第伍部-和信伝-伍拾陸

第八十七回-和信伝-拾陸

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

つるや甚右衛門

文化十一年九月二日(18141014日)・沓掛宿~田中宿

沓掛宿“ つるや甚右衛門 ”を明け六つに旅立った。

次郎丸の時計は五時十五分。

宿(しゅく)長五町二十八間、追分宿まで一里三町。

今日は荷駄二頭に荷を乗せた、田中までお辰(おとき)たちも歩くという。

一頭四十八文は草津往復と違い安上がりだと大野は気が緩んでいる。

街道の両側は刈入れの終わった田圃が広がっている。

古宿の秋葉社の鳥居脇におしんの両親の見世“ こもろ ”がある。

朝早いのにもう見世の縁台は五人が丼から蕎麦を啜っていた。

集落の先は水路が街道を横切る数が増えてきた。

街道の両脇に文字の“ 馬頭観音 ”が多く見られた。

右手への道は女街道、六里ヶ原を抜け、関所を避ける抜け道の一つだ。

右手の鳥居は遠近宮(おちこちみや)。

四十三年ほどまえ明和八年、それまでの浅間明神から遠近宮(おちこちみや)へ社号が替わった。

そのため祭神は以前のままに祭神は大山祇(おおやまつみ)神の姉娘磐長姫命(いわながひめのみこと)だ。

経緯は不明だが在原業平の“ 信濃なる 浅間の嶽に 立つ煙 遠近人の 見やはとがめん ”から採られたという。

馬方が石をゆび差し「おっかねえ石だが」と経緯を教えてくれた。

参道に魔の石と言われの有り、馬の乗り降りに利用されていたが、足を患う人が続出し馬方が此処での乗り降りをさせなくなったという。

休み茶見世に“ 黄檗ぬのや ”土屋作右衛門旦那が待っていた。

自宅へと云いながらも気が逸ってと言い訳を言う。

未雨(みゆう)と連れだって先頭を歩んだ、お芳は大野と話が弾んでいる。

高札場脇に横断水路。

上州道の追分が有る。

従是左上州くさ津道

従是左上州大さゝ くさつ あがつま道

三十六里目の追分一里塚で街道両脇に鳥居が見える。

左手の浅間(あさま)明神へ導いた。

「この宮は浅間大神遥拝の里宮で御座います」

松の木陰に句碑が有る。

芭蕉翁

婦支飛寿 石裳浅間能 野分哉

「この字は春秋庵二世長翠様の書で、寛政五年に佐久春秋庵連で建立しました。八月朔に記念百韻の句会が開かれて居ります。白雄師匠は其二年前に亡くなられました。」

芭蕉百年忌に白雄師匠の弟子が集まり春秋庵二世長翠が揮毫したという。

「翁はこの句にたどり着くまで幾度も推敲したのでさまざまな句が存在します」

「吹き落す」「吹きおろす」などの句を話してくれた。

  ふきとばす いしはあさまの のわきかな

「“ ”なのか“ ”なのかは論争の元で御座います」

明神を出ると大野が「絵図には善光寺まで十八里と出ていたが」と聞いている。

「大野様、私どもでは二十里で仕事をしております。沓掛から草津十里なども有るので

番頭も大弱りで御座います」

「二里も違えば中馬も大騒ぎするだろう」

大野は「待たせた分駄賃の上乗せだ」気前よく一人六十文渡している。

中山道二十番の宿は追分宿、沓掛から一里三町。

江戸から三十八里十九町。

中山道小田井宿まで一里十町。

北国街道小諸宿まで三里十八町。

土橋が乗る水路の先に用水が右手から引き込まれている。

用水は街道の中央を流れ右手に台付行燈、“ 御茶漬 うんどん そば ”林家久左衛門だと馬方が教えた。

                

