三月四日(1814年4月23日)・三十七日目
五日目、宿へ向こうで一日泊まると告げ、卯の下刻(五時四十五分頃)宿を出て塩津湊へ向かった。
和歌の浦へ出た時は酔っていたので寄らずにいた東照宮へ向かった
昨晩話した時、塩津湊へ直に行くには紀三井寺裏手を大回りで五里十五丁程。
和歌の浦から回れば四里二十丁ほどだと新兵衛が話した、記憶力が驚くほど素晴らしい男だ。
和歌の浦から船で渡る手も有るという。
「南龍公様神君崩御の後、南海道総鎮護の東照宮を建立。元和七年落成いたしました。名工左甚五郎の彫刻、狩野探幽の壁画は日光に次いで素晴らしきもので御座る」
新兵衛勝ると云わぬ心得は大したものだと次郎丸は感心した。
漁村の浜辺の道を行くと入り江にはいくつもの岩礁が有る、小さな岬を回り込むと左手に石段がある。
右手の海中に赤鳥居、幸八が「ここが東照宮ですか」と怪訝な顔で新兵衛に訊ねた。
「幸八さんここは天満宮。もう一つ先ですよ」
道が広がり左には石鳥居、鳥居前で一同揃って辞儀をして左手をくぐった。
「この石灯籠は我ら家臣の先祖の寄進で御座る、軽輩は幾十人かで一基と定められたそうで勝手に個人の名は刻めませぬ」
広い橋が有りそこを渡ると石段の上に華麗な楼門が有る。
「石段は百八段御座る」
「歳を取っては大変だな」
「女坂もござるゆえ、女子供に老人はそちらを廻り申す。戻りは石段を使わぬ決まりで御座る」
登り切って門脇から後ろを振り返れば、和歌の浦の春景色が片男波の砂州を見事に浮かび上がらせている。
楼門をくぐると右手に三重塔が見えた。
左手の別当寺天曜寺寺務処へ新兵衛が声を掛けると社僧が案内に立った。
次郎丸はどうやら根回しが出来ているようだと感じた。
湯浅の事をしきりに出したのは回らせる気が有るようだ。
「唐門奥は普段入れぬところですが拝殿まで案内申し上げる。皆様日光は御出でになられておりましょうや」
一同がまだと答えると満足そうに「この東照宮を手本に大猷院(たいゆういん)様大改築を為されました」と教えてきた。
正保二年十一月三日(1645年12月20日)日光山大権現は宮号が授与され、東照社から東照宮へ、久能山と紀州もその時東照宮へ改称した。
唐門への石段を上がると番僧が二人門を開けてくれた。
様々な彫刻に見とれた。
神官が現れ拝殿前で祝詞をあげだした、一同は慌てて石畳へ膝まずいた。
番僧は祝詞が済むと一同を左手の小門へ案内した。
未雨(みゆう)は神官に何か話していて後に為った。
薬師堂すなわち南龍公様のお社で御座ると云われ一同はひざまずいて拝礼した。
唐門下を廻り三重塔へ案内してくれた。
未雨(みゆう)が御捻りを番僧に二つ渡して礼を言うと「楼門までお見送りいたそう」と先に立った。
鳥居まで戻り左手へ新兵衛は案内した。
小さな土橋を渡ると集落が有り幾軒かの休み茶見世が有る。
藤五郎が中の見世へ「七人だよ」と声をかけた。
兄いが「一時近いが何か食べておきますか」と新兵衛に聞いた。
若い女房が耳ざとく「昼網でシラスと鯖が揚がりましたえ」と兄いに声をかけた。
四郎は「一日何度網を引くんだね」と聞いて答えも待たずに「生のシラスと鯖の一塩焼きで飯だ」と告げた。
亭主に七人さん間に合うかいと聞いている。
「兄貴に鯖の一塩三人分頼んでくれ」
女房は隣で頼んで来ると「網は日に三度ですよ」と四郎に告げた。
「阿漕やな」
「なんでおます。ここは伊勢ちごうて三度は三月から九月までだす。夜は引きませんえ」
「知ってたか」
「あいなぁ」
幸八は「何のことです」と不審な顔だ。
女房がいい声で披露した。
“ 逢うことも阿漕が浦に引く綱も度重なれば顕れぞする ”
「能の中では阿漕と云う名の漁師は夜も網を打って漁をしたそうですよ。漁師は親孝行な平治だとも云われますよ」
未雨(みゆう)は「そういえば芭蕉は“ 月の夜の何を阿古木に啼く千鳥 ”と詠んでいる」と女房に話している。
「若さんは知ってましたか」
兄いは幸八に「若さんわな、こいつはいくつも話があると前に教えてくれたよ」と出てきたシラスを食べながら笑い出した。
「なんです」
新兵衛も聞きたそうだ、次郎丸は食べ終わったシラスの小鉢を置いた。
「源平盛衰記には“ 伊勢の海 阿漕が浦に引く網も 度重なれば人もこそ知れ ”とあって西行が出家の原因の歌だ」
「事実ですか」
「源平盛衰記だ、読み物だよ。いくつも似た話が有る。古今六帖と云うが見た覚えがないがそれらしき歌が有った」
“ あふことを あときのしまに ひくたひの たひかさならは ひともしりなむ ”
「なんだ、此処の女将さんが詠んだ歌じゃ有りませんか。若さん冗談が過ぎますぜ」
新兵衛も次郎太夫殿は最初の日でやめた。
「だから源平盛衰記西行伝説の方が創りもので能の方が元歌に近いのさ。伊勢参宮名所図会ではただの漁師の画だった」
