第伍部-和信伝-伍拾参

第八十四回-和信伝-

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

薬研掘

文化十一年五月十六日(181473日)・薬研掘

薬研掘どん詰まりから路地で米沢町一丁目の角へ出て、右へ行けば両国広小路の西端(にしっぱた)へ出る。

西へ進めば浅草御門先は柳原土手、新シ橋、和泉橋と進めば柳原稲荷。

筋違御門前は八辻ヶ原、松平左衛門尉の屋敷左手(ひだりって)に沿って進めば駿河台下。

小川町の淀藩稲葉長門上屋敷と土浦藩土屋相模上屋敷の間を右へ上ると裏手に南町奉行根岸肥前殿屋敷が有る、門の先に辻番小屋が見える。

土屋相模守はまだ十七歳、政治的な動きで末期養子に送り込まれた。

父親は水戸六代目徳川治保(とくがわはるもり)公、三男で十三歳の時土屋家を相続した。

養子と言えば松平左衛門尉も伯父の後を九歳で継いでいる、まだ十六歳だ。

父親は大給松平豊後府内藩第六代藩主、先々代だから筋は通っている。

小藩の為参勤の度に赤字が膨らんでいる。

屋敷から二十八丁程、のんびり歩いたが時計を見たら四十分ほどで此処まで来た。

根岸肥前守鎮衛(ねぎしひぜんのかみしずもり)は銕蔵事通称九郎左衛門だと鉄爺が教えてくれた。

喜多村鉄之助は今年六十三歳、小野派一刀流で、中西道場にも顔が利く。

「銕っあんが」などと気安く話すが、七十八歳と人生の大先輩だ。

鉄爺の祖父が肥前守の実父と知り合いだったという。

「結と関係でも」

「大ありでね。親は七十俵五人扶持の安生(あんじょう)家を買い取り、養子に入りこませた。努力の末、坂木代官迄出世した。銕っあんが三つの時亡くなり、年の離れた惣領が親代わり。百五十俵の根岸衛規殿が危篤で、末期養子とは名ばかりでやはり金が物を言いました」

父親安生太左衛門定洪は元文四年信濃天領坂木代官に出世、百五十俵の旗本と為った。

根岸家へ入ったのは銕蔵二十二歳だという、根岸九郎左衛門と名を改め、それからは勘定所御勘定という下役から始まり十年で組頭に出世。

四十歳の時勘定吟味役、布衣着用へ進んだ。

四十八歳で佐渡奉行、五十一歳の天明七年には勘定奉行家禄五百石、従五位下肥前守叙任。

「勘定奉行といやぁ役高三千石に三百両付いてくる。生半可の出世じゃないですぜ」

幾ら金の後押しが有っても、そう簡単に出世は出来ない仕組みだ。

「男谷検校は息子に三万両残したと云うがね、平蔵と云う逸材と言われる男でも、御勘定吟味役組頭が最後だった。今五十八位だろう」

「その人も結へ」

「入っていればもうちっとは上へ行けるだろう。息子はもっと有望だが今信濃の代官へ赴任中だ。結と関係はないが付き合うべき男たちだ。弟が鯨のしんぺえ以上のわるがきでな」

根岸肥前は寛政十年六十二歳で南町奉行に為って十七年目、大岡越前の二十年に追いつく勢いだ。

北町は小田切土佐守直年が寛政四年から文化八年迄十九年間勤め、在職中に六十九歳で亡くなり、永田備後守正道が六十歳で就任した。

耳嚢 ”巻之一を写したのは五年前だ。

伊藤一刀齋の事を爺に尋ねたら「良い資料が有る」と“ 耳嚢 ”を持ってきた。

その後は“ 耳嚢 ”を借り出しては次郎丸に筆写させる。 

その十巻目が纏めあがったという。

織田信節(おだのぶとき)が仙洞付を離れて江戸にもどり、持筒頭に転任した。

文化十一年五月九日(1814626日)就任時に六十八歳。

その織田信節と鉄爺が金四郎を伴って根岸邸で待っている。

奉行所は北組が月番、息抜きに今日は屋敷へ戻るから、旨い菓子でも摘まもうという。

使いは「茶席ではござりませぬ」と次郎丸に伝えた。

 

「鉄の言うには筆写しながら物を覚えるが得意と聞いたが、一刀斎の話しの他に一巻に気の利いた話に記憶は」

「善行によりて観相が替わり、死期が替わるなら医者は長寿なるべし。大通人なる妖怪世にはびこるは、何時の世にも通じ申す」

「あと一つ」

「御近所、土屋様ご加増の段、石川自寛聞き取りと」

「あのご人も大往生し居った。儂もかの御仁ほど長命しとるが、両三年ほどかのう隠居も出来ぬ、という事はボケたとは思われていない様じゃな。相模守様の如く隠居してご加増なら悠々自適と云う物じゃが」

「石川殿について“ 自寛も壯年の頃は右渡り小姓をいたし、土屋家譜代にも無之、其砌より相模守に勤仕のよし。我も美少年にありしとかたりしが、唐詩の紅顏美少年半死白頭翁を思ひておかしく、爰に記す ”と有り申した」

「今と為ってはわしが紅顏美少年と言っても信じて貰えんな」

「紀州南陵院殿逝去巳前御遺辭も有り申したが、陵墓の陵に在らず、天龍の龍を“ りょう ”すなわち紀州初代南龍院様の事と自本には注釈附け申した。紀州を訪れた今春、その古事を知る人に会えませんで残念に覚え申した」

「定栄(さだよし)殿は南龍院(なんりゅういん)様御血筋で御座る。南陵院(なんりょういん)は心覚えのままにりょうと言われたのを書き記し申した」

「龍を“ りょう ”というのが正音“ りゅう ”は慣習と花月様に教わり申した」

紀伊徳川家-家康十男・南龍院徳川頼宣→嫡男・清渓院徳川光貞→四男・有徳院徳川吉宗→三男・悠然院田安宗武→七男・松平定信→長男(次男)・松平定栄(さだよし)-真田幸貫(ゆきつら)。

