村上沖七十里(和国八里二十七町)の粟島まで能登冲から七百里(和国八十七里十八町)。
この島は米沢藩預かりで、越後下関の渡邊家が番所の管理を任されている。
途中越後は佐渡との間を抜けて来た。
十月十五日(陽暦十一月三十日)海流と西南風に乗って七日目申刻近く(午後三時八分頃)に内浦へ碇を下ろした。
渡邊家では当主が島へ出向いていた。
七代三左衛門善映三十六歳、銭屋五兵衛三十八歳。
「この付近、今時分は洋時刻の四時四十分くらいに海へ陽が落ちます」
和国の船はまだ洋時計を積んでいるのは数が少ない、日時計で方向と時刻を図る程度だ。
銭五たちのドンファン(東蕃)は全船に五寸和磁石二台、遠眼鏡三本、船箪笥、海図、砂時計に洋時計を備えさせた。
和磁石は大坂釘屋町はりや九兵衛のものは性能が良いといわれている。
船尾の縦帆はまだ珍しく、三左衛門は興味深く質問している。
ジャンク(戎克)の三枚帆はまだ絵でしか見ていないと云う。
縦帆は舵の効きをよくするためと聞いて納得した。
船首の弥帆はほとんどの北前船が採用しだした、弥帆をまだ理解できない船頭は多く、追手風に有利と思われている。
弥帆をつけてから、北前船の大回しと呼ばれる箱館から馬関まで佐渡沖へ出て、一気に南下する沖乗りが、逆風下でも容易になっている。
箱館から大坂西回り四十日が普通だが、三十日で着いたと豪語する船もある。
ドンファン(東蕃)の北前船は島前西の島が大事な中継港だ、ここで高富へ行く先を告げるのが義務化している。
銭五への連絡はここへ書を預ければ「結」の手で届けられる、ドンファン(東蕃)に加わらない船は島後隠岐の島西郷へ入ることが多い。
一艘わずかな手数料でも年に直せば二百両以上になる。
粟島には水田もあり収穫は安定している、馬鈴薯の栽培も始めている。
山には野生と化した馬が五十頭は居るという、三左衛門がもとは義経公の愛馬がこの島へ渡ったと口伝が残ると話した。
ここから二百三十里で酒田沖の飛島に着く、ともに北前船の重要な拠点だ。
三左衛門はにこやかな信のことを一目で気に入ったようだ。
「言葉が通じるとは思わなかった。時期が合えば鯛尽くしで歓待できたのだが時期が悪い。その代わり鰤がもう取れだしました」
佐渡鶴子(つるし)銀山の歴史を語ってくれた。
「昔、銀山は知られていましたが、金山は本間氏が秘密にして酒田へ分家した時に結の財産を秘匿しました」
「どのくらい前でしょうか」
「奥州藤原氏が掘り始めたのは頼朝公源氏再興以前と言われていますから、本間家が相模の地侍でいたころです。その後時代が変わり、佐渡守護に本間氏が入りました。結とつながりができたのはその頃でしょう」
佐渡の鶴子銀山、西三川砂金山は上杉氏に狙われた。
「上杉氏によって佐渡を追われたというのは時代が大分と過ぎてでしょうか」
「さようです。その時に酒田本間家が五貫の銀錠千二百個、金錠六百個を隠したといいます」
老爺(ラォイエ)が話に入った、酒田は藤原氏と縁の深い土地だ。
「奥州平泉藤原氏が隠した五貫の金錠は半分に減ったが、その時に千六十個確認できたそうじゃ」
合わせて千六百六十個の五貫の金錠だという。
「大本は御舘次郎(ミタチジロウ)のことですね」
「聞いていましたか」
「藤原基衡(フジワラノモトヒラ)の次男で十三秀栄(トサヒデヒサ)の変名と我が家に伝わっております」
信は口伝でインドゥから伝えられていた。
「その流れで弘前藩には血族が多いのだよ。わしの家は殿様と同じご先祖だといわれているが、兄は喜多村の本家を継いでいますじゃ」
自分は周りから鉄之助と言われていると伝えた。
「もうじき還暦だが面白い時代に結を引き継がせてもらえたものじゃ。九郎判官殿のお血筋と聞いていたが、このような若武者でうれしいですじゃ」
老爺(ラォイエ)こと鉄之助は小野忠常の一刀流を学んだ梶新右衛門正直の一刀流と、殿様が小野忠一より伝授された一刀流を学んだという。
弘前藩は津軽で四万六千石だったが、蝦夷地警護により七万石へ、さらに三年前高直しが行われ十万石となった。
