第伍部-和信伝-伍拾玖

第九十回-和信伝-拾玖

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

わくや小右衛門

文化十一年九月二十日(1814111日)・板鼻~伊香保

 わくや小右衛門 ”で明け六つ(五時三十分ごろ)には頼んだ軽尻(からじり)二頭に乗懸(のりかけ)二頭が来て荷を乗せた。

大野は伊香保までの六里三十町あまりを通しで雇えたという。

約定は乗懸(のりかけ)四百十六文の二頭八百三十二文、軽尻(からじり)二百七十八文の二頭五百五十六文。

合わせて千三百八十八文に百文ずつ上乗せ、千七百八十八文を南鐐二朱銀二枚と百文の緡(さし)二本出して十二文の釣りを受け取ったと言っていた。

弥二郎は身軽な様子でやってきて「わっしは伊香保に家が有りまして」という。

町屋村で烏川の木橋を渡った、橋は十九間有った。

橋向こうの追分を右へ行くと高崎宿へ通じていると弥二郎がいう。

次の追分を左へ行けば大笹街道と繋がるのだと大野に教えている。

「途中から榛名のお山を抜けて伊香保へも行けますだ」

大分と大回りで宿場も少ないという。

西新波村(にしにっぱ)村を気取って“ にしあらなみ ”と読み本で紹介されたという。

休み茶見世で馬を休ませるついでに人も茶にした。

追分で合流したのは三国街道大八木村からの道。

西明屋村先に東明屋村「其処には休み茶見世が有るので一休みいたしましょう」と馴染みの見世へ連れて行った。

水澤観音まで一里程、伊香保まで観音から一里七町ほどだという。

大野はお芳の荷に入れて於いた百文の緡(さし)八本に、四文銭四百文の緡(さし)を四本出して馬方へ配った。

「一人と一匹で六百文ありゃ牛宿で一杯ひっかけ、馬にも大麦が食わせられるだろうぜ」

戻りの荷がない事も考慮したようだ。

九つの鐘が聞こえる。

「観音様の“ たまるや ”でうどんを食べましょう。信濃と上野味比べをお願い致します」

「上手く持ちかけたな馬方入れりゃ十四人だぞ」

「えへっ、断れられない様に気を配っておりましたが。先ほど駕籠に抜かれたのは気が付きやしたか」

「色っぽい姉さんが乗っていた駕籠」

お芳の言葉に嬉しそうに「あいつが聞いたら有頂天になるんで御内聞に、あっしの女房でしてね。“ たまるや ”へ先へ行ってるんでさぁ」と顔が崩れた。

どうやら追い抜かせるために此処で一休みにしたようだ。

「温いのに冷たいのは人によって違うぞ」

「全部冷たで頼むように言ってあります。温いのは向こうへついて頼んでくださいますように。追加も待たせませんよ」

余ったらどうすると揶揄われている。

「わっちと女房で八鉢は食えますがね」

お辰(おとき)が「プッ」と噴き出してしまった。

「権太さん達に言えば残りは食べてくれますよ」

ちくまやの三人も大笑いだ。

弥二郎は「兄い達も大食いで」と安心した顔だ。

「弥二郎さんよ。物事は先に決めずに相談が肝要だ。大野様は其処が言いたいのさぁ」

「うどん、そば好きとは繋ぎで聞いていたので先走りました」

素直に大野に謝った。

大野は「追加や温いのは馬方もこっちで持つから、含めて聞いておきな、一鉢の量は多いのかい」とあっさり許した。

「少なめの量にあっしには感じますが、家の婆様が小食で丁度良いと言います」

馬方の一人が「俺っちでも水澤で三鉢食うたら腹一杯に為る。二鉢がちょうどいい量だな」との言葉に「追加が欲しい人に、温いのが良い人は」と聞いて回った。

馬方にちくまやの三人で、追加七鉢、すべて冷たで良いとなった。

「気を使って頂いた」

弥二郎は感激している。

水澤観音は坂東三十三観音霊場十六番札所、五徳山水澤観世音水澤寺、推古天皇三十三年春正月、高麗より渡ってきた恵灌僧正(えかんそうじょう)開基と伝わる。

伝教大師諸国巡遊の折り天台に宗旨が替わったと云われている。

上り坂の参道には茶屋、休み茶見世は二軒ずつ、うどん店は片側三軒ずつ六軒並んでいる。

仁王門階段下向かいに“ たまるや ”の暖簾が有り、様子の良い丸髷の女が此方を見て中へ入った。

「御着きですよ」

弥二郎は“ たまるや ”へ馬方の四人が中へ入れて貰えるかを聞きに入った。

「馬と荷は女房とみるから先に食べておくんなさい」

と出てきて馬方を中へ誘った。

馬方は先に二鉢あてがわれ、食べ終わると出てきた。

「こんなに親切な客は初めてだ」

腹も懐も一杯だと戯けて(おどけて)みせた。

石段下には水盤舎が有り湧水が溢れている、弥二郎の案内で仁王門への石段を上がった。

天明七年に建てられたという仁王門は三間一戸、阿吽の仁王の脇に参拝者を監視しているように風神雷神が置かれている。

裏へ回ると二人の案内人がいて、此方からお入りくださいと声を掛けた。

階段上には釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩三尊、十六羅漢像が祀られていた。

反対側の吽形像裏側が出口だ、賽銭箱は置いて有るが特に奉納金(志納金)の決めはして居ないと弥二郎が言うので大野は南鐐二朱銀一枚を投げ入れた。

改めて仁王門を見ると天井に龍が描かれている、案内人に訊くと「狩野深雲様の龍じゃ」というが誰もその名を知らなかった。

その案内人は「五徳山無量寿院水澤寺(すいたくじ)が正式な呼び名で御座る」と教えてきた。

大野は弥二郎と相談して境内の案内を頼むと快く引き受けた。

大野は豆板銀三個を渡した。

石段先が本堂、元禄年間に仮堂が置かれ、宝暦年間から三十三年かけて改修され、天明七年に完成したという。

御本尊は伊香保姫の御持仏と伝わるが秘仏で、お前立ち十一面千手観世音菩薩が造られている。

「六角二重塔は高さ四丈、元禄の頃建立で、六地蔵は宝永から正徳の時代に収められました」

下が一辺九尺、上は四尺五寸、経巻収蔵の輪蔵(りんぞう)の六面に地蔵菩薩が祀られ、願いを込めて左方向に三回転させるのだと言う。

欄間には鯉が出世して龍へ替わる彫刻、二階の十二支の彫刻が方角を教えている。

「伊香保八景をご存知でしょうか」

そう言って「上の山の月、物聞山のほととぎす、丸山のつつぢ、関屋の雲、猿沢の猿、高嶺の鹿、二ッ岳の雪、伊香保沼のあやめぐさで御座いますが関屋の雲ではなく関屋の蛍とも言われております」

仁王門へ戻ると観音巡礼の一団が境内に入ってきた。

先達は案内人と挨拶して本堂へ向かった。

弥二郎夫婦に導かれ伊香保へ向かった。

小川を木橋で渡り先を左へ行くと、また木橋の架かる小川が有る。

その先に石段が有り上には湯前大明神が見える。

石段脇に大宿、その奥に門屋(かどや)、店借の湯宿が並んでいる。

「七十年近く前の延享三寅年に十二支が大屋につけられたと言います」

寛永十六年安中領主、井伊兵部少輔が定めた「樋口并切こ満寸法」には小間口の寸法が記されている。

大屋十四軒に分ける小間口寸法は十二支(延享三年寅十二支設定)。

木暮金太夫・挹翠楼“ ”高9分横4寸。

岸六左ヱ門   枕雲楼 ”高7分横4寸・高35厘横4寸。

岸権左ヱ門   浴蘭堂 ”高7分横4寸。

九軒に高6分横4寸、記入の無い最末流に福田金左衛門“ ”、 島田権右衛門“ ”と規定された。

 

