二代目虎徹と言われた長曽祢興正の作で、大小揃いは庸(イォン)へ生前に贈られている。

和尺で刃渡り一尺七寸九分54.2cm)拵えも立派だ、柄巻はインドゥが三種類教えた。

柄は七寸の物が付いていた、鮫皮を新しくして巻き直したが、和国の武士の腰を見ると短いのが流行りのようだ。

鞘に柄を大量に買ってもらった、鞘は合わぬものが多いのだというが、明の時代に大量にわたってきた和刀が寧波(ニンポー)周辺に数多く眠っていると聞いた。

「琉球のテェは福建少林鶴拳に近いと聞きましたが」

「私の先生は北方の拳の流派だそうですから違う型も勉強したいものです」

「流派が違うと困りはしませんかな」

老爺(ラォイエ)が珍しく口を挟んできた。

「フゥチンは取り入れられるものは機会があれば逃がさぬことだと教えてくれました。達人になるより達人を見る目を持てとも言われました」

ひょろりとした信が拳の上級者とは、屋敷の外で信じる者は居ないといってよい。

「昔宮本武蔵という剣の達人がいましたが、六十余度の勝負に無敗と言われております。剣聖と言われた塚原卜伝は戦わずして勝つのが極意と言われたといいます。出会うはずのない二人が戦う講談や読み本があります」

「塚原卜伝は戦ったことはないのですか」

「弟子が残した文書には“十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず”とありますな」

「生き残ったうえでの戦うなが極意ですか」

「そう言うことですじゃ。生き残るのが寛容。無駄な戦いは避けるということですな。修行して腕自慢は身を滅ぼしますのじゃ。生涯修行と先人の多くが言い残しています」

「老爺(ラォイエ)もだいぶ修行されたように見えます」

「見えるのはいまだ未熟だからですじゃ。和国は表向き天下泰平。清国は大きな反乱に苦しみ、歴代の王朝はそれがもとで国が滅びました。チョンポーチャ(張保仔)が降伏して沿岸は静かになりましたが、異国と手を結ぶ悪党はまた何事か画策するでしょうな」

この老爺(ラォイエ)、異国の海賊の事情にも目が届くようだ。

「きりがないと言うことでしょうか」

「不平不満は人の世の常、満ち足りて尚不満を抱くのが定めですじゃよ」

神仏はわれらの味方、正義はわれにあり。

反乱を起こすものはまず大義を唱える、それは古来より変わらない。

正義が勝つのではなく、勝ったものが正義を塗り替えるのだ。

九月二十四日(陽暦十一月九日)西の島へ銭五の千石舟が三艘来て荷を半分積み替え、翌朝五艘で能登沖へ向かった。

 

十二日目、能登半島輪島冲百里(和国十二里十八町)に有る舳倉島はまだ漁民が滞在している。

島前から舳倉島まで八百里(和国百里)。

十月六日(陽暦十一月二十一日)は波が荒く島へ近寄れずに沖に停泊した。

一艘の千石船が富山神通川左岸地域の西岩瀬、四方へ連絡を兼ねて先に向かった。

翌日波が穏やかになり小舟が辯才天社の脇を抜けて三艘やってきた。

ジャンクの荷を三度往復して降ろすと活きている鮑に栄螺を満載して持ってきた。

銭五の乗る船へ信と庸(イォン)に老爺(ラォイエ)若者が乗り込み莞幡(ウァンファン)のジャンクと別れた。 

能登の半島を東へ回ると銭五の千石船に続いて小ぶりの弁財船が五艘連なって南からきた。

銭五が「前三艘が加賀藩の旗印で後の二艘が富山藩旗印」と教えてくれた。

遠眼鏡でのぞくと丸五つの梅鉢に花芯に短小な剣を加えたものが本藩、丁子形の剣を加えたものが富山藩と知れた。

本藩の船に一艘分の鮑と栄螺を土産だと積み込ませた。

本藩の船へ荷を積み込ませると、三艘は先に東岩瀬湊へ戻っていった。

四方湊、西岩瀬湊からの二艘へも荷を下ろし、さらに「旦那に土産だ」と一艘分の鮑に栄螺を惜しげもなくすべて持たせた。

その旦那からの鱒馴れずしが小盥に十台届いたので三艘で分けた。

春は早寿司、この時期は発酵させたものが通の口に合うという。

暮れには神通川での流し網漁が始まるという。

 