今幕府の許しで三層の天守閣の造営中だ。
先代が財政再建を達成半ば三十歳で急死し、行われていた政策はとん挫し、高直しによる出費の増大に苦しんでいる。
鉄之助の話によれば御秘官(イミグァン)・結の大阪窓口は茨木屋安右衛門で、弘前藩の蔵屋敷(蔵元)を引き受けていた。
五十年前ごろには弘前藩御用達貸付金八万八千両に及んだという。
いくら「結」の資金とはいえ自前の金に困るようになったという。
藩では困り、鴻池からも借り入れは増えていったという。
茨木屋七百石、鴻池五百五十石など扶持まで与え、藩の窮乏はとどまるところを知らないありさまだった。
茨木屋は十万六百五十六両(銀六〇三九貫三九五匁)を超したところで蔵元を辞退し手を引いた。
しかし天明の飢饉による窮乏を見かねた茨木屋は融資の上積みに応じた。
藩の財政は赤字累積を続けている。
津軽に御秘官(イミグァン)と「結」の資金を置いておけばとっくに浪費されていただろうと鉄之助は信に話した。
茨木屋は筑後柳河藩十万九千石にも多くを貸し付けている。
立花貞俶の時代、藩政改革に取り組んだが、大阪蔵屋敷へ棒引きに近い押し付けもあった。
藩は享保の時代に大飢饉に見舞われ、借り入れに苦慮し幕府から一万両を借りている。
茨木屋の借り入れを島屋吉兵衛が肩代わりしたともいわれている。
島屋は江戸店で武蔵本庄宿新田町の戸谷半兵衛光寿(中屋)が出した店という。
さしもの豪商も大名貸の泥沼へ引きずり込まれてゆく。
石見銀山から隠匿された銀の流れの多くは、筑紫から関元と銭五たちドンファン(東蕃)の資金へ流れたと云う。
三左衛門から東海道中膝栗毛を読んだことがあるか聞かれた。
弥次喜多は初版から八年目、最近ようやく京、大坂へたどり着いている。
「絵は可笑しみが溢れて面白いですが字が難しいです。あそこまで崩されるとにわか勉強では飛ばし読みしかできません。いろはから教わるようです」
「続膝栗毛が出て四国へ海を渡っていますよ。各地の風俗気質を知るには役に立つ本です」
インドゥの集めた和本は多く、ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へ出るときに余姚(ユィヤオ)へ読み本は贈られた。
“鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月”は初版が出たばかりで、庸(イォン)も初めて手に取ったと喜んで続きが出るのを心待ちしていた。
「膝栗毛は作者が江戸にいて実際には見ていないものが多くてね。京で見た大仏は絵本からの引き写しで、燃えて台座が残るだけです」
銭五もそれは知らなかったようだ。
「一九は旅好きと聞きましたが、京へは行きませんでしたか。じゃ弥次喜多が京へたどり着いたはいいが、本の後追いで京へ行った人は驚くでしょうな」
その晩は船を見てから作らせたという豆腐に山芋の入った鱈の鍋と鳥の鍋二つを囲んでの酒盛りとなった。
渡邊家の酒蔵の醸造で、今年の正月に壺へ入れ、地下の穴倉で夏を越したものだという。
渡邊家は五代目から代々米沢藩の勘定奉行格の待遇が与えられている。
四代目の三左衛門の時代、米沢・長岡・村上・新発田・会津などへの貸し付けを始めたという。
先代(六代目)の時、米沢藩は治憲が養子に入り藩政改革を始めた。
改革の底支えのため渡邊家は新たな貸し付けに応じた、この頃の貸付金は一万八千両に及んでいる。
この時酒田の本間家も米沢藩へ肩入れをした。
返済計画は二万九千七百九十五両、借金総額は二十万両を超えていたという。
苦しい藩政に加え西の丸普請手伝いが申し付けられ、江戸で工費の一万六千二百五十両を新たに借り受けることになる。
増上寺から高利で借り入れた借金は江戸三谷家から低利で借り入れができ、その金で返済した。
江戸の野挽家は二万八千両の貸付金と引き換えに二百五十石を与えられた。
ラォレェン(老人)が舟歌を披露してくれた、海老江の上(かみ)へ上(のぼ)るときの櫓をこぐ歌だという。
