“ 中屋源兵衛
”
文化十一年九月三日(1814年10月15日)・田中宿~上田宿
“ 中屋源兵衛
”を十人に為って明け六つ(五時半ごろ)に旅立った。
次郎丸の時計で六時丁度「此処の鐘は正確に打っているぜ」とご満悦だ。
お芳は「最近は一日どのくらい狂うんですの」と遠慮ない。
「三分から五分石町の鐘で差が有った」
「石町がずれるの」
「いや屋敷の二挺天符にあわせるとこの時計が進む様だ」
六番目の田中一里塚は宿はずれにある。
「信濃国分寺へ回っても、九つには上田に入れる」
海野宿までわずか半里。
鳥居は白鳥大明神「上方から戻って調べたら此処も日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の化身の白鳥が降り立ったそうだ」と未雨(みゆう)に話した。
「朝日将軍白鳥河原の勢揃いと言うのはこの辺りだそうです」
信濃についてなら千十郎が強そうだ。
「元和八年、およそ二百年昔、大法院様上田より松代へ領地替えの時、白鳥が現れお駕籠の上へ留まられたと言い伝えが有り、大明神社を松代へもお建てに為り申した。昨年お社が建て直され申した」
“ しらとり ”を“ しろとり ”と詠みを替えたと云う。
この時別当寺として開善寺も移されてきて、真田家および家中の祈願寺とされた。
「お社を建て直す際、大法院様の霊を合祀して武靖大神と殿と大殿が為されており申す」
東枡形には番屋が有り旅人を見守っている。
なかだち地蔵尊はこの地へ元禄四年に遷座したと説明する声が聞こえる。
新しい常夜燈があるそこに“ 媒地蔵 ”と彫られている。
次郎丸が見ていると、媒の字は「なかだち」と巡礼の先達が説明している。
何やら加賀様に由縁の地蔵とまで聞いてその場を離れた。
右に長屋門を構えた柳沢太郎兵衛本陣に両脇が脇本陣の矢島六左衛門と宮下彦左衛門。
此の宿は期限付きで飯盛り一軒二人が認められているが、寛政十年に十五年とかぎられ、今年がその期限だ。
海野格子と言われだして、独特の格子が有る旅籠は飯盛りを抱えている目印だろうか。
西枡形に木製灯籠が有る。
小川には橋が無いが踏み石が川面から一尺ほど見えている。
千曲川沿いに仁王尊が有る、寛保二年「戌の満水」で大屋仁王堂流失。
台輪鳥居は寛延元年に建てられた。
七番目岩下一里塚、その先が岩下村。
諏訪明神が右手に在る、二百年前この地へ遷座と、巡礼の先達が話しているが顔ぶれが違う。
鳥居を見に行くと台輪石鳥居に寛保三年とある「八十年程前か後で建てたようだ」と街道へ戻った。
川の木橋先に道祖神、脇道が右手の信濃国分寺への道だ。
三重塔は木立の間に見えている。
“ 翁 ”
“ 春乃夜芭 ”
“ 沙鳩良尓阿介天 ”
“ 仕舞意気理 ”
「此処まで崩されては読めないわ」お芳とお辰(おとき)は降参だという。
未雨(みゆう)が元の句はと読み上げた。
“ はるの夜は さくらにあけて しまひけり ”
「麦二(ばくに)と言う人の尽力で師匠の亡くなられた後に建てたと聞いたよ」
三重塔は寄進に二分大野が出して中を拝観した。
巡礼が二組来て賑やかに為った。
お辰(おとき)に「わいら高崎から善光寺様へ行くだ。今晩は北向観音へ参詣して温泉じゃ」という。
「あたい等は上田に三日ほど用を足してから善光寺ですよ」
「もう一組はな、藤岡の人たちじゃと」
「あたい等は江戸から来ましたのさ」
先達が別所から半過(はんが)の舟で千曲川を渡り、鼠宿へ出て善光寺までは十里あまりと大野に説明している。
“ 信濃なる 古き宮居の 夫婦山 万代つきし みたらしのみゆ ”
次郎丸この旅では珍しく古歌を詠った。
先達が「夫婦山は別所温泉近くの夫神岳に女神岳の事だそうです」と巡礼達に話した。
上田の城下を回り込んで松本口で千曲川を渡るという。
千十郎もその道は知らないようだ。
「ここのところ橋で渡れます。北向観音、松本へ通じて居りますよ。上田と松本に親類が多いのは行き来が多いからだそうです」
巡礼の後について北国街道へもどった、先ほどより大分と上田城に近い。
先達は踏入村だという、一里塚が有る八番目常田一里塚だ、先に総社大宮明神が有る。
「国分寺より古き時代の創建と聞き申した。科野大国魂神を祀ると言われており申す」
巡礼二組は参拝に立ち寄ると別れていった。
江戸口木戸を通りぬけた。
大野は「海野宿から荷駄・乗懸(のりかけ)百十六文、軽尻(からじり)七十二文。皆で歩いたので節約できた」と喜んでいる。
二里の街道を五町程遠回りしただけなので時計は十時五十分。
四番目上田宿は田中宿から二里半。
正面に虚空蔵山が近づいて来た。
常田村(ときたむら)と横町の間が鉤手(曲尺手・かねんて)で用水先に木戸。
