花音伝説

第伍部-和信伝-

 第三十三回-和信伝-  阿井一矢  
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

総兵への近道に乗れば三年で潮陽游擊から潮州(チァォヂョウ)総兵も可能だ。

そうすれば軍事加給と養廉銀で三十人程度は養える。

新しく赴任した潮州(チァォヂョウ)総兵夏俊(シァジィン)は、福建巡撫の李殿と連携して海賊から商船保護が嘉慶帝からすでに言い渡されたという噂だ。

広東(グアンドン)巡撫を嘉慶帝は不満で、入れ替わりが激しいのでお気に入りの夏を先に派遣したようだ。

一度転任した孫玉庭を任につかせ、阿片撲滅に乗り出すため海賊は沿岸各地の総兵に任せようと準備に入ったという。

那彦成(ナヤンチャン)が軍機大臣のまま両広総督倭什布(ウェシブ)に替わって赴任との噂も出ている。

陸鳳翔にも密命が下ったということはインドゥ達に「後押しをしろ」と暗に命じたつもりの様だ。

インドゥは関元(グァンユアン)のことを度々話していたので連絡係を頼もうと思いついた。

 

余姚(ユィヤオ)邸には日本から叶庸助という名の若い男がやってきた。

言葉が通じにくいのでこの屋敷で子供たちと学んでから福州(フーヂョウ)へ向かうという。

和国式の木刀を削り出して抜刀術を教えてくれた。

「聞いていたのとは違う」

「どう聞きました」

「鞘から抜かずに腰に差しておくと聞いた」

「それは上級者の技です。最初は抜いた時の動作を覚えるのが決まりです。初めから抜くことを主眼にしては刀を戻すときの動作が不確かになります。剣術の上段者で初めて居合が有効になります」

関元(グァンユアン)の問いに丁寧に答えてくれた。

「私は一刀流という流派を学びました、兄弟弟子には優れた男たちがそろっています」

銭屋が選んで引き抜いたというこの男は竹を三方に立て、居合の型を披露してくれた。

ひらりひらりと舞うがごとく刀が振られ、鞘へ収まるまでが一つの流れと皆に見えた。

 

次に竹に藁を巻いたものを土に差し、抜き放った刀を左手へ回し振り上げて頭上右手から振り下ろすときは力を抜いたように見えたが、斜め切りに切り落として見せた。

邸の庭番が自分の剣(環首刀)で試すが竹が倒れるほど力を入れても切れない「庸(イォン)さん」と言われ受け取ったその刀に素振りを入れると、難なく左下から切り上げると紙でも切るように簡単に切り落とした。

「いい刀ですね。大事に使えば牛の首位簡単に切り落とせますよ」

そう言って逆手で引き渡した。

見ていた老媼が家に伝わる和国の品だと袋から幾重にも布で巻かれ、虎の一字が刻まれたしら鞘の大刀と二本の拵えも見事な脇差を出した。

大刀の柄の下には長曽祢興正と彫が刻んであり、万治四年三月十日と切り紙が巻き付けてある。

元禄の前かな、後かなと悩んだ。

「和国が窓口を狭める前に江戸の土産に買ってきたそうです。呉三桂の軍との戦いに必要な資金に武器を和国からかき集めてきたと自慢していたそうです」

「そりや古い話だ」

叶はここへきて結と清のかかわりの歴史も学んだ、反乱は康熙帝時代の前半と教わっている。

「夫の爺様の爺様が取引で出かけたのが最後だといいますから、百三十年くらい前だそうです」

そう言ってからそのあとは例の密輸商売と笑った。

この時は古い火縄銃に浪人、山人たちも金に釣られて渡ってきた。

多くは陳家の雇人となり定着した。

無反りかと見えるそりの少ない刀身はすごみがある。

「試してみますか」

「いや、これだけの物は俺には研げない。試し切りはやめたほうが無難だ」

「心配性ですね」

邸うちの男たちが笑っている、腕の凄さにひいていた心が緩んだ。

 

それからは朝の拳の練習にも顔を出し、子供たちと混ざり汗を流すのが日課になった。

言葉だけでなく動作も和人振りを無くそうとしている。

槍術は基礎もあり先生も「驚く進歩だ」とほめている。

 

余姚(ユィヤオ)の役所から三人の剣(環首刀)の名手がやってきた。

普段は海賊と戦う防御のための剣伎指導に巡回している人たちだ。

船上での乱戦になった時の心得が有る無しでは「随分と違う」と巡撫の意見で決まった。

一対二での乱舞はいくら型だといっても子供達には脅威に映った。

棍の楊先生と打ち合わせをしてから、子供たちにわかるように動きを遅くして型を見せると次第に早い動きとなり、どうして棍が切れないのだろうと思う位激しい打ち合いが続いた。

止めに傘が投げ入れられようやく動きが止まった。

邸うちでの飲酒は、決まりで出せないので二軒先の家で大人だけで宴席が設けられた。

庸助の噂は広まっているようだが、海賊退治の助っ人と役所で認知されているので違和感は持っていないようだ。

三人の内で一番腕の立つ男は顔を出した信(シィン)の赤ん坊のころからこの屋敷に出入りしている。

生まれは慈渓だという「ようやく知府となって先祖に顔向けができる」顔を出した信(シィン)に向かいにこやかに話しかけた。

「それはおめでとうございます。知らなかったものでお祝いもできませんで失礼しました」

「いやいや。ここはそういう儀礼は後で困ることも起きてはいけませんので」

「細かいことはお気にせずに。大丈夫ですよ。都で頂いてきたしてもいいことの範囲に含まれていました。布政使には伝文書を届けてあります」

差配する老人に耳打ちしてから皆に聞こえる程度で「ご自宅のほうへ頼みますよ」とはっきりと伝えてニコッと微笑んだ。

 

