第伍部-和信伝-肆拾

第七十一回-和信伝-

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十一年二月二十八日(1814418日)・三十三日目

卯の下刻(五時五十五分頃)前に“ ふでや ”を出立し紀路(きのぢ)海道へ出た。

信達宿まで六里三十丁と道中記にある。

次郎丸は急な旅立ちで紀州往還分間絵図は拝見していない。

「おれたちゃ参勤の御殿様に比べて楽旅ばかりだな」

「ほんとですぜ。参勤は行軍ですから」

和歌山藩は今年甲戌で御暇となり治宝公帰国は三月となる。

次郎丸達には江戸旅立ちの情報がまだ届いてこない。

参府の時は草津から中山道、御暇は東海道となる。

今年は加賀藩も東海道で御暇の許しが出ている。

紀州は中山道十四日、東海道十六日が基本日程でお許しが出れば出立できる。

和歌山から参府の時は初日信達宿か、貝塚だが二泊目は枚方宿、三泊目は伏見宿となる。

和歌山城下から信達宿(しんだち)へおよそ七里。

和歌山城下から助松宿へおよそ十三里九丁

和歌山城下から岸和田宿およそ十一里二十丁。

岸和田宿から枚方宿およそ十三里。

枚方へ入るのは相当無理しないと大変になる、高麗橋を廻れば橋まで八里、橋から七里の十五里有る。

枚方から伏見は四里二十六丁程度。

伏見から大津なら四里八町、草津まで足を延ばせば七里三十二町なので大津は休息もあり得る。

道中奉行は経費のやりくりで頭を捻る大きな問題だ。

次郎丸が卯の下刻(五時五十五分頃)をたまの早立ちで威張る(えばる)が参勤道中は寅に起きて卯の刻には出立する。

岸和田、助松の宿場から堺、大坂、京、へ向かう人で混雑している。

助松神社では 東天紅 ”が昔より飼われている。

田中覚右衛門本陣は塀が一丁ほどもある大きな宿だ。

岸和田城下へ入った。

本町弁天は一里塚に為っている。

“ 蛸地蔵 ”の天性寺 が有る、新兵衛が名所図会を見て噴出していた地蔵の由来だ。

海から蛸に乗り地蔵尊が出現は良いが時代は載っていない。

示現された地蔵を人々は城外の堀に捨てたという。

天正年中松浦氏がこもる城へ根来衆・雑賀衆に攻められ落城寸前の時、現われた法師の活躍で敵は退散したという。

法師は姿をけしたが、その後堀に蛸が浮かぶのを見て堀を浚うと地蔵尊が見つかったという。

法師は地蔵の化身と泰山和尚に授与して祀らせたという。

(由来は秀吉配下の中村一氏を大蛸に乗る法師が大勢の蛸と敵を追い払って助けた話に変化した)

