第伍部-和信伝-弐拾伍

 第五十六回-和信伝-弐拾伍

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

嘉慶十二年十二月三日(18071231日)

豊紳殷徳(フェンシェンインデ)に鑲藍旗満州副都統ならびに烏里雅蘇台(ウリヤスタイ)派遣の沙汰が下った。

準備にひと月猶予が与えられ、旅の冬支度で大騒ぎだ。

大鏡門長城“大好河山”を抜けて張家口に入るまでが四百里、長城を超えれば、内務府会計司が呉れたサイルオス通商路での総距離は三千八百里、ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)までの極寒の高原が待ち構えている。

張家口から西へ六百三十里で帰化城、国境を越えたら、サイルオス通商路を外れる予定だ。

駅站の正式路、正式装備は使わないでの赴任とされたからだ。

通商路の視察というが、隠密行動ではないが自由にしてよいという事の様だ。

各駅駅站正式装備は乗用駱駝二十頭(もしくは馬)、運搬用駱駝十頭、食用羊二十五頭などと到底規定では大人数に為れば一行を賄えない。

蒙古(マァングゥ)内は雪のない時期でも二月、船という手は使えない、馬か駱駝が頼りになる。

馬車で一人寒さを防ぐ手はインドゥには向かない。

身の回りの世話を志願してきた門番の植(チィ)を銀(かね)番兼任の供にと娘娘と相談した。

宜綿(イーミェン)や昂潘(アンパァン)も附いて行きたいと志願したが断った。

「女手が必要です。何年滞在になるか予定も示されておりません」

紫蘭と使女のパァンリィン、ナンゴンシィイが附いていくと引き下がらない。

インドゥが止めたが勝手に支度を始めた。

「姐姐は府第の為に残っていただく、雲嵐(ユンラァン)様はお子が小さい。そうすれば私が行くのが順当です。銀(かね)番はいても薬番が必要です」

王神医(ゥアンシェンイィ)は一年分持参と、後から一年分に一年分の薬剤を贈るので教わったとおりに漬けることを勧めた。

宋太医からは様々薬の使用法、胥幡閔(シューファンミィン)からは産婆の心得、時間がない中で詰め込んだのは荷物だけではない。

駱駝の手配を大平街の出張所の手代へ頼むと張家口から戻ったと、常秉文(チァンピンウェン)が府第へやってきた。

「話は聞いて居ます。家の駱駝隊が同行します。何、雪の中でもと志願したものばかりです」

與仁(イーレン)と宜綿(イーミェン)が同時に揶揄った。

「駱駝も志願したのか」

「もちろんですとも。隊長が行くかと声を掛ければヴブゥベェと鳴いて答える強者ぞろいです」

駱駝は一頭三百六十斤の荷を運ぶという、馬車は一頭引きで荷は五百斤だが道悪では何人もの手がかかる厄介者に化してしまう。

紫蘭に使女二人と奴婢四人が料理番で娘娘の許しが出て同行と決まった。

様々な贈呈品に加え孜漢に懐中時計を二十個に台鐘(タァィヂォン・置き時計)五台を調達させた。

自分用に五個、紫蘭、潘玲(パァンリィン)、南宮夕依(ナンゴンシィイ)にもそれぞれ三個の十四個もかき集めた。

いつどこで強請られ(ねだられて)るかもと先読みをした。

植(チィ)は公主府の林(リン)と范(ファン)も志願したと同行を願った。

「馬に乗れるので、駱駝に乗るように言われてもすぐに慣れるでしょう」

結局男三人、女七人がインドゥの世話をするために同行と決まった。

他に兵が十六人選ばれてきた。

兵は八旗護軍鑲藍旗(クブヘ・ラムン・グサ)から総監一名(漢)参領一名(満)、騎馬校二名(漢・満)の士官と兵十二名だ。

総監、参領の荷も多くなり馬車が追加されてきた。

馬の飼料にイェンマァィ(燕麦・烏麦)の買い付けを出入り業者へ申し付け、馬車四台へ十二石(二千零八十八斤)、薪、炭も三台分用意した。

フォンシャン(皇上)の裁可が出て、騎馬二十人、馬丁二十人、替え馬五頭と馬車馬替え付きで三十三頭、馬車二十七台に馬丁二十七人と女十七人、駱駝隊は駱駝引き三十人と駱駝百二十頭の百十四人の大人数が野営の準備もしてウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へ向かうことに為った。

常秉文が選んだ隊長は趙慧敏(ジャオフゥイミィン)という二十位の娘だ。

隊商の親方は父親のジャオハァオミィン(趙皓敏)だと紹介された。

顔合わせの時、腕自慢の林(リン)の顔に嘲りが見えたようで、拳を挑まれ簡単に打ちのめされた。

それ以来馬丁たちにも隊長は信頼されている。

今回の頭領豊紳殷徳はフォンシャン直参ともいえる頭等侍衛だったと聞いて、趙慧敏の眼に尊敬の念が浮かんだのを全員が見た。

総監の劉榮慶(リゥロォンチィン)が、“侍衛へ拳と棍の指導の様子を見た”と話したのも一同のインドゥへの信頼を増した。

それまで和珅(ヘシェン)の賄賂を信じていたものも、頭等侍衛へ着けるにはフォンシャン(皇上)がインドゥへの信頼を寄せていることを物語っていた。

 

嘉慶十二年十二月二十三日1808120日)

京城(みやこ)の安定門(アンディンメン)を出て隊列を組んだ。

張家口まで四百里、今年の雪はまだ酷くない。

年内に到着した。

サイルオス(賽爾烏蘇)への直行道は今現在馬車が通れないという、帰化城へ回り込む方がはやいと教えられた。

この地には蒙古(マァングゥ)、俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)との交易の商人、駱駝隊が二百六十組あるという。

この時も三日滞在中に一日三十組の隊商が先発していった。

駱駝引き一人に対して八頭の駱駝を連れて出て行く、インドゥは出て行く隊列を飽きもせず眺めている。

一隊をインドゥが数えると人員は二十人だった。

同じようにみていた老人は「この隊は戻りに羊を一万頭連れて帰る」という。

ほとんどが去勢された牡だという。

次に出た隊列は別の事を教えてくれた。

「この隊は馬を千五百は連れて戻る」

羊房子(イァンファンヅゥ)、馬房子(マァファンヅゥ)だと言って隊長の名を言っては手を振っている。

「京城(みやこ)の人らしいが」

「そうだウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へ行く人たちと一緒だよ」

「良い駱駝隊を連れてなさる。駱駝も良いが、あの隊長なら交易路の別の隊にも受けがいい」

「そうなのかい。顔合わせの時に腕自慢の人がぶちのめされていたぜ」

「ははぁ、女とみて色目でも使ったんじゃろ」

大笑いで素性を教えてくれた。

「ここと京城(みやこ)で、駱駝一頭六日で五両取るからな。安い品では儲けが出ない理屈だ。あの隊は公公(コンコン)、いや爺爺(セーセー)の頃からいつも駱駝を六歳から十歳で組んでいるよ。茶で大もうけした一族の持ちもんだ」

一頭で百二十斤の梱包三個、もしくは百八十斤を振り分けて運ぶという、此処からロシアへの料金は膨大だ。

仲良くなって酒店へ誘うと行きつけがあると案内した。

駝行の親父だと酒店の主の話しから知れた。

「家など小規模にやってるだけだが、大きいところなど常備二千頭は置いてやっている」

ムスリムのトゥオシィン(駝行)の中には百人くらい人を使い、駱駝事貸し出すものもいると教えてくれた。

「そうさなぁ、ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)まで駱駝一頭二十五両が相場だがいくらで雇いなさった」

「そういゃ俺は聞かされていない。今度隊長に聞いてみよう」

「あんたが頭と違うのかい」

にたっと笑って結の手印を示した。

頭領、総監は有名無実の臨時職、実際は参領が隊の指揮を執っている。

インドゥと同じ手印なのでそれを返すと「ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)では羊の利権争いに割り込んできたのがいるんだ。凝保多爾濟(ドルジ)という人を知っていなさるかね」と何か情報を知っているようだ。