村上沖七十里(和国八里二十七町)の粟島まで能登冲から七百里(和国八十七里十八町)。

この島は米沢藩預かりで、越後下関の渡邉家が番所の管理を任されている。

途中越後は佐渡との間を抜けて来た。

十月十五日(陽暦十一月三十日)海流と西南風に乗って七日目申刻近く(午後三時八分頃)に内浦へ碇を下ろした。

渡邉家では当主が島へ出向いていた。

七代三左衛門善映三十六歳、銭屋五兵衛三十八歳。

「この付近、今時分は洋時刻の四時四十分くらいに海へ陽が落ちます」

和国の船はまだ洋時計を積んでいるのは数が少ない、日時計で方向と時刻を図る程度だ。

銭五たちのドンファン(東蕃)は全船に五寸和磁石二台、遠眼鏡三本、船箪笥、海図、砂時計に洋時計を備えさせた。

和磁石は大坂釘屋町はりや九兵衛のものは性能が良いといわれている。

船尾の縦帆はまだ珍しく、三左衛門は興味深く質問している。

ジャンク(戎克)の三枚帆はまだ絵でしか見ていないと云う。

縦帆は舵の効きをよくするためと聞いて納得した。

船首の弥帆はほとんどの北前船が採用しだした、弥帆をまだ理解できない船頭は多く、追手風に有利と思われている。

弥帆をつけてから、北前船の大回しと呼ばれる箱館から馬関まで佐渡沖へ出て、一気に南下する沖乗りが、逆風下でも容易になっている。

箱館から大坂西回り四十日が普通だが、三十日で着いたと豪語する船もある。

ドンファン(東蕃)の北前船は島前西の島が大事な中継港だ、ここで高富へ行く先を告げるのが義務化している。

銭五への連絡はここへ書を預ければ「結」の手で届けられる、ドンファン(東蕃)に加わらない船は島後隠岐の島西郷へ入ることが多い。

一艘わずかな手数料でも年に直せば二百両以上になる。

粟島には水田もあり収穫は安定している、馬鈴薯の栽培も始めている。

山には野生と化した馬が五十頭は居るという、三左衛門がもとは義経公の愛馬がこの島へ渡ったと口伝が残ると話した

ここから二百三十里で酒田沖の飛島に着く、ともに北前船の重要な拠点だ。

三左衛門はにこやかな信のことを一目で気に入ったようだ。

「言葉が通じるとは思わなかった。時期が合えば鯛尽くしで歓待できたのだが時期が悪い。その代わり鰤がもう取れだしました」

佐渡鶴子(つるし)銀山の歴史を語ってくれた。

「昔、銀山は知られていましたが、金山は本間氏が秘密にして酒田へ分家した時に結の財産を秘匿しました」

「どのくらい前でしょうか」

「奥州藤原氏が掘り始めたのは頼朝公源氏再興以前と言われていますから、本間家が相模の地侍でいたころです。その後時代が変わり、佐渡守護に本間氏が入りました。結とつながりができたのはその頃でしょう」