上方口の桝形の先に貝塚御坊・願泉寺の卜半家(ぼっかんさん)の所に水間街道の追分が有る。

紀州口の桝形の先は岩橋善兵衛。

「俺の遠眼鏡は此処の岩橋善兵衛作だが亡くなってが変わったと聞いた」

大きなものでは六尺もあり土星の輪が観測できたと云う。

次郎丸の物は四枚玉装飾のない合わせ筒で実用的な一寸八分、延ばせば尺七寸ほどの物だ。

売値は二両三分だが、大坂から買い付けに行く費用は藩で六本買うときに頼んだので品代だけで済んでいる。

一両二分程度から装飾に手がかかる物は十両を越すと冴木が話していた。

店で問うと売り物をいくつか出してきたので四郎と次郎丸、新兵衛の分を選んだ。

一寸三分、尺二寸、それでも四枚玉、道で桝形を見ると十分の大きさに見える。

三本で四両二朱支払った、次郎丸のは二両で、後は一両一朱との受け取りが出た。

新兵衛は江戸送りを頼んで二十本を銀一貫と二十両、送り込みで誂えた。

粉河街道追分は二股で右の紀州街道を進んだ。

信達宿(しんだちしゅく)へ入ると早々と紹介された“ ひょうたんや染八 ”が空いていたので三部屋借り切った。

巳の下刻(三時三十五分頃)前、宿に落ち着いてもまだ日暮れまで三時間近くは有る。

小川や甚右ヱ門は浪花組講中に入ったと ふでや ”で教えてくれた。

人馬継立所が忙しくなってきたのが通りから聞こえてくる。

本陣の角谷家にはまだ日程のお触れが来ていないと主が教えてくれた。

次郎丸はお許しが出れば五日くらいで先ぶれが来るはずと思った。

ひょうたんや染八 ”は例年二十人ほど泊めるのだという。

廊下まで布団が並ぶ歳が有ったという、三部屋合わせて二十畳にも満たない宿で二十人は強い(きつい)。

「ここは士分でも徒歩組の方ですから詰めあうのは仕方ありませぬ。爺様の時代の倍も参勤のお供がおられるそうでな。お殿様の前と同行、後詰めと三日引き受けまするのや」

下条の手紙を見せ、宛名の京橋御門三の丸下条新兵衛様を訊ねて遅くも三月十二日に戻るのでその日で予約した。

「和歌山で先ぶれがその前後なら遅れて城下を出るか予定を早めるつもりだ」

「承知いたしました。下条様なら江戸下りの時お泊り頂きました」

「沼津でお会いしたよ。その時御子息を紹介すると手紙を書いてくれたのだ」

大寄合ともなると顔が利く役職だ、本陣を避けたのは空いていなかったのだろうか。

「衣通郎姫( そとおしのいらつめ )事衣通姫の茅渟宮(ちぬのみや)はこの近くと和泉名所図会に有りますぜ」

「今お住まいならばお尋ねしたい」

「幸八よ千二百年は昔の人だぜ。小野の小町より古い話だ」

衣通姫(そとおりひめ)歌(うたうたふ)て曰(のたまふ)。

とこしへに きみもあへやもいきなとり うみのはまもの よるときときを

常しへに 君も遇へやも いさなとり 海の浜藻の 寄る時々を

「等虚辞陪邇枳彌母阿閇椰毛異舎儺等利宇彌能波摩毛能余留等枳等枳弘」

「若さん、何か含みが有るかよく解らぬ歌だね」

「浪のまにまに岸辺にただようように稀にしか、お逢い出来ないということさ。よるときときをの解釈によっては妃に知れると恨まれるからと帝は心配したそうだ。日本書紀と古事記では話はまるっきり違うぜ」

帝の言葉“ 奈能利曽毛(なのりそも) ”がナノリソでホンダワラの古語で語源だと解釈されたと和歌の先生は教えてくれたよと次郎丸は少し不満げな顔だ。

「古事記は兄弟で愛し合ったというが昔は母親が違えば婚姻したし、此の辺りまで古いと嫡母の子に全部している可能性も捨てきれないのさ。」

次郎丸は「衣通姫は二人いたと出ているから古事記が出来たころは伝承もいい加減だろうぜ」と笑っている。

二人も衣を通してすらも表れてしまう美人が居たと云うことですかと幸八や藤五郎は呆れている。

「八田王女(やたのおうじょ)もしくはやたのひめみこと云われて仁徳天皇の継皇后さまだ。古事記では八田若郎女(やたのわきいらつめ)と書かれている」

父君は応神天皇、母親が宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)、すなわち異母兄妹になる。

古事記では允恭天皇の皇女軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名衣通姫。

“ 輕大郎女・亦名衣通郎女 ”

母親は皇后忍坂大中姫命(忍坂大中津比売命)。

日本書紀は允恭天皇の皇后忍坂大中姫の実の妹、父親は稚野毛二派皇子(応神天皇皇五子)、母親が日売真若比売命。

「木梨輕皇子同母妹輕大娘皇女亦艶妙也。との記述に皇后の弟になる衣通郎は茅渟宮に住むとし、別々に記述が有る」

七年冬十二月の記述が弟すなわち妹、廿三年春三月甲午朔庚子の記述が輕大娘皇女だという、別人の可能性を示唆している。

「若さんやけに詳しい」

なほが読んでくれと古事記や日本書紀などいろいろ持ち出すんでお付き合いさ。衣通姫は伊予に流されたとも出ていてそれを伝説にして色々と本が出た。昔の美人の話は、此方ばかりか支那(しな)の話まで聞きたがるんだ。おかげで新兵衛兄いと美人画を探した時期も有った」

「そうそう、こっちの画家と支那(しな)の画家では雰囲気が全然違う、一番違うのは馬だったと猪四郎と大笑いさ」

銭五が関元に頼んで集めて、せっせと送ってくれる。

古事記

輕大郞女(かるのおおいらつめ)

衣通郞女(そとおりのいらつめ・そとおしのいらつめ)

衣通王(そとおりのみこ・そとおしのみこ)

日本書紀

輕大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)

大娘皇女(おおいらつめのひめみこ)

衣通郎(そとおりのいらつめ・ そとおしのいらつめ )

幸八と藤五郎は今更のように日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と関係はないのか聞いてきた。

未雨(みゆう)と新兵衛が呆れている、新兵衛が何時になく饒舌だ。

「今の帝は、いや応神天皇様も日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のご子孫だ。八幡様の御子孫だぜ。源氏も平家もなく同じ御血筋だ」

応神天皇は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と両道入姫命(フタジノイリビメ)の孫だと教えられている。

八幡様は源氏の氏神で平氏は違うと思っていたと二人が言いだした。

「どこが氏神だと思うのだい」

「安芸の宮島、厳島神社」

「確かに平清盛と云う人は考えが深い、源氏が八幡様なら元の宗像三女神の厳島を持ち上げたのさ」

「何か関係でも」

「八幡様の総本社は宇佐だ。ここは三柱の神で、応神天皇、母君の神功皇后、比売大神と云う名の宗像三女神。どうだい八幡様の元だとでも言いえるだろ」

「筑紫の宗像ではいけないのですか」

新兵衛はこの際二人に教えておく気に為ったようだ。

「藤五郎よ。それでは応神天皇、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が抜けてしまうと思う人が出る。三女神と云う方を祀る厳島と云うとこが大事なのさ。我が国の祖神はお伊勢様これでは皆と同じに為ってしまう。差を付けるのが肝心なのさ」

「覚えておいて損のない事を話しておこうか、出雲の大国主様は素戔嗚尊の系譜、伏見稲荷も同じ、八幡様は天照大神様と素戔嗚尊様両方の系譜。お伊勢様は天照大神、別名大日孁貴(おおひるめのむち)様」