偶然と思ったが、好奇心の強いインドゥが出てくるのを見張ってでも居たのだろうか。

「五月末に烏里雅蘇台等処地方参賛大臣に任命されたと聞いた」

「もう一人は」

「五月初めに、祥保という鈕祜禄氏(ニオフル)で満州(マンジュ)鑲黄旗、烏里雅蘇臺參贊大臣満州(定辺等処地方)と聞いた」

「よく調べてきたようだが、凝保はただの当馬だよ」

「祥保に誰か肩入れでも」

「博清額という名に心当たりは」

「息子が軍機大臣に任じられているくらいだが」

「托津は嘉慶帝に操られているとの噂だが、亡くなった父親もそうだが家系が良くわからない。沙濟富察氏とは違うようだが」

「私も気になって調べたこともありますが、托津が都察院筆帖式になる前が大興縣で誕生としか記録がなかった」

「どうやら御秘官(イミグァン)の監視が役割だったようだが、大本は康熙帝玄燁と考えられている。寧波(ニンポー)もそう見ていたようだ」

「今になって蒙古に利権など在りますか」

「御秘官(イミグァン)の銀(かね)を棒引きしたので金持ちが増えた。そいつらが博清額の作った利権を托津から奪った」

「どんな利権でした」

「蒙古の王族に金を貸して利息に羊に馬を安く手に入れることだ」

「フォンシャン(皇上)は私に何をさせたいのか言いませんでしたよ」

「利権は潰せばまた生えてくるものだよ。竹に似て根が蔓延っている」

「副都統じゃ表での仕事は無理というのに、なぜ派遣に踏み切ったのでしょうね」

「なにか、して呉れる。そう期待したのだろうよ」

「根はコブド(科布多)ですか」

「震源地とでもいえばいいかな、聞こえてきた噂ではウリヤスタイ(烏里雅蘇台)将軍も兼ねたと言うが本当かね」

「まさか十月に晉昌殿が任命されてカシュガル(喀什噶爾)から赴任していますよ」

「晉昌の任命の翌日に沙汰があったと言うが」

「肩書をつけたのでしょうか」

他に客は居ない、一人来て合図したので「うまい酒だった。おごりだといつもよりうまく思えたぜ」と立ち上がって拝をして出て行った。

其の男は次の男が来ると壺を買い取って出て行った。

入ってきたのは参領の宜箭(イィヂィェン)だ。

「お知り合いですか」

「隊商の出ていくのを見ていたら、何を商いに行くか教えてくれたので礼に一杯奢っていた」

「あんな爺さんと一緒に飲むなんて、回族でも酒飲みが多い街ですね」

「見た目と違って大きな駝行の親父だそうだぜ。用が無きゃ少し付き合いなよ。飲み足りないんだ」

適当に話を半刻もし、二人で宿舎へ戻った。

 

