第伍部-和信伝-肆拾肆

第七十五回-和信伝-拾肆

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年三月二十六日(1814515日)・五十九日目

朝卯の下刻(五時二十分頃)に靭負主従と別れた次郎丸達は、四日市の湊を見に遠回りした。

此の湊から宮へは海上十里なので、桑名へ寄らぬ伊勢参りの客が増えている。

江戸の辻に道しるべが有る。

南面“ すぐ江戸道

北面“ すぐ京 いせ道

西面“ 京 いせ道

東面“ 文化七年庚午冬十二月建

みたき川、かいぞ川を渡れば三ツ矢(三ツ谷)一里塚、兄いが「七時丁度だ」と云う。

江戸から九十四番目(九十九里目)京(みやこ)から二十六番目。

「富田(とみだ)の蛤を食いますか。桑名でたっぷり食いますか」

「桑名でなら腹がすくだろうからその方がいいな」

街道沿いは休み茶見世より、はまぐり茶見世の方が多くなってきた。

三ツ谷立場には八田藩一万三千石の陣屋が有る。

八田藩は東阿倉川藩、加納藩と呼ばれる定府大名加納家の領地で西阿倉川、芝田・貝家・北小松にも領地が有る。

加納大和守は、大番頭(おおばんがしら)には三十三歳で家督を継いだ一年後、文化六年に抜擢された。

羽津立場に領界石柱が有る“ 従 是 北 桑 名 領 ” 立場の先の川には幅の狭い橋が架かりすれ違うにも気が引ける有様だ。

次々現れるはまぐり茶見世の客引きも賑やかになってきた。

「東富田だけじゃないぜ」

「当分続きそうだな。上るときより増えた気がするのは、単なる気のせいかな」

立場の喧騒を抜ければ一里塚が有る。

富田一里塚は江戸から九十三番目(九十八里目)京(みやこ)から二十七番目。

四日市の前後は一里塚の間が一里から一里十丁前後有る。

松寺立場から朝明川(あさけがわ)の先、柿村、小向(おぶけ)で現れるはまぐり茶見世の客引きは見目良い女が多い。

「北齋の野郎の画より美人だ」

野郎などと言うが兄いの倍は歳を食っている、この年北齋五十五歳。

上るときは女連れで茶見世の品定めはやりにくかった。

北齋が東海道を描いたのは十年ほど前に為る。

この時の縁で“ 北齋漫画 ”はこの文化十一年江戸と名古屋から売り出された。

春興五十三駄之内-享和四年(文化元年1804年)正月。

絵本駅路鈴-文化年間中頃1810年頃)

縄生(なお)一里塚は江戸から九十二番目(九十七里目)京(みやこ)から二十八番目。

「兄貴、桑名に一里塚が此の道中記には無くて縄生(なお)の次は熱田の伝馬町の一里塚だ。神奈川で買い入れたのは七里の渡しの次に桑名だが見つけられなかった」

「四郎さん、俺は見たこと無いぜ」

「未雨(みゆう)師匠が言うなら相当昔に有ったとでも云うのかね」

神奈川で四郎が買い求めたのが文化六年のものと、江戸から持ってきた東海道分間絵図の奥付に宝暦二年九月の物。

「府中で見た師宣のも城下に一里塚は無かった、あの道中記の元は何処から引っ張ってきたんだろう」

「此処は宝暦の治水でも収まらいほど洪水が起きますので、城下は何度も被害を受けています。早い時期に無くなったんではないですかね」

余談

縄生(なお)から桑名船着き場がおよそ一里十丁。

伝馬町から宮船着き場までおよそ七丁三十間、海上は七里。

縄生(なお)から伝馬町だとおよそ八里十七丁三十間。

八里十七丁三十間はおよそ三万三千三百二十七メートル。

桑名城下町

慶長六年(1601年)から本多忠勝は十年の歳月をかけて整備。

慶安三年(1650年)大洪水、田畑六万四千石が被害(藩領の半分を超える)。

慶安三年八月二十九日~九月二日(1650924日~27日)。

城下人家四百五十戸倒壊、流失、死亡二百人余。

美濃地方、木曽・長良・揖斐三川の堤防がともに決壊、大垣近辺は被害が多きく死亡千五百五十三人、流出家屋三千五百二軒と記録された。

この年伊勢神宮おかげ参り流行。

(宝永二年1705年・明和八年1771年・文政十三年1830年にも流行)

宝暦三年(1753年)木曽川、長良川、揖斐川(木曽三川)治水工事計画起こる。

宝暦治水

宝暦四年(1754年)二月から宝暦五年(1755年)五月。

薩摩藩へお手伝い要請。

宝暦四年(1754年)閏二月第一期工事着工。

洪水の多発により工事困難を極める。

宝暦四年六月十日頃、濃尾地方大洪水。

宝暦四年七月十一日~揖斐川・木曽川洪水。

宝暦五年正月五日~二十六日木曽川出水。

宝暦五年二月一日木曽川出水。

当初見積予算十五万両だったが総工費四十万両と記録された。

工事に必要な材木は幕府負担の他に一万六千三百三十両の予算を組んだ。

薩摩藩の累積赤字は百万両を越えたと云われる。

宝暦五年五月二十五日総指揮の家老平田靱負自害。

宝暦五年六月六日副奉行伊集院十蔵、薩摩藩江戸家老就任。

宝暦六年十一月七日伊集院十蔵死去。

薩摩藩士五十一名自害、三十三名病死、明治も半ばを過ぎ、この説が流布した。

鹿児島県薩摩義士顕彰会は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理、病死三十三名、自殺者五十二名としている。

工事開始から二月目で最初の犠牲者(切腹)二名と記録されていると云う。

宝暦四年(1754年)八月、薩摩工事方に赤痢が流行し、多くの死者が出ている。

同時期に薩摩江戸藩邸でも赤痢流行、二百名死亡とも云われた。

村方に町方請負で雇われた人足の犠牲者は、記録上に現れてこない。

顕彰碑など工事が半ばで切腹するのが美徳のように扱われたのは、時期的(1900年頃)にも帝国政府の思惑と一致している。

薩摩藩の借金はこの工事だけが原因ではなく幕府財政と同じように疲弊していた。

宝暦四年(1754年)六十六万両から約五十年後、文化四年(1807年)百二十六万両と倍増している。

町屋川の橋を渡ると河原を歩き土手へ上がった。

安永(やすなが)立場の名物は安永餅(やすながもち)で、はまぐり茶見世は肩身が狭い。

未雨(みゆう)がさっさと先へ行くので誰も寄ろうとは言わない。

すぐ先に大福の集落、鉤手(曲尺手・かねんて)先に三丁ほど続く松原が有る。

矢田立場からはそのまま城下へ鉤手(曲尺手・かねんて)が続いている。

「桑名本統寺には芭蕉翁が泊まっています。句の意味を悟るまで時間がかかりました」

冬牡丹 千鳥よ 雪のほととぎす

「野ざらし紀行に出た時、四十一歳だったそうです。本統寺は同行の木因宗匠とも同門の琢恵様が住職でした」

「“ しらうをしろき ”の時ですね」

「そうですぜ藤五郎さん。その後熱田へ渡っています。熱田の社が荒廃していたと“ しのぶさえ かれてもちかう やどりかな ”と詠んでいますが、三年後の貞亨四年には社の修復されたことを“ とぎなおす かがみもきよし ゆきのはな ”と詠んでいます」

