第伍部-和信伝-参拾漆

 第六十八回-和信伝-参拾漆

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  


女中が給仕ついて台の物の小鉢の食材を教えてくれた。

「こちらは大根と油揚げの炊いたん、この黒ぽいのんはひじきや昆布の炊いたんですがな」

食べだしたら鰻がお重で来た。

「やけに大きいお重だ」

「これな。下は湯たんぽですねん。あつつの湯をいれたもんが入っておす」

飯が入れてなくてもこれなら暖かく鰻が食べられる。

女将が「鯖寿司届きましたえ」と持ってきた、新兵衛が「酒を追加だ」と頼んだ。

二月二十日

卯の刻に「おきなはれや」と声をかけて女中が廊下を歩いている。

久しぶりに一人一部屋で寝たので早起きしたものは居ない様だ。

「お粥さん冷めてしまいますえ」

次郎丸が出てこないので呼びに来た。

慌てて歯を磨き顔を洗った、皆呑みすぎて寝ぼけまなこだ。

「京(みやこ)の酒だというが美味くて飲みすぎた」

二刻あまり追加を重ねてだいぶ飲んだようだ。

「高辻堀川の八文字屋はんの“ 初桜 ”どす。五人で四樽空にしはりましたんえ」

口開けでもあるまいし大袈裟な言いようだと四郎は半信半疑だ。

「桜も終わるのに初桜か」

「桜どしたら平野さんも咲いてはります。北野さんは一昨日八分咲きどすえ」

新兵衛と気が合う娘で昨晩から話が弾んでいる。

「それじゃ手始めに北野まで遠出しますか」

一里二十五丁程になるという。

「一刻も有れば途中で見物しながらで充分だな」

明日は祇園さんにきよみずはんなどにされますかと聞かれた。

「今日、嵐山に回ると日暮れまでに戻れるかな」

お昼食べ張っても駄々酒飲んでいなきゃ十分ですという。

昨晩後引き酒で騒いだようだ。

桜花 主を忘れぬ ものならば 吹き込む風に 言伝はせよ

「それ、右大臣の歌かね兄貴」

「梅と同じさ。こっちは飛ばずに枯れたと言われてるぞ。雷神を恐れて右大臣正二位、亡くなって百年たたずに正一位太政大臣迄贈っている」

娘はうんうんと頷いている。

三条大橋を渡り、長刀鉾町先で烏丸を上がり、下立売御門で下立売を西へ進んで六軒町先を右、七本松通を上がって、天王寺の毘沙門町で左へ行けば上七軒で北野の東鳥居前の御前通。

次郎丸はうろ覚えの京(みやこ)の絵図でそう考えている。

七本松通までは考え通りだったが、東今川町へ入り西今出川一の鳥居へ案内された。

此処まで新兵衛の質問攻めに的確に答えを返している。

豊太閤のお土居で、北野天満宮は洛内、平野神社は洛外となった。

鳥居の前、参道右に影向松(ようごうまつ)が有る。

北野経王堂の前に有 天神詫してのたまはく 初雪ふるときは かならずこの松の上に来現すべしと これゆへに松梅院をはじめ 八十余人の宮司素足にて 初雪の時この松を回りける 信あるものは必ず御神体を拝みけるとなん

「わかさん。どの本に出ているのですか」

小僧の義助はいつの間にか仲間の様な口利きだ。

「元禄三年に発行の名所都鳥だ。書籍を扱う店で有れば買ってやる」

「本当ですね。しめこのウサギだ。太閤さんの茶会は松の向こう側で開かれたよし。右近の馬場と云いよるねん」

見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなく今日や ながめくらさむ

「うひぁ、業平さんどすな」

「おお良く知っていたな、義助も業平のように女にもてそうだ」

左近の馬場で女性の顔が車の下簾から覗いたと詠んだ歌だ。

下簾は前後の簾の内側に掛けて、簾の下から外部に長く垂らした絹布だ。

参道左に東向観音寺の鳥居前に忌明塔が有る。

義助は知っていた。

右大臣が幼い頃勉学に励んだ場所で太宰府の観世音寺から、右大臣作の十一面観音像を移して本尊としたと喋った。

「右大臣の母君を祀ります。ちちははの忌日開けに詣でる人が多いところやす。此の鳥居は京都三珍鳥居と言われておますのや」

新兵衛が「そういや台座にも模様が有るぜ」と指差した。

「まだふつうと違いますのんや」

指差したのは上の方だ「額の束がめり込んでるよし」というが普通の鳥居とどう違うのかよく解らない四郎だ。

「笠木の下を島木と云いますのんや。その間に割り込むのは此処だけやす」

「今度鳥居を見るときは気を置いてみるよ」

「昔は右手にも観音堂が有ったし。応仁の乱で燃えたと人は言うとるよ」

参道左手の梅の園は実が付き出していた。

鳥居の先に茶店が左右にある、長五郎餅や粟餅の澤屋が江戸にまで名が聞こえてくる。

「いくら名物でもこの時間じゃ寄る気にもならんな」

新兵衛と四郎はさっさと楼門へ向かった。

都名所圖會に描かれていない青銅の燈籠が有る。

延寶五丁巳年 ”と為っていた。

階段を上ると門の左右には弓矢を持った随身像が置かれ、正面上部には、「文 道 大 祖 風 月 本 主」の額が乗せてある。

楼門を抜けると参道は左へ偏っている。

先に右手の手水舎で口を濯いで身を清めた。

楼門の西側へ向かい六人は一夜松社へまわった。

雍州府志に“ 一夜松社は本殿の未申の方にあり。世人、なぎの宮と称す。天暦九年三月十二日、神託して曰く、北野右近の馬場において、一夜に松千本すべからく生ずべしと。果たしてその言の如し。遂に社を建つ ”とある。