階段下に口留番所、階段寄り右に福田金左衛門の々閣、石段を上がると踊り場に高札場が有る。

千明(ちぎら)三右ヱ門“ ”の“ 仁泉亭 ”は石段の最初の踊り場右手(西)に有った。

七つの鐘が上から響いてきた、次郎丸の時計は三時四十分だった。

「階段は踊り場も入れると二百十六段あると申します」

踊り場左手は積流館“ ”島田治左衛門だという。

その上(かみ)にある弥二郎の二親の酒店(さかだな)“ ますや ”は店借だという。

新之丞は四泊五日、九月二十四日の昼四つまでの約束で借り切りにしてあった。

大野は「善光寺土産だ一箱は親爺様の分だ」と八ッ橋を二箱弥二郎に渡した。

大野は番頭に豆板銀三十粒を懐紙に乗せて渡し「こいつは割増しで、旨いものが手に入るなら追加もするので頼んだ」とお大臣ぶりを発揮した。

千十郎といつも四文銭の括りをして居る時とは大違いだ。

お辰(おとき)は風呂から戻ると「草津と違い肌が焼けることも無くて長湯しそうです」という。

黄金の湯 ”の源泉は大分離れていて此処まで来る間に良い湯加減に為ると女中が教えてくれた。

仁泉亭 ”の夜の食事はあっさりしていた。

-山菜と鶏肉つみれ

-塩鮭の焼き物

-蒟蒻と焼き豆腐味噌田楽

-湯豆腐葱入り

小皿-大根のはりはり漬け

大野は残った八ッ橋二箱を出して「未雨(みゆう)は上田で土産に置いて来たからこれで最後」と皆に勧めた。

 

仁泉亭

文化十一年九月二十一日(1814112日)・伊香保

仁泉亭 (じんせんてい)の朝は「いつものとおり」だという明け六つの食事だ。

街道と違い「明け六つ前の出立はめったにない」と女中のおえいが教えてくれた。

-豆腐味噌汁

-公魚(わかさぎ)筏焼

-蒟蒻刺身

小皿-大根のはりはり漬け

「今日はうなぎが来るで。なにすべえ」

「ここいらのはどこから来るんだね」

「今日は金井だで吾妻川(あがつまがわ)だに」

おえいから聞いたようで番頭の惣介が来て説明した。

「一の日は三国街道金井宿の魚問屋“ ますや ”が私どもへ持ってまいります。利根川に渋川宿でそそぐのが吾妻川で御座います」

五の日は高崎の魚問屋“ ふなだや ”が持ち込むのだという。

大野は「筏程度の小さいものは白焼き、大きいものは蒲焼で頼む」と注文した。

「鰻が続いて宜しければ押えますが」

「うな丼が行き渡るくらいがいいな」

「かしこまりました、倍は仕入れておきましょう」

次郎丸は日により、先口で選ぶ権利があるようだと思った。

弥二郎夫婦が来て「御見物ならご案内致します」と簡単な案内図を出した。

「まだ。草津程の案内図は無いようだな」

「大屋でも其処までしなくともと手を出しません」

女たちは三人で湯前大明神へ向かった。

ちくまやの三人は荷番を残して勝手歩き、大野に伊香保での小遣いだと南鐐二朱銀四枚ずつ貰った。

次郎丸は「三国街道金井宿に吾妻川があるそうだが。草津の下を流れていた吾妻川と同じ川か知っているか」と聞いた。

「西は信濃国境の鳥居峠から万座、白根と多くの川を加え、榛名の北を回り込み、東の利根川へ流れ込んでおります。二十里ほどの川だそうで御座います」

「大野、どうやら草津の鰻と同じ川育ちだぜ。温泉の影響も川下なら薄れているかもな」

男四人は弥二郎の案内で源泉を見に出かけた。

薬師堂の下まで来るとお辰(おとき)たちが湯前大明神の石段を降りてきた。

「おと、此の上に芭蕉翁の句碑が有るよ。“ 猿簑 ”の“ 初時雨 らしいけど難しい字で彫ってあるよ。建てた人の名は知らない人でね。雪才としてあるわ」

「雪才と言う人は二十年ほど前に亡くなってるよ。二代雪才と言う人が雪才追善集を出していたな」

「安永七年建立だけど裏にも不思議な句が有ったよぅ」

「三十五年くらい昔だな。後で周ってみるよ。読めれば教えるぜ」

「じゃ、後でね」

お芳も習わぬ経を読む口の様だ。

薬師堂は表から拝んで先へ行くと、十五町も無いところに源泉が湧きだし、木樋が熱い湯を送り出している。

木樋は錆が浮き出ているが硫黄は含んでいないようだ。

「草津より手入れは楽なようだな]
幾つか地熱を利用した蒸湯の小屋が有る、一坪ほどの藁葺屋根の野天風呂も川沿いに有った。

いかほろの そひのはりはら ねもころに おくをなかねそ、まさかしよかば

伊香保呂能 蘇比乃波里波良 祢毛己呂尓 於久乎奈加祢曽 麻左可思余加婆

「若さん万葉ですか」

「東歌(あずまうた)に出ていた。詠み人知らずとされていたが恋歌の様だな。伊香保呂は古名で榛原(はりはら)は染料の榛(はんのき)、読み込んだのはまだある」

いかほろの そひのはりはら わがきぬに つきよらしもよ ひたへとおもへば

伊可保呂乃 蘇比乃波里波良 和我吉奴尓 都伎与良之母与 比多敝登於毛敝婆

「此の源泉は垂仁天皇の御世に発見されたとも、行基菩薩の開基とも伝わりますが、信玄隠し湯の一つとも言われておりますが。勝頼公長篠合戦の将兵湯治を機会に湯治場(とうじば)としての基礎が、真田昌幸さまにより出来たと申します。」

「大屋はその時代からあるのかな」

「伝わりますのは長尾氏がこの地を支配していた天正の時代、七家がこの地を分け与えられたと申します」

千明(ちぎら)・岸・木暮・大島・望月(永井)・島田・後閑だという。

「寛永十六年安中領主、井伊兵部さまの時に小間口の寸法が定められ、新しい引き湯は例外を除き許され無くなりました」

例外とは薬師堂(医王寺)地内を湯樋が通り、引き湯が黙認されてきたが医王寺が参拝者宿房設置に踏み切り、二十五年前の寛政元年に引き湯の権利が正式に認められた。

「大屋も争うより、認めるほうが双方に利があると判断したと親父が言って居りました」

伊香保神社略記に寄れば、上野国明神帳には正一位伊香保神社とあるそうだ。

(総社本『上野国神名帳』には鎮守十社の第三位に「正一位 伊香保大明神」とあるそうだ。)

貫前神社、赤城神社についで上野三之宮だが湯前大明神と何時称したか不詳。

薬師堂へ戻り湯前大明神の石段を登った。

丸い句碑は確かに読みにくい。

 “ 初時雨 猿毛小蓑越 不し気南梨 ” “ 芭蕉翁 ”  

はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり

天禮八不し 張不と川ゝや しく蓮傘 ”“ 白兎宗端 ” 

  てればふし はりふどつつや しぐれがさ

の川楚里と 月能見天居る 時雨か那 ”“ 白眼臺雪才 ” 

のつさりと つきのみている しぐれかな

右側面

安永七年戊戌初冬雪才建立

「確かにお芳にゃ難しい。白兎圓宗端て人は其角宗匠のお弟子だと思いますが、そのお弟子に広岡宗瑞(飛鳥園)と言う方もいて二代宗瑞で白兎を使いましたので判別が難しい」

「難しいとは亡くなっているのかな」

「三代宗瑞を継がれた方もこの春亡くなりましたぜ。この人も白兎を使いましたのでこの句の出どこが判ればだれか解るでしょうぜ」

白眼臺雪才と聞かれ「江戸の蓮華寺の住持で、二代宗瑞のお弟子でしたが天明七年秋に亡くなって、二代目の方が寛政七年に追善集の“ 蛍露 ”を出していますぜ」と写本を読んだという。