次郎丸は劉廷芝の一節を和らかく詠んだ。

こじんまたなし らくじょうのひがし こんじんまたたいす らっかのかぜ ねんねんさいさい はなあいにたり さいさいねんねん ひとおなじからず げんをよす

ぜんせいの こうがんし まさにあわれむべし はんし はくとうのおきな このおうのはくとう しんにあわれむべし これむかしはこうがんの びしょうねん

 

代悲白頭翁        劉廷芝

洛陽城東桃李花

 

洛陽城の東

桃李の花

飛來飛去落誰家

 

飛び来て飛び去り

誰(た)が家にか落つる 

洛陽女兒惜顏色

 

洛陽の女児は

顔色を惜しみ

行逢落花長歎息

 

行くゆく落花に逢ひ

長く歎息す

今年花落顏色改

 

今年(このとし)花落ち

顔色改まる 

明年花開復誰在

 

明年花開いて

復た誰(たれ)か在る

已見松柏摧爲薪

 

已(すで)に見る

松柏薪(たきぎ)と為るを

更聞桑田變成海

 

更に聞く桑田の変じて

海と成るを

古人無復洛城東

 

古人復(ま)た

洛城の東に無く

今人還對落花風

 

今人(こんじん)還對す 

落花の風

年年歳歳花相似

 

年年歳歳 

花相似たり

歳歳年年人不同

 

歳歳年年 

人同じからず

寄言全盛紅顏子

 

言(げん)を寄す 

全盛の紅顔子

應憐半死白頭翁

 

應(まさ)に憐れむべし 

半死 白頭(はくとう)の翁

此翁白頭眞可憐

 

此の翁の白頭

眞に憐れむ可し

伊昔紅顏美少年

 

伊(こ)れ昔は

紅顔の美少年

公子王孫芳樹下

 

公子王孫

芳樹の下(もと)

清歌妙舞落花前

 

清歌妙舞す

落花の前

光祿池臺開錦繡

 

光禄の池台に

錦繍を開き

將軍樓閣畫神仙

 

将軍の楼閣に

神仙を画(え)がく

一朝臥病無人識

 

一朝病(やまい)に臥し

相(あい)識る無し

三春行樂在誰邊

 

三春(さんしゅん)の行楽

誰(た)が辺(ほとり)にや在る

宛轉蛾眉能幾時

 

宛転(えんてん)たる蛾眉(がび)

能(よ)く幾時ぞ

須臾鶴髮亂如絲

 

須臾(しゅゆ)にして

鶴髪(かくはつ)乱れて糸の如し

但看古來歌舞地

 

但(ただ)看(み)る

古来(こらい)歌舞の地

惟有黄昏鳥雀悲

 

惟(ただ)黄昏(こうこん)

鳥雀(ちょうじゃく)の悲しむ有るのみ

今人-今の人。

三春-初春(一月)・仲春(二月)・晩春(三月)。

蛾眉-三日月形にすんなり曲がった女の美しい眉・美人の例え。

鶴髪-白髪。

黄昏-たそがれ、夕暮れ。

鳥雀-雀。

 

「思い出しました。我が家近くの藥研堀不動が百五十両で手に入れた話し」

「この分じゃ筆写の順に思い出せそうじゃな」

「お奉行。話させたら泊まり込みになりかねませぬ。小さき娘ごにまで御伽草子を半日聞かせるお人です」

金四郎が止めに入らなければ夕刻まで続きそうだ。

「金四郎殿」

肥前はこの若人を贔屓だという。

「物を覚え、話の裏表を調査する、大切なことじゃ。定栄(さだよし)殿には天稟(てんぴん)の才が有る。耳嚢は唯の聞き書きの寄せ集め。その真偽は読む人の技量じゃ。金四郎殿も巷間に住まいの知識もお有りじゃ、ぜひとも機微を学び、町奉行を目指して下されよ」

鉄爺は嘆息しながら織田を見ている。

「どうした鉄之助」

「甚助。わしら三人はな。この二人が世に認められる頃に呆けずにいられるかな」

「お前さんが一番若いのだぜ」

年寄三人で大笑いだ。

「養子先へ御子達は連れて行かれぬと聞いたが」

「肥前様、父の子として届けると言われてしまい申した」

「どちらへ住ませると」

八町堀、築地は論外で有るなと織田が言っている。

金四郎が「はじめ市ヶ谷下屋敷と話が有ったそうですが。蔵屋敷に蠣殻町の中屋敷は無理と為ったのと二人目懐妊で其方へ親娘のお住まいを建てることに為りました」と話している。

「市ヶ谷は大膳大夫(だいぜんだいぶ)様と交換された屋敷だな。蠣殻町なら今の屋敷と近くて便利じゃ」

「川向こうに若さんが居るとなれば、寂しくも有るまい。交換した当時にな、市ヶ谷は不便じゃ、元矢之倉は便利じゃとほくそえんでおられた」

小笠原大膳大夫忠固は豊前小倉藩十五万石、小笠原家六代当主四十五歳(宗家二十八代目・七百年以上続く名家と自負)、三年前老中をめざし猟官運動にのめり込んだ。

それも有って藩内が分断、借金だけが残ったと織田が嘆息する。

「賄賂が大奥へ入っても流れる先は寺ばかりだと、寺社奉行が嘆いておるわ」

「九州の要の大名が続けて猟官運動。困ったもんじゃ」

「その市ヶ谷ですが伯耆守殿も隣屋敷。今は奏者番ですが老中に押す人もちらほら」

「鉄よ。どこ情報だ。三十四くらいだが政治向きは向かんとも言われているぞ」

「本人は出世に興味ない振りしてと噂が」

「ならば。京都所司代まで行くようかの」

「五十過ぎて健在なら老中も」

松平伯耆守宗発は三十三歳、丹後宮津藩本荘松平七万石。

兄主殿頭宗允の養子となり、文化五年八月六日宗允が隠居し、家督を継いだ。

文化六年伯耆守、文化九年三月奏者番に就任している。

甚助は鉄之助が言うなら可能性は大いにあるという。

宗允の三男宗秀は隠居後の文化九年生まれまだ六歳、宗発の養子に為っている。

「若さんの屋敷は小笠原とは隣屋敷だが付き合いはあるのかい」

肥前はそういって「茶の代わりを」とそばの腰元に言い付けた。

躾がいいのだろう下がったまま戻ってこない。

「役の上の人は横柄です。まだまだしこりが有ると云う事ですね。猟官に禄が半地では溜まりません。上手く大老に為るためには金だけでは無理です。まだくすぶったままです。この先幕閣がのり出せばさらに収拾が付かなくなります」