中町に“ 御茶漬 御料理 ”の隅屋和四郎。

十字に土橋が架かる先に用水を跨いで高札場。

その右手が油屋脇本陣。

並びに土屋市左衛門本陣

甲州屋脇本陣。

先に諏訪明神上社。

諏訪明神は鎌倉時代の軍神として逐分(おいわけ)大明神が上社に鎮座。

さらに先に浅間山泉洞寺(せんとうじ)。

用水の左側に問屋・旅籠の土屋庄左衛門。

馬は此処で小諸本町まで乗り継ぎ、一頭百四十四文は距離が長いためだ。

用水は左右に分かれそれを土橋が覆っている。

左手に諏訪大明神下社がある。

桝形には“ 御奈良茶 ”の扇屋大二郎、“ 御茶漬 うんどんぞば ”の伊勢屋善兵衛。

「おと、茶を売るにしては見世が変よ」

「こいつは茶漬けの商い店で茶葉を売る店じゃないよ」

まだ五つにも為っていないが何人もが食事をしている。

追分の分去れは目の前、大野の絵図には道しるべが有るだけだが十できかない位の石造物が有る。

道祖神 ”と大きく彫られた愛らしい石碑がある。

北国街道の道標

従是中山道

東二世安楽追分町

従是北國海道

干時延宝七己未 三月 日

森羅亭万象建立による平賀源内の歌碑。

森羅亭万象は狂歌師の桂木甫燦、平賀源内の門人。

世の中は ありのままにぞ 霰ふる かしましとだに 心とめねば

寛政元年

手水鉢のような形をした道しるべ石がある。

正面

さらしなは右 みよしのハ左にて 月と花とを追分の宿

「これは昨日馬方が唄っていたな」

大野は読むのが面倒になってお芳と何か話し始めた。

西面

めうぎに七里 山道九里 はるなに十六里 一ノ宮十里 三河屋 高崎に十三里 江戸に三十八里 日光に四十四里

南面

小田井に一里 御嶽山に三十三里半 津島に六十七里半 伊勢に九十二里十一町 京都に九十三里半 大坂に百七里半 金比羅に百五十里半

北面

金沢に八十五里 新潟に六十六里 高田に三十四里 戸隠山に二十三里 善光寺十八里 小諸三里半

「おおの、大野」

「どうされました」

「此処に“ 戸隠山に二十三里、善光寺十八里、小諸三里半 ”とある、絵図だけじゃないという事だ」

安永六年建立の子育て地蔵坐像、その坐像にも同じことが彫られていた。

南面

小田井江一里 御嶽山江三十三里半 津島江六十七里半 伊勢江九十二里十一町 京都江九十三里半 大坂江百七里半 金比羅江百五十里半

西面

めうぎ江七里 山道九里 はるな江十六里 一ノ宮十里 三河屋 高崎江十三里 江戸江三十八里 日光江四十四里

北面

金沢江八十五里 新潟江六十六里 高田江三十四里 戸隠山江二十三里 善光寺十八里 小諸三里半

「そっくり同じだぜ大野、三河屋が高崎に在るとでもいうのかな

台座にまだ何かある。

さらし奈盤右 みよし野ハ左乎尓て 月登花と越 追分の宿

「これも馬子唄と同じだぜ、てことは三十七年前には馬方の間にすでに広まって居たかな」

常夜燈は寛政元年建立、常夜燈台石にも彫が有った。

台石の一番上“ 町内安全

上から三段目“ 是よ里左伊勢

馬頭観音立像の正面に“ 牛馬千匹飼 右面に“安永三年十一月吉日

勢至観音菩薩は午年の守り本尊。

「そのあたりに在るのは街道の二十三夜搭など打ち捨てられていたもので御座いますよ」

作右衛門旦那は一行を名残惜しげに見送った。

北国街道第一番馬瀬口一里塚は三ッ谷新田の手前にある。

馬瀬口村は間(あい)の宿、休み茶見世で力餅と甘酒を頼んだ。

次郎丸の時計は九時三十分。

大野は馬方一人八十文の駄賃を上乗せした。

左手に浅間明神が有る。

右手に長泉寺、山門前は石仏の宝庫だ、四つの鐘が響いてきた。

「大分下って来たな、お芳はまだ歩けるのか」

「大野様、これっくらい平気でござんす」

第二番平原一里塚は平原村入口。

真新しい馬頭観音で次郎丸は見ていて遅れた。

寛政五年、二十年たった割に手入れが行き届いている。

左手に十念寺。

馬方は一遍上人がこの里に立ち寄り、里人に念仏踊りを教えたと大野に話している

追分に道しるべ“ 右 甲州道 左 江戸海道 ”この付近は四ツ谷村、中山道岩村田へ通じている。

第三番目四ツ谷一里塚(加増村)先の地幡川に架かる木橋は長さ十六間あった

九つの鐘で時計を1200分に合わせた。

其処から与良村、小諸城下へ入ると左手に豪壮な屋敷がある、塀も一町ほど有る。

「お庄屋様のお屋敷ですだがよ」

北国街道(善光寺街道)一番小諸宿は追分宿から三里十八町、田中宿まで二里十八町。

小諸藩一万五千石、藩主は牧野康長、文化十一年十九歳。

寛政十二年わずか五歳で家督を継いでいる、実高は結の調べで三万三千石の実収が有るという。

此の年文化十一年正月従五位下・内膳正に叙位された。

参勤年度のずれがありこの年暇で在城となった。

家老牧野勝兵衛の養育で、若くして名君の名が広がっている。

本町先に鉤手(曲尺手・かねんて)が有り、角に問屋場が有る。

下問屋巴屋小山六左衛門は寛保二年の洪水で本陣ともに流失。

以来市町木戸門上問屋を本陣とし、巴屋が問屋を独占している。

田中宿迄乗懸(のりかけ)百二十文、二頭支度が出来、荷を積みこんで鉤手(曲尺手・かねんて)を三度曲がり本陣、脇本陣先で又二度曲って乾(西北)の方角へ向かった。

四番目西原一里塚(西原村入口)の先で上田領へ入る。

次郎丸の時計はさっきの鐘で12時に合わせたので0115分に為っている。

芝生田村を過ぎて片羽村先に五番目片羽一里塚。

大野は四十文の駄賃の上乗せを馬方二人へ渡した。

小川の土橋先に加澤村に上田藩の番所が有る。

次郎丸が「奥州白河藩本川次郎太夫。一行九名で田中宿中屋源兵衛へ泊まる約定で御座る」と告げて通った。

荷駄は「御一行様の荷を運んで田中宿へまいります」と後へ続いた。

従是法善寺道 ”の石柱が有る。

薬師堂の仁王像は石像だと馬方が大野に教えている。

「左が五十年前、右は二十年前の作だに」

誰も見に行こうとは言いださない。

高木脇本陣の間口はそれほど広くない。

小田中新右衛門本陣 は山門風の屋根が乗る門構えに威圧される。

十年前再建されたという。

問屋場は再建が間に合わず、田中宿は海野宿問屋場取次をする見世だというので、荷は高札場先で降ろした。

江戸から追分宿へ江戸から二十八里十九町。

追分から田中宿へ六里。

今日は沓掛からで七里三町に為る。

次郎丸の時計は二時五十五分で九時間四十分掛かったが途中で針を三十分進めている。

お芳は「計算するのが面白くなったの。九つが宿場、立場でまちまちなのがよく解るわ」と言っている。

旅籠中屋源兵衛は六間間口で、休み所も兼ねていて見世先は混雑していた。

三部屋に分かれ「旅籠は十軒もないです」と番頭が宿帳を持って来て話している。

「茶屋はそれでも六軒に増えまして御座います」

気を引くような口調で町を紹介した。

未雨(みゆう)がまとめて記入している。

大野が南京豆を出してひと籠からにした。

八田辰三郎が七つの鐘の後遣って来た。

「上田まで来たら若い夫婦ものに声を掛けられましてね。若さんは中屋源兵衛へお泊りだと告げられました。蔭供でしょうか」

「いやいや、俺の方ではないが二つ考えられる」

「二つですか」

「一つは未雨(みゆう)と同じ結の連絡員、一つは」

上を差して指で輪を作った。

「松代様の方で」

かん違いしているが説明は省いた。

上田には爺に会う様に言われた岡崎家の当主が居る、その伝手で 藤本 ”藤本善右衛門と協定を結ぼうと考えていると話した。

「若さん岡崎と言うのは」

「酒屋だと言われたが」

「もしかすると兄弟子かも」

平助という老人だそうだぜ」

千十郎の事も紹介し「これからは大野と同じ懐刀、表の右腕、左腕」というと辰三郎は「陰の懐刀が伊勢屋さんですか」と聞いてきた。

「新兵衛兄いが読み本の師匠で、此方様は俳諧の師匠だ」

「えつ、わっしは弟子にした覚えはないですぜ」

素早い反応に千十郎が笑い出した。

中屋源兵衛

文化十一年九月三日(18141015日)・田中宿~上田宿

中屋源兵衛 ”を十人に為って明け六つ(五時半ごろ)に旅立った。

次郎丸の時計で六時丁度「此処の鐘は正確に打っているぜ」とご満悦だ。

お芳は「最近は一日どのくらい狂うんですの」と遠慮ない。

「三分から五分石町の鐘で差が有った」

「石町がずれるの」

「いや屋敷の二挺天符にあわせるとこの時計が進む様だ」

六番目の田中一里塚は宿はずれにある。

「信濃国分寺へ回っても、九つには上田に入れる」

海野宿までわずか半里。

鳥居は白鳥大明神「上方から戻って調べたら此処も日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の化身の白鳥が降り立ったそうだ」と未雨(みゆう)に話した。

「朝日将軍白鳥河原の勢揃いと言うのはこの辺りだそうです」

信濃についてなら千十郎が強そうだ。

「元和八年、およそ二百年昔、大法院様上田より松代へ領地替えの時、白鳥が現れお駕籠の上へ留まられたと言い伝えが有り、大明神社を松代へもお建てに為り申した。昨年お社が建て直され申した」