「戻りの時は我が家へ寄ってくだされ。海老江の港に銭五さんの船は係留して二丁櫓で一刻半も掛かりませんでございますよ。一晩歓待させてくだされ」
銭五は承諾した、家まで来いは特別なことも話したいのだろう。
ラォレェン(老人)に「早くとも往復ひと月半として、来月の二十六日から港で待機してくれ」と云いつけた。
十月十七日(陽暦十二月二日日)粟島抜錨。
四日目飛島が見え、酒田湊側の停泊地へ回った。
十月二十日(陽暦十二月五日)飛島投錨。
酒田沖八十里(和国十里)飛島には本間家の当代の婿の新兵衛と船問屋を任されている庄五郎が来ていた。
粟島~飛島の距離は二百三十里(和国二十八里二十七町)。
酒田の港には北前船の支店、そこから帳場まで九町ほど、近くには先代が五十年ほど以前に幕府巡見使一行の宿に建築し酒井家へ献上した屋敷がある。
維持は本間家に任されている、殿様の別邸くらいしか使い道がない。
荘内藩だが冊子に書かれるのは庄内藩のことが多い。
養蚕振興を中心とし、藩政を立て直そうとしている。
本間家は光丘を十年前、叔父の本間宗久を八年前に失った。
本間本家は光丘の長男光道が享和元年(1801年)四十五歳で受け継いで十年がたった。
今は消防組織の育成に励んでいる。
文化元年(1804年)四月酒田に大火が起こり、六百七十七戸が焼けた。
同年六月には鳥海山が噴火し庄内に大地震が起こった。
罹災民の救済に四千七百貫文(七百八十三両ほどになる)の銭を無利子で貸し付け、三万両の救済資金を郡代所に提供した。
文化五年(1808年)船場町に船問屋を開かせて蝦夷地交易にも乗り込ませた、店の名は正五郎と名を改めている。
船問屋正五郎は一族の者を庄五郎と名乗らせて任せている。
娘は居るが男子に恵まれず八歳になる外衛(光丘の弟の孫)を養子と考えている。
娘の婿新兵衛は学者肌の男で光道の趣味を支えている。
新兵衛は盛んに自分たち一族の美点を褒めてくる。
ここ飛島は風待ち港だが一時立ち寄る船が百を切ったが、今年は二百を上回ったと云う。
番屋へ誘われると五人のラォレェン(老人)と壮年の男がいた。
鉄之助と若者は“おや”という顔を見せたが、すぐに普段の通りに信の後ろへ回った。
いろいろとここまでの航海のことを聞くので信は丁寧に答えた。
不思議と銭屋と庸(イォン)は口を挟まない。
信は何かの試験だろうと思っていると庄五郎が苦い顔で質問してきた。
「船を二艘庫平両五十万で買うそうだが和国の結の金が出るのですかい」
「前に受け取った金以上には使いませんよ。銭五さんたちと寧波(ニンポー)の船主から三十人が負担しています」
「本家の金も出すようかい」
「今回来たのは参加を募るのではなく、前に庫平両銀換算壱千萬両を借り受けたもので調達する許可取りです」
「あんたが清国の結と御秘官(イミグァン)を受け継いだと聞いた」
「そのとおりです。父が思いも寄らぬ若死にゆえ受け継ぎました」
「聞いた話じゃ、こっちの金もあんたが自由裁量するそうだが」
「それは伝聞の間違いです。父が受け継ぐときに満、蒙、漢の組織の貸越金は切り捨て、新規貸し出し分から計算するとしました。今回和国でもそれを行う予定です」
「大坂茨木屋の御秘官(イミグァン)が出した損害を切り捨てるというのかね」
「今回、回る予定はありませんので本間家の約定が取れれば、結の連絡網で伝えさせます」
「まるでご老中が借り入れを切り捨てさせたと同じだな」
「少し違います。各結に御秘官(イミグァン)の人が今までの分を切り捨てても損をするのは個人ではありません。取り返せる貸し出しなら儲けにもできます」
「結、御秘官(イミグァン)の金を借り出していないものが損じゃねえか」
「結とは本来資金はなくなるものというのが前提です。ですから親子でも新たに入れるのです。御秘官(イミグァン)の金は、世の為に成るなら投げ出していい金だと入る時に教わったはずです」
「しかし御大名の窮乏資金に出させても戻らないのはしゃくだ」
