第伍部-和信伝-肆拾陸

第七十七回-和信伝-拾陸

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年四月六日(1814525日)・六十九日目

興津宿“ 水口屋半平 ”を明け六つ前(四時頃)に旅発った。

韮山代官支配地興津宿(しゅく)は東西十丁五十五間、耀海寺先に問屋場が有る。

水口屋 ”で拵えた荷を、江戸浅草天王町伊勢屋吾郎宛て、本人差出で送り出した。

早送りにして二両二分二朱を請求された。

次郎丸は其処まで聞いて「一里塚へ先に行く」と混み合ってきた問屋場を離れた。

一駄一里四十六文ほどが平地での駄賃に為る、本馬は四十貫目までの荷が認められている。

単純に計算して興津から江戸日本橋約四十一里だと千八百八十六文に様々な手当が付く。

八倍払うのは結の仕組みが荷送りを保障する経費なのだろう。

結と縁のない問屋場のほうが多いだろうにと余分なことを考えてしまう。

余談

品川から日本橋は二里、本馬九十四文、軽尻(からじり)六十一文。

品川から川崎は船渡し(一疋口付十八文)を入れて二里十八丁、本馬百十四文、軽尻(からじり)七十三文。

飛脚は書状を江戸から大坂へ運ぶのに、十五日便銀一匁、六日限銀三匁五分、最速は三日半限仕立金十一両取った。

一里塚で待っていた次郎丸は「重いのを持って歩くよりいいが。土産も高価につくものだ」と嘆いている。

新兵衛は「あの竹籠旨い具合に収まりましたね。“ 追分ようかん ”に“ 駿河屋練羊羹 ”まで収まった。紙の箱と二重とはよほど高価な物に間違えそうだ」と顔がほころんでいる。

四郎は何か思い出したようだ。

「もしかして熱田で聞いた江戸へ“ 追分ようかん ”を土産というのはこの手で送ったのか」

「ばれちゃしょうもない。江戸の弟子筋へ二百本も送るにゃ“ 追分ようかん ”に十日前に予約して府中の俳句仲間が送るんですよ。自分で持ち歩くのは大変だ」

仕事がらみと趣味で出歩くことも多く土産も膨大だ。

興津一里塚は江戸から三十九番目(四十一里目)京から八十一番目。

由比宿まで二里十二丁だが興津川の渡し、薩埵峠が有る。

「由比川も木橋が掛かってりゃいいが、取り外されていると厄介だぜ」

歩き出すとすぐ左へ入る身延道、興津川は思っていたより水量は少ない。

横帯二十四文の札が下がっている。

「ひざ下だろう」

愚痴を言いながら金を支払う男たちが居る。

川会所の役人は「朝の計測は二尺六寸有りました」と何度も言いつかれた顔だ。

計測場で太股一尺四寸まで十二文、二尺十五文、二尺五寸二十四文、三尺五寸三十二文、脇水四尺三寸四十八文。

人足は三十五人と為っている。

薩埵峠に入った海が広々と見える、左手には富士の山も見えている。

休み茶見世が有る、朝も早いのに甘酒が有るというので頼んだ。

山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ

「蜀山人だね」

「此処じゃ無いのかね」

親爺は「そうらしいですだら。そん先の祠を詠んだそうだら」とそっけないが嬉しそうに見えた。

間宿(あいのしゅく)西倉沢へ下ると一里塚。

西倉沢一里塚は江戸から三十八番目(四十里目)京から八十二番目。

本陣川島屋勘兵衛、脇本陣柏屋、休み茶見世が並んでいる。

辰の刻(六時四十分頃)の鐘が山手から聞こえてきた。

由比川は水量が少なく板橋は架けられていた。

西町の“ えびすや ”では客はもういない様だ。

街道左手脇本陣羽根ノ屋からは商家の主か、駕籠で旅立つ男が居て供が四人ほど付き従っている。

問屋場で荷駄がその後を付いていった。

「よほど馬でも嫌いな男かね」

「居眠りすると落ちたりしますからね」

「最近振り分けで竹篭みたいに人が入れるのが流行だと聞いたぜ、片方に荷かもう一人乗せるとよ」

「下りの旅で見ていないですぜ」

「伊勢街道には春先大分多くなっていたぜ」

本陣前馬用の水飼場は男たちが清掃している。

「おいおい、もしかして誰か偉い人でも通るのかな」

由比本陣“ 岩辺郷右衛門 ”は街道左手に間口三十三間という石垣を組んだ大きな屋敷だ。

街道右手海側の問屋場は休み月の様で人が少ない。

先の左手に紀州お七里のお小屋が有る。

由比の一里塚は江戸から三十七番目(三十九里目)京から八十三番目。

その先鉤手(曲尺手・かねんて)で東木戸。

由比宿は東西五丁十八間と短かく、住人も八百人に満たない。

庄野で南北八丁に住人八百五十人ほど、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠十五軒だが、ここ韮山代官支配地由比宿は本陣一軒、脇本陣一軒、大宿一軒・中宿十軒・小宿二十一軒(旅籠三十二軒)を備えている。

