文化十一年四月六日(1814年5月25日)・六十九日目
興津宿“ 水口屋半平 ”を明け六つ前(四時頃)に旅発った。
韮山代官支配地興津宿(しゅく)は東西十丁五十五間、耀海寺先に問屋場が有る。
“ 水口屋 ”で拵えた荷を、江戸浅草天王町伊勢屋吾郎宛て、本人差出で送り出した。
早送りにして二両二分二朱を請求された。
次郎丸は其処まで聞いて「一里塚へ先に行く」と混み合ってきた問屋場を離れた。
一駄一里四十六文ほどが平地での駄賃に為る、本馬は四十貫目までの荷が認められている。
単純に計算して興津から江戸日本橋約四十一里だと千八百八十六文に様々な手当が付く。
八倍払うのは結の仕組みが荷送りを保障する経費なのだろう。
結と縁のない問屋場のほうが多いだろうにと余分なことを考えてしまう。
余談
品川から日本橋は二里、本馬九十四文、軽尻(からじり)六十一文。
品川から川崎は船渡し(一疋口付十八文)を入れて二里十八丁、本馬百十四文、軽尻(からじり)七十三文。
飛脚は書状を江戸から大坂へ運ぶのに、十五日便銀一匁、六日限銀三匁五分、最速は三日半限仕立金十一両取った。
一里塚で待っていた次郎丸は「重いのを持って歩くよりいいが。土産も高価につくものだ」と嘆いている。
新兵衛は「あの竹籠旨い具合に収まりましたね。“
追分ようかん ”に“ 駿河屋練羊羹 ”まで収まった。紙の箱と二重とはよほど高価な物に間違えそうだ」と顔がほころんでいる。
四郎は何か思い出したようだ。
「もしかして熱田で聞いた江戸へ“
追分ようかん ”を土産というのはこの手で送ったのか」
「ばれちゃしょうもない。江戸の弟子筋へ二百本も送るにゃ“
追分ようかん ”に十日前に予約して府中の俳句仲間が送るんですよ。自分で持ち歩くのは大変だ」
仕事がらみと趣味で出歩くことも多く土産も膨大だ。
興津一里塚は江戸から三十九番目(四十一里目)京から八十一番目。
由比宿まで二里十二丁だが興津川の渡し、薩埵峠が有る。
「由比川も木橋が掛かってりゃいいが、取り外されていると厄介だぜ」
歩き出すとすぐ左へ入る身延道、興津川は思っていたより水量は少ない。
横帯二十四文の札が下がっている。
「ひざ下だろう」
愚痴を言いながら金を支払う男たちが居る。
川会所の役人は「朝の計測は二尺六寸有りました」と何度も言いつかれた顔だ。
計測場で太股一尺四寸まで十二文、二尺十五文、二尺五寸二十四文、三尺五寸三十二文、脇水四尺三寸四十八文。
人足は三十五人と為っている。
薩埵峠に入った海が広々と見える、左手には富士の山も見えている。
休み茶見世が有る、朝も早いのに甘酒が有るというので頼んだ。
“ 山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ ”
「蜀山人だね」
「此処じゃ無いのかね」
親爺は「そうらしいですだら。そん先の祠を詠んだそうだら」とそっけないが嬉しそうに見えた。
間宿(あいのしゅく)西倉沢へ下ると一里塚。
西倉沢一里塚は江戸から三十八番目(四十里目)京から八十二番目。
本陣川島屋勘兵衛、脇本陣柏屋、休み茶見世が並んでいる。
辰の刻(六時四十分頃)の鐘が山手から聞こえてきた。
由比川は水量が少なく板橋は架けられていた。
西町の“ えびすや ”では客はもういない様だ。
街道左手脇本陣羽根ノ屋からは商家の主か、駕籠で旅立つ男が居て供が四人ほど付き従っている。
問屋場で荷駄がその後を付いていった。
「よほど馬でも嫌いな男かね」
「居眠りすると落ちたりしますからね」
「最近振り分けで竹篭みたいに人が入れるのが流行だと聞いたぜ、片方に荷かもう一人乗せるとよ」