外堀の土手で止まった。

「ほら、その左の堀の先に大きな伽藍が有るでしょ。あそこですよ」

吉津屋見附の先の京町見付手前の鉤手(曲尺手・かねんて)で未雨(みゆう)は立ち止まり「昔は此処に橋が有ったそうでね」と懐かしそうに語った。

「わっしは此の右手の鍛冶屋の多い鍛治町で生まれやした」

見附を抜けて京町へ入った。

春日神社西門の休み茶見世へ入った。

弟は昼の仕込みをしている、良い匂いがただよつていた。

土間ではバァさんが飯を炊いている。

「今戻ったぜ」

「船はどうなさる」

「明日の朝にする予定だ。少し早いが昼を食べたら切手を買うよ。潮の具合はどうだい」

「辰の船なら近回りだ。兄貴は浅蜊を煮込まない方が好きだが、後の人はどうする」

「両方出すのが一番だ」

「しぐれ煮ですかい」

兄いも匂いが気に為るようだ。

「今日は浅蜊の剥き身を二貫程買ってきたので生姜と醤油に味醂で炊いているんですよ。しぐれ煮にするのが良ければ鍋を別けますぜ」

女房が籠を背負って戻ってきた、仕入れてきた松毬(まつかさ)で一杯だ。

「兄様、今お戻りで」

「ああ、明日は宮へ渡るよ。蛤をたっぷり焼いてくれ」

「あいな。今女連中も来るからすぐ焼きますよう」

浅蜊の浅煮と云うのは飯に会うだろうと思うほど美味い。

次郎丸は深川飯を思い出した、鉄爺に聞いた話では昔の江戸は、蛤を一升桝で計っていて、十六文が二十文になったと大騒ぎするほど安いものだったと云う。

兄いは酒も注文した。

三人の若い女衆が来ると腕まくりし、囲炉裏ではまぐりを焼き始めた。

幸八が「こいつで飯にしたら蛤が入らない」など言いながら飯を頼んでいる。

「今蒸らしていますが待ちますか」

「待ちます。待ちます」

バァさんは次の竈も吹き上がるのを見て、火を落としている。

浅蜊を長く煮込んだものも出てきた。

「しぐれ煮は蛤の後に為りますぜ」

未雨(みゆう)は「蛤のしぐれ煮は十一月から二月が美味いという人が多いですが、浅蜊は三月から五月が一番だそうです」と地元自慢だ。

はまぐりが焼き上がってきた、匂いにつられ表では立って蛤を食べていく者もいる。

縁台で浅蜊の炊いたのを飯に乗せて食べるものが出始めた。

「しぐれ煮は冬至蜆に夏の土用蜆、夏の土用は最近江戸から流行ってきて鰻も焼くんですよ。蛤の旬は今頃ですのに何で真冬のしぐれ煮が人気なんでしょう」

蛤を焼いている女は師匠に聞いている。

「そいつはな。今時期の蛤が高いからだ。ここへ来るのが百で二百四十文、おまけに大きさもそろえなきゃならねえ。中振りのしぐれ煮二十文で一折十個がいいとこだ。どんだけ安くしても釣り合わねえ」

藤五郎が頭を捻っている

「師匠、じゃしぐれ煮の蛤は儲からねえ」

「名の通った見世は漁師と繋がっている。網から落ちるのを年間通し値で買うのさ。三段の一番上が大店や本陣の取り分、二段目がこのような見世用、三段目がしぐれ煮で、その下は沖へ戻すんだ」

この仕組みが出来て抜けがけも無くなり、値段も安定しているという。

「じゃ大はま食べたきゃ料亭行けば出るんですかい」

「今晩も食べたきゃ用意して貰うよ。伊勢の鮑に栄螺もお好み次第だ」

女房は「大蛤のしぐれ煮は三っ入って銀六匁だけど、三日前の予約が必要になりますよ」と脅かしている。

「一つで鰻の大串とおんなじか」

「ここでは手二つで江戸風に蒸して銀一匁で売りましたよ、どんぶり飯は十二文、浅蜊の浅煮は小椀で十二文ですよ」

十分食べて飲んだ一行は銅の鳥居を潜り抜け、渡し場の蔵前船会所でむしろ一枚分四百二十四文の席、四枚分を辰の船で買い取った。

未雨(みゆう)は問屋場で封書を受け取ると片町の通り井はす向かいの“ こうだや ”へ案内して、七人で入った。

「さて、本町遊郭で昼遊びでもするなら案内付けますぜ藤五郎さんよ」

「近いんですかい」

「此処が浅草寺仲見世なら吉原より近いすぜ」

幸八も気に為るようだ。

「勢州桑名に過ぎたるものは二朱の女郎に銅の鳥居と聞きますがお伊勢参りの帰路で遊ぶ人が多いのでしょうね」

「幸八と二人で冷やかしでもしてきますよ」

二人は案内の男と出て行った、男は戻って「恒栄楼で四人芸者を呼んで遊んでいます」と未雨(みゆう)に告げた。

四郎がこの道を芸者衆が行き来しているが遊郭は多いのかと聞いている。

「本町、江戸町、川口、高砂、後は遠く為ります」

「遠いとは」

「富田の立場に三軒」

「そりゃ遠すぎる」

未雨(みゆう)にお捻りを貰って出て行った。

「桑名より古市は遊女も多いですね。手近で精進落としと思うんでしょう」

遊郭七十軒、遊女千人と噂が有る。

「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)の舞台だね。油屋の場は森田座で見ましたよ。坂東花妻がお紺でしたぜ。若いが良い役者だ四代目の佐野川花妻を襲名した時も猪四郎と見に行きましたぜ」

「そんな話初めて聞いた」

「若さんに芝居小屋の話をすると台本の抜書きを探せと煩いからね、浄瑠璃本なら手に入るけど芝居の方は難しい。森田座で観劇したのは政(つかさ)様が生まれた次の月でしたぜ」