「多くの人が助かるのであればご先祖も喜びますよ」
「無駄にしやがってと怒る人も出そうだ」
老人が笑いながら薄い笈(おい)を机に置いた。
茨木屋の隠居というラォレェン(老人)が蒔絵の箱を出し銅の鞘から半分の小判を出した。
信も背の打飼袋からチィンチャン(慶長小判)を出して皆が見守る中で合わせた。
興正虎徹の笈は銭五がしょってくれている。
「これからの御秘官(イミグァン)の金はどう使います」
「一番は教育、そのほか飢饉の救済のための米の備蓄。つぶれそうな藩への援助は見込みのある藩と無い藩の見極めでしょう。殿様の遊興費に使わせるわけにはいきませんから」
「信殿が金を必要ではないのですか」
「和国の金は和国の者が、必要に応じて使うべきです。共同歩調は銭五殿を通して繋ぎをとれば済みます」
清も外国から貿易だけでなく様々な脅威が感じられると話し、和国も無駄でも国防に膨大な金が出ると話した。
一人のラォレェン(老人)は鐙屋惣左衛門だと名乗った。
秘密小島(ウフアガリ)まで来た若者は長男の大吉郎だと初めて名を明かした。
三人のラォレェン(老人)はそれぞれの名を告げた。
加賀屋太郎右衛門、加賀屋多右衛門、能代屋八十吉。
壮年の男は本間弥十郎で本家当主の甥だという。
「当主は目くらましに寄合を兼ねて鶴ヶ岡の御城下へ出ております。わたくしが替わりに聞き取ってくるよう申し付かりました」
本間家は荘内藩と共に農村の再生に成功しつつある。
しかし信たちの耳には六公四民、いやそれ以上の負担も強いて(しいて)いると聞こえてくる。
藩は貸付して膨らんだ米金の返済を免除したと聞いて、どちらが本当か銭五も悩んでいた。
現藩主は酒井忠器二十二歳、跡を継いで六年になる。
荘内藩は十三万八千石で酒井忠勝が鶴ヶ岡城に入った、そののち検地により五万三千石の増収が見込まれた。
それによる農民負担は重く逃散も起きている。
荘内藩の窮乏は名家からの正室、老中就任、日光東照宮修理などでの出費がかさみ借財が二十万両をはるかに超えたことがある。
老中になると賄賂(まいない)で懐が膨らむは反対勢力が追い落としに使う常套句だ。
本間光丘、本間光道親子の資金援助もあり、養蚕振興も進んで農村は潤いだしてきた。
この時代御親藩をはじめ大名はどこも借財に苦しんでいる。
米経済は破綻し、大名、幕閣は御用達、蔵元、大商人の懐を狙っている。
田沼意次は十代将軍家治死去後の天明六年(1786年)八月二十七日に老中を罷免され、松平定信が天明七年(1787年)六月十九日に老中上座、勝手方取締掛となった。
田沼の緊縮政策を追認し、まずい部分は田沼の失政と押し付けた。
成功とみれば旧悪を解消したと喧伝し、不正役人勘定方三十人、普請方二十人余りを処分したと公言していた。
幕府の金蔵は吉宗時代の二百五十三万両、十代家治施政の明和七年(1770年)の備蓄金百七十一万七千五百二十九両(三百万両ともいわれる)。
田沼時代は未曽有の大飢饉が襲い、幕府の備蓄金は減り続けたが出目を狙った改鋳は行わなかった。
天明八年(1788年)には幕府金蔵は八十一万両に減っていた。
寛政五年(1793年)七月二十三日、定信将軍輔佐、老中等御役御免。
定信失脚時は備蓄金二十万両と記録されている。
囲米の制度もさも定信の英断とほめそやすが、綱吉の時代より制度化されている。
定信は朱子学を幕府公認の学問と定め、陽明学・古学の講義を禁止した。
旗本、御家人救済に札差に元本が回収済み六年以前の債権破棄、五年以内の借金利子引き下げを命じた。
札差の資金調達を幕府が貸し付け、貸し渋りを防いだ。
旗本、御家人救済が裏目に出ると一転、札差の御機嫌伺だ。
農民の負担を軽減する目的で、助郷の軽減、納宿の廃止が行われたが、街道の負担は重くなってしまった。
米経済は豊作になれば米相場が下落し、大名を筆頭に武士が困窮し、不作、飢饉となれば年貢が集まらず収入が減る。
豊作で米相場が高値安定とは現実では有りえないのにそれを行おうとした。