鯖の焼き上がり近いか、もうもうと煙が道に漂い良い匂いがしてきた。
「飯も炊きたてですよ」
熱くて丁度いい、ゆっくり食べられると言って兄いは冷ましながら口へ運んでいる。
鯖と醤油が次々台に置かれた。
「湯浅かね」
「あいな」
新兵衛、また湯浅をもちだした、なんでも地場産か確かめる癖が有る。
粕漬けがどんとおかれた「たくさん食べておくんなさい」という。
「瓜かね」
「知りませんのか。西瓜ですよ」
西瓜を間引きして漬けるという、そうすると大きくて甘い西瓜が生るのだそうだ。
新兵衛を見ると「江戸では食べませんか」と驚いた顔だ。
宿では出てこなかったが本町五丁目“ あたらし屋 ”の漬物は父も好物だという。
「“ ことや ”の近くじゃないか」
「飯屋の二軒南ですよ」
「なら漬けの匂いだと思っていたぜ」
四郎はどうやら口に合うようで次々口に運んでいる。
「ごしんさん、塩津まで船を頼める人知らないかね。出島の湊へ戻るのも面倒だ」
新兵衛腹いっぱいで億劫になったようだ。
女房は外へ出て船着きで網を乾している男を手招きした。
「気安く手招きするな。色男と間違えられる」
「とっちゃん。何言うとるだ。娘を色女にすな」
面白い親娘だ。
「ほかに用事がなきゃ、こん人たち塩津まで仕立てで運んでくりやせんかい」
「いいが、いくら出すんだ」
「お客さん達七人ですかね」
「全員だよ。宿も知ってりゃ教えてくれ」
「とっちゃん、豆板銀三匁でどうだ」
考えていたが「船頭二人の夕の渡し船で七人だと・・・」と計算できない様だ。
「二百十文だど、大分ふんだくれる」
乱暴な話だが兄いは「四匁出すから、宿も紹介してくれ」と云ったら親子で顔が崩れた。
「何時でなさる」
「ここの勘定が済ゃ、すぐ出られる」
三百八十五文だという「ずいぶんと安いな。差四本と銀四匁のどっちがいい」と兄いが豆板銀を出すと天秤で量って見せた。
兄いは何時も幸八を指導して十個十匁で纏めさせているのでまず狂わない。
小さいもの大きいものはまとめて何匁と包んでおくのだ。
「なに言うとるだ四匁にきまっとるだ」
親父が皿から取って娘に「釣りはいらねえ」とふざけた。
もう一度四個量って親父に取らせ、秤は丁寧に木箱へ戻した。
新兵衛は「どのくらいまでそれで計れます」と興味が起きたようだ。
「旅用の、小ばかりで二十匁秤です。両天秤なら五十匁の携帯用も売っていますよ」
錘は一戔、二戔、三戔、四戔、五戔、十戔の六つが有ると見せた。
「合わせりゃ二十五匁ですよ」
「ゴロが悪いので言わないようですぜ」
身じまいをして親父の船へ女房が案内に立った。
屋根が付いた十二.三人は楽に乗れそうな船だ。
船泊まりは左手に岩礁が有る、右手に見えた帆掛け船の方へ向かって漕ぎ出して多宝塔のある岬を遠回りした。
沖に出ると東照宮の三重塔が高いところに有るのが見えた。
「ずいぶん上まで入ったんだな」
「階段ばかりでしたから。帰りも階段は地の者でも強い(きつい)です」
「女坂が決まりはでまかせか」
「いけね」
新兵衛機転も聞くようだ。
塩津湊では廻船問屋も兼ねる“ あわや ”へ紹介された。
兄いは明日の巳に船で城下へ戻るについて貸切の相談だ。
船から見なきゃ陸地が解らないと当初からの予定だ、次郎丸は新兵衛の様子で湯浅からもう一度船で戻るにはどう持ちかけるか考えている。
此処には百艘を越す船が稼働し、御用船だけでも十艘あるとの情報だ。
新兵衛はとぼけた風で「若さん此の湊にゃ漁船が百艘以上、いさば五十艘と書き上げが有りましたよ。今じゃもっとあるんじゃないですか」と交渉を聞きながら教えてきた。
交渉が纏まったようだ。
「新兵衛様ここらは船賃が高い。仕立て七丁櫓と聞いてにんまりしやがった。銀八十八匁で大損だと云われちまった」
「いさばの十石なら半値でしょう」
「一艘四人までなら銀三十五匁でいさばで運べるそうだ。朝の網の魚を運ぶんだとよ」
「魚の箱と一緒ですか。通いの五大力の便船なら湯浅からでも銭六十文ですよ。ここからならもう少し安いでしょう」
「湯浅からも便が有るのかね。朝卯の下刻の便船だと云われた。明日はほかに空きがないそうだ」
塩津湊から紀湊迄十石七丁櫓の押送船(おしょくりぶね)は数が十五艘だけだという。
押送船で運ぶ荷で銀八十八匁くらい稼いだことが有るのだろう。
陸路五里、海上四里と湊から宿まで一里、距離は同じくらいだ。
湊から寄合橋なら通いの船も有るそうだ。
大分高く請求されたがこの頃の御用船五十石なら領内一里半程度で決まりは銀三匁五分に水夫十二匁の十五匁五分にしかならない。
三里半で銀十匁に水夫三十匁、小型でも倍は取る積り。
兄い“ あわや ”へいいものだしてくれと頼んだせいか、夕河岸でいろいろ仕入れて来たようで豪勢な食事と為った。
|