「多すぎて末社を巡って居ては陽が暮れますえ」

参道へ戻り白川狛犬と、義助が指差す狛犬は吽形の頭上の角が大きい。

文化七年庚午季秋

これも都名所圖會にはなかったと次郎丸が言うと「描いた人、本当に来てるんですかね」と幸八は半信半疑だ。

「わりぃわりぃ。こっちは本が出た後だよ。小さいものを飛ばすのはよくある手だ」

「なんだ。若さんからかいなすったね」

三光門には星はないと義助が言う。

「昔、帝が当社を遥拝する際、三光門の真上に当たる場所に北斗が輝いていたので、あえて星を刻まなかったよし」

昔の御所は千本丸太町にあったというが五人はその場所を知らない。

二条のお城の西北の火の見の千本御屋敷で所司代屋敷ですと言われても定かではない。

義助は渡辺綱寄進の灯籠だという。

「鬼の腕を切ったという人だな」

藤五郎も名前は知っているという。

「一条戻り橋での話ですが、伝わる話では一度捕まって天神さんの上まで来てようやく腕を切って逃れたそうです。天神さんの加護の御かげと燈籠を寄進されたそうどす」

通り抜けると拝殿が有る。

六人は神妙に礼拝し、左手の門から出て御本社へ回った。

禰宜に頼んで祈祷を挙げてもらうことにした。

新兵衛は六人分一分判六枚を三宝に乗せ、記帳をそれぞれが本名で書きだして差し出した。

禰宜は御祓いしてくれた後、木製の狛犬の由来を聞かせてくれた。

狛犬と獅子の違いなど義助に幸八、藤五郎には初耳だったようだ。

阿吽について向かって右側に配置され口を開けた“ 阿形 ”ものが「獅子」、向かって左に配置され口を閉じたもの“ 吽形 ”は「狛犬」正式には角が有るのだと云う。

「時代とともに角が取れたものが多くなり、阿吽だけが様式に為った」

吽形は黄金に塗られ鬣に尾は青、阿形は黄金に塗られ鬣に尾は緑だった。

余談

北野天満宮の狛犬と牛

狛犬

- 青銅狛犬、一の鳥居(大鳥居)前・昭和九年十月(1934年)。 

- 境内の宝物殿の前、壱の青銅狛犬のレプリカの石膏像。

- 影向松前・明治十六年十月新町石工信次良。

- 萩狛犬、二の鳥居・文久二年壬戌之春三月(1862年)。

- 三の鳥居前の狛犬・明治二十一年三月(1888年)芳村茂右衛門(三代目)。

- 楼門階段脇・明治三十九年十月芳村茂右ヱ門(四代目)。

- 三光門へ続く参道・明治十五年(1882年)芳村茂右衛門(三代目)。

- 白川狛犬、星欠けの三光門-文化七年庚午季秋(1810年)。

  吽形の頭上の角が大きい。

- 北門の構え型狛犬・嘉永元歳戊申五月松梅院(1848年)。

- 浪速狛犬、右近の馬場、楼門前の東の道・嘉永五壬子春正月吉日(1852年)。

拾壱- 東鳥居狛犬・平成二十五年(2013年)。

 明治十二年(1879年)建立芳村茂右衛門(三代目)狛犬老朽化による建て替え。

拾弐- 東門前(四脚門)狛犬・天保六年巳未万代講(1835年)。

拾参- 浪速狛犬、一夜松神社・天保十年歳次己亥秋九月・(1839年)・水野忠邦。

此の天保十年の忠邦は老中勝手掛りから十二月に老中首座に着いた。

拾肆- 本殿木製狛犬・金箔、阿形緑の巻毛と尾、吽形青い巻毛と尾。

 

撫で牛・参道に五頭(親仔も二か所ある)

