「拾遺都名所図會で見た画とおんなじだ」
新兵衛は石段の下の清水焼の窯が並ぶのを飽きずに見ている。
書肆文英堂は三寧坂の下二寧坂茶屋の並びにあった。
左は八坂の塔、右が高台寺へ続く二寧坂。
書肆へ入った。
新刊には目新しいのは無いが酒田へ送るには手ごろな物が多く置かれていた。
「義助も欲しいものを選びな。金額次第でなんていわんぜ」
四郎は手持ちぶたさで次郎丸と無駄話だ。
幸八が「八坂の塔と附けたからには近所に坂が八つあるのでしょうか」と二人に聞いてきた。
祇園坂、清水坂、三年坂(産寧坂)、は聞いたが後は知らんと四郎が言う。
店主は手代にまかせてこっちの話に乗った。
「山ノ井坂、霊山坂、法観寺坂、下河原坂、長楽寺坂、ですな」
絵図を出して教えてくれた。
八坂の塔は法観寺だそうで確かにその周りに坂は多そうだ。
新兵衛は江戸送りと酒田送りに分けて商談がまとまり、小判六十両に銀四百匁だと決まった。
義助は六冊選んでいて文英堂が寄越した風呂敷へ包んだ。
「そろそろ飯にするか」
「汁ものにしますか。豆腐料理」
「湯豆腐より田楽が有るはずだ。江戸湯島に祇園豆腐とだした見世の元祖が有ると聞いた」
「祇園さんの二軒茶屋だと思いますが、中村屋に藤屋とありますえ」
新兵衛が“ 拾遺都名所図會 ”の画で見たという。
「ありゃ鳥居の方から見て右の見世だ。左の見世は」
「左は西側だから藤屋どすえ」
「そっちへ行こうぜ」
次郎丸も画で有名なら反対が良いと天邪鬼だ。
次郎丸今日は幸八が背負ってきてくれたちと上等の黒の羽織に、縞のはかま姿だ。
紋は替紋ではなく星梅鉢の筋目の物だ。
昨日は北野に遠慮して旅の羽織だったが、一度は手を通さないと持たせた“
なほ ”の顔がつぶれると羽織って出た。
「梅鉢は多いですね。今日だけで十人は見ましたぜ」
幸八もそういうことはよく気が付くようだ。
霊山坂を下った。
「なぁ、右手へ下り坂だが、これも上がるというのか」
「あほらし。藤五はんは可笑しなことばっかり考えますのやな」
右手下河原坂の突き当りが石鳥居で扁額には“ 感 神 院 ”とある。
南楼門前の参道へ入った。
湯島とは水も違うのか豆腐自体が美味い、根岸とは旨さはどっこいだが風味が勝った。
豆腐切の若い女子は手さばきも綺麗で、指先に藤五郎と幸八は見とれている。
豆腐を平たく切ると二本刺しで火にかけて焼きを入れる。
味噌たれで煮て上に細かく砕いた麩粉や花柚をかけて香りも楽しめる。
「そうか味噌は塗るのでなくて煮るのか」
藤五郎は感心している。
「この時期でも柚子が手に入るのかね」
「本柚子とは違いますのや。暮れに収穫して寝かしますんや。五月に成れば青い実が付きますえ。そのほうがええいわはるお方もおりますえ」
酒やほかの物を頼まなかったので一人二本でやめにした。
新兵衛は二百四十文だというので豆板銀二枚と四文銭五枚を置いてから盆脇に豆板銀を一枚置いた。
大きな買い物後で気前が良くなっている。
「明日、お東はんのほか予定はおまんのどすかえ」
「決めてないよ。どこか行きたいのか」
「嶋原、一度も門くぐったことあらしまへん」
「義助の奢りなら今晩でもいいぜ」
「あほらし。祇園新地でも手におえへん」
“ さのや ”から一里も無いという、お東で半里、其処から八丁でお西、さらに五丁先が新屋敷事嶋原遊郭。
余談
吉野太夫は代々名で二代目は寛永八年(1631年)二十六歳の時に灰屋紹益(はいやじょうえき)と婚姻した。
井原西鶴は“ 好色一代男 ”に登場させ世之介と婚姻させている。