「下りの旅で見ていないですぜ」
「伊勢街道には春先大分多くなっていたぜ」
本陣前馬用の水飼場は男たちが清掃している。
「おいおい、もしかして誰か偉い人でも通るのかな」
由比本陣“ 岩辺郷右衛門 ”は街道左手に間口三十三間という石垣を組んだ大きな屋敷だ。
街道右手海側の問屋場は休み月の様で人が少ない。
先の左手に紀州お七里のお小屋が有る。
由比の一里塚は江戸から三十七番目(三十九里目)京から八十三番目。
その先鉤手(曲尺手・かねんて)で東木戸。
由比宿は東西五丁十八間と短かく、住人も八百人に満たない。
庄野で南北八丁に住人八百五十人ほど、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠十五軒だが、ここ韮山代官支配地由比宿は本陣一軒、脇本陣一軒、大宿一軒・中宿十軒・小宿二十一軒(旅籠三十二軒)を備えている。
小さいと言われ続けられている丸子(鞠子)で東西七丁、住人八百人に本陣一軒、脇本陣二軒、大宿二軒・中宿十六軒・小宿六軒(旅籠二十四軒)備えてある。
蒲原宿へ一里。
神沢川の先に小金村、向田川先が蒲原宿京方見附の西木戸。
茄子屋の辻だと四郎は新兵衛と話している。
鉤手(曲尺手・かねんて)に高札場が有る。
手前側に参道が有り「ここは若宮というのですが、若宮浅間社ともいうのですぜ」と未雨(みゆう)が立ち止った。
「歌の方の和歌の宮とも言われるのですぜ」
「場所柄、赤人に関連付けたのかい」
「その山部赤人様を祀り、和歌にちなんで木花之佐久夜毘売命も祀られたそうですぜ」
“ たごのうらに うちいでてみれば しろたえの ふじのたかねに ゆきはふりつつ ”
次郎丸が思わず詠った。
「百人一首ですね」
「元歌は少し違うのだ」
“ たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにそ ふじのたかねに ゆきはふりける ”
万葉集の原文を目にして読める人は少ない。
“
田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尒雪波零家留 ”
山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)
、赤人は明人とも。
「師匠はよくしっているが、俳句だけじゃないんで」
「兄いと同じでね。つい余分に調べてしまう」
若さんの同類だと兄いが手を打った。
「ついでに雑学でね。稚宮(わかみや)大明神とはおさない方の稚(ち)を使ってもいるんですぜ」
もう一度右へ曲るとまた街道左手(山側)に高札場。
土橋の手前が本町、街道右手に平岡久兵衛本陣。
土橋の先左手が問屋場。
先に東木戸、巳の刻過ぎ(九時十五分頃)に宿を通り抜けた。
蒲原一里塚は三十六番目(三十八里目)京(みやこ)から八十四番目。
元禄の津波で流された後に此処へ再建されたと云う。
韮山代官支配地蒲原宿は十四丁三十三間三尺。
吉原宿まで二里三十丁二十三間。
七難坂からは富士が大きく見えた、坂を下ると一里塚が有る。
岩淵の一里塚は江戸から三十五番目(三十七里目)京から八十五番目。
前の蒲原から三十一丁足らずだと四郎と兄いが話している。
「一里に六丁近く足りなそうだ。由比と蒲原はもう少し短いようだった」
「足りないのは五丁二十間と見ましたぜ。前ので六丁近く足りなそうだ」
道中記に歩数も載せて作ればいいと未雨(みゆう)に言われている。
四郎も兄いも馬鹿話しながら歩いていて、よく距離が分かる物だ。
新豊院参道前にある常夜燈は“
享和三年 岩淵河岸 久保町