従四品と云えど府のトップだ、武官から見れば破格の楊連銀が支給される。

「文武両道とは高師傅のために作られて言葉だ」

若い凄みのきいた男がほめると「何を云うか、剣にかける時間を割いて挙人とは言わんが、せめて秀才(生員)の試験を通れば通判に為れるものを」

「いや文字を眺めるだけで頭が痛い。役所仕事は御免です」

もう一人はにこにこ聞いているだけだが「この曹璃薛は槍の名手だが弓に剣も腕は確かだが怠け者でね」とすっぱ抜かれている。

「この笑顔に騙されて甘く見て掛かると容赦なく叩きのめされる」

 

余姚(ユィヤオ)城は知県が預かるのが普通だがここは二段階上の知府が守備とされている、が長い間赴任してこない時期があったが海賊の跋扈にようやく知府、知州、知県の三役がそろった。

余姚(ユィヤオ)江を南北に挟んで北城と南城があり、県署は北城に置かれている。

総兵は寧波(ニンポー)定海衛(ティンハイウェイ)に常駐し、海賊と聞けば杭州(ハンヂョウ)総兵と軍船を指揮して退治に乗り出してゆく。

余姚江(ユィヤオジァン)を東西南北に兵を動かす要が余姚(ユィヤオ)城の通濟橋の鼓楼の役目だ。

 

宴も酣(たけなわ)になり、そろそろ散会かと信が思い出したとき客が来たと呼びに人が来たので後を任せて失礼させてもらった。

初めて見る老人はいきなり拝礼をしたので慌てて助け起こした。

工部主事で余姚江(ユィヤオジァン)の様子を見て回っているという、ゥオンニィェンスン(王念孫)と名乗った。

まずはこれを見てくれと厳重に封をした手紙を開けて手渡した。

読み進めて驚いた「これは、父母(フゥムゥ)のほうへ見せなくてもいいのでしょうか」と聞いた。

「お目にかかると密偵の眼もありますので」

そう言ってもう一度読んでこの火で燃やさせてほしいと同じ布に包まれ(くるまれ)ていた懐炉を出した。

「水辺を回るので腰が冷えますじゃ」

信がもう一度目を凝らすと乙卯九月致齋の名がある「確かに祖父の字です」と耳元でささやいた。

二人で燃え尽きた灰を踏みつぶして一片も残らぬのを確認した。

「噂と真実(まこと)はこんなに違うのでしたか」

「わしも肩の荷がこれで下りました、懐炉の包みにいつも忍ばせていたのでいい機会に恵まれました」

嘉慶四年上皇の死去に伴い、皇帝の弾劾要請に応じる用意はその四年前から仕組まれていたと初めて教えられた。

「老爺(ヘシェン)は代替わりの時にいつでも殉死の用意と、弾劾の理由付けの隠匿財産を用意されていました。教徒の反乱が無ければ四倍はあったはずです。老爺(へシェン)は上皇から頂いたものは、皇室へお返しするのが筋だとわしに託しましたじゃ」

「郷紳、郷勇、団錬に財産を使ったとは教えられました」

「それからこのことは父母(フゥムゥ)以外に話さないでくだされ。もう一人の訴えたガオグァンヒン(高広興)がわしのように頼まれたかはわかりませんのじゃ

当時の真相はこういうことだとまだ年若の信(シィン)にも解るように説明してくれた。

「誤算は養心殿の太監が隔離され、公主娘娘の財産まで序だと取り上げた者が出たことですじゃ。上皇が公主娘娘へ下された地方の土地を預け、管理してもらっていたが収公(じゅこう)されてしまったのですじゃ」

 

和珅(ヘシェン)の断罪後、嘉慶帝が捜査部門を罰したのは、城下の富商の店で無いものを隠していると脅し、賄賂を取るものがいたからで、嘉慶四年三月二十一日,内閣は命令を受け全国に「隠し財産はないので捜査は命じていない」と公表して騒動は収まった。

定親王、成親王両家を中心に和珅(ヘシェン)と富察(フチャ)に連なる官員の入れ替えを企んだようだ。

目論見と違い嘉慶帝が選んで引き立てた者たちこそ賄賂の誘惑に弱かった。

定親王、成親王二人を免職したのは失敗だと気づいたが、傷は広がるばかりだ。

 

第三十三回-和信伝- ・ 2023-01-07

   

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

・和碩親王(ホショイチンワン)

世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅郡王(ドロイグイワン)

長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅貝勒(ドロイベイレ)

・固山貝子(グサイベイセ)

・奉恩鎮國公

・奉恩輔國公

・不入八分鎮國公

・不入八分輔國公

・鎮國將軍

・輔國將軍    

・奉國將軍

・奉恩將軍    

・・・・・

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

・・・・・

満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

・・・・・

   

 

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。

時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

     
     

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記

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