第伍部-和信伝-

 第四十回-和信伝-玖

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

興藍行(イーラァンシィン)での話は申(午後四時)まで掛らずに終わった。

範文環(ファンウェンファウン)は道順だと與仁(イーレン)達についてきた。

宋太医のところは産婆見習の授業が終わったところ、胥幡閔が表で子供をあやしていた。

宋美欧(ソンメェイオゥ)は五歳、親(宋太医)に似ずに美人だと評判だ。

幡閔は不満だが媽媽(マァーマァー)の王李香は「お前の子供のころと瓜二つ」だと言う。 

宋太医のところは今日の患者はすべて診察済みだと言って静かになっていた。

病人も宋太医の勤務明けを予約してそれに合わせて来る。

急病は隣の蔡太医かそれもいなけりゃ仲間内で連絡がくれば誰かを派遣する。

あれほど嫌がっていた弟子だが二人採ることになった。

一人は吉安から昨年やってきた。

王神医(ゥアンシェンイィ)の娘婿の侄子(ヂィヅゥ)だという十八歳の男だ。

羅虎丹(ルオフゥダァン)と云う。

もう一人は王神医の故郷蘇州(スーヂョウ)の医師に頼まれた陳宗玄(チェンヅォンシュァン)という名の十三歳の子供だ。

二人の住まいは歩いて百歩も離れていない王神医(ゥアンシェンイィ)の新しい家だ。

王之政(ゥアンヂィヂァン)の奥様が「食事の世話をするから」と言われては断り切れない宋太医だ。

何のことはない押し付けられたのだ。

 

水会(シィウフェイ)の話しは城内、城外の医者仲間が與仁(イーレン)の話しから寄合所の番をするのに老夫婦を集めてくれている。

「今のところ六組の夫婦が応じてもよいという話だ」

「食い扶持入れて月三両で大丈夫ですかい」

「あっ、安茶でも届けてくれれば年寄りのたまり場にでもなるさ」

年三十六両だと下っ端官員より手取りが好い。

「本当は火事の時に動ける奴が好いのですがね」

「康演さんも無理を言うぜ。ばくちでも始められたら近所の鼻つまみだ」

哥哥や康演は江戸の火事人足を本で読んで参考にしていた。

「やはり、普段は仕事を待たせる方が好いですかね」

「火事の御用はあまり多けりゃ困りもんだよ。手伝いに抜けても大丈夫なもので作らないとあとが困る」

範文環(ファンウェンファウン)は「どうでしょう。奉公人を演習に出してもいいという商店の雇人を集めて、その中から選んでみては」と言い出した。

「最初はそうでもしないと煙たがられる。脚夫(ヂィアフゥ)の親方にも口をかけるか」

「実は京営の方は目を瞑ってくれる方向です。大商人が集まって二千両程が集まりました。定雇は目を付けられますかね」

本来は京営“緑営京城(みやこ)駐屯”が警備のほかに行うべきだと上奏は上がっても教徒の反乱で国庫の銀(かね)が不足している。

歩軍は丐頭(ガァイトウ)と通じていて分が悪い。

海賊退治は命じても銀(かね)は地方で工面しろでは巡撫もお手上げだ。 

水会(シィウフェイ)だって銀(かね)を出してくださいと言わないから許可が下りて来る。

歩軍統領の下に左(円明園)、右(正陽門)の総兵がいるが右翼総兵は応援に回ったが、左翼総兵は丐頭(ガァイトウ)と裏では手を結んでいて、いやがっている。

丐頭(ガァイトウ)にしてみれば火事場は大事な収入源だ。

 

康演は解散した太監の御秘官(イミグァン)組織も動かしてきた。

歩軍統領衙門に京営、相公(シヤンコン)と来てフォンシャン(皇上)まで賛同ならと思いたいが、宋太医は間が集金組織外の水会(シィウフェイ)にいい顔をするはずないと踏んでいる。