”と彫られていた。
中ノ郷から岩淵河岸への道は栗の粉餅を売る休み茶見世が多い。
岩淵には常盤小休本陣、脇本陣が間宿(あいのしゅく)に置かれている。
富士川の渡し船は一人二十二文、下船居へ上がって平垣村(へいがきむら)の札の辻橋へ向かった。
午の刻の鐘が聞こえる、兄いが十一時五十分だと時計を見た。
四郎が「ある、有る。待てよここが本市場なら岩淵との間がないぞ」と大はしゃぎだ。
大坂で求めた道中記は岩淵と本市場の間は出ていない。
本市場一里塚は江戸から三十四番目(三十五里目)京から八十六番目。
休み茶見世の多い場所を見て相談だ。
「此処で団子を食うか。葱の雑炊でもどうだ」
葱の雑炊にした、上方のねぶか汁を江戸では葱雑炊と言う、熱々を、汗を流して食べた。
小潤井川(こうるいかわ)の先に吉原宿西木戸。
鉤手(曲尺手・かねんて)に二度曲がれば左手に上本陣神尾六左衛門、脇本陣銭屋矢部清兵衛。
問屋場と高札場を過ぎれば本町脇本陣扇屋鈴木伊兵衛。
路地を挟んで下本陣長谷川八郎兵衛、脇本陣四ツ目屋杉山平左衛門。
脇本陣野口祖右衛門先が吉原宿江戸方見附の東木戸。
韮山代官支配地吉原宿は東西十二丁十間。
原宿(しゅく)へ三里二十二間。
江戸まで三十四里二十七丁二十二間。
京(みやこ)三条大橋から九十一里十四丁三十九間。
和田川は昔富士川で平氏が敗走した古戦場。
左富士は度々の災害で宿場が移ったため、道はうねっているため反対側に見えている。
「上る人が言いだしても、江戸へ下るには右富士と言いたい人も多いだろうぜ」
まだ右も左も浸透はしていない、南湖鳥井戸橋が昔からの左富士と言われているためだ。
依田橋一里塚は江戸から三十三番目(三十四里目)京から八十七番目。
街道右手に悪王子神社は悪王子大権現を祀る。
「十八年前の寛政八年に建て直したと言いますが。祭神がどういう神かよく解らねえ」
「悪王子といゃあ、素戔嗚尊の荒御魂(あらみたま)が多いが、話が伝わっていないのかな。京(みやこ)の八坂にも末社があるはずだ」
「こりゃ参った。末社までは気が回らねえ」
この辺りが中吉原と言われる場所で、三十四年前延宝八年の高潮では小高い此処へ逃げ込み助かった人が多かったという。
延宝八年、中吉原から新吉原へ宿(しゅく)が移り、一里塚も移動した。
吉原宿東木戸はその時の潮止まりの場所を選んだ。
沼川の橋を渡れば元吉原の有った鈴川その先が今井、元吉原宿の近くに以前は見附宿と言われていた宿場が有ったという。
吉原宿が移動したので原宿(しゅく)までは距離が伸びた。
休み茶見世で甘酒を飲んだ、此処は檜新田だという。
松林に為りその奥に松の木が植えられた一里塚が見え隠れする。
「なんですか四郎さん。あれが一里塚ですか」
「可笑しいだろ、普通なら道へ張りだすくらいなのに。ここらに在るはずと知らなきゃ通り過ぎてしまうぜ」
街道が動いたとしても不思議な場所だ、昔からの松並木を大事にして奥へ拵えたのだろうか。
沼田新田一里塚は江戸から三十二番目(三十三里目)京から八十八番目。
間宿(あいのしゅく)柏原に入るとかば焼きを商う休み茶見世が出てきた。
何人もの旅人が足を止めていた。
街道左に続けざまに六っの見世があった、向かいが休み本陣。
「おれたちゃ弥次喜多と同じでかば焼きの匂いだけだな」
「腹が空いているなら食べて追いかけりゃいい」
「兄貴も薄情だ皆で食おうという気にならないのか」
「白須賀で食ったばかりだ。それにどこがうなぎで、鯰か解りゃしねえ」
「鰻だけじゃないのか。一九めうなぎしか書かなかったぜ。そういやぁ左富士ではなく正面に見えたとかいて有ったな」