大膳大夫この時期未だ江戸に居る、出雲は国元へ発つ準備だと次郎丸の情報網が知らせてきた。

「何時まで続く」

「猟官の取りやめ。半地の取り下げ、何人か隠居に一年。」

「大膳大夫(だいぜんだいぶ)は」

「今の幕閣なら大奥への遠慮から四、五ヶ月ほどの逼塞程度で済ますでしょう。思い罰を与えては何世代も怨恨が残りましょう」

肥前は皮肉そうな顔をしている。

「大膳大夫(だいぜんだいぶ)様の屋敷で思いつかぬか」

「昨年に写した耳嚢巻之九稻荷奇談の事ですね」

「鮎川權左衞門の夢で屋敷替えを取りやめと為った話じゃ」

「火難病難除(よけ)の守り札とは奇妙、淸水(しみづ)稲荷とは」

「年度を覚えて居るかの」

「文化五辰年九月二十八日から附與(つけあたへ)候由と翌日は肥前様お耳に届いたよし。屋敷地が大久保もしくは市ヶ谷であると」

「夢の老人は狐の化身かのう」

「狐は神のみ使い、老人すなわち稲荷の化身かもや、一人の老翁とはさもあらん」

金四郎は「兄貴はわずか三歳で巣鴨の屋敷に居た時、木立の間に稲荷の祠があり親子の狐が走り回っていた事を覚えていると言います」と話に入り込んだ。

「ほほっ、それこそ奇妙」

次郎丸はあっさりと「屋敷替えで元矢之倉へ移り住んでから、聞いた話が三歳の記憶にすり替わっているのでしょう」と言う、

金四郎は「伏見稲荷も詣でましたがなんら起きませなんだ」とがっかりしている。

「便利な言い訳が有る、信心が足りませぬ」

肥前の言葉に皆で大笑いだ。

その声に誘われるように腰元三人が「遅くなりました」と茶を運んできた。

「や、これは」

「遠山殿にもろた。支那(しな)の茶だそうな」

「君山銀針茶(ジュンシャンインジェンチャ)。花月様より分けて頂きました。不思議な香りで御座る」

「左様、若竹、土から掘起こした筍の様じゃ」

織田は「う。美味い。これで羊羹が欲しい」と催促した。

「金沢丹後でも練羊羹を始めた。それならある」

腰元が茶の替わりを新しい椀でだすと、一緒に羊羹を出した。

「鈴木越後でも練が多くなったとか」

「甚助は京(みやこ)で食べていたんだろう」

月に均せば一度くらいだと逃げを打った。

薬研掘

文化十一年六月十日(1814726日)・薬研掘

殿様のお国入りに伴う施策は、分領も含めて始まったと聞こえてきた。

松代の幸専(ゆきたか)様の御暇も来月に迫っている。

五泊六日は例年通りだという。

桶川、本庄、松井田、追分までが中山道。

日本橋から追分が三十九里二十一町十四間。

北国街道へ入り、鼠宿村へ泊まって六日目に松代へ入る。

上屋敷からだと五十六里二十二町二十九間と千十郎が里程標を見せた。

「道は通れぬことも有り変更やむなしの時は大騒ぎになり申す。わたくし小さいころ川が渡れず本庄宿の予定が急遽深谷で泊まることに為ったと聞き申した」

二月以上前から準備を始め天候のせいと云え、道中の仕切りを取り持つの者は胃の痛む苦労だと聞く。

「人足を雇うにも金が掛かり申す、父によれな三百両で済ませようと苦労するそうです」

「加賀様の十五分の一は妥当な金額だが。半分は人足に掛かりそうだ」

幸専(ゆきたか)様と大殿は「九月になったら松代、善光寺へ来るべきだ」と口を揃える。

大殿の個人の経費も年三百両は出せぬと言われるそうだ。

「深川に八百両と聞いて目くじら立てる者も出るだろうな」

「結句はすべて俸禄に取られかねませぬ。若さんの持ち出しは目に見えませんので」

新しい行儀見習いの娘はお元、お初と呼び名が決まった。

実家は屋敷の近く日本橋長谷川町三光新道人形問屋扇屋忠兵衛三女のお元(素代・もとよ)と、日本橋富沢町薬種問屋翁屋惣二郎長女のお初(初枝・はつえ)で享和元年生まれの十四歳。

