第伍部-和信伝-弐拾参

 第五十四回-和信伝-弐拾

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

ウリヤスタイ(烏里雅蘇臺)で何か起きたようだ。

ホルチン、マンジュの參贊大臣が相次いで更迭された。

満州(マンジュ)の常安が五月八日に京城(みやこ)へ呼び戻され、即日祥保(ニオフル)が任命された。

常安は丸四年その任に当たっていた、原名常齡で派遣が決まった時に改名した。

蒙古(マァングゥ)の薩木丕勒多爾濟(ドルジ)の後任は五月二十五日凝保多爾濟が任命されると伝わって来た。

今の烏里雅蘇臺將軍は宗室成寬、満州(マンジュ)鑲黄旗、嘉慶八年七月からその任についている。

インドゥを鑲藍旗蒙古副都統へ横滑りさせて派遣との噂も出だした。

鑲藍旗蒙古都統は嘉慶九年(1804年)から富察氏の明亮が勤めている。

歴戦の勇士も、嘉慶十二年の今年七十三歳と為っている。

 

徐興延(シュシィンイェン)は父母(フゥムゥ)と久しぶりに食事に出た。

家で食べる回数も最近はめっきり減った。

南五老胡同の絹の端切れ問屋東誠(ドォンチァン)持ち家に親子三人で住んでいる。

番頭になって二十年、すでに五十歳になった徐興淡(シュシィンダァン)にとって心配は興延(シィンイェン)の嫁だ。

店はほぼ番頭の興淡が仕切っているが、手代二人もすでに五十を過ぎている。

そこそこに利益は上げているが、小僧は年が行くと引き抜かれてしまうことが多い。

興延が手代から番頭に上がったと家に月两両入れてくれるので、マァーマァー(媽媽)の潘青(パァンチィン)は生活に余裕が出た。

西城に多い姚、穆、潘などの親類も苦労が絶えない家が多い。

潘青の家が本家筋だとは最近になって翠鳳から教えられて知った。

西城の潘家は分家が多いうえ男が続かない。

翠鳳のマァーマァー(媽媽)の潘翠鈴(パァンツゥイリィン)も男兄弟はもういない。

権鎌(グォンリィェン)の継妻穆寶泉(ムウパァォチュァン)とは祖父が兄弟だと物知りの姚翠鳳(ヤオツゥイファン)が教えてくれた、第二個表姐・第二個表妹(再従姉妹)になるのだが表姐・表妹(従姉妹)で通してきた。