秋たつや 夕日の曇り きくの露 雪才

俤したう 流科の月二代雪才

「どうやら初代雪才が自らの句と師匠二代宗瑞の句を芭蕉碑に刻んだようだな」

「話してみてあっしにもそう思えるように為りましたぜ」

晩は鰻が出てきた。

酒も一人二合宛て出てきた。

お芳は一口飲んで後は未雨(みゆう)へ回している。

-松茸

-鰻白焼き・山葵添え

-鰻かば焼き

-薯蕷(やまのいも)の油通し

-南京と鶏の煮物

小皿-大根はりはり漬け

仁泉亭

文化十一年九月二十二日(1814113日)・伊香保

仁泉亭 ”の朝食は一汁二菜。

-豆腐味噌汁

-塩鮭焼き物

-里芋と氷豆腐煮物

小皿-菜の漬物

昨日の案内で次郎丸達が昔物語の好きものと知った弥二郎は父親弥吉とますやの店番を替わり 仁泉亭 へ弥吉を寄越した。

「昨日は湯元まで御出でと」

「野天風呂に蒸し風呂も有ったぞどこの管理だね」

「隻腕不動尊堂守が面倒みておりますが。蒸し風呂は地熱だけでなく、簀子の下を湯が流れております。その簀子の上で汗を流します」

「昔大和の明日香では風呂は蒸し風呂だったと聞いたことが有る。ここのも相当古そうだ」

隻腕不動尊は湯元不動、隻腕には伝承が二つ在るという。

「一つは災害で元湯と不動様が土砂に埋まってしまい、村人は不動様を掘り出すと湯が再び湧き出しましたが、不動様の片腕は見つからなかったそうで御座います。一つは災害で湯が止まり、千明当主が不動様に願をかけ申したそうで御座います。 願掛け最後の日、釜の中に熱湯が噴出しましたが、不動様の右腕がなくなっていたという話で御座います」