「まずは年寄り病人の番人で、火事に為ったら威勢のいい奴が躍り出て来る。こいつが一番の作戦なんだが」

宋太医は中間内に頭のいい奴がいて組織図まで手を回している。

三人がそれを見ると総指揮を太医院へ置いて中間無しでいきなり四か所の火の番取り締まりへの命令が下せるとしてある。

「こいつは不思議だ」

「だろ、太医院は年中無休だ。必ず誰かいる。だから神武門(シェンウーメン)腰牌で連絡はつくから皇城出入りには好都合だ。」

本来太医院、御薬房は東華門の近くだが、東長房に医者の卵が控えの待合を持っている。

医者は時間を問わず門内通行が出来る腰牌を、毎日申請して帰宅時に返却する。

いつの間にか形式になっていて、神武門(シェンウーメン)で交換が出来るようになった。

今回の上奏で待合に緊急の腰牌が一枚下賜されてきた。

「どうだ、素早いだろ」

「なまじ歩軍統領衙門の下だと連絡が容易じゃないですものね」

腰牌下賜は昨日のうちに情報が来たという、今朝侍衛が内務府から持ってきたという。

控えの待合は当番を決め保管が義務付けられた。

「泊り番でうろついていたら耳に入った」

なんて煙に巻いている。

「康演さんよ。鑲黄旗護軍統領をしってるか。」

「哥哥の仲の良い奕紹(イーシァオ)様だろ」

「そうそう、その人を動かしてはちょとまずい」

先の皇上(フォンシャン)八阿哥永璇様の長子綿志様が前の鑲黄旗護軍統領を務めていたと話を持っていった。

「実は父上は先の皇上(フォンシャン)の受けが悪かったが、五十近いこの人はフォンシャンに頼りにされている」

宋太医は記憶している八旗の役をづらづらと述べだした。

與仁(イーレン)はたまらず。

「まぁ、その辺で勘弁してください。肝心なことぁなんです」

火器營事務大臣を嘉慶七年から継続して努めている、ここには水龍(シゥイロォン・手押しポンプ)の性能が良いものが何十と眠っていると話を分かりやすく言った。

「それで」

「新品を献納して旧品を下賜してもらう事は可能だと思う」

「そりゃそうだが古くても街へくれるかね」

「性能はいいのだから古くても十分だが」

康演(クアンイェン)も考え込んだ。

同じ物を勝手に作ればへそを曲げる役人がきっと出てくる。

範文環は「積水潭(ヂィシゥタァン・什刹海)での演習は観ましたぜ。三十丈近く海へ飛びやしたね」

三十丈だと四半里(100メートル)かと皆が驚いている。

「前後二人ずつついて四人で操作して、水は海からくみ上げるのにもう一台」

「という事は八人必要なのか」

「道理で哥哥は話題にもしなかったのか。もう少し小さくないと人が足りないな」

康演の方から水龍の事を話した。

「水屋の水龍(シゥイロォン・手押しポンプ)は二人で馬車の水を汲み上げてるからあの手を考えていたんだ」

漢(ハァン)は「四台献納、二台下賜なら火器營も儲かったと図面をよこしそうだ」と考えた結論を皆に話した。

「どっちに置く」

「内城と言わなきゃ許可しまい」

「東四牌楼へ二台置いて水馬車と組んで十人だな」

與仁(イーレン)が「此処なら水屋が近くにあって水に困らない。運河のそばへ持ってくとまたいちゃもん付けるお人が出る」

名前を言わずとも範文環のほかの四人には通じる話だ。

孜漢(ズハァン)は大柵欄へ一台持ってきて、水桶からは街の水龍で火器営の水龍へ供給はどうだと言ってみた。

「あそこなら水が足りなきゃ護城河がある」

「いい考えだ二手に分けられるか綿志様へ誰が話を持っていくかだな」

「とりあえず哥哥に和国の水龍の図面を借りて何台かを三軒ほどの大工に造らせよう」

十日まで楊閤(イァンフゥ)に居ると康演は伝え、漢(ハァン)に四人と宋太医で煮詰めるように連絡員を雇えと頼んだ。

五人で隣へ行くと宜綿(イーミェン)はまだいた。

話しをすると「明日俺が綿志様の方へ都合を聞いてみる。哥哥は事情を例の伝で内務府の了解を取ってくれ」と門衛を呼んでくれとインドゥへ頼んだ。

最近訪問にも先に手を打つ慎重さが宜綿(イーミェン)にも出てきた。

酉の鐘の後でも内務府御用は、腰牌が出ていれば神武門(シェンウーメン)内西長房で話が通じる。

内務府部公署まで来いは時代遅れになった。

豊紳府から代人が腰牌をもって届を出す、これは祕(インミィ・隠密)の御用を賜る都合で四年前から許された特権だ。

二人に二月十六日に出る予定で、蘇州(スーヂョウ)、上海(シャンハイ)、船で福州(フーヂョウ)、汕頭(シャントウ)、そこから福州へ戻って武夷、河口鎮、南京(ナンジン)と六十八日の予定を立てたことを伝えた。

日程が忙しいようなら天津(ティェンジン)から蘇州(スーヂョウ)まで海で回ればどうだと宜綿が言っている。

徳州周りで二十五日かけて運河でのんびり行くか、海で銀(かね)は倍でも最悪六日、船は十日有れば手配も出来る。

康演(クアンイェン)は朝にも船を抑えられるか調べてみようと申し出た。

宜綿はフォンシャン(皇上)が銀(かね)千両の銀票を下げ渡したという。

與仁(イーレン)が「こちらの予算は千二百両、福州(フーヂョウ)周りで足しても足は出ます」と言っている。

「河口鎮(フゥーコォゥヂェン)からは茶にお世話になろう」

「其れなら天津(ティェンジン)から上海、蘇州(スーヂョウ)杭州(ハンヂョウ)と回って福州(フーヂョウ)で汕頭(シャントウ)鳳凰山(フェンファンシャン)往復としましょう」