一旗揚げようと台湾へ進出したのは爺爺(セーセー)の潘莞(パァンウァン)のときで爸爸(バァバ・パパ)の潘辰(パァンチェン)の時ひと財産築いた。

台湾で林爽文戊申反乱の時、財産の九割を失い、徐興淡に潘青と赤子の興延と共に京城(みやこ)へ逃げ帰ってきた。

潘莞はフォンシャン(皇上)の代替わりの年に失意のうちに亡くなった。

徐興淡は舅父(ヂォウフゥー・母の兄)の東誠(ドォンチァン)の店へ誘われ、手代からすぐに番頭になった。

今の手代は通州の同業が水害でつぶれ、解雇されたのを雇った。

店の主もすでに七十五歳、妻も亡くなり子供もいない。

興延を養子にとの話も出る。

「でも興延の顔ではこの商いには向きませんよ。見た目のいい嫁でも来てくれれば店の顔になるでしょうが」

父親も興延は布店には向かぬ顔だと諦めている。

公主使女には受けがいいと昂(アン)先生は認めているのだが、外には漏れては来ない。

服を縫わせれば邸内一の腕があると紫蘭が認める温芽衣(ウェンヤーイー)などは、冗談迄平気で言ってくる。

小芳に芽衣は本名が陳(チェン)姓だが母方の姓を名乗っている。

一時府第、公主府に陳(チェン)姓が多かったためだ。

父親たちは嫁ぎ先を民でもいいと話しているそうだ。

兵部員外郎(従五品)、工部郎中(正五品)などうだつの上がらぬ身分の娘ではなまじ名のある家へ嫁げば苦労すると思うようだ。

兵部員外郎(従五品)、工部郎中(正五品)は民から見れば高官だが京城(みやこ)には掃いて捨てるほどいると云う。

棒銀八十両、禄米八十斛(四十石)は子だくさんには養廉銀、家職がなければ辛い。

二人は息子もともに藍翎侍衛(正六品)になったが俸給は低い。

親としては裕福な民へ嫁がせ、フゥイ(賄)の手助けなどと妄想もしてしまう。

親と同じ五品になれば出世だろうという人も出る。

芽衣の縫う服に二十両と評価する布店がある、在る頭等鎮国将軍の夫人へ贈ったチーパオ(旗袍)が布店の手代の目に留まったのだ。

綿の生地の服にそれだけ値打ちが出るとは、贈られた夫人の方がびっくりして娘娘へ話に来たのだ。 

「娘娘、息子二人に絹布でお願いできませんでしょうか」

頭等鎮国将軍夫人は、夫が散秩大臣になった時に贈られたチィパァオ(旗袍)を二年もたって着てみたのだろうか、綿と馬鹿にしていたのかもしれない。

芽衣の十六歳の時の作品だ、生地は楊鈴(ヤンリン)の夫の興永(シィンイォン)于高洪(ユゥガオフォン)が選んだものだ。

蘇州の綿布は綿屋陸景延(リゥチンイェン)からも上質なものが来る。

松江標布の極上が興永(シィンイォン)に三十匹入荷し、聞きつけた娘娘がすべて引き取った。

「絹布は拝領品しか手持ちがないのでお分けが出来ないのよ。生地を持参されれば普段着の裁縫は工房で仕上げさせます」

リィン(領)、ヂィン(襟)、ヂィン(衿)は芽衣が、シェンフォシェン(前后身・身頃)やシィアパァィ(下擺・裾)の刺繍は分割して仕上げている。

「温芽衣(ウェンヤーイー)姑娘に仕上げて頂きたいの」

嫡夫人鈕祜禄氏(ニオフル)はなかなか手ごわい。

夫はインドゥの子供時代の遊び仲間、武術の相弟子、夫の父親は娘娘の哥哥という縁故に頼られては断りにくいのだ。

結局、二匹の絹布を持参し、芽衣が仕上げることに為った。

息子は老大(ラァォダァ)十五歳、三子は六歳。

生地を持参するときに採寸の為、息子を連れてくることに為った。

話を聞いたインドゥは弟弟が家では夫人の言いなりだとの噂だと笑っている。

絹布迄此方に持たせる気が満々の夫人に、たじたじの娘娘だった。

二匹の絹布を預けるに、恩迄着せかねない様子だった。

「芽衣は手間代が二十両かせげるなら布店を開いてもいい位だ。最近の腕なら三十と吹っ掛けてもいい。鈴と組んだらどうだ」

「街へ出れば私など太刀打ちできない名人がたくさんおられますわ」

「その気になればいつでも後押しするぜ」

芽衣には一日三刻を割いてもよいからお願いよと娘娘が頼んだ。

刺繍入りの豪華な服なら大仕事になるが、芽衣は簡単な絵柄を一つ足して入れるのが柄入りヂィプゥ(織布)を引き立たせるコツと心得ている。

それでも裁断からチィパァオ(旗袍)すべてをひとりでは、大変な作業になる。

和国ではこの少し前、寛政元年三月奢侈禁止令で絹物は取り締まりの対象となった。

幕府は養蚕を奨励し、国内生産を高めるどころか、輸入を制限する方向へ度々舵を切っていた。

清国産の生糸、絹織物は和国の貴重な輸入品で高価であった、和国の生産量は需要を賄えるほど生産されなかった。

浅間山大噴火後、信州、上州での養蚕は緒に就いたばかりだ。

政府,宮廷使用の高級絹織物は“北京職造局”と 江南三織造局の“江寧織造局”“杭州織造局”“蘇州織造局”で生産されていた。

斜身式大花楼機が使用され生産高はそれまでの平身式織機をはるかに上回った。

蘇州呉江県盛沢鎮は蘇州刺繍(蘇繍)と共に名声を博している。

刺繍は蜀繍(四川)、粤繍(広東)、湘繍(湖南)も名高い産地だ。

蘇州には応奉局、織造局、織造府とあり国の大事な機関が集まっている。

この年四月十五日は小満、蚕を飼う人たちの大事な祭りが各地で行われた。

蚕起食桑と言われる言葉もある、皇城の大事な行事の一つだ。

先蚕儀礼と蚕神信仰は斎戒(ものいみ)、陳設(儀礼場の設営)、車駕出宮(皇后出発)、饅享(酒食をもって先蚕氏を祭る)、親桑(桑を摘む)、車駕還宮(皇后戻る)、労酒(慰労の宴席)。

皇后は祭壇(先蚕壇)で先蚕氏を祭り、自ら桑を摘み取る、桑の葉は宮中の蚕室で蚕に与えられた。

+新北京精細全圖-光緒34年(1908年)

蠶壇-先蚕壇

 

 

江寧織造局では戸部へ毎年七万両を超える銀(かね)が納められた。

蘇州織造局は網師園の北にある、毎年三万匹の需要を賄っている。

康熙帝、乾隆帝は南巡行に際して蘇州織造署西花園を行宮とした。

蘇州には絹布の震沢紬行の看板を掲げる店も多くあり、震沢鎮は康演が妾に預けている料亭がある。

姑蘇繁華図-撚糸場

 