いくら官許の隊でも無理を通せば後で好いことはない。

前もって連絡が出ているので宜箭は指図役が言う順番に従った。

嘉慶十三年正月初二日。

張家口から興和城まで七日、ウランチャブ(烏蘭察布)までは三百三十里。

嘉慶十三年正月十三日

ウランチャブ(烏蘭察布)を抜けて西へ三百里で帰化城、此処から通商路へ入る。

冬の旅は夏の二倍だと隊商の頭は嘆いているが、稼ぎもそれだけ多くなる。

春から夏は日中と夜中に休む、冬の倍は行動時間がある。

嘉慶十三年正月二十二日、フフホト(呼和浩特・帰化城)に入った。

京城(みやこ)から此処迄千三百里と内務府会計司の呉れた資料に出ていて三十日掛っているが、常秉文の呉れた隊商資料では壱千零参拾里とある。

十里程離れたスイユェンチァン(綏遠城)の守備はジャンジュンヤァシュウ(将軍衙署)が担っている、将軍はインドゥの副都統より上の従一品だ。

翌日、騎馬十騎で表敬訪問に出掛けた、綏遠城将軍は宗室來儀、着任して四か月目だ。

在京時にフォンシャンから六十八歳の生誕を祝う使者にたち顔見知りだ。

スイユェン(綏遠)の衙署に入ると“漢南第一府”の額が掛っている。

熱いツァイ(乳茶)を飲ませてもらった。

ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)に問題があるのか知らないという。

戻り路、雪がひどくなる気配がして道を急いだ。

フフホト(青い城)の名がある帰化城は、インドゥが紫蘭に預けた温度計(八十度計)で日中馬車内でも零線を下回った。

女たちは暖を取るため懐炉と、娘娘が支給した毛皮に包まって寒さに耐えている。

反対に宿はトゥーカァン(土炕・オンドル)で汗ばむほどで、野営の方を喜ぶものが多い。

駱駝隊は交易品のほかにチァンピンウェン(常秉文)の手配した食料(小麦粉・ュイミィー・干し肉・塩漬け肉)を積んでいて、消費した分は宿泊地に先行手配されていた。

此処で料理人は不足がちな食料の買い付けをしていた。

召廟もあるが雪の中を見物に出る者もいない様だ。

三日吹雪いて晴天となった、駱駝隊の隊長は「一日待てば道が出来る」と進言し、総監と参領もインドゥに勧めた。

インドゥは馬車の馬を二頭引きに変更させる事にした。

二十一頭が最低必要だ、馬丁を三人連れて出ようとして隊長の意見もと言われて、駱駝溜まりへ出向いた。

「一緒に行きます」

銀(かね)番の植(チィ)に銀(かね)を担がせ、六人で馬商人に会いに出た。二十四頭選んだ。

「金錠で欲しい」

「いくらなのだ」

「金なら百二十両」

呆れた話だ、軍馬なら兎も角荷駄に一頭金五両。

「京城(みやこ)で金錠二両ならいい馬が買える」

「いやならやめてもいいんだよ」

顔を布で包んだ隊長ジャオフゥイミィン(趙慧敏)が顔を見せた。

「七十二両に負ける」

何も言わない内に下げてきた。

「高いよ小父さん」

「元手が掛ってる、冬で餌代も高い」

インドゥは面倒になった。

「その囲いにいる三頭つけてくれるなら金錠七十五両払うよ」

「何時」

「そこで茶を飲ませてくれれば出すよ」

慧敏はまだ高いとごねている。

馬丁が黒い紐をペェイ(轡)につないで柵へ繋いだ。

「マァマァチィマァ,マァマン,マァマァマァマァ」

“媽媽騎馬、馬慢、媽媽罵馬”。

慧敏は馬丁の周りで踊って見せた。

暖かいゲル(パオ・包)は天国だ、金錠を葛籠から出してヂゥオヅゥ(卓子)へ並べた。

女が馬丁たちにも乳茶を持って行った。

ゲル(パオ・包)から出ると十二.三くらいの娘が三人いい馬でやって来た。

「バァ(爸)、都の女の人たちの簪が欲しいよ。隊商が持っていたら買ってよ」

「なんだと、高いのに買えるもんか」

「馬を高く売りつけたと聞いたよ」

慧敏はじめ馬丁たちも大笑いだ。

「どこで見たんだい」

インドゥが優しく聞いた。

「范閑(ファンシェン)のじいの宿」

紫蘭たちだろう。

慧敏は「今回は持ってないから来年だ」とそっけない。

「どの隊商の荷にあるかまではわからないよ」

三人の娘はべそを掻いている。

紫蘭は娘娘から五十本贈呈用に持たされている、自分たちのも数多く用意はしてきたはずだ。

「どの人のが良かったんだい」

若い人三人で雪人形に顔を書いていた人だという。

やりそうなのは紫蘭たちだ。

「都でも銀(イン)三十銭はするよ。フゥチンには無理だろうさ」

カチンと来たようだ。

「金錠十両でも買ってやる。売る奴を探してこい」

街の商人にそんな高いのを並べているものなど居ないのを承知で見栄を張った。

インドゥ達は三人ほど借りて馬を引いて馬宿へ連れていった。

慧敏は簪に興味があるのか、范閑の経営する宿までついてきた。

「好い馬がいれば五頭欲しいが」

「だれが乗るの」

「俺と総監の劉榮慶、参領の宜箭と騎馬校ふたりだよ」

「いくら出すの。言いなりだと銀(イン)二百両位ふっかけて來るわよ」

「回族では銀票はだめかい」

「金錠なら一頭五両出せばすごくいいのが手に入るわ」

紫蘭たち三人は若いくせにわざわざ若作りのリャンバァトウ(両把頭)に三人色別の花簪と紅玉の下がる黒い簪をしている。

「やぁ、女の子を泣かせて悪い三人だ」

慧敏に何事なのと聞いて居る。

三人の娘の事を言うと「あの勇ましい娘たちね。帽子で髪は隠れていたのよ」と何が似合いそうか話も弾んでいる。

アラビアの馬商人が馬車で娘たちを連れてきた。

「街に気に入るのが無いというのでここへ来ました。失礼ですがその髪飾り売ってくれませんか」

やはり相当吹っ掛けて儲けたようだ。

「でも」

「高いだろうとは承知です」

「花簪は銀(イン)十五銭で納(おさめ)に来ました、でも玉は」

右の髪の簪をさし示した。

「高いのですか」

「頂き物で売れないのです」

三人の娘はまたべそを掻いている、親父はこれに弱いようだ。

インドゥが手持ちの紅玉を簪に細工させたものだ。

慧敏が袖を引くので部屋の隅に行くと「幾らくらいで誰から頂いたのか知ってるの」ときいてきた。

「俺が今回買い与えたが、細工代に銀(イン)八十五銭も取りやがった」

「一本で」

「まさか、紅玉を渡して三十五本細工を注文して、最初の三本の細工代で銀(イン)八十五銭だ、フェイチィ(黒漆)の細工は高いのは承知だが鎖にも工夫があるそうだ。割り切れないのはなぜだと聞いたら五銭おまけしたとさ」

「皆持ってきたの」

「いや、留守居の者たちへ配って来た」

「じゃ三本しかこっちには無いのね。黙って見ててね」

馬商人に「一本銀(イン)二百銭したそうよ。さっき金錠十両でもいいと言っていたからそれより安いわよ」と言っている。

銀(イン)二百銭は銀錠二十両、金錠に換算すれば两両。

ひでぇもんだとインドゥは呆れている、紅玉は福州(フーヂョウ)で銀(イン)二百両で袋ごとまとめて売りつけられたものだ。

「三本銀(イン)六百銭はあくどい」

「范閑(ファンシェン)の爺さんに相場を聞いたらどう」

「ワイに見せてくれ」

手を出したので紫蘭は手巾に乗せて渡した。

明かりの傍で嘗めんばかりに紅玉を見ていたが「フォンユェ(紅玉)の本物だ。ワイなら金錠两両で買って倍で売る。よく似たユェスィ(玉髄)なら一割も出せないよ。隊商が銀(イン)三十銭で売りに來る」と紫蘭へ戻した。

インドゥもここらあたりなら、ユェスィ(玉髄)はそのくらいの物だろうなと納得の値付けだ。

「ね、アイヤーシュの小父さん。一昨年産まれた蒙古馬の兄弟から五頭と交換で如何(いかが)」

フゥイミィンお前さんも計算が出来なくなったのか。この間来た時五頭で金錠五十両と言ったろ」

「買う人もいないじゃないの。半分でも売れっこないわよ」

「しかしよ。簪六本の値段はどう高くみても金錠で七両じゃ交換は出来ないよ」

「ちょっと待ってくれ」

ジャオフゥイミィン(趙慧敏)は余分な口挟まないでという顔だ。

「紫蘭、総監たち四人へ良い馬を贈るのにその簪三人とも出して呉れるか」

「哥哥の仰せのままに。お役に立てれば幸いです」

「花簪だがいくつ持参した」

「三人分で三十本です」

「九本出して呉れ」

パァンリィンに言いつけて部屋へ行かせた。

「箱から一人三本選ばせてくれ」

紫蘭が承知して三人の娘と脇のヂゥオヅゥ(卓子)で品評会だ。

「哥哥、紅玉も出すんですよね」

「娘たちの髪をリャンバァトウ(両把頭)に出来れば刺してあげなさい」

アイヤーシュは慧敏に「三頭じゃダメか」とむずっている。

「哥哥、いくらか上積みする」

アイヤーシュが「金錠七両足して呉れればフゥイミィン(慧敏)の言う馬たちを分けるよ」と折れてきた。

すぐに植(チィ)がヂゥオヅゥ(卓子)へ七個並べて「渡していいですか」と言うので頷いた。

一頭話半分どころかもっと安いようだ、仲間うちでも金錠五十両は相当吹っ掛けたようだ。

簪も決まり髪も結ってもらって、大鏡に映して燥いでいる。

三つ子ではなく年子だという。

十四歳、十三歳、十二歳だという。

紫蘭から髪に薔薇の花簪を余分に贈られ、それぞれの四本はナンゴンシィイが用意した三人別々の木箱に収められた。

「馬に乗るときは頭巾で保護するのよ。落として馬が踏んでは取り返しがつかないわよ」

総監の劉榮慶はその騒ぎを見ていて「わしにも馬がもらえるのか」と参領の宜箭と酒を飲んでいる。

騎馬校二名もまさか自分たち迄余禄に有りつけたと、盛大に紫蘭たちに礼を言い始めた。

五人の馬丁には慧敏を案内に頼んで受け取りにいかせた。

インドゥは、馬丁たちが取り合いで揉めなきゃいいがと心配したが、騒動は起きなかった。

戻ってきた慧敏は五頭を馬宿へ置いてきたと云う。

「さて慧敏にはどういう礼がいいかね」

「哥哥からアイラグ(馬乳酒)二袋」

「酒か、なら俺たちも同じだけだそう」

「五人なら五か所に分けるか」

奢るのが好きな連中ばかりだ。

「やや、紫蘭様の方はどうする」

「酒位で負けてもらおうや」

勝手に決めている。

 

二十七日にフフホトを発った。

次の目的地は三百四十里先のパイリンミヤオ(百霊廟)になる。

内務府会計司の道程では四百里。

三百四十里の道を、十日後二月七日パイリンミヤオ(百霊廟)にたどり着いた。

九竜口とも言われ古来通商路の要として栄えてきた。

大同、包頭、西安、蘭州からもやってくる。

百霊廟(広福寺)は内モンゴル四大寺院(百霊廟・貝子廟・五当召・普会寺)の一つだ。

料理人は替え馬十一頭にメェイタァン(煤炭・石炭)とリィェンヂィアォ(炼焦・コークス)、ムウゥタァン(木炭)を積む許可を参領の宜箭に貰った。

馬車の薪、炭の燃料が空けば移す約束だ。

此処から先燃料の補給は難しくなる。

二月十八日、パイリンミヤオ(百霊廟)の北北西、マンドラヂェン(満都拉鎮・満都拉鎮口岸)へ出た。

二百三十里ここまで五十五日掛った。

国境の町カンギ(ハンギ)まで二里。

クーロン(庫倫・ウランバートル)へ行くにはサイルオス(賽爾烏蘇)へでて帰庫駝路で北上する。

サイルオス(賽爾烏蘇)の北に戈壁和尼奇(ゴビ博恩寺)があるという。

ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)までの駅站は二十六駅二千八百里と内務府会計司資料に出ている。