石造

石造-仔牛

-仔牛

石造-楼門手水舎の牛

石造-楼門北赤目牛明治14年奉納

石造-絵馬所東

-三光門西

柄付-三光門東

石造-社務所北 

石造-境内の北西牛舎“ 一願成就のお牛さま

彫刻、絵画多数存在

一の鳥居燈籠台座、楼門前の左右にある燈籠など

本殿蟇股立ち牛

絵馬所の画、彫刻多数

裏手の“ 裏の社 ”は本殿と背中合わせだ。

舎利門をくぐり天穂日命、菅原清公(すがわらのきよとも)公、菅原是善(すがわらのこれよし)公へもお参りするのが礼儀だと義助が言う。

地主社は天神地祇を祀る社だ。

続日本後紀には“ 承和三年二月一日、遣唐使のために天神地祇を北野に祭る ”とある。

義助は小石で北門を叩いている。

「火事から逃れるおまじないどす」

雍州府志“ 凡そ男女、この社に詣する時、必ず石を以って北の門を叩く”とある。

北門を出ると道の先に料理屋が軒を連ねている。

お土居を抜け、紙屋川の木橋を渡り平野社へ向かった。

塀の向こうに葉桜と満開の八重桜が咲いている不思議な光景だ。

料理屋と休み茶見世が右手北側にある。

「夜桜も綺麗です。芸子はん連れはるお大臣が来るのを目当てに来はる方も多いどっせ」

「義助も観に来た口か」

「お客はんの案内どす」

少し強く言うのは図星だったようだ。

門を入ると拝殿があり、右手に末社が並んでいた。

御神木の楠が木陰を造っている、此処で巫女さんが奉納舞をすると聞いて新兵衛が掃除に余念ない三人の巫女へ聞いてみた。

「用意に半刻掛りますえ」

「一回りするから待つよ」

一人の若い巫女に案内されて申し込みに向かった。

拝殿の左は桜の木の群落だ。

「八重桜にも名が有りはりますえ。胡蝶、平野妹背など有ますえ。その蕾は“ つくばね ”と言いますねんや」

開いているのを見つけた、花弁の重なりがすごいことに成っている、花芯は紅が濃いものも有った。

「数えるのも大仕事になりそうだ。花弁(はなびら)の数を調べたくなるな」

先へ進むと「これが胡蝶ですねや」と薄桃色の花を指差した。

三本先の木を「平野妹背」とあっさり先へ行く。

中門を抜けると本殿の前に白い花が咲いている。

「衣笠いいまんねや」

義助が懸命に祭神を思い出しながら説明してくれる。

「今の木と書いていまきですが昔は今来ると書いたそうです、平氏も源氏もなく崇敬されています」

新兵衛が戻ってきた「しっかりしてますぜ、六人で六分出したら巫女が足を抓りよった。別に奉納舞に二両と指を二本建てましたぜ」と嘆いている。

「そりゃ二分の勘違いですよ。冥加は御心次第でも舞は二分ですえ」

「しまった。巫女さんにつられて一人で行ったが間違いだ」

それほど残念でも無さそうな顔だ。

「一人舞でなく、巫女さん総出になるんじゃ有りませんかあにい」

そつのない兄でもやらかすと幸八は喜んでいる。

笛と小鼓を持った楽人が巫女を四人連れてきた。

床几が六人分用意され、おっと思った参詣人がばらばらと集まってくる。

次郎丸は自分の隣へ義助を座らせた。

「まるで我が仕切るみたいで気恥ずかしい」

など言っていたが小鼓が“ トン ”と鳴ると食い入るように観ている。

榊(さかき)と幣帛(へいはい)、五十鈴(いすず)と剣など持ち道具は違えど優雅に舞って見せた。

最後に一人が扇の舞を見せて戻っていった。

新兵衛は床几を片付けに来た三人の神官へ豆板銀を三枚手渡した。

よっぽど舞が気に入ったようだ。

「渡月橋までどのくらいかわかるか」

義助は一刻あれば着くという。

「では向こうで昼にするか」

「簡単な物にしませんと酉の刻に戻れませんよ」

「偉い、良くそこに気が付いた。では金閣にして近くで飯も済ませよう」

「若さんてまるで場所を知ってるみたいです」

「おおよその場所は絵図でわかるが、これがまるで当てに出来ない代物だ」

「義助、兄貴が言う金閣は近いのか」

「十町も有りませんえ」

「そこからさのや ”は」

「う~~ん、二里ちょい」

新兵衛「数字的にはあってるが道は辛くないのか」

「坂もあまりないどすえ。昼はあっさり、こってり、どちらにしやはりますえ」

「鮎は上りだしたか」

「一昨日はこんくらい」

そういって手のひらを目いっぱい広げた。

若鮎の天ぷらで湯豆腐はできすぎかと四郎は幸八と話している。

「おとといでその位のを見たなら選び抜いて上物を出す店もあるだろう」

「嘘みたいどすえ、一人二朱だと聞いたばかりどすえ」

「どこにある店だい」

「天神さんの北門を上るんどすがな」

「面白い」

藤五郎がぼけた。

「おいおい、北門の北側へ入るということだ。ボケを咬ましたのか本気か気がしれねえ」

上る・下る、東入ル・西入ルは京(みやこ)独特な言い方だ。

お土居を戻り北門の先の社家の家並の先の風雅な門構えの家に入った。

「さのやの義助どす。いきなりですがわてを入れて六人入れますやろか」

「お決まりでよろしか」

「おたのもうします」

廊下さきに小川を配置した築山が有る。

提子が置かれ酒を銚子へ移し、それぞれの器に注いで回った。

大根と油揚げの炊いたんが出たあと土鍋で湯豆腐が各人に出てきた。

おいしおすなぁ」

義助は大喜びだ。

小鮎の塩焼き、小鮎の素揚げに飯が付いてきた。

「お決まりは此処までどす。お酒を飲みはるなら卵焼が有りますえ」

「どうする金閣へ回らずに飲むか」

四郎は「夜を控えるなら今のもう」ともう少し欲しいようだ。

「義助はいい所を知っているな」

「半月ほど前、姫路から御出でなさはったお客様が、連れてきて呉れはったどす」

女将がそれを裏打ちして「酒井さまの御用人の田所さまの紹介どすえ」と言ってきた。

次郎丸はまずいと思った。

女将が支度に座敷を出ると義助と藤五郎が厠へ向かった。

「若さん、知ってるようだね」

「新兵衛、ほれ練塀小路の傷だ」

「あの凄味のあるお方で」

「誰だい兄貴」

「道場の兄弟子だ。殿様が京(みやこ)へ出るについて与力との調整に呼ばれたのが六年前、親父殿の跡を継いで馬回り用人格に昨年なったと聞いた」

新兵衛は江戸藩邸へ用で来ていた四年前、一緒に鰌に鰻を食べたことが有るがお互い名乗った記憶はない。

おたがい“ あにい ”と“ 傷どの ”で通用する。

「知らん顔が一番だな」

酒はもう駄目だと新兵衛は義助の盃を取り上げたが、自分の卵焼を一切れ与えた。

新兵衛が勘定を頼むよと告げた。

一両三朱と云うので一分判五枚に南鐐二朱銀一枚を出し「余分は板場さんへ」と盆へ並べた。

受け取りに“ すわの ”とあったが看板もない料理屋だ。

北門から東門へ回り込んで、上七軒を通り抜けた。

帰りは違う道筋でと言われて今出川町を東へ入った。

「今出川通とは違うのか」

「ここは一条だす。来た時より南へ一筋下りましたん」

堀を渡ると南へ下がり二条の城の堀端の東へ出た。

東の道へ入ると「ここは二条どす」と次郎丸へ伝えた。

京烏丸通押小路上ル秋野々町井筒屋と云うのを思い出してこのあたりかと聞くと「押小路は一筋南どす」と答えが返ってきた。

「ここが烏丸どす」

四つ辻で立ち止まり南へ下ると、井筒屋が有る。

「四郎懐の手形を換金してしまえよ」

新兵衛と四郎が店に入り、一刻あまりで(いっとき・十五分程)出てきた。

「簡単すぎて怖い位だ」

「割引も手数料も無しの本人持参手形でした。あっちも交換しておきましたぜ。当分はお大臣だ」

手慣れた新兵衛もよくできた手形だと小野組を褒めている。

銀座の先に六角堂が有る。

「花活けの本家だそうですぜ」

義助が南側の門前石を“ へそ石 ”だという。

「ここが京(みやこ)の真ん中だったそうですがな」

山門の真ん前真ん中に位置している、溝の石橋を渡り先だって境内に入りこんだ。

申の鐘が近くで突かれ出した。

本堂の裏に六角の御堂が有る、一同は一回りして本堂へ戻り、それぞれが賽銭を投じた。

若い僧が寺の説明をしている。

「紫雲山頂法寺どすがな。池坊さんは此処が本家だす。小野妹子はんと聖徳太子はんが四天王寺を建てはる時、お持ちになっていた如意輪観音の御像が此処でうがこうなりはったん。観音はん光明を発し七生にわたり太子を守護したがこの地にとどまり衆生を済度せんとのたまわりましてん」

聞いていたものがなんで池坊いわはるのんやと聞いている。

此処の池で太子はん禊しはったんやて、そんで妹子はんの子孫代々華道をまもりはるやてと説法を途中で切られて困っている。

誓願寺まで出て南へ下り蛸薬師は永福寺だと聞いた。

錦小路は魚(うお)市場の匂いがしてきた。

四条で堀を渡り、四条大橋で宮川筋へ戻ってきた。

五時二十五分に為っていた。

さのや ”で着流しに着かえて六人で風呂へ向かった。

二月二十一日は辰を過ぎてもしとしと雨が降っている。

雨が小降りからいきなり青空へ変わった。

「風もないのに雲が東へ飛び去ったぜ」

八時に“ さのや ”を出て三十三間堂へ向かった。

方廣寺は大仏も無いので前を通り過ぎた。

「都名所図會は焼ける前なので大仏殿も描いてあったよ」

「わいが生まれる前やさかい良う見とらん。爺さんの話では、此処にはよう雷はんが落ちるんやそうや」

十六年前の寛政十年七月朔だという。

「大雨でな、火事には為るまいと安心しよっていたそうや、ところが屋根裏から燃え広がった云うねん」

江戸や西国から来たものは大仏が燃えたことを知らぬものが多いという。

「耳塚はどないします」

「見なくていいよ」

「ただの塚ですもんな」

半島へ進出した時の恩賞の為の証拠に切り取った耳を、秀吉が此処へ埋めて供養したものだ。

門前に“ 大 仏 御 餅 所 ”の見世が有る、朝の内だというのにもう五人ほどが買い求めに来ていた。

「大仏餅も有名ですよ」

「朝から甘い餅はやめておこうぜ」

三十三間堂は隣にある。

「案内のおっさんに六人だと豆板銀三匁出しとくれやす」

「坊さんじゃ無いのか」

「京(みやこ)じゃ坊さんがおっさんで小父さんはおっさんやし」

力の入れ方で変わるらしい。

蓮華王院の名のいわれを義助が教えてくれた。

「千手観音さんの別の名は蓮華王なので付けたとおっさんは説教するねん。だけんどおいらの爺さんは上皇の前世は熊野の蓮華坊で、仏道修行の功徳によって帝(みかど)に生まれ変わったていうねん」