しらとり ”を“ しろとり ”と詠みを替えたと云う。

この時別当寺として開善寺も移されてきて、真田家および家中の祈願寺とされた。

「お社を建て直す際、大法院様の霊を合祀して武靖大神と殿と大殿が為されており申す」

東枡形には番屋が有り旅人を見守っている。

なかだち地蔵尊はこの地へ元禄四年に遷座したと説明する声が聞こえる。

新しい常夜燈があるそこに“ 媒地蔵 ”と彫られている。

次郎丸が見ていると、媒の字は「なかだち」と巡礼の先達が説明している。

何やら加賀様に由縁の地蔵とまで聞いてその場を離れた。

右に長屋門を構えた柳沢太郎兵衛本陣に両脇が脇本陣の矢島六左衛門と宮下彦左衛門。

此の宿は期限付きで飯盛り一軒二人が認められているが、寛政十年に十五年とかぎられ、今年がその期限だ。

海野格子と言われだして、独特の格子が有る旅籠は飯盛りを抱えている目印だろうか。

西枡形に木製灯籠が有る。

小川には橋が無いが踏み石が川面から一尺ほど見えている。

千曲川沿いに仁王尊が有る、寛保二年「戌の満水」で大屋仁王堂流失。

台輪鳥居は寛延元年に建てられた。

七番目岩下一里塚、その先が岩下村。

諏訪明神が右手に在る、二百年前この地へ遷座と、巡礼の先達が話しているが顔ぶれが違う。

鳥居を見に行くと台輪石鳥居に寛保三年とある「八十年程前か後で建てたようだ」と街道へ戻った。

川の木橋先に道祖神、脇道が右手の信濃国分寺への道だ。

三重塔は木立の間に見えている。

春乃夜

阿介

仕舞意気理

「此処まで崩されては読めないわ」お芳とお辰(おとき)は降参だという。

未雨(みゆう)が元の句はと読み上げた。

はるの夜は さくらにあけて しまひけり

「麦二(ばくに)と言う人の尽力で師匠の亡くなられた後に建てたと聞いたよ」

三重塔は寄進に二分大野が出して中を拝観した。

巡礼が二組来て賑やかに為った。

お辰(おとき)に「わいら高崎から善光寺様へ行くだ。今晩は北向観音へ参詣して温泉じゃ」という。

「あたい等は上田に三日ほど用を足してから善光寺ですよ」

「もう一組はな、藤岡の人たちじゃと」

「あたい等は江戸から来ましたのさ」

先達が別所から半過(はんが)の舟で千曲川を渡り、鼠宿へ出て善光寺までは十里あまりと大野に説明している。

  信濃なる 古き宮居の 夫婦山 万代つきし みたらしのみゆ

次郎丸この旅では珍しく古歌を詠った。

先達が「夫婦山は別所温泉近くの夫神岳に女神岳の事だそうです」と巡礼達に話した。

上田の城下を回り込んで松本口で千曲川を渡るという。

千十郎もその道は知らないようだ。

「ここのところ橋で渡れます。北向観音、松本へ通じて居りますよ。上田と松本に親類が多いのは行き来が多いからだそうです」

巡礼の後について北国街道へもどった、先ほどより大分と上田城に近い。

先達は踏入村だという、一里塚が有る八番目常田一里塚だ、先に総社大宮明神が有る。

「国分寺より古き時代の創建と聞き申した。科野大国魂神を祀ると言われており申す」

巡礼二組は参拝に立ち寄ると別れていった。

江戸口木戸を通りぬけた。

大野は「海野宿から荷駄・乗懸(のりかけ)百十六文、軽尻(からじり)七十二文。皆で歩いたので節約できた」と喜んでいる。

二里の街道を五町程遠回りしただけなので時計は十時五十分。

四番目上田宿は田中宿から二里半。

正面に虚空蔵山が近づいて来た。

常田村(ときたむら)と横町の間が鉤手(曲尺手・かねんて)で用水先に木戸。

木戸先左手に脇道が在り、木戸先に武家屋敷の並ぶ常田町。

横町右手日輪寺は真田家の祖先海野幸義により天文十四年建立。

隣に海堂山宗吽寺。

鉤手(曲尺手・かねんて)を西(左)に曲がれば海野町。

海野町の市神は六斎市の守り神、市日だというので混雑していた。

海野町では当初一・六の日に六斎市を開いたが、享保九年三・五に変えられた。

それに伴い原町市日は初め五・十の日から海野町の願いにより八・十に改められた。

酒蔵に薬種取り扱いの店も右手に在る。

海野町の市神南側(左手)に上田宿柳沢太郎兵衛本陣と同問屋、隣がお茶、味噌見世小林佐七郎(∧に叶)。

市神角に煙草商(あきない)上野屋嘉衛門(○に中)。

四つ辻で右へ行けば原町の木戸先右に問屋場の滝沢家。

四つ辻で直進すれば上田城追手口の木戸(常田口)に番所、先は武家屋敷に為る。

原町の五町ほどの真っ直ぐな道は大きな商店が並んでいる、呉服、太物の暖簾が多い。

左手に“ 春錦堂 ”の看板、“ 井筒屋宋兵衛 ”脇本陣は薬種も扱っていた。

「一人増えたが部屋はどうなって居る」

「四部屋予約いただいて居りますが、同にも増やせぬのですが」

「四部屋ならそれでよい」

次郎丸が「俺の所に師匠と辰三郎で良いよ」と割り振った。

平助は未雨(みゆう)の師匠の話しで柳町小堺屋だとわかっているので、三人で尋ねることにして雪駄を三足権太の荷から出した。

番頭に聞くと「突き中りを左へ、石橋で右へ入れば五軒目が“ 亀齢 ”の小堺屋で御座います」と教えてくれた。

街道左手に萬屋の暖簾は扇に万の字、大きく“ 成澤 ”と描いていて、目立つ店を通り過ぎると未雨(みゆう)が袖を引く。

荒物屋の店先で立ち止まった。

「どうした」

「今の“ 成澤 雲帯宗匠と言って大層なお方で」

「これから行く見世と同じ白雄師匠のお弟子かい」

「師匠の実家はこの付近の木町木戸内ですから。わっちは如毛宗匠の句を手本にしておりますが。師匠も弟子とゆうより友人としてのお付き合いでした」

暖簾を分けて前掛け姿の老人が出てきた。

「俺が句を手本だと、その顔は江戸の未雨(みゆう)か」

「まさか如毛宗匠、御変わりなく」

「馬鹿野郎、まさかと言うなら老けて見忘れたな」

作右衛門旦那の手配書きでも廻っているようだ。

「善光寺までおもかげを観に行くと酔狂な事だ」

「これから宗匠の店を訊ねる途中ですぜ」

「酒を買うのかね」

「ちと頼みごとが」

「ならついて御出で」

見世は綺麗に磨き抜かれている。

まず一献と言われ「すまぬが今しばらく禁酒道中なのだ、江戸へ戻るときは味あわせて貰うのでな」

「未雨(みゆう)が借宿の旦那が書いてきたように付き合いで禁酒は、このお方のせいかね」

試したようだ。

「左様で、家業がら御出入りさせて頂いて居りますので」

次郎丸が制して「頼みごとに隠し事は禁物だ、儂は定栄(さだよし)ともうし松代へ養子とほぼ決まり、義父上に呼ばれて松代へまいる途中だ。松代まで遊山旅同然だが禁酒はおまじないだ」と言って辰三郎を紹介した。