神社の赤い鳥居のところで追い越して、子供たちが通せんぼした。
「何かようかい」
「やい、ださんぴん奴(め)よくも俺たちが苦労して採ったなまずを馬鹿にしたな」
「きこえたか」
「そうずら、旨いかまじいか食いもしねえで笑いものにしなや」
次郎丸は「旨いという店を教えてくれるのかい」と頭分らしきのっぽに問いかけた。
「そうずら。たった二十四文だ払えるなら食ってみろい」
面白そうだと四郎を見ると「鰻と両方焼いているなら食べ比べしても良い。お前たちもその代り付き合うんだぜ」とけしかけた。
子供たちで相談していたが一人が本陣の方へ駆け戻った。
「ついて来いよ」
“ たごや ”と暖簾の出ている店では亭主が飛び出してきて平謝りだ。
兄いが「俺たちもくうか、通り過ぎるかなやんでいたのだ。めったにない事だ食べ比べさせてくれ。その五人の威勢の良い兄貴たちにも同じものだしてくれ」と低姿勢でとりなした。
子供たちも食べ比べなど初めての様で「俺っちなまずがこんなに美味いっちゃ知らんずらよ」と聞きなれない方言で話している。
「ずらに、だらは熱田からこっちよく聞くが、ちゃも使うのか」
「そうっちゃ」
なぜか喜んでいる。
「江戸もんは言葉が荒くて怖らしいと聞いていたんずら。俺たちより丁寧だっちゃ」
「わりいな。俺は生憎江戸っ子じゃないんだ。江戸っ子はその右てのお侍と、俺の隣にいるいい男だ」
「兄いはどちらから」
「出羽って聞いたことあるか」
「伊能様云う人が簡単な地図書いてくれたずら。蝦夷に近いとは聴いたずら」
のっぽは良い家で育ったようだ。
茶代を足しても千四百七十二文だという、南鐐二朱銀二枚を出したら差しと四文銭七枚帰ってきた。
礼を言う亭主に「なまずと馬鹿にしていたが鰻に劣らぬうまさだ。泥臭いなんて金輪際馬鹿にしないよ」と四郎が言っている。
子供たちとは赤鳥居の前で別れた。
しばらく行くと左手に六の舎と言われる神社が有る。
「道中記にゃ六の舎は六王子とある。師匠知ってるのかね」
「王子と言うが六人の巫女にまつわる良い話と悪い話があるそうだ」
「て、ことは人身御供でもされた話か」
「そうなんだ六人ともう一人の七人になる話と、人形(ひとがた)が間に合って助かる話だそうだ」
「八王子なら素戔嗚尊だろうが六はなんだ。兄貴は心当たりは有るかよ」
「ここら辺で王子と言うなら富士浅間の第一御子明神から第十八御子明神の六番目くらいだな」
「まいるなぁ、浅間様かぁ」
「四郎さん何か困る事でも」
一本松新田の集落に入った。
宿往還はここから東の今沢村境まで二十四町四十二間有る。
集落の外れに一里塚。
原(一本松)一里塚は江戸から三十一番目(三十二里目)京から八十九番目。
「浅間といやぁ各地に有るが、木花之佐久夜毘売命とされて、配神瓊々杵尊。十八御子は誰かが作り上げた話だろうぜ」
御子は三人で火照命、火須勢理命、火遠理命、書紀の一書に四人とも出てくる。
「だからそのほかの神は何処で紛れ込んだか読んだ覚えがない」
六軒町からは人家も増える、西見附を抜けて西町浅間神社前、ここが高札場。
西町にある渡邉平左衛門本陣と西の問屋場は街道の右手海側。
東町の松蔭寺が見えた、白隠の里だ寺が並んでいる。
東から清梵寺、長興寺、松蔭寺、西念寺。
東町脇本陣の香貫屋重郎右衛門へ着いた。
隠居と主へ顔を見せ「江戸へ戻る」と簡単に告げて沼津へ向かった。
東の問屋場先が東木戸。
韮山代官支配地原宿(しゅく)は東西十一丁。
沼津宿まで一里十八丁。
大塚新田に休み茶見世がある。
今澤村を抜けた。
“ 従 是 東 沼 津 領 ”榜示杭が示すようにここまでが韮山代官支配の天領。