旗袍(満州服)も漢服も自在に裁縫できる府第の奴婢は嫁入りするとき、その腕が財産になる。

東誠(ドォンチァン)にも近い、火神廟前朱家胡同(ジュジャフートン)安聘(アンピン)菜館へ三人は入った。

宜綿(イーミェン)が書いた 義 人 の額が目立つ。

客は“仁義”(レェンイー)だろうとは言わない。

料理長の峰義信(フェンイィシィン)は今日も陽気に鍋を振っている。

桑小鈴(サンシャオリン)と潘玲(パァンリィン)が先に来ていて、孜漢と話が弾んでいる。

「お二人はお休みですか」

「湯老媼(タンラォオウ)の所へお菓子の配達に出ました。門が閉まるまであと一時間と三十五分だからそろそろお暇を」

店の時計を見た、遠回りして料理長に顔を見せに来たようだ。

潘玲(パァンリィン)と潘青(パァンチィン)は年も姻戚関係も離れてはいるが同じ西城の潘家の出だ。

桑小鈴(サンシャオリン)に簡単に紹介した。

「私が穆寶泉(ムウパァォチュァン)とビャオメイ(従姉妹)で其のビャオジェ(従姉妹)なの」

ビャオジェ(表姐・母方の年上女子)、ビャオメイ(表妹・母方の年下女子)の区別も大変だ。

潘青(パァンチィン)は三十八歳。

穆寶泉(ムウパァォチュァン)二十歳。

潘玲(パァンリィン)十五歳。

姚翠鳳(ヤオツゥイファン)二十四歳がいなけりゃ姻戚関係はもつれた糸だ。

二人は興延とは顔なじみ、爸爸(バァバ・パパ)の徐興淡の勤める布問屋東誠も知っている。

潘玲(パァンリィン)と姚翠鳳(ヤオツゥイファン)もビャオジェ(従姉妹)になる、どっちから見ての話しでややこしくなる。

「料理の味付けより複雑だわね」

「ねぇ、潘玲(パァンリィン)は嫁に出る気は無いのかしら」

「ないわよ。あと五年は紫蘭様に仕えると約束したの。久しぶりに逢ったらどうしてそんな話になるの」

「家の興延に嫁を取らせたいのよ」

「今大興荘は婚姻が多いわよ。村には好きな娘は居ないの」

興延(シィンイェン)は困っている。

爸爸(バァバ・パパ)が「東誠(ドォンチァン)の旦那が養子に欲しいというんだが。この顔で布店の問屋はともかく、小売りの方は不味かろう」と言ってしまった。

「府第の奴婢には受けがいいのよ。知らなかったの」

興延(シィンイェン)もそうは思っていなかったようだ。

「誰か嫁に来てくれれば、養子として店を継がせると旦那は言うのだ」

「親戚は許してくれるの」

「残っているのは外甥(ゥアィシァン)の俺だけなので問題はないんだよ」

孜漢が「俺の方は婿に取られてはたまらんが、興延がそうしたいなら応援するぞ」と話に加わった。

父母(フゥムゥ)は良い味方が出来たとほっとしている。

「不味いですよ。せっかく村とうまくいってるのに、抜けたくありませんよ」

桑小鈴(サンシャオリン)が口を出してきた。

「やっぱり村にいい娘がいるのね」

「いないったら。この出しゃばりめ」

「ふん、小芳(シィァオファン)様と芽衣(ヤーイー)様に言いつけてやるわ」

「なんでその二人なんだ」

孜漢も知らない情報でもあるようだ。

「崇文門(チョンウェンメン)に間に合わないと締め出されるから。チェンチエガオトゥイ(臣妾告退・失礼します)」

わざわざ御大層に言って出て行ってしまった、前門(チェンメン)で無く遠くへ回ると言っている、朱家胡同(ジュジャ)から東河沿いに五里近くある。

京城(みやこ)案内には宣武門(シュァンウーメン)から崇文門(チョンウェンメン)の間は七里八十二丈と出ている。

酉の鐘の後、門はゆっくりと十分ほどかけて閉められる。

「興延、何のことだ」

「なんでしょう。使女の人たちの中では年も近いので、拝領品などの事で話くらいはしますが」

父母(フゥムゥ)は「どんな人たちなの」と知りたがっている。

運ばれてきた料理も上の空で食べている。

孜漢に聞いても「娘娘のお気に入りの使女ですよ」とそれだけだ。

陳小芳(チェンシィァオファン)の方小芳(ファンシィァオファン)は嘉慶七年公主使女に十四歳で上がった、今年十九歳になる。

陳芽衣(チェンヤァイィ)の温芽衣(ウェンヤーイー)は嘉慶七年公主使女に十三歳で上がった、今年十八歳になる。

孜漢は興延が惚れて居るなら兎も角、娘娘も手放したくない二人のはずと思っている。

しばらく様子見だなと関わらない事にした。

そうとは気が付かない興延の父母(フゥムゥ)に、東誠(ドォンチァン)の林宗圓(リンヅォンユァン)は、湯老媼(タンラォオウ)に渡りをつけて情報を集めだした。

湯老媼(タンラォオウ)は慎重に「娘娘お気に入りの使女で父親は官員だ」と答えた。

どうやら桑小鈴から名が出たらしいと分かり、府第へ出たとき昂潘(アンパァン)の家で口止めをした。

「誰にも言わない」

小鈴(シャオリン)は約束した。

潘玲(パァンリィン)の事は聞き漏らしていて、小鈴にだけあって戻ってしまった。

 

芽衣(ヤーイー)の仕立てが気に入った鈕祜祿氏(ニオフル)は兄嫁に自慢したようで次々とおねだりがきた。

貝子夫人の沙濟富察氏(フチャ)は十七歳の息子に十歳の息子のためにと生地を持参し、息子を紹介した。

貝勒夫人烏密氏(ウミ・唐兀タングート)は二十二歳の息子を伴って来た。

姐姐は「ほかの子を連れ立って来たら大変なことに為るわ」とお冠だ。

貝勒家は子だくさんの上、養子に出てすでに貝子に為っている若者までいるのだ。

芽衣と手伝う奴婢はほぼ一月親王家の一族に振り回されていた。

インドゥは勤務の合間に届けを出し、フォンシャン(皇上)に「茶の次は布行だ」と笑われてしまうほどになった。

「絹布を仕入れればいいのに。刺繍入りなら高く取れるぞ」

「それだと良い幸いと布を持参せずに頼むでしょうし。娘娘の気性では銀(かね)を出せは言い出せないでしょう」

「何人くらい腕のいいものがいるのだ」

「八人ほど。刺繍は繍坊の女官には適いません」

使女に三人、奴婢に五人は布店を開いてもやっていけるまでになっているのだ。

 

王作児胡同の陳(チェン)家の娘に裁縫上手で、豊紳府へ使女に上がった芽衣(ヤーイー)がいると分かったのは、安定門(アンディンメン)内、東縧児(ドゥンシィャオゥズ)胡同の鶏、家鴨をさばく韓馮(ハンフェン)という店の韓章連(ハンヂァンリィェン)という男からだ。

蔣予蒲という漢人の工部右侍郎は嘉慶六年の大水害の時、太僕寺卿として民の味方になり外城の危機を救った。

主な役目に牛馬、畜産の管理があり、役目を拡大して後始末に腕を振るった。

それ以来フォンシャン(皇上)の覚えもよい。

その時に古着の捐献(ヂュァンシィェン・献納)の手伝いに東誠(ドォンチァン)の林宗圓(リンヅォンユァン)を、手足に使った。

韓章連(ハンヂァンリィェン)も加わっていて縁が出来た。

後は様々な伝手でなぜ陳(チェン)でなく、温芽衣(ウェンヤーイー)なのかもわかって来た。

母親の姓と分かり調べると陳(チェン)家、温(ウェン)家は武進士、侍衛を何人も出していると分かった。

「旦那、こりゃ、いよいよ難しい」

「しかし裁縫上手は家の店には最適な嫁だ。支度は家産の半分出しても欲しい」

夫婦養子に向かえて隠居との思いは募るばかりだ。

端切れとはいえ絹布の漢服に仕立てる腕があれば、上等なものが出来上がる。

売り込みの仲立ち商は棉布(ミェンプゥ)も持ち込んでくる、綿の端切れを扱う担ぎへの需要も多いから、仲介はしている。

古着屋も修理に使う同色の端切れを探しに来る、同業の者からの信頼もある。

韓章連(ハンヂァンリィェン)の妻に娘は東誠の上得意だ。

此処で修理した綿の古着は近在の農民に人気がある。

話が漏れ「府第の仕立て上手な使女をイァンヌゥ(养女・養女)に」となって双蓮(シィァンリィエン)の耳に入った。

顔双蓮(イェンシィァンリィエン)が潘玲(パァンリィン)に「あなたの親類の様だけど」と聞いた話が紫蘭から娘娘へ伝わった。

「婚約者のいない使女で、仕立て上手と言えば芽衣(ヤーイー)かしら、貴方をイァンヌゥ(养女・養女)にという話、聞いたことあるの」

「いえ、家の方からは何も言ってまいりませんが」

潘玲(パァンリィン)を呼んで聞くと「親戚に煤市街の布店があるのですが、そこの番頭の老大(ラァォダァ)が興延なのです。そこから出たのではないでしょうか」と娘娘へ申し述べた。