「あの松代の八田様の婿ですと」

辰三郎も自分で名乗り「ぜひとも御引き合わせ頂きたい方がいるので」と 藤本 ”と取引をしたいと告げた。

「雲帯宗匠でなく俺とは目端が利くな。いいとも引き受けた」

あっさりしたものだ。

「と、言いたいところだが未雨(みゆう)のおらがを手本という証拠を見せなよ」

「ではわっちの弟子に基本と示す句を」

夕だちハ 煙草のむ間に 晴あがり

はツ雪に 雀が先へ 道つけて

欄干を まがきに橋の 花火かな

「こんなところでどうでしょうかね。季節をうまく詠めと教えております」

「題を言おう、とんぼ、ひょうたんの二句」

とんぼうも 椽(てん)のてすりに 羽(は)をのして

禅鞠(せんぎく)の すハりごゝろや 種ふくべ

「こりゃいい、毛まりに瓢箪を座らせたのが目に浮かぶ。功徳は有ったのかね」

次郎丸が楽しんで居る。

 

上田藩五万三千石の藩主松平忠学は文化十一年二十七歳に成る。

松平忠学(たださと)は分家から養子に迎えられ、二年前の文化九年に二十五歳で信濃上田藩の家督を継ぎ従五位下、伊賀守に任官した。

先代の松平忠済(ただまさ)は六十二歳で隠居したが今も藩政を仕切っていると噂だ。

忠学(たださと)は六月に暇で在国している。

国家老は文化八年に任命された藤井三郎左衛門三十九歳。

実高は五万九千石余と結は調べていた。

 

武田旧臣真田昌幸は、千曲川沿いに上田城(天正十一年着工)を築いた。

慶長五年、上田合戦は西軍に与し(くみし)、徳川秀忠軍三万二千を数千の兵で撃退。

関ヶ原の戦いで西軍が敗れ昌幸、真田信繁(幸村)父子は紀州九度山に蟄居、上田城は破壊された。

東軍に与した昌幸嫡男真田信之は父の領地を継承。

元和二年、信之は上田に移り、上田藩九万五千石が認められた。

元和八年、幕命によって信之は信濃松代藩へ移封され、代わって信濃小諸藩から仙石忠政が六万石で入る。

宝永三年、仙石氏に替わり藤井松平家松平忠周が五万八千石で上田に入り文化十一年に至るまで百八年が経った。

松平忠周(ただちか) 従四位下 伊賀守 侍従

松平忠愛(ただざね) 従五位下 伊賀守
弟の忠容に川中島五千石を分地。

松平忠順(ただより) 従五位下 伊賀守

松平忠済(ただまさ) 従五位下 伊賀守

松平忠学(たださと) 従五位下 伊賀守

 

「ご連絡は如何しましょうか」

「明日も原町井筒屋へ泊まっておるが、姨捨、善光寺、小布施、松代と半月かける、十七日くらいに戻り旅に為る」

「今日の内にご一報、遅くも明日の昼までにどうなるか連絡いたしましょう」

連絡の書状を書くと手代に「急いで此処へ届けてくれ」と表書きを確認させ送り出した。

「二人で師匠の思い出を語るより年寄連中を集めるので今晩付き合いな」

未雨(みゆう)に今晩予定がないと聞いて「迎えを出す」と言って息子を紹介した。

「文作と申します。俳号は生意気にも露蓋などと名乗らせて頂いて居ります」

暮れ六つ真近に小堺屋の手代が井筒屋へやってきて「ご当主が不在で書状を預けて参りました」と辰三郎へ告げて行った。

「縁が無いような気がします」

「松代は紬がだめでも太物は商売になる、稲荷山の松林は松代藩の御用商人に為ろうとしている。綿取引はいい足がかりだ」

次郎丸は将来の為に八田の独占を避ける算段だ。

「作って売るより製品の売り買いでしょうか」

「上方の商品、江戸の商品、上州、野州の紬、売りたい見世は幾らでもある」

その晩は十人ほどの白雄由縁の人たちが集まって面影塚の建立に話しが咲いた。

 

おもかげ集による姨捨之辨

とし姥捨の月見ん古と志きりなりけれハ、

八月十一日美濃の国をたち、道遠く

日数すくなければ、夜に出て暮に草満くらす

思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は

八ワんといふ里より冷じう高くもあらず・・・

 

芭蕉・更科姨捨月乃辨

あるひはしらゝ・吹上ときくにうちさそはれて、ことし姥捨月ミむことしきりなりければ、八月十一日ミのゝ国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出て暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡といふさとより一里ばかり南に、西南によこをりふして、冷じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり。

 

芭蕉・更科紀行

更科の里、姥捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、またひとり、越人といふ。

木曽路は山深く道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をして送らす。

 

春秋庵加舎白雄(かやしらお)

元文三年八月二十日(1738103日)誕生

上田藩士加舎忠兵衛吉享(よしずみ)の二男として江戸深川抱え屋敷に生まれた。

加舎五郎吉吉春と名付けられ、五歳で母親が亡くなる。

父親吉享を十六歳で亡くす。

宝暦六年、十九歳の加舎白雄は初めて信州に入ったとされる。

この頃江戸座の前田春来(二世青峨)に師事、舎来と称した。

明和二年 銚子滞在中、松露庵烏明に師事し、白尾坊昨烏(さくう)と称した。

烏明の師、白井鳥酔に心酔し、後に鳥酔に師事している。

鳥酔は明和六年四月四日に亡くなる。

明和六年八月十五日三十一歳の時、面影碑を建碑。

安永三年には 「志ら雄」「自尾」「志ら尾」などを使う。

安永五年(安永四年海晏寺白井鳥酔七回忌法要後)白雄は烏明から破門された。

安永八年頃より俳号に白雄を使いだしている。

安永九年に江戸日本橋に春秋庵を開いている。

天明四年三月大輪寺で兄吉重の葬儀があり、白雄 は上田へ。

天明五年正月兄吉重一周忌のため、碓氷峠 を越えて上田へ。

寛政二年兄吉重七周忌に上田を訪れる。

-加舎吉重

甥に加舎忠兵衛吉親-俳号里彦

白雄・寛政三年九月十三日(17911010日)五十四歳死去。

法名徹心白雄居士。

追記

享保二年(1717年)松平忠周所司代随行の中に先祖と思われる加舎忠兵衛が入っている、家禄は百石。

天保十年(1839年)分限帳に加舎新七郎がいて家禄七十石。

井筒屋宋兵衛

文化十一年九月四日(18141016日)・上田宿

連泊と言っても“ 井筒屋宋兵衛 ”朝飯は明け六つでも遅い方だ。

「若さん」

昨晩は亥の刻過ぎに戻ってきた未雨(みゆう)が飯の後で話を切り出した。

「昨晩は話が飛んでね。須賀川で出す“ 青かげ ”を“ 成澤 ”の隠居の 雲帯宗匠が手に入れたいと連絡先を教えてくれと言うので須賀川石井雨考宗匠の事は教えましたが。江戸でも手に入るか若さんに聞きたいそうでね」