湯元の野天風呂に蒸し風呂を番頭ともども勧めてくる。

「草津(くさず)に熱さは劣るという方も居りますのでお試しを」

蒸し風呂の浴衣は洗いざらしを六文で貸し、それが湯銭に為るのだという。

「新しいのが良ければ三十二文で宿の名の物をお出しします」

「もって帰られては大損だな」

弥吉の言う所に寄れば、伊香保神社は別当寺の温泉寺(寛永年間創建)が支配、湯前明神、薬師堂は医王寺の支配だそうだ。

薬師堂が温泉明神であり、伊香保神社は湯前大明神として東側に鎮座した。

温泉明神の本地が薬師如来、湯前大明神の本地が十一面観世音菩薩と言う。

「なぁ、番頭さんよ。うな丼を追加できるか」

「お任せください。二十人でも間に合うくらい入れて居りますので」

「大きく出たな。それでな、弥吉さんよお前さんの所は何人家族だ」

「五人ですが。一人はまだ七歳で」

「鰻が嫌いではないよな」

「わし等にも御馳走して下さるので」

「“ 流行りものには目がない のだ付き合いな。番頭さん出前を頼みますよ」

斜め前の見世で弥吉は「今晩、旦那様が儂らにも鰻丼を届けてくださると仰せだ」と伝えた。

今日も薬師堂まで階段を上った。

「高山彦九郎様の名をご存知でしょうか」

「聞き知って居る」

「この伊香保にも立ち寄ったそうでござってな。崇拝する人は腰掛けた石まで見に来られます」

「亡くなって二十年余りと聞くが、もうそのような伝説まで作られたか」

遠くに稲妻が光った、音は遠くに聞こえる。

「二ツ嶽から榛名の方へ雲が流れていきます、こちらへは来ないようです」

次郎丸は又万葉を思い出して詠った。

  いかほねに かみななりそね わがへには ゆゑはなけども こらによりてぞ

  伊香保祢尓 可未奈那里曽祢 和我倍尓波 由恵波奈家杼母 児良尓与里弖曽

川沿いの紅葉は一日で赤みが増している、野天風呂には介重と朗太の二人が入っていた。

十人も入れば一杯の湯壺だ。

「熱さは草津(くさつ)とどうだ」

「向こうの温い湯くらいですぜ。蒸し風呂で汗を流してから入ると気持ち良いですぜ」

此処の湯は昨日見た元湯に比べ湧き出し口が低く、石段下へも送ることが出来ず、湯量も少ないのだと弥吉が教えてくれた。

湯番の老婆は「五人様一緒だかね。三十文だに」と言っているので大野が支払った。

今日は両刀とも宿へ置いてきて身軽だが、介重と朗太に懐の財布などの番をさせた。

荷駄は此処から先へは通れないが、口留番所からの草津道へ通じているそうだ。

汗をかいた肌襦袢は湯を浴びてから絞って湯番の老婆へ戻した。

若い女が井戸から盥へ汲んだ水につけ、揉み洗うと竹竿にそでを通して干してゆく。

介重と朗太から荷を受け取ると湯元不動尊を観に高みへ上がった。

「この後二人はどうするんだ」

「石段に有る下の“ もりた ってとこで蕎麦を食いやす」

二人と別れ川沿いを下って弁天へ向かった、湯治客が十人ほどお参りしていた。

礼拝して坂を下り、橋を渡って坂を上ると医王寺の下へ出た。

石段を横切り、楽山館下を先へ入ると突き当りに天宗寺と言う禅寺、下に天満宮、その奥に八幡宮の屋根が見える。

川に石橋が掛かり左手を差して「あの水車が回る家が兄貴の家で御座います」と言う。

春米屋(つきまいや・米搗き)だそうだ。

「水車で米を搗いているのか」

「七分搗きまでで、後は拝み搗きで仕上げています」

荒糠は牛に馬の餌、拝み搗きで出る生糠は漬物用に売れるという。

坂を下ると小さな地蔵堂が有る。

その先に水澤寺からの街道が有り、追分を左にいくと口留番所に行きつく、丘の円山道先に円山稲荷、躑躅の名所だと言うが時期が悪い。

大根畑の中に参道が有る、石段を登り社に拝礼した。

二町程西にも稲荷の社が有る「こちらは中子稲荷と申しますが、円山と違い名所に為りませんでした」

「榛名富士や榛名湖は遠いのかな」

「湖まで一里二十七町と言いますが、峠もあるで一刻半(とき・百八十分)位ですかな、近間の物聞山など見晴らしも宜しくてお勧めです」

「足馴らしには手ごろかな。上の山とどちらが良い」

「上の山は上までの道は獣道で。物聞山は頂の琴平(ことひら)さんまで道が整備されております」

弁天、不動、琴平、八幡、稲荷、天神(天満宮)、無いのはお伊勢様にお諏訪様位だという。

温泉の守護の伊香保神社は大己貴命、お辰(おとき)たちは残りの日程も無事で有りますようにと日参している。

宿へ戻ると大野は、弥吉と番頭から付近の見取り図と距離を聞きとっている。

「未雨(みゆう)は前に伊香保と草津は十五里位と言っていたが歩いたのか」

「耳学問ですよ。全国行脚をしかねない先輩が多いですから」

坂東三十三か所観音霊場を巡る先達の心覚えが一番頼りに成るそうだ。

伊香保から榛名神社経由は三ノ倉まであっても五里だという事に話しは落ち着いた。

三ノ倉から須賀尾五里五町は案内記に出ている。

須賀尾から草津温泉が六里十五町で合わせると長くても十六里二十町。

他には伊香保から中之条経由で草津への道もあるという。

「若、昼はどうします」

「大野は甘酒と言わないな」

「見かけないからですよ。茶と団子ばかりでしたよ」

「その団子でも食おうか」

弥吉は甘酒なら兄貴の見世で作っているという。

「いい塩梅に毎日七つには売り切れています。わっしの所で売るほど回せぬと言われるのですが、仕込を増やしたくとも手が足りぬそうで御座います」

酒蔵が伊香保には無く弥吉の見世は藤岡、渋川、高崎辺りからの酒を売っているという。

「八つ前だ。見世が近けりゃ行ってみよう」

大野は熱いのも、井戸で冷やしてもどちらも好きで飲めるのだ。

石段を上の踊り場でますやにいる弥二郎へ「兄貴の所へ行ってくる」と告げて後閑楼下の路地へ入った。

天宗寺下天満宮手前、水路で水車を回す家へ入った。

「弥太郎兄さん」

「おお、弥吉か大勢さんでどうした」

「今日の甘酒はまだ有るかい」

「薄めりゃ三十人分はあるぞ」

「己(おのれ)でそんな冗談くっちゃべるから本気にされるがね」

いつも冗談の好きな男の様だ。

「今奥でタネが江戸の人を連れてきて休んでいるが、お仲間かい」

「聞いているだろ。新之丞様のお仲間だがね」

大きい椀へ若い娘が銅壷から柄杓で汲んで一同へ振る舞った。

次郎丸は竹箸でかき回して飲みやすくした、濃口で甘さは控えめだ。

大野は飲み終わって「もう一杯所望」と二杯目を頼んでいる。

「外で蕎麦の香りがするぞ」

「裏の小屋で蕎麦を石臼で挽いています。三軒分の粉を引き受けて居ります。今日の分はもう終わるころでしょう」

大野は又地図の話を聞いている。

「伊香保案内でも出す気か」

「そうではありませぬが。大殿に聞かれたときの用心で御座る。石段の南北が曲っていて少しずれてご坐る故、周りの位置は話すものでずれてき申す」

水澤観音から西北へ上ってきた道は幾度かの鉤手(曲尺手・かねんて)で方向感覚がずれると言う。

「それは武田甲州流の陣立ての名残が今の石段ですから」

弥太郎と弥吉は目の先、段の坂道下が水澤観音への街道で、この坂道は最近出来たという。

向山観音の坂道も石段の中ほどへ繋げようと計画は出ているそうだ。

「明日五つに出て物聞山の琴平(ことひら)さんへお参りして此処まで戻るにどのくらいだね」

「頂上まで行って戻って一刻(とき・百二十分)、上でどのくらいいるか次第で御座いましょう」

湯前大明神と比べて四十丈とは変わらないという。

「上の山へ登った者ははるかに見晴らしが良いと申しますが、なんせ行者も音を上げる獣道なのだそうで御座います」

大野は「はは、それで上の山で観る月でなく、上の山の月を観るとしたか」と得心している。

夜はうな丼に松茸も出て大野が喜ぶ食事に為った。

-松茸

-里芋と氷豆腐煮物

-二度芋の芋膾

-松茸と鶉の叩き団子茶碗蒸し

小皿-菜の漬物

鰻丼

仁泉亭

文化十一年九月二十三日(1814114日)・伊香保

仁泉亭 ”も朝食を工夫している。

-巻き湯葉、豆腐吸い物

-塩鰤焼き物

-南京と鶏肉の煮物

小皿-菜の漬物

弥吉におタネが案内に立ち、お辰(おとき)にお芳も“ こんひらさん ”へお参りするとついて来た。

後閑楼下の路地を抜け、天宗寺の坂を上ると こんひらさん ”への道へ入った。

麓の鳥居は新しい木の鳥居だった。

九十九折れの山道は苦も無く山頂まで登り切れた。

大きな水盤、石造りの社が二つ、琴平宮と秋葉明神だ。

堂守夫婦は晴れの日は明け六つに来て、八つに下るのだという。

五十間ほど下に湧水が有り、山葵田に小さな小屋もある。

「湯茶を振る舞うために来ております」

降りられない時は泊まるという。

各々二つの賽銭箱へ小銭を投げ入れている。

上の山との間は谷に為っていて向こうへ行くのは困難だというのがよく分かった。

鶯(うぐいす)の笹鳴きや、山雀(やまがら)の鳴き声が響いている。

弥吉は「時鳥ですが、今年は桜の時期に来まして、九月の初めに姿は見ても、鳴き声は地鳴き程度に為りました」と言う。

渡りで南へ去ったようだ、早く来て遅くまで残っていたという。

「上方で二月二十六日に初鳴きを聞いた。土地の者はひと月早いと言って居ったよ」

京(みやこ)人は菖蒲の節句には現われると歌に詠み込んだ。

物聞山頂上で、次郎丸は姿の無いほととぎすに呼びかけた。

わがやどの 池のふじなみ 咲きにけり やまほととぎす いつかき鳴かむ

「若さん万葉とは趣が違いますね」

「古今集の歌だ。読人しらずだが“ この歌ある人のいはく、柿本人麻呂が歌なり ”と注釈がついている。そうか、思い出した如何にも伊香保沼と物聞山を合わせたような歌もある。読み人知らずだ万葉から取り上げたかな」

ほととぎす 鳴くや五月の あやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな

「未雨(みゆう)師匠、芭蕉翁も両方入れていたな」

「“ ほととぎす鳴くや五尺の菖草 ”ですね上手く取り込んだもんですぜ」

ほととぎす なくやごしゃくの あやめぐさ

「若さん、ほととぎすは使う漢字が多くて覚えるのも一苦労と聞いたけど」

お芳は考えている顔付きだ。

「九つはあるはずだよ。そうだ難しいところでこのように書く事もある」

地面に木の枝で霍公鳥と書いた。

「此の霍(かく)と言う字は早いという意味だが、かっこうから思いついたとしか考えが付かない字だな」

「その字を使った歌が有るのね」

ほととぎす いとふときなし あやめぐさ かづらにせむひ こゆなきわたれ

霍公鳥 厭時無 昌蒲 蘰将為日 従此鳴度礼

「それも両方入ってるわ」

「本当だな。お芳のおかげで思い出せた、詠み人知らずと福麻呂と言う人の歌が同じ字で載せてあるよ。万葉はほととぎすを表すのに二つを使っているんだ。郭公(かっこう)の方はその後だよ

先ほどの字の脇へ保登等藝須郭公と書きくわえた。

天平二十一年春三月二十三日(ユリウス暦749年)

越中国守大伴家持の館に左大臣橘諸兄の使者で福麻呂が訪れた時の四首の一つ。

ここに新歌を作り また古詠を誦(うたひ)て 各(おのおのも)心緒(おもひ)を述ぶ ”とあるので古詠を詠ったのを載せたのであろう。

万葉集は大伴家持(養老二年718年頃~延暦四年785年)の最終編集とも言われている。

古今和歌集、醍醐天皇の命による勅撰和歌集(延喜五年905年)紀貫之らによる編纂。

柿本人麻呂(人麿)、生没年不詳。

持統三年(689年)~文武四年(700年)頃に掛けて活躍した歌人。

東に水澤山、南西に二つ嶽その奥に榛名山、右手に形の良い榛名富士。

榛名富士の先に榛名湖だろうか水面が光った。

「榛名湖は昔伊香保沼と言われていたそうで御座います」

遠眼鏡で見ると水鳥が飛び立つのが見えた。

お辰(おとき)たちにも貸し与えると喜んでみている。

かみつけの いかほのぬまに うゑこなぎ かくこひむとや たねもとめけむ

可美都気努 伊可保乃奴麻尓 宇恵古奈宜 可久古非牟等夜 多祢物得米家武

「こなぎって葱なのかしら」

「待てよ。たしか水葵の仲間だな、花菖蒲(はなあやめ)と間違えたか、それとも昔は花菖蒲の別名だったのかな」

「若さんも知らないことあるのね」

「そりやそうさ。俺は教えられたことを覚えるだけで背一杯さ。俳句も発想力に欠けているそうだ」

「おととおんなじね」

「師匠と弟子、似ていていいだろ」

「旦那様」

「どうしたおタネさん」

「こなぎは水田に多く生えて雑草扱いですが、夏の味噌汁の具に重宝します。大きくなると水葵より茎や葉が細いです」

「という事は、おタネさんは伊香保の人じゃ無いのか」

「若さんどうしてそう思うの」

「お芳。水澤からこっち田圃が無くて大根畑に蕎麦畑ばかりだ」

「ええ、私は野田から嫁に来ました。三国街道と伊香保道の追分に二親と弟がいますのさ」

野田宿は高崎新町へ四里。

板鼻へ四里二十一町。

水澤寺へ一里三町余。

伊香保へ二里十町余。

鳥居まで降りてきて次郎丸の時計は九時五十五分だった。

往復一刻(とき・百二十分)はほぼ正確な話だ。

弥太郎の家の甘酒で体を温めた。

ますやにいる弥二郎が「新之丞様が 仁泉亭 ”へお着きです」と言う。

弥吉と店番を替わり夫婦で着いて来た。

仁泉亭 ”には新之丞が二人の中年の男と来ていた。

未雨(みゆう)は顔見知りの様だ。

苦み走った男を「会津屋要蔵と言います。奥羽道中、下野街道、日光道中、中山道は信濃までの纏めはこの男が任されています。住まいは千住で小間物を扱っております」と紹介した。