「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)様は」

「御先祖の神武天皇様は曾祖父が天孫降臨の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、その御父上は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)で素戔嗚尊と天照大神との誓約(うけい)で御生まれの五皇子の長男だ。この時宗像三女神様もお生まれに為った」

「五皇子とはみすまるの玉の古事ですね」

「知っているじゃないか。十拳剣(とつかのつるぎ)から生まれたのが三女神だ」

子供の頃、天岩戸まではうろ覚えながら覚えたようだ。

八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいおつみすまる)とまでは覚えられなかった様だが、流れは掴んでいた。

衣通姫から思わぬ方へ話が飛んだ。

文化十一年二月二十九日(1814419日)・三十四日目

山中宿に八時に入った。

休み茶見世で一息入れて見物するにはどこがいいか聞いた。

岩出横渡しで城下へ入るなら大宮えびすだという。

祭神が日本武尊(ヤマトタケルノミコト)だというので道中記を突き合わせるとここから城下まで六里と為った。

中筋日延まで進んで考えることにした。

「若さん、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)でも食指は動きませんのかい」

「藤五郎、何処かの分社だろうぜ。えびすで有名なら十日夷で普段は何もなさそうだ」

街道を中筋日延の一里塚迄進んだ次郎丸の時計で十時三十分。

遠回りしても申(四時五十分頃)には四箇郷(しかごう)一里塚へ着けるようだ。

甘酒茶屋が有ったので、一休みして贅沢にも草鞋を買って履き替えた。

「えべっさんですか、古くからのお宮さんだす。熱田さんから来はったそうだす」

分社なら熱田以上の情報はない。

結局回るのは無駄の様だと永穂(なんご)へ向かった。

城下から二番目一里塚は永穂(なんご)で田井ノ瀬の渡しが有る。

渡しは混んでいたがひと舟十六人なので二刻(三十分ほど)で番が来た。

四箇郷(しかごう)一里塚から京橋へ向かった。

街道は三間ほどだが徐々に広がり桝形付近は広々としている。

桝形を抜けると小商人(こあきんど)の家が集まっていた。

鉤手(曲尺手・かねんて)に二度曲がると南への道は五間ほどの大通りに為った

道の西側に飯屋を見つけ遅い昼を食べた。

小女は「遅いので同じものが揃いませんが」と初手から脅(おど)かしてきた。

「鰆や鯵なら適当に焼いてくれ、豆腐の田楽でもあれば出してくれ」

未雨(みゆう)は適当に有る物で良いと言って頼んだ。

新兵衛が“ ひょうたんや染八 ”で教えてもらった東ノ丁“ ことや ”の場所を聞いた。

小女は新兵衛を手招きして表へ出ると右手を差して「その先の角を入って五軒目か六軒目」と少し曖昧に教えて戻った。

新兵衛は確認してきて「六軒目だった」と小女に報告した。

食べ終わって勘定をしていると未の鐘(二時二十分頃)が近くで鳴った。

遠くからも聞こえてくる。

「大分遠い場所の様だ」

「お城の向こうの高みに有るんですよ」

勘定と云うと「三百六十文に為ります]という。

六人分だと、南鐐二朱銀(八百文相当)出して「釣りはこの次来た時にわがまま言う先払いだ」と未雨(みゆう)は小女に渡した。

「長逗留でも」

「短くて六日、用事が済まなきゃ十日ほどになる」

町奉行東番所の場所を聞くと「京橋御門まで行って左へ堀沿いに行けばお城の東側に」と云うので新兵衛達三人は先に宿へ行かせて未雨(みゆう)、四郎、次郎丸の三人で向かった。