佐渡の鶴子銀山、西三川砂金山は上杉氏に狙われた。

「上杉氏によって佐渡を追われたというのは時代が大分と過ぎてでしょうか」

「さようです。その時に酒田本間家が五貫の銀錠千二百個、金錠六百個を隠したといいます」

老爺(ラォイエ)が話に入った、酒田は藤原氏と縁の深い土地だ。

「奥州平泉藤原氏が隠した五貫の金錠は半分に減ったが、その時に千六十個確認できたそうじゃ」

合わせて千六百六十個の五貫の金錠だという。

「大本は御舘次郎(ミタチジロウ)のことですね」

「聞いていましたか」

「藤原基衡(フジワラノモトヒラ)の次男で十三秀栄(トサヒデヒサ)の変名と我が家に伝わっております」

信は口伝でインドゥから伝えられていた。

「その流れで弘前藩には血族が多いのだよ。わしの家は殿様と同じご先祖だといわれているが、兄は喜多村の本家を継いでいますじゃ」

自分は周りから鉄之助と言われていると伝えた。

「もうじき還暦だが面白い時代に結を引き継がせてもらえたものじゃ。九郎判官殿のお血筋と聞いていたが、このような若武者でうれしいですじゃ」

老爺(ラォイエ)こと鉄之助は小野忠常の一刀流を学んだ梶新右衛門正直の一刀流と、殿様が小野忠一より伝授された一刀流を学んだという。

弘前藩は津軽で四万六千石だったが、蝦夷地警護により七万石へ、さらに三年前高直しが行われ十万石となった。

今幕府の許しで三層の天守閣の造営中だ。

先代が財政再建を達成半ば三十歳で急死し、行われていた政策はとん挫し、高直しによる出費の増大に苦しんでいる。

鉄之助の話によれば御秘官(イミグァン)・結の大阪窓口は茨木屋安右衛門で、弘前藩の蔵屋敷(蔵元)を引き受けていた。

五十年前ごろには弘前藩御用達貸付金八万八千両に及んだという。

いくら「結」の資金とはいえ自前の金に困るようになったという。

藩では困り、鴻池からも借り入れは増えていったという。

茨木屋七百石、鴻池五百五十石など扶持まで与え、藩の窮乏はとどまるところを知らないありさまだった。

茨木屋は十万六百五十六両(銀六〇三九貫三九五匁)を超したところで蔵元を辞退し手を引いた。

しかし天明の飢饉による窮乏を見かねた茨木屋は融資の上積みに応じた。

藩の財政は赤字累積を続けている。

津軽に御秘官(イミグァン)と「結」の資金を置いておけばとっくに浪費されていただろうと鉄之助は信に話した。

茨木屋は筑後柳河藩十万九千石にも多くを貸し付けている。

立花貞俶の時代、藩政改革に取り組んだが、大阪蔵屋敷へ棒引きに近い押し付けもあった。

藩は享保の時代に大飢饉に見舞われ、借り入れに苦慮し幕府から一万両を借りている。

茨木屋の借り入れを島屋吉兵衛が肩代わりしたともいわれている。

島屋は江戸店で武蔵本庄宿新田町の戸谷半兵衛光寿(中屋)が出した店という。

さしもの豪商も大名貸の泥沼へ引きずり込まれてゆく。

石見銀山から隠匿された銀の流れの多くは、筑紫から関元と銭五たちドンファン(東蕃)の資金へ流れたと云う。

三左衛門から東海道中膝栗毛を読んだことがあるか聞かれた。

弥次喜多は初版から八年目、最近ようやく京、大坂へたどり着いている。

「絵は可笑しみが溢れて面白いですが字が難しいです。あそこまで崩されるとにわか勉強では飛ばし読みしかできません。いろはから教わるようです」

「続膝栗毛が出て四国へ海を渡っていますよ。各地の風俗気質を知るには役に立つ本です」

インドゥの集めた和本は多く、ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へ出るときに余姚(ユィヤオ)へ読み本は贈られた。

“鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月”は初版が出たばかりで、庸(イォン)も初めて手に取ったと喜んで続きが出るのを心待ちしていた。