文化九年四月十四日森田座初日、福岡貢を坂東重太郎が務めた。

最近の兄いは酒田から雪中を江戸へ出てくることが多い、夏至を前に酒田へ戻るのが通常だ。

冬の夜話を各地で聞くのが通例に為ったようだ。

用事の多い時は真冬の十二月初めに江戸入りする時も有る。

大抵は役者絵や街道の様子を描いた浮世絵集めだ。

未雨(みゆう)が先ほどの包みを開けると次郎丸あての封書も入っていた。

「若さん、奥方からですぜ」

三月三日の日付が有る、“ なほ ”の手で懐妊したと書いてある。

「まだ二月に入ったばかりの様だ。十月すえの出産予定だそうだ」

「おめでとうございます」

「もう大殿が生まれれば我が子とすると言ってきたそうだ。養子先とは縁のない子供に為る」

日暮れ前に藤五郎と幸八が戻ってきた。

文化十一年三月二十七日1814516日)・六十日目

こうだや ”の朝飯は卯の刻に出してもらった。

鰆のみそ漬焼物、浅蜊しぐれ煮、大根と茄子の糠漬け。

蜆の味噌汁は塩辛い位の味噌汁で風味が引き立っていた。

兄いの時計で五時四十分に“ こうだや ”を出て渡し場へ向かった。

三艘が船着きに泊まっていて会所役人が船を振り分けている。

乗り込んだ船はわりと大きく五十人近くは乗れそうだ。

「宮との往来は大船が五十艘、小船で四十艘くらい有るそうですぜ。こいつは水主が六人で五十三人まで乗れますが、今朝は荷が多いので土間は乗せないようですぜ」

四日市との往来も同じくらいは稼働しているという。

予約の客が揃ったようで会所役人は出るように指図している。

物売り船が近づけないほどの速さで、蟠龍櫓が見えなくなるのに十分程だった。

青鷺(あおさぎ)川へ入り、輪中の白鷺(はくろ)川へ入った。

「積み荷が重いとここは抜けることが出来なくて沖へ出ます」

宮から出た船がすれ違うが大きな船は外回りしているようで見当たらない。

八時半に海へ出た、満潮に為ったようで徐々に陸から離れだした。

知多半島が大きく見えてきた。

河口が見えるがまだ宮とは違うようだ。

「ここは日光、先が庄内と言います」

宮の船場は込み合っていて帆を下げて手前に碇を降ろしている。

「十時に為らない」

兄いが驚いていた。

「四時間かかっていないのか」

「六時三十分に出て今十時に五分前、三時間と二十五分」

未雨(みゆう)は「七丁櫓の仕立てで一刻半が普通、乗合で一刻半切ったのは百年も前でその頃は海岸線がもっと引っ込んでいたそうですぜ」

乗り換え用の船が綱を引っ掛けて船を横付けした。

船場の雁木へ降りて いせ久 ”へ入った。

「庄吉から今朝の船と聞いてお待ちしておりました。七人様三部屋とお聞きしております」

「みそか(三十日)に江戸へ向かうのでよろしく頼むよ」

「庄吉から師匠から各地の土産の先渡しと羊羹を頂きました。五本の羊羹に家内と娘たちは大喜びでした」

未雨(みゆう)は自分で買うほかに手の物に買わせて送っていたようだ。

部屋で寛いでいると庄吉がやってきた。

「師匠、皆おお喜びでしたぜ。今年はずいぶん気張りましたね」

幸八が「毎年京(みやこ)土産を送ってくれるのかい」と聞いている。

「年によって違いますが良いもの選んでくれています」

「此処の主が五本と云ってたが熱田の知り合い全部同じかよ」

「気に為るようですね。師匠話していいんですかね」

庄吉も誰かに話したくてうずうずしていたようだ。

「構わねえさ」

「今年は、京(みやこ)で二か所、伏見、大坂、和歌山と各地の仲間が大きな箱で送ってきました。京(みやこ)からの箱に渡し先と本数、それとあと三か所揃ったらと書いてありました。売渡所でも請け負うかと思うほど来たんですぜ」

「結の仲間がそんなに宮に居るのかい」

「ここにゃ、六人が居てね、後は俳諧中間ですよ。師匠、八百屋の吉兵衛は神さんと昨日江戸へ向かいました」

「息子に孫への土産代は持たせたかい、吉兵衛さんは江戸が初めてだろ」

「例の包みを一つ出しておきました。旦銀さんへの紹介状も持たせて有ります」

次郎丸は前に見た南鐐三十二枚の包みを思い出した。

「夫婦旅で往復ひと月くらいかね」

「いきに箱根五日、江之島、鎌倉、金沢で五日余分に見ています。予定は五月七日に戻れると言っています」

「そりゃ、掛りも大変だ」

「結の積立てと云うのから一分金二十枚と、餞別と云う名目で豆板銀六十個出してあります。荷物持ちに宿場ごとに雇うように豆板銀六十個持たせました」

「銀(かね)だけでそんなに持たせたら大荷物に為るでしょうに」

自分で持った銀(かね)の重みを思い出したようだ。

「ですので荷持を人足で運ばせますにゃ」

問屋場人足が付けば雲助に絡まれる心配もない、伝馬に乗れば人足代は浮く道理だ。

四郎は「ほかに四文銭に鐚銭持ってじゃ、年寄にゃ苦労の種だ」と言い出した。

「吉兵衛、師匠より若いですぜ」

「未雨(みゆう)師匠そんなに年食ってるように見えないぜ」

未雨(みゆう)は「前厄です。吉兵衛さんごじゅっくらい(五十)に見えますからね。神さん見たら驚きやすぜ。まるで親娘だ」と笑っている。

次郎丸は、未雨(みゆう)と兄いとで宇治の宿で下条新兵衛には全部聞かせていいと決めてきた。

「明日には横須賀のご隠居が来ます。小山甚左衛門様が立ち会われるそうです。場所は“ 鯛屋 ”で四つ時(巳の刻)にされるそうです」

ぜひ承知してくれと頼まれごとでと庄吉が続けた。

「それでね師匠と宴席を“ 鯛屋 ”で三十日(みそか)に開きたいと横須賀のご隠居が席を設けました。ご一同様も出てくださるようにと手代が口頭で伝えに来ました」

次郎丸は藤五郎に「年千両、三年は保障。税が十年軽減の証書が出ればその先も投資できるというように。初年度倍までは請け負っていいが、それ以上望まれたときは自分に権限がないと断ることだ。都合によっては俺が判断する」と話をしておいた。