漢(ハァン)が最悪三千両だろうと大まかに言っている。

沿岸航路は天津から福州まで五千六百里と計算している。

天津、上海が三千二百五十里なのだが上海、福州は千九百五十里、で五千二百里の運送費だと與仁(イーレン)が「この計算狂っているのに直してくれません」と首をかしげている。

「四百里分は福州(フーヂョウ)の船主の懐さ。海賊の黄旗でも買う費用だ」

「漕幇(ツァォパァ)も全部護送付とはいかんからなぁ」

組合は三十位ありますからと康演も「結と手を組んでいるのは五つです」と言っている。

玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)が逃がした蔡牽は台湾へも勢力を広げたと康演はいう。

「戴联奎先生に相談してみるか」

十六年前にインドゥの師としてフォンシャン(皇上)から指名された恩師だ。

 

長官は兵権に干渉できない、しかし任免の権は持っている。

兵部左侍郎は満人から明志、右侍郎廣興。

兵部右侍郎漢人から呉璥だが明日にも劉躍雲へ変わるはずだ。

もう一人の漢人は戴联奎(戴聯奎)、六度にわたり任命されているが侍郎は猫の目のように入れ替わり今誰だと聞いても明確に答えられない

兵部尚書は明亮(富察氏)六十九歳という老年期の軍事畑を歴任してきた頑固者だ。

鑲藍旗蒙古都統,内大臣,兵部尚書,閲兵大臣,鑲白旗漢軍都統などの肩書を持ち世慣れた人ではないと評判だ。

戴联奎(戴聯奎)-豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の師

戴联奎(1751年-1822年),字紫垣,号靜生,江如皋城人。中國清朝官員。
皇清誥授光祿大夫經筵講官兵部尚書署吏部尚書。

朝二年二月二十五日,和珅放戴詹事府司經局洗馬(第一史档案)。戴奎擢此官,帝召问资俸,戴以告,始奉与读诸臣一体俸之,由是洗无久淹者。嘉六年至九年任内学士兼礼部侍郎大学士董、王杰、刘墉、官。嘉九年(1804年),迁兵部侍郎,礼部、兵部、吏部。

 

海賊の話しはまたにした、今は巡遊の日程が先だ、玉徳(ユデ)は何人もの標的に為っていて風前の灯火だ。

最近の康演(クアンイェン)の動きは独りで十人分は有りそうだ。

「漢(ハァン)の方から二人荷物持ち、哥哥に俺と與仁(イーレン)の五人か」

「おいおい、弟弟、昂(アン)先生抜かすのか」

「やはり怒られるか」

使いを出して呼び出した。

「王神医(ゥアンシェンイィ)にも話を通すか」

それは私がこれから行きますと宋太医が気楽に出て行った。

昂(アン)先生はすぐやってきて「いつ出るんだ」と行く気でいたようだ。

宋太医は丁(ディン)と王之政(ゥアンヂィヂァン)先生に羅虎丹(ルオフゥダァン)という若い男を連れてきた。

「お供に丁(ディン)と虎丹を連れて行ってください」

「それは良いですが丁(ディン)はかみさんを置いてくのかよ」

「福州(フーヂョウ)へ行きたいか聞いて、それからでいいですか」

「二月十六日の予定だから十分相談の余裕はある」

宜綿(イーミェン)が仕切ってそう伝えている。

門衛が戻ってきた「神武門(シェンウーメン)の届け出も済みました」判をついてある代人が書いた申請書を差し出した。

一部は向こうで保管する、割判もあるこれで正式になる。

「じゃ、明日は卯の刻前に参上してみよう」

哥哥は申請書を包んで手渡した。

「こういう時は裏の船着きのさきの橋むこうの壁に扉が欲しいぜ」

何時もの冗談を言って帰る支度を始めた。

月七日(陽暦千八百五年三月七日)。

 

宜綿(イーミェン)はすぐに邸へ戻り、漢(ハァン)に康演と與仁(イーレン)は範文環(ファンウェンファウン)と門前で分かれて三人で「どこかで飲みながら相談するか」とぶらぶら南へ向かった。

王神医(ゥアンシェンイィ)は宋太医も交えて若い男に旅の心得と福州(フーヂョウ)で薬酒の製造を勉強してくるように話している。

「壺へ漬け込む手順も覚えて来るんだ」

丁(ディン)には「宜綿様と哥哥の薬酒の管理だ」と言いつけている。

蛇嫌草(シゥーシィェンツァォ)は今でも福州(フーヂョウ)へ送られ、そこでも壺へ薬種として酒と漬け込ませている。

京城(みやこ)へは蛇嫌草(シゥーシィェンツァォ)は大量に送り込までないようにしてある。

 