「膝栗毛は作者が江戸にいて実際には見ていないものが多くてね。京で見た大仏は絵本からの引き写しで、燃えて台座が残るだけです」

銭五もそれは知らなかったようだ。

「一九は旅好きと聞きましたが、京へは行きませんでしたか。じゃ弥次喜多が京へたどり着いたはいいが、本の後追いで京へ行った人は驚くでしょうな」

その晩は船を見てから作らせたという豆腐に山芋の入った鱈の鍋と鳥の鍋二つを囲んでの酒盛りとなった。

渡邉家の酒蔵の醸造で、今年の正月に壺へ入れ、地下の穴倉で夏を越したものだという。

渡邉家は五代目から代々米沢藩の勘定奉行格の待遇が与えられている。

四代目の三左衛門の時代、米沢・長岡・村上・新発田・会津などへの貸し付けを始めたという。 

先代(六代目)の時、米沢藩は治憲が養子に入り藩政改革を始めた。

改革の底支えのため渡邉家は新たな貸し付けに応じた、この頃の貸付金は一万八千両に及んでいる。

この時酒田の本間家も米沢藩へ肩入れをした。

返済計画は二万九千七百九十五両、借金総額は二十万両を超えていたという。

苦しい藩政に加え西の丸普請手伝いが申し付けられ、江戸で工費の一万六千二百五十両を新たに借り受けることになる。

増上寺から高利で借り入れた借金は江戸三谷家から低利で借り入れができ、その金で返済した。

江戸の野挽家は二万八千両の貸付金と引き換えに二百五十石を与えられた。

ラォレェン(老人)が舟歌を披露してくれた、海老江の上(かみ)へ上(のぼ)るときの櫓をこぐ歌だという。

「戻りの時は我が家へ寄ってくだされ。海老江の港に銭五さんの船は係留して二丁櫓で一刻半も掛かりませんでございますよ。一晩歓待させてくだされ」

銭五は承諾した、家まで来いは特別なことも話したいのだろう。

ラォレェン(老人)に「早くとも往復ひと月半として、来月の二十六日から港で待機してくれ」と云いつけた。

十月十七日(陽暦十二月二日日)粟島抜錨。

四日目飛島が見え、酒田湊側の停泊地へ回った。

十月二十日(陽暦十二月五日)飛島投錨。

酒田沖八十里(和国十里)飛島には本間家の当代の婿の新兵衛と船問屋を任されている庄五郎が来ていた。

粟島~飛島の距離は二百三十里(和国二十八里二十七町)。

酒田の港には北前船の支店、そこから帳場まで九町ほど、近くには先代が五十年ほど以前に幕府巡見使一行の宿に建築し酒井家へ献上した屋敷がある。

維持は本間家に任されている、殿様の別邸くらいしか使い道がない。

荘内藩だが冊子に書かれるのは庄内藩のことが多い。

養蚕振興を中心とし、藩政を立て直そうとしている。

本間家は光丘を十年前、叔父の本間宗久を八年前に失った。

本間本家は光丘の長男光道が享和元年(1801年)四十五歳で受け継いで十年がたった。