大分大雑把な娘だが堀の橋を渡って進めば城の南東にそれらしき役所が並んでいたので聞くと追分を左へ入ればすぐにあるという。

町奉行東番所は門番に来意を告げると与力が出張ってきた。

案内されるままに待合で改めてそれぞれが名を告げた。

「領内を見回りたいと仰せと聞いたが」

次郎丸が藩の鑑札と依頼状を出した。

依頼状は次郎丸が本名で書きあげたものだ。

「この方のご身分は」

「白河藩現藩主定永様弟君で御座います」

「江戸藩邸で届を出されたかな」

「出しておりませぬが、身分を下条様が御存じで御座る、沼津で行き会い申し、ご子息宛の書状を預かりました故この後届たいと存ずる」

奉行の大高(代右衛門)様へ申し上げてくると与力は自分の名を云わずに出て行った。

二人で戻るといきなり「金四郎殿はどちらで御座る」と聞いてきた。

四郎が脇へ出て「遠山金四郎はわたくしめで御座いますが、なぜわが名を」と不振顔だ。

「殿より三浦様へお申しつけが有り、案内を付けるようにお七里が来ている」

是じゃ隠密も失格だと顔を見合わせた。

「こちらの都合もあるゆへ、明日宿へ案内を出す。今日は訪ねずにいて呉れないだろうか、新兵衛にはこちらで邸に居るように伝える」

「承知つかまつった」

東ノ丁“ ことや ”へ戻ると八畳と次の間の六畳の二部屋しか取れなかったと幸八が告げた。

「二部屋ありゃ十分だ。八畳六人でも仕方ねえ事さ」

三月一日(1814420日)・三十五日目

朝辰刻(七時)、連絡に来たのは昨日の与力で京橋まで案内し「右手の中橋からお入りくだされ」と言うと奉行所の方へ去った。

堀に沿って大きな倉が並んでいる、橋の北側には火の見櫓と番所。

京橋御門を西へ行けば中橋が堀に掛かり、門番に下条の書状を見せて三人は三の丸へ入った。

門内にいる老年の番士に家を聞いて路地を入り、角から三軒目の邸を訪れた。

下条新兵衛二十三歳、部屋では母親と妻、幼子は大次郎と紹介した。

下条荷月の封書を手渡し、三人の名を告げた。

「昨日三浦様より申しつかり、ご案内つかまつる。城中の他はいずれを案内(あない)するも苦しからずと殿から連絡が来ており申す」

封書を読むと「家中に披露してもよろしゅうござろうや」と三人に問うた。

四郎が「どなたに披露されても依存御座りませぬ」と告げると母親へ手渡した。

「手紙にはお二人と有ったが」

「宮で四郎殿の父御と面談の為連絡に別行動しておりました。ほかに三人荷物持ちが来て、宿で待機して御座います」

「奉行の大高様は宿へともに泊まり込み、行先だけ宿へ申せば連絡は奉行所が引き受けると云われておりますが同道して構いませぬか」

「それは宜しゅう御座いました。では宿へ戻って行動の予定など相談仕りましょう」

茶菓子を勧められ、出された“ 焼饅頭 ”は上品な味がした。

辞去して中橋で老番士へ軽く会釈して橋を渡った。

「四郎殿は何ゆへ町人姿でおいでですか」

「封書には書いてありませぬか」

「剣術仲間で本川様の御供としか」

奉行は名前をご存知でしたよと云うと「拙者は三浦様から本川様の事しか聞かされませんでした」と詳しい事情は知らない様だ。

東ノ丁“ ことや ”で新兵衛達三人を紹介した。

「こりゃ同じ新兵衛で御座るか、呼ぶのに困り申した」

「若さん、おっと本川様はあにいと云うので、そうしていただくと混乱いたしやせん」

「それは重畳。あにいで宜しいですな」

部屋が余分に空いていないので次郎丸と四郎、下条新兵衛で大きな八畳間へ入った。

襖を開けておけば十分余裕はある。

「今朝与力の高橋様が来てから宿の茶が上等になりやしたぜ」

「あの方、俺たちについに名乗らずじまいだ。そうか高橋殿か」

「若さん聞いてなかったので、宿の女中っ子迄知っていましたぜ」

下条新兵衛は高橋与力に面識はないという。

午の鐘に間が有る十一時頃昨日の飯屋へ向かった。

一人増えても見世は小座敷が空いたと上げてくれた。

「今日も来なさるだろうと鰹を買いましたぜ」

刺身は生姜とニンニクが出てきた。

「たくさん上がれるなら土佐風に炙りますぜ」

「人数分出来るなら頼んだよ」

新兵衛が食べられるかなど誰も心配していない。

「あにい、そういや今年のお初だぜ」

四郎は喜んでいる。

「お客さん達ゃ國は何処だす」

「江戸と奥州に和歌山だ」

「土地の人が御出でで、そういや一人多くなってる」

小女は「え~っとこちらのお侍さん。初めてですよね」と顔を遠慮なく覗き込んだ。

新兵衛、城下の飯屋は初めて入ると打ち明けた。

「おいおい、新さん案内の方は大丈夫かい」

次郎丸にからかわれている。

「飯屋は初めてでも領内は熟知しております」

「名所図会の高松茶屋は近いのかね」

「ほぼ一里ほどです。高松寺に根上がり松、半里先が和歌の浦」

合格ですねと未雨(みゆう)が笑顔になった。

「和歌の浦の周りは」

「東照宮に紀三井寺、観海閣でござる」

「土地の絵図は見なくとも頭に有るのかい」

「はぁ、四書五経は頭に残りませんが名所は場所が浮かびます。ただ伊勢、松坂あたりの土地勘が有りません」

観海閣とはと聞かれ「海辺の憩いの場で領民も弁当持参でやってきます。今が陽気もよく海鳥も多く群れてたまに鯨がやってきます」と説明も丁寧だ。

「場所は違えど紀ノ川を挟んだ松江浜では、浅蜊拾いや蛤を求めてこの時期は人も出てきます」

「若さん、これなら名所図会を持ち歩くこともなさそうですぜ」

「いい人がついて呉れたな、手始めに高松茶屋で茶でも飲んで来よう」

飯屋の小女にはしばらく来られないが城下を発つ前にまた来ると告げて勘定をさせた。

六百四十文だという「江戸なら一分は取られるくらい食べたぜ」未雨(みゆう)はまた南鐐二朱銀を受け取らせた。

和歌山城城下は北と西に紀ノ川と水軒川が流れ、東は和歌川、南の吹上砂丘その先に和歌川が流れこんで、城下を囲む外堀になる。

七人でわいわい半刻も掛からず茶屋に着いた。

兄いは本当に一里有るかないかだと感心している。

未の鐘(八つ)が近くで鳴った「二時十五分だ」と兄いが懐中時計で確認した。

「時計で御座るか、いと小さき物」

「清国で作れると聞きましたがこれはベネツィアだと聞きました。若さんのがオーストリアウイーンの物ですぜ」

奥の松暖簾の縁台が空いているのでそこにした、藤五郎は茶屋の女に見とれている。

兄いに「江戸の川端の茶店女に負けぬ見目良い女子衆がおおい。紀伊は美人の産地だ」など言われて女たちも笑っている。

半刻(一時間ほど)も女たちをからかい城下へ戻った。

堀は行きかう船で混雑している、遊郭は許されていないので遊客は少ないようだ。

「ここは寄合橋、左手が藩校学習館で御座る」

「ここでは朱子学で御座るか」

「学びますが範囲を広げて宋学と教授は言っております」

「偏らないのは良い事ですな」

所で本願寺様鷺森別院に寄る余裕も有りますと四郎に聞いた。

「雑賀御坊(さいかごぼう)はお西だから門前でお辞儀だけしておこう」

雑賀御坊(さいかごぼう)は鷺森本願寺(さぎのもりほんがんじ)などとも云われる寺院だ。

四郎の“寺文請一札之事深川今川町町民四郎京本願寺参詣”を出した浅草善照寺は御東だ。

 