すぐに屋敷に馴れ先輩の腰元にも可愛がられている。

吾郎は人形町で“ 笹巻き毛抜き鮨 ”を前々から頼んで三十人前を間に合わせてきた。

「これが、小肌の鮨より安いというのは信じられない」

小肌は八文、“ 笹巻き毛抜き鮨 ”この頃一つ六文、小さいと言え手が掛かっている。

稲荷の一つ八文は油揚げの長い方を使う大きさだ、大人で三口に食うのだと忠兵衛が言う。

買うときに「二つ」「三つ」と言えば切り分けてくれる。

最近四文で小振りにしたものも出回り出した。

千十郎は今日も信濃行を勧めてくる。

「くるみ味噌のこねつけ、半殺しの五平餅。鰻のかば焼き、鮭の鍋も間に合うでしょう。松茸も最盛期ですよ」

「俺の為と云うより、千十郎が一緒に行きたいように聞こえる」

「新蕎麦もいいものです。小布施の栗の菓子も出てきます。金毘羅の祭りは近在からも人が集まり申す」

めげない男だ。

小布施は松代藩領も有り結びつきは強いという。

松代藩御林(おはやし)は三代藩主真田幸道(ゆきみち)の頃成立、宝永六年には二十ヵ所の御林が設け(もうけ)られている。

話しを聞いていた未雨(みゆう)が「信濃は越後からはるばる鮭だけでなく鱒も来るとか」と言う。

「鰻も松代まで上ってきます」

「蕨か浦和が食べ納めでも無さそうですね」

その話をしていた時に佐久間先生から書状が届いた。

「一茶殿が今年は江戸へ来るそうだ。宿は谷中本行寺と為るそうだ」

「あそこは俳号を一瓢(いっぴょう)と言われる日桓(にっかん)上人が住職で御座います。何時ごろでしょうか」

「八月に入る前に柏原を発つとある」

「若さんが誘われる信濃行の前には着きそうですな」

「未雨(みゆう)宗匠、お前さんまで行くと決めつけるなよ。大野がしきりに行きたがっているんだ」

「もうあきらめていく予定を考えてくださいよ。断るには理由づけも必要ですぜ」

「一茶氏(うじ)は岩間乙二、鈴木道彦とは交流が有るのか」

「岩間乙二様、元は奥羽のお坊さんでね。蔵前の井筒屋様の隠居を通じて鈴木道彦様、一茶様と交流が有ります。あっしにとって道彦様は春秋庵の大先輩です」

日本橋鉄砲町に春秋庵が開かれた年は安永九年(1780年)、未雨(みゆう)は六歳くらいで桑名に居た頃だと言う。

「確か須賀川の多代女は、菓子屋の夜話亭の勧めで鈴木道彦に師事した、と聞いたな」

「石井雨考さん、市原多代女さんの噂はきいたことが有りますが、北国は出かけたことが有りませんや。岩間乙二様は今頃仙台辺りを廻っておられるはずですぜ」

「この間句集を印刷する手順が付いたというからもう直に出来上がるだろう。二人は江戸へ来たがっていたが都合を付けるのが難しいとよ」

次郎丸は書棚から亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)から貰ったものを出してくると座敷へ並べた。

「夜話亭は江戸の知り合いからと 五月雨の 滝降りうつむ 水かさ哉 ”の句碑を頼まれて建てたり、酒屋のついでに句を捻ったり忙しい爺さんだった」

冊子の扉絵が多代女から送られてきたのも見せた。

「田善さんの銅版画ですね。瀧が主題で脇に不動堂、句碑は松の陰ですかい。面しれい爺さんだ」

「多代女の次男を可愛がっていてな。一緒に鍾馗の画など書いていた。そらその二つ瓜二つと云うほどだろう」

千十郎の信濃行の話が途切れた。

俳諧一枚摺「みちのく須賀川連新春賀摺」はいい出来だと未雨(みゆう)はべた褒めだ。

「さっき言っていた井筒屋の隠居だが。須賀川から頼まれて“ 青蔭集 ”の印刷、製本を引き受けたそうだ」

小鮎汲み やまめ釣るころとも云はず 涼とる人々の 日ごろ行きもて遊びぬれば 菰のさむしろ 霧たちうつむ 時しもなし

「次男がな、母親が書いた序文だと教えてくれた」

佐久間一学の書状の前半だけで話がそれた。

続きを読むと伊能忠敬の測量隊は、書状を出す半月ほど前の四月末から信濃へ入ったという。

「伊能忠敬先生は御年七十歳に為られたそうだ。江戸へは五月末には戻って居るそうだ」

千十郎は旨く話を捕まえた。

「伊能先生と逆に信濃へ寄り道しながら行くのはどうです」

「伊香保、草津」

「無理は困りますが。中山道街道沿いにも下諏訪が有りますが。追分から十五里離れています」

「それなら沓掛宿から草津の温泉の方が良いですぜ。十五里くらいのものだ」

行かれたことが有るのかと聞かれ「伊香保は高崎か、もしくは板鼻から七里程度」と即答した。

「宗匠、伊香保から草津は離れているようだな」

「十五里はあるでしょうな。難儀な道と聞いております、高崎付近まで戻ってと言うのが歩きやすい道で。小布施と草津は街道が有りやすぜ」

「伊香保まで裏でもありそうだ」

「そりゃ一人旅、いやさ二人、三人なら。俳諧仲間を先々辿れますが。裏道、抜け道。田舎道。食い物の心配が先に立っちゃ面白くありませんや。金で済む町場とは大違いでさ」

薬研掘

文化十一年八月十五日(1814928日)・薬研掘

上田から西回りで善光寺、小布施、南下して松代と幸専(ゆきたか)様からの申し入れだ。

此の三日に薬研掘へ来た使者は大殿へ殿様国元到着の報告をし、大殿からも何か所か回った後で殿へ報告が望ましいと賛成したという。

「遊山旅など最後と思う様にと申しつかり申した」

 