隊商たちの持つ資料はカンギまで千六百零二里、内務府会計司-千八百七十里。

北へ進めばサイルオス(賽爾烏蘇)、道は二手に分かれ北上すれば庫倫(クーロン)、西北がウリヤスタイへ至る通商路だ。

パイリンミヤオ(百霊廟)から内務府会計司資料も隊商資料も三百四十里だ。

西へ行けば二百里でハンボグドの街がある、此処の山羊の毛皮とカシミヤは広州(グアンヂョウ)では高値で売れる。

庫倫(クーロン)へ向かう隊商が多く、道は混雑している。

二月二十六日カンギ野営地には様々な物売りが来る、ハンブグドと聞こえるが毛皮商人たちで嘘のように安い値で交渉をして来る。

インドゥが見ていると馬丁たちが買い入れていた。

漕運と手間代が高いのだなと劉榮慶も安値に驚いている。

生乾きらしく、酷い位臭いものだが、竿に干して旗のように風になびかせて歩けば匂いも消えるという。

参領の宜箭が匂いに怒って隊列の後を離れて歩かせろと怒鳴っている。

インドゥは駱駝の匂いと変わらぬと思って見ているだけだ。

馬乳酒売りが来たので革袋入りを二つ買い入れフゥイミィンへ渡した。

ロバを連れた親子が雇ってくれという、大分と草臥れた格好だ。

慧敏が「糞を集める仕事なら雇える。ウリヤスタイ迄だが、帰りも雇われたいならそう言いな」と言っている。

「飯と酒が附いて二人とロバで一日二銭出すけど。やったことあるの」

「干して燃料にするのかい」

「そうだよ。全部拾わずによく燃えそうなものだけにするんだ」

「分かったよ」

子供に一銭出すのかとインドゥは驚いたが“ロバの分”と気が付いた。

范聨剛(ファンリィェンガァン)は二人にお仕着せを与えた。

隊商の最後を歩いて拾い集めて籠に入れる、乾いたら駱駝引きが受け取って焚火の燃料にする。

無駄には出来ない仕事だ、駱駝引きの方も順番に遣る仕事に、替わりが出ればそれだけ楽が出来る。

慧敏が二頭ロバを買い足し、蓋つきの振り分け籠も買い入れて親子に渡した。

駱駝引きが柄杓の柄の長いものを親子に持たせた。

二月三十日この旅で初めて雨が降った、雪道がぬかるんだが、翌日凍って歩くのが困難になった。

三月五日ハンボグドの街の手前で野営した。

真っ先に来たのは馬乳酒売り達だ、劉榮慶が買い切りにして一同へ振舞った。

二人遅れてきたものは戻っていくものに揶揄われていた。

劉榮慶が革袋を見て「いくつある」と聞いて十一の革袋入りを銀(イン)百六十六銭で買い入れた。

酒売りは銀を天秤でいくつにも分けて測ってからにんまりした。

「ずいぶん安いな。中身は水で薄めたか」

「飲んでくださいよ。うちのは上等品だ。駱駝でも喜んで飲んでくれますぜ」

二人で交互に言い募る、たとえが変だが自慢しているようだ。

「駱駝が本当に飲むなら全部買うぞ」

インドゥも面白いと話に加わった。

駱駝隊へ連れて行くと慧敏も面白がって支度をさせた。

桶に入れて嗅がせると本当に旨そうに飲んでいる。

十頭試して酒の値は銀(イン)二百八十銭だというので銀(かね)番植(チィ)に板へ並べさせた。

やっぱり天秤で百を乗せて量っている、あとは二十ごとに量った。

聞いてみた。

「八十の重さはしらない」

十までと、二十、百を覚えているそうだ、植(チィ)は「それで用が足りるんだ」と呆れている。

呑兵衛の駱駝が多いみたいで寄こせと騒いでうるさい。

普段水を飲まない駱駝だが飲ませれば一石の水を飲み干すという。

「まさか、駱駝の乳なのか」

駱駝のはホルモグというそうだ。

「この辺じゃそれだけの駱駝がいませんよ。ダルンザルガドには駱駝の繁殖所が在って造っていますぜ」

ダルンは七十という意味の言葉だという。

国境の町カンギ(ハンギ)からハンボグド二百里、そこから三百四十里でタバントルゴイ。

さらに二百二十里でダルンザルガドに着く、内務府会計司資料と隊商資料は同じ数字だ。

貰って来た地図はいい加減だが、山間の温泉地へ馬車が抜けられる道が赤い線で示してある。

内務府は、もったいぶってインドゥと劉榮慶に寄こしたものだ。

「あいつら太監より質が悪い」

「総監聞こえますぜ。あいつら地獄耳だ」

騎馬校の潭絃(タァンシィェン)に言われている。

慧敏と四人でこれからの道程を話し合った。

翁金河と土拉河をどこで越えられるかは道順に大きく影響する。

「これが五人や十人なら馬を引いても二月で行けるが。京城(みやこ)を出て七十四日目だ。一体あと幾日かかるやら」

「雪解け水が河への影響がないうちに越えてしまいましょ。馬車がバヤンホンゴルまで壊れなければあと二月でウリヤスタイへ着けますよ」

「壊れた馬車が出たら荷を積みかえるさ。燃料になる」

三月七日ハンボグドの街を迂回して北西へ、ゴビの真っただ中へと踏み込んだ。

三月十二日、羊の大きな牧場で前の隊商が三十頭買い入れた。

屠宰(トゥーヅァィ)の上手なものが多く、これまでも同行の隊商へ捌いて売ってくれた。

三月十三日早朝、小川の傍で屠宰(トゥーヅァィ)して呉れたのを分けてもらった。

他の隊も今晩は串焼きのご馳走に有りつける。

タバントルゴイが遠くに見えた。

日没まで三時間はありそうだ、インドゥの時計は三時三十分になっている。

京城(みやこ)を出た時は五時には陽が暮れていた。

前の隊商が街の西方へ野営の支度を二組している。

東側には石炭掘りの集落が点在している。

「大量に運び出せれば大もうけできますよ。駱駝ではそれほどの儲けになりません」

それもそうだ京城(みやこ)は石炭の上に建てたと評判だ、近くで必要量の半分は賄える。

全部で隊商五組が並んで野営したが物売りが来るほど繁栄はしていない様だ。

七時を過ぎてもまだ日は沈まない。

食事の支度が出来、火の回りで鍋から肉入りのスープ(湯)が配られた。

料理人は「野菜はあと少しで無くなる」と言っていたので饅頭の中身は無い。

串刺し肉は勝手に食べろとばかりに火の回りに突き刺してある。 

“生焼けは食うな”が京城(みやこ)を出るときに言い渡されている。

朝暗いうちから出発の支度が始まり、饅頭と水が支給され、頭巾が全員に渡された。

六時に明るくなり騎馬と馬車が先に出た、二百二十里でダルンザルガドに着く。

十八日の昼にダルンザルガド(達蘭扎德嘎德)が見えた。

日中は暑いくらいで軽装でも夜はまだ寒い日が続いている。

雪は見えなくなり砂嵐の季節が来た、目の前の街が巻き込まれていく。

慌てて野営の支度をしてやり過ごすことにした。

砂漠に慣れた馬と慣れていない馬では騒ぎ方に差が出た。

馬に頭巾をかぶせてようやく騒ぎが静まり、人も薄い布で顔を覆って耐えた。

駱駝は砂嵐を避けるというより休息しているかのように座っている。

嵐が通り過ぎると追いかけるように馬乳酒売りが隊商のゲルへ向かってくる。

最後の二台がこっちの方へやってくる。

「残り物に福があればいいが」

一台はアイラグ(馬乳酒)売りで、もう一台はホルモグ(駱駝乳酒)売りだった。

馬車の女たちが駱駝の乳酒を買い取った。

参領の宜箭が気張って銀(イン)二百銭で馬乳酒を買い切り慧敏の革袋を二つ満たして寄こした。

酒壷を十持ちだし移し替え、残りを皆が飲んで饅頭を食べている。

酒売りが見ているので料理人が熱々を二つずつ板へ乗せて渡した。

街へは入らず翌早朝に右の道を回って西北へ向かった。

小さな集落で右の道へ入り北上し、翁金河に沿って北上し、アルバイヘール(阿爾拜赫雷)を目指した。

紫蘭が呼ぶので馬を近づけると「熱いと思ったら二十五まで温度が上がっています。また砂嵐でも来ませんか」と聞いてきた。

「ここからバヤンホンゴルの間は大丈夫だが、谷あいでは雪が降るらしいぞ」

「こんなに暑いのにですか」

窓から見える紫蘭は薄着だ。

嘉慶十三年四月一日、アルバイヘール(阿爾拜赫雷)へ入った。

内務府会計司資料では九百二十里、隊商資料には千零二十里、ずいぶんと違っていた。

二日に街を後に西へ、谷あいを行くと分かれてきたオンギフゥ(翁金河)の上流に渡し場がある。

シャルガルジュートへ入り、温泉の管理の家族に贈り物に砂時計や簪にカシミヤの膝当てを贈った。

人数を聞いて一人銀(イン)一銭で五日分だという。