・・・・・

時刻

時の鐘は捨て鐘三つ鳴らしてから、子の刻・午の刻が九つで八つ、七つ、六つ、五つ、四つでまた九つになる。

この場合は一刻平均二時間をとることが多い。

一日百刻の昼間の時刻は春分・秋分五十刻、冬至四十刻、夏至六十刻となる。

春分・秋分五十刻では一刻が十四分二十四秒に相当する。

一日不定時法の四十八刻では三十分。

・・・・・

三月二日1814421)・三十六日目

地蔵の辻へ向かった。

「この地蔵様は享保丁酉(ひのととり)観樹院様結願により建立なされました」

大和街道直川観音道追分の地蔵は土盛りの上に台座が置かれ、左手に宝珠、右手に錫杖姿で結跏趺坐している。

紀州街道と大和街道はまだ同じ道で八軒家の宿場から紀三井寺への追分。

江戸人が東海道を上る時品川まで見送るが、和歌山城下の人はこの宿場で別れを惜しむという。

田井ノ瀬の渡しを越せば追分で、紀州街道と大和街道が二つに分かれる。

大和街道を進めば大宮神社に出会う。

紀伊国名所図会そのままに老婆が茶を商っている。

半丁ほど離れて井戸が有り、瓦屋根が八本の柱で支えてある。

茶を飲んでいた客が「紀伊国名所図会のばあさんかい」と聞いている。

「画ぇ描かれたん六年ほど前のこんだで」

「ちいとも老け取らんじゃないか。何か老けない薬でもあるのかい」

「茶飲んで客人と無駄愚痴言い合うのが秘訣だべな」

兄いが七人の茶を運んできたので地蔵の周りで立ち飲みした。

「四文だそうですぜ。安い割に良い茶だ」

「朝から繁盛だ。若いもんなら腰を据える客で回転が落ちるな」

ばあさん、巡礼が来るたび煮出した茶を振る舞っている。

「あちいからゆっくりのむだ」

若い女が来て洗い物を井戸へ運んでいる、足元の桶は洗われた湯呑と交換する為の様だ。

「普通なら役割が逆だぜ」

四郎はいろいろ想像したらしく嬉しそうだ。

直川観音道を北島渡しで対岸へ渡り、松江浜へ向かった。

巳の刻(九時三十分頃)引潮が始まったようで、百ではきかぬ女子供が蛤を探している。

商家の一団だろうか、丁稚に籠を背負わせ、せっせと集めて籠を呼んで中へ入れている。

其処から二里ほど先に島が有るというので見に行った。

遠眼鏡を回して皆で友ケ島と地ノ島を眺めた。

「淡路がこんなに近いとは思いもしませんでした」

未雨(みゆう)も驚いている。

加太港の粟島大明神を参拝した、祭神は大己貴命、少彦名命だ。

未雨(みゆう)が南鐐二朱銀七枚を出して道中の無事を祈願した。

此処は神功皇后が三韓出兵の帰途、嵐に遭い遭難するところを奇跡的に友ケ島にたどり着いた伝説の地だ。

「大己貴命さまは友ヶ島のうちの神島に祀られ、仁徳天皇五年の三月三日に此処へ遷座され申した」

禰宜は厳かな声で由緒を語った。

「神宝の鏡は息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)が納められたと伝わり申す」

門前の茶店の焼き団子で腹を宥めた。 

時計は午後の一時十分を差している。

「さて東ノ丁“ ことや ”迄どのくらいで戻れるかな」

「四里十丁ほどになります。十分陽のあるうちに戻れます」

「渡し次第か」

「宇治は五つまで船が有りますので心配いりませんよ」

戻る道筋右手海側に二里ヶ濱の八幡宮門前に糸切餅屋が有る。

「この店が伊国名所図会の見世ですよ」

糸切餅 ”とあるが見世の名はない様だ、近くにも同じような見世が有る。

画のように無精に籠に乗ったまま餅を食べる侍が居る。

餅は大きめの串団子と変わらぬ大きさで一人五個くらいはいけそうだ。

「一人三ケだ。茶も頼むよ」

兄いは小女にそういってニャッと笑った。

「あにい、今の笑いはなんですね」

「若さんの腹は五個くらい行けそうだという顔だったからさ」

黄色い餅を白い餅で包んで棒状にし、端から糸でゆで卵を切るように細く切る。

白砂糖をかけて出してきた。

一つ四文だという声が聞こえる「土産を頼む」と客が言う。

十個の包みと二十個の包みが売れてゆく、新兵衛は“ みや久 ”とあるのが見えた。

「この砂糖も紀州でとれるようになり申した」

新兵衛は雑賀屋の取り扱いが多いと教えた。