貧乏人が銭を持てば消費する、そうすれば経済が回る。
この理屈は朱子学には載っていない、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の儒学から農と上下秩序を重視の朱子学へ定信とその信奉者は舵を切らせた。
和国も農民、商人(町民)、職人(町民)、武士の割合が少しずつ変化しだした。
将軍家斉は十五歳で将軍について二十四年たった。
この年までに十三男十七女と多くの子に恵まれた。
武士の考える贅沢禁止は、それを生業とする職人、商人どころか一次生産者である農民の暮らしにまですぐに影響した。
老中首座として五年前復帰した松平信明の時代、一時回復した幕府財政がさらに悪化してゆく。
有力町人から御用金、農民に国役金(河川・道路の修築など)、諸大名に御手伝普請の賦課と全国規模に疲弊が広がりだした。
幕閣は貨幣の改鋳へと舵を切りそうだ。
前回は吉宗の緊縮財政の影響で元文元年五月から鋳造を始めた元文小判だ。
この時の交換比率は慶長小判百両につき百六十五両、元禄小判百両につき百五両とされた。
小判は千二百二十万両鋳造されて一分判は五百二十三万両と言われている。
出目はわずか百二万両に過ぎない、それを備蓄が増えたと自慢した。
慶長小判の金は四匁〇一二二(15.045グラム)から金四匁一三一二(15.49グラム)あった。
元文小判の金で二匁二九九八(8.624グラム)。
慶長小判百両の金は四百壱匁二分二毛。
元文小判百六十五両の金は三百六十二匁九分六毛。
出目は三十八匁二分六毛となる。
通用停止の時期が近付いている慶長小判を長崎と大坂で交換するか、金銀に仕分けるかを相談した。
そのほかのものは元文小判、金錠、銀錠での保存と決まった。
大坂に慶長小判三十万両、元文小判三十万両が眠っているという、そのほかは貸し出し台帳の写しを持参してきた。
本間弥十郎は交換も吹き直しもしないほうを勧めている。
信が豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の希望と言って打飼袋から二通の書状を出した。
漢文の読めるものが読み下し、信と庸(イォン)が意味の通じにくいところを手伝った。
「此れによると和国は結、御秘官(イミグァン)の合議で、残る金の扱いを決めるということですが。信様はそれでよろしいので」
何度目かの念押しで集まったラォレェン(老人)たちは納得した。
銭五が三枚の御秘官(イミグァン)の貸し出し破棄確約文書を取り出して渡した。
署名の雲鵬は和信の号と庸(イォン)が説明している。
持参した貸し出し台帳の写しに“辛未十月二十日 飛島 雲鵬 確認 以上 権利放棄”と信が書いて茨木屋の隠居へ渡した。
本間弥十郎と喜多村鉄之助が代表して連署した。
破棄確約文書は本間弥十郎と喜多村鉄之助、茨木屋隠居の三人が分けて受け取った。
「結の取り決めは、今まで通りの運営で支障が起きなければ継続してください」
「承知しました」
信が現れるまで様々な憶測が飛び交って居たのだろうが、一様に安堵の面持ちとなっている。
集まったものは銀相場を気にしている、噂は将軍家斉の浪費、幕府財政の悪化。
幕閣はすべて田沼に押し付けるが、打開策は見いだせずにまた出目を狙って改鋳との噂が絶えないという。
「改鋳が行わると一時的に銀相場は上がる。だが半年が精々だろう」
「長崎で清の庫平両に買い替えますか」
「数が多けりゃ奉行所に狙われる。いちゃもんつけて闕所、財産没収が出世の糸口だ」
「簡単にやれるのかね」
「一族に不幸なものでもいればキリシタンへ引きずり込む常套手段だ」
昔、千軒金山の独り占めを図ったが、金の卵を産む鶏を殺してしまった幕府はまたぞろロシアの驚異を名目に松前氏を追い払ったが、金山を探し出せないので幕閣は下っ端を解役、左遷し続けて居る。
老中首座松平信明(三河吉田藩七万石)、勝手掛老中牧野忠精(越後長岡藩七万四千石)は奉行とて使い捨てくらいにしか思っていない。
|