話は戻って五日の朝の事だ。

三月の会試に向けて続々と孝廉(挙人)が京城(みやこ)入りしてきた。

北京の貢院で二泊三日を三回の試験は生半可では受からない。

此処の試験に賄賂など効かないくらい厳しい。

銀(かね)のないものは郷土の会館が頼りだ、いや飯店、酒店も余裕のある孝廉を眼の色変えて探している。

地方名士の孝廉なら勉強よりも京城(みやこ)見物で現(うつつ)を抜かすものまで居る。

伝手を頼って蘇州(スーヂョウ)から徐頲(シュティン)という男が幹繁老(ガァンファンラォ)へやってきた。

すでに三十二歳、インドゥが昔訪ねた拙政園の近くの出だ。

高信(ガオシィン)の友人でもあり、宋慧鶯(ソンフゥイン)の姻戚だという。

 

高信の住まいの書付を頼りにやってきた。

「家に来いとは言いたくても陳洪(チェンホォン)の家を間借りしているのだ」

「甫の紹介で、泊まる宿は受かれば只にして呉れる約束だ」

「甫の紹介だと。京城(みやこ)に親戚でも居たのか」

「姐姐(チェチェ)の旦那のフゥチンが経営者で、叔叔が料理長でな」

楊閤(イァンフゥ)はさすがに気が引けたようだ。

「なんて宿でどこにある」

「廊房頭条胡同(ラァンファントォゥティアォフートン)幹繁老(ガァンファンラォ)という宿だ」

「お前、もう行ってみたのか」

「いや、どこか知らんのでまずお前に聞こうと思ってな」

「貢院は観たか」

「見た見た」

「どこの門から入ってきた」

宋慧鶯(ソンフゥイイン・ソンフゥイン)が子供を抱いてきた。

「哥哥、試験なの」

「二月十五日挙人覆試三月に貢院で会試だ」

嘉慶五年孝廉に為って、此処で正念場の会試に受かれば貢士。

会試覆試で落とされるのは運が悪いが一等〜三等の者は殿試が受けられる。

ほぼ二百五十名が進士に為れて高級官員への道が開かれる

武進士は六十名ほどが選抜される難門だ。

此の嘉慶十年の武状元は張聯元,直隸獻縣人。

 

「入ったのは朝陽門(チァオイァンメン)だ。崇文門(チョンウェンメン)まで見てきたぞ」

「前門(チェンメン)というのは聞いたことがあるか」

「馬鹿にするな田舎者でも京城(みやこ)は前も来たんだ、正陽門(ヂァンイァンメン)は知っている」

「其の前門の近くに廊房頭条胡同というのが有ってそこが幹繁老だ」

「おやおやこっちと正反対か」

「近くに知り合いも出来たから案内しよう」

高信たまには外で息抜きとでも思ったようだ。

慧鶯が手箱から「哥哥、都でのお小遣い」と分厚い紅包を差し出した。

にやっと笑って丁寧に礼をして受け取った。

「再びの孝廉の祝いに子供への祝いも一緒」

大分奮発して入れてあるようだ。

高信を送り出すとき袖に錦の袋をそっと握らせた、大分重い。

「門が閉まったら泊まるかもしれないでしょ」

前門と云えば妓楼もあるが、官員の高信には登楼出来ないのは承知だから、思わせぶりなことも平気で言える。

「明日は日勤だ。門が閉まる前に戻る」

王大人胡同の北は雍和宮で、巳の刻(十時頃)近くともなれば参詣人も増えて来る。

人ごみに逆らうように東四牌楼へ出た。

「朝と違って人が多いな。さすが京城(みやこ)だ」

「前門(チェンメン)はもっとすごいぞ。俺は子供の頃から外城が遊び場だったから迷わず行けるがな」

徐頲(シュティン)が年上のはずだが、この二人哥哥も弟弟もない様だ。

総部胡同の角でここを東へ行けば貢院だと指で示した。

「こんな角、俺は知らんぞ」

どうやら貢院の周りをまわって南側から崇文門(チョンウェンメン)を見てうろついていたようだ。

「牌楼に見覚えは」

「四牌楼は覚えがあるがこいつはしらん」

単牌楼の 就日 の字を見上げている。

北御河橋のしたは護城河への運河だと説明しながら宗人府まで進み正陽門へ向かった。

甕城(ウォンチァン)の中の関帝廟(東)も大士廟(観音廟・西)も人で溢れていた、四方へ通じる路も、行きかう人々を番兵はうっとうし気に見ているだけだ。

すこしうるさ型が騒げば東西の通路を残して、城門は夕刻前に閉めてしまう、崇文門(チョンウェンメン)か宣武門へいやでも回ることになる。

東閘樓の下の門に、西閘樓の下の門には早々と線香を掲げる人もいたが、火はついていない。

箭楼も真下から見上げると空を覆うかのように大きく、後ろの城楼はそれをはるかに超える巨大さだ。

箭楼営造尺十一丈(35.94メートル)あまり、城楼営造尺十三丈(42メートル)あまり、甕城の城壁は営造尺四丈(13メートル)あまりもある、他の城壁に比べれば一段と高く見えている

