文化十一年三月二十六日(1814年5月15日)・五十九日目
朝卯の下刻(五時二十分頃)に靭負主従と別れた次郎丸達は、四日市の湊を見に遠回りした。
此の湊から宮へは海上十里なので、桑名へ寄らぬ伊勢参りの客が増えている。
江戸の辻に道しるべが有る。
南面“ すぐ江戸道 ”
北面“ すぐ京 いせ道 ”
西面“ 京 いせ道 ”
東面“ 文化七年庚午冬十二月建 ”
みたき川、かいぞ川を渡れば三ツ矢(三ツ谷)一里塚、兄いが「七時丁度だ」と云う。
江戸から九十四番目(九十九里目)京(みやこ)から二十六番目。
「富田(とみだ)の蛤を食いますか。桑名でたっぷり食いますか」
「桑名でなら腹がすくだろうからその方がいいな」
街道沿いは休み茶見世より、はまぐり茶見世の方が多くなってきた。
三ツ谷立場には八田藩一万三千石の陣屋が有る。
八田藩は東阿倉川藩、加納藩と呼ばれる定府大名加納家の領地で西阿倉川、芝田・貝家・北小松にも領地が有る。
加納大和守は、大番頭(おおばんがしら)には三十三歳で家督を継いだ一年後、文化六年に抜擢された。
羽津立場に領界石柱が有る“
従 是
北 桑 名 領 ” 立場の先の川には幅の狭い橋が架かりすれ違うにも気が引ける有様だ。
次々現れるはまぐり茶見世の客引きも賑やかになってきた。
「東富田だけじゃないぜ」
「当分続きそうだな。上るときより増えた気がするのは、単なる気のせいかな」
立場の喧騒を抜ければ一里塚が有る。
富田一里塚は江戸から九十三番目(九十八里目)京(みやこ)から二十七番目。
四日市の前後は一里塚の間が一里から一里十丁前後有る。
松寺立場から朝明川(あさけがわ)の先、柿村、小向(おぶけ)で現れるはまぐり茶見世の客引きは見目良い女が多い。
「北齋の野郎の画より美人だ」
野郎などと言うが兄いの倍は歳を食っている、この年北齋五十五歳。
上るときは女連れで茶見世の品定めはやりにくかった。
北齋が東海道を描いたのは十年ほど前に為る。
この時の縁で“ 北齋漫画 ”はこの文化十一年江戸と名古屋から売り出された。
春興五十三駄之内-享和四年(文化元年1804年)正月。
絵本駅路鈴-文化年間中頃(1810年頃)。
縄生(なお)一里塚は江戸から九十二番目(九十七里目)京(みやこ)から二十八番目。
「兄貴、桑名に一里塚が此の道中記には無くて縄生(なお)の次は熱田の伝馬町の一里塚だ。神奈川で買い入れたのは七里の渡しの次に桑名だが見つけられなかった」
「四郎さん、俺は見たこと無いぜ」
「未雨(みゆう)師匠が言うなら相当昔に有ったとでも云うのかね」
神奈川で四郎が買い求めたのが文化六年のものと、江戸から持ってきた東海道分間絵図の奥付に宝暦二年九月の物。
「府中で見た師宣のも城下に一里塚は無かった、あの道中記の元は何処から引っ張ってきたんだろう」
「此処は宝暦の治水でも収まらいほど洪水が起きますので、城下は何度も被害を受けています。早い時期に無くなったんではないですかね」
余談
縄生(なお)から桑名船着き場がおよそ一里十丁。
伝馬町から宮船着き場までおよそ七丁三十間、海上は七里。
縄生(なお)から伝馬町だとおよそ八里十七丁三十間。
八里十七丁三十間はおよそ三万三千三百二十七メートル。
桑名城下町
慶長六年(1601年)から本多忠勝は十年の歳月をかけて整備。
慶安三年(1650年)大洪水、田畑六万四千石が被害(藩領の半分を超える)。
慶安三年八月二十九日~九月二日(1650年9月24日~27日)。
城下人家四百五十戸倒壊、流失、死亡二百人余。
美濃地方、木曽・長良・揖斐三川の堤防がともに決壊、大垣近辺は被害が多きく死亡千五百五十三人、流出家屋三千五百二軒と記録された。
この年伊勢神宮おかげ参り流行。
(宝永二年1705年・明和八年1771年・文政十三年1830年にも流行)
宝暦三年(1753年)木曽川、長良川、揖斐川(木曽三川)治水工事計画起こる。
宝暦治水
宝暦四年(1754年)二月から宝暦五年(1755年)五月。
薩摩藩へお手伝い要請。
宝暦四年(1754年)閏二月第一期工事着工。
洪水の多発により工事困難を極める。
宝暦四年六月十日頃、濃尾地方大洪水。
宝暦四年七月十一日~揖斐川・木曽川洪水。