「明日は兄いも来るようか」

「いや、此処は若さんと藤五郎で仕切ってください」

「わかった」

それで問題は織機の採算状況だという。

「貸出なら結で作る手も有るが」

「ここで毎年三十台作れますかね」

「横須賀のご隠居が調べてきているさ。まず話を聞いてからだ」

兄いは久左衛門に「四月の朔に出ることに為ったよ。昼は鰻丼を頼んでくだされ」と頼んでいる。

庄吉が帰ると未雨(みゆう)が内緒話だと次郎丸と兄いを誘って抜け出した。

「江戸の便りで容姫(やすひめ)様誕生以来お美代の方様へ賂が増えたと有ります」

兄いも内情は知っている。

「御小納戸頭にお側御用取次はご老中様まで手玉に取ると噂ですぜ」

松平忠明の緊縮財政に音を上げている一番は大奥だ。

現物支給の炭や薪なども階級で細かく決められている。

魚、野菜などの食料品は御納屋(おなや)から買う。

御広敷の御膳所頭に請求され、承認すれば御広敷御用人に請求書を送る。

贅沢しようにも予算以上は出せないところに抜け穴が出来る。

「実は御小納戸頭から御先手弓頭へ移されたそうです」

「宿元を出世させて交代さ。五十過ぎればもう遠慮させていいころだ」

役高は同じ千五百石、御小納戸頭、御先手弓頭は若年寄支配だ。

「誰が動かしたのでしょうね」

「黒幕は沼津さ。昨年から大奥への賂が多くなっている」

「側用人が口添えですか」

「大番頭と側用人に御側御用取次が組めば若年寄も動くさ」

「そういゃ大番頭と側用人は縁が深い。御側御用取次はどっちが動いたんでしょうね」

二人の養父は水野忠友、松平定信に老中を免職されたが、八年後に西丸(徳川家慶付き)老中に返り咲いている。

「和泉の岡だよ」

「田沼様の系列に入るつもりですかね」

「壱岐守様は宗旨替えしたそうだ。側用人も老中を狙うし、唐津も国替えしてまで老中へ食指を伸ばしている、伊豆様の後釜争いだな」

「唐津の和泉様、国元は大騒動だそうですぜ」

「奏者番に為れば国替えも早まるとさ。今のところ大奥の上を狙って賂を使っているが目先の事しか見えていないな。薄く広く会釈(あしらい)を懐柔すれば援護も厚くなる」

兄いは「奏者番は数が多いですのに権限はあるんですかね」と不審顔だ。

「一番のお役目は代参、上使だがね。転封の権限は此処が持っている」

「ご老中じゃないので」

「奏者番が扇の要だ、寺社奉行四人に選ばれるのも奏者番からだ」

御側御用取次を大樹は三派に使い分けている。

「賂好きな連中が増えて来たな。街が潤うならいいが大名虐めでも始まれば困ることに為る。大殿が失敗した大きな原因は大奥を敵に回したことだ。有徳院様が出来たからと云って、号令が老中から出るのでは納得しないさ」