小さいと言われ続けられている丸子(鞠子)で東西七丁、住人八百人に本陣一軒、脇本陣二軒、大宿二軒・中宿十六軒・小宿六軒(旅籠二十四軒)備えてある。

蒲原宿へ一里。

神沢川の先に小金村、向田川先が蒲原宿京方見附の西木戸。

茄子屋の辻だと四郎は新兵衛と話している。

鉤手(曲尺手・かねんて)に高札場が有る。

手前側に参道が有り「ここは若宮というのですが、若宮浅間社ともいうのですぜ」と未雨(みゆう)が立ち止った。

「歌の方の和歌の宮とも言われるのですぜ」

「場所柄、赤人に関連付けたのかい」

「その山部赤人様を祀り、和歌にちなんで木花之佐久夜毘売命も祀られたそうですぜ」

たごのうらに うちいでてみれば しろたえの ふじのたかねに ゆきはふりつつ

次郎丸が思わず詠った。

「百人一首ですね」

「元歌は少し違うのだ」

たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにそ ふじのたかねに ゆきはふりける

万葉集の原文を目にして読める人は少ない。

田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺雪波零家留

山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと) 、赤人は明人とも。

「師匠はよくしっているが、俳句だけじゃないんで」

「兄いと同じでね。つい余分に調べてしまう」

若さんの同類だと兄いが手を打った。

「ついでに雑学でね。稚宮(わかみや)大明神とはおさない方の稚(ち)を使ってもいるんですぜ」

もう一度右へ曲るとまた街道左手(山側)に高札場。

土橋の手前が本町、街道右手に平岡久兵衛本陣。

土橋の先左手が問屋場。

先に東木戸、巳の刻過ぎ(九時十五分頃)に宿を通り抜けた。

蒲原一里塚は三十六番目(三十八里目)京(みやこ)から八十四番目。

元禄の津波で流された後に此処へ再建されたと云う。

韮山代官支配地蒲原宿は十四丁三十三間三尺。

吉原宿まで二里三十丁二十三間。

七難坂からは富士が大きく見えた、坂を下ると一里塚が有る。

岩淵の一里塚は江戸から三十五番目(三十七里目)京から八十五番目。

前の蒲原から三十一丁足らずだと四郎と兄いが話している。

「一里に六丁近く足りなそうだ。由比と蒲原はもう少し短いようだった」

「足りないのは五丁二十間と見ましたぜ。前ので六丁近く足りなそうだ」

道中記に歩数も載せて作ればいいと未雨(みゆう)に言われている。

四郎も兄いも馬鹿話しながら歩いていて、よく距離が分かる物だ。

新豊院参道前にある常夜燈は“ 享和三年 岩淵河岸 久保町 ”と彫られていた。 

中ノ郷から岩淵河岸への道は栗の粉餅を売る休み茶見世が多い。

岩淵には常盤小休本陣、脇本陣が間宿(あいのしゅく)に置かれている。

富士川の渡し船は一人二十二文、下船居へ上がって平垣村(へいがきむら)の札の辻橋へ向かった。

午の刻の鐘が聞こえる、兄いが十一時五十分だと時計を見た。

四郎が「ある、有る。待てよここが本市場なら岩淵との間がないぞ」と大はしゃぎだ。

大坂で求めた道中記は岩淵と本市場の間は出ていない。

本市場一里塚は江戸から三十四番目(三十五里目)京から八十六番目。

休み茶見世の多い場所を見て相談だ。

「此処で団子を食うか。葱の雑炊でもどうだ」

葱の雑炊にした、上方のねぶか汁を江戸では葱雑炊と言う、熱々を、汗を流して食べた。

小潤井川(こうるいかわ)の先に吉原宿西木戸。

鉤手(曲尺手・かねんて)に二度曲がれば左手に上本陣神尾六左衛門、脇本陣銭屋矢部清兵衛。

問屋場と高札場を過ぎれば本町脇本陣扇屋鈴木伊兵衛。

路地を挟んで下本陣長谷川八郎兵衛、脇本陣四ツ目屋杉山平左衛門。

脇本陣野口祖右衛門先が吉原宿江戸方見附の東木戸。

韮山代官支配地吉原宿は東西十二丁十間。

原宿(しゅく)へ三里二十二間。

江戸まで三十四里二十七丁二十二間。  

京(みやこ)三条大橋から九十一里十四丁三十九間。

和田川は昔富士川で平氏が敗走した古戦場。

左富士は度々の災害で宿場が移ったため、道はうねっているため反対側に見えている。

「上る人が言いだしても、江戸へ下るには右富士と言いたい人も多いだろうぜ」

まだ右も左も浸透はしていない、南湖鳥井戸橋が昔からの左富士と言われているためだ。

依田橋一里塚は江戸から三十三番目(三十四里目)京から八十七番目。

街道右手に悪王子神社は悪王子大権現を祀る。

「十八年前の寛政八年に建て直したと言いますが。祭神がどういう神かよく解らねえ」

「悪王子といゃあ、素戔嗚尊の荒御魂(あらみたま)が多いが、話が伝わっていないのかな。京(みやこ)の八坂にも末社があるはずだ」

「こりゃ参った。末社までは気が回らねえ」

この辺りが中吉原と言われる場所で、三十四年前延宝八年の高潮では小高い此処へ逃げ込み助かった人が多かったという。

延宝八年、中吉原から新吉原へ宿(しゅく)が移り、一里塚も移動した。

吉原宿東木戸はその時の潮止まりの場所を選んだ。

沼川の橋を渡れば元吉原の有った鈴川その先が今井、元吉原宿の近くに以前は見附宿と言われていた宿場が有ったという。

吉原宿が移動したので原宿(しゅく)までは距離が伸びた。

休み茶見世で甘酒を飲んだ、此処は檜新田だという。

松林に為りその奥に松の木が植えられた一里塚が見え隠れする。

「なんですか四郎さん。あれが一里塚ですか」

「可笑しいだろ、普通なら道へ張りだすくらいなのに。ここらに在るはずと知らなきゃ通り過ぎてしまうぜ」

街道が動いたとしても不思議な場所だ、昔からの松並木を大事にして奥へ拵えたのだろうか。

沼田新田一里塚は江戸から三十二番目(三十三里目)京から八十八番目。

間宿(あいのしゅく)柏原に入るとかば焼きを商う休み茶見世が出てきた。

何人もの旅人が足を止めていた。

街道左に続けざまに六っの見世があった、向かいが休み本陣。

「おれたちゃ弥次喜多と同じでかば焼きの匂いだけだな」

「腹が空いているなら食べて追いかけりゃいい」

「兄貴も薄情だ皆で食おうという気にならないのか」

「白須賀で食ったばかりだ。それにどこがうなぎで、鯰か解りゃしねえ」

「鰻だけじゃないのか。一九めうなぎしか書かなかったぜ。そういやぁ左富士ではなく正面に見えたとかいて有ったな」

神社の赤い鳥居のところで追い越して、子供たちが通せんぼした。

「何かようかい」

「やい、ださんぴん奴(め)よくも俺たちが苦労して採ったなまずを馬鹿にしたな」

「きこえたか」

「そうずら、旨いかまじいか食いもしねえで笑いものにしなや」

次郎丸は「旨いという店を教えてくれるのかい」と頭分らしきのっぽに問いかけた。

「そうずら。たった二十四文だ払えるなら食ってみろい」

面白そうだと四郎を見ると「鰻と両方焼いているなら食べ比べしても良い。お前たちもその代り付き合うんだぜ」とけしかけた。

子供たちで相談していたが一人が本陣の方へ駆け戻った。

「ついて来いよ」

たごや ”と暖簾の出ている店では亭主が飛び出してきて平謝りだ。

兄いが「俺たちもくうか、通り過ぎるかなやんでいたのだ。めったにない事だ食べ比べさせてくれ。その五人の威勢の良い兄貴たちにも同じものだしてくれ」と低姿勢でとりなした。

子供たちも食べ比べなど初めての様で「俺っちなまずがこんなに美味いっちゃ知らんずらよ」と聞きなれない方言で話している。

「ずらに、だらは熱田からこっちよく聞くが、ちゃも使うのか」

「そうっちゃ」

なぜか喜んでいる。

「江戸もんは言葉が荒くて怖らしいと聞いていたんずら。俺たちより丁寧だっちゃ」

「わりいな。俺は生憎江戸っ子じゃないんだ。江戸っ子はその右てのお侍と、俺の隣にいるいい男だ」

「兄いはどちらから」

「出羽って聞いたことあるか」

「伊能様云う人が簡単な地図書いてくれたずら。蝦夷に近いとは聴いたずら」

のっぽは良い家で育ったようだ。

茶代を足しても千四百七十二文だという、南鐐二朱銀二枚を出したら差しと四文銭七枚帰ってきた。

礼を言う亭主に「なまずと馬鹿にしていたが鰻に劣らぬうまさだ。泥臭いなんて金輪際馬鹿にしないよ」と四郎が言っている。

子供たちとは赤鳥居の前で別れた。

しばらく行くと左手に六の舎と言われる神社が有る。

「道中記にゃ六の舎は六王子とある。師匠知ってるのかね」

「王子と言うが六人の巫女にまつわる良い話と悪い話があるそうだ」

「て、ことは人身御供でもされた話か」

「そうなんだ六人ともう一人の七人になる話と、人形(ひとがた)が間に合って助かる話だそうだ」

「八王子なら素戔嗚尊だろうが六はなんだ。兄貴は心当たりは有るかよ」

「ここら辺で王子と言うなら富士浅間の第一御子明神から第十八御子明神の六番目くらいだな」

「まいるなぁ、浅間様かぁ」

「四郎さん何か困る事でも」

一本松新田の集落に入った。

宿往還はここから東の今沢村境まで二十四町四十二間有る。

集落の外れに一里塚。

原(一本松)一里塚は江戸から三十一番目(三十二里目)京から八十九番目。

「浅間といやぁ各地に有るが、木花之佐久夜毘売命とされて、配神瓊々杵尊。十八御子は誰かが作り上げた話だろうぜ」

御子は三人で火照命、火須勢理命、火遠理命、書紀の一書に四人とも出てくる。

「だからそのほかの神は何処で紛れ込んだか読んだ覚えがない」

六軒町からは人家も増える、西見附を抜けて西町浅間神社前、ここが高札場。

西町にある渡邉平左衛門本陣と西の問屋場は街道の右手海側。

東町の松蔭寺が見えた、白隠の里だ寺が並んでいる。

東から清梵寺、長興寺、松蔭寺、西念寺。

東町脇本陣の香貫屋重郎右衛門へ着いた。

隠居と主へ顔を見せ「江戸へ戻る」と簡単に告げて沼津へ向かった。

東の問屋場先が東木戸。

韮山代官支配地原宿(しゅく)は東西十一丁。

沼津宿まで一里十八丁。

大塚新田に休み茶見世がある。

今澤村を抜けた。

従 是 東 沼 津 領 ”榜示杭が示すようにここまでが韮山代官支配の天領。

大諏訪松長一里塚は江戸から三十番目(三十一里目)京から九十番目

沼津は中町“ さのや ”へ七人の予約を熱田で入れてある。

浅間町から鉤手(曲尺手・かねんて)で本町の通りへ入らず、右手の道へ入り四つ辻右前方の沼津垣から松が見える。

本陣は本町通りに三軒有る。

下本町の右手東側に清水助左衛門本陣(東本陣)

下本町の左手西側に間宮喜右衛門本陣(西本陣)

上本町の右手東側に高田市左衛門本陣、脇本陣は一軒に為った中村九左衛門脇本陣。

兄いの時計は六時。

さのや ”へ次郎丸を先頭に入ると女将が「お帰りなされませ」と出迎え、足盥が用意された。

兄いは「とびっきり旨いもんが食えると聞かされてきたんだぜ」と女中と話している。

「女将さんの兄様が昼から底へ網を降ろして驚くほどの桜エビを届けてきましただら」

「幻とまで言われるやつかい」

「闇夜か、雨の日は海面近くでシラス網に入ることもあるそうですら」

一度広間で落ち着いて茶を飲んだ。

「実わな、今日は柏原という間宿(あいのしゅく)で鰻と鯰のかば焼きを食べ比べたよ。あんに相違して泥臭さは無かった」

女将はずいぶんと若返った風情だ、相変わらずの白髪だが華やぎを感じた。

「お部屋は二階四部屋を開けてあります。お部屋割りはお好きにどうぞ」

「俺と四郎で階段右一部屋、新兵衛殿がその奥、兄いと師匠は階段左、幸八と藤五郎はその奥の部屋」

宿帳を付けながらそのように指示した。

部屋を女将と女中三人が案内した。

次郎丸が座に就くと「お頭様京(みやこ)へ上るときのお約束通りお立ち寄りくだされお礼を申し上げます」と頭を下げた。

「かたぐるしいじゃねえか。同じ結のお仲間だ遠慮することは無い」

女将は何か考える風情を見せた。

「やはりお話をして置こうと思います」

「俺が居てもいいのか」

四郎が立ち上がり部屋を出ようとした。

「お前も江戸へ戻れば正式に結へ入るんだし、俺の身内同然の仲だ。聞いた方が良い」

「実は身ごもりました。お願いがございます」

「江戸へ来るか」

「いえ、そうではなく私はお頭の子として育てますが。若殿様の子とは教えずに育てたく存じます」

四郎は「御落胤の証拠を求めないというのですかね」と先走る。

「物心つくころには一度逢わせてくれるかい」

「お客様として御出でいただくか。無理なら江戸へ一度行かせていただきます」

「それならお前さんのの済むようにすればよい。体を厭えよ」

女将が風呂は何時でも入れるというので二組に分かれて入ることにし新兵衛を幸八、藤五郎と先に行かせた。

師匠が来たので「ここも風呂が広いが約束した宿は皆同じようだと気が付いたぜ」と話を振った。

「皆様鉄之助様のご指導で風呂を上方風の湯船に改装したんですぜ。爺様あれで風流人だ。温泉巡りを東海道でやりたい口ですぜ」

「なんだ、師匠じゃないのか」

「あっしは長風呂が苦手でしてね。一人旅じゃさっさと上がる口ですぜ」

大広間は次郎丸達の他に四組十二人の客が食事をしていた。

七人が座るとヒラメの煮つけが出た。

女中が鰹の刺身と伊勢エビの刺身を大皿から取り分けた。

櫻海老とシラスの生が大皿にあお紫蘇の葉に盛られて出てきた。

「まだまだ居りますからたくさん食べてください」

四組の客が帰るとまたその場所に八人が座った。

櫻海老と豆腐の小鍋も出た、六匹が色鮮やかに映えていた。

四郎は兄いに「酒を追加しくれ」と頼んでいる。

最後は鮎の塩焼きに筍の炊き込み飯が出た。

酒だと自分から言わないのは成長した証拠だ。

文化十一年四月七日1814526日)・七十日目

卯の刻(正刻四時十五分頃)“ さのや ”を旅立った。

新兵衛は「どうやら普通の旅人並に近づいてきましたね」と四郎と話している。

「遅く出て早く着くばかりじゃ申し訳ない」

四郎に被せて未雨(みゆう)は新兵衛にすっぱ抜いた。

「此処までくりゃ二.三日くらいどうってことは無いんですがね。急ぐにゃ訳が有るんですよ」

新兵衛には話していなかった様だ。

「四郎さん江戸へ戻れば嫁取りでね。遅くも十二日にはご支配へ届けるので、江戸へ戻るように言われているんですよ」

「それで九日の江戸入り日程ですか」

「心つもりは七日と思いましたが九日にしてよかったですよ。天龍、大井を越えられなきゃ同じことですぜ。若さんが七つだちは嫌だというのが良い方へ味方しましたぜ」

なか町からうお町であげつち町。

先がかわくるわ町、さんまいばし町に高札場が有り此処までが沼津宿。

沼津宿(しゅく)は東西十九丁五十二間、 南北十九丁二拾間。

三枚橋を渡れば左先には山王宮参道。

街道左の畑地に一里塚が有る。

沼津(日枝)一里塚、江戸から二十九番目(三十里目)京から九十一番目。

右手も街道から外れ川の縁(へり)に有る。

下石田の木瀬川村の休み茶見世手前に“ 従 是 西 沼 津 領 ”の榜示杭、この先は韮山代官の支配地に為る。

その先に木瀬川橋この下は喜瀬川、黄瀬川、木瀬川と仮名で“ きせ川 ”と書いた物をわざわざ字を当てて混乱させている。

橋は百六十年ほど前まで無かったと未雨(みゆう)が何処かで聞いたという。

「師匠、三島で知り合った江戸の番頭が“ 亀鶴姫 ”という名の遊女の話と吉原の花魁の“ 喜瀬川 ”の事を話してくれたが、なんで江戸の遊女と繋がるのかよく解らないそうだ」