曽良の日記の断片を知りたい俳諧師は多い。

「井筒屋と付き合いが有るかい」

井筒屋は札差の夏目成美。

「三度ほど挨拶したくらいで近所にいてもなかなか会えません」

「おれんとこへ三部寄越したが、江戸で頒布(はんぷ)はしていないだろう」

二百八十部印刷したから井筒屋に十部位はあるだろうが、須賀川のほうで百部位は残っているはずだと次郎丸は考えている。

「昨晩、翁の事はもちろんの事、白雄師匠に麦二師匠が話題でね。国分寺の翁の碑を見たなら北向観音に在る麦二宗匠が建てた碑も見たほうがいいなんて強く言う人も居りました」

「昨日から観音に呼ばれているように話題に出て来るな」

松本口から二通り、保福寺街道小泉から舞田へ出るか、中之条から舞田へとあるそうだ。

どちらの道でもほぼ二里だという。

番頭が気忙しげに遣って来た。

「本川様にお客人で御座います」

ぬっと顔を出したのは堀勘太夫と言う青年。

「おぬし江戸詰だろうに」

「暇に付いてきて年内に戻る」

「よく分かったな」

この男次郎丸と同年で藩の剣術師範の一人だ。

克己(こっき)流という柳生新陰一派の達人と窪田源太夫が紹介した。

「堂々と“ 奥州白河藩本川次郎太夫 ”の宿札が出ていて二泊だというので話題だ。松代へ呼ばれたのだろうと殿が仰せだ」

「栄次郎殿にまで本川と知られちゃ埒もない」

「それでな殿は今朝早くに別所へ馬で出向いた。儂に定栄(さだよし)殿を諄いて温泉へとの誘いにきた。馬は別に三頭中間が引いてきた。」

此処は上田藩、稲荷山も上田藩、断ると角が立つ。

大野たちを呼んで相談した。

「私と未雨(みゆう)師匠が御招待で後は予定のように鼠で合流は如何です」

千十郎は辰三郎に大野をつけておく方が、連絡が付いたとき話安かろうという。

「御呼ばれは藩の出屋敷の湯だろうから見物に出歩けないな」

「何か観たいのか」

「芭蕉の句碑を四十年前に此処上田の俳諧師が建てたそうだ」

「若さんそんな趣味が有ったか」

「俺の発句は和歌以下の出来だよ。此の未雨(みゆう)が俺の師匠でな。その兄弟子が国分寺など各地へ芭蕉碑を建てたそうだ」

「回り道位構わんよ、何処だ」

未雨(みゆう)が「北向観音の境内にあるそうです」

「なんだ隣も同然だ。俺も付き合うよ」

成澤 ”へ出向いて隠居に事情を話した。

「二十五年ぶりだ。帰りにもよるんだぞ」

訊けば今年七十六歳だという、白雄の弟子の一番若手の未雨(みゆう)は上田でも可愛がらる存在の様だ。

北国街道を柳町の鉤手(曲尺手・かねんて)を左へ行けば緑橋先が紺屋町、町名に恥じぬ紺屋が並んでいる。

保福寺街道へいざなう左への道しるべ“ 北向観世音道 ”が有る。

千曲川を二瀬の橋で渡り松本口左手が“ 北向観世音道 ”だと馬を引く中間が教えてくれた。

中之条村、神畑村新田、舞田村、八木沢村迄わずかな上りが続いた。

将軍塚で道は右へ向かい橋を越えて行く、熊野明神で左へ、そうするとまた橋を越えた。

「ここらが七久里の湯の場所で御座います」

湯は ななくりの湯。ありまの湯。たまつくりの湯

「枕草子か。此処だと云う者や伊勢榊原と云う者で意見が分かれるが、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)七ヵ所の源泉を発見し七苦離の湯のほうが有力だな」

勘太夫が次郎丸へ教えた。

参道手前で馬を降りた、中間が馬繋ぎへ連れてむかい、四人は橋を渡ると休み茶見世が並んでいる。

手前の休み茶見世で「境内の案内を頼むにはどこで」と未雨(みゆう)が聞くと「家でもやらせて頂いて居ります」と言うので「四人半刻程」と言うと百二十文だというので未雨(みゆう)が支払った。