今は消防組織の育成に励んでいる。

文化元年(1804年)四月酒田に大火が起こり、六百七十七戸が焼けた。

同年六月には鳥海山が噴火し庄内に大地震が起こった。

罹災民の救済に四千七百貫文(七百八十三両ほどになる)の銭を無利子で貸し付け、三万両の救済資金を郡代所に提供した。

文化五年(1808年)船場町に船問屋を開かせて蝦夷地交易にも乗り込ませた、店の名は正五郎と名を改めている。

船問屋正五郎は一族の者を庄五郎と名乗らせて任せている。

娘は居るが男子に恵まれず八歳になる外衛(光丘の弟の孫)を養子と考えている。

娘の婿新兵衛は学者肌の男で光道の趣味を支えている。

新兵衛は盛んに自分たち一族の美点を褒めてくる。

ここ飛島は風待ち港だが一時立ち寄る船が百を切ったが、今年は二百を上回ったと云う。

番屋へ誘われると五人のラォレェン(老人)と壮年の男がいた。

鉄之助と若者は“おや”という顔を見せたが、すぐに普段の通りに信の後ろへ回った。

いろいろとここまでの航海のことを聞くので信は丁寧に答えた。

不思議と銭屋と庸(イォン)は口を挟まない。

信は何かの試験だろうと思っていると庄五郎が苦い顔で質問してきた。

「船を二艘庫平両五十万で買うそうだが和国の結の金が出るのですかい」

「前に受け取った金以上には使いませんよ。銭五さんたちと寧波(ニンポー)の船主から三十人が負担しています」

「本家の金も出すようかい」

「今回来たのは参加を募るのではなく、前に庫平両銀換算壱千萬両を借り受けたもので調達する許可取りです」

「あんたが清国の結と御秘官(イミグァン)を受け継いだと聞いた」

「そのとおりです。父が思いも寄らぬ若死にゆえ受け継ぎました」

「聞いた話じゃ、こっちの金もあんたが自由裁量するそうだが」

「それは伝聞の間違いです。父が受け継ぐときに満、蒙、漢の組織の貸越金は切り捨て、新規貸し出し分から計算するとしました。今回和国でもそれを行う予定です」

「大坂茨木屋の御秘官(イミグァン)が出した損害を切り捨てるというのかね」

「今回、回る予定はありませんので本間家の約定が取れれば、結の連絡網で伝えさせます」

「まるでご老中が借り入れを切り捨てさせたと同じだな」

「少し違います。各結に御秘官(イミグァン)の人が今までの分を切り捨てても損をするのは個人ではありません。取り返せる貸し出しなら儲けにもできます」

「結、御秘官(イミグァン)の金を借り出していないものが損じゃねえか」

「結とは本来資金はなくなるものというのが前提です。ですから親子でも新たに入れるのです。御秘官(イミグァン)の金は、世の為に成るなら投げ出していい金だと入る時に教わったはずです」