「瀬川という遊女は有名ですが」

「松葉屋の瀬川は俺でも聞いたことが有る。代々物持ちに落籍される文芸に長けた者が多かったそうだ」

松葉屋の瀬川を継ぐ者は絶えたが、喜瀬川がいて歌麿が浮世絵に書いていると兄いが知っていた。

「吉原細見でも読めば載っていますぜ」

とはいうが吉原とは縁のない一行だ。

余談

新吉原江戸町松葉屋半右衛門・大見世(総籬)-瀬川と喜瀬川。

瀬川-ウィキペディア(Wikipedia)に同名者は、享保から天明まで、九人いたとある。

吉原細見 享保十七年-松葉屋半左衛門方瀬川。

吉原細見 享保十八年九月-松葉屋半左衛門方瀬川(三代目)

瀬川(初代)-吉原で仇討(享保七年1722年)・浄瑠璃(新吉原瀬川復讐)・芝居(伊賀越道中双六)で創られた話と思われる。

瀬川(二代目)-夫の仇討ちを遂げたと伝わる。

初代と、二代目は共に幕末頃には浄瑠璃・芝居、浮世絵、読み本で創られた伝説で、まぜこぜにされた。

瀬川(四代目)-御用達江市屋宗助落籍(宝暦年間1751年~1764年)。

二十八歳で死去と伝わるが没年不詳。

瀬川(五代目)-鳥山検校落籍(安永四年1775年)。

安永二年(1773年)権成。

安永七年(1778年)高利貸発覚のため入牢。

(この事件で摘発された八人の内名護屋検校は牢死している。)