大崎解任がその大きな例で味方まで切り捨てるなら、協力するだけ損を見ると思われてしまったのだ。

大崎は自らお役御免を願ったとも伝わるが、定信は大奥がただの奥向きと思い違いしていたようだ。

一生奉公を選んだ者には誇りが有るのだ。

結はその大崎子飼いの奥向きを手中に収めている。

「御三の間務めでも呉服の間務めでも、ないがしろにしては後でしっぺ返しが来るのは百年前でも同じことだ。表向きと同等に付き合う以上に気を置くことだ」

結いは御表使の武士、御客会釈の御女中に必ず味方を置いている、一番情報が集まるからだ。

うなぎ丼が来て話は宇治の鰻へ広がった。

「この後は何処でうなぎを食う気だね」

未雨(みゆう)は兄いを焚き付けている。

「まずは何処で泊まるか決めてからでしょうぜ。毎日食うならそれなりに調べないとね」

新兵衛は「毎日でござるか」と驚いている。

まずは里程と日時の突合せだ。

四月朔
・宮から鳴海一里二十四丁、池鯉鮒へ二里三十丁、岡崎へ三里二十九丁二十二間、藤川までならあと一里二十五丁。

宮から藤川十里二十二間。

四月二日
・藤川から赤坂二里九丁、御油へ十六丁、吉田へ二里二丁、二川一里二十丁、白須賀一里十七丁、新居へ一里二十四丁。

藤川から新居は九里十六丁。

四月三日
・新居から舞坂の渡しは一里十八丁、浜松へ二里二十八丁、見附へ四里七丁、間には天竜川池田の渡し。 

新居から船渡しを入れても見附まで八里十七丁だが渡しが二か所ある。

「藤川は空いていたら橘屋脇本陣なんてどうです」

次郎丸は瓢箪を宿の江戸よりの坂の山中で買ったと言いつつ指差した。

「藤川は四郎と西棒鼻付近でかきつばたの碑を見たよ」

「二十年ほど前に再建されたと聞いています」

新兵衛は鰻と云われないように聞いている。

「卯の刻に出ないと申に着くにはあまり休めないですね」

「昼にうなぎを食っても日暮れ前に入れるさ。問題は次の日新居が泊まれるかどうかだ」

思惑と違いうなぎを持ちだされてしまった。

「新居なら紀伊国屋は同ですか」

「下条様の名で予約しておきましょう。部屋が三部屋無理ならよそへ取るように書いておきます」

未雨(みゆう)は硯と筆を借りてきた。

四月四日
・見附から袋井一里十八丁、掛川まで二里十六丁、日坂へ一里二十九丁、金谷へ一里二十四丁、大井川を越えて島田へ足を延ばして一里。

見附から島田八里二丁。

四月五日
・島田から藤枝まで二里八丁、岡部へ一里二十六丁、丸子へ二里、府中へ一里十六丁、江尻へ二里二十五丁、興津へ一里二丁。

島田から興津へ十里三十一丁。

四月六日
・興津から興津川を越して由比へ二里十二丁、蒲原へ一里、吉原へ刻んで二里三十丁二十三間、原へ三里二十二間、沼津へ一里十八丁。

興津から沼津へ十一里二十四丁四十五間。

「三島までは強いか」

「いくら陽が長くとも十三里は箱根の前に辛いでしょう」

四月七日
・沼津から三島一里十八丁、箱根へ三里二十八丁、小田原へ四里八丁。

沼津から小田原九里十八丁。

四月八日
・小田原から酒匂川の渡しで大磯四里、平塚へ二十七丁、馬入川の渡しで藤沢へ三里五丁、戸塚へ二里、程ヶ谷へ二里九丁。

小田原から程ヶ谷へ十二里五丁。

四月九日
・程ヶ谷から神奈川一里九丁、川崎へ二里十八丁、六郷を越えて品川二里十八丁、日本橋まで二里。

程ヶ谷から日本橋迄八里九丁。

「これ以上急いでも一日詰めることは無理でしょうぜ」

「精々程ヶ谷を神奈川まで行くくらいか」

神奈川宿へ陽のあるうちに着けそうなら、行きましょうと新兵衛が言っている。

「夜旅を掛けて一日詰めるのが良ければできますがね」

「夜旅を掛けるくらいなら毎日明け六つに宿を出るほうがましだが、七つ半はお断りだ」

「若さん、そうは言いますがね。新居だけは七つは無理でも、七つ半には関所へ出るほうが後楽ですぜ」

この時期の七つ半は三時三十分前後、新居の渡しは朝が早い。

新居、舞坂共に朝の一番方は、寅の刻(二時五十分頃)に出る。

夕方の最終船は申の刻(五時頃)、乗り遅れても臨時は出ない。

文化十一年三月二十八日(1814517日)・六十一日目

兄いは幸八と未雨(みゆう)三人で熱田の大宮へ向かった。

明日巫女舞、里神楽(太々神楽だいだいかぐら)を奉じる手続きを行うためだ。

門前の茶屋で取次を頼むと若山家から人がやってきた。

明日巳の刻(九時十五分頃)の約定が出来た。

「お話の演目を奉じるには大掛りに為ります。大宮への奉加は祝詞分参拝者一人二朱、神楽は一人二朱で太鼓二人、笛一人、鼓一人、巫女舞四人、舞夫三人の十一人必要です」

「仕切り人への冥加は」

「出して下さるのならば一人分で宜しい」

「七人来るので南鐐二朱銀七枚。これは何処で」

「茶屋で代行します」

「十二人分南鐐二朱銀十二枚」

用意してきた祝詞で読んでいただく要旨と、氏名を書いた奉書を差し出した。

置かれた三宝二台へ並べて受け取ってもらった。

「神楽所迄ご案内いたしましょう」

門を入り左手の神楽所で「明日は本殿へはご挨拶だけして此処へ」明日の巳の刻に此処へ来ると確認して別れた。

三人に為り本社へ拝礼して末社を一回りした。

「ねえ、師匠いったいどこから南鐐二朱銀が湧いて出るんです」

「手妻じゃあるまいし、あちこちの結へ頼んであるんだ。桑名で一包三十二枚、宮で昨日一包三十二枚受け取ったんだ」

「昨日といや、庄吉さんくらいしか来ていませんぜ。空手で来ていましたぜ」

「羊羹 いせ久 へ届けた時預けて貰った。頭が指印も符丁も一番に為っての江戸下りだ銀(かね)も掛かるだろうと手配した。豆板銀は三人へ任せたつもりさ」

「ねえ、あにい」

今度は兄へ話が来た。

「明日の神楽のお捻りはどうします」

「お前が渡す役目を引き受けろよ。準備の雑人(ぞうにん)含めて三十は用意しよう」

「げっ、こってへ振るかね」

「言いだしっぺは幸八だ」

次郎丸は藤五郎と八時四十分頃 いせ久 を出て鯛屋へ向かった。

四つ時(巳の刻)は九時十五分頃のはずだ。

鯛屋をおとのうと奥の部屋へ案内された。

帯梅(たいばい)宗匠村瀬弥四郎が出迎えた。

「お早い御着きで結構なことで御座います。ゆっくりお話がしたいものです

「御隠居こそ、さては此処を根城にいたしましたか。流行りものには目がないようですな」

藤五郎は俳諧の弟子としての挨拶にとどめた。

熱田奉行の小山甚左衛門、相役の林八郎左衛門、与力早田与四郎の三人が来た。

四つの鐘、捨て鐘が聞こえてくる。

挨拶が終わると小山が「殿さまはたたれる前に御裁可なされた。この小山と両口屋が仕切るように勘定奉行神野様へ沙汰が下り、浄翁様もご確認なされた」と告げた。

「林八郎左衛門で御座る、早田与四郎とで本川次郎太夫殿へ挨拶にまかりいで申した」

前に有っているのにかたぐるしく挨拶をしてきた。

「痛み入るお言葉有りがたき幸せで御座います」

二人が後は小山と帯梅(たいばい)宗匠にまかせると出て行った。

帯梅(たいばい)は風呂敷を解き、見取り図と人員の一覧を「ご覧あれ」と寄越した。

「織機一台十二両で十台請け負うという事でしょうか」

「高機(たかばた)の大工を派遣させるについて壱台弐両の口銭が架かると言います」

「もし百契約を持ちかければ口銭を半分に出来ますか。年内四十台次年三十台、再来年三十台」

「本当ですか。交渉します。応じぬ時は」

「十台で打ち切り、江戸で木綿用高機(たかばた)を作り持ち込みます。尾州廻船の戻り船なら、ばらして持ち込めます」

「脅さぬようにすかしてみましょう」

小山が「若さん、その言い方だと百台分まで投資するという事かい」と聞いてきた。

それは藤五郎の掛りだと話しに加わらせた。

「年千両で高機(たかばた)十台と農地の確保、一連の工程を賄える設備といたします。三年三十台は保障いたしますが、税を十年軽減の証書が出ればその先も投資させていただきます」

「どこか漏れたようだ」

「どうした甚左」

「知らんのか」

「だからなんだ、じれったいやつだ」

「三年無税、以降三年売り上げにかかわらず高機(たかばた)壱台銀十匁の税、横須賀両口屋取締りと決まった」

尾張藩は基本の年貢が四公六民だがこれは表向きで諸税を様々設けて課している。

「六年以降は。其処が肝心だ、高機(たかばた)を壱台でいくら稼げると試算したんだ」

「六日一反、年三百六十日で六十反、江戸に名古屋は小売りで一反銀六匁、最近の伊勢への卸値一反銀二匁五分」

「卸値一反銀二匁五分で儲けは」

「解らんのだ」

「教えてやろう、昨年は知多木綿生産に十反銀五匁掛かっている」

一反六日、手取り二百二十文で食えるはずもない。

「そんなにもうからんのかご隠居」

「ですから木綿だけでは食えないのです」

「高機(たかばた)壱台銀十匁は安くなどないぞ。高機(たかばた)改良機熟練一日半反が実現できれば高機(たかばた)壱台銀十匁は出せるだろう。三倍に出来るのか」

年三百六十日稼働させるに、一日二刻半ずつの二人交代でやらせなければ次の高機(たかばた)が来ても織手が居ない。

「両口屋さんの仕訳帳はよくできているが、最初から熟練者の生産高で考えている。もし結が多くの高機(たかばた)を貸し与えても生産は上がらない」

「どうしろと云うのだ若さん」

「名人を探して教師に雇うことだ」

「それは隠居が探します」

「次に一反を三丈、幅壱尺三寸、一疋が二反で六丈。これを守れない高機(たかばた)の織家をなくすことだ」

「幅の伸び縮は」

「検査を厳しくしておかなきゃ手が緩む」

「幅壱尺三寸以上として上限は」

「半寸、糸数と太さを統一できれば出来るはずだ」

「それで木綿畑から布までを一貫させると」

「そういうことに為るよ」

「引取り相手は」

「買い手が居ない分は保障する」

藤五郎は「若さん上級品一反銀三匁、普及品一反銀二匁五分、それ以下は地元で処理してください」と話した。

「誰が検査するんだ」

「両口屋さんですよ。ただね検査の手代連中が上級品を態と認めないなどしない様に教育を頼みます」

「何時銀(かね)が出てくる」

小山は大分とやる気を見せている。

「江戸へ戻れば為替ですぐ送ります」

「千両で良いが、高機(たかばた)四十台注文しては金が足りなくなるぞ」

次郎丸は藤五郎に任せた。

「御隠居様、結で四十台作らせて貸すのと初年二千両出して知多で持つのと、どちらが有益です」

「なり手は多くいた、銀(かね)が有れば一軒五台で八家はすぐ任せられるよ」

どのくらいまで狙っているか聞かれた。

「一軒十台、二十家」

壱台百八十反で二百台三万六千反、目途十年と云われて二人は目を白黒させている。

「横須賀周辺だけでは無理だ」

「岡田とも手を組めれば十万反可能ですぜ。結は三年据え置き、その後年一割の配当三十三年で償還」

「利子は安いが、三十三年たったら元金回収か」

「あ、これは言葉足らずでした。配当の中に償還分を入れて有ります」

藤五郎もどこかで知識は深めてきたようだ。

「横須賀は江戸廻船が少ないと聞いた。結で寄らせる船を増やすことも可能だし半田と手を組む事を考えてもよいだろう」

「それと高機(たかばた)ですが、量産できるかも調べてください。織子が年を取って生産が落ちた者は自宅へ一台置かせ。気まま生産をさせようと考えております」

「お払い箱ではなくわずかでも稼がせると」

「老後も小遣い程度稼げると広まれば、安心して働きますし、その高機(たかばた)で家族が勉強も出来ます」

「まるで五十年、百年先を見ているようだな」

「左様で、三年と云わず十年二十年必要ならお手伝いします。また高機(たかばた)を安く作れるなら買い取り数を増やしますし、改良には資金を惜しみません」

「それは相談してみよう」

「江戸へご隠居も会っている幸八が年内には出てきて店を開くので、そこが連絡所に為る予定です。私の方は一度酒田へ戻りませんといけないので、秋の終わりには出て来れるようにいたします」