サイン・ノヤン部(三音諾顔部)の王族の収入になるそうだ。

遠くから遣ってくるものもいるという、この日も三十家族ほど小さなゲルで療養していた。

来ていたものの中には、兵の口譯(クォイィー)が役に立たず、駱駝引きが呼ばれてようやく話が通じた。

料理人が持ってきたガゥンシュ(甘藷)にマァーリィンシゥー(馬鈴薯)を蒸かして一緒に食べた。

味付けは鹽にラァオ(酪)が好まれた。

持ってきた蒸篭では足りず温泉の蒸気の上に簀の子を引いてその上に並べ板でふさいだ。

「この際だ、全部食べ切ってもいいさ」

インドゥの言葉で全員に行渡った、此処でも料理人の饅頭は人気だ。

ゲルから出てきた老婆など歯がない口でふかふかの饅頭にかぶりついている。

潘玲(パァンリィン)など「京城(みやこ)で二十文のものが銀(イン)一銭なら大安売り」など言いながら配っている。

温泉は川の水で薄めないと熱くて這入れない。

宜箭(イィヂィェン)は明日から二日休養と触れた、百十四人の中には顔を洗うのさえ嫌がるものがいるが、この温泉は体にいいと聞いてその男も湯につかっていた。

女たちは馬車で囲って腰まで浸かれる桶に湯を運んでいる。

八日早朝、ゲルを畳んで温泉地を後にした。

百里で谷を抜けるとトゥラァフゥ(土拉河・トゥイン河Tuin river)は湖に為っている、上流の渡し場へ回ると一里ほどの川幅が有る。

翁金河、土拉河の二か所とも馬と駱駝は楽に渡れるが、馬車を渡すのに時間がとられた。

アルバイヘール(阿爾拜赫雷)から四百五十里、河の上流でも三里ほどの川幅がある。

河を渡ればその先がバヤンホンゴル(巴彦洪戈爾)の街だ。

十日に街の手前に野営した。

マオニョオマオ(牛毛・ヤクの毛・犛牛)と馬で高名な土地だ。

「黄金のマオニョオ(旄牛・ヤク」は居ないかな」

宜箭(イィヂィェン)が慧敏に聞いて居る。

「野生には居ますよ。でも皆崇めて狩りの獲物にはしませんよ」

宜箭は絵で見たという、慧敏は一度だけ群れが通るのを見たという。

蒙古(マァングゥ)に入って刻の鐘は無い、懐中時計で毎朝調整している。

翌十一日、五台の懐中時計を突き合せると、陽が昇ったのは六時から六時十分だったので五分に合わせた。

街から物売りも来るが、買物に来る女たちも多い。

食事係が来たものに湯気の立つ饅頭を振舞っている、やれやれ朝に昼はまた饅頭だけかと言われぬように何かを頼んでいる。

ロバに布で包んだものを振り分けに積んで持ち帰った。

食事係の四人の奴婢は此処一年半、永徳(イォンドゥ)に仕込まれてきた。

その前の王(ゥアン)にも仕込まれ、大概のものは材料があれば要望に応えられる腕がある。

此処何日か過ごしやすい日が続いていて、温度計は十二時でも十五度近辺から動かない。

昼に下焼きしたヤァンロォウチョアン(羊肉串)きが出てきて、焚火で宴会騒ぎだ、朝頼んでいたのはこれの様だ。

最後の薪だそうで「木は無いからといって馬車はやめてくれ」と普段冗談を言わない宜箭(イィヂィェン)に兵たちも大笑いだ。

二尺はある竹の串に薄い肉が巻き付けるようにしてある。

食べ終わった竹串は好い匂いがして良く燃えた。

夕六時に飯を食べた、久しぶりに扇貝(シァンペェィ)にミィ(米)と玉米(ュイミィー)の粥と油条(ヤゥティウ)が出てきた。

「シァンペェィなんて何処に隠していた」

料理人は笑っている、戻すにもいい水を使い時間もかかる。

「たまには塩漬け肉のない湯(タン)もいいものだ」

宜箭は卵の湯を何杯もお替りして腹を擦っている。

慧敏がこの付近ではヤーツ(鴨子・家鴨)の卵が銀(イン)三銭だという。

「ほしくても売るほど持っていない。どこで手に入れたの」

家鴨に鶏連れて旅は笑わせるとふざけて踊った。

うるさい鳴き声が近づいてくる。

「山羊だわ」

カシミヤを求めている隊商は年々増えている。

牧草地を求めてこの付近まで手を伸ばしてきた。

山羊は油断していれば草の根迄食べつくしてしまう。

三人ほど馬で後を付いてきた、山羊は六百くらい居るようだ。

飯が終わってもまだ陽が落ちない、時計を突き合わせると八時を過ぎている。

「ずいぶん陽が伸びましたね」

「ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)の夏は九時過ぎだそうです」

劉榮慶は若いころにひと夏過ごしたという。

二人は高台へ登って話をつづけた。

「劉大人(リゥダァレェン)は今回どのくらい滞在されますか」

「それがよく判らんのです。フォンシャンは哥哥の護衛だと言うが、それなら参領の宜箭迄つける必要があるのですかな」

護軍営参領は正三品、その上に置くには理由もあるはずだ、確かに元頭等侍衛、九江鎮(ジョウジァンヂェン)総兵を務めてきた強者だが、よほどフォンシャンをウリヤスタイ(烏里雅蘇台)に目を向けさせる異常事態なのだろうか。

劉家は武人も多い、榮慶は乾隆四十九年、弟弟の國慶は乾隆五十四年の武状元だ。

最近でも一族からは劉勇聞、劉夢超などの武進士が出ている。

今年も劉坤元、劉英彪などが試験を受けるという。

山東の劉(リゥ)氏も武人の多い家だという、劉嘉遇以来進士、武進士が続出した家系だ。

宜箭(イィヂィェン)が大きな地図を片手に高台へやってくる。

岩の上で地図を広げた。 

三本のウリヤスタイ(烏里雅蘇台)に向かう道がある。

本当にこの距離で合っているのだろうか。

内務府会計司資料と隊商資料の差が大きすぎる。

北は千二百八十里と千百五十里の山越え。

南は二手に分かれてアルタイ経由だ。

途中で別れる北道と南道はともに内務府会計司資料で千三百二十里、隊商資料千三百九十里。

「やはり馬車の峠越えはきついでしょう」

「南で行こう」

「隊商資料と大きく差が無いのは往来が楽な証拠だ」

バヤンホンゴル(巴彦洪戈爾)からアルタイ(阿爾泰)経由でウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へと決め、焚火の見えた駱駝の方へ行くと馬丁たちも集まって拳の試合をしている。

焚火の燃料は隊商の最後を歩く三頭のロバが糞を集めて乾かしたものだ、そこへコークスを幾つかに匂い消しに放り込んだようだ。

腕自慢の林(リン)はやはり強い。

三人抜いて騎馬校の張緒燕(チョンシィイェン)が出たがてこずっている

漸く力が出なくなった林(リン)を張緒燕が弾き飛ばした。

フゥアヂァォ(花招)を見破る力は、林(リン)になかったとインドゥは見ている。

少林拳にしては見せかけが多い、どこか南方で修業したか師匠が南人のようだ。

「哥哥、敵を取ってください」

「だめだめ、頭領がぶちのめされたら格好がつかない」

笑い流そうとしたがフゥイミィンが盛んに煽る。

宜箭まで煽るのでもろ肌を脱いで前に出た。

細い体に赤みが増してきた。

突くと見せて引き足を上げた処へ左手をそっと押し出した。

上手く急所を避けられたが三歩程後退し、回し蹴りから突き手を見せた。

その勢いを使って南拳特有の拳(こぶし)中指が膨らむのを見た。

五手交わして右手をシェンチョン(膻中)へ突き出した。

前に出るところへ宛てられたので二丈ほども後方へ飛んでしまった。

気絶して起き上がれないので活を入れると気持ちよさそうに目覚めた。

「いたくないのか」

宜箭に言われて「不思議と痛みより快感に近い」と答えている。

「これが頭等侍衛の所以(ゆえん)ですか」

フゥイミィンが賛嘆の声を上げた。

「そちらに大先達の劉榮慶大人が居られるよ。武状元で頭等侍衛という大変なお方だ」

宜箭は地図をヂゥオヅゥ(卓子)に広げ「南の道で行くが、上下どちらが馬車に負担が無いのだ」ジャオフゥイミィン(趙慧敏)聞いた。

「こっち」

上の道だ。

「明日出ますか。明後日にしますか」

「明日だ」

十二日、バヤンホンゴル(巴彦洪戈爾)出発。

十三日、草原と荒れ地が交互に出る街道もバンブガァ(Bumdugur)の集落付近は低い岩山が狭まっている。

幅半里ほどの川が流れていた、浅瀬を隊商が渡っている。

野営地を三つの隊商が止まったので「陽は高いがここにする」と先頭の宜箭がフゥイミィンに相談して決めた。

 