「しかし御大名の窮乏資金に出させても戻らないのはしゃくだ」

「多くの人が助かるのであればご先祖も喜びますよ」

「無駄にしやがってと怒る人も出そうだ」

老人が笑いながら薄い笈(おい)を机に置いた。

茨木屋の隠居というラォレェン(老人)が蒔絵の箱を出し銅の鞘から半分の小判を出した。

信も背の打飼袋からチィンチャン(慶長小判)を出して皆が見守る中で合わせた。

興正虎徹の笈は銭五がしょってくれている。

「これからの御秘官(イミグァン)の金はどう使います」

「一番は教育、そのほか飢饉の救済のための米の備蓄。つぶれそうな藩への援助は見込みのある藩と無い藩の見極めでしょう。殿様の遊興費に使わせるわけにはいきませんから」

「信殿が金を必要ではないのですか」

「和国の金は和国の者が、必要に応じて使うべきです。共同歩調は銭五殿を通して繋ぎをとれば済みます」

清も外国から貿易だけでなく様々な脅威が感じられると話し、和国も無駄でも国防に膨大な金が出ると話した。

一人のラォレェン(老人)は鐙屋惣左衛門だと名乗った。

秘密小島(ウフアガリ)まで来た若者は長男の大吉郎だと初めて名を明かした。

三人のラォレェン(老人)はそれぞれの名を告げた。

加賀屋太郎右衛門、加賀屋多右衛門、能代屋八十吉。

壮年の男は本間弥十郎で本家当主の甥だという。

「当主は目くらましに寄合を兼ねて鶴ヶ岡の御城下へ出ております。わたくしが替わりに聞き取ってくるよう申し付かりました」

本間家は荘内藩と共に農村の再生に成功しつつある。

しかし信たちの耳には六公四民、いやそれ以上の負担も強いて(しいて)いると聞こえてくる。

藩は貸付して膨らんだ米金の返済を免除したと聞いて、どちらが本当か銭五も悩んでいた。

現藩主は酒井忠器二十二歳、跡を継いで六年になる。

荘内藩は十三万八千石で酒井忠勝が鶴ヶ岡城に入った、そののち検地により五万三千石の増収が見込まれた。

それによる農民負担は重く逃散も起きている。

荘内藩の窮乏は名家からの正室、老中就任、日光東照宮修理などでの出費がかさみ借財が二十万両をはるかに超えたことがある。

老中になると賄賂(まいない)で懐が膨らむは反対勢力が追い落としに使う常套句だ。

本間光丘、本間光道親子の資金援助もあり、養蚕振興も進んで農村は潤いだしてきた。

この時代御親藩をはじめ大名はどこも借財に苦しんでいる。

米経済は破綻し、大名、幕閣は御用達、蔵元、大商人の懐を狙っている。

田沼意次は十代将軍家治死去後の天明六年(1786年)八月二十七日に老中を罷免され、松平定信が天明七年(1787年)六月十九日に老中上座、勝手方取締掛となった。

田沼の緊縮政策を追認し、まずい部分は田沼の失政と押し付けた。

成功とみれば旧悪を解消したと喧伝し、不正役人勘定方三十人、普請方二十人余りを処分したと公言していた。

幕府の金蔵は吉宗時代の二百五十三万両、十代家治施政の明和七年(1770年)の備蓄金百七十一万七千五百二十九両(三百万両ともいわれる)。

田沼時代は未曽有の大飢饉が襲い、幕府の備蓄金は減り続けたが出目を狙った改鋳は行わなかった。

天明八年(1788年)には幕府金蔵は八十一万両に減っていた。

寛政五年(1793年)七月二十三日、定信将軍輔佐、老中等御役御免。

定信失脚時は備蓄金二十万両と記録されている。

囲米の制度もさも定信の英断とほめそやすが、綱吉の時代より制度化されている。

定信は朱子学を幕府公認の学問と定め、陽明学・古学の講義を禁止した。

旗本、御家人救済に札差に元本が回収済み六年以前の債権破棄、五年以内の借金利子引き下げを命じた。

札差の資金調達を幕府が貸し付け、貸し渋りを防いだ。

旗本、御家人救済が裏目に出ると一転、札差の御機嫌伺だ。

農民の負担を軽減する目的で、助郷の軽減、納宿の廃止が行われたが、街道の負担は重くなってしまった。

米経済は豊作になれば米相場が下落し、大名を筆頭に武士が困窮し、不作、飢饉となれば年貢が集まらず収入が減る。

豊作で米相場が高値安定とは現実では有りえないのにそれを行おうとした。

貧乏人が銭を持てば消費する、そうすれば経済が回る。

この理屈は朱子学には載っていない、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の儒学から農と上下秩序を重視の朱子学へ定信とその信奉者は舵を切らせた。