優男の方は「弥二郎が上州で、此の新吉が野州を受け持って居ります」と言う。

次郎丸は「信濃で連絡は夫婦者で弥二郎も夫婦で働くようだが、新吉にも女将さんは居るのかい」と話を振った。

「宇都宮に五人の子供と荒物屋を商っております」

要蔵と江戸までの旅籠の手配をし、江戸で新之丞と落ち合い、又逆戻りして今度は伊香保から渋川を通り前橋へ繋ぎの確認旅だという。

新之丞は「前橋から利根川沿いに栗橋へ出ます。藩の命での視察旅にしました」と言っている。

泊まらずに午の刻には渋川へ向かうと言っている。

「大野殿が岐蘓路安見絵図の里程で記録を取るというので参考にしました」

新之丞はこれから先の日程だと出してきた。

「大分と楽な泊まりだ」

「一日余分に取って見ました。江戸を出る前に薬研掘にはこの日程を届けてきました。板橋から薬研掘は要蔵が歩数から割り出しました」

○九月二十四日高崎・本町(ほんちょう)金升屋庄三郎

六里十町余

○九月二十五日本庄・諸井五左衛門脇本陣

五里十三町

○九月二十六日熊谷・鯨井久右衛門(元本陣)

五里二十三町

○九月二十七日浦和・中町星野三左衛門脇本陣

十里五町・下町市日

○九月二十八日江戸薬研掘

六里

大野が「昼に水澤で饂飩を食べませんか」と新之丞を誘った。

「いいだろう。私もそのつもりだった」

水澤寺の“ たまるや ”へは先に未雨(みゆう)と弥二郎が向かった。

お辰(おとき)たち女三人は上の もりた ”で蕎麦の約束だという。

荷番の介重に行先を告げ、次郎丸たちは たまるや ”へ向かった。

先が要蔵と新吉、中に次郎丸と新之丞、後ろに大野と千十郎。

次郎丸は「新さん。兄いが出てきたら猪四郎を誘って支那(しな)の鶏料理を食べよう」と誘った。

「金さんの話しじゃ大層手が掛かると聞いた」

「鶏は猪四郎が集め、作るのは新兵衛兄いに任せてこっちは御託を並べて居ればいい。猪四郎の所に料理道具は揃っている。あそこの料理人は腕がいいからすぐ覚えられる」

「猪四郎兄いに新兵衛兄いを使いまわしますか」

「それと鮭の鍋と言うのも覚えてきた。未雨(みゆう)が猪四郎に頼まれていたのさ」

「若さん、今年はあちこち出歩きましたが、後一年たてば江戸でも出歩くのに苦労しますよ」

「江戸もそうだが、暇、参府の行列は勝手旅の様にはいかない物さ」

大名は参勤で早い時で夕七つ、移動が長いか手間取れば五つ頃、本陣へ到着。

出立は早暁七つが普通で、家来は先に出る者も多い。

三月の明け六つで五時前後、四月だと四時三十分前後に為る。

三月の暮れ六つで十八時三十分前後、四月だと十八時五十分前後に為る。

本陣に宿役人は寝る間もおしい位の忙しい日が六日ほど続くのだ。

中山道だと少ない年でも暇、参府で三十家以上が通行する。

新之丞は松代藩の利用する浦和、熊谷、本庄の本陣を避け、元本陣に脇本陣を後の為に抑えさせたようだ。

新之丞たちとは渋川への追分で別れた。

お辰(おとき)が番頭に訊かれて鮭の鍋を教えたという。

その鍋が夕の食事に出た。

夕食

-湯葉と鶏団子

-里芋と干瓢の煮物

-栗きんとん

-塩鮭、豆腐、唐菜の味噌仕立て

小皿-大根はりはり漬け

仁泉亭

文化十一年九月二十四日(1814115日)・伊香保~高崎

朝食は一汁二菜。

-豆腐味噌汁

-公魚(わかさぎ)筏焼

-里芋と鶏肉の煮物

小皿-大根はりはり漬け

大勢に見送られ伊香保を出立したのは五つ(七時三十分)頃の事。

荷駄を二頭雇って荷は乗せて身軽になって歩いた。

一頭九十二文の百九十四文、百文の緡(さし)二本で支払い六文の釣りを受け取った。

途中で大野は四十文の括りを馬方それぞれに上乗せした。

二里十町余で野田宿、次郎丸の時計は九時五十分。

本陣の主森田梅園はこの年四十一歳、書家としての名は江戸へも響いている。

この付近八ヶ村の大庄屋、問屋も兼ねている。

馬次で高崎本町まで四里余、百九十三文通しの荷駄が雇えた。

二頭で三百八十六文、百文の緡(さし)四本で釣りが十四文。

(金古宿から高崎宿まで乗懸・本馬百三十一文)