十五日、バーツアガン(Buutsagaan)の集落までの四百里を四日目の昼到着。

周りは低い丘程度で高みへ上ると視界は荒れ地ばかりで所々に草地が点在している。

宜箭も「どこが緑の平原だ」とお冠だ、普通の隊商の倍の日数がかかり百十二日目だという。

砂漠と岩山が交互に現れていては飽きてしまう、雨雲が来て目の先を通りすぎて行った。

羊の群れがいくつかに山羊の群れも見える、少ない草地を取り合うでもなく共存しているようだ。

潭絃(タァンシィェン)が「あと半月もすればこの辺りも草原になると聞きました」というと「毎日少しだけ雨がふっているのは庭師が水を撒くようなものだ」ともう一人の騎馬校張緒燕(チョンシィイェン)が宜箭に話している。

駱駝囲いに来ていたクーロン(庫倫)から来たという隊商たちは、この時期向こうでは、もう草原が広がっているという。

クーロン、ウリヤスタイ、ホブド、アルタイと回ってきたそうだ。

バヤンホンゴルからアルバイヘールへ出てハタット経由でクーロン(庫倫)へ戻るのだという。

温泉で遊んできたと云うと「あそこへ行くと道が不便だ」と言っている。

売れ残りの品を売ろうと潭絃に蒙古刀を見せている。

短剣の装飾された鞘は水牛の角だという、気持ちが動いたとみて「金錠なら二十両」だと言われている。

拉旺多爾濟(ラバンドルジ)など額駙(エフ・駙馬都尉)の中にはその位するものを自慢していた者がいたが、見せて居るのは外見だけで刀身自体は普通だった。

乾隆帝が自慢していた直刀は素晴らしい出来だったと思い出した。 

鮫皮を使った護身用にひかれて見せてもらうと「こいつなら金錠两両でいい」とぞんざいに言い出した。

どうやら鮫皮に人気はなかった様だが刀身の出来は良い。

慧敏に「三十本買い入れたが大損だ」というのが聞こえた。

インドゥ達に蒙古語は判らないと思ってでも居るのか、わざと聞かせたのか。

フゥイミィン(慧敏)を呼んで「残りを一本一両で買う交渉をしてくれ」と頼んだ。

「買う気は有るけど高いと頭領が言ってるよ」

「二十五本あるから金錠三十両なら慧敏に売るよ」

「あたいを入れるなら十五両だ」

「そりゃひどい、頭領に五本五両で頼んでくれ。一両出すよ」

「なんで五本なのさ」

「そのくらいは買えそうだからさ」

「傷物じゃなきゃいいよ。全部で二十両なんだね」

「よしそれで売った」

インドゥは銀(かね)番の植(チィ)に金錠二十五両出させて慧敏に渡した。

慧敏に品物を確認させてユアンという青い目の商人に二十両が渡った。

入っていた葛籠は持って帰るというので、移し替えて紫蘭(シラァン)の元へもっていった。

房付きの組紐を出させて奇麗に柄へ巻き付け「暇を見つけて後も同じようにしてくれ」ともう一本臙脂をえらんで柄に巻くと慧敏に差しだした。

和刀の柄巻の手法捻り巻だ、紫蘭には前に教えたことがある。

「五両儲けたよ」

「いいってことさ。見せびらかせば欲しいやつが出るかもしれない。金錠三両で半分売れればあとは儲けものだ」 

慧敏が駱駝囲いに戻ると潭絃(タァンシィェン)達はまだ蒙古刀を見繕っている。

ユアンもそろそろ店じまいしたそうだ、

目ざとく帯の短剣を見つけた、帯に刺して飾り紐をひと回しして垂らしている。

「なんだ好いもの差してるじゃないか。どこで仕入れたんだ」

「ユアンの小父さんからだよ」

「売った覚え無いぞ」

「さっきの短剣に飾り紐を巻き付けてくれたんだよ」

「好いな其れ、いくらで売る」

「金錠三両」

「冗談だろ」

「聞かれたらそう言えと頭領が言うんだ」

「その飾り紐の巻き方を教えてくれないか」

「あたいは知らないから頭領に教えてもらいなよ」

「どこにいる」

「さっきまで馬車に居て別れたからゲルじゃないの」

二人で頭領のゲル(パオ・包)に行くと笑って腰の組み紐を外して竹筒へ巻き付けた。

フゥイミィン(慧敏)が比べると同じだ。

「覚えられるか」

「無理だ」

「こいつを持って帰って器用な奴に遣らせるんだな。紐の下の模様が引き立つようにやるのがコツだ」

竹筒の中身の筆を抜いて空筒をユアンに手渡した。

「絹は見栄えが良いが、緩みやすいからうまく締めるんだぜ」

余分なこと迄念押しをしている。

林(リン)と范(ファン)は出来る物かという顔で送り出した。

十六日、バーツアガン(Buutsagaan)の集落を出て、二百七十里先のデルガァ(Delger)の集落で十八日に野営した。

 

清の皇室は蒙古との縁を婚姻で深める事に熱心だ。

乾隆帝はイァンヌゥ(养女・養女)と自身の公女二人を嫁がせた。

 

和碩和婉公主(フゥショイフゥウァングンジュ)

養父-愛新覚羅弘暦(乾隆帝)。

父親愛新覚羅弘晝・母親-烏礼庫氏

雍正十二年六月二十四日(1734724日)誕生。

乾隆十五年(1750年)二月-降嫁。

乾隆二十五年三月十七日(176052日)二十七歳死去。

額駙(エフ)-巴林郡王博爾濟吉特氏(ボルジギト)璘沁之子德勒克。

 

・弘暦三女・固倫和敬公主(グルニフゥジィングンジョ)

母親・孝賢純皇后-富察氏(フチャ)

雍正九年五月二十四日(1731628日)誕生。

乾隆十二年(1747年)三月-降嫁。

乾隆五十七年六月二十八日(1792815日)六十二歳死去。

額駙(エフ)-セプテン・バルジュル(色布騰巴爾珠爾)

 

・弘暦七女・固倫和静公主(グルニフゥヂングンジュ)

母親・孝儀純皇后・令皇貴妃-魏佳氏(ウェイギャ)

乾隆二十一年七月十五日(1756810日)誕生

乾隆三十五年(1770年)降嫁

乾隆四十年一月十日(177529日)二十歳死去

額駙(エフ)・博爾濟吉特氏(ボルジギト)ラワンドルジ(拉旺多爾濟)。

 

五人の公女のうち臣下へ嫁いだ三人の額駙(エフ)。

富察傅恒之子福隆安(フルンガfulungga)。

・四公主-和碩和嘉公主(フゥショイフゥヂァグンジュ)

母親-純惠皇貴妃・蘇氏(スー)。

乾隆十年十二月二日(17451224日)誕生

乾隆二十五年三月二十五日-降嫁。

乾隆二十五年五月十三日(1760428日)-成婚。

乾隆三十二年九月七日(17671029日)二十三歳死去。

 

兆惠(ジャフィ・烏雅氏)の子ヂァラァンタイ(札蘭泰)。

・弘暦九女・和碩和恪公主(フゥショイフゥケグンジュ)

母親・孝儀純皇后・令皇貴妃-魏佳氏(ウェイギャ)

乾隆二十三年七月十四日(1758817日)誕生

乾隆三十七年八月(1772年)-降嫁。

乾隆四十五年一月十日(1780214日)二十三歳死去。

 

豊紳殷徳(フェンシェンインデ)

固倫和孝公主(グルニフゥシィアォグンジョ)

母親・惇妃(ドゥンフェイ)-汪氏(ワン)

乾隆四十年一月三日(177522日)誕生。

乾隆五十四年十一月二十七日(1790112日)-降嫁

道光三年九月十日(18231013日)四十九歳死去。

 

嘉慶帝公女

・三公主-和碩庄敬公主(フゥショイヂィアンヂィングンジョ)

母親-和裕皇貴妃劉佳氏。

乾隆四十六年十二月十七日(1781130日)誕生。

嘉慶六年十一月十九日(1801年)-降嫁

額駙(エフ)-科爾沁(ホルチン)サドナンドルジ(索特納木多布済)。

嘉慶十六年三月十二日(181144日)三十歳死去。

 

・四公主・固倫庄静公主(フゥショイヂィアンヂィングンジョ)

母親-孝淑睿皇后喜塔腊氏。

乾隆四十九年九月七日(17841020日)誕生

嘉慶七年十一月1802年)-降嫁

額駙(エフ-博爾濟吉特氏(ボルジギト)マニバダラ(瑪尼巴達喇)