インドゥは「玲、それでは興延の嫁という事かい」と聞いた。

「私に嫁になる気はあるかは聞かれましたが。芽衣さんの事は聞かれませんでした」

「それ、いつ頃の話なの」

「先月十日に湯老媼(タンラォオウ)へお使いに小鈴と出たときです、孜漢さんにシャチィマ(薩其馬・サチマ)でお茶を誘われました。その時興延の父母(フゥムゥ)とお会いしました」

紫蘭が「その時の報告は受けましたが。確かに芽衣の事は聞かれていないようです」と替わって答えた。

「芽衣(ヤーイー)、一度実家に聞き合わせてごらん」

手紙を書いて昂(アン)先生に届けに出てもらった。

通用門を出て順天府衛門の先を左へ入れば王作児胡同の陳(チェン)家がある。

陳關延(チェングゥァンイェン)は明け番で家にいた。

手紙を読んで驚いている。

「何やら右侍郎の蔣予蒲様に裁縫上手な娘は居るかと聞かれはしましたが。イァンヌゥ(养女・養女)の事は知りません。ヤァイィ(芽衣)についても其の布店は聞いたこともありません」

妻の温氏に聞いても心当たりはないという。

「もしもだが本人承知なら其の布店へ夫婦養子でもいいのだろうか」

「娘の気持ち次第です。婚約もしておりませんし。娘娘のお気持ち次第でよろしいかと存じます」

話の出どこはこの近くの韓馮(ハンフェン)という店らしいので聞いてみると言って辞去した。

家を出て左に折れ、高公庵を左の道先に見て進む、突き当りに韓馮(ハンフェン)という店の幟が見えた。

韓章連(ハンヂァンリィェン)が季節外れのイエヤァヅゥ(野鴨子・マガモ・鴨)の毛を毟っていた、聞いてみると娘を呼んできた。

「東誠(ドォンチァン)で布を選んでいたら手代が二人“家の旦那は夫婦養子を迎えると言うが俺たちはどうなるのだろう。”そう言うともう一人が“公主様の使女とは高望みだ”と答えていました。そのあと聞こえたのは“使女の方の仕立てた旗服は、ルゥシィン(盧興)の手代が二十両の値打ちがあると言っていた”と聞こえました」

家の娘は地獄耳でして小声でささやいても聞き分けると自慢した。

話をつなぎ合わせて芽衣様の事だと思いましたと言う。

昂(アン)先生は娘に「小遣いだよ」と銀(イン)二銭を渡して府第へ戻った。

インドゥと娘娘へ報告すると、興延の知らないところで布店の店主が動いているようだと芽衣にも聞かせた。

興延に礼雄が来たと門番が曾藍桃に言う声が聞こえた。

二人は大興荘へ明日出かけるという報告だ。

四日後の六月十日、曽礼雄(ツォンリィシィォン)と李春(リィチゥン)の婚礼が有る。

「それで興延(シィンイェン)の婚約はいつなの」

「相手がいませんよ」

「ドォンチァン(東誠)は養子に欲しいのでしょ」

玲(リィン)に小鈴(シャオリン)が話したなと気が付いた。

「孜漢の旦那にも断るように言いましたよ」

「嫁の相手がいても断るの」

「当てもありませんし、ドォンチァンは私の家族しか係累がいませんよ。マァーマァー(媽媽)が一度潘玲(パァンリィン)に声をかけたけど、断られましたよ」

「おまえ、潘玲が良かったの」

「違いますよ」

慌てている。

「玲は気が強い、マァーマァー(媽媽)も気が強い、おまけに私も強情と来ては家が収まりません。フゥチンの居場所がなくなります」

「私が選んだらその娘を貰ってくれる」

「娘娘の眼に適う娘さんならお任せします」

「本当ね。約束したわよ」

門番が孜漢と甫箭が来たと告げた。

「なんだ、まだいたのか。安定門(アンディンメン)が閉まるぜ」

「まだ六時前ですぜ。馬車は馬が付いてますからすぐ出られます」

そうは言いながらも辞去して東四牌楼へ向かった。

「邪魔だったの」

「実は湯老媼(タンラォオウ)め桑小鈴(サンシャオリン)に口止めしたらしいのですがご存じですか」

「また何かあったの」

「興延(シィンイェン)の養子話で湯老媼(タンラォオウ)の方に探りがあったそうで、発端は小鈴なんですよ」

「どうして」

「あっしが小鈴と玲に茶を飲ませていて、興延の家族とかち合ったときに、思わせぶりなことを言いましてね」

花琳(ファリン)が小鈴を食堂から呼び出してきた。

「湯老媼(タンラォオウ)は白状したけど、興延の事で何を隠していたの。小鈴の口から聞きたいわ」

旨く乗せられて小鈴が話し出した。

「界峰興の手代が大興荘の娘と結婚したいという話を鮑(バオ)から聞いたんです。すでに興延さんに礼雄さんは番頭だけど二人の事と分かったんですが。その話をしていたら、丁度出会って聞いた小芳様と芽衣様がそわそわして物陰で泣いていたのを見てしまいました」

芽衣(ヤーイー)と小芳(シィァオファン)の二人が何でだろうと気に為ったと言う。

「後で婚姻相手が礼雄さんと分かって芽衣(ヤーイー)様がほっとした顔で出てこられたのも見ました。小芳(シィァオファン)様は慰められていただけと聞いて居てわかりました」

孜漢は甫箭と相談し、養子縁組も仕方ないと決めてきたと云う。

それまで黙っていたインドゥは「芽衣(ヤーイー)を呼んで気持ちを確かめてからだな」と言って隣の部屋にいる芽衣(ヤーイー)を呼び入れた。

すでに上気した顔だが「興延(シィンイェン)さんの気持ち次第で」と遠慮がちに口を開いた。

「官員の家でなくていいの、民の家に入るにはそれなりの覚悟は必要よ」

「父が反対するだろうと口には出せませんでしたが、前々から興延さんに嫁ぎたいと思っていました」

孜漢がそれを聞いてニャと笑ったのを娘娘は見逃さない。

「孜漢なにか目論見があるのね」

「じつは前々から水会(シィウフェイ)の方を誰かに任せようと考えていたんですがね。目を付けたのが興延の爸爸(バァバ・パパ)でして」

「押し付ける気なの」

「天地会台湾の騒動の時、赤ん坊の興延に一家を連れて逃げ延びた度胸もありますし。普段の物腰も柔らかい。近所の大店の主人の受けもいい。もし興延が養子に入れば東誠(ドォンチァン)店主林宗圓(リンヅォンユァン)と共に引退と噂もあるのでね」