八千代太夫の名は清国、朝鮮まで届いたという、万治元年(1658年)二十四歳で廓を離れたという伝説の名妓だ。
初代の夕霧太夫は置屋扇屋の太夫で、寛文十二年(1672年)扇屋が大坂新町へ移転すると大阪初の太夫に為ったと云う。
“ さがみのくにをたちいでて ”
次郎丸が唄いながら参道へ出て行った。
「若さん今日はだいぶご機嫌だぜ」
「兄貴から景清はめったに出ませんぜあにい」
義助は「不思議な節ですね」と云う。
色町付近ではめったに聞かないようだ。
小さな中門を潜ると東に日光、西に月光の社が有る。
正面は拝殿(舞殿)、その後ろに本殿が有る。
西楼門へ向かうと御供殿に薬師堂。
愛染堂に寄り添うように休み茶見世が軒を連ねている。
絵馬堂の腰掛には三十人ほどが休んでいる。
元三大師に寄り道し、蘇民社へも寄り道し、西楼門から出た。
余談
公式創祀
斉明天皇二年(656年)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。
貞観十八年(876年)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立。
同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立った。
慶応四年・明治元年(1868年)神仏分離令により「八坂神社」となる。
(鎌倉時代までには牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合。平安時代から明治までは神仏習合により、祭神は牛頭天王、西座-頗梨采女、東座-八王子の三座)
祇園社 (延喜神祇式曰山城国愛宕郡祇園神社式外三座)
西間 本御前・竒稲田媛の垂跡なり・一名婆利女
・一名少将の井・脚摩乳手摩乳女
中間 牛頭天皇・大政所と号する・進雄尊(スサノヲノミコト)の垂迹なり。
東間 蛇毒氣神(ダドクケシン)・龍王の女・今御前也。
石鳥居
・ 正保三年(1646年)建立。
南楼門
・慶応二年(1866年)火災焼失。
・明治十六年再建(公式)。
・明治十二年(1879年)氏子の寄進によって再建。
舞殿
・慶応二年(1866年)火災焼失。
・明治七年(1874年)再建。
・明治三十五年(1902年)改築。
本殿
・正保三年(1646年)焼失。
・承応三年(1654年)徳川家綱が再建。
西楼門(夜叉門・籠門)・応仁元年に罹災、明応六年(1497年)再建。
・永禄年間(1558年~1570年)檜皮葺から瓦葺へ。
・大正二年(1913年)四条通拡張により現在地に移り、翼廊(よくろう)建立。
・平成十九年(2007年)朱塗り塗り直し・瓦の葺き替え(約七千四百枚)総工費一億五千万円。
新兵衛は「今日はこれで終わりにしよう」と義助に言って新地から宮川町へ入った。
“ さのや ”には未雨(みゆう)宗匠がのんびり茶を飲んでいた。
十五日に桑名で別れてまだ六日しかたっていない。
「三日桑名で用事を片したにしちゃ早いな」
「新兵衛さんは兎も角、若さんに四郎さんよりゃ俺の方がましですぜ」
女将が練羊羹を切り分けてきた。
「最近は蒸しより練に人気が出ましたんえ」
広橋殿町の虎屋の羊羹だという。
「このところ代替わりで色々噂が出ましたが。ようよう持ち直して今まで以上だと評判おすえ」
見世のある広橋殿町は一条烏丸ではなく烏丸一条だと女将が言う、歌で覚えるのだという。
まるたけえびすに おしおいけ
(丸竹夷二 押御池)
あねさんろっかく たこにしき
(姉三 六角 蛸錦)
しあやぶったか まつまんごじょう