嘉慶十六年五月七日(1811627日)二十八歳死去。

 

嘉慶十三年四月二十一日(1808516日)

デルガァから百八十里、アルタイの街が遠くかすんで見えた。

時計は朝の九時、あと十里で街へ入れるが野営地を選んで設営した。

バヤンホンゴル(巴彦洪戈爾)からアルタイ(阿爾泰)八百六十里を十日目に着いた。

野営地では街から来た物売りへ新鮮な羊肉を料理人が交渉している。

「今さばいているからそれを持ってくるけど待てるか」

「陽が此処から見てあの山の所までに来れるなら高くてもいいが。一頭丸ごとで金錠两両だ」

「何頭買ってくれる」

「十頭分だ、秤にかけるよ、内臓と皮は上げるから安くしてよ」

「ごまかしたりしたら商売できないよ、两両だと金錠二十両になる、肉だけなら一頭分おまけする」

大慌てで馬に飛び乗り連絡へ出て行った。

残った男たちは、隊商からいろいろ品物を選んでいる。

慧敏が「鹽商人は来ないのか」と不審げだ。

ロバを二頭引いたラォレェン(老人)を指さして「あれがそうだよ」と教えた。

ウヴス湖(ウヴス・ヌール)、ドルゴン湖(ドルゴン・ヌール)の塩は結の仲間もいるはずだ。

ウヴス・ヌール(ウヴス湖)は遠いから、ドルゴン・ヌール(ドルゴン湖)だろうと思った。

ジランタイ(吉蘭泰)の塩はフフホトで買えるがここまでくれば相当高くつく。

料理人と慧敏はあらかじめ決めていたようで、持ってきた四百斤の塩を買い取って半分にしていた。

一斤銀(イン)二銭だという、ずいぶん安いと潭絃(タァンシィェン)は言うがゴビのこれまでの半分なのは近くで取れるからだ。

ドルゴン・ヌールから五百里、ロバ二十頭曳いて四人で来たと言う。

最近の隊列は五百里四日で進めるので近いと感じてしまっている。

地勢を聞いて内務府会計司資料の地図と比べたが、ヌール(湖)は意外に大きいようだ。

コブド(科布多・ホブド)の東ハル・ウス・ヌールは淡水で南北二百里と東西八十里有るそうだ。

天候や池の様子、ヌールの形を聞いて居ると飽きたのか誰もそばにいない。

いきなり手印を見せたので反射的に返した。

「背が高いとしか知りませんのじゃ、和孝(ヘシィアォ)様でいいのかね」

「そうだが、みな哥哥というのでそれでいいよ」

「天爵道人でなくてもいいのかね」

「滅多に使わないからね」

「ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)でも鹽商人が情報は届けると聞いた。わしたちはコブド(科布多・ホブド)とアルタイ(阿爾泰)しか知らんのでな。哥哥と呼ぶように教えておくよ」

ロバに乗って“フーミー(喉歌)”を響かせて帰っていった。

料理人四人と慧敏や府第の女たちの八人で、さばいた羊肉を竹串に刺している。

紫蘭も参加している、串はどこで調達したのだろうと興味がわいた。

肉用の剣は重いし限りがあるので、串刺し用に捌き終わって汗だくの戴(ダイ)に聞いてみた。

「京城(みやこ)から三千は積んできましたよ。宋太医から竹串の使いまわしは駄目だというので燃やすのでもう半分しかないから、ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)で代用品を買うようですね」

「大丈夫さ。こっちの料理人を騎馬兵に馬丁の食事掛りにしてたまるか」

「いいんですか。哥哥の配下だから、ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)でも支度を頼むと言っていますよ」

参領の宜箭が面倒見ればいいさとは言ったが、馬丁を含めて六十三人の男どもを余分に抱え込みそうだ。

「十人も女たちをあいつら連れてきただろ」

「手伝いにも出てきませんよ。紫蘭様、慧敏様たちがいなきゃ、串焼きも間に合いませんよ」

端肉は焼き肉用の剣に刺し、長い肉は竹串に端を刺して巻き付けている。

慧敏が「料理は料理人、馬の世話は馬丁の仕事。分を守るのが女の勤め。悪口はいけないわよ」と大笑いだ。

二人の男が急ごしらえの二台の炉で下焼きをしている、林(リン)と范(ファン)だ。

植(チィ)はゲルで銀(かね)番をしている。

骨はバラしてきたようで十二の寸胴でスープを取っている。

一度に三十本を一台の石組みの炉の上で焼くと、戴(ダイ)と白(バイ)が塩ともう一つの粉を振っている。

永徳(イォンドゥ)が教えたフゥーヂィアォ(胡椒)とパァーヂィアォ(八角)の粉だ、割合に秘密があるという。

フゥーヂィアォ(胡椒)はここ二十年で大分安くなった。

永徳(イォンドゥ)によれば京城(みやこ)で一斤銀(イン)五銭まで下がったという。

修業時代十二銭出しても買えないときがあったという。

下焼きが終わるとそれぞれの食事場へ配達に駱駝引きが背負い籠で来ている。

寸胴は骨入りのまま天秤で二人で担いでついていく。

見ていても揺れが少ないので湯はこぼれない、上手いものだ。

馬乳酒売りが今頃やって来た、宜箭と慧敏で全部買い取って食事場へもっていかせた。

「明日もここで野営だから売るなら食事前に来ないとだめだ」

フゥイミィン(慧敏)がきつく言ったらへいこらして「今日と同じくらいでいいですか」という。

「倍は買い受ける」と劉(リゥ)が言って「革袋を洗って干しておくから最低二十はいっぱいに出来るだけもっておいで」と優しく言っている。

二十二日はフゥイミィン(慧敏)がいい商売ができたとホクホク顔だ。

アラシャンアゲート(阿拉善瑪瑙)の腕輪が三百個、ベネチァビーズの首飾りが二百個売れたそうだ。

前に買い受けた業者の売れ行きが良く信用が着いたという。

ロシアへほとんどが流れるという。

ウヴス・ヌール(ウヴス湖)の西岸オラーンゴムを抜け俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)領ハンダガイティへ抜けるそうだ

もう一つはコブド(科布多・ホブド)からウルギーへ出る俄羅斯への通商路もあり、俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)領タシャンタヘ出ると言う。

アルタイ(阿爾泰)の商人からはウイグル産でゴビアゲートだというのを売り込みもあったようだが品物が悪いと断っていた。

ハミル Khamil・哈密)から来た品物だが、丸く加工したら小さすぎるというのだ。

「ベネチァビーズの方が高く売れる」

「なぁ、秤で重さを測って釣り合いで交換しようぜ」

「いやだね。他の隊商に頼みなよ」

フェィツゥイ(翡翠)のシォゥヂゥオ(手・腕輪)を欲しがっている。

それも腕につけているものを金錠两両出しても売れと言ってきかない。

慧敏が袖をまくると片腕に三つ、合わせて六つはめていた。

間に傷がつかないように木綿の組み紐迄つけている、実は一番の保存法は常時腕に装着することだと信じられているのだ。

「これは見本だから、木箱入りならその値で出せるよ。ほらこの子の腕の玉のシォゥヂゥオ(手・腕輪)もフェィツゥイ(翡翠)さ。本物のインイィ(硬玉)さ。ルゥァンイィ(軟玉)なら半値でも仕入れてこないよ」