後白河上皇が清盛に命じて資材を集め、長寛二年十二月十七日に落成している。

道々新兵衛に聞かれるままに髑髏を供養したら持病の頭痛が平癒した話を聞きだした。

「それでな、蓮華坊の名を遺したちぅねん」

築地塀に沿って歩いた。

「この塀な、太閤さんの塀だ言うねん、だけんどほんまは息子はんの寄進やそうやで。太閤はん寄進はしていますのや、だけんどな出来た次の年に地震でぶち倒れはったんやし」

南大門から中へ入った。

松の木の道を進んで右へ回ると三十三間堂が広場の先にある。

紀州藩の和佐範遠が総矢数一万三千五十三本中通し矢八千百三十三本で天下一となって百三十年余り過ぎたがこの数はまだやぶられていない。

一昼夜矢を射る体力はあっても、通し矢を射続けるのは難しい。

義助は何度も来ているようで若い僧と顔なじみの様だ。

布施を受け取ると「文永三年に再建されました。五百五十年近くたちます」とそこから始めた。

後白河院が建てた御堂は地震で倒壊し、頼朝公が再建。

建長の火災で多くの仏像、伽藍が焼失。文永三年後嵯峨上皇の命で本堂が再建されたこと。

「本尊千手観音坐像は湛慶作であり、中央に置かれたので中尊丈六坐像と云われます」

長寛仏と言われる創建時からの仏像、再建に合わせて作られたもので合わせて壱千体ある事。

仏像はよく言われる五百羅漢のように表情が違うこと、裏の背中合わせの千一体目観音像へ案内された。

「応仁の乱でもここは被害が及ばず、この仏像はその頃の作と伝わっております。お時間が有れば五体の特別な観音様を探すのも宜しいかと」

「水晶眼の観音様でしょうか」

「左様。手分けすれば半刻くらいで見つかりましょうぞ」

二刻(三十分くらい)で最後の一体が見つかるまで辛抱強く中央で義助と話したり、ほかの参拝客に聞かれる質問に答えている。

飽きるか、半刻(一時間ほど)は待って、見つからなければ教えるのだと聞かされた。

方廣寺の門前から“ さくらまち ” で池からの流れた小川を見て義助は“ 西大谷 ”の前を抜けて行きますかと聞いた。

「三寧坂の上へ出ますえ」

西大谷の参道への石段を上ると惣門へ上る階段前には人が大勢集まっていた。

皓月池(こうげついけ)の木橋を渡り右手の坂を上った。

三寧坂の階段下り口に七味屋、ここは明暦の創業でからし湯をふるまうというので帰りに寄ろうと新兵衛が義助と相談している。

清水坂の参道は茶店がならんで居た、朱塗り三重の塔子安観音で新兵衛と義助は何事か争論している。

「どうしたよ。階段を上がるのが嫌になったのか」

「いえね義助が言う創建の年だと、この子安観音のほうが五十年以上は古いのですよ」

「そりゃ“雍州府志”のせいだ。天平二年だと載せてある。浅草の観音様と大きさじゃ引けを取らないそうだぜ」

浅草寺の観音像は高さ一寸八分、子安観音も千手観音胎内の観音は一寸八分と言われていると次郎丸が義助に教えた。

どちらも観ることができないし、子安観音が江戸で御開帳とは難しい。

「あれですか。京(みやこ)に住んでいたと云う割に当てに出来ないやつだ」

新兵衛はこの本を信用していない。

「都名所図會のほうがましだ」

今回は急なことで持って来ていないのを残念がっている。

都名所図會墨摺六册本を手に入れた時は小躍りして喜んでいた、続編の拾遺都名所図会を手に入れて書肆に頼んでいたものだ。

三部十八冊で九両だと古書肆の親父は言うが「安いじゃねえか」など口を滑らしていた。

都名所図會は安永九年と雍州府志の天和二年の百年後の刊行になる。

京(みやこ)の二寧坂に書肆文英堂が有ると聞いて寄る予定だ。

「資金は有るのか」

「三人それぞれ二十両の手形五枚を持ってきました」

京(みやこ)に入ってまず両替、手形の交換と新兵衛は忙しい。

四郎は「長いと聞いていたがこの階段は二十一段だ」と仁王門を見上げている。

「寛永の大火でも燃え残りましたんえ。応仁の乱で燃え張ってその後に作らはったものどす、仁王さんはもっと前からの物だそうどすえ」

「乱の時に門が燃えて仁王が残る、ありえねえ」

幸八は不思議に思って一丈は有る仁王を見上げた。

「歩いて逃げたという話は無いだろうな」

「有りしまへん」

西門は見上げただけで楽な方の段を上がった、勅使門なので通り抜けは許されていないからだ。

西門(さいもん)は寛永八年の再建、持国天と増長天を裏から覗いてみた。

正面左手に見えるのが随求堂、享保三年に再建された新しい御堂だが、胎内めぐりで高名になった。

三重塔は寛永九年の再建、経堂が寛永十年の再建で講堂も兼ねている、田村堂も寛永十年の再建。

田村堂は開山堂とも呼ばれ、此処には坂上田村麻呂夫妻像を安置し、左側に行叡と延鎮の像が置かれていた。

鳥居を抜けると朝倉堂が左、本堂が右にある。

先の左手の石垣の上が地主権現社(じしゅごんげん)で、六人は先に社へ向かった。

「ここは神代の昔から有ると言われる土地の守り神です。経堂などと同じ年に再建されましたえ」

「祭神は誰だね」

「大国主様に父神の素戔嗚尊、母神の奇稲田姫命どすえ」

次郎丸は祭神を後からのこじつけだなと感じた。

桜の老木がある「千年前に時の帝が此処で花見をしたと云われておりますえ」と京の花見の始まりだという。

「千年前じゃその時の桜の子孫だな。だいぶ古いが良く燃えずに残った」

石段をおりて鳥居まで戻り本堂の参拝の列に並んだ。

三十三観音霊場巡りの人が多い、清水は西国三十三所の十六番目

洛陽三十三所観音霊場第十二番札所にもなる、京(みやこ)内に西国三十三所を廻れぬ人のために考えられたものだ
此処も寛永十年の再建だ。

人々は音羽の滝の方へ誘導されて石段を下りてゆく、六人も石段降りるまではその流れに従った。

其処から舞台の柱を見ながら西門の下へ回った。

余談

開祖の延鎮は大和国の興福寺の僧(子嶋寺で修行)。

清水寺は興福寺が本末関係を結んだ。

興福寺と延暦寺の争いに巻き込まれた。

これだけ有名な清水寺でも記録があいまいだ、本堂は八回(wikipedia)焼けたとされている。

叡山と延暦寺は記録のままにしておいた。

創建は諸説あるが。

宝亀九年(778年)賢心(後に延鎮)千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置。

宝亀十一年(780年)田村麻呂自邸を本堂として寄進。

延暦十七年(798年)坂上田村麻呂が仏殿を建立。

弘仁元年(810年)嵯峨天皇の勅許を得て北観音寺の寺号を賜る。

康平六年(1064年)八月十八日全山焼失。観音像は無事。 

康平七年(1064年)八月十一日再建-落慶供養。

寛治五年(1091年)三月八日焼失。

嘉保元年(1094年)十月二十二日三重塔落慶供養。

康和五年(1103年)までに興福寺の支援で伽藍の諸堂再建。

久安二年(1146年)四月十四日叡山の僧兵が押し寄せて堂舎群が焼失。

久安三年(1147年)三月二十七日再建-落慶供養。

永万元年(1165年)八月延暦寺の僧兵の乱入によって本堂炎上。

この永万元年~文明元年の間の再建記録不詳。

承安三年(1173年)十一月十八日本堂焼失。

治承三年(1179年)以前から領地をめぐって対立していた祇園社の神人らが清水寺を襲撃し、焼き討ちしている。被害程度不詳。

承久二年(1220年)三月二十六日本堂焼失。

正平四年(1349年)二月二十七日清水寺焼失・本尊は難を逃れる。

文明元年(1469年)応仁の乱の兵火によって焼失。

文明十六年(1484年)本堂再建・六月二十七日、本尊遷座。

寛永六年(1629年)九月十日本堂焼失。

寛永九年(1632年)十一月本堂再建。

《 再建記録・康平七年(1064年)・久安三年(1147年)・文明十六年(1484年)・寛永九年(1632年) 》

本尊開帳は三十三年置きと書かれることが多いが、江戸時代は下記の四回以外は確認出来ていない。

清水寺本堂本尊の十一面千手観世音菩薩像の大きさはwikipediaの注釈で書いてあった。

元文三年(1737年)本堂本尊開帳が始まる。

随求堂本尊居開帳・宝暦四年(1754年)