(四綾 仏高 松万五条)
せったちゃらちゃら うおのたな
(雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚)
ろくじょうさんてつ とおりすぎ
(六条 三哲 通りすぎ)
ひっちょうこえれば はっくじょう
(七条 越えれば 八九条)
じゅうじょうとうじで とどめさす
(十条東寺で とどめさす)
女将も調子が出てきた。
「続きもありおすえ」
てらごこ ふやとみ やなぎさかい
(寺御幸 麩屋富 柳堺)
たかあい ひがし くるまやちょう
(高間 東 車屋町)
からすりょうがえ むらごろも
(烏両替 室衣)
しんまち かまんざ にしおがわ
(新町 釜座 西小川)
あぶらさめがいで ほりかわのみず
(油醒ヶ井で 堀川のみず)
よしやいのくろ おおみやへ
(葭屋猪黒 大宮へ)
まつひぐらしに ちえこういん
(松日暮に 智恵光院)
じょうふくせんぼん さてはにしじん
(浄福千本 さてはにしじん)
「若さんたちゃ昨日は西北、今日は東で明日は西ですかい」
「新屋敷は頼んである。お東は四郎の寺受け証文にあるんだ行って於かないとまずかろう。松の尾も行きたい処だが遠いしな」
「松の尾さんなら二里ほどどすえ」
「嶋原で半分か。駕、馬も面倒だ。美味い物やでも有りゃいいが」
女将が「小僧の話じゃ昨日が湯豆腐、今日が田楽だそうで。京(みやこ)の豆腐はそなに美味しどすか」と振ってきた。
「まさかここも豆腐かえ」
「鶏の叩き団子の鍋ですが、豆腐を入れてもおいしうござんすえ」
「今だと水菜か菊菜かい」
「終りの水菜が出て居りましたので仕入れたそうですえ」
その晩新兵衛も加わって大坂迄船で下るか歩くかを相談した。
近頃は早舟も許されてと吾郎が言う。
定めが出来たのは権現様の時代、「世の中も忙しくなって」と女将が茶を入れながら笑った。
全長五十六尺、幅八尺三寸で船頭四人が決まりだったが、早舟が認められ六人の船頭で二十八人の客を運んだ。
伏見の湊四か所、平戸橋、蓬莱橋、京橋、阿波橋を特別仕立て以外は夜に出て大坂へ早朝に着く、およそ三刻(六時間)。
上りは大仕事だ、大坂八軒家、淀屋橋、東横堀、道頓堀を朝に出て夕刻伏見へ着くおよそ六刻(十二時間)。
上りは九か所の綱引き場が有る、八軒家船着場から伏見は十里十三丁余。
八代様の時、上り百七十二文、下り七十二文となっていたが、過書奉行から値上げをようやく認められていた。
淀川筋支配の角倉家、木村家も手におえないのは、川浚いに金が掛かり人足たちは乗客に強請る(ねだる)という事態まで起きているのだ。
枚方の“ くらわんか ”は江戸まで聞こえる有名な物売り船だ。
鉤爪をひっかけて纏わりつくのでつい買ってしまう。
「今年も鱧の自慢を聞かずに江戸へ戻るようだ」
「夏と暮れの二回の旬が有ると聞いたよ」
「祇園御霊会の頃が一番だと言いますがね。鱧鮨は私にゃ桜の終わるころが美味いのですがね。京は無くとも大坂で食えるでしょうぜ。祇園会といやぁ其角宗匠は江戸小舟町の祇園会とこっちの祇園会の句が有りますぜ」
“ 杉の葉も青みな月の御旅かな ”が「五元集」に有り“ 鉾にのる人のきほひも都哉 ”は「華摘」に有るという。
「一茶宗匠や芭蕉翁には無いのかね」
「見た覚えがないですよ四郎さん」
「兄貴は」
「覚えがないなぁ」
「あにいは」
新兵衛は俳句本にあまり興味がないようで、義父に頼まれたものを探すくらいだ。
「俺の知ってる其角師のは“ 鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春 ”くらいだね。未雨(みゆう)さん五元とは意味でもあるのかい」