女墻(ヌゥチァンひめがき)の間を行き来する兵も下を見てはいない。

通り抜けて前の護城河の橋は狭いが二本架かっていて、その先の大街(チェンメンダージェ)への道は幅が六丈(量地尺18.8メートル)と広く、道一杯の五牌楼に眼を見開いている。

「少し周りを見るか」

「庭なら案内しろよ」

二人は大柵欄から人ごみを縫って西の火神廟へ向かった。

遊郭を見ながら瑠璃廠付近をうろついて廊房頭条胡同の幹繁老の裏手に出た。

「派手な館だな」

「そういえば新旧と二つあるがどちらだと聞いた」

「二つとは聞いていない」

高信は一まわり回って旧館へ入った。

東城下-陳洪(チェンホォン)

宣武門大街~正陽門(前門)の間の街(地図は光緒341908年の物を使用)
 外城-00-03-02-1908

「おや、おめずらしい方がおそろいで」

杏梨(シィンリィ)が驚いた顔で徐頲(シュティン)を見ていった。

高信の方も驚いたが、徐頲はもっと驚いた、表の明るさに比べ玄関内は薄暗い、目が慣れるまで暫くかかった。

「どちら様で」

「いやだ蘇州で毎日のように」

「杏梨かい」

「そうですよ。お忘れに為っちゃいやですよ」

「こんな美人知り合いにいないもんで」

「おや、何時からそんなうまい口きくんです。姐さんに言いつけますよ」

杏梨どうやら徐頲のチィズ(妻子・つま)とも知り合いの様だ。

一度見たら忘れない、宿では大切な仕事だ。

徐頲の方は六年前の子供の頃の姿かたちでも、徐頲の青年時代を知る杏梨にはほとんど変わっていない様子に見えたはず。

「手紙が来ていますよ。荷物も今朝着きましたよ。ちょうど此方の逗留客がお発ちで好きな部屋が選べます」

それで記憶の蘇るのも早くなったようだ。

「ただにしてもらうんだ隅っこの狭い部屋で十分だ」

「おや、もう受かったも同然ですか。でも残念ここにはそんな部屋無いんですよ」

軽口をたたいていると聞きつけた父母(フゥムゥ)が出てきて久しぶりの挨拶だ。

「高信の旦那もお泊りですの」

「まさか、お上りさんの道案内だ」

「ただのお客のご相伴で昼を食べてお行きなさいな」

うろついているうちに午の下刻は過ぎていたようだ。

「そういや鐘が鳴るのも気がつかなかった」

「いやですねぁ。四書でも勉強して刻を忘れるのは昔のままですね」

高信の案内を聞き逃すまいと耳が留守に為っていたと笑わせて「お任せで食べさせてくれ」とただの客とは思えぬ余裕を見せた。

二月十五日挙人覆試、三月二十日の会試は貢院、四月十六日は会試覆試で場所は紫禁城保和殿。

嘉慶十年の乙丑殿試(皇帝臨席)に進めば進士となる、まだ日程の発表はない。

大食堂で面条を啜って饅頭に野菜の煮込み、昼にしては奢っている。

そうこうしていると玄関で「高信(ガオシィン)、徐頲(シュティン)」と呼ぶ声がする。

高信が出てみると趙懷玉(ヂャオフゥアィユゥ・味辛先生・毗陵七子)だ。

「お久しぶりです」

もう六十はとっくに過ぎたが詩人の名はいやが上に高まっている、髭は大分と白くなった。

蘇州武進の人で運河の旅で蘇州(スーヂョウ)に来た時知り合った。

大食堂へ連れて入ると徐頲は立ち上がってあいさつした。

「今朝から食ってないのを思い出した」

杏梨(シィンリィ)が出てきた。

「同じでよければすぐお出しします」

「たのむ」

雍和宮へ出たので王大人胡同の高信の家へ行ったら此処へ行ったと言われてやってきたという。

のんびり歩いて一刻程、ぶらぶらやってきたという。

「暇ですか」

「いつもだ」

家は東城、東便門(ドォンビィエンメン)から隆安寺(ロォンアンスゥ)へ行く途中に住んでいる。

食事をして天壇へ向かって見物し、金魚池から紅橋へ出て、美女がいるかとうろついたのは懷玉だ。

崇文門(チョンウェンメン)で「幹繁老へ戻れるか」と聞くと「川沿いにそっちに行けば前門だ」と懷玉が教えた。

それで三方へ別れた。

 

六日夕刻、豊紳府では久しぶりの宴会だ。

正月十二日は恒例の公主府での宴席に四十人もの人が来た。

府第は孜漢(ズハァン)のもてなすおとなしい食事会だ。

高い食材、珍奇なものは公主は許さない、日常で楽しいひと時を丁寧な調理で作られた、街の料理を楽しむひと時を過ごしたいのだ。

娘娘は平大人の供にも席に着かせたが、姐姐が気にして隣部屋との境に隙間の多い屏風を立てて落ち着くようにした。

一つ増やして三つの卓を並べ、四人では盛り上がらないだろうと街育ちの紫蘭(シラァン)の使女二人と花琳(ファリン)の使女二人、雲嵐の使女二人に娘娘の使女二人を二つの卓へ着かせておいた。

