翌日、昼に東誠(ドォンチァン)を訪ねた孜漢は、林宗圓(リンヅォンユァン)と徐興淡(シュシィンダァン)の二人に縁談の下調べが此方の耳に入ったと切り出した。
「さすが界峰興のは耳ざとい。孜漢さんにはすまないが此方も他には跡継ぎの当てがないのだ」
「それで相談ですが。店の方は興延を手放しても良いと決めました」
「有難い話だ。礼を言わせてもらう」
二人は立ち上がって拝礼をした。
「ただし此方にも条件がいくつか」
「かなうならいくらでも飲みますよ」
隣を買い取った話から順を追って話を始めた。
「水会(シィウフェイ)の話しを飲まないといけませんか」
「お二人とも、興延を店主にして後は隠居では短絡的ですよ」
「しかし水会(シィウフェイ)の事はよくわからんのです」
「こうしましょう。この店は興淡さんが後見人として相談に乗る。興淡さんは水会(シィウフェイ)の前門(チェンメン)付近の纏め役、後見はこの孜漢」
「交互に役割分担という事ですな」
「寄り合い所が四か所ありまして、宗圓さんの隠居仕事にもう一つ寄り合い所を作りましょう。なぁに連絡係は今二人の若いものが回っておりますので話を聞くだけで御座います」
「精忠廟の家を隠居所にする予定ですがそこでもいいですかな。門番小屋に使うつもりの小屋があるのでそこへ手を入れるというのは」
「そりゃ好都合で南の寄り合い所から半里程度で連絡にも都合がよいですな。日中だけでも宗圓さんと興淡さんが交互に詰めていただければ幸いです」
「それで嫁の方はどうなります。私どもの調べでは、武人の一族らしく堅い家のようでした」
「娘娘の方で今頃は手をまわしてる頃合いです。良い返事があれば東誠(ドォンチァン)の方から正式に使者を出していただきます。興延が大興荘から戻れば婚姻が出来るよう手配しておきましょう」
「マァーマァー(媽媽)の方は大丈夫ですが、興延は頑固者で勝手に決めて怒りませんか」
「本人は相手を決めたとは知りませんが、娘娘が決めた相手でお任せしますとインドゥ哥哥と公主娘娘が言質を取っています」
娘娘の条件だと言って二つの店を統合して広げ、夫婦の住まいを改築して造ることだと承知してもらった。
手代の二人に小僧を呼んで主(あるじ)と番頭が隠居しても変わらず勤めてくれるように頼んだ。
孜漢は自分が公主娘娘の代理で仕切らせてもらうと告げた。
「これは俺の一存だが手代のお二人には番頭として卸の方と仕入れを担当してもらいたい。小僧の三人は手代として二人が番頭さんの下で勉強、一人は小売りの責任者として店へ出る。興延(シィンイェン)が新しく来てもあんたがたの立場が悪くなることはないと俺が保証する。興淡(シィンダァン)さんは皆の相談と新しい店主のご意見番に目を光らせてもらう」
宜綿(イーミェン)が店に来て声をかけた。
「どうされました」
「哥哥に言われてきた。話は通したので、明後日に彩礼品を届ける使者をすることに為ったが、間に合うのか」
瑠璃廠、前門大街にはツァィリィ(彩礼)の品を急場に間に合わせる店は多い。
その日のうちに一揃い揃えられた。
林宗圓(リンヅォンユァン)は銀錠三百両を添えると言い出した。
孜漢は娘娘に連絡を取り了解してもらった。
九日朝に馬で宜綿(イーミェン)が先導し、荷車にツァィリィ(彩礼)の品を乗せて崇文門(チョンウェンメン)から大街を東四牌楼で府第へ向かい、通用門で使女達に見せてから王作児胡同へ向かった。