「隠居させて水会(シィウフェイ)を仕切らせる気ね」

「その通りで。八方丸く収まるわけで」

「住まいは考えているの」

娘娘久しぶりに出番が来たと思った。

「実は汪美麗(ワンメェィリィー)の実家が煤市街から二十歩ほど離れた小馬神廟に移って、店を広げるというので界峰興で買い取りました。二家を一つの店にして興延の住まいをひねくりだそうと考えています」

「興延に買い取る資金はあるの。養子が決まっても無理をしてはあとで困るわよ」

インドゥが笑い出した。

芽衣(ヤーイー)に小芳(シィァオファン)、花琳(ファリン)までが不思議そうに見ている。

漸く娘娘が気付いた。

「結に入れて仕舞おうというのね」

「礼雄の方は実家の肩入れが凄くてね、下手に手を出せないのですが。興延(シィンイェン)の方は独立を機に、入れてもいいのかと思うのです」

「店と住まいを私に任せるなら許してあげる」

奥の手を出してきた「許しません」と言えば、婚約も養子も話がもとに戻ってしまう。

東誠(ドォンチァン)に父母(フゥムゥ)の方は孜漢と甫箭に任せることにした。

興延(シィンイェン)の方は任せると言質は取ったから娘娘が駄目を押す。

芽衣(ヤーイー)の実家は昂(アン)先生が根回しをして、東誠(ドォンチァン)から使者を出す。

打ち合わせを済ませ、二人は興藍行(イーラァンシィン)で結への参加の話し合いをした。

本人抜きで話はほとんど纏まった。

権鎌(グォンリィェン)に範文環(ファンウェンファウン)に店を閉めたら来てくれと連絡を取り、前門(チェンメン)の水会(シィウフェイ)の後継者について相談した。

あらかじめ姚淵明(ヤオユァンミィン)には下話をしてあるのでと二人に持ち掛けた。

「息子に布店を継がせて結へ入れる。フゥチンを引退させて水会(シィウフェイ)を任せる」

「そういうことだ」

「で」

「何か疑問でも」

「孜漢の旦那はどうなさる」

「俺は興延(シィンイェン)の穴埋めの大興荘通いに、店番さ」

「旦那は店で隠居を気取って、客に茶を振舞う気だぜ」

與仁(イーレン)は面白がっている。

「ところで爸爸(バァバ・パパ)を引退させて布店は大丈夫ですか」

「老練の手代が二人いる。卸と仕入れを任せればいい。爸爸(バァバ・パパ)には目を光らせてもらうつもりだ」

與仁(イーレン)は早めに手代にそのことを話しておくべきだと孜漢に言っている。

「実は噂を美麗の哥哥から耳に入れさせておいた。店の拡大で仕入れと卸を任せるとな。今日から阮品菜店でも常連客に店を任そうと考えているようだと広めさせた」

興延の出番がないですねに「婿はそういうもんだ」と文環が大笑いだ。

権鎌は戻ったが、四人は東誠(ドォンチァン)の商売の手をどこまで広げるかを話し合って興藍行へ泊った。

 

翌日、昼に東誠(ドォンチァン)を訪ねた孜漢は、林宗圓(リンヅォンユァン)と徐興淡(シュシィンダァン)の二人に縁談の下調べが此方の耳に入ったと切り出した。

「さすが界峰興のは耳ざとい。孜漢さんにはすまないが此方も他には跡継ぎの当てがないのだ」

「それで相談ですが。店の方は興延を手放しても良いと決めました」

「有難い話だ。礼を言わせてもらう」

二人は立ち上がって拝礼をした。

「ただし此方にも条件がいくつか」

「かなうならいくらでも飲みますよ」

隣を買い取った話から順を追って話を始めた。

「水会(シィウフェイ)の話しを飲まないといけませんか」

「お二人とも、興延を店主にして後は隠居では短絡的ですよ」

「しかし水会(シィウフェイ)の事はよくわからんのです」

「こうしましょう。この店は興淡さんが後見人として相談に乗る。興淡さんは水会(シィウフェイ)の前門(チェンメン)付近の纏め役、後見はこの孜漢」

「交互に役割分担という事ですな」

「寄り合い所が四か所ありまして、宗圓さんの隠居仕事にもう一つ寄り合い所を作りましょう。なぁに連絡係は今二人の若いものが回っておりますので話を聞くだけで御座います」

「精忠廟の家を隠居所にする予定ですがそこでもいいですかな。門番小屋に使うつもりの小屋があるのでそこへ手を入れるというのは」

「そりゃ好都合で南の寄り合い所から半里程度で連絡にも都合がよいですな。日中だけでも宗圓さんと興淡さんが交互に詰めていただければ幸いです」

「それで嫁の方はどうなります。私どもの調べでは、武人の一族らしく堅い家のようでした」

「娘娘の方で今頃は手をまわしてる頃合いです。良い返事があれば東誠(ドォンチァン)の方から正式に使者を出していただきます。興延が大興荘から戻れば婚姻が出来るよう手配しておきましょう」

「マァーマァー(媽媽)の方は大丈夫ですが、興延は頑固者で勝手に決めて怒りませんか」

「本人は相手を決めたとは知りませんが、娘娘が決めた相手でお任せしますとインドゥ哥哥と公主娘娘が言質を取っています」

娘娘の条件だと言って二つの店を統合して広げ、夫婦の住まいを改築して造ることだと承知してもらった。

手代の二人に小僧を呼んで主(あるじ)と番頭が隠居しても変わらず勤めてくれるように頼んだ。

孜漢は自分が公主娘娘の代理で仕切らせてもらうと告げた。

「これは俺の一存だが手代のお二人には番頭として卸の方と仕入れを担当してもらいたい。小僧の三人は手代として二人が番頭さんの下で勉強、一人は小売りの責任者として店へ出る。興延(シィンイェン)が新しく来てもあんたがたの立場が悪くなることはないと俺が保証する。興淡(シィンダァン)さんは皆の相談と新しい店主のご意見番に目を光らせてもらう」