木戸先左手に脇道が在り、木戸先に武家屋敷の並ぶ常田町。
横町右手日輪寺は真田家の祖先海野幸義により天文十四年建立。
隣に海堂山宗吽寺。
鉤手(曲尺手・かねんて)を西(左)に曲がれば海野町。
海野町の市神は六斎市の守り神、市日だというので混雑していた。
海野町では当初一・六の日に六斎市を開いたが、享保九年三・五に変えられた。
それに伴い原町市日は初め五・十の日から海野町の願いにより八・十に改められた。
酒蔵に薬種取り扱いの店も右手に在る。
海野町の市神南側(左手)に上田宿柳沢太郎兵衛本陣と同問屋、隣がお茶、味噌見世小林佐七郎(∧に叶)。
市神角に煙草商(あきない)上野屋嘉衛門(○に中)。
四つ辻で右へ行けば原町の木戸先右に問屋場の滝沢家。
四つ辻で直進すれば上田城追手口の木戸(常田口)に番所、先は武家屋敷に為る。
原町の五町ほどの真っ直ぐな道は大きな商店が並んでいる、呉服、太物の暖簾が多い。
左手に“ 春錦堂 ”の看板、“ 井筒屋宋兵衛 ”脇本陣は薬種も扱っていた。
「一人増えたが部屋はどうなって居る」
「四部屋予約いただいて居りますが、同にも増やせぬのですが」
「四部屋ならそれでよい」
次郎丸が「俺の所に師匠と辰三郎で良いよ」と割り振った。
平助は未雨(みゆう)の師匠の話しで柳町小堺屋だとわかっているので、三人で尋ねることにして雪駄を三足権太の荷から出した。
番頭に聞くと「突き中りを左へ、石橋で右へ入れば五軒目が“ 亀齢 ”の小堺屋で御座います」と教えてくれた。
街道左手に萬屋の暖簾は扇に万の字、大きく“ 成澤 ”と描いていて、目立つ店を通り過ぎると未雨(みゆう)が袖を引く。
荒物屋の店先で立ち止まった。
「どうした」
「今の“ 成澤 ” 雲帯宗匠と言って大層なお方で」
「これから行く見世と同じ白雄師匠のお弟子かい」
「師匠の実家はこの付近の木町木戸内ですから。わっちは如毛宗匠の句を手本にしておりますが。師匠も弟子とゆうより友人としてのお付き合いでした」
暖簾を分けて前掛け姿の老人が出てきた。
「俺が句を手本だと、その顔は江戸の未雨(みゆう)か」
「まさか如毛宗匠、御変わりなく」
「馬鹿野郎、まさかと言うなら老けて見忘れたな」
作右衛門旦那の手配書きでも廻っているようだ。
「善光寺までおもかげを観に行くと酔狂な事だ」
「これから宗匠の店を訊ねる途中ですぜ」
「酒を買うのかね」
「ちと頼みごとが」
「ならついて御出で」
見世は綺麗に磨き抜かれている。
まず一献と言われ「すまぬが今しばらく禁酒道中なのだ、江戸へ戻るときは味あわせて貰うのでな」
「未雨(みゆう)が借宿の旦那が書いてきたように付き合いで禁酒は、このお方のせいかね」
試したようだ。
「左様で、家業がら御出入りさせて頂いて居りますので」
次郎丸が制して「頼みごとに隠し事は禁物だ、儂は定栄(さだよし)ともうし松代へ養子とほぼ決まり、義父上に呼ばれて松代へまいる途中だ。松代まで遊山旅同然だが禁酒はおまじないだ」と言って辰三郎を紹介した。
「あの松代の八田様の婿ですと」
辰三郎も自分で名乗り「ぜひとも御引き合わせ頂きたい方がいるので」と“ 藤本 ”と取引をしたいと告げた。
「雲帯宗匠でなく俺とは目端が利くな。いいとも引き受けた」
あっさりしたものだ。
「と、言いたいところだが未雨(みゆう)のおらがを手本という証拠を見せなよ」
「ではわっちの弟子に基本と示す句を」
“ 夕だちハ 煙草のむ間に 晴あがり ”
“ はツ雪に 雀が先へ 道つけて ”
“ 欄干を まがきに橋の 花火かな ”
「こんなところでどうでしょうかね。季節をうまく詠めと教えております」
「題を言おう、とんぼ、ひょうたんの二句」
“ とんぼうも 椽(てん)のてすりに 羽(は)をのして ”
“ 禅鞠(せんぎく)の すハりごゝろや 種ふくべ ”
「こりゃいい、毛まりに瓢箪を座らせたのが目に浮かぶ。功徳は有ったのかね」
次郎丸が楽しんで居る。
上田藩五万三千石の藩主松平忠学は文化十一年二十七歳に成る。
松平忠学(たださと)は分家から養子に迎えられ、二年前の文化九年に二十五歳で信濃上田藩の家督を継ぎ従五位下、伊賀守に任官した。
先代の松平忠済(ただまさ)は六十二歳で隠居したが今も藩政を仕切っていると噂だ。
忠学(たださと)は六月に暇で在国している。
国家老は文化八年に任命された藤井三郎左衛門三十九歳。
実高は五万九千石余と結は調べていた。
武田旧臣真田昌幸は、千曲川沿いに上田城(天正十一年着工)を築いた。
慶長五年、上田合戦は西軍に与し(くみし)、徳川秀忠軍三万二千を数千の兵で撃退。
関ヶ原の戦いで西軍が敗れ昌幸、真田信繁(幸村)父子は紀州九度山に蟄居、上田城は破壊された。