温芽衣(ウェンヤーイー)の父母(フゥムゥ)に、兄の陳良策も喜んで使者を迎えた。
無事ツァィリィ(彩礼)の品を届け、府第で報告し、煤市街の東誠(ドォンチァン)へ戻った。
府第出入りの大工が孜漢の指図で隣の店に入っている、通りすがりの人たちが物珍し気に眺めている。
「こちらを洗い出して造作に手を入れましょう。こちらを小売、隣は卸でいいですか」
興淡も呼んで細かい打ち合わせも済んで「娘娘の裁可が下りればすぐ仕事にかかります」と主筆を入れた紙をもって役所へ向かった。
「孜漢よ」
「なんですショォリィン(首領)様」
「急なことで今更の様だが嫁一人が女手では飯にも困るだろう。ここの料理人は隠居についていくんだろ」
「湯老媼(タンラォオウ)に言って料理人、小間使いは決めました」
「いつの間に」
「昨日甫箭(フージァン)に行かせて人を選びました」
「あいつが選んだならいいだろう」
「本当はあと二人くらい仕立てを出来る女を探そうと思うのですが、思ったより難しい」
「どうしてだ」
「芽衣(ヤーイー)様より目立っちゃまずいし、腕が悪くちゃ店が困る」
「なるほどな。そこそこいい腕で控えめな女か。府第から引き抜くかよ」
「そうもいきませんや」
孜漢も興延に任せてしまえば楽なのにと思うのだが、チィフゥナァンシィア(騎虎難下・乗り掛かった舟)とはこのことだ。
十一日夕刻、酉の鐘にまだ間がある時刻に礼雄と李春(リィチゥン)の馬車が興延に馬丁をさせて安定門(アンディンメン)外の料亭へ到着した。
周甫箭(チョウフージァン)と鄭玄(ヂァンシァン)が出迎え、界峰興(ヂィエファンシィン)の手代も参加しての宴席が開かれた。
翌朝、卯の鐘が聞こえてきた。
甫箭(フージァン)達は先に安定門(アンディンメン)を抜けて店へ戻っていった。
興延が馬をつけ新婚の二人を乗せて府第へ向かったのは辰の鐘の後だ。
府第では昂(アン)先生と芽衣(ヤーイー)が礼雄と李春を案内し、興延は馬車を預けて戻った。
詰め所で興延は不満そうだ。
「どうした、新婚夫婦にあてられたか」
詰所へ戻っていた昂(アン)先生が声をかけた。
「いえね。いつもなら軽口をたたく芽衣(ヤーイー)様が話しかけようとしたらさっきと行ってしまわれましてね。何かこちらに気に入らない落ち度でもと」
「そりゃ勘違いだ。芽衣(ヤーイー)様の婚約が成立して、顔を合わせるのが恥ずかしかったのさ」
「そりゃおめでたい話で」
「そう思うか」
「そりゃお相手がうらやましいと思いますよ。男ならああいうお方を妻に望みますから」
新居は煤市街の大汪(ダァワン)布行(プゥシィン)の店を改造すると教えた。
「お相手は街の民ですか。あそこは界峰興で買い入れたはずですよ」
「結の男だ」
「顔くらいは知ってる人ですか。誰でしょう」
「昔なじみだよ」
公主使女の武環華(ウーファンファ)が迎えに来た。
出てしばらくすると詰所から笑い声が大きく響いた。
門番たちも我慢の限界だったようだ。
娘娘の居間では礼雄(リィシィォン)の昔話を花琳(ファリン)が李春(リィチゥン)にしていた。
「この子は悪餓鬼でね。十五で府第に出入りし始めた時、庭師の娘が育てていたフゥーペェンヅゥ(覆盆子・木苺)を食べて甫箭(フージァン)に怒られたのよ。もう七年も前だから忘れていたけど、こんなに可愛いお嫁様を連れてきてつい思い出してしまったわ」
興延(シィンイェン)も礼雄にゃもったいない位いい嫁を連れてこられて幸せな奴ですと娘娘へ申し上げた。