宝暦五年正月五日~二十六日木曽川出水。
宝暦五年二月一日木曽川出水。
当初見積予算十五万両だったが総工費四十万両と記録された。
工事に必要な材木は幕府負担の他に一万六千三百三十両の予算を組んだ。
薩摩藩の累積赤字は百万両を越えたと云われる。
宝暦五年五月二十五日総指揮の家老平田靱負自害。
宝暦五年六月六日副奉行伊集院十蔵、薩摩藩江戸家老就任。
宝暦六年十一月七日伊集院十蔵死去。
薩摩藩士五十一名自害、三十三名病死、明治も半ばを過ぎ、この説が流布した。
鹿児島県薩摩義士顕彰会は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理、病死三十三名、自殺者五十二名としている。
工事開始から二月目で最初の犠牲者(切腹)二名と記録されていると云う。
宝暦四年(1754年)八月、薩摩工事方に赤痢が流行し、多くの死者が出ている。
同時期に薩摩江戸藩邸でも赤痢流行、二百名死亡とも云われた。
村方に町方請負で雇われた人足の犠牲者は、記録上に現れてこない。
顕彰碑など工事が半ばで切腹するのが美徳のように扱われたのは、時期的(1900年頃)にも帝国政府の思惑と一致している。
薩摩藩の借金はこの工事だけが原因ではなく幕府財政と同じように疲弊していた。
宝暦四年(1754年)六十六万両から約五十年後、文化四年(1807年)百二十六万両と倍増している。
町屋川の橋を渡ると河原を歩き土手へ上がった。
安永(やすなが)立場の名物は安永餅(やすながもち)で、はまぐり茶見世は肩身が狭い。
未雨(みゆう)がさっさと先へ行くので誰も寄ろうとは言わない。
すぐ先に大福の集落、鉤手(曲尺手・かねんて)先に三丁ほど続く松原が有る。
矢田立場からはそのまま城下へ鉤手(曲尺手・かねんて)が続いている。
「桑名本統寺には芭蕉翁が泊まっています。句の意味を悟るまで時間がかかりました」
“ 冬牡丹 千鳥よ 雪のほととぎす ”
「野ざらし紀行に出た時、四十一歳だったそうです。本統寺は同行の木因宗匠とも同門の琢恵様が住職でした」
「“ しらうをしろき ”の時ですね」
「そうですぜ藤五郎さん。その後熱田へ渡っています。熱田の社が荒廃していたと“
しのぶさえ
かれてもちかう やどりかな ”と詠んでいますが、三年後の貞亨四年には社の修復されたことを“
とぎなおす
かがみもきよし ゆきのはな ”と詠んでいます」
外堀の土手で止まった。
「ほら、その左の堀の先に大きな伽藍が有るでしょ。あそこですよ」
吉津屋見附の先の京町見付手前の鉤手(曲尺手・かねんて)で未雨(みゆう)は立ち止まり「昔は此処に橋が有ったそうでね」と懐かしそうに語った。
「わっしは此の右手の鍛冶屋の多い鍛治町で生まれやした」
見附を抜けて京町へ入った。
春日神社西門の休み茶見世へ入った。
弟は昼の仕込みをしている、良い匂いがただよつていた。
土間ではバァさんが飯を炊いている。
「今戻ったぜ」
「船はどうなさる」
「明日の朝にする予定だ。少し早いが昼を食べたら切手を買うよ。潮の具合はどうだい」
「辰の船なら近回りだ。兄貴は浅蜊を煮込まない方が好きだが、後の人はどうする」
「両方出すのが一番だ」
「しぐれ煮ですかい」
兄いも匂いが気に為るようだ。
「今日は浅蜊の剥き身を二貫程買ってきたので生姜と醤油に味醂で炊いているんですよ。しぐれ煮にするのが良ければ鍋を別けますぜ」
女房が籠を背負って戻ってきた、仕入れてきた松毬(まつかさ)で一杯だ。
「兄様、今お戻りで」
「ああ、明日は宮へ渡るよ。蛤をたっぷり焼いてくれ」
「あいな。今女連中も来るからすぐ焼きますよう」
浅蜊の浅煮と云うのは飯に会うだろうと思うほど美味い。
次郎丸は深川飯を思い出した、鉄爺に聞いた話では昔の江戸は、蛤を一升桝で計っていて、十六文が二十文になったと大騒ぎするほど安いものだったと云う。
兄いは酒も注文した。
三人の若い女衆が来ると腕まくりし、囲炉裏ではまぐりを焼き始めた。
幸八が「こいつで飯にしたら蛤が入らない」など言いながら飯を頼んでいる。
「今蒸らしていますが待ちますか」
「待ちます。待ちます」
バァさんは次の竈も吹き上がるのを見て、火を落としている。