三国街道の追分に茶見世が在る、お辰(おとき)が頼まれたおタネの手紙を渡しがてら一休みした。

大野は甘酒か茶の好みを聞いて注文した。

馬方には百文の緡(さし)をそれぞれに上乗せした。

坂東三十三観音巡礼の一団が、金古宿の方から水澤観音への道を通り過ぎた。

第十三番は武蔵の金龍山浅草寺浅草観音。

第十四番に武蔵の瑞応山弘明寺弘明寺観音。

第十五番が上野の白岩山長谷寺白岩観音。

第十六番に上野の五徳山水澤寺水澤観音。

第十七番は下野の出流山満願寺出流観音。

第十八番の下野の日光山中禅寺立木観音。

坂東三十三観音全行程三百三十里有るという、何度かに分けて回る講中が多いし、順を替えて道筋を優先する講中もある。

三十三観音巡礼は養老年間(717年~724年)頃、奈良長谷寺の徳道上人発願により始まり、鎌倉に幕府が開かれて坂東がそれに習ったという。

金古宿まで一里半、金古付近は旗本三家の知行地に沼田藩領が入り混じっている。

書家角田無幻の筆になる道祖神がある。

台石“ 右玉村いせさき道,左まへはし道

裏面“ 享和紀元辛酉初冬

次郎丸はしばし見惚れている。

「若さんこの紀元とは何のことです」

「寛政十三年二月五日に支那(しな)の国では王朝が交代する革命の年とされる辛酉(しんゆう)なので享和に変えたのだよ」

「六十年に一回も王朝が交代していたのですの」

「そんなはずないよ。昔の人は間違えないと思う人がいるので、辛酉に革命が起きると文選にでてるのを信じたのさ」

蟹沢川の木橋先に木戸、右手の金古代官所は旗本松田家の委任を受けた神保家、左手の上の問屋も神保家。

九つの鐘が前方で鳴りだした。

上宿(しゅく)左手今城本陣、向かいに福田脇本陣、江戸口の木戸まで十二町余り。

下宿(しゅく)の問屋場で馬方は書付を見せて一行の後へ着いた。

上宿(しゅく)松田家、中宿(しゅく)萩原家、下宿(しゅく)本多家、江戸口木戸先の染谷川から沼田藩土岐領(三万五千石の内四百二十一石)。

沼田藩土岐頼布(ときよりのぶ)は昨文化十年三月四十歳の時養子に迎えた頼潤(よりみつ・備後福山阿部正倫五男)二十七歳に、七月八日家督を譲った。

頼潤(よりみつ)は十二月に従五位下山城守に叙任した。

高崎宿新町まで二里半。

大八木村は高崎藩領、六方へ道が通じる街道の要。

高崎藩は大河内松平、松平美濃守輝延(てるのぶ)三十九歳。

兄輝和の継嗣となり、十四年前の寛政十二年十一月十二日、家督を継いで高崎藩主となった。

奏者番から寺社奉行へ進んで十二年がたった。

相役は阿部正精、松平乗寛、内藤信敦。

追分(分去り)には文化七年の道しるべ、後ろを振り返って眺めた。

右面に大きく“ 右越後 ”。

その下に“ ぬまた いかほ くさつ さはたり 志ま かはらゆ ”と彫られている。

左面は“ 左はるな道

休み茶見世で茶と焼き団子で腹を宥めた。

高崎城の天守が見えてきた、三層の白壁の最上階の屋根が重そうに見えている。

遠構(とおがまえ)土塁と堀を越えれば城下町の入口の本町(もとまち)と赤坂町の境。

此処まで三国街道の右手に有った用水路は中山道を横切ると城の内堀、子之門への道筋左手に流れが変わった。

中山道は七尺ほどの石橋が架かっている、右手に見えるのは京口木戸。

その木戸の方で七つの鐘の音(ね)がしている、次郎丸の時計が午後の三時二十五分を差している。

新之丞の寄越した城下案内は此処から左へ八軒目、本町“ 金升屋庄三郎 ”で“ 金齢丹 ”と云う痰の閊え(つかえ)に効く妙薬を商って(あきなって)いるという。

会津屋要蔵は四部屋を取ってあった。

豪華ではないが手の込んだ夕食と為った。

-豆腐に巻き湯葉

-鶏串焼き、焼き葱添え

-南京、里芋、干瓢の煮物

松茸の茶碗蒸し

小皿-大根、茄子、人参の糠漬け

金升屋庄三郎

文化十一年九月二十五日(1814116日)・高崎~本庄

金升屋 ”の朝食は一汁二菜。

-根深味噌汁

-鯵の開き

-里芋と氷豆腐に鶏肉の煮物

小皿-大根糠漬け

六つ半(六時三十分頃)に約束して置いた乗懸(のりかけ)二頭に、軽尻(からじり)二頭が来た。

倉賀野まで乗懸(のりかけ)六十三文、二頭百二十六文、軽尻(からじり)四十五文の二頭九十文、〆て二百六文は昨日大野が問屋場で支払い済みだ

九蔵町(くぞうまち)鉤手(曲尺手・かねんて)を右へ曲れば絹市場で高名な田町。

朝から田町五・十日絹市場は大賑わいだ。

「旦那、旦那ぁ~」

見れば草津で出会った藤岡の幸太郎だ。

「買い付けに来たのか。売りものか」

「買い付けで御座いますよ。明日も藤岡動堂(ゆるぎどう)の六斎市でも買いに廻ります」

未雨(みゆう)には「毎月送りますので添削を頼みます」と挨拶をした。

番頭が「若旦那、荷は乗せ終わりました。次の見世は何処にしますか」と声を掛けた。

混雑もひどくなり「江戸へ来たら天王町の伊勢屋を訊ねて俺の屋敷へも遊びに来いよ」と右左に分かれた。

藤岡の市場は月十二回、動堂町通りの一と六、笛木町通りが四と九の六斎市。

幸太郎の兒玉屋は笛木町一丁目にある。

連雀町(れんじゃくちょう)の右手は城の大手門(追手門)への道、この町は紙取引の大店が並んでいる。

新町とかいて“ あらまち ”旅籠は本町(もとまち)より多い十一軒あるという。

新田町の先左に高札場が有り江戸口木戸門がある。

南町先にもう一つの木戸が有る。

粕沢立場で大野は一休みして馬方四人に四十文の括りを「駄賃の上乗せだ」と配った。

倉賀野一里塚を過ぎれば倉賀野京口木戸。

下旬は下町の問屋場の番で、五貫堀太鼓橋前でお辰(おとき)親娘は馬から降りて問屋九郎兵衛まで歩いた。

倉賀野から新町一里三十町、乗懸(のりかけ)六十九文の二頭で百三十八文、軽尻(からじり)四十六文の二頭九十二文で二百三十文、百文の緡(さし)二本と四文銭八枚出して二文釣りを貰った。

馬の仕度は大野に任せ、お芳と次郎丸は日光例幣使街道追分の常夜燈迄先に出た。

雷電為右衛門の名を見つけその周りに有る角力年寄の名を読み上げている。

役者の名を探しているとお辰(おとき)が「もう出るよ」と馬の上から声を掛けた。

烏川は柳瀬の渡しが込み合っていて渡り切るのに刻が掛かった。

来る時と違って水量が多い、渡り切ると馬方四人に四十文の括りを「駄賃の上乗せだ」と渡した。

温井川土橋は新町宿西口(京口)に成る、新町宿の御料傍示杭を越えた。

高崎藩領を過ぎて落合新町、笛木新町は岩鼻代官の支配地に為る。

高札場の先に市神、落合新町問屋場富沢忠右衛門で馬次をした。

新町から本庄へ二里、乗懸(のりかけ)九十二文の二頭百八十四文、軽尻(からじり)五十七文の二頭百十四文で三百九十八文、大野は四文銭の緡(さし)を出して二文の釣りを貰った。

新町宿の御料傍示杭先でお辰(おとき)親娘は馬から降りた。

先は河原で土橋の先に中州が有る。

神流川渡は三筋真ん中が十五間ほどの船渡しで次の中州へ渡り、本庄側は三十間の橋渡しに為ったままだった。

橋を渡り土手を登ると親娘を馬にのせ、大野は四人の馬方に四文銭十五枚括りを「駄賃の上乗せだ」と配った。

上野から武蔵へ入ったが、此処も岩鼻代官の支配地。

本庄宿は家康江戸討ち入り後、小笠原信嶺が一万石で配されてきた。

慶長十七年小笠原信之の時下総古河へ移封、横田、三上、西尾、日下の旗本四家の知行地に為り百二十年前の元禄六年よりは天領となった。

勅使河原村、金久保村、石神村、下野堂村、杦山村、小嶋村と人家が途切れずに続いている。

鉤手(曲尺手・かねんて)で本庄宿へ入った。

木戸先左に金鑚明神、右に万日堂でその前に道しるべが有る。

次郎丸が側へ行って読み上げている。

右 中山道

左 妙義一ノ宮

お芳は馬方に「妙義一ノ宮は遠いの」と聞いている。

「貫前神社(ぬきさき)は富岡だでな。こっから八里はあるでな」

「そっか。遠いんだ」

「下仁田街道云うて中山道追分までつながるんじゃ」

「碓氷峠は通らない道なのね」

「姫街道とも言うでな。峠は在るが難儀するほども無いそうじゃ」

次郎丸の時計で午後の一時三十分だ。

大野は「五里三十町程、渡しに刻が掛かったが三刻半(七時間)なら早い方だな」と千十郎に言っている。

いつもと違って休み茶見世に寄るのが少ないからだ。

新田町、上の市神で未雨(みゆう)は中屋へ寄った。

上町左手に問屋の“ 諸井治郎兵衛 ”右手に“ 諸井五左衛門脇本陣 ”。

宿札に“ 奥州白川藩本川次郎太夫様御一行様御宿 ”とある。

会津屋要蔵が高崎では遠慮して出さなかった様だ。

大野は「白川藩本川である。一人後から参る」と声を掛けた。

荷が下り、濯ぎが終わるころには未雨(みゆう)も遣って来た。

落ち着くと未雨(みゆう)が「金鑚明神(かなさな)のご祭神に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が祀られておられるとご存知ですか」と聞いてきた。

「後付けだよ。本社の武蔵二宮金鑽明神は日本武尊が創建と伝わるそうだ。天照大神に素盞嗚命の二柱を祀るとある。日本武尊は欽明天皇の御世に祀ったと出ていた」

延喜式に名神大社として氷川神社・金鑽神社が載り、後の神道集は一宮小野神社、三宮氷川神社、五宮金鑽神社とされた。

欽明天皇(アメクニオシハラキヒロニワノミコト)継体天皇と手白香皇女の嫡子。

金鑚明神の別当寺は金鑚山威徳院百蓮寺(かなさなさんいとくいんびゃくれんじ)。

児玉党が崇信する武蔵二宮金鑽神社を本庄氏が本庄宿へ勧請した。

本庄氏滅亡後、本庄城主小笠原氏も金鑚神社を産土神として崇敬、本庄の鎮守とした。

元和九年に洪水被害で仮宮に遷座、百七十年ほど前、寛永十六年小笠原政信(忠貴・関宿藩二万二千七百石)の社殿寄進を受けて今の地へ遷座した。

(中山道最大の宿『本庄宿』の再発見 vol.8には御神木について本庄城主小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念の記念として献木とある。忠貴について小笠原号忠貴左衛門佐と市川市総寧寺の小笠原政信夫妻供養塔に有ると云う)