所で伊勢への売渡を禁じるのかと問われ藤五郎が答えた。

「私どもは新規生産分のみを扱うので、今までの木綿生産には関わりません。今までの晒し木綿、縞木綿の問屋筋と争うつもりは有りませんし、此方の生産品を買い取る邪魔も致しません」

「それでよいのか」

「生産組が決めた取引値が正当であれば介入は致しません」

「正当とは」

「木綿生産全体が食える金額を計上し、税を払って後、不作に備える積み立てが出来る金額です」

「買い手ではなく、売り手の方で値を決めるのか」

「あくまで伊勢晒し、縞木綿、三河木綿以上の取引値を堅持します」

「強気じゃな」

「それで売れぬものは結が責任を持って請け負います、そのための配当金ですので」

次郎丸は藤五郎の応対に満足した。

「なぜ結は知多にそれほど力を貸す」

「甚佐よう。紀州廻船、尾州廻船を樽廻船、菱垣廻船に負けぬようにと大樹の後ろ支えよ」

「なんで若さんへ」

「表の政治では意のままに出来ぬことを、結が一部をお助けするのだ」

「結とはただの商取引ではないのか」

「歴史は古く鎌倉殿の頃より始まるのだ。権現様江戸討ち入りの頃から陰で支えてきた。有徳院様の御世に幕臣が御庭番のように連絡網を整備した。大元は支那(しな)に有ったが代替わりの時、我が國の外国からの侵略に備える準備をさせると資金を分割したのだ」

武士と町人、農民があい携えて國を守る意識を持つ準備に入ったのだと話した。

「話が大きすぎる」

次郎丸は懐から葵御紋入り通行勝手 の木札に大樹様許し状を出して披露した。

「聞こえてくる話、見える話がすべてではなく。時代は変化するのだ。政治向きさえ商取引で税を集める、行き過ぎれば引き締める、釣り合いはよほどのことが無きゃ取れないのだ」