安永八年(1779年)不座、寛政三年(1791年)正月帰座。

瀬川(六代目)-御用達岸本大隅(浅田栄次郎)落籍(天明三年1783年)。

この六代目は洒落本新美人合自筆鏡・天明四年(1784年)に画が出ている。

瀬川(七代目)-松前文京(笹葉鈴成)事松前百助落籍(天明八年1788年)。

松前百助は松前資広次男松前資清、寄合三千石池田家へ養子に入って池田頼完。

瀬川は五百両で落籍と資料に出てきた、それ以前の瀬川は書き手によって幅が大きい。。

浮世絵

歌麿は文化三年九月(1806年)死去。

青樓七小町・松葉屋内喜瀬川-喜多川歌麿筆(寛政六年1794年頃)。

五人美人愛嬌鑑・松葉屋内喜瀬川-喜多川歌麿筆(寛政七年1795年頃)。

松葉屋内喜瀬川、たけの、さゝの.-喜多川歌麿筆。

松葉屋内歌之助、喜瀬川-喜多川月麿/菊麿筆。

伏見一里塚が見えてきた、山側を玉井寺一里塚、海側を宝池寺一里塚と呼び習われていると云う。

伏見一里塚は江戸から二十八番目(二十九里目)京から九十二番目。

境川の上を通る千貫樋が見えた、此処までが駿河の國、橋を渡れば伊豆の國。

右手に時の鐘が有る。

街道右手樋口傳左衛門本陣、左手が世古六太夫本陣。

源兵衛川、四ノ宮川、御殿川、さくら川を越え三島大明神前に高札場。

南へ伸びる下田往還道、北へ伸びる甲州道は荷駄の列が出来ていた。

韮山代官支配三島宿は東西十八丁二十間、箱根宿へは三里二十八丁。

東見附先に神川(かんがわ)に架かる新町橋(しんまちばし)は十九間有ると四郎が言う。

幅三間欄干のある板橋で箱根へ向かう人も多くなった。

橋の先が河原谷村で箱根の道が始まる。

山田川に架かる愛宕橋からが本格的な上りと為る。

愛宕坂の石畳は幅二間、初音ヶ原の松並木の先に一里塚。

錦田一里塚は江戸から二十七番目(二十八里目)京から九十三番目。

塚原新田の先にうすころばし急坂、先は市野山新田。

次の立場は三ッ谷新田、接待茶屋も数が増えてきた。

大時雨坂の三ツ谷新田、富士見屋茶屋本陣の先が小時雨(こしぐれ)坂。

休み茶見世へ入り甘酒で疲れを癒した。

こわめし坂は下の長坂、登れば笹原。

集落の先上り坂の手前が一里塚、此処も松に隠れて見えにくい。

笹原一里塚は江戸から二十六番目(二十七里目)京から九十四番目。

上の長坂から振り返れば三島の宿、駿河の海が見渡せた。

山中新田の立場は家数が多く、休み茶見世が三軒有る。

立場からだいぶ先に一里塚が見えた。

山中新田一里塚は江戸から二十五番目(二十六里目)京から九十五番目。

かぶと石が道はたに有り、街道には猪除けの柵が設置されている。

道の反対の休み茶見世は永楽茶屋、有徳院公お休み所と由緒が残る。

「なぁ、兄貴なんで神奈川で買った道中記には二十五里目の一里塚が昔は有ったと来たのだろうな」

「東海道は権現様が大久保長安に作らせたというが、最初から無いんじゃねえのか」

未雨(みゆう)は「畑宿から関所手前で一里、関所から山中新田へ一里。少し長いが十丁程度でしょうぜ」と言っている。

湯本、畑宿、葭原久保、山中新田が今の東海道。

鎌倉古道は湯本から湯坂山から芦之湯を廻る道、湯坂道と言われる街道だ。

「前に曽我の墓を廻ったろ、あの時の老人は湯坂道で元箱根と湯本の間は二里十五丁、東海道で二里九丁だそうだ」

「なんだ後家と一緒でそんな艶のない話を聞いていたのかよ」

「だから鎌倉道でも一里は余分にないという事さ、間の一里は噂程度だろうさ」

兄いは「もしかして箱根八里を意識して風祭から三島の間、七つの一里塚に幻の一里塚を加えたんじゃないですかね」

錦田、笹原、山中新田、葭原久保、畑宿、湯本、風祭と確かに七つだ。

伏見一里塚に小田原一里塚、両方加えると八里と云いにくい。

小田原宿から箱根宿が四里八丁。

箱根宿から三島宿が三里二十八丁。

是でぴったり八里に為る、一里塚にこだわると馬鹿を見ると皆が納得した。

峠の上に傍示杭が有る、“ 両国境 ”“ 伊豆相模 ”と簡潔に記されている。

挟石坂、風越坂、釜石坂、赤石坂、向坂先に芦川橋を渡れば芦川町。

駒形神社は天狗の面を背負った行者が五人ほど集まっている。

三島町、小田原町と人の列が関所へ向かっている。

三島町までは韮山代官支配、小田原町から名の通り小田原藩領に為る。

関所は小田原藩に管理が任されている。

差配の横目一名、番頭一名、平番士三名の五名は月替わりで派遣されてくる。

関所は混んでいた、順を待っていると午の鐘が響いてきた。

二刻(三十分)程で通り抜け、新谷町へ出た。

葭原久保の一里塚は江戸から二十四番目(二十四里目)京から九十六番目。

芦ノ湖に沿って元箱根への道が有る。

東坂の高みは八丁平、東海道を下って行くと一里塚が出てきた。

畑宿一里塚は江戸から二十三番目、京から九十七番目。

畑宿(しゅく)には茶屋本陣に休み茶見世が並んでいた。

此処で一息入れ白酒で鮎の鮓を食べた。

白酒二十文、鮎鮓一皿三十六文、大分高いが応対は良い。

甘酒茶屋も繁盛している。

割石坂では「刃こぼれしない強刀の伝説を信じたんですかね」新兵衛は驚いている。

坐頭転ばし、おんなころばし坂の先にすくも沢の立場。

須雲川橋の先、須雲川の集落を過ぎた。

ふたつ坂、おしあげ坂の先に一里塚、葛原坂、観音坂が本来の名だと未雨(みゆう)が兄いと話している

湯本茶屋の一里塚までは急坂が続くが、ここからは緩やかになるので足への負担も少ない。

湯本一里塚は江戸から二十二番目、京から九十八番目。

立場を通り抜けると左手に早雲寺、北条攻めの秀吉は此処へ本陣を置いていた。

石垣山城が出来上がると本陣を移し、全山を焼いたという。

寛永四年再建され、大猷院(家光)様から朱印状を与えられている。

三枚橋で須雲川を渡れば直に入生田、風祭の一里塚。

風祭一里塚は江戸から二十一番目、京から九十九番目。

板橋村は人家も多く小田原へ着いたという安堵の顔に旅人も為る。

板橋口見附は鉤手(曲尺手・かねんて)で城下へ入る。

小田原宿は此処から山王口見附迄東西二十町六間、南北九町五間有った。

西木戸から山角町、筋違橋町、欄干橋町、中宿町、本町、宮前町、高梨町、万町、鉤手(曲尺手・かねんて)で新宿町の九丁が大通り。

大通りでは白壁二階建て屋根瓦の建物は少なく、小田原葺と言われる板屋根を割竹で抑える家が並んでいる。

未雨(みゆう)は「この城下は江戸と同じように水道が引かれているぜ。街道の真ん中は木の樋が埋められているぜ」と新兵衛に話している。

早川上水と呼ばれる水道は、小田原北条氏三代氏康の頃に使用が始まったとされる。

各家では炭や砂でろ過して使用していると未雨(みゆう)は話している。

「山王口の蓮池へ最後は落としているそうだ。井戸の無い家では重宝していると聞いたよ」

桑名生まれだけあって水道には気が行くようだ。

北条氏は水を利する技術に長けていて、三島の千貫樋も氏康の代に設置されている。

欄干橋町山側に外郎(ういろう)、海側に清水彦十郎本陣。

中宿町山側に虎屋三四郎脇本陣、海側に上の問屋場。

本町山側に島屋太郎兵衛脇本陣。

本町海側に久保田甚四郎本陣、七軒おいて片岡永左ヱ門本陣、五軒おいて福住屋兵助脇本陣。

宮前町山側に高札場、米屋三右衛門脇本陣。

宮前町海側に清水金左ヱ門本陣。

高梨町海側に下の問屋場。

此処小田原宿では中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代となる。

009-小田原宿概略図

小田原は十年前に飯盛りの黙認へ舵を切っている。

高梨町問屋場の向かい“ 小川屋勇次郎 ”へ未雨(みゆう)は声を掛けて先へ進んだ。

甲州道を左に見て先の“ よろっちょう ”は 紀州七里役所向かいの“ 近江屋太助 ”へ入った。

街道は一丁ほど先で鉤手(曲尺手・かねんて)に折れてもう一度曲れば江戸口見附東木戸に為る。

近江屋太助 ”は裏手が海を眺められる造りで、庭が段に為って砂浜へ続いていた。

千度小路(せんどこうじ)の魚だなから「金目が届いている」と女中が未雨(みゆう)と話している。

部屋に落ち着き一同で茶とういろうで話が弾んだ。

店売りはしていないものだが、箱根越えの日が知らされるとそれに合わせて届けてくれたという。

主の太助は五十年配の眼光の鋭い男だ。

「御隠居が届けてくださいました。お頭を大層なお気に入いりで。そうそう、ご隠居のお気に入りと云えば、在の栢山(かやま)の百姓で金治郎と云う男が居ます。童の頃より勤勉でね、除け地からさえ収穫を上げて家や村を豊かにしています」

「そういう人に武家も助けて貰うようだぜ。褒めるだけでなく、身分の枷を取り除く必要が有るな」

金治郎(金次郎)この時二十八歳、会う人は驚くという。

身の丈が六尺、二十四貫は有るという、その人が腰を低くして人に仕えるという。

「買い戻した生家の土地を小作に出し、自分は若党として城下で働く、此処までする人は珍しい」

主の太助も手放しでほめている。

「入(い)るを増やし、出(いず)るを減らす。此の呼吸はなかなかつかめない」

次郎丸は金を動かして町人を豊かにし、作物の収穫を安定させ農民と武士が豊かになる、此の國が総じて豊かになる楽土を模索している。

兄の定永がお役に付けないのは、裏で定信が糸を引くことを恐れる人が多くいるとみている。

自分はと言えば同母姉の婉姫の力添えも有ると感じていた。

小田原藩十一万三千石も膨大な赤字に苦しんでいる。

二宮金治郎(金次郎)が立て直しに参画するのは八年後の話だ、此の時代は二宮家の再興に着手し、家老の服部家へ奉公に出たばかりで、同家の財政を再生するまでに至っていない。