一段下がり道を進み、と緩やかな階段が出てきた。

「こちらの観音様は善光寺阿弥陀様とご対面で衆生救済のご相談をされておられます」

手水が湯気の出る温泉だ、正面の観音堂で参拝した。

「芭蕉碑の場所は分かるかね」

「すぐちかくですだ瑠璃殿の下にあるで」

振り向くと塩田平が一望できた。

護摩堂と鐘楼の間を抜けると崖に真新しい温泉薬師瑠璃殿が見えた。

懸造(かけづくり)のお堂は「五年前に再建されましたんじゃ」と言う。

七十年ほど前寛保二年湯川の氾濫があり、薬師堂は流されたが石碑たちは元のままに在るはずだという。

大きく“ 芭蕉翁

観音の いらか見やりつ はなの雲

「知ってなさりますかな春秋庵加舎白雄と言う方がお建てに為ったそうじゃ」

未雨(みゆう)が黙っているので聞き逃すことにした。

三十くらいに見える案内人はそう教わっているのだろう。

「此の観音は江戸の浅草の事だそうじゃが、同じ観音さんじゃから地元にも合うじゃろうと選ばれたそうじゃが」

参道の石段手前で未雨(みゆう)は「いい案内だったぜ」と四十文の括りを渡した。

馬繋ぎまで戻ると九つの鐘が鳴っている。

「ムムッ」

勘太夫がうめいた。

「少し早いようだな」

次郎丸の時計は十一時三十分「随分と早いようだ」と勘太夫に見せた。

「二刻(こく・三十分程)早いようだ」

次郎丸は時計を合わせなかった。

次郎丸は「未雨(みゆう)師匠、上田の者が聞いたらおどろくなぁ。麦二の親族が泣くぞ」と笑いかけた。

「翁と言う字が麦二宗匠の字体ですから誰が間違えて教えたやら」

「新しい伝承が出来てしまったようだ。それだけ白雄宗匠の名声が高い証拠だ」

馬に乗らず川沿いの緩い坂を上った。

湯宿の並ぶ道に湯殿が点在している、右へ道が曲がる手前に出屋敷の門がある。

「伊賀守殿にはご機嫌麗しく」

「よしてくれ次郎、五年たつと他人のふりか」

「木挽町と違いめったなことではお目にもかかることが無いのでな、兄上とは最近会われたのか」

「養子に来てからは年賀の挨拶くらいだ」

兄が実家の当主に為り次郎丸と同じ部屋住みで、遊びに剣術と顔を合わせていたが養子に四年前来てからは初めてになる。

文化二年父信濃守は駿府城代赴任中に急死、兄の忠徳が家を継ぎ主税助奥小姓となった。

共に同じような部屋住み身分から先に栄次郎が抜け出し、二年前養父の隠居により上田藩を継いだ。

国入り前に義弟忠和を養子と届出しをした。

「次郎も養子が決まりそうだと聞いたがその為の信濃入りか」

「栄(えい)殿、来年参府の後だそうだ。巡検の積りで周れとの義父上の仰せだ」

「お互い義理の父上に仕えるようだな。部屋住みより肩身が狭い」

出屋敷の保養は月一度来るのだという。

「殿様と言うのは意外と忙しいものだぞ。江戸で湯やへ通った気分には為れぬが、まず風呂で接待は可笑しいか」

次郎丸が先に「松代へ入るまで禁酒の誓いを立てたので勧めてくださるな」と念を押した。

大井右源太、岡部九郎兵衛と言う十五位の若侍が呼ばれた。

「儂の政治向きの将来はこの二人に架かって居る。見知り於いてくれ」

「判り申した。こちらの千十郎が藩の重鎮に為ってもらう持ち駒だ」

三人で名に年齢を訊きあい千十郎を長兄、次兄を右源太と三弟九郎兵衛にと決めている。

「用が有ったようだがよう来てくれた」

「松代の八田の婿に上田紬の取引に参加させたくてな」

「松代は取引も多いし。八田は信濃随一だそうだが」

「江戸で上田紬、結城紬には勝てぬよ。紬が勝てぬなら太物が良いかと思ったが八田では力不足だ」

「どうしたいのだ」

「上田紬の取り扱い、上田太物の取り扱いに松代と上田で手を組みたいのだ」

「紬は甲州物が上田紬の安物で出回っている」

「だから安物扱されぬ松代物にしたいのだ」

「難しそうだな」

「“ さんと の名は御承知か」

蚕都(さんと)上田養蚕の種紙の大部分を占めている。

「承知だ、白川藩か。まさか締め出す気か」

「そうではない。京、大坂からも生糸を買いに奥州に来て値を叩いて買い占めていく、それで種紙の値が下がり続けている。ここらで梃入れと価格の安定が必要だ。上田と松代が組んで業者に儲けを出させても、尚且つ生産者に儲けられる価格にしたい」