「殿様お気に入りの練り羊羹も砂糖が入ってうもう御座います」

そういえば伏見の駿河屋の分けが和歌山で総本家を名乗ると未雨(みゆう)が話していた。

蒸し羊羹を最後に食べたのは、熱田だったと次郎丸は思い出した。

あの後は練ばかりだと甘い餅と重ねてどっちが美味いか考えている。

京の虎屋より伏見の駿河屋の方が甘みは強かった、では此処の駿河屋はと帰るまでに食べておこうと心にしまった。

道ははかどり宇治の渡し場で五時四十分日暮れまで一時間は有る。

「其処の中州あたりが鉄砲場かね」

「さようでござる。普段は畑地へ入れますが、お触れが出ると終日出入りできませぬ」

ことや ”へ着くと暮れ六つの鐘(七時十五分頃)が聞こえてきた、一風呂浴びたら酒が欲しくなった一同だ。

「甘いもの食ってその後酒が欲しくなるのはどうしてかね」

「呑兵衛じゃないから両天秤なんですぜ」

「あにいは違うとでも」

「卵焼きで飲む口ですよ、あにいは」

幸八と藤五郎が言いだした。

「若さんと一緒だ」

「俺は兄いに感化されたんだ」

「あっちは猪四郎のせいだと思うね。あいつ王子の卵焼きで飲むのを人に勧めるから」

飲みたいくせに呑兵衛じゃないと言い張っている。

三月三日1814422日)・三十七日目

城下に入って四日目、和歌の浦の観海閣へ出かけた。

対岸山中に紀三井寺が見える。

遠眼鏡で見ていると何人も人が寄ってきたので貸し与えた。

巡礼姿の老人に混ざり子供の巡礼も多い。

入り浜の塩田は、上げ潮で引き入れた海の水がキラキラ輝いている。

次郎丸は飽きずにそれを眺めている。

「去年は此処だけで八百石の塩が生産出来ました。領内の塩は好評で高く売れます」

藤次郎が「塩の問屋が酒田へも売り込んでいますよ」と二人で塩談義だ。

次々とまわり半刻ほども戻ってこない、ようやく三本とも戻ったので教えられた“ わしを ”と云う店へ向かった。

「若さんは辛抱強い」

新兵衛はそう兄いと話している。

「人が楽しんでいるのが好きなんですよ。わっしと十年以上は付き合っていますがちっとも変わんねえ。道場の後輩にも優しいのですよ」

「その代り俺のはやっとこ免許だ。後から入った子供を鍛えるには向いてないのさ。だから用心棒が四郎なんだ」

「俺も後輩には優しいぜ」

「若い女にゃもっと優しいだろ」

焼き蛤に昼酒で良い気持ちで城下へ向かった。

高松茶屋で手前の松暖簾の縁台が人数分空いていたので未雨(みゆう)が「一休みだ」と言って茶とゆで卵を出させた。

刺田比古神社の方へ向かった、鐘堂の近くだという。

岡の宮とも言われ祭神は刺国大神、大国主神だという。

「吉宗公拾い親神社と藩では伝わっており申す。厄払いに捨て子をし、それを養い親が拾う儀式です」

「酔っていないとき改めて訪ねよう」

高松茶屋で帰るだけと思いまた一杯ひっかけてきたためだ。

鐘堂と堀の間の道を町奉行番所の方へ向かい和歌川の土手を歩いて上へ向かった。

堀詰橋で川と別れ堀がその先で北へ伸びているので堀端を歩いた。

浅野公の鐘堂が見え、その手前が旅籠町、東ノ丁“ ことや ”と為る。

風呂へ入り一息ついた。

「城下に商人、町民はどのくらいいるんです」

「御代替わりの時でおよそ六万と聞いたが町奉行でも正確につかんでいない様だ」

次郎丸が見た武鑑などで和歌山藩は武家の家族、郎党で二万と推計と有った。

武家は広い領内に分かれているので城下には一万くらいだろう。

殿様江戸在府の時で三千人に為ると聞いている。

表高五十五万五千石では財政は苦しい。

産業の育成を図るにも金が要る、資金を農民に押しつけては一揆の危険も含んでいる。

この藩でも献金地士を作り出している。

藩祖南龍公は土着有力者六十人を選んで武士に取り立てた。

この時代医師、商人にも身分を与え、五百人は居るだろうと“ 結 ”の情報にある。

三月四日(1814423日)・三十七日目

五日目、宿へ向こうで一日泊まると告げ、卯の下刻(五時四十五分頃)宿を出て塩津湊へ向かった。

和歌の浦へ出た時は酔っていたので寄らずにいた東照宮へ向かった

昨晩話した時、塩津湊へ直に行くには紀三井寺裏手を大回りで五里十五丁程。