宜綿(イーミェン)が店に来て声をかけた。

「どうされました」

「哥哥に言われてきた。話は通したので、明後日に彩礼品を届ける使者をすることに為ったが、間に合うのか」

瑠璃廠、前門大街にはツァィリィ(彩礼)の品を急場に間に合わせる店は多い。

その日のうちに一揃い揃えられた。

林宗圓(リンヅォンユァン)は銀錠三百両を添えると言い出した。

孜漢は娘娘に連絡を取り了解してもらった。 

九日朝に馬で宜綿(イーミェン)が先導し、荷車にツァィリィ(彩礼)の品を乗せて崇文門(チョンウェンメン)から大街を東四牌楼で府第へ向かい、通用門で使女達に見せてから王作児胡同へ向かった。

温芽衣(ウェンヤーイー)の父母(フゥムゥ)に、兄の陳良策も喜んで使者を迎えた。

無事ツァィリィ(彩礼)の品を届け、府第で報告し、煤市街の東誠(ドォンチァン)へ戻った。

府第出入りの大工が孜漢の指図で隣の店に入っている、通りすがりの人たちが物珍し気に眺めている。

「こちらを洗い出して造作に手を入れましょう。こちらを小売、隣は卸でいいですか」

興淡も呼んで細かい打ち合わせも済んで「娘娘の裁可が下りればすぐ仕事にかかります」と主筆を入れた紙をもって役所へ向かった。

「孜漢よ」

「なんですショォリィン(首領)様」

「急なことで今更の様だが嫁一人が女手では飯にも困るだろう。ここの料理人は隠居についていくんだろ」

「湯老媼(タンラォオウ)に言って料理人、小間使いは決めました」

「いつの間に」

「昨日甫箭(フージァン)に行かせて人を選びました」

「あいつが選んだならいいだろう」

「本当はあと二人くらい仕立てを出来る女を探そうと思うのですが、思ったより難しい」

「どうしてだ」

「芽衣(ヤーイー)様より目立っちゃまずいし、腕が悪くちゃ店が困る」

「なるほどな。そこそこいい腕で控えめな女か。府第から引き抜くかよ」

「そうもいきませんや」

孜漢も興延に任せてしまえば楽なのにと思うのだが、チィフゥナァンシィア(騎虎難下・乗り掛かった舟)とはこのことだ。

十一日夕刻、酉の鐘にまだ間がある時刻に礼雄と李春(リィチゥン)の馬車が興延に馬丁をさせて安定門(アンディンメン)外の料亭へ到着した。

周甫箭(チョウフージァン)と鄭玄(ヂァンシァン)が出迎え、界峰興(ヂィエファンシィン)の手代も参加しての宴席が開かれた。

翌朝、卯の鐘が聞こえてきた。

甫箭(フージァン)達は先に安定門(アンディンメン)を抜けて店へ戻っていった。

興延が馬をつけ新婚の二人を乗せて府第へ向かったのは辰の鐘の後だ。

府第では昂(アン)先生と芽衣(ヤーイー)が礼雄と李春を案内し、興延は馬車を預けて戻った。

詰め所で興延は不満そうだ。

「どうした、新婚夫婦にあてられたか」

詰所へ戻っていた昂(アン)先生が声をかけた。

「いえね。いつもなら軽口をたたく芽衣(ヤーイー)様が話しかけようとしたらさっきと行ってしまわれましてね。何かこちらに気に入らない落ち度でもと」

「そりゃ勘違いだ。芽衣(ヤーイー)様の婚約が成立して、顔を合わせるのが恥ずかしかったのさ」

「そりゃおめでたい話で」

「そう思うか」

「そりゃお相手がうらやましいと思いますよ。男ならああいうお方を妻に望みますから」

新居は煤市街の大汪(ダァワン)布行(プゥシィン)の店を改造すると教えた。

「お相手は街の民ですか。あそこは界峰興で買い入れたはずですよ」

「結の男だ」

「顔くらいは知ってる人ですか。誰でしょう」

「昔なじみだよ」

公主使女の武環華(ウーファンファ)が迎えに来た。

出てしばらくすると詰所から笑い声が大きく響いた。

門番たちも我慢の限界だったようだ。

娘娘の居間では礼雄(リィシィォン)の昔話を花琳(ファリン)が李春(リィチゥン)にしていた。

「この子は悪餓鬼でね。十五で府第に出入りし始めた時、庭師の娘が育てていたフゥーペェンヅゥ(覆盆子・木苺)を食べて甫箭(フージァン)に怒られたのよ。もう七年も前だから忘れていたけど、こんなに可愛いお嫁様を連れてきてつい思い出してしまったわ」

興延(シィンイェン)も礼雄にゃもったいない位いい嫁を連れてこられて幸せな奴ですと娘娘へ申し上げた。

インドゥが明け番で戻ってきた、なぜか今日は供に植(チィ)を連れている。

興延の嫁はまだ見つからないのかと揶揄って来た。

「府第では芽衣(ヤーイー)の婚約が決まったぞ」

「おめでたいことで御座います」

興延に礼雄が祝いを言った。

今年は江麗穎(ジァンリィイン)、史佳寧(シーヂィアニン)、黎梓薇(リーヅゥウェイ)と三人の使女が婚姻している。

「門番は興延がたいそううらやましそうな顔で聞いていたと言うが本当かい」

「そりゃ心の内ではああいうお方を娶りたいと願っておりました」

「何時頃からなの興延」

娘娘の詮索が始まった、興延に礼雄もそういう時はじらさず答えるのが良いと学習している。

「十四でお出入りがかなって二年後、芽衣様が来られて陳(チェン)姓の方が多いので母方の姓の温姓を使われたころから気にはしておりました」

「ま、ませた子だったのね」

「そのころは針仕事が上手で奴婢に門番の方々も芽衣様の試作のお仕着せを取り合うのを見て、自分もお願いできるなら手に入れたいなど思うくらいでした」

言っているうちに涙があふれてきた。

「目出度いのになぜ泣くの」

「お相手がうらやましい。自分など身分違いで申し込むことも出来ません」

「豊紳府では身分は問題にしませんよ。好きならなぜ哥哥や私に言わないの。まだ婚約だけで間に合うわよ」

がばと、身体を投げ出した。

「どうか私を助けてください。一生をかけて芽衣様を大切にお守りいたします」

温芽衣(ウェンヤーイー)は嘉慶七年十三歳で豊紳府へ上がり、最初から公主使女だった、身分が違うのはその時から心のどこかで枷になっていたのだろう。

「芽衣(ヤーイー)、良かったわね。貴方を妻に欲しいそうよ」

芽衣(ヤーイー)が隣の部屋から出て興延の隣で身を投げ出した。

「殷徳(インデ)様、公主娘娘。有難うございます。丈夫(ヂァンフゥー・夫)に仕え、岳父(ュエフゥー)に仕え、岳母(ュエムゥー)に仕え良き家庭を築かせていただきます」