・本尊大随求菩薩像-享保十八年(1733年)制作の観音菩薩変化身。 

安永二年(1773年)本堂本尊開帳。

随求堂本尊居開帳・寛政八年(1796年)。

1796年から2000年の二百五年間に開帳された記録が見当たらなかった。

平成十二年(2000年)33日から同年123日まで本堂本尊開帳。

(二百四十三年ぶりとしてあるサイトが多い、それだと1757年になるのだが)

結縁開帳・平成二十年(2008年)の91日から1130日。

結縁開帳・平成二十一年(2009年)31日から531日。

随求堂本尊居開帳・平成三十年(2018年)32日から318日までと105日から1015日。

(随求堂本尊居開帳は二百二十二年ぶりと公表されている)

 

七味屋でからし湯をふるまってもらった。

義助は三寧坂の由来をいろいろ知っていた。

此観音に祈念すれば平産するとて帯をかける ”は磯田平兵衛の“ 出来斎京土産 ”。
さんねん坂。此坂大同三年に開けし故三年坂とぞ。又一説に泰産寺へ出る坂なるゆへ産寧坂といふ也 ”は白露の“ 京町鑑 ”で真面目な話だという。

「それでお産の産寧坂や三年坂ともいうのか」

「面白いのは此処で転んだ老僧を助けた人に“ 此処で転ぶと三年寿命が縮むか三年後に死ぬ ”といわれたそうどすえ」

「そりゃ驚いたろう」

「そのおっさん“ そりゃいいこと聞いた、わしゃもう年食っていて駄目と思ったがあと三年も生きられるわい ”とよろこんだそうらえ」

新兵衛は愛想で豆板銀一匁分を大辛で買い入れた。

「拾遺都名所図會で見た画とおんなじだ」

新兵衛は石段の下の清水焼の窯が並ぶのを飽きずに見ている。

書肆文英堂は三寧坂の下二寧坂茶屋の並びにあった。

左は八坂の塔、右が高台寺へ続く二寧坂。

書肆へ入った。

新刊には目新しいのは無いが酒田へ送るには手ごろな物が多く置かれていた。

「義助も欲しいものを選びな。金額次第でなんていわんぜ」

四郎は手持ちぶたさで次郎丸と無駄話だ。

幸八が「八坂の塔と附けたからには近所に坂が八つあるのでしょうか」と二人に聞いてきた。

祇園坂、清水坂、三年坂(産寧坂)、は聞いたが後は知らんと四郎が言う。

店主は手代にまかせてこっちの話に乗った。

「山ノ井坂、霊山坂、法観寺坂、下河原坂、長楽寺坂、ですな」

絵図を出して教えてくれた。

八坂の塔は法観寺だそうで確かにその周りに坂は多そうだ。

新兵衛は江戸送りと酒田送りに分けて商談がまとまり、小判六十両に銀四百匁だと決まった。

義助は六冊選んでいて文英堂が寄越した風呂敷へ包んだ。

「そろそろ飯にするか」

「汁ものにしますか。豆腐料理」

「湯豆腐より田楽が有るはずだ。江戸湯島に祇園豆腐とだした見世の元祖が有ると聞いた

「祇園さんの二軒茶屋だと思いますが、中村屋に藤屋とありますえ」

新兵衛が“ 拾遺都名所図會 ”の画で見たという。

「ありゃ鳥居の方から見て右の見世だ。左の見世は」

「左は西側だから藤屋どすえ」

「そっちへ行こうぜ」

次郎丸も画で有名なら反対が良いと天邪鬼だ。

次郎丸今日は幸八が背負ってきてくれたちと上等の黒の羽織に、縞のはかま姿だ。

紋は替紋ではなく星梅鉢の筋目の物だ。

昨日は北野に遠慮して旅の羽織だったが、一度は手を通さないと持たせた“ なほ ”の顔がつぶれると羽織って出た。

「梅鉢は多いですね。今日だけで十人は見ましたぜ」

幸八もそういうことはよく気が付くようだ。

霊山坂を下った。

「なぁ、右手へ下り坂だが、これも上がるというのか」

「あほらし。藤五はんは可笑しなことばっかり考えますのやな」

右手下河原坂の突き当りが石鳥居で扁額には“ 感 神 院 ”とある。

南楼門前の参道へ入った。 

湯島とは水も違うのか豆腐自体が美味い、根岸とは旨さはどっこいだが風味が勝った。

豆腐切の若い女子は手さばきも綺麗で、指先に藤五郎と幸八は見とれている。

豆腐を平たく切ると二本刺しで火にかけて焼きを入れる。

味噌たれで煮て上に細かく砕いた麩粉や花柚をかけて香りも楽しめる。

「そうか味噌は塗るのでなくて煮るのか」

藤五郎は感心している。

「この時期でも柚子が手に入るのかね」

「本柚子とは違いますのや。暮れに収穫して寝かしますんや。五月に成れば青い実が付きますえ。そのほうがええいわはるお方もおりますえ」

酒やほかの物を頼まなかったので一人二本でやめにした。

新兵衛は二百四十文だというので豆板銀二枚と四文銭五枚を置いてから盆脇に豆板銀を一枚置いた。

大きな買い物後で気前が良くなっている。

「明日、お東はんのほか予定はおまんのどすかえ」

「決めてないよ。どこか行きたいのか」

「嶋原、一度も門くぐったことあらしまへん」

「義助の奢りなら今晩でもいいぜ」

「あほらし。祇園新地でも手におえへん」

さのや ”から一里も無いという、お東で半里、其処から八丁でお西、さらに五丁先が新屋敷事嶋原遊郭。

余談

吉野太夫は代々名で二代目は寛永八年(1631年)二十六歳の時に灰屋紹益(はいやじょうえき)と婚姻した。

井原西鶴は“ 好色一代男 ”に登場させ世之介と婚姻させている。

八千代太夫の名は清国、朝鮮まで届いたという、万治元年(1658年)二十四歳で廓を離れたという伝説の名妓だ。

初代の夕霧太夫は置屋扇屋の太夫で、寛文十二年(1672年)扇屋が大坂新町へ移転すると大阪初の太夫に為ったと云う。

さがみのくにをたちいでて

次郎丸が唄いながら参道へ出て行った。

「若さん今日はだいぶご機嫌だぜ」

「兄貴から景清はめったに出ませんぜあにい」

義助は「不思議な節ですね」と云う。

色町付近ではめったに聞かないようだ。

小さな中門を潜ると東に日光、西に月光の社が有る。

正面は拝殿(舞殿)、その後ろに本殿が有る。

西楼門へ向かうと御供殿に薬師堂。

愛染堂に寄り添うように休み茶見世が軒を連ねている。

絵馬堂の腰掛には三十人ほどが休んでいる。

元三大師に寄り道し、蘇民社へも寄り道し、西楼門から出た。

余談

公式創祀

斉明天皇二年(656年)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。

貞観十八年(876年)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立。

同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立った。

慶応四年・明治元年(1868年)神仏分離令により「八坂神社」となる。

(鎌倉時代までには牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合。平安時代から明治までは神仏習合により、祭神は牛頭天王、西座-頗梨采女、東座-八王子の三座)

祇園社  (延喜神祇式曰山城国愛宕郡祇園神社式外三座)