大久保忠真(ただざね)は寛政八年に家督を継いで十八年。

四年前から大坂城代に就いている。

摂津、河内の上方分領は二万四千二百九十四石に増え、下野国芳賀郡の内分家宇津教信へ四千石分地(物井、横田、東沼村)されていたほかは天明三年幕府に上地されている。

宇津釩之助(うつはんのすけ)が芳賀郡で受け継いだ四千石は今荒廃し、千石に満たない実高迄落ち、本家でも立て直しに人を送っているという。

下野、上野一円の疲弊は簡単には回復できない。

ただ単に銀(かね)をつぎ込むだけでは、御用達の懐へ入るだけに為ってしまう。

貧乏藩は銀(かね)のかたに士分に取り立て、扶持米を出せばいう事を聞くと単純に金を借り出している。

文化十一年四月八日1814527日)・七十一日目

卯の刻(正刻四時頃)“ 近江屋太助 ”を出て山王口へ向かった。

山王口は江戸口見附で外は街道の両側に蓮池が有る、海側の池の向こうに一里塚が築かれている。

小田原(山王原)一里塚は江戸から二十番目、京から百番目。

山王川の橋を渡り、小田原宿から四里で大磯宿。

酒匂川は下横帯四十文の札が川会所に出ていた。

「流れがこのくらいなら京(みやこ)へ向かった時と変わりませんぜ」

渡り終わって兄いは愚痴っている、三河駿河に比べ箱根のこっちは水量が少ない。

「荷の他に蓮台を使わずに済んだだけましさ」

小八幡村に立場、家並が切れた外れに一里塚。

小八幡一里塚は江戸から十九番目、京から百一番目。

「まだ一里か」

「四丁程長いようですぜ。今六時だ。渡しが混んでたぶん刻が掛かりましたぜ」

森戸川の先が国府津。

大山道の追分に真新しい秋葉山常夜燈。

「文化十一年とありますがやけに難しい字だ」

「幸八よ。篆書で彫らせたようだ。秋と云う字を全部覚えるのは無理だぜ」

「そんなに多いかね兄い」

「これは簡単な方だ。金石韻府だから俺でも読める」

兄いの新兵衛は次郎丸より得意の分野だ、画の真贋を見極める必要で覚えた。

街になければ次郎丸に頼んで藩邸の書庫から見つけて貰う。

車坂を上ると伊豆の山々がかすんで見えた。

「今日は暑くなりそうです」

新兵衛が次郎丸へ話しかけた。

「早めにどこかで一休みするか」

押切川の橋の先、押切坂の上は山西村、梅沢の立場、休み本陣松屋が有る。

つたや ”と札の下がる休み茶見世で茶を頼んで竹筒や瓢に水を入れて貰った。

兄いは五十六文だという親父に緡(さし)を渡して「釣りなど出すなよ」と渡した。

高札場の裏手に一里塚が有る。

押切坂一里塚は江戸から十八番目、京から百二番目。

坂を下ると道祖神に天社神の石碑が有った、割合新しそうだと覗いてみた。

「享和二年だ十二年前だな」

「越地の辻と言うそうですぜ」

吾妻神社の鳥居が有る、此処は弟橘姫命の櫛が流れ着いた場所と言い伝えが残る。

土橋の先松並木木の向こうに間宿(あいのしゅく)二宮。

塩梅川(しおみかわ)を越えて国府新宿に入った。

国府本郷に入るとすぐに一里塚。

国府本郷の一里塚は江戸から十七番目、京から百三番目。

坂を下ると川に土橋が架かっている。

切通しで鉤手(曲尺手・かねんて)に曲ると西小磯に入る。

大磯宿上方見附を入った。

大磯宿の高札場の前が鴫立庵。

八世鴫立庵主は倉田葛三(かっさん)、この年は松代へ滞在していた。

鉤手(曲尺手・かねんて)先海側に南組問屋場。

山側に小島才三郎本陣、その先に尾上本陣、地福寺に参道を挟んで向かいが石井本陣。

北組問屋場先の江戸見附で兄いは「十二丁程度か」と言っている

化粧坂(けわいざか)を下ると一里塚。

化粧坂の一里塚は江戸から十六番目、京から百四番目。

高麗山(こまやま)高麗権現の下社鳥居が有る。

何時の頃か東照宮が祀られ、諸大名は、下馬して遥拝すと噂が出た。

「食野(めしの)の家で挨拶よりは信憑性が有る」

「若さん、これも噂の口ですか」

「他の大名がして自分たちは素通り、と言われちゃ後で困るからやるよりしょうがない」

坂下の石橋を渡り鳥居に向かって遥拝した。

花水橋先に縄手道が続いている。

京方見附を入ると西仲町左手に西組問屋場。

その先に東仲町加藤七郎兵衛本陣、先に高札場、向かいが東組問屋場。

二十四軒町に山本安兵衛脇本陣、十八軒町の北に東照宮社が有ると未雨(みゆう)が言いだした。

「本当ですかい。道中記にゃ有りませんでしたぜ」

「前に川向こうの牡丹餅茶店で権現さんと聞いたので、何の権現様か寄ったら東照大権現だというんですよ。八王子と権現様を祀るそうでね」

高麗権現と違いこちらはひっそりとお祀りしていると云う。

片手落ちはまずかろうと一同で参詣した。

江戸見附で兄いの時計は九時五十分。

「五里足らずだがここまで六時間ほどだ。あと七里有るぜ」

「予約が後は無いから戸塚でもいいさ」

新兵衛が「藤沢、川崎と決めれば一日遅れで江戸ですよ」と未雨(みゆう)に言いだした。

「とりあえず藤沢で決めればいいさ。馬入が楽に渡れられれば戸塚は確実だ」

川の近く立場が有り一里塚はその中ほどに有る。

馬入一里塚は江戸から十五番目、京から百五番目。

船は六人だというので二手に分かれた、船渡しで一人十四文。

中島、今宿、浜之郷の先が南湖(なんこ)左富士。

今日の富士は雲の上に雪を頂いた頂上を見せている。

街道左へ伸びる参道は鶴嶺八幡宮。

「鶴峯八幡は茶店の婆さんに嫌というほど自慢されました」

「天羽の鎮守という神社だったな。ここより古いと自慢された」

未雨(みゆう)は「此処の参道の松並木は四百二十間有るそうです」と教えてくれた。

南湖立場は橋の先一度下って上りに為る。

街道右(海側)御小休本陣松屋清左右衛門の先、脇本陣茶屋“ 江戸屋金次郎 ”で茶とおはぎで腹を宥めた。

「牡丹餅立場のぼたもち茶屋は粟餅だがそれも食べるかね」

「師匠も酷だね。そう甘いもの攻められては夕飯が食えない」

「この先は団子より牡丹餅だらけだぜ」

此処茶屋町の先、十間坂に第六天社が有ると亭主が教えてくれた

第 六 天 魔 王 ”と名は恐ろしげだが人間の千六百歳を一日とし、一万六千歳の寿命を持つという。

「不老長寿の神様だ。江戸は若さんの屋敷近くにもあるぜ」

未雨(みゆう)は「俺の天王町と丁度真ん中だな」と幸八、藤五郎とで話が弾んだ。

第六天社から十五丁ほど先に一里塚がある。

茅ヶ崎一里塚は江戸から十四番目、京から百六番目。

松並木の上り坂が続いて牡丹餅立場小和田のぼたもち茶屋“ たなかや ”がある。

紀州藩七里役所の立札が出ている。

「一人ひとつに茶を頼む」

四郎は先頭に出ていてそう頼んでいる、どうやら戸塚の心つもりでも目論んだようだ。

此処からも海に浮かぶ烏帽子に似た姥島(うばじま)が見える、昔は伊豆からこの付近まで漁師が来ていたという。

相州炮術調練場が有徳院様の時設けられ、隔年ひと月の演習期間中は浜への立ち入りは制限された。

大筒役の中には炮術調練遠距離の的に姥島(うばじま)を選ぶ者もいたという。

東の鵠沼村では片瀬山からの打ち降ろし、片瀬川からは海へ出ての船上砲撃の訓練も行われた。

此の炮術調練宿泊費用は宿場持ちとされ、近辺の助郷村は負担を強(し)いられた。

紀州藩七里役所は領内の他、東海道神奈川、小和田、小田原、 箱根、沼津、丸子、由比、金谷、見附、新居、御油、大浜村、宮、佐屋に置かれていた。

このうち宮までが江戸方、領内から佐屋までは和歌山方で差配している。

江戸からの普通便は毎月三回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発、道中八日が決まりだった。

尾張藩は、東海道六郷村から池鯉鮒宿の間十八ヵ所に有る。

四ツ谷立場の先に一里塚。

四ツ谷一里塚は江戸から十三番目、京から百七番目。

先は大山道が北へ向かう辻に為る、馬入川上流田村の渡しへの大山道だ。

江戸から大山へ詣で、帰りに江之島、鎌倉へ回るのが当世の流行で一行の前後にも何組もの講中が歩いている。

万治六年の“ 是より大山みち ”の道しるべが有る。

引地川を越えれば鵠沼村、藤澤宿京方見附はすぐそこに有る。

坂戸町右手(海側)に問屋場平野新蔵、山側に蒔田源右衛門本陣。

大久保町右手に大久保町、柏屋半右衛門脇本陣。

大鋸橋(だいぎりばし)を渡らずに進めば江の島道の一の鳥居が有る。

時期も良いのか大勢が鳥居脇の休み茶見世で休んでいた。

「ここから江之島まで団子屋、牡丹餅屋、甘酒茶屋、煮売り酒屋が二十は有りますぜ」

見えているだけで講中の連が五組は居た。

この藤澤宿も飯盛りは多い、街道の行き来の他に大山詣での帰りの男たちは此処で精進落としとして遊ぶからだ。

半数ほどの旅籠に飯盛りが居たという。

鉤手(曲尺手・かねんて)で高札場の有る大鋸橋を渡ると遊行寺門前町、鉤手で右手の大鋸町へ出て道場坂の登りで江戸方見附になる。

藤澤宿は坂戸町、大久保町、大鋸町の十一丁三十一間。

戸塚宿へ二里、兄いが四郎に相談している。

「もう一度くらい休んでも戸塚に四時に入れる。日暮れぎりで程ヶ谷だよ。次の休み茶見世でどうしたいか決めてくれ」

「俺なら戸塚で良いと思うよ。九日も無理せず川崎か、品川で良いと思うぜ」

「四郎が良いなら。戸塚にして明日は品川にしておこう」

次郎丸が決断した。

未雨(みゆう)は「そうと決まれば戸塚で鰻でも食いましょう」と四郎の魂胆を見抜いている。

坂を登り切る手前に塚が有る。

遊行寺坂一里塚は江戸から十二番目、京から百八番目。

暫く松並木の平坦な道が続いている。

藤澤宿の境の傍示杭が有る、この先は鉄砲宿、影取立場に為る。

休み茶見世で茶を出してもらった。

「此処でしたね若さんと四郎さんに出会ったのは」

「四郎、次郎にゃ兄貴分で吾郎がお似合いだ」

新兵衛が「曰くでも有りそうな物騒な地名ですね」と未雨(みゆう)へ話を振った。

「てっぽう宿(やど)がいつの間にかてっぽう宿(しゅく)に為り。かんどりが影取(かげとり)に為り。大きな魚がいる池で人が覘くと影を吸うと言う伝承が有ったそうですがね。鉄砲にひっかけて池の大蛇を退治した話を拵えた者がいるようですぜ」

「てっぽうなら河豚だろうに大蛇と結び付けますかね」

「藤沢宿の俳諧師は松に住み着いていた蛇を、矢で射殺した話をしてくれましたぜ」

浅間社の鳥居が有るその先一里塚。

原宿一里塚は江戸から十一番目、京から百九番目。

二番坂に一番坂合わせて大坂、坂の下が戸塚宿上方見附。

もう一段下が戸塚八幡宿、鉤手(曲尺手・かねんて)先に“ かまくら道 ”の道しるべの有る田宿追分。

土橋を跨ぐと“ さなだや  ”のある戸塚天王町、四郎は表に居た番頭へ声を掛けた。

兄いが時計を次郎丸へ見せた、二人の時計は四時二十五分だ。

「お早いお着きで、いまお戻りですか」

「そうなんだ。たっぷり遊んできたが連れが増えたが部屋は同だ」

「七人様、六畳四部屋取れますが」

「それでいいよ。前の時のように鰻に摘みをたっぷり用意してくれ」

部屋に落ち着くと兄いが呆れている。

「江戸を出た最初の日に宴会開いたんですかい」

「南鐐二朱銀を三枚とお捻りを出した」

「なんでぇ、ケチくせえ。一人一分にもならねえ」

次郎丸は笑いが止まらない。

宿帳を持ってきた番頭が「おひとり一分のご予算で宜しいので」と聞き逃しはしない。

兄いも兄いだ「ここに一分金で七枚、お捻りが十個あるから適当に分けてくれ」と大盤振る舞いだ。

「穴子の箱鮨が頼めますが」

「そいつも頼んでくれ。金が足りなきゃそこのお兄いさんが出すだろうぜ」

「一本四十文です。一人一本食べたら腹が膨れます」

「じゃ八本頼んで半分出してくれ。あとはそっちでつまんで旨けりゃ吹聴してやんな」

兄いまるで安房へ行く時とおんなじになってしまった。

四郎は「兄い銀(かね)が重くて嫌になっのか」と聞いている。

「重いのは幸八と藤五郎ですぜ」

「兄いの笈摺(おいずる)は銭緡(差し)の為だと思ったぜ」

「こいつの中は軽いものばかりでね。如何にも重い荷を背負った御供のようでしょ」

幸八たちは兄貴と賭けで負けて銭を背負わされてと愚痴っている。

「もう銭も大していらないからどこかで土産でも買い入れればいい」

「酒田では親に土産を背負って帰る気に為るなと言われて出てきました」

未雨(みゆう)が「小田原で一人四文銭の銭緡二本せおわしたんですよ」と笑い出した。

「何の必要なんだ」

二八そば七百八十文はらひ ”の計算を出来ないので罰だという。

新兵衛が首を捻っている「うううう」ようやく計算できたようだ。

「四十七士の事か」

「其処へ考えが行けば割り算も出来るはずでね」

傍で番頭が「アッ」と合点が行った様だ。

「おいおい、番頭さん。お前にも銭を背負わせるようだぜ」

四郎に言われて照れていたが宿帳と金を持って出て行った。

銭緡(差し)実は九十六文で百文に使える、二八蕎麦四十七杯、七百五十二文は八十文と銭緡(差し)七本の六百七十二文、二八を四十七杯は七百五十二文だが七百八十文の価値が有る。

「銭緡(差し)七本に五十二文のほうが計算も合うはずですよ」

藤五郎はこの期に及んでも愚痴を言う。

まだ余分に背負わされたいかと言われている。

「鐚銭七百五十二文より銭緡(差し)七本を六百七十二文に支払えばお捻りだしたも同じだ」

三百八十四文が四百文で通用すると体で覚えさせるという。

酒田で親たちを説得するには、機転も効かなきゃ納得させるのが難しいという。

「たった四文、十六文と思うのと、それをため込んで大盤振る舞いする。ケチと浪費は両方持ち合わせるのが一番いい」

次郎丸は「ここで半分、残りは品川の宿賃で使わせてやれよ」と助け舟だ。

「俺たちが贅沢しても治宝(はるとみ)様の粥に架かる費用にゃ追いつかない。江戸で小肌の鮨が贅沢だと言うが裏店の神さんでも三個は買える」

「そんなに安いですか」

「正月に一つ八文、家の中間で五個も食うのは一人だけだ」

「新兵衛様、中間は二人いて忠兵衛と言うのが大食いでね。屋敷を仕切る大野様など二つで十分だという大きさですぜ」

「そういや、ちくまやの三人もよく食う奴らだ」

「あいつら遠慮は口先だけですから。三人で四十食ったには驚きました」

それでも大食い番付に載るほどは食えませんと言う。

蕎麦は未雨(みゆう)の話では若いころ「かけ」で十二文、種入りで二十文だったという。

「つつっぽうのうなぎ串二本と同じ値でしたぜ」

十六文は見世での値段でヨタカ蕎麦は十四文にようやくなったという。

「二八というのは最近かね」

「ですから四十七士にひっかけたのは此処十年の洒落本でしょうぜ」

台の物が届いて酒が出てきた。

散々食べて飲んだしめに鯛そうめんが出てきた。

兄いも「予約なしで良く手に入れた」と大喜びだ。

香ばしい匂いが食欲を誘っている

「大きな鯛だね。若さんは目の下とほほ肉を先に食べてくださいよ。わしはその裏の分が欲しい」

新兵衛は四郎には「縁起物の鯛の鯛を二つとも取り分けてくれ」と女中に頼んでいる。

「お客さん、食べ馴れされてるね」

鯛中鯛は縁起物、一匹で夫婦の骨に為る。

「焼き物だよ。食べるときに割れても身代わりだよ」

女中は綺麗に選り分けてくれた。

「そうめん食べてなんだが。義士は本当に蕎麦屋で集まったのだろうか」

新兵衛が次郎丸に疑問だという。

「兄いが読みたいというので。庚申堂に頼んで見つけて貰ったんだがね」

寺坂吉右衛門信行の“ 寺坂信行筆記 ”という本に“ 蕎麦屋へ集まり候も虚説なり ”と出ていたという。

「一部の人がそばを食べてから集合場所へ来たと出ているから、それを全員に話を広げたのさ。四十七人も入れる蕎麦屋の有る方が不思議さ」

幸八は「一畳に二人すわって二十四畳、火事場装束に着替えるのに身動き付きませんや」と喜んでいる。

文化十一年四月九日(1814528日)・七十二日目

卯の刻(四時頃)に天王町“ さなだや  ”を旅発った。

さなだや  ”の街道の向かいが八坂神社の参道、左手に高札場。

台宿左手に澤邊本陣、中宿左手が脇本陣、向かいが中宿問屋場で十二日から晦日を受け持った。

中宿左手内田七郎右衛門本陣。

上宿先に鉤手(曲尺手・かねんて)