いつの間にか紫蘭達まで駆り出されている。

女たち全員が椅子に腰かけていて腕輪をのぞかせている。

さすがに顔は隠している、よっぱどいい話でつり出されたようだ。

商人より街の女たち八人が群がり、「私たちにも两両で売りな」と強引に割り込んできた。

紫蘭たちの手を取って「これ」と言っては金錠两両を空き箱を持つ林(リン)を呼んで两両手渡し、箱をもらって、腕輪は自分の手に嵌めている。

林宗徹(リンヅォンチゥ)は首から箱を紐で下げている、其の中へ两両入れて空き箱を渡す役目の様だ。

駱駝引きが街へ出て、馬乳酒売りにでも噂を広めさせたようだ。

商人も焦って手当たり次第に金錠两両と交換しだした。

十八人の腕からシォゥヂゥオが消えた、組み紐もいつの間にか街の女たちの手に渡っている。

林(リン)が范(ファン)と箱に並べた金錠を慧敏に渡して勘定させた。

十七人が両腕で六十八個、慧敏が六つ、金錠百四十八両があっという間に売れた。

ウァルフゥァン(耳・耳飾)も欲しいと女たちがまだ騒いでいる。

十七人の女たちは用心のため耳飾りはしていないので、街の女は慧敏がしているのを欲しがった。

「リャンコ(两個)で金錠一両だ。木箱入りだよ」

慧敏が言うとおとなしく、蓋を開けた木箱入りを指さし、范(ファン)に金錠一両渡して林(リン)から箱ごと貰っていく。

女たちに混ざり、他の隊商の男たちも一つ、二つと買い入れてゆく。

ウァルフゥァン(耳・耳飾)の箱は三十六売れた。

三人の商人だけが残り慧敏と値段の交渉を始めた。

腕輪箱入りは十箱に两個つけろと盛んに言っている。

「よく見てごらんよ、箱には手巾迄引いてあるんだ。两両なら当然だよ」

三人が相談を始めた。

三人で三十買うから六箱つけろと言う。

「ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)で売るから引けないよ。引いたら向うでも値切られる。うちの商売は掛け値などしていないんだ」

「じゃ、ウァルフゥァンも十五箱買うから、三箱にウァルフゥァン(耳・耳飾)も三組」

引き刻とみて応じた。

七十五両で九両分のおまけだと林(リン)が計算している。

ゲルでその話をして植(チィ)に笑われている。

「なんだよ。計算は合ってるぞ」

范(ファン)もあっているという。

「だからよ。九両は売値で元値じゃないんだぜ。隊長の事だ、最悪半値で仕入れてきたはずだ」

その夜の飯時、女たちは新しいウァルフゥァンを耳に飾っていた。

慧敏も浮かれている、今日一日で“金錠三百両は儲かった”と駱駝引きが話している「一人金錠一両配当が出た」となれば浮かれて当然だ。

馬丁たちが羨むのはチァンピンウェン(常秉文)から、商売の配当のほか、一日銀(イン)一銭出るので、旅が長引いても誰も文句は出ない。

その百日ぶんが配当の上乗せに出たのだ。

駱駝引きたちは俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)へは国境のハンダガイテイまでで引き返すという。

チァンピンウェン(常秉文)の父親はサンクト・ペテルブルグ迄遠征したという。

コブド(科布多・ホブド)から一万四千里はあるという。

一日百里でも百四十日、商売しながらの往復だと一年は必要になる。

宜箭と劉榮慶はインドゥが聞き取った地形図と内務府会計司が呉れた地図を見比べている。

「どう見てもウリヤスタイからホブドが六百里は怪しい数字だ。道を外れてまっすぐ進めと言うんじゃないのか」

「鹽売りが途中の村からアルタイ(阿爾泰)へ五百里、コブド(科布多・ホブド)へ五百里だと言っていただろう。大げさに言うにしてもこの湖を迂回するしか道は無かろう。秋までに一回りするようかな」

近道をするならこの見取り図の荒れ地を抜けてザブハン(札布噶河)という河を渡るしかないが四里は川幅がある。 

「冬の凍った河でも渡った距離か」

「正しい情報が無さすぎですな」

ウヴス・ヌール(ウヴス湖)の西岸オラーンゴムがコブド(科布多・ホブド)とウリヤスタイ(烏里雅蘇台)を結ぶ起点とすれば北の道は相当の大回りだ。

一回り三千里では四月がかり、馬を急がしても二月かかる。

仕事なしで回れば、駱駝は一日百二十里がいいところ、公用での傳馬なら二百五十里進んだ記録が残る。

駱駝は食わず飲まずでも持つが、馬ではイェンマァィ(燕麦・烏麦)を準備する必要があり水は必需品だ。

三人は行けば赴任の理由もわかるだろうと腹をくくった。

「ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)迄にあるこの河を渡る場所は浅瀬だというから。それを期待しましょう」

「蒙古(マァングゥ)に這入って六十日というのは当たっていたようだ」

「今日で五十日目です。楽勝ですな」

 

二十三日の朝、暗いうちからコブド(科布多・ホブド)へ行く隊商を見送り、日が昇った六時過ぎに北を目指した。

その日は百二十里先のタイシャー(Taishir)へ夕六時二十分、陽が沈む前に到着した。

二十四日、タイシャー朝四時半出発。

百三十里先にあるツァガーンチュルート(Tsagaanchuluut)へ夕六時五分到着。

翌日は川越しがあるので四時に出ると伝えた。

二十五日、ツァガーンチュルートを日の出前に出た。

ザブハン川(zavkhan river)の渡れるように川幅を広くし浅瀬になっている場所へ道が付いていた。

川越しで時間がかかったがまだ三時だ、その日は川向う(北側)で野営となった。

ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)も近いので汚れ物は此処で洗っておくように通達した。

二十六日朝、九時にでてツァガーンカールハン(Tsagaankhairkhan)へ七時二十分到着。

ツァガーンチュルートから百七十里だとある。

二十七日、朝六時にツァガーンカールハンを出て百里でウリヤスタイ(烏里雅蘇台)が遠望でき夕四時に集落手前で野営した。

将軍銜署まであと十里だ。

総監の劉榮慶(リゥロォンチィン)が此処から伝令を三名送った。

二十八日

威儀を整え将軍銜署へ向かった

ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)将軍は宗室晉昌、満州(マンジュ)正藍旗、喀什噶爾(カシュガル)參贊大臣を前年正月から勤め、嘉慶十二年十月十二日18071111日)に烏里雅蘇臺將軍に任じられた。

この時五十五歳気力にあふれた男に見えた。

将軍の配下には百六十人の蒙古兵、ただし常駐は九十六人。

他は毎年または毎期に交代する。

早速野営地を指定され馬車に駱駝をそこへ連れに行かせた。

烏里雅蘇台等処地方参賛大臣にも表敬訪問した。

木造の柵で囲った定辺城は京城(みやこ)からくれば、本当の辺境の地だと実感できる。

嘉慶十二年五月廿五日1807630日)、凝保多爾濟(ドルジ)が烏里雅蘇台等処地方参賛大臣に任じられて赴任してきた。

住まいは野営と同じゲル(パオ・包)が与えられている。

位は貝子、博爾濟吉特氏(ボルジギト)の我がまま息子だ。

遣って来た三人を不快そうに見ている.

烏里雅蘇臺參贊大臣もう一人は祥保、鈕祜禄氏(ニオフル)満州(マンジュ)鑲黄旗、こちらはやけに丁寧だ。

鑲藍旗満州副都統の豊紳殷徳(フェンシェンインデ)が頭領。

八旗護軍鑲藍旗(クブヘ・ラムン・グサ)からは、総監に劉榮慶(リゥロォンチィン)、参領は宜箭(イィヂィェン)。

野営へ戻る途中の河原近くには燕麦と思われる苗が植わっている。

 

嘉慶十二年十二月二十三日1808120日)京城(みやこ)を発った。

嘉慶十三年四月二十八日1808523日)、百二十四日の赴任の旅はウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へ無事到着した。

 

蒙古(マァングゥ)内

サイル・オソ駅站経由ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)までの駅站

内務府会計司資料-二十六駅二千八百里。

アルタイ経由

内務府会計司資料-三千五百二十里。

隊商資料- 三千六百二十里。

 

京城(みやこ)からフフホト

内務府会計司千三百里。

常秉文-隊商資料壱千零参拾里。

 

京城(みやこ)からカンギ

内務府会計司-千八百七十里

隊商資料-千六百零二里。

 

国境の町カンギからアルバイヘール・京城(みやこ)からアルバイヘール。

内務府会計司資料-千六百八十里・三千五百五十里。

隊商資料-千七百八十里・三千三百八十二里。

 

アルバイヘールからバヤンホンゴル・京城(みやこ)からバヤンホンゴル。

内務府会計司資料-四百五十里・四千里。

隊商資料-四百五十里・三千八百三十二里。

 

バヤンホンゴルからアルタイ・京城(みやこ)からアルタイ

内務府会計司資料-八百六十里・四千八百六十里。

隊商資料-八百六十里・四千六百九十二里。

 

アルタイからウリヤスタイ・京城(みやこ)からウリヤスタイ。

内務府会計司資料-五百三十里・五千三百九十里。

隊商資料-五百三十里・五千二百二十二里。

 

第五十六回-和信伝-弐拾伍 ・ 23-04-27

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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