西間 本御前・竒稲田媛の垂跡なり・一名婆利女
・一名少将の井・脚摩乳手摩乳女

中間 牛頭天皇・大政所と号する・進雄尊(スサノヲノミコト)の垂迹なり。

東間 蛇毒氣神(ダドクケシン)・龍王の女・今御前也。

石鳥居
正保三年(1646年)建立。

南楼門
・慶応二年(
1866年)火災焼失。
・明治十六年再建(公式)。

・明治十二年(1879年)氏子の寄進によって再建。

舞殿
・慶応二年(
1866年)火災焼失。
・明治七年(
1874年)再建。
・明治三十五年(1902年)改築。

本殿
・正保三年(
1646年)焼失。
・承応三年(
1654年)徳川家綱が再建。

西楼門(夜叉門・籠門)・応仁元年に罹災、明応六年(1497年)再建。
・永禄年間(1558年~1570年)檜皮葺から瓦葺へ。
・大正二年(1913年)四条通拡張により現在地に移り、翼廊(よくろう)建立。
・平成十九年(2007年)朱塗り塗り直し・瓦の葺き替え(約七千四百枚)総工費一億五千万円。

新兵衛は「今日はこれで終わりにしよう」と義助に言って新地から宮川町へ入った。

さのや ”には未雨(みゆう)宗匠がのんびり茶を飲んでいた。

十五日に桑名で別れてまだ六日しかたっていない。

「三日桑名で用事を片したにしちゃ早いな」

「新兵衛さんは兎も角、若さんに四郎さんよりゃ俺の方がましですぜ」

女将が練羊羹を切り分けてきた。

「最近は蒸しより練に人気が出ましたんえ」

広橋殿町の虎屋の羊羹だという。

「このところ代替わりで色々噂が出ましたが。ようよう持ち直して今まで以上だと評判おすえ」

見世のある広橋殿町は一条烏丸ではなく烏丸一条だと女将が言う、歌で覚えるのだという。

まるたけえびすに おしおいけ

(丸竹夷二 押御池)

あねさんろっかく たこにしき

(姉三 六角 蛸錦)

しあやぶったか まつまんごじょう

(四綾 仏高 松万五条)

せったちゃらちゃら うおのたな

(雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚)

ろくじょうさんてつ とおりすぎ

(六条 三哲 通りすぎ)

ひっちょうこえれば はっくじょう

(七条 越えれば 八九条)

じゅうじょうとうじで とどめさす

(十条東寺で とどめさす)

女将も調子が出てきた。

「続きもありおすえ」

てらごこ ふやとみ やなぎさかい

(寺御幸 麩屋富 柳堺)

たかあい ひがし くるまやちょう

(高間 東 車屋町)

からすりょうがえ むらごろも

(烏両替 室衣)

しんまち かまんざ にしおがわ

(新町 釜座 西小川)

あぶらさめがいで ほりかわのみず

(油醒ヶ井で 堀川のみず)

よしやいのくろ おおみやへ

(葭屋猪黒 大宮へ)

まつひぐらしに ちえこういん

(松日暮に 智恵光院)

じょうふくせんぼん さてはにしじん

(浄福千本 さてはにしじん)

「若さんたちゃ昨日は西北、今日は東で明日は西ですかい」

「新屋敷は頼んである。お東は四郎の寺受け証文にあるんだ行って於かないとまずかろう。松の尾も行きたい処だが遠いしな」

「松の尾さんなら二里ほどどすえ」

「嶋原で半分か。駕、馬も面倒だ。美味い物やでも有りゃいいが」

女将が「小僧の話じゃ昨日が湯豆腐、今日が田楽だそうで。京(みやこ)の豆腐はそなに美味しどすか」と振ってきた。

「まさかここも豆腐かえ」

「鶏の叩き団子の鍋ですが、豆腐を入れてもおいしうござんすえ」

「今だと水菜か菊菜かい」

「終りの水菜が出て居りましたので仕入れたそうですえ」

その晩新兵衛も加わって大坂迄船で下るか歩くかを相談した。

近頃は早舟も許されてと吾郎が言う。

定めが出来たのは権現様の時代、「世の中も忙しくなって」と女将が茶を入れながら笑った。

全長五十六尺、幅八尺三寸で船頭四人が決まりだったが、早舟が認められ六人の船頭で二十八人の客を運んだ。

伏見の湊四か所、平戸橋、蓬莱橋、京橋、阿波橋を特別仕立て以外は夜に出て大坂へ早朝に着く、およそ三刻(六時間)。

上りは大仕事だ、大坂八軒家、淀屋橋、東横堀、道頓堀を朝に出て夕刻伏見へ着くおよそ六刻(十二時間)。

上りは九か所の綱引き場が有る、八軒家船着場から伏見は十里十三丁余。

八代様の時、上り百七十二文、下り七十二文となっていたが、過書奉行から値上げをようやく認められていた。

淀川筋支配の角倉家、木村家も手におえないのは、川浚いに金が掛かり人足たちは乗客に強請る(ねだる)という事態まで起きているのだ。

枚方の“ くらわんか ”は江戸まで聞こえる有名な物売り船だ。

鉤爪をひっかけて纏わりつくのでつい買ってしまう。

「今年も鱧の自慢を聞かずに江戸へ戻るようだ」

「夏と暮れの二回の旬が有ると聞いたよ」

「祇園御霊会の頃が一番だと言いますがね。鱧鮨は私にゃ桜の終わるころが美味いのですがね。京は無くとも大坂で食えるでしょうぜ。祇園会といやぁ其角宗匠は江戸小舟町の祇園会とこっちの祇園会の句が有りますぜ」

“ 杉の葉も青みな月の御旅かな ”が「五元集」に有り“ 鉾にのる人のきほひも都哉 ”は「華摘」に有るという。

「一茶宗匠や芭蕉翁には無いのかね」

「見た覚えがないですよ四郎さん」

「兄貴は」

「覚えがないなぁ」 

「あにいは」 

新兵衛は俳句本にあまり興味がないようで、義父に頼まれたものを探すくらいだ。

「俺の知ってる其角師のは“ 鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春 ”くらいだね。未雨(みゆう)さん五元とは意味でもあるのかい」

「延宝、天和、貞享、元祿、宝永と五つの年号の時代によんだ句を延享四年に発行したのだそうだ。華摘(はなつみ)は元禄三年だ」

「新兵衛あにい、俺にその本呉れたの覚えていないのか」

「其角の物なんてありましたか」

「しんぺえの野郎が俺にゃ用がねえと云っていたやつだよ。序文を覚えているよ」

“ 元禄三年の事にや。母の寺に詣でまかりしに、四年過つる春秋も悲しびをもよほすかた多かりければ、思ひを是によせて、心ざしを手向侍りしより、彼祇公の一とせの日次を発句つかうまつれりし海山の情、雲水のあはれをも、転法輪讃仏乗の道に入とのみおもひなし給ひけん。 ”

其角は母妙務尼の墓に詣でた時に“ 灌仏や 墓にむかへる 独り言 ”と詠んでいる。

「かのぎこうと云うのも俳人かね兄貴」

「かのできってぎこうだ。宗祇という名を聞いたこと無いか」

「連歌師の宗匠か」

「そうだ多くの人へ古今伝授をしたと云われているな」

一同は知らないが一茶は祇園会の句を残した。

七番日記は文化十年の頃からだが詠んだ句がまだ世間に広まっていない。

“ ぎおんえや せんぎまちまち ひくやまぞ ”

“ つきほこに もっとそびえよ あさけぶり ”

“ ほこのちご たいこによいも せざりけり ”