「延宝、天和、貞享、元祿、宝永と五つの年号の時代によんだ句を延享四年に発行したのだそうだ。華摘(はなつみ)は元禄三年だ」
「新兵衛あにい、俺にその本呉れたの覚えていないのか」
「其角の物なんてありましたか」
「しんぺえの野郎が俺にゃ用がねえと云っていたやつだよ。序文を覚えているよ」
“ 元禄三年の事にや。母の寺に詣でまかりしに、四年過つる春秋も悲しびをもよほすかた多かりければ、思ひを是によせて、心ざしを手向侍りしより、彼祇公の一とせの日次を発句つかうまつれりし海山の情、雲水のあはれをも、転法輪讃仏乗の道に入とのみおもひなし給ひけん。 ”
其角は母妙務尼の墓に詣でた時に“ 灌仏や 墓にむかへる 独り言 ”と詠んでいる。
「かのぎこうと云うのも俳人かね兄貴」
「かのできってぎこうだ。宗祇という名を聞いたこと無いか」
「連歌師の宗匠か」
「そうだ多くの人へ古今伝授をしたと云われているな」
一同は知らないが一茶は祇園会の句を残した。
七番日記は文化十年の頃からだが詠んだ句がまだ世間に広まっていない。
“ ぎおんえや せんぎまちまち ひくやまぞ ”
“ つきほこに もっとそびえよ あさけぶり ”
“ ほこのちご たいこによいも せざりけり ”
柏原に祇園会の情報は見つからず、近くなら中野、長野の祇園会が有る。
一茶は寛政四年三月二十五日から西国へ俳諧修行に赴いている。
父親から頼まれた西本願寺の代参もこの時行われている。
また寛政七年の五月ごろに京都へ再び訪れていて、此のどちらかで祇園会の頃も滞在しその光景を後に詠んだのではないだろうか。
寛政七卯年十月十二日に義仲寺での興行へ参加“ 義仲寺へいそき候はつしくれ ”を詠んでいる。
祇園御霊会は六月七日、祇園社から四条京極のお旅所まで、三基の神輿が巡行するのが神幸祭。
十四日はお旅所から祇園社に神輿が戻るのが還幸祭で山鉾は三十三基が出る。
先ほどから新兵衛が首を捻っている。
「どうしたあにい」
「いやな未雨(みゆう)宗匠が其角と言ったのが咽喉に引っかかるんだ。どこかでその句を見た気がするんだ」
「どっちだい」
「みやこかな、ってほう」
「ネタばらしをするか。都名所図會にも使われているよ」
「ああ、長刀鉾の画だ。長刀が画の枠を突き破っていた」
藤五郎が今度はもう一つの句について聞いている。
「どうしてもう一方が江戸と知れるんです。どこかに載りましたか」
「おお、いいとこへぉ気がつきなさった。横須賀の帯梅(たいばい)宗匠のお弟子だけは有る」
まだ弟子となって指導は受けてはいない。
「天王の御旅所を拝すとしてもう一句“ 里の子の夜宮にいさむ鼓かな ”前の句には“ 祇園酉のかりやしつらふを ”と書いてあるよ。作ったのが酉年の祇園会だったのかな」
新兵衛は江戸へ出た当時は天王と山王の区別さへ付かなかったと笑わせた。
余談
変遷が激しく文化文政は正徳の頃とは違っていたようです。
神田明神に在る三天王は小舟町八雲神社、南伝馬町江戸神社、大伝馬町八雲神社。
例によって明治期に祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)に統一されている。
祇園会御旅所は南伝馬町、大伝馬町、小舟町に置かれた。
小舟町八雲神社の祭神櫛名田姫(本御前)。
小舟町は四年に一度。
大伝馬町八雲神社の祭神八王子(素盞鳴命の御子神五男三女)。
南伝馬町江戸神社(天王一之宮)の祭神牛頭天王素盞鳴命(大政所)。
|