銀杏(いちょう)の葉が黄色くなり、銀杏(ぎんなん)の実が落ちる季節に為った。

周りの小屋敷では桶を出して五日ほども水につけ、種を取り出すのに忙しい。

この付近の小屋敷出入りの植木職人が毎日その果肉を集めに来る。

処理代に種を五軒で五合(ごんごう)程貰ってゆく。

集めた銀杏は料理屋が引き取るそうだ。

果肉を何の木、何の花に与えるかは「門外不出の秘伝だ」と史代が訊いたらそういってごまかした。

新二郎先生との連絡も付き、松平様も大井源蔵と気が合うようで“ はなしょうぶ ”の植え付けも済んだ。

松代行きも大野が乗り気で千十郎と話しを進め、三人で出かけることにした。

大殿は新領主が巡検に回るつもりで行くように言っている。

荷物持ちはちくまやの三人にした。

幸専(ゆきたか)様との連絡も付き、此の十八日に江戸を出て、二十二日後に善光寺に参詣と決まった。

行に草津へ沓掛から往復九日、戻りは余裕が有れば伊香保へ板鼻から往復六日と大野が調べてきた。

十月十五日までに江戸へ戻ってくださいと“ なほ ”に言われているからだ。

「草津から小布施へ出るより、沓掛へ戻る方が良いと聞きました」

「行き帰り借原、上田で調べることも有るからな」

八田の婿の辰三郎にも田中へでも迎えに出られるように、沓掛へ着いたら連絡をすることにした。

「八田を取り入れるおつもりで」

「儀兵衛と同じで、利用させて貰わねば殿様がお困りに為るからさ。あちらは藩の重役と手を組んで居る様だ」

大野が手に入れた道中絵図は宝暦六年岐蘓路安見絵図(きそじやすみえず)だが、桑楊の作画だ。

「東海道も出していて、金四郎がいい加減だと東海道府中で投げ出したものだ。最近の物は無かったのか」

「次は何処の宿場で何里と分かれば済みますから。善光寺の案内よりましです」

道中奉行の五街道分間延絵図はおいそれとは見せて貰えない。

草津の行と帰りを替えるのもいいだろうと次郎丸は大野に話した。

「大笹を廻りますかな」

「こう聞いてきたのが違っては自分の目で確かめた方がいい」

草津への道は無案内の者ばかりだ。

「草津まで二カ所峠を越えるそうです。沓掛から十五里十八町ほど思い切って三日かけて草津、三日湯に浸かって三日かけて沓掛へと九日の遊山。秋の日暮れは早う成りますので脇往還では気を付けませんと」

とりあえず草津から峠を越え、大笹への道を選ぶことにした。

「此の高崎から来る草津への大戸通が大笹へ通じているな。一度大きな紙へ順路を書いてみるか」

「若、こりゃ何たること、須賀尾宿から狩宿宿経由と、直の道と二通り」

見てみると里程も揃っていない。

「念のためだ、長い方を書いておこう。一里違うと大ごとだ」

狩宿宿から須賀尾宿へ三里十三町と二里十八町が出てきた。

二人で昼も抜いて作り上げたが「大笹を諦めればすっきりするな」放り出した。

 

中山道-岐蘓路安見絵図の最後に各駅の里程が出ている。

初日・上尾宿まで九里九町

二日目・深谷宿まで九里十六町(十八里二十五町)

三日目・板鼻まで十里(二十八里二十五町)

四日目・沓掛まで九里一町(三十七里二十六町)

此処からは大野が聞き集めた情報からの予測だ。

五日目・沓掛宿から草津道を五里二十六町十五間で狩宿宿。

六日目・狩宿宿から五里七町四十間で長野原宿

七日目・長野原宿から三里二十町二十間で草津温泉

八日目・九日目・十日目・温泉三昧

十一日目・草津温泉~六里十五町~須賀尾宿

十二日目・須賀尾宿~三里十三町・二里十八町~狩宿宿~不明~大笹宿

十三日目・大笹宿~不明~沓掛

十四日目・田中

十五日目・上田

十六日目・上田

十七日目・鼠

十八日目・矢代

十九日目・田野口

二十一日目・小市

二十二日目・善光寺

「ではここは楽をしますか。中山道借宿から草津へ十里だと言うのまでいて往生しました」

十二日目・須賀尾宿~三里十三町~狩宿宿

十三日目・狩宿宿~五里二十六町十五間~沓掛

 

未雨(みゆう)が遣って来た。

「本庄は盛会だったかよ」

「百人を越す人が来てくださいました。兄弟子たちも数多く来られました」

春秋庵一世加舎白雄が亡くなって二十三年が経つ、兄弟子たちも年寄りが多いのでと云う。

本庄は春秋庵二世常世田長翠の一周忌追討句会がおこなわれていた。

墓は亡くなった酒田の浄徳寺にある。

乙二はこの年奥州巡遊の五月五日に浄徳寺へ墓参におとずれている。

今回は長らく世話になつた中屋半兵衛の呼びかけで、ごく親しいものに呼びかけたのだ。

「安養院で行なわれた十二日、十三日と追討の句会も盛大でした、久しぶりの人が多いですので別れがたくてね」

「昨日出てもう戻れたのか。」

「船でのんびり下ってきました」

俳句仲間で話していて話題に出たのは、中山道追分宿(しゅく)には長翠宗匠の建てた芭蕉碑が有るという。

「宿の入口の左手(ひだりって)の浅間神社にありやす」

「付近と関係のある句か」

吹き飛ばす 石は浅間の 野分かな

「幾度も推敲を重ねて出来た句だそうです。更級紀行の旅で岐阜から江戸へ向かう道中と言います。若さんの信濃行を聞いてそのあたり何度も読み直ししましたが詠んだところがあやふやです。今回もその話で二晩掛かりました」

「曽良のように筆まめの人が居なきゃそうなるさ」

兄弟子たちが調べて大体がこの日程だという。

こういう時は近くの中屋に大抵の本が集められている。

 

貞亨五年八月十一日更科の月見をするため美濃から信濃へ向かう。

この旅は門人越智越人(おちえつじん)二十三歳が同行、荷兮(かけい)は下僕を一名つけた。

貞亨五年八月十五日 姨捨山の名月を眺めた。

おもかげや  おばひとりなく つきのとも

俤や 姥ひとり泣 月の友 ”の姥と云う本も多く有った。

貞亨五年八月十六日            善光寺参拝。小諸、軽井沢経由で江戸へ。

いざよいも まださらしなの こおりかな

「“ 十六夜もまだ更科の郡かな ”此の句は信州坂城事、坂木ですから、十五夜に“ 俤や ”を詠んだのが長楽寺月見堂という人は多いでした。矢澤さまの様子じゃ長楽寺だと善光寺往復で坂木は辛いと思うのですがね」