矢部町の問屋場(朔から四日まで)、吉田町にも問屋場(五日から十一日まで)が有る。

大橋際に“ こめや ”追分に“ かまくらみち ”の道しるべ。

「前は気に為らずにいたが」

「どうしたんで」

右 あわしま道 ”に気が行かなかったがどこに有るんだろうな」

未雨(みゆう)が知っていた。

「此の先八丁に大善寺という寺の淡島明神ですぜ。鎌倉道ははす向こうの川下へ続いていますぜ」

「橋の向こうに有る土手路か」

「円覚寺の近くへ通じていますぜ」

一里塚は家の陰に見えた。

戸塚(吹上)一里塚は江戸から十番目、京から百十番目。 

江戸方見附を抜けた。

戸塚宿は二十丁十九間、程ヶ谷まで二里九丁。

五太夫橋(ごだゆうばし)手前に戸塚宿(しゅく)傍示杭が有った。

舞岡川(まいおかがわ)は右手から左へ流れ、柏尾川へ流れ込んで回り込んで大橋の下を通り、藤沢へ向かう。

不動坂先柏尾の大山道入口不動堂、脇に道しるべ。

従是大山道 ”寛文七年の建立「百五十年ほど前だ」だと新兵衛が幸八と話している。

未雨(みゆう)は「前にね藤澤宿の俳句仲間が掃除に入ったら、御不動様は正徳三年。百年前の寄進だと書いてあったそうです」と言っている。

「先の右手の丘には王子社が有るんですがね。大塔宮護良親王様の首を供養してあるそうなんですぜ」

「いくつも首塚が有る伝説の御子だからな」

「そんなに多いですか」

藤五郎も此処の所感化されてきている。

甲州下宮浅間神社に有ったものが甲州石船神社で祀られていると伝わると未雨(みゆう)が話している。

「だがなこの話をしてくれた人に寄れば、浅間神社の大杉へ埋めたのが護良親王様の死後二十年たってからだ。仙台石巻まで護良親王様は落ち延びたという説もあるんだそうだ」

中先代の乱の時大塔宮護良親王は殺害されたと太平記は記している。

首塚も鎌倉阿武塚に有ると言われているのだ。

南の局事雛鶴姫もさまざまな伝承に満ち、親王との子供も死産、七歳で夭折、葛城宮綴連王として成人、遊行寺第十二世尊観がそうだと言われるくらい話はとりとめがないのだと云う。

「師匠、参るなぁ。どれが本当か解りゃしませんや」

品濃(品野)一里塚の左側には大きな榎が有り日中木陰を与えてくれるはず。

品濃(品野)一里塚は江戸から九番目、京から百十一番目。

焼餅坂から富士の峰が見える。

権太坂の上、境木立場に傍示杭(ぼうじくい)武蔵、相模の国境(くにざかい)“ 従是相模国 戸塚宿 一里九丁 とあった。

此処からは程ヶ谷宿。

休み茶見世で一休みした。

四郎は「ほどがやだが元禄の師宣の東海道分間之絵図では新町、宝暦の東海道分間絵図で程ヶ谷、道中記に保土ヶ谷だ。此の保土ヶ谷が権現様江戸討ち入り以前の地名で一番古いようだ」と字を書いて見せた。

次郎丸はおもいだした、東海道分間延絵図では神奈川宿の脇に保土ヶ谷迄一里九丁でその保土ヶ谷宿には保に戸の保戸ヶ谷に為っていた。

「兄貴何か思い出したようだな。白状したらどうだ」

「新町が今の保土ヶ谷元町なら昔の保土ヶ谷は何処かなと考えたのさ」

「怪しいな」

「そうか京方見附の脇に道祖神があったの覚えているか」

「一里塚の西っかわだな」

「あの辺から宿の東へ大回りの道でもあって、それを付け替えたのが新町じゃないのか」

「そういやぁあの見附も崩れていたし、一里塚も崩れ掛けていた上に北っかわは無かったな。洪水でも起きたのかな」

茶見世の親父が首を突っ込んできた。

「お客さんがたぁ、わしが加わってもいいだかや」

「ほどがやの事知っているのかね」

「うだば、おらがちっこう頃だがな。年寄の昔話で慶安の年にこの先の一番坂下の刈部様を保土ヶ谷の鉤手(曲尺手・かねんて)へ移しなされたそうじゃがな。ほんでな南側の岩間町も移させてな、神戸(ごうど)、岩間、帷子と昔の保土ヶ谷で新町にしたそうじゃ」