武環梨(ウーファンリィ)二十五歳に夏玲宝(シァリィンパォ)二十五歳が呼ばれた。

娘娘と姐姐は席を幾つと誰を座れるか、大分考えたようだ。

平大人は前に妻と子は置いてくると言ったが、子供好きの公主は「駄目駄目私は許しませんよ。春苑連れてきてもらうのよ」と強く言い聞かせた。

平大人、康演親子に南京(ナンジン)から来た龍夫妻、海燕、香鴛、大人(ダァレェン)の妻の春苑(チュンユアン)と娘の春麗(チュンリー)も来ている。

残る卓へ八人、哥哥、娘娘、姐姐、雲嵐、紫蘭、花琳、昂先生、そして企画した孜漢(ズハァン)と二十八人の楽しい食事会だった。

使女たちで席に呼べない者たちを、雲嵐が申し出で奴婢の食堂で阮品菜店から持ち込ませた食材でうれしい夕食が供された。

「富富(フゥフゥ)の弟弟が婚約しました」

平大人がそのように伝えた、ちょうど永徳(イォンドゥ)が大人の卓へ東坡煮(トンポーロ)の皿を運んで来た時だ。

同じ卓には娘娘のほかに哥哥と花琳(ファリン)が席に着いている。

「あらあら。おめでた続きね。お祝いを考えないと。お相手は誰」

「幹繁老(ガァンファンラォ)の一人っ子の杏梨(シィンリィ)と言います」

「一人っ子じゃ婿入り」

「その通りです。うちには哥哥もいますから」

「老大(ラァォダァ)は婚姻しているの」

「まだ一人もんです。今日は三人とも来ております」

手が空いたら呼び出してと言われて給仕していた娘は厨房へ伝えに行った。

親父は卓のものを下げたが、すぐに親子交えて出て来ると娘娘は祝いを言って「日を選んで店へお祝いを届けるわ」そう伝えた。

「ところで老大(ラァォダァ)は独り者」

「こいつ女がいるみたいで」

「婚姻は」

老大(ラァォダァ)の阮永凜(ルァンイォンリィン)は「飯屋はいやだと抜かすんで別れやした」とうそぶいている。

「今年幾つ」

「十九歳になります」

「お相手を紹介しても良いかしら」

「店で働けるのなら十分です」

「わかったわ。任せてね」

娘娘と哥哥には心当たりがありそうだ。

こういう日は奴婢の食事も豪勢になるので、料理人は腕によりをかけて支度する。

和莱玲(ヘラァイリ)は胡蓮燕(フーリェンイェン)と袁夢月、姚杏娘のお小屋に乳母がついて伊太利菓子が付いた食事で楽しんでいる。

 

二月七日(陽暦千八百零五年三月七日)

京城(みやこ)の朝は陽の出るのが日増しに早くなっている。

卯の刻の鐘ではまだ薄暗いが下の大時計は六時二十五分を指している。

「あと二十分位しないとお日様は出てこないわね」

鼓楼の太鼓と鐘楼の鐘は刻を知らせるが、西洋時計は別の物ととらえている。

古には一時(いっとき)に百八回の太鼓が叩かれたという。

「朝は鐘を鳴らし、夕べは太鼓を叩く」

五更は太鼓で知らせていた。

戌、亥、子、牛、寅と別れている。

 

幹繁老(ガァンファンラォ)新館と旧館では毎朝六時から泊り客、仲居を限らず大食堂で粥が給される。

一年中時計に合わせて仲居は動いている。

仲居の朝は早い、五時から各所の掃除が静かに始まり、客室の泊り客が‟静“の札を下げなければ六時に「御用は有りませんか」と声をかける。

担当の客が下りてくる前に粥を喫して、降りてくれば「お忘れ物は有りませんか」と確認してから部屋を片付ける。

物が無くなったと騒ぐ客がいても仲居は店が守る。

貴重品は預けるか肌身に附けることが条件で泊めるからだ。

もめれば京営(緑営)が呼ばれる、決着が付かなければ歩軍統領の指揮下から当番の精鋭が軍装でやって来る。

そこまで粘ると言い掛かりと判断されれば引っ張ってゆかれてしまう。

この時代客の方が自分を管理することが求められている。

開店以来もめごとが起きていないのがヌゥーヂゥーレェン(女主人)の自慢だ。

 