  わがこころ なぐさめかねつ さらしなや うばすてやまに てるつきをみて

わが心 慰めかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て

「古今読み人知らずだが、芭蕉もこの歌に魅かれたかな。大和物語の姨捨説話もこの歌が元だと云う。今昔物語も信濃国姨母棄山語として取り上げている。姨捨(おばすて)は又姥捨(うばすて)に作りなすので混同は多いな。読みも両方使って有る」

冠着山(かむりきやま)が姨捨山と云うが、元禄の國絵図では冠着嶽(かむりきたけ)と姨捨山は隣り合わせに描かれていた。

姨捨山は更級郡、冠着嶽(かむりきたけ)は更級郡と筑摩郡に跨ってあった。

 

街道から長楽寺境内の入り口となる門と月見堂が見える。

その間に建っているのが“ 芭 蕉 翁 面 影 塚 ”寺の背後に姨石。

右面 “ おもかけや 姨ひとりなく 月の友

俤や 姥ひとり泣 月の友 ”と芭蕉の句を姥で載せるのが普通だと未雨(みゆう)は言う。

加舎白雄は明和六年八月十五日(1769年)建碑に合わせ、その趣旨と師匠鳥酔の門人の句などを盛り込んで「おもかげ集」を出版した。

「木曽義仲の墓がある近江の義仲寺の土を取り寄せ、つぼに入れて塚の下に埋めたと聞きました」

伊勢屋の生まれる五年も前の事だという。

「台を入れたら高さ七尺一寸、幅一尺八寸、奥行き一尺三寸あるそうです」

「行きたいだろうな、見てみたいだろうな」

大野は煽っている。

「未雨(みゆう)の師匠の句碑は聴いたこと無いが」

「それがなんと信濃の門人たちが長楽寺境内へ死後十年を経て建立されました」

寛政十二年八月、宮本虎杖(宮本道盛)らにより長楽寺境内に設立。

姨捨や 月をむかしの かがミなる

「どうやらお前の師匠は信濃の人に名所を一つ創り上げたようだ」

「どうしてです」

「善光寺、坂木とくれば更級の里、姥捨てももうちっとは特定できると長楽寺を選んだようだ」

「それで自分の名よりも、東都松露庵鳥醉門人、信一州連合資樹立と彫ってあるんですね」

陰の面には“ 明和六秋八月望 ”松露庵鳥醉はこの碑を目にすることなく四月四日六十九歳で亡くなった。

「見て来たのか」

「中屋の旦那がそう言っておりました。おもかげが有るから師匠の建てた事は明白と」

「それ、我慢できまい」

大野はこの旅慣れた男を引き込んで細かい金の出し入れを任せたいようだ。

考えているなと次郎丸は可笑しく思った。

喜多村新之丞が遣ってきて信濃筋の三人の名を書き記し、所を告げると長火鉢で燃やした。

「都合が合えば会って下さい」

「判り申した」

「金が入る傍から使ってくれる人がいると」

「質素倹約を言いながら、百人が一年暮らせる銀(かね)が消えてしまう」

未雨(みゆう)が深刻な顔をしているので気に為るようだ。

「娘が婿でも連れてきたのかね」

「まだ十二ですぜ、いくら母親と小店をやっていても早すぎますよ」

大野が信濃へ一緒にと言って困らせているのだと教えた。

「何時も留守番ばかりだ。親子三人で草津に善光寺と附いていけばいい」

新之丞まで煽り出した。

「女房だけでなく娘もですかい。いい足手まといだ」

「すべて軽尻(からじり)と云う手も有るし、疲れたら歩けばいい、それに娘だけ置いても行けまい」

「女房に娘が行くなら善光寺までおつきあいしましょう。新兵衛さん達は十月十五日に福島で、江戸は早くて二十五日だと連絡が来ていました」

幸八(駒井・新兵衛弟)、藤五郎(加藤・猪四郎弟)二人も家族そろっての江戸入りに為る。

戻るときは八月頃と言い置いて帰ったが、いざとなると簡単には家移り出来ない。

一茶宗匠は八月九日江戸に着いていて、暮れまで江戸住まいだという。

まだ次郎丸は一茶に会えていない。

 

薬研掘

文化十一年八月十七日(1814930日)・“薬研掘

千十郎が持って来てくれた領内見とりに照らすと、この日程の間に長楽寺から姨捨を見渡せるという。

「矢代を渡って八幡村なら十人くらい泊めて貰えます。八月は少の月でこのようになりますかな。手前の稲荷山は上田藩で本陣も有り申す。渡しは向こうへ渡っておいた方が宜しいかと。我が領分は桑原宿に藩の本陣が有り申す」

「確か宿屋営業は禁止されたと」

「藩の名での継立は出来もうす」

「今回は無理を通さぬ方が良いだろう、松本へ脇往還で行くわけでもない」

十七日目・鼠(九月五日)

十八日目・矢代(九月六日)八幡もしくは稲荷山

十九日目・田野口(九月七日)

二十一日目・小市(九月八日)できうれば善光寺へ

小市の渡し、丹波島の渡しで善光寺へと云う。

二十二日目・善光寺(九月九日)

 

大野は領内の見取り図で「此の月見堂より八幡で二十町くらいですかな」という。

「月見堂は近くにあるとしか。矢代の渡しから八幡宮まで二里と聞いており申す。渡しから善光寺へ四里程度。五日で周るには余裕が有り申す」

田野口と八幡で三里程と記憶通りなら、昼まで月見堂で刻を使えるという。

田野口から小市も三里のはずで小市と善光寺は二里程度と云う。

どうやら幼少より領国の様子は教えられてきたようだ。

若(も)しかすればもっと細かく知って居そうに思えた。

吾郎は親子三人旅支度でやってきた。

なほ ”と“ つかさ ”にも挨拶させた。

「こいつは“ おとき ”、辰の刻の辰を書いてときと読むんでございます。娘はくさかんむりに方向の方で“ およし で御座います」

なほ ”と“ つかさ ”も交えて旅の話しに為った。

「昨日、手形の準備で寺へ出て俳句のお仲間に更科姨捨月之弁という一文の抜書きを見せて貰いました。監物様の勧められた八幡の近くと知れました」

寺受け証文は信濃善光寺、上州温泉めぐりの療治としてある。

思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡といふさとより一里ばかり南に、西南によこをりふして、冷じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり

「肝心の月見堂と姨岩には触れて居りませんでした。おばとしてあり姨ではなく姥の字を別ランで使っておりました」

次郎丸は可笑しくて笑った。

「おいおい、師匠幾ら家族の前でもその調子じゃ疲れるぜ。普段通りでいいよ」

神さんと娘もほっとした顔をした。

「それと娘の名を付けたのは誰だい」

「おたつの父親ですが」

「大分物知りだ。おっかさんの辰の字は“ よし ”とも読めるのをご存知の様だ」

「あればれちまいましたか。字を替えて親娘揃いだと教わりました。孫が出来たら“ のぶ ”と読める字だと言われちまいました」

娘は「若さまがちゃんに更級の和歌を教えてくれたと。あたいにも覚えられますか」と言いだした。

「更級の話は多くて大変だ。小野小町なら覚えやすい」

あやしくも なぐさめがたき こころかな をばすてやまの つきもみなくに

書いて渡すと、濁音を抜いてもう一度読み上げた。

「小町集と云う古い時代の歌集に有るのだが、小町は本当にいたのかと疑問は多い」

「いないのに歌集が出るのですか」

「紀貫之と云う有名な人より前の人だからね。あれも小町、これも小町と寄せ集めたようだ。姨捨伝説も昔は孝行者を称えた話だったのをつくりかえた人がいたんだ」

 

延暦十六年(797年)完成-続日本紀に建部大垣

神護景雲二年五月辛未二十八日(かのとひつじ・768年)条

更級郡の建部大垣(たけるべのおおがき)は性格が恭順で親孝行であった。

水内郡の刑部智麻呂(おさかべのともまろ)は友情厚く苦楽をともにした。

水内郡の倉橋部広人(くらはしべのひろひと)は私稲(しとう)六万束を出し百姓(ひゃくせい)の負債を償(つぐな)った。

政府から終身の田租を免除されている。

孝行ぶりを讃え、税金を免除したという記述が続いている。

・小野小町(あやしくも 慰めがたき心かな 姨捨山の 月も見なくに)

・古今和歌集-詠み人知らず(わが心 慰めかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て)

・新古今集-伊勢(更級や 姨捨山の 有明の つきずも物を 思ふ頃かな)

伊勢守藤原継蔭の娘-三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。

・新古今集-躬恒(更級の 山よりほかに 照る月も なぐさめかねつ このころの空)

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)姓は宿禰、凡河内国造の後裔。

・大和物語-姨捨説話。

・拾遺和歌集-紀貫之(月影は あかず見るとも 更級の 山のふもとに 長居すな君)

・更級日記-菅原孝標女(菅原孝標の次女)。

信濃国の更級郡に夫(橘俊通たちばなとしみち)が国司として派遣したことによる命題。

・今昔物語-信濃国姨母棄山語。      

・能-世阿弥・姨捨・伯母捨(おばすて)

 

「そういゃ、若さんの時計、昼夜同じでしたかね」

「そうか、十一日はもう出た後か、同じことは同じだが一時間ほど狂っている」

「一時間もですかい」

「明け六つは日の出前二刻半(一刻1424秒)、暮れ六つは日の入り後二刻半だからそれを入れなきゃ同じだがな。これから丁度昼と夜の計算が合ってくる」

「どうしてですの」

「お芳は二挺天符を見たこと有るかい」

「祖父の家に有ります」

「あれを小さくしたのを旅では持って行くのさ」

棚から取って手渡しした。

「長崎へは時々来るそうだが高くてね。一日はその短い針が二回りだ」

「じゃ今なら半日で一回りなんですね」

「一番上の所へ二つの針が揃うのが昼の九つと、夜中の九つに合わせるのさ。今月二十六日から九月二十六日の間は長い針二回りで一刻(いっこく)に成る」

「二挺天符のように、錘で釣り合いは採らないのですか」

「これを作る国では此方とは違っていてね、一日を二十四に割り振って時刻を見るんだよ。天文方の作る暦には細かく出ているよ」

 

寛政暦

宝暦暦に替え寛政十年(1798年)から採用された太陰太陽暦。

高橋至時(たかはしよしとき)、間重富(はざましげとみ)達が編成し、天保十三年(1842年)まで四十五年間使われた。

京都の春分と秋分の日出、日入前後、二刻半(36分・一刻1424秒)の太陽位置を、球面三角法を使って計算した。

太陽の中心伏角が7°2140″になる時刻であった。

石町の鐘は、北は本郷、南は芝浜町、東は本所入江町、西は麹町、飯田町辺りまで聞こえたという。

本来の卯の刻とは子の刻九つから数えて六つとすることが混同されていますが、正確ではないそうです。

明け六つはあくまで日の出前二刻半の事ですが此方は庶民の混同をそのまま使っています。

次郎丸は道中各宿場での刻の鐘が、どのくらいずれているかも楽しんで居るのだ。

お辰(とき)は「若さん、草津の湯は温泉番付で東の筆頭、大関を張っておりやす。あたいは一生一度でいいから行きたいと思ってやした。図らずも宿六ともどもご一緒させて頂きうれしゅうござんす」とようやく口が利けた。