礼雄が「婚約の方はどうするんですか。お相手は」と心配そうな顔で訪ねた。

「九日に宜綿(イーミェン)が婚約の使者にたってくれた」

「どうお断りすれば」

「その必要はない」

興延に礼雄、李春(リィチゥン)も不思議そうにインドゥの次の言葉を待っている。

「使者は東誠(ドォンチァン)から出た」

漸く興延に礼雄はいつもの娘娘のからかいだったと気が付いたが、李春(リィチゥン)にはわからない。

「東誠は興延(シィンイェン)の爸爸(バァバ・パパ)が番頭で、そこへ興延弟弟を養子にという話が有ったんだよ」

李春(リィチゥン)もおぼろにわかりかけてきた。

「この婚姻には条件があるの」

興延(シィンイェン)は緊張した。

「まず興延(シィンイェン)は東誠(ドォンチァン)林宗圓(リンヅォンユァン)の夫婦養子になること。良いわね」

二人は拝礼した。

「新居は煤市街の大汪(ダァワン)布行(プゥシィン)の店。今改装中だから出来上がり次第婚姻よ」

また拝礼した。

「林宗圓は隠居、徐興淡も身を引くけどご意見番として店に名は残すこと。今の手代は番頭に昇格して卸と仕入れを担当、小僧は手代として二人の番頭の下で将来の勉強に、一人は小売りの店の担当で興延と芽衣を手助けすること」

もう一度拝礼して「承知いたしました」と答えた。

「孜漢が湯老媼(タンラォオウ)の所で小間使いと料理人を雇ったわ。後は芽衣の裁縫の手助けの人を雇いなさいね」

「それほど動かせる銀(かね)は私に都合が付きません」

「昂(アン)先生は結の話を聞かせなかったの」

「えっ、あの話の結は私の事ですか、昔なじみだと」

あまりの展開に混乱したようだ。

「界峰興から買い取るのは私からのお祝い、改装費は哥哥からのお祝いよ」

「有難く頂戴させていただきます」

長い付き合いで悪遠慮は良くないと体に染みついている。

「新居は端切れの小売りと注文服の新調、今までの東誠(ドォンチァン)は卸の専門にしたいと岳父(ュエフゥー)になる林宗圓(リンヅォンユァン)からの託(ことづけ)が来たわよ。そうしてあげなさいね」

界峰興の方は孜漢が興延の穴を埋めて爸爸(バァバ・パパ)が水会(シィウフェイ)の纏め役を引き受けたと教えられた。

興延(シィンイェン)に馬車を連れてきて新婚夫婦を新居へ連れて行くようにインドゥがせかした。

馬車が来ると昂(アン)先生が豊紳府と公主府の提灯を四隅に下げて送り出した。

礼雄は興延の隣へ腰かけ「驚いたぜ」と笑いかけた。

「俺のいないところで話が出来上がったようだ」

「だが結へ参加させて貰えたのは幸運だ」

「哥哥が独立するときは力にならせてもらうよ」

「頼りにしてるぜ。だが無茶はしないでくれ」

崇文門(チョンウェンメン)を抜けて大街から花児市大街へ入った。

中四条の曽家では到着を待ち受けていた。

嫁の事を皆がほめて干杯(ガァンペェィ・乾杯)し、簡単に新居へ送りこんでくれた。

南小市上堂子胡同では雇人たちと蓮蓮が迎えてくれた。

蓮蓮は李春(リィチゥン)の婚姻が済むと村の若者が馬二頭に荷を乗せ、爸爸(バァバ・パパ)が付いて、先に村を出て李橋鎮で泊り、翌早朝馬車を雇って荷を積むと、親子二人で通惠河(トォンフゥィフゥ)大曲迄出た。

その日のうちに脚夫(ヂィアフゥ)寄せ場で荷担ぎを雇い、大通橋を渡り東便門(ドォンビィエンメン)から入り、新居で送られて来たものに持って来た荷物の整理をしていた。

呂(リュウ)は礼雄(リィシィォン)の到着まで近くに宿を取った。

申の刻(午後五時十分頃)、南小市上堂子胡同のこの家から五十歩ほどの南小市を挟んだ下堂子胡同ツォンタイ(曽泰)に宴席の支度が出来たと呼びに来た。

その日の午の刻、宜綿(イーミェン)は東誠(ドォンチァン)番頭徐興淡に林宗圓と話し合っていた。

「今でも疑問があるのだ」

「なんでしょうか」

「芽衣と小芳の名を聞いたのになぜ小芳(シィァオファン)と思わなかったんだね」

「それは簡単な理由です。父親は調べが付きましたが、どうしても引っ掛かりのある人に巡り合えなかったんですよ。いわば幸運の賜物です」

マァーマァー(媽媽)は南五老胡同の家近くの関王廟にお礼の日参をしているそうだ。

甫箭(フージァン)が噂を聞き込み、湯老媼(タンラォオウ)に聞き合わせたのが話の展開を早めたと宜綿(イーミェン)が説明した。

「いわば相惚れだった」

宜綿(イーミェン)は、旨そうに林宗圓(リンヅォンユァン)の淹れた茶を飲んだ。

「寄り合い所でこんなに旨い茶を飲ませたら、年寄りの集会が毎日開かれてしまうぜ」

「付近の大店の隠居が寄り集まれば応援してくれましょう。水会(シィウフェイ)の銀(かね)にも困らんでしょう」

「やや、孜漢より見通しの良い意見だ。あいついい後継者がいたと喜んでいたぜ」

宜綿(イーミェン)は宣武門(シュァンウーメン)へ出て邸へ戻った。

 

楊與仁(ヤンイーレン)達の名の與は店の興藍行とよく字を間違えられる。

弟の楊與樊(ヤンイーファン)の西城永光寺西街脚夫(ヂィアフゥ)寄せ場も興藍苑(イーラァンユァン)としたのでここでも間違いは起きる。

間違いだというお節介は今のところ出てこない。

本来興はシィンなのだがイー(與)をお国訛りでシィーと言っていたのが京城(みやこ)の看板書きにシィンと聞こえた、おまけに字を看板書きもよく確かめずに界峰興(ヂィエファンシィン)の別れだと思っての興にしてしまった。