信達(しんだつ)生糸一箇(九貫六百匁)の取引値は三十五両から三十八両。

「可笑しい、上田で上物四十二両と言うぞ。三十八両では送料かけて儲けが出るはずもない」

「だから地場産業に生糸、真綿の増産をさせたいのだ。白川に上納百両にするには種紙百枚十両二分の価格が必要だ」

「今いくらだ」

「百枚十両」

九郎兵衛が「一枚三十二文の値上げですか」と頭の回転の速い事を示した。

何だそれくらいという顔だ。

「栄殿。一万枚増やせれば五十両に為る」

縦一尺二寸、横七寸五分に六万から八万の卵を産ませ、孵化率は五割が上物とされた。

五千の繭で着物一枚と言われている。

「上州座繰り機が一番と言われているので百台、高機(たかばた)百台を八田に引き受けさせても良い」

襖の向こうに躙り寄る人の気配がした。

「ムツ。栄殿何時から承知だ」

「気づいたか。あの婿殿酔うと口が軽いぞ」

昨日から留守を装おう準備は出来ていた様だ。

「入ってよい」

四十過ぎの精悍な男が襖を開けて出てきた。

「藤本善右衛門で御座ります。委細は承知いたしました。これより城下へ戻り話を進めましょう」

控えていた若者を「長男の保右(やすすけ)と申します。是先に出て会う段取りをつけて於きなされ」と送り出した。

「婿殿との話が納得できれば松代へ近いうちに出向きますが」

「それは良い話だ。四日後には辰三郎を松代へ戻らせましょう」

「四日とは先ほどの太物取引がらみですか」

「立ち会わせるだけの積りだ、相手は松代へ取引を持ちかけてきている。将来絹会所が出来れば、太物も会所が必要だからな」

絹を生産するには蚕の育成も必要になり、桑畑を増やす必要もある、山の斜面に根を張る樹が畑を守る盾にもなり、広域に産業の根を張ることに為る。

上等な絹はまだ規制があるが真綿なら許される今が絶好の機会でもある。

善右衛門が去ると「次郎お主、何時きづいたのだ」と不審げだ。

「なに、昨日からやけに観音の話が出だすので気に為ってな」

千十郎が「呼ばれて居るようだと仰せでした」と言っている。

「おぬしが来るとは思ったがそっちの町人はどうして必要だ」

「伊勢屋と申して屋敷出入りは鉄爺の使いなのだ。俳句の師匠に為ってもらった」

それだけで来たのかと不審げだ。

「爺さあどうしてる」

冬は熱海、最近は草津だと言うとなおさら考えている。

「隠居したか」

「隠居仕事に草津で氷豆腐を商売にする気だ」

「たいした金に為らんだろう」

「馬鹿にしたもんでも無さそうだ」

「我が藩の儲けになる商売は有るかな」

食いついてきた。

「俺の方では義父上に申しあげて生糸、真綿、木綿を中心だが、栄殿が遣る気なら麻に煙草も金に為る。松本の河内守様はそれほど商売に気が無いようだ」

「麻に煙草、綿、絹では飢饉のとき困る」

「米以外に、やせ地で蕎麦、最近は甘蔗も金になる。生坂たばこは江戸でも薩摩に次いで人気があるそうだ」

「明日朝に人を呼んであるので付き合え」

「いいが旨いものでも御馳走してくれるのか」

鮭にはまだ早いだろうと次郎丸が言うと秘密だという。

風呂場は十人は楽に湯舟に浸かれる造りで家臣にも開放しているという。

豆腐の田楽。

加賀のすだれ麩と鶏肉にえのきだけの治部煮。

甘味噌仕立て塩鮭と山芋の味噌汁。

「美味いなこりゃ。どこの鮭だ」

「新発田の直諒殿が五番の御用鮭を塩漬けして送ってくれた」

「そうか川口はもう採れているのか。未雨(みゆう)師匠猪四郎の言う味噌汁仕立てはこれの様だ」

「どうやらその様でございます。猪四郎様は生鮭仕立てなので違うと言われたのでしょう」

新発田藩の初鮭八月三日の記録が残る、一番から五番までは御用鮭でその後に販売が許される。

京の塩鯖のように信濃に来る塩鰤は、冬になると歩荷(ぼっか)が担い、男が十六貫、女でも十二貫を富山から大町まで運んだという。

溝口直諒(なおあき)十六歳。

享和二年、父の死去により四歳で家督を継いだ。

此の年文化十一年六月朔に将軍家斉に初御目見した。

新発田藩は信濃を通らず、若松、白河、宇都宮を通る参勤道中を選んでいる。

忠学は禁酒には付き合わんと勝手に盃を傾けている。

北向観音

文化十一年九月五日(18141017日)・別所温泉~鼠宿村

朝の粥に鯎(うぐい)の甘露煮を栄殿と次郎丸が食べ終わると、老人が部屋を訪れた。

上田藩の御用達材木商“ 木屋平 ”と名乗った。

話しは城下の寺の修繕の費用の算段だという。

次郎丸は聞いているだけで良いようだ。

四つに勘太夫が付いて三人は馬で松本口へ向かった。

千曲川を渡り北国街道の追分で九つの鐘が近くで鳴らされている「おやおや十二時五分だ。北向観音の鐘が早まっていたのは確かだぜ」と勘太夫と大笑いだ。

「一度 亀齢 ”の小堺屋へ顔を出そう」

馬を降り、中間に礼を言って勘太夫とは柳町で別れた。

「皆様五つにたたれました、上塩尻で織場を見て鼠宿へ向かうと言って居られました」

難所は岩鼻の隘路くらいで今日も大して急がずとも良い街道だ。

それを言うと伝承を平助が話してくれた。

「大昔、岩鼻(いわばな)は千曲川の西まで張り出していてこの付近は湖に為っていたそうです。鼠がはびこり畑を荒らすので唐の国の猫を放して退治することに為りました。鼠は追い詰められ岩を食い破って逃げ去ったそうでございますが、そのせいで水が引いて千曲川が今の流れと為ったと言います」

未雨(みゆう)と又俳句話に成り、北向観音の碑のことに為った。

「ありゃぁ困った話で御座いまして二年ほど前から言いだしたようで、何度か申し入れましたが麦二宗匠の名が入れてありませんのでいう事を聞かぬそうで御座います」

「案内した者は七十年前の大水の前からあるような話にしていましたぜ。笑いたくて困りました」

「七十年前なら白雄師匠はまだ餓鬼ですよ」

笑いを後に店を出た。

北国口の鉤手(曲尺手・かねんて)の木戸を出てすぐ先の橋を渡った。

猿田彦大神の石碑が有る、覗くと寛政十二年と十四年前の日付だ。

目の先に九番目生塚一里塚。

街道左手に“ 藤本 ”の屋敷が見えるが寄らずに通り抜けた。

酒蔵らしき屋敷が有る、千曲川に半過渡しの舟が見える。

通り過ぎると崖下に句碑。

岩鼻や ここにもひとり 月の客

「去来ですね」

先師上洛の時 去来曰、洒堂は此句を月の猿と申侍れど 予は客勝なんと申 いかが侍るや 先師曰 猿とは何事ぞ 汝此句をいかにおもひて作せるや 去来曰 名月に山野吟歩し侍るに 岩頭一人の騒客を見付たると申 先師曰 ここにもひとり月の客と 己と名乗出たらんこそ 幾ばくの風流ならん ただ自称の句となすべし 此句は我も珍重して 笈の小文に書入けるとなん 予が趣向は猶二三等もくだり侍りなん 先師の意を以て見れば 少狂者の感も有にや 退て考ふるに 自称の句となし侍れば 狂者の様もうかみて はじめの句の趣向にまされる事十倍せり まことに作者そのこころをしらざりけり

「若さん何時の間に」

「去来抄はこの旅に出る半月前だな」

寛政十一年 ”の日付が有る、上田の人々の名が見える。

半過岩鼻(はんがいわばな)を抜けると十番目鼠宿一里塚。

時計は二時に為った。

口留番所先に会地速雄神社の鳥居が見える。

会地速雄神社(おうじはやお)は元熊野三社権現出速男神が祀られていた。

千十郎が「此処も日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伝承が有るんですよ」と言い出した。

「熊野の前は大己貴命の分霊を祀り“ 鼠大明神 ”だそうです」

隣に“ 御茶屋本陣 ”西澤八左衛門の築地塀が続いている。

千十郎は「今年のは観て居りませんが暇は此処まで五日で着きますのに」と吐息をついている。

宿札が大きく出ている。

縦に八尺横一尺の一枚板だ。

「おいおい派手だぞ」

「きっと殿様の言いつけですよ」

「師匠なぜそう思うのです」

「新之丞様なら河の字が三本川でしょうぜ」

 

別所温泉から二里で上田宿

上田宿から一里二十町で鼠宿村“ 御茶屋本陣

     

門を入り玄関口で「松代藩矢澤監物である。本川殿をお連れしたが供の者は到着いたしおるか」と育ちの良い物言いに為った。

「未だお着で御座いません」

「上塩尻で手間取っておるのだろう。一人増えて十人じゃ」

「六部屋ご用意が御座います」

「ほほっ、殿からも申し入れがあった様じゃな」

緊張はしたが何も言わずに「おみ足を漱がせて頂きます」と女中たちを呼び寄せた。

部屋へ案内されたが、まず隣の控え部屋で茶を頼むと言い付けた。

「とぼけましたな」

「左様で違うと言わぬところは正直者です」

主が宿帳を持参したので未雨(みゆう)が十人分書き上げた。

「さてここからは領分の際を出たり入ったりが続きますな」

主が「このまま御城下へ行かぬのでしょうか」と興味津津だ。

加賀様も此処を利用されたこともある様で態度に自信が溢れている。

「左様、姨岩を観て善光寺、小布施と領境を一回りで有るな」

女中が茶と菓子を運んできた。

次郎丸は驚いている「金鍔ではないか」に主は「江戸できんつば、京(みやこ)でぎんつばと申すのでございます。御出でに合わせ作らせて頂きました」と答えた。

表が賑やかに為った「お着きに為られたようで御座います」と主が帳面を手に出て行った。

一息ついて辰三郎が切り出した。

「話は半分方成立で、正式には十日後に藤本善右衛門様が松代へ御出でになり八田嘉右衛門と取り決め書を書こうと成りました」

上田、松代の生糸、真綿の市場へ分を守って相手の領分へ手を出さない。

出来上がり上田紬のいい値での買い取り。

「この二つは義父からも言われていたので了解しました。数量は双方で無理ない数字を出しあうという事に為りました。若さんの言う通り八田の買値に運賃上乗せでも江戸で売っていただけると言うので安心して応じられました」