船までの荷は脚夫(ヂィアフゥ)が八人雇われ先行した。

一同は公主が出した三台の馬車で東便門まで送られた。

子供三人と大人四人、平大人がお供の四人にも「お前たちも一台に一緒に乗れ」といってひざを突き合わせて乗り込ませた。

東便門に馬車が止まり、それぞれが馬丁に礼を言って門を潜った。

橋の向こうに花琳(ファリン)が使女五人と見送りに来ていた。

一台は豊紳府に報告に向かった。

船が出ると東便門を潜り、馬車に二手に分かれて乗り組んで崇文門(チョンウェンメン)から大路を北へ上り豊紳府の通用門まで向かった。

 

九日の朝、庭番の家族が早朝からの花壇の手入れが終わると、公主使女の温芽衣(ウェンヤーイー)が羅(ルオ)と妻の唐(タン)を呼びに来た。

「実わね。あなた方の孫に縁談の話があるのよ」

箏瓶(ヂァンピィン)ですか、まだ十五ですぜ

麗麗(リィリィ)をあなた方が嫁に欲しいと言ってきたとき十五だったわよ

「本人と父母(フゥムゥ)に聞かないと」

「あなた方、反対しないでね」

娘娘に言われては頷くしかない二人だ。

二人は息子夫婦と箏瓶に「娘娘がお呼びだ」と娘娘の居間へ行かせた。

羅(ルオ)哥哥の羅宝生(ルオパァォシァン)と鄧麗麗(ダンリィリィ)は娘の羅箏瓶(ルオヂァンピィン)を連れてやってきた。

「聞いた」

「えっ、何をですか」

羅(ルオ)哥哥は何のことかわからず驚いている。

「まぁ、言わずによこしたのね。実は箏瓶に縁談が有るの」

「こいつ、最近男に惚れたようで」

「あら、困ったわね。好きな人がいるなら、そちらを纏めるお手伝いしてもいいわよ。誰なの」

「名前、知らないのです。富富(フゥフゥ)さんが哥哥と呼んでいました」

「あらら」

インドゥも「あちゃ」と笑い出した。

「好きではいけない人でしょうか」

「弟弟の方は」

「その人はまだ子供」

「永戴(イォンダァイ)は箏瓶より一つ上だ

「でも」

「哥哥の方が好きか」

箏瓶の父母(フゥムゥ)は困っている。

「その人じゃないと困るのですか」

麗麗(リィリィ)は直談判する気でインドゥと娘娘に迫った。

「まぁまぁ、麗麗。永戴だと私たちが困るの。考えていたのは哥哥の永凜(イォンリィン)の方なのよ」

箏瓶(ヂァンピィン)は真っ赤になってもじもじしだした。

「だがな。問題がある」

インドゥの言葉に娘娘に羅(ルオ)哥哥達は驚いた顔をしている。

「実はあいつ女にもてる」

みながナァンだという顔で笑い出した。

 

娘娘は花琳(ファリン)に祖父母に弟弟の羅玉蘭(ルオイーラァン)と妻の宇笙鈴(ユゥショウリン)を呼びに行かせ、方小芳(ファンシィァオファン)に耳打ちして茶の支度をさせた。