嘉慶五年十月開店以来、興をイーと読んで済ませている。

與仁(イーレン)は四十七歳、與樊四十二歳になった。

興藍行(イーラァンシィン)の番頭の郭漣財(グオリィエンツァイ)は開店の時、曽双信(ツォンシァンシィン)、雷祥鳳(レイシァンファン)と共に界峰興(ヂィエファンシィン)から連れてきた子飼い同然の男だ。

開店の時まだ十三歳だった漣財も二十歳になった。

嫁が来たらどこか支店を出すか独立させるかとメェィリィーと話すことも増えた。

美麗(メェィリィー)は外城に支店をと考えているようだ。

「手代を一人付けるか小僧から二人選ぶかだね」

「李(リィ)は年内にも番頭にするつもりだぜ。韓(ハン)は使いにくかろう」

「じゃ小僧なら二人付けていいかい」

「そうしねえぇよ」

「嫁が見つからないと駄目かい」

「いなくちゃ困るとは思っちゃいないが」

「なんだよ、歯切れが悪いね。今年はいつ出るんだい」

「蘇(スゥ)先生の都合で六月十二日頃だな。顔だけ取引の相手に見せに行くだけだから気楽なもんだ」

汕頭(シャントウ)、福州(フーヂョウ)、河口鎮(フゥーコォゥヂェン)、南京(ナンジン)、上海(シャンハイ)、天津(ティェンジン)、此処は支店に支店同様な働きの店もあるので任せられる。

蘇州は陸景延(リゥチンイェン)が上手く回してくれる。

たまには権孜(グォンヅゥ)と崇安(チョンアン)星村鎮へ顔を出そうかと思うが、権孜が京城(みやこ)を留守にしてはこちらが困る。

二人同時では取引に支障が出てしまうのだ。

春前茶、雨前茶は市も終盤で荷は次々に到着している。

何時もと違い送り出しに行く必要もない、薛家の一族が河口鎮(フゥーコォゥヂェン)での送り出しも仕切ってくれる。

與星行(イーシィンシィン)で銀(かね)の清算も出来るようになっている。

與仁(イーレン)が大きな銀(かね)を持って回ることも無くなった。

徐(シュ)老爺の一族が京城(みやこ)への納品時に銀(かね)を各地へ運んでくれる、結の信用は大金を預けても担保できるのだ。

蘇(スゥ)先生こと蘇松籟(スソォンラァイ)は康演が紹介してくれた。

大酒呑みで能天気だが槍の名手だ、武進士は馬術でいつも落とされている、三十歳を過ぎて来年の挑戦は諦めた。

昂(アン)先生は「酔っていなきゃ天下無双だ」と褒めた。

独り者で右安門(イウウェンメン)外宛平縣関帝廟前に郷紳の父母(フゥムゥ)と兄夫婦とその子供五人がいる。

蘇松籟は月五両と酒食付き、留守居の老夫婦が付いた家で美麗と折り合った。

権鎌の東鎌酒店(ドゥンリィエンヂゥディン)で朝晩は引き受けてくれる。

普段は中くらいの酒杯二杯しか飲まないと分かった。

宜綿(イーミェン)は最近インドゥが忙しいので、豊紳府の雑用係を引き受けているので旅には出られない。

昂(アン)先生は出仕の供に付くことが多いのでそちらも出られない。

それで同行できる人材を探していて出立が遅れた。

昨年も同じように探して三月雇ったが、馬が合わないので一回でやめにした。

 

菜市口の東南に神仙(シェンシィェン)胡同という場所がある。

寂れた場所で蠅匠(インヂィァン)胡同と悪口で呼ばれていた。

兵部尚書(漢)劉權之肝いりで順天府尹李均(李秉和)も協力し、湖南湖北人のための湖廣會館を修建した。

 

ウリヤスタイ派遣の話しはフォンシャン(皇上)が応じていないが、明亮が年を取っていて任地への赴任は難しいと言われている。

鑲藍旗蒙古都統,内大臣,兵部尚書,閲兵大臣など肩書は多いが銀(かね)に縁がない頑固者だ。

兵部尚書(満)を嘉慶十二年五月十八日(1707623日)辞任かと思われたが病気を理由に十日だけ休養とされた。

明亮が豊紳殷徳(フェンシェンインデ)を「替わりに派遣せよ」との上奏を行ったと伝わって来た。

影で軍機処の誰かが糸を引いていると聞こえて来る。

沙濟富察氏で父親が都統廣成(父親李榮保)という富察傅恆の兄の家系だ、

傅恆の息子の福長安(フチャンガ)に今はその力もない、熱河副都統へ四月二十二日に任じられている。

頭等侍衛、正白旗満州副都統から頭等侍衛、正白旗蒙古副都統。

それに、鑲藍旗蒙古副都統もしくは鑲藍旗満州副都統にインドゥを移動させれば、下五旗となるので、頭等侍衛の役を外せるのだ。

フォンシャン(皇上)にとって海賊、阿片と頭の痛い問題が山積している今、蒙古(マァングゥ)が不安定な状況では困るのだ。

其の心の揺らぎに誰かがさらに揺さぶりを掛けている。

ジャクン・グサ(八旗)各軍の副都統は二名任命される。

ハラチン(喀喇沁)の騒動は奕紹が解決したが、ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)で何が起きているのだろう。

烏里雅蘇台将軍、烏里雅蘇台等処地方参賛大臣に解決できない難題でもあるというのだろうか。

烏里雅蘇臺將軍宗室成寬、満州(マンジュ)鑲黄旗を交代させる動きも出てきた。

後任に名が挙がっているのは二人。

宗室晉昌、満州(マンジュ)正藍旗、喀什噶爾(カシュガル)參贊大臣を前年正月から勤めている。

祥保、鈕祜禄氏(ニオフル)満州(マンジュ)鑲黄旗、今年五月に烏里雅蘇臺參贊大臣満州(定辺等処地方)へ任じられたばかりだ。

蒙古の烏里雅蘇台等処地方参賛大臣はやはり五月に凝保多爾濟(ドルジ)が任じられた。

 

第五十四回-和信伝-弐拾参 ・ 23-04-12

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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