柏原に祇園会の情報は見つからず、近くなら中野、長野の祇園会が有る。

一茶は寛政四年三月二十五日から西国へ俳諧修行に赴いている。

父親から頼まれた西本願寺の代参もこの時行われている。

また寛政七年の五月ごろに京都へ再び訪れていて、此のどちらかで祇園会の頃も滞在しその光景を後に詠んだのではないだろうか。

寛政七卯年十月十二日に義仲寺での興行へ参加“ 義仲寺へいそき候はつしくれ ”を詠んでいる。

祇園御霊会は六月七日、祇園社から四条京極のお旅所まで、三基の神輿が巡行するのが神幸祭。

十四日はお旅所から祇園社に神輿が戻るのが還幸祭で山鉾は三十三基が出る。

先ほどから新兵衛が首を捻っている。

「どうしたあにい」

「いやな未雨(みゆう)宗匠が其角と言ったのが咽喉に引っかかるんだ。どこかでその句を見た気がするんだ」

「どっちだい」

「みやこかな、ってほう」

「ネタばらしをするか。都名所図會にも使われているよ」

「ああ、長刀鉾の画だ。長刀が画の枠を突き破っていた」

藤五郎が今度はもう一つの句について聞いている。

「どうしてもう一方が江戸と知れるんです。どこかに載りましたか」

「おお、いいとこへぉ気がつきなさった。横須賀の帯梅(たいばい)宗匠のお弟子だけは有る」

まだ弟子となって指導は受けてはいない。

「天王の御旅所を拝すとしてもう一句“ 里の子の夜宮にいさむ鼓かな ”前の句には“ 祇園酉のかりやしつらふを ”と書いてあるよ。作ったのが酉年の祇園会だったのかな」

新兵衛は江戸へ出た当時は天王と山王の区別さへ付かなかったと笑わせた。

余談

変遷が激しく文化文政は正徳の頃とは違っていたようです。

神田明神に在る三天王は小舟町八雲神社、南伝馬町江戸神社、大伝馬町八雲神社。

例によって明治期に祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)に統一されている。

祇園会御旅所は南伝馬町、大伝馬町、小舟町に置かれた。

小舟町八雲神社の祭神櫛名田姫(本御前)。

小舟町は四年に一度。 

大伝馬町八雲神社の祭神八王子(素盞鳴命の御子神五男三女)。

南伝馬町江戸神社(天王一之宮)の祭神牛頭天王素盞鳴命(大政所)。


二十二日も朝は小雨が降っている。

辰を過ぎても雨が止まないので出かけることにした。

義助が高下駄を出してきたのでそれに番傘で出かけることにした。

次郎丸はまたもや旅の時の服装で出た。

先頭に四郎と義助でしんがりを新兵衛が歩いた。

巳の刻の鐘を聞きながら五条橋を渡り西へ向かった。

道々義助は東西の本願寺の事で知る限りを四郎に教えている。

二十六年前の天明八年正月三十日どんぐり焼け(京焼け)で阿弥陀堂、御影堂は焼失したが大門(御影堂門)は焼け残った。

この火事は団栗辻子の空家から朝早くに失火。

宮川筋から五条問屋へ燃え広がると、風向きが変わり鴨川を越え西側北側へ燃え広がった。

鴨川の東の北側は最初の日は燃えていない。

御所、二条城、仙洞御所、京都所司代屋敷、東西両奉行所焼失、公家屋敷もほとんどがもえ、千本御屋敷で止まった。

南へ広がると東本願寺、西本願寺、本圀寺、六条通周辺を焼き尽くし、二昼夜に渡りようやく鎮火した。

東は大和大路、西は千本通で止まり上七軒は燃えずに残った。

北は鞍馬口通り、南は六条通、西本願寺、東本願寺、本圀寺。

「不思議なことに祇園さんは燃えてへんのどす。北野はんは五丁手前で止まりましたん。上御霊はんも隣の相國寺はん迄燃えましてん。相國寺はんはあらかた燃えはったよし」

大きな寺院では広い空間が有り、風が弱くなって止まったのだろうと四郎が言っている。

「お西さんは伝説の銀杏(いちょう)がおますんやで。御影堂さんへ水を吹きかけて火災から守ったいいます。火伏せの銀杏(いちょう)いいますんえ」

京の町屋の大分が焼けたという。

「三万三千軒もやけたそうでっせ。お寺はん二百軒焼けたぁいいますな。ほとんど丸焼けですわ」

大門の近くまで来た。

「大門の向こう正面のおおけな御堂は“ ごえいどう ”で、隣が“ あみだどう ”て本堂どすえ」

次郎丸は石段の上からでも大門の高さが十五間くらいは有りそうだと未雨(みゆう)と話している。

この門は元文四年に再建されていると未雨(みゆう)が知っていた。

三つの門に左右に山廊が付属している。

余談

どんぐり焼け(京焼け・天明八年正月三十日・1788年)

どんどん焼け(元治元年七月二十日1864)。

御影堂-慶長八年(1603年)十一月十日建立。

明暦四年(1658年)三月二十八日規模拡大再建。

どんぐり焼け焼失・寛政九年(1797年)再建。

文政六年(1823)境内から失火焼失・天保六年(1835年)再建。

安政五年(1858年)本山北側の民家から出火焼失・万延元年(1860年)末ころまでに仮堂建立。

どんどん焼け焼失。

 

阿弥陀堂-慶長九年(1604年)九月十六日建立。

寛文十年(1670年)三月十五日規模拡大再建(現在の半分程度とも云われる)。

どんぐり焼け焼失・寛政十年(1798年)再建。

文政六年(1823)境内から失火焼失・天保六年(1835年)再建。

安政五年(1858年)本山北側の民家から出火焼失・万延元年(1860年)末ころまでに仮堂建立。

どんどん焼け焼失。

 