浅蜊を長く煮込んだものも出てきた。
「しぐれ煮は蛤の後に為りますぜ」
未雨(みゆう)は「蛤のしぐれ煮は十一月から二月が美味いという人が多いですが、浅蜊は三月から五月が一番だそうです」と地元自慢だ。
はまぐりが焼き上がってきた、匂いにつられ表では立って蛤を食べていく者もいる。
縁台で浅蜊の炊いたのを飯に乗せて食べるものが出始めた。
「しぐれ煮は冬至蜆に夏の土用蜆、夏の土用は最近江戸から流行ってきて鰻も焼くんですよ。蛤の旬は今頃ですのに何で真冬のしぐれ煮が人気なんでしょう」
蛤を焼いている女は師匠に聞いている。
「そいつはな。今時期の蛤が高いからだ。ここへ来るのが百で二百四十文、おまけに大きさもそろえなきゃならねえ。中振りのしぐれ煮二十文で一折十個がいいとこだ。どんだけ安くしても釣り合わねえ」
藤五郎が頭を捻っている
「師匠、じゃしぐれ煮の蛤は儲からねえ」
「名の通った見世は漁師と繋がっている。網から落ちるのを年間通し値で買うのさ。三段の一番上が大店や本陣の取り分、二段目がこのような見世用、三段目がしぐれ煮で、その下は沖へ戻すんだ」
この仕組みが出来て抜けがけも無くなり、値段も安定しているという。
「じゃ大はま食べたきゃ料亭行けば出るんですかい」
「今晩も食べたきゃ用意して貰うよ。伊勢の鮑に栄螺もお好み次第だ」
女房は「大蛤のしぐれ煮は三っ入って銀六匁だけど、三日前の予約が必要になりますよ」と脅かしている。
「一つで鰻の大串とおんなじか」
「ここでは手二つで江戸風に蒸して銀一匁で売りましたよ、どんぶり飯は十二文、浅蜊の浅煮は小椀で十二文ですよ」
十分食べて飲んだ一行は銅の鳥居を潜り抜け、渡し場の蔵前船会所でむしろ一枚分四百二十四文の席、四枚分を辰の船で買い取った。
未雨(みゆう)は問屋場で封書を受け取ると片町の通り井はす向かいの“
こうだや ”へ案内して、七人で入った。
「さて、本町遊郭で昼遊びでもするなら案内付けますぜ藤五郎さんよ」
「近いんですかい」
「此処が浅草寺仲見世なら吉原より近いすぜ」
幸八も気に為るようだ。
「勢州桑名に過ぎたるものは二朱の女郎に銅の鳥居と聞きますがお伊勢参りの帰路で遊ぶ人が多いのでしょうね」
「幸八と二人で冷やかしでもしてきますよ」
二人は案内の男と出て行った、男は戻って「恒栄楼で四人芸者を呼んで遊んでいます」と未雨(みゆう)に告げた。
四郎がこの道を芸者衆が行き来しているが遊郭は多いのかと聞いている。
「本町、江戸町、川口、高砂、後は遠く為ります」
「遠いとは」
「富田の立場に三軒」
「そりゃ遠すぎる」
未雨(みゆう)にお捻りを貰って出て行った。
「桑名より古市は遊女も多いですね。手近で精進落としと思うんでしょう」
遊郭七十軒、遊女千人と噂が有る。
「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)の舞台だね。油屋の場は森田座で見ましたよ。坂東花妻がお紺でしたぜ。若いが良い役者だ四代目の佐野川花妻を襲名した時も猪四郎と見に行きましたぜ」
「そんな話初めて聞いた」
「若さんに芝居小屋の話をすると台本の抜書きを探せと煩いからね、浄瑠璃本なら手に入るけど芝居の方は難しい。森田座で観劇したのは政(つかさ)様が生まれた次の月でしたぜ」
文化九年四月十四日森田座初日、福岡貢を坂東重太郎が務めた。
最近の兄いは酒田から雪中を江戸へ出てくることが多い、夏至を前に酒田へ戻るのが通常だ。
冬の夜話を各地で聞くのが通例に為ったようだ。
用事の多い時は真冬の十二月初めに江戸入りする時も有る。
大抵は役者絵や街道の様子を描いた浮世絵集めだ。
未雨(みゆう)が先ほどの包みを開けると次郎丸あての封書も入っていた。
「若さん、奥方からですぜ」
三月三日の日付が有る、“
なほ ”の手で懐妊したと書いてある。
「まだ二月に入ったばかりの様だ。十月すえの出産予定だそうだ」
「おめでとうございます」
「もう大殿が生まれれば我が子とすると言ってきたそうだ。養子先とは縁のない子供に為る」
日暮れ前に藤五郎と幸八が戻ってきた。
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