小芳(シィァオファン)は「使女の内で一番淹れ方が上手い」と紫蘭もほめる腕がある。

門番に命じて阮品菜店(ルァンピィンツァイディン)へも人を走らせた。

羅(ルオ)の一家は娘娘の仲人口を受け入れ、振る舞い茶に酔っている。

インドゥも「オイオイ。とっときのを出してきたな」と喜んでいる。

久しぶりの羅(ルオ)の一家との話は尽きない。

娘娘の嫁入る前からここにいた家族だ。

庭番の神さん達は梁緋衣(リャンフェイイー)元使女だから、もう十七年は豊紳府に仕えている。

「どうして永凜が気になったの」

娘娘の詮索好きが始まった。

「秋に竹桃(ヂィアヂゥータァォ)に囲いをしてた時に食事会の材料を運んできたのが最初です

寒さに弱いので姐姐が北面を囲わせていたのだ。

「水桶を運んでいた時も一つ持ってくれました」

永凜め奴婢だと手伝ったことない癖にと思ったが、箏瓶(ヂァンピィン)は去年まだ子供子供していた。

すこしは揶揄ったようだが女としては観ていなかったようだ。

奴婢と違い、汚れてもいいお仕着せで働いていたのを、恥とは箏瓶は思っていないので口の聞き様も自然だったのだろう。

娘娘の方でも箏瓶はこの屋敷で産まれた一人だ、扱いも身内として大事にしている。

媽媽(マァーマァー)達の昔を持ち出して話題は尽きない。

「麗麗(リィリィ)も笙鈴(ショウリン)も私が此処に来たときは箏瓶より子供だったわね」

格格の使女だ、大人の事も知っていたが見た目はまだ子供だった。

そんな話と茶に珍しい菓子で庭番の一家も気が弾んできた。

「このお邸へ務めたとき二人は十三でした」

「私が嫁入りしたのは己酉の年の十一月十五歳の時よ、一つ下のはずね」

娘娘の方が二年ほど後になるのだ

昔話に花が咲いているうちに巳の鐘が響いてきた(陽暦三月九日十時頃)。

康演が来たと昂(アン)先生が連れてきた。

「與仁(イーレン)が留守で、ここで待ち合わせです」

慌てた様子で息を切らせて阮永徳(ルァンイォンドゥ)と阮永凜(ルァンイォンリィン)が康演を追いかけるように豊紳府へ来た。

居間に人が大勢いて面食らったようだ。

「老大(ラァォダァ)の縁談がまとまりそうだといわれたのですが」

「そうよ私が口利きをするわ」

「相手はどこのだれで」

「まかせなさいね」

永凜生意気に「働き者で頑丈で気立てが良くて」なんて言っている。

親父はハラハラしているが庭番たちとは友達付き合いなのだ。

そばにいるので気が大きくなっている。

インドゥは「おまけに悋気は起こさない」なんて揶揄っている。

「相手に会う前に決めてくれる」

「じつをいやぁ、あと二年もすりゃいい女になりそうなのに眼を付けたんですがね」

そう言いながら羅弟弟(玉蘭・イーラァン)の方を見て「男はいないよな」と念を押している。

どうやら情報収集はしていたようだ。

「まさか箏瓶に眼を付けていたの」

娘娘のほうは初耳だ。

「気にはしてる一人なんです」

「ほかの人とここでいうとかわいそうね」

また揶揄う気になったようだ。

「永徳はこの娘、どう思うの」

「実は弟弟の嫁にと最初は思ったんですがね。あいつ婿へ行きたいなんて」

インドゥは焦れてきた。

「もういいでしょうよ。相手はこの箏瓶でどうだ」

「家みたいなガサツなところへ来てくれる気がありやすかい」

其れまで黙っていた羅(ルオ)哥哥は「どうか娘を貰ってください」と周りに頭を下げて回った。

「もう、我慢してくれなきゃ」

すこしふくれっ面だが嬉しそうだ。

インドゥの旅立ち前に婚礼をすることで両家は納得した。

 

みなそれぞれの家へ引き取り、昂(アン)先生が何の用だいと聞いた。

康演(クアンイェン)は丸一日駆けずり回って、ようやく今朝天津(ティェンジン)から上海(シャンハイ)へ二十日船出でまとめてきたという。

十六日に通惠河(トォンフゥィフゥ)を下るというのは予定通りだ。

與仁(イーレン)には前もって任せてもらったという。

京城(みやこ)に居て二晩で四百里離れた天津(ティェンジン)からの船を纏めるとはすごい奴だと昂(アン)先生も今更のように驚いた。

與仁(イーレン)がやってきた。

先ず仕事の話を片付けた。

婚礼は余裕を見て十二日で連絡を取ることにした。

門番控えから手代二人呼び込んで権孜(グォンヅゥ)に権洪(グォンホォン)兄弟へひとり、一人に漢(ハァン)と阮品菜店へ婚礼の日取りを伝えに走らせた。

與仁(イーレン)まだ甫箭(フージァン)へとは気が行かないようだ。

自分はとなりで羅虎丹(ルオフゥダァン)へつたえ、王神医(ゥアンシェンイィ)のところで丁(ディン)に話をして戻ってきた。

早速庭番の御小屋へ武環梨(ウーファンリィ)が婚礼日を伝え「姐姐と雲嵐(ユンラァン)様が支度をされるそうですからお礼を言いに行ってください」といささか堅苦しくわざと伝えた。

昂(アン)先生は門番を一人、宜綿(イーミェン)宅へ行かせていた。

途中地安門(ディウェンメン)手前で出会ったと四半刻もしないうちに宜綿がやってきた。

「火器營事務大臣綿志様の方は了解が取れたと連絡が来た。なんと六台新調、三台下賜にするだとさ。見本用に一台は明日にも興藍行(イーラァンシィン)へ届くといってきた。今朝話を火器營副參領が来て纏めていったが、図面は渡せないからだとよ」

話のついでに性能が良ければ入れ替えの相談にも乗るなど美味い話をちらつかせたと豪快に笑った。

「うまい汁はあちらの方だ」

どう転んでも損はしないつもりだなと宜綿も相槌を打った。

 

第四十回-和信伝-玖 ・ 23-01-30

   

 満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

 

 

世襲罔替

・親王(チンワン)

・郡王(グイワン)

・貝勒(ベイレ)

・貝子(ベイセ)

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

和碩親王(ホショイ・チンワン)

-世子(シィズ)-妻、福晋(フージィン)。

多羅郡王(ドロイ・グイワン)

-長子(ジャンズ)-妻、福晋(フージィン)。

多羅貝勒(ドロイ・ベイレ)

固山貝子(グサン・ベイセ)

奉恩鎮國公・奉恩輔國公

不入八分鎮國公・不入八分輔國公

鎮國將軍・輔國將軍    

奉國將軍・奉恩將軍    

 

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

     
     
     
     
     


第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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