「親娘で初旅だそうだが沓掛までは歩く距離が長い、未雨(みゆう)に早めに軽尻(からじり)を都合させる。沓掛からは峠は在っても景色が良いし一日も距離を短く取った」

「お江戸から四十八里(しじゅうはちり)、箱根の倍と言いますが」

「今回は大回りするので五里は長いが七日掛けることにした」

大野と監物が手分けして寫した日程を各自に配った。

「善光寺からは親子三人で付近を廻るかついて回るか、それまでに決めればよい。領内十日前後の予定だ。九月二十八日までに板鼻へ戻れるようなら伊香保へ回るつもりだ」

「水沢観音の伊香保でしょうか」

吾郎そっちは行くつもりでなかった様だ。

「片道七里、往復長くて六日取れたら一所に廻ろう」

「草津の湯に善光寺だけでもとっさま、かかさんびっくり仰天していましたのに、伊香保も廻れるとは嬉しうござんす」

家族の話題で次郎丸の事が良く出る様で、のっけから親しみを覚えているようだ。

先々大宿に本陣、脇本陣、茶屋本陣が待受けているとは未雨(みゆう)は教えていない様だ。

喜多村新之丞が上田までは押える手はずだ、すでに草津までは連絡が済んでいるという。

早朝の見送りは来られぬというので、陽が落ちると遣ってきて旅程の確認だ。

大野が未雨(みゆう)親娘を引き入れたので繋ぎも付け易い。

「矢澤さま。屋代の渡しを越えるならぜひ稲荷山宿でお泊り下さいませぬか」

「何か事情でも」

「本年加賀様の御暇は東海道より越前を抜けてお戻りです。いつもならご休憩も有るのですが。ここはご近所のよしみで若さんの顔つなぎに」

「身分を明かさずにか」

「お頭という事は内内でお知らせをします。実は東海道を通る目的が、寄り道で京の都へのお許しを得たがっておられるとか」

 

前田斉広(なりなが)・文化十一年三十三歳。

享和二年(1802年)二十歳で家督相続。

最初の正室-享和三年(1803年)十二月に迎えた琴姫

(尾張九代・徳川宗睦養女、高須七代・松平義当長女)。

文化二年(1805年)八月、病気療養の為実家の高須藩邸に戻り、一年後の八月に離婚成立と為った。

継室-文化四年(1807年)十二月十八日、摂関家の鷹司家から夙姫(あさひめ・鷹司隆子)、関白鷹司政熙次女を迎える。

天明二年七月二十八日(178295日)~文政七年七月十日(182484日)

四十三歳死去。

改名    亀万千→勝丸→犬千代(幼名)→利厚→斉広。

普段の参府に暇は北国下街道十二泊十三日の旅程。

江戸までは百十九里程度。

平均的な行程

初日・四里-今石動

二日目・四里-高岡

三日目・十一里三十町-魚津

四日目・八里四町-

五日目・六里三十四町-糸魚川

六日目・十二里十八町-高田

七日目・十二里八町-牟礼

八日目・十二里二十二町-坂木

九日目・十里六町-信濃追分

十日目・十里三十一町-板鼻

十一日目・十二里八町熊谷

十二日目・十里八町浦和

十三日目・六里六町-江戸日本橋

・・・

上街道東海道経由・江戸~箱根~尾張~福井~金沢・約百五十三里。

文化十一年二月十三日に東海道を経て帰国することの許可を得る。

三月十四日に就封の暇を受け十六日辞見の後に出立し、品川に宿を取り、翌日より神奈川、鎌倉・江の島・大磯、三島、吉原、府中、金谷、浜松、吉田、岡崎、鳴海、起、柏原、大本(木之本)、晦日に今庄に入る。

今庄宿へ寄せ集められたのは人足四百人・馬二百匹で府中まで継ぎ立てをした。

四月一日より府中、金津、小松、四日に金沢に着いた。

十九日間、二千七百人余、費用銀千百貫(一万八千三百両)。

・・・

三月十六日江戸本郷藩邸七つ(午後五時前後)~品川本陣暮れ六つ(午後七時前後)

三月十七日。品川~神奈川

三月十八日・神奈川~鎌倉

三月十九日・鎌倉~江の島

三月二十日・江の島~大磯

三月二十一日・大磯~三島

三月二十二日・三島~吉原

三月二十三日・吉原~府中

三月二十四日・府中~金谷

三月二十五日・金谷~浜松

三月二十六日・浜松~吉田

三月二十七日・吉田~岡崎

三月二十八日・岡崎~鳴海

三月二十九日・鳴海~起

柏原~(彦根藩番場宿・摺針峠)~大本(木之本)  

三月三十日・越前今庄宿

四月一日・府中町

四月二日・金津宿

四月三日・加賀領内

四月四日・金沢

文化十二年(1815年)参府延期が秋まで許された。

九月十四日参府のため金沢を発って、二十六日に江戸に入る。

文化十三年(1816年)・暇三月十六日江戸藩邸出立、二十七日金沢に入る。

文化十四年(1817年)・参府十月二十六日に出立、十一月九日江戸へ入る。

 

千十郎も他領ながら各本陣の経営が苦しいのは聞かされているようで、次郎丸の顔出しでどうなるわけでもあるまいとは思ったが新之丞の顔を立てて、その日は稲荷山と納得した。

「さっそく沓掛から先、善光寺まで手当てしますが。善光寺はお三人ご家族で寛げる宿を手配します」

お芳は「気にせんでも宜しいのに」とお決まりのお愛想を言っている。

「本陣の隣のわたや仁左衛門、ここは六人。ふぢや平左衛門に伊勢屋さん一家。連絡では間が七軒とか、ほとんどが旅籠だそうです。“ ふじや ”が多すぎてまごつくなと言ってきました。」 

楽旅ですよと言う、善光寺大本願の方に近しいかたよりの話として聞かせてくれた。

寛政二年に九歳(届け出は十二歳)の虎姫は京から江戸青山善光寺へ入り、寛政三年十月信濃善光寺へ出向いている。

寛政二年(1790年)九月十八日京都を出立し十月五日青山に入寺。

寛政二年(1790年)十月十五日得度式、智昭の名が授けられ冬袈裟二領が贈られた。

寛政三年(1791年)十月二十二日~二十八日(六泊七日)

「いくら御駕籠での移動でも中御門家の御姫様(おひいさま)には大変な道中と推察できます。届出はおよしと同じだ。精々駕籠に軽尻(からじり)を強請りなさい」

新之丞はまだ見習いと称している、うるさ型には、鉄爺が話しを付けるほうが簡単だからだ。

 

 第八十四回-和信伝-拾参 ・ 2025-04-24

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記