「俺にも請け負えることが有るのか」

「自分の職務に忠実、そして領民をいたぶらずに尾張が繁栄する。そこが第一歩だ。まずは知多の木綿の先ゆきを守ってくれ」

「わかった。それは良いが先ほど聞き逃したことで疑問が有る」

「なんだ」

「二刻半二交代と言うたな」

「そうだ、よく気が付いた」

「品が不揃いにならんか」

「機屋全体の腕がそろわにゃ生産しても値段が付かぬよ。買いたたかれるのは揃わぬからだ」

「腕をそろえろと言うのか」

「よいものを織る織子には自分の高機(たかばた)を与えて機屋の資金を出す。やる気次第で稼がせることだ。贅沢させろではなく大きくさせろという事だ」

藤五郎には隠居と細かい話を詰めるように言って次郎丸は甚佐と鯛屋を後にした。

「若さん、御父上の方針とは違うようだが」

「大殿も今は行き過ぎたと考えを改めているよ」

「そうなのか」

「伊豆守様が柔軟になってきている。あと十年続けば國も潤うが心配は大奥が華美になって来たと聞いた」

「二十万両は掛かると噂だ」

「尾張の殿様周辺が流している。自分たちの懐を肥やそうと佞臣が居るのだ」

「左大臣様からの無心も増えているのだ」

「あちらも子だくさんで懐が忙しいのだ。それより綿会所とはうまくやれよ」

話はついているという。

文化十一年三月二十九日(1814518日)・六十二日目

五つの鐘で いせ久 をでて大宮へ向かった。

源太夫社の手前鯛屋から隠居とおちかが出てきた。

「おそろいでどちらへ」

「大宮へまいります。神楽奉納を頼みましたので」

おちかは「私も行っていい」と聞いてきた。

「周りで見物するのは幾人いても大丈夫だよ」

女将のお仲が「お邪魔でしょうがおたの申します」というので隠居ともども一緒に向かった。

おちかは四郎と何か話しに夢中だ。

隠居は藤五郎に「高機(たかばた)造りの大工へ手代に交渉に行かせました。明日には戻るでしょう」と話している。

「ところで何処かへ行かれる途中では」

「源太夫社でおちかの事を知恵の文殊さまへ頼みに行くとこですよ。帰りに寄れば同じことです」

後ろではおちかが四郎と気安く話している。

「金さん、足弱のあたいが居て遅れない」

「誰か気がせいて早く出てきたんだ。御本社へたくさん願い事をしてもたっぷり余裕が有る」

二十五丁橋右手を板橋で渡ると下馬鳥居が有る。

「金さんあの石橋ね。六百年以上も前から有るそうなの。一日千人に踏まれてそのままなんてあると思う」

「きっとすり減ると石を変えるんだろうさ」

「ふつうそう思うよね。ととさんは替えたの見た事無いと強情なの。普段は隣の板橋わたるんだというのよ」

海蔵門を入るとまた振り返った。

「此処の塀は信長塀(しんちょうべい)というのよ。石の積み方が違うそうよ」

良い案内人だと四郎は楽しくなった。

勅使殿の左から拝殿へ回った。

手水屋で清めて拝殿で一礼して本殿へ向かった。

それぞが願い事などして賽銭を奉じた。

兄いが「ひと回りしますか、雑人(ぞうにん)が支度を始めたので神楽所で待ちますか」と隠居に聞いている。

「約束までもう少し有ります」

巳の刻の約束だと四郎がおちかと話している。

床几の他に縁台まで置かれたので隠居が「座って待たせてもらおうか」と向かった。

社家の者が兄いを見てお座りに為りますかと案内してくれた。

神楽が始まると察した参詣人たちも寄ってきた。

差配が兄いに「ここで神楽舞を披露して終われば拝殿で 奉幣 湯笹 ”が行われ祝詞奉納に為ります」と告げている。

鳥居舞 木綿志手舞”が終り天細女命の登場だ。

矛の舞 かづら舞 鈴竹舞 ”おちかは天細女命に見入っていたが、一度隠れたのでほっと息を吐いた。

まふね舞 神かがり ”またも天細女命の独壇場に為った。

笑楽 ほそめ舞 おもしろ舞 ”皆が天照の登場を待ち焦がれている。

志免縄舞 ”三人の巫女が注連縄で岩戸をふさいで奉納舞の終わりと為った。

差配が兄いに声を掛けて拝殿へ移動した。

奉幣 湯笹 ”これは岩戸隠れの場の再現と湯立神事を改めて奉納している。

四人の巫女が去ると神官が一同の前に立ち本殿へ祝詞を読み上げた。

おちかには難しいようで退屈してきたようだ。

流行りものには目がない ”“ ゆっくりお話がしたいものです ”“ ありがたやでございます ”“ 駆け出しでございます ”が難しい言葉に置き換えられていた。

平けく安けく聞し召せ ”とようやく最後に来た。

神官が振り返り御幣を振って一同を清めた。

差配が「これで終わりで御座います」と出てきたので幸八が三宝でお捻りを受け取ってもらった。

次郎丸は何時の間に三宝まで用意したのだろうと驚いている。

おちかが源太夫社で祈り終ると隠居が「次郎太夫様と藤五郎さんに相談があるのですが」というので鯛屋 ”へ付いていった。

「実はいざり機ですが百二十台ほど稼働しているのですが、破棄するのももったいのです」

次郎丸は藤五郎を見た。

「実はですね。前からそのことを考えていたのですが、麻物専用に残したらどうでしょうね。百姓身分では麻がないと農作業に困るのです」

「御隠居、両口屋さんで麻糸の調達は可能ですか。近江なり美濃で調達できれば残してもいいのでは」

「では、高機(たかばた)が揃うまでの、人員確保に遣らせる事に致しましょう」

「食えるように援助はしてくださいよ」

「かしこまりました。百人丸抱えに為ってでもやらせて頂きます」

その頃隠居の手代与二郎は清洲下町大工の大藤で、高機(たかばた)製作の交渉をしている。

「数を出すから安くしろだと隠居様が言うのか。十が二十に増えてもお断りだ。十台はもう出来上がったからそれを引き取ってくれたら話は終わりだ」

「こりゃ、わしの言いようが悪かった。十台は最初の値で引き取れと云われている。その分は持参している。今年から三年間、年三十台の前との合計で百台を請け負えるかが先の話だった」

「最初の話じゃ三年三十、とりあえず十台だったがずいぶん増えましたね」

幾分口調も柔らかくなった。

「いくら引け、と言われなすった」

「壱台弐両の口銭を壱両で交渉しろと言いつかってきたのだ」

「弐両はわしの口銭ではないのだ。そりゃ無理だ」

「昨日の金子元のお方の話じゃ江戸でも百の単位で高機(たかばた)を作り上州で三カ所始めるそうだ。知多で隠居様の管理と相談役が伏見奉行小山甚左衛門様と殿様の御裁可も降りているのだ」

「江戸ならいくらで出来るというのだ。いざりの倍は何処で作らせても取られるぜ」

「出羽酒田の藤五郎という人が交渉に来ていたが今年弐千両、来年から年千両で木綿畑から織布の製作まで知多で行うそうだ」

「三千両の元手が出るのか」

「いやいや、来年からというのが十年は続けるという話だった。絹物が頭打ちでな、上州で十万反、尾州で十万反を十年で増やすと言っておられたよ。話半分でも大層な数字だ」

「十万反織るには百台が二百台でも大ごとだぜ。ほらじゃないのか」

「成瀬様も御賛成、知多で隠居様の仕切り支配、新規高機(たかばた)三年無税と勘定奉行様の証書も出てきたよ」

「それで与二郎さん、安くなってあんたの口銭は幾らだね」

「御隠居がこの話の出元に御心服なさっての仕切だ。私に口銭出せるならその分引いてくだされよ。皆さま損切り覚悟で動いておられる。そんな物取っては寝覚めが悪い。精々大福で茶でも出してくれりゃいい」

「どうだろうね与二郎さんあんたの感触で百台の後も仕事が採れるかね」

「わしの器量で受けらるのは次の三年で九十台だな」

「どうだろうね、年四十台六年なら口銭は二両、現物八両」

「二百四十台か、わしの約定で良ければそれでいいが、宮へこれから来られるならお相手を紹介するから、直に話してみないか。歩くより馬で行くなら日暮れにゃ十分間に合うぜ」

問屋場で二頭軽尻(からじり)を頼んだ。

美濃路で名古屋へ入り、馬を替えて宮へ入った。

二の鳥居をくぐり八剣宮先の高札場で馬を帰した。

大藤の藤七と与二郎が鯛屋 ”へ着いたのが申の刻(四時五十分)前の事。

隠居は話を聞くと三人で いせ久 ”へ出向いた。

藤五郎は「三年二千両ずつは無理でしょうぜ。あっしが思うに二千、千五百、千五百なら引き受けてもいいですがその後ですぜ問題は」と首をかしげた。

「何か問題でも」

「四年目から税と配当が必要ですぜ。税はとかくとして二百両に為ってしまいますぜ、五年目に三百五十両、六年目に五百両、提供資金を食ってしまっては元も子も無い話だ」

与二郎も算盤をはじいた。

「四年目高機(たかばた)四百両に配当二百両、一反銀二匁五分卸で二万反なら銀五十貫。七百八十一両一分から税の四十台六両一分も引けば百七十五両では糸にもなりません」

「上物織れないと強い(きつい)ですぜ、それに今時百二十台が織れるのはせいぜい七千反。三交代で七刻半織っても一万程度」

与二郎は一台百八十反と言う昨日の話聞いていたようだ。

大藤は「無理でしょうかね」と残念そうだ。

「藤五郎、この際高機(たかばた)の代金肩替り、一台年一両で貸し付けたらどうだ」

「良いんですか若さん」

「大藤も自分の儲け二両、年八十両あきらめるんだ。四百両の内一割戻ってくるならいいだろうぜ。だがこれは据え置き無しの二十年償還にしょう。高機(たかばた)の銀(かね)はその程度負担できるだろうな」

与二郎は大喜びで頭を摺りつけている。

「ありゃ困ったな」

「どうした」

「家で十台分百二十両受け取っちまいやした」

「ならそいつは隠居の計算のままで今年あと四十台追加しよう、与二郎は銀(かね)が来たら隠居に返してくれ。高機(たかばた)の銀(かね)も隠居へ送るから着いたら大藤へ払ってくれ。そうすりゃ来年から高機(たかばた)四百両と千両投資にして置ける。昨日の話よりその分機屋を増やせるぜ」

文化十一年三月三十日(1814519日)・六十三日目

鯛屋 ”へ昼前から帯梅(たいばい)宗匠の集めた俳句の連が集まっている。

午後の八つ半に散会に為って十人が残った。

散会の連絡が いせ久 ”へ来て、次郎丸達は“ 鯛屋 ”へ向かった。

庄吉たちも客に宿の案内をし、改めて出てきた。

人数が揃ったところで、与二郎がそれぞれを紹介した。

横須賀で高機(たかばた)の組へ今年参加する五人と、来年参加予定の五人だという。

藤五郎が金銭面の取り仕切りの責任者と改めて認識してもらった。

「まず十台十日後には高機(たかばた)が持ち込まれることに為りました」

与二郎の言葉に男たちも目が輝いている。

「いろいろ替わった話も纏まりが付きまして、この十台は一軒一台ずつ置いていただき織機に馴れていただきます。四十台注文を出しましたので着き次第織子の人数に合わせて分配いたします」