東軍に与した昌幸嫡男真田信之は父の領地を継承。
元和二年、信之は上田に移り、上田藩九万五千石が認められた。
元和八年、幕命によって信之は信濃松代藩へ移封され、代わって信濃小諸藩から仙石忠政が六万石で入る。
宝永三年、仙石氏に替わり藤井松平家松平忠周が五万八千石で上田に入り文化十一年に至るまで百八年が経った。
松平忠周(ただちか) 従四位下 伊賀守 侍従
松平忠愛(ただざね) 従五位下 伊賀守
弟の忠容に川中島五千石を分地。
松平忠順(ただより) 従五位下 伊賀守
松平忠済(ただまさ) 従五位下 伊賀守
松平忠学(たださと) 従五位下 伊賀守
「ご連絡は如何しましょうか」
「明日も原町井筒屋へ泊まっておるが、姨捨、善光寺、小布施、松代と半月かける、十七日くらいに戻り旅に為る」
「今日の内にご一報、遅くも明日の昼までにどうなるか連絡いたしましょう」
連絡の書状を書くと手代に「急いで此処へ届けてくれ」と表書きを確認させ送り出した。
「二人で師匠の思い出を語るより年寄連中を集めるので今晩付き合いな」
未雨(みゆう)に今晩予定がないと聞いて「迎えを出す」と言って息子を紹介した。
「文作と申します。俳号は生意気にも露蓋などと名乗らせて頂いて居ります」
暮れ六つ真近に小堺屋の手代が井筒屋へやってきて「ご当主が不在で書状を預けて参りました」と辰三郎へ告げて行った。
「縁が無いような気がします」
「松代は紬がだめでも太物は商売になる、稲荷山の松林は松代藩の御用商人に為ろうとしている。綿取引はいい足がかりだ」
次郎丸は将来の為に八田の独占を避ける算段だ。
「作って売るより製品の売り買いでしょうか」
「上方の商品、江戸の商品、上州、野州の紬、売りたい見世は幾らでもある」
その晩は十人ほどの白雄由縁の人たちが集まって面影塚の建立に話しが咲いた。
おもかげ集による姨捨之辨
古とし姥捨の月見ん古と志きりなりけれハ、
八月十一日美濃の国をたち、道遠く
日数すくなければ、夜に出て暮に草満くらす
思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は
八ワんといふ里より冷じう高くもあらず・・・
芭蕉・更科姨捨月乃辨
あるひはしらゝ・吹上ときくにうちさそはれて、ことし姥捨月ミむことしきりなりければ、八月十一日ミのゝ国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出て暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡といふさとより一里ばかり南に、西南によこをりふして、冷じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり。
芭蕉・更科紀行
更科の里、姥捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、またひとり、越人といふ。
木曽路は山深く道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をして送らす。
春秋庵加舎白雄(かやしらお)
元文三年八月二十日(1738年10月3日)誕生
上田藩士加舎忠兵衛吉享(よしずみ)の二男として江戸深川抱え屋敷に生まれた。
加舎五郎吉吉春と名付けられ、五歳で母親が亡くなる。
父親吉享を十六歳で亡くす。
宝暦六年、十九歳の加舎白雄は初めて信州に入ったとされる。
この頃江戸座の前田春来(二世青峨)に師事、舎来と称した。
明和二年 銚子滞在中、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称した。
烏明の師、白井鳥酔に心酔し、後に鳥酔に師事している。
鳥酔は明和六年四月四日に亡くなる。
明和六年八月十五日三十一歳の時、面影碑を建碑。
安永三年には 「志ら雄」「自尾」「志ら尾」などを使う。
安永五年(安永四年海晏寺白井鳥酔七回忌法要後)白雄は烏明から破門された。
安永八年頃より俳号に白雄を使いだしている。
安永九年に江戸日本橋に春秋庵を開いている。
天明四年三月大輪寺で兄吉重の葬儀があり、白雄 は上田へ。
天明五年正月兄吉重一周忌のため、碓氷峠 を越えて上田へ。
寛政二年兄吉重七周忌に上田を訪れる。
兄-加舎吉重
甥に加舎忠兵衛吉親-俳号里彦
白雄・寛政三年九月十三日(1791年10月10日)五十四歳死去。
法名徹心白雄居士。
追記
享保二年(1717年)松平忠周所司代随行の中に先祖と思われる加舎忠兵衛が入っている、家禄は百石。
天保十年(1839年)分限帳に加舎新七郎がいて家禄七十石。
|