「慶安と言うと百五十年以上も前か、その話よく覚えていてくれた。誰かに書かせて保管して貰いなよ。こいつはその費用に使いなよ」

四郎は南鐐二朱銀を懐から出して懐紙で包んで渡した。

藤五郎は手控えを見て「元禄より五十年ほども前だな」と幸八に見せている。

親爺は藤五郎に慶安と元禄がどのくらい前か書いてもらった。

慶安は戊子から壬辰までの五年、元禄は戊辰から甲申までの十七年、この文化十一年は甲戌。

「慶安四年は由井正雪が捕まった年だ。元禄はその三十六年ほど後だな。今は元禄が終わって百十年ほど経っている」

四郎が教えたので藤五郎はそれも書いた、先手を打って銭緡(差し)百文を一緒に渡した。

「茶代だ。釣りは出さないでくれ」

上方見附を入ると土橋の手前右手に一里塚。

程ヶ谷一里塚は江戸から八番目、京から百十番目。

元町は旅籠の多い地域だ。

街道左手茶屋本陣苅部九左衛門。

街道右手水屋与右衛門脇本陣。

街道右手藤屋四郎兵衛脇本陣。

街道左手大金子屋八郎右兵衛脇本陣。

街道右手苅部清兵衛本陣。

鉤手(曲尺手・かねんて)先が金沢への弘明寺道追分

かなさわ かまくら 道 ”“ 天和二年 ” 左面に“ ぐめうし道

岩間町左手高札場、右手問屋場。

先は神戸町、土橋の先が帷子町、十五間有る帷子橋の下は帷子川、天王町に牛頭(ごず)天王社、先に江戸見附が有る。

程ヶ谷は宿内十九丁、神奈川宿まで一里九丁

見附から三丁程で芝生(しばう)追分、此処までが程ヶ谷で此処からは神奈川に為る。

石橋の先、追分は左へ伸びる八王子道。

「あのおやじの話じゃここから大回りしていたようだな」

「富士の噴火の前まで帷子橋の下が湊だったとわな。年よりの昔話が代々伝わるうちに大袈裟になりやすいが、良く覚えていてくれたもんだ」

「そういゃぁ、義兵衛の所はこの付近の小麦を野田へ運ぶと聞いたことが有る」

「此の八王子道の先に小麦の生産地が有るという事だな」

この付近は土橋でなく石橋が続いていた。

浅間下の茶店では飯を掻き込む行商の男たちが居た。

登り坂は緩く軽井沢の石橋から急になる。

京方見附、台の坂を上ってくると鉤手(曲尺手・かねんて)先が下台町の一里塚。

神奈川(台町)一里塚は江戸から七番目、京から百十三番目。

街道左手(崖)いずな、いなりに本覚寺、右手(海側)は休み茶見世に料理屋が並んでいる。

坂の下で海が寄ってくれば青木町に若菜屋の亀甲煎餅(かめのこうせんべい)、洲崎大神。

右側(海側)に滝之町西本陣鈴木源太左衛門本陣。

瀧ノ川の先左手(山側)に高札場と神奈川西之町東本陣石井源左衛門本陣。

石橋の先右手が問屋場。

長延寺の門前に江戸見附。

上方見附から東西十八丁二十九間。

川崎宿迄二里十八丁、日本橋迄七里、江戸大川迄海上十一里。

新宿村先に入江川先は東子安村、遍照院の先二丁程の村はずれに一里塚。

東子安一里塚は江戸から六番目、京から百十四番目。

松並木の先に鶴見川河口の生麦村。

鶴見のサボテン茶屋も人が多い。

立場の高札場先鉤手(曲尺手・かねんて)、杉山大明神参道の向かい側、志からき茶屋で一休みした。

新兵衛がなにか言いたそうだが遠慮している風情だ。

「新兵衛殿具合でも悪いのか」

「いえ、そうではありません」

「当ててみようか。平間寺」

山号金剛山、院号金乗院(きんじょういん)、平間寺(へいけんじ)、通称川崎大師。

「なぜ」

「前に一日遅らす相談の時、藤澤、川崎と言ったろうに、四郎に遠慮して強く言わなかった」

「それでも」

首をかしげている、幸八が首を突っ込んできた。

「若さん、おいらもなぜその平間寺(へいけんじ)の事だと」

「平間寺は幸八でも川崎大師と言えば知っているだろう」

「へえ、六郷の渡しで話が出ていましたぜ。昨年は将軍様も参詣されたとか」

「紀州と言えば高野山。成田と並んで川崎は江戸っ子に人気の寺だ」

新兵衛は「母に一度は参詣したいと言われていました。図らずも江戸へ出るのが幸いと思いました」と打ち明けた。

「どうだね師匠」

「川崎から大師へ二十丁、参詣で胡麻祈祷しなけりゃ往復一刻半(三時間)。六郷でなく六佐衛門の渡しで羽田へ渡るのも面白いですぜ」

「品川まで行けるかな」

「まぁ、途中には泊まれるところはおおうござんすぜ」

「要島の辯財天や最近に出来た御穴宇賀神までは猪四郎と行ったことが有る」

「なら川崎で鯊の天ぷらでも食べて寄り道と行きましょうや。六郷さえ渡れりゃ大した違いは有りませんや。羽田道が辯天から伸びていますから」

出不精の猪四郎が誘ったのは秋口の穴子が目当て、永代から大森まで船で出たのだ。

白焼き、かば焼き、煮穴子、〆に天麩羅と嫌というほど食べ、戻りは腹ごなしに品川まで歩いた。

鶴見橋手前に寺尾稲荷道の道しるべ。

正面に“ 馬上安全 寺尾稲荷道

右側面に“ 是より廿五丁

左側面には“ 宝永二乙酉二月初午 寛延三庚午十月再建

「馬子の守り神ですかい」

「道中記にゃ無かったな」

未雨(みゆう)が知っていた。

「小田原旗本四十八番衆の諏訪右馬之助とういう人が、馬術上達を祈願し、見事上達したと謂れが有りますぜ」

橋の先三丁ほどで一里塚。

市場村一里塚は江戸から五番目、京から百十五番目。

八丁畷の一本道は松より杉が多く植えられている、この付近は将軍家御鷹狩場。

休み茶見世が有る。

「此の見世かどうかまでは分かりませんがね、芭蕉翁が最後の旅へ出た時、江戸の門人、友人は此処まで見送りに来たそうですぜ」

麦の穂を たよりにつかむ 別れかな

「この句でもお分かりのように皐月のことだそうですぜ」

元禄七年(1694年)五月十一日、八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休息した。

芭蕉はこの年の十月大阪で亡くなっている。

川崎宿京方見附を通り抜けた。

小土呂橋は石橋で田中休愚が架設、十八年後洪水で破損、水谷郷右衛門が六十二年前寛保三年に再建している。

街道左手に佐藤惣左衛門本陣、中の本陣惣兵衛本陣、高札場、その向かいが問屋場。

先へ進むと田中休愚で有名になった田中本陣。

左に新田屋、右の大師道角に万年屋。

先は江戸見附外に川会所、向かいが渡船高札場、先が六郷の渡船場。

六郷の一里塚は川向こうの八幡村。

六郷一里塚は江戸から四番目、京から百十六番目。

大森の一里塚は大森村内川橋手前。

大森一里塚は江戸から三番目、京から百十七番目。

その先の塚は残っていない、人によっては最初から無いという。

川崎宿は南北十三町五十二間、品川まで二里十八丁。

万年屋の奈良茶飯(茶飯、豆腐汁、煮豆)は一九のおかげで大繁盛。

一行は新田屋へ声を掛けると座敷を用意してくれた。

「茶飯は此処でも旨いものが食えるんですぜ」

茶飯の膳と鯊にメゴチ、鱚、穴子の天ぷらが用意された。

「家の女房達は藤屋がご贔屓でね。俺を置いてきぼりで、ご近所で年三度は来ていますぜ」

「来て、参詣、朝詣でをして戻ってと、丸二日か」

「誰でもそう思うでしょ。のんびり辰に出て芝から馬ですぜ」

さすがに浅草、神田から駕籠には乗れないと歩くふりだ。

「おまけに中一日が参詣で三日目に御帰還ですぜ」

余談

田中休愚(きゅうぐ)は享保八年六十歳にして世に認められた。

有徳院の諮問に答えた農政や水利を認められたのだ。

川方御普請御用十人扶持を給され、荒川水防工事、多摩川治水、二ヶ領用水、大丸用水、六郷用水などの改修工事に携わった。

享保十一年、相模酒匂川の浚渫補修を請負、享保十二年(1727年)に工事は終了した。

万年屋の脇に“ 従是弘法大師江之道 ”“ 寛文三年 ”の道しるべ。

大師は参詣人が百ではきかぬほどいた、新兵衛は「先へ急ぐので護摩料を納めるので供養を頼みまする」と茶見世で聞いた役宅へ届けてきた。

一回りして羽田の渡しへ向かった。

良い具合に船が戻り六十間ほどに広がる河口を渡った。

入江の高燈籠を目印に辯財天へ向かった。

「浦守弁天の本尊は相州江ノ島と同じで弘法大師が護摩の灰で拵えたそうだ」

「若さん笑ってますね」

宝永八年四月海誉上人の勧請と伝わるここはまだ百年程度だ、弘法大師作がそれまでどこで眠っていたというんだと兄いも笑っている。

江ノ島は灰像座体十五童子背面に“ 天長七年七月七日 於江ノ島州弁辯天法 秘密護摩 一万座修行 以其灰此形像ヲ作者也 空海 ”とあるが五十年ほど前宝暦十三年藤間九兵衛奉納と為っていたと兄いが教えている。

「七体造られたと聞いたよ。要島のもその一体だろうさ、弘法大師様は時代を越えて現われるのさ」

元が護摩の灰だぜと念を押されていた。

要島へは橋が架かっていた「北齋戴斗め屋根船が潜れるくらいの勾配を派手な三角に描きやがって」と兄いは憤っている。

未雨(みゆう)は茶見世で茶を出してもらい「弁天様を拝観できるのかね」と聞いて南鐐二朱銀を見せている。

「俺が一枚、鍵を持ってる坊様に一枚」

未雨(みゆう)は欲張って居やがると可笑しかった。

一枚懐紙を半分にして包んで渡し、もう一つ同じようにして渡した、茶代は兄いが婆さんに払っている。

親爺はわざわざ広げてみてから懐に押し込むと社の傍で掃除している老僧へ渡して「拝観の報謝」と簡潔に伝えた。

老僧も親父のように開けてみてにんまりした。

「江之島と同作と聞いたんだよ。同じものか見たくてね」

兄いの言葉に「弘法大師様御自らお造り遊ばされました。裏には手形も有りますのでお見せしよう」と臺へ安座させて見せた。

「そっくりだね」

「そうでござろう。十五童子も変わらぬお姿だそうじゃ」

入江の高燈籠は羽田薬師醫王山龍王院が管理をしている、要島浦守辯財天を建て、その別当も兼ねている。

北側へ回ると御穴宇賀神と蜀山人が書いた社が有る。

掃除していた婆さんは「浦守稲荷と言うだよ。だけんどこっちが新しいので言うと怒るんだ」と言っていた。

渡し近くの龍王院へ向かい、羽田道へ入った。

「婆さんの言ってた浦守稲荷が近くに有るんですかい」

「品川との丁度半分程度だ。大森に近い」

大森村前ノ浦の鎮守という割に小さな鳥居だ。

元禄年間創建だと掃除に来ていた若い男が教えてくれたが、祭神の詳細は知らないという。

社は二間四方だった。

座頭川の座頭橋を渡ると厳正寺と云う寺が有る、申の鐘(五時頃)を突きだした。

川沿いを行くと一里塚が左手の家の間から見え、内川橋で東海道へ出た。

大森一里塚は江戸から三番目、京から百十七番目。

「新兵衛殿一里塚は此処までだ。品川と芝に有ったという人もいるが年寄は見たことがないという。有ったにしても相当昔の様だ」

内川橋の先に大森和中散が見えた。

先へ進むと護岸の向こうに磯馴松、左手が鈴ヶ森の刑場。

大井村の立会川を越せば左手が松平土佐守下屋敷。

此の辺りからまた海べりは護岸が続いている。

大井村境海曇寺門前からは南品川宿。

「どこにするか心積もりは有るのかい未雨(みゆう)師匠」

「まぁ、おおどこから当たりますか。本陣、脇本陣は避けてと。飯盛りの居ない宿」

そうだ素通りは兎も角と何やら合点した。

「伊勢屋松五郎があの呑兵衛女将の実家ですが、其処で良いですかね」

「曰くでもあるのか。お化け伊勢屋とは違うのか」

「あそこも可哀そうでね。伊勢屋稲荷に犬のくそでね。化け猫の飯盛女が住み着いたと“ 一目土堤 ”てぇ本に書かれて往生したようですぜ。飯盛りの居る向こうさんは伊勢屋金五郎というのですぜ」

そういって指差した。

「そういえば師匠も伊勢屋だ」

留め女が懸命に客を曳いているが家に戻れる旅人は振りほどくのに懸命だ。

目黒川を越えれば北品川宿、陣屋横町の自身番手前が“ 伊勢屋松五郎 ”。

「七人だが部屋は有るかい」

「八畳二部屋有ります」

「それでいいぜ。こんな時間だが旨いもん食わせてくれ。生物は抜いてくれ」

「お任せください。お酒は」

「明日はお屋敷へ顔を出される方がいるので今日は一人一合で我慢してもらう」

主が宿帳を持ってきた。

「師匠、家の孫が厄介掛けたようで」

「俺はうまくかわしたよ。旦銀の嫁と娘にゃ初めて会ったが、良い娘に育ったもんだ。こちらの本川様が賭けに負けて蛤の食い放題をしただけだ」

それにしても付き合い長いのに、娘と孫に初めて会ったのだと聞いて驚きましたと言う。

旦銀こと旦那の銀助は神田三島町で仕立て職の元締めだが、生まれは品川徒歩新宿一町目、太物屋の五男坊で未雨(みゆう)の一つ年下だという。

神さんとは幼馴染だ。

若旦那の銀助が旦那の銀助、旦銀とだんだん詰めて言われる様になった、それで旦銀を俳号にした。

酒のあてに空豆の塩ゆで、穴子の煮こごり、穴子に蝦蛄、細魚(さより)の天麩羅、鶏と隠元豆の炊き合わせ、蝦蛄の甘煮が出てきた。

「不思議だ」

「どうしました」

「鰻が出てこない」

女中は「追加しますか」と聞いている。

「いやもう十分だ」

新兵衛慌てて手を振った。

明日の事を話し合った。

「卯の刻に出て、白川様上屋敷へ立ち寄って、一度米沢町へ皆で出る。ここまでは前々から話したようにします」

「良いでしょう。誰か赤坂中屋敷へ案内が居りませんと迷うので人を付けてくだされ」

四郎が「俺が案内するよ。露月町まで三十丁ほど遠回りするだけだ」と請け負った。

「両国橋から中屋敷だと一里二十丁程かな。御城をどちら側で行くんだ」

「楽なのは新橋まで戻って溜池から行くようかな。神田川を上るにも駿河台の向こうはよく解らないのだ」

「それもそうだ。解りやすく外堀で一回りは俺でも遠慮する」

次郎丸も大凡は歩いている範囲だ。

兄いが紙に二重の円を書いて点を打ちながら、両国橋、小石川、牛込、市ヶ谷、四ツ谷、赤坂と言ってから「ここが溜池」と記した。

「上屋敷と中屋敷は赤坂門か喰違い見附で堀を渡ることに為る」

次郎丸は兄いに印を足させた。

未雨(みゆう)が土産を思い出した。

「そうだ土産の羊羹を取りにいかないといけない、あっしは一足先に天王町へ出向きますからのんびり後から来てください」

文化十一年四月十日(1814529日)・七十三日目

卯の刻に“ 伊勢屋松五郎 ”を出た。

未雨(みゆう)は松五郎と言葉を交わすと次郎丸へお屋敷に着くころには土産を背負わせて参上しますと告げると早足で高輪へ向かった。

早々と大山詣での連中が大木戸の方からやってくる。

「山開きと関係ないのかね」

四郎に兄いが答えている。

「小山の木戸口が開かないだけの事ですよ。夏山は雨降山大山寺界隈、泊まる宿房も満杯ですぜ」

南品川宿一丁目に百足屋広瀬治兵衛脇本陣。

北品川宿二丁目に鶴岡市郎右衛門本陣。

鶴岡市郎右衛門本陣は文化八年焼失、代官大貫次右衛門は再建費用百五十両を貸し付け、三宿で本陣を維持させた。

徒歩新宿二丁目に弥三郎脇本陣。

品川宿は南北十九町四十間、大井村境海曇寺門前から高輪町境まで。

余談

大貫次右衛門は代々名で資料によってどの代かが錯綜している。

光証と證と光豊について、光証と證は同一人物の様だ。

・大貫次右衛門光証(證)