隠居が身を乗り出すように補足した。

「今年多くて二十台と申したがの、藤五郎さんの御尽力で一軒五台は年内可能になった」

さすがに隠居だ、これからの事も有り藤五郎を前面に押し立てた。

「綿の収穫前に高機(たかばた)が動かせるように勉強も必要になる。先生はわしに当ても有るので巡回して指導してもらう」

いざり機で作業していたものなら楽に覚えられると請け合っていた。

男の一人が綿の種まきは終わったが、遣らせてくれと言う大百姓も出てきたという。

「ほかへ売らずに組合へ売るか、半分売る約束かで決めとおりに扱えばいいよ」

「おおく収穫しても買い取るので」

「糸繰りまで出来る体制はすでに整っている。よそへ安く売る必要もないのだ。勝手にやられるより組へ売ってもらうほうがいい」

与二郎は「前の話の三倍は銀(かね)も余裕が有る、米以外の農地になら収穫時期との兼ね合いで育ててもらうさ」話し合いは穀雨から立夏にそろえることで十日前には終わったという。

この後植えるのは大麦に、小麦の畑地の農家だ、綿の収穫はよくて八割に落ちてしまう。

余った種の半分は提供しても良いと話しが纏まった。

「肥料のやり過ぎは枝ばかり育つと念を押しておくことだ」

与二郎の言葉にうなずいている。

「金肥をやらにゃ育たない、肥料をやり過ぎりゃ枝ばかり伸びる」

「ドラ息子と同じだ」

「鶏糞やりすぎて失敗はよく聞く話だ」

「鶏糞が効くのは玉蜀黍だ」

男たちの緊張も解けた、多くは木綿の畑を持つものたちの様だ。

小麦、大麦の収穫後についても話が弾んでいる。

どうやら収穫の遅くなる畑で、甘蔗に玉蜀黍を植える相談にも及んでいる。

「それでな、いざり機の事だが儂の手で麻専門の織り屋を誰かにまかせて、作業させようと思うがどうだね」

壊さずともいいなら貸し出すと男たちは口をそろえた。

「ならこうしよう。半年ごとに会計をし、儲けの半分をいざり機の数に応じて分配、残りの半分を織子の取り分に上乗せという形で分配、最後の四半分を積立てとしよう」

それでは隠居の取り分がないと男たちが言う。

「今更銀(かね)が来ても欲が出るから、ただ働きのほうが気も休まる。奉仕させてくれ」

男たちは笑って「百や二百じゃ迷惑ですかね」とわいた。

幸八も男たちが話す木綿の布に為るまでの工程を質問しながら熱心に聞き取っている。

わた繰り(綿の種取り)・綿打ち・よりこつくり・糸紡ぎ・かせつくりまでが下仕事。

糸染め、は縞木綿。

糊付け・整経(せいけい)木枠に糸を巻く・筬(おさ)通し・千切巻き・かざりかけ・小管巻き・機織り・糊抜き・乾燥・仕上げと作業は分担されている。

灰汁で煮沸、洗水、天日干しが晒し木綿の品質を決める大事な作業だ。

「結の基準と今までの取引の二重の扱いで良いと聞いたのですが」

「今までの取引に制限はかけませんよ。新しい高機(たかばた)で予定数量が上がれば後はお任せします。ただね売り渡すのは幅は尺三寸でなく伊勢晒しに近い九寸五分の二丈八尺、反百二十匁以内で出してください」

尾張白と言われる基準数値だ。

「結の基準で買い手が出ますか」

「出すのが私の仕事です。御隠居様の出した値段は必ず守ります」

上級品一反銀三匁、普及品一反銀二匁五分は検査に合格すれば守るし、その上級品の中でも織手の名を入れて売る最上品には一反銀四匁を約束すると藤五郎が与二郎に請け合った。

最上品に基準は有るのかと男たちが帳面を出してきた。

「経糸六百八十本百五十匁。あとは糸の都合で、手のごいより肌着への需要、型染め用の下地が欲しい」

「筬(おさ)八.五算(よみ)で行うという事ですか」

「細かい事は与二郎さんと相談してください。わたしたちの希望は他の木綿産地と違う物、安物は欲しくないのです。価格も織子が食えるだけの値段を算定したらそれだけ出します。先ほどのは今までの木綿生地からの算定です、新しい価格が正当であれば値切りはしません。高いものは高く売るそれが私のやり方です」

「値で競争せずに売れるというのですか」

「それが私の与えられた仕事ですから」

糸がどれだけ細くして耐えられるかが藤五郎の考える最上級品なのだろうか。

次郎丸はこの男が本気になれば絹物に負けぬ良いものが産まれると感じている。

「縞木綿に負けぬものが望みですか」

「これからは型染めに適した良い生地が多く求められるはずです。ほかの産地の前を進もうと思うのです」

伊勢晒しの業者、江戸木綿問屋、尾張木綿会所が買えない高級木綿だという。

「贅沢品ではありません、普段着に良い生地の物、それを広めたいのです」

四郎は「幸八っあんよ。お前が売ることに為るんだぜ。高くても売らにゃ為らんことに為ったぜ」と肩をどやした。

「密度が一寸十八本越したら重くなりますかね」

「細糸の強さ次第だな」

糸をつむぐのに単なる夜なべでは済まなくなると男たちも緊張している。

それまで藤五郎を甘く見ていたようだが仕事師の目つきに為ってきた。

隠居が「綿打ちも流れ者に任せていては量産出来ないよ」と言っている。

銀(かね)も出して高機(たかばた)も貸し出す、これで良い物作れなきゃ恥だと真剣に為ってきた。

「木綿の種も銀(かね)をかけていいものを探し出そう」

皆で儲けようと集まった男たちが、皆で良いものを造りだそうという意識に為っていく。

兄いはこれで幸八も目覚めるだろうと期待していた。

「奥に御仕度整いました」

女将が一段落したとみて声を掛けた。

全員で部屋を移ると一人に大小三膳、鯛が焼かれた皿の膳、赤飯、鱧鮓、穴子鮓、吸い物、煮物、香の物と並んでいる。

女将が「日間賀(ひまか)の鯛五十枚別けていただけました」と自慢した。

将軍家へも献上される御用鯛で有名な島だ。

芸者に仲居が盃へ酒を注いで回った。

「皆様、熱田へお泊りゆへ持ち帰りは出来ませぬとお聞きしました。すべて食べてお帰りくだされませ」

女将の言葉に笑いが起こっている。

隠居の「さぁ、皆さま盃が満たされましたら、仕事の成功を祈って乾杯いたしましょう」で宴席が始まった。

 第七十五回-和信伝-拾肆 ・ 2024-06-06

 
   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記