本殿は九十年前の享保九年、拝殿は三十六年前の安永七年に建てられた。

大野は「甘酒呑んで明神へ参拝しましょう」という。

介重たちは替わり番子に昼を食べに出してやった。

金鑚明神の鳥居前、小松屋という暖簾の休み茶見世で甘酒を頼んだ。

明神の参拝を済ませ市神まで来ると中屋の手代に呼び止められた。

次郎丸と未雨(みゆう)が中屋へ入り、大野たちは脇本陣へ戻った。

二人は日暮れ時に戻ってきた。

夕食は一汁三菜に湯豆腐

-つみっこ

-塩鮭焼き物

-里芋と鶏肉の煮物

茶碗蒸し-銀杏、松茸入り

湯豆腐

小皿-茄子のぬか漬け、刻み茗荷

諸井五左衛門脇本陣

文化十一年九月二十六日(1814117日)・本庄~熊谷

朝食は一汁二菜。

-蜆味噌汁

-塩カマス焼き物

-里芋と鶏肉の煮物

小皿-大根と茄子の糠漬け

大野は沢庵が駄目なくせに大根好きという曲者だ、此の旅で出ないのは新之丞の手配かと次郎丸は思っている。

六つ半(六時三十分ごろ)“ 諸井五左衛門脇本陣 ”前には中屋戸谷半兵衛とその家人が見送りに来ていた。

この時戸谷半兵衛光寿四十一歳の働き盛り、息子光敬は二十一歳嫁を迎えたばかりだという。

江戸出見世二軒の内、神田三河町島屋を勉強の為任せるという。

乗懸(のりかけ)百二十六文の二頭二百五十二文に、軽尻(からじり)七十八文の二頭百五十六文、〆て四百十八文に為る。

本庄宿の用水は街道の左右を東西に流れている。

台町では用水が久城堀の久保石橋と先の石橋の下で左右が繋げられている。

二つの橋の間右手には大正院と観音堂への参道が有る。

江戸口木戸の先鉤手(曲尺手・かねんて)で御堂坂は馬喰橋(うまくらばし)への下りに為る。

馬喰橋坂下に御料傍示杭が有る、鉤手(曲尺手・かねんて)に江戸から二十番目傍爾堂一里塚。

元小山川先の追分に傍爾堂が有り、昨日(きのう)聞いた話では脇往還の人馬継立は四十年ほど前までこの村で行われ、本庄宿から出帳していたそうだ。

小嶋村に脇往還が付け替えられ、明和九年本庄宿へ人馬継立が移ったという。

五つの鐘が聞こえてきた。

大きな長屋門がある、馬子は傍爾堂村旗本領の庄屋内野家だという。

「娘さんよう。塙保己一というお方をご存知かや」

「学者で、検校で、群書類従という古今の書物を書き記した本を出した人」

「左様じゃよう。ここの殿様の伝手でな、江戸で勉強しなさったそうじゃ」

傍爾堂村と生まれ在所保木野村は同じ永嶋家の領地だという。

群書類従四十三冊が完成したのは二十年近く前、今でも続編の編集が行われている。

八幡社が右手に宝珠寺参道が左手に有る。

小山川土手の上に出ると上毛三山が遠くにくっきりと見えた。

滝岡の渡し場には十五間ほどの仮板橋が架かっている。

江戸から十九番目岡下一里塚を過ぎ、普済寺村の風張立場で一休みした。

大野は四文銭十五枚括りを四人の馬方それぞれに「駄賃の上乗せだ」と配った。

食い違い土手を過ぎてしばらく行くと、茅場村と東大沼村の境に江戸から十八番目茅場村(萱場)一里塚。

坂を登れば深谷宿西木戸。

街道横断石橋先に市神の社、高札場の左手に飯島十郎兵衛本陣、旅籠“ 坂本屋惣右衛門 ”は行に泊まった宿。

左に脇本陣中町問屋場中屋忠左衛門、此処で馬次をした。

乗懸(のりかけ)百二十七文、二頭で二百五十四文。

軽尻(からじり)八十五文、二頭で百七十文〆て四百二十四文。

下町唐沢川に板橋、先は深谷宿東木戸。

松原が続き國清寺村先が東方村、石橋立場の休み茶見世は人で一杯だ。

江戸から十七里目東方一里塚先の左手が東別府村、右手は新堀村と馬子がお芳に教えている。

此処の籠原立場も込み合っている、深谷から一里だと馬方が話している。

玉井村で遠くに九つの鐘が聞こえる、次郎丸の時計は十一時三十五分。

「此処のは正確だな」とつぶやいた。

玉井村から新嶋村へ入ると左への道は大電八公江之道(ダイテンハクえのみち)と馬子がお芳に教えている。

半町ほど先右手が忍領石標“ 従是南忍藩 ”とある、その先が江戸から十六番目新島一里塚。

右への道は秩父道、追分の休み茶見世で一休みと為った。

大野は此処でも四文銭十五枚括りを四人の馬方それぞれにに「駄賃の上乗せだ」と配った。

成田堰用水が街道を横断し石橋が架かっている。

坂の途中にも横断水路がある。

宿に入って左への道は忍道(おしみち)、京口木戸の手前の四辻、右は松山道で、左が熊谷寺(ゆうこくじ)の参道。

木戸内、右に竹井本陣、左が元本陣 鯨井久右衛門 ”。

宿札に“ 奥州白川藩本川次郎太夫様御一行様御宿 ”と立ててある。

本庄宿から熊谷宿まで五里二十三町、六時間三十五分掛かった。

四部屋に分かれて介重たちは交代で昼を食べに出かけさせた。

未雨(みゆう)は一家で町歩きに出て行った。

「さてわしらはうどん、そば、茶漬けでも食いに行くか」

大野は問屋場で明日の予約を取るというので三人で高札場先の問屋場へ向かった。

乗懸(のりかけ)百九十三文の二頭三百八十六文、

軽尻(からじり)百二十七文の二頭二百五十四文、〆て六百四十文。

大野は南鐐二朱銀を出して釣りに四文銭四十枚を受け取った。

茶漬けの見世を聞くと「奈良茶飯も栗茶飯の季節たいね。お勧めなのは江戸口木戸先の“ はつや ”たいね」と差配が言う。

はつや ”の茶飯は米、栗、大豆、粟の雑炊仕立てだった。

大野は見世の女将に見どころを聞いている。

高城明神の祭神高皇産霊尊と聞いて興味を覚えたようだ。

高城明神の社殿は秀吉公小田原攻めの時に焼失と云われていて、阿部忠秋(あべただあき)公によって寛文十一年社殿が再建されたという。

延喜式神名帳に祭神高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。

忠秋は元和十年一月(二十三歳・二月寛永改元)六千石相続から始まり寛永三年(二十五歳)で一万石の大名、寛永六年(二十八歳)で一五千万石。

寛永十年(三十二歳)小姓組番頭から三月に六人衆(若年寄)へ進むと五月に老中格へ任じられた。

寛永十二年(三十四歳)十月壬生藩二万五千石、老中となった。

寛永十六年(三十八歳)忍藩五万石に転封。

正保四年(四十六歳)六万石、寛文三年(六十二歳)八万石、寛文六年(六十五歳)老中を退任し、寛文十一年七十一歳で隠居。

現藩主は阿部正権(あべまさのり)九歳。

文化三年三歳で家督を相続した。

三人が参道を進むと石鳥居が有る。

手水鉢に寛文拾一年五月十五日の文字が有る。

樹齢六百年だと聞いた大きな欅が聳えている。

拝殿まで進んで礼拝した。

別当は星河山千手院石上寺、本尊千手観音。

榮光父親名主竹井新左衛門信武開基、僧榮光の手で寛文十一年創建。

鯨井久右衛門 ”へ戻るとお辰(おとき)が茶と菓子を用意して待っていた。

「“ ごかぼう ”かそういえば此処の名物だったな」

五嘉棒 ”は売り出す店で字が違うとお芳が言って居る。

夕食

-根深汁

-塩鮭焼き物

-里芋と氷豆腐煮物

-田楽芋(甘藷)