和歌の浦から回れば四里二十丁ほどだと新兵衛が話した、記憶力が驚くほど素晴らしい男だ。

和歌の浦から船で渡る手も有るという。

「南龍公様神君崩御の後、南海道総鎮護の東照宮を建立。元和七年落成いたしました。名工左甚五郎の彫刻、狩野探幽の壁画は日光に次いで素晴らしきもので御座る」

新兵衛勝ると云わぬ心得は大したものだと次郎丸は感心した。

漁村の浜辺の道を行くと入り江にはいくつもの岩礁が有る、小さな岬を回り込むと左手に石段がある。

右手の海中に赤鳥居、幸八が「ここが東照宮ですか」と怪訝な顔で新兵衛に訊ねた。

「幸八さんここは天満宮。もう一つ先ですよ」

道が広がり左には石鳥居、鳥居前で一同揃って辞儀をして左手をくぐった。

「この石灯籠は我ら家臣の先祖の寄進で御座る、軽輩は幾十人かで一基と定められたそうで勝手に個人の名は刻めませぬ」

広い橋が有りそこを渡ると石段の上に華麗な楼門が有る。

「石段は百八段御座る」

「歳を取っては大変だな」

「女坂もござるゆえ、女子供に老人はそちらを廻り申す。戻りは石段を使わぬ決まりで御座る」

登り切って門脇から後ろを振り返れば、和歌の浦の春景色が片男波の砂州を見事に浮かび上がらせている。

楼門をくぐると右手に三重塔が見えた。

左手の別当寺天曜寺寺務処へ新兵衛が声を掛けると社僧が案内に立った。

次郎丸はどうやら根回しが出来ているようだと感じた。

湯浅の事をしきりに出したのは回らせる気が有るようだ。

「唐門奥は普段入れぬところですが拝殿まで案内申し上げる。皆様日光は御出でになられておりましょうや」

一同がまだと答えると満足そうに「この東照宮を手本に大猷院(たいゆういん)様大改築を為されました」と教えてきた。

正保二年十一月三日16451220日)日光山大権現は宮号が授与され、東照社から東照宮へ、久能山と紀州もその時東照宮へ改称した。

唐門への石段を上がると番僧が二人門を開けてくれた。

様々な彫刻に見とれた。

神官が現れ拝殿前で祝詞をあげだした、一同は慌てて石畳へ膝まずいた。

番僧は祝詞が済むと一同を左手の小門へ案内した。

未雨(みゆう)は神官に何か話していて後に為った。

薬師堂すなわち南龍公様のお社で御座ると云われ一同はひざまずいて拝礼した。

唐門下を廻り三重塔へ案内してくれた。

未雨(みゆう)が御捻りを番僧に二つ渡して礼を言うと「楼門までお見送りいたそう」と先に立った。

鳥居まで戻り左手へ新兵衛は案内した。

小さな土橋を渡ると集落が有り幾軒かの休み茶見世が有る。

藤五郎が中の見世へ「七人だよ」と声をかけた。

兄いが「一時近いが何か食べておきますか」と新兵衛に聞いた。

若い女房が耳ざとく「昼網でシラスと鯖が揚がりましたえ」と兄いに声をかけた。

四郎は「一日何度網を引くんだね」と聞いて答えも待たずに「生のシラスと鯖の一塩焼きで飯だ」と告げた。

亭主に七人さん間に合うかいと聞いている。

「兄貴に鯖の一塩三人分頼んでくれ」

女房は隣で頼んで来ると「網は日に三度ですよ」と四郎に告げた。

「阿漕やな」

「なんでおます。ここは伊勢ちごうて三度は三月から九月までだす。夜は引きませんえ」

「知ってたか」

「あいなぁ」

幸八は「何のことです」と不審な顔だ。

女房がいい声で披露した。

逢うことも阿漕が浦に引く綱も度重なれば顕れぞする

「能の中では阿漕と云う名の漁師は夜も網を打って漁をしたそうですよ。漁師は親孝行な平治だとも云われますよ」

未雨(みゆう)は「そういえば芭蕉は“ 月の夜の何を阿古木に啼く千鳥 ”と詠んでいる」と女房に話している。

「若さんは知ってましたか」

兄いは幸八に「若さんわな、こいつはいくつも話があると前に教えてくれたよ」と出てきたシラスを食べながら笑い出した。

「なんです」

新兵衛も聞きたそうだ、次郎丸は食べ終わったシラスの小鉢を置いた。

「源平盛衰記には“ 伊勢の海 阿漕が浦に引く網も 度重なれば人もこそ知れ ”とあって西行が出家の原因の歌だ」

「事実ですか」

「源平盛衰記だ、読み物だよ。いくつも似た話が有る。古今六帖と云うが見た覚えがないがそれらしき歌が有った」

“ あふことを あときのしまに ひくたひの たひかさならは ひともしりなむ ”