インドゥが明け番で戻ってきた、なぜか今日は供に植(チィ)を連れている。
興延の嫁はまだ見つからないのかと揶揄って来た。
「府第では芽衣(ヤーイー)の婚約が決まったぞ」
「おめでたいことで御座います」
興延に礼雄が祝いを言った。
今年は江麗穎(ジァンリィイン)、史佳寧(シーヂィアニン)、黎梓薇(リーヅゥウェイ)と三人の使女が婚姻している。
「門番は興延がたいそううらやましそうな顔で聞いていたと言うが本当かい」
「そりゃ心の内ではああいうお方を娶りたいと願っておりました」
「何時頃からなの興延」
娘娘の詮索が始まった、興延に礼雄もそういう時はじらさず答えるのが良いと学習している。
「十四でお出入りがかなって二年後、芽衣様が来られて陳(チェン)姓の方が多いので母方の姓の温姓を使われたころから気にはしておりました」
「ま、ませた子だったのね」
「そのころは針仕事が上手で奴婢に門番の方々も芽衣様の試作のお仕着せを取り合うのを見て、自分もお願いできるなら手に入れたいなど思うくらいでした」
言っているうちに涙があふれてきた。
「目出度いのになぜ泣くの」
「お相手がうらやましい。自分など身分違いで申し込むことも出来ません」
「豊紳府では身分は問題にしませんよ。好きならなぜ哥哥や私に言わないの。まだ婚約だけで間に合うわよ」
がばと、身体を投げ出した。
「どうか私を助けてください。一生をかけて芽衣様を大切にお守りいたします」
温芽衣(ウェンヤーイー)は嘉慶七年十三歳で豊紳府へ上がり、最初から公主使女だった、身分が違うのはその時から心のどこかで枷になっていたのだろう。
「芽衣(ヤーイー)、良かったわね。貴方を妻に欲しいそうよ」
芽衣(ヤーイー)が隣の部屋から出て興延の隣で身を投げ出した。
「殷徳(インデ)様、公主娘娘。有難うございます。丈夫(ヂァンフゥー・夫)に仕え、岳父(ュエフゥー)に仕え、岳母(ュエムゥー)に仕え良き家庭を築かせていただきます」
礼雄が「婚約の方はどうするんですか。お相手は」と心配そうな顔で訪ねた。
「九日に宜綿(イーミェン)が婚約の使者にたってくれた」
「どうお断りすれば」
「その必要はない」
興延に礼雄、李春(リィチゥン)も不思議そうにインドゥの次の言葉を待っている。
「使者は東誠(ドォンチァン)から出た」
漸く興延に礼雄はいつもの娘娘のからかいだったと気が付いたが、李春(リィチゥン)にはわからない。
「東誠は興延(シィンイェン)の爸爸(バァバ・パパ)が番頭で、そこへ興延弟弟を養子にという話が有ったんだよ」
李春(リィチゥン)もおぼろにわかりかけてきた。
「この婚姻には条件があるの」
興延(シィンイェン)は緊張した。
「まず興延(シィンイェン)は東誠(ドォンチァン)林宗圓(リンヅォンユァン)の夫婦養子になること。良いわね」
二人は拝礼した。
「新居は煤市街の大汪(ダァワン)布行(プゥシィン)の店。今改装中だから出来上がり次第婚姻よ」
また拝礼した。
「林宗圓は隠居、徐興淡も身を引くけどご意見番として店に名は残すこと。今の手代は番頭に昇格して卸と仕入れを担当、小僧は手代として二人の番頭の下で将来の勉強に、一人は小売りの店の担当で興延と芽衣を手助けすること」
もう一度拝礼して「承知いたしました」と答えた。
「孜漢が湯老媼(タンラォオウ)の所で小間使いと料理人を雇ったわ。後は芽衣の裁縫の手助けの人を雇いなさいね」
「それほど動かせる銀(かね)は私に都合が付きません」