小皿-大根のはりはり漬け

鯨井久右衛門

文化十一年九月二十七日(1814118日)・熊谷~浦和

鯨井久右衛門 ”の朝は一汁二菜。

-豆腐味噌汁

-鶏串焼き

-豆腐田楽

小皿-大根糠漬け

明け六つ(五時半頃)に馬方も来て浦和へ向けて旅立った。

鴻巣までは四里八町と長いが久下、吹上、箕田と立場が有る。

中山道鉤手(曲尺手・かねんて)角の板橋が熊谷宿江戸口。

江戸から十五番目八丁一里塚の先に平戸村。

土手道が続いて、土手下に権八地蔵が有ると馬方がお芳に教えている。

一度降りた土手道に、江戸から十四番目久下一里塚。

又上がった土手は榎戸村まで続いている。

吹上の鉤手(曲尺手・かねんて)追分は行きかう人で込み合っていた。

右へ松山道、左は忍道。

前砂村用水堀石橋の際に江戸から十三番目前砂一里塚。

左へ日光館林道が伸びている。

先へ進んで中井村手前に六尺を越す忍領石柱“ 従是西忍領 ”。

箕田追分茶屋富士屋で一休みした。

「お帰りなさいませ」

休み茶見世の女将は信濃へ向かった一行を覚えていた。

大野が嬉しそうに言葉を交わしている。

大野は馬方四人にも甘酒を勧めている、「駄賃の上乗せだ」と気前よく一人百文の緡(さし)一本を配っている。

箕田村は大きな村で、宮前村先に有る江戸から十二番目箕田一里塚の左塚は村内だと馬方がお芳に教えている。

鴻巣宿京方木戸の先街道に市神、四つの鐘が聞える。

向かい側右手に小池本陣と瀬山脇本陣が有る、左手に問屋場、此処で馬次をした。

鴻巣から桶川まで乗懸(のりかけ)八十四文、二頭で百六十八文。

軽尻(からじり)五十三文、二頭で百六文、〆て二百七十四文、大野は百文の緡(さし)三本で釣りを貰った。

江戸から十一番目馬室原(原馬室)一里塚は街道から三町程右手に為る。

行に大野が聞き出したのは、今の本宿村に在った宿場を鴻巣へ移した際に街道が付け替わり、取り残されたという。

桶川宿の手前に四つ辻が有る、左に騎西道、右は川越道。

大野は馬子四人に四十文の駄賃上乗せを渡している。

街道は横断水路に石橋がある、左に天満宮の参道。

一里塚の手前に大雲寺の参道。

江戸から十番目桶川一里塚は宿内の横断水路石橋脇。

市神の先右手に高札場、脇本陣、問屋場、向かいに府川甚右衛門本陣。

上尾まで三十町しかないがここで馬次だ。

乗懸(のりかけ)四十二文、二頭で八十四文。

軽尻(からじり)二十八文、二頭で五十六文、〆て百四十文。

大野は百文の緡(さし)と四文銭十枚で勘定した。

上尾宿手前久保村の立場で大野は二十文の上乗せ駄賃を配った。

一行は茶と牡丹餅で腹を宥め、九つの鐘で目の前の上尾に向かって席を立った。

細井弥一郎脇本陣は行に泊まった所、問屋場で馬次をした。

大宮まで乗懸(のりかけ)九十二文の二頭百八十四文。

軽尻(からじり)五十九文、二頭で百十八文、〆て三百二文。

百文の緡(さし)三本に二文出した。

江戸から九番目上尾一里塚は宿内に有る。

一里塚先が四辻、左が原市村、岩槻への道、右は川越へ通じている。

江戸から八番目加茂宮一里塚、四辻左は岩槻道、右は与野道。

大野は三十二文の上乗せ駄賃を配った。

大宮宿大門町の高札場手前の問屋場で馬次した。

いい具合に戻り馬だという四頭が雇えた。

乗懸(のりかけ)五十六文の二頭百十二文。

軽尻(からじり)三十八文、二頭七十六文、〆て百七十八文。

百文の緡(さし)を二本で二十二文の釣りを受け取った。

江戸から七番目大宮一里塚は行方不明、氷川大明神参道で遥拝して先へ進んだ。

針ヶ谷立場で一休みした。

大野は上木崎村へ戻ると聞き出し、一人百文の緡(さし)を上乗せだと四人の馬方に配っている。

江戸から六番目浦和一里塚、先の左への道は与野道。

星野三左衛門脇本陣 ”へ着いたのが午後の四時四十五分、陽は落ちる寸前だ、暮れ六つ近くでも街道右手の市神から問屋場にかけては六斎市で賑わっていた。

十里五町を十一時間十五分程掛かっている。

此処にも宿札に“ 奥州白川藩本川次郎太夫様御一行様御宿 ”と出ている。

夕食

-湯葉と豆腐

-鰻かば焼き

-里芋と高野豆腐の煮物

-栗きんとん

-湯豆腐

小皿-大根はりはり漬け

女中は一同が席に着くと「蒲焼の皿は熱いのでお気を付け下さいませ」と配って回った。

 

星野三左衛門脇本陣

文化十一年九月二十八日(1814119日)・浦和~薬研掘

昨夜二更から風雨が激しくなり今朝の旅立ちを危ぶんだが、寅の刻(午前三時半頃)には風も弱まり雨も止んだ。

  星野三左衛門脇本陣 ”の朝は一汁二菜。

-蜆味噌汁

-塩カマス焼き物

-里芋と高野豆腐の煮物

小皿-大根糠漬け

六つ(五時半頃)には問屋場から軽尻(からじり)二頭、乗懸(のりかけ)二頭が回ってきた。

乗懸(のりかけ)六十一文の二頭百二十二文。

軽尻(からじり)四十一文の二頭八十二文、〆て二百四文。

百文の緡(さし)二本と四文支払って有ると大野の話しだ。

浦和宿は街道の東、中町に脇本陣が二軒。

街道の西、中町に問屋、高札場、“ 星野権兵衛本陣 星野三左衛門脇本陣 と並んでいる。

中町の石橋の左手は日光御成道、鳩ヶ谷へ三里とある。

焼米坂先に日本橋から五番目辻一里塚。

大野は四十文の括りを四人に配っている。

街道を笹目用水が横断している、石橋は境橋と馬方がお芳に教えている。

「こっからが蕨宿に為りますだ。石橋に為って十七年目ですだ」

蕨宿には問屋を兼ねた一の本陣岡田加兵衛、東の本陣岡田五郎兵衛に脇本陣岡田新蔵。

問屋場で乗懸(のりかけ)二頭、軽尻(からじり)二頭を馬次した。

乗懸(のりかけ)百五文の二頭二百十文。

軽尻(からじり)六十六文の二頭百三十二文、〆て三百四十二文。

大野はさすがに細かいのが足りないようで南鐐二朱銀を出して釣りを受け取っている。

日本橋から四番目戸田一里塚は行方知れず。

戸田川(荒川)の船渡しは混みあっている。

昨晩のあらしの影響か水の量が多いと聞こえてくる。

平水三文、中水六文、出水十二文になる。

武士を抜かせば六人分七十二文、問屋場の荷駄は別勘定に為る定めだ。

清水坂の志村の立場で一休みし、大野は馬方四人に六十文括りを配った。

日本橋から三番目志村一里塚。

街道右に縁切榎が見えた。

板橋宿の上宿(しゅく)に脇本陣板橋市左衛門。

上宿(しゅく)の板橋先、中宿(しゅく)左手に高札場。

問屋は三ヶ所、上宿板橋市左衛門、中宿飯田新左衛門、平尾宿豊田孫右衛門。

貫目改所の有る中宿問屋場飯田新左衛門で馬次をした。

大野はお辰(おとき)親娘と相談し本馬二頭を雇うことにした。

本馬は日本橋まで百十四文の規定、薬研掘までの道筋を話し、二頭三百文で折り合いが付いた。

大野が四文銭の緡(さし)を出すと百文の緡(さし)で釣りを寄越した。

中宿(しゅく)本陣飯田新左衛門前を通り、平尾宿へ入ると脇本陣豊田市右衛門が有る。

宿の先、左に加賀前田家下屋敷、日本橋から二番目平尾一里塚は左塚が滝野川村で右塚は板橋宿内だと馬方が大野に話している。

畑地の先が巣鴨村、九つの鐘が聞こえてきた、次郎丸の時計で十一時三十五分。

中山道追分でようやく周りの景色も江戸らしくなり、加賀前田家上屋敷で左へ折れ、湯島天神へ向かった。

湯島天神で道中無事で戻れた御礼報告をして神田明神へ向かった。

妻戀稲荷脇を抜け、明神下へ出て大回りして随神門 ずいじんもん )から入り、ここでも道中無事の報告御礼をした。

大野は二人の馬方に百文の緡(さし)を配っている。

権太が屋敷へ先駆けに向かい、一行は昌平橋を渡り食違い御門前を柳原へ出た。

浅草御門先広小路から右へ入り薬研掘の屋敷へ戻った。

次郎丸の時計は午後の二時五分だった。

なほ ”の脇に座る“ つかさ ”の笑顔で一同は旅の疲れも忘れた。

 

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   天保中山道宿村大概帳・中山道分間延絵図・岐蘓路安見絵図対比表は第八十五回-和信伝-伍拾肆に有ります
   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記