和国も農民、商人(町民)、職人(町民)、武士の割合が少しずつ変化しだした。

将軍家斉は十五歳で将軍について二十四年たった。

この年までに十三男十七女と多くの子に恵まれた。

武士の考える贅沢禁止は、それを生業とする職人、商人どころか一次生産者である農民の暮らしにまですぐに影響した。

老中首座として五年前復帰した松平信明の時代、一時回復した幕府財政がさらに悪化してゆく。

有力町人から御用金、農民に国役金(河川・道路の修築など)、諸大名に御手伝普請の賦課と全国規模に疲弊が広がりだした。

幕閣は貨幣の改鋳へと舵を切りそうだ。

前回は吉宗の緊縮財政の影響で元文元年五月から鋳造を始めた元文小判だ。

この時の交換比率は慶長小判百両につき百六十五両、元禄小判百両につき百五両とされた。

小判は千二百二十万両鋳造されて一分判は五百二十三万両と言われている。

出目はわずか百二万両に過ぎない、それを備蓄が増えたと自慢した。

慶長小判の金は四匁〇一二二(15.045グラム)から金四匁一三一二(15.49グラム)あった。

元文小判の金で二匁二九九八(8.624グラム)。

慶長小判百両の金は四百壱匁二分二毛。

元文小判百六十五両の金は三百六十二匁九分六毛。

出目は三十八匁二分六毛となる。

通用停止の時期が近付いている慶長小判を長崎と大坂で交換するか、金銀に仕分けるかを相談した。

そのほかのものは元文小判、金錠、銀錠での保存と決まった。

大坂に慶長小判三十万両、元文小判三十万両が眠っているという、そのほかは貸し出し台帳の写しを持参してきた。

本間弥十郎は交換も吹き直しもしないほうを勧めている。

信が豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の希望と言って打飼袋から二通の書状を出した。

漢文の読めるものが読み下し、信と庸(イォン)が意味の通じにくいところを手伝った。

「此れによると和国は結、御秘官(イミグァン)の合議で、残る金の扱いを決めるということですが。信様はそれでよろしいので」

何度目かの念押しで集まったラォレェン(老人)たちは納得した。

銭五が三枚の御秘官(イミグァン)の貸し出し破棄確約文書を取り出して渡した。

署名の雲鵬は和信の号と庸(イォン)が説明している。

持参した貸し出し台帳の写しに“辛未十月二十日 飛島 雲鵬 確認 以上 権利放棄”と信が書いて茨木屋の隠居へ渡した。

本間弥十郎と喜多村鉄之助が代表して連署した。

破棄確約文書は本間弥十郎と喜多村鉄之助、茨木屋隠居の三人が分けて受け取った。

「結の取り決めは、今まで通りの運営で支障が起きなければ継続してください」

「承知しました」

信が現れるまで様々な憶測が飛び交って居たのだろうが、一様に安堵の面持ちとなっている。

集まったものは銀相場を気にしている、噂は将軍家斉の浪費、幕府財政の悪化。

幕閣はすべて田沼に押し付けるが、打開策は見いだせずにまた出目を狙って改鋳との噂が絶えないという。

「改鋳が行わると一時的に銀相場は上がる。だが半年が精々だろう」

「長崎で清の庫平両に買い替えますか」

「数が多けりゃ奉行所に狙われる。いちゃもんつけて闕所、財産没収が出世の糸口だ」

「簡単にやれるのかね」

「一族に不幸なものでもいればキリシタンへ引きずり込む常套手段だ」

昔、千軒金山の独り占めを図ったが、金の卵を産む鶏を殺してしまった幕府はまたぞろロシアの驚異を名目に松前氏を追い払ったが、金山を探し出せないので幕閣は下っ端を解役、左遷し続けて居る。

老中首座松平信明(三河吉田藩七万石)、勝手掛老中牧野忠精(越後長岡藩七万四千石)は奉行とて使い捨てくらいにしか思っていない。

   

紅花は酒田港から京、大坂へ送られる。

出羽山形藩は六万石、秋元久朝は昨年十九歳で家督を受け継いだ。

左遷地ともいわれる山形藩は紅花の有力産地だ。

紅餅馬一駄は米が百俵買え“米の百倍、金の十倍”とさえ云われた。

この年幕府張り紙と相場は大きく差が出ていて、江戸町相場一升百二十文に上がっている。

大坂取引は一石銀五十八匁だった。

最上紅花は六十年前、和国の四割を生産していた。

当時一駄(三十二貫)が九十七両以上したが、十年前には三十両を切ってしまった。

原因は奢侈禁止令と品質低下によるところが大きい、それでも米が三十石(七十五俵)買える。

銀相場は一両につき六十三匁、銭は一両が六千九百文になっていた。

領主、家老たち藩政の怠慢としか言いようがない。

最上氏が入部した時が五十七万石、整備された武家屋敷も今は荒廃している。

秋元家にとっては大きすぎる城郭の修理もままならない。

天領の時代に預かった会津藩の代官は二の丸、三ノ丸の武家屋敷、貯蔵庫である百間蔵をすべて破却し、樹木も薪にして売り払った。

その後に入部した秋元家は、家臣の住まいから手当てすることになった。

天明の飢饉、松平定信、松平信明時代の緊縮財政の煽りをもろに喰らった代表的な藩だ。

 

第六十一回-和信伝-参拾 ・ 23-07-30

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



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