「なんだ、此処の女将さんが詠んだ歌じゃ有りませんか。若さん冗談が過ぎますぜ」

新兵衛も次郎太夫殿は最初の日でやめた。

「だから源平盛衰記西行伝説の方が創りもので能の方が元歌に近いのさ。伊勢参宮名所図会ではただの漁師の画だった」

鯖の焼き上がり近いか、もうもうと煙が道に漂い良い匂いがしてきた。

「飯も炊きたてですよ」

熱くて丁度いい、ゆっくり食べられると言って兄いは冷ましながら口へ運んでいる。

鯖と醤油が次々台に置かれた。

「湯浅かね」

「あいな」

新兵衛、また湯浅をもちだした、なんでも地場産か確かめる癖が有る。

粕漬けがどんとおかれた「たくさん食べておくんなさい」という。

「瓜かね」

「知りませんのか。西瓜ですよ」

西瓜を間引きして漬けるという、そうすると大きくて甘い西瓜が生るのだそうだ。

新兵衛を見ると「江戸では食べませんか」と驚いた顔だ。

宿では出てこなかったが本町五丁目“ あたらし屋 ”の漬物は父も好物だという。

ことや ”の近くじゃないか」

「飯屋の二軒南ですよ」

「なら漬けの匂いだと思っていたぜ」

四郎はどうやら口に合うようで次々口に運んでいる。

「ごしんさん、塩津まで船を頼める人知らないかね。出島の湊へ戻るのも面倒だ」

新兵衛腹いっぱいで億劫になったようだ。

女房は外へ出て船着きで網を乾している男を手招きした。

「気安く手招きするな。色男と間違えられる」

「とっちゃん。何言うとるだ。娘を色女にすな」

面白い親娘だ。

「ほかに用事がなきゃ、こん人たち塩津まで仕立てで運んでくりやせんかい」

「いいが、いくら出すんだ」

「お客さん達七人ですかね」

「全員だよ。宿も知ってりゃ教えてくれ」

「とっちゃん、豆板銀三匁でどうだ」

考えていたが「船頭二人の夕の渡し船で七人だと・・・」と計算できない様だ。

「二百十文だど、大分ふんだくれる」

乱暴な話だが兄いは「四匁出すから、宿も紹介してくれ」と云ったら親子で顔が崩れた。

「何時でなさる」

「ここの勘定が済ゃ、すぐ出られる」

三百八十五文だという「ずいぶんと安いな。差四本と銀四匁のどっちがいい」と兄いが豆板銀を出すと天秤で量って見せた。

兄いは何時も幸八を指導して十個十匁で纏めさせているのでまず狂わない。

小さいもの大きいものはまとめて何匁と包んでおくのだ。

「なに言うとるだ四匁にきまっとるだ」

親父が皿から取って娘に「釣りはいらねえ」とふざけた。

もう一度四個量って親父に取らせ、秤は丁寧に木箱へ戻した。

新兵衛は「どのくらいまでそれで計れます」と興味が起きたようだ。

「旅用の、小ばかりで二十匁秤です。両天秤なら五十匁の携帯用も売っていますよ」

錘は一戔、二戔、三戔、四戔、五戔、十戔の六つが有ると見せた。

「合わせりゃ二十五匁ですよ」

「ゴロが悪いので言わないようですぜ」

身じまいをして親父の船へ女房が案内に立った。

屋根が付いた十二.三人は楽に乗れそうな船だ。

船泊まりは左手に岩礁が有る、右手に見えた帆掛け船の方へ向かって漕ぎ出して多宝塔のある岬を遠回りした。

沖に出ると東照宮の三重塔が高いところに有るのが見えた。

「ずいぶん上まで入ったんだな」

「階段ばかりでしたから。帰りも階段は地の者でも強い(きつい)です」

「女坂が決まりはでまかせか」

「いけね」

新兵衛機転も聞くようだ。

塩津湊では廻船問屋も兼ねる“ あわや ”へ紹介された。

兄いは明日の巳に船で城下へ戻るについて貸切の相談だ。

船から見なきゃ陸地が解らないと当初からの予定だ、次郎丸は新兵衛の様子で湯浅からもう一度船で戻るにはどう持ちかけるか考えている。

此処には百艘を越す船が稼働し、御用船だけでも十艘あるとの情報だ。

新兵衛はとぼけた風で「若さん此の湊にゃ漁船が百艘以上、いさば五十艘と書き上げが有りましたよ。今じゃもっとあるんじゃないですか」と交渉を聞きながら教えてきた。

交渉が纏まったようだ。

「新兵衛様ここらは船賃が高い。仕立て七丁櫓と聞いてにんまりしやがった。銀八十八匁で大損だと云われちまった」

「いさばの十石なら半値でしょう」

「一艘四人までなら銀三十五匁でいさばで運べるそうだ。朝の網の魚を運ぶんだとよ」

「魚の箱と一緒ですか。通いの五大力の便船なら湯浅からでも銭六十文ですよ。ここからならもう少し安いでしょう」

「湯浅からも便が有るのかね。朝卯の下刻の便船だと云われた。明日はほかに空きがないそうだ」

塩津湊から紀湊迄十石七丁櫓の押送船(おしょくりぶね)は数が十五艘だけだという。

押送船で運ぶ荷で銀八十八匁くらい稼いだことが有るのだろう。

陸路五里、海上四里と湊から宿まで一里、距離は同じくらいだ。

湊から寄合橋なら通いの船も有るそうだ。

大分高く請求されたがこの頃の御用船五十石なら領内一里半程度で決まりは銀三匁五分に水夫十二匁の十五匁五分にしかならない。

三里半で銀十匁に水夫三十匁、小型でも倍は取る積り。

兄い“ あわや ”へいいものだしてくれと頼んだせいか、夕河岸でいろいろ仕入れて来たようで豪勢な食事と為った。

 第七十一回-和信伝- ・ 2024-05-06

 
   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記

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