大諏訪松長一里塚は江戸から三十番目(三十一里目)京から九十番目
沼津は中町“ さのや ”へ七人の予約を熱田で入れてある。
浅間町から鉤手(曲尺手・かねんて)で本町の通りへ入らず、右手の道へ入り四つ辻右前方の沼津垣から松が見える。
本陣は本町通りに三軒有る。
下本町の右手東側に清水助左衛門本陣(東本陣)。
下本町の左手西側に間宮喜右衛門本陣(西本陣) 。
上本町の右手東側に高田市左衛門本陣、脇本陣は一軒に為った中村九左衛門脇本陣。
兄いの時計は六時。
“ さのや ”へ次郎丸を先頭に入ると女将が「お帰りなされませ」と出迎え、足盥が用意された。
兄いは「とびっきり旨いもんが食えると聞かされてきたんだぜ」と女中と話している。
「女将さんの兄様が昼から底へ網を降ろして驚くほどの桜エビを届けてきましただら」
「幻とまで言われるやつかい」
「闇夜か、雨の日は海面近くでシラス網に入ることもあるそうですら」
一度広間で落ち着いて茶を飲んだ。
「実わな、今日は柏原という間宿(あいのしゅく)で鰻と鯰のかば焼きを食べ比べたよ。あんに相違して泥臭さは無かった」
女将はずいぶんと若返った風情だ、相変わらずの白髪だが華やぎを感じた。
「お部屋は二階四部屋を開けてあります。お部屋割りはお好きにどうぞ」
「俺と四郎で階段右一部屋、新兵衛殿がその奥、兄いと師匠は階段左、幸八と藤五郎はその奥の部屋」
宿帳を付けながらそのように指示した。
部屋を女将と女中三人が案内した。
次郎丸が座に就くと「お頭様京(みやこ)へ上るときのお約束通りお立ち寄りくだされお礼を申し上げます」と頭を下げた。
「かたぐるしいじゃねえか。同じ結のお仲間だ遠慮することは無い」
女将は何か考える風情を見せた。
「やはりお話をして置こうと思います」
「俺が居てもいいのか」
四郎が立ち上がり部屋を出ようとした。
「お前も江戸へ戻れば正式に結へ入るんだし、俺の身内同然の仲だ。聞いた方が良い」
「実は身ごもりました。お願いがございます」
「江戸へ来るか」
「いえ、そうではなく私はお頭の子として育てますが。若殿様の子とは教えずに育てたく存じます」
四郎は「御落胤の証拠を求めないというのですかね」と先走る。
「物心つくころには一度逢わせてくれるかい」
「お客様として御出でいただくか。無理なら江戸へ一度行かせていただきます」
「それならお前さんの気の済むようにすればよい。体を厭えよ」
女将が風呂は何時でも入れるというので二組に分かれて入ることにし新兵衛を幸八、藤五郎と先に行かせた。
師匠が来たので「ここも風呂が広いが約束した宿は皆同じようだと気が付いたぜ」と話を振った。
「皆様鉄之助様のご指導で風呂を上方風の湯船に改装したんですぜ。爺様あれで風流人だ。温泉巡りを東海道でやりたい口ですぜ」
「なんだ、師匠じゃないのか」
「あっしは長風呂が苦手でしてね。一人旅じゃさっさと上がる口ですぜ」
大広間は次郎丸達の他に四組十二人の客が食事をしていた。
七人が座るとヒラメの煮つけが出た。
女中が鰹の刺身と伊勢エビの刺身を大皿から取り分けた。
櫻海老とシラスの生が大皿にあお紫蘇の葉に盛られて出てきた。
「まだまだ居りますからたくさん食べてください」
四組の客が帰るとまたその場所に八人が座った。
櫻海老と豆腐の小鍋も出た、六匹が色鮮やかに映えていた。
四郎は兄いに「酒を追加しくれ」と頼んでいる。
最後は鮎の塩焼きに筍の炊き込み飯が出た。
酒だと自分から言わないのは成長した証拠だ。
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