「だが世間相場を無視した取引は市場を壊すと念を押すんだぜ」

「お任せください。値を叩けは無理でも、世間相場並みは私でも安心できます」

八田が上田紬を扱いますは、松代紬の価値も引き上げられるのだ。

次郎丸は信濃紬に福島、上州の規格を強制しないことにした。

新兵衛兄いが言うには「同じにすれば差が歴然とついたら取り返しが出来ない」と言う。

辰三郎は「千反なら私でも応じられますが、踏み込んでつけいれられると困るので数字は出しませんでした」と得意げに言う。

未雨(みゆう)は兄いが「五千迄なら売りさばける」と藤五郎に言うのを聞いていたので「こいつとは大違いだ」と思った。

どんな貧乏藩でも町方にはそこそこ小金を動かせる商人が居る。

上田紬は高値でも、松代なら手が出せると小店の者に思わせることだと兄いが教えていた。

「甲州物は安値だと浸透しすぎたから手を出さぬがいい」

そんなことも教えていた。

「陰に為って居た分、良いもので安いとくりゃ江戸っ子にゃ判官贔屓(ほうがんびいき)が始まる」

こいつは猪四郎の言い草だ。

「日に十反が目標だ」

などと煽られていた。

この頃上田紬の江戸値段は一反二分二朱だとお辰(おとき)が辰三郎に話している。

「百反で送料いくらかを考えておきなさいな」

上田縞上物で幅九寸、長さ二丈七尺、上田紬上物幅九寸長さ五丈四尺、一疋で羽織と小袖を誂えるのが此処二十年来の江戸人だとまで言っている。

藤五郎に幸八が規格としているのは鯨で一反を三丈、幅壱尺三寸、一疋が二反で六丈。

是は「人も食い物が良く為れば体格も良くなる」と信様から聞いた言葉を元にした数字だ。

ちいさくやせた女人に合わせていては布が不足すると旦吟の意見も聞き取った。

「斜子(ななこ)は当たって見たのか」

「稲荷山で取引は有るのですが人気うすです」

「義父上は産物会所に賛成だが江戸家老は今だ賛成では無いそうだ。会所が出来るまでは辰三郎の手腕で絹市を上手くあやすんだぜ」

鎌原桐山は対立を避けて沈黙している。

食事は川魚の焼き物に煮物、何と鮭も出てきた。

「長岡の物で今朝入りました」

「という事は川口では五番が終わったという事か。松代まで十日もせずに上ってくるかな」

「今年は九月十日くらいと噂が出ております」

「若さん、こりゃ鮭を追って回る旅に成りそうですぜ」

新之丞の手の者だという夫婦が昨晩須坂までの宿の名を書いた書状をもってきたと大野が広げた。

十八日目・稲荷山(九月六日)“ 松木完司本陣

十九日目・田野口(九月七日)“ きしや甲右衛門

二十日目・小市(九月八日)“ たわらや庄兵衛

二十一日目・善光寺(九月九日)大門町六斎市

六人 わたや仁左衛門 ” 二王門前東かハより三軒目

三人“ ふぢや平左衛門 ふぢやかず/\御座候間、京都・江戸よりハ左りかハ、越後よりハ右かハ、ひしの目印と御尋ね下さるべく候

二十二日目・善光寺(九月十日)

二十三日目・善光寺(九月十一日)東町市立

二十四日目・小布施(九月十二日)中町“ 高津屋名右衛門

二十五日目・須坂(九月十三日)“ 田中新五右衛門本陣

二十六日目・松代城下(九月十四日)伊勢町“ 阿波屋五左衛門

中山道一里塚   次郎丸道中記の一里塚

第一番

本郷追分一里塚

民家裏

第二番

平尾一里塚

 

第三番

志村一里塚

 

第四番

戸田一里塚

行方知れず

第五番

辻一里塚

 

第六番

浦和一里塚

 

第七番

大宮一里塚

行方知れず

第八番

加茂宮一里塚

 

第九番

上尾一里塚

 

第十番

桶川一里塚

 

第十一番

馬室原(原馬室)一里塚

・第八十五回-和信伝-伍拾肆に解説。

旧街道

 

第十二番

箕田一里塚

前砂との間にも在ったと書くサイトも多い。

第十三番

前砂一里塚

 

第十四番

久下(くげ)一里塚

 

第十五番

八丁一里塚

 

第十六番

新島一里塚

 

第十七番

東方一里塚

 

第十八番

茅場村(萱場)一里塚

・第八十五回-和信伝-伍拾肆に解説。

深谷一里塚が行方不明

・宿村大概帳に記載はないらしい。

第十九番

岡下一里塚

岡部一里塚

第二十番

傍爾堂一里塚

 

第二十一番

下野堂一里塚

万年寺一里塚

第二十二番

勝場一里塚

 

第二十三番

中島一里塚

行方知れず

第二十四番

倉賀野一里塚

 

第二十五番

高崎一里塚

行方知れず

九蔵町、日光街道の一本上の道に在った。

第二十六番

藤塚一里塚

 

第二十七番

中宿一里塚

 

第二十八番

原市一里塚

一里山一里塚

第二十九番

郷原一里塚

 

第三十番

新堀一里塚

横川一里塚前にも一里塚が有ったらしいと書くサイト有。

第三十一番

横川一里塚

行方知れず

第三十二番

刎石一里塚

 

第三十三番

山中一里塚

 

第三十四番

軽井沢一里塚

 

第三十五番

宮之前一里塚

 

第三十六番

追分一里塚

三十九番目・四十番目とされる人もある。

 

北国街道・善光寺街道  一里塚 ・三十六番目追分一里塚 ・次郎丸道中記の一里塚

一番

馬瀬口一里塚

三十七番目

(三ッ谷新田)

二番

平原一里塚

三十八番目

(平原村入口)

三番

四ツ屋一里塚

三十九番目

(加増村)唐松一里塚

四番

西原一里塚

四十番目

(西原村入口)青木一里塚

五番

片羽一里塚

四十一番目

(片羽村先)牧家一里塚

六番

田中一里塚

四十二番目

(田中宿先)

七番

岩下一里塚

四十三番目

(岩下村手前)

八番

常田一里塚

四十四番目

(常田村手前)

九番

生塚一里塚

四十五番目

(生塚村手前)

十番

鼠宿一里塚

四十六番目

(鼠宿村手前)

十一番

中之条一里塚

四十七番目

(中之条村先)

十二番

上戸倉一里塚

四十八番目

(上戸倉村手前)坂木村

十三番

下戸倉一里塚

四十九番目

(下戸倉村先)

十四番

矢代一里塚

五十番目

(屋代村手前)

十五番

篠根一里塚

五十一番目

(塩崎村内篠根村手前)

十六番

原一里塚

五十二番目

(原村、今井村境)

十七番

丹波嶋一里塚

五十三番目

(丹波嶋渡し手前)

十八番

長野一里塚

五十四番目

(長野村・善光寺先)

十九番

稲積一里塚

 

(上・下稲積村境)

二十番

吉村一里塚

 

(吉村先)

二十一番

平出一里塚

 

(平出村先)

二十二番

小玉坂一里塚

 

(小玉坂)

 

 

 第八十七回-和信伝-拾陸 ・ 2025-05-19 ・ 2025-05-23 ・ 2025-05-24 ・ 2025-05-26 ・ 

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記