「昂(アン)先生は結の話を聞かせなかったの」
「えっ、あの話の結は私の事ですか、昔なじみだと」
あまりの展開に混乱したようだ。
「界峰興から買い取るのは私からのお祝い、改装費は哥哥からのお祝いよ」
「有難く頂戴させていただきます」
長い付き合いで悪遠慮は良くないと体に染みついている。
「新居は端切れの小売りと注文服の新調、今までの東誠(ドォンチァン)は卸の専門にしたいと岳父(ュエフゥー)になる林宗圓(リンヅォンユァン)からの託(ことづけ)が来たわよ。そうしてあげなさいね」
界峰興の方は孜漢が興延の穴を埋めて爸爸(バァバ・パパ)が水会(シィウフェイ)の纏め役を引き受けたと教えられた。
興延(シィンイェン)に馬車を連れてきて新婚夫婦を新居へ連れて行くようにインドゥがせかした。
馬車が来ると昂(アン)先生が豊紳府と公主府の提灯を四隅に下げて送り出した。
礼雄は興延の隣へ腰かけ「驚いたぜ」と笑いかけた。
「俺のいないところで話が出来上がったようだ」
「だが結へ参加させて貰えたのは幸運だ」
「哥哥が独立するときは力にならせてもらうよ」
「頼りにしてるぜ。だが無茶はしないでくれ」
崇文門(チョンウェンメン)を抜けて大街から花児市大街へ入った。
中四条の曽家では到着を待ち受けていた。
嫁の事を皆がほめて干杯(ガァンペェィ・乾杯)し、簡単に新居へ送りこんでくれた。
南小市上堂子胡同では雇人たちと蓮蓮が迎えてくれた。
蓮蓮は李春(リィチゥン)の婚姻が済むと村の若者が馬二頭に荷を乗せ、爸爸(バァバ・パパ)が付いて、先に村を出て李橋鎮で泊り、翌早朝馬車を雇って荷を積むと、親子二人で通惠河(トォンフゥィフゥ)大曲迄出た。
その日のうちに脚夫(ヂィアフゥ)寄せ場で荷担ぎを雇い、大通橋を渡り東便門(ドォンビィエンメン)から入り、新居で送られて来たものに持って来た荷物の整理をしていた。
呂(リュウ)は礼雄(リィシィォン)の到着まで近くに宿を取った。
申の刻(午後五時十分頃)、南小市上堂子胡同のこの家から五十歩ほどの南小市を挟んだ下堂子胡同ツォンタイ(曽泰)に宴席の支度が出来たと呼びに来た。
その日の午の刻、宜綿(イーミェン)は東誠(ドォンチァン)番頭徐興淡に林宗圓と話し合っていた。
「今でも疑問があるのだ」
「なんでしょうか」
「芽衣と小芳の名を聞いたのになぜ小芳(シィァオファン)と思わなかったんだね」
「それは簡単な理由です。父親は調べが付きましたが、どうしても引っ掛かりのある人に巡り合えなかったんですよ。いわば幸運の賜物です」
マァーマァー(媽媽)は南五老胡同の家近くの関王廟にお礼の日参をしているそうだ。
甫箭(フージァン)が噂を聞き込み、湯老媼(タンラォオウ)に聞き合わせたのが話の展開を早めたと宜綿(イーミェン)が説明した。
「いわば相惚れだった」
宜綿(イーミェン)は、旨そうに林宗圓(リンヅォンユァン)の淹れた茶を飲んだ。
「寄り合い所でこんなに旨い茶を飲ませたら、年寄りの集会が毎日開かれてしまうぜ」
「付近の大店の隠居が寄り集まれば応援してくれましょう。水会(シィウフェイ)の銀(かね)にも困らんでしょう」
「やや、孜漢より見通しの良い意見だ。あいついい後継者がいたと喜んでいたぜ」
宜綿(イーミェン)は宣武門(シュァンウーメン)へ出て邸へ戻った。
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