明治再建記録

御影堂門・三間三戸、南北十九間、東西十五間、高さ十五間。

明治四十四年(1911年)再建。

・御影堂・間口四十二間、奥行き三十二間、高さ二十一間。

明治十三年(1880年)起工・明治二十八年(1895年)再建

・阿弥陀堂・間口二十九間、奥行き二十六間、高さ十六間。

明治十三年(1880年)起工・明治二十八年(1895年)再建。

・菊の門(勅使門)。

明治42年(1909年)起工・明治四十四年(1911年)二月再建。

・阿弥陀堂門、唐門。

明治四十四年(1911年)再建。

大門の北に菊之門、南の阿弥陀堂之門は日暮の門もしくは唐門と云う。

橋を渡り大門の左(南)の門から境内へ入った。

「本堂のほうが小さいのだな」

「そうどすえ、お西さんも同じどす。お西さん。仰山燃えはりました云うけどおっけなんは皆焼け残りましたがな」

次郎丸はこの火事で父が京(みやこ)へ派遣され、苦労した話は冴木や大野から何度も聞かされた。

慢性的な幕府の財務状況の悪化、天災による各藩の財政の苦境。

それを今まで以上の建物を建てよと要求する公家、それに同調する役人と大奥諸掛りの暗躍に負けて仕舞ったこと。

押せば引くと覚えた公家の力は、まだまだ序の口でこれからさらに幕閣を惑わすだろうと次郎丸は思っている。

十万石に相当する賄い料に諸式の負担、治安は幕府が保っている、それでいてなお不満を持つ公家は多い。

格式位階は高くともそれに見合う手当が少ないというのだ。

未雨(みゆう)が四郎と集会所で旦那寺の証文を出して判を頂いてきた。

若い僧が一人案内に立ち御影堂に参拝した後、阿弥陀堂を参拝した。

お西は門前を抜けて物見の門から大宮通へ回り込んで本圀寺へ向かった。

此処は日蓮宗の寺で水戸光圀公の庇護を受けた由縁で圀の字を使うと云う。

「どんぐり焼けで本堂に五重塔を燃やしてまだ再建できまへんねや」

未雨(みゆう)は「仁王門は三年前にようやく再建されましたぜ」と言う。

塀も荒れている、有力な檀越が居ないのだろう。

幾つかの建物が広い境内に散在している。

「若さん絵図の様子とは大違いだ。宗派が違うと金回りにも差が出るのかね」

「あの画の五重塔を建てるにゃ千両じゃ間に合わねえよ」

余談

どんぐり焼けで焼け残った経蔵は現存している。

天明八年 (1788)八月、千本中立売の大黒堂を移築し刹堂とした。

寛政六年 (1794)小客殿再建。

寛政十一年 (1799)鐘堂再建。

享和二年 (1802)大客殿再建。

文化五年 (1808)高麗門、仁王像再建。

文化八年 (1811)仁王門再建。

文化十一年 (1814)江戸法恩寺において本尊出開帳。

文化十二年 (1815)立像堂再建。

文政元年 (1818)祖師堂再建。

安政六年 (1859)清正堂再建。

五重塔と本堂は再建されなかった。

「さぁ、義助のお望みの嶋原はすぐそこだ。松尾迄この雨ん中じゃ行く気にもならねえが昼遊びは恐れ入る」

「なにもおいらが遊びたいわけじゃ有りまへん」

「それなら通り抜けでもしてみよう」

「若さん来たことあるようなこと言いますね」

「嶋原出口の柳を画で見たのさ」

幸八は裏へ回るのですかと言って新兵衛に笑われている。

揚屋(あげや)の角屋に約束があると次郎丸が大門へ入った。

「巳の刻に間に合ったぜ」

「遅れずに良うございました」

呼び出しをかけた相手は所司代の用人の傷だ。

田所信吾は幸次郎と名を改めている。

門口を入ると目の前が調理場で右前が帳場だ。

「本川だが」

その名で支度を頼んである、手続きなどは鉄之助から聞いていて、京(みやこ)へ入るとすぐに連絡を取った。

二階ではなく廊下で奥の大広間で次の間も付いていた。

客は来ていた、臥龍松(がりょうしょう)の間に案内されると芸妓が三人付いている。

「若さん、本川と云う名で呼び出しを掛けるとは良い度胸だ」

「傷殿、藩の出した藩札がその名だ。わかるように薬研掘りと書いておいただろうに。呼ばぬつもりがほかで名を聞いては知らん顔も出来ないのでな」

「わざわざ言うことか」

「わざわざ聞かせたのだ」

半玉だろう十四.五の可愛いのが五人もきた。

幸八がそれを言うと「舞妓はんどすがな」と義助に言われている。

挨拶の仕方も可愛いが、これに引っかかると生涯面倒を見させられると鉄之助に脅されていた。

房総の旅籠で京(みやこ)へ行っても、手紙だけで顔は出さないように言われた相手は公家の用人だが、色町には顔が利くのだという。

飯を食って花魁の顔でも拝見の積りが“ おいらん道中 ”の日は外したと日時を知らせてきた。

番頭が「料理を運ばせても宜しいでしょうか」と田所に聞いた。

どうやら遊びなれているようで「任せるよ」と鷹揚に伝えた。

義助は綺麗どころが次々挨拶に来て、へどもどしていたが「酒は二杯だけだ」と新兵衛に言われてふくれっつらをしたので、若い芸妓が話し相手になって宥めてくれた。

新兵衛も祇園に新屋敷など京(みやこ)の遊郭に馴染みなどなく「揚屋(あげや)と云うから二階へ上がるとばかり思っていた」とぼけてみた。

「あにいも貫禄が付いたな」

「傷殿は穏やかになられたようで」

「なに表の顔だけだ。実は食いたいものが有って追加を頼んだら、季節外れでほかから取り寄せるというのだ」

「鰻か鰌でも」

「あにい、此処は京(みやこ)だ鱧だよ、鱧鮨が良いと田舎っぺぇを丸出しにしてみたんだ」

「そりゃいい。そこのおっさんは季節外れのばちの鱧でもいいそうだ。江戸は天王町の小間物渡世で俳諧の宗匠だ」

ようやく未雨(みゆう)を紹介した、ほかの者にも名を名乗らせておいた。

見た目もふっくらと育ちのよさそうな舞妓が遅れてきてさっさと次郎丸の前で「小いちと申しますえ、じき行くよって待っててや言うたのに置いてかれたんえ」

遅れた言い訳と甘え上手の手に引っかかりたいものも多いのだろうと思った。

一応遅れた詫びを言い廻って今度は次郎丸の後ろへ座った。

焦らしの手口か、向こう席の義助から見えやすくしたのか不思議な娘だ。

「若さんも俳諧をするのか」

「これがな。からっぺたで歯が立たないが、ここ何年か知り合う人たちが俳諧好きと来ているんだ。松代の佐久間先生と知り合ったらいっぺんに広がった」

「手紙じゃ大坂から和歌山へ行くことに成ったとあったが」

「詰まらねえ用事さ。我が藩は房総警備だが上方の状況も観てまいれとの言いつけだ。半分遊山旅で良いらしい」

「養子の口が決まらないのか」

「決まって居ると冴木は云うんだが、いろいろあるらしい」

幸八は江戸からの街道の話をせがまれている、藤五郎は覚えたての神戸節を唄わされている。

ほれてみやんせ かねこそなけれ 金のかはりの こころいき

ソイツはドイツだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク

ほれてつまらぬ ものとはしれど いろはしあんの ほかとやら

ソイツはドイツだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク

合いの手を入れられるということは、此処で唄われることも多くなっているようだ。

新兵衛は芸妓と意気投合したようだ。

「この部屋は画で見たことが有るが雪景色の画だった」

都林泉名勝図会は十五年前の発刊だが松は変わりがないようだ。

頃合いを見て隣座敷に三味と小太鼓が入り綺麗どころが踊りを披露していった。

なんだかんだで十五人を超す芸妓、舞妓が出入りしている。

公家の用人に所司代の用人の力なのだろう。

新兵衛は“ さのや ”で用意してくれた小袋へ一分入れたのを三十二枚持っている。

支払いの金も吾郎が用意させておいた三十両を渡してもらっている。

男衆に女中も含めて残らず渡ったか確認している。

頃合いを見て新兵衛が帳場で勘定を〆てきた。

「ここで十人くらいの宴会を開いても十両は必要ないが、太夫の顔を見たりすれば際限なく要求が来る」

傷殿は次郎丸に片目をしばたいて笑っている。

芸妓に心付け一分、線香代は此処では花代だと“ さのや ”で教わった。

決まりの三本一席で二朱、舞妓は玉が半分で半玉。

十五人がよそへ回ると出てゆき、小いち一人が「遅れた分居させておくれやす」と居座った。

箱屋が呼びに来てしぶしぶ次のお座敷へでていったのは申の鐘の後だ。

「またおいでやしとくれやす」

義助に目を付けたようでわざわざ前に座って色目を使った。

藤五郎に散々からかわれながら西門を出て松原通まで上った。

千本通の角で田所と別れた。

一本道で松原橋を渡れば宮川筋五丁目で“ さのや ”へ行きつく。

 

第六十八回-和信伝-参拾漆 ・ 23-12-11

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記

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