品川代官-寛正四年四月(1792年)~文政五年(1822年)。

甲斐国石和代官-文政十一年七月(1828年)~天保二年六月(1832年)。

出羽尾花沢代官-天保二年(1832年)七月~天保十五年(1844年)。

天保十五年(1844年)三月十二日病没。

藤澤代官

・大貫次右衛門光豊-寛政四年(1792年)~文政六年(1823年)。

御勘定吟味方改役・越後水原陣屋代官・関東郡代付代官・馬喰町詰代官。

・大貫次右衛門鎌次郎-文政六年(1823年)~文政六年(1823年)。

旗本大貫氏に次右衛門を継ぐ家系が有る。

大貫次右衛門勝喜→大貫次右衛門光政→大貫次右衛門光豊→大貫貞吉光朋・大貫重八郎勝方

余談

品川宿は江戸に近く遊所としては人気(じんき)が高く、それなりに繁盛したが、本陣の経営は苦しかった。

宿自体も火事が多く幕府は度々救済をしている。

吉宗の時代に拝借金は五千両に達していたと云う。

文化九年(1812年)に五百両、文政四年(1821年)二千両と拝借金は新たに増えて行った。

品川宿は朱引外で江戸よりの火消が立ち入れなかったと云われる。

元禄十五年二月二十一日(1702年)四谷新宿太宗寺裏から出火、品川宿で止まる。

正徳二年二月二十三日(1712年)大火。

享保四年二月十三日(1717年)芝三田台町より出火、八ッ山、品川茶屋町両側、東海寺門前、品川寺門前焼失。

延享二年二月十二日(1745年)六道火事により宿の半分焼失。

宝暦十年二月四日(1760年)赤坂今井谷より出火、品川海岸際まで延焼。

文化三年十一月七日(1806年)北品川大火。

文化八年九月三日(1812年)品川新武蔵屋から出火、両側五町程焼失。

文化八年十二月十一日(1811年)南品川より出火、鮫洲まで延焼。

文化十年十一月二十八日(1813年)南品川より出火、三町余延焼。

文政四年正月十日(1821年)品川本宿より出火、南北西側町家焼失。

文政六年正月十二日(1823年)麻布古川より出火、品川八ッ山辺飛火、品川本宿より鮫洲迄焼失。

天保十三年三月二十二日大風、昼時北品川稲荷門前より出火、歩行新宿・北品川宿類焼、焼失家屋三百二軒、内脇本陣一軒、旅籠屋二十六軒焼失。

天保十四年二月十九日南品川宿字三丁目より失火、南品川宿類焼、問屋場、貫目改所等焼失。

弘化四年十一月九日(1847年)品川三宿に火災。

嘉永元年十二月九日(1848年)品川歩行新宿出火、壱丁目迄焼失。

嘉永五年三月十六日(1852年)北品川大火。

嘉永五年七月二十七日(1852年)北品川宿三丁目旅籠屋佐助宅より出火、三百九十七軒焼失、境橋焼落ち、高札場、問屋場、貫目改所焼失。

文久二年二月二十七日(1862年)品川歩行新宿より出火、北品川宿延焼、問屋場等焼失。

文久二年十二月二十六日(1863年)品川歩行新宿より出火、三宿の過半焼失。

慶応二年十二月二十七日(1867年)歩行新宿の湯屋から出火、歩行新宿、北品川宿、南品川宿、千軒余焼失。

慶応三年十二月二十五日1868年)三田薩摩藩邸焼打、南品川宿一丁目より四丁目、長徳寺門前・妙国寺門前焼失。

徒歩新宿を通り抜けた。

高輪に入れば泉岳寺前で大木戸が見えてきた。

高輪の大木戸は行きかう人で溢れている。

増上寺前を通り芝大神宮の鳥居脇で藤五郎が四郎に話しかけた。

「さっきね。泉岳寺前を通って義士の事を思い出したんですがね」

「何か思い出したのか」

「こっちからみりゃ大木戸の外でしょう。義士はどうやって通り抜けたんでしょうね」

「いいとこ突いてきたな。義士の事調べりゃそこに疑問が湧くのも尤もだ」

義士は木戸を通らぬ道で泉岳寺へ着いたんだと聞いて幸八に新兵衛も驚いている。

本所へ押し入ったのが寅だとわかっている。

卯の刻頃本所を引き上げ、辰には泉岳寺に着いたとあるそうだ。

幾らなんでも、疲れた体でその時刻に着くのは、道に詳しいものが居なけりゃ無理だという。

両国橋でなく永代橋まで下ったのも理由が有るはずだという。

通説では元の藩邸を通るためというが、主な理由は木戸に見附を破らない用心だ。

「だって実際に木戸を通らなきゃ泉岳寺に入れませんぜ」

「其処さ。あの大木戸は討ち入りの後移されたものだ。お城の近くを通らぬ用心はしたはずさ」

「道順は分かっているんですかい」

鉄砲洲元浅野屋敷へ寄るためにだと云うのを使用すれば永代橋で霊岸島、高橋を渡った先が元の上屋敷。

「ところどころで大名家の尋問を受けたというぜ」

築地本願寺から木挽町へ出て汐留橋を渡って東海道へ出てきたという。

「今となっては分からないのだが、芝口門は朝鮮通信使に見せるために造られた記録は有るがな。元々は町木戸程度は有ったんだったんじゃないか」

兄いは「前に調べて貰ったが芝口門は享保九年に燃えたそうだ。高輪の大木戸は芝口門と同じ宝永七年に設置しただの、燃えた年に高輪へ移しただの意見が分かれていた」と言っている。

「みんな記録が燃えてしまって思い出話程度なんだぜ」

四郎の言葉に次郎丸もうなずいている。

「どこかの大名家の書庫にでも日記が有るかも知れないが探し当てる自信もない」

兄いは「お江戸日本橋七つ発ちは高輪へ木戸が移った後で出来たと思うね。尾張町付近に木戸が有るとまるで理屈に合わなくなる」と言った自分がおかしくて笑い出した。

木戸で通せんぼされた大名でも思い浮かべたようだ。

余談

赤穂浪士討ち入り・当時の感覚夜明け前なので前日扱いの十四日。

元禄十五年十二月十五日寅の刻(午前四時前)(1703131日)。

明暦の大火、百十五年後の明和の大火、三十四年後の文化の大火で町の記録は灰燼と化した。

明暦三年(1657年)の火災は江戸城の天守も焼けるほどだった。

外堀うちはほぼ全焼とも云われ、死者も大雑把にもつかめず、三万人から十万人と云われている。

特に被害を大きくしたのは浅草御門を締切して避難者があふれたことだ。

二年後万治二年両国橋架橋(四年後の寛文元年説有り)、四十一年後元禄十一年神田川下流に柳橋架橋。

浅草橋上流の新シ橋は二十六年後の天和三年架け替え記録以前が不明。
(虎ノ門に有る新シ橋は寛文八年1668年架設らしい)

明和九年(1772年)の火災での死者は一万四千七百人、行方不明者は四千人と云われる。

東海道を右へ折れ、汐留川を汐留橋で木挽町に出た。

采女が原から万年橋で築地へ入り、軽子橋で八丁堀、中の橋から上屋敷へ出た。

帰着の届を出すと明日午の刻に改めて来るように冴木が出てきて伝えた。

「昼餉をご一緒したいと仰せです。巳の下刻には御出で下されますよう」

海賊橋を渡り西掘留川の荒布橋(あらめ)、中之橋を右手に見て進み、道浄橋(どうじょう)を渡って掘留町へ出た。

右へ進めば田所町、元浜町で浜町川の千鳥橋を渡り橘町へ出た。

兄いは幸八に「橋の向こうが浜町河岸、こっちが竹河岸だ」と教えている。

横山同朋町で鉤手(曲尺手・かねんて)に薬研掘りの屋敷へ向かった。

裏の勝手口の門周りを弥助が掃除していた。

「今戻ったぜ」

「なんで表に回らないんですよう。ここは通しませんぜ。伊勢屋という人が来ていますぜ」

矢継ぎ早に言って門の前をふさいでいる。

とよにでも云われて見張りの積りで出ているようだ。

突き当りまで出て右の門前には忠兵衛が打ち水をしていた。

「帰ったぞ」

「お帰りなさい旦那様」

弥助が中から門扉を開いてくれた「はぁはぁ」と息をついている。

「屋敷内を駆けるんじゃねえよ」

次郎丸に言われて「お帰りなさいやし」と言うのが精々だ。

玄関の式台になほのにこやかな顔が見える。

「御無事でご帰還おめでとうございます」

まるで戦場(いくさば)から戻ったようだと思わず笑顔がこぼれた。

客間ではとよを筆頭に屋敷の女たちが「無事のお帰りおめでとうございます」と頭を下げると隣座敷から引きさがっていった。

入れ替わりに未雨(みゆう)が入ってきた。

「お上屋敷で手間取ると思っておりましたぜ」

「明日の巳の下刻に来るように言われたよ」

なほが腰元と茶のしたくをしてきた。

巳の刻の鐘が聞こえてきた。

 第七十七回-和信伝-拾陸